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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その8。立石様。駅周辺再開発計画。青砥藤綱。

2020-05-29 21:08:42 | 沿線歩き

                      京成線の線路にぶつかります。高架工事中。都内各地で立体交差事業が進められているようです。

京成の踏切脇の電柱には「4.0m」の表示。ここは、4㍍以上浸水するおそれが。

見上げると、はるか高いところに赤い線(→)。

そういえば、昔からこの辺りは台風の度に浸水して、救助ボートが出たりしたところだった記憶が・・・。

立体交差工事が進展中。

踏切を越えて、左に曲がりますが、先ほどの道とは直線でつながっています。「立石大通り」=「奥戸街道」。

                 

実はこの通り。「古代東海道」であると同時に京成電車が路上を使用していました。

左の↓が線路。右の↓が「立石大通り」。途中で現在の線路に合流。○が旧立石駅。(「今昔マップより)

「立石」という地名になった「立石様」。現在は、立石8ー37ー17の児童公園内の祠にある。

葛飾区指定史跡 立石

 古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)年の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名が出ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
 地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
 この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。

 ここにもあるように、用途などは、はっきり分かっていない。掘り起こそうとして災難に遭ったという伝説や、掘り出そうにも掘り出せない「根あり石」とも。
 一説では、古代において官道脇に道しるべとして石を設置することがあったとか。その一つではないかという。
 ただ「立石様」は古墳時代に千葉県の鋸山付近から古墳の石室を造る石材として運搬してきたものであると言われ、またこの近くには古墳もいくつか発掘されていて(「立石様」とは目と鼻の先にある南蔵院裏古墳など)この辺りにも別の古墳が存在していたとも考えられ、その一部ではなかったか。
 それが、奈良時代以降になって墨田区墨田から江戸川区小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられる。
 「立石様」は、江戸時代には地上60センチ以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。現在では、わずかに数センチほど露出しているにすぎない状態。

写真は、その部分。

途中で左に折れ、線路脇に。

この道は「水道路」。金町浄水場から一直線で延びる水道管が敷設されています。

立石駅方向。四つ木方向。

「立石駅」ホーム。

         

線路の南にある「立石仲見世商店街」

 ここは戦災で家を焼かれた浅草の飲食業者が疎開してきて露店を始めたところだ。「仲見世」という名前は、彼らのルーツである浅草を偲んで命名されたらしい。
 狭い通路に惣菜屋や居酒屋などが立ち並び、雑多な雰囲気を醸し出す商店街の上にかかるアーケード。1960年に作られた古いもので、レトロの雰囲気。

こちらは少しモダン。

 

 

せんべろの街「呑んべ横丁」駅の北側。

 人がすれ違うのがやっとな狭い通りに飲み屋が連なる昭和の雰囲気。ここも再開発で半数以上が取り壊され、残りも余命幾ばくぞ、という印象。

立石駅北口地区第一種市街地再開発事業

 この項「」HPより)

京成線の西北側(下り線側)で工事が進行中。

線路沿いに歩くと、行き止まりに。踏切を渡って下り線側へ。

           

こちら側が工事中に。

まもなく「青砥駅」。上野線との乗換駅。

          青砥駅。地名は「青戸」ですが駅名は「青砥」?

 講談の太平記に登場する青砥藤綱が由来とされる。町名は江戸時代の川運の港を意味する「戸」からきた青戸であり、混同されることが多い。また、駅開業時は亀青村青戸ではなく、本田町中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の住居表示施行後である。(この項、「Wikipedia」より)

青砥藤綱

 出身は上総とも武蔵ともいう。青砥藤満の妾の子という伝承もあり。『弘長記』によれば伊豆の武士で承久の乱で上総国青砥荘を領した大場近郷の子孫と伝えられる。11歳の時に出家したものの、21歳の時に還俗して家に帰った。学問に優れ、儒教や仏教に広い知識を有していたという。 
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。この時、藤綱は28歳であったという。 
 ある人が時頼と所領を争ったさい、奉行人たちはその権威をはばかって敗訴としたのを、藤綱は道理を重んじて所領を返し、その人が謝礼に贈った銭をも返した。これによりその公正・剛直が広く知られるようになった。 
 かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。 
 次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。 
 『太平記』巻35においても藤綱の逸話が記され、『大日本史』にも載せられている。また、現在の葛飾区青戸や横浜市金沢区富岡に屋敷があったとする伝承も存在するが、その実在には疑いが持たれている。 
 江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。

『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ)

 文久2年3月(1862年3月)に江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」。

 石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。 
 「白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)や、二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」では「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差して男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが名高い。花道を堂々と登場後、舞台に来て捕り手を前に五人組が勢揃い。一人ずつ「渡り台詞」で見得を切り、縁語や掛詞を駆使した七五調のリズミカルな「連ね」で名乗る姿には歌舞伎の様式美が凝縮されている。この様式ははるか後世の『秘密戦隊ゴレンジャー』を初めとする子供向け「戦隊もの」のヒーロー番組にまで受け継がれている。「青砥」は追っ手の名前青砥藤綱に因む。

(以上、「Wikipedia」参照)

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その7。玉子屋。「キャプテン翼」。旧線路跡。古代東海道。

2020-05-28 19:46:17 | 沿線歩き

                         四ツ木駅。

昔からあるお店「玉子屋」さん。

割烹 玉子家
玉子家の玉子丼は500円という安さ!
90年程前に、ここ四ツ木にはお店が少ないからと、料理屋をはじめた先代。
もともとは、養鶏をしていたのですが、高速道路建設のため移転した時に
養鶏は辞め、料理屋のみにしてしまったそうです。
卵は産みたて、鶏も冷凍では無い直産ものにこだわっています。
こちらの玉子丼は、卵本来の味を損なわないよう具は玉葱、筍、椎茸、三つ葉だけです。
シンプルではありますが、食べ応え十分。汁物、煮物、漬物が付いて500円とは、うれしいお値段です。(注:現在は600円)

こちらのお店は、元々養鶏をしていた事からこの名前が付いたそうです。
先代が、食事を出すようになってから90年。
今も、玉子と鶏を中心としたメニューが数多くあります。
おりもさんは、玉子丼とやきとりをいただきました。(2,003年3月15日放送 「ぶらり途中下車の旅より)

京成押上線四ツ木駅と周辺のまちづくり  
 1912(大正元)年にできた最初の四ツ木駅は、現在の駅より北側にありました。このころは、1両だけの電車が1時間に1本走っているだけで駅員も1人くらいでした。その後、大雨による川の氾らんから東京を守るため、現在の荒川をつくる工事が始まったことから、鉄橋と線路を新しくつくらなければならなくなりました。この新しい線路のルートに合わせて、1923(大正12)年、今の場所の近くに駅が移りました。  
 現在の四ツ木駅は、1999(平成11)年に完成しました。四ツ木駅の周りでは、なかなか開かない踏切をなくすために線路を高い場所につくり直す工事や、災害に強い地域にするため、せまい道路を広くしたりしています。また、木でできた古い建物を燃えにくい建物に変えていく事業も進められています。

以前の四ツ木駅。

           現在の四ツ木駅。

(写真は、「」より)

そして今や「キャプテン翼」一色。

          

高橋陽一先生 ゆかりの駅『四ツ木駅』をキャプテン翼一色に!
 日本にサッカーブームを巻き起こし、国内外の多くのサッカー選手に大きな影響を与えたとされる「キャプテン翼」。その原作者である高橋陽一先生の出身地・葛飾区四ツ木は、サッカー界にとっての「聖地」です。
「サッカーの聖地」四ツ木を訪れる人たちに、その玄関口である四ツ木駅から「キャプテン翼」の世界観を楽しんでほしい。そんな思いを込めて、京成電鉄では駅全体に「キャプテン翼」の装飾を施しました。

(この項、「」HPより)

 そういえば、去年暮れに訪日した香港の青年。四ツ木駅に訪れることをとても楽しみにし、我が家に荷物を下ろすと、さっそく出かけました。

 こちらはスルーして駅下のガードをくぐり、先に進みます。実はこの商店街をもう少し行ったところがかつての(「荒川放水路」が出来る前の京成線の線路が通っていた道です。(突き当たり)

 

○が旧駅。(「今昔マップ」より)

左は荒川放水路が完成していない頃。右は現在の様子。 

この先を右に曲がって立石駅方向へ。この付近に旧四ツ木駅があったか?

 振り返る。旧線路は、この先正面を南西に進んでいた。   

この付近は道路整備中。新築の家や空き地が目立つ。

ミヤタ自転車・○○兄弟商会」。

「川魚鶏肉・柏屋」。

実はこの道は古代東海道の道だとされ、この先、「立石大通り」の道へ続きます。旧線は、しばらくこの「古代の道」を走っていました。

 「古代東海道」は隅田河畔から東武鐘ヶ淵駅付近を通り、荒川を越え、四つ木橋の北詰、「レンバンサイクル」という自転車屋さんの脇の道から、水戸街道を越えて、四つ木駅の商店街を通り抜け、「立石大通り」から中川を渡り、小岩へと続き、江戸川付近までのほぼ直線道路。この道は西から東まで、かつて歩いたことがあり、ブログにも掲載しました。

「水戸街道(国道6号線」から荒川(西)方向を望む。


水戸街道を渡ったところにある「案内板」。上が北。

水戸街道から四ツ木駅商店街方向を望む。

商店街との合流点から振り返る。「○○兄商会」脇の道。

    

さて、古代東海道だった道(旧線路)を東に進みます。

「(荒川が氾濫したときの)浸水水位」。↓の赤い線。3m。この先はもっとすごい!

「ファイト翼くん」。葛飾郵便局前。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その6。木根川橋。さだまさし。荒川放水路。綾瀬川。

2020-05-27 20:31:57 | 沿線歩き

                    「木根川橋」。
 この付近、荒川には三本橋が架かっています。下流から「木根川橋」、「新四つ木橋」、「四つ木橋(四つ木小橋)」。しかし、歴史的には変遷がありました。子供頃は、今の「四つ木橋」を「新四つ木橋」と言っていましたし、「荒川」を「荒川放水路」と言っていましたが。

 荒川放水路(現:荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていた(現在は新四ツ木橋が架かっている)。 
 1922年(大正11年)6月30日、荒川放水路開削に伴い橋長451メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木製の方杖桁橋の四ツ木橋(旧橋)が架橋された。また、綾瀬川には1921年(大正10年)11月30日開通した橋長53メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木桁橋の四ツ木小橋が架けられていた。位置は現在の国道6号ではなく、約500 m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側、東京都道465号深川吾嬬町線の延長上にあった。木橋ながら戦車を通すこともできた。 
 1969年(昭和44年)12月、木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100 m下流に木根川橋が橋長539.6メートル、幅員10.5メートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋された。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されている。なお、木根川橋の工事名は四ツ木橋であった。また竣工は1969年(昭和44年)2月であった。
  現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画があり、戦後、1950年に工事が再開、1952年(昭和27年)7月に完工、7月30日に永久橋が開通した。これが現在の四ツ木橋である。東向島広小路止まりだった都電も、この橋を渡って路線延長される計画が存在した(着工せず、廃線)。 
 開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。 
 その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。 

京成線橋梁。

上流方向に向かって「京成線橋梁」「新四つ木橋」「四つ木橋」と並ぶ。 

 


旧四つ木橋(今の「木根川橋)。
2・26事件発生の際は、この木橋を市川の陸軍連隊所属の戦車部隊が続々と反乱軍鎮圧に渡っていった、とあります。
  
下流方向。
木根川橋   歌:さだまさし. 作詞:さだまさし. 作曲:さだまさし.
『先生、俺達の木造校舎すっかりなくなっちまったんですねェそれに、あの暑い夏に重いローラー転がしてならしたテニス・コートの上にプールなんか出来ちまって… 先生、時の流れって、そんなもん ...』
さだ まさしさんは、葛飾区立中川中学校出身。


さだまさし
歌手・小説家
1. 昭和27(1952)年~ 
2. 昭和47(1972)年、フォークデュオ“グレープ”として「雪の朝」でデビューした。翌年に発表した「精霊流し」はレコード大賞作詞賞を受賞。平成13(2001)年には、自伝的小説『精霊流し』がベストセラーになる。その後に発表した『解夏』や『眉山』もベストセラーとなり、いずれも映画化された。平成27(2015)年、「一般財団法人 風に立つライオン基金」を設立、国内外で奉仕活動や慈善活動をしている個人や団体を支援したり、大災害が起きた際などに支援活動をするための組織作りを行っている。 
3. 小学校卒業後、ヴァイオリン修業のために単身上京。昭和40(1965)年より昭和42(1967)年まで葛飾区に在住していた。
(この項、「葛飾ゆかりの人」HPより)

「木根川橋」を渡ると、葛飾区に入ります「綾瀬川」。

「荒川放水路(現:荒川)」開削工事は、「綾瀬川」「中川(古利根川)」が流路変更、寸断され、さらに、多くの田畑、家屋が移転しての難工事でした。

荒川放水路

 荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。 
 1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断、死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起した。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先し荒川放水路の建設を決定する。内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年(大正2年)のことである。 
 この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。 
 結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。 


 当時は工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、現代のような重機はほとんどなかった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・物価高騰も難工事に拍車をかけた。 
 1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。 
 「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。 
 また、この部分を横断する鉄道は地下鉄を含め地下(トンネル)ではなく、すべて橋梁で横断している。なお、荒川全体では埼玉高速鉄道線が赤羽岩淵 - 川口元郷間で、新荒川大橋(国道122号)のすぐ西側を唯一地下で抜けている。

(この項、「Wikipedia」参照) 

 

 

(写真・絵図は「」HPより)

このHPには、経緯から現況まで詳しく掲載されています。

荒川放水路で寸断され残された「綾瀬川」が隅田川に合流する地点。「墨提通り」にある「綾瀬橋」という橋が「元綾瀬川」に架かっています。

写真は、綾瀬橋から隅田川との合流点を望んだもの。右手に見えるのは、「伊沢造船」という造船所。創業は1877(明治10)年。古い歴史をもつ造船所です。(2,009年9月撮影)

旧中川。中川(古利根川)が明治末の荒川放水路開削によって分断され、中川は荒川沿いに流れるようになり、西側の部分が取り残されてしまいました。現在、上流は江戸川区・墨田区、下流は江戸川区・江東区の区界となっています。
 かつて、旧中川一帯は、増水・決壊など台風などの被害が続出していた地域でした。また家庭や工場からの排水で淀んだ川になっていましたが、近年は、護岸工事・治水工事、環境整備によってかつての清流を取り戻し、両側の土手沿いの道も川の流れにも親しめる自然環境になっています。都内の広い河川の中では、一番水辺に近く散策できるようです。しかし、蛇行する流れは今も昔も変わりません。北東は荒川に接し、南東も再び荒川に接しています。

旧中川の最上流。「木下川(きねがわ)排水機場」。(2,012年9月撮影)

下町の河川の氾濫から地域を護るための施設。この施設は旧中川の水をくみ上げ浄化して荒川に流すためのもの。
 そのため、現在の旧中川には、かつてのような川上から川下へという流れはない。旧中川全域が潮の満ち干に関係なく、ほぼ一定の低水位に保たれるようになっている。
 「きねがわ」は荒川をはさんだ葛飾区側に「木根川(きねがわ)」として存在する。荒川開削以前は同じ地域・集落と考えられる。荒川の少し上流にある「堀切」なども同じ。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その5。東郷平八郎。やくしみち道標。荒川駅。

2020-05-26 20:42:10 | 沿線歩き

他にも戦中から戦後の写真が掲示されています。

商店街の賑わい。左は、小学校の通信簿。

少し寄り道をします。

東郷元帥の肖像画。「内海特殊鋼」さん。

工場の中にも特大の肖像画。

河合商店 『東郷ハガネ』

 それまでは大阪を通してしか、鉄・鋼を動かすことができなかった。日清戦争(1894~1895年)後、 洋鋼を全国的に普及していった新しい型の商人が河合佐兵衛である。河合佐兵衛は、これまでにない 新しい商法を示し、河合商店の名と洋鋼の名を全国の鉄問屋、金物屋、鍛冶屋に知らしめるべく さまざまな手法を駆使した。
 この新しいハガネ屋は商標、商品名、簡単な熱処理方法を印刷したカラフルな「ラベル」を用途別に ハガネに張った。さらに彼は洋銅の使用法、熱処理方法を印刷したカラフルな「ラベル」を用途別にハガネに貼った。
 そしてこの洋鋼屋が当時の業界にも仰天させた方法とは、東郷平八郎の大きな姿絵の看板である。 当時誰も知らぬ者のなかった海軍大将東郷平八郎の姿を商標として登録した。明治39年のことである。 大きな東郷平八郎の姿絵を描かれた日本橋にある河合商店の店舗や陳列館は近隣に異彩をはなったという。 その後、この黒漆塗りの地に金銀で縁取られた東郷元帥の姿絵の看板は各地の代理店にも見られるようになる。
 さらに彼は洋銅の使用法、熱処理法など体系的に解説した初めての書『洋鋼虎の巻』(2巻)、 『東郷ハガネ虎の巻』、『鋼域大観』を編著している。 大正14年にはヨーロッパの 製鋼所、取引先のイギリスのアンドリユー社、そしてクルップ製鋼所などを9か月間にわ たって見て回った。帰国後ヨーロッパの製鋼所事情の報告会にはそれを聞きに各地から鉄 問屋や鍛冶屋が集まったという。河合の動きは当時のハガネ屋の鉄の科学に対する知識の 高さ、時代を先駆けした鉄商いの方法をまわりに示した。 

 この看板は“東郷ハガネ”を取り扱う代理店に、発売元の日本橋「河合商店」(現:カワイスチール&カワイスチールホールディング)から与えられたそうです。

東郷平八郎海軍元帥

明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。 

(この項、「Wikipedia」参照)

交番の脇に道標。 

「やくしみち道標」。

この道標は、木下川薬師(きねがわやくし)への道しるべで、享保年間(1716~36)に八代将軍徳川吉宗が薬師参詣の際、大畑村(現八広周辺)の人々に道の要所に建てさせたものといわれています。現在の木根川橋のやや下流、川の中央辺りにありましたが、荒川開削に伴い、葛飾区東四つ木1丁目に移転しました。この道標も開削以前は、この場所ではなく、他の場所から移されてきたものと考えられます。向かって正面に「右 やくしみち」右面に「左えと(江戸)みち」、左面に「大畠村講中」と刻まれており、長い間、この道標が薬師参りの人々のために道案内の役割を果たしてきたことがわかります。薬師道のかつての道筋は、白鬚の渡し(堤通1丁目交差点の辺り)から東に向かい、曳舟川で薬師橋(現在の八広1・東向島6交差点)を東進し、この道標前を北上した辺りでゆるやかに右折して薬師堂に続いていました。

「今昔マップ」より)

Aが元の薬師堂、Bが現在のもの。

 

              誰かがマフラーをかけた。

「八広駅」に向かいます。昔からある居酒屋さん。「日の丸酒場」。

左手、「曳舟川通り」との交差点が、「更正橋」。歩道橋には更正橋と書かれています。「曳舟川」に架かっていた橋の名。
語源は? このもう少し西側には私娼の町・玉の井遊郭がありました。永井荷風の『墨東綺譚』に登場します。
そんな遊郭の帰り、川を渡るときに「更正して帰れ!」という意味だったとか? この角にある小学校の名前が「更正小学校」でした。現在は、「八広小学校」に。

 

     「向島更正尋常小学校」とあります。

 

「八広駅」は、かつては「荒川駅」と称していました。

(下に見える写真は、王さんが荒川土手に来たときのものらしい)

「荒川駅」1,994年。

(「You Tube」より)

 荒川橋梁の架け替え工事前]は青砥寄り、荒川堤防上の道路(都道449号)沿いに駅舎および改札があり、構内踏切も設置されていた。架け替え工事により線路が付け替えられたことに伴い、2001年9月15日のダイヤ改正から新駅舎での営業を開始した。コンコースも高架下の中央に移転するとともに下り線に追い抜き設備が設置され、使用を開始した。 (この項「Wikipedia」参照)

高架線になった「八広駅」。

高架線下から振り返る。遠くにスカイツリー。

荒川で行き止まり。迂回して下流に架かる「木根川橋」を渡ります。途中のおうちの真っ赤なバラ。

荒川土手から。

京成線の橋梁。

普段は、河川敷ではサッカーや野球に興ずる姿が。

 自粛解除で一斉に外出しはじめ、電車も混んできました。近所の飲み屋さんもボーリング場も・・・活気を取り戻したのはいいのですが。第二波、第三波が心配です。

 

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その4。「南龍館」、「キラキラ橘」。「生きる」、「七人の侍」・・・。

2020-05-25 20:13:13 | 沿線歩き

「八広はなみずき 高齢者支援センター」。

そのガラス窓に昔懐かしい写真が掲示されいます。それらを紹介します。かつて映画館がいくつかある街だったようです。映画のポスターも。

「南龍館」、「橘館」、「電気館」、「松竹館」、「吾嬬富士館」、「向島映画劇場」・・・。当時、近所の工場で働く工員、庶民の娯楽の殿堂だったわけです。などがあり大いに賑わっていたそうだ。

 向島駅周辺は、東側に映画館「南龍館」、商店街「南龍館通り(現「八広新中通り商店会」)」、西側にミツワ石鹸の工場などがあって、大いに賑わっていたそうです。映画館は昭和30年頃廃業となり、商店街は営業中。

が、商店よりも住宅が多くなっているようです。

        

橘館 

主な活動/プロフィール
かつては30以上の映画館があった墨田区ですが、現在、墨東エリアには映画館がありません。そんな中、私たち橘館は、「まちを映画館に」をコンセプトに、特定の拠点は持たず、廃校、教会、カフェなど映画を映せる環境を探し出し、不定期に映画の上映会を行っています。

(この項、「」HPより)

向島橘銀座商店街

 東京都墨田区の京成押上線京成曳舟駅から明治通りの南東約500mに位置する、南東に伸びる約450mの商店街である。 
一般にはキラキラ橘商店街と通称で呼ばれることが多く、商店街の看板にも「キラキラ橘」と表示されており、惣菜・乾物等の商店が多いのが特色で、墨田区内でも1〜2番手にあげられる有力な商店街。 
 商店街の名称は、昭和6年に映画館の橘館がこの通りにできたことに由来し、戦前から「橘館通り」として地域住民に親しまれてきた。戦時中は物資の不足、戦災等で商業活動も中断したが、戦後は周辺地区の人口の過密化とともに、商店街も復興して戦前をしのぐ勢いとなり、発展を続けた。 昭和35年には「商業協同組合」を設立した。 しかしながら同区に存在する錦糸町や隣区の江東区にある亀戸の副都心化による発展などもあり、大規模な人口流出が起こり、徐々に衰退している。 そこで、商店街を地域の特性である「下町コミュニティ」の核として改めて位置づけ、近代化を進めることによって再生を図るべく、平成元年度の東京都コミュニティ商店街事業の申請を行った。そして、指定を機に、ハード・ソフト両面にわたる意欲的な活性化事業に着手した。 
 商店街の町並みは総じてレトロチックに構成され、戦前の町並みを彷彿とさせる。コンビニエンスストア等は商店街内には設立されていないが、その反面でスーパーマーケットのグルメシティやチェーン店の薬局も垣間見る。

(この項、「Wikipedia」参照)

 (京成線の東側にあります。)

この項、「」HPより

コロナの影響か閉まっている店が目立ちます。

 

 

 

懐かしい映画のポスター。

 

『生きる』

 1952年(昭和27年)10月9日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は志村喬。モノクロ、スタンダード、143分。東宝創立20周年記念映画。 
 無為に日々を過ごしていた市役所の課長が、ガンで余命幾何もないことを知り、己の「生きる」意味を市民公園の整備に注ぐという物語。黒澤作品の中でも、そのヒューマニズムが頂点に達したと評価される名作で、その題名通り「生きる」という普遍的なテーマを描くとともに、お役所仕事に代表される官僚主義を批判している。劇中で志村演じる主人公が「ゴンドラの唄」を口ずさみながらブランコをこぐシーンは、名シーンとしてよく知られている。海外でも黒澤の代表作の一つとして高く評価されており、第4回ベルリン国際映画祭でベルリン市政府特別賞を受賞した[注釈 2]。第26回キネマ旬報ベスト・テン第1位。昭和27年度芸術祭文部大臣賞。 

ストーリー
 市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。 
 ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。 
 その翌日、渡辺は市役所を辞めて玩具会社の工場内作業員に転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行き合う。何度か食事をともにし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。 
 それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取ったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺の遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など幹部たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績をたたえ、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。 
 通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺をたたえていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。

ゴンドラの唄

 

                 

                

                  (「You Tube」より)

『七人の侍』

 1954年(昭和29年)4月26日に公開された日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。モノクロ、スタンダード・サイズ、207分。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年)を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った7人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。 
 当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。黒澤明が初めてマルチカム方式(英語版)(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用し、望遠レンズを多用した。ダイナミックな編集を駆使して、豪雨の決戦シーン等迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、脚本、綿密な時代考証等により、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇から影響を受けており、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。アメリカでは1960年に『荒野の七人』として、2016年に『マグニフィセント・セブン』としてリメイクされている。 
 『七人の侍』は世界で最も有名な日本映画の一つであり、海外の多くの最高の映画のリスト(英語版)に選ばれるなど高い評価を受けている。Rotten Tomatoesでは61件のレビューで批評家支持率は100%を保持、平均点は9.35/10となった[4]。また同サイトにおける「アートハウス&国際映画のトップ100」では第6位にランクインされている。2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では第1位に選ばれた。 ・・・

(この項、「Wikipedia」参照)

 

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その3。向島駅。白鬚線。「八広ふれあい通り」。

2020-05-22 21:49:16 | 沿線歩き

曳舟駅脇の道路。地上を走っていた、かつての線路跡を含む。「八広ふれあい通り」

                             「八広」駅の手前まで通じています。

この付近の今昔。かつての密集地域が解消されるかたちに。(「農業環境閲覧システム」より)

1970年代のようす。密集した家並み。曳舟川通りの整備中。

 

2010年代のようす。整地され、現イトーヨーカ堂など建設中。

「長浦児童遊園」。小さな公園。高架下にも遊具があります。

「長浦」という地名も海にちなんだ名のようです。ここから南西に下ったところにある「地蔵坂通り(「水戸街道」を越えると「曳舟たから通り」)が大昔の海岸線だった、という話をうかがったことがあります。

この付近から「白鬚線」が分岐していた?

(「今昔マップ」より)

「玉の井」を経由して「白鬚橋」までの路線。

以下、2,009年5月、9月と3回に亘って、線路跡をたどった記事を再掲。

・・・

 いつだったか墨田区立緑図書館の展示コーナーの資料で、大正から昭和のはじめにかけての墨田区(戦後、本所区と向島区が合併し現在の墨田区が誕生した。したがって、当時は、まだ「向島区」)の地図を貰ったことがあった。その時に、向島から白髭橋までの京成線があったことを知った。
 その後、何回か周辺地域を自転車や徒歩で歩き回ったが、その痕跡を見つけることはまったく出来なかった。
 さらに今、八広駅から押上駅までの高架線工事が始まっていて(これは、曳舟駅付近の明治通りの踏切で大きな死傷事故が発生、それを機縁として念願だった、高架工事が本格化したものである。)、そのために沿線の家屋などが移転され、すでに線路の敷設までが行われている状況では、なおさら困難である。
 まして、街中においては、戦争でほとんど消失するような大きな被害を受け、敗戦後の復興のため、線路の痕跡は消失してしまっている。それでも、唯一、京成線の線路際に、何とかその痕跡はないだろうか。
 昭和22年の航空写真(goo)では、曳舟駅(現在地よりも、当時はもうちょっと押上寄りだった)と八広駅(当時は荒川駅)との間の線路脇には、少し空間が残っていて、京成の土地のようになっている。その後、昭和38年の航空写真では、その少し北側に車両基地のような建物が出来ている。これは、開業したばかりの都営地下鉄1号線(現都営浅草線)の「向島検修場」の姿である。現在の八広5丁目都営住宅が線路と接する辺りである。
 写真は、曳舟と八広の間の踏切から北側を撮ったもの。すでに高架工事のための仮設線路が敷かれている。

 このあたりに「向島駅」があったと思われる。この踏切の通りが、駅の入り口につながっていたかもしれない。
 一方、永井荷風の「濹東奇譚」(昭和11年11月)には、その年の1月に廃止された「京成玉の井」駅のようすが描かれている。当時、玉の井(現在の「玉の井いろは通り」北西側一帯)は、私娼たちの町として大いに繁盛していた。

「線路(注:東武線・玉の井駅付近の線路のこと)に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取り払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城跡のような趣をなしている。わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて来た道と空き地と新開の町とが低く見渡されるが……」

とあって、京成電車は、東武線を鉄橋で越えていて、駅舎は土手の上にあったようだ。荷風の登った土手や鉄橋が、戦前までは残っていたとか。今は、まったく痕跡もない。
 また、終点の「白髭」駅は、今の「白髭橋病院」(墨堤通りと明治通りの交差点付近)あたりだったらしい。
 「長浦」駅は、曳舟川(現在は埋め立てられ、「曳舟川通り」となっているが、当時はまだ用水が流れ、両側は道となっていた)を渡った所にあったらしい。現在の長浦神社の北西? これも痕跡はない、(と思う)。 
 京成電車(当時の社名:京成電気軌道株式会社)は、1928(昭和3)年に白鬚線(向島 - 白鬚間1.4㌔)を開業。駅は向島・長浦・京成玉の井・白鬚の4駅。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道と結ぶ計画もあったが、1936(昭和11)年2月末に廃止された。その後、「向島」駅も、1947(昭和22)年に廃止となった。 
 白髭線開通当時、向島駅周辺には、南竜館という映画館や商店街(南竜館商栄会)があり、現在、線路沿いにある大きな団地(八広5丁目都営住宅)の所には、ミツワ石鹸の工場があり大い賑わっていたとのこと(緑図書館の資料にもあった)。
 現在、映画館はなく、西側はほとんど商店もなくなり、京成の線路を越えた東側にある商店街も当時の面影はなく、普通の民家も増えて、寂しい街並みになっている。
 なお、駅廃止後の跡地は、京成電鉄の所有地であるため、直接・子会社を含め、たびたび利用されている。
1959(昭和34)年頃、改軌工事に伴う車両の台車交換基地として。 
1960(昭和35)年~1968(昭和43)年  向島信号場を設置(都営浅草線向島検修場への信号場) 
1991(平成3)年~2001(平成13)年 押上線荒川橋梁架け替えに伴う作業基地として。
現在は、八広~押上の高架線工事区間。おそらくこれで、向島駅の痕跡もまったくなくなる。

写真は、白髭線の終点「白髭駅」跡のようす。

「墨堤通り」から見たもの。中央の道が駅入り口の道。奥の車が停まっている辺りが駅入り口。中央奥の高い建物が駅の場所に当たります。

・・・

高架線工事の前には、線路脇(天理教会の裏手付近)に旧向島駅のホーム擁壁が線路脇に残っていましたが、今は撤去されています。

高架下。京成トーンの建物。

この先、左手の敷地は京成の資材置き場。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その2。曳舟。再開発。資生堂。曳舟湯。亀戸線。

2020-05-21 19:40:32 | 沿線歩き

                        地上に出てくる京成線。

線路脇を進みます。下に京成線。奥にスカイツリー。

踏切付近。遠くに曳舟駅手前の高層住宅

                             (左:「URイーストコア曳舟」、右:「アトラスタワー曳舟」)

すぐ脇を電車が通過します。線路際にはちょっとした緑の空間。

 

来た道を振り返る。

線路脇の小道を進みますが、途中で行き止まり。回り道して線路に近づこうとしますが、・・・。

「URイーストコア曳舟」が遠くに。

ここも線路に阻まれ、行き止まり。

実は京成線、東武亀戸線を高架で越えていきます。迂回して東武線の踏切を渡ります。奥が京成線の高架。

 

 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。

〔主な年表〕(「Wipedia」による)

1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。 
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となるも、乗り入れは継続。 
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。 
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。 
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。 
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。 
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。 
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。 
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。 
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。 

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。

 その後、隅田川に架橋して現在の「浅草」駅が完成、東武鉄道は都心に乗り入れることになりました。そうなる以前、今の「東京スカイツリー」駅(その前は「業平橋」駅)が、「浅草」駅となっていた時代もありました。
 こうして、亀戸線はローカル線として存続することになります。

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。一方で、曳舟付近の低層住宅(亀戸線以北地域)は偶然にも類火を免れました。亀戸線が防火線になったようです。gooの1946年(昭和21年)当時の航空写真を見ても歴然としています。

 亀戸線は、現在、「曳舟」~「小村井」~「東あずま」~「亀戸水神」~「亀戸」の駅がありますが、今も東京・下町の大事な足として、地域とのつながりも深い路線となっています。

 年表にもあるように、かつては「曳舟」と「小村井」(ある時期から、この読みも「こむらい」から「おむらい」に変わっています)の間に、「虎橋通」駅と「十間橋通」駅があり、「亀戸」と「東あずま」(旧「平井街道」)との間に「北十間」駅がありました。
 また、「Wikipedia」には、「天神」駅という駅名もありますが、「小村井駅」から曳舟方に進んで1つ目の踏切付近に天神駅があった、とされています。

(この項、2015年4月投稿「東武・亀戸線再訪〈廃駅跡をたずねて〉」より)

 

うろうろしているうちに高架線の下に。

東武・京成「曳舟」、曳舟通りを挟んだ地域は大きく変貌を遂げています。

曳舟エリアの歴史
京成の東武も「曳舟」駅ですが、「曳舟」という住居表示は現在存在しません。・・・
曳舟を含む墨東エリアは日本の1880年代から1920年代まで工業で日本の近代化を支えた地域です。この頃に曳舟でも大小様々な工場とその工場で働く従業員向けの長屋が多く建設されました。曳舟界隈は第二次大戦の空襲で焼け残った街区も多く、戦後もその区画割りを残したままになっていました。
そのため現在も多くの街区で低層の木造家屋が密集したままになっています。防災上もリスクが高く、行政も道路の拡張や防災公園の建設に力を入れて来ましたが、部分的な改良だけでは限界がありました。
住民からわき上がった開発計画
その様な状況の中、住環境の改善と災害に強い街づくりを指向し、大規模な開発を求める声が住民から起こりました。対処療法ではなく、根本的の解決策として大規模な再開発を選択したのです。
資生堂東京工場跡地に建設された公団住宅を核にして開発を進めるようになりました。1980年代後半には民間業者と事業を進めましたが、バブル崩壊で話は潰れたようです。平成7年準備組合が住宅・都市整備公団(現=都市再生機構)と協議。昭和62年4月 住宅・都市整備公団(現「都市再生機構」)賃貸住宅「曳舟駅前プラザ」完成。
平成5年4月「曳舟駅前地区市街地再開発準備組合」設立。平成10年「曳舟駅前地区」に京島1の1(永柳工業)が加わり、現在の範囲(2.8ha)になりました。
平成11年7月「京成曳舟駅前東第一地区市街地再開発準備組合」設立。平成12年 押上駅-八広駅間の京成押上線都市計画事業認可事業着手。平成13年「曳舟周辺地区」地区計画の方針区域を決定。京島1丁目の11.2haまで拡大というような経緯を経て現在の曳舟再開発が進んできました。

(この項、「」HPより)

※曳舟川沿いにあった主な工場は、ミツワ石鹸、資生堂、鳥井陶器、共和レザー、富士革布、永柳コルク、帝国発条、大同製鋼、菊美酒造 (現合同酒精)、日本鋼釘、等。
 山田洋次監督の 映画『下町の太陽』は、曳舟駅付近にあった資生堂の石鹸工場とその周辺を舞台にした映画で、主人公・倍賞千恵子は、資生堂で働いている。

「曳舟川」とこの近辺は何回か投稿しています。

  

現在の埼玉県の越谷(東武越谷駅の東)付近、利根川の支流・中川(元荒川)から取水し、江戸の本所・向島や亀戸への上水道として流れていた川が、今の曳舟川の前身。古くは、亀有上水(葛西用水とも)と呼ばれ、葛飾区内では、近年まで、川の中に瀬が続いて、二本のけっこう広い流れになっていた。
 途中(現在の葛飾区内の荒川放水路の手前)で、亀戸・中居堀への水路(正しくは、現在「向島警察署前」という信号機、明治通りとの交差点を八広から来る道。)と、向島へ向かう水路に分かれていく。
 もともとは、明暦の振袖火事(1658年)によって、江戸城の天守閣が焼け落ちる(その後、天守閣は二度と再建されなかった)などの江戸市中が大火災に遭った後、隅田川(荒川の下流)以東の地(それまでは、下総の地であった)を江戸市中として開発するために行った上水道計画で、本所、深川、向島、亀戸付近に水を供給したのである。
 この時には、「本所奉行」が新設され、大横川、横十間川、北十間川、小名木川(おなぎがわ)、竪川(たてかわ)などの人工水路が縦横に掘削され、物資や人の交流が盛んになっていった。
 その水路は、今でも錦糸町駅の北側に大きな伽藍を構える法恩寺付近までつながっていたという。この地域の水路は、享保7年(1722年)に廃止され、現在の北十間川以北が、水路として残され、「曳舟川」という名称となった。
 曳舟川のいわれは、舟を両岸から引っ張っていたことからだという。客を乗せたり、米、肥料、日用品などを運んでいた。(水戸街道・四つ木橋北詰にある「四つ木めだかの・・」と名付けられた親水公園に、このへんのいきさつが書かれた碑があるが、ちょっとおおざっぱすぎる。)
 そのうち、最近まで、葛飾区内には、そのままの流れが残っていたが、近年の下水道工事の進展などで、長い親水公園や駐輪場になっている。
 一方、荒川放水路を越えた、墨田区側は、かなり前にすでに道路となって、「曳舟川通り」と名付けられている。新四つ木橋から東武線業平駅付近、言問橋から来る通りとの丁字路まで。
 京成線の駅の数にして3つほどの距離。信号が多い通りなのは、かつての橋が架かっていた名残なのか。昭和20年後半頃までは、まだ川が流れていたような気がする。情緒豊かな川なんていうものではなく、周辺の町工場の排水や生活排水などがそのまま流れ込んでいて、まさにどぶ川であったような・・・。(隅田川も真っ黒で悪臭やら何やら、魚が生息できるような川ではなかった。下水道が完備される前の下町の河川は、どこも同じような状況であった。)
 実は、曳舟川通りの交差点の先、小さな公園と路地までが、曳舟川の痕跡。
 写真は、その元の曳舟川が、北十間川と合流する辺りから、曳舟川通りの北方を写したもの。右の植え込み部分が、もとは川筋だった。
 東武(京成)曳舟駅付近は、再開発の真っ最中。京成と東武に挟まれた、かなり広い敷地が高層マンションやショッピングモールに大きく変わろうとしている。
 東武線の線路を挟んだ向こう側には、「スカイツリー」という600㍍タワーが建設中。すでに5階くらいまでの骨組みが完成している。
 あと数年で、この辺りも大きく変貌するに違いない。

(2009年3月投稿)

写真は、かつてあった「曳舟湯」。レトロな味わいのあるお風呂屋さんでした。

  その後、このお風呂屋さんは戦前からの80年という長い歴史を閉じて、廃業しました。
 この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。
 京成線の西側は行き帰りで通り、その町並みの大きな変化も身近に感じますが、東南側は「ひきふね図書館」以外、あまり歩く機会がなくなりました。
 そこで、久々にかつてあった「曳舟湯」付近をちょっと歩いてみました。実に様変わり。「曳舟湯」がどこにあったのか、皆目見当がつかないほど。建物だけでなく路地もなくなり、道路も付け替えられ、広くなって・・・。
写真の奥付近? 

この付近にあったはずですが。

「スカイツリー」。

 一帯は再開発され、「アトラスタワー曳舟」という大きなマンションになっています。一部が「曳舟湯」にかかっているようです。
○付近が「曳舟湯」跡? 

かつての町並み。密集した家々。

 実はその「曳舟湯」さん。「アトラスタワー」の1Fで喫茶店を開いていました。ご主人もそのまま。店名は「1010CAFEいちまるカフェ」。


               

 ちょうどかつて「曳舟湯」があったところなのです。何だかホッとしました。そういえば、チェーン店ばかり営業している中で、当時の中華そば屋さんや床屋さんなどもマンションの一角で営業していました。

そこから京成曳舟駅方向を望む。

この奥の方はかつてのまま。

児童公園。

 そういえばやはりこの付近に「三佑酒場」という飲み屋がありましたが、そのお店もありません。
 (2017年8月投稿)


現在の京成曳舟駅入口。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その1。スカイツリー。生コン。業平・押上。

2020-05-20 21:16:16 | 沿線歩き

                          本所吾妻橋交差点。

時折、目にするTV番組。ひたすら鉄道線路に沿って歩く、という企画。

都内から他県へは自粛せよ! というお達し。街道歩きも出来ず、いささか退屈。運動不足も加わって・・・。

そこで、TV番組にあやかって、都内の線路伝い(当面、京成電車)をしてみようと。さっそく、本所吾妻橋駅から青砥駅まで。約14,000歩。

かつて、東京の下町・墨東地区。家々の軒先をかすめるように走っていた京成電車。「押上(地下駅)」から「四つ木」までは高架線になり、さらに「四つ木」から「青砥」までは高架線すべく工事が進んでいます。

さて、その変貌ぶりは?

左手に「スカイツリー」が見えてきます。

「大横川親水公園」。「業平橋」から。

「業平橋」付近の今昔。○が「業平橋」。かつての橋は少し上流に。

         

1880年代のようす。              2010年代のようす。 

 

「浅草通り」の下を進む都営地下鉄浅草線は、この先で、左に折れ、押上駅に進みます。

○の付近から北東へ。下方の線路は、浅草駅に向かう東武線。

このビルの下辺りを進むか? 

「浅草通り」。

 昔からのお店や新規開店のお店など。頭上に電柱がないので、すっきりした印象。一方で、何となく寂れた街並みに。スカイツリーにお客を取られたのか、歩く人もまばら。

「北十間川」。左奥に見える建物がかつての京成電鉄の本社ビル。

左に「スカイツリー」。外出自粛で、外国人も日本人もほとんど見かけない。かつての賑わいをいつ取り戻せるか?

かつて、川沿いの一画は大きな「生コン」の工場があり、ミキサー車などがたくさん出入りしていました。

「生コンクリート工場発祥の地」記念碑。

 戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年(1949)11月この地に日本で初めての生コンクリート製造会社が操業されました。

 それまでの施工方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路、鉄道工事を中心に急速に広まり、わが国の高度成長期を支えてきました。

 ここに生コンクリートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑を建立いたします。 

写真は、もとあった大きな二つの「セメント工場」(「東京エスオーシー」「日立コンクリート」、・・・)がすっかり整地され、その向こうに工事現場をのぞんだもの。はるか遠く中央奥にかすかに見えるのは、アサヒビール本社ビル。左は、高層住宅。右手の奥に、墨田区役所の高層ビルがある。

 東京エスオーシー(「住友大阪セメント」の直系生コンメーカー)の業平橋工場は、日本初の生コン工場として1949(昭和24)年に操業し、主に大型建築物へのコンクリートを供給していましたが、2007(平成19)年10月に操業休止。同じように、製造・販売していた日立コンクリートも、ほぼ同時に操業をやめました。
 ここは、見上げるような大きな設備と、ひっきりなしにミキサー車が出入し、いつもほこりでもうもうとしているような地域でした。

(2009年4月投稿の記事より) 

「押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業」記念碑。

    この地域の歴史と発展が記されている。

東武の「業平橋」駅は、「東京スカイツリー」駅になっています。『伊勢物語』「在原業平東下り伝説」にちなんだ駅名だったのですが。(この駅は、「吾妻橋」、「浅草」、「業平橋」と、3回も名を変えています。今回で4度目の改名。)

 

「京成橋」。地上駅だった「押上」駅を出ると、正面にこの橋がありました。

・・・

写真③は、1957(昭和32)年頃の写真です。都営地下鉄浅草線が開通するまで、押上駅は、戦後まもなく建てられたバラック建ての駅舎でした。京成橋の欄干もまだ木造ではなかったかと記憶しています。

左が「京成本社」。

・・・

1952(昭和27)年5月、上野公園?押上駅前経由?今井橋間に都営のトロリーバスが開通しました。
 経済発展と共に交通量が増大し、都内の交通機関の拡充が求められていました。しかし、当時はガソリンが不足しており、価格も高価であったため、まだバスの普及は困難でした。トロリーバスは都電にくらべて、レールの敷設が不要であり、容易に施工が出来たこともあったため、都電に替っての普及が期待されました。
 上野公園~今井橋間の開通に続いて、1957(昭和32)年1月、明治通りを走る池袋駅~福神橋経由?亀戸駅間が開通します。料金は全線15円でしたが値上げが重なり昭和42年には30円になりました。(「墨田区の昭和史」より)
 その後、ガソリンも充足し、大型バスの普及により、都電の廃止と共に、1968(昭和43)年9月、トロリーバスは廃止されました。わずか16年間という短かい期間の運行でした。
 トロリーバス・都電が廃止された同じ年の1968(昭和43)年11月、都営地下鉄浅草線が全線開通しました。

(この項、「押上一丁目仲町会」HPより)

トロリーバスのモニュメント(今井橋)上がトロリーバス、下が城東電車。

かつての本社ビルの今。現在は、ホテルなどの複合施設に。

「押上駅(スカイツリー前)」入口。

「押上」の地名の由来としては、

①海岸線(東京湾=江戸湾)が今の北十間川・現在の京成橋あたりの所まであり、そこへ常に潮が押寄せ、押上げた所からこの地名が興った。

②東京湾に注ぐ隅田川(他の河川も含め)が作った土砂が少しずつ堆積し、押し上げられて陸地化したことに由来する。

という2つの説があるようです。海の土砂か川の土砂か? その両方か? 

 近辺には「向島」「請地(浮き地?)」「小梅(小埋め?)」「中ノ郷」「柳嶋」「京島」「寺島」「牛島」などという地名があり、河口付近(海岸の浅瀬付近)の湿地帯に島のように少し盛り上がった土地があったようです。現在の様子からでは考えられませんが、今でも「向島百花園」付近は、海抜ゼロ㍍地帯です。

ついでに「業平」に関しては、

 業平という町名の起源は中ノ郷八軒町(現在の浅草通り伊北の吾妻橋三丁目)に「業平天神」が祀られていたためで、この「業平天神」は明治初年迄「在原神社」の名で中ノ郷八軒町の「南蔵院」にあった。平安時代の歌人在原業平を祀ったといわれるのが、この「在原神社」である。「江戸名所図記」と云う本に「在原業平が京に上がろうとして、この地で舟がこわれ、死なれたのを塚にしてとむらい。地名も業平村と云う」という意味の事が書かれていると土地の古老は伝えている。何れにしても在原業平か又は、その名に関係する塚にして、この地に「業平天神」が建てられたのもごく自然の縁起といってよい。「南蔵院」は山号を業平山と称し、大岡政談の「しばられ地蔵」で古くから有名な寺であったが、区画整理で葛飾区へ移転した。このように業平の地名の起こりはまことに由緒深いものである。
 なお、業平橋は寛文2年(1662年)に、当時の奉行伊奈半十郎によって「南蔵院」から東方約百メートルの地点に作られた。長さ7間、幅2間の板橋で、「業平天神」にちなんで命名された。現在の洋式鉄橋は昭和5年3月に架設された。
 業平の中心を東西に走る浅草通りは、区画整理にともなって現在の広さに拡張された。

(この項、「おしなり商店街振興組合oshinari.jp」HP参照)

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検察庁法改正(悪)案に反対します。

2020-05-17 20:15:33 | 平和
恋愛ドラマ風に分かりやすくまとめた相関図(改訂版)
              +ドロドロ最終回Ver.です!

(「lil 金魚@rubberringss」からの借用。)ここでは「?」を付して二つの選択肢がありますが、「取り下げ」は、ちょっと希望的観測過ぎ。時間的余裕はありませんが、もっと反対の声を上げないとならない、と。
 
 来週にも採決する腹づもりの自民党に対して、同じ与党として、「公明党」の山口さん。

 「検察官の定年延長を含む検察庁法改正案の趣旨が国民に伝わるよう、政府として丁寧に説明していただきたい。検察官は一般職の国家公務員でもあり、一方で司法の担い手の一翼でもあることを踏まえて制度化を図っているという趣旨がよく理解できるよう、説明責任を尽くしてもらいたいと考えます。」

 と発言しているようですが、政府与党の党首として、まず自らがきちんと国民によく理解ができるよう説明すべきです。まして弁護士の資格を有している方ですから。
 また、説明責任を尽くさず、審議を打ち切っての強行採決には(この間のように、政権離脱をちらつかせ)反対して下さい。ま、間違いなく、こうした期待は裏切られるでしょうが。
 強行採決した後、今度は「政府として丁寧な説明を行った」とするという、いつもの公明党のやり口?
 まさか「一律10万円」が取引材料だったということはないでしょうが。
 今、こんなニュースが飛び込んできました。櫻井よしこの番組の中で、櫻井よし子さんが「これは法務省の官房長から提案があったのですよね」という誘導尋問した時のアベ首相の返答が元です。

 首相官邸の介入が取り沙汰される黒川弘務・東京高検検事長の定年延長に関し、安倍晋三首相は、法務省側が提案した話であって、官邸側はこれを了承したにすぎないとの説明に乗り出す構えだ。検察官の定年に関する従来の法解釈を変更し行ったと説明している異例の人事は、あくまでも同省の意向に基づくと主張し、理解を求める。
 黒川氏の定年延長を法務省が持ち出したとする説明は、首相が15日のインターネット番組で言及した。問題の発端となった黒川氏人事への政治介入を明確に否定することで、検察庁の独立性が揺らぎかねないと反発する世論の沈静化を図る狙いがあるとみられる。
(この項、「共同通信」より)
 これによって、法務省内はてんやわんやで、アベ発言をフォローするためのつじつま合わせにこの間と同じような手口を取ることに。
 法務大臣は、国会でも記者会見でも一切言及していなかったことです。
 このことに新たな犠牲者が出なければいいですが。 
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歌舞伎鑑賞教室。その6。「傾城雪吉原(けいせいゆきのよしはら)」。―歌舞伎座―。

2020-05-15 18:48:38 | お芝居

                        坂東玉三郎の踊り。

  

雪がしんしんと降る闇夜に浮かび上がる玉三郎。

     はっとするような幕開け。



五代目坂東玉三郎
 歌舞伎界を背負って立つ立女形。評価の高い舞台での美しさと存在感に加え、昭和歌舞伎を代表する大役者・六代目中村歌右衛門亡き後、かつて歌右衛門がつとめた数々の大役を継承して新しい境地を確立している。若くしてニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に招聘され、アンジェイ・ワイダ、ダニエル・シュミット、ヨーヨー・マら世界の超一流の芸術家たちと多彩なコラボレーションを展開するなど、その影響と賞賛は世界的なものである。
 また、映画監督・演出家としても独自の映像美を創造した。その他にも、演劇全般に関する私塾「東京コンセルヴァトリー」の開校や熊本の八千代座保存への協力など、演劇以外にも活躍している。また歌舞伎だけでなく、10代半ばよりレッスンを受けたバレエの実力も、プロ・バレリーナと一緒に踊りをこなしても何の遜色もないどころか、玉三郎自身が一バレエダンサーとしての評価にあずかるほどのものがある。
 近年は歌舞伎と縁の薄い邦楽の演出も手がけている。趣味はダイビング。
 五代目玉三郎は、梨園の出でないばかりか、小児麻痺の後遺症をリハビリで克服したこと、その影響で左利きとなったこと、女形としては長身であること(公称173cm、過去に某雑誌では175cmとも)、芸風や活動方針を巡って六代目歌右衛門との間に永年の確執があったこと(後年和解)など、数々の苦難を克服しつつ精進を続けて今日の地位を築きあげた、現在の歌舞伎界における希有の存在である。

主な歌舞伎の当たり役
『鳴神』の雲絶間姫(くものたえま ひめ)
『桜姫東文章』の桜姫(さくら ひめ)
『義経千本櫻』の静御前(しずか ごぜん)
『壇浦兜軍記』の阿古屋(あこや)
『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋(やつはし)
『花街模様薊色縫』の十六夜(いざよい)
『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子(しらびょうし はなこ)
『鷺娘』の鷺の精(さぎの せい)
『助六由縁江戸桜』の揚巻(あげまき)
『鰯売恋曳網』の蛍火(ほたるび)
              
(この項、「Wikipedia」参照)
 齢、既に70歳なんですね。
 ずっと昔、半世紀近く前に「高校生のための歌舞伎教室」というのが、歌舞伎座で開かれていました。その時、生徒が「みんな男だって分かったけど、一人だけ女の人がいたよね」と口をそろえて言います。それが若き日の玉三郎でした。

一転、華やかな舞台に。

                  



再び雪が舞い、

   静かに幕が下りる。

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歌舞伎鑑賞教室。その5。「月光姫恋暫(かぐやひめこいのしばらく)」。―歌舞伎座―。

2020-05-14 20:22:39 | お芝居
 「第38回俳優祭」。2017年3月28日(火)。
・・・
歌舞伎座で開催された第38回俳優祭は、おかげさまで大盛況の裡に終了しました。
ご来場いただいたお客さまをはじめ、ご協力賜りました松竹株式会社、歌舞伎座、舞台スタッフなど、関係各位に厚く御礼申し上げます。
今回の俳優祭は、「日本俳優協会再建設立60周年記念」として開催いたしました。
明治22(1889)年、歌舞伎座と同じ年に設立された俳優組合は、第二次世界大戦の末期に解散し、その後多くの人たちの苦労の末に、昭和32(1957)年2月に再建設立総会を開き、再出発いたしました。
 それからちょうど60年を経て、記念の「俳優祭」を開催し、無事に終了したことに感謝しております。
・・・
一、舞踊二題 -伝統歌舞伎保存会研修発表会
(上) 二つ巴
二つ巴(大星家=大石家の家紋)の題名のとおり、『仮名手本忠臣蔵』が題材。前半は七段目(祇園一力茶屋の場)で討ち入りの志を隠して遊興にふける由良之助と本心をさぐりに来る三人侍、夫勘平のため遊女となったおかるの虚々実々のかけひきが描かれます。後半の十一段目(討入の場)では、塩冶家の浪士たちと高家の侍との息詰まる立廻りが見ものです。
華美な化粧や衣裳・装置なしに、扇一本だけで描き出されるストイックな世界-ふだんの歌舞伎舞踊と違う素踊の味わいをお楽しみください。
『仮名手本忠臣蔵』が題材。前半は七段目(祇園一力茶屋の場)で討ち入りの志を隠して遊興にふける由良之助と本心をさぐりに来る三人侍、夫勘平のため遊女となったおかるの虚々実々のかけひきが描かれます。後半の十一段目(討入の場)では、塩冶家の浪士たちと高家の侍との息詰まる立廻りが見ものです。
華美な化粧や衣裳・装置なしに、扇一本だけで描き出されるストイックな世界-ふだんの歌舞伎舞踊と違う素踊の味わいをお楽しみください。

(下) 石 橋
古来、百獣の王・獅子と百花の王・牡丹の取り合わせは縁起物として日本人の大好物。なかでも能『石橋』-文殊菩薩が住まう中国・清涼山の、千丈の谷に架かる幅一尺の石の橋の上で、霊獣・獅子が牡丹の花と戯れ舞い狂う-のイメージは広く人口に膾炙し、のちに石橋物といわれる数々の歌舞伎舞踊(『相生獅子』『枕獅子』『英執着獅子』『連獅子』『鏡獅子』など)を生みだしました。また祭礼で粋な鳶頭が獅子舞にからんだり、手古舞姿の芸者が小さい獅子頭(手獅子)や獅子頭に見立てた二枚扇(扇獅子)を持つ姿も、『お祭り』『神田祭』『勢獅子』などでお馴染みです。
長唄『石橋』をベースに、そうした「獅子物」のいいとこ取りをしたスペシャルバージョンです。

二、模擬店
「俳優祭」と言えば模擬店。
食堂、ロビー、売店・・・・・・ありとあらゆるところで素顔の俳優たちが皆様のご来店をお待ちしております。
今年の目玉は写真館です。『石橋』の仔獅子メンバーと一緒に記念撮影。
三、『月光姫恋暫』-かぐやひめこいのしばらく-五場
 ここは天界・月宮殿。王と妃は、美貌にもかかわらず生まれつき気性の荒い一人娘・かぐや姫の行く末が心配でならない。
 今日も今日とて、姫に仕える局たちに大けがを負わせる始末。とうとう王と妃は、かぐやを地球へ修行の旅に出すことにし、「汝に欠けたるものを会得するまでは、王女として迎え入れることはできぬ」と厳命する。
 さて、何がおこるか、どうぞお楽しみに。



(この項、「」HPより)

 「公益社団法人日本俳優協会」は、歌舞伎・新派そして商業演劇に出演する俳優の職業団体。但し、会員名簿を見ると、歌舞伎、新派の俳優がほとんど。なお、今年「第39回俳優祭」が開催される予定でしたが、コロナの影響で延期されているようです。

歌舞伎役者が勢揃いの舞台。

          

・・・

 



         

   

ごあいさつ 坂田藤十郎。

 それぞれの役者がのびのびと演じていながら、きちんと所作事をこなしているのは、さすがです。
 「俳優祭」の演目は、シンデレラであったり、宝塚であったり、変幻自在の作品。観客も一体となって楽しんでいます。
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歌舞伎鑑賞教室。その4。「団子売(だんごうり)」、「高坏(たかつき)」。ー歌舞伎座ー。

2020-05-12 20:06:44 | お芝居
 

                  
 故18代目中村勘三郎が「勘九郎」のころの演目。前の歌舞伎座のときのもの。勘三郎は完成前に惜しくも亡くなってしまい、新装なった「歌舞伎座」には縁がありませんでした。

 餅屋台を担いでやって来たのは団子売の夫婦の杵造とお臼。二人は杵と臼を取り出すと、仲良く餅をつき始める。餅つきを終えた二人は、童唄に乗ってゆったりと踊るが、やがてひょっとことお多福のお面をつけて賑やかに踊り始めます。
 江戸時代に流行した団子売の風物を舞踊にしたこの作品は、仲のよい夫婦が軽やかに踊る人気舞踊です。


                

義太夫に乗りながら、

2人の息の合った踊り。



2人でついた団子餅、お盆で見事にキャッチ。

ちょっと小太りの勘九郎がご愛敬。

お多福のお面がはまりすぎ。

                     

ひょっとこのお面をつけて踊る三津五郎。
 この三津五郎も勘九郎が亡くなった2年半後に59歳の若さで亡くなっています。
    

 2人とも同年代で、公私ともに大変仲が良かったようです。
 当代きっての歌舞伎役者2人が今も健在なら、さぞかしすばらしい舞台が展開されていたと思います。
         

続いて、「高坏」。
下駄でのタップダンス! お見事!
【あらすじ】
 酒宴を開こうとしたが高坏(食物や盃をのせたりするのに使う足つきの台のこと)がない。
大名は次郎冠者に命じた。さて困ったのは、次郎冠者。高坏がどういうものか知らない。
 ずる賢い高足売り(高下駄を売る行商人)の言うことを真に受け、高坏の代わりに高足を買い、酒を一滴残らず飲み干してしまった次郎冠者は高足を踏み鳴らし陽気に踊り狂う。

 昭和8年(1933年)の初演当時に流行っていたタップダンスを歌舞伎に取り入れて、名優と言われる6代目尾上菊五郎が次郎冠者を演じた。
6代目は2回しか演じなかったそうだが、それを継承したのが17代目、そして18代目中村勘三郎の当り芸になっていました。


                

高下駄を操っての見事な舞い。

                     



                    
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「歌舞伎鑑賞教室」その3。「仮名手本忠臣蔵・祇園一力茶屋の場」―歌舞伎座―。

2020-05-11 21:26:27 | お芝居
今回は2019年2月 歌舞伎座での公演。

            

仮名手本忠臣蔵七段目 祇園一力茶屋の場

 ここは賑やかな遊里・京都祇園の一力茶屋。大星由良之助が敵討ちのことなど忘れたかのように連日酒を呑み、遊興の限りを尽くしている。お軽の兄・寺岡平右衛門(てらおかへいえもん)は、敵討ち参加を願いに訪ねて来たものの、相手にもされない。一方、元は塩冶家の家老だった斧九太夫(おのくだゆう)はいまでは師直側に寝返り、由良之助の本心を探るため、由良之助に届けられた密書の盗み読もうと床下に隠れている。
 そうと知らず由良之助が密書を読み始めると、いまでは遊女となったお軽が二階から覗きみる。それに気付いた由良之助はお軽を手元に呼び、密書を読んだと聞くと、身請けして自由の身にしてやると言って、身代金を払いに奥へ入る。
 お軽が喜んでいると兄・平右衛門に出会う。平右衛門は、由良之助がお軽を身請けする真意は、口封じに殺すためだと気付く。そして妹に、どうせ殺されるなら兄の手にかかって死んでくれ、敵討ちに参加するために兄に手柄を立てさせてくれと頼む。
  お軽が命を差し出そうとしたその時、兄妹の一途な心を見届けた由良之助が止めて、平右衛門に敵討ちへの参加を許す。そしてお軽に刀をもたせ、手をそえて床下に潜んでいた九太夫を刺殺させる。お軽に裏切り者を討たせて、亡き勘平の代わりに功を立てさせたのであった。
(この項、「歌舞伎演目案内」HPより)

舞台は、女中達と目隠し鬼に興ずる由良之助の登場から。

 そこへ、由良之助方の侍3人が乗り込んできます。足軽の寺岡平右衛門がお供として。
 3人は、「討ち入りのご決意を」と詰め寄りますが、笑ってはぐらかす由良之助。刀を抜いて迫る3人に、寺岡平右衛門が待ったをかけ、討ち入りの連判状を差し出します。


 が、由良之助は酔ったまま横になってしまい、平右衛門が持参した連判状を払いのけます。


 平右衛門が下がると、花道から由良之助の息子の大星力弥が息を切って駆け込んできます。
 「力弥か。急用か」
 「ただ今、御台の顔世様から、密書が届きました。委細はお文に」


 座敷に戻った由良之助に「由良之助どの」との声。共に塩谷判官のもとで家老をしていた斧九太夫。
 ふたたび酔いの姿に戻る由良之助。
 二人は酒を酌み交わしはじめます。
 酒の肴に、と差し出されたのは、蛸。九太夫は、「明日は主君塩谷判官の命日。その前日に、貴殿はその肴を食うか」
 由良之助は蛸を食べてしまいます。そして、由良之助は立ち上がり、座敷を出ていきます。

 物陰からその有様を見ていた鷺坂伴内(塩谷判官の仇、高師直の手下)。力弥が持参した書状が気になる九太夫は駕籠に乗ったふりをし、伴内を去らせ、座敷の軒下に忍び込みます。




          
 夫勘平のために身売りされてきたお軽が二階で酔い覚ましと風に当たる風情で登場します。
 由良之助は灯籠の灯りを照らし、先ほどの書状を読み始めると、お軽は手鏡を取り出し、盗み見をします。一方、やはり縁の下に隠れている九太夫も落ちてくる書状を盗み見します。

 由良之助がはっとしてお軽を見上げると、お軽もあわてて鏡を隠す。
 由良之助は座敷から縁の下へ降り立つと、下から二階の窓を見上げ、お軽は窓から由良之助を見下ろします。
 書状を見たお軽をそのままにしておくわけにはいかない。

 そこへ平右衛門が帰ってきます。

 平右衛門は父、与市兵衛の死と勘平の切腹を告げます。さらに、「書状を盗み見た軽を殺すことで、仇討ちの一味連判に加わることができる。」と刀をふりあげてお軽に迫ります。
 お軽は兄の言葉に、口を開きます。

「わたしは、自害いたします。お役にたててください」
 そう言うがはやいか、お軽は平右衛門から刀をもぎとろうとします。
 そこへ座敷の奥から「待て!」との由良之助の声。
 「兄妹とも、見上げた。疑いは晴れた」

 「軽、そなたが勘平の代わりに仇討ちをするのだ」
 そしてお軽の持つ刀を由良之助は畳にぐっと突き刺します。その下には刺し抜かれた九太夫。

 「恩を受けながら仇で返すとはお前のことだ、九太夫。とりわけ今夜は殿の逮夜。よくも魚肉を突きつけたな」と。(注:命日の前日の夜を「お逮夜」と言う)
 そして、平右衛門に告げます。
「鴨川で、な」
「水雑炊を食らわせい」
「行け!」

 さすが松本 白鸚(まつもと はくおう)の貫禄勝ち。

二代目 松本 白鸚 は、前名の九代目 松本 幸四郎しても知られています。
 歌舞伎ではお家の高麗屋の芸を継承し、外祖父の播磨屋の重厚な演目も受け継ぐ一方で、現代劇やミュージカルでの活躍、特に『ラ・マンチャの男』の主役は名高い。『王様と私』の主役をそれぞれ英語でこなしたこともあるとか。今は、「ソニー損保」のCMでお目にかかります。
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「歌舞伎鑑賞教室」その2。「通し狂言 東海道四谷怪談」―国立劇場―。

2020-05-08 19:38:02 | お芝居
 2015年12月公演

 鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。文政8年(1825年)、江戸中村座で初演されました。
 「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というお話。

 南北の代表的な生世話狂言。『仮名手本忠臣蔵』の外伝という体裁で書かれ、「お岩伝説」に、不倫の男女が戸板に釘付けされ、神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられています。

 ・お岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、
 ・お岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、
 ・蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっています。

 以前、掲載したものの再録。旧東海道を歩き終えた、その年の12月。「永青文庫」で件の浮世絵展に行った、そのすぐ後。2015年12月にUPしたものです。

・・・

 歌舞伎は久しぶりなので、とても楽しみ。
「旧東海道」の旅が終わって、こうして「東海道四谷怪談」って趣向もなかなかいいわよね。

 あなたもよく考えているわ。誘ってくれてありがとう。

 この席、花道も舞台もよく見えるし、いい席でよかったわ。

 松本幸四郎と市川染五郎か。興味深い組み合わせね。

 花道で、作者の南北さんが口上を言っているわね。あらやだ、染五郎じゃない。さっそく登場。なるほど、四谷怪談と赤穂浪士の関わりを、へえ、ご親切にね。

 そうよね。それでも、なんで「四谷怪談」に「東海道」って付いているかしらね。舞台は江戸の土地が出てくるだけだし、最後の討ち入りの場面は鎌倉になっているけど、「東海道」とは直接、関係ないし、・・・。家に帰ってから調べてみるわ。

 さて、始まり、始まり。ストーリーは何となくわかるけど、イヤホン・ガイドを頼りに。

通し狂言東海道四谷怪談 三幕十一場

発 端   鎌倉足利館門前の場
序 幕
 第一場  浅草観世音額堂の場
 第二場  浅草田圃地蔵前の場
 第三場  同   裏田圃の場 

二幕目
 第一場  雑司ヶ谷四谷町民谷伊右衛門浪宅の場
 第二場  同        伊藤喜兵衛宅の場
 第三場  元の伊右衛門浪宅の場

大 詰
 第一場  本所砂村隠亡堀の場
 第二場  深川寺町小汐田又之丞隠れ家の場
 第三場  本所蛇山庵室の場
 第四場  鎌倉高師直館夜討の場

 12時開演で、16時45分終演。間に35分と20分の休憩があるけれど、役者さんもお疲れ様です。

 前に歌舞伎座で観たときと、発端と大詰めの第四場が加わって、第二場もそうかな。「仮名手本忠臣蔵」との関連付けしているようだわ。たしかに夏の納涼歌舞伎でドロドロと幽霊話じゃ、冬のことだし、ふさわしくない。まして、今月は討ち入りの月だしね。

 でも、最後のにぎやかな立ち回り、エイエイオー、首尾を成し遂げて見事じゃ! ではそれまでの「怪談」が「快談」になってそぐわない感じがしちゃう。まして、さっきまでお岩さんでおどろおどろしかった染五郎が大星由良之助で出てきて、お岩さんの亡霊に翻弄され、あげくはてに殺された民谷伊右衛門が、でかした!あっぱれ、あっぱれ! の幸四郎じゃねえ。年末の歌舞伎らしい面白さではあるけれども。それまでの、ヒュー、ドロドロがすっかりあせてしまったわよ。

 悪口ついでにいうと、幸四郎はふさわしくない役柄だったじゃない。どうみてもあの顔のでかさと押しの強さ。あんな男に一目惚れしたあげく、孫かわいさの祖父に悪事を働かせる、なんてよほどのことじゃない、と。
 染五郎は頑張っていたね。さすがだわ。個人的には、板東新悟が気に入った。

 「四谷怪談」の見せ場は、何回観てもよく出来た趣向で、感心します。

 髪梳きの場面。毒薬によって顔が醜くなったお岩さんが、鉄漿(おはぐろ)を塗り、櫛で髪を梳いていくけれど、髪が梳かれるたびに抜け落ちていく。この時のうなるように声を引き絞った「独吟」はお岩の裏切られた悲しみ、恨みを切々と表現していて、客席も真っ暗の中、本当に引き込まれていったわ。この場面での染五郎の発声もすばらしかったわ。
 髪をとかしながら、顔を上げて鏡を見上げる仕草、次第に変わる形相・・・、あそこまでのすごみが出せる、ってすごいわよね。

 「堀の場」での「戸板返し」のところも面白い。
 釣り糸を垂れる伊右衛門の前に流れついた戸板にはお岩さんと小平の死体が表裏に打ち付けられているのよね。この二役を染五郎が演じる。戸板を裏返すと同時に早替りに。どういう仕掛けなのかしらね。

 余談だけど、「江戸川」(神田川)に流したはずの、二人の死骸を打ち付けた戸板が「隅田川」に下り、それがどうして上流の「小名木川」に入って、砂町の堀に流れ着いたのかしらね。不思議だわ。

 それから、「蛇山庵室の場」で、お岩の幽霊が燃えさかる提燈から登場する「提灯抜け」。本火が消えるか消えないかのうちに出てくる(それも宙づり)し、そのすぐ後に「南無・・・」の掛け軸に人を引き入れる「仏壇返し」という仕掛けも面白かった。客席から悲鳴が上がるのもご愛敬だったわね。

 そこで、どうして「東海道」という名が付されているのか、ってことだけど・・・。

 この作品の登場人物のうち、多くは『仮名手本忠臣蔵』の世界と関係しているわよね。伊右衛門やお岩の父四谷左門などが、塩冶家の浪人(浅野家の浪人)という設定で、一方、伊藤家は高師直(吉良家)につながっている・・・
 殿中での刃傷沙汰により塩冶家は断絶し、家来たちは浪人を余儀なくされ、ある者は商人に身をやつし、ある者は物乞いになって、女の中には夜鷹となって、江戸の街で生活せざるをえない。中には仇討ちの本意を失っていく男の姿、そうした中での葛藤、陰謀、犯罪、裏切り、恨み、嘆き、復讐、・・・っていうところかしら。

 そのへんは表狂言「仮名手本忠臣蔵」の世界と重なっている。だからといって、「四谷怪談」と「東海道」が結びつくのはちょっと納得がいかないけれど。

 「東海道四谷怪談」(白水社)の解説で、

 この作の上演方法は、第1日目に「仮名手本忠臣蔵」の5段目、すなわち山崎街道の場、6段目に同じく山崎街道与市兵衛宅の場のあと、2番目の「東海道四谷怪談」がはじまることになる。・・・こうしてみると、「仮名手本忠臣蔵」の山崎街道と対比させて、関東の怪談の意味でつけたもののようにうけとれる。

 という指摘があるわ。

 でも、当時評判になっていた、弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」の「東海道」にあやかったんじゃないかしらね。今でもそうじゃない、流行したフレーズを利用して、商品の宣伝にしたりするってよくあるから。

 そうそう、「四谷怪談」の大詰め、伊右衛門が討たれる場面で雪が降りはじめ、引き続き「忠臣蔵」の討ち入りの場につながっていくから、「四谷怪談」と「忠臣蔵」とは大いに関連があるよね。
 今回、特にそのまま舞台を転換して、大詰・最後の場として雪振りしきる中での討ち入りと、見事、首尾を果たして雪が止んだ朝のすがすがしさを持ってきていたから、つながりがよりはっきりした印象だったわ。

 ホント、今日は一日、楽しかったわ。
 それではよいお年を! また、お会いしましょう! 

                  

・・・
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「歌舞伎鑑賞教室」。その1。「黒手組曲輪達引(くろでぐみくるわのたてひき)」―浅草公会堂―。

2020-05-07 20:47:16 | お芝居
 この連休。新型コロナ感染。生命あっての物種。世間に呼応して自宅待機。そこで、You Tubeで歌舞伎見物という具合。

 亡き勘三郎をはじめ、玉三郎、愛之助などが出演する演目がけっこうアップされています。そこで、いくつか・・・

 今回は、「新春浅草歌舞伎」(2011年1月公演)より。
 海老蔵がまだ「市川亀治郎」と名乗っていたときの作品。勘三郎の次男七之助や
などが出演し、それぞれ若さあふれる芝居を演じています。

WOWOW」で放送されたものです。

 亀治郎(海老蔵)の早替わりが楽しみなお芝居。主役の「助六」が「権九郎」も演じ、愛嬌を振りまき、さらに「伝次」と3役替わります。

 序幕は、揚巻がいる新吉原「三浦屋」にいる新造白玉(市川春猿 現河合 雪之丞)と駆け落ちしようと大金を盗んで用意した番頭権九郎。しかし、白玉の本当の恋人伝次が現れ、大金を横取りする。この二役を亀治郎が早替わりで演じます。
ここでの早変わりは、えっ! 
       何回も見直しましたが、見事な趣向です。
                        

こんなシーンも。福山雅治の曲が流れ、歌う。

泥鰌すくいの仕草で。

                

 もともとこのお芝居は、「助六由縁江戸桜」のパロディなので、こういうのもありかな、と。

 ギャグも随所に散りばめられ、新春らしい楽しいお芝居になっています。他のお芝居を観ても当世受けの(上演当時受けの)ギャグが散りばめられています。

 あらすじは、父親を殺され、宝刀を盗まれてしまった助六が刀を奪い返し、父の仇を伐つというストーリー。

「助六」には、亀治郎、恋人の花魁の「揚巻」には、七之助という配役。
登場した瞬間、舞台が華やいでいく。

 二幕目は序幕とはまるで無関係な吉原から始まります。(「三浦屋」つながりのみで、序幕は亀治郎の早替わりという見せ所のために、あり。)

 白酒売りが男どもに絡まれていたのを助六が助ける場面。股くぐりのシーンは、「スカイツリー」までせりふに登場するなど、ギャグ合戦。


                    

 助六の父親を殺し、名刀を奪ったのは、鳥居新左衛門(亀鶴)。

     

そうと知った助六が新左衛門を討ち果たして名刀を取り戻す。

 しかし、吉原中の騒ぎになって、助六は逃げることに。追っ手からの逃げ場を失った助六がその身を隠したのが天水桶。
 舞台上に設置された水桶には、本水がたっぷり蓄えられて、その中に勢いよく水しぶきをあげて飛び込むという圧巻のシーン。


             

 水桶から出てきた水浸しの助六はとうとう追っ手に見つかります。
 そこに登場するのが揚巻。助六を自分の着物の内側に隠し、小気味の良い啖呵を切って、助六は助けられます。
ここでも大量の水を舞台上に。

       

         大見得を切る二人。
 
 それぞれ、元気溌剌としたお芝居でした。

 注:映像は、すべて「You Tube」より。
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