北上すると、「湯島天神」。
この付近には、東と西に伝統・由緒ある小学校があります。1923年(大正12年)9月1日・「関東大震災」後の震災復興事業の一環として昭和初期に建替えられた校舎。(「震災復興52小公園」で紹介済み)
「文京区立湯島小学校」。その後、近年、モダンな校舎に改築されたが、正面玄関などに当時の面影を残している。
「台東区立黒門小学校」校舎。震災復興校舎(昭和5年竣工)を、大きく手を加えることなく現在も使用している。
さて、まもなく右に、「上野広小路」方向から来る、けっこう急な上り坂が現れます。
坂の上から東側を望む。
中坂(仲坂)
「御府内備考」に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ」とある。
江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた、したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1町目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
まゐり来てとみにあかるき世なりけり
町屋の人のその人の顔かお (釈 迢空)
東京都文京区教育委員会 平成元年11月
(注:「妻恋坂」の北にある「三組坂」は、もっと後に出来た新坂。)
そのまま「湯島天神」から「切通坂」(「春日通り」)まで歩き、坂を下って「女坂」「男坂」に向かいました。
切通坂
「御府内備考」には「切通は天神社と根生院(こんじょういん)との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯(ガストウ)境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木
文京区教育委員会 平成11年3月
道の反対側にあるのが湯島天神。 本郷方向を望む。
1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
↓が「切通坂」。上方の赤い○が「無縁坂」。右上の池が「不忍池」。当時、「切通坂」は広小路方向からの直線道路ではなく、現在の「不忍通り」から折れていたようだ。
「石川啄木文学碑」。
二晩おきに
夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
勤めなればかな
石川 啄木
「文京区教育委員会の解説文」。
これによると、上の歌碑は石川啄木の原稿ノートにあった自筆のものを刻んだそうだ。
なお、都内にある石川啄木の歌碑は、この他にも、
・《文京区本郷・太栄館》 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
・《台東区西浅草・等光寺》 浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心
・《中央区銀座・朝日新聞社跡》 京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな
・《台東区上野・JR上野駅構内》 ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
にあるそうです。(「太栄館」=「蓋平館別荘跡」のものは、紹介済み。)
「女坂」へ向かう角にあった古風なたたずまいのお店。
女坂。
男坂。ゆるやかな坂・女坂に対して。
夫婦坂。
「男坂」はそのまま「上野広小路」に続いています。
「男坂」を望む。
再び、「切通坂」に戻り、「都立旧岩崎庭園」に向かいます。
古風な木造家屋。「旧岩崎庭園」に向かう角地。
「旧岩崎庭園」。
その北側にあるのが、「無縁坂」。
無縁坂
「御府内備考」に、「称仰院(しょうごういん)前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品「雁」の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その「雁」に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
不忍の 池の面にふる春雨に
湯島の台は 今日も見えぬかも
岡 麓(本名三郎:旧本郷金助町生まれ1877~1951・
墓は向丘二丁目高林寺
文京区教育委員会 昭和55年1月
「旧岩崎庭園」の裏手の道、「三菱資料館」や「最高裁宿舎」などの脇を通り、「春日通り」(切通坂上部)に戻り、西へ向かいます。
「旧岩崎庭園」の裏手にある木造三階建ての家。
こうして、「本郷三丁目」の交差点へ。
前回来たときも、「かねやす」のシャッターが降りていました。営業しているのかしら。
この付近には、東と西に伝統・由緒ある小学校があります。1923年(大正12年)9月1日・「関東大震災」後の震災復興事業の一環として昭和初期に建替えられた校舎。(「震災復興52小公園」で紹介済み)
「文京区立湯島小学校」。その後、近年、モダンな校舎に改築されたが、正面玄関などに当時の面影を残している。
「台東区立黒門小学校」校舎。震災復興校舎(昭和5年竣工)を、大きく手を加えることなく現在も使用している。
さて、まもなく右に、「上野広小路」方向から来る、けっこう急な上り坂が現れます。
坂の上から東側を望む。
中坂(仲坂)
「御府内備考」に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ」とある。
江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた、したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1町目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
まゐり来てとみにあかるき世なりけり
町屋の人のその人の顔かお (釈 迢空)
東京都文京区教育委員会 平成元年11月
(注:「妻恋坂」の北にある「三組坂」は、もっと後に出来た新坂。)
そのまま「湯島天神」から「切通坂」(「春日通り」)まで歩き、坂を下って「女坂」「男坂」に向かいました。
切通坂
「御府内備考」には「切通は天神社と根生院(こんじょういん)との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯(ガストウ)境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木
文京区教育委員会 平成11年3月
道の反対側にあるのが湯島天神。 本郷方向を望む。
1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
↓が「切通坂」。上方の赤い○が「無縁坂」。右上の池が「不忍池」。当時、「切通坂」は広小路方向からの直線道路ではなく、現在の「不忍通り」から折れていたようだ。
「石川啄木文学碑」。
二晩おきに
夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
勤めなればかな
石川 啄木
「文京区教育委員会の解説文」。
これによると、上の歌碑は石川啄木の原稿ノートにあった自筆のものを刻んだそうだ。
なお、都内にある石川啄木の歌碑は、この他にも、
・《文京区本郷・太栄館》 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
・《台東区西浅草・等光寺》 浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心
・《中央区銀座・朝日新聞社跡》 京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな
・《台東区上野・JR上野駅構内》 ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
にあるそうです。(「太栄館」=「蓋平館別荘跡」のものは、紹介済み。)
「女坂」へ向かう角にあった古風なたたずまいのお店。
女坂。
男坂。ゆるやかな坂・女坂に対して。
夫婦坂。
「男坂」はそのまま「上野広小路」に続いています。
「男坂」を望む。
再び、「切通坂」に戻り、「都立旧岩崎庭園」に向かいます。
古風な木造家屋。「旧岩崎庭園」に向かう角地。
「旧岩崎庭園」。
その北側にあるのが、「無縁坂」。
無縁坂
「御府内備考」に、「称仰院(しょうごういん)前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品「雁」の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その「雁」に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
不忍の 池の面にふる春雨に
湯島の台は 今日も見えぬかも
岡 麓(本名三郎:旧本郷金助町生まれ1877~1951・
墓は向丘二丁目高林寺
文京区教育委員会 昭和55年1月
「旧岩崎庭園」の裏手の道、「三菱資料館」や「最高裁宿舎」などの脇を通り、「春日通り」(切通坂上部)に戻り、西へ向かいます。
「旧岩崎庭園」の裏手にある木造三階建ての家。
こうして、「本郷三丁目」の交差点へ。
前回来たときも、「かねやす」のシャッターが降りていました。営業しているのかしら。