おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その6。玉川碑・万葉碑。絵手紙発祥の地 狛江。多摩水道橋。多摩川決壊の碑。『岸辺のアルバム』。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-30 20:26:01 | 都県境を探ってみる

左手、住宅地の中に「万葉歌碑」があるようなので、行ってみます。

万葉歌碑。

多麻河伯爾左良須テ豆久利佐良左良爾 奈仁曽許能児乃己許太可奈之伎

『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方4丁目辺り)に建てられましたが、洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正13年(1924)、旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。

解説文。玉川碑「万葉歌碑」。

「万葉通り」。

堤に戻ると、奥に水神。

さて、多摩川歩きを再開。足もとを見ると、

「絵手紙発祥の地 狛江」と。この先もいくつか発見。

下流に「多摩水道橋」。

狛江市立西河原公園。

「海から24K」。

      

「多摩水道橋」。

初代「多摩水道橋」の碑。

初代の多摩水道橋は、道路と水道が併用する橋として、多摩川のこの地に昭和28年(1953)12月に完成しました。以来、相模川の水を川崎市長沢の浄水場を経て都内に供給するための水管橋として、また東京都(狛江市)と川崎市(多摩区登戸)とを結ぶ「登戸の渡し」に替わる道路橋として重要な役割を担ってきました。・・・

カヤックの練習中? 

「小田急線橋梁」。

                     対岸が「登戸駅」。

絵手紙。 

                  

木陰で休む人。こんな穏やかなお天気。

この地は、かつて大きな水害に見舞われました。

多摩川決壊 いつ? 「多摩川決壊の碑 撤去」の画像検索結果 
 
昭和49年9月1日、「狛江市猪方地先の多摩川堤防が決壊」の一報がマスコミを通じて日本全国に伝えられた。 翌日未明、全国の人々が見守る中、被災状況がテレビの画面に映し出された。 長年の蓄積が実り、やっとの思いで建設したマイホームが、それも建設したばかりのものが、瞬時にして次から次へと濁流の中に消えていく様子であった。
 
(この項、「狛江市」HP)

「多摩川決壊の碑」。

         

碑文。

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心にした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取り付け部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が浸食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらせました。・・・被災住民は、国家賠償法に基づき、提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年4年(1992)に判決が確定しました。

再建された「二ヶ領宿河原堰」。

           

あれからもう半世紀の年月が経っています。

        全景。

ところで、この水害をもとに、今も話題に残るドラマができました。

『岸辺のアルバム』

1974年多摩川水害が背景にある。この水害で多摩川の堤防が決壊して19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失ったことのほかに家族のアルバムを失ったことが大変ショックであったという被災者の話を脚本の山田太一が聞き、そこから作品の構想が生まれた。ラストの水害で家が流されるシーンは、実際の報道映像が使用されている。

主演の八千草薫は、和泉多摩川駅の向かいのホームに佇む美しさに惹かれたといって電話をかけてきた竹脇無我と家族に隠れて不倫する主婦を演じ、それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り、新たな役どころを開拓。関川夏央は「貞淑を絵にかいたような八千草とラブホテルの組み合わせは衝撃的だった」と評する。小説では39歳だったが、脚本では42歳に直されている。八千草の実年齢は46歳だった。八千草はテレビ大賞主演女優賞を受賞。また、この作品でデビューした国広富之はゴールデン・アロー賞放送新人賞等を受賞した。

当時の平均視聴率は14.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)とそれほどでもなかったが、その後評価が高まり、テレビドラマ史に残る名作という評価が定着している。山田は「脚本家を志す学生から『早春スケッチブック』と並んでこの作品が最も質問を受ける」と語っている。

このドラマは、前述のように実際に東京都狛江市で起こった水害を題材に、平凡な中流家庭の崩壊を描いた作品である。それまでの「家族で食卓を囲んで最後はハッピーエンド」というホームドラマの殻を打ち破り、辛口ホームドラマというジャンルを確立した点で、革命的な作品であり、日本のテレビドラマ界に与えた衝撃は大きかった。

そのストーリーと共に特筆すべきは、オープニングの映像である。平穏に見える川がある日突然濁流に変わり平凡な家庭を飲み込んでいくという、この作品のテーマを見事に象徴している。特にジャニス・イアンの甘く気だるい歌声と、マイホームが濁流に飲み込まれていく実際のニュース映像が鮮烈に印象に残る。

(「Wikipedia」より)

           

              

            

1977年に放送されたTBS制作のドラマ。

一見平和で幸せそうな中流家庭の崩壊と再生を描く。

出演:八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我、風吹ジュン、新井康弘、村野武範、原知佐子、津川雅彦、沢田雅美、山口いづみ ほか          

山田太一脚本のテレビドラマ史に残る名作「岸辺のアルバム」。淡い水彩画のような、おっとりしたタイトルとは裏腹に、このドラマはあえて「衝撃の家庭ドラマ」と銘打っている。激情的な人間模様、生臭い話、どろどろした性の問題を内包した作品だ。またその一方で、このドラマは「家庭とは何だろう?」「親と子の関係はどうあるべきか」といった普遍的な難問と正面から取り組んでいる。東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭を舞台に、初回放送当時のホームドラマでは一切タブーとされてきたエピソードが次々と展開される。

【ストーリー】
東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭。一見すると幸せそうに見える家族4人。しかし、実はそれぞれが問題を抱えていた。
母・則子(八千草薫)は良妻賢母型の専業主婦。だが、見知らぬ男から電話がかかってくるようになる。はじめは知らん顔をするも、やがてその男と会うようになり…。父・謙作(杉浦直樹)は有名大学出の商社マン。しかし、実のところ会社は倒産寸前の状態だった…。娘・律子(中田喜子)は大学生。なかなかの秀才で大学も簡単に合格したはずだったが、ここ一年は家族に対して心を閉ざしている。やがて、アメリカ人男性と交際するようになるのだが…。息子・繁(国広富之)は大学受験を控えた高校生。決して勉強のできる方ではないが、心の優しい性格の青年だ。だが、両親や姉の異変に気付き、思い悩むことに…。

(この項、「TBSチャンネル」HPより)

                

      

          (「YouTube」より)

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。左が小田急線の鉄橋。

                     1970年代のようす。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その5。なんじゃもんじゃの木。多摩川五本松公園。六郷用水取入れ口。玉翆園。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-29 20:21:42 | 都県境を探ってみる

木が生い茂るところも。

その先に、

「調布排水樋管」。

               ランニングロードの距離標示。

左手のお店「薪窯ピッツァ」裏手にある「なんじゃもんじゃの木」が満開!

          ヒトツバタゴ。

ナンジャモンジャは、特定の場所に生えている見慣れない立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称。すなわち、特定の植物の名ではない。ヒトツバタゴを指すことが多いが他の樹種の場合もある。あんにゃもんにゃとも呼ばれる。

「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種は、ヒトツバタゴのほか、ニレイヌザクラボダイジュなど様々である

「ナンジャモンジャ」と称される理由について、民俗学では、元々は占い神事に利用されていたもので、植物名で直接呼ぶことが憚られたものではないか、とみる説などがある

一説では、神木の前を通りかかった水戸黄門が「この木はなんじゃ」と聞いたところ、地元の人が聞き取れず「なんじゃもんじゃ」と返答して、木の名前だと勘違いして広まったという話がある

(この項、「Wikipedia」より)

                

左手が住宅街になります。

河川敷には畑。

                  対岸は、登戸方向。

「多摩川五本松公園」。

      整然とした農地。

下流に「多摩水道橋」。

           今や、はるか遠くに「よみうりランド」(↓)。

         

「海から24.2K」。

木陰で小休止。けっこう暑くなってきます。

「六郷用水取り入れ口」。

六郷用水は、徳川家康の命により慶長2年(1597)から16年にかけて代官小泉次大夫吉次によってつくられた灌漑用水路で、次大夫堰とも呼ばれています。この用水は、多摩川の水をこの辺りで取り入れ、市役所の裏で野川と合流し、世田谷区を経て大田区に至り、全長約23㎞に及びました。市内でも和泉、猪方、岩戸の水田の利用されてきましたが、この辺りは昭和40年に埋め立てられました。写真は、多摩川から見た取り入れ口で、右側が現在地、左側は玉翆園で、昭和初期のものです。

※「玉翆園」この付近にあった料亭。当時の河畔沿いに築かれた石垣が残っているようです。

明治39(1906)年頃、当時の狛江村会議員・井上半三郎が、和泉圦上(いずみいりうえ・現在の中和泉4丁目)の約二千坪の土地を開墾し、「井上公園」を造成しました。老松が茂り、眼下には多摩川が悠々と流れ、その向こうに富士山や、丹沢の山並みが遠望できる景勝地だったそうです。大正2(1913)年、その公園の中に建てられたのが料亭「玉翠園 」です。屋形船を浮かべ、鮎料理を楽しむ客で賑わいましたが、戦況の悪化に加え、多摩川の汚染がひどくなり、昭和14(1939)年に閉店しました。公園内には、大正10(1921)年、小学生のために宿泊施設を備えた林間学校も建てられ、地域の公民館のような役割も果たしていたそうです。(「ココシルこまえ」HPより)

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その4。「海から26K」。二ヶ領上河原堰(にかりょうかみがわらぜき)・魚道。「多摩川の堰堤」。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-28 21:08:07 | 都県境を探ってみる

左手に大きなグランド。

                「電気通信大学多摩川グラウンド」。

「海から26K」。

「上河原堰」。

右岸(川崎側)には、「二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)」が見えます。

.二ヶ領上河原堰

多摩川の水を取水している「二ヶ領上河原堰(にかりょうかみがわらぜき)」は神奈川県 下でもっとも古い人工用水「二ヶ領用水」に始めて作られた取水堰。

二ヶ領上河原堰二ヶ領上河原堰

◆場所 :左岸   調布市染地二丁目
     右岸   川崎市多摩区上布田
      25.8km付近

            「多摩川の堰堤」。

上流から

小作取水堰 羽村取水堰 昭和用水堰 日野用水堰 大丸用水堰 二ヶ領上河原堰 二ヶ領宿河原堰 調布取水堰

 昔の上河原堰は蛇籠と木工沈床などを利用した堰堤でしたが、洪水のたびに堰堤は欠壊流出しました。そのため、昭和16年(1941)から4年がかりでコンクリート化工事が行われました。これにより全長425m、高低差3.6mの多段式鉄筋コンクリートの重力式浮ダムが造られました。ところが、昭和41年(1966)に二度の台風によって、このダムも一部損壊してしまいました。このため昭和46年(1971)に堰堤の改築が行われ、調布市側に魚道つきの固定堰(248m)、川崎市側に洪水吐ゲート3門に管理橋(163m)と魚道が設置され、さらに固定堰と洪水吐ゲートの間に流量調整ゲート(14m)が設けられました。
また、固定堰であるため大量の土砂が堆積し流下能力を低下させていることから、平成24年に多摩川の流下能力を向上させ、洪水時の水をスムーズに流下させるため、固定堰を切り下げて起伏ゲートを設置し、現在の堰堤が築かれています。

 

(「」HPより)

※二ヶ領用水

全長32キロの二ヶ領用水の名は、旧稲毛領と川崎領の二ヶ領の農地に水を引くために江戸時代初めに建設された人工用水です。用水は慶長14年(1611)に代官小泉次太夫によって完成しました。それまで、この二ヶ領は水利事情が不便で、水田工作による農業生産基盤が脆弱でした。二ヶ領用水完成により、米の収穫量が飛躍的に伸びたと伝えられています。百年後、欠損、荒廃が進んだ状況になりましたが、享保9(1724)年、本格的改修工事を経て現在にいたっています。明治以降は、横浜水道の開設(明治6年)などにより、飲料水、工業用水としても利用されました。また、生活用水としても、近年まで利用されていました。中野島から取り入れられた水は、紺屋前の堰に至り、ここから新田堀、高田堀、水車堀、東堀、鮒堀などに分かれて、登戸一帯の耕地を潤しました。堰の名として残る「紺屋」も用水を利用した藍染め屋が近くにあったことに由来しています。現在も、市北部では農業用水として、あるいは、環境用水として利用されています。

(「同」HPより)

豪快な水音がします。

下流方向。

                  

        

魚道。アユが遡上するようです。

           

この付近の今昔。

1880年代のようす。「二ヶ領用水」取水口。

2010年代のようす。

堰堤の右にある水路は、「三沢川」。「二ヶ領用水」は、サイフォンの原理で南下します。

先に進みます。

多摩川自然観察緑地。

   「日活調布撮影所」があるようですが、どの建物か?

対岸。川崎市多摩区中野島。

         水鳥の姿が。

上流を望む。

河原が広がる。

振り返る。よみうりランド」(↓)が遠くに。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その3。石原水位観測所。ナヨクサフジ。京王閣競輪場。多摩川橋梁 (京王相模原線)。ワンド風な水辺。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-27 21:51:36 | 都県境を探ってみる

対岸(右岸)を望む。

                          「多摩川原橋」左岸からの稲城市内。

ここから下流に向かいます。

都県境を望む。

                 川崎市側は野球場として整備されています。

「石原水位観測所」。

 

           都県境のすぐ下流側にある

流れ近くに歩いていきます。

水辺の草花。ナヨクサフジ。

ナヨクサフジは紫色の花を咲かせるマメ科の越年草。ヨーロッパ原産です。元は飼料として輸入されたものが日本で帰化したと言われています。空き地や河原、その他いろんな場所で野草として見かけることの多い花です。

ナヨクサフジの英名はsmooth vetch(スムースベッチ)、あるいは winter vetch(ウィンターベッチ)。vetch(ベッチ)とは、ソラマメの仲間を指す英名です。

葉の先端からつるを分岐させて、周囲の植物に絡みつきながら生長します。草丈50cm~1m以上まで大きくなり、よく繁茂します。

花付きが良く、花期には紫色の濃淡のある花をいっぱいに咲かせます。ナヨクサフジの群生する姿は、遠くから見ると紫色の波のようで見惚れてしまうほどの美しさです。

            この先、けっこう見かける花です。

タンポポ。

土手の向こうには、

                 「京王閣競輪場(東京オーヴァル京王閣)」(東京都調布市)。

「多摩川橋梁 (京王相模原線)」。

  左手先に「京王多摩川駅」。

   河川敷の広い緑地。

      保育園児の歓声が響く。ベンチで休む老人。のどかな雰囲気。

多摩川案内図。

                50㌔にわたって整備され、下流のゴール地点まで描かれている。

詳細図。

            ワンド風な水辺に釣り人がたくさん。

※ワンドは、水流が穏やかなので、淡水魚の生息に適しており、水生植物が繁茂するところは、魚の産卵や稚魚が暮らす絶好の場所となっている。

        「海から26.4K」。

しゃれたおうちが多い。

前方に堰堤が見えてきます。

穏やかな日差しの下、のんびりと。 

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その2。渡船場跡碑。多摩川原橋。水道橋。多摩川左岸 海から28K。(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-26 20:44:19 | 都県境を探ってみる

右に折れて進むと、「多摩川」沿いの道路脇に「渡船場跡碑」。

       

矢野口の渡しは矢野口と調布を結ぶ渡船場で矢野口村と菅村で運営されていた。渡し場は多摩川原橋のやや下流にあった。昭和10年の多摩川原橋の完成で下菅の渡しと統合され菅の渡しとなった。矢野口の渡しは新田義興が謀殺された矢口の渡しとする説もある。

※多摩川にあった渡し場

 川に橋を架けるということは、近代以前では大変難しく、有力な街道の渡河点でも橋がなく、多くは渡し舟によっていました。
 1600(慶長5)年に東海道が多摩川を渡る六郷では、長さ120間(約218m)の六郷大橋が架けられましたが洪水のために何回も流れ去り、一時仮橋の時代があったものの、結局明治7(1874)年まで六郷の渡しとして橋のない状態が続きました。また、甲州街道の日野の渡し、日光街道の拝島の渡しのほか、大山街道の二子の渡し、津久井往還の登戸の渡しのような脇往還の渡船場も発達していました。このように主に旅人がわたる渡船場が多く、また発達していたことが江戸に近い多摩川の渡船場の特徴であったといえます。しかし一方で、多摩川で最後まで残った菅の渡し(昭和48年廃止)などの生産物の出荷や対岸の田畑耕作に主として利用された作業渡しがあったことも忘れてはなりません。
(参考文献:「多摩川誌」建設省京浜工事事務所)

(この項、「」HPより)

※渡し場のうちで、「旧東海道」の「六郷の渡し」、「甲州街道」の「日野の渡し」、「日光街道(日光八王子同心街道)」の「拝島の渡し」は、それぞれ、歩いたときに通過しました。

通りの反対側にある緑地は、川崎市になります。

                        左手・上流にある「多摩川原橋」。

東京都道・神奈川県道19号町田調布線鶴川街道)を渡す。右岸は稲城市、左岸は調布市である。右岸下流は200m足らずで神奈川県川崎市に入る。旧橋は1935年(昭和10年)に架けられた。現在の橋は、旧橋の老朽化と交通量の増大のために架け替えられた。2車線の橋が上流側に1998年(平成10年)に、下流側に2006年(平成18年)に完成し計4車線を通す。上流側には多摩川原水道橋が架かる。

下流を望む。

                  都県境は、右から左へ。

この先、都県境は90度曲がり、多摩川が都県境となり、河口まで続きます。

稲城市方向を望む。

ここからは、左岸(東京都側)を歩くために、「多摩川原橋」を渡ります。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。線路は、JR南武線。

                     1880年代のようす。「矢野口の渡し」がある。

赤い線が都県境(右から左へ)。

ただし、多摩川両岸の真ん中をたどるわけではなく、河川の中をけっこう屈折しています。(赤い線)

アーチ橋は、水道橋。

                  稲城市に給水するための橋。

すぐ河原には下りられず、少し上流を回り込んでから、河川敷の遊歩道に。

「多摩川原橋」。

「よみうりランド」方向(↓)。

「多摩川左岸 海から28K」。いよいよ河口を目指します。

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京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その1。川崎市多摩区菅城下。稲城市と川崎市。府中街道。臨時給水さく井。旧渡船場道馬頭観世音塔(「都県境を探ってみる」。第20回目)

2023-04-25 21:19:37 | 都県境を探ってみる

いよいよ多摩川に向かいます。

「よみうりランド」から越えてきた都県境は、「三沢川」を横断し、「多摩川」方向へ。

当方も、かなりはしょりましたが、やっと。

(「気象協会」HPより借用)

     ○の複雑な都県境。主に東京都町田市と神奈川県相模原市、横浜市、川崎市との境界線。

初めに「境川」沿いを歩き、その後、多摩丘陵を上がったり、下ったりしてここまでたどり着きました。

駅前の案内図。

4月21日(金)。晴れ。

「京王よみうりランド駅」下車。駅前広場に、大勢の若者が集まっています。「よみうりランド」に向かうのでしょうか?

都県境標示のところへ。

             「三沢川 ←神奈川県横浜川崎治水事務所  →東京都南多摩東部建設事務所」。

対岸の標示。「よみうりランド」方向。崖になっています。

「三沢川」(下流方向)。

      

ここからスタート。多摩川に向かいます。

対岸の深い森を背に、

京王線のガードをくぐります。

「(川崎市)多摩区菅城下」。

しばらくウロウロし、「川崎市立菅中学校」の脇を進むと、

資源回収の看板「稲城市」を発見。

この付近は、稲城市になるようです。

この細道が都県境。右が川崎市、左が稲城市。

その先、ちょっと不明になる都県境。川崎市の下水管マンホールがある。

都県境は、曲がりくねる小川に沿って北西に。その少し東の道を歩きます。

畑が広がる。

                畑の左向こうに、都県境がある。

「府中街道(川崎街道)」に出ます。「川崎市多摩区」。

「東京都稲城市」。

「鶴川街道 ←町田 →調布」。

通りを越えた「セブンイレブン」脇の道が都県境。

   右が川崎市、左が稲城市。

右手に「川崎市臨時給水1号 さく井」。

多摩区にある上下水道局の保有する井戸の有効利用を図るため、水質良好な井戸を災害時の備えとして、臨時給水用井戸に整備しています。

※「さく井(せい)」=井戸を掘ること。漢字で書くと、「 鑿井」。

JR南武線ガードをくぐります。仕切り弁が数カ所見えます。

       

                 川崎市のマンホール。

都県境をたどると、突き当たり(稲城市内)に、

「旧渡船場道馬頭観世音塔」。

          

・・・江戸時代後半期から明治・大正にかけて各地に馬頭観世音の石塔が建立されるようになったのは、農村において馬の果たす役割がたいへん増大したことと深い関係があると思われる。この馬頭観世音塔は、多摩川のもとの渡船場の近くにあり、文化13年(1816)に建立され、市内に現存する最古のものである。・・・台石には願主矢埜口邑(矢野口村)をはじめ造塔に協力した相当に広範囲な19の村名が記されている。この渡船場の重要さをよく示しているといえよう。

右奥にJR南武線「矢野口駅」があります。

この付近は、稲城市矢野口。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その7。よみうりランド。「スカイシャトル」に乗って空の旅。ジャイアンツ球場。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-24 20:34:57 | 都県境を探ってみる

坂道を下り、右に折れると、「よみうりランド入口」へ。

左側が稲城市。

都県境は、目の前の「丘の湯プラザ」敷地内を抜け、「よみうりランド」、「ジャイアンツ球場」等へ進みます。

その先、北東に広がる「小沢城址特別緑地保全地区」から「三沢川」へ向かいます。

賑やかな歓声が響く「よみうりランド」。バスターミナルで小休止し、さてどうするか?

膝も痛くなってきたので、ここでリタイヤー。空から都県境付近を眺めることにします。

(「よみうりランド」HPより)

「ゴンドラ スカイシャトル」に乗って、「京王よみうりランド駅」まで空中探訪、ということに。

「片道300円」。

      

ジェットコースターが間近を通過します。

「慶友病院」脇が都県境。

        

「よみうりランド妙見堂」。

        左手を回り込むように都県境が続きます。

「ジャイアンツ球場」。

                       二軍戦を開催中、大きな声援が聞こえます。右奥に「都県境」が。

眼下に「京王よみうりランド駅」。

 

          稲城市の街並みが広がります。

西方向。

スカイシャトル「京王口ステーション」終点から、よみうりランド方向を見上げる。

「京王よみうりランド駅」。

森の中の道(都県境)をカットして、次回は、いよいよ多摩川に出ます。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その6。ゴルフ場内に進む都県境。川崎授産学園・ソレイユ川崎。よみうりゴルフ倶楽部。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-23 15:59:51 | 都県境を探ってみる

住宅地の道がなくなり、急にフェンスの中に。雨水用の溝でしょうか、鉄製のふたがかかった細道に。

行けそうなので、歩いてみます。

右手下の住宅地が見下ろせます。

   高台を歩いています。

ひょっこり広い道に。

                         左手に、「新ゆり展望の丘墓苑」。

「TYCCコース管理事務所」。

      「東京よみうりカントリー倶楽部」のようです。左手一体にコースが広がっています。

しばらく都県境になっているフェンス沿いの道を進みます。

道の右には、「不法投棄厳禁」という川崎市の掲示板。

左には、稲城市のものが。。

 

                            (手前)川崎市と(向こう)稲城市のマンホール?

この先で、都県境は、ゴルフ場の中に進んでいきます。

振り返る。

              

ゴルフ場沿いに進みます。

右手の森。

                   「向原の森公園」。

「川崎授産学園」。

川崎授産学園は、国際障害者年(1981年・昭和56年)に『人間の尊厳と社会的公正をめざし、ここに市民世代連帯の共同事業としてこの学園を設ける』という理念のもと、障害者のための複合施設としてオープンしました。
 四季折々の自然と広大な敷地に恵まれた環境の中で、地域福祉の拠点として各種事業を展開するとともに、利用者の権利を保障し、個別のニーズや意志・希望などを最大限に尊重した利用者本位のサービス提供と、利用者が地域で自立した生活を営むための支援を行っています。(「川崎授産学園」HPより)

 

「ソレイユ川崎」。

ソレイユ川崎では重度の知的障害と肢体不自由が重複している方を90数名(定員100名)お預かりしております。年代も幅広く、2歳から60歳台の方もおられます。人工呼吸器を離せず、毎日医療上の処置、対応が必要な方も少なくありません。そこで、施設内に医療設備を完備して常勤医師3名、非常勤医師8名にて対応しております。ソレイユ川崎は児童福祉法上の福祉施設であり、医療法上の病院でもあります。
こうした利用者の方へのケアはどうあるべきか、江川施設長は「向き合わない介護」そして「思いを合わせない介護」と2つの項目を挙げています。この考え方は施設紹介のDVDにも収録されていて、『「向き合わない介護」、「思いを合わせない介護」とはもちろん、背を向けることではなく、まず親御さんの気持ちをよく理解して施設の介護・医療方針と折り合えるところを見つけながら進めることを意味します。その上で、入居者の方のそばにいて、響きあう関係を保ちながら一緒に楽しみを味わっていけるような、さりげないケアを提供していく事が大切です。』と施設長自身やや逆説的であると述べています。

(この項、「」HPより)

※「津久井やまゆり園で起きた殺傷事件に関して」声明文

平成28年8月10日 神奈川県重症心身障害児者協議会

会 長  江川文誠(ソレイユ川崎)
副会長  髙橋協(小さき花の園)
副会長  庄司七重(朋)

平成28年7月26日相模原市の津久井やまゆり園で起きた殺傷事件は、障害のある人々とその家族、また障害児者の人生を支える多くの人々に大きな衝撃をあたえ、そこから生じた不安が広がっています。

神奈川県重症身障害児者協議会として、この事件で犠牲になられた利用者のご冥福をお祈りするとともにご家族に哀悼の意を捧げます。また,怪我をされた方々に、お見舞いを申し上げるとともに一日も早い回復をお祈り申し上げます。

容疑者が唱える「重度の障害者は生きている価値がない」との主張はもちろん許されるものではありません。しかしそのような主張が生まれる土壌がこの地球上にはまだ厳然と存在します。障害のある方の傍でその命を支える仕事を選んだ人間の足元にもその土壌が広がっていたことが、今回の事件をより一層暗いものにしています。私たちの協議会は重度の障害のある方が利用する福祉施設での仕を志したメンバーで構成されています。仕事をする仲間の中から今回のような考え方を持つ人が生まれたことを直視しなければなりません。

今回の事件報道により容疑者の主張が世間に紹介される状況に対して、私たちは通常の支援の仕事をするだけではなく、それらを打ち消すメッセージを社会に対して発していく必要があります。障害のある人の生活の中に存在する真の幸せについて、障害のある人とその家族が紡ぎだす幸福の形について、施設で生活しながらも地域とつながりながら豊かに生きる姿について、その精一杯の人が時に人の生き方をも変える力を持っていることについて、競争社会に生きている人が忘れかけている人間の本当の価値について、それを日々実感しているはずの私たちが訴えていく必要があるのです。

・・・

「(川崎市)麻生区細山」。

やっと「よみうりゴルフ倶楽部」に到着します。

        

ゴルフ場内に進んだ都県境は、ここでやっと道路に出てきます。

左手から右手の道へ。

    

正面に「よみうりランド」の観覧車が。        ゴルフ場方向を振り返る。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その5。麻生区金程。満開の藤の花。金程調整池。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-22 13:54:10 | 都県境を探ってみる

川崎市麻生区金程。

前方に、「東京都 稲城市」。

振り向くと、「川崎市 麻生区」。

通りを渡って「麻生川」沿いに進みます。

                        右手が川崎市、左手が稲城市。

すてきな満開の藤の花。

                   横に這わせています。

「金程調整池」。

川沿いに進みます。

曲がりくねった道を進む。左に「平尾山王橋児童公園」。

緩やかな上り坂。

                

この先、山道風になります。

           左手には「宅地造成工事地域(稲城市)」。「よみうりランド」が造成主。

都県境標。

川崎市と稲城市の連名(→)。左手が川崎市に。

森を抜けると、住宅地に。

「よみうりゴルフ倶楽部」の広大なゴルフ場の脇をたどります。

                             フェンス沿いの道。右手は、住宅が並ぶ。

                               (「今昔マップ」より)

○が「新百合ヶ丘総合病院」、→が都県境。60年代後半でも住宅地は少ない。その後の開発で住宅が建ち並ぶことに。

病院の西側、北側に一部、緑地が残っている。「新百合ヶ丘駅」付近は、大規模な住宅地に。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その4。深い森と大きな畑地。「お地蔵になった、たぬき」。新百合ヶ丘総合病院。麻生(あさお)川。稲城市平尾。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-21 21:34:11 | 都県境を探ってみる

住宅の脇の細道を進みます。

都県境標。 

右手の畑地と奥の森。

川崎というと臨海のコンビナート、大きな工場が立ち並ぶ印象(「京浜急行(京急)を利用して出かけることが多いため)が強いのですが、こうした農業地帯が広がっていることに驚きました。

振り返る。 

「お地蔵になった、たぬき」解説文。 

境界標(川崎市)。

東電の送電線。

稲城市側(左)にも畑が広がる。

           

畑の中の道を進むと、

「新百合ヶ丘総合病院」の裏手に出ます。

都県境は、この先、左に折れていきます。

病院を回り込みます。

               右手の森の中を都県境が続いています。

「麻生(あさお)川」に出ます。下流方向。

上流方向。

森からの道が都県境? 

その道の東側は、稲城市平尾。

振り返ると、川崎市側。

      左手奥の方に、小田急線「新百合ヶ丘駅」があります。

この先からしばらくは、「麻生川」が都県境になります。

左は、稲城市。多摩ナンバー。

川の向こうは、川崎市。

車の流れの激しい道へ。

都県境は、麻生川に沿って続きます。            

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その3。五力田谷戸特別緑地保全地区。「平尾入定塚」・「平尾十三塚」。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-19 21:46:34 | 都県境を探ってみる

しばらく山道が続きます。右が川崎市、左下が稲城市。

稲城市平尾。

都県境標。

右手には竹林や雑木林が。

                

山道が終わり、公道に。

   この奥の森へは立入禁止区域。 

都県境にあたるの森の左手には、「平尾入定塚」跡、さらにその先には、「平尾十三塚」があります。

「平尾入定塚」は、見逃してしまいましたが、  

「平尾十三塚」解説板。

            奥の森。

平尾十三塚(ひらおじゅうさんづか)

東京都稲城市平尾二丁目と、神奈川県川崎市麻生区五力田の境にある十三塚。東京都内で唯一、13基の全てが現存している十三塚である

稲城市平尾は多摩丘陵を造成して平尾団地が建設されるなど、丘陵地帯だが開発が進んだ地域である。

平尾十三塚は、この平尾団地南側の造成を受けていない区域にあり、稲城市と川崎市との境界をなす丘陵稜線上に13の塚がほぼ東西向きに整然と並んでいる。一般的な十三塚に見られる通り、中央の塚(7号塚)がやや大きく、両側に6基ずつやや小さい塚が並ぶ

なお平尾十三塚の近くには、1536年(天文5年)に長信という僧侶入定を遂げるために埋められた「平尾入定塚」がある。また少し離れた平尾一丁目には江戸時代中期の1708年宝永5年)に築造された「平尾原経塚」があり、平尾仏教関係のが密集している地域でもある。

1959年(昭和34年)と1968年(昭和43年)に発掘調査されており、中央の7号塚を中心に調査が行われたが、これも一般的な十三塚に見られる事例と同じで出土品等が全くなく、造られた年代やその目的などは不明のままとなった

稲城市の馬場家に残る1686年(貞享3年)の裁許状(馬場家文書)によると、平尾村と片平村・古沢村(川崎市側の村)との間で入会地をめぐる争いがあり、昔からこの地にある平尾入定塚と平尾十三塚を結ぶ線を村の境界に定めたという。このため、江戸時代前半よりは古い時代からあったことは確実とみられている

※平尾入定塚(ひらおにゅうじょうづか)

東京都稲城市平尾二丁目にある、16世紀前半(室町時代末期)に築造された発掘調査により、1536年8月31日天文5年8月15日)に長信という修行が内部に埋められ、「入定」を遂げた塚であることが判明した。

稲城市平尾は多摩丘陵の山野を開発して平尾団地が造成された。入定塚は平尾団地内の造成を受けていない区域にあり、フェンスごしに見学することができる。出入り口の近くには入定塚の歴史と、稲城かるたの「入定の 長信坊は 塚残し」という碑文と長信坊の絵札が記載された石碑がある。・・・少し離れた平尾一丁目には、江戸時代中期の1708年宝永5年)に築造された「平尾原経塚」がある。

入定塚は1959年(昭和34年)8月に発掘調査された。塚は一辺が約10.8メートル四方の正方形をしていて 、内部には、礎石を伴う4本柱と板材を組んで作った1.8メートル×2.1メートル、高さ推定1メートルの地下空間があった痕跡があり、板材を打ち付けるための鉄釘7本や、鉄製の刀子1本、銅銭44枚、板碑9枚が発見された。このなかの板碑の1枚に「天文五年丙申八月十五日、長信法印入定上人」と金泥を塗り込んだ文字が彫られていたことから、室町時代の1536年(天文5年)に僧の長信が入定を果たすためにおそらく生きたまま中に入り、そのまま埋められた塚であることが解った。

中世から江戸時代にかけて、真言密教系の僧侶の中には、弥勒菩薩来迎を待ち、衆生の救済を願って、を唱えながら土中に埋められ入定に至るという過酷な修行をする者たちがいたが、平尾の入定塚はその実例であり、作られた年月日まではっきりとわかる遺跡として貴重なものであったため、発掘調査時の図面などの資料と合わせて稲城市の文化財(考古資料)となった

入定(にゅうじょう)は、真言宗に伝わる伝説的信仰。原義は単に「(ぜんじょう)にる」という意味だが、ことに弘法大師空海が永遠の瞑想に入っているという信仰を指す。・・・後世、断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命してそのままミイラ化する、いわゆる「即身仏」となる行為も、空海の入定信仰にあやかって俗に「入定」と呼ばれるようになった。しかし、それは真言密教の教義に由来するものではなく民間信仰の領域であり、空海の入定信仰とは本質的に異なるものである。(「Wikipedia」より)

その先、住宅地の右下に畑地が広がる。

       

           農作業に忙しいようす。その脇の小道を保育園児が元気に坂を下りていきます。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その2。「あさおウオーキングマップ」。栗木台見晴し緑地。四阿。ウグイスのさえずり。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-18 20:41:26 | 都県境を探ってみる

道なりに上がっていくと、ひょっこり、畑に出ました。

農作業中の方に話を聞くと、「ここは、稲城だよ。右の森の向こうは、黒川。この辺一帯は、黒川と言っていたんだ。」

「この先はどう歩けば? 」「この先を進むと、十字路の道に出会うから、そこを左に曲がっていけばいいよ。」

ということで、一安心。

   「あさおウオーキングマップ」川崎市の立てた案内図。

「栗木台見晴し緑地」から階段を下りて住宅地へ。

見上げると、けっこう急な階段。都県境は森の中に続きます。

右上に「栗木台まみ沢公園」。

都県境は左上から右下へ。そして、通りを横切ります。

この道を上がります。 川崎市の境界標」。

左は、稲城市平尾。

眼下は川崎市麻生区栗木台。

振り返ると、右が稲城市に。黄色いガードが目印?

稲城市のマンホール。

右が川崎市、左が稲城市。

振り返ると、右が稲城市、左が川崎市。 

「平尾外周通り」を進みますが、

右上の尾根道が都県境になっています。

「平尾住宅」案内図。

※住宅南の道路が「外周道路」で、都県境の尾根道に沿っています。

尾根道に上がる階段があったので、

                       平尾住宅(稲城市平尾)を見下ろす。

「尾根道・都県境」(北を望む)。左が川崎市麻生区白鳥。

川崎市のマンホール。

住宅地から山道になります。途中、見晴らしのいいところへ。

都県境標。川崎市のもの。

途中、「五力田見晴し公園」(麻生区白鳥)に。四阿があり、景色を眺めながら、小休止します。

川崎市内を望む。

しきりにウグイスのさえずりが聞こえてきます。

の付近の案内図。

   赤い線が尾根道(都県境)。北が稲城市、南が川崎市。

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京王線「若葉台駅」~「京王よみうりランド駅」。その1。若葉台駅北口。稲城市のマンホール。三沢川。黒川東営農団地。(「都県境を探ってみる」。第19回目)

2023-04-17 20:27:18 | 都県境を探ってみる

4月14日(金)。曇り。「晴れ」の予報でしたが、黄砂のため薄曇り、ということに。

京王線「若葉台駅」北口下車。

     駅前は、都県境が入り組んでいます。右手の店舗は川崎市麻生区黒川、左手のマンションは、稲城市若葉台。

左手に、一部が都県境になっている建物。

「ローソン」の裏手が都県境。

都県境。「若葉台駅」を望む。

北が「東京都 稲城市」。

南が「川崎市 麻生区」。

境界標。東京都のマーク(↓)。

稲城市のマンホール。

                    市章と市の木イチョウの葉。

都県境は、正面奥、三沢川を越えて、南東に向かいます。

「三沢川」。上流方向。

三沢川は多摩丘陵内を流れて多摩川に注ぐ川であるが、三沢川の左岸は若葉台、向陽台という多摩ニュータウン地域となっている。三沢川流域の多摩ニュータウン開発に際して最も問題となったのは、多摩ニュータウンの雨水の処理方法であった。新たに里山を切り開いて街を作るとなると、街に降った雨水を何らかの形で処理しなければならない。しかし当時既に三沢川の流量から見て、新たにニュータウンを作った場合には、洪水発生のおそれが否めなかった。しかし三沢川下流は多摩ニュータウン開発を行っていた東京都ではなく、神奈川県川崎市が管理する部分であり、東京都の事業のために川崎市の財政支出によって三沢川改修を依頼しても断られることは見えていた。そこで考案されたのが、現在の稲城中央公園の下からトンネルを掘って川崎市内をバイパスさせて直接水を多摩川に落とす「三沢川分水路」であった。このアイデアにより、向陽台、長峰、若葉台といった稲城市内の多摩ニュータウン開発が可能となったのである。

源流付近。

(この項、「Wikipedia」より)

※「三沢川分水路」。太線が都県境。

迂回し、都県境へ向かいます。

                    「黒川東営農団地(川崎市麻生区黒川)」内の道。

黒川東営農団地は畑作が中心で、秋はサツマイモ・落花生の収穫体験ができます。休日は家族連れや会社の福利厚生等の利用で賑わい、平日は幼稚園など子供たちがたくさん訪れています。

(「」HPより)

見晴らしのよい高台。

                      若葉台駅方向を望む。

畑が広がる。

          

左手奥の森が都県境に。

都県境は、左手から右手へ続く。

                    森の向こうには、「東京都立若葉総合高等学校」や「日大総合グランド」が。

いよいよ都県境の山道に。 

足もとには、

               右が川崎市、左が稲城市。

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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その5。「よこやまの道」東端。丘の上広場公園・弓の橋。デンマークイン。多摩市・稲城市、川崎市。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-16 21:02:01 | 都県境を探ってみる

ようやく東端に。「弓の橋」。

             「多摩東公園」(東京都多摩市諏訪)を結ぶアーチ橋。

           

           通りの向こうは、「多摩東公園」。

「丘の上広場公園」(多摩市)。

           都県境界にある公園。「よこやまの道」の東順路の終点です。

ここを右折し、京王線「若葉台駅」へ向かいます。

この道が都県境になっています。境界標石。

                   

多摩市聖ヶ丘。右手は稲城市になります。

「介護老人保健施設デンマークイン若葉台」(稲城市)。

デンマークインとは?
 
正式名称「デンマークINN」とは高齢者福祉先進国であるデンマークが掲げる「高齢者福祉3原則 ①自己決定の尊重 ②残存能力の活用 ③生活の持続性」を守り、「INN(小さなホテル)」のように気楽に高齢者の方々が宿泊し、食事をし快適な生活を送れるようスタッフ一同がおもてなしをする気持ちでサービスを提供することを願って名付けたものです。
(「」HPより)
 
下り坂を進みます。都県境は、この道を離れ、右手に進みます。
 
都県境は、この藪の中?
 
大きな道路を越えて向かい側に。
 
                     道路の向こうに「川崎市麻生区」の標示が見えます。
 
こちら側は小さく「東京都」(→)。
 
都県境は、「京王電鉄 若葉台車両基地」内に。
 
         
 
道路の向こうの都県境を振り返る。
 
迂回し、駅に向かいます。稲城市のマンホール。
 
                 市章と市の木イチョウの葉。 
 
この先を右折し、大きな車両基地の脇に出ます。 
 
都県境は、構内を右から左へ。 
 
この先で、都県境は、道路沿いに。
 
 
「若葉台駅」北口付近が都県境(稲城市若葉台と川崎市麻生区黒川)になっています。
 
 
今回は、ここまで。
 
次回は、
駅前の都県境の確認から。
 
都県境ともなっている「多摩よこやまの道」は、アップダウンも少なく、快適な散歩道。行き違う地元の方々と会話を楽しみました。
 
この付近の今昔。
                     2010年代のようす。右端に「若葉台駅」。
 
                                 (「今昔マップ」より)
 
  ↓が「若葉台駅」。開業は、1974年(昭和49年)。周囲に広がる住宅地は、多摩ニュータウン構想の一環。 
 
1970年代のようす。
 
京王線「若葉台駅」や車両基地を造成、建設中。周囲も住宅地として開発中。古くからの黒川の集落がある。 
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小田急バス「真光寺公園」~京王線「若葉台駅」。その4。瓜生黒川道。黒川はるひ野。諏訪ヶ岳・三角点。小田急線「はるひ野駅」。(「都県境を探ってみる」。第18回目)

2023-04-15 21:20:24 | 都県境を探ってみる

いったん下って、広場に出ます。「よこやまの道」碑。

「瓜生黒川道」案内板。

「多摩よこやまの道」に交差するこの山道は、川崎市麻生区の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた江戸時代頃から近代にかけての往還道で、昭和の初めまで黒川の特産品であった「黒川炭」や「禅寺丸柿」などを八王子方面や江戸市中に運ぶ近道でもありました。また、武蔵六所宮(現大国魂神社)の神前に供える汁物を調整していた黒川の汁守神社前からこの尾根までの間に、「街道」を意味する「海道」の字名が今でも残っています。

※町田市真光寺には、「飯守(いいもり)神社」という神社があり、ここは汁守神社の汁物に対して「飯物」を調製したと伝えられている。

尾根道から黒川に向かう山道。

「黒川はるひ野」解説板。

「黒川」の名の由来は、川の水が澄んで川底が黒く見えたためと言われています。かつては、村人達はこの水を利用して稲作を営み、山の斜面に植えたクヌギやコナラなどの雑木を伐って「黒川炭」と呼ばれる良質の炭を作って暮らしていました。

市街地化が進む川崎市において市域に残された斜面緑地の保全を目的として緑地保全地区が指定されています。隣接する住宅地の里地環境と一体となった景観をなし、多様な動植物の生息・生育空間となっています。また、地区内には昔からの谷戸の姿を残し、自然環境と人の暮らしの共生について学び体験する場もあります。

しばらく山道が続くと、

「諏訪ヶ岳」の三角点に。

    広場風になっています。

ここにも古びた「よこやまの道」碑。

 

     「雑木林の若返り(萌芽更新)と根株移植」。

この付近では、尾根道が都県境のようです。

右下が開けてきます。

        「多摩丘陵の桜あれこれ」解説板。

木々もまばらになってきます。

左側(北方向)。切通しのような地形。

小田急線が眼下に。

遠く右下に小田急線「はるひ野駅」。

満開の桜(4/1撮影)。

そろそろ「多摩よこやまの道」の東端に近づいてきます。

足もとには境界杭が二つ。足元注意 境界杭あり 多摩市」。

「多摩よこやまの道」案内板。

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