おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

臨港バス「川崎駅前~浮島町公園入口」(往復)。その4。浮島町重工業地帯。千鳥運河・大師運河。川崎宿400年。(「都県境を探ってみる。番外編。)

2023-05-27 21:02:45 | 都県境を探ってみる

川崎駅に向かう車窓からの景色。日本の基幹産業が広がる大工業地帯。

左手一帯。

    ロケットの噴射口のような設備。

千鳥運河、大師運河・・・。

運河の周辺には、(株)JERA 川崎火力発電所やENEOS川崎製油所などが広がっています。

24時間稼働の工場の夜景が素晴らしいようです。

都県境歩きで川崎市との境界線を何度か通りました。

中でも、麻生区の田園風景(森も多く、坂の上り下りがけっこうありました。そのせいか、長寿日本一だそうです。)、一方で、多摩川歩きで対岸の、タワーマンションが連なる中原区。そして、この京浜工業地帯と様々な風景に接してきました。

「川崎」というと、川崎駅周辺の競輪場や競馬場、歓楽街・・・、さらに、首都高の車窓から見る大工業地帯というイメージが強かった(偏見? )のですが、川崎市のイメージが大きく変わりました。

川崎駅に戻り、旧東海道沿いにある「津之国屋三惚(さんぼれ)」で天ぷら定食。

天ぷらも美味しいし、筍ご飯も。付け出し風に出された料理は量も多く、満腹感を味わえました。常連のお客さんが次々と訪れています。

「津之国屋三惚」。

旧東海道・川崎宿の通り。

               駅前の繁華街から少し外れると静かな街並みに。

「東海道 川崎宿400年」の幟。

小土呂橋。

東海道が「二ヶ領用水」の末流「新川掘」という川筋を横断するところにかかっていた橋。昭和6~8(1931~1933)年に埋め立てられたため、橋の欄干の親柱だけが交差点脇の歩道に保存されている。

「いさご(砂子)通り」。

「川崎宿の由来」。
 慶長6年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和9年(1623)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる五十三次となった。
 慶長5年(1600)、江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが度々の洪水で破損し、元禄元年(1688)から船渡しとなった。
 川崎宿は、久根崎、新宿、砂子、小土呂町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋、鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。
 徳川将軍四代にわたるお大師様への厄除け参詣が江戸庶民の大師詣でを盛んにし、大師前には門前町ができて大いに賑わった。
 明治5年(1872)新橋―横浜間に鉄道が開通したが、大師参詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたのは驚きに値する。
 しかしその後、東京―横浜間の通過町としてさびれたが、明治末期から六郷川を利用して川岸に産業が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。
 当川崎は宝暦や文久の大火、安政の大地震、また昭和20年4月(1945)の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石像物からわずかに往時を偲ぶのみである。
                                   (川崎・砂子の里資料館 館長 斉藤文夫)

もともと川崎宿のあたりは砂浜の低地で多摩川の氾濫時には冠水の弊害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るよう配置がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛り土が施されたという。現在でも砂子から小土呂あたりを歩いてみると旧街道が周囲よりも幾分高いことがよく分かる。・・・

 ※「今昔マップ」によれば、川崎宿地域(そして、その西側)はほとんど標高2メートル。町はずれの東側になると1メートル、あるいは0メートル地帯となる。
 多摩川河畔から東京湾の縁にできた微高地上の縁に街が形成され、のちに東側の低湿地帯に水田、畑地が干拓されて広がっていった、と考えられる。(「品川」「神奈川」もほぼ同様。)

京急線電車の中にあったポスター。

旧東海道歩きでも来ましたが、この機会にまた訪問してみようと思います。

こうして、都県境歩きも一段落。

都県境を歩いた部分。

             赤い線(便宜上、直線で表記)。山間部は未踏です。

次回は、町田市で都県境と分かれた「境川」を河口の江ノ島まで歩いてみます。

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臨港バス「川崎駅前~浮島町公園入口」(往復)。その3。東京湾アクアライン浮島換気所。着陸態勢の飛行機が次々と。(「都県境を探ってみる。番外編。)

2023-05-25 19:40:43 | 都県境を探ってみる

前方が開けてきます。

                            対岸は、羽田空港。

           「東京湾アクアライン浮島換気所」方向。

千葉と神奈川を結ぶ「東京湾アクアライン」木更津側から。

           着陸態勢の飛行機が姿を見せる。

      羽田空港に着陸する飛行機が次々と。

      

            

     航空会社のマークが確認できるほどの低空。

飛行機を眺めるには絶好地。ベンチに座ってノンビリ。

再びバスに乗って川崎駅まで戻ります。

再びバスに乗って川崎駅まで戻ります。周囲には、大工場・物流施設が連なります。

マキタ運輸、JFE物流。

東京湾アクアラインにつながる「首都高川崎線」。

     木更津方向へ向かうICへ。           

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臨港バス「川崎駅前~浮島町公園入口」(往復)。その2。先進医療機関の施設。浮島町地区。浮島町公園・川崎市民健康の森。(「都県境を探ってみる。番外編。)

2023-05-24 20:13:39 | 都県境を探ってみる

来た道を戻ります。

葦原の向こうには、多摩川スカイブリッジ。

振り返る。

          羽田側とは趣を異にする川辺のようす。

川中に釣り人2人。

スカイブリッジ下から上流を望む。

 

                                「河堺」標。多摩川に流入していた流れの跡?

               「国」の標示。

「海から2K」標示。

「ねずみ島」の姿が見えません。

出発点へ戻ってきます。

先進医療機関の施設の一覧。

「実験動物中央研究所」、「川崎生命科学・環境研究センター」、「国立医薬品食品衛生研究所」、「島津製作所」・・・。

「浮島町公園」へ向かうためにバスを待っていると、通りの向こうを貨物列車が通過します。

                

歩くと小一時間かかるところをバスで移動。沿道には「花王」「東芝」「ENEOS」「東亜合成」など、浮島町地区にはたくさんの大工場が立ち並んでいます。

「浮島町公園」。

森が広がっています。

                

森を抜けると、目の前に海が広がっていきます。

             

目の前の海越し、「羽田空港」へ飛行機が次々と下りてきます。

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臨港バス「川崎駅前~浮島町公園入口」(往復)。その1。theWAREHOUSE。神奈川県側の「多摩川河口」標柱。(「都県境を探ってみる。番外編。)

2023-05-23 20:20:38 | 都県境を探ってみる

東京都(大田区)側の多摩川河口までは歩きましたが、神奈川県(川崎市)側の多摩川河口まで訪ねてみます。

川崎駅前から臨港バス「浮島バスターミナル」行きに乗り、途中の「キングスカイフロント入口」で下車。そこから「多摩川河口」の標柱があるところまで歩きます。

その後は、再びバスに乗り、川崎市側の最先端に位置する「浮島町公園」に向かうことにします。

さて、

多摩川の土手に出る手前の左手に、

「theWAREHOUSE」。

The WAREHOUSEとは

遊び方も、働き方も、すべてが変わる。
次世代の体験型商業施設、それが「The WAREHOUSE」です。
The WAREHOUSEは、羽田空港の対岸・多摩川河川敷に誕生した、全く新しいスタイルの商業施設です。
ここでは「遊び」「働き」「泊まる」ことができて、しかもそのすべてで、今までにない体験をもたらします。
多摩川河川敷という自然豊かな環境と、川崎の地が育んできた歴史がリンクして生まれたThe WAREHOUSEから、
新しいリバーサイドライフが始まります。

The WAREHOUSEの担う「mission」

The WAREHOUSEは2020年オリンピック/パラリンピックの開催直前に完成するオーガニックブリッジ(環境に配慮した構造)が羽田国際線ターミナルと直結し、さらに徒歩でも自転車でも渡れると言う健康的な都市インフラです。
世界(グローバル)と地域(ローカル)のコミュニティハブとしての役割を担っています。
地域の企業から排出された水素ガスを地域企業の力でエネルギーに変換し施設全体の電力の30%をカバーしています。
そして周辺には医療の最先端企業の研究機関が誘致され、世界からの研究者が集い始めました。
世界からの研究者やツーリストに地元企業のエネルギーサポートや、国際空港に自転車や徒歩で行けると言う世界でも稀に観るオーガニックな都市計画です。

一方、観光や「おもてなし」だけではない豊かな日本のアウトドアフィールドを体験できるツアーデスクを置き、アジアNO1の体験型ツーリズムの拠点としての役割も担っています。
地元の人達の祭りのお手伝いをさせて頂きながらホテルに滞在されている方や最先端医療の研究者の方々との交流を深め、さらに健康で暮らし易い地域を作る事が目的の施設です。
そして施設名称の「The WAREHOUSE」は、もちろん川崎の土地の記憶を継承しております。

(「The WAREHOUSE」HPより)

上にも記されているように、この地域には最先端医療の研究施設が集まっています。

上流を望む。「大師橋」。

対岸「羽田空港」方向。

「多摩川スカイブリッジ」。

「海から(右岸)1K」。

景観のすばらしい橋です。

この橋の下をくぐって、

川沿いの細道を進みます。

         

まもなく河口の標柱。

広場の中心に、「多摩川河口」標柱。バス停から約30分。

               「2012年6月吉日」とある。

小さな広場になっています。

現在の河口付近を望む。

この先で行きどまり。河口自体は、かなり先になる。

         「0.2K」標。

                   「↓」付近。     (「今昔マップ」より)

河口という標柱がある地点は、かつての都県境の線上にあるようです。微高地・河畔の畑の端だった?

陸地側には、大きな建物が。

               「ヨドバシカメラアッセンブリーセンター」。

※主に関東以北のヨドバシカメラ全店舗で取り扱う商品の保管と店舗配送機能、ネット通販関連の梱包、出荷拠点として運用されている。

羽田側の先端を望む。

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その7。「多摩川スカイブリッジ」を渡る。都県境の真上。京急・大師線。鈴木町。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-20 21:18:28 | 都県境を探ってみる

遊歩道から階段を上がり、橋の上に出ます。

                     車道と歩道、自転車道と区分され歩きやすい。

   上流方向。

現在地を示す標識。けっこう設置されています。

河口側。ほぼ都県境の上で。

振り返る。橋の全長、約675メートル。

          バス、自家用車、自転車、歩行者とけっこう行き来があります。

羽田空港方面。

川崎市側。

             右手奥に「多摩川河口」碑があるはずです。

        

まもなく川崎市側橋詰。

                 このまま渡り終えてしまうのは、もったいない感じ。

交通の便利さの他、観光名所になること間違いなし!

「多摩川スカイブリッジ」。

               

案内板。都県境が川の中央に。

「多摩川スカイブリッジ」を振り返る。

京急大師線の終点「小島新田駅」に向かいます。この先、もう少し歩きそうです。

久々に川崎市のマンホール。

                 

                この地域には、こうした医薬関連の施設が建っています。

幹線道路脇に貨物の引込線。 

貨物線沿いに駅へ向かいます。

跨線橋から。

          日本貨物鉄道関東支社川崎車両所。

 

付近の案内図。 

「京急川崎駅」まで。

ところで、

京急・大師線 (「Wikipedia」より)

 京浜急行電鉄のルーツ。当初は川崎大師への参詣路線として建設され、1899年に開業した。営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのもの。
 人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れも3年後の1902年に果たした。なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1926年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。
 海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収された上に1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 産業道路駅間とほぼ一致しているが、産業道路駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である。
 同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参詣客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。 開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
 太平洋戦争中は陸上交通事業調整法により東京急行電鉄の運営となり、防諜上の理由により一部駅名を変更した。また、工業地帯への通勤輸送を担うため、海岸電気軌道の廃線跡を一部活用して桜本駅まで延伸された。
 戦後、京浜急行電鉄として独立後の1952年に塩浜駅 - 桜本駅間を川崎市交通局(当時は交通部)に譲渡し、1964年には国鉄塩浜操車場駅(現在の川崎貨物駅)建設のため小島新田駅 - 塩浜駅が休止され、1970年に正式に廃止、現在の路線が確定した。

上記にもあるように、小島新田駅から塩浜駅、さらに桜本駅まで市電の路線があったのですが、それらは廃線となりました。その廃線跡を訪ねて、「小島新田駅」から歩いたことがあります。

途中、「鈴木町」駅。

              周囲には、「味の素」の工場が集中しています。

味の素グループの川崎工場は、京急大師線の鈴木町駅前から広がる鈴木町という街にあります。その鈴木町という地名、実は創業者・鈴木三郎助の名前に由来しています。
ここが「味の素®」の工場用地となったのは1913年のこと。創業当時の工場は神奈川県逗子市にありましたが、製品に確かな需要を感じていた鈴木三郎助は、大きな河川が近く、なだらかで運送の利便さに恵まれた土地で大規模な生産設備の建設を計画。わずか1年後となる1914年9月1日には操業を開始。そして1917年、味の素グループの前身となる「株式会社鈴木商店」を設立しました。

川崎工場は、1923年の関東大震災によって一度は崩壊したものの、二代目鈴木三郎助の機転と努力によって再建し、翌年には操業を再開。創業者の名前にちなみ、この地が「鈴木町」と呼ばれるようになりました。
味の素グループ川崎工場の工場見学では、各見学コースのクルーによってこうした歴史や知られざるエピソードが語られることも。鈴木町の明るくのどかな雰囲気をぜひ味わってみてください。 

(この項、「」HPより)

 

                                       (「今昔マップ」より) 

都県境は南に大きく迂回し、この地域は荏原郡六郷村(現東京都大田区)に所属していた。

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その6。環八通り。整備中の遊歩道。河口を望む。正面に飛行機。対岸(川崎市浮島)。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-19 18:47:40 | 都県境を探ってみる

空港横を走る「環八通り」。

「東京モノレール」。

悠々と旋回する。

                          砂地に影が(↓)

河口を望む。

       正面に飛行機。

            

振り返る。

整備中の遊歩道。

                自転車で空港方面に向かう人の姿が。

 遊歩道最先端。     

     

戻ります。

対岸(川崎市)の河口先端近くには「浮島町公園」があります。

振り返ると、飛行機が。

対岸の正面付近に川崎市(神奈川県)設置した「多摩川河口」の標識があるはずです。

昨年完成した「多摩川スカイブリッジ」を渡って川崎市側に向かうことにします。

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その5。海老取川。羽田鈴木町。多摩川沿いの遊歩道。多摩川スカイブリッジ。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-18 20:40:29 | 都県境を探ってみる

羽田空港側が大きく開けてきます。

海老取川。左に大鳥居。

                                                       多摩川から分流して東京湾に注ぐ。こちらが上流になる。

東京都大田区を流れる多摩川の分流で東京国際空港(羽田空港)を隔てている一級河川である。長さ約2km。うち1kmは河川法上の指定区間となっている。河口付近で新呑川と合流する。

東岸に空港関連の施設があり、西岸の北の方に工場が多く立地する。西岸の南は住宅地である。河岸には漁業用船舶プレジャーボートが係留されている。

氏神・鈴木弥五右衛門の碑。

この地の平和を愛し江戸時代に猟師町の名主、鈴木弥五右衛門が羽田(旧羽根田)村の名主、石井四朗右衛門に折衝して開墾の許可を得て、鈴木新田を開発し三つの町、羽田鈴木町、穴守町、江戸見町を血と汗と涙の結晶で村人と共に戦の無い平和な猟師町を築き上げたのである。また、現在穴守稲荷神社の生みの親であり、この地の開祖である。その江戸時代からの戦前、戦中、戦後の出来事の歴史を見据え、この地を守護し羽田から世界平和への文化交流の空の架け橋として未来の羽田を担い羽田の平和の象徴であ東京国際句稿祈念建造物、羽田の平和の大鳥居と共に羽田空港1丁目、2丁目、大田区指定文化財(史跡)鈴木新田跡の歴史を後世に伝えておりますので、ご理解ご協力の程をよろしくお願い致します。

尚、今日、東京国際空港が目覚ましい発展を遂げているのもそうです。その陰には三つの町が空港拡張で犠牲になっていることを忘れてはいけない此の地の尊い偉業の大地、鈴木新田跡。

後方は、穴守稲荷神社。

           「江戸近郊八景之内 羽根田落雁」。

羽田鈴木町地図。

      「政府の行為によって二度と戦争は繰り返さない」。

・・・1945年敗戦となり同年9月21日、米軍に3町を接収されその上、当時の蒲田区長、増田武雄氏に48時間以内での立ち退き命令を下され空港拡張により住民約3千人が町から追いやられた悲惨な事件を忘れてはいけません。

                                      (「今昔マップ」より)

※戦前には「羽田競馬場」というのがあったのですね。

五十間鼻。右に「無縁仏堂」。

羽田空港方面。

                     遊歩道が続きます。

             

羽田空港側土手から多摩川を望む。

             

空港整備地区に残された樹木。

整備中の地区。

              整備されている多摩川沿いの遊歩道。

案内板。

多摩川スカイブリッジ橋脚下。

多摩川スカイブリッジ。

               対岸(川崎市川崎区殿町)を望む。

羽田空港川崎市を結ぶ「神奈川口」は神奈川県の長年の悲願とされていた。2004年(平成16年)2月12日、国土交通大臣、神奈川県知事、横浜市長、川崎市長を構成員とする「第1回神奈川口構想に関する協議会」が開催され、以後2006年(平成18年)までに4回会合を行い「神奈川口構想」について検討を進めた。「神奈川口構想」は羽田空港の再拡張・国際化に合わせて多摩川にある首都高速湾岸線大師橋の間に空港に接続する橋または海底トンネルを建設し、多摩川の対岸にある川崎市側にも空港施設を設置するという構想で、いすゞ自動車川崎工場跡地の利用を想定していた。国際線旅客ターミナル(現:第3旅客ターミナル)の出国手続き施設を建設するほか、ホテル物流施設を併設し、経済的な地盤沈下が進む京浜臨海部再生の起爆剤になると考えられた。

この「神奈川口構想」に対しては、東京都大田区が強く反対したが、「アジア諸都市の国際ハブ空港競争激化の中にあって、日本の羽田空港がそれに勝ち抜くキーのひとつとしてあげられるのが、臨空関連施設やホテル他を擁する神奈川口構想の成立可否かもしれない」とする新聞記事もあった

2014年(平成26年)9月8日、「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の初会合で政府は羽田空港と川崎市を直結する「連絡橋」と「海底トンネル」の新設を決定。川崎市の15年来の悲願が実現することとなった2015年(平成27年)5月18日に開かれた「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の第2回会合で、羽田連絡橋などの整備場所について「川崎区の殿町地区中央部に両地区を結ぶ新たな橋梁(2車線)」と初めて明記された2017年(平成29年)1月24日、川崎市と東京都が「羽田連絡道路」の都市計画事業認可を取得し、事業に着手した。事業総額は300億円。負担額は橋梁部分の260億円は国と川崎市が折半し、川崎市は川崎市側の取り付け部の整備費約40億円を負担する[。首都高湾岸線が多摩川トンネルを通過する地下ルートであるため、本橋梁は多摩川河口から第一番目に架かる橋となる。橋には幅員7.5メートルの2車線の車道に加え、両側に4.9メートル幅の歩道・自転車道がそれぞれ設けられるが、50cc未満の原動機付自転車及び軽車両(自転車を除く)は通行できない。所要時間は開通前は対岸まで電車とバスで1時間、自動車で20分程度かかっていたものが、この道路の完成により車では3分、徒歩でも10分余りで行き来できるようになる。開通は当初2020年東京オリンピックに合わせ2020年(令和2年)夏を予定していたが、2度の延期を経て2021年度(令和3年度)に変更され、2022年(令和4年)3月12日に開通した

羽田空港側では羽田エアポートガーデン、川崎市側ではキングスカイフロント(殿町国際戦略拠点)の各施設が建設、整備が進められている。また、開通後の2022年4月1日には川崎鶴見臨港バスにより、スカイブリッジを通行して天空橋駅大師橋駅および浮島バスターミナルを結ぶ路線バスの運行が開始された

※帰途にこの橋を渡って川崎市側に向かいます。

モーターボートが疾走中。 

               

干潟で貝採り?

JR浜松町と空港を結ぶモノレール。

立入禁止の柵。

この先にも人の姿がチラホラ。下から回り込んで、先に行ってみます。まだ整備中のところですが。

ソラムナード羽田緑地。先端まで整備中です。

       上流の「多摩川スカイブリッジ」が遠くに。

対岸(川崎区浮島町)を望む。

                 大きな工場、倉庫、製油所が立ち並ぶ一大京浜工業地帯。

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その4。海から2K。ねずみ島。羽田第一水門。五十間鼻・無縁仏堂。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-17 20:21:59 | 都県境を探ってみる

ますます川幅が広くなって、

                   対岸は、川崎市川崎区殿町付近。

     遠く河口付近に見える橋は、「多摩川スカイブリッジ」。

「多摩川羽田地区自然環境保護指定区域」の標示。

「海から2K」。

川面にほんの少し見えるのは、「ねずみ島」? 

右奥に見えるようですが。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

                                (「今昔マップ」より)。

昭和の初期まではこの島まで河川敷で畑があったそうです。河川改修で川幅を広げる際、畑の持ち主が買収に応じなかったため、とり残されたと言われています。川崎市に属しています。

※都県境は、かつては川崎市寄りになっていました。

                     1970年代のようす。顕著な島の姿。

                     2010年代のようす。小さく、中洲のよう。

大田区側の羽田第一水門。

水門に通じる舟だまり。

       

今も漁船や船宿があります。

案内板。海老取川と多摩川の合流点付近。

「五十間鼻無縁仏堂の由来」。

創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の
折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が
管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。

                                              

※五十間鼻(ごじゅっけんばな]

東京都大田区羽田六丁目の、多摩川海老取川の分流点に所在する石積みの沈床。その名称は、増水時の急流に対する護岸のため、水中に長さ五十(約90m)に渡って石を敷き詰めたことに由来する。遠景に多摩川河口東京国際空港(羽田空港)を眺望でき、釣りスポットや初日の出スポットとしても知られる

・・・周辺は東京湾の干満の影響を受ける汽水域で、干潮時には石積みの上を歩くことが可能だが、満潮時には全体が川底に沈む。接続する羽田六丁目の河岸はコンクリートで護岸されているが、岸のすぐ下には干潟が存在し、干潮時には岸から降りることができる。

(この項、「Wikipedia」より)

「海老取川」に架かる「辨(弁)天橋」。             

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その3。大師橋・首都高大師橋・旧大師橋。羽田レンガ堤。羽田の渡し。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-16 21:43:22 | 都県境を探ってみる

「大師橋」。

                橋の下の干潟で貝採り?

大師橋

東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。同橋は川崎市が管理している。

中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋。

        

※「斜張橋」と「吊り橋」の相違。(「Wikipedia」より)

左奥は、「首都高横羽線」橋脚。         

          右が「大師橋」、左が「高速大師橋」。

上流を望む。

羽田第二水門。

「高速大師橋」。

          大規模なリニューアル工事中。

1968年の開通から50年以上が経過し劣化が著しいため、橋梁の架け替え工事が2018年1月から行われている。

今日、付け替え用の新しい橋脚が報道陣に披露されたようです。

「多摩川八景・多摩川の河口」。

旧大師橋の親柱。

                  昭和14(1939)年に開通した当時の遺構。

「羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革」解説板。

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区 
 羽田は多摩川河口の砂洲の上にあったことからたびたび水害が発生していました。天正17年(1589)から安政6年(1859)の間に62回の大洪水があったと記録されています。明治以降、明治11年(1878)、17年(1884)、40年(1907)、43年(1910)の洪水は甚大な被害をもたらしました。 
 
2 羽田レンガ堤の建設 
「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917)内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完成(工期16カ年)しました。
「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所・昭和1010月発行)には「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガ胸壁(赤レンガ堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用するとして河川住民及び一般の利便を増進させた」と記されています。また人が堤防をまたぐため階段も設けられました。
 
3 羽田レンガ堤と人々の暮らし 
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ桟橋、造船所、生簀、材木置場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり、船宿もありました。昭和20年(1945921日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水災害もなく安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20415日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして、戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
昭和48年(1972)高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。
 
※レンガ堤の遺構が、羽田地区内各所に残っているようです。

「羽田の渡し」解説板。

古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田3丁目で旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は約40間(約80m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
 その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は、20~30人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止してほしいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。  大田区

この付近の今昔。

                      1880年代のようす。

「羽田渡船場」がある。多摩川は「六郷川」と記されている。川幅に注目。

                      2010年代のようす。

二つの「大師橋」。湾曲していた流路が広く、直線化している。

(「今昔マップ」より)○が「羽田の渡し」付近の川幅。今と比べてずいぶん狭いことが分かる。

「羽田猟師町」に注目。「漁師」ではなく「猟師」となっています。

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その2。六郷水門。海から3K。東京都(大田区)側の多摩川起点。大谷政吉商店。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-15 20:36:09 | 都県境を探ってみる

前方にどっしりとした水門が。

「六郷水門」。

六郷水門は、令土木学会選奨土木遺産に選定されました。この水門は六郷用水の多摩川への排出と多摩川の氾濫による浸水被害の防止などを目的として、1930(昭和5)年に着工し、能く31年に完成しました。

六郷水門の特徴は、何と言ってもその丸みを帯びたようなユニークなフォルムです。これは竣工当時に導入が始まったばかりの鉄筋コンクリート造りという新技術の可能性を追求したもので、生命の躍動感を表現したものと言われています。また、その構造の骨格を成す基礎部分には、「金森式鉄筋煉瓦」という工法が取られ、その堅牢さは竣工より90年を経過した今もなお現役の水門として活躍し続けています。

「土木学会推奨土木遺産認定証」。多摩川への流入路を望む。

 「六郷用水」船だまり。

橋の欄干に刻まれた、特徴的なロゴ。

         作業所。    

六郷用水(ろくごうようすい)

東京都(旧武蔵国)にかつて存在した用水路

建設指揮監督者小泉次大夫の名を取って次大夫堀(じだゆうぼり)とも呼ばれる。

多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。総延長は23キロメートルで、49の村の約1,500ヘクタールに、主に農業用水として水を供給した。

多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。

《歴 史》

1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年享保10年)に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。

廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。

一部区間(世田谷区岡本から大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園になっている。大田区内では、中原街道鵜の木三丁目の間は湧水を使って再現された用水路が遊歩道と共に整備されており、残りは道路になっている。

現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。・・・

(この項、「Wikipedia」より)

振り返る。 重厚な印象。  

次第に川幅が広く。

「海から4K」。

六郷ポンプ所排水樋管。

  

土手下は、桜並木。

振り返る。

ここまで、のんびりと歩いてきました。

河川敷がなくなり、コンクリート製の護岸壁に。

                                「海から3K」。                      

「たまリバー50キロ」案内図。

         

気づくと、「羽田」という地名が。

起点に着きました。「たまリバー50キロ」

              実は「羽村取水堰」から53.0km。

「羽田水辺の楽校 自然体験教室」。

ここが大田区(東京都)側の多摩川起点のようです。

来た道を振り返る。起点を示す柱が色あせているのが残念。

この先、まだまだ河口は先に伸び続けているので、ちょっと中途半端なのかも。

       「老舗の佃煮 大谷政吉商店」直売所。

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京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その1。羽田空港まで。六郷の渡し・川崎宿。東海道。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-14 20:41:14 | 都県境を探ってみる

去年の10月、「水元公園」(東京都葛飾区と埼玉県三郷市との都県境)から歩き始めた「都県境を探る旅」もいよいよラスト。第22回目。

青梅からの山伝いの都県境(雲取山まで)、そして、雲取山から境川の源流までの山道は省略しましたが。・・・

今回、多摩川河口まで歩くことに。

左岸を羽田空港まで歩きます。

                           京急線。対岸が「京急川崎駅」。

「六郷橋」。

旧東海道歩きの時の記事を再掲。・・・

「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板(川崎市)。

 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
 そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
 渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。 
 
 200年もの間、渡し船が行き交う場所だったわけです。

※「川崎宿」

徳川幕府が、東海道に駅制を定め、諸駅を設置した慶長6年(1601)のこと。諸駅より20年ほど遅れて川崎宿は元和9年(1623)に設置されました。それまでは品川宿の次は神奈川宿。往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、その中間に位置する川崎に新しい宿場・駅を設置しました、とされています。

川崎市では、「川崎宿」成立400年となる本年(2023年)、その歴史と文化を継承する企画が進んでいます。


1880年代のようす。

           (「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

六郷川(多摩川)をはさんで旧東海道。「六郷渡船場」とある。

 地元の鈴木左内が明治7年(1874)に木造有料の「左内橋」を架けたが、明治11年(1878)に流されてしまったため、この図には描かれていない。

左上の直線は、鉄道。左下に連なるのが「川崎宿」の町並み。

「明治天皇渡御記念碑」。

明治元年(1868)十月十二日、天皇は東下の道中、二十三艘でつくられた舟橋を渡って江戸(東京)に入った。

そのようすを描いたレリーフ。


(「制作 web-photographer 上野 隆史  Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)


「六郷橋」の親柱風な三箇所にあるオブジェその1。

「笹舟」(右岸―川崎側―上流)。

その2「和船」。渡し船をイメージしたものか(右岸下流)。同。

その3「和船」。(左岸―大田区側―上流)。

左岸・大田区側。「国道1号線・第1京浜」右側の一方通行の道が旧東海道。

案内用の道標が設置されている。

そこから多摩川方向を望む。蒲田方向に、細い道が残されている。

・・・

振り返る。

対岸の高層マンション。

     右から「リヴァリエA棟、B棟、C棟」(川崎市川崎区港町)。

      大田区側(「大田区東・南六郷)はグラウンドが何面も。

雑色(ぞうしき)ポンプ所。

※「雑色」は鎌倉時代宮中雑役を務めた地名だが、明治末期に六郷村に編入され、地名は駅名のみに残る

対岸は、「味の素」の工場群。

ジョギングする人、散歩する人、サイクリング・・・。

河川敷に下りてみます。

芦のそよぐ水辺。

多摩川の流れ。

 対岸は、「味の素」の工場群(川崎市川崎区鈴木町)。

※「鈴木町」(「京急大師線」の駅名にもなっています)のいわれは、帰途にします。

ナヨクサフジ。

          「多摩川」の河川敷で、これまでもよく見かけた花です。   

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その7。ブラシの木。海から7K・6K。六郷橋・左内橋。京成、東武、西武、小田急、東急、京王、そして京急。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-11 21:00:16 | 都県境を探ってみる

正面に川崎駅付近の高層ビル。

「多摩リバー50㌔(実際は、53㌔)残り4.5㎞た」。

            対岸には、「ラジオ日本」の電波塔。

    「海から7.8K」。

運動広場。ランナーが練習中。

四阿で小休止。 

                         隣に植わっている木が気になる。

「ブラシの木」。

マキバブラシノキ(カリステモン)属は、オーストラリア全域からニューカレドニアに30種が分布する低木から高木の常緑性花木です。ブラシノキの最大の特徴は花の姿で、ビンを洗うためのブラシそっくりの姿です。そこで英語ではボトルブラッシュと呼ばれます。庭木のほか切り花や枝ものとしても生産されています。日本で流通しているマキバブラシノキ(カリステモン)属には、ブラシノキの和名をもつスペキオスス(Callistemon speciosus)、ハナマキの和名でキンポウジュの別名をもつキトリヌス(C. citrinus)、シロバナブラシノキの和名のサリグヌス(C. salignus)、シダレハナマキの和名のウィミナリス(C. viminalis)があります。そのほか、ハナマキにはいくつかの園芸品種が流通しています。

(「みんなの趣味の園芸」HPより)

家の近所のお宅にもあります。見事!

鮮やかな真っ赤。満開です。

・・・

さて、

「海から7K」。

道路上に大書。「7.0→」。「利根川」では、よく見かけましたが、「多摩川」左岸では、初めて。

東海道線と京急線が並行。

「海から6K」。

    ゴルフ練習場の向こうに、都県境になる「六郷橋」。

右が東海道線。左が京急線。

橋のたもとにある「旧六郷橋」。

以前、来たときの記事を再掲。・・・

六郷橋脇(大田区側)の宮本台緑地にある1925年の橋門と親柱。
親柱。
橋門の柱の意匠。大正期のモダニズムがうかがわれる。
橋脇の手すり。
橋門上部。アーチが見事。
公園から多摩川方向を望む。
説明板。

ここには、「左内橋」(木造)の写真と1925年架橋の橋の写真がある。

※「左内橋」とは?

左内橋
 1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに橋を架けた。この橋は左内橋と呼ばれ、長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。それまで度々架けられていた橋と同様に、この橋も1878年(明治11年)9月に発生した多摩川の洪水で流されてしまう。ただ、左内橋は写真と浮世絵にかつての六郷の記憶として残されている。

(この項、「niftyホームページサービス」より)

 1984年12月、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。橋門の柱にはこのときの事故で亡くなった5人の氏名と、作家の森村桂による鎮魂の詩が刻まれたプレートが取り付けられている。

雄々しい五人の男たちへ
 星がひときわ美しくまたたいた翌朝、
 橋造りに命をかけた男たちが、
 星の国へいってしまいました。
 どうか、天国で、
 こんどは、虹の橋を造る仕事をして下さい。  森 村 桂

金子義男 菊池幸雄 小俣方一男 鈴木司郎 三宅郁夫 (1984・12・14)

・・・

「六郷土手駅」前の通り。

20年くらい昔、この近くに知人が住んでいたので、何度か下車した駅。当時とあまり変わらない印象。

京急線「六郷土手駅」。

次回は、いよいよ河口まで。

振り返って、ここまで利用してきた私鉄は、京成、東武、西武、小田急、東急、京王、そして京急

東京近郊の私鉄を北東から北西へ、そして南西から南東へ、順繰りに利用してきた感じ。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その6。矢口橋。矢口の渡し跡。多摩川大橋・国道1号線(第2京浜)。電波塔。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-10 20:56:51 | 都県境を探ってみる

散策路の案内図。川べりにあります。

         朽ちたような標柱。草むらにポツンと。

「矢口橋」。

          「矢口ポンプ所排水樋管」。

       

「多摩川大橋」が下流に。

橋のたもとの川べりに、

「矢口の渡し跡」解説板。

新田義興(1331~1358)が、 矢口の渡しで討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、当時の多摩川は 今より東へ大きく湾曲していたと考えられる。
 江戸時代に、 平賀源内により浄瑠璃「神霊矢口渡」が作られ、 歌舞伎でも上演されるようになると、この渡しは有名になった。
 渡し場は、流路の変遷と共にその位置をいくたびか変え, この付近になったのは江戸中期からであると考えられる。
 多摩川に数ケ所あった渡しのうち、ここは区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。

対岸を望む。

橋の中ほどに「神奈川県 川崎市」の標識が。

※「多摩川大橋」は、「国道1号線(第2京浜)」。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

流路が大きく湾曲しているところも。渡し場があります。(「矢口の渡し」)

                     2010年代のようす。↑が矢口ポンプ所樋管橋。

すぐ下流に並行する橋。

    東京電力とNTTが占有する専用橋3連のブルーのアーチ橋は、けっこうインパクトあり。

          

川べりの道を歩きます。

振り返る。

下流を望む。

            

対岸を望む。

                川崎市幸区「川崎競馬場練習馬場」付近?

左手に見えるのは、「アール・エフ・ラジオ日本・川崎幸(かわさきさいわい)放送局」の電波塔のようです。

写真を拡大して見ると、様々な形状の電波塔が立っています。

遠くに川崎市駅付近の高層ビル。

京急線「六郷土手駅」まで、あと少し。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その5。ハマダイコンが咲き乱れる土手。海から12K。高規格堤防区間。ガス橋。キヤノン。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-09 20:39:08 | 都県境を探ってみる

ゴルフ練習場。

「たまリバー 残り9.8K」。

ハマダイコンが咲き乱れる土手。

 

ハマダイコン(浜大根)は日本全国の海や川沿いの砂地に自生する多年草。野菜の大根と同じアブラナ科の植物ですが、ハマダイコン(浜大根)の根は細くて野菜のダイコンとは全く異なります。ハマダイコン(浜大根)は食用や漢方に用いられます。

花色は薄紫色から白色で、大根の花に似ています。花径は2㎝ほどです。草丈は30~70 cmくらいで、群生して咲きます。咲く前の花芽はお浸しに、葉は塩漬けや炒め物に使えるそうです。ハマダイコン(浜大根)の根は細くて繊維質が多く、野菜の大根のように美味しいものではありませんが、おろすと大根おろしよりさらに辛い大根おろしになると言われています。

ぷっくりしたエンドウ豆のような実(種)ができています。

     「海から12K」。

※これは「荒川」歩きで見かけた「ハナダイコン(花大根)」。

中国原産の帰化植物。日本へは江戸時代の1835年頃に鑑賞用として渡来したものが、戦後になって野生化し、全国に広がった。欧米では最も伝統のある園芸植物とされている。別名を「大紫羅欄花(オオアラセイトウ)」「紫花菜(むらさきはなな)」「諸葛菜(しょかっさい)」「だいこんの花」とも呼ばれる。特に中国ではこの植物を食用として栽培しており、三国志の諸葛孔明が戦闘の先々でこの種子を蒔き、食料となるよう栽培したことから「諸葛菜」と名付けられた。

               

・・・

「たまリバー50キロ 残り9.0㎞」。

左手に大きなマンション。

古い石柱(「11.4K」)。保育園児がお散歩中。

振り返る。

対岸の武蔵小杉のタワーマンション群が次第に遠くに。

左に、桜並木の道が。奥は、「キヤノン本社」棟。

振り返る。桜の時期はさぞかし。

「高規格堤防区間」解説板。

荒川や隅田川の一部にある「スーパー堤防」と同様でしょうか?

「たまリバー50キロ」案内板。

ガス橋。

多摩川に架かる「ガス橋」は、1929年(昭和4年)、東京ガスの神奈川の工場から東京へガスを送るために、東京都大田区・神奈川県川崎市の間で架設されました。
 
当初はエネルギーの供給という機能のみの「ガス導管専用橋」として計画されていたものの、両岸の地域住民により一般の人も渡れるようにしたいと要望があがり、点検用の仮橋を人が往来できるよう1メートルの幅を持たせる計画に変更し、1931年(昭和6年)9月に瓦斯人道橋となりました。
 
昭和はじめの大田区下丸子付近には、白洋舎、日本精工、三菱精機などの工場ができ、川崎に住む工場で働く人々にとっては、それまで多摩川を渡るには下流の六郷橋か上流の丸子橋の他は船で渡るしかなく、「ガス橋」は大変便利な橋として重宝されました。
 
一方、もともと人が渡ることを想定して計画されたものではなかったため、最低限の幅しか設けていなかったにも関わらず自転車で渡る人やリヤカーを引いて渡る人などもおり、たびたび争いが起こっては近くの店の店主が仲裁に入ることもあったそうです。「けんか橋」の別名もありました。
 
1950年代になると多摩川をはさんで大工場が続いて建設され、ますます増大してきた交通需要にこたえるため、車の通行が可能な新たな「ガス橋」に架け替えることが計画されました。・・・1960年(昭和35年)6月に完工しました。

「ガス橋」は幅12メートル、橋長388メートルの大きな橋に生まれ変わり、今でも神奈川と東京都を結ぶ重要な交通路として活躍しています。
橋の下部にはガス管が通されており、東京ガスのパイプラインの動脈となっています。

建設当時の写真。

(この項、「東京ガス」HPより)

        

この当時の工場も一部を残して移転し、跡地は、大きなマンションになっています。

                 

                     

             2010年代のようす。ガス橋付近。右手に「キヤノン」本社。

対岸。

多摩川清掃工場。

              

振り返る。右に多摩川清掃工場。

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東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その4。東京都水道局調布取水所。東急多摩川駅・多摩川園。丸子橋。東海道新幹線・横須賀線。(「都県境を探ってみる」。第21回目)

2023-05-08 18:33:02 | 都県境を探ってみる

森が多摩川に迫ってきます。

       釣り人。 

上流を望む。

東急線の橋梁。

手前には、

東京都水道局調布取水所」。

調布取水堰は、多摩川から取水した原水を調布浄水場および玉川浄水場に送る施設で、大田区田園調布に玉川水道株式会社によって昭和11年(1936)に完成した。

取水堰。 

東急線。左に「多摩川駅」。

多摩川園(たまがわえん)は、東京都大田区田園調布にかつて存在した遊園地である。現在の東急電鉄多摩川駅の駅前に正面入口があり、面積は約5ヘクタールであった。

1925年大正14年)12月23日に「温泉遊園地 多摩川園」としてオープン。同年には丸子多摩川花火大会も開始されている。園内には、飛行塔、お化け屋敷、メリーゴーランドの遊戯施設があり、菊人形展でも多くの客で賑わった。また多摩川駅の反対側の台地にも、付属施設として展望塔や「松の茶屋」が設けられた。入場者数の減少等により、1979年昭和54年)6月3日に閉園。・・・

1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年には、年間入場者数約100万人を記録した。そのころには観覧車、丘陵地に登るリフトと滑り台(大山滑り)、野球用軟球を玉に使ったバズーカ砲、ウヰスキーの樽を模した車体のジェットコースターなどの遊戯施設があった。南東側には大きな池がありボートも漕げたが、後に駐車場にするため埋め立てられた。また大規模な室内催事場「読売館」も設置され、夏季の納涼スリラーショー(お化け屋敷)、秋季の菊人形展が人気を集めていた。

しかし1968年(昭和43年)には道路交通への影響を理由に、京浜地域の大イベントであった丸子多摩川花火大会が中止され、観光地としての多摩川園周辺には痛手となる。1970年代には、遊園地に面する集合住宅の増加による近隣紛争や景観の悪化、世相の変化によるレジャーの多様化などから入場者も減少に転じ、周辺道路の渋滞に対する苦情もあって、1979年(昭和54年)6月3日に閉園した。

(この項、「Wikipedia」より)

対岸を望む。右に「新丸子駅」。

対岸のタワーマンション群。

取水堰を望む。

丸子橋。

丸子橋は、丸子の渡しがあった場所からおよそ200メートル上流に中原街道の新橋として1934年(昭和9年)に完成した。完成当時は片側一車線道路の橋で、その後、老朽化と交通量増大に対応するため、東京都と川崎市が共同で架け替え事業に着手し、2000年平成12年)5月に片側2車線の新しい橋への架け替えが完成した。これが現在の丸子橋である。

2002年(平成14年)に丸子橋北詰付近にアザラシのタマちゃんが出現し、マスコミで取り上げられ、見物客も訪れ賑わった。

様々なテレビドラマ等のロケ地としてよく使用される。また、丸子の渡しに通じていた中原街道旧道の坂道部分は桜坂と名付けられ、歌謡曲にも取り上げられて桜の名所となっている。

2013年(平成25年)4月29日未明、ウクレレ漫談家の牧伸二がこの橋の付近で投身自殺を図り死亡した。

丸子の渡し

古代から多摩川のこの地に丸子の渡しと呼ばれる渡し舟が存在した。府中市史によると承和2年(835年)には既に運航されていたとの記述がある。東京方面への唯一の交通機関だったが、悪天候の日には運航中止となるため、1884年(明治17年)から橋の建設のための運動が行われた

その後、架橋により丸子の渡しは1934年(昭和9年)12月に廃止された。2006年に地域住民により「丸子の渡し復活協議会」が結成され、2014年から年に一度「丸子の渡し」を再現するイベントが開催されている

(この項、「Wikipdia」より)

             

  

この先、下流に東海道新幹線と横須賀線の橋脚が見えてきます。

 

       

品川に向かう新幹線。 

新幹線橋脚。 

         「JR東海 立入禁止 新横浜保線所」。

右が新幹線、左が横須賀線。 

先に進みます。  

コメント
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