京成線の線路にぶつかります。高架工事中。都内各地で立体交差事業が進められているようです。
京成の踏切脇の電柱には「4.0m」の表示。ここは、4㍍以上浸水するおそれが。
見上げると、はるか高いところに赤い線(→)。
そういえば、昔からこの辺りは台風の度に浸水して、救助ボートが出たりしたところだった記憶が・・・。
立体交差工事が進展中。
踏切を越えて、左に曲がりますが、先ほどの道とは直線でつながっています。「立石大通り」=「奥戸街道」。
実はこの通り。「古代東海道」であると同時に京成電車が路上を使用していました。
左の↓が線路。右の↓が「立石大通り」。途中で現在の線路に合流。○が旧立石駅。(「今昔マップより)
「立石」という地名になった「立石様」。現在は、立石8ー37ー17の児童公園内の祠にある。
葛飾区指定史跡 立石
古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)年の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名が出ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。
ここにもあるように、用途などは、はっきり分かっていない。掘り起こそうとして災難に遭ったという伝説や、掘り出そうにも掘り出せない「根あり石」とも。
一説では、古代において官道脇に道しるべとして石を設置することがあったとか。その一つではないかという。
ただ「立石様」は古墳時代に千葉県の鋸山付近から古墳の石室を造る石材として運搬してきたものであると言われ、またこの近くには古墳もいくつか発掘されていて(「立石様」とは目と鼻の先にある南蔵院裏古墳など)この辺りにも別の古墳が存在していたとも考えられ、その一部ではなかったか。
それが、奈良時代以降になって墨田区墨田から江戸川区小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられる。
「立石様」は、江戸時代には地上60センチ以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。現在では、わずかに数センチほど露出しているにすぎない状態。
写真は、その部分。
途中で左に折れ、線路脇に。
この道は「水道路」。金町浄水場から一直線で延びる水道管が敷設されています。
立石駅方向。四つ木方向。
「立石駅」ホーム。
線路の南にある「立石仲見世商店街」
ここは戦災で家を焼かれた浅草の飲食業者が疎開してきて露店を始めたところだ。「仲見世」という名前は、彼らのルーツである浅草を偲んで命名されたらしい。
狭い通路に惣菜屋や居酒屋などが立ち並び、雑多な雰囲気を醸し出す商店街の上にかかるアーケード。1960年に作られた古いもので、レトロの雰囲気。
こちらは少しモダン。
せんべろの街「呑んべ横丁」駅の北側。
人がすれ違うのがやっとな狭い通りに飲み屋が連なる昭和の雰囲気。ここも再開発で半数以上が取り壊され、残りも余命幾ばくぞ、という印象。
立石駅北口地区第一種市街地再開発事業
(この項「」HPより)
京成線の西北側(下り線側)で工事が進行中。
線路沿いに歩くと、行き止まりに。踏切を渡って下り線側へ。
こちら側が工事中に。
まもなく「青砥駅」。上野線との乗換駅。
青砥駅。地名は「青戸」ですが駅名は「青砥」?
講談の太平記に登場する青砥藤綱が由来とされる。町名は江戸時代の川運の港を意味する「戸」からきた青戸であり、混同されることが多い。また、駅開業時は亀青村青戸ではなく、本田町中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の住居表示施行後である。(この項、「Wikipedia」より)
青砥藤綱
出身は上総とも武蔵ともいう。青砥藤満の妾の子という伝承もあり。『弘長記』によれば伊豆の武士で承久の乱で上総国青砥荘を領した大場近郷の子孫と伝えられる。11歳の時に出家したものの、21歳の時に還俗して家に帰った。学問に優れ、儒教や仏教に広い知識を有していたという。
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。この時、藤綱は28歳であったという。
ある人が時頼と所領を争ったさい、奉行人たちはその権威をはばかって敗訴としたのを、藤綱は道理を重んじて所領を返し、その人が謝礼に贈った銭をも返した。これによりその公正・剛直が広く知られるようになった。
かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。
次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
『太平記』巻35においても藤綱の逸話が記され、『大日本史』にも載せられている。また、現在の葛飾区青戸や横浜市金沢区富岡に屋敷があったとする伝承も存在するが、その実在には疑いが持たれている。
江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。
『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ)
文久2年3月(1862年3月)に江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」。
石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。
「白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)や、二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」では「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差して男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが名高い。花道を堂々と登場後、舞台に来て捕り手を前に五人組が勢揃い。一人ずつ「渡り台詞」で見得を切り、縁語や掛詞を駆使した七五調のリズミカルな「連ね」で名乗る姿には歌舞伎の様式美が凝縮されている。この様式ははるか後世の『秘密戦隊ゴレンジャー』を初めとする子供向け「戦隊もの」のヒーロー番組にまで受け継がれている。「青砥」は追っ手の名前青砥藤綱に因む。
(以上、「Wikipedia」参照)