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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その3。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-31 18:33:56 | 五日市街道
                            「千川上水」。

(13:18)「御門訴事件記念倚鍤碑」。 
 この記念碑は、御門訴事件により非業の死をとげた旧関前村・同新田名主忠左衛門(井口氏)らを慰霊すると同時に、その事蹟を後世に遺すため同事件後24年を経た明治27年(1894)に建てられたものである。碑文の撰者中島信行は、元神奈川県知事として当地方にゆかりが深く、また自由民権運動の推進者として民衆運動に強い共感を示した人物である。
 御門訴事件は、明治3年(1870)、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に反対した旧関前村新田を含む武蔵野12か新田の農民達が品川県庁に門訴したもので、この事件は、当市域における維新直後の農民闘争としてまことに意義深いものがある。

注:「倚鍤(いそう)」とは、 鍤(鋤)にもたれて往時を回顧するという意味。

しばらく進むと「武蔵野大学」前の五叉路にさしかかります。

「千川上水」。

「千川上水」沿いの解説板と「石橋供養塔」。

《千川上水》
 千川上水は元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=土中埋設)で江戸までつないでいます。
 設計は水利の第一人者河村瑞賢が行い、施行請負は一般に多磨郡仙川村(現調布市仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の住人とも)、太兵衛の両名で、道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えられています。
 こうした功により、のちに両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることとなり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得ました。
 千川上水は、はじめ小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707年)には川沿いの村々から出された灌漑用水への利用願いが許可され、多磨郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
 その後、江戸への上水としては享保7年(1722年)に一度、さらに天明6年(1786年)に再度の廃止をみて、むしろ水田灌漑面に大きな役割を果たしながら幕末を迎えています。練馬区域では石神井川や中新井川沿いの水田に多大な恩恵を与えました。
 幕末から明治にかけて、千川上水の水は滝野川の反射炉(慶応元年着工、中断)や王子の抄紙会社(明治6年設立、のちの王子製紙)、板橋の火薬製造所(同6年、旧金沢藩敷地内)などの工業用水として利用され始めました。明治13年(1880年)には岩崎弥太郎(三菱の創始者)の立案で千川水道会社が設立されました。これは明治40年、東京市に近代水道が引かれるまで存続しました(同41年4月解散)。
 その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして利用されていましたが、昭和43年(1968年)の都営地下鉄工事で六義園の水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に終止符が打たれました。
 (この項、「練馬区」HPより)

《参考》「千川上水」は、上流と中流の一部を歩いています。地下鉄「千川」駅付近の「千川上水」(暗渠になって上は「親水公園」)のようす。
              

 「五日市街道」は左折し、「千川上水」沿いに進みます。武蔵野大学の正門左手、曲がり角に大きな「文字庚申塔」(13:23)。
                 文字庚申塔」解説文。
 現新町の全域は、江戸時代の享保9年(1724)から上保谷新田として開発された新田村でした。それから60年後の天明4年(1784)9月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔に例をみない「五穀成就」と彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明3年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明4年は関東各地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。
 塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子(梵字・ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像客の一部を表現しています。天明4年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。

下部には「右 小川 村山道」「北 たなし きよと 川こゑ ところさは」「東 江戸道」「左 ふちう すな川 八王子道」と彫られています。

「文字庚申塔」の下部。向きは違っています。

1880年代のようす。街道は右下から「千川上水」に沿って左に折れる。

2010年代のようす。

    
 落ち葉の中を進む。                          来た道を振り返る。


    

まもなく「玉川上水」との分水点に近づきます。
○が分水点。

(13:45)「千川上水 清流の復活」碑。

ここから始まります。

交差点・正面奥が「玉川上水」。

「玉川上水」案内板。

「史跡 玉川上水」碑。 

解説板。

 「玉川上水」も上流や下流の一部を歩いています。
《参考》
「多摩川」からの取水口。

                笹塚駅近く。けっこう深い堀状になっている。

 この先は「玉川上水」の北側の遊歩道を進みます。けっこう長く歩きます。
 

1880年代のようす。↓が分水点付近。

2010年代のようす。

(14:07)「歩道橋」に「五日市街道」という標示。
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追悼:橋本治さん。

2019-01-30 21:26:43 | 読書無限
 桃尻語訳の「枕草子」でショックを受けたその時以来、けっこう小説から評論、と手当たり次第読みました。
 ともかくも多芸多才な人物。驚くべき執筆ジャンル、そのおびただしい執筆活動、・・・。
 激動の時代を切れ味鋭く切り取り、咀嚼し、後ろも見ずに走り抜けていった方。
 難病で苦しんでいたとは知っておりましたが、こんなに早く亡くなられるとは、・・・。

 このブログでも何冊か取り上げています。読んだ割には意外と少なかったですが、掲載順ではなく、再掲して追悼に代えます。


 三年前の「東日本大震災」。その傷も未だ癒えずにいる、その中で、生活する家族、そして一人ひとりの生き方。
 阪神淡路を超えてきつつあった多くの日本人が再び未曾有の災害に見舞われ、まして、福島原発事故に遭遇し、それまでの生き方、生活の見直しを余儀なくされた・・・。
 しかし、三年を経過し、原発の再起動路線が政治日程に組み込まれ(「日本復興」という大義名分のもとで)、いつしか風化しつつある(風化させられつつある)今日、改めて、三年前を振り返る。立ち止まって考え直す。そんな連作。最近の橋本さんらしい一代記風の慌ただしさで、家族の、夫婦の、親子の「絆」を、どこかで声高に叫ばれるものとは異なる切実な思いのこもったものとしてではなく、とらえ直していく。
 橋本さん自身、「面倒臭い病気になってぶっ倒れ、その後には大震災によって日本そのものが『立ち止まる』」状況に立ち至った」かなりやっかいな病気に冒された橋本さん。
 ・・・。身辺を巡る時間と空間を自在に操る橋下さんらしい切り口。
「橋本治という立ち止まり方」(橋本治)朝日新聞出版
 副題「on the street where you live」とする筆者の思いをどう受け止めるか? 唐突ですが、民主党政権への失望とその反動からの自公政権への絶望という政治状況から何を見い出しうるのか(将来に向かって)。大きな問いかけを感じ取らなければならないようです。
 
 「初夏の色」淡い蜜柑色に秘めた思いは、絶望か、再生か。そこには、かすかな期待、再生が込められている、と。
 一方で、つい同世代としての悲哀をも感じました。


 よくTVで取り上げられる「ゴミ屋敷」騒動。もう家の中から庭先までゴミの山々、異臭を放ち、近所の苦情が殺到しても当人はどこ吹く風。
 こうした街中の騒動話が、そのうち、TV視聴率かせぎの商品になっていく。実況中継や近所の奥様方のインタビューが中心。そして、役所はどうして放っておくのか、何とかすべきだ、というところに落ち着いて、すてきな商品のCMにつながって・・・。
 我が愛する橋本さん。これを逆手にとって見事な一大・人生話に仕立て上げた。「ゴミの中には、捨てられないものがある。捨てられない人生が埋まっている」
 「ゴミ」屋敷の、年老いた主人公。日本の戦中から戦後、高度成長時代の中、時代に翻弄され転換していかざるを得ない人生、家庭生活・・・。それらを時代時代の風俗を織り交ぜて、足早に追っていく。まさに疾風怒濤の如き、市井の人の人生を描いている。
 そして、すっかり片付けられた屋敷で、かなり年の差がある弟とのしみじみとした会話。兄と同様に、弟も人生の悲哀をしっかり味わってきた。これからの「生きる意味」を探しに、仏様への祈りのため、二人で四国札所巡り・巡礼の旅に出た、その旅先で、主人公は静かに息を引き取る。
 「ただ意味もなく歩き回っていた」人生に、うっすらと笑いを浮かべながら別れを告げていった、と弟は実感する。
 通俗的でありふれた人生ばなしに、すてきな色香を添えた橋本語りであった。


 久々に橋本治。「もの達」と「もの」をひらがな書きしたのがミソ。つまり作品と作家との関連を読み解くという。森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村「達」とその作品「達」を取り上げ、日本の自然主義文学の「理念・発想」「成立」「文体」「視点」など作品そのもと作家の人となりを探っていく。
 日本の「自然主義文学」は、私小説というかたちに収斂され、そこに独自の世界と限界を持っていた、さらにその文体的な特徴を日本的な文化に置き換え、「恥」の文化、「曖昧」な文化、その代表が「あいまい」文体の島崎藤村であった、という説をたしか読んだことがあったが。また、日本の文壇の特殊性・閉鎖性などへの批判なども・・・。
 久々にその復習を兼ねてのものでした。橋本治らしい執念深さで「自然主義」文学とその表現方法としてあった「言文一致体」に迫る。
 再三引用されるのが二葉亭四迷のことば。
 
 「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行(はや)るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く」(『平凡』)

 とくに、 「牛の涎のように」という比喩がお気に召したようで何度も引用しています。まさに「だらだら」文体。でも、実際はそうでもないのでは、ということを明らかにしていこうとするが、やはりそうであった、と。そこに、「失われた近代」を求めていく? 
 花袋の『蒲団』、独歩の『武蔵野』そして、藤村の『破戒』。「人には言えない『=旧』という素性を抱えて隠し続けるがゆえに重苦しくならざるをえない瀬川丑松の胸の内を書くもの」(P144)がどうして四迷のいうところの「自然主義」の「小説」なのか、と。橋本治の「こだわり」が随所に出てきます。
 『破戒』は、けっして被差別民の葛藤を描いたのではなく、「言いだしえない」もどかしさがテーマだとする、そうとらえると、『蒲団』も同様。実にだらだらと牛の涎の如く書き連ねる、そこがまさに「自然主義」文学だ、と。作品(もの)を書いたもの(作者)が「自然主義」ではないと言っても、作品そのものは、四迷が提起(半分揶揄)した類いのジャンルになるというわけですね。
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その2。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-29 19:54:57 | 五日市街道
                        (9:46)都道を渡って、旧道(路地)を進む。
                   

都道に戻って今度は向かい側の道を進みます。

                   来た道(右手の路地)を振り返る。

ゆるやかな坂道を左にカーブしながら進みます。

その先には大きなお屋敷が。

 現五日市街道(「都道7号線」)を右に左に渡りながら旧道を進んできましたが、ここでも、さらに都道を渡ります。
  

ここを右折すると、都道に復帰します。 

(9:56)合流する右手には大きな「庚申塔」。

 ここから先は、「現五日市街道(「都道7号線」)を吉祥寺に向けて進みます。
 

「高井戸境」交差点付近。五叉路になっています。左手の道が旧道。

(10:05)三角形の広場。そこに「五日市街道」碑と解説板。 

 

足元にはケヤキの絵と道路地図。かつてはケヤキ並木があったのでしょう。


                    

 この三角地帯はかつて屈折した旧道が直線化され、現在の街道となった名残なのでしょう。


1880年代のようす。○がその地点。


2010年代のようす。左の通りは「環八」。

ここの地名は「荻窪」ならぬ「柳窪」。

「環八通り」の高架橋を過ぎます。

                               

この先は右側にはケヤキ並木が。今の季節、すっかり葉が落ちていますが。

 (10:21)ほぼ西北に向かってまっすぐに進んで行きます。
広いおうち。

(10:46)「松庵小学校前」交差点から、武蔵野市に入ります。

注「松庵」という地名は、江戸時代にこの地の開拓を指導した医師・荻野松庵に因んでいる、とのこと。

↓が「五日市街道」。

                   

JR中央線のガードを越えていくと、にぎやかな吉祥寺の街並みに。

(11:02)「吉祥寺の杜 宮本小路公園」。「吉祥寺」解説板。
 
~吉祥寺村のはじまり~
 武蔵野市は、かつて4つの村でした。吉祥寺村、西窪(西久保)村、関前村、境村ーこの4か村をまとめて、武蔵野村としたのは、明治22(1889)年のことです。さらに、昭和22(1947)年に武蔵野市となり、今日に至ります。
 明暦3(1657)年に江戸で大きな火事(明暦の大火)がありました。火元は、本郷丸山町の寺で、振り袖についた火が火事の元になったという話もあり、「振り袖火事」とも言われています。
 火事の炎は強い北風に煽られて、たちまち南方へ広がり、神田や日本橋、そして江戸城の天守閣も焼き、本郷元町(現在の水道橋の北側)にあった「吉祥寺」という大きなお寺や門前の人達の家も焼けました。
 翌年、明暦4(1658)年にも大火があり、江戸の半分以上が焼失し、このときも「吉祥寺」は焼け、門前の人達も焼き出されてしまいました。この火事を「吉祥寺火事」といいます。
 江戸城をも焼き払った大火により、水道橋の名刹、「吉祥寺」を本郷元富士町に移し、門前の人達には江戸から遠く離れた野原の広がる牟礼野(現吉祥寺)に土地を与えました。これにより、駒込の名主松井氏、浪士佐藤氏、旗本宮崎氏は五日市街道沿いに移住し、その西隣りには江戸の西の窪の城下町の井野氏が入植しています。
 万治2(1659)年から移住が始まり、人々には五日市街道を挟んで両側に幅20間(約36m)、奥行き634間(約1140m)の同じ形の土地が分け与えられました。人々はまず、道沿いに家を建てその奥(北側又は南側)に畑を作り、耕しきれないさらに奥の方は山林として残しました。そして山林から木材や燃料をとっていました。当時の短冊状の細長い土地の名残を、五日市街道に交わる今の道路に垣間見ることができます。

にぎやかな通りの中の小オアシス。

 

1880年代のようす。上述通りの区画がはっきり。


2010年代のようす。区画に沿って路地ができ、住宅が建てられている。

人通りも多くなってきます。

                           

 実は、知人に「五日市街道」歩きを話したら、「吉祥寺は昔住んでいたところで懐かしい、お蕎麦屋さんだけどぜひ寄ってみて、お蕎麦もおいしいし、ご主人がとてもお酒にも凝っているから、お酒の好きな方にはおすすめ、ご夫婦で切り盛りしていて、奥さんもきさくな方だし、今でも年越しそばは、そこで買ってくるようにしている、そのお店の斜め前の道を入ったところに住んでいた、・・・」と。

 (11:16)「八幡宮」を過ぎた先、お店の名は「中清」。「開店前」。

                           「開店後」。

 が、まだお店は閉まっています(11:30開店ということに気づかず)。残念! せっかちな性分。少し雲行きも怪しくなってきたし、お店に入るのは諦めて先に進むか、と。そのまま「成蹊学園」を通過。
 
                       みごとなケヤキ並木。

 その先、「武蔵野市民文化会館」前まで進みます。しだいに雪交じりの雨に。しかたなく、「コンビニ」でしばらく雨宿り。が、いっこうに雪模様は変わらず。傘をさして行き交う人達。
 いっそのこと、今日はここまでにして戻ろうと再び吉祥寺駅方向へ。すると、お店が開いています。さっそく店内へ(12:03)。

「おまかせおつまみ」と「加賀鳶」。

 厨房の前にはお酒の銘柄がずらり、貼ってあります。値段もほどほど。
 隣の二人連れもお酒を飲みながら、あれこれつまみを頼んで。でも、どうも不思議な関係の中年の男女。旅行の打ち合わせをしているような・・・。
 もう一組は若い夫婦。お腹が大きい奥さんに、ご主人は優しい。あとから入ってきた壮年達4人は、力仕事中の感じ。それぞれ、おそばとご飯のセットもの(大)を頼んで、ビールを。

 こちらは一人、雨止みを待つ風情で、お酒を堪能。そして、お蕎麦。   

 お蕎麦の種類に、「あずまそば」「さとそば」が。更級系と田舎風と、さてどちらがどちら?
 「南極カレー南ばん」、「北極カレー南ばん」というのもあります。鶏肉と豚肉の違い。さて、どっちがどっち。

 「中清」さん。地元では古いお店。石川県産を中心にした日本酒とおつまみ類が充実しているので、酒好きでお蕎麦好きには堪らないお店のよう。

 そうこうしているうちに、雨も止み、晴れ間が。(12:45)お酒と満腹の勢いで先を進むことにします。
 ついでに知人が住んでいたというおうちを拝見して・・・。


《補足》
吉祥寺
 明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。
 折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成され、移住者によっては五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600間余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられたものもいた。しかし土壌はさほど良いものではなく、農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。
 1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園が池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。
 地名の由来は、吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その1。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-28 20:32:11 | 五日市街道
                        →が「青梅街道」より分かれる「五日市街道」旧道。
                         「現五日市街道(都道7号杉並あきる野線)」は100㍍ほど東側で「青梅街道」と分岐している。

              
             
                  1880年代のようす。↓が分岐点。「吉」は「吉祥寺」のこと。

 新春。「五日市街道」歩きから始めます。「五日市街道」とは、「新高円寺駅」付近で「青梅街道」と分岐し、武蔵野市(吉祥寺)、武蔵小金井市などを経由し、あきる野市「五日市」までの街道です。

 (HPより)

1月12日(土)曇り、一時、雨。東京メトロ「新高円寺」駅下車。

(9:15)「五日市街道・旧道」から「青梅街道」方向を振り返る。

「現五日市街道(都道7号線)」と合流し、西へ向かいます。

                          

五日市街道」という標識。

「善福寺川」へ下る道には何カ所か旧道が残っています。

左の道に進みます。

                        

 今度は現五日市街道を横断して進みます。「善福寺川」への下り坂。
「加冨山米店」脇の道。

 「現五日市街道(都道7号線)」は善福寺川までゆるやかに下っていきますが、かつての道は急坂を七曲がりしながら下り、さらに川を越えると屈折した道になっていました。難所だったようです。

「都道7号線」。

旧道。

(9:37)左に折れる角に「民間信仰石塔」。
 石塔の南側の通路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の通路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。・・・

                 

一気に下って行きます。

「都道7号線(五日市街道)」に合流。

五日市街道」解説板。
 この前の道は、五日市街道です。
 五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで、青梅街道から南に分かれ、成田東・成田西・高井戸東・宮前・松庵を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。
 江戸時代初期は「伊奈道」とよばれ、五日市周辺の木材や織物、秋川谷で焼かれた炭荷等を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などといろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。
 この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。
 『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約5.4メートル)程で狭く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(約14.4メートル)とあります。これは3ヶ村が、新田開発により開村された寛文(1661~1672)初年の頃、道幅を拡げたものと考えられます。
 明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約57キロメートル(杉並区内約8キロメートル)が都道(主要地方道杉並あきる野線)に指定されています。
 武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。
 沿道にそびえる欅並木は、この長い歴史の足跡を静かに眺めていることでしょう。

(9:39)「善福寺川」を「尾崎橋」で越えます。
 上流に向かって左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おざき」とは、突きだした台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居跡からみて、この台地には約8千年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾の辺りを小崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
 このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次のように記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」

 
「善福寺川緑地」案内板。

                 
善福寺川
 杉並区の善福寺公園内にある善福寺池に源を発する。杉並区を北西から南東に貫くように流れ、中野区の地下鉄丸ノ内線中野富士見町駅(中野検車区)付近で神田川に合流する。
 中流の川沿いには都立善福寺川緑地と都立和田堀公園が全長約4.2 kmに渡り整備されている。ただし、これら整備された公園以外の河川敷の歩道は非常に狭い為、通行時のすれ違いには注意が必要である。なお、自転車同士のすれ違いが困難な場所もあることから、このような場所では地元の人以外が立ち入るのはまれとなっている。
 住宅地の低地を流れる河川であり、古くから氾濫する川として知られる。集中豪雨・台風対策として神田川・環七地下調節池(貯留量:54万立方メートル)を設置し水害対策を行っているが、2005年(平成17年)9月4日に発生した集中豪雨では、想定貯留量を超える雨が川へ流れ込み、中野区と杉並区の一部民家が被災する事態が発生した(浸水被害はおよそ3000戸)。現在でも橋梁付近には防災警報・カメラが設置され、土嚢が常備されている。
 なお、都市化とともに善福寺池に流入する水量が激減し、一時期上流部にはほとんど水が流れていなかったが、1989年(平成元年)からは善福寺池からの流出地点にあたる美野山橋のたもとより放水し、渇水を防いでいる。 この水は都の清流復活事業により千川上水へ通されている下水高度処理水を、上水の開渠部終了地点にて回収し、送水しているものである。
 1959年、杉並区内の善福寺川でBOACの客室乗務員が遺体で発見された事件(BOACスチュワーデス殺人事件)があり、後に松本清張の作品「黒い福音」のモデルとなった。
(以上、「Wikipedia」参照)


1880年代のようす。鋭角に折れている。



2010年代のようす。ほぼ直線化している。

橋を渡ってすぐ右側の道を進みます。

(9:44)再び都道に出る手前に「寶昌寺」。門前脇には「石橋供養塔」。

                     「東江戸道」とあります。
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等々力渓谷。その3。

2019-01-24 19:38:28 | じじばばがゆく
                                「多摩川」方向の眺め。
すっきり晴れていた天気もしだいに曇ってきて、肌寒くなってきます。

「書院」。

「芝生広場」。

 そろそろ戻りましょう。
ここにも「湧水」。

「不動尊」側の崖。けっこう急です。

                     振り返る。

おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)」。
 
都市を聴く
 走り去る車のエンジン音と子供たちの歓声、そして人々の繰り広げる生活の響きが、田多摩川の木々のざわめきと、渓谷の水面に融け込む。この道をゆくとき、人はこの都市の奏でる調和にひたることになる。                    

 今度は、違う季節に訪れてみようと思います。

 等々力駅に戻る途中、左手に。


                  
鈴木家住宅穀倉 建築年代 明治8年(1875)
 鈴木家は旧等々力村字宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新屋」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。
 この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。入口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張り板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに小屋梁を省略し天井裏にも収納ができます。
 区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。
 鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。  
 


奥には「土蔵造り」。                 
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等々力渓谷。その2。

2019-01-23 19:42:47 | じじばばがゆく
                                「等々力渓谷公園」。
 等々力渓谷。武蔵野台地の南端に位置する延長約1㎞の渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の浸食によってできた、東京区内でもめずらしい渓谷として知られています。
 「等々力」の地名は渓谷内の「不動の滝」の音が鳴り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。滝の上部には、平安時代に役の行者の霊場とされた等々力不動尊があり、かつてはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます。
 渓谷内には、「等々力渓谷第3号横古墳」があります。これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴のひとつで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されています。
 この渓谷は、昭和8年(1933)、国から風致公園として指定されました。世田谷区では、昭和49年(1974)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。
 等々力渓谷では、四季折々の多くの植物や生物を見ることができ、都会とは思えないような自然に触れることができます。

けっこうな急斜面になっています。 

渓谷の水、湧水」解説板。 
 等々力渓谷を構成する谷沢川は、現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々力駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ、渓谷内で不動の滝も合わさり、その後、一部が六郷用水(丸子川)へ、残りは多摩川へと流れていきます。
 この谷沢川には、平成6年(1994)より仙川浄化施設から導水が始まり、水質の改善がおこなわれました。
 谷沢川の水質は、ゴルフ橋から下流に行くにしたがって改善されていることから、この谷沢川に流れ込む湧水が、水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがわれます。
 等々力渓谷の湧水は、東京都より平成15年(200)に「東京の名湧水57選」に選定されています。 

    「水源付近」。 

                
・・・台地と谷との標高差は約10㍍あり、渓谷の斜面には武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内のいたるところから湧水の出現が認められる。・・・ 

「不動の滝」付近。 

 「不動の滝」そのものは、うまく撮れず。後日に再チャレンジしてみます。

             来た道を振り返る。

 右岸沿いにある「日本庭園」へ。
 
 等々力渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。
(この項、「」HPより)



                     「みかん園」。
 
竹林。 

                       湧水。  


庭園から渓谷側を見下ろすと、けっこうな標高差があります。

                      

 
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等々力渓谷。その1。

2019-01-22 22:11:36 | じじばばがゆく
                         「等々力渓谷・ゴルフ橋」。
 新年の御挨拶にでかけた時、お宅の近くに等々力渓谷があることを知り、寄り道します。都内に住んでいてもこれまで縁がなく、初めての散策。
 東急・大井町線「等々力」駅下車。通りを進み、右折すると「等々力渓谷」へ。
 
案内図。
等々力渓谷公園

・・・大井町線等々力駅近く、ゴルフ橋のたもとから階段を降りると、そこはまるで別天地の渓谷。多摩川に向かう谷沢川の流れに沿って散策路を歩むと、ついさっきまで街中にいたことがうそのような気分になってきます。等々力不動のみごとな桜、すがすがしい新緑、季節ごとに自然のすばらしさを思い出させてくれます。

ゴルフ橋
 大井町線の等々力駅近くの等々力渓谷の入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初めに旧下野毛、等々力村に広大なゴルフ場があったことに由来しています。

日本庭園
 等々力渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。

横穴古墳(東京都指定史跡等々力渓谷3号横穴)
 渓谷の左岸崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されています。中でも昭和48年に発見された3号横穴は、典型的な横穴墓の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存措置が講じられました。
 横穴墓は奥行きが13メートルで、内部はとっくりを半分に割ったような形をしています。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原群の等々力周辺を治めていた有力者であると推定されています。

等々力渓谷の植生
 等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であり、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。
崖線の斜面部分には、主としてシラカシやケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやコナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面にはセキショウ草地が見られ、湧水が留まる場所には湿生植物が点在しています。

地形・地質
 等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です。渓谷沿いには武蔵野台地を特徴づける地層断面がよく観察できる箇所があります。地質の分布状況は、下から、台地の基盤である上総層群の高津互層、その上に堆積する渋谷粘土層、武蔵野れき層、武蔵野粘土層、東京軽石層、ローム層の順にほぼ水平に堆積しています。また、渋谷粘土層と武蔵野れき層の間からは、湧水が多く見られます。

(この項、「」HPより)

        
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。公園として整備・拡充。緑が保たれている。

 「ゴルフ橋」のたもとから階段を降りていきます。思ったより下に降ります。見上げると、けっこうな高さ。
                   


左岸には遊歩道。

下流に向かって進んで行きます。

                      

木洩れ陽の中。せせらぎの音と小鳥の声。

「ゴルフ橋」方向を振り返る。深山幽谷の感じ。

「湧水池」。植生も豊か。

周囲の喧噪も届かず。ゆったりと散策を愉しめます。
 

右岸の散策路。頭上は「環八通り」。

                        

「環八・玉沢橋」方向を望む。

      
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その7。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-21 20:49:03 | 川越街道
                               けっこうな人通り。外国人の姿も大勢。
    生活道路なので、車がひっきりなしに通ります。

 実はお目当てのお店があります。「河村屋」さん。ここで長く仕事をしている方とちょっと遠い縁があって、一度訪ねてみようと思っていました。
 「創作漬け物」のお店。本店は「中山道」沿いの大宮にあります。


                   「河村屋」。

 しばらくお茶を飲みながらあれこれお話をし、「生姜の味噌漬け」など、いくつか漬け物を買って引き揚げます。

 

                          とても美味しい品揃え。 

 東武東上線「川越駅」へ向かいます。途中もすてきな新旧の建物が。


                                              

埼玉りそな銀行川越支店」。
 川越には蔵造りの建物と共に、明治・大正時代の洋風建築も多く残っています。その代表的が埼玉りそな銀行川越支店の建物。
 大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けています。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在です。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていません。
 旧国立八十五銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され八十五番目にできた銀行です。現在の建物は大正7年(1918年)に建設。なんと埼玉県で初めて設立された銀行なのです。
 鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て、塔屋・金庫室付の建物で、塔尾の先端までの高さは25.2mあります。ルネサンス様式を基調としながら、ゼブラ模様の付け柱やアーチ部分がサラセン風にデザインされています。料理名の様に例えるなら、「ルネサンス様式建築 サラセン風」となるはずです。

保岡勝也とは?
 明治・大正・昭和と活躍した建築家です。丸の内の赤煉瓦オフィス街を初め多くの住宅建築を手がけています。川越では4つの作品を設計していて、旧国立八十五銀行本店、旧山崎邸、山吉デパート、川越貯蓄銀行がその建築で、その内川越貯蓄銀行以外が現存しています。
(この項、「」HPより)

                    


鍛治町広場」。
由 来
 この広場のある場所は、現在の町名である仲町になる以前は、「鍛冶町」という町名でした。
 室町時代後期、鍛冶職人の平井某が相州(現在の神奈川県)から移り住み、その後弟子田達もこの町に住んだことにより、「鍛冶町」と言われるようになったと、江戸時代に描かれた「武蔵三芳野名勝絵図」に記されています。

高層マンションと蔵造りと。

                                

水戸街道「石岡宿」で見かけたような看板建築。「田中屋」。木造モルタル造り(のはず)。

「大正浪漫通り」。
                     
こちらの建物もさっきと同じ造り。



                             木造3階建て。

 東武の川越駅まではけっこう歩きます。お店が並び、観光客や地元の人が行き交う通りを進みます。

 (15:40)。こうして、二日間の「川越街道」歩きを完歩。

 道中。都内では宿場と商店街が一体となって今も賑やかな街道筋。埼玉に入っては、まだまだかつての面影を残す旧宿場、裏通り。ケヤキの並木道。
 そして、終点。小江戸・川越の賑わい。

 当初の予想とは違って、けっこう変化に富んだ街道歩きでした。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その6。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-18 20:26:32 | 川越街道
                            市役所前の通りを東に向かいます。「中ノ門掘」跡。
                     
 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、中ノ門掘跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
 川越城は古賀公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防に備える為に、1457(長禄元)年に、太田道真・道灌父子によって築城されました。
 江戸時代になると、江戸の北の守りとして、川越城は重視されました。
 1639(寛永16)年、藩主となった松平信綱は、城の大規模改修を行い、近世城郭としての体裁を整えました。
 この際に、天下が治まって間もない時代に、戦いを想定されて中ノ門掘は整備されたと考えられています。
 例えば、敵が西大手門(現:市役所)方面から攻め込んだ場合、この中ノ門掘に阻まれて、本丸(現:初雁球場)方面へ直進することが困難となります。また、堀の深さは7m、幅18m、西大手門側の勾配は30°本丸御殿側は60°になっており、堀が壁のように切り立って敵の侵入を防いでいたことが分かります。
 整備された現在の中ノ門掘跡は、堀跡本体と見学広場の2つになります。
 本体は、遺構保護の為に盛土して、構築当初の勾配を復元しました。
 また、見学広場には、説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置しております。
(この項、「」HPより)

 

                          

人通りはぐっと少なくなります。「郭町」交差点。

「川越市立博物館・美術館」。

川越城本丸御殿」。

 
 嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いたつくりが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿である。
 川越城は扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。その後寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備で、台地上先端に本丸・天神郭・北に二の丸・西に八幡郭・三の丸他の曲輪・本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪にもなった。
 現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りである。
 大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形などがあり、当時の家老たちのやりとりに思いを馳せるのも楽しい。 
                
(この項、「同上」HPより)
                            


「川越城」の全体像。城郭は「市役所」から東に大きく広がっていた。

 
川越城 富士見櫓」跡。
 川越城本丸御殿裏手に「富士見櫓跡」があります。
現在は櫓もなく、高台になっているだけですが、川越城があった頃は、城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓があった、ということです。
 高台にあった富士見櫓が天守閣の代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていたのだそうです。
 川越城本丸御殿の中に川越城富士見櫓模型が展示されていますので、ご覧頂くことができます。
 富士見というからには、当時は富士山も見えていたのでしょうが、現在はマンションや高層ビルなどで見ることができません。
 かなり薄暗く舗装もされていないので、頂上に行かれる方は足下に注意して下さい。
 富士見櫓跡と同じ場所に川越城田曲輪門跡の石碑があり、山頂には御嶽神社が祀られています。
川越城の櫓の役割
■虎櫓(とらやぐら)城の出入り口を警護した建造物。
■菱櫓(ひしやぐら)食料を保管した建造物。
■富士見櫓(ふじみやぐら)天守閣の代わり。
■太鼓櫓(たいこやぐら)太鼓が置かれており時刻と非常時にはそれを乱打して城下に知らせた。
 川越市のホームページによると教育委員会教育総務部文化財保護課では平成12年度から川越城富士見櫓復元整備事業に着手しているそうです。
 現在は、昨年発見された富士見櫓のものと考えられる図面について検証・分析を行なっている。ということなので、もしかしたら近い将来、富士見櫓復元!なんてことにもなるかも。とても楽しみです。
検証中の富士見櫓ではないかとされる図面です。
(この項、「」HPより)

「川越城田曲輪門跡」碑。

立ち入り禁止のロープが張られていましたが、地元の方が上から降りてきて、「大丈夫ですよ。景色がいいですよ。」と。禁を犯して登ってみます。


解説板。 
                                             明治30年建立の「川越城趾」碑。
川越城跡
 川越城は、長禄元年(1457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
 江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、8郭・3櫓、12門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
 しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と本丸御殿の一部が残るのみとなった。
 富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた3重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。

南を望む。

                         東を望む。
 
再び「一番街(蔵造り)」へ戻ります。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その5。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-17 18:48:27 | 川越街道
                          「鐘つき通り」突き当たりの通りが「蔵町通り」(一番街)。
 大きな鬼瓦の屋根に黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉…。まるでタイムスリップしてしまったかの様な感覚になる蔵造りの趣豊かな建物が立ち並ぶ町並み-「一番街」。
 同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせている。その中で最も古く、1792年(寛政4)に建てられた大沢家住宅は国の重要文化財に指定されている。
 江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになった。
 現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。大正12年、関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11年12月1日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 また埼玉りそな銀行の古い洋館は大正7年に建築されたもの。近年では新しい建築物も、景観を壊さないように工夫され、新しいものと古いものとが調和した街づくりが行われている。当時のたばこ問屋を整備した「蔵造り資料館」では、蔵造りの構造をはじめ、敷地内の各蔵の配置なども見る事が出来る。
(この項、「」HPより)
旧道からそれて、「一番街」を進みます。


                 「小江戸横丁」



                 国の重要文化財「大澤家住宅」。

「川越元町郵便局」。この建物も通りにマッチしている。

「札の辻」(「高札場」があった)
交差点。ここを右折。

「一番街」(蔵造りの街並み)を振り返る。

旧高澤町」。
 札の辻の西で、赤間川を境としている。古くは、竹沢九郎という人が開いた町といわれる。江戸時代には、そうめんを扱う店が軒を並べていた。文化15年(1818)に描かれた絵図には、石置屋根・板屋の二階造りの街並みが見られる。この大通りに接して菓子屋横丁が大正時代から盛んとなり、現在も一年を通じてにぎわいを見せている。

 「菓子屋横丁」には寄れなかったので。

 色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。
 素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々…。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。
 「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。
 その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100選”に選定された。
(この項、「」HPより)

「川越市役所」脇の「太田道灌像」が見えてきます。ここが街道の終点。

(14:55)「川越城大手門」碑。

太田道灌」像。

 川越市役所庁舎前(川越城大手門跡)に弓を持った凛々しい太田道灌像が立っています。
 太田道灌:永享4年(1432年)~文明18年7月26日(1486年8月25日)
 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰。相模(神奈川県)の生まれ。
 康正2年(1456年)江戸築城を開始、岩槻・河越にも築城するなど武蔵・相模の有力者になります。
 文明8年(1467年)山内上杉氏の長尾景春が上杉氏に背くと、以後数年にわたり関東各地で景春方と戦いました。
 これにより、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまで成長させましたが、相模国糟屋(かすや)(現:神奈川県伊勢原市)の主家・上杉定正邸に誘い出されて殺害されました。これは、扇谷家の内部対立と扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言われています。

 長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治以後も引き続き埼玉県第一の都市として大正11年他に魁けて市制を施行した。ここに市制50周年を迎えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。(川越市長「銅像銘板」より) 

 と言うことで、東京にもゆかりの深い人物です。

 「太田道灌像」は川越の他に、JR日暮里駅前、東京国際フォーラム内でも見ることが出来ます(全てポーズが違います)。また東京墨田区の法恩寺内に「太田道灌の墓」があります。
(この項、「」HPより)

ちなみに日暮里駅前にある「太田道灌像」。

                       

ここが「川越街道」歩きの終点。これから川越の街を散策していきます。平日、さらに暮れかかった頃なのに、まだまだけっこうな人通りです。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その4。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-15 18:49:37 | 川越街道
                            最初の枡形へ向かいます。
街道筋らしいおうちが散見されます。

最初の枡形(鈎の手)。

川越市
 江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。
 戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約704万人もの観光客が訪れる観光都市である。海外の旅行ガイドブックに紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い。
 武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となった。江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。
 江戸時代を通して、「江戸の大手は小田原城、搦手は川越城」と言われ、川越藩は江戸の北の砦として重視され、石高に較べ非常に多くの家臣を擁した。川越藩の歴代藩主には、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保などの親藩・譜代の有力大名が配された。
 そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行った。
 柳沢吉保の頃から川越は「小江戸」と呼ばれるようになる。柳沢吉保は儒学者の荻生徂徠や細井広沢などを召抱えて川越に住まわせて顧問とし、武蔵野の新田を開発、藩財政の安定を図った。
 川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品開発がなされた。川越藩領の狭山丘陵で河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになった。
 寛政年間に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズと味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった上野国前橋で生糸業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。
 城下町で武蔵国の商工農の中心地であった川越は、江戸とは川越街道や新河岸川の舟運で結ばれ繁栄を極めた。川越城下は川越宿として川越街道の第7の宿場でもあった。川越街道は、川越藩主の江戸への参勤交代や荒川東岸の埼玉郡などにも在った川越藩領への連絡でも重要な役割を果たした。また川越児玉往還とも呼ばれ、川越藩領だった上州前橋への重要な道であった。新河岸川の上流には、川越の外港として川越五河岸が築かれ千住を経て浅草花川戸まで舟が行き交った。多摩地域からの物資も、新河岸川の舟運を用いて江戸市中に運ばれていたほどの物流の大動脈であった。新河岸川の便利な早舟は「川越夜舟」と呼ばれ、川越街道や中山道から客足を奪った。
 埼玉県下随一の城下町だったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。現在の埼玉県成立後、最初に市制を施行したのは川越である。明治以降も先進的な発展が続き、埼玉りそな銀行の前身であり埼玉県で唯一の国立銀行であった第八十五国立銀行の発祥地である。また豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会の発足なども埼玉県内で最初である。埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある。
 現在では、JR・東武東上線川越駅は1日約19万人が乗降し(埼玉県内では大宮駅に次ぐ2位、近接する西武新宿線本川越駅を併せた乗降客数は26万人を超える。
 開国期に日本最大の輸出品であった生糸は、産地の前橋から川越藩が横浜の御用商人に専売し莫大な富を生んでいた。生糸と茶という日本の2大輸出品の殖産興業策は川越藩が他藩に先駆けた。

(以上、「Wikipedia」による)

随所にある「観光案内図」。

「いちのや」。

トイレ脇に置かれた御所車? 

「芋十」。

重厚な蔵造り。

                      
                        「旧道」は、観光客がたくさん集まる通りではありませんが、こうした商家などの建物が多くあります。

旧上松江町」標示。
 旧江戸町の南に接する。町名は、唐の国、松江に対比することに由来している。商人町として発展し、現在は、志義町通りから見ると、川越キリスト教会のモダンな洋風建築物がアイ・ストップとなっている。蔵造りや古い形式の木造町屋が数多く残っており、川越街道に沿って古い街並みを形成する地域である。


                     




川越市指定文化財「田口家・屋号 百足屋」。


二番目の枡形(鈎の手)。

旧江戸町」。
 川越城西大手門より、鈎の手までを指す。旧10ヶ町のうち上5ヶ町の一つ。城より江戸へ行くための起点となる町であるため江戸街道と呼ばれていたが、町の繁栄と共に江戸町といわれるようになった。「れんしゃく丁」「唐人小路」などの北条氏時代の古名も伝わり中世以来の繁栄が窺われる。ここは、道路が2回直角に曲がる城下町特有の鈎の手跡である。


川越城西大手門(「市役所」)方向を望む。

二つの枡形の今昔(○)
        
        
1880年代のようす。                    2010年代のようす。

朱塗りの屋根と蔵造りの家。

「大手町」バス停。

その先で左に折れます。この付近からは平日にもかかわらず、大勢の観光客が。
 鐘つき通り」。

 時の鐘」。

   
残したい日本の音風景百選 川越の時の鐘
 私たちは、日常生活の中で耳を澄ませば聞こえてくる様々な音に囲まれて生活しています。
 環境庁(現環境省)は、全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)を「残したい日本の音風景百選」として認定しました。
 川越市では、江戸時代初期から時を告げてきた「時の鐘」が認定されました。
 いつまでも人々の心に響く、鐘の音と蔵造りの街並みがつくり出す音風景を大切にしていきたいと思います。 川越市

 情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘つき堂である。
 今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝(さかいただかつ)によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。
 現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。 町の3分の1が焼失した中で、暮らしに欠かせない「時」を告げる時計台は、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直された。
 時代が変わり鐘つきの方法が鐘つき守りから機械仕掛けへと変化しても、昔と変わらず今も蔵造りの町並みに時を告げている。また、その響きの良い音色は平成 8年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定された。
 木造で3層のやぐらで高さは約16メートル。午前6時・正午・午後3時・午後6時の1日4回鳴る鐘の音は、その時間時間の空の色や街の風景、漂う香りなどによってそれぞれに趣が感じられ、小江戸川越の情緒をたっぷりと味合わせてくれる。
(この項「」HPより)

                           
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その3。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-11 19:52:36 | 川越街道
                          (13:22)国道を進み、しばらくして再び左の道へ。
                               

国道の喧噪から離れ住宅街を進む。 

(14:01)40分ほど歩くと、「不老川(ふろうがわ)」を渡ります。

                        ほとんど水の流れがない。
不老川
 霞川、柳瀬川などと並び、かつての古多摩川の名残とされている。周囲は武蔵野台地に位置し、地下水も低く、水に恵まれないため畑作(狭山茶など)が行われていた。貴重な河川であったことから親しみを込めて「大川」(おおかわ)と呼ばれることもあった。大雨の際には水がすべて不老川に集まるため、しばしば氾濫を起こし、2000年代以降にも河道の拡張工事が行われている。 1983年から3年間連続で「日本一汚い川」になるという不名誉な記録を作った時期もあったが、現在ではその汚名を返上している。
 市民団体や行政により浄化の取り組みが続いており、小魚や水生昆虫、カルガモなどが生息する程度まで回復している。狭山市の流域においてはしばしば鯉が泳ぐ姿も確認されている。週末になると釣り人も多い。一方、近隣河川や池沼同様に特定外来生物であるウシガエルの生息・繁殖も確認されるようになり、回復しつつある生態系を保全するためこれを駆除するとともに、オタマジャクシや卵の除去作業も続けられている。
 元々の読みは「としとらずがわ」であり、江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では「年不取川」の表記を用いている。近代以降「不老川」の表記となったことから音読みの「ふろうがわ」という読みが広まり、現在、一般化している。この川を示す看板には「ふろうがわ」「FURO RIVER」という読み仮名がふられているものもある。

「としとらず」の由来
 雨が少ない冬になると干上がってしまい、太陰暦における年のはじめ(旧正月・春節)には水が流れなくなる。このため旧暦正月に全員が1歳ずつ年齢を重ねる数え年の習慣における加齢の際にその姿を現さないため「年とらず川」あるいは「年とらずの川」と呼び習わされている。また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承があり、そのことから、「としとらず」川といわれるようになったともされる。
 生活雑排水が流れ込むようになると水量が増え干上がることはなくなっていたが、生活雑排水が流れ込まなくなってからは水量が減り、現在一部流域では水が干上がることがある。

年不取(としとらず)川を詠んだ歌

武蔵野や年とらず川に若水を汲程もなく春は来にけり
昔し誰わたり初けん武蔵野の若むらさきの年とらず川


江戸期の随筆より。(詠み人は不詳である。)

(以上、「Wikipedia」より)

旧家のたたずまい。



しだいに上り坂になります。

                   

(14:09)「烏頭(うとうざか)」。左手高台は「熊野神社」。

                                
烏頭坂
 旧川越街道を岸町から新宿2丁目・富士見町へ上る坂道で、往時は杉並木がありうっそうとしていた。
 新河岸川舟運が盛んな頃は、荷揚げした荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていた。川越の地名として古くからあり、文明18年(1486)頃、この地方を遊歴した道興准后の『巡国雑記』に、「うとう坂こえて苦しき行く末をやすかたとなく鳥の音もかな」という歌がある。

注:「うとう」という地名は全国に存在していて、空洞状または凹状の地形、さらに切通しを指すところが多いようです。

その先に「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」山車の収納庫。 

コノハナサクヤヒメとはどんな神様?

 コノハナサクヤヒメという神様は、竹取物語のかぐや姫のモデルにもなったといわれる、日本神話に出てくる国津神という神様です。
 物語の中でとても重要な働きをする神様で、今の天皇家につながる神様です。
・・・
コノハナサクヤヒメと富士山・浅間神社との関係
 コノハナサクヤヒメの名前が有名な神社と言えば、富士山頂に奥宮を奉る、富士山本宮浅間神社です。
 浅間神社の主祭神が「コノハナサクヤヒメ」で、配神には、コノハナサクヤヒメの夫であるニニギノミコト、父のオオヤマヅミの神が祭られています。富士山を頂く、浅間神社は古くから富士信仰の拠点になります。
 そのため、諸説ある神社になり、元々はコノハナサクヤヒメが祭神ではなく、富士大権現、富士大菩薩、浅間神、浅間大菩薩と言う呼称で一般に信仰を集めていました。
 その後、江戸時代の文献の中で、富士山がその昔活火山であったことと、コノハナサクヤヒメが火の神であったことから、富士山の主祭神の浅間大神はコノハナサクヤヒメの別称という表記も見られます。
 また、富士山の美しい姿から、富士山に女神がいるということも昔から言われていたことから、後にコノハナサクヤヒメが祀られたとも考えられています。

 コノハナサクヤヒメはアマテラスオオミカミの孫のニニギノミコトと結ばれ、天皇家につながる子供を生むことになる、日本神話の中でも有名な神様です。
 天孫降臨後、葦原の中つ国で国の経営をしていたニニギノミコト。
 ある日、笠沙の岬を散歩しているときにとても美しい姫に出会いました。その姫がコノハナサクヤヒメです。
 あまりの美しさにニニギノミコトはすぐにコノハナサクヤヒメにプロポーズをします。
コノハナサクヤヒメはそのプロポーズについては父の神であるオオヤマツミノカミに確認をしますと伝えます。
 コノハナサクヤヒメから、ニニギノミコトに婚姻を申し込まれたとオオヤマツミノカミは聞くと、大喜びをします。
すぐに結婚を了承をしますが、ただコノハナサクヤヒメとの結婚を了承するだけでなく、コノハナサクヤヒメの姉であるイワナガヒメも一緒に嫁ぐことを申し出ます。
 オオヤマツミノカミの配慮でコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹二人がニニギノミコトの元を訪れましたが、ニニギノミコトはイワナガヒメをオオヤマツミノカミの下に返してしまいました。
 理由はコノハナサクヤヒメとは違い、イワナガヒメは見た目が醜かったからです。
 オオヤマツミノカミはそのことを受けて、ニニギノミコトにこのように伝えます。
「私がイワナガヒメを一緒に嫁がせたのは、コノハナサクヤヒメは美しい美貌を持っているが、桜の花のようにすぐに散りゆく(短い命)であるため、
イワナガヒメという、岩のように永遠の命を持つものを一緒に授けました。
 しかし、それを断ってしまったため、ニニギノミコト様の子供は天津神のような永遠ともいえる寿命を持つことはできず、短い命になるだろう。」
こうして、神の子供ではあるが、天皇家は人間と同じような短い命になってしまったのです。
 そんな事件はありましたが、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは深い愛で結ばれました。
ある日ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメから懐妊をしたと報告を受けます。
 しかし、ニニギノミコトはそのことについてある疑いを持ちました。
それは、コノハナサクヤヒメとは一夜を共に過ごしましたが、その一夜で子供を授かったと言うのです。
 ニニギノミコトはその子は自分の子ではなく、自分以外の国津神の子ではないかと疑うのです。
 この疑いを受けたコノハナサクヤヒメは激怒します。
 そして、この疑いを晴らすために次のように言います。
「そこまで言うのであれば、その疑いを晴らすために、産屋に火を放ちそこで出産をして見せましょう。天津神の子供であるのならば、どんな状況でも無事生まれます。そうしてその疑いを晴らします。」
 コノハナサクヤヒメは宣言通り、産屋に入ったのち、その小屋に火を放ちます。
 そしてごうごうと燃え盛る小屋の中で3人の元気な男の子を産むのです。
 コノハナサクヤヒメがご出産された三柱の子供は上から

火照命/ホデリ(=海幸彦)
火須勢理命/ホスセリ
火遠理命/ホオリ(=山幸彦)

 と名付けられました。
 そして、3男であるホオリの孫に神武天皇がお生まれになるのです。

(この項、「」HPより)

 「富士浅間神社」は、この先、街道の東側にあります。



                「国道254号線」と合流します。

 (14:14)歩道橋で「国道16号線」、JR川越線、東武東上線を越えて行きます。


                            

旧道をゴールである「川越市役所」まで進みます。


                       


1880年代のようす。「川越街道」以外の道路や鉄道はない。



2010年代のようす。中央が「国道16号線」等との交差点。
 
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その2。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-10 19:39:03 | 川越街道
                                  大井宿・新井本陣跡「解説板」。
大井宿と本陣
 大井宿は、川越街道の6宿場のうちのひとつとして、江戸から約8里、川越城大手門(現川越市役所)から2里半の道程にありました。江戸時代以前の大井宿は大井郷と呼ばれ、川越街道より東方の現在の東原小学校を中心とした「本村」などの地名のところに集落があったことが発掘調査により確認されています。
 江戸時代に入り、川越街道の各宿場が整備されるに従い、この集落が街道沿いに移転させられ、寛永期ごろにはほぼ宿場の街並みができ上がったものと思われます。その後、元禄11年(1697)にはそれまでの旗本米津氏の知行地から川越藩領となり、大井村から大井町(宿)の呼称へと変わっていきました。
 江戸中期の宝永2年(1705)の「大井町明細帳」には、家数94軒、人口479人(男257人・女217人・僧3人・道心2人、このうちに米・酒・塩・小間物などを扱う商人が5人と桶屋1人がおり、また馬が60疋いると記され、宿場としての賑わいが感じられます。
 諸大名や幕府の役人の宿所である本陣は、代々名主役と兼帯で当所の新井家が勤めました。本陣には問屋場もあり、大井宿における公用の伝馬と人足を手配し、荷物や人の継ぎ立てをおこなっていました。継ぎ立ての賃金は、公用の人馬は6人と6疋(のちの天保12年には13人・13疋)までは安い「御定賃銭」で、一般の人々はこの倍の値段の「相対賃銭」でした。
 川越藩主の参勤交代などの通行では、江戸に近いため川越街道の宿場で宿泊することはなく、大井宿本陣においても小休と人馬の継ぎ立てだけがおこなわれていました。川越街道の交通量は次第に増えていき、旅籠屋・茶屋として河内屋・柏屋・うどん屋・中屋、木賃宿では中島屋がありました。明治維新後は公用の継ぎ立てはなくなり、一般の人々の通行で旅籠や茶屋が賑わいましたが、明治14・15・25年の3度の大火にあい、街並みはほとんど焼失してしまいました。

沿道のおうち。

 「大井宿」に入り、「大井橋」と表示が出ている下には「砂川堀」。

 現在は、この付近では暗渠(下水路)となっています。右下を覗くと、遊歩道になっていて、窪地が東西に続いています。東側に降りて行くと、「大井」という地名のもとになった「大井戸」が復元されています。
 復元された資料を見ると、形式は、「まいまいず井戸」のようです。これは、かつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種で、東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られます。
 すり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分に井戸を掘る形式で、すり鉢の内壁には螺旋状の小径が設けられ、利用者はここを通って井戸に向かいます。

注:「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれています。
  「まいまいず井戸」は古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難之井)がこれを指している。
いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)


(12:06)「理容店」脇に「従是川越迄二里十八丁」と書かれた標柱。
1867年作製の「大井町絵図面」には、本陣の脇に高札場が描かれています。江戸時代の宿駅の高札場には切支丹禁令をはじめとする高札などの他に、駄賃と人足賃及び次の宿までの
里程を記した高札が掲げられていました。大井宿の高札場と考えられる場所には、「従是二里十八丁(約10キロメートル)と記された柱が立ち、ここが宿場町であったことを思・・・。

この付近のようす。

その先に「新井本陣」跡。

                        
                    2017年5月に建物を利用して「カフェ」を開いたそうです。人気なのか、けっこうな車の数。

(12:17)「大井小学校」のところには、「旧大井村役場」。

                          
旧大井村役場
 この建物は、昭和12(1937)年に大井村役場庁舎として建てられました。寄棟(よせむね)形式の2階木造建築・のべ床面積は196.24平方メートルで、外壁はモルタル施工されています。飾りの少ないシンプルな外観は木造洋館風の建物で、当時の官公庁舎で数多く用いられました。川越街道に面した正面入口を入ると、1階正面がカウンターごしに事務室、左には村長(町長)室がありました。2階には議場・議員控室などがありました。1階南側には和風につくられた付属室があり、用務員室・宿直室になっていました。昭和46年12月まで大井町役場として使用されていましたが、その後は東入間警察署・大井小学校・大井町教育委員会が利用していました。昭和初期の官公庁の建造物が次々と姿を消していく状況にあって、川越街道沿いでは唯一残されているのがこの旧役場庁舎です。外観上、一部に手が加えられているものの、基本的な構造など建築当時のものがよく残されていること、数少ない官公庁の木造建造物であることなどにより、平成14年2月14日に国の登録有形文化財になりました。

(この項、「ふじみ野市」HPより)

 旧道は国道から分かれ、左手の道を進みます。
 

交差点に大きなエノキが何本か。どれかが一里塚上に植えられたエノキのようです。
 
 エノキは、江戸時代に主要街道の一里塚が整備された際に、多く植えられました。エノキは成長が早く枝を繁らせ、よく根を張るので塚の土盛りが崩れるのを防ぐということで採用されたようです。
参考「日光御成街道・下野田の一里塚」。

車の量も少ない道をのんびり。

                        

 (12:28)右手に常夜燈が建っています。柱の正面には「奉納 阿夫利神社常夜燈」、左面には「大山 武蔵野地蔵 ところさわ道」とあります。
 

                                 

解説板。「角の常夜燈」。
 神奈川県丹沢山地の霊峰大山の阿夫利(あぶり)神社への参詣旅行のときに、亀久保村から最初の曲がり角に建てられたのでこの名前があります。江戸時代後期の享和2(1802)年に建てられ、明治30(1898)年に笠石と台石が再建されました。左側面には「大山 武蔵野地蔵(むさしのじぞう) ところさわ 街道」と刻まれ、川越街道から所沢方面に分岐し、三富(さんとめ)開拓のために開かれた地蔵街道が大山に向かう道として使われたことがわかります。

和食のお店「美可美」。こんもりとした林の奥に。(こちらは店の裏側? )

旧家の趣のおうち。

再び国道に合流します。

(12:41)その手前、「亀久保神明神社」の西側に馬頭観音。
ここにも大和田宿の「鬼鹿毛伝説」にちなむ伝説があります。

国道沿いのお店に入り、ようやく昼食休憩に。(13:11)そして、再開。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その1。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-09 19:51:33 | 川越街道
                                  (10:33)「大和田宿」への道。


 坂道を緩やかに下って行きます。右手の小高いところに「馬頭観音」。
鬼鹿毛(おにかげ)の伝説
 旧川越街道沿い、大和田と野火止の境に、石造の馬頭観音さまが建っています。元禄9(1696)年の銘文がある三面六臂の馬頭観音は、この地区の人たちによって、鬼鹿毛さまと呼ばれていて、名馬鬼鹿毛にまつわる伝説が伝えられています。
 「昔、秩父の小栗という人、江戸に急用があって、愛馬鬼鹿毛に乗り道を急ぎました。大和田宿に入ると、さすがの鬼鹿毛も疲れが見え、この場所にあった松の大木の根につまずき倒れました。
 しかし、さすがは名馬、ただちに起きあがり主人を目的地まで届けたといいます。所用を終えた主人が先ほど馬をとめたところまで戻ると、いるはずの鬼鹿毛の姿が見えません。不思議に思いましたが仕方なく家路を急ぎました。
 やがて、大和田の地にさしかかると、往路愛馬が倒れた場所に鬼鹿毛の亡きがらを見つけました。鬼鹿毛は主人の急を知り亡霊となって走り続けたのでした。
 村人は、のちに鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたといいます。これが「鬼鹿毛の伝説」です。

(この項、「新座市産業観光協会」HPより)

                「川越街道」解説板。
川越街道
 川越街道は、川越往と呼ばれ、江戸日本橋から川越まで約11里を結び、五街道と並ぶ重要な道でした。江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配されました。又、家康以下、三代将軍も、鷹狩りや参詣にこの街道を往来し、松平信綱が川越城主となってからは、さらに整備されるようになりました。
 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六カ宿が設置され、人馬の往来が盛んでしたが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったようです。
 「身辺武蔵風土記」によると、大和田町は、

 都の西にあり。江戸より六里余。村内東西を貫きて、川越街道一里許り係れり。この街道を西行すれば、入間郡竹間沢村に至り、東行すれば、郡内野火止宿に至れり。

と述べられ、街道沿いには、人馬にまつわる伝説や遺構が残り、往時の宿場のにぎわいが、しのばれます。 

「馬頭観音」の右手には芭蕉の句碑。「花は賤の眼にもみえけり鬼薊(おにあざみ)
寛文6年、23歳の作。「賤<しず>」は身分の低い者、卑しい者、のこと。
 「賤」たる自分でも鬼アザミの紫の花はよく見える、との意。(「賤の目には鬼は見えない」という諺があるのを受けての句のようです。)
                  「鬼アザミ」(「Wikipedia」より)

「大和田宿」。

                 (10:42)「大和田中町」交差点。
大和田宿
 川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県新座市に位置する。
 江戸時代になると柳瀬川の渡河地にあたる大和田が宿場となった。上宿・中宿・下宿によって構成されている。宿場より南の現在の野火止交差点で引又街道(現在の志木街道)と交差しており、浦和・清瀬方面へも交通していた。
                   

宿場を出ると、「柳瀬川」。旧道は川のところで行き止まり。

左手にある「国道254号線」の「英(はなぶさ)橋」を渡り、国道のインターをくぐって進みます。
  

この付近の今昔。

1880年代のようす。直線に宿場を形成。



2010年代のようす。旧道は「国道254号線」と合流。


左手の崖には「冨士山講」の石碑がいくつか並んでいます。
    

その先に(10:58)「跡見学園女子大」。

 (11:03)国道をさらに進むと、ケヤキ並木になります。中央に「川越街道」という大きな石碑。


                               

上り線(新座方向)の右側に遊歩道があります。

ケヤキ並木。

遊歩道のところどころに「サザンカ」などが植えられています。

案内表示。

(11:21)ケヤキ並木の終わりにも「川越街道」碑。

土蔵造りのあるおうち。

すっきりと伸びたケヤキ。
                               この付近ではケヤキが目立ちます。

養蚕農家の面影がある家のつくり。

現代風の長屋門? 

(11:34)しばらく進むと、今度は松並木となります。


 街道の周囲は、宅地造成が盛んに行われているようです。
 

中央分離帯には松以外にもサクラ、カエデなどが植えられています。

(11:52)「川越街道」碑。


江戸と川越を結ぶ川越街道
 竹間沢と藤久保を通る川越街道は、江戸時代の寛永年間(1624~43)に江戸と川越を結ぶ約44kmの街道として整備され、中山道の脇往還としての役割を果たしました。川越街道と呼ばれるようになったのは明治時代に入ってからのことです。江戸時代には「川越道中」「川越往還」などと呼ばれていました。現在、わずかに残る松並木が、往時の様子を伝えています。さて、ほぼ江戸時代の経路を踏襲していると考えられる現在の経路ですが、三芳町内には中央分離帯によって上り車線・下り車線2本に分かれている箇所が2箇所あります。実は、下り車線は昭和初期に新たに整備されたものです。下り車線を新設する際、やむなく木宮稲荷神社の境内を通すこととなり、神社に面する中央分離帯の中に幟立てが今も残されています。
(この項「」HPより)

「大井宿」に入って行きます。
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その6。(「川越街道」第1日目。)

2019-01-07 19:55:23 | 川越街道
                         (14:43)「膝折宿」脇本陣。


高麗家住宅(膝折宿 脇本陣)
 朝霞市膝折町は室町時代から古い宿場と伝えられ、江戸時代末には旧川越街道の宿場として民家が建ち並び、特産品を売る市も立ち、この地方の商業の中心地として栄えた場所です。
 高麗家は、この膝折宿の中心部に位置し、屋号を「村田屋」と称して旅籠を営んでいました。
 建物の建設年代は、建築様式の特徴から18世紀末期の安永~天明期(1772~1789)頃と推定され、現在でも当時の旅籠の建築様式が残されており、川越街道膝折宿の面影が残る貴重な建物です。
                      

本陣は郵便局付近だったようです。

                          

 宿場町の頃の面影はほとんどありませんが、門構えや建物にかつての雰囲気が残っています。


「膝折」バス停。

膝折宿
 川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県朝霞市膝折町にあたる。
 膝折の名は、賊に追われた小栗助重が鬼鹿毛という名の馬に乗って当地まで逃れてきたところで、鬼鹿毛が膝を折って死んだことに由来すると伝えられる。室町時代には既に宿駅としての機能を持ち、市が立って商人が集まった。
近世には川越街道4番目の宿場として、平林寺や仙波東照宮の参拝客、川越藩の参勤交代などで賑わいを見せた。白子宿、大和田宿のいずれからも33町の距離で、万治3年(1660年)の検地帳によると、本陣・脇本陣を中心に39の商家があった。脇本陣だった村田屋が現存する。本陣の跡地は膝折郵便局(膝折町2-4)となっている。1932年までは自治体として膝折村が存在していたが、町制施行の際に改称し朝霞町となった(1967年市制施行)。川越街道には対になる地名として脚折があり、現在も鶴ヶ島市に残る。

注:「膝折」は、上の由来説話とは異なり、「急な斜面を下るところ」という意味をもつ地名のようで、町内には今でも急な坂道があります。「膝折」は「黒目川」へ下る地形上にあり、このような地名になったと思われます。

                        

 「膝折1丁目」交差点を左折。(14:51)「黒目川」を越え、その先の三差路を左に進みます。
 



しばらく進むと、「横町の六地蔵」のところに。
 川越街道沿いには、様々な石仏・石碑が、堂や、道筋に残り、人々の信仰や、生活の様子を今に伝えています。
 横町の六地蔵は、享保17年(1732)に造立された6体の地蔵菩薩の丸彫立像です。・・・

(15:05)その先の交差点が「野火止下」。

(新座市)「野火止(留)」という地名から命名された「野火止用水」はここから南西にある「平林寺」付近に。

野火止用水の歴史
 (「小平市」HPより)作成部署:環境部 水と緑と公園課

新緑の頃の野火止用水
 野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
 開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
 徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
 その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
 ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
 しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。
 小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。
 そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残していきましょう。

「野火止大門」交差点。左1.5㎞ほど進むと、「平林寺」。

右手に藁葺き屋根のおうち。

その先、庭先に牛が。

ここにも。

今回の最終地点、「武蔵野線」のガードが見えてきます。

(15:24)「野火止上」交差点。

「野火止(留)」という地名の由来
 かつて焼畑農業が盛んに行われ、関東ローム層の乾燥した土壌が草木の燃え広がりを早めたことから、延焼を食い止めるために用水が多数造られたことが由来とされている。また、古くは野火止塚に由来し、文明年間に記された「廻国雑記」にもこの地名が読みと取れるという。

立派なケヤキが目に付きます。

(15:32)新座駅前。ここから武蔵野線経由で帰ります。


1880年代のようす。
                        斜めの道が「川越街道」。交差するのは、「志木街道」。


2010年代のようす。中央は「武蔵野線」。
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