おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

間宿・岩淵。小休(こやすみ)本陣。常盤貴子。岩淵の一里塚。・・・(富士から新蒲原まで。その2。)

2014-12-30 21:42:18 | 旧東海道

 すばらしく晴れ渡り、富士山の雄姿が裾野から頂上まで一望できる絶好のポイント。

橋の上からの富士山。正面右奥の河川敷が「雁堤」に囲まれた地域。

富士山の右が、「愛鷹山」の稜線。

 富士はもちろん、すぐ脇に見えていた愛鷹山からもずいぶん遠ざかってしまった。

対岸の松岡側を望む。中央の緑が「水神社」の森。

             下流(河口)方向を望む。
             中央に見える鉄橋。一番手前がJR東海道線富士川鉄橋、最下流には新幹線橋梁。

 写真を撮るには、河口付近まで移動し、東海道線鉄橋、その下流にある新幹線橋梁を入れて富士山を撮るのが絶好のビューポイントらしい。
 たとえば、

       (「公益社団法人 静岡県観光協会」HPより)

 この他、ネット上にはすてきな写真がたくさん掲載されている。

 渡りきった土手の脇にある案内版。「間宿 岩淵・渡船場跡」。

 「富士市岩淵」は、かつては富士川町という、静岡県庵原郡に属していた町だったが、2008年(平成20年)11月1日、富士市に編入合併した。

 ところで、「富士川」を境にして、電力の周波数が東は50Hz、西は60Hzと異なっている。このため、この地域は、電力の周波数、電力会社は富士市(50Hz・東京電力)とは異なり、60Hz・中部電力管轄下。したがって、現在の富士市は50Hz・東京電力地域と60Hz・中部電力地域が混在している。

 どうしてそうなっているか?

 明治時代、電気をつくる発電機が日本に輸入されたが、関東にはドイツから50Hzの発電機が、関西にはアメリカから60Hzの発電機が輸入された。以来、日本では静岡県の富士川から新潟県の糸魚川あたりを境にして、東側が50Hzの地区、西側が60Hzの地区になってしまった。
 糸魚川~富士川は「フォッサマグナ」という、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断する「中央地溝帯」。地質学的には東北日本と西南日本の境目とされる地帯。これとは関係があるのか?

 思い出されるのが、2011年3月11日の東日本大震災。
 これによって引き起こされた東電の福島原発事故。電力不足のため、計画停電にまでなった。
 原発事故対応には、応急電源として東北電力の電源を急遽回した。ところが、富士川をはさんで西東。ヘルツがことなるため、互いに電力を融通しあえない。あの時のような大地震や大事故に見舞われ、電力不足になったときに、もっと臨機応変に東西で対処できないのか。ヘルツの統一ができないのか?

 第二次世界大戦直後、復興にあわせて商用電源周波数を統一するという構想があったが、それぞれ復興が急速に進んだことで、実現がほぼ不可能になってしまった。そして、現在の日本では、供給側にとっては、周波数を統一する必要性はほとんどないようだ。

 周波数を統一するには、一方あるいは両方の地域の発電機をすっかり交換しなければならないうえ、周波数を変更する際に停電が伴ったり、さらに周波数に依存する機器を交換するか、それに対策を施す必要がある。そのため、現実的にはほとんど不可能に近い。

 緊急時に備えて、各電力会社間では電気の相互融通を行っている。異なる周波数の電力会社間での相互融通のためには、50Hzと60Hzの周波数変換を行う周波数変換所が設けられていて、電源開発の佐久間周波数変換所、東京電力の新信濃変電所、中部電力の東清水変電所の3箇所。けれども、両周波数間で融通できる最大電力は現状100万kW(2012年現在)。

 こんな訳ありの事情があった。

 その一端として、中部電力も東電もその他の電力会社も自前の電力確保にこだわり、当面の経済効率性とあわせ、原発再稼働になりふりかまわず、必死なのだ。再び福島原発のような大事故が起こることなど想定してはいられない。

旧東海道沿いにあった「中部電力」の社屋。

 さて、橋を渡り終えたら、道路を横断して右に少し進み、すぐ左の小道(坂道)を登って行く。このあたりは、「富士川」によって形成された河岸段丘上。
 地形的に見て、左岸(東側)は河岸段丘はなくて低地が続き、かつては田畑が多くあった。
 現在は住宅街になっているが、富士川下流、河口付近の氾濫原地帯として、長い時代、水害に悩まされたようすはうかがえる。したがって、近世の東海道も「吉原宿」から西は海岸付近を避け、いくぶん高いところを進んでいく。富士川の渡船場も河口付近ではなかった。

上り坂の途中から、富士駅方向を望む。

 右手にあった「常夜燈」。

  
   「小休本陣常盤邸」。正門の柱には、「西條蒋小休」と休憩している公家の名が掲げられている。

 土日祝日のみ公開されているため、残念ながら見学出来ず。

     小休本陣常盤邸の建築
   

 常盤家は、江戸時代初期から富士川右岸の岩淵村で、渡船名主(とせんなぬし)を務めてきました。岩淵は、東海道吉原宿と蒲原(かんばら)宿の間に位置する「間宿(あいのしゅく)」で、その休憩施設「小休本陣(こやすみほんじん)」の役割も果たしていました。ところが、安政の東海地震(1854年)で全ての建物が倒壊し、その後再建されたのが現在の建物で、小休本陣の特徴がよく現れています。
 玄関を入ると奥まで通り土間が続き、さらに正面の庇(ひさし)部分も前土間になっています。部屋数も多く、部屋境は障子や襖(ふすま)で間仕切られた開放的な空間です。奥の座敷「上段の間」は、最も格式の高い部屋で、大名などの賓客(ひんきゃく)のみが休憩することができました。通り土間の奥には台所があります。

(以上、「」より)

 なお、この邸宅は、女優の常盤 貴子(ときわ たかこ)の実家である常盤家所有のもので、紀伊徳川家が休憩のため利用した小休本陣として、静岡県指定文化財に指定されている。
                

 振り返ると正面奥に富士山。昔ながらの街道筋らしい雰囲気を味わえる。
      

 案内版も充実している。


 徳川家康の命によって「富士川」開削をおこなった「角倉了以」の碑などこの周辺は見所満載のようです。

「蒲原宿」までの道のり案内。

右手に「上水道築造記念碑」を見ながらまっすぐ進むと、「岩淵の一里塚」が見えてくる。

   

 日本橋から37番目の一里塚、「岩淵一里塚」(36番目は富士川渡船中に通過)。

史跡 岩渕の一里塚

 江戸時代に築造された東海道の里塚である。
 慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
 この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。
 この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
 また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四二年枯死してしまった。そこで昭和四五年三月、二代目を植えたものである。

    
    西側の塚。                   東側の塚。 

 ほぼ直角に曲がる地点にあり、絶妙なポイント。通行の邪魔になるからと伐採されず、よく保存されている。

振り返って望む。
 右が東の塚。左が西の塚。東西一対で残っているのは、珍しい。

ひときわ目立つ、西の塚の古木。

 続きは、年明けに。
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本市場一里塚。札の辻。野ざらし紀行。水神の森。富士川渡船場。 (富士から新蒲原まで。その1。)

2014-12-29 20:34:31 | 旧東海道
 このところ断続的に富士宮に来る機会があって、そのついでに少しずつ西へ西へ、と。今回は、所用を済ませてからの午後から。そこで、富士川を越えて「蒲原宿」までは、と。

 前回の「鶴芝の碑」から西へ進んで行きます。

「鶴芝の碑」方向を振り返る。

 また道路を横断します。振り返ると、家の間から遠くに富士山の頭のところが少し見えます。だんだんと富士山が後ろの方に遠ざかって見えるようになります。



 しばらく行くと、「本市場一里塚」。
              日本橋から35番目。花壇の奥に、「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑が建てられているのみ。

そこから西の方向を望む。 

 特に気にしなければ、住宅や公共施設が並ぶ、何の変哲も無い道。この先は、富士駅前から続くアーケードの商店街を横切ります。

  
  その交差点にある案内碑。                     旧東海道沿いの古い家屋。

道祖神。
 道祖神のある角を200mほど南に行き、右折した所に、富士市民交流プラザ・平垣(へいがき)公園があり、芭蕉の句碑や、「野ざらし紀行」の一節が刻まれた新しい石碑がある、らしい。

 実は、「富士川」。芭蕉の『野ざらし紀行』中で、芭蕉が捨て子と遭遇する場面がある。

『野ざらし紀行』
 
 富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀しげに泣(く)有り。(親は)この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計(ばか)りの命待つ間と捨て置けむ。
 小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎(しお)れんと、袂より喰(い)物投げて通るに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに (猿の声に悲愁を聞く詩人たちは、この秋風の中に捨てられた子にどのように詠むことであろうか。)

 いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたるか、母に疎(うと)まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯、これ天(命)にして、汝が性の拙きを泣け。

 高校生の頃に接し、今も印象に残る字句。3歳(満で数えれば2歳だろう)捨て子にかける芭蕉の思い。猿の泣き声を哀しく聞く者よ、秋風の中で泣いている捨て子とどちらがより悲痛・哀切を感じるか、と。五・七・五の定型になっていないところにも、芭蕉の痛切な思いを感じ取る。

 富士川は天下の急流。李白に、猿聲を聞きながら一気に急流を下るという詩がある。富士川付近に野生の猿がいたかどうか定かではないが、こうした古典的背景もあるような気がして、創作的要素がないともいえない。

 が、「汝が性(さが)の拙(つたな)きを泣け」は突き放しぶりが衝撃的であって、それでいて普遍的な表現でもある。また、芭蕉の人生観にも通じるものがあるか。そして、名も分からない捨て子は泣き声とともに、時を経て、今もこうして残されている。

 もう一つの句碑は、

 「ひと尾根はしく(ぐ)るゝ雲か不二の雪」。

 貞享4年(1687)、芭蕉が東海道行脚の途中で詠じた句と伝えられる。文化14年(1817)に丹波亀山藩の藩士で俳人の野楊が碑とした、とのこと。


 今度、富士方面に出かけた時に、現物を見る機会をつくりたい。
 
 旧道沿いの「フジホワイトホテル」の壁面には、「旧松永邸」跡というかなり大きな説明板。松永家は、駿河きっての大地主で、ここ平垣村にあって、領主に代わって年貢のとりまとめを行っていた、とか。その邸宅の跡地に建設されたホテルとのこと。


 説明板の下の方に、「吉原宿」を起点として《日本橋まで34里半8町(144.4㎞)》《京都三条まで90里30町(357.0㎞)》とあった。まだ3倍近くある計算。先は、長い、長い!


 小さな川を渡った左にあるのが、

  
                                 大正5年に建てられた「札の辻跡」碑。 

 「札の辻」とは、高札場がある「辻」のことで、宿場町や街道など往来の多い場所に高札(を板に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法)を掲示した。
 ここでは、それとはいくぶん異なっていて、下に刻まれた碑文には、この場所より遠く離れた西北の地にある「岩本山実相寺」に関連した説明がされている。

 その昔、西の比叡山、東の実相寺とうたわれ、何百人という修行僧が勉学し、寮生活を送っていた。お寺の敷地も広く、一里四方(4㎞平方)現在の「札の辻」付近まであった、と。 

実相寺 

 宗祖日蓮大聖人が、一切経を閲読し、『立正安国論』執筆の構想をねった寺である。もとは天台宗の寺で、久安元年(1145)鳥羽上皇が比叡山横川の智印法印に命じて創建した。円珍が唐から持ち帰った一切経が納められていた。宗祖当時は49院50坊を数えたという。
 宗祖が鎌倉で法華経の弘通活動を初めてまもなくの頃、 異常気象や地震がおこり、疫病がはやって天地が乱れていたため、その原因と対策を究明するため当山の一切経蔵に入蔵して閲読し、災害から諸人を救済する方策を『立正安国論』にまとめあげた。
 宗祖入蔵のおり、学頭智海法印が宗祖に帰依して日源の名を賜わり、全山あげて日蓮宗に転じた。また、この時、のちの六老僧、日興・日持はここで宗祖と師弟の縁を結んで、常時、宗祖に給仕した。(以上、「日蓮宗中部宗務所」HPより)

その先、右側にある「常夜燈」。

 しばらく進むと、再び県道396号線(旧国道1号線)に合流して西へ。その先でJR身延線「柚木」駅に着く。 

その付近からの富士山。

 見える富士山の姿も少しずつ変化。次第に西の山肌が見え始め、頂上の尖ったところが右にずれていく。こういう変化を実感するのも、富士山を見ながらの旅の面白さ。

「常夜燈と道標」。
 通りの反対側(右手)に常夜燈と道標が見えたら、県道を横断して右に入る。

      

 説明板にもある通り、道標に「左東海道」とあるが、元々の位置から移設されたため、現在は「右」に進むことになる。

 旧道をしばらく歩き、富士川の河川敷を囲む「雁堤」を正面奥に見てから左に曲がり、またさっきの県道に戻って右に行くと、いよいよ「富士川」。「富士川橋」の手前、右手に「水神社」の森。

「東海道 歴史の道」水神ノ森と富士川渡船場」。

東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場

 江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。
 これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。
 東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三箇所があり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。 用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。
 渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。 これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
 水神の森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、 溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤(かりがねづつみ)は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。
 このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。

昭和60年1月10日 富士市教育委員会

 この中に記された「雁堤」について。

 富士川は、古くより山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに、日本三大急流の一つに数えられており、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していたが、1615年から古郡重高・重政・重年の父子3代が、1674年の完成まで50年以上の歳月を費やし、水田を富士川の洪水被害から守るため、「雁堤」と呼ばれる全長2.7kmに及ぶ堤防を完成させ、「加島五千石」と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。

雁堤の人柱「護所神社」

 堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。
堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。
 とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 (人柱になった僧自身は999人目や1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。)
 人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴ともい言える曲がり角に埋められることになった。 僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。
 人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面(注:「雁公園」下)には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。

現在

 現在の富士川は、潤井川などの支流への水量調整や、日本軽金属蒲原製造所が自社水力発電の為に、雁堤よりも上流で水を採水し、そのまま駿河湾へ流しているため、昔のような水量ではなく、水敷からも距離があるが、現在も築堤として使用されており、河川区域として国土交通省が管理している。
 広大な堤内地については、隣接する富士市立岩松中学校のサッカー場などのグラウンドの他、市民が利用できる多目的グラウンド、ゲートボール場などとして富士市などに占用許可が与えられている。またみかんやお茶などの畑としても利用されている。
 秋になると長さ1km以上にも及ぶ沿道にコスモスが咲き乱れる。近隣の町内会ごとにエリアが分けられ、当番制で水遣りなどの他エリアに負けずと手間をかけて育てたコスモスはNHKなどの県内テレビニュースでも取り上げられるほど有名となっている。
 毎年10月の第1土曜には、古郡親子3代の偉業と、築堤や氾濫での犠牲者、そして人柱となった僧を弔う「かりがね祭り」が催される。
「岩本山」からの雁堤。

(以上、「Wikipedia」より)

 旧道を左折する時にちょっと見ただけだが、見上げるほどのがっしりしたつくりだ(「雁公園」付近)。写真では中央奥のところ。旧東海道はその左側を通り、中央付近を右折して渡船場に向かう。

左が「富士川渡船場跡」碑。右が「富士山道」碑。「渡船場跡」碑は、近年、建てられたもの。               
       

 慶長6年(1601)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められ まもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生した またこの地から数十㍍南の旧東海道沿いに岩本村が管理した渡船場が存在したといわれる
 これらのことを後代に伝えるため 東海道四百年記念事業の一つとしてこの碑を建立する

 これによると、旧東海道は現在の富士川橋よりももう少し下流方向に進んで川を渡ったとされる。対岸(右岸)の旧道は「富士川橋」を渡って少し北寄りの方向に進むことから、富士川の渡船場は天下の急流を避けるために、上・下流といくどか変遷したようだ。

 いよいよ「富士川橋」を渡って、岩淵に入ります。

1924年(大正13年)完成当時の親柱。
             
                     

 ここからの富士山は次回に。
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政治(の世界)はこんなものだ、とうそぶいてていいのか

2014-12-28 00:18:46 | 世間世界
大阪都構想の住民投票、公明が賛成 維新と協力へ(朝日新聞) - goo ニュース

 この前の衆院選。出るぞ出るぞ、と、公明党・創価学会への敵意をむき出しにしたあげく、結局立候補しなかった橋下さん。その大芝居騒ぎ以来、選挙至上主義の公明との密約が噂されていた。やはり! と思ったのは小生だけではないはず。

 まして、公明党の府連幹部などが学会本部に呼び出されて、維新との関係改善を迫られ、その方針を飲まされた、こうなればぶつぶつ言ってもこれでおしまい! 一件落着! 衆院選の「成果」を受けて、今度は地方選(市議選、府議選)での完勝が至上命令の学会。本部はもとより、大阪の学会幹部が裏で動いたのは明白。「学会主 公明従」の関係はもうはっきりしている。
 今後は、維新との候補者調整を行い、維新は、総選挙の時のように、公明に対立候補を立てないことにも。

 「住民投票」実施を認めただけだ、と公明党は言っているようだが、ここまでくれば、都構想へ賛成に転ずる方針で、自民党も巻き込むはず。何が彼らをして方針変更させたのか、まともな理由説明はいっさい、ない。「住民投票」実施は賛成だが、住民投票の内容には反対する、なんて詭弁が通用するはずがない。「住民投票」に付す『議定書』案は、両党で協議修正して議会を通すのだから。

 今のうちは、維新の連中を安心させ、希望を持たせ、地方選の後の「住民投票」実施に持ち込めば、反対をする、こんな連中のやり口に何度もだまされることはないと思う、橋下さんは。何度も煮え湯を飲まされるほどやわな御仁ではない。「維新」の代表を降りたのも、今回の急転直下の事態と大いに関係がありそう。

 こうして、市民、府民の知らないところで、ことは着実に進んでいく。
 「都構想」なんてもともと無茶だ! 政治の世界のやり方はこんなもんでしょ、などと冷ややかに斜に構えていて、結局臍をかむのは国民。いつになっても懲りないのは、政治家ではなくて、国民。それを見越して、国民を冷ややかに見下す政治家たち。
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「特定秘密保護法」体制下の現実?

2014-12-25 23:01:33 | 世間世界
「防衛省で勝手にやるのはダメだ」菅元首相 政府、事故調調書127人分を公開 東電福島第1原発事故(産経新聞) - goo ニュース

 結局、今回も東電の勝俣恒久元会長や清水正孝元社長ら、事故当時の経営陣の調書は公開されなかった。政府は「本人の同意が得られ」ないので「公開」しないとしている。しかし、多くの国民は一番知りたがっていることなのではないか、彼らの発言内容こそ。
 そうした国民の声はいっさい無視して、彼らの調書は非公開のまま、いずれは廃棄処分になるだろう。

 そして、今回の調書公開もこれまでと同様、菅政権当時の関係者の対応の不手際、まずさを浮き彫りにしている。勿論、そういう側面がかなりあったのは、事実。

 しかし、一番の当事者であった当時の東電幹部。未曾有の原発事故が起こっての対応。そもそも事故を予見出来たのか、出来なかったのか、地震、津波対策はどうであったのかを含め、当時の逼迫した状況下で、原発に熟知した、あるいは対応すべき責任ある立場の調書が、一切明らかにされないまま、アベ政権のもとで、幕引きを行おうとしている。「年内」と期限を切った調書公開の段取りだから。

 このまま東電幹部の調書は闇の中に消え、もう表に出ることはない。・・・

 事故原因、事前予知対策、現場での緊迫した対応、やりとり・・・、これらに頬被りして「原発再稼働」にひたはしるアベ政権。

 これから、これに限らず、こうした事例が増えてくるのではないか。「特定秘密保護」という大義名分のもとで。

 原発事故後数年して、甲状腺がんの疑いのある子ども達が、福島で4人発見されたという。にもかかわらず、原発の影響とは考えられない、と専門家によって否定されてしまった。
 「チェルノブイリ」の例からも、今後数年の間、甲状腺がんに冒された子ども達が多く発見されるかも知れない。それも、闇から闇へ葬られてしまうことはないだろうか。

 「特定秘密保護法」体制下にあっては、そうした情報を得ようとすること自体が犯罪行為になってしまうのだから。

 今回の措置に異議を唱えようとしない、マスコミの及び腰もひどいものだ。国会よりも先にアベへの「大政翼賛会」化した大手マスコミ。すでにアベにすっかり絡め取られてしまっている。

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旧東海道碑。潤井川。間宿本市場。鶴芝の碑。真白き富士の嶺。・・・(片浜から富士まで。その5。)

2014-12-24 19:15:32 | 旧東海道

 国道139号線に合流し、次の「錦町」交差点を右に渡る。植え込みのところにあるのが「旧東海道跡の碑」。

  

 この付近の道路が現在のように改修(昭和40年代)される前は、この碑のある場所を西は青島町(青島村)東は新道町(追分)へ向かって東海道が通っていて(注:実際には東北から西南にかけて)往復する旅人でたいへん賑わっていました
 平成13年5月吉日

   東海道400年祭協賛 富士造園緑化協会
             駿河郷土史研究会

 砂利上に置かれた二つの細長い石は、青島地先より出土した当時の石橋の石だった、らしい。
                  

交差点を挟んで旧東海道は斜めに続いていく。

西南側から交差点方向を望む。

 西南に延びる直線道路を進み、「高島交差点」を渡って、そのまま西の方角へ。

「旧東海道順路」。

 「潤井川」の手前を右に曲がり、続いて左折、「潤井川」を渡る。

「潤井川」上流方向。

 「潤井川」

 源流部は大沢崩れを源とする大沢川と呼ばれ、普段は水が枯れている。上流域は現在でも芝川から取水した用水や生活排水が流れ込むことで形態をなしているため水量が少なく、以前は富士宮市の大中里地区を流れるあたりまでは飢渇川(きかつがわ)と呼ばれた。そしてそこから下流を潤井川としていた。
 上流部には日蓮正宗総本山大石寺の境内を流れる区間があり、その周辺では御塔川とも呼ばれている。なお、大石寺境内を通る国道469号の旧県道時代からの橋である大石橋と現国道の龍門橋(2005年3月完成)との間には、大石滝と呼ばれる滝がある。

 富士山の「大沢崩れ」(大規模な崩落が続き、いずれ富士山の頂上付近の山容が変わるのではないかと心配されている)を源としていることで、崩壊による大規模な土石流などの危険がが予測されて、河道の変更などが実施されているようだ。

正面が大沢崩れ。(「Wikipedia」より)

「富安橋」。

ついに富士山の全貌は見えず。

 来た道を振り返る。けっこう歩いてきた。
                             遠くに見えるのは、「愛鷹山」。

左手にあった石柱。刻まれた内容は判読不能。

 住宅街の道を西へ進む。

「塔の木交差点」。北方向を望む。
   正面に富士山が見えるはずだが。すっかり日も西に傾いてきた。

道路脇に小さな道標。

静岡県総合庁舎の北。

 東海道はしばらくまっすぐな道を進む。そろそろくたびれてきた。折良く、「富士駅」行きのバスが来たのでそれに乗って「富士」駅まで。

 強風のため、東海道線はベタ遅れ。熱海に着くまで何度も何度も停車。熱海で乗り換えて、横浜に着きました。

・・・

 さて、この後、さほど日も経たないうちに、富士宮で法事があって出かけました。思えば、たびたび来るのに、旧東海道関連はまったく訪れる機会はありませんでした。

 昼過ぎまで雲一つ無い絶好の日和。午後になって薄雲が広がってきましたが、帰り道、富士市内の総合庁舎(最終地点)まで回り道してきました。ちょっとイレギュラーですが。それを紹介。

                          
                       「塔の木交差点」付近からの富士山。

  
   「旧東海道 間宿 本市場」紹介碑。庁舎沿いに設置されている。吉原宿と蒲原宿の間の宿場町。

  
                    この説明碑から西にかけて宿場が置かれていた。

その付近から望む富士山。

 しばらく進むと、「鶴芝の碑」。


鶴芝の碑
 この碑は、文政3年(1820)6月、東海道間の宿(旅人の休けい所)本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家蘆洲が鶴をかき、これに江戸の学者亀田鵬斎が詩文を添え、碑とした。市内では旧東海道をしのぶ数少ない貴重な文化財である。

 昭和59年2月1日 富士市教育委員会

                   
                  石碑。鶴の絵と、漢詩文が刻まれてある。

 晩夏の頃、富士山に新しく降った雪を鶴に見立てたものか。
 春先、山の中腹の残雪を鳥などに見立て、農作業の一助にすることは各地にある。そのものが山の名になったものとしては、北アルプスの白馬岳、爺が岳、南アルプスの農鳥岳などがある(いずれも登ったことのある山)。ここでの季節とは異なっているが。

注: ここでは、新雪そのものの形とみたが、「碑文」中の「鶴芝」という表現から、富士山中腹にある草原が鶴の姿に似ている、と   いうことも考えられる。碑文で「晩夏(旧暦では六月)」とあるので、雪は降っていないかもしれない。
   文学的表現では富士山には「雪」がつきもの(平安時代だと頂より白く立ち上る煙がつきもの)だが。

 いずれにしても、すっかり白雪に覆われた富士山を愛でたのではない。が、この付近からの、今日の富士山は真っ白。

  

 今は、住宅の合間からかすかに見える富士山。当時、建物もなく田園地帯だったここから眺めた富士山は、旅人や地元の人間にとってさぞかし格別のものだったろう。

旧東海道。東を望む。

「本市場」詳細図。


 さて次回は、やっと「富士川」越え。
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「平家越(え)の碑」。(新)吉原宿。鯛屋旅館。・・・ (片浜から富士まで。その4。)

2014-12-23 21:48:31 | 旧東海道

 しばらく休憩して、出発。学校帰りの小学生たちがじろっと見ながら通り過ぎる。ぼんやり休んでいて「暇な」おじいさんだなあ!

 ・・・。

 しばらく進み、二叉に分かれた道を左手に。「平家越え橋」の手前、右手に「平家越」の碑。

  

 平家越

 治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、遠くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。
 源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、「平家越」と呼ばれています。   

 そのようすを描いたレリーフが右側に刻まれてある。

 源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立ち敗走したという故事にちなんで、「和田川」のほとりに1924年(大正13年)に平家越の碑が建てられた、そうだ。

 現在の富士川はここより西の方にある流れになっている。当時、この付近は富士川の氾濫原だったのかもしれない。

《平家物語》本文

 さる程に、十月二十三日にもなりぬ。明日は源平富士川にて矢合と定めたりけるに、夜に入って平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、
「あなおびただし源氏の陣の遠火の多さよ。げにもまことに野も山も海も川も、みな敵でありけり。いかがせん。」
とぞ慌てける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風、雷などの様に聞こえければ、平家の兵ども、
「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつる様に、定めて搦手もまはるらむ。とりこめられてはかなふまじ。ここをば退いて尾張河洲俣を防げや」
とて、とる物もとりあへず、我先にとぞ落ちゆきける。あまりに慌てさはいで、弓とるものは矢を知らず、矢をとるものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳すれば、杭をめぐること限りなし。近き宿々より迎へ取つて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。
 明くる二十四日卯刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、ときをぞ三ヶ度作りける。

より)

 注:上に引用の『平家物語』ではこの出来事を「10月23日」としているが、「平家越」碑の前の説明板では10月20日としてあるのは、『吾妻鏡』記載の日付による。

「碑」の脇には、道標が3つ。
 左右の道標は古そうだが、真ん中のものは、距離が粁(キロメートル)で表示されていて、比較的新しい。


 この辺りから望む富士山もすばらしいと思うが、残念! 雲の向こう。こちらは雲一つ無く晴れているのに・・・。

 しばらく進むと、「吉原宿東」との表示。
                                  この辺りから吉原宿に入る。

  
  岳南電車「吉原本町」駅。               踏切を通過する電車。

 ついでにローカル路線の「岳南電車」について。

 岳南電車 

《歴史》

 吉原は東海道の宿場町であったが、東海道本線は町の近くを通らず、町外れに鈴川駅(現吉原駅)が設置されただけであった。戦後になって、鈴川駅と吉原の中心部とを結ぶ鉄道として開業した。鈴川 - 旧左富士信号所間は、戦前に敷設された日産重工業(現日産自動車)の専用鉄道を利用した。
 第二期工事として、旧左富士信号所付近から国鉄の身延線入山瀬駅までを結ぶ案、岳南江尾駅から沼津方面への延伸も計画されていたが、資金難で中止され、事業免許も後に失効した。
 貨物輸送全盛期には、引込線や専用線の総延長が本線の総延長を上回っていたという逸話もある。しかしながら、2011年1月に日本貨物鉄道(JR貨物)の合理化により2012年春以降の貨物輸送の休止が通告され、3月16日限りで岳南鉄道を支えていた貨物列車の運行を終了し、貨物の取り扱いを廃止した。
 これを受けて岳南鉄道は、2011年12月16日に富士市公共交通協議会に対して、貨物列車の運行の終了による採算の悪化から、今後の運行継続が困難であるとの申し出を行った。これに対して、富士市の鈴木尚市長は2012年8月3日の午前中に行われた定例会見で2014年度までの公的支援を行うことを表明した。同年度以降については、収支改善の見通しや、利用状況、市民の意見などから総合的に判断するとされた。
 岳南鉄道はその後、2013年4月1日より鉄道路線の運営を子会社の岳南電車株式会社に移管している。

《年表》

1936年(昭和11年) 日産重工業専用鉄道の使用開始。
1948年(昭和23年) 岳南鉄道設立。
1949年(昭和24年) 鈴川駅(現・吉原駅) - 吉原本町駅間が開業。
1950年(昭和25年) 吉原本町駅 - 吉原駅(現・本吉原駅)間が開業。
1951年(昭和26年) 吉原駅 - 岳南富士岡駅間が開業。
1953年(昭和28年) 岳南富士岡駅 - 岳南江尾駅間が開業。
1956年(昭和31年) 鈴川駅を吉原駅に、吉原駅を本吉原駅に改称。
・・・
2012年(平成24年) 貨物列車の運行廃止。
2013年(平成25年) 路線の運営を岳南電車に移管。

《駅一覧》

吉原駅 -ジヤトコ前(ジヤトコ一地区前)-吉原本町 - 本吉原 - 岳南原田 - 比奈 - 岳南富士岡 - 須津 -神谷 - 岳南江尾

 はたしていつまで運行できるのか。廃線となれば、その時にはまた来てみるかな(ちょっと不謹慎な感想)。

 駅前の案内板。

富士市内の東海道案内図。

吉原宿案内図。

 「吉原宿」は本陣二軒、脇本陣四軒、さらに百軒を超す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。

 現状は、商店が閉まっていて、シャッター通り化しているように思えた。かつての賑わいはなくなったのか、平日の昼間とはいえ、さびしい商店街になっている印象。毎週、水曜日が商店街の一斉休業日になっているのかもしれないが、それにしても・・・。

  

 アーケード街を進む。「貸店舗」の張り紙も目立つ。

 脇本陣跡(ノグチカメラ店)付近。

 この他、大通りを挟んで「本陣」「脇本陣」「問屋場」などの跡が続くが、それらの表示は、足元の歩道にはめ込まれていたらしく、上や脇を見ながら通ったため、まったく気づかずに通り過ぎてしまった。

「明治天皇小休所 高砂館跡」碑。

 その先の左手には、「鯛屋旅館」。

  

ご挨拶

 日本の心の故郷、霊峰富士の山懐に抱かれた富士の老舗、鯛屋旅館です。
 創業は天和2年(1,682年)より330年以上もの間、当時の場所で営業しております。
 また世紀の大親分の清水次郎長、幕末の偉人の一人である山岡鉄舟の常宿としても知られております。
 旅館の続き隣には手打ちそば・うどんの店「本手打 鯛屋」もあります。
 ビジネスに、ご休憩に、お気軽にお立ち寄りいただけるお宿として、皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。
 歴史のある旅館へどうぞお越しください。

(以下、HPより)

あいさつ。

「吉原宿の歴史」。

「館内の案内図」。

 時間があれば、ぜひ立ち寄ってじっくり見学したいところ。お蕎麦も食べて。

 そのまま、商店街を進むと、左手のところに、標柱「東海道400年記念 東海道吉原宿」。

  
        ここを左に曲がる。右の柱には説明文が記されている。

「東海道・大宮街道道しるべ」

 現在、富士市の中央部に位置している吉原宿は、東海道14番目の宿場であっただけでなく、大宮街道、根方街道、十里木街道などのいくつかの街道の起点となる交通の要衝でしたので、周辺には、通行する人々の目印となる道しるべが建てられていました。
 明治23年(1890)に大宮街道の大改修を記念して、東海道と大宮街道の分かれ道に、この道しるべの元となる石碑が建てられました。その後、移設され、現在は市立博物館に隣接する広見公園内に建っています。
 この道しるべは、平成13年(2001)「東海道400年祭」の開催を記念して復元されたものを、この地に改めて設置したものである。

 ここでいう「大宮」とは「富士宮・浅間大社」。「大宮街道」を行くと、「富士宮」市内へ。

 「十里木街道の起点」とあるが、「十里木街道」は、富士川河口の東北に位置する「富士宮」から「御殿場」を経由して「箱根・足柄峠」付近までの旧街道(「東海道」よりも古い)で、富士山と愛鷹山との間を縫うようにして走る道。現在の国道469号とほぼかぶる道。かつては、国道とは名ばかりの、杉林の中の曲がりくねった狭い道の箇所も多くあったり、農家の庭先を通るようなところもあった! が、今は、広く快適な道路になっている。
 したがって、「吉原宿」を起点にしているとは思えない。現在、「吉原」からその国道469号線に合流するには、県道24号線というひたすら北上するルートがある(「十里木」の集落の手前で合流)。
 国道469号線は、10年以上前から富士宮方面との行き来で利用している道路。最近は、ダンプカーや物流関係の大型トラックなどが頻繁に通っている。この道路は、御殿場で国道246号線(「厚木街道」。都内に入ると「青山通り」。)と合流している。

 「根方街道」は、富士から沼津を経由し三島に通じる道。現在の東海道の北側にあって、古い街道の一つ。県道22号線とほぼ重なるルート。

                               

 突き当たりを右に曲がる。目印の石柱。

  

 商店街から離れた道筋。何軒か、雰囲気のよさそうな和菓子屋さんが。

  
    隠れ河原のかりん糖「和田屋」。               だんご処「たむら屋」。

振り返って宿内を望む。

 しばらく進むと、「西木戸跡」。

来た道を振り返る。

 この川(「潤井川」の支流・小潤井川)を越えると、次の宿場(15番目「蒲原」)までの長い道中となる。
                        
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(元)(中)吉原宿。依田橋一里塚? 左富士。・・・(片浜から富士まで。その3。)

2014-12-22 20:08:08 | 旧東海道

 「吉原宿」は、三度、宿場の中心が移っている。

 「吉原宿」は当初現在のJR吉原駅の東付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の依田橋付近に移転した(中吉原)。
 しかし1680年(延宝8年)8月6日の津波により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町「新吉原」に移転した。
 このため、海沿いを通っていた東海道は元吉原宿先で海から離れ、内陸部に大きくカーブすることになり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、「左富士」と呼ばれる景勝地となった。
                                    
                                          (以上、「Wikipedia」参照)

 東海道には二ヶ所あって、もう一つは「南湖の左富士」(茅ヶ崎)(紹介済み)。

  車も人の通りも少ない旧道。

 かつての宿場町の面影はなく、静かな住宅街。

「元吉原小」付近。

 小学校のある左手一帯(南から西側にかけて)は小高くなっていて、津波に襲われることはなさそう。元吉原宿の中心は、JR吉原駅の南東側の海岸寄りにあったようだ。「田子の浦」は深く内陸部に入り込んでいて(現在も)、大津波で低地にあった東海道沿いが甚大な被害を受けたという印象。
 また、JR吉原駅北西側に位置する「中吉原宿」も、入江に注ぐ河川があり、海から押し寄せる津波の影響は受けやすい土地柄であった、と思われる(「東日本大震災」の時のように、大津波が川を遡上する)。

「常夜燈」。

「毘沙門天・妙法寺」門前にある「立場旅館」。

 「立場(たてば)」という名称に興味を持った。

 「立場」とは、江戸時代、次の宿場町が遠い場合の途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたもの。茶屋や売店が設けられ、馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。
 この「立場」が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは、間の宿(あいのしゅく)という。

 ここは、妙法寺参詣者のための宿泊施設とも考えられるが、「吉原宿」が遠く内陸部に移ったために、かつての宿場の名残と旅人の便宜を図るための施設名であったと考えると、「立場」という名称に歴史を感じる。

              振り返って来た道を望む。

はるか西の方に見えていた赤白の煙突が身近に。
 「日本製紙鈴川工場」。東海道線の向こう側にある大きな製紙工場の煙突。

踏切手前の標識には「名勝左富士・中吉原宿跡」とあり、行く方向を示している。

 東海道線の踏切を越えるために、右折。旧東海道は、そのまま線路方向に。

正面奥の道が「東海道」。

  
 「鈴川踏切」。                          沼津方向を望む。 

 本日、三回目の踏切通過。しばらくは「東海道線」ともお別れ。内陸部に歩みを進める。次は、富士川駅付近で出会うことに。

本来は線路の向こうから続いていた「東海道」。

その踏切を渡った通り沿いにぽつんと残された民家。
                                  旧街道沿いにある建物のような雰囲気。

吉原駅近くの民家。

 「ここは鈴川本町」との表示。かつての駅名は「鈴川」だった。左手奥が吉原駅。とっくの昔、当初、駅の南にあった宿場町が北西に移転し、それに伴って東海道の道筋も大きく変更、さらには明治に入って鉄道が開通し、旧来の町並みは分断され、住宅と工場がある閑散とした街並みに。

「屋内貸し駐車場」。屋根などは木造建築。かつての工場の跡?

 「沼川」に架かる「河合橋」を越える。
                         正面左手が「田子の浦港」。そして、臨港工業地帯が広がっている。

 道なりに左に曲がって行く。正面には、雲が無ければ白雪の富士山の姿が。
               

  

 松の大木がぽつんと。その下に「東海道」と「名勝左富士 (中)吉原宿跡」の標識。周囲は工場。「中吉原宿」の位置は、ここよりもっと西側、「富士署」東、現八代町付近にあった。「中吉原」時代、東海道も西北に進んでいた。そのため、「左富士」という景勝地はなかった、はず。

 大通りに合流し、国道1号線と新幹線の高架下にある「依田橋西交差点」を右奥の方に曲がると、いよいよ「左富士」の地へ。

「左富士神社」付近から、来た道を振り返る。道が大きく右にカーブしていくため、富士山が左に見えるようになる。

 このあたり(現「左富士神社」付近)に「依田橋一里塚」(日本橋から34番目)があったという。これで、二ヶ所連続、「一里塚」跡(碑)を見ることができなかった。

 道路を渡った正面が「名勝 左富士」。残念ながら正面に富士山は見えず。

  
現在のようす。見えれば、左奥に富士山。          大正時代のようす(「知足美術館」HPより)

「名勝 左富士」説明板。

東海道  名勝 左富士

 東海道を東から西へ行くとき、富士は右手に美しい姿を見せますが、この辺りは松並木の間から左手に見えることから “左富士” と呼ばれて、街道の名勝となりました。
 浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。」と記されています。今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、浮世絵に見るのどかな風情はありませんが、わずかに残る1本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。

 昭和61年2月1日 富士市教育委員会

広重の浮世絵レリーフ。



 原より3里6町。吉原の宿駅は,むかしはこれより東南にあったが,延宝8年(1608)8月6日の暴風雨のさいにながされたので,翌々天和2年に現在の地にうつされたとつたえられている。このあたりに一カ所左に富士が見える場所がある。東海道を西に上るさい,富士はつねに右側に見えるのであるが,このあたりで道が大きく右折し,そのため富士が左に見える。左富士といってとくに興味をもたれたのである。図はそれをしめしている。美しい松並木をこどもをのせたウマが尻を見せていく。
 (「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)

  

 往時の松並木とは比すべきもないが、小休止して富士山を眺めるのはいいポイント。今日はまったく見えず、残念!

 このあいだ、箱根峠からの下り。旧東海道が工事中のため通れず、「富士見平」付近から国道一号線に迂回して歩いたときに、思いがけず「左富士」を眺めたせいなのか・・・、「左富士」の地が三ヶ所は、ないから。
 今の東海道(国道1号線)には、何カ所か「左富士」となるところがありそうだ。
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「望嶽碑」。昭和放水路。沼田新田一里塚跡? 田子の浦。・・・(片浜から富士まで。その2。)

2014-12-21 22:13:19 | 旧東海道

 この先の「柏原」地区は、原と吉原の「間宿」(間の宿)だったようだ。この富士市の案内碑がこれから随所に。


 しばらく進み、交差点を右手に行くと、JR「東田子の浦」駅。その手前にあるのが、
「六王子神社」。

 伝説 「三股の伝説」

 昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいました。
この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがありました。
 今から四百年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまいました。仲間の六人は国元へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一ヵ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。
 おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。

 平成12年1月    富士市教育委員会

正面が「東田子の浦」駅。瀟洒なつくり。

 少し行くと、柏原・本陣跡。

 その先、右手にあるのが、「立圓寺」。

その境内にあるのが、「望嶽碑」。

 文化5年(1808)5月、尾張藩の典医・柴田景浩(1745~1812)は、この地から望む富士山の美しさに感銘を受け、望嶽碑を建立しました。碑の背面には、以下の内容が漢文で記されています。

 私は生まれつき山が大好きで、また山を絵に描くことが好きである。山といえば富士よりすぐれた山はなく、富士の眺めといえばここから望むのが一番である。私は、富士を見る前から絵を見て想像をめぐらしていたが、富士を見てからは自分の見たままを絵に描いた。参勤交代のために何度もここを通ったが、輿(こし)が休憩するたびに佇んでは富士を望み、ぼんやりと我を失って行きつ戻りつし、時間が来ても出発できなかった。願わくはお前(富士)のふもとで死にたいと思うが、なかなか思うに任せない。昔の人も言ったではないか、「誰カ後来ノ者ト為リ、当ニ此ノ心ト期スベキ」(中唐の詩人・柳宗元の詩句。「誰か将来ここを訪れる人があったなら、きっとこの心境を理解してくれるに違いない」)と。そこで、髪の毛を切ってこの地に埋めることで気持ちをここに表わし、百年後の私の魂のためにも戻ってくるべき場所を作っておきたいと考えたのである。私の姓名は柴田景浩、あざなは子博といい、龍渓と称する。尾張藩の侍医である。

 平成25年11月 富士市教育委員会

  

 この碑の隣には、赤さびた碇が。

 ゲラテック(グラティック)号遭難誌

 清水港より救援米を運ぶ途中、昭和54年(1979)10月19日台風二十号に遭遇し、強風と高波により船体は立円寺・南方の柏原海岸に打ちあげられ、救助を求める二人の船員の尊い生命も奪われました。船体は直立のまま海岸線と防潮堤の中間の陸地に打ちあげられ、新聞テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、五万人の人出を数え売店十数軒出店するなど近郊は勿論のこと、東京愛知山梨より見物人が押しかけた。船体は6ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。
 
 錨の横には、遭難者の慰霊碑があり、インドネシア国籍の2名の名前が刻まれている。インドネシアとの友好の絆として建てられたらしい。

 相変わらず富士山は裾野だけ。

 まもなく「昭和放水路」。

  

 橋のたもとには、「昭和放水路」と深く関わりのある「増田平四郎」の像。


「増田平四郎とスイホシ」説明板。

増田平四郎とスイホシ

 天保7年(1836)の大飢饉や度び重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807~1892)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年(1869)の春で、人びとは「スイホシ」と呼んだ。
 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること十二回、勘定奉行へ籠訴すること六度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(1867)に着工の運びとなった。それは計画の発案から二十七年目のことであった。
 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505メートル、幅7メートルの大規模な堀割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡片もなく壊された。平四郎の大計画は頓挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。

 平成6年3月 富士市教育委員会

  
 この辺に「一里塚」(日本橋から33番目)があったという、との説明があるが、特にそれを示す碑は見当たらなかった。

  

 この付近の海岸は、「田子の浦」。左手には松並木が見え、松を揺らす激しい風の音も聞こえてくる。何とかして海岸に出てみようと、何度か左手の道を入ったが、私道や行き止まり、その向こうには高い防潮堤がそびえていて、海岸方面には近づけない。
 あきらめかけていたところ、墓地へ通じる道があったので、その道をたどった。

松林。
 一年中、海風が激しいせいか、皆、葉も少なく、傾いている。

 防潮堤の上に出てみたが、激しい風にあおられ、立っているのも危ないくらい。体が浮き上がって吹き飛ばされそうに。
 携帯で写真を撮るにも風のせいで安定しないのには、驚いた。テトラポットに激しく打ち付け、何㍍も高く大きなしぶきを上げる波。

空は見事に澄み渡っている。

  
 沼津方向。                           田子の浦港方向。

 さすがに、これ以上、堤防上を歩いて海岸に近づくのは、危険。あきらめた。

 旧東海道に戻って西へ進み、「檜新田」の交差点で、左に折れて県道170号線をそのままたどっていく。

  道標。

「(元)吉原宿」の入口。

 かつての吉原宿。なまこ壁をあしらった「JA富士市元吉原」の建物の「ようこそ元吉原へ」という看板もすっかり色あせていた。
               

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原宿。富士山の霊水。原一本松一里塚。・・・(片浜から富士まで。その1。)

2014-12-20 21:59:00 | 旧東海道

 北日本を中心に大荒れの天気だった12月17日(水)。静岡地方は、一応マークになっていたので、「旧街道からの富士山」見たさにやってきました。
 しかし、富士山は裾野が見えるのみ。晴れていても厳しい西風に向かって歩き続けるはめに。名古屋地方が大雪で大変だった様子。たしかに、はるか西の方は雲で一面白く、富士山の中腹から上もすっかり覆われています。晴れてはいてもこれでは!
 ただ黙々と歩き続けました。自分だけよければいい、などという心構えを見破られた感じ、天に。

 今回は、前回の続き。JR「片浜」駅からJR「富士」駅まで。このJR区間の駅は、「東田子の浦」「原」「吉原」とあります。旧東海道も「東海道線」につかず離れずで進んで行きます。

 「片浜」駅に9時少し前に着き、旧東海道を越えた先にある「西友」(24時間営業)でおにぎり、飲み物などを購入、少し腹ごしらえをしてからの出発。
 まっすぐな道を西に向かって歩き始めましたが、思った以上に強く冷たい西風にあおられて大変、大変。

  
          東海道線の「原踏切」。いよいよ「原宿」にさしかかる。

 しばらく進むと、右手に、
「原宿」東木戸(見付)跡。

 原宿は、現在の西町、東町、大塚本田の三町から形成され、西と東の境に木戸を設けて、宿場の入口とした。東木戸の位置はこの辺ではなかったかと推定される。東木戸から西木戸まで、即ち原宿の東西の距離は660間(2.2㎞)あった。

そこから旧「原宿」内を望む。

直線道路沿いに宿場があった。


「朝之富士」(「Wikipedia」より)。

 最も富士山が美しく見える所がこの地、原である。富士山の美しさ、大きさが強調されており、画面の枠を飛び出している。右側に寄生火山愛鷹山を配し、湿地の浮島には二羽の鶴を取り入れた。男女の供を連れた女主人の見返る姿も富士山の雄姿を強調したものと思う。

                                  
                            大正期の原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より
                 (「」HPより)。


 「原宿」は、白隱禅師の里。ゆかりの跡が残されている。
案内板。
 
  

 白隠禅師は臨済宗の中興の祖といわれ、主区内のある松蔭寺住職として禅の普及につとめた方、らしい。

  
 このあたりが宿場の中心だったのか。次の「吉原宿」まで2里32町(11.3㎞)とあった。

本陣跡。

JR「原」駅。
 現在の「原宿」はJR線に沿った細長い道筋の町となっていて、駅舎も昔風の町家のデザイン。

 まもなく左手に蔵造りの建物が。

「高嶋酒造」。 

 回り込んだ建物脇には、
  

「富士山の霊水」。自噴井戸地下145.5㍍。大腸菌一般細菌無し。 高嶋酒造株式会社。

近所のお年寄りが水を汲み来ていた。

 「高嶋酒造」前の旧街道をしばらく進むと、「原宿」西側の出入口。

「西木戸(見付)跡」。

「原宿」内を振り返る。

 急に道幅が広くなる。松並木がすっかりなくなって、道幅が広くなった、とか。


「新田大橋」。
 南には千本浜から続く松並木が望める。

「原一本松一里塚」跡。日本橋から32番目。

 ここでは街道をはさんで両側にあったと思われるが、現在は宅地化されてその面影はない。

この付近のようす。

「桃里開闢400年 改称100年」記念碑。

どこまでも伸びる一本道。

 風に逆らって歩く。帽子も飛ばされそうなため、持って。左側は日陰、寒いので、なるたけ右側を歩いて行く。

再び踏切を渡る。

沼津・熱海方向に向かう東海道線・電車。

富士山はまったく見えず。手前は、愛鷹山の山塊。一日中、富士山の代わりを務めてくれた。

 線路の南側を進む。いよいよ富士市に。
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沼津藩領境傍示杭。松長一里塚。・・・(三島から片浜へ。その5。)

2014-12-17 23:02:13 | 旧東海道

 再び、旧道に戻って西に向かう。まだ2時過ぎ。それでも、9時過ぎから、途中、コンビニのおにぎりを食べただけで、ほとんど休まずにここまで。そろそろくたびれてきた。

 「六代松」の碑は道の反対側にあった(あるはずな)ので、見逃してしまう。
 県道を横断。この辺りの地名は「間門(まかど)」。

 昔、この地南の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、首の後ろに「天竺摩伽陀(てんじくまかだ)国」と彫られていた。村人は、堂を建て、胴体手足を造り像にして安置し、お祀りしたとの言い伝えから地名が付けられたといわれる。また、アイヌ語では「マカ」とは開く、「ト」とは湖水を意味するが、間門の地名は、往古の地形なり、土地の役割に由来しているのではないかという説もある。  沼津市

 東間門の交差点を直進する。

右奥の道。

  
 「従是東・・・」。

 しばらく進むと、右手に「沼津藩領境傍示」の石碑。下石田には、「従是西沼津領」と刻まれた高さ2,12㍍の傍示杭が完全な形で現存しているので、「従是東沼津領」と判断できる。石質、字体、寸法等すべて同一で、同時に立てられたものであると考えられている。

  

 ここからしばらくは、まっすぐな道を西へ向かう。周囲は住宅街。けっこう歩いて行くと、右手のブロック塀の一角に、「松長一里塚跡」碑。日本橋から31番目の一里塚。

  
                        最近建てられたものらしいが。

来た道を振り返って望む。

 この付近になると、行き交う車も人もほとんどいない。商店などもなく歩くのみ。時折り、

しゃれたログハウス。

「旧東海道」の表示が唯一の実感。

 まもなく右手奥にJR「片浜」駅。道はまっすぐに西に向かっていく。今回は、ここまでしよう!
 あてにしていた「富士山」がほとんど雲の向こうに隠れていたのは、誤算でした。

 たくさんの先達の方々の記録を参考にしながらの旅。どれも参考になります。特に、次の二つ。



「http://www41.tok2.com/home/malts/tokaidoichiriall.htm」。

 2005~2006年の記録で、現在とはかなり実際の様子は異なっていますが、コース・タイムなど細かく記録されていて(若い方のようで小生のような年寄りとはいくぶん早いペースのような気がしますが)、行程を立てる上での参考になります。


「平成の旧東海道(日本橋~京)を歩く 平成19年4月~平成21年4月の旧東海道を記録する」
「http://www5c.biglobe.ne.jp/~naka-boo/Toukaidou/toukaidoutop.htm」。

 旧道の道筋、分岐点などが丁寧な図で明確になっていて、道に迷うことがなくてすみます。

 他にも「ご夫婦での旅」、「同好の士との旅」の記録など、たくさん参考にさせていただいております。

 道中に関係する県、市、町、観光協会の公式HPなどは、計画段階や旅行後の記録確認に役立っています。今後とも参考にさせていただきます。
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蛇松緑道(国鉄・蛇松線跡)をたどる。(三島から片浜へ。その4。番外編。)

2014-12-16 20:20:40 | 鉄道遺跡

 そのまま西へ向かうと、交差点。そこに、右斜めからから左斜めに道路を横断する緑道が。カーブになっていて、これは、間違いなく廃線跡。



 帰宅後、調べると、

 沼津駅と狩野川河口にあった沼津港の間に建設された国鉄沼津港線(蛇松線)が昭和49年8月に廃線となったことに伴い、線路敷地(白銀町~狩野川河口の蛇松町までの約1.8キロメートル)が緑道として整備されました。
 緑道の周辺は静かな住宅街で、約120種、約14,000本の植栽も周辺環境に調和しています。初夏にはさわやかな新緑に囲まれて、周辺住民の憩いの場になっています。(以上、「沼津市」HPより)
  
 その時はそうとも知らず、かなりの寄り道になりますが、たどってみました。途中からレールが保存されているところもあって、興味深い探索でした。

  
                         よく整備された「緑道」。

 明治21年、東海道本線の建設の資材運搬のために現在の沼津駅と狩野川の河口付近にあった沼津港とを結ぶ貨物線が敷設されました。
 この貨物線は、終点の狩野川の河口付近に生えていたという「蛇のように曲がりくねった松=蛇松」にちなんで、「蛇松線」と名づけられました。そしてこの蛇松線は、明治21年から昭和49年まで約90年間、主に石油、木材、魚などを運ぶ貨物線として活躍してきました。ところが貨物輸送が列車からトラックに移るにつれてこの路線もトラック輸送に切換えられ、昭和49年ついに廃止されることになりました。・・・
                        (沼津市「蛇松緑道」案内板より)

「桜植樹」記念碑。桜並木がしばらく続く。

ノラちゃんが何匹か行ったり来たり。

周囲は静かな住宅街。
 輸送盛んなりし時はこの辺りはどうだったのか?

  
 その先が広場になっていました。振り返って望む。

 ここで、線路跡は二手に分かれます。右手の方にはレールが残っています。沼津港に向かう路線跡のようです。

中央に一本。さてもう一本は?

ありました! ガードレールに沿うように。

その先も道路上に残っています。

振り返って望む。駐車スペース?

 この先を行くと、整備された歩道上にレールが埋め込まれています。

  
 まっすぐ伸びていく。                  レールの終わった付近から来た道を振り返る。

 もう一つの廃線跡(緑道)は狩野川河口の方向へ進んでいきます。初期の頃、港があったところへ。

モニュメント(動輪と腕木式信号機)。

振り返って望む。ここが終点。

 正面の階段を上がり、狩野川の土手に。
  
  河口側。正面の橋は「港大橋」。             正面は「香貫山」。

 旧東海道からの往復でした。沼津駅方向の700㍍ほどは探索できず。駅近くの倉庫付近には痕跡があるらしいが・・・。
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川廓通り。沼津城址。本陣跡。千本浜。西方見附跡。・・・(三島から片浜へ。その3。)

2014-12-15 22:58:03 | 旧東海道

 沼津市は、明治維新後の区画整理や二度の大火のため、「沼津城」をはじめ、江戸時代の城下町・宿場町の痕跡はほとんど残っていないようです。また、第二次大戦での米軍の空襲によって大きな被害を受け、その後の復興整備等もあって、いっそう失われてしまいました。

《沼津城》

 「沼津城」は、もともと「三枚橋城」廃城後につくられた。
 永禄3年(1560)、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。
 この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城であった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。同城の築城時期については、信玄生存中の元亀元年(1570)には既に築城されていたという説が有力で、同城の城主としては高坂源五郎が名高い。
 このような武田氏の駿河における拠点であった三枚橋城も、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松平康親が入城している。
 以後、慶長6年(1601)には徳川の家臣大久保忠佐が城主となり、2万石を与えられた。しかし、忠佐死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614)には廃城となった。
 三枚橋城廃城後の沼津は、駿府領に編入されて代官支配となったが、安永6年(1777)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、沼津水野藩が誕生する。
 沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城されている。城の南北は現在の野村證券の通りから静岡銀行沼津支店あたりで、大手門はうなぎの浜作本店あたりに造られ、本丸は中央公園辺りにあった。かつて三枚橋城の城内であった上土町や川廓町には、新たに往還道がつくられた。ただ、三枚橋城と比べ規模は小さい(1/2)。
 明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872)に城は県で競売に付し解体され、同22年(1889)、東海道線開通に伴い、南北に縦貫道路が設けられた。その後、沼津は2回の大火に遭遇し、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなった。

         
築城当時のようす。太く赤い線が東海道。   現在のようす。川は「狩野川」でかつてと流路にほぼ変化がない。

HP参照)

 現在、「大手町」という地名が残るだけで、本丸跡は中央公園として整備され「沼津城本丸址」の碑が建つ。ここまでほぼ完全に破壊された城も珍しいといわれる。

 《沼津城》の記事に出ている「沼津兵学校」。

《沼津兵学校》 

 「沼津兵学校」は、1868年(明治元年)、フランスに倣った軍隊を目指すという目標を掲げ、沼津城内の建物を使って徳川家によって開校された兵学校のこと。初代学長は西周であり、教師は優秀な幕臣の中から選ばれた。
 1870年(明治3年)に兵部省の管轄となり、1872年(明治5年)には政府の陸軍兵学寮との統合のため東京へ移転したが、併設された付属小学校は、現在の沼津市立第一小学校の前身である。沼津兵学校は日本の近代教育の発祥であるとも言われる。
 教授科目は、『博物新論』『地理全誌』『瀛環志略』『孫子』を論講した。英語、フランス語のうち一科による会話、文典をはじめ、万国地理、究理概略(物理と化学)、天文、万国史、経済説大略を講じた。数学科では代数、幾何、三角、実地測量にプランセット、セキスタントなどの練習を課した。
 歩兵学校、砲兵学校、築造将校などの諸科を分かち、それぞれ近代科学的内容の科目をたてて教育訓練を行った。予備校として設立された小学校の科目は、素読、学書、算術、地理、体操、講釈、聴聞の6科を本科とし、剣術、水練を随意科として課した。
 語学関係には渡部温、乙骨太郎乙などの著名な学者を教授とし、また未だ普及の遅れていた近代の数学を積極的に教えたところから、「数学の沼津」と言われ、軍隊の中でも工兵、砲兵などの理系の知識を必要とする分野に、多く人材を提供した。

(以上、「Wikipedia」参照)

《沼津市への空襲》

 軍需工場が集中したため、沼津市はアメリカ軍の中小地方都市空襲の標的となった。
 昭和20(1945)年4月11日の空襲では、午前11時半ころ通横町、吉田町、下河原などに爆弾が落とされた。現在も御成橋の橋柱に残る傷痕は、このとき橋の西北端に落ちた爆弾によるものである。また、4月23日には郊外の海軍技術研究所周辺に爆弾が落ち、女子挺身隊として勤務していた女性らが亡くなった。
 5月4日には、郊外の東熊堂に、次いで5月17日には三枚橋、平町に爆弾が投下され、11人が死亡した。5月28日にも同地区に空爆があった。
 7月17日未明の空襲は、「沼津大空襲」と称され、274人の死者、505人の重軽傷者という大きな被害を出した。70機を超える数の戦闘機から9,000発以上の焼夷弾が投下され、沼津市は市街地面積の89.5%を焼失した。燃え上がる炎は隣接する三島市をも明るく照らすほどであった。また、千本浜海岸に逃げた人たちは、機銃掃射に狙われ命を落とした。町の姿は一夜にして変貌し、駅から海が一に見渡せるほどであった。
 8月3日の沼津駅付近への空襲が沼津への最後の空襲であった。


HP参照)

 さて、かつての沼津宿の中心部へ。
 
 大通りから左に入り、狩野川沿いの石畳状の舗装道「川廓通り」を進む。

「川廓(くるわ)の由来」。

 川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって、東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。
 「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名付けられたものと考えられる。

振り返って望む。

  
 この説明板の右手奥に「中央公園」(沼津城本丸跡)。そこで、早めの昼食休憩。

  
 「沼津城本丸址」。周囲の石は、付近で工事の際に発見された、三枚橋城の石垣に使われていたもの。

 「川廓通り」を進み、突き当たりの大通りを左に向かう。ビルの建ち並ぶ繁華街

「川廓通り」を振り返る。

 いきなり出くわすのがこれ! 

                                        腰掛けるのにはいささか勇気が要りそう。

「通横町」。問屋場跡。

「旧東海道道しるべ」。

 城下町らしく、道は、左、右、左と角ごとに曲がって進んで、「本町」へ。この付近には、「本陣」、「脇本陣」があった。

「高田本陣」跡。

                    「中村脇本陣」跡。

「清水本陣」跡。

 右に折れると、まっすぐな道が西へ。ここまで来ると、市内の繁華街から旧街道筋の雰囲気に。

たどってきた道を振り返る。

 「するが茶どころ」の看板。

     
「浅間神社」脇にある「千本浜公園」への案内板。    古い道標「千本濱海水浴場」。

 ここを左に曲がっていくと、「千本浜」へ。そこで、ちょっと寄り道。

松林、というか松の森。

  

        古木もたくさん。

 海岸から富士山方向を望む。 残念ながら雲の奥。

 晴れていれば、こんな風景が目に飛び込んでくるはず。
                         
 狩野川河口から田子の浦にかけて広がる千本松原は、松の常緑と白雪をいただいた富士山、そして駿河湾の彼方に沈む夕陽といった美しい自然で知られ、白砂青松100選にも選ばれた景勝地です。戦国時代には武田氏と後北条氏の戦いで切り払われましたが、名僧・増誉上人が5年の歳月をかけて植え直したと伝えられています。また、千本松原の一部は公園として整備され、松林の中を散策したり、この地を愛した文人たちの記念碑を見ることができます。
HPより)

どこまでも続く海岸線。

                    
                 はるかかなたに白雪に覆われた山々。南アルプス南部? (↓)。

 冬空の下、何人かが海岸を散策、語らう人達・・・。晴れていれば、さぞかしすばらしい景観に違いない。

 再び旧東海道に戻ってくる。さきほどの分岐点の先に、

「出口町見付外」。

 浅間町の西続きの旧東海道沿いの町を出口町と称している。
 沼津宿の出口に当たることから付けられた地名であろう。
 宿の出口には、見張り番所としての見付があり、その西外側の土地ということで地名であろう、この地の見付(領主番所)は、西見付で東見付は、現在の平町にあった。
(付則)沼津水野藩巡見道筋絵図には、見付は「御見附」と書かれ、この地の南付近にあったと思われる。 沼津市

振り返って望む。
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常夜燈。伏見一里塚。対面石。沼津日枝一里塚。三枚橋。・・・(三島から片浜へ。その2。)

2014-12-14 19:40:40 | 旧東海道

 旧道らしい道筋が続きます。

「こうじ製造所」という看板を掲げた古いたたずまいの家。

 通りの右手にある常夜燈。

 その左先には、細かい絵入りで、個人の手による親切な行き先案内板。

  

 「一里塚」間の距離と時間を示してくれていて、便利。この図では次の一里塚(29番目)は地名から「新宿一里塚」とあった。

 築百年のおうち。目下、補強工事中らしい。

 しばらく行くと「伏見一里塚(日本橋から29里)」がある。「玉井寺」という寺にあるため「玉井寺一里塚」とも。
 反対側には、最近復元された一里塚があり、これは寺の名から「宝池寺一里塚」と言われている。

  
                          「玉井寺一里塚」。(右手にあるもの)

  
                          「宝池寺一里塚」。(左手にあるもの)

 すぐ先が「八幡」の交差点。久々に出会った「国道1号線」を渡ってそのまま進んでいきます。

  
                          「対面石」と「ねじり柿」。

 しばらく進むと、右側に対面石で知られる八幡神社の参道が見えてきます。
 対面石は治承4年(1180年)10月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、黄瀬川に陣取っていた頼朝と、奥州からかけつけた弟の義経がこの地で初めて涙の対面をはたした時に兄弟が腰かけた二つの石らしい。もともとは、別のところにあったものとも言われている。
 また、源頼朝が柿を食べようとしたところ渋柿だったため、種をねじって捨てた。すると、後に出た芽が2本の木に成長し、幹をからませねじりあっていたことから「ねじり柿」と呼ばれるようになった、とか。

松並木を過ぎると、「黄瀬川橋」。この橋を渡ると、沼津市。

  
狩野川・香貫山(かぬきやま)方向。              上流・「愛鷹山」方向。

 「香貫山」は、沼津駅から南東に1km程のところにある市街地に隣接した小山。最高点は標高193mで、山頂付近にある展望台からは沼津市街地や駿河湾が一望でき、天気が良ければ愛鷹山越しに富士山も眺めらる。また、中腹にある香陵台には戦没者を慰霊する五重塔や売店があり、春には満開のサクラが楽しめる、らしい。

「旧東海道」という表示。

 「亀鶴の伝説」が残る「潮音寺」を過ぎると、

注:亀鶴の伝説
 小野政氏という長者が子に恵まれないため里の観世音に祈ったところ一女に恵まれた。その子は名前を亀鶴という美しい子であった。両親に早く死なれ、18才の時藍壺に身を投げて死んだという。一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが、遊女亀鶴は応じないで入水したといい、また工藤祐経に召されたが、曽我兄弟の復讐で祐経の後を追って死んだともいわれている。

HPより)

右手に「傍示石(杭)」が立っています。

  
 「従是西 沼津領」。この「傍示石」が東海道沿いの「黄瀬川村」と「下石田村」の境界に建てられて、沼津藩領域が確定した。

右(東)が「黄瀬川村」、左(西)が「下石田村」にあたる。

 「東下石田」で県道380号線と合流して、道なりに進むと、右手に大きなショッピングモール「西友」。その反対側のスポーツ・ジムのところに「歴史マップ 沼津市大岡(下石田村―江戸時代)」の説明板。

  

 歴史に関わる旧跡などがいくつも示されている。

                「東海道 駿府へ十五里」

 しばらく行くと、左に入っていく「狩野川」沿いの道に進みます。狩野川に架かる「黒瀬橋」の下を通り抜けると、

  
                                「平作地蔵の祠」。

日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来

 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。

 沼津千本浜の場面

 平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。

                                      山王前自治会

 「日本三大仇討ち」といえば、「忠臣蔵」、「曽我兄弟」、そして、この話。荒木又右衛門の仇討ち話は昔、昔聞いたことがあるが、とんと忘れてしまっていた。最近は、「曾我兄弟」の仇討ち談も耳にしなくなって、もっぱら「忠臣蔵」。

 この『賀越え道中双六』という狂言。道中双六に見立てての大芝居。今月(12月)、東京・国立劇場では、中村吉右衛門を座頭にして、このお芝居を上演中。ただし、「沼津の段」はない(昨年の11月の公演ではやったようだ)。

        
 今年の公演。                   昨年の公演。左下が「平作」。


 なお、第六段(「沼津」「千本浜」)は、この段だけでも上演されるほど。
 上の説明板にもあるように、生き別れになった親子の情や仇討ちの志との葛藤・・・、思いがけない悲劇性が観客に感動を与える。

 それにしては、この祠、いささか寂しい趣。かつてはもっと寺域もあったのか、度重なる狩野川の改修工事のために、祠だけが残ったのだろうか? それでも香華が手向けてあった。

その付近から来た道を振り返る。上に見える橋が「黒瀬橋」。

 しばらく進むと、右手の小公園に「沼津日枝一里塚」。日本橋から30番目の一里塚。

  

 「一里塚」(江戸時代初期・江戸から三十里)

 一里塚は、慶長9年(1604)江戸幕府が江戸日本橋を基点として一里ごとに設けた里程標で、主要な街道の両側に塚を築き、榎や松を植えたものです。これは、従来一里を六町としていたが、一里を三十六町に変えたため、その周知を目的にしたものともいわれており、榎や松の木陰は、旅行く人の憩いの場としても利用されたことでしょう。
 この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺及び宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。
 また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに植えられています。

 平成10年11月 
                 沼津市教育委員会

 また、小公園の入口付近には、12、300年前に玉類を磨くのに用いられたといわれる玉砥石が保存されている。


 上の説明板にもあるように、1998(平成10)年に小公園として新しく整備されたようです。
 なお、現在、「日枝神社」は、公園の東側の道を北上し、大通りを渡った先に大きな社を構えている。

 しばらくすると、再び広い県道に合流。その付近に「東方見附」があったと思われる。

「三枚橋」。

 見落としてしまいそうな小橋「三枚橋」を過ぎると、沼津宿の核心部へ。



東海道五十三次之内 沼津 黄昏図 / 歌川 広重
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち ぬまづ たそがれず)
 「東海道五拾三次」の中で唯一の月景である。大きな満月が上がり、明るくなった狩野川沿いの道を親子の旅人と天狗の面を背負った旅人が、沼津の宿場を目前に歩いている。旅人の宿を前にした安堵感が月明りの中で夜の眠りにつきはじめる林の描き方などから伝わってくる。藍色が効果を上げている。

大正期の沼津「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より

(いずれも「」HPより)。

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本陣跡。時の鐘。三島広小路。農兵節。境川。千貫樋。・・・(三島から片浜へ。その1。)

2014-12-13 23:22:54 | 旧東海道

 12月10日。まだまだ太平洋側は晴れが続くだろうと思って、やってきました。しかし、三島で降りる頃には、怪しい雲行き。このコースは、富士山を展望しながら、と思っていました。が、雲の向こうに、白雪の頂が時折見えるだけ(白と白で肉眼でかろうじて判別できるが、携帯ではまったく区別がつかない)。

 寄り道もしたので、「原」までとの当初の目的を果たせず、その途中まで。何とか雨にだけは遭わずにすみました。
 JR「三島駅」に午前9時過ぎに着き、「片浜駅」から午後3時過ぎの電車で戻って来ました。歩行距離合計、約15㎞。

 寄り道したところは、「千本浜」、そして沼津から沼津港へ向かう貨物線の「廃線跡」。回り道した甲斐がありました。

愛染院の溶岩塚。三島駅前。

 これは、富士山から40㎞流下してきた三島溶岩流の末端にあたるものらしい。

 ここからスタート。前回は、「三島大社」までなので、いったんそこまで戻って、西に向かって歩き始めました。

  
            「問屋場跡」。三島中央町郵便局脇。

   「三島大社」方向を望む。

   
  「樋口本陣跡」。                       東を望む。

 通りをはさんで真向かいにあるのが、「世古本陣跡」。

  
                   しゃれたモニュメントにお休み処的雰囲気。

 少し進むと、「源兵白旗橋」。  
 
 この橋は、江戸時代の伊豆五色橋の一つ。他の四つの橋は、「青木橋」「赤橋」(三島市内)「黒瀬橋」「黄瀬川橋」(沼津市内。
 「源兵衛川」の源流は「楽寿園」の小浜池。中郷地区の農業用水のために人工的に作られた川。川の名称はこの計画を立て、架線工事に深い関わりをもった寺尾源兵衛に由来する。
 戦後、水量も激減し、汚染もひどくなったが、その後、環境整備事業によって、かつての清流を取り戻した。清掃やホタルの生育など三島市民の活動によって支えられている。

 川沿いには、コンクリートの鐘楼に時の鐘がかかっています。 江戸時代はこの鐘で宿場の人々に明け六つ、暮れ六つの時を知らせました。
  

 三石神社の境内にあるこの鐘は江戸時代から旅人や町民に親しまれてきました。・・・
 しかし、第二次世界大戦時には供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民有志によって造られたものです。 

 そのまま進むと、「三島広小路」。旧東海道は、左の道になります。振り返って見たところ。通過する電車は、三島と修善寺を結ぶ「伊豆箱根鉄道・駿豆(すんず)線」。



 地元では社名をもじって「いずっぱこ」と呼ぶことも多いらしい。
 路線名の駿豆とは駿河国と伊豆国を意味するが、これはかつて同線が駿河国に属する沼津市と伊豆国に属する三島市の間に軌道線(路面電車、1963年廃止)を運行していた駿豆電気鉄道の路線だったことから来ている。
  駿豆線自体、かつては(旧)三島駅(現・御殿場線下土狩駅)を国鉄線との接続駅にしていたため、駿河国域をわずかにかすめていたが、1934年の(新)三島駅開業後は全線が伊豆国内を走っている。



 大学生の頃、修善寺に行った時に一回乗った記憶があるだけ。見所満載の路線らしいが・・・。
 同じ鉄道会社が運行する「小田原~大雄山間」の「大雄山線」にもとんと縁がない。どちらの線も、機会があったら乗ってみようか。

  
                       旧道。車もほどほどの交通量。

 通りすがりの看板に、

 江戸時代から旅人達の汗がにじんだ「東海道」
 農兵節に唄われた三島女郎衆はこの地に居ました

とありました。

「三島農兵節」(歌詞)

富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ
富士のサイサイ 白雪朝日でとける

とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ

三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ 女郎衆は御化粧が長い

御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ
御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる

御客おこればノーエ 御客おこればノーエ
御客サイサイ おこれば石の地蔵さん

石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ
石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い

頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ
頭サイサイ 丸けりゃからすが止まる

からす止まればノーエ からす止まればノーエ
からすサイサイ 止まれば娘島田

娘島田はノーエ 娘島田はノーエ
娘サイサイ 島田は情けでとける



 静岡県の数ある民謡のうちでもチャッキリ節とともに全国に知れわたっている民謡です。
 江戸時代の末期、今からおよそ150年ほど前の嘉永年間、伊豆韮山代官「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」は日本を外国の攻撃から守る必要性を幕府に訴え、韮山に反射炉を設け大砲を製作するかたわら、若き農夫を集め、彼らを兵力とするためその訓練に力を注いでいました。
農兵の調練は韮山代官所(現在の三島市役所の場所)で行われました。
 文久年間に幕府は江川氏の農兵調練の実益を認め、制度として法令を定め、大いに農兵の調練に当たり、三島調練場で行われた農兵の訓練では志気の鼓舞と団結を図るため、部隊の先頭に鼓笛隊が組織されたと言われています。
 この故事にあやかり、当時東海道筋で流行していた「ノーエ節」を「農兵節」として、昭和初期に平井源太郎によって現在の農兵節が作られました。そして全国に知れわたる「三島農兵節」となり、三島の代表的な民謡として三島夏まつりには欠かせないものとなっています。
現在はその伝統を三島農兵節普及会が譲り受け継ぎ、三島の観光発展に寄与しているとともに農兵節の伝承・後継者育成を行っています。
HPより)

 また、「三島女郎衆」の起源として、天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原北条氏攻撃に際し、将士の休養のために女たちを与え慰安(いあん)したということが伝えられています。秀吉の命により三島へ集められた女たちは、かなり遠く京、大阪付近の人もいたそうです。
 三島宿では、これらの女たちが宿場女郎、飯盛女郎としてかなり大勢働いていました。幕府は何度か、この種の女たちを置かないようにと規制しましたが、宿場側の激しい抵抗にあい、やむなく目をつぶっていたようです。
 その後、この女たちは「三島女郎衆」と呼ばれ、農兵節にも歌われて東海道で有名になっています。

HPより)

 しばらく行くと、左手に「秋葉神社」。ここまでが「三島宿」。

振り返って望む。

 その西側に流れる川が、「境川」。「伊豆」と「駿河」の国境。



 道路を挟んだところに、「千貫樋」の説明板。



 伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。
 創設については諸説があるが、天文二十四年(1555年)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。
 樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。千貫樋の樋名については
1.架設が巧みなため銭千貫に価する。
2.この用水が高千貫の田地を潤している。
3.建設費が銭千貫を費した。
等が、命名の由来と伝えられている。

 清水町教育委員会

  
            奥のコンクリート枠に「千貫樋」と刻まれている。

 「清水町」は、静岡県駿東郡に属する町。ここから「駿河国」に入ることに。
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読書「忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声」(野口武彦)ちくま学芸文庫

2014-12-11 22:55:07 | 読書無限

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士(最近、「浪士」という言い方にクレームがついたらしい、「義士」だと。この書の筆者ではないが、世間の「忠臣蔵」に引きずられているのでは? )の一団が本所・吉良邸を急襲、吉良上野介の首を取り、主君の仇を晴らした、という「事件」現場跡が、「本所松坂町公園」。その1年有余前は、この事件の発端となった刃傷沙汰、「江戸城内松の廊下」が事件現場であった。

 この時期になると、ついつい気になる話題。

 近場のせいか、かつて、何回かこの近辺はうろついたところ。ずいぶん前の写真だが。

   

 実に地味な公園。狭い中に、稲荷神社とか首洗い井戸(最近、名称が変わったらしい)とかある。
 吉良上野介の広大な屋敷跡のほんの一画(敷地の東北の外れに位置した場所のよう。)だったそうで、資料によれば、当時の87分の1の広さしかないらしい。
 この地は1934(昭和9)年、地元の有志が購入し、公園として東京市に寄贈したものだそうで、1950(昭和25)年に、墨田区に移管された。
 ちなみに、京葉道路を少し東に行った「江東橋」のたもとにある、都立両国高校は、浅野家の倉庫とか畑があった跡地。内匠頭への処分が下され、屋敷払いになったときに、手際よく家財道具などを運び込んだところ。地元でも知られざるエピソード。

 毎年、12月14日には「義士祭」はもとより、「元禄市」(赤穂浪士にちなんだ品物や暖かい食品、バザーなどの露店が建ち並び、また、地元企業の服飾、皮革、雑貨商品も格安の価格で販売される)で、この界隈は賑わう。
 「忠臣蔵」では敵役として扱われる吉良上野介も、20年くらい前からは「吉良祭」も義士祭の前日におこなわれている、とのこと。

 「赤穂義士祭」は、赤穂市全体が一丸となり、一年を締めくくる一大イベント。義士たちが本懐を遂げるまでの物語を様々なパレードで繰り広げ、観衆を元禄の世界に引き込んでいく祭 、らしい。

 また、東京港区・泉岳寺の「義士祭」。これも毎年開催されている。
 泉岳寺を舞台とした義士祭では、墓前供養や献茶式が行われ、近隣の有志らが赤穂義士に扮し、泉岳寺周辺を練り歩く様子が見どころとなっている、らしい。

 他の全国各地でも赤穂「義士」にちなんだ催し物が行われる、という国民的イベント。

 今年は、総選挙の投票日。参加者や見物にお出かけになる方は、棄権することなく事前投票を!
 
 と、表題の著書とはあまり関係ない話。

 さて、この書。以上のように、今も尚、「忠臣蔵」的世界観(世間観)でもてはやされる一連の事件を同時代史的にはどう認識されてきたか、当事者とそれにまつわる証言をもとに当事者の肉声に迫ろうという意図を持った作品。

 そこには、沈着冷静な事実の掌握に一貫している当事者の立場(その最たる者は大石内蔵助ではあるが)一方で、自己弁護やその後の世情の評価によって、後に事実の改変を行う人間たち。
 特に、実父を殺害された米沢藩上杉家当主、そして自己保身に走る家老の存在、・・・、一連の「事件」に巻き込まれた(事件に巻き込んだ)人間の模様が当事者達の記録によって明らかにされていく。

 筆者は一貫して「赤穂士」「赤穂事件」と総括的に表現しているところに、文学的・文芸的「忠臣蔵」像、人間像には一線を画している。そこに、筆者の立場がある。

 戦闘場面は、個々の証言を俯瞰的にとらえ直し、わずか二時間ほどの実態を明らかにしようとしているなど、あくまで連続する事件の双方の当人達、裁いた幕閣、等々、さまざまに入り組んだ当事者の「史実の肉声」を解明することに主眼があり、事件の持つ時代性、その後の影響について、また、当事者の証言資料にないことには、筆を及ぼさない、という姿勢からは、まさにジャーナリスト的視点をうまく生かしている。

 ちょっと以前の論文だが、現在の新聞、TVのあいまいで世情に(ズバリ!時の権力者に)一律ならえで迎合的な報道姿勢を見事に見抜いていた、とも思えてくる。快哉、快哉。

 さて、今、「特定秘密保護法」が施行され、マスコミへの自民党からの圧力が大幅に増す中で行われる今回の総選挙(選挙報道がこれまでの3分の1に激減している、とか)。

 果たしてどのような結果になるのか、大いに危惧する。
 
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