おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

73 旧水戸街道・大曲付近

2009-05-31 23:37:11 | 歴史・痕跡
 子どもの頃、常磐線の亀有から綾瀬の間の南側、「大曲」という地名を聞いたことがありました。常磐線には、まだ蒸気機関車が走っている頃でした。
 家からはかなり距離がありましたが、時々、慣れない大人用の自転車に乗って、蒸気機関車を見に行ったものです。
 たしか土手があってその上に線路があり・・・。線路は直線なのに、どうして「大曲(おおまがり)」というのか不思議でした。
 その道こそ、旧水戸街道の一部ではないかということを聞いたことがありましたが、今一つはっきりしませんでした。
 それがありがたいことに、昭和22年の航空写真(goo)がインターネットで配信されたました。さっそく綾瀬付近を見てみると、たしかに一本の道が続いています。
 辺り一面、民家も少なく、田んぼだらけの中、そして、縦横に用水路がある中、荒川(放水路)・綾瀬川の方からからくっきりと白く続いている道があるのです。その道は、東に進み、葛飾区の新宿の方に向かっています。
 その道筋。大きく北に曲がり東に折れる箇所がありました。常磐線に接するところでは、幾分削れたようになっていますが、顕著な道筋です。ここが、「大曲」だな、と感じました。この辺で、汽車を見たことも思い出しました。勿論、今となっては記憶も曖昧になっていますので、確信があるわけではありませんが。
 写真は、多分ここだろうと思う地点です。ここから道は右(すなわち東)に大きく曲がっていきます。
 ちょっと南側の青戸辺りの方でも、今もこのあたりを「大曲」と呼んでいるようです。
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72 葛西用水親水公園・八か村落とし親水緑道

2009-05-30 06:58:33 | つぶやき
 葛飾区にある「曳舟川親水公園」は常磐線の線路をくぐってしばらく行くと、足立区に入り、名称も「葛西用水親水公園」と変わる。葛飾区側と違って用水の流れを自然に生かしたようになっていて、親水公園らしい感じがするのは、こちらの方。
 途中、「八か村落し親水緑道」に出会う。この用水は、「八ヶ村落堀」を整備改修したもの。「八ヶ村落堀」は江戸時代にこの辺りが新田地帯であった頃、現在の足立区の東北、六木から大谷田、東和を通り、南西の綾瀬にまで続く長い水路であった。
 名前の由来の「八ヶ村」とは、六木(むつき)、佐野新田(さのしんでん)、大谷田(おおやた)、蒲原(かばら)、北三谷(きたさんや)、普賢寺(ふげんじ)、五兵衛新田(ごへいしんでん)、伊藤谷(いとや)の八つの村を指し、水路がこの地域を経由していたことから、「八ヶ村落堀」と呼ばれていた。足立区東部の新田地帯の下水・雨水を排水する重要な水路であった。一方で、近年、下水道が完備するまで、この水路が増水し、近隣住民は、たびたび水の被害にあっていた。 この流れは、昭和22年の航空写真でもはっきりと分かる。
 現在は、綾瀬駅北口付近まで、さらに葛西用水を越えた東側までよく整備された緑道になっていて、住宅街のなかにありながら、緑も水量も多く、憩いの空間を与えてくれている。
 降りしきる雨の中、しっとりと落ち着いた静かな雰囲気の緑道でした。
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71 東京大空襲・錦糸公園にて

2009-05-29 21:02:13 | つぶやき
 JR錦糸町駅のすぐ北東側にある「錦糸公園」。この公園は1923(大正12)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものです。 もともとこの地は、陸軍の糧秣厰倉庫でした。
 戦時中は、空襲からの避難所としての役割や、戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されました。特に、1945(昭和20)3月10日の東京大空襲では、1万余の遺体がこの公園に仮埋葬されました。
 
 関東大震災の経験から1万の棺桶が用意されていたが、まったく足りないため、死体は人目につかない公園に集められ、火葬することなく仮埋葬された。錦糸公園1万5千体、上野公園8400体、隅田公園4900体など、公園と空き地は一時しのぎの墓地と早変わりした。仮埋葬された遺体は、戦後三年後に掘り起こされ、墨田区横網町の東京都慰霊堂内の昭和大戦殉職者納骨堂に納められた。10万5400体からなる犠牲者は、それ以外の空襲の犠牲者が1万人にならないのだから、ほとんどが3月10日の空襲の犠牲者と考えられる。そのほとんどは、銃後の母親、娘、年寄り、子どもたちだった。
(早乙女勝元「東京が燃えた日―戦争と中学生」 (岩波ジュニア新書 )

 戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池なとが整備されてきました。(昭和22年の航空写真では、まん中に広い楕円形の広場があるだけ。まだこの時点では、埋葬された遺体が数多く埋められていたと思われます。)
 近年、公園の北側には隣接してあった精工舎(SEIKO)の工場が移転し、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が2006(平成18)年にオープンしました。「錦糸公園」もそれにあわせて現在総合体育館の建設など、再整備が進行しています。
 写真は、終戦直後のままに残された公園の一角です。

 千葉県柏市に最近転居した岡田良彦さんは、墨田区で経営する工場へ車を運転しながら、「この辺でグラブを捜し回ったな」と思い出すことがある。
 王貞治少年のそのグラブは、兄の鉄城さんが買ってくれたものだと岡田さんは聞いていた。5年生頃のこと。錦糸町駅北側の錦糸公園(墨田区)へ、仲間たちで野球をしに行った。広い公園は野球少年に人気で、既に中学生に占領されていた。道具を置いて少し遊んだが、家の近くの業平(なりひら)公園へ戻ることにした。ぞろぞろ歩いて向かう途中、王少年が「グラブがない」と言い出した。
 「なくしたら兄貴に怒られる」。珍しく王少年が慌てた。みんなで方々を捜し回った。「結局、見つからなかったんじゃないかな」と岡田さんは残念がる。
 桜が見頃を迎えた錦糸公園で、少年時代の記憶をたどる杉浦弘明さん 錦糸公園は東京大空襲の後、1万人以上の遺体の仮埋葬所となっていた。復興が進んで子供たちに返還され、プールも営業した。区立業平小の児童は夏、教員の引率で1キロほど歩いてプールに来ると、水に飛び込んだ。左利きの王少年はクロールで泳ぐと、左手の力が強すぎてどんどん右に曲がって行った。岡田さんら級友は腹を抱えて笑った。
 公園にはローラースケート場もあり、放課後、王少年や杉浦弘明さん(千代田区)は大勢で遊びに出掛けたという。「スケート靴は子供の小遣いで借りられました」
 現在の公園は桜の名所。プールは残っているが、スケート場は跡形もない。「コンクリートの質が悪かったのか、滑った後には白い粉が出てきて、転ぶとズボンが真っ白でした」。満開の桜の下で、杉浦さんは懐かしそうに語った。
 公園から、北へ数分歩くと「賛育会病院」がある。王少年が5年生の頃、ここを昭和天皇と香淳皇后が視察した。岡田さんは、日の丸の小旗で歓迎したのを覚えている。待ち時間が長くなり、王少年たちは小旗でふざけていた。
 「こら貞治、ちゃんと前向いていなさい!」
 女の人にしかられた。岡田さんは、王少年の母親、登美さん(107)だったと記憶している。前を向くと、昭和天皇が通った。「黒い車の中で、帽子を取ってあいさつされたようだった」
 賛育会病院によると、ご夫妻の訪問は、1951年10月10日のことだった。
(2009年4月15日 「読売新聞」より)
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70 日清紡亀戸工場、被服廠跡・亀戸野球場

2009-05-28 18:43:03 | 歴史・痕跡
 JR総武線の錦糸町駅から蔵前橋通り、「オリナス」を右折して東に約500m。横十間川に面した亀戸二丁目団地の奥に「亀戸野球場」があります。周りを高層住宅に囲まれた都心、錦糸町駅と亀戸駅のまん中あたり、二面の立派な野球場があります。
 ここは、もともと日清紡の本社工場があったところです。「日清紡績」は、1907(明治40)年、資本金1,000万円で設立され、この地に本社・亀戸工場を新設しました。2万坪あまりの広大な敷地を有する工場でしたが、1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」により壊滅的な被害を受けました。昭和22年の航空写真では、すっかり屋根も焼け落ち、中には何もなくなった大きな工場跡地がはっきりと写っています。広大な建物が一瞬のうちに消滅したかのようです。戦後は、運動場として利用されていました。昭和38年の航空写真では、4面もある大きな野球場施設になっていることが分かります。
 1967(昭和42)年、その大部分は、住宅公団と東京都水道局の用地などになって、野球場は小さくなりましたが、それでも都心には珍しい大きな施設になっています。
 その水道局の、通りに面したところに、「日清紡績創業の地」の碑があります。

 日清紡績株式会社は明治40年1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
 最盛期には、紡機107,800錘、織機360台を擁した本工場は、昭和16年軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
 この間明治43年、大正6年、昭和13年の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年には関東大震災に逢ったが,従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
 昭和20年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。
 今般、この地に記念碑を建立し、会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。
                             日清紡績株式会社
                            昭和46年5月建之
 これでも分かるように、昭和16年には、「被服廠」となっています。
 「被服廠」といえば、関東大震災で大量焼死の悲劇が起こった場所として、本所にあった「陸軍被服廠」跡地が有名ですが、都内には、各所に、こうした軍関係の施設がありました。
 写真は、その野球場の外観。中央奥に見えるのが錦糸町にある総合商業施設・「オリナス」に隣接する高層マンションです。
 
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69 天保山と坂本龍馬とお龍・・・(番外編)

2009-05-27 22:37:39 | つぶやき
 久々に鹿児島市に行ってきました。祝い事のためだったので、とんぼ返りの慌ただしさでしたが。会場近くの松林が、昔の海岸線の跡。見事な松林が海の方に向かっています。
 実は、天保年間に甲突川の氾濫を防ぐために、島津重豪に登用された調所広郷が、五石橋で名高い肥後の岩永三五郎を招いて、洪水が頻発していた甲突川の川床ざらえと、併行して埋め立てを行わせた造成地です。その松林(天保山公園)の中には、旧薩摩藩の砲台跡があります。
 文久3年の薩英戦争では、その砲台から大砲を発射しています。砲座11うち攻城砲7、臼砲2、野砲2を備えていたということです。
 また、中州大通りを天保山の方へ下ると、道路左側に御船手跡の碑があり、この付近は、幕末の頃、薩摩水軍(海軍)の根拠地でした。
 さらに、天保山から与次郎ケ浜へ通じる太陽橋の近くには、「坂本竜馬新婚の旅碑」があります。
 薩長同盟を成立させた坂本竜馬は、1866(慶応2)年1月24日、宿舎の寺田屋で幕吏の襲撃を受けて負傷しましたが、西郷隆盛のすすめに応じて、薩摩へ湯治旅行をしました。
 妻のお龍、西郷隆盛、中岡慎太郎、小松帯刀などと3月4日薩摩の藩船「三邦丸」で大阪を出帆し、3月10日に鹿児島の甲突川畔、御船手に上陸します。
 坂本竜馬とお龍は、小松帯刀邸などに身を寄せた後、船で浜之市(隼人港)に向かい、日当山温泉を経て塩浸温泉や霧島温泉に赴き、傷の療養をしました。
 このときの温泉をめぐる二人の旅行が、日本初の新婚旅行と言われています。坂本竜馬とお竜は「桜島丸」で、6月2日に鹿児島を離れ、長崎に向かいました。
 写真は、その松林の一番北側の地点。写真の左手が甲突川。その左手奥に、桜島が見えます(薄曇りなのではっきりとは写真には写りませんでした)。前方中央奥の方に河口に面して、「天保山公園」があります。
 まだまだ多くの史跡が、鹿児島にはあります。今度は、じっくりと史跡探訪のために来たいものです。
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68 曳舟川親水公園

2009-05-26 21:50:59 | つぶやき
 めっきり初夏の陽気になってきました。子ども達は、そろそろ水遊びがしたくなる季節です。うっとうしい梅雨も、もう間近。その前のからっとした晴れ間。
 「青戸平和公園」でも噴水が再開され、水場に水が流れ始めました。賑やかな子ども達の声が聞こえます。砂場遊びから水遊びへ、遊び道具も変わってきます。
 京成電鉄上野線「お花茶屋駅」から歩いて数分。葛西用水が「曳舟川親水公園」になってもうしばらく経ちます。小学生から中学の頃までは、二本の水路が流れていました。きれいな流れではなかったですが。
 そこで、思い出しました!その曳舟川沿いに私設の「卓球場」がありました。何回か足を運んだことがあります。
 かつては、こうした公営の施設が不充分で、ちゃんと商売になったのですね。確か京成立石駅近くには「弓道場」があったような気がしましたし・・・。
 葛西上水・用水が曳舟川と言われるようになったのは、江戸時代後期。両岸から縄をかけた小舟を曳いたことが名前の由来。
 四つ木辺りから北上して柴又の帝釈天への航路だったとか。柴又へは上流に行けば行くほど、だんだん離れてしまいますが、水戸街道、新宿から分かれる佐倉街道に出る旅人が利用した、と考えたほうがいいようです。
 全長約3㌔の親水公園。5月~9月はせせらぎに浄化した水が流され、子ども達の絶好の水遊び場となります。
 水路には、小舟が止めてあったりして、「曳舟」の名前の由来を思い起こさせるような工夫なのでしょう。また、水辺の草花や水中のいろいろな生物が住みやすいような環境づくりがされています。両側は亀有や四つ木に抜ける、車の通りになっていますが、親水公園内は、緑も多く、橋あり、せせらぎあり、けっこうゆっくりと目も心も楽しむことが出来ます。
 写真は、上流から下流の風景。まだ人通りも少ない晩春の一日でした。この写真の左手には、「葛飾区立郷土と天文の博物館」(葛飾区白鳥3 TEL 03-3838-1101)があります。ここは、1991(平成13)年開場した建物。「歴史」「民俗」考古」「天文」で構成されていますが、なんといっても目玉は、プラネタリウム。
 以下宣伝(「亀有経済新聞」より。5/11)です。
 
 現在、「シンフォニー オブ ユニバース~ガリレオから最新の宇宙まで」が上映されており、親子連れやカップルを中心に多くの来館者を集めている。
 同イベントは、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を夜空に向け、宇宙への扉を開いた1609年から、400年にあたる「世界天文年」にちなんで同館が企画・制作したオリジナルプログラム。
 プログラムの内容は、ガリレオが400年前に観測した月・太陽・木星などをはじめ、400年の間に発見された惑星や天体を国立天文台やNASA(アメリカ航空宇宙局)など世界各地の研究機関が撮影した迫力ある映像や、同館のデジタルプラネタリウムシステムの映像を、クラシックの名曲に合わせて紹介するもの。
 同プログラムを担当する同館学芸員の新井さんは「誰もが知っている名曲に合わせて番組を制作した。普段は難解と思われがちな天文の世界も、わかりやすく解説するように工夫した。ゴールデンウィーク中には家族連れが多く、終演後には子どもからの拍手が起こりとてもうれしかった」と話す。
 上映は平日=16時30分の1回、土曜・日曜=13時、14時30分の2回。プラネタリウム鑑賞料は大人=350円、小中学生=100円、幼児=50円(別途入館料が必要)。7月12日まで。
 
 この博物館のプラネタリウム、評判はいいようですが、客の入りは、今ひとつの感じです。この際、ぜひお越し下さい。
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67 五間堀、六間堀、池波正太郎の世界

2009-05-25 20:18:20 | 歴史・痕跡
 両国駅を出て清澄通りを南に下って行くと、江東区森下町界隈。地図で確認すると、三角形に区切られて区界がある。道路も清澄通りを横切っている。顕著な道筋ということが分かる。区界が新大橋通りと清澄通りという二本の大きな通りで区切られているのではないことに気づく。ここに、五間堀と六間堀があった。もともとは、本所の竪川と深川の小名木川をつなぐ(小名木川まで開通するのは後代)の堀割。
 写真は、五間堀公園、五間堀の跡。都営地下鉄「森下町」駅の地上入口付近。清澄通りを渡ったところには、「弥勒寺橋」跡の標識があり、六間堀のいわれも記されている。この辺りは、東京大空襲で瓦礫が川筋に埋まってしまった。そのためか、戦後すぐに埋め立てられ、今は跡形もない。区界なのがその唯一の「痕跡」。
 この辺りは、「鬼平犯科帳」の世界だ。
 
 六間掘川南端にかかる猿子橋の西たもとは、右が幕府の御籾蔵、左が深川元町の町家であった。その御籾蔵の角地へうずくまっている市口瀬兵衛の前に、現れる長谷川平蔵。「市口さん。いよいよですよ」「天下泰平の世にお笑いくださるな」「何をもって」「かほどのわが子は可愛いものでござる。そのわが子を討った仇が、なんの罰も受けず、ぬくぬくと暮らしておること、許せませぬ」「私も三人の子持ちでござる。よろしいか。私が先に出て行って、浪人どもを駕籠から追い払う。そのとき名乗りをあげて、突きかかるがよろしい」「はい」
 平蔵は瀬兵衛老人のやせこけた両肩を優しく何度もさすってやる。「ご老体。死ぬるということは、思いのほか簡単なものらしい。いざとなれば、少しも恐ろしくないそうな」そして駕籠がやってくる。平蔵は峰うちにして浪人や駕籠かきどもを追い払う。駕籠の中から海坊主のような大男が出てくる。「山下藤四郎。市口伊織が父、瀬兵衛清定ぞ」かすれ声を振り絞って名乗る瀬兵衛。山下藤四郎は信じられぬ顔つきになる。そんな山下に瀬兵衛は腹へ刀を突き込む。
 翌朝になって、平蔵は役宅に戻る。与力や同心たちが緊張の面持ちで平蔵のそばに駆け寄る。長官が二夜も役宅を留守にしたのだから、何か異変があったと思うのが当然であった。「なんでもない。ちょいと遠出をしたのだ。たまにはよかろう」長谷川平蔵は寝間の床にもぐりこむ。目を閉じると、今朝暗いうちにお熊の茶店から去った市口瀬兵衛の小さな後姿が浮かんできた。瀬兵衛は妻と二年も会っていなかった。(ふふ。猿子橋界隈は、昨夜の事件で大変なことだろう。それにしても、あの老人、どこの家中だったのか)もう考えをめぐらすのも面倒になり、平蔵はここちよい眠りの底へ落ちていった。(池波正太郎『寒月六間堀』より)
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66 両国馬車通り

2009-05-24 23:02:20 | つぶやき
 「馬車道」といえば、なんと言っても横浜が有名。今でもハイカラな雰囲気がする通りです。
 実は、墨田区・両国駅の南を少し行ったところに、「馬車通り」というのがあります。この通りは、隅田川から錦糸町まで、東西に続く直線の道路。道沿いには、中小の問屋が軒を連ねています。また、マンションも。街路灯も途中までは少ししゃれた感じで、横浜の本家を意識して、ガス灯をイメージしたものでしょうか。
 この近辺、墨田区は、錦糸町駅の北口から江戸博までの通りを「北斎通り」と名付けています。地元の葛飾北斎にちなんだ名称です。ここは、北斎に関するイベントなどがあります。また、通り沿いに記念館を造る計画もあるようです。
 しかし、この「馬車通り」の名称の根拠は何でしょうか? 墨田区の公式HPをいくら探してもよく分かりませんでした。ただ、もっと東に進むと、横十間川で少し迂回しますが、その先は、明治通りの五の橋のところから東は、旧千葉街道となりますので、そこに何らかの根拠、つまり旧道だったということでしょうか。
 実際、この道に馬車が行き交いしたとは、思えないのですが。どなたかご存じの方は、ぜひ教えて下さい。
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65 吉良邸跡・本所松坂公園

2009-05-23 19:34:27 | 歴史・痕跡
 昨日、地元ではご存じ、吉良邸跡、今は、本所松坂公園、に行ってきました。
 1702(元禄15)年、12月14日は、赤穂浪士による吉良邸打ち入りの日。去年、この直前、12月上旬に来たことがあります。
 「深川江戸資料館」から「芭蕉記念館」「芭蕉庵跡」まで行き、それから北上してやってきました(偶然、その歩いた道の途中は、赤穂浪士がめでたく首尾を果たして泉岳寺まで凱旋?する道筋をさかのぼったのですが)。
 けっこうその時には道に迷いました。夕方になって肌寒い冬の日だったので、何とか見つかったので、同行の諸氏とほっとしました。外側のなまこ壁がなければ通り過ぎてしまうところでした。
 実に小さな公園。その狭い中に、稲荷神社とか首洗い井戸(これはどうも嘘くさい!)とかありました。吉良上野介義央の広大な上屋敷跡のほんの一画(敷地の東北の外れに位置した場所のようです。)だったそうで、資料によれば、当時の87分の1の広さしかないようです。
 かつては両国ではなく松坂町と呼ばれていましたので、「本所松坂公園」といいます。この地は1934(昭和9)年、地元の有志が購入し、公園として東京市に寄贈したものだそうで、1950(昭和25)年に、墨田区に移管されたもの。
 毎年、12月14日には「元禄市」でこの界隈は賑わいます。
 「忠臣蔵」では、敵役として扱われる吉良上野介であるが、実際は地元で名君としての名も高かったようです。ここでは、20年くらい前からは吉良上野介供養の吉良祭も義士祭の前日におこなわれています。
 まさにミニ公園という感じでした。
 ちなみに、江東橋のたもとにある、都立両国高校は、浅野家の倉庫とか畑があった跡地。内匠頭への処分が下され、屋敷払いになったときに、手際よく家財道具などを運び込んだところです。地元でも知られざるエピソードですが。
 写真は、公園正面。左手の木戸から中に入ります。 
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64 柳島・妙見山法性寺

2009-05-22 21:13:26 | つぶやき
 押上駅の東、北十間川から横十間川が分岐するあたりにあるお寺で、江戸時代から信仰する人が多いお寺です。天正元年(1573)に創建された、日蓮宗真間弘法寺の末寺。
 柳島の妙見様(島妙見)と古くから慕われている法性寺は、墨田区内でも、古いお寺です。古くから歌にも歌われ、多くの錦絵にもその偉容が残されています。残念ながら当時の姿では現在は見られません。
 業平・押上・文花・立花地域(住宅密集地域の一つ)に、広域避難場所計画の話が出て、住み慣れた地を離れたくないとの地域住民の思いもあって、堅固な建造物建設の必要性から、当時の住職の決断によって、お寺の敷地に大きなマンションが建設されました。
 かつての面影は有りませんが、浅草通りを押上から亀戸方向へ向かって、横十間川のすぐ手前の右手、レンガ色のマンションの1・2階部分が柳島妙見山法性寺となっています。
 入って右手奥には、地元出身の葛飾北斎の碑や近松門左衛門にまつわる碑、その他にも多くの石碑・歌碑が並んで、古くから「妙見様」と親しまれ、人々の信仰を集めていた事がわかります。
 葛飾北斎は、妙見菩薩を信仰、法性寺を題材とした「柳島妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残しています。また、近松門左衛門は昭和30年代に供養碑の一部が発見され、縁の深かった事が判明、芸術文化の先達の偉業を顕彰するために建立。
 1階の右には妙見堂があり、中には妙見菩薩が鎮座しています。1階部分は広くはありませんが、日本庭園となっていて、社務所に入ると坪庭があり、奥には錦絵の名品や貞明皇后の形見として下賜された銅版画など逸品が収蔵されています。
 写真は、十間橋の上から横十間川の分岐を望んだもの。右手が柳島橋となります。かつては、この「柳島」地域も商家などもあり、トロリー・バスも通り、ちょっとした賑わいもあったようですが、今は、静かな住宅地になっています。近くの錦糸町や吾妻橋の賑わいに比べれば、隔世の感があります。川の流れだけは、往時と変わらないのでしょうか。
 今、ほんの近くに「東京スカイツリー」が建設中です。完成後には、この辺りもどう変化していくのでしょうか。
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63 墨田川高校堤校舎跡

2009-05-21 21:10:47 | 歴史・痕跡
 東京都立墨田川高校。府立七中を前身とする、進学重点の単位制高校で下町の伝統校。この高校には、かつて墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「堤校舎」と呼ばれる校舎が存在した。
 この校舎は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となった。17年間の校舎だった。
 写真は、現在の様子。校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。中央奥に見えるのが、「梅若伝説」で名高い、木母寺。その奥の方が、「水神」様の隅田川神社に続く。
 敷地内を見ると、所々に盛り土があるのは、整地がまだなのか、雑草が生い茂って、広大な空き地となっている。辺り一面、今の季節、レンゲが生い茂り、昔懐かしい、自然の雰囲気が残されている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか?このままでも惜しくはなさそうだが。
 1980年代後半は、高校進学率の上昇と共に、一気に生徒急増期を迎え、都立高校は、どこも臨時増学級を行ったり、新設高校建設が始まっていた。クラス定員も50名が基準。その上に、臨時増学級。10クラスもあるような学校も。10学級の学年を3回募集した学校もあった。
 そうすると、高校全体で30学級、1500名の生徒たち。学校行事一つとっても何をやるにも大所帯だった。
 正規の教員も一杯いたが、間に合わず、非常勤の先生もたくさんいた。活発といったらそのようだが、まさに急場しのぎの施策であることには間違いない。
 堤校舎もその一つ。全館「プレハブ」。何しろ一時しのぎの学校だから恒久的な建物を建設する気は、都教委には全くなかった。
 夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。
 10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校と話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。もともと墨田川高校の分校だから、本校に戻ったと言うかたちにして。
 あれから7年。今や跡形もなくなった堤校舎。インターネット上での堤校舎に関する「HP」もなくなった。グランドは、まだまだ健在らしいが。
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62 東武亀戸線・廃駅

2009-05-20 23:20:10 | 鉄道遺跡
 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。
〔主な年表〕(wpediaによる)
1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となる も、乗り入れは継続。
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とす る。北十間駅は廃止。
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。
 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。
 
東武亀戸線が亀戸駅を出て総武本線と別れてカーブを描き始める辺りに、旧亀戸水神駅はありました。線路脇の道をたどっていくと、踏切と踏切に挟まれた線路脇にかつてプラットーホームを支えた、古レールが埋め込まれたコンクリートの台座が並んでいます。写真は、旧亀戸水神駅跡。曳舟行きの2両編成のワンマン電車が通過中です。線路脇に見えるのが、台座。
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59 東京大空襲・江東橋のたもとにて

2009-05-17 12:18:19 | つぶやき
 東京大空襲。1945(昭和20)年3月10日未明。東京下町地区、現在の台東・墨田・江東区を襲った米軍による焼夷弾・無差別絨毯爆撃による死者、約10万人とも。その正確な死傷者の数は、いまだに分かりません。
 特に、本所深川地区は数万に及ぶ死者とたくさんの負傷者が出ました。ここは、もともと木造家屋が密集していた地域。次々と火の手が上がっていきましたが、四方から迫る炎で逃げまどう人々。その被災民の避難路を断ったのが、この地域に縦横に走る、隅田川などの河川・運河でした。
 逃げまどう人はこれらの河川にかかる橋に両側から殺到しました。橋の上で焼死する者、逃げ場を水に求めて川に飛び込む人。その水中もけっして安全ではなく、高熱の火流が川の上をなめるように渡ったといいます。また、3月中旬の真夜中、冷たい水の中に身を浸し、水死した者もいました。
 翌朝、隅田川など下町の橋の上や水中には、黒こげの死体や水死体が浮かび、地獄そのもの様相を呈しました。
 府立三中(現在の都立両国高校)は、錦糸町駅の南西、大横川にかかる橋・江東橋のたもと付近にある学校。この時の空襲で校舎の一部が 焼失することになります。当時、錦糸町駅の方向から西へ向かう避難民と両国方面から江東橋を渡り、三中に逃げ込もうとする人々は、校門から学校の中に入ることが出来ず、再び江東橋へ戻ろうとする人も多かったといいます。避難場所として多くの住民が避難して来る中、学校では、校長をはじめ教職員が必死に消火活動や避難民受け入れに当たります。この学校の「創立百周年記念誌」(2002年発行)には、当時の生々しい体験(当時の生徒達の声)がたくさん掲載されています。この日の真夜中の惨状、阿鼻叫喚の地獄を知ることが出来ます。

(その一)
 「一面の火の玉、火の塊は一体何が燃えているのであろうか。大きいのはドラム缶ほどの物体が炎を上げながら十数米の高さを飛んで行くのである。多分、火の勢いは既に北側は電車通りの向かい側、西側は江東橋の架かっている辺りまで迫っていたのではなかろうか。避難してきた人々の必死の叫びや、バリバリと物の燃える音、・・・」

 次々と校舎が延焼する中、南側に位置するプールに飛び込んで、凍るような冷たい水の中で一夜を明かし、命が助かった者もいました。一瞬の運・不運が、人の生死を分けました。

(その二)
 「人と煙に追われ、逃げ惑う群衆の中で私達家族はその波に呑み込まれた。家の近くの江東橋の上は火焔と熱風に追われる狂乱の大群衆、それはまさに煮えたぎる地獄の釜の中の様相である。人々は酷熱風火に耐えられず我先に厳寒の死の川へ飛び込んだ。私達家族も猛火に追われ次々に飛び降りた。母は、3歳の弟を背に身をひるがえした。幸い川岸の筏の上に助けあげることが出来た。
・・・その時岸辺の家々があっという間に猛火に包まれた。その熱気で我が身は湯気のかたまりとなった。焼け落ちた家々の向こうを仰ぎ見ると、我が母校は窓々から火焔と黒煙を吹き上げ炎上中であった。
・・・猛烈な火焔と火の粉は川面へ吹き付け、筏にも火が付いた。我々は必死で消火に努めた。呼吸はつまり、目ははれふさがりこの世の姿ではなかった。猛火と熱風との闘いもやっと終わり空も白んできた。3月十日の寒空に朝日が差し込んできたころ、辺りは完全に焼き尽くされていた。」

 この筆者一家は、幸いにも生き延びましたが、生きて夜明けを迎えた人は少数でした。三中の教員で、当日、宿直していた方は、十日朝の江東橋下(大横川)の惨状を「熱風に耐えられず飛び込んだ人々はほとんど全員が寒さで命を落とし、水面がみえなくなるまで死体で埋めてしまった」と、後日、記しています。
 それから、64年の月日が経ちました。
 写真は、現在の江東橋のようすです。橋の下に、大横川の流れはなくなり、一帯が親水公園として広い管理された水面があるだけです。
 京葉道路に架かる橋もきれいに強固な橋として一新され、阿鼻叫喚の地獄図は想像もできません。
 
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56 旧墨堤通りと桜並木

2009-05-14 22:57:15 | 歴史・痕跡
 隅田川は、旧荒川。「荒」の字が示すように、荒れる川だった。昔からしばしば洪水を起こし、沿岸住民を苦しめた。明治に入って「荒川放水路」を開削して流れを変え、さらに戦後、1963(昭和38)年から沿岸の土手に、高くコンクリートで固めた堤防を建設し、水害、高潮防止に。10数年後に完成した以降は、隅田川(岩淵水門下流)本体では、水害の被害はなくなった。
 その代わり、鉄骨とコンクリートで固めてつくった堤防によって、直接、人間は隅田川の川面を見ることが出来なくなってしまう。特に、京成本線の鉄橋(千住大橋~町屋)付近などは、人と水とのかかわりを拒むかのように、鋭くそそり立っている。
 それから下流、台東区、墨田区両区にまたがる隅田公園付近などでも、汚れきって淀んだ水は、悪臭を漂わせ、桜などの自然環境を汚しながら、人々を拒絶した。
 人間の方も、表現しようもないようなとてつもなく「臭い」隅田川を、ますます厭うようになっていった。人間の生活・文明そのものが、そこまで川を汚してきたはずだっただが。
 近年、隅田川の水質が急速に改善され、それとともに、人と水とのかかわり、すなわち自然と人間との関係を作り出す努力がなされてきている。
 そこには、人間の知恵とテクノロジーによる、このままではどうしようもないどぶ川浄化へのどろどろで長い闘いがあった、と言っても過言でない。
 下町全域の下水道の完備、生活排水や工場排水の規制や新河岸、小台、三河島の下水処理場などの下水道濾過装置の改善というハード面。
 さらには、コンクリート舗装の表面を土に入れ替える、川辺に広く長いテラスを設け、水面との接近、遊歩道やランニングコースを土手の上に造る・・・。水害防止という視点からのみのアプローチから、出来る限り、自然と人間との共存、共栄という視点からの河川政策への転換であった。
 特に桜橋(人道橋)から吾妻橋にかけて、(隅田)公園等の整備を行って、桜の名所復活が実現した。頭上には高速道路が走っていて、空間的広がりは阻害されてはいるが、桜の季節や夏の花火の時期には、出店も出るなど大いに賑わっている。
 しかし、現在ある墨堤の桜・ソメイヨシノは、1970(昭和45)年頃から堤防沿いに植えられたもの。
 これまでの「墨堤の桜」には、幾多の変遷がある。
 当初、4代将軍家綱が現在の茨城県稲敷市桜川(旧稲敷郡桜川村)地区から取り寄せ、木母寺(梅若伝説で名高く、現在は、東武鐘ヶ淵駅で下車、水神大橋付近にある寺)あたりに植えさせたのが始まりで、8代吉宗は木母寺から南の方へ植えさせた。その後、地元の人々が熱心に桜を植え、安政年間(1854~60年)には、桜堤が三囲(みめぐり)神社(墨田区側の隅田公園・桜橋付近に現存する神社)までできあがり、江戸の末期には、桜の名所として江戸随一を誇るまでになった、という。
 植えた桜がソメイヨシノではなかったのは、当然のこと。
 その後(明治に入ってからも)、たびたびの洪水のために桜に被害が出たが、そのつど、地元の人々によって植え直された。しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって、壊滅的な被害を受ける。その復興事業として隅田公園(旧水戸藩下屋敷の庭園跡)が建設され、ソメイヨシノが植えられた。
 1940(昭和20)年の東京大空襲では、奇跡的に被害を免れたものの、次第に公害のために被害を受けることに。さらに、その後の堤防のかさ上げコンクリート工事のため、多くの桜は姿を消す。1966(昭和41)年には高速道路の工事のために、墨田区側はすっかり伐採されてしまった。そして復活した今日に至るわけである。こう見ると、墨堤の桜も受難の歴史であることが知れる。
 写真は、かつての墨堤通りで、地蔵坂通りの突き当たり付近。現在の通りよりもぐっと東にカーブしている。残念ながら、桜並木の面影は全くない。正面に見える神社は、白髭神社。なお、この地蔵坂通り、大昔は、海岸線だったとのことである。(太古の時代、このあたりに、隅田川の河口付近の土砂が堆積され、次第に陸地化されていった。)
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55 今に残る東京大空襲の爪痕、飛木稲荷神社の大イチョウ

2009-05-13 23:30:43 | 歴史・痕跡
 東武・京成曳舟駅を出て、曳舟川通りを押上方向に向かい、京成押上線のガードの手前の神社にある、イチョウの木。
 
「目通り回り約4.8メートル、樹齢はおよそ500年から600年と考えられており、墨田区内に現存する樹木では最古とされる、大変貴重な存在です。
 イチョウのある飛木稲荷神社は、明治2年(1869年)の『神社明細帳』によると、応仁2年(1468年)に創建されています。また、言い伝えによると、鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れて定住し、稲荷大明神を祀ったことに始まるといいます。あるいは、暴風雨の際にイチョウの枝が飛来してこの地に成長したことを、人々が瑞兆であるとして稲荷神社に祀ったとも伝えられ、神社の名前がこのイチョウに由来する可能性を有しています。
 戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、一時は樹勢が衰えましたが、現在は回復しています。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝え、都内に残る被災樹木としても希少な存在です。」(以上、墨田区生涯学習課hpより)

 1945(昭和20)年3月10日未明、米軍の「無差別絨毯爆撃」により、東京の下町地域には、大きな被害が出ました。サイパン・テニアン基地を飛び立った約300機のB29戦略爆撃機が次々に飛来し、民家の密集する現在の台東、墨田、江東地域を中心に、大量の焼夷弾を投下したのです。
 わずか2時間余りの攻撃で、約10万人の命が奪われ(いまだに正確な数は掌握されていない)、100万人が焼け出されました。特に本所・深川地区の被害者が最も多く、数万人に及んでいます。
 空襲直後、米軍が日本橋上空で撮影したようすでは、見渡す限り焼け野原となっています。その下では、多くの人が死に、たくさんの人々が逃げまどっていたのです。壮年男性は徴兵されていたため、その多くは、女性、子ども、老人でした。
 昭和22年の航空写真でも、まだまだ焼け野原のままで、所々に、ぽつんぽつんと住宅があるばかりです。 
 あれからすでに64年の歳月が経ちました。すっかり復興を成し遂げた東京の下町には、こうした悲惨な爪痕は、街並みからも人の心からも、次第に消え去りつつあります。建物などにも当時の痕跡を残すものは、ほとんどありません。
 ただ、木々だけは雄々しく立ち直り、今にその爪痕を残しています。浅草寺のイチョウの木もそうですが、この「イチョウ」も、これからも貴重な歴史の証人として存在してほしいものです。
 写真は、緑の葉が、まぶしいイチョウの木。その緑の向こうに焼けただれた木肌が、今も厳然として残っています。
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