おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その4。荒川土手から元荒川沿いに。久下(くげ)。元荒川通り。伊勢前橋。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-20 18:25:33 | 元荒川

荒川土手(旧中山道)とは、ここでお別れ。

現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。
 荒川はその名のとおり「荒ぶる川」であり、扇状地末端の熊谷付近より下流で、しばしば流路を変えていました。
 関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていました。江戸時代の寛永六年(1629)に、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)が荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。後世「荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。

流路の付け替え前。

    流路の付け替え後。

(この項、「」HPより)

※「久下」地区が現荒川との分岐点だったようです。上図の「備前堤」は、元荒綾瀬川源流付近にあった堤。

「ライオンズマンション行田」の脇の道を下り、「元荒川」に架かる橋へ。

                                  上流方向。右手に分岐口が見える。                             

かつて、流路がこの付近で大きく東北方向に迂回していました。

                                 (現在)

久下(くげ)(四)付近を頂点として大きく湾曲している痕跡。

                             (1,880年代)

     現在、熊谷市と行田市の市境になっている。

現在の流れ。  

しばらくマンション脇を流れる元荒川沿いに進みます。

 

荒川土手(中山道)が建物の間から。

右手に「久下(くげ)第1公園」。

用水路のような流れ。水草が茂っています。

住宅地から離れつつあります。

この付近が大きく迂回していた旧流路との上流側の合流点になります。

 

川沿いの道には茂みが増えてきました。赤い小さな花が密集している。

「埼玉県 元荒川」という標石。

迂回して再び川沿いの道に。振り返る。

              熊谷福祉の里「クィーンズビラ ケアハウス」の裏手。

しばらく土手を歩きます。

「元荒川通り」に出ます。

「元荒川通り・伊勢前橋」。

上流。「高崎線」方向。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その3。権八地蔵。荒川土手・旧中山道。水準点。「決潰の跡」碑。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-19 14:06:57 | 元荒川

ここを歩くのは、3回目。「中山道」歩き、「荒川」歩き、そして今回。

「権八地蔵」。

鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。

 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

 「Wikipedia」によって、少し補足します。

 権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
 小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。

 歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)

                           (「Wikipedia」より)

「榎戸堰」上流の元荒川。

荒川土手(旧中山道)に上がります。遠くに赤城山。

大きく視界が広がります。

右、眼下に「元荒川」。高崎線「行田駅」方向。

用水路のような流れ。

所々、茂みの中を流れる。

こちらは荒川の河川敷。

               耕作地が広がり、流れを見ることができません。

「(河口から)70.6㌔」標示。

土手の下に「水準点」。ということは、この道筋が旧道?

この付近の今昔。

                                                               

(1880年代)中山道は元荒川沿い?             (現在)土手道が整備され、集落もある。

水準点沿いの道(おそらく「旧中山道」)を進みます。

元荒川の流れ。

再び、荒川土手の道へ。前方に、3回目となる「ライオンズマンション」。

荒川下流方向を振り返る。

ここで土手(旧中山道)から下ります。

とその前に、土手沿いにある「決潰の跡」碑。

洪水の恐ろしさを物語る碑。1958(昭和33)年に建立。
 1947(昭和22)年9月のカスリーン台風による洪水のため、この地点で堤防が決壊しました。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあります。決壊による濁流はすぐ東側を流れる元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れ、大きな被害を出しました。この時の洪水では下流の田間宮村(現.鴻巣市大間)でも、大間堤(荒川の左岸堤防)が決壊。利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で決壊した(現在、跡地はカスリーン公園)。さらにもっと下流地域の中川(古利根川)などでも決壊し、「荒川」以東の下町地域も床上浸水などの大きな被害が出ました。

        

眼下の家並み。

左手、土手の中腹に、「一里塚跡」・「馬頭観音」。

「中山道」歩きの時の記録を再掲。

・・・

草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その2。新宿橋。榎戸堰。「榎戸村」石碑。「準用河川元荒川起点」。荒川土手に。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-16 18:37:19 | 元荒川

左岸は護岸整備中。

                   上流に「新宿(しんしゅく)橋」。

「新宿橋」のたもとには「榎戸(えのきど)堰公園」。

ゴツゴツした大きな岩。

榎戸堰。

江戸時代に作られた木造の堰は、増水による崩壊や腐朽により幾度となく改修・改築が繰り返されてきましたが、明治30年代に木造から写真のような煉瓦造りの堰へと改築されました。この煉瓦造りの堰の名残が、現在も元荒川の護岸として残されています。

煉瓦製の堰は昭和初期に部分的にコンクリートに改築された後、昭和41年には全面コンクリート製になりました。現在もこの堰で元荒川の水を堰き止め、農業用水として周辺の水田を潤しています。

煉瓦堰への改修にあたり、私財まで投じてまで尽力した当時の吹上村長代田仙三郎をたたえる石碑が、榎戸堰公園内に建てられました。

「代田仙三郎翁顕彰の碑」。
 榎戸堰は,元荒川最初の堰にあたり,古来下流田畑にとっては,命とたのみ重要な堰であった。
 しかし,江戸期から明治初年にかけては極めて貧弱な構造だったため常に修復が求められ,関係村々の悩みとなっていた。
 ここに明治三十六年三月,第二代吹上村長,代田仙三郎翁は,堰用水利用各村の代表者を説き,自ら組合の責任者となって恒久的用水堰を建設すべく,県費補助を得て工事に着手したが,建設地の地盤は予想以上に軟弱をきわめ,そのうえ湧水いたる処となって思いもかけぬ難工事となり,費用は予算を遙かに超えたが,翁は,なおこれに屈せず,私財まで投入してついに同年末,近代工法による半永久的な榎戸堰を完成させた。
 以来,関係村々は毎年くり返された修復普請の労苦から解放されると同時に,安定した用水を得て,その恩恵は今日に及んでいる。
 今まさに,ふる里を見つめ創生をめざす時にあたり,英明,代田仙三郎翁を顕彰し,もってその遺徳を後世に伝えると共に,新たな町づくりを展開する誓いの石文として,翁ゆかりの地に,この碑を建立するものである。

(この項「」HPより)

上流を望む。

ここからすぐ左に「旧中山道」。「榎戸村」石碑。 

ここは旧榎戸村の上方、村は中山道に面して東西五丁南北六丁の小村だが、江戸以来、吹上、大芦吹上、大芦から糠田に至る八ヶ村への水田用水を供給するための元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた。

熊谷宿へ二里 鴻巣宿へ二里十五町。

旧中山道(吹上方向)。

道の両側にレンガ造りの樋門。

左の塔の脇には「準用河川元荒川起点」と刻まれた標石。

現在の起点はもっと上流になりますが、大正から昭和初期に行われた河川改修時に、ここを起点と定めたようです。

左手にある樋門の先を望む。

右手先には、現在の元荒川。

荒川の土手に進みます。

          土手下の祠は、「権八地蔵」。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その1。吹上宿・中山道/日光脇街道。榛名橋。洲崎橋。高崎線のガード。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-15 21:56:40 | 元荒川

「元荒川」を歩いて遡るという計画も今回で最終回。真夏の暑い日に熱中症になりかかって、途中で挫折したこともあり、今回、第7日目となります(実際は、第8日目)。

11月8日(金)晴れ。

「吹上駅」ロータリー。

「吹上本町」・「中山道」の標識。

向こうの通りが「中山道」。

                     

鴻巣宿から熊谷宿までは四里六町(約十六粁)と特に長かったため、立場(茶屋や休憩所・宿屋)ができ、「間の宿」として賑わいました。八王子千人街道とも交わる街道の名所です

吹上宿は中山道六十九次のうち日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と、8番目の熊谷宿との中間地点に位置する「間の宿(あいのじゅく)。

※鴻巣宿と熊谷宿とは約16.4kmと他の宿場に比べると距離が開きすぎていた。

また、吹上村の吹上追分で日光東照宮を警備する武士たちが通る「八王子千人同心街道」(日光脇街道)と交差している関係上、その街道の第10の宿として機能していました。そうした関係で、次第に宿場として発展していきました。

※「八王子千人同心」は慶安5年(1652年)から交代で日光東照宮を警備する日光勤番(日光火の番)が主な仕事になった。

この街道を八王子から佐野まで歩いたときに、ここを通過しました。

「吹上」地名の由来:東京湾から吹いてくる海風と北部の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられた、との説があるが、確定的ではない。

※一般的には「風で砂が舞い上がるところ」(海岸や河畔で見られる)を意味するらしい。

前回の最終地点から再開します。

「吹上橋」。

元荒川。

続いて、

 

旧吹上町のマンホール。町の花コスモスのデザイン。

※2005年(平成17年)10月1日鴻巣市と 北足立郡吹上町、北埼玉郡川里町が合併し(新)鴻巣市となった。

「ふるさと総合緑道」案内図。

よく整備された川沿いの遊歩道。桜並木が続く。

「洲崎橋」。

カルガモの群れ。

          

高崎線のガード下を潜り抜けます。頭がぶつかりそうな低さ。

高崎線橋梁。

高崎線の前身は中山道鉄道(日本鉄道が運営)で、明治16年(1883)に上野駅と熊谷駅間が開通している。吹上駅の開業は明治18年(1885)。

くぐり抜けたあと、細道をたどる。

             土手側に、鮮やかな朱色のピラカンサ。            

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その7。新宿(あらじゅく)橋。桜橋。佐賀橋・新佐賀橋。吹上橋。楓(ふう・かえで)。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-13 19:37:16 | 元荒川

吹上周辺では「元荒川」はかなり屈曲して流れていました。現在と昔を比べると、

                     (現在)ゆるやかなカーブになっている。

ところが、かつては

                     (1880年代)このように曲がりくねっていた。

「中山道」吹上宿(間の宿)。左に屈折する。北に向かうのは、「八王子千人同心街道」。

大幅な河川改修を行い、橋を架け替えているわけです。

「新宿(あらじゅく)橋」。

 

広い「駅北口通り」。

桜がデザインされています。

                                     上流方向。

続いて、

「桜橋」。

元荒川の桜並木の中心部に架かる橋。橋の上は広く、イベント広場。四阿があります。

親柱。

流れに沿って、遊歩道。

「佐賀橋」。

大正末期まで、この付近には忍馬車鉄道(吹上~行田)が運行していて、元荒川には忍馬車鉄道の佐賀橋(木製の桁橋)が架けられていた。現在の橋はRC桁橋(2主桁のT形はり)である。

1901年(明治34年)6月に日本鉄道吹上停車場から行田を経て長野村に至る馬車鉄道が開業した。創業時は忍馬車鉄道。発起人は忍町(行田市)の橋本甚五郎ら15名で北埼玉郡忍町行田(行田市)の青縞卸商や足袋製造業者が中心となって設立した。

1905年(明治38年)5月、忍馬車鉄道の経営陣は新たに行田馬車鉄道を設立し前会社の事業を引き継いで経営したが、1922年(大正11年)に北武鉄道(後の秩父鉄道秩父本線)の開通によって会社に大きな影響を受けた。「大正11年度下半期第36期営業報告書」によると客車収入5,860円に対して自動車収入が11,839円と大きく上回り、1922年(大正11年)12月には行田 - 鴻巣間に乗合自動車の営業を開始し[2]1923年(大正12年)馬車鉄道を廃止して乗合自動車専業となり社名を行田自動車と改めた[。行田自動車は1943年、東武鉄道傘下の東武自動車に合併されている。

※「八王子千人同心街道」を八王子から佐野まで歩いたときは、この佐賀橋を渡りました。

                 

「日光千人同心街道」。 

 
すぐ先に「新佐賀橋」。

               上流方向。

元荒川では珍しい、アーチ型です。欄干には桜をあしらった装飾が施されていて、昭和8年に竣工された当時としてはとてもモダンなデザインでした。また、川とのふれあいの場としてランドマークにもなっている貴重な土木遺産であることが評価されて、平成24年11月18日に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。(「」より)

「吹上橋」。

今回はここまで。吹上駅に向かいます。

吹上本町。中山道の標石が右手に。

「間(あい)の宿 吹上」。

旧中山道。荒川土手に向かう道。

楓(ふう・かえで)。         

モザイク画。

この壁と床のモザイク画は、吹上地域の豊かな自然である荒川、元荒川、桜、コスモス、伝統芸能のささら獅子舞をモチーフにしています。色鮮やかで、種類豊富なモザイクの材料は、石、レンガ、陶器、瓦等の建設廃材を再利用したものです。製作は、千葉県の障がい者支援施設の方々を中心に鴻巣市内にある心身障がい者作業所(吹上太陽の家、あしたば第一作業所、あしたば第二作業所、川里ポプラ館)の皆さんにも協力していただきました。

高崎線「吹上駅」。

特色ある橋巡りになりました。次回で、源流まで行くことができるでしょう。

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その6。小谷(こや)橋。砂山橋。筑波橋。遠所(えんじょ)橋。水鳥橋。高砂橋。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-12 20:04:38 | 元荒川

「小谷(こや)橋」。                 

   古いレールを利用した、1932(昭和7)年竣工の3連アーチ橋。

以前の古い親柱が残されています。

この付近は、改修前は大きな蛇行があった場所。流れを直線化したときに架けられた橋。残った蛇行部は現在『水辺公園』になっている。

下流を望む。

続いて「砂山橋」。この橋は四隅の彫刻が四季を表現しています。

※春夏秋冬、すべて産地の異なる御影石を使用。

 

               《春》「なまずうごく」

《夏》「かたつむりひかる」 

《秋》「つばめかえる」

《冬》「さるみてる」。 

上流を望む。

カルガモの群れ。

「筑波橋」。 

「筑波橋」の欄干には十二支の動物やかわいい小人の彫刻があります。

両岸には約500本のソメイヨシノの木が約2.5kmに渡って続く。

次が遠所(えんじょ)橋。

支流の前谷落合流部に架かる「水鳥橋」。

                   四阿があり、川の流れを眺めながらひと休み。

「前谷落」。

元荒川の流れ。

この付近の古地図のプレートが埋め込まれいる。

その次は「高砂橋」。

親柱は4つとも灯籠をイメージしています。そのひとつには和歌が刻まれていました。

        高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ

遠い高山の山頂に桜が咲いているなあ。里山から春の霞がたたないでほしいものだ。美しい桜がかすんでしまわないように。

※百人一首73番・大江匡房 作

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その5。川面(かわづら)橋。三ツ木橋。コウノトリ。三ツ木堰。アサヒ橋。五つ目の元荒川橋。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-11 20:31:48 | 元荒川

草刈りが終えた土手を歩きます。「川面橋」から上流を目指す。

けっこうきれいに刈られ、歩きやすい。 

   田んぼと工場と。 

ところが、途中から道がなくなった! 

                      ずり落ちたらそのまま川に転落の危機!       

掴まれそうな木も無く、振り返る。

・・・しかし、よく草刈りの作業をしたものです。あるいはしてないのか? 雨でも降ってきたら、大ごとでした。

わずかな距離でしたが、なんとか脱出。

この道を歩けばよかった、と。

国道17号線・「三ツ木橋」のたもとに出て、信号にある交差点まで迂回します。

下流方向を振り返る。

川沿いに歩くのはやめて、普通の道を歩くことに。

大きく羽を広げたコウノトリ。

向かい側には、

            民宿「コウノトリの里の宿」。

鴻巣市のマンホール。

               中央に新市章、周りに市花パンジーを描いてある。

そのまま直線の道を歩き、高崎線の線路にぶつかるところで右折し、元荒川に。

「三ツ木堰」。

         

下流方向。

上流方向。

左は、高崎線。右方向に「吹上駅」。

「三ツ木堰橋」。

橋を渡り、左岸の道を歩きます。

かつての堰跡。

右手は「埼玉県消防学校」。

先に見える橋は「アサヒ橋」。

               「アサヒ橋」(人道橋)。

かつて、両岸に「アサヒゴム(現パーカーアサヒ株式会社)」の工場. があり、工場間を結ぶ橋として架けられた。

※現在、右岸は「富士電機エフテック(株) 本社」となり、左岸は「フジモール吹上」という大きなショピングモールになっている。

国道17号線旧道(現「県道307号」)・「元荒川橋」歩道橋。

「元荒川橋」と名付けられた橋は全部で5つありますが、その最上流にある橋。

この付近の流れは大きく右手にカーブしていました。改修してほぼ直線化しました。

この付近の今昔。

                      (現在)痕跡が残っている。

                     (1880年代)下流にも大きなカーブが。

この先、それぞれ特徴のある橋が続きます。

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その4。川面(かわづら)水門。伏越(ふせごし)。元荒川橋。川面橋。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-10 16:38:57 | 元荒川

「武蔵水路」。

         「川面(かわづら)水門」。

【川面水門の役割】

川面水門は、大雨で元荒川の水位が上がったときに、元荒川の増水の一部を武蔵水路に流すことにより、元荒川流域の浸水被害の軽減を図ります。

【水門操作】

集中豪雨によりかせんのぞうすいや市街地の冠水が想定されるとき、釜づら水門から武蔵水路に取り込む操作を行います。

「武蔵水路」は元荒川を「伏越(ふせごし)」(逆サイホンの原理)で交差します。その真上に立って、

利根川方向を眺める。

荒川方向。

「元荒川」下流方向。

元荒川に架かる「元荒川橋」を渡り、左折します。

右に武蔵水路。利根川側。

元荒川橋のすぐ上流で、「忍川(おしかわ)」が合流します。※「Googleマップ」では「新忍川」と表示されている。

              右の水路が「忍川」。

埼玉県北部を流れる利根川水系中川支流である元荒川の支流に当たる一級河川

国道17号の手前の平戸橋からが一級河川忍川の区間となり、橋の袂にはそれを示す標石がある。熊谷市戸出の不動堂堰で荒川左岸幹線導水路が右岸に分かれ忍川単独区間になる。行田市市街地の西までほぼ真東に流れる。行田市市街地を巻くように大きくカーブし、秩父鉄道埼玉県道128号を潜って東南へ転じる。行田市市街地を抜けるとほぼ真南へ流れ、すぐ東側を武蔵水路が並行する。武蔵水路と最も近接する野合橋下流左岸に佐間水門があり、増水時には忍川の一部が武蔵水路に放流される。鴻巣市に入り、武蔵水路が元荒川を伏せ越す地点のすぐ上流で、元荒川左岸に合流する。

※「忍(おし)」と名付けられた城に「忍城」がある。行田市内を流れる「忍川」の近くにあったお城。

埼玉県行田市武蔵国埼玉郡忍)にあった日本の城埼玉県指定旧跡

室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地自然堤防を生かした構造となっている。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。戦国時代には関東七名城の一つ1590年(天正18年)に豊臣秀吉小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された

少し迂回し、忍川に架かる橋を渡り、元荒川に出ます。

「新屋敷橋」。

             

元荒川との合流方向。

住宅地を通り、元荒川に架かる「川面橋」へ。下流方向。

この先、左岸の土手を歩くことにします。が、途中から大変なことに。

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その3。パンジー・なでしこ・はぼたん。さきたま緑道。武蔵水路(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-09 13:58:55 | 元荒川

「武蔵水路」に向かう通りにも、花卉栽培農家が並んでいます。

ハウスの中にズラリ。

         パンジー。

別のところでは、

                        なでしこ(撫子)。

葉ぼたん(牡丹)。新春に向けての花々。

畑の向こうに林は、

                 「さきたま緑道」。「武蔵水路」に沿ってあるようです。 

※「さきたま緑道」:JR北鴻巣駅前の鴻巣市赤見台近隣公園から、武蔵水路に沿って、さきたま古墳公園に至る全長4.5Km、幅員25mの遊歩道と自転車道のある緑道。

さきたま緑道は、赤見台(鴻巣市)と古墳公園(行田市)間に伸びる片道4.1kmの遊歩道です。自転車と歩行者の2レーンにしっかり分かれており、車道からも隔離されていて安心です。走りやすそう♪と思ったのもつかの間、これがけっこうクセものでした(あくまでも個人の感想ですが...)。道はほぼ直線で迷うことはありませんが、この2種類の平行するレーンが途中で左右何度も入れ替わるのです。一応、歩行者側を走り始めたのですが、歩行者側は石畳になっていて、少々走りにくい印象でした。ほぼ平らな石畳もあれば、風情があってごつごつした石畳は特に不安定なので、けがに注意したいところです。ソールの厚い、しっかりした靴がおすすめです。緑道を利用するのはウォーキングの人が多く(9割くらい)、ランの人もときどき見かけました(パンジーマラソンに出るのかなーと勝手に仲間意識を抱いたり)。利用者は鴻巣側と行田側の両方からやってくるので、みなさん気持ちよく譲り合って、それぞれのリズムでウォーキングやランを楽しんでいました。

(この項「」HPより)

右に元荒川に架かる「緑道さかい橋」があります。

古墳公園は橋を渡って進む。

上流方向。

下流方向。

※「さかい橋」は、鴻巣市と行田市の市境にあたることから。左岸側が行田市、右岸側が鴻巣市。

「さきたま緑道」。鴻巣方向。

「武蔵水路」。

            

武蔵水路は埼玉県行田市の利根大堰で利根川から取水された水を運び、鴻巣市で荒川に注ぐ全長14.5kmの水路です。
都市用水及び浄化用水として利根川の水を首都圏に運ぶことを目的として、昭和40年(1965年)3月に緊急通水、昭和42年(1967年)3月完成しました。

武蔵水路イラスト
※「利根川」と「荒川」との間に「元荒川」がある。
 
 

武蔵水路で送られてきた水は荒川を約30km下り、河口から約35kmの地点にある秋ヶ瀬取水堰で取水され東京都や埼玉県に送られています。

(この項「」HPより)

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その2。フラワー通り。ハウスが並ぶ・花卉栽培農家。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-08 21:46:53 | 元荒川

「フラワー通り」。元荒川」の1本西側にある通り。

      

「花卉栽培農家」も以前より減ってしまったようです。

通りの西側は工業団地造成中。

通りの脇にも花が咲いています。

               

元荒川に近づいてみます。

             

「国道17号線・元荒川橋」。

     

                   対岸は、「行田市」。

大きな農家。

野菜類が植えてあります。  

  

ハウスの中からポツンと外を眺めていた老人と立ち話。「この辺りも、昔に比べてずいぶん少なくなっちゃたね。今は4軒しかなくなっちゃって。この通りにはずらりあったんだがね。」

しばらくよもやま話を。

              

通りの向こうにもハウスが並ぶ。

       

忙しく立ち働く従業員たち。

記念碑?

「フラワー通り」から右折し、

               「元荒川」と「武蔵水路」との交差地点(「伏越」)へ向かいます。

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その1。安養寺堰。花栽培の温室・花卉栽培農家。電柱を二本渡した橋。渋井橋。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-06 18:48:12 | 元荒川

「三夜橋」バス停で下車。その先の元荒川・「三谷橋」から再開。10月26日(土)。曇り。

りんご? 

すぐ上流に「安養寺堰」。

安養寺堰は、ここから130m下流にあった宮地堰の老朽化に伴い、平成16年に完成した比較的新しい堰です。

昔の宮地堰安養寺堰の完成後取り壊されましたが、新編武蔵風土記稿(文政年間:1830年頃編纂)によると、宮地堰が建設されたのは慶長年間(1596~1614)深井景吉によるものとされています。

深井景吉は、岩付城落城に伴い鴻巣、北本に落ち延びた、いわゆる鴻巣七騎の一人で、当初は今の北本市深井に居を構えていましたが、その後、徳川家康から与えられた現在の鴻巣市宮地に移住しました。

そして、深井景吉宮地堰を造り300町歩(3km)の土地を開墾するなど、この地一体に多くの田畑を開墾しました。

安養寺堰の機能は宮地堰と同様に農業用水取水のための堰ですが、安養寺堰の規模は圧倒的に大きく、屈巣用水路、西浦用水路、栢間用水路、外谷田用水路、新谷田用水路へ分水し、その灌漑面積は1,100haに及びます。

              

左岸沿いに歩きます。

この付近・両岸沿いには、花卉栽培・出荷する農家が点在しています。

※花卉(かき)栽培とは、鑑賞用の植物という意味を持つ「花卉」を栽培することです。 花卉の例としては、切り花、鉢花や花壇苗や観葉植物、盆栽など食用でない植物があげられます。 基本的に贈答用や、切り花の場合には冠婚葬祭として扱われることの多い植物の栽培になるため、嗜好性の高い作目の農業です。

田畑も点在。

遠くに新幹線が通過中。

カルガモの群れ。

誰とも会わない土手の道。

カルガモ。

       雨でも降ってきたら雨宿りするところもない一本道。

対岸には、花栽培の温室が並んでいます。

   大きく左へカーブする。

この先で土手の道は途絶え、小さな用水路に電柱? を二本渡した橋? があるだけです。

さすがに渡る度胸はない。

            来た道を振り返る。

たまたま、すぐ脇で農作業をしていた方がいました。

「この先、道はないよ。あっても蛇がいるし、・・・。ま、ぐるっと回って行くんだね。そう、新幹線沿いの道を。」

新幹線沿いの道へ迂回し、

再び土手の道へ出ます。

舗装された道になります。

この先で大きな駐車場に突き当たります。

前方は、「渋井橋」。

「三谷橋」からこの橋までこの間に橋がないまま、けっこう歩きました。

渋井橋から下流を望む。

上流方向。

さて、この先、川沿いの道は草刈りが終わっていないので、歩くのを断念。

この機会に、花卉栽培農家が点在する「フラワー通り」を歩くことにします。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その5。三谷橋・三夜橋。旧中山道・鴻巣宿。鴻神社・こうのとり。文化の日・晴れの特異日。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-11-03 19:44:25 | 元荒川

「三谷橋」から下流を望む。

※「三橋」という標示と「三橋」(バス停)とあります。別々の橋の名でしょうか?

「三谷橋」という銘板。

今回の出発地でも、「五台」(バス停)と少し離れたところに「五台」という地名がありました。

鴻巣の三大名物。

①「びっくりひな祭り」
  (HPより)

「鴻巣」は江戸時代から受け継がれているひな人形のふるさと。関東三大ひな市(鴻巣、岩槻、江戸日本橋十軒店)の一つに数えられ、特に着物に着付けでは関東一と評判だった、とか。江戸から明治の「鴻巣雛」には鳳凰の刺繍が施され、女雛の手を出さないものが多いようです。着物の生地は京都西陣から買い付けいていました。
 明治になると「県内では越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒、に比べて、鴻巣の人形業者31軒、職人300人」という記録があるほどの活況ぶりでした。

②「川幅日本一」の標。「2537m 荒川」。

③「荒川水管橋」全長は1100 mあまりで、日本最長の水管橋として知られる

 

(写真は、「荒川歩き」、「中山道歩き」のときのもの)

・・・

上流に「安養寺堰」。

「国道17号線」。東京方向。

日本橋から高崎市にかけては、五街道の一つである「中山道」になぞられる。(国道の終点は新潟市)

左に折れると、旧中山道・鴻巣宿。

中山道六十九次(木曽街道六十九次)の内、江戸日本橋から数えて7番目の宿。

この日(10月20日)は、ちょうどお祭りの日でした。旧中山道通りは大賑わい。

「鴻(こう)神社」前。

  屋台もたくさん。

     

《こうのとり伝説》

        

        

 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。

                  (この項「鴻神社」HPより)

             

※ただし、「コウノトリ」という漢字は「鸛」。「鴻」は、訓読みですと、「ひしくい」「おおとり」。この漢字は「大きい鳥」「大きい」を意味し、鳥では「オオハクチョウ」、あるいは「ヒシクイ(ガンの一種)」を指すようです。ということで、漢字からすると、「コウノトリ」を指してはいないようです。

「鴻巣駅」。

次回からも「旧中山道」がらみの歩きになりそうです。

※今日は、文化の日。晴れになる特異日。時季外れの台風も去り、東京地方は、穏やかな秋晴れの一日になりそうです。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その4。新幹線と元荒川。郷地橋。埼玉県運転免許センター。三谷橋。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-11-02 19:31:02 | 元荒川

新幹線の高架橋。

下流(西側)を望む。

新幹線の橋梁から右手に。

県道に出ると、正面に古びた建物が。

      倉庫? 

一つ手前の橋から上流を望む。

「郷地橋」。

新幹線高架下を流れてくる。

       振り返る。

対岸遠くに「埼玉県警察運転免許センター技能試験場」。

 

            

          対岸は、「運転免許センター」。

土手の道をのんびりと進みます。

鮮やかな朱色のカラスウリ。

これは「槙(まき)・イヌマキ」? 

小さい赤い花が流れ沿いに。

左からは、上流の「三ツ木堰」で取水した農業用水の排水、余水。

左に見えるのは「三谷橋」。

橋のたもとはポケットパークになっています。

右:「鴻巣市ふるさと総合緑道」案内図、左:「歩いて地域再発見 歩鴻(行)マップ」。

今回は、ここまで。JR高崎線・鴻巣駅に向かいます。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その3。上谷総合公園。中斉橋。ふるさと総合緑道。竹林公園。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-31 18:50:08 | 元荒川

畑が広がります。

対岸は、「上谷総合公園サッカー場」。

その先には、「テニスコート」。

      

      真夏とは違い、晴天の下、歩きやすい。

     大空を悠々と飛ぶ。

「中斉橋」を渡り、対岸へ。正面には、広大な「上谷総合公園」。

鴻巣市の南東に位置する『上谷総合公園』内に設置されたスポーツ施設です。野球場の「フラワースタジアム」を主施設とし、人工芝テニスコート10面・人工芝サッカー場1面、多目的グラウンドを配置し、夜間照明設備も整備されています。
スポーツ振興を目的として設置された公の施設で、スポーツ及びレクリェーションの場を提供し、健康で明るい市民の育成を図っています。                                           (「スポーツナビサイタマ」HPより)

下流方向。上流方向。

「ふるさと総合緑道」案内図。

「フラワースタジアム」。

             ここで、小休止。

「ふるさと総合緑道」を歩いて、上流へ向かいます。

「笠原大橋」。

「元荒川と緑、竹林」。               

対岸(右岸)のようす。

水道橋。 

対岸沿いの道路は、けっこう車が行き来しています。 

緑道には、銀杏の実や栗、木の実などが散らばっています。

  ぎんなん。

新幹線に近づいてきます。

        

橋の名は不明。

栗林。

「もうシーズンは終わったよ」と作業していた方。

「この先は県道に出て竹林公園へ向かうといいよ。あそこに見えるのが竹林公園だから」と。

                

新幹線沿いの管理道路。

ここにも木の実が散らばっています。何の実?

右手に「竹林公園」。

  

静かな空間。

                  朽ちかけた四阿がポツンと。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その2。流路の今昔・蛇行した跡。鴻巣市常光・久喜市菖蒲。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-29 20:48:01 | 元荒川

上流方向。

左岸土手の道を歩きます。

右手にはかつての流路跡が残っています。

※流路に沿って村境が設定されています(現在の鴻巣市と久喜市にあたる)。

この付近の今昔。

                

                                   (1880年代)

 

                (現在)    

 

               右手に広がる、かつての流路跡。

       叢になっているところと道路になっているところがあります。

現在の元荒川の流れ。

航空写真では、

蛇行する旧流路がはっきりしている。             

正面に立派なお屋敷。

                                       このおうちは、鴻巣市常光。

草刈りの終えた土手を歩くことに。

ここは、久喜市。

左岸が久喜市、右岸が鴻巣市。

                                 

                                カラスウリ。

左手から鴻巣東部都市下水路。

               右岸方向。田畑が広がっている。

来た道を振り返る。

                 右が鴻巣市常光、左が久喜市菖蒲。

前方に草刈り作業中の軽トラ。

           「次の橋のところまで、草を刈ってありますよ」。まだ土手を先まで進めるので、一安心。

振り返って望む。

右手に田園風景が広がります。

この付近の今昔。 かなりの曲がりよう。

        (1880年代)           (現在)

左手(右岸)に「上谷総合公園」が見えてきます。

サッカー場や野球場、テニスコートなどけっこう施設が整い、大きな運動公園です。

 振り返る。

          川幅がぐっと狭くなっている。                     

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