おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

甲州街道をゆく。総集編。

2017-12-22 19:46:44 | 甲州街道

 ほぼ東京(新宿)からJR中央線・普通電車での往復。一部、路線バスやタクシーを利用しました。全体を通して、「笹子峠」など一部の区間を除き、中央線の最寄り駅が街道からそう離れた位置にはなく、有効に活用できます。


        交通機関                         宿  場  
              
第1日目 JR新宿駅………京王線府中駅           内藤新宿・高井戸・布田五ケ宿・府中
 3月4日(土)曇り

第2日目 府中駅………JR八王子駅             日野・八王子
 3月11日(土)晴れ

第3日目 八王子駅………相模湖駅              駒木野・小仏・小原
 4月15日(土)晴れ、一時にわか雨
 
第4日目 相模湖駅………上野原駅              与瀬・吉野・関野・上野原
 5月3日(祝)晴れ時々曇り

第5日目 上野原駅(バス)………猿橋駅           鶴川・野田尻・犬目・鳥沢・猿橋
 5月27日(土)晴れ

第6日目 猿橋駅………笹子峠登り口~(バス)~笹子駅    駒橋・大月・花咲・初狩・白野・阿弥陀海道・黒野田
 6月11日(土)晴れ

第7日目 笹子駅~(バス)~笹子峠登り口………甲斐大和駅  駒飼
 7月8日(土)快晴

第8日目 甲斐大和駅………下栗原~(タクシー)~山梨市駅  鶴瀬・勝沼・栗原
 7月22日(土)快晴

第9日目 山梨市駅~(タクシー)~下栗原………甲府駅    石和・甲府
 8月27日(日)晴れ

第10日目 甲府駅………韮崎駅                韮崎
 9月24日(日)晴れ

第11日目 韮崎駅………台ケ原~(バス)~韮崎駅       台ケ原
 9月30日(土)晴れ

第12日目 長坂駅~(タクシー)~台ケ原………富士見駅    教来石・蔦木
 11月11日(土)快晴

第13日目 富士見駅………茅野駅               金沢
 11月15日(水)晴れ

第14日目 茅野駅………下諏訪駅               上諏訪・下諏訪
 12月9日(土)晴れ

 注:第7、8日目はもっと先まで歩く予定でしたが、真夏の日差しの下、途中でギブアップ。他の日はそれぞれ少し余裕のある行程でした。

 八王子を過ぎてから次第に山あいをたどるようになり、けっこうアップダウンが続く道のりとなります。峠は高尾から相模湖に抜ける「小仏峠」と「笹子峠」の二ケ所。特に「笹子峠」はちょっと道に迷いそうな個所もあったり、「熊の出没注意」の看板などもあったりして、一人歩きでは心細い。幸い、ご夫婦の方と同行できて助かりました。その方も甲州街道歩きをしているようです。

 甲府盆地に入ると、視界が開けて心地よい歩きになりますが、真夏は避けた方がいいようです。沿道に日差しを遮る並木はなく、お盆休み以外、ぶどうなど果樹園も観光客もほとんどなく閉まっています。ワイン工場はありますが、試飲しすぎると、炎天下の歩きは危険!

 当初は、現甲州街道である「国道20号線」をひたすら歩くのかと思っていましたが、所々に旧道が残っていて、静かでのどかな山里を歩くことができます。また、現地の教育委員会や地元の方々による宿場・街並みの保存や一里塚、史跡・名所の案内板、解説板などが随所に設置され、楽しみかつ安心して歩けます。

 一方で、鉄道の敷設、「中央道」の建設などで、旧道が失われているところもあります。特に、山間部では中央線、「中央道」の橋脚をくぐったりしながら、つかず離れずで歩く個所も多くあります。

 しかし思った以上に景観がすぐれているのに感動しました。

 特に甲府盆地から先は、盆地を囲む山々、南アルプス・鳳凰三山、甲斐駒や八ヶ岳などが近づき、その景色を堪能しながらの歩き。かつて登ったことのある山々が眼前に広がります。

 田植え時の新緑。秋、全山が染まる見事な紅葉。初冬、新雪に覆われた山々の姿など。最高にいい気分で歩けました。

 往復の車中からの眺めも最高! 

 最後に諏訪湖が目に飛び込んでくると、歩き通した感動も格別です。

 華やかな観光スポットはそうありませんが、地味ながら実に味わい深い旅でした。

 今回の歩きは、「パパが歩く甲州道中(甲州街道)」を参考にさせていただきました。少し前の記録ですが、大変ありがたい「道しるべ」でした。深く感謝いたします。

≪第1日目≫
・「新宿3丁目」交差点。「甲州街道」と「青梅街道」との追分。 

      ・「近藤勇」座像。


≪第2日目≫
・「日野本陣」。

         ・「大和田橋」。「浅川」の下流を望む。

≪第3日目≫
・「甲州街道」方向を見下ろす。

・「小仏峠」。

≪第4日目≫
     ・相模湖方向を望む。

・「境沢橋」。「相模」と「甲斐」との国境。

≪第5日目≫
・野田尻、荻野付近。

・かつての難所「座頭転がし」付近。
   

≪第6日目≫
・「源氏橋」右手下の「田植え」風景。

・「白野宿」。

≪第7日目≫
・矢立の杉。

                 ・「笹子峠」。

≪第8日目≫
・「ぶどう園」。

      ・「勝沼本陣槍掛けの松」。


≪第9日目≫
・足下のマンホールには桃の絵柄。

     ・「笛吹川」上流を望む。

≪第10日目≫

・赤坂からの富士山。↓ 

             ・韮崎「井筒屋」。

≪第11日目≫

・七里岩、田園風景。

              ・「鳳凰三山」。

≪第12日目≫
・「蔦木宿」本陣跡。

   ・富士見駅・跨線橋からの八ヶ岳。 

≪第13日目≫
・入笠山方向。

       ・「金沢宿・馬継ぎ石」。

≪第14日目≫
・「諏訪湖」。

   ・「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之地」碑。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その5。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-18 22:00:11 | 甲州街道
 曲がりくねった上り坂を進みます。旧道はかつての諏訪湖の湖岸付近を通っていたような印象の道。現在は左手(諏訪湖側)には民家などが立ち並んでいますが。
 

沿道には長崎家、橋本家などの重厚な建物。

(13:35)旧家の橋本家。昔、茶屋があったとされています。すばらしい装飾の軒先の灯籠が目を引きます。


 

その先、左手が広がってきます。湖水に落ちるような急坂。

立派なお屋敷が続きます。


                       

一直線で湖に下る道。

 
島木赤彦「柿蔭山房」入口案内板。

 島木赤彦は地元・諏訪出身の「アララギ」派の歌人。教育者としても活躍した。代表作に

 ・夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖のしづけさ(『切火』)
 ・みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ (『太虚集』)
 ・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』)

 など。

 諏訪湖が大きく広がって見えてきます。


                     
   
「明治天皇駐輦趾」碑と「名所石投場」。碑。

 そこからの諏訪湖。かつては湖水はこの直下まで迫っていたようです。
             

         

緩やかな坂道。振り返る。

途中、右手に上がる道筋が「鎌倉街道」。

 

(13:56)右手には「一里塚跡」碑。


・・・この塚は江戸より53番目、甲州道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中仙道につながる。

承知川橋。

 (14:03)その先、右手の石垣には「承知川橋の記」と埋め込まれた「承知川橋」の石橋。

承知川橋の記
 この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
 輝石安山岩 重量約拾参屯 
 伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず 信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
 爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
 この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
 表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。 この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。
   昭和五十二年                         久保海道町

(14:07)そこからしばらくで「諏訪大社下社秋宮」に着きます。いよいよゴール間近。


この先を少し行けば「中山道」との合流地点(終点)。

塩羊羹で有名な「新鶴本店」。

あとわずかでゴール。右手奥に「聴泉閣かめや」。

(14:09)「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之」地」碑。

 正面奥の壁には合流地・下諏訪宿の賑わいを描いた、大きな陶板レリーフがあります。


「下諏訪宿問屋場跡」板。

 「御宿まるや」(右)、「桔梗屋旅館」(左)。その間の通りが「中山道」。


「中山道」を少し戻ったところに「本陣 岩波家」。



                   
史跡 本陣遺構
 江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここにいる。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年()11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。

その前の通りには「中山道」の標識。

「甲州街道」を振り返る。

 こうして14日間かかってやっと到着した「甲州街道」に別れを告げ、「中山道」を歩いて「下諏訪駅」に向かいます。

「下諏訪宿」案内板。 

復元された「高札場」。

                     

(14:28)「下諏訪駅」。

                    
 標高767.5メートル
 下諏訪駅は製糸業関係者が早くから鉄道建設を願っており、町の中心近くに設置され、製糸業は急速に発展した。
 戦時中から精密工業の工場がその後の工業都市のきっかけとなった。
 諏訪大社と諏訪湖の観光駅でもある。

 これで、五街道では「中山道」が「岩村田宿」で止まったまま、今回の下諏訪宿へは「和田峠」を越えなければならない。来年になったら、チャレンジすることに。その前にちょっと手近な街道歩きでもしておきますか。あるいは、ここまで来た勢い(甲府からの普通電車は「松本」行きだった)で松本まで行ってみるか。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その4。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-14 20:01:17 | 甲州街道
                                   メイン通り。



                     
 昭和初期に流行した「看板建築」といわれる建物。木造2階建てで、屋号を冠し、古代ギリシャ風の柱頭飾りなど重厚な外観などが特徴です。

 「水戸街道」歩きの際、「府中(石岡)」宿で、現在まで残るいくつかの商家を見ました。
「森戸文四郎商店」(石岡)。
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。

 ここでお目にかかるとは思いませんでした。

こんなところにも工夫が。

(12:49)「諏訪一丁目」交差点を右折。

 その角にあるのが、「すわっていいよ」(諏訪っていいよ)という表示と木製ベンチ。そこで、小休止。


右手からの道を合わせ、左折。

 曲がってすぐ右手にあるのが「喫茶店 石の花」。古い門に古い民家。明治初期に建てられた建物を改造。


                     

緩やかな上り坂が続く旧道。
                           
(12:58)「吉田のマツ」。樹齢約300年。
 クロマツ。樹齢は300年余り。
 高島藩士吉田式部彦衛門が元禄3年(1690)から享保8年(1723)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。代々吉田家の庭に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、市内の最年長樹である。・・・

                              

その先、左手に52里目の「一里塚跡」碑。

                               
・・・ここに一里塚ができたのは慶長15年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から52里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。

 残り、あと一つ。

右手は高台。住宅が広がっているようす。

このあたりからぼつぼつ温泉民宿が出てきます。

民家には、温泉のタンクが設置されています。

Y字路になります。右の坂を上れば、「温泉寺」。


丘の中腹を巻くように上っていきます。



このあたりのおうちには温泉タンクがけっこう目立つ。
  

(13:15)右手に杉の森。「先宮神社」。

「散策の小道」案内図。
                    
左手下り坂の向こうに「諏訪湖」が見え隠れ。


                    

「雀おどり」。

立派な「雀おどり」のあるおうち。

 左手にかなり古い大木のケヤキ、木の元には「甲州街道」の標識。裏に回ると、すっかり空洞になっています。
 

 その先、家並みの向こうに諏訪湖が大きく広がって見えてきます。


(13:25)上部の欠けた「常夜燈」。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その3。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-13 20:54:48 | 甲州街道
                    新しい建物にも「雀おどり」が取り付けてあります。

 古仏群。

(12:13)しばらく進むと、旧国道に合流します。

                来た道を振り返って望む。

右手には「細武温泉共同浴場」。

 車の通行量も少なく、旧道らしい道筋の旧国道はしばらく進むと、国道20号線に合流します。
(12:22)国道20号線と合流。

旧国道を振り返る。

国道の左、崖下には旧道らしき道。

崖下の道。

 「清水1.2丁目交差点を過ぎると宿場らしい商店が続きます。
「丸二河西本店」。

藁製品を扱うお店。

                        

「染一染物店」。

 
                            和装小物「かねさ」。
「信州高原はちみつ 山田養蜂場」。

この先、元町交差点から酒造会社が五つ並ぶ通りになります。「諏訪五蔵」。
諏訪五蔵とは
「舞姫」「麗人」「本金」「横笛」「真澄」。諏訪市の甲州街道沿いには、わずか500mの間に5軒の酒蔵が立ち並びます。同じ霧ヶ峰の伏流水を仕込み水に使いながら、それぞれに特徴のある個性豊かな酒を醸し続けてきました。ライバル同士ではありますが、ご近所仲良く「酒の街・諏訪」を盛り上げていけたら。「諏訪五蔵」はそんな心意気で立ち上げた酒蔵グループです。(「諏訪五蔵」HPより)



       「真澄」。

真澄 蔵元宮坂醸造HPより

 真澄は寛文2(1662)年創業。清冽な水と冷涼な気候に恵まれた霧ヶ峰の山ふところ信州諏訪で、諏訪大社のご宝物「真澄の鏡」を酒名に冠した酒を醸してきました。優良な清酒酵母として現在でも全国の酒蔵で使われている「七号酵母」の発祥蔵であることは、私たちの誇りです。
・・・
 製造工程はいたってシンプル。
 熟練した製造スタッフによる「高度な手作業」を重んじています。
 「去年よりちょっと美味いと今年も思う」
 お客様からそんなお言葉をいただける酒蔵でありたいと、毎年品質向上の努力を続けています。
・・・
 真澄の創業は1662(寛文2)年。2012年には創業350周年を迎えました。
 今までの350年に賜ったご支援に改めて感謝申し上げますと共に、次の350年に向け新たな一歩を踏み出した真澄に、一層のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

蔵造りのお店。お茶の問屋さんのようです。

続いて「横笛」。伊東酒造さん。

 主要製品の清酒「横笛」は、『平家物語』の登場人物である建礼門院の雑仕女横笛の悲恋物語を耳にした信仰心深かった初代当主が「横笛」の名を後世に残すと同時に末長く菩薩を弔うことも含め、『大銘酒 横笛』と命名し醸造することとなりました。

「鍵の手」交差点。

                 

鍵の手=鈎型に道が屈折しているところ。宿場の入口にあたります。「かねんて」とも。

まだ青々とした杉玉のある「本金」酒造。


                         


 本金の文字には「本当の一番(金)の酒を醸す」という想いが込められています。また、左右対称の2文字から、「裏表のない商売」という意味も。「一番」の酒とは何か、日々の中で「本金の金」を追求しながら酒造りをしています。

 宝暦6年、創業者である宮坂伊三郎が酒株を譲り受け酒造業をはじめたのがはじまりです。屋号は志茂布屋(しもぬのや)。当時、上諏訪町(今の諏訪2丁目のあたり)には13軒の造り酒屋があり、その内の1軒でした。
 ご先祖は諏訪の町の文化、商売の発展にも尽力をしていたようで諏訪湖に川えび、しじみを放流したり諏訪旧蹟誌という書物をまとめたり、神社の神主をやるなど酒造業以外の活動も多かったようです。
 明治、大正、昭和と激動の中、屋号も志茂布屋から現在の酒布屋に改めます。そして、戦争の混乱の中で酒造蔵は国の政策で縮小され、廃業を迫られる蔵もでてきます。しかし本金は保有工場となり廃業の難を免れます。
 ちょうどその頃、現在の本金の酒造りの流れが形成されます。
 その当時はまだ地域に酒造りの技術者がおらず、本金では広島から杜氏を招いてお願いをしていました。その後その中で学んだ富士見乙事出身の三井氏が諏訪杜氏として本金を醸し、次いでやはり乙事出身の北原太一氏へとバトンが受け継がれていきました。北原氏は高校卒業後から本金へ蔵人で来るようになり、それから本金一筋。50年以上本金を醸し続けてくれました。そして杜氏として本金に初の全国新酒鑑評会金賞受賞の栄誉もあたえてくれました。この受賞は山田錦が多く賞を占める中、長野県産美山錦での受賞と意味のあるものでした。そんな北原太一杜氏の名前を頂いた「からくち太一」は本金の代名詞、看板商品として本金の主力となっています。
 平成の世に入り、現在本金の製造量は100石強の極小量、杜氏は平成20年より蔵元である宮坂恒太朗へと引き継ぎ、「本金」のブランドに込められた「本当の一番(金)の酒を醸す」ことを目指し努力を続けています。
(HPより)

「鍵の手」交差点を振り返る。

次は「麗人」。

                        

「水」の蔵
 フォッサマグナの上に所在し、諏訪湖、上諏訪温泉等、風光明媚な土地柄で知られる諏訪盆地に麗人酒造株式会社はあります。創業は寛政元年、建物内部には京都の松尾大社の銘が入っている当時の大黒柱が建ち、200年余り続く酒造りの歴史の長さを物語っています。
 もちろん、歴史が深いだけに止まらず、その技術も折り紙付きで、水には霧ケ峰高原の伏流水を自社井戸から汲み上げ、仕込みはもちろんの事、瓶の洗浄に至るまで使い続けています。また、諏訪杜氏の流れをくむ蔵人が和を持って、揺ぎの無い技術で酒造りを行うとともに、製造の最高責任者である杜氏は、年間を通じて製造のみならず、貯蔵、出荷に至るまで、一貫した管理を行っています。
 この20数年におよぶ安定した生産管理体制の結果、平成6年には第59回関東信越国税局酒類鑑評会で、最優秀賞(首席)を獲得します。関東信越290蔵の中から第1位に選ばれるという快挙は、蔵人の自信を生んだのでしょうか、現在でも酒造りにかんする強い意欲を感じさせる蔵です。
こだわり
 最近の日本酒は大きなタンクを使い大量に製造する、言わば機械の力、人の力で生産したお酒が多くなっています。麗人酒造では諏訪の美味しい水と、清酒醸造に適した気候や風土を最大限に活かして、自然の力(麹菌、酵母等)が一番いい条件で働いてくれるようにすることが本当に美味しい酒を醸す唯一の方法と考え、日夜酒造りに励んでいます。
おすすめの一本 純米吟醸 麗人
 長野県産酒造好適米を全量使用した純米吟醸。仕込水には自社井戸に湧き出る霧ヶ峰高原の伏流水を使用。フルーティーな香りと爽やかな味わいのお酒です。モンドセレクション金賞受賞。

最後に立派な蔵造りの店「舞姫」。

                         

 長野県諏訪市にある酒蔵です。
 酒造りは、伝統手法にもとづき、蔵人が愛情を込めて醸しております。水は美しい大自然が息づく霧ヶ峰高原を源とする清冽なる伏流水。特定名称酒は酒造好適米を使用し、甘・酸・渋・辛・苦の五味が程良く調和した、旨口の日本酒造りに日夜励んでおります。
信州舞姫 純米吟醸酒 扇ラベル


 私どもの蔵は、霧ヶ峰から流れ出る清涼な伏流水を汲み上げ、山田錦や美山錦などの酒造好適米や霧ヶ峰の伏流水を使用して醸造し た清酒を全国のご愛飲頂いております皆様にお届けして参ります。時代は刻々と変わり、清酒業界を取り巻く環境も大きく変化し、お客様の嗜好も変化を続けて おります。私どもは、“薫り高きふくらみのある味わい”を守りながらも、決して安住することなく、時代の求める美味しいお酒造りに果敢に取り組み、新たな 美味しいお酒を皆様にご提案して行く所存です。今後は特定名称酒に力を入れ、全国のファンの皆様のご期待にお応えするべく誠心誠意で酒造りして参ります。
・・・
米へのこだわり
 信州・長野県で酒造りに広く使われる酒造好適米のひとつが“美山錦”です。この酒造好適米は、昭和53年長野県農事試験場にて「北陸12号」を母、「東北25号」を父として誕生した比較的新しい酒造好適米で、醸した酒は、スッキリと軽快な味わいとなります。私たちは、信州にある蔵として、この美山錦を使った酒造りを行って参ります。美山錦に加え、兵庫県の“山田錦”、山田錦の親米である“雄町”、そして日本アルプスに囲まれた信州の大地で育った地元のお米を使い、私どもは、酒造りに取り組みます。
(HPより)

 何だかお酒の紹介におわってしまいました。
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その2。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-12 20:43:00 | 甲州街道
                         屋根に「雀おどし(おどり)」のあるおうちが目につきます。

このおうちは金の鯱(しゃちほこ)。

りっぱな建物が目立ちます。

「雀おどり」。

「常夜燈」。ただし、上部には電球がセットされています。

みごとな「雀おどり」。

簡素だがこれも「雀おどり」の一種。

来た道を振り返って望む。
                                     緩やかなカーブとアップダウンが続く旧道。

 道の真ん中にある「常夜燈」。ちょうど交差点になっている場所に立っています。ゴミ集積所の裏手という感じ。諏訪方面から来るとしっかり目に入る。
 

振り返って望む。

左前方。諏訪湖方面が開けてきます。

信号機のあるところを直進。

その先にあるのが、「足長神社」。祭神は、脚摩乳命 (あしなづちのみこと)、別名を「足長彦神」という。同じ諏訪市内には手摩乳命を祀る手長神社もあるようです。

 「手長足長(てながあしなが)」は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人。
 その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手のながいほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される。
 秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる。それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県 鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという。また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという。
 福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている。
 福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという。
 上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる。
 室町時代に編纂された『大日本国一宮記』によると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であったとされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の2社が存在していた。
 長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており、手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する。この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある。
 これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している。

 物語文学のひとつである絵巻物『宇治橋姫物語絵巻』には、主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている。
 岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる。これは嘉永年間の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、『山海経』や『異国物語』あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる。

                            (以上、「Wikipedia」参照)
 「妖怪」」として登場する「足長手長」もあるようです。

 足長手長(あしながてなが)は、中国および日本に伝わる妖怪。1種のみの妖怪ではなく、足長人(あしながじん)と手長人(てながじん)の2種の総称である。
 足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の1人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという。
 これらの存在は、中国の古代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に記されている長股(ちょうこ)長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている。
 王圻が編纂した中国の類書『三才図会』(1609年)および、その記述をもとに日本で江戸時代に編纂された『和漢三才図会』では、足長は長脚(ちょうきゃく)、手長は長臂(ちょうひ)とされ、それぞれ脚の長さが3丈、腕の長さが2丈とある。また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており、日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている。
 『塵添壒嚢鈔』(1532年)には、中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというのでそれにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある。また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している。
 ・・・江戸時代に書かれた松浦静山による随筆『甲子夜話』(巻之二十六)には、平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺(約2.7メートル)もの脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている。
 『甲子夜話』の原文では前半に『和漢三才図会』の文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない。

                             (以上「同」参照)
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茅野~上諏訪宿~下諏訪宿(中山道との合流地点)。その1。(甲州街道をゆく。第14日目。)

2017-12-11 23:24:08 | 甲州街道
 いよいよ甲州街道歩きも最終回。今回は、茅野駅から。
 12月9日(土)。晴れ。11時前に茅野駅に到着。歩き始めます。前日の雪がうっすらと残っている中。今シーズン初めての雪景色です。

(11:02)足元に気をつけながら。

この信号を左折し、茅野駅前からの道に合流し、右折します。
 

 「上原交差点」。直下にある「ビーナスライン」トンネルの通気口。


          
中央道の諏訪インターを降りた車が蓼科・白樺湖方面に向かう「ビーナスライン」がこの下をトンネルで抜けています。

 この先、沿道には「小路」「通り」名が表示されています。
   

「金剛寺跡」碑。

「小路」「通り」案内図。

次第に左手が開けてきます。
                                山の向こうは伊那地方?

「塔中小路」。

これから本格的な冬支度。



一、車馬を乗入ル事
一、魚鳥ヲ捕フル事
一、竹木ヲ伐ル事
 右條々於境内
 令禁止者也
  大正四年十月七日
    長野縣

(11:31)しばらく進み、右折します。

「甲州街道 渋沢小路」の標識が曲がり角の左にあります。

坂道を進み、中央線のガードをくぐります。

「大門街道」との追分。右手に道標、常夜燈など。


 奥の古い道標には「右江戸道」とあります。常夜燈は修復されたようす。

「甲州街道」。

振り返って望む。右手が来た道。 

(11:38)左側が開けてきます。  

豪壮な建物。 

見事な松。                                                  
 右手に現れたのが「火燈(ひとぼし)公園」。


                        
火燈公園
 神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。
 この鳥居火は、「太古からの仕来り」で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化15年(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は天正6年(1578)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
 鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、貫の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
 現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
 この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が「太古からの仕来り」を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。
 

その先左手に「神戸地区公民館」のりっぱな建物。

 「神戸」といえば、兵庫県の神戸市が有名ですが、甲州街道など街道歩きではよく「神戸」という地名に出会いました。読みは「こうべ」ではなく、「ごうど」とか多い。神社にまつわる地名のようですが。 

(11:46)「神戸一里塚跡」碑。
 
甲州道中五十一里塚
 ・・・ここ神戸には日本橋からの五十一t里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
 塚上のエノキは大人の五倍(八~九m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良で働く里人にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。
 諏訪市教育委員会    
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その4。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-30 19:07:24 | 甲州街道

 (13:29)「木舟」の集落に入ります。



バス停「木舟」。

「東京から189㎞」ポスト。

 大きなお屋敷が並んでいます。


                       

 集落のはずれ右手に「カーショップ」があり、その手前のカーブした急坂を上っていきます。「甲州街道」の表示有り。
  

(13:40)その先でJR線の上を越していきます。

上り電車が通過。                
跨線橋を渡ったら、左折し線路に沿って進みます。遠くには「東洋バルブ茅野工場」へ向かう高架橋。




「宮川」沿いののどかな道筋。

マンホールの図柄は「諏訪湖流域 御柱祭」。

(13:55)「早川橋」を越えると、ダンプなどが行き交う道に合流し、「宮川」沿いに左折します。
 

 「宮川」の向こうを走っていた中央線が鉄橋を渡って街道側に。


 (14:05)やがて国道20号線の宮川板室交差点。その右手には古仏群と常夜燈が建っています。


「弓振川」を渡り、「板室」の交差点に出ます。
 

国道沿いに進むと、向こうには「中央道」の高架橋が。


                        

(14:25)しばらくすると、「宮川」交差点。ここで国道と離れて、少し右手の道を進みます。


すぐ左手に鈿女(うずめ)神社と三輪社。
 「鈿女神社」の「うずめ」は、日本神話に登場する神「アメノウズメ(アマノウズメ)」にまつわる。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神。
 岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
 「古事記」では、アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った、と。
 「神々を笑わせた」ということから、をこ(滑稽)な所作をするワザヲキ(俳優、隠された意味を指すワザを招く/ヲク者)即ち芸人、コメディアン、俳優の祖とされ、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。芸能・技芸全般の神として信仰されている。
 鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められている。村境や道路の分岐点などに立てられる道祖神は、サルタヒコとアメノウズメであるともされる。
(以上、「Wikipedia」参照)

(14:32)向かい側には「丸井伊藤商店」という「マルイ味噌」の味噌蔵。ここは工場と店舗を兼ね、中に入ると独特の香りに包まれます。
 

                          

 沿道には現代建築になまこ壁を取り入れた建物なども。
 

(14:40)「上川橋」。これを渡れば茅野駅はすぐそこ。

 橋の上から東(上流)を望むと、中央本線の鉄橋が見えます。この鉄橋の右、少しだけ見える土の斜面が、御柱祭上社の木落しです(↓)。
 

 ここからじきに茅野駅(14:50着)。今回はここまで。次回でやっと完結することになりそうです。

 途中で見かけたお店。「こてえ 天香館」。

こて絵(こてえ、鏝絵)
 日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことである。左官職人がこて(左官ごて)で仕上げていくことから名がついた。題材は福を招く物語、花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現される。これは財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いられた。
 漆喰装飾の一技法で、。古くは高松塚古墳、法隆寺の金堂の壁画にあり歴史は古い。また天平年間の立体塑にも見られる。具体的には小さなこてを焼いて、それによって紙または板を焦がして描く。焼き絵、鉄筆ともいう。 木で心柱を作り、その外側に荒土や白土にすさ糊を混ぜた材料で作るのがこて絵の源流。 漆喰は、貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作る。
 江戸時代中期から徐々に盛んになり、静岡県松崎町出身の名工、入江長八がこて絵として芸術の域にまで昇華させたが、戦後、在来工法の衰退と共に腕利きの左官職人が減少。一時は幻の技巧となったが、近年、建築の分野で再評価が進んでいる。長八の故郷の松崎町では1984年に長八美術館が開館し、松崎町では毎年「全国漆喰鏝絵コンクール」が開催されている。
顔料として土や岩、焼いた貝殻を粉末にし、黒はまつやロウなどのスス、また墨を砕いたものであったりといろいろ工夫がみられた。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 そういえば、何軒かこの装飾を掲げたおうちを見かけました。

 「鏝絵天香館」は、茅野市ちの駅前の小川天香(本名善弥(ぜんや))の鏝絵作品を展示したギャラリーです。
 鏝絵とは、日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことで、左官が壁を塗る鏝で、絵を描いた装飾品です。古くは法隆寺の金堂の壁画にも代表される漆喰技法の一技法であり、西洋のフレスコ画も同様の技法です。題材は福を招く物語や花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現されています。
天香は、左官を業としましたが、早くから鏝絵の名人伊豆の長八に憧れ、その高い技術を磨くため18歳で上京、長八亡き後の高弟今泉善吉に師事し、東京、千葉、京都、新潟で数々の重要な建造物を手掛けました。45歳以降は左官業を廃業し、地元茅野に戻り、長八の残した鏝絵技術を継承し、それ以上の作品を作成するために生涯一生稽古を心情に、100点ほどの作品を残しました。鏝絵天香館は、平成25年4月に地元の機運が高まり展示公開の運びとなり開設され、60点余りの作品を展示しています。
HPより)
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その3。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-29 19:59:22 | 甲州街道
 「金沢宿」に向かいます。 セイコーエプソン関連の体育施設が左手に続きます。

 広くなった旧道が狭くなっていきます。

右手に見える山は全山、見事な紅葉。

次第に下り坂になると「金沢宿」の一角に入って行きます。

道ばたの民家沿いにある古仏。

(12:42)国道20号線に合流します。その手前には「金沢宿案内図」。


                        

「東京から187㎞」ポスト。

(12:51)その先の交差点には「金沢宿本陣跡」解説板。

金沢宿本陣跡
 五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き約4里(約15km)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。甲州街道の宿場には25人の人足と25匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
 本陣は大名や公家が泊ったり休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には2軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安4年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
 本陣の敷地は約4反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた4代三郎左衛門は、延宝6年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され 家は闕所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の3藩であったが、 江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。

 平成11年5月吉日 金沢財産区金沢区金沢歴史同好会

 小松三郎左衛門が本陣を勤めた頃、諏訪藩の命令により金沢宿の所有地および、大沢山の入会権を隣の茅野に奪われてしまいました。そこで、三郎佐衛門は諏訪藩に直訴、しかし捕えられ、妻子まで処刑されてしまったのです。この地では「みょうり様」と呼ばれ親しまれている。
 その後、明治17年裁判で金沢宿の権利が認められました。

 金沢宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠17軒でした。

その隣には「長野県」と記された石碑。

宿内のようす。国道に面しています。

 
左側に旅籠屋「松阪屋武右衛門」で二階に連子格子を残す家。入口に昔のくぐり戸も残している。また「旅館 HOTEL 松阪屋」と英語が使われている古い看板も掛かっている。明治時代に掛けられた看板と思われますが、なかなかユニーク。隣の理髪店の回転式サインポールとが奇妙な趣。

古い家並みも残っています。

 (12:56)しばらく歩くと右手に、二階に連子格子を持つかなり大きな建物。昔、馬方宿を営んでいたという小林氏宅。家の前の大きな石の前に「馬継ぎ石」が一つだけ残っています。馬方はこの穴に馬を結びつけて、同家に宿泊などしたわけです。
 

「金沢下町」バス停。

 この先「金沢橋」へ向かいますが、旧道は右へ枡形となって、国道脇を通るようになっていましたが、失われているので、国道を通ります。

 (13:02)橋を渡ってすぐ右手に「権現の森」。
 
 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長15年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安3年(1650)の大火を機に南方の現在地に移転し、翌4年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
・・・ 
 信仰の場、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。

 平成17年7月 茅野市教育委員会

 ここで、小休止。


 (13:19)しばらく国道を進むと、左手の田んぼの中に「寒天の里」という大きな看板が目に入ります。

諏訪地方の寒天の歴史
 寒天は天草などの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品です。
・・・
 美濃屋太郎左衛門が営む旅館に、参勤交代の途中の薩摩藩主、島津候が宿泊した際、主人の太郎左衛門は、さまざまなご馳走でもてなしました。そのひとつに、テングサを煮て作ったところてん料理があったのです。
 主人は残ったところてんを外に放置しておいたところ、真冬の寒さでところてんは凍結し、日中自然に解凍されては乾燥し、やがて白い半透明の美しい乾物に変わっていったのです。主人はこれを見つけて、試しに煮てみると、ところてん独特の臭みがない透明のかたまりができました。
 この出来事が寒天誕生の始まりで、研究の結果、製造方法が確立されたと伝えられています。当時はまだ「ところてんの干物」という認識でしたが、これを試食した高僧隠元禅師が「寒天」と名付け、その後各地に広がりました。このように、寒天の歴史は古く、日本で生まれた伝統的な食材なのです。
・・・
 茅野市に伝えられたのは、170年以上前のことです。(1840年代)
 角寒天の形状を維持して、天然製造で日本一の生産量を維持しています。
茅野市は「寒天の里」です。そしてこの寒天が、高血糖や高コレステロール、高血圧や肥満の改善及び予防に有効だと、平成17年(2005)2月16日放送のNHKのためしてガッテン!で取り上げられました。


HPより)

 その先、左手奥にこんもりした森が見えます。そこにあるのが「木舟の一里塚」。
 
 この一里塚は日本橋から49里目(50里目とも)の塚で、その場所は中央線の敷設や耕地整理のため移動し、本来の場所ではないそうです。見に行くには、川を向こう側になります。
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その2。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-28 22:38:10 | 甲州街道
 (11:37)開けたところに出てきます。左手の林の中に小径。この道が残された甲州街道だという話も。
 

左手が広い田んぼ(現在、大規模に土地改良工事中のようです)、左手の高台が「カゴメ富士見工場」と続きます。のどかな山里の風景。


                     駐車場が上の方に。

入笠山方向。

           晩秋の装い。

(11:49)神戸(ごうど)地区に入ります。

「甲州街道サルビア通り」の名称。

季節はずれのため、枯れています。

咲いていると(「Wikipedia」より)、

火の見櫓のところを直進して急坂を下ります。

                       

坂道の途中に「庚申塔」などが建っています。

(11:58)「国道20号線」に合流します。回り込むように左手へ。

「富士見リゾートパノラマ入口」交差点。

 (12:01)その先の右手に大きな記念碑。「博愛 孫文」と刻まれた碑と「小川平吉先生生誕之」碑。
 
小川 平吉
 1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1942年(昭和17年)2月5日)は、日本の弁護士、政治家。号は射山。衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任。
 1892年(明治25年)弁護士となり、1901年(明治34年)近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。1903年(明治36年)衆議院総選挙に出馬当選、以来当選10回。日露主戦論の急先鋒となり、1905年(明治38年)日比谷焼打事件の主謀者として投獄され無罪。政友会に入り同会幹事長を経て1920年(大正9年)原敬内閣の国勢院総裁。1925年(大正14年)加藤高明内閣の司法大臣、1927年(昭和2年)田中義一内閣の鉄道大臣。1929年(昭和4年)私鉄疑獄、売勲事件に連座して逮捕され、1936年(昭和11年)懲役2年で入獄。政界を引退。1940年(昭和15年)恩赦。
 鉄道大臣当時、全国の駅名を右横書きにし、説明のローマ字を廃止した。平吉には“タコ入道”、“オガ平”、“ズル平”といったあだ名がつけられていた。
・・・
 小川は国粋主義者だった。日露戦争前の議会では主戦運動の先鋒となり、1905年(明治38年)9月、日露戦争講和の時には「戦いに勝ちながら屈辱的講和をなすとは何事だ」と日比谷焼打事件を引きおこし、日韓合併にも積極的に動き、第一次世界大戦後、左傾思想がさかんになると、治安維持法の制定にテコ入れをし自分でも日刊紙『日本』を創刊して左傾思想に対抗した。鉄道大臣在任中それまで左書きだった駅名標をすべて右書に改め、“国粋大臣”の異名をとった。
 小川は鉄道大臣を辞めた2ヶ月後、五つの私鉄買収にからむ収賄事件で起訴され、留置された。中村勝実著『信州の大臣たち』56頁によれば、「大臣在任中の二年間に、二百近い私鉄の営業許可を与え、そのうえ田中義一内閣が瓦解する直前にもその置き土産といって、十数本の私鉄敷設を許可した[12]。しかもそのほとんどが、国鉄や私鉄他社の並行線だったので、とかくの噂を呼んだ。」という。ことに、田中義一内閣瓦解直前の時期に集中して乱発された路線敷設免許の大盤振る舞いは、名阪間で最終的に直接競合することになる路線を構成する2社線に対して同時に認可を与えるなど交通政策上矛盾した、あまりに杜撰極まる内容であり、空前の愚策であるとして各方面の非難を浴びた。
 小川一族について、佐藤朝泰の著書『豪閥 地方豪族のネットワーク』442-457頁によれば、
「閨閥地図を広げれば、新旧の政治家、高級官僚、財界人の名がキラ星のごとく輝いている。地図上には歴代総理大臣が四人。地図をもう少し広くとれば、この倍以上にはすぐ増える。だが小川姓の総理がいるわけでない。輝く星の一つ一つがそれぞれ大きな星座を形成している。たとえていえば、有力家系を縦横に繋げる真綿や星雲のような一族なのである。政界人なら元首相宮澤喜一や鈴木善幸、古くは林銑十郎や吉田茂。閨閥地図をもう少し広くとれば、鳩山一郎、岸信介・佐藤栄作兄弟などにも繋がる。
小川一族がこのような存在になったのは、女系の強さにもよるから、字義どおりの大閨閥なのである。この大閨閥の源は信州の諏訪。戦前の代議士、司法大臣・鉄道大臣などを歴任した小川平吉だ。この人が大閨閥の真綿の大元、つまり繭玉である。」という。

(以上、「Wkipedia」参照。)

このおうちにも「雀おどし」の意匠。

「御射山神戸(みやまごうど)」交差点。


 大きな冠木門のあるおうち。


                          

「東京から184㎞」ポスト(12:08)。

「御射山八幡」交差点。

国道から左手の道を上っていきます。

 
 (12:15)旧道を坂道で登ってゆくと右側に馬頭観音の群れが現れます。新しい馬頭観音が目立ちます。青・チビ・花などの名が刻まれています。

(12:18)その先、左手に目指す「御射山神戸一里塚」。

富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚
 ・・・
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。

平成10年3月 富士見町教育委員会
 

 見事な一里塚。しばし見とれるほどの歴史的な風格があります。
 

「標高917m」という標識。



そこから来た道を振り返る。

一里塚を振り返って望む。
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その1。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-27 21:01:42 | 甲州街道
 
 11月15日(水)。晴れ。
 今回は、富士見駅から歩いてとちの木集落のはずれ、一里塚まで(11:00)。ここから出発。
 
重修一里塚碑」。
 江戸から47里目(48里目? )。後方に見える小山が現存の一里塚。その傍に「甲州街道コース」と記された道標が立っています。
 土地としては「塚平」と呼ばれる地区に位置しています。

少し集落に入戻ったところに、「甲州街道」の解説板があります。

進む方向を望む。

 しばらく進むと、旧道は立入り禁止の私有地にぶつかるので。左に折れてその先を右折、太陽光パネルがたくさん設置された敷地を横目で見ながら進んで行きます。


                                    

(11:13)回り込むと「原の茶屋」地区に。

「富士見駅」からの道と合流。

 ここまでのちょっとした道筋。何となく熊が出てきそうな雰囲気を感じました。帰ってから調べてみたら、このもっと山奥の林道に熊の目撃情報があったようです。 

古い家並みが続きます。

入笠山方向。

(11:18)集落の中ほどに「富士見公園」があります。
公園由来
 明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。
 この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、「財ほしき思いは起る草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損わぬように公園を作りたい。」と腹案をもらされた。
 村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年左千夫の指示を受け、富士見村や原之茶屋の協力によって富士見公園は出来上がった。
 早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い多く、左千夫歌碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り3基の句碑と共に歌碑公園として、文学愛好者の訪れが絶えない。

 アララギ派歌人のゆかりの公園で、伊藤左千夫・島木赤彦・斎藤茂吉・森山汀川等の歌碑があります。

 このほかにも、芭蕉句碑が公園入口付近にあります。元禄7年芭蕉が箱根を越えたときに読んだ句です.

眼にかゝる ときや殊更 五月不二 

しばらく公園内を散策。 

「松丘句碑」。
 草に入る 光れる水や 秋晴るゝ

「伊藤左千夫歌碑」。
さびしさの極みに堪へて天地に寄する命をつくづくと思ふ

※碑の書は島木赤彦のもの。

「斎藤茂吉歌碑」。
高原尓足乎留而目守良無加飛騨乃左加比乃雲比曽武山

「ゝ山(ちょんざん)句碑」。
富士さして蒲公英並ぶ野路哉

「森山汀川歌碑」。
郭公者国之最中尓鳴機乎里而?羅比久日能?萬寸

「島木赤彦歌碑」。
水海之冰者等計而尚寒志三日月乃影波爾映呂布
※碑の書は斎藤茂吉のもの。

「富士見公園解説板」。

 四阿のところで小休止。紅葉も見事で、しっとりと落ち着いたたたずまいのすてきな公園です。


 (11:31)旧道歩きの再開。沿道のおうちの屋根に独特の飾りが目につきます。


                

 「雀おどし(おどり)」と呼ばれる棟飾り。本棟造(ほんむねづくり)という長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾りが特徴だとか。これから先、目にすることになりそうです。

集落のようす。

「明治天皇駐輦之處」碑。

注:駐輦(ちゅうれん)
(「輦」は天子の乗り物) 天子が行幸の途中で車を止めること。

その先に「明治天皇御膳水」。

 民家の横に「常夜燈」。

句が刻まれたちょっとユニークな常夜燈。

 (11:36)集落のはずれには 道祖神や筆塚。
 
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その6。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-24 20:35:02 | 甲州街道
 これから「金沢宿」に向かいますが、途中の「とちの木」の集落で街道歩きは終えて、JR「富士見駅」から帰ることとします。

 瀬沢の集落に入ると急坂が続きます。「吉見屋」の先で道は二股に分かれますが、左の急坂を上って行きます。


(14:10)分岐点に道標らしき石碑。
                              中央に「富士・・・・」、「右・・道」、「左・・道」?

その先、左手の石垣のところにも「道標」。「右・・・」。

古仏群。

 この付近の「国道20号線」沿いに『瀬沢古戦場』の碑があります。
瀬沢の戦い
 天文11年(1542年)3月に信濃瀬沢で行なわれた甲斐守護・武田晴信(信玄)軍と信濃諏訪の領主・諏訪頼重軍並びに信濃守護・小笠原長時連合軍の戦い。
 天文11年(1542年)3月、諏訪頼重は晴信の政権基盤がまだ盤石でないのを見て、信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐への侵攻を図った。これに対して晴信は自ら出陣し、諏訪・小笠原連合軍を甲信国境で迎撃する。この合戦での被害はまだ盤石な体制を築けていない武田軍にむしろ被害が出たとされ、激戦が繰り広げられた。しかし晴信は瀬沢に本陣を布いて徹底的に抗戦し、遂に連合軍を退けたとされる。
ただし、確実な史料においてこの合戦に関するものは一切見られない。
 「瀬沢の戦い」は武田氏による諏訪氏の滅亡を正当化するために後年に創作された合戦ではないかとする考察もあり、合戦そのものの存在が疑問視されている。
(以上、「Wikipedia」参照。ただし、出典・論拠が不確かなようです。)



                    

けっこうな上り坂が続きます。

(14:19)右手の丘の上に「知的障害者厚生施設「しらかば園」が見えてきたら、急坂も終わりです。
 
                                                     振り返って望む。

ゆるやかな上り坂になります。

「とちの木」の集落に入ります。

                               

(14:30)「とちの木公民館」。
                              「とち」は漢字表記だと「」と書きます。

 ここで「芧の木」集落からJR「富士見駅」へ向かいます。約1600㍍ほど歩きます。



                               

「国道20号線」を越え、ゆるやかな上り坂を進みます。

(14:59)「富士見駅」。

 東京起点 182.9キロメートル
 標高 955.2メートル
 富士見駅は中央本線の中では標高が一番高く、分水嶺に位置する。
八ヶ岳山麓の裾野に広がる富士見町は鉄道が開通してから避暑地として知られ分譲別荘地などが増え、今は四季を通じてスポーツが盛んである。

富士見駅・跨線橋からの八ヶ岳。


 ここ「富士見町」には、かつて、結核の高地での長期療養を主目的としたサナトリウムとして「富士見高原療養所」が存在し、多くの著名人などが入院、療養に専念したところです。
 中でも、堀辰雄は1931年(昭和6年)夏に大喀血をし、療養生活に入ります。
 1935年(昭和10年)婚約者の矢野綾子の療養のため高原療養所にともに滞在しましたが、5ヶ月後に綾子は25才で死去。
 彼女との療養生活を元に「風立ちぬ」(1938年・昭和13年作)が生まれました。

 その後、この施設は現在、総合病院「JA長野厚生連富士見高原病院」として、1981年(昭和56年)に長野県厚生連の管理に移管、後に周辺地区の病院・診療所・老人福祉施設を運営する組織として「富士見高原医療福祉センター」が成立すると、富士見高原病院はその富士見事業部下の本院として位置付けられました。
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その5。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-22 21:48:26 | 甲州街道
                          「鳥沢宿」のような印象です。


 その先、右手に「御膳水(ごぜんすい)」があり、その奥に与謝野晶子の歌碑があります。
 
 この水は七里ヶ岩から出る湧水であり、明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。
 その御膳水と、あと2箇所の湧水を利用して、明治39年頃、蔦木宿の街道筋に、16箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和26・27年頃まで使用されていたものです。
 当時の施設の石が保存されていたのでここに復元いたしました。

・与謝野晶子歌碑
 白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな  

 歌碑の書は与謝野晶子の孫である与謝野馨の手によって書かれています。

 (13:05)その先、左側(西側)に「西桝形跡碑」が建っている。宿の北口に当たる「枡形道路」が残っています。


道路の中頃には、石仏群。

サイカチ。
 川除古木(かわよけこぼく)。
 釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤と呼ばれる堤防があります。川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株です。
 明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれています。

 そのまま進むと、まもなく国道に出ますが、その手前・左にある小道に入ります。この小道が旧道ということですが。
 

(13:12)国道20号線には「東京から175」㎞」ポスト。

 国道20号線をしばらく進むと、左手に「岩田屋建材」。砂利が大量に山積みされています。旧道はそこを左に入って土手沿いに進んでいたようです。 が、その道が再び国道に合流する付近には高圧電流が流れるネットが張ってあり、そこを抜けるには大変危険! そのまま国道を進んだ方が無難です。
 

(13:26)旧道と国道が合流する付近に「庚申塚」などが。

しばらく国道を歩きます。

右手には「ドライブイン赤石」。

(13:33)その先、道路下、左手に「平岡一里塚」。
                                   日本橋から41里目。

 (13:40)しばらく行くと、右手に「机」方面へ進む坂道があります。その坂を上って振り返ると、遠くに富士山(↓)が山の向こうに見えました。
        

けっこうな上り坂が続きます。

右手にあるおうち。

 上り坂を進み、「旧落合小学校・現落合保育園」(小学校は2012年3月31日をもって閉校)の先で、小川を越します。
集落を振り返る。

 (13:54)やがて、「国道20号線」を見下ろす地点へ。左眼下は水田、右手は崖になります。
 

国道に合流し、「瀬沢大橋」に向かいます。

来た道を振り返って望む。

(14:04)橋を渡ったら、国道から離れ、川に沿って左手の道に入り、旧道を上って行きます。


久々に見かけた「飛び出し坊や」。

旧家らしい家並み。瀬沢の集落。
                        珍しいベンガラ塗り。

軒下には「めどでこ」。

教えて!御柱祭(6) 
[Q]メドデコとはどんな物?

 諏訪大社御柱祭で「メドデコ」「メドデコ乗り」といった言葉を耳にします。どんな物なのでしょうか。
 メドデコは、御柱の前部と後部に穴をあけて差し込み、V字形に取り付ける木の柱を指します。漢字を当てると「目処梃子(めどでこ)」。それぞれのメドデコに氏子たちが鈴なりに乗って気勢を上げ、おんべを振りながら進む姿は上社側だけの勇壮な光景です。
 今回の御柱祭で諏訪市中洲・湖南地区の曳行(えいこう)の統括責任者「斧長(よきちょう)」を務める守屋幹彦さん(56)の解説では、上社側の曳行路がまだ舗装されていなかった時代、八ケ岳山麓の火山灰を含み、ぬかるんだ土から脱出するために、メドデコを左右に振り、勢いを付けて前に進んだのが始まりといいます。他の大総代らによると、明治期ごろに導入され、やがて氏子が乗るようになったようです。
 御柱はモミの木ですが、メドデコは丈夫なナラの木。かつては10メートルを超え、1本に10人以上乗せた地区もありました。しかし、狭い道で着脱するなど祭りの進行の妨げとなる面もあり、今回の御柱祭では6メートル以下に制限します。

(「信濃毎日新聞」2016年2月10日掲載)
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その4。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-20 18:54:27 | 甲州街道
                                     下蔦木の集落に入ります。
蔦木宿
 戦国時代、この地は甲州領域にありました。幾度の諏訪勢と甲州勢との戦いの末、1535年、堺川で両者は和睦の会盟を行いました。1540年、諏訪頼満の孫頼重は、武田信虎の息女祢々を娶り、化粧料として堺方18ヶ村を信虎から頼満へ譲られたと伝えられています。この時、この土地も武田家から諏訪家へと移りました。
 江戸時代の旅人は、「蔦木日暮れて道三里」と言って蔦木で日暮れてから三里は歩いたそうです。甲州街道は甲府まで開かれた後、中山道の下諏訪まで延びたようであり、その時ここへ宿場が作られました。道路は500mほどの一直線で、その両脇に梅と柿の木の並木があり、旅人の心を癒したそうです。
 開宿時から明治に至るまでの宿場の賑わいは相当なもので、商店が建ち並び南諏訪の繁栄の中心でもあり、住民の鼻息も荒かったようです。
・・・
(以上、HPより)

 蔦木宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒でした。江戸幕府の宿駅制度によって、慶長16年(1611)ころ、甲州道中第43番目の宿駅として設置されました。

「高座石」(敬冠院)脇にある石碑群。

 (12:32)その先、すぐ左手に「三つ辻柳由来」解説版。
 川路下りょか逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳
 蔦木日暮れて道三里 さてどうしよう道三里
 下蔦木小唄の一節です。ここに詠まれた三つ辻柳のモデルとなったしだれ柳の古木が甲州街道の此処堂坂の登り口にありました。
 それは情趣ゆたかな大木で敬冠院の百日紅、椿とともに住民からたいそう貴ばれ親しまれておりましたが樹勢次第に衰え強風の折ついに倒伏してしまいました。
 以来六十年余経た今日ありし日の堂坂三つ辻柳の景観を偲び後生に伝えるよすがにと此処に植樹をした。
 平成二十一年三月二十日 下蔦木集落組合
                      

のんびりと宿内を歩いていきます。

「731m」という碑。

 この先で道は二股になり、左へ向かいます。
 

 (12:40)周囲が開けた道に出てくると、正面奥には「上蔦木」。旧道は集落を抜け、向こうの山の鞍部に向かって進みます。


 道沿いの木々には何やら札が下がっています。「みんなできれいに甲州道中」「味わい深い蔦木宿」・・・・。地元の熱意が伝わります。
 

                  

すっかり熟した柿の実が陽に映える。

 「応安の古碑」。応安とは北朝の年号で、応安5年(1372)。諏訪郡で最古のもので、六角灯篭や常夜燈が建っています。
 (なお、この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。)


                  

しばらく進むと、国道20号線を眼下に望む道にぶつかります。

キウイ? 

台地の上を進みます。

(12:47)集落に入ると、「蔦木宿」という大きな看板。

「常夜燈」、「祠」などの石造群。

 宿内には屋号を掲示したおうちが並んでいます。「元気を出すぞ蔦木宿の会」のみなさんにより古くから伝わる屋号の看板が軒先に設置されました。
 

その先に「枡形道路」跡。


 蔦木宿は、甲州街道(道中)の宿駅として、慶長16年(1611)ころつくられた。
 この宿駅は、新しい土地に計画されたので、稀に見る完備した形態となっている。
 枡形道は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割をはたしてきた。
 平成3年度の道路改良工事のために、南の桝形路を移動したので、その形態を碑面に刻し、これをのこす。

 国道沿いに宿場は続きます。「上蔦木」交差点の角に「本陣大阪屋」跡があります。
「甲州街道蔦木宿 家並みと屋号」。

本陣跡
 蔦木宿の街は街道に面していて、屋敷割りをし、本陣・問屋などが位置づけられた。 本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。現在は、門のみ存在している。
 

「明治大帝御駐輦跡」、甲州道中蔦木宿本陣跡」碑。

「甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革」解説版。
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その3。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-17 22:30:40 | 甲州街道
                          眼下に田園風景が広がります。
              
(11:26)明治天皇が通ったとき、田植えが行われていて、それをご覧になったという記念碑があります。大きな台座に大きな記念碑。
「明治天皇御田植御通覧之趾」。明治13年6月23日のことです。

「上教来石」。

晩秋の趣。

 (11:35)左手には立派な碑。「御膳水跡」碑。
 明治13年、明治天皇がご巡幸の際にこの細入沢の湧き水をお飲みになり、お誉めに与かりました。

 現在は、涸れ沢になっているようです。
 紅葉の盛り、静かな道筋。

(11:38)国道に合流します。

すぐに右手の道を進むようになります。

「白州町観光名所マップ」。

豪壮な造り。

(11:51)しばらく進んだ右手に「山口関所跡」。
  
町指定文化財(史跡)  山口関所跡
 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
 この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治2年番所が廃せられるまで勤め、明治6年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
 今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。

「西番所跡」碑。
天保7年8月百姓一揆時に開門、その責任をとり名取慶助は若尾に改姓、明治4年廃藩により廃止 1992年 若尾法昭

来た道をふりかえって望む。

その先、直線道路が続きます。 

次第に「国道20号線」に近づいていきます。

 ふりかえって望む。

 「新国界橋」の手前で合流。旧道は国道を突っ切ってそのまままっすぐ進んで、「旧国界橋」を越えていたようですが、その道を行くと再び国道と合流する手前、動物除けの高圧電圧が流れる「感電ゲート」が設置され、そこをくぐり抜けるのは大変危険なため、不可能なようです。したがって、そのまま、「新国界橋」を渡って長野県入りとなります。
 国道の向こう側にかつてはコンビニがあって(現在、立入り禁止)、その駐車場の脇に、教来石出身の山口素堂の大きな句碑があって、有名な「目には青葉 山ほととぎす 初かつお」の句が刻まれていましたが、撤去されたのか目に入りませんでした。



左手奥の方に見るのが、旧「国界橋」。

(12:06)いよいよ長野県・富士見町へ。

旧道に架かる「旧国界橋」。

旧道。ダンプカーの先に「感電ゲート」があります。

(12:13)「下蔦木」交差点を過ぎ、しばらく進んで右手の急な上り坂に入ります。

すぐ右手に「日蓮聖人高座石」解説板。
 富士見町指定史跡
日蓮上人の高座石
 文永11年(1274)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時である。
 伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したといわれる。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたという。

 富士見町指定天然記念物
敬冠院境内付近の樹木
 敬冠院境内と付近に現存するサルスベリ、ヤブツバキ、シュロ、ビワなどの樹木は、冬もあたたかな暖帯に生育する植物で、当地方のような高冷地で数種がこれほど大木に生長していることはきわめて稀である。
 とくにサルスベリは推定樹齢200年と目され、これほどの大木は近隣に類例がない。

                              平成11年3月        富士見町教育委員会

 
                          (12:30)モミジが敷き詰められた境内で小休止。
            

  
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その2。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-16 20:35:21 | 甲州街道
                            白須の集落には立派な蔵のあるおうちが目につきます。

軒先には干し柿が。

 (10:20)しばらく進むと、台ヶ原の台地を抜け、前沢の集落へと下って行きます。正面には、「七里岩」。
            

 晩秋の田園風景。刈入れの済んだ田畑、周囲の山々はちょうど紅葉の真っ盛り。


                       

ゆるやかな上り坂。

(10:35)中ほどにある「林屋商店」の古い方の建物

その先、左手にある句碑。
                    玉斎吾七「槍もちの おくれて通る 日長かな」。

見事な紅葉。

集落をふりかえって望む。

「前沢上」の交差点で「国道20号線」に合流します。

 国道に出てすぐ、「神宮川」に架かる「濁川橋」を渡ります。
 神宮川の旧名は濁川。大雨が降ると流れが白く濁ったことが由来のようです。神宮川に沿って広大な敷地を保有するサントリーのウィスキー工場が出来た時、濁川から神宮川へ改名したそうです。明治神宮参道の玉砂利を献納していることから、住民の改名要望に企業イメージアップを図るため、サントリーが後押しし実現したと言われます。

国道から右手の道に入ります。

(10:51)街道沿いの左手にアカマツ。

 その先、右側には白州町の広大な総合グラウンド。


                 遠くに八ヶ岳。

この辺りの地名は「松原」。先ほどのような松並木があったのでしょうか? 

「荒田」の集落に入ります。

足下のマンホールは「甲斐駒ヶ岳」のデザイン。

手入れの行き届いたお庭。

常夜燈。この地区には常夜燈が目につきます。

(11:06)「荒田」地区。

 広々とした田園風景の中を進みます。


                          「南アルプス」。

 旧道は、「教来石」に入ります。「教来石」という地名の起こりは2世紀、日本武尊の時代にまでさかのぼるようです。

教来石宿(きょうらいし)
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠7軒であった。教来石宿は、下教来石が本宿で上教来石は加宿であった。
 村の西に教来石があり、高さ七尺(約2.1m)、竪三間(約5.4m)、横二間(約3.6m)の巨石である。昔は石の上に小祠があり日本武尊を祀ってあった。現在は近くの諏訪神社へ移設されている。日本武尊がこの石の上で休息したといわれ、村人が経(へ)て来石(こいし)と呼び、経を教と誤記したものと伝えられている。(この項、「人力(じんりき) - 旧街道ウォーキング」HPより)
 ただし、上記の石かどうかは、定かではなさそう、何しろ2000年ほど昔のお話ですので。「酒折」宮などヤマトタケルノミコト(「古事記」では「倭建命」という表記)の東征説話にちなんで、甲州街道もまたご縁がありそうです。

(11:12)宿の入口にはリサイクルショップ。

「流川橋」。ここから「下教来石」。

              

(11:18)まもなく国道に合流します。

 国道の左の高台に「明治天皇小休所址」碑。ここが宿の本陣だったのでしょう。
         

 左手に駐在所、右手に郵便局。そこを右に入るのが旧道。(11:21)


                        
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