おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧下関駅。山陽ホテル跡。

2014-04-30 16:49:14 | 歴史・痕跡
 初めて下関に出かけました。海も近く、山も近く、起伏に富んだ街並みでした。往復とも迎えに来てくれた車の乗せてもらって、北九州空港から関門海峡を橋で渡って下関市内へ。帰りは少し寄り道をして・・・。思ったより早く行き来できました。
 寄り道は、例によって痕跡。旧下関駅跡。お目当てにしていた「山陽ホテル」はすでに解体され、有料駐車場になっていたのが、残念でした。それでも、車の中では「廃線」「痕跡」を熱く語って自己満足。運転してくれた地元の知人は、かなりあきれ顔でした。なにしろ、「山陽ホテル」なんてあったけ? 前にあった下関駅って? 火事で三角屋根の駅舎は焼失したけれど・・・。この火災はこちらの記憶にもありましたが。・・・。


 すっかり港にあった貨物線もすっかりなくなり、駅舎の痕跡もありませんでした。車を駐めて「たしかこのへんは、貨物線の引き込み線があったなあ」案内してくれたすでに70年近く下関に住む方も言いながら一緒に辺りを歩きました。「あそこあたりにあったホテルが山陽ホテルのはずですが」と私。めざとく広い通りに面した記念碑を見つけ、近づくと、「山陽ホテル跡」というモニュメントでした。
「山陽ホテル」。ステーションホテルというように、下関駅正面脇にあった。


かつての写真。設計は、東京駅と同じ「辰野事務所」。
現在は、広い駐車場。
右手の奥に「山陽ホテル」があった。正面が旧下関駅のあったところ。

岸壁に面したところに旧下関駅があった。

このあたりの通りはかつての貨物引き込み線跡になるか?


日清講和記念館・料亭「春帆楼」。
 明治28年(1895年)3月20日から、料亭「春帆楼」において日清戦争の講和会議が開催された。この会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した。講和に向けて会議はくり返し行われ、4月17日に講和条約が調印された。

対岸は、北九州市。この付近が、壇ノ浦。右は「関門橋」。
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貸しボート。海水浴場。平和の森公園。(旧東海道を歩く。大森町駅~大森海岸駅。その3。)

2014-04-27 12:38:20 | 旧東海道

「海苔問屋・川島屋」。
 海岸に近く、貸しボート屋などもしていたとか。
立派な店構え。

「大田区立大森スポーツセンター」前の道標「旧東海道」。
 ほぼこの辺りが、旧東海道の北の入口付近。
案内板。旧「大森魚市場」の写真が掲示されてあった。

「第一京浜」との合流地点。この先で旧東海道は吸収されている。
来た道を振り返る。交番の脇の道が「旧東海道」。
「海水浴場跡」。戦後まもなくまで平和島海水浴場などして営業していたそうだ。





①は、大正中期、②は戦前、③は現代。(「今昔マップ」より)。
①の地名で、大森駅付近は「新井宿」と「入不斗(いりやまず)」とが合併して「入新井村」となっている。「大森」という地名はもう少し南側の地名。駅名にしたのは「大森」の方が知名度が高かったせいか。
②は、戦前。まだ平和島が埋め立てられていない頃。海水浴場、潮干狩りなどの営業をしていたか。海の中にそのような囲いがうかがわれる。
③は、まったく海辺は遙か東に移ってしまった。運河も埋め立てられて「平和の森公園」などになっている。

「平和島競艇場」は今でもあるが、その南側は広大な「平和の森公園」となっている。
緑豊かな散策道。


明治30年創業の天麩羅屋「天仲」。第一京浜沿い。

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美原通り。和中散。汐湯。・・・。(旧東海道を歩く。大森町駅~大森海岸駅。その2。)

2014-04-26 21:16:30 | 旧東海道
 品川宿や川崎宿のように、旧東海道を意識した街づくりになっています。
享保年間に創業の老舗。

 商店の他にマンションなども建ち並んでいますが、景観を損なわないようつくりになっています。




よく見かけるチェーン店ですが。

「環七」との交差点。「三原通り」との道標。
「旧東海道」。随所にある立て看板は、地元の中学生が調べて書いたもの、らしい。
「環七美原通り」。
歩きながら楽しめるような工夫がされている。
趣あるお店、失礼!彫り師・「三代目彫虎」。
下町らしい街並みが続く。
お店のシャッター。


提灯がずらり。
「和中散」。


《大森の和中散》
 江戸時代、東海道の大森宿付近には『食あたり、暑気あたり』に効く漢方薬『和中散』を売る店が三軒あったという。上記の絵は『江戸名所図絵』(斉藤月岑編 天保年間)に描かれた店の風景である。
 絵の屋号『梅木堂』店は、三軒の中でも一番の大店であろう。大森村南原にあった。もともと和中散は近江村栗太郎群地蔵村(現在の滋賀県栗東市六地蔵)の梅木が発祥の地である、東海道草津宿に近いことから、『梅木の和中散』として知られていた。創業は慶長年間と言われている。また大角家が創始であると言われるなど諸説がある。
『馬込と大田区の歴史を保存する会』HPより)

この辺がかつての繁華街。


老舗の海苔問屋。
店先にあったかつての海苔養殖の写真。

「汐湯(海水湯)」の跡。
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ミハラ商店街。大森の海苔。内川橋。(旧東海道を歩く。大森町駅~大森海岸駅。その1。)

2014-04-25 20:29:40 | 旧東海道
 大田区内で、旧東海道は二箇所残っているそうです。その一つは多摩川の手前、六郷土手付近。すでに歩きましたが、短い区間しか残っていませんでした。もう一つがここ。こちらの方が街道筋らしく商店街をつくっていて昔の雰囲気が残っています。今回は、南から北へ向かいました。
出発地点は、第一京浜と産業道路との分岐点、大森警察署の北側の道。黄色い線で表示された道が旧東海道。道標や案内板も整備されていてわかりやすい道でした。「美原・ミハラ商店街」通り。右が北。


 
 
 

左が1880年頃のようす。大森の北付近では、海岸縁を通っている。右が2010年代のようす。←が旧東海道。西側の道は「第一京浜」。

南側(第一京浜方向)を望む。
北を望む。
誰が記したのか、街路樹の柱に「日本橋14キロ、品川宿5キロ」とあった。
道幅は昔のまま?

海苔の老舗がちらほら街道筋に大きな店舗を構えている。

 大森の海苔は江戸時代には御膳海苔として上納されるほど品質に優れ、後にはその生産技術は全国に広められました。日本の海苔養殖発祥の地とも言われ、海苔生産の中心的な役割を果たしてきました。
 昭和37年の埋め立てにより大森の海苔養殖の歴史は閉じられましたが、今も多くの海苔問屋が残り、日本全国から海苔が集まり。全国に販売される海苔流通の要として生き続けています。
HPより)

モニュメント。




 しばらく進むと、「内川橋」。東海道と羽田道との分岐になっていた。

 「するがや通り(羽田道)」
 するがや通りは内川のたもとに旅籠駿河屋があったことから名づけられた。東海道の内川橋際から分岐し、羽田弁天や川崎大師の参詣道だったことから羽田道、江戸道などと呼ばれる。羽田の魚貝や糀谷の玉ねぎ等の産物を運ぶ道でもあった。

説明板。

 「旧東海道(美原通り)」
 ・・・昭和2年(1927)東海道は拡幅整備され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。・・・旧東海道はかつて三原通りと呼ばれた。三原とは、南原、中原、北原のことで、美称して美原となった。

北の地点から「内川橋」を望む。


1880年頃のようす(「同」より)。→が「内川橋」、←が「羽田道」。
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チンチン電車(京急・大森停車場前停留所~大森海岸駅)廃線跡。

2014-04-24 22:47:02 | 鉄道遺跡






(以上、「今昔マップ」より)
① 京急が品川まで乗り入れていなかった頃、国鉄・大森駅と京急大森海岸駅を結んでいた路線。これより以前は、大森停車場が京急の終点であった。
② 京急が国鉄・品川と結び、大森駅と大森海岸駅に残された路線「大森支線」。
③ 現在のようす。全く面影はなく、広い道路となっている。

説明板。

 明治34年(1901)、六郷橋のたもとから蒲田、大森海岸を通って、大森停車場(現在の東海ビル)を結ぶ鉄道がしかれました。関東地方で最も古い歴史をもつしてつが走ったところです。
 その後、大森海岸から新しく品川まで路線が伸びると、大森海岸―大森停車場は、大森支線としてかわいい一両だけの電車が走る、1㎞にも満たない鉄道となりました。当時は線路際に野菜が干してあったり、お客が手をあげるとどこでも止まってくれたり、とてものどかな鉄道だったそうです。
 しかし、まちの発展に力のあった大森支線も、ときの流れとと共にその役割を道路にゆずり、昭和12年(1937)早春、ついに廃止されることになりました。
 現在、シンボル道路として整備され、新しい装いを見せるこの道路は大森支線の夢が眠っているところなのです。

※補足(「Wikipedia」より)

 元々は、現在の京急大師線の前身である大師電気鉄道が、京浜間を結ぶ路線を敷設することを目指して京浜電気鉄道と社名を改称し、東京方面への延伸を行った際に、暫定的に東海道本線大森駅との接続を図るべく開業させた路線である。
 その後、品川駅までの延伸とともに大森停車場前 - 大森海岸駅間は支線となった。単行電車が終日折り返し運転を行ったほか、停留場の概念というものが存在しなかったため、当初はどこでも乗降を行ったとされる。
 昭和期に入り、東京市の道路改良事業計画でこの大森支線を廃止して、その跡地を活用して道路の拡幅を行おうということが決まり、廃線となった。
 なお、大森停車場前停留場は、箕面有馬電気軌道時代の箕面駅などと同様、方向転換の際のポール付け替えの手間を省くため、ラケット形状のループ線になっていた。
 当時の遺構は何も残っていないが、路面に敷設した軌道線の廃線跡がそのまま道路となったため、大森駅前のループ線(現在の大森駅東口ビル付近)や大森海岸駅の本線への接続部が、現在の道路形状として残っている。ルート上の歩道には当時の車両のレリーフが埋め込まれており、大森支線があったことを今に伝えている。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「東海ビル(現大森駅東口ビル)」ラケット形状のループ線であることが何となく分かる。注:現JR大森駅は駅舎改築時に少し北側に移っている。






京急大森海岸駅からJR大森駅方向を望む。直線の道路がかつての大森支線の跡。

中央の公園の奥がループ式の停車場だったようだ。
JR線寄りから東を望む。右が「大森駅東口ビル」。
線路はぐるっとラケット状に円を描いていた。道路にその面影在り。


線路は右から来て左にカーブし建物を一周してまた右に向かった。

赤丸がラケット形状のループ線跡と思われる。

中央正面奥が京急「大森海岸駅」。
歩道上のタイル絵。チンチン電車。
大森海岸。
※付録「鉄道院鉄柱」
 大森駅前の広場に保存されている。喫煙コーナーになっていて、特に説明板もなかった。



「鐵道院」。

鉄柱には明治四十五年七月製造及び合資会社田商會柳島製作所の銘が刻まれている。

おなじものが、東北本線雀宮駅(すずめのみやえき)に時刻表掲示板のフレームに改造されて設置されている、らしい。



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読書「映画、柔らかい肌。映画にさわる」(金井美恵子エッセイ・コレクション4)平凡社

2014-04-23 22:37:27 | 読書無限
 さすが参ったというのが、最初の感想。実に本質を突くことに長けている(世人がどう評価しようが)筆者の面目躍如たる表現「柔らかい肌。映画にさわる。」これだけで、本を拡げなくても、目を通さなくても「納得」してしまうインパクト。もちろん、そんなの、ありふれたフレーズじゃないかという斜に構える御仁もいそうだが。なるほど「映画、柔らかい肌」は、30年以上も前の表題でもあったのですから。だが、・・・。装丁もすてきですし、随所に挟み込まれた写真も肌のあわいを感じさせるショットが盛りだくさんです。

 映画に登場する俳優達の微細な表情、仕草、爪の先からつま先まで、観る者の五感を駆使しての映画鑑賞術、といっては失礼ですか。そして、小道具や大道具、音響やら色彩やら・・・。監督の五感と相対峙しながらの評価眼は、まさにスクリーンに幼き肌をさらしてきた(さわってきた)筆者の独自の世界観でもあります。
 高崎という地。関東平野の片隅。都会の荒波(の余波)を微妙に意識しつつあった戦後、詩人的風土もあったにちがいない地に生を受けた筆者の原体験がひしひしと伝わってくるエッセー集。近作では、「ニシノユキヒコの恋と冒険」が(この映画は、川上弘美の小説がもと)取り上げられている。
 俳優よりも監督に鋭い視線が向かっていくのは、小説家の性でしょうか。

 「女はたとえエキストラといえども、女優に変身できる、しかしは男はどうしようもない、・・・」 これこそ、はたと膝を打った。
 げに恐ろしきは、切ったはったとなで切りにしつつ、ほほえむ金井さんではあります。
 
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読書「初夏の色」(橋本治)新潮社

2014-04-22 22:09:01 | 読書無限
 三年前の「東日本大震災」。その傷も未だ癒えずにいる、その中で、生活する家族、そして一人ひとりの生き方。
 阪神淡路を超えてきつつあった多くの日本人が再び未曾有の災害に見舞われ、まして、福島原発事故に遭遇し、それまでの生き方、生活の見直しを余儀なくされた・・・。
 しかし、三年を経過し、原発の再起動路線が政治日程に組み込まれ(「日本復興」という大義名分のもとで)、いつしか風化しつつある(風化させられつつある)今日、改めて、三年前を振り返る。立ち止まって考え直す。そんな連作。最近の橋本さんらしい一代記風の慌ただしさで、家族の、夫婦の、親子の「絆」を、どこかで声高に叫ばれるものとは異なる切実な思いのこもったものとしてではなく、とらえ直していく。
 橋本さん自身、「面倒臭い病気になってぶっ倒れ、その後には大震災がによって日本そのものが『立ち止まる』」状況に立ち至った」かなりやっかいな病気に冒された橋本さん。
 ・・・。身辺を巡る時間と空間を自在に操る橋下さんらしい切り口。
「橋本治という立ち止まり方」(橋本治)朝日新聞出版
 副題「on the street where you live」とする筆者の思いをどう受け止めるか? 唐突ですが、民主党政権への失望とその反動からの自公政権への絶望という政治状況から何を見い出しうるのか(将来に向かって)。大きな問いかけを感じ取らなければならないようです。
 
 「初夏の色」淡い蜜柑色に秘めた思いは、絶望か、再生か。そこには、かすかな期待、再生が込められている、と。
 一方で、つい同世代としての悲哀をも感じました。
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坂本龍馬。立会川。鈴ヶ森。・・・(品川宿。その4。)

2014-04-20 22:17:37 | 旧東海道
 立会川駅。商店街の中に「坂本龍馬」像。龍馬ゆかりの地に建てられたもの。
坂本龍馬。
説明板。「20歳の頃の龍馬のブロンズ像」とのこと。この付近には、土佐藩下屋敷があった。

立会川。
「立会川」河口に近くに架かっていた「浜川橋」。別名「涙橋」。鈴ヶ森の刑場に赴く罪人との別れの橋。千住・明治通りにも「涙橋」があるが、そこは、小塚原刑場へ向かう罪人との別れの橋。


旧東海道を振り返る。
右手が「大田区立鈴ヶ森中」。
この辺りの標高は、1
.7㍍。

鈴ヶ森遺跡。旧東海道が第一京浜と交わる手前。
大きな立て看板。
慰霊碑などが立ち並んでいる一角。かつては大きな敷地で、海に面していたようだが、今はその面影はなく、ひっそりとこじんまりしている。
首洗いの井戸。
第一京浜に架かる歩道橋から望む。
↓旧東海道はここで、第一京浜に吸収される→。しばらく進み、平和島付近で再び旧東海道の通りが残されている。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。鈴ヶ森刑場は海に面していて、処刑の中には、海中に立てた柱に罪人を縛り付け、水責めの刑に処した場合もあったとか。この地図では、「鬼子母神堂か題目堂付近と思われる。明治維新後は水田と化している。
 旧東海道は海岸線沿いに南下し、大森を過ぎると、内陸部に入っていく。
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旧東海道。青物横丁。鮫洲。(品川宿。その3。)

2014-04-19 16:58:36 | 旧東海道
 「青物横丁」付近を過ぎると、東海道は一路、川崎宿を目指して進みます。街道筋をたどってみました。 

 ところで、「青物横丁」駅の由来

 江戸時代に農民がこの地に青物(当時は野菜や山菜のことを指した)を持ち寄って市場を開いたことに由来する。地元では「青横(あおよこ)」という略称が使われている。日本で唯一「横丁」が駅名に入っている駅である、と「Wikipedia」に。



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。南品川から青物横丁、鈴ヶ森まで。海岸線沿いに東海道は進んでいく。中央に流れる川が「立会川」。


ほぼ同じ場所の現在のようす(「同」より)。
旧東海道がどのか道か定かで内ほどの変化。第一京浜と交わる辺りが「鈴ヶ森」刑場跡。

住宅街になり、商店は少なくなって、町工場などが目立つ。それでも、街道筋らしい商家や古い建物も残っている。


人通りも車も少ない。
直線道路。かつては、海岸沿いの道。道の右側は、品川から大井にかけての海が見えていたところ。
振り返って品川方向を望む。
「SAMEZU」とある。

「鮫洲」の由来

 南品川海晏寺によれば、建長三年(1251)の頃、品川の海上で大鮫の死体を漁師が拾い上げ腹を割いたところ、聖観音の木像が出現した。これにより「鮫洲」の名が生まれたとか。
 『江戸砂子』に次の紹介がある。
 鮫洲明神さみずの海辺にあり。今砂水と書く。むかし此浜へ丈余の鮫あがる。漁師どもこれを殺してけり。その折ふし此辺疫病大にはやる。かの鮫のたたり也とて鮫の頭を神にまつりて鮫頭明神といふと也
 また『江戸名所図会』では、
 按ずるにこの祭神を鮫の頭とする事、恐らくは海晏寺本尊の縁起に混じて附会なるべし。或人云、砂水昔は鮫洲に作りけると。然らば鮫州のの明神と称えて佳ならんか。或冊子に云士、この所に佐美津川とて細き流の潮とまらずして、佐美津ばかりなりとて名付けしといふあり・・・
(以上、東京の地名の由来・東京23区辞典HPより)

道の曲がり具合がかつての街道(海岸線)を彷彿とさせる。
お蕎麦の店・「吉田屋」。
「立会川」河口・勝島運河の向こうは、首都高。
西側・旧東海道を望む。
釣り船などがたくさん係留されている。

立会川河口堤防船だまり。
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品川橋。南品川。脇本陣跡。・・・(品川宿。その2。)

2014-04-18 21:38:09 | 旧東海道



1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。蛇行して北上している川が「目黒川」。架かっている橋が「品川橋」この橋を境に北品川、南品川に分かれていた。南品川宿の西側一帯は寺町になっていて、現在も京急線との間にたくさんのお寺が建ち並んでいる。

 
(「今昔マップ」より)。同じ地域の変遷図。
 左上は、大正時代。「北品川宿」の場所が現在の御殿山辺りに記され、本来の東海道筋には「本宿」とある。「目黒川」は上流からかなり蛇行して旧東海道を越え、その先で北上し東京湾に注いでいた。赤い線が旧東海道。
 右上は、目黒川が直線で東京湾に流入するよう河川変更した頃。
 下は、2000年代初頭の頃。東京湾の埋立が進み、電車、道路など交通整備などによって、旧東海道の道筋は見極めにくくなってしまった。
 なお、現在、京浜急行はJR品川駅まで乗り入れているが、左上では、まだ現在の「北品川」駅」付近どまりになっている。

 注:地図上で薄いピンク色の部分は高台、薄い黄色部分は微高地。青色が海面。海面上に黄色の部分があるが、現在の陸地を示している。

「東海道北品川」という名称の交差点付近。
来た道を振り返る。にぎやかな商店街。
「品川宿交流館」。

通りから一歩入ると細い路地に民家が並んでいる。


賑やかな商店街の裏手に連なる家、家。下町的雰囲気の色濃く残る町でもある。

目黒川に架かる「品川橋」から下流(東京湾方向)を望む。
「品川橋の今昔」碑。「境橋」とも「行き合い橋」とも呼ばれ、北品川宿と南品川宿との境となっている。
南品川宿を望む。道の左手「城南信用金庫」がかつての脇本陣の跡。
説明板。

 この高札の場所は、脇本陣跡(現城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)治兵衛が営んでいた。品川宿を南北に分けていた目黒川は大正時代末期頃まで大きく蛇行し荏原神社の北側を流れていた。・・・東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継ぎ立て業務を行なう宿場の役所問屋場跡(現製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられたました。

 注:「製菓実験社」は、製パンなどを扱う専門誌の会社。「金子ビル」内。

旧東海道。南を望む。北品川地区に比べると、人通りも激しくなく、静かな通り。
「区立城南小学校」しゃれた案内板。
旧東海道・南品川との表示。
道の右側一帯は、お寺が多くあって、緑の濃い空間が続く。その奥には、墓地。
「品川宿の松」。

 街道を往来する旅人のための道標であった「街道松」を植えて、品川宿の緑の軸として次の世代に継承していく計画です。これはまた各宿場まちとの友好・交流の証でもあります。
 第一号となった街道松は、1992年(平成4年)に浜松宿と三島宿から寄贈いただきました。以来、公園や広場だけでなく、マンション建設などの際には管理組合のみなさんにご協力いただき、東海道に面した空間に街道松を植えていただいています。これらの街道松は、東海道53次シンポジュウムを通じて交流のある各宿場のご厚意によるものです。
HPより)

 この辺りは、京急「青物横丁」駅付近。品川宿の南のはずれ。
「東海道南品川」という交差点。
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北品川。本陣跡。・・・(品川宿。その1。)

2014-04-17 21:25:28 | 旧東海道
 神奈川宿、川崎宿と歩いてきたので、今回は「品川宿」の巻。品川駅から京急線・大森海岸駅までの道のり。

品川宿
 東海道五十三次の宿場の一つで、東海道の第一宿。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれました。
 慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていました。京急線の「北品川」駅から「青物横丁」駅周辺にかけて広がっていて、目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされていました。
 日本橋から2里、次の川崎宿までは2.5里だったそうです。

京急の踏切の手前にある、品川宿の「案内板」。
「従是南(これより南) 品川宿 地内」。
京急の踏切。「品川」を出発してすぐ南にある駅が「北品川」。「品川宿」の北に当たる地域のため。そもそも「品川駅」は、品川区ではなくて、港区にある。


1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「案内板」付近。上の「停車場」が「品川」。「北品川」「歩行新宿」等の表記がある。南下する直線が東海道線。線路を越えて右に曲がっている道が「旧東海道」。当時から交通の要路として存在し、現在とほぼ変わらない道幅。東京湾に突き出た造成地は「御殿山下台場」(現在、区立台場小学校があるあたり)。
 ちなみに「品川沖」につくった「台場」は、次の絵図に。
(「同」より)

「御殿山下台場」説明板。これによると、品川沖の台場で完成したのは、5基で、他に陸続きのこの台場があった、ということだ。


ほぼ同じ場所の1970(昭和45)年頃のようす(「同」より)。東側(東京湾寄り)に大きく土地が造成されている。旧東海道の東側にある「海岸通り」がかつての海岸跡。

旧東海道・品川宿の町並み。
東側(海側)はかなり低くなっている(ほぼ1㍍台)。この付近の旧東海道の標高は4メートルほど。南に進むにつれてだんだん標高は低くなっていく。東海道・品川宿は海岸線沿いの台地上にある。


「品川宿」の説明板。道幅は当時と同じだとか。
落ち着いた店構えの商店が並ぶ。いかにも街道筋、宿場町といった風情か。
ところどころに古いつくりの商家が残っている。


しばらく進むと、「本陣跡」。明治維新後、明治天皇の宿舎(行在所)になったとかで、現在は、聖蹟公園となっている。
説明板。街道筋の要所要所にある「高札」風の説明板は木製で古いものが多く、見づらい。

公園入口。東側に広がっている。本陣は、南品川、南品川それぞれにあったようだが、北のみになったとか。

公園の奥には、記念碑や銅像などが並んでいる。
一段と大きく立派なのが、「御聖蹟」碑。
かつては古い小学校などには必ずあった「二宮尊徳」像だったらしいが、「新聞配達の少年」像に変えたそうだ。

八重桜が満開。
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富士宮・狩宿の下馬桜。

2014-04-14 23:37:40 | つかのまの旅人
 法事があって出かけたところが富士宮の狩宿(白糸の滝の近所)。ちょうど「狩宿の下馬桜」が満開。この時期、「さくらまつり」も開かれ、大いに賑わっていました。法事後の会食の席がその狩宿。
 宴が始まるまでのつかの間、初めてこの曰く因縁のある桜を見に行きました。

 狩宿の下馬桜(かりやどのげばざくら)は、樹齢800年以上の日本最古級のヤマザクラで、学名はアカメシロバヤマザクラ。国の特別天然記念物に指定され、また日本五大桜にも指定されている、という。

写真上から(のこりの4つ)
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
・山高神代桜(山梨県北杜市)
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
 ※このうち、狩宿の下馬桜のみ、「特別天然記念物」に指定されている。

 1193(建久3)年、源頼朝が富士山麓で巻狩りを行った際、馬から下りた所とされたことから「狩宿の下馬桜」と呼ばれるようになった。また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われ、「駒止めの桜」という別名も。
 樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であった。しかし度重なる台風などの影響で、最盛期の姿はない。それでも、若木が出てきて薄い桜色(まさに)の淡い花を一面に咲かせていました。

下馬桜。

その下には、菜の花。取り合わせが春爛漫という雰囲気で、すてきです。

かつてのようす。幹周り8メートル以上、高さ35メートルという「偉容」を感じさせます。

説明板。
 最後に記された歌は、江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜の詠んだ歌。

“ あわれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ山桜かな ”


この桜はこの地の旧家である井出家の屋敷内にある。井出家は、頼朝が巻狩りを行ったときに泊まったとされる由緒あるお屋敷。
 
 
 ちょうど応募された短歌・俳句の表彰式が門前で行われていました。正面奥が「高麗門」と長屋。

 井出家に残されている門は高麗門と呼ばれるもので城の城門として使われる様式。


白壁。

 待てよ! たしかこの巻き狩りの時「曾我兄弟の仇討ち」という事件が起きたのではなかったか? そこで富士宮市のHPを開くと詳細に載っていました。以下引用。

 源頼朝は、今から811年前の建久4年(1193)5月に、白糸の狩宿に宿所を置き、多くの御家人を集めて現在の朝霧高原一帯で巻狩を催しました。
 その巻狩の最中に、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父の敵工藤祐経を討った「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件が起きました。
 富士宮市内には、「富士の巻狩」と「曽我兄弟の仇討ち」に関係する伝説や地名が各所に残されています。これらを紹介しながら、この地域の歴史上もっとも有名な出来事を振り返ってみたいと思います。

1.富士の巻狩
 源頼朝は、建久4年(1193)に多くの御家人(将軍の家来)を集めて富士山の裾野で巻狩を行いました。この巻狩は建久4年5月8日から6月7日にかけて行われ、初めは現御殿場市から裾野市にかけての辺りで行い、源頼朝は5月15日に富士野の御旅館に入り、6月7日まで現在の上井出・原・内野・人穴・猪之頭を中心とする富士宮市北部一帯で巻狩を行いました。
 巻狩は単に狩猟を楽しむだけのものではなく、富士の裾野に諸国の御家人が集まり、将軍頼朝の前で勢子(鳥獣を追い出す人)の追い立てた獲物を馬に乗って弓で射る武術の訓練を目的とした催しで、大軍事演習といえるものでした。
 この武家集団による大規模な巻狩は、将軍頼朝を中心とした東国武士の力を京都の公家の人たちに認めさせるためだったと考えられています。それは、建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開き、武家政権を発展させていこうという頼朝の将軍としての実力を天下に示す機会ではなかったかと考えられています。

2.源頼朝の宿所 
【井出家周辺の地図】
 源頼朝が巻狩の時に宿所とした所が、現在の狩宿井出家及びその周辺だったと考えられています。近くには御家人の宿所も作られたようです。
 宿所の置かれた狩宿井出家の周辺は、西は芝川の深い谷となり、東は大沢崩れから流れてきた大石がごろごろする川原だったと考えられ、宿所を構えるために適した要害の地であったといえます。
 井出家居宅は安永5年(1776)に焼失し、さらに寛政9年(1797)再度焼失し現在地に再建されたといわれています。かつては、隣接する元屋敷といわれる所(現在は水田)に家があり、そこが頼朝の宿所の跡だと伝えられています。
 狩宿井出家の入り口に、狩宿の下馬ザクラといわれるアカメノヤマザクラの老木があります。巻狩のおりに、ここで頼朝が馬から下りた「下馬ザクラ」だとか、このサクラに頼朝が馬をつないだ「駒止のサクラ」だとかいわれています。また、頼朝が宿所の前に差した杖が根付いたものだとも伝承されています。

3.曽我兄弟の仇討ち
 巻狩は、現朝霧高原一帯で、御家人たちの武勇伝や失敗談など多くの話題を繰り広げながら進行していきました。そうしたおり建久4年5月28日の夜、降りしきる雨の中工藤祐経の宿所に押し入った曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟によって、工藤祐経と王藤内が殺戮されるという大事件が起きましした。いわゆる「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件です。
 仇討ちを果たした後、兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、十郎祐成は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸によって捕らえられ翌日処刑されたといわれています。
 この地域の伝承として、音止の滝東側の工藤祐経の陣所が置かれたといわれる所には、祐経の墓があります。
 また、曽我八幡宮東の辺りに新田四郎忠常の陣所が置かれ、この近くで兄十郎祐成が討たれたといわれ、小高い丘の上に曽我兄弟の墓があります。

4.工藤祐経と曽我兄弟 
 工藤祐経は幼くして父を失い、その領地は従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かり、祐親は祐経から領地(伊東の荘)の実権を奪ってしまいました。祐経は、祐親の助けを受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えました。やがて祐経は伊東の荘の正統な領主は自分であることに気付き、祐親に領地の返還を迫りましたが祐親がそれに応じませんでした。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も裂かれてしまった。
 そんなとき、安元2年(1176)10月に祐親が近隣の武士を集めて伊豆奥野で狩を催しました。その帰り道の祐親をねらって、祐経は家来の大見小藤太と八幡三郎に弓を射掛けさせました。矢は目指す祐親には当たらず、傍らにいた息子の河津三郎祐泰にあたり祐泰はその場で息絶えた。その時、祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。
 祐泰の亡き後、妻満江御前は兄弟を連れて曽我太郎祐信の元へ再び嫁ぎました。曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗りました。

5.『曽我物語』の成立と広まり
 曽我兄弟の仇討ちは、巻狩に集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与えました。その東国武士の語る曽我兄弟の話が語り継がれ、それを『曽我物語』としてまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧であろうといわれています。
 その後十巻から成る真名本(漢字のみで表記)『曽我物語』が僧侶によって書写され、室町時代中ころになると仮名本(仮名交じり表記)が登場しました。
 『曽我物語』は、兄弟の不運な生涯と、その悲劇的な最期が民衆の間に共感を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきました。芸能分野では室町時代には能や浄瑠璃などで取上げられ数多くの作品が生まれました。
 江戸時代には歌舞伎の世界にも取上げられ、民衆の人気に支えられて次々と新しい趣向の作品が生み出されました。
 歌舞伎で「曽我物語」が盛んに上演されるようになると浮世絵にも描かれるようになり、数多くの「曽我物」と言われる物語絵・武者絵・役者絵等が出版されました。
HPより)

 少年時代、この話を絵本でも読み物でも見た記憶があります。しかし、たまたま居合わせた30代後半の息子・娘に聞いても全く知らない話だった! がっくり!

一面の菜の花畑。左奥が富士山。残念ながら雲に隠れていました。
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箱根の関所。(湯河原・箱根路。その3。)

2014-04-13 17:09:57 | 旧東海道
 これまで箱根には何度も来たことがありますが、「箱根関所」を見学したのは初めて。遅ればせながらぐるりと一回り。
でも、こんな風になっていたんだっけ? 海賊船に乗ったり、旧東海道の杉並木を歩いたりしましたが、この関所の印象はほとんどなかったので。
 そこで、「箱根関所」HPを開いて納得! 2007(平成19)年春に復元工事が完成し、一般公開されたという。なるほどここに来たのはそのずっと前だったから、こういう風になっているはずはなかったわけです。

《箱根町 箱根関所『よみがえった箱根関所』》に「復元整備までのいきさつ」や関所の歴史、調度品など詳細な解説がありました。

 江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である『相州御関所御修復出来形帳(慶応元年:1865)』が、静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から、昭和58年(1983)に発見されました。箱根町でこの資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになりました。そこで、平成19年(2007)春の完成をめざして発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行うことになったのです。
 平成11年度から平成13年度にかけて、箱根関所の跡地一帯の発掘調査を行ない、資料との整合性や遺構の残存状況の確認を行った上で、大番所・上番休息所、厩、雪隠、京口御門などの建物や生垣、石段などの構造物の復元を行ない、平成16年(2004)4月から、これらの建物の公開を始めました。
 平成16年度からは屏風山側の整備を進め、遠見番所や足軽番所、江戸口御門や足軽番所雪隠、京口御門から芦ノ湖へと続く石垣や京口千人溜斜面の石垣の復元工事を行ない、さらに周辺環境整備として電線類の地中化の準備や杉並木の保全を行ない、平成19年春の全面公開に至りました。

(以上、「」HPより)

御触書。高札。
背後の丘の上にある「遠見番所」への石段から。

 江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。
 箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。
 これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。
 貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
 箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられた。(いじょう、「Wikipedia」参照)

 復元された「箱根関所」の見学コースには、ほぼ上記の内容に沿った解説がなされています。
しっかりした造り。かつての建物通りの再現ではなさそうだが。
 以前からある、隣の「資料館」の裏手の屋根は、老朽化し崩れ落ちているのに比べ、どの建物も組み立てが、がっしりしている。


「遠見番所」。中にいるのは、役人の人形。
 随所に、役人の姿が「シルエット展示」(衣服の色、模様、顔つきなど淡い色で表現されている)されている。






復活した井戸。

京口御門を望む。

京口御門。

京口御門付近から東を望む(江戸方向)。

説明板。
明治初年の頃の「箱根宿」のようす。

復元された東海道・杉並木。道幅は当時と同じらしい。


これから花粉が飛びそうな雰囲気。この写真を見ただけで鼻がむずむずする人がいそう。

「箱根八里」碑。

 鳥居忱(まこと)作詞、滝廉太郎作曲。

箱根の山は、天下の嶮
函谷關も ものならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳え、後にささふ
 雲は山を巡り 
 霧は谷を閉ざす
昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士
大刀腰に足駄がけ
八里の岩根踏みならす
斯くこそありしか、往時の武士

 さて、いっさい仮名を振っていない歌詞。リズムも合わせて間違わずに歌えるかどうか、我々の世代はおそらく皆歌えるでしょうが、若者にははたして?
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光風荘。二・二六事件。・・・(湯河原・箱根路。その2。)

2014-04-12 22:33:12 | 歴史・痕跡

③光風荘


建物脇に設置された説明板。隣にひ孫にあたる麻生太郎元首相の碑文がある。

 1936年(昭和11年)2月26日珍しい大雪の早朝、国家改造(昭和維新)を目指す陸軍の一部青年将校らは1400人余の部下将兵を率いて、首都の中心部を占拠し、軍・政府高官の官邸、私邸を襲うという、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 2・26事件 を起こした。
 この事件で斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監や護衛の警察官らが犠牲になったほか、多数が負傷した。
 この事件で、東京以外の唯一の現場となったのが、ここ湯河原の 光風荘 である。
老舗旅館伊藤屋の元別館 光風荘 には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため家族、使用人とともに滞在していた。
天皇側近として国政の中枢にあり、リベラルな考え方で政・官・財界に影響力を持っていた牧野伯爵は、急進的な青年将校たちに天皇の判断を誤らせる 君側の奸(天皇を取り巻く悪者)と見なされ、襲撃の対象となった。
 2月26日早朝、東京から雪の湯河原に着いた河野壽大尉以下8名の別働隊は、光風荘を急襲。
当直の護衛官・皆川義孝巡査と銃撃戦のあと同荘を放火炎上させたが、目指す牧野伯爵は地元消防団員らの活躍で脱出に成功。
 この事件で護衛の皆川巡査は死亡。河野大尉も部下の下士官とともに重傷を負ったほか、伯爵づきの看護婦や地元消防団員も銃弾や消火作業で負傷した。
事件後、河野大尉は、収容先の熱海の陸軍衛戍病院(分院)で、差入れの果物ナイフで自決した。(以上、湯河原町HPより)

説明板。

 昭和十一年(1936年)二月二十六日、首都東京で、首相をはじめ政府高官の官邸、私邸が、国家改造を求める陸軍青年将校らの率いる兵1400余名の部隊に襲われ、斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、松尾陸軍大佐らは即死、鈴木侍従長は重傷、護衛の巡査数名死傷という大事件が起こった。
 これと同時に、遠く離れたこの湯河原でも、青年将校の一人河野大尉の率いる別働隊七名が、元内大臣牧野伸顕伯爵を、静養中のこの場所伊藤屋旅館の元別館光風荘に襲い、銃撃、放火。急を知り駆けつけた地元消防団員の救出活動により、牧野伯爵とその家族は辛くも難を逃れたが、付添の森看護婦は銃創、護衛の皆川巡査は銃弾に倒れ、後に焼死体で発見されるという事態に到った。
 また牧野伯爵を助け出した前第五分団長(現温泉場分団)岩本亀三は銃創、消火に当たった消防団員も負傷するなどのほか、銃剣をも恐れぬ地元消防団員らの勇敢な救出消火活動があった。
 これらの事実は、湯河原の歴史の一こまとして湯河原町民の心意気と共に後世に永く語り伝うべきものである。
                                平成十四年二月二十六日、郷土史研究家・高橋徳
                                            光風荘保存会

 二・二六事件(にいにいろくじけん)

 1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。

事件の概要
 大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えの下、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
 将校は近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞を占拠した。
 その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。

事件の背景
 統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚と、上下一貫・左右一体を合言葉に特権階級を除去した天皇政治の実現を図った革新派の隊付青年将校は対立していた。はじめは懐柔策を講じていた幕僚らは目障りな隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。
 革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。
 陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で士官学校事件において磯部と村中を逮捕した。しかしこれによって青年将校の間で逆に上官に対する不信感が生まれることになった。
 1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。3月20日、証拠不十分で不起訴になったが、4月1日、停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。
 1935年(昭和10年)7月、真崎甚三郎教育総監が罷免されて皇道派と統制派との反目は度を深め、8月12日白昼に統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。
 なお三井財閥は血盟団事件(1932年2月〜3月)で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(平成25年の価値にして700万円ほど)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた。2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。
 2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として3000円受領した。
 2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。
 青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。
 北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響をうけた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。
 磯部は獄中手記で「……ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」と述べている。
 村中の憲兵調書には「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。……本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。
 「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している。
 反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
 また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
 蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。

襲撃目標

 2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。

第一次目標
岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤實(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
牧野伸顕(前内大臣)
西園寺公望(元老)

第二次目標
後藤文夫(内務大臣)
一木喜徳郎(枢密院議長)
伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)
三井高公(三井財閥当主)
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)
岩崎小弥太(三菱財閥当主)

事件の経過
 反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。

政府首脳・重臣への襲撃

岡田啓介首相
 内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。
 反乱部隊が総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた巡査部長村上嘉茂衛門(官邸内)、巡査土井清松(林八郎を取り押さえようとする)、巡査清水与四郎(庭)、巡査小館喜代松(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で応戦した。4名は襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害されたが、この応戦の隙に岡田総理は女中部屋の押入れに隠れることができた。
 その間に岡田総理の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた予備役陸軍大佐松尾伝蔵は、反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。松尾はもともと岡田総理と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認し、目的を果たしたと思いこんだ。
 一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の憲兵曹長小坂慶助、憲兵軍曹青柳利之及び憲兵伍長小倉倉一らと奇策を練り、翌27日に事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田総理と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田総理を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れた。

高橋是清蔵相
 大蔵大臣(元総理)高橋是清は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
 積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から海軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。
 叛乱当日は中尉中橋基明及び少尉中島莞爾が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の巡査玉置英夫が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。
 27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。高橋は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られた。

斎藤實内大臣
 内大臣(前総理・元朝鮮総督・子爵・退役海軍大将)斎藤實は、天皇の常侍輔弼たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。
 襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現:東京都新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。
 目の前で夫が蜂の巣にされるの見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通銃創を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。 事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、奥州市水沢の斎藤実記念館に展示されている。
 斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に誄(るい、お悔やみの言葉)を賜った。

鈴木貫太郎侍従長
 侍従長(予備役海軍大将)鈴木貫太郎は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。
 叛乱当日は、大尉安藤輝三が襲撃部隊を指揮し、東京市麹町区(現:東京都千代田区)三番町の侍従長公邸に乱入した。鈴木は複数の銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。
 その後、太平洋戦争末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。

渡辺錠太郎教育総監
 陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎は真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。
 斎藤内大臣襲撃後の少尉高橋及び少尉安田が部隊を指揮し、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことは、彼の身辺に「敵側」への内通者がいた可能性を想像させる。
 殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長及び憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。
 28日付で教育総監部本部長の陸軍中将中村孝太郎が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

牧野伸顕
 伯爵牧野伸顕は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受ける。
 航空兵大尉河野寿は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させた。重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。襲撃部隊によって皆川巡査は殺害されたが、この応戦の隙に牧野は難を逃れた。
 脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。この際、旅館の主人・岩本亀三と牧野の使用人で看護婦の森鈴江が銃撃を受けて負傷している。
 なお吉田茂の娘で牧野の孫にあたる麻生和子は、この日牧野をたずねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。(以上、「Wikipedia」参照)

「光風荘」。
 
崖下から見上げたところ。奥行きは分からないが、瀟洒な建物。

昭和11年2月26日、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 「2.26事件」が発生しました。この事件で、東京以外で唯一の現場が湯河原の「光風荘」です。
老舗旅館伊藤屋の元別館「光風荘」に、当時の遺品や写真、新聞等の関係資料を展示しており、観光ボランティアによる施設案内を実施しています。
(平日の見学は、事前の予約が必要です。)
◆ 皆川巡査の遺体の傍らにあった、焼け焦げた愛用の万年筆(現物)
◆ 河野大尉が自決に用いた果物ナイフ(刃こぼれが痛ましい)と直筆の辞世の句(現物)
◆ 兄大尉に自決を促した実弟(大学生)からの手紙(現物)
◆ 事件を回想した麻生和子さん(牧野伯爵の孫、祖父母に付添い事件に遭遇)の手紙(直筆)ほか当時の新聞、写真
など多数(以上、「湯河原町」HPより)

 平日だったため、残念ながら建物の中には入れませんでした。


「光風荘」前にある湯河原温泉の源泉の一つ。

坂道を下ったところからの「藤木川」の流れ。上流が箱根方向。ところどころにある桜の花がまだまだ見頃。

老舗のお菓子屋さん。古風なたたずまい。


宿からの眺め。下流方向。右手が静岡県。 
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万葉公園。独歩の湯。(湯河原・箱根路。その1。)

2014-04-11 23:25:48 | つかのまの旅人
 春の風に誘われて、「湯河原」まで。一泊して翌日は、箱根。車での旅。湯河原温泉は、初めての地。温泉は、久々。
 何の事前の調べもなくやってきて、宿に着く前に、興味深い二つのところへ。

①万葉公園
朱塗りの橋をわたったところから始まる。「藤木川」と「千歳川」との合流付近。


 「千歳川」沿い。観光会館のところに車を駐めて、川沿いを上がって行きます。せせらぎの音と緑の散策道。

 ここは、万葉集で唯一、温泉を詠んだ、その歌の土地だそうです。

公園入口の説明板。

 足柄の/土肥の河内に/出づる湯の/世にもたよらに/子ろが言はなくに 万葉集・巻十四相聞・3368・詠み人知らず

 右の歌は東歌といい、総数230首。多くは相聞(恋歌)で、一部は比喩歌。相模の国の歌は15首。
 「足柄(あしがり)」は足柄(あしがら)の訛りで今の足柄上・下一帯の地。「土肥(とひ)」は湯河原の呼称で今も駅付近の地区名。「河内(かふち)」は川に沿う地域で万葉公園付近、千歳川と藤木川の合流辺。「たよらに」は揺れ動き不安定なさま。
「足柄の・・・出づる湯の」までが、温泉が噴き出して中空に揺れて消えてゆくさまを叙べて、「たよらに」を修飾する序詞。「子ろ」は上代の東国方言で娘子の意。・・・
 足柄の土肥の川辺に噴き出す温泉の湯煙、それが中空に漂い揺らぐように、あの娘は私との関係を不安げには言わなかったのに心配で、と漂い消えてゆく湯煙に託し揺れる男の恋心・・・


※「たよら」=揺れ動いて安定しないさま。いいかげんで定まらないさま。
※「なくに」=①…ないことだなあ。
       ②…ないことなのに。…ないのに。
       ③…ないのだから。…ない以上は。

 歌意は今ひとつすっきりきません。「たよらに」の解釈、湯煙なのか温泉そのものなのか、「世にも」と「言はなくに」とのつながり、・・・。

(例1)湧き出る温泉の(湯煙の)ように、心が揺れ動いているとは、あの娘はけっして言わないが、・・・
(例2)二人は、湧く温泉のように、絶えることはけっしてないとあの娘は言うのだけれども、・・・

 いずれにしても、不安な男心を詠った歌であることには違いないようですが。

 なお、説明板には相模の国の歌は15首とありますが、実は12首らしいです。

その一部

 ・相模嶺の小峯見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を音し泣くな
 ・我が背子を大和へ遣りて待つ慕す足柄山の杉の木の間か
 ・足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし
 ・百島足柄小舟歩き多み目こそ離かるらめ心は思へど
 ・あしがりの麻萬の子菅の菅枕あぜか纏まかさむ子ろせ手枕

「千歳川」の対岸は、静岡県熱海市。「千歳川」が神奈川県と静岡県との県境になっている。

所々に万葉集に輯録された歌とそれにちなんだ木々が植えられている。
 奥山の 八つ峰の椿 つばらかに 今日は暮らさね ますらをの伴 大伴家持
 天平勝宝2年(750)の旧暦3月3日の歌。越中の国守大伴の家持の館での上巳の宴。
 男たちよ、奥山にたくさん咲いている椿の花のように、今日一日、宴を大いに楽しんでください。


 残りたる雪に交じれる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも 大伴旅人
 残った雪にまじるように咲いている梅の花よ、雪が解けて消えても、そうすぐに散ってはいけない


 ぬばたまの夜ふけゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しばなく 山部赤人
注:「久木」=「あかめがしわ」のこと。

万葉集にちなんだ草花が植えられている。
 アザミ、アキノキリンソウ、リンドウ、アヤメ、ワレモコウ、ギボウシ、フクロウニンジン、・・・。
 
「国木田独歩碑文」。

 湯河原の渓谷に向かった時はさながら雲深く分け入る思があった

説明板。

②独歩の湯

 公園の一角にある「独歩の湯」足湯の設備。のんびりと効能を確かめながら足を温泉につける。



風呂桶の滝。
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