おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

甲州街道をゆく。総集編。

2017-12-22 19:46:44 | 甲州街道

 ほぼ東京(新宿)からJR中央線・普通電車での往復。一部、路線バスやタクシーを利用しました。全体を通して、「笹子峠」など一部の区間を除き、中央線の最寄り駅が街道からそう離れた位置にはなく、有効に活用できます。


        交通機関                         宿  場  
              
第1日目 JR新宿駅………京王線府中駅           内藤新宿・高井戸・布田五ケ宿・府中
 3月4日(土)曇り

第2日目 府中駅………JR八王子駅             日野・八王子
 3月11日(土)晴れ

第3日目 八王子駅………相模湖駅              駒木野・小仏・小原
 4月15日(土)晴れ、一時にわか雨
 
第4日目 相模湖駅………上野原駅              与瀬・吉野・関野・上野原
 5月3日(祝)晴れ時々曇り

第5日目 上野原駅(バス)………猿橋駅           鶴川・野田尻・犬目・鳥沢・猿橋
 5月27日(土)晴れ

第6日目 猿橋駅………笹子峠登り口~(バス)~笹子駅    駒橋・大月・花咲・初狩・白野・阿弥陀海道・黒野田
 6月11日(土)晴れ

第7日目 笹子駅~(バス)~笹子峠登り口………甲斐大和駅  駒飼
 7月8日(土)快晴

第8日目 甲斐大和駅………下栗原~(タクシー)~山梨市駅  鶴瀬・勝沼・栗原
 7月22日(土)快晴

第9日目 山梨市駅~(タクシー)~下栗原………甲府駅    石和・甲府
 8月27日(日)晴れ

第10日目 甲府駅………韮崎駅                韮崎
 9月24日(日)晴れ

第11日目 韮崎駅………台ケ原~(バス)~韮崎駅       台ケ原
 9月30日(土)晴れ

第12日目 長坂駅~(タクシー)~台ケ原………富士見駅    教来石・蔦木
 11月11日(土)快晴

第13日目 富士見駅………茅野駅               金沢
 11月15日(水)晴れ

第14日目 茅野駅………下諏訪駅               上諏訪・下諏訪
 12月9日(土)晴れ

 注:第7、8日目はもっと先まで歩く予定でしたが、真夏の日差しの下、途中でギブアップ。他の日はそれぞれ少し余裕のある行程でした。

 八王子を過ぎてから次第に山あいをたどるようになり、けっこうアップダウンが続く道のりとなります。峠は高尾から相模湖に抜ける「小仏峠」と「笹子峠」の二ケ所。特に「笹子峠」はちょっと道に迷いそうな個所もあったり、「熊の出没注意」の看板などもあったりして、一人歩きでは心細い。幸い、ご夫婦の方と同行できて助かりました。その方も甲州街道歩きをしているようです。

 甲府盆地に入ると、視界が開けて心地よい歩きになりますが、真夏は避けた方がいいようです。沿道に日差しを遮る並木はなく、お盆休み以外、ぶどうなど果樹園も観光客もほとんどなく閉まっています。ワイン工場はありますが、試飲しすぎると、炎天下の歩きは危険!

 当初は、現甲州街道である「国道20号線」をひたすら歩くのかと思っていましたが、所々に旧道が残っていて、静かでのどかな山里を歩くことができます。また、現地の教育委員会や地元の方々による宿場・街並みの保存や一里塚、史跡・名所の案内板、解説板などが随所に設置され、楽しみかつ安心して歩けます。

 一方で、鉄道の敷設、「中央道」の建設などで、旧道が失われているところもあります。特に、山間部では中央線、「中央道」の橋脚をくぐったりしながら、つかず離れずで歩く個所も多くあります。

 しかし思った以上に景観がすぐれているのに感動しました。

 特に甲府盆地から先は、盆地を囲む山々、南アルプス・鳳凰三山、甲斐駒や八ヶ岳などが近づき、その景色を堪能しながらの歩き。かつて登ったことのある山々が眼前に広がります。

 田植え時の新緑。秋、全山が染まる見事な紅葉。初冬、新雪に覆われた山々の姿など。最高にいい気分で歩けました。

 往復の車中からの眺めも最高! 

 最後に諏訪湖が目に飛び込んでくると、歩き通した感動も格別です。

 華やかな観光スポットはそうありませんが、地味ながら実に味わい深い旅でした。

 今回の歩きは、「パパが歩く甲州道中(甲州街道)」を参考にさせていただきました。少し前の記録ですが、大変ありがたい「道しるべ」でした。深く感謝いたします。

≪第1日目≫
・「新宿3丁目」交差点。「甲州街道」と「青梅街道」との追分。 

      ・「近藤勇」座像。


≪第2日目≫
・「日野本陣」。

         ・「大和田橋」。「浅川」の下流を望む。

≪第3日目≫
・「甲州街道」方向を見下ろす。

・「小仏峠」。

≪第4日目≫
     ・相模湖方向を望む。

・「境沢橋」。「相模」と「甲斐」との国境。

≪第5日目≫
・野田尻、荻野付近。

・かつての難所「座頭転がし」付近。
   

≪第6日目≫
・「源氏橋」右手下の「田植え」風景。

・「白野宿」。

≪第7日目≫
・矢立の杉。

                 ・「笹子峠」。

≪第8日目≫
・「ぶどう園」。

      ・「勝沼本陣槍掛けの松」。


≪第9日目≫
・足下のマンホールには桃の絵柄。

     ・「笛吹川」上流を望む。

≪第10日目≫

・赤坂からの富士山。↓ 

             ・韮崎「井筒屋」。

≪第11日目≫

・七里岩、田園風景。

              ・「鳳凰三山」。

≪第12日目≫
・「蔦木宿」本陣跡。

   ・富士見駅・跨線橋からの八ヶ岳。 

≪第13日目≫
・入笠山方向。

       ・「金沢宿・馬継ぎ石」。

≪第14日目≫
・「諏訪湖」。

   ・「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之地」碑。
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読書「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子)河出書房新社(じじばばがゆく。ランチ編。)

2017-12-20 18:52:55 | じじばばがゆく

 よっこらしょ! お疲れ様でした。

 腰の方は何とか落ち着いたわよ。病気の方も・・・。どうした、どうしたっていちいち聞かないでくれる。

 もうあっという間に年の瀬。一年経つのが早すぎるわ。

 そうね、ランチとしては今ひとつだったわね。ビュー代ということかしら。
 スカイツリーまでよく見えるし、新宿駅が目の下。御苑も手に取るようなところに。トイレからの展望が格段だったって、そうなんだ。

 あそこ。「小田急サザンセンチュリータワー」とかいうのよ、知らなかった? 20階から上がホテルになっているのよね。素敵な方とお泊りになったらいかが?

 そうそう。この間お貸しした本の感想を聞かせてほしいわ。

 なんでも河出書房の「文藝賞」というの、それを史上最年長で受賞した作品だそうだけど。

 ほら、宮沢賢治の有名な詩「永訣の朝」のトシ子さんの「Ora Orade Shitori egumo」を表題にしているのよね。

 ローマ字表記の音では「しとり」を「ひとり」、「えぐも」を「いぐも」と言い換えてあるのは、作者のそこには深い思い入れがあると思うのよ。

 賢治さんのよき理解者であった妹のトシ子さんの今わの際の言葉として受け止めるのではなくて、もちろん、本当にそう言ったかどうかは問題じゃないわ。

 主人公の桃子さんにとっては、確実に迫った「死出の旅路」を免れることはできないけれど、お迎えの、その日まで「一人で生きていく」決意が含まれているよね。

 一方で、「Ora Orade(おらおらで)」をそのまま用いているところに作者の、桃子さんへの深い思いが表現されているわよね。

 「おら」、対する「わたし」という言葉への複雑な、屈折した思いが主人公・桃子さんにも、いや作者自身にも、否応なしにあることが随所にうかがわれる。

 それが、物語の通奏低音としてしっかり位置づけられているのよね。

 それにしても、賢治の「虔十公園林」に登場する主人公・虔十(純粋な心の持ち主。でも、近所の子どもらにばかにされて笑われる存在)の、

 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。

 をしっかり引用してくるところなんかは、宮沢賢治が「心象スケッチ」と称した詩(ことば)づくり、紡ぎ方にも擬えているよね。

 故郷の「八角山」を結びつきのきっかけとして、そんな宝石のような物語の主人公と結婚し、二人の子どもを育てあげる、しかし、しだいに疎遠になっていく肉親関係。特に30年以上寄り添った夫の突然の死。

 そして、今、一人住まいをする74歳の女性「桃子」。・・・

 「八角山」なんて山名じゃなくて小説ならもっとしゃれた名前にすると思うけれど、名実ともに凡庸な山だからこそ、桃子さんのかけがえのない、心のよりどころになっているのよね。

 「八海山」だと山の名前というより、お酒の銘柄になってしまうけど。

 幾重にも死者たちの声が桃子さんの耳に眼に伝わってくる、そう、宮沢賢治のあの独創的なオノマトペを彷彿される幻想・幻聴シーンなんかは、桃子さんの思いに感情移入されられてしまうわね。

 すでに夫も含め、肉親たちの亡者の仲間入りになった者同士の語りかけ、と一体化する桃子さん。

 桃子さんがソーダ水をストローでかき混ぜながら、
 
 嘆きの渦最高潮に達し、柔毛突起ども皆立ち上がり天にも届けとばかりにおめき叫べども、誰かのしわぶき、あきらめのため息をきっかけにしだいに勢い衰え、音なり静かになる。
 それとともに一斉にうごめき揺れていた柔毛突起どもの渦、しだいに右に左に揺れ別れ、三つの大きな円になって鎮まり治まる。


 という表現なんか面白いわよね。

 他者と微妙に関わりながら、それでいて振り回されず、自らの喜怒哀楽を大事にお迎えが来るその日まで、日々を暮らしていくのよね。

 孫の存在が桃子さんにとっても、読者にとっても救いとなり、ラストの「希望」につながっていくわね。

 (一人で訪ねてきた孫のさやかに人形に「新しい服を作ってやるべが」と、)

 「さやちゃん、端切れが入っているから、二階の箪笥の上の黄色い箱取ってきてくれるが」
 言うより早くさやかは駆け出していく。階段を踏みしめる軽やかな足音が耳に心地いい。
 「おばあちゃん、窓開けるね」
 「あ」
 「おばあちゃん、来て来て早く」
 「はあい」
 桃子さんは笑ったままゆっくりと立ち上がった。
 「今、行くがらまってでけで」
 「春の匂いだよ。早くってば」

 故郷の八角山への想いの中で、都会の片隅での晩年の一人住まい・・・、「癒やし」のお話になっているわ。このお話、私なんかすごく同化しちゃうわ。

 ところで、あなたにとっての「八角山」というような存在って何?

 ちょっと、もう。話を聞いてくれていたの、まったく。

 今日は、ここまでよ。あとは、またこの次。

 ではよいお年を! じゃあね。  

 そうそう、若竹さんには悪いけど、「虔十公園林」のラストを引用するわね。もしかしたら桃子さん愛用の「46億年ノート」にも通じるものがあるかも。

 (周囲が開発されていっても、虔十が植えた杉林は隣の小学校の子供たちの公園となっていました。そして、「虔十公園林」と名付けて保存されることになります。)

 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂ひ、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十が居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落とし、お日さまが輝いては新しい奇麗な空気をさはやかにはき出すのでした。

 
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その5。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-18 22:00:11 | 甲州街道
 曲がりくねった上り坂を進みます。旧道はかつての諏訪湖の湖岸付近を通っていたような印象の道。現在は左手(諏訪湖側)には民家などが立ち並んでいますが。
 

沿道には長崎家、橋本家などの重厚な建物。

(13:35)旧家の橋本家。昔、茶屋があったとされています。すばらしい装飾の軒先の灯籠が目を引きます。


 

その先、左手が広がってきます。湖水に落ちるような急坂。

立派なお屋敷が続きます。


                       

一直線で湖に下る道。

 
島木赤彦「柿蔭山房」入口案内板。

 島木赤彦は地元・諏訪出身の「アララギ」派の歌人。教育者としても活躍した。代表作に

 ・夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖のしづけさ(『切火』)
 ・みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ (『太虚集』)
 ・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』)

 など。

 諏訪湖が大きく広がって見えてきます。


                     
   
「明治天皇駐輦趾」碑と「名所石投場」。碑。

 そこからの諏訪湖。かつては湖水はこの直下まで迫っていたようです。
             

         

緩やかな坂道。振り返る。

途中、右手に上がる道筋が「鎌倉街道」。

 

(13:56)右手には「一里塚跡」碑。


・・・この塚は江戸より53番目、甲州道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中仙道につながる。

承知川橋。

 (14:03)その先、右手の石垣には「承知川橋の記」と埋め込まれた「承知川橋」の石橋。

承知川橋の記
 この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
 輝石安山岩 重量約拾参屯 
 伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず 信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
 爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
 この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
 表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。 この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。
   昭和五十二年                         久保海道町

(14:07)そこからしばらくで「諏訪大社下社秋宮」に着きます。いよいよゴール間近。


この先を少し行けば「中山道」との合流地点(終点)。

塩羊羹で有名な「新鶴本店」。

あとわずかでゴール。右手奥に「聴泉閣かめや」。

(14:09)「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之」地」碑。

 正面奥の壁には合流地・下諏訪宿の賑わいを描いた、大きな陶板レリーフがあります。


「下諏訪宿問屋場跡」板。

 「御宿まるや」(右)、「桔梗屋旅館」(左)。その間の通りが「中山道」。


「中山道」を少し戻ったところに「本陣 岩波家」。



                   
史跡 本陣遺構
 江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここにいる。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年()11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。

その前の通りには「中山道」の標識。

「甲州街道」を振り返る。

 こうして14日間かかってやっと到着した「甲州街道」に別れを告げ、「中山道」を歩いて「下諏訪駅」に向かいます。

「下諏訪宿」案内板。 

復元された「高札場」。

                     

(14:28)「下諏訪駅」。

                    
 標高767.5メートル
 下諏訪駅は製糸業関係者が早くから鉄道建設を願っており、町の中心近くに設置され、製糸業は急速に発展した。
 戦時中から精密工業の工場がその後の工業都市のきっかけとなった。
 諏訪大社と諏訪湖の観光駅でもある。

 これで、五街道では「中山道」が「岩村田宿」で止まったまま、今回の下諏訪宿へは「和田峠」を越えなければならない。来年になったら、チャレンジすることに。その前にちょっと手近な街道歩きでもしておきますか。あるいは、ここまで来た勢い(甲府からの普通電車は「松本」行きだった)で松本まで行ってみるか。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その4。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-14 20:01:17 | 甲州街道
                                   メイン通り。



                     
 昭和初期に流行した「看板建築」といわれる建物。木造2階建てで、屋号を冠し、古代ギリシャ風の柱頭飾りなど重厚な外観などが特徴です。

 「水戸街道」歩きの際、「府中(石岡)」宿で、現在まで残るいくつかの商家を見ました。
「森戸文四郎商店」(石岡)。
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。

 ここでお目にかかるとは思いませんでした。

こんなところにも工夫が。

(12:49)「諏訪一丁目」交差点を右折。

 その角にあるのが、「すわっていいよ」(諏訪っていいよ)という表示と木製ベンチ。そこで、小休止。


右手からの道を合わせ、左折。

 曲がってすぐ右手にあるのが「喫茶店 石の花」。古い門に古い民家。明治初期に建てられた建物を改造。


                     

緩やかな上り坂が続く旧道。
                           
(12:58)「吉田のマツ」。樹齢約300年。
 クロマツ。樹齢は300年余り。
 高島藩士吉田式部彦衛門が元禄3年(1690)から享保8年(1723)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。代々吉田家の庭に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、市内の最年長樹である。・・・

                              

その先、左手に52里目の「一里塚跡」碑。

                               
・・・ここに一里塚ができたのは慶長15年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から52里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。

 残り、あと一つ。

右手は高台。住宅が広がっているようす。

このあたりからぼつぼつ温泉民宿が出てきます。

民家には、温泉のタンクが設置されています。

Y字路になります。右の坂を上れば、「温泉寺」。


丘の中腹を巻くように上っていきます。



このあたりのおうちには温泉タンクがけっこう目立つ。
  

(13:15)右手に杉の森。「先宮神社」。

「散策の小道」案内図。
                    
左手下り坂の向こうに「諏訪湖」が見え隠れ。


                    

「雀おどり」。

立派な「雀おどり」のあるおうち。

 左手にかなり古い大木のケヤキ、木の元には「甲州街道」の標識。裏に回ると、すっかり空洞になっています。
 

 その先、家並みの向こうに諏訪湖が大きく広がって見えてきます。


(13:25)上部の欠けた「常夜燈」。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その3。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-13 20:54:48 | 甲州街道
                    新しい建物にも「雀おどり」が取り付けてあります。

 古仏群。

(12:13)しばらく進むと、旧国道に合流します。

                来た道を振り返って望む。

右手には「細武温泉共同浴場」。

 車の通行量も少なく、旧道らしい道筋の旧国道はしばらく進むと、国道20号線に合流します。
(12:22)国道20号線と合流。

旧国道を振り返る。

国道の左、崖下には旧道らしき道。

崖下の道。

 「清水1.2丁目交差点を過ぎると宿場らしい商店が続きます。
「丸二河西本店」。

藁製品を扱うお店。

                        

「染一染物店」。

 
                            和装小物「かねさ」。
「信州高原はちみつ 山田養蜂場」。

この先、元町交差点から酒造会社が五つ並ぶ通りになります。「諏訪五蔵」。
諏訪五蔵とは
「舞姫」「麗人」「本金」「横笛」「真澄」。諏訪市の甲州街道沿いには、わずか500mの間に5軒の酒蔵が立ち並びます。同じ霧ヶ峰の伏流水を仕込み水に使いながら、それぞれに特徴のある個性豊かな酒を醸し続けてきました。ライバル同士ではありますが、ご近所仲良く「酒の街・諏訪」を盛り上げていけたら。「諏訪五蔵」はそんな心意気で立ち上げた酒蔵グループです。(「諏訪五蔵」HPより)



       「真澄」。

真澄 蔵元宮坂醸造HPより

 真澄は寛文2(1662)年創業。清冽な水と冷涼な気候に恵まれた霧ヶ峰の山ふところ信州諏訪で、諏訪大社のご宝物「真澄の鏡」を酒名に冠した酒を醸してきました。優良な清酒酵母として現在でも全国の酒蔵で使われている「七号酵母」の発祥蔵であることは、私たちの誇りです。
・・・
 製造工程はいたってシンプル。
 熟練した製造スタッフによる「高度な手作業」を重んじています。
 「去年よりちょっと美味いと今年も思う」
 お客様からそんなお言葉をいただける酒蔵でありたいと、毎年品質向上の努力を続けています。
・・・
 真澄の創業は1662(寛文2)年。2012年には創業350周年を迎えました。
 今までの350年に賜ったご支援に改めて感謝申し上げますと共に、次の350年に向け新たな一歩を踏み出した真澄に、一層のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

蔵造りのお店。お茶の問屋さんのようです。

続いて「横笛」。伊東酒造さん。

 主要製品の清酒「横笛」は、『平家物語』の登場人物である建礼門院の雑仕女横笛の悲恋物語を耳にした信仰心深かった初代当主が「横笛」の名を後世に残すと同時に末長く菩薩を弔うことも含め、『大銘酒 横笛』と命名し醸造することとなりました。

「鍵の手」交差点。

                 

鍵の手=鈎型に道が屈折しているところ。宿場の入口にあたります。「かねんて」とも。

まだ青々とした杉玉のある「本金」酒造。


                         


 本金の文字には「本当の一番(金)の酒を醸す」という想いが込められています。また、左右対称の2文字から、「裏表のない商売」という意味も。「一番」の酒とは何か、日々の中で「本金の金」を追求しながら酒造りをしています。

 宝暦6年、創業者である宮坂伊三郎が酒株を譲り受け酒造業をはじめたのがはじまりです。屋号は志茂布屋(しもぬのや)。当時、上諏訪町(今の諏訪2丁目のあたり)には13軒の造り酒屋があり、その内の1軒でした。
 ご先祖は諏訪の町の文化、商売の発展にも尽力をしていたようで諏訪湖に川えび、しじみを放流したり諏訪旧蹟誌という書物をまとめたり、神社の神主をやるなど酒造業以外の活動も多かったようです。
 明治、大正、昭和と激動の中、屋号も志茂布屋から現在の酒布屋に改めます。そして、戦争の混乱の中で酒造蔵は国の政策で縮小され、廃業を迫られる蔵もでてきます。しかし本金は保有工場となり廃業の難を免れます。
 ちょうどその頃、現在の本金の酒造りの流れが形成されます。
 その当時はまだ地域に酒造りの技術者がおらず、本金では広島から杜氏を招いてお願いをしていました。その後その中で学んだ富士見乙事出身の三井氏が諏訪杜氏として本金を醸し、次いでやはり乙事出身の北原太一氏へとバトンが受け継がれていきました。北原氏は高校卒業後から本金へ蔵人で来るようになり、それから本金一筋。50年以上本金を醸し続けてくれました。そして杜氏として本金に初の全国新酒鑑評会金賞受賞の栄誉もあたえてくれました。この受賞は山田錦が多く賞を占める中、長野県産美山錦での受賞と意味のあるものでした。そんな北原太一杜氏の名前を頂いた「からくち太一」は本金の代名詞、看板商品として本金の主力となっています。
 平成の世に入り、現在本金の製造量は100石強の極小量、杜氏は平成20年より蔵元である宮坂恒太朗へと引き継ぎ、「本金」のブランドに込められた「本当の一番(金)の酒を醸す」ことを目指し努力を続けています。
(HPより)

「鍵の手」交差点を振り返る。

次は「麗人」。

                        

「水」の蔵
 フォッサマグナの上に所在し、諏訪湖、上諏訪温泉等、風光明媚な土地柄で知られる諏訪盆地に麗人酒造株式会社はあります。創業は寛政元年、建物内部には京都の松尾大社の銘が入っている当時の大黒柱が建ち、200年余り続く酒造りの歴史の長さを物語っています。
 もちろん、歴史が深いだけに止まらず、その技術も折り紙付きで、水には霧ケ峰高原の伏流水を自社井戸から汲み上げ、仕込みはもちろんの事、瓶の洗浄に至るまで使い続けています。また、諏訪杜氏の流れをくむ蔵人が和を持って、揺ぎの無い技術で酒造りを行うとともに、製造の最高責任者である杜氏は、年間を通じて製造のみならず、貯蔵、出荷に至るまで、一貫した管理を行っています。
 この20数年におよぶ安定した生産管理体制の結果、平成6年には第59回関東信越国税局酒類鑑評会で、最優秀賞(首席)を獲得します。関東信越290蔵の中から第1位に選ばれるという快挙は、蔵人の自信を生んだのでしょうか、現在でも酒造りにかんする強い意欲を感じさせる蔵です。
こだわり
 最近の日本酒は大きなタンクを使い大量に製造する、言わば機械の力、人の力で生産したお酒が多くなっています。麗人酒造では諏訪の美味しい水と、清酒醸造に適した気候や風土を最大限に活かして、自然の力(麹菌、酵母等)が一番いい条件で働いてくれるようにすることが本当に美味しい酒を醸す唯一の方法と考え、日夜酒造りに励んでいます。
おすすめの一本 純米吟醸 麗人
 長野県産酒造好適米を全量使用した純米吟醸。仕込水には自社井戸に湧き出る霧ヶ峰高原の伏流水を使用。フルーティーな香りと爽やかな味わいのお酒です。モンドセレクション金賞受賞。

最後に立派な蔵造りの店「舞姫」。

                         

 長野県諏訪市にある酒蔵です。
 酒造りは、伝統手法にもとづき、蔵人が愛情を込めて醸しております。水は美しい大自然が息づく霧ヶ峰高原を源とする清冽なる伏流水。特定名称酒は酒造好適米を使用し、甘・酸・渋・辛・苦の五味が程良く調和した、旨口の日本酒造りに日夜励んでおります。
信州舞姫 純米吟醸酒 扇ラベル


 私どもの蔵は、霧ヶ峰から流れ出る清涼な伏流水を汲み上げ、山田錦や美山錦などの酒造好適米や霧ヶ峰の伏流水を使用して醸造し た清酒を全国のご愛飲頂いております皆様にお届けして参ります。時代は刻々と変わり、清酒業界を取り巻く環境も大きく変化し、お客様の嗜好も変化を続けて おります。私どもは、“薫り高きふくらみのある味わい”を守りながらも、決して安住することなく、時代の求める美味しいお酒造りに果敢に取り組み、新たな 美味しいお酒を皆様にご提案して行く所存です。今後は特定名称酒に力を入れ、全国のファンの皆様のご期待にお応えするべく誠心誠意で酒造りして参ります。
・・・
米へのこだわり
 信州・長野県で酒造りに広く使われる酒造好適米のひとつが“美山錦”です。この酒造好適米は、昭和53年長野県農事試験場にて「北陸12号」を母、「東北25号」を父として誕生した比較的新しい酒造好適米で、醸した酒は、スッキリと軽快な味わいとなります。私たちは、信州にある蔵として、この美山錦を使った酒造りを行って参ります。美山錦に加え、兵庫県の“山田錦”、山田錦の親米である“雄町”、そして日本アルプスに囲まれた信州の大地で育った地元のお米を使い、私どもは、酒造りに取り組みます。
(HPより)

 何だかお酒の紹介におわってしまいました。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その2。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-12 20:43:00 | 甲州街道
                         屋根に「雀おどし(おどり)」のあるおうちが目につきます。

このおうちは金の鯱(しゃちほこ)。

りっぱな建物が目立ちます。

「雀おどり」。

「常夜燈」。ただし、上部には電球がセットされています。

みごとな「雀おどり」。

簡素だがこれも「雀おどり」の一種。

来た道を振り返って望む。
                                     緩やかなカーブとアップダウンが続く旧道。

 道の真ん中にある「常夜燈」。ちょうど交差点になっている場所に立っています。ゴミ集積所の裏手という感じ。諏訪方面から来るとしっかり目に入る。
 

振り返って望む。

左前方。諏訪湖方面が開けてきます。

信号機のあるところを直進。

その先にあるのが、「足長神社」。祭神は、脚摩乳命 (あしなづちのみこと)、別名を「足長彦神」という。同じ諏訪市内には手摩乳命を祀る手長神社もあるようです。

 「手長足長(てながあしなが)」は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人。
 その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手のながいほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される。
 秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる。それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県 鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという。また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという。
 福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている。
 福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという。
 上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる。
 室町時代に編纂された『大日本国一宮記』によると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であったとされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の2社が存在していた。
 長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており、手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する。この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある。
 これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している。

 物語文学のひとつである絵巻物『宇治橋姫物語絵巻』には、主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている。
 岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる。これは嘉永年間の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、『山海経』や『異国物語』あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる。

                            (以上、「Wikipedia」参照)
 「妖怪」」として登場する「足長手長」もあるようです。

 足長手長(あしながてなが)は、中国および日本に伝わる妖怪。1種のみの妖怪ではなく、足長人(あしながじん)と手長人(てながじん)の2種の総称である。
 足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の1人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという。
 これらの存在は、中国の古代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に記されている長股(ちょうこ)長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている。
 王圻が編纂した中国の類書『三才図会』(1609年)および、その記述をもとに日本で江戸時代に編纂された『和漢三才図会』では、足長は長脚(ちょうきゃく)、手長は長臂(ちょうひ)とされ、それぞれ脚の長さが3丈、腕の長さが2丈とある。また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており、日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている。
 『塵添壒嚢鈔』(1532年)には、中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというのでそれにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある。また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している。
 ・・・江戸時代に書かれた松浦静山による随筆『甲子夜話』(巻之二十六)には、平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺(約2.7メートル)もの脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている。
 『甲子夜話』の原文では前半に『和漢三才図会』の文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない。

                             (以上「同」参照)
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その1。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-11 23:24:08 | 甲州街道
 いよいよ甲州街道歩きも最終回。今回は、茅野駅から。
 12月9日(土)。晴れ。11時前に茅野駅に到着。歩き始めます。前日の雪がうっすらと残っている中。今シーズン初めての雪景色です。

(11:02)足元に気をつけながら。

この信号を左折し、茅野駅前からの道に合流し、右折します。
 

 「上原交差点」。直下にある「ビーナスライン」トンネルの通気口。


          
中央道の諏訪インターを降りた車が蓼科・白樺湖方面に向かう「ビーナスライン」がこの下をトンネルで抜けています。

 この先、沿道には「小路」「通り」名が表示されています。
   

「金剛寺跡」碑。

「小路」「通り」案内図。

次第に左手が開けてきます。
                                山の向こうは伊那地方?

「塔中小路」。

これから本格的な冬支度。



一、車馬を乗入ル事
一、魚鳥ヲ捕フル事
一、竹木ヲ伐ル事
 右條々於境内
 令禁止者也
  大正四年十月七日
    長野縣

(11:31)しばらく進み、右折します。

「甲州街道 渋沢小路」の標識が曲がり角の左にあります。

坂道を進み、中央線のガードをくぐります。

「大門街道」との追分。右手に道標、常夜燈など。


 奥の古い道標には「右江戸道」とあります。常夜燈は修復されたようす。

「甲州街道」。

振り返って望む。右手が来た道。 

(11:38)左側が開けてきます。  

豪壮な建物。 

見事な松。                                                  
 右手に現れたのが「火燈(ひとぼし)公園」。


                        
火燈公園
 神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。
 この鳥居火は、「太古からの仕来り」で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化15年(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は天正6年(1578)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
 鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、貫の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
 現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
 この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が「太古からの仕来り」を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。
 

その先左手に「神戸地区公民館」のりっぱな建物。

 「神戸」といえば、兵庫県の神戸市が有名ですが、甲州街道など街道歩きではよく「神戸」という地名に出会いました。読みは「こうべ」ではなく、「ごうど」とか多い。神社にまつわる地名のようですが。 

(11:46)「神戸一里塚跡」碑。
 
甲州道中五十一里塚
 ・・・ここ神戸には日本橋からの五十一t里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
 塚上のエノキは大人の五倍(八~九m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良で働く里人にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。
 諏訪市教育委員会    
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