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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

103 東武伊勢崎線・曳舟駅線路跡

2009-06-30 20:24:17 | 鉄道遺跡
 墨田区の曳舟界隈は、今大変化の最中です。京成線と東武伊勢崎線・亀戸線に囲まれた三角地帯が、大型高層マンションとショッピング・モールの建設ラッシュ。
 京成でも、東武でも、電車のつり広告に「ヒキフネに乗りませんか」(はっきりとは覚えていませんが)このような宣伝写真が踊っています。そのマンションが写真左手奥に見えます。
 この辺りは、二つの鉄道会社の路線が重なり合って、複雑な線路配置になっています。写真の中央には、かつて引き込み線がありました。東武の曳舟駅で折り返すためだったのか?
 それもすでに役割を終えたのでしょうか、すっかり線路が取り払われて、その線路跡が、ちょっと高い橋状に残っているだけです。曳舟川通りをはさんで東側にある、京成電車も高架の工事が始まって、京成曳舟駅の仮駅舎も完成間近。仮線もだんだんと敷設され、駅舎の完成予想図も掲示されています。
 「開かずの踏切」「危険な踏切」解消という、地元住民の長年の願いがいよいよ実現に向かっています。大きく様変わりする曳舟駅周辺です。
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102 スカイツリー(6/28朝)

2009-06-29 21:13:48 | つぶやき
 久々に栃木の大平山に行きました。昔の職場の同僚たちと。何年ぶりでしょうか、皆さん、相変わらずお元気そうで(見た目には)。大平山では、今、「あじさい祭り」で賑わっていました。
 神社までの長い階段の両側にもうたくさんのあじさいが咲き誇っていました。鎌倉の人混みでは想像もつかない、ゆっくりと堪能しました(これは、また別の機会に)。
 浅草から乗車、隣の「業平橋」駅でちょっと下車、ハイ!パチリ!スカイツリーのようすです。
 毎日、自転車やら徒歩やら車で通りかかっては見ている風景も、駅から見るとまたちょっと雰囲気が違います。一日、一日だんだんと上に伸び、横に広がり・・・。
ちょっと前に駅から写真を撮った時には、駅舎の庇の下にほぼ全貌が見えていましたが、今や、とんでない!もうとっくに庇を越えて、画面には入らなくなっていました。クレーンも見上げていると、首が痛くなるほどです。無事故で完成して欲しい、完成の暁にはさぞかし・・・。次第に何となく情が移ってくるのも、不思議ですね。
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101 小林一茶旧居跡

2009-06-28 22:11:13 | 歴史・痕跡
江東区大島2丁目・愛宕神社。創建は不詳。もとは葛飾郡中ノ郷村(現在の墨田区内)の成就院境内に祀られていたが、寛永年間(1624~44)村民の移住に伴って大島へ遷座してきたという。ここ愛宕神社に俳人・小林一茶が享和3年(1803年)から文化5年(1808年)まで仮住まいをしていたとされ、境内には「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」の句碑がある。写真は、その句碑。年表では、一茶40歳の頃のこととなる。神社境内の説明板には「句帳や日記に『本所五つ目愛宕山』と記されており、・・・」と書かれている。(この「五つ目」は今の五の橋通りを指すか)
 小林一茶は、生涯に2万句の発句を作った。生まれ故郷の柏原など、ゆかりの地に多くの句碑が作られている。
 都内には、足立区六月3丁目・炎天寺の「蝉なくや六月村の炎天寺」、「やせ蛙まけるな一茶是にあり」。
荒川区尾久1丁目・浄善寺の「いたれりや佛の方より花衣」。
西日暮里3丁目・本行寺の「陽炎や道灌どのの物見塚」。
そして、ここ江東区大島2丁目・愛宕神社の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」がある。
 特に、炎天寺は、俳句で有名な寺で、毎年行われる「一茶まつり」には、全国小中学生俳句大会が開かれている。(この炎天寺が「成就院」とも号されているので、この愛宕神社との関連が推測できる)
 「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」は、『おらが春』所収、季語は「雀の子」で「春」の句。
 小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名は、弥太郎。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母を迎えるが、義母になじめなかった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出される。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになった。
 一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学び、初め、い橋・菊明・亜堂とも名乗ったが、「一茶」という俳号を用いるようになる。
 29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書く。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版された。
 一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をするが、父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまう。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられている。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続いた。この頃(江戸に再び出てきたとき)、ここ愛宕神社での仮住まいの期間もあったと推測できる。
 一茶は、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてた。貧乏と隣り合わせの暮らしだったが、俳人としての一茶の評価は高まっていく。
 50歳の冬、一茶はふるさとに帰る。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまう。その後、再婚・・・。
 このように、一茶は、家庭的にはめぐまれなかったが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残した。
 1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住む。この年の11月19日、65歳の生涯をとじた。
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100 両国高校旧校舎校章

2009-06-27 19:51:48 | 歴史・痕跡
 現在、都立両国高校は附属中学を併設した「中高一貫校」になっています。この高校は、かつての府立三中。芥川龍之介や久保田万太郎、堀辰雄などの文学者を輩出しています。半村良、領家高子、小池昌代、石田衣良なども卒業生です。文学関係だけでなく、政界、財界、教育界などまさに多士済々。世間を賑わせた「手鏡」の植草一秀も・・・。
 開校当時の校舎は、いくたびかの増築を経た後、1924(大正13)年の関東大震災ですべて焼失しました。1927(昭和2)年、鉄筋コンクリート3階建ての校舎が新築されました。多くの卒業生が学んだ校舎が、増改築はあったものの、この「昭和校舎」でした。
 1945(昭和20)年の東京大空襲で大きな被害を受けたましたが、校舎の外郭はしっかりと残っていて、以後、復興工事が続きます。ロの字型の校舎で、戦災で周りはすっかり焼け野原の中にあってポツンと残っているのが、写真でも分かります。
 その後、老朽化や耐震構造の面から、全面改築の運びとなるも、当初の建築計画が校地内に埋められた六価クロム除去問題でご破算になり、現在あるような校舎の建設となりました。
 すべての工事は1983(昭和58)年に完了し、6月に「新校舎落成記念式」が行われました。その際、旧校舎を取り壊すときに、正面上部にあった「校章」を保存する話が持ち上がり、現在残されている校章が、この写真のものです(1階事務室前の廊下)。よく見ると、「高」の字の部分が少し盛り上がっていて、「中」の字をセメントで覆っているのが分かります。たしかに伝統ある校章でした。
 この他には、旧校舎時代から残されているものは、イチョウの木、京葉道路側建物に沿った一部の外壁・・・。
 あとは、「三高地蔵」(由緒はよく分からないそうですが)くらいだそうです。この地蔵は、ひっそりと京葉道路側通用門の脇に残っています。かつての場所と同じかどうか分かりませんが。
 両国高校も大きく変わっています。良き伝統を引き継ぎながら新しい時代にふさわしい姿に、中身も姿も変化して欲しいものです。 
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98 小名木川クローバー橋

2009-06-25 06:58:33 | つぶやき
 江東区スポーツ会館。温水プールによく通いました。ただ車で行くことが多かったので、明治通りから少し入ってそのまま駐車場に。もちろん、「小名木川クローバー橋」が目の前にあっても寄ることもせずに・・・。
 最近、ここへ自転車で行ってきました。この橋は、歩行者と自転車のみが通行できる橋なのです。
 この橋、猿江(北西)、大島(北東)、北砂(南東)、扇橋(南西)の4つの地区を、小名木川と横十間川の合流点で、十字のように結んでいます。
 この橋がなかった頃は、お互いの行き来する橋が限られていて、さぞ不便だったでしょう。まだその時分、この辺り一帯は川をはさんで工場街だったためにさほど不便は感じなかったでしょうが、次第に工場が撤退し、住宅が増えて来たり、スポーツ会館が出来た頃には、さぞかし・・・と思います。
 そこで、「地域社会に快適な生活と人と文化の交流を提供できるランドマークとしての意義が深い橋」として計画されそうです。完成は1994(平成6)年。橋の真ん中に四つ葉のクローバーが描かれて、「クローバー」の名称にふさわしい感じです。
  小名木川は、1590年頃、徳川家康が小名木四郎兵衛に命令し、開削させた運河です。関ヶ原の戦いの10年ほど前、まだ江戸幕府が開かれる前になります。「小名木川」と名付けられました。
 千葉県行徳で作られた塩や、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の米などを江戸に運ぶために大いに利用されました。小名木川と旧中川、新川の合流地点には、中川船番所が置かれていました。
 近年では、水陸両用の貨物駅「小名木川駅」が出来て、川の行き来も激しくなりましたが、それもすでに使命を終えました。
 現在は、西の扇橋閘門と東の荒川ロックゲートによって、隅田川と旧中川を経由しての荒川への通行が可能になっています。 
 橋の見晴らしは大変すばらしく、南北は親水公園ですが、東も西も広い水路になっています。この日も、大型ボートが西に向かって航行していました。市街地にあって、水を満々とたたえて流れているようです。江東0㍍地帯、かつての水害の大きさを振りかえると嘘のような穏やかな流れです。川と人との関わりの歴史を大事にしながら、この豊かな自然環境を大事にしたいものです。
 写真は、クローバー橋から西側(隅田川)を望んだもの。
 なお、「江東区スポーツ会館」は耐震補強工事のために、平成21年7月1日(水)より平成22年2月末日(予定)まで、全館休館となるそうです。
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97 貨物線・越中島線複線跡

2009-06-24 21:09:04 | 鉄道遺跡
 越中島線。「小名木川駅」が廃止されても、まだまだ健在の貨物線。「越中島貨物駅」まで伸びています。けれど、もう単線です。
 かつては、小名木川駅を出て南下、そこには、機関車などを製作していた「汽車会社」南砂工場という大きな工場がありました。そこへのルートだったのでしょうう、そこまで複線でした。今はその工場もなくなり、広大な敷地は高層の集合住宅や公立の学校に変わっています。都電の跡も緑道公園となりました。
 写真は、仙台堀親水公園と貨物線が交差するところ。
 複線だったころの橋桁が、そのまま残されています。橋桁は低く、自転車通行の場合は、頭を下げて通らなければならない鉄橋(跡)です。
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96 砂村隠亡堀・横十間川親水公園

2009-06-23 22:13:20 | 歴史・痕跡
 鶴屋南北作「東海道四谷怪談」第3幕(砂村隠亡堀の場)
 伊右衛門が川で釣りをしていて、直助と再会します。直助が川で櫛を拾い持ち帰りますが、それは実はお岩の持っていた櫛でした。この後、ここへ伊藤の娘、お弓が現れますが、伊右衛門は父と娘の仇だと知られたため、そのお弓を伊右衛門は殺してしまいます。
 そこへ川上から見覚えのある戸板が流れて来ました。引き上げてみるとお岩の遺体。その遺体が怨みの言葉。怖くなって裏返すと小平の遺体。その遺体もまた怨みの言葉。(「戸板返し」という最大の見せ場)
 お岩と小仏小平の惨殺体は、戸板の両面に打ちつけられて、今の雑司が谷の神田川(面影橋)から流されます。戸板は、神田川から隅田川に流れ込み、下流に流されますが、上げ潮で隅田川を再び上り、今度は小名木川に入って、横十間川へと流れたことになります。釣に出かけた民谷伊右衛門が、砂村隠亡堀でその戸板に出くわすわけです。
 この場面は、実際にあった、男女が背中合わせにくくられて、ここに流れ着いた心中事件にヒントを得たものだそうです。
 砂村は今の砂町、その当時は江戸のはずれの寂しい場所で、横十間川と境川(現在の清洲橋通り)が交差する辺り。この近くには「火葬場」(当時の言い方では「焼き場」)があったために、堀と言われていたようです。まさに実在の場所でした。横十間川親水公園の岩井橋の辺りがその堀だといわれています。
 今は親水公園になっていて、散歩の人がたくさんいました。また、水面は、ボート遊びができるようになっていて、子ども連れが手こぎボートに乗って、楽しいそうでした。「戸板返し」というか「戸板」の目線で橋を見るのも一興・・・。
 でも、実際に芝居で観たことがあるので、自分からボートに乗って見る気にはなりませんでした。
 写真は、その場所。
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95 仙台堀親水公園

2009-06-22 06:11:11 | つぶやき
 仙台堀川は、17世紀前半の寛永年間に深川漁師町開発で開削された運河で、隅田川からの入り口付近の北岸にあった仙台侯松平陸奥守の蔵屋敷に、米などの特産物を運び入れたことから、「仙台堀」の名がついたといわれています。
 ただし、隅田川河口付近のこの辺りは、もともと地盤の低いところで、地面を掘削して運河をつくるというよりも(もう少し隅田川上流にあった「芭蕉庵」もたびたび出水で悩まされたようです)、周りからの浸水を防ぐために土手を固めて、運河・堀割とした、というようにとらえた方がいいようです。
 この川は、江戸時代から米を中心とした食糧および木材等の運搬に利用され、少し北に位置する「小名木川」とともに、水運の要として機能してきました。
 戦後、仙台堀川の流れている一帯は、付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しく、海抜ゼロメートル地帯となっていました。
 川より低い土地が出来上がり、特に仙台堀川一帯は台風の時などは護岸壁(このなごりが、公園の外郭として残っています)を超えて川から水が溢れる危険がありました。そこで、治水対策として川を埋め立てて、埋め立てたスペースを公園とする工事が進められました。
 工事は1978(昭和53)年に始まり、1986(昭和61)年に全面的に完成し、仙台堀川の多くは、「仙台堀親水公園」と大きく変わりました。
総延長は約3700メートル。細長い公園で面積は約103,850m²にも及び、都内で一番大きな親水公園になっています。西は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点まで。西の大横川合流地点より先はまた仙台堀川として河川になっています。
 各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。途中で「横十間川親水公園」と合流しています。
 公園には明治通りなどの橋が13本も架かっていますが、中でも異色の橋は、JRの貨物線(新小岩~越中島)。自転車で通行する場合は、背をかがめないとぶつかるほどの低さです。
 写真は、「横十間川親水公園」との合流地点。木々に覆われ、静かな水辺に水鳥が泳いでいます。
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94 南砂緑道公園

2009-06-21 07:33:28 | 歴史・痕跡
 亀戸・水神森から分岐した洲崎(東陽町)行きの城東電車は、精工舎の脇を通り、南下します。この線は、明治通りを走る箇所もありましたが、路面電車専用の道が多くありました。
 中でも、現在の「南砂緑道公園」は、その広さ・長さから線路跡地としては、整備された公園です。昭和38年当時の航空写真(goo)でもその規模が知れます。 現在は、公団や学校の施設等になって、まったく面影はありませんが、もともと「汽車会社」の南砂工場でした。広大な敷地を擁し、貨物線(新小岩~亀戸~小名木~越中島)の引き込み線もありました。今も、駐車場などのゆとりのある、空間も十分確保された敷地になっています。
 明治通りから入って、清洲橋通りまでぐるっと半円を描いた線路跡になっています。工場の外縁をなぞるかのように線路が走り、途中、貨物線と立体交差していました。
 この緑道公園。平日の昼前に行ってみましたが、散歩する人、自転車で出かける人、途中のベンチで語らう人々など、地元に密着し、大いに利用されている、とても雰囲気のいい公園のように感じました。
 管理も行き届いていて、町会で分担しているのでしょう、ゴミも散乱しておらず、また、落ち葉を集めておく場所などもあります。樹木もとても豊かで、木々の元、静かな緑道です。排気ガスもなく、実に気持ちのいい公園でした。
 写真は、モニュメントとして当時の城東電車の車輪が置かれてある所からの様子です。
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93 埋もれる川・竪川

2009-06-20 19:04:14 | つぶやき
 かつて、東京の隅田川以東の下町は、縦横に川が流れている、まさに「水の都」でした。これらの河川は、物資の輸送などで大活躍し、また人々の憩いの場所として、人々の暮らしに欠かせない、貴重な存在でした。
 しかし、一方で、災害時にはかえって人の行き来を妨げ、多くの人命を奪い、苦しめた大惨事を引き起こす原因にもなりました。関東大震災と東京大空襲の時。この二つで、二度も下町は壊滅的状態になってしまいました。
 さらには、もともと0㍍地帯である上に、毎年のように、台風の襲来や豪雨のたびに河川が氾濫し、やはり人々の生活・生命を脅かしました。一方で、戦後の復興期以来、経済成長の中で、工場排水、生活排水の垂れ流しなどで川は汚れきって、かえって無用の長物・邪魔なもののようにも扱われ始めました。
 高速道路も、一般道や住宅地を通すよりも、川の上や川をつぶして造ることになりました。
 ますます川の存在が人々の意識からは遠ざかっていき、川と人々の生活・意識が離れていった時期がありました。クサイ・キタナイ・キケン・・・。
 しかし、昭和40年代後半の頃から、防災と公害防止の施策が大規模に進められるようになり、下水道の完備、水質改善等の取り組みによって、再び身近な河川のあり方に人々の関心も高まってくることに。
 その時には、すでに物資の運送等での川の役割は終えていました。「水門」が水害防止のためにつくられ、また、新たな川の利用法として「親水公園」があちこちでつくられました。これによって、水害の恐れもなくなり、人々の安心した生活や緑と水に親しむゆとりが生まれました。大変けっこうなことです。
 反面、「流れる」川としての機能をもっている川がなくなりました。現在、はじめから終わりまで流路が残って水が流れているのは、おそらく「北十間川」のみではないでしょうか。他は、大横川、横十間川、小名木川・・・、どこかで寸断されています。
 写真は、その一つ、竪川の様子です。頭上を「高速道路小松川線」が通っています。写真の奥は隅田川との分岐点ですが、水面が残っているのは、この辺りのみです。東(写真と反対側)に行くと「親水公園」と化しています。この辺りも早晩、開発されてしまうのでしょうか。
 長い間の人と川との関わり、災害防止の視点も重要ですが、今一度、東に西に、南に北に、自然に流れる川を望むことは、もう無理なのでしょうか。
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92 東下りと「業平橋」

2009-06-19 23:40:25 | つぶやき
 東武伊勢崎線・終点「浅草」の一つ手前の駅が「業平橋」。東武線が浅草まで開通する前は、ここが終点の駅でした。貨物の引き込み線があったり、車両基地があったりと(現在も)そこそこの駅です。
 駅名は、当初の「吾妻橋」から「浅草駅」、さらに、隅田川を越えて浅草雷門駅(現在の浅草駅)までの延伸を果たした1931(昭和6)年に「業平橋駅」と改称されました。
 現在は、駅の東南、広大な敷地内で高さ600㍍の「東京スカイツリー」の建設が盛んに行われています。完成の時には、この駅が一番最寄りの駅になります。今は貧相な駅のたたずまいですが、おそらく大がかりな改修工事が始まることでしょう。
 駅名の由来について、東武鉄道では次のように説明しています。
 平安時代に藤原氏の摂関政治の下で、歌人・在原業平は官位を取り上げられ無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われます。
 在原業平の「東下り」の故事にちなんで、名付けられたということです。ここにある「地名や橋名」は以前からあった「業平」というものです。
 平安時代の作品「伊勢物語」に登場する主人公は、「昔男(ありけり)」という言い方になっていて、業平の名前はどこにも登場しませんが、この「男」が「在原業平」という実在の人物に擬せられているわけです。そこで、「伊勢物語」を別名「在五の中将の物語」とも呼ばれています。   
 しかし、上述のように本当に業平が東国まではるばるやってきたかどうか、特に皇后に懸想したあたりはさもありなんという感じですが、その罪によって無官になって東国に流されたという史実はどうも疑問です。
 一方で、駿河から武蔵までの土地が出て来るのも事実ですし、また、「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」や「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」なども記されて、後世まで名歌として語り継がれ、歌枕として定着していることなどから、何らかの背景があったことは事実でしょう。
 はるばる隅田川までやってきた人物が業平かどうかは別として、貴人が遠国に流されるという「貴種流離譚」や、京に住む都人の、遙かかなたの東国への独特の思いが結合して、こうした話となっているようです。
 この地域には、隅田川に架かる「吾妻橋」や「言問橋」という橋名があり、「業平橋」は、大横川(現在は埋め立てられ「親水公園」となっています)に架かる橋として今も残っています。この橋の名は、「吾妻橋」の別称とも言われています。また、この付近の地名は、「業平」と呼ばれています。こうしたことから、駅名になったようです。
 業平説話に関わっての「業平橋」は他の地にも残されていて、埼玉県春日部市の古隅田川に架かる埼玉県道2号・さいたま春日部線の橋名。おそらく古墨田川との関連でしょうが、いくら業平さんでもここまでは来ることはなかったと思います。
東下りとは関係がありませんが、兵庫県芦屋市の芦屋川に架かる国道2号線の橋の名にもなっていて、在原業平が現在の芦屋市に住んでいたと伝えられていることが、橋の名前の由来となっているとのこと。
また、奈良県生駒郡斑鳩町高安の富雄川に架かる橋の名にもなっています。在原業平が自宅と河内国高安の間を行き来した時に通ったとされる(「筒井筒」という章に記された話に関係するものです)道筋(いわゆる「業平道」)に架かることが由来となっているようです。
 写真は、墨田区・浅草通りにある「業平橋」。橋の下には、すでに川の流れはなくて、船を模した遊戯施設があって、水に親しむという目的の親水公園の一部となっています。右手奥に見える何台もの大型クレーンは、「スカイツリー」建設のためのものです。
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91 綾瀬橋と元綾瀬川

2009-06-18 19:11:03 | 歴史・痕跡
綾瀬橋 (あやせばし) 全長61.5m・幅20.5m。1961(昭和36)年3月架橋。
 墨田区から足立区に通じる「墨堤通り」に架かる橋。墨田区墨田五丁目と足立区千住曙町の区界にあります。橋の上には、高速道路が通っています。橋の下の流れは、旧綾瀬川。隅田川に合流していた綾瀬川が荒川放水路(現荒川)によって分断されたものです。今の綾瀬川は、荒川に沿って南下し、中川と合流、さらに南下して河口付近で荒川と合流します。
 荒川と接するところに水位を調節する「隅田水門」があります。小学生のころ、京成関屋駅で下車して、この辺りで水上バスに乗って隅田川を下るという「社会科見学」がありました。荒川と隅田川がつながっていたことをその時知りました。
 これから少し南を鐘ヶ淵と呼んでいます。旧綾瀬川と隅田川との合流付近は直角のかね尺のように曲がっていて、それでカネガフチと名がついたようです。
 かつては、綾瀬川と隅田川の合流付近は、川幅も広くかなりの水量があったようです。橋も今よりももっと隅田川寄りにありました。この辺りの様子はずいぶんと変化しています。
 東武鉄道では、近所にある「鐘ヶ淵」駅の由来を、次のように記しています。
 元和6年(1620)、橋場、石浜の地にあった寺院が亀戸村に移転しました。そのときに寺の鐘を船に乗せて隅田川を渡ろうとして誤って鐘を水中に落とし、引き上げる事ができなくなりました、以後、鐘の沈んだあたりを鐘ケ淵というようになったそうです。
 
 たしかに、こうしたたぐいの伝承は多いようです。
  墨堤通りをはさんでこの一帯は、鐘ヶ淵紡績の一大拠点でしたが、今は綾瀬橋のたもとに「鐘紡物流」という会社があるのみです。
 綾瀬川は、500mほど離れた荒川と通じていて、相互に船の航行もできるようになっています。首都高向島線は、この綾瀬川に沿って進み、荒川を越えていきます。
 写真は、綾瀬橋から隅田川との合流点を望んだもの。右手に見えるのは、「伊沢造船」という造船所。創業は1877(明治10)年。古い歴史をもつ造船所です。左手奥に見えるのが、「水神大橋」。正面は対岸の荒川区南千住の街並み。かつて、JRの貨物駅「隅田川駅」への水路があった地域です。南千住も大きく変貌を遂げています。
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90 深川芭蕉庵跡

2009-06-17 06:31:35 | 歴史・痕跡
 深川・芭蕉庵は、小名木川に架かる「万年橋」付近にあったらしい。
 弟子の杉山杉風(さんぷう)の土地で、生簀があり、その番小屋に芭蕉を住まわせたものといわれています。
 芭蕉は、1680(延宝8)年深川の草庵に住みました。そしてこの庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句(「古池や・・・」など)や「奥の細道」等の紀行文を残しています。
 この草庵は門人から送られた芭蕉の株が生い茂ったところから、「芭蕉庵」と呼ばれました。
 芭蕉没後、この付近一帯は、武家屋敷となり、1862(文久2)年の絵図によると、尼崎藩の松平紀伊守の下屋敷となっています。この絵図には、庭の中に芭蕉庵の古跡があったと記載されています。
 さらに、明治初年には長州藩の屋敷となり、間もなく民有地となりました。
 こうした土地所有者の変更によって芭蕉庵跡は消滅し、現在でもその正確な位置はわかっていません。
 1917(大正6)年の大津波の後、江東区常盤1丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、大正10年、東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。現在、「芭蕉稲荷神社」として存在しています。こじんまりとした社で、「芭蕉庵跡」の碑があります。
 江東区は芭蕉ゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、1981(昭和56)年に「芭蕉記念館」、1995(平成7)年に隅田川と小名木川に隣接する地に同分館を開館しました。
 写真は、小名木川と隅田川の合流点近くの「芭蕉記念館分館」(正木稲荷裏)の屋上にある芭蕉のブロンズ像と隅田川下流の方向を撮ったもの。周囲には貧相な芭蕉の木が植わっている。景色はいいが、この像にはどうも違和感が・・・。
 たびたびの水害に悩まされた芭蕉。低湿地帯にあったとは思えない、高い位置から隅田川を見下ろしている芭蕉像。
 なお、写真中央奥、隅田川に架かる橋は、清洲橋。
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89 亀戸水神・水神森跡

2009-06-16 21:23:22 | 歴史・痕跡
 東武亀戸線。亀戸を出て最初の駅が「亀戸水神」。改札を出て、少し西に進むと、三叉路の道の三角形のところにこじんまりした神社。これが、駅名の由来の「亀戸水神社」。近所には、神社の名前のついた通りや小学校があったりと、大変に由緒ある神社のよう。昔はもっと大きな構えだったとのこと。社殿は東京大空襲で焼失した。1960(昭和35)年に、現在の地に再建された。(ちなみに、当時の写真では、一帯は全くの焼け野原。現在の水神小学校は、跡形もなく焼け落ちている。)
 もともとは、どのあたりにあったのだろうか? 亀戸水神駅は開通当初はもっと亀戸寄りだったことから、もう少し南にあったと思われる。しかし、航空写真からでも、場所ははっきりしない。
 かつて、このあたりは荒川や利根川の河口近くの低湿地帯だった。約500年前(室町時代後期)に新田を開墾する際、水害からこの地を守るため、堤防の突端に、まわりの地面より高く石垣をつくり、石祠が祭られた。
 祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神。
 この神社にちなんで「水神森」がある。かつては都電の停留所名、現在はJR亀戸駅の東口「亀戸サンストリート」前のバス停にその名を残している。「水神森」の碑が亀戸水神社にある。この辺り一帯には大きな森が広がっていたと思われる。
 ここから少し西北に当たる地には隅田川神社があり、水神様として信仰されている。この辺りは、江戸以前には河口付近の湿地帯。そこでの田畑開墾の困難と信仰が偲ばれる。また、当時の海岸線が断片的に浮かび上がってくるようだ(白髭・向島・押上・亀戸?)。
 写真は、「水神森」という名称の信号機から南方向を撮ったもの。中央は、かつての精工舎の亀戸工場の跡地。右側は洲崎に向かう都電の跡地で、現在は緑道公園に。この「水神森」で、小松川行きと洲崎行きの都電(その前身は城東電車)が分岐していた。
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88 城東電気軌道

2009-06-15 20:44:50 | 鉄道遺跡
 亀戸浅間神社の境内に、「旧城東電気軌道(城東電車)」の線路で使われていたレールの一部が保存・展示されている。それが、この写真。神社には、もう一本残されていて、そこには、簡単な説明板が立っている。(レールは、イギリス製。)
 大正から昭和の初め、江東区・江戸川区には城東電気軌道という会社があった。路面電車(後の市電、都電)。錦糸町-水神森-洲崎、錦糸町-西荒川、荒川を挟み、東荒川-今井の3路線を運行。錦糸町駅前には、錦糸堀車庫があった(現在の丸井のところ)。
 東荒川-今井間は、1952(昭和27)年に廃止され、トロリーバス(今井-上野公園)となったが、1968(昭和43)年に廃止。

〔年表〕
1917年(大正6年)12月30日 - 城東電気軌道株式会社の手により、錦糸町 - 小松川間開業。
1921年(大正10年)1月1日 - 水神森 - 大島間開業。
1924年(大正13年)7月11日 - 大島 - 仙気稲荷間開業。
1925年(大正14年)12月31日 - 東荒川 - 今井間開業。
1926年(大正15年)3月1日 - 小松川 - 西荒川間開業。
1929年(昭和4年)5月7日 - 仙気稲荷 - 洲崎間開業(西荒川 - 東荒川間を残し、一応全通)。
1937年(昭和12年)3月25日 - 東京乗合自動車に合併。同社城東軌道線となる。
1938年(昭和13年)4月25日 - 東京地下鉄道が城東軌道線を継承。
1942年(昭和17年)2月1日 - 東京市電気局に買収され、市電路線に編入される。
1972年(昭和47年)までに順次廃止となる。

 錦糸町-小松川間(小松川線)は、京葉道路から水神森の先を右折して東南の方向へ進んでいく軌道であった。その終点「西荒川停留所」は、現在の首都高速道路下り線の真下付近。現在は、路面電車が走っていた頃の面影は全くなく、すっかり広い舗装道路となり、周囲の建物も大きな会社ビルや高層マンション、区の大規模な施設となっている。(「83旧文書庫」「85富士塚」もこの線沿線にある。)
 レールが保存されているこの神社の近く、旧中川に架かる「亀小橋」は、かつての路面電車専用の橋。この橋の上には、都電が昔走っていたというレリーフが、二つ埋められている。
 洲崎(現東陽町)線の専用軌道跡は、現在「亀戸緑道公園」「大島緑道公園」「南砂緑道公園」となっている(そのうち、二箇所は既に掲載済み。なお、「南砂緑道公園」は、かつての「汽車会社・南砂工場」跡地の一部)。
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