最近の東京地方は、変わりやすい空模様。朝方は、強い雨。そのうち晴れてきて、暑いくらいの強い日差し。すると、午後からは一転にわかにかき曇り、強い雷雨。それもつかの間、また晴れてきて・・・。
「男心と秋の空」「女心と秋の空」(どちらも相手から見たときの心変わりをたとえたものらしい)とは、世に言いますが、今や春の空もそんな感じです。でも、「女心と春の空」(男心でも可)では、ちょっとニュアンスが異なるような・・・。
旧江東橋。
さて、京葉道路・江東橋。大横川(今は親水公園)に架かる橋。西は、両国、東は亀戸へ。車の行き来の激しい幹線道路です。
この橋の歩道と車道との車止めは、マッチ棒をかたどっています。そのわけは?
錦糸町駅方向を望む。
江東橋の橋のたもとに、都立両国高校があり、京葉道路沿いのフェンスの内側に、 「国産マッチ発祥の地」と刻まれた黒御影石の記念碑が建っています。表には、当時のマッチ箱のラベルも描かれています。今の時期、植え込みのあじさいの陰に隠れてあまり目立ちませんが、立派な碑です。石川県金沢出身の清水誠が、フランス留学から帰国後、1876(明治9)年に、この地(本所柳原)に「新燧社」を設立して、本格的に国産マッチの製造を始めた、という。
両国高校にある碑。精妙なラベルが描かれています。
それ以降、全国に続々とマッチ製造工場ができ、2年後には初めて輸出されました。その後 明治から昭和初期にかけてマッチの輸出は黄金時代を迎え、 太平洋戦争前まで続きました。戦後になってからは、広告マッチが流行し、生産量が拡大していきましたが、1970年代より使い捨てライターが急速に普及し、マッチの生産量も急減して、今ではほとんど見かけなくなりました。そういう歴史があって、江東橋には頑丈なマッチ棒が並んでいるのでしょう。
そこで、再び、少し蘊蓄を。
5月12日は、「マッチの日」。国産マッチの開祖・清水 誠は明治2(1869)年にフランス留学し、パリ工芸大学で理工科系科目を習得しました。ここで学んだことが、マッチの開発に役立つことになります。そこで、フランス留学のため清水 誠が横浜港を出航した日の5月12日を「マッチの日」としたわけです。
1975(昭和50)年5月12日(創業100年)には、亀戸天神社境内に、震災などで壊れたままだった「清水誠顕彰碑」が再建されました。その碑には、細かないきさつが述べられています。
さらに蘊蓄を。
マッチの国内生産の80%は、姫路地域。まさに地場産業の一つ。。そのHPより。
日本製のマッチは種類の豊富さ、品質やサービスに優れている為、世界各国からの広告マッチの受注が多いです。現在日本マッチ生産量の2割は輸出向けで、主にヨーロッパ、米国に輸出しています。
マッチの需要は減少傾向にありますが、業界では早くから経営の多角化を図り、かつてマッチ産業が育てた土地・技術・販路の資産を有効に活用し、消費者のニーズに沿った商品の開拓に取り組み複合産業へと展開しています。
マッチ製造で培った印刷技術を生かした分野としては、各種印刷事業、紙器の製造、生活日用品雑貨への名入れ、土地を活用した分野としては、テニスクラブ・スポーツ施設・駐車場などを展開し複合産業へと発展しています。
明治維新直後、失業士族救済、国内産業振興のため、全国各地にマッチ工場がつくられました。
兵庫県では姫路の就光社、尼崎の慈恵社が設立されましたが明治10年~20年に起こった経済恐慌には持ちこたえる事が出来ませんでした。そのため職員がそれぞれ「独立」をし神戸、大阪にマッチ工場をつくり、日本を代表する貿易港である神戸港からマッチが輸出されるようになりました。神戸で造船・鉄鋼・ゴム製品などの工業が発達するとマッチ生産の中心が西へ移動し、現在は姫路地域で国内の約80%を生産しています。
兵庫県の姫路地域の地場産業として発展した理由。
1.日本を代表する神戸港に近く「原材料の輸入」「製品の輸出」に有利。
2.雨が少なく温暖な「瀬戸内海性気候」が乾燥工程の多いマッチの製造に適していた。
3.新しいものに取り組もうとする「播州人」の気質があった。
4.地域に工場が少なく、働きたい人が多かったので人を集めやすかった
(電子じばさん館HPより)
江東橋の南。
大横川沿いの本所入江町に、本所・深川のまちまちに時を告げる、「時の鐘」がありました。近くには北辻橋、南辻橋、新辻橋という三つの橋があり、まとめて鐘を打ち鳴らす撞木(しゅもく)から「撞木橋」と呼ばれていました。撞木橋跡は北辻橋のことで昭和63年6月に撤去されていますが、「時の鐘」の記念碑が残っています。(資料:墨田区文化観光協会)
大横川親水公園の向こうには、東京スカイツリー。
「勝海舟揺籃の地」の碑。江東橋を少し南に下った建設会社入り口にある。
揺籃とは幼児期のこと。この辺りが当時の勝家屋敷でした。勝の生誕の地である男谷家を出た勝家はその後→天野右吉の敷地→山口鉄五郎の敷地と引越し、その後に移り住んだのがここ。旗本・岡野孫一郎の敷地です。3回目の引越し先で、4度目のお屋敷の跡。なお、40歳代頃の銅像が、隅田川河畔の墨田区役所にあります。
京葉道路。中央の植え込みは、都電線路の跡地。錦糸堀車庫(現在は、丸井のビル)から出た都電は、錦糸町駅前の行き先別にたくさんあった停車場を経て、東西南北、縦横無尽に走っていました。
両国方向を望む。
番外。錦糸町駅南口・墨田ハローワーク付近。どういうわけかかなり前からある「トーテムポール」。
正面の店がかつての「くじら屋」さんの跡? 両国高校生御用達の店だった、らしい。安い鯨肉が食べられた(小学校の給食のおかず定番が「鯨の竜田揚げ」の時代。渋谷には「くじら屋」が今でも健在のはず)。先生と先生が出くわすこともしばしばだった、とか。石田衣良さんたちの世代にはあったのかしら。