おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都電荒川線・三ノ輪橋駅

2012-05-31 22:25:42 | つぶやき
 都電荒川線。多くの都電路線が廃止された後、唯一、都内で現存する路線。大部分は専用軌道で、車道と区分されていない区間は明治通り(国道122号)上に設けられた王子駅前 - 飛鳥山間(王子駅から王子の坂をカーブしていく)のみ。二つの路線を統合して、「荒川線」と改称された。
 ということで、終点の三ノ輪橋駅に行きました、ただし、自転車ですが。都電荒川線そのものは、早大前の「早稲田」~「王子駅前」とか「町屋駅前」~「あらかわ遊園前」などは利用したことがありますが、三ノ輪橋駅、実は、初めて。長年にわたって、地元の人たちの都電を愛する、大切にする気持ちの表れが感じられる駅と駅周辺。駅を囲むようなたくさんのバラ。丹精込めて育てている、下町の心意気を感じました。
色とりどりのバラ。今、満開の時期。
駅入り口。
駅の周囲は、バラ、バラ、バラの花づくし。見とれてしまうほど。本当にすばらしい。
駅に通じる写真館の建物。昔のままなのは、このコンクリートの壁くらい?
駅の正面。左が降車ホーム。右奥が乗車ホーム。
降車ホームに着いた電車。思ったよりも頻繁に発着しています。
すぐ脇の商店街。アーケードが長く続き、元気いっぱいの商店街。
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隅田川・桜橋。ちょっとぶらり。

2012-05-30 22:01:57 | 隅田川

 午後になると、一天にわかにかき曇り。激しい雷雨。その後はすっきり晴れて。夜中には豪雨。めまぐるしい天気が続く東京地方。南風が北風に変わって暑さ、寒さに右往左往。我が家の猫も何だか落ち着かない。
 そんな中、ついつい晴天に誘われて自転車でぶらり。隅田川に架かる桜橋。下流は吾妻橋、上手は白髭橋。隅田川も大川と称せられるように、ゆったりと流れています。昭和30年代、40年代。青少年時代。工場汚水と生活汚水の垂れ流しで、汚れきった川になって悪臭をはなっていた川だったのを、つい鼻を曲げるほどの、あの悪臭とともに思い出します。当時は、どこの河川もひどくて、葛飾区内を流れる綾瀬川なども、汚れ度日本一、二を淀川と争っていたことも・・・。隔世の感があります。
 春の花見、夏の花火・・・。土手沿いにのんびり散策できる環境に感謝です。
 写真は、桜橋からの隅田川下流方向。豊かな水の流れです。
桜橋からのスカイツリー。
墨田区側。見番通り。かつての(今も)向島の料亭街への道筋。「須崎会館」の「須崎」は、かつての旧町名。左手奥の方に料亭がある。夕方になると、一頃は、小粋な芸者衆の姿や行き交う人力車、どこからともなく聞こえてくる三味線の音色など風流な雰囲気でしたが、最近はそのあたりをぶらつくこともない。果たして今は・・・。
墨堤通りに入ってすぐ。野口雨情の碑。
「序詞 都鳥さへ・・・」道路の向かい側は、「言問団子」。平安時代の歌人・在原業平が隅田川で詠んだ都鳥の歌にちなんでつけられたという。見番通りと墨堤通りの合流点近くにある古びたコンクリートの柱は、昭和の初めに作られた国旗掲揚塔。
「正岡子規仮寓の地」の碑。
「長命寺の桜餅」で有名な「山本や」の二階に仮住まいをしていたことがあるとか。
 桜橋を渡ると、台東区。隅田公園の一角で公演をしていた「平成中村座」も5月27日で千秋楽。後片付けの真っ最中。
そのあたりからのスカイツリー。
あじさいがきれいでした。

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読書「カフカ寓話集ー池内 紀編訳ー」(岩波文庫)

2012-05-29 22:29:59 | 読書無限
 編者の後書きにもあるように、「寓話」にはとくに強い意味はない、とのことです。しかし、短編のそれぞれに、カフカらしい寓話性を持ち合わせています。カフカ短編集の第2冊目。「断食芸人」も含まれています。
 ほんの短い断片のようなものからちょっと長めのものまで。1900年代の前半、25歳の時から結核で死ぬ40歳まで15年間に生み出された作品は、多く生前には日の目を見なかったものばかり。寝食を削り、文字通り命がけで書き連ねた作品は、死後に出版された。生前は、ほとんど無名の作家。人生や世界への不安、期待、挫折、憤り、葛藤・・・、そうしたカフカ的世界が一躍脚光を浴びたのは、戦後。
 意味深く謎めいた言葉に紡ぎ出された作品の数々は、今も世界中の人々に愛読されています。編者の池内さんは、「野心家カフカ」と命名していますが、いずれ自分の時代がくると固く信じていた「もの書き」カフカの小品が楽しめます。
 不気味でいて何となく愛嬌のある不思議な動物たちの登場、それとの関わり合う主人公や隣人の姿は興味深い。代表作「変身」にもつながるものがあります。
 さらに権力(者たち)への屈折した反発、親・きょうだいへの愛と憎しみ、そうした現代的な課題・本質を見抜いた文学者としての得意ぶり(面目躍如)が読者に伝わってきます。
 30にも及ぶ短編作品。いずれも今もなお存在感のあるものばかりです。
カフカの絵。本書の口絵として、7点収められています。ペン画で戯画風なものが多い。意味を問われると、ごく私的な「象形文字」だと答えた、という。

 ジャンルは異なりますが、日本の宮沢賢治は、ほぼ同時代の人。1896(明治29)年 - 1933(昭和8)年。彼もまた生前は、ほとんど無名の人でした。ふとそんなことを思い出しました。
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読書「穴」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-28 20:55:31 | 読書無限
 カフカつながりで。カフカ「断食芸人」。長谷川四郎「鶴」。ゴーリキー「二十六人とひとり」。それぞれ読み応えのある作品。
 断食芸人。断食、檻の中で飲まず食わずで座り続ける芸。しかし、見世物としてもてはやされた時代はすっかり去り、今や落ちぶれてサーカス小屋の檻に入っている。見物客もなく、それでも矜持を失わない男。最後に藁くずと一緒に葬られてしまう。「美味いと思う食べ物が見つからなかったからなんだ。見つかってさえいればな、世間の注目なんぞ浴びることなく、あんたやみんなみたいに、腹いっぱい食べて暮らしていただろうと思うけど」これが最後の言葉。
 フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、常に不安と孤独の漂う独特の小説作品を残した。生前は『変身』など数冊の著書が一部に知られるのみだったが、死後、「死後は書簡を含め自作のすべてを焼き捨ててくれ」と頼まれた友人マックス・ブロートによって、未完の長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が発表されると、ブルトン、サルトル、カミュなどの実存主義文学者、哲学者から注目され、一躍、世界的なブームとなった。現在では20世紀文学を代表する作家と見なされている。「変身」「城」など、おもしろい(興味深い)小説に接した人も多いはず。
 この「断食芸人」では、カフカ自身の、自分を取り巻く世界への屈折した思い・寓話的世界を描いているといえる。
 日本では、「飢餓術師」という邦題で長谷川四郎が訳し、出版されたことも。
 その長谷川四郎。大学卒業後、南満州鉄道に勤めるが、35歳で召集され、対ソビエト監視隊員として国境線の監視所に派遣されるが、昭和20年8月15日、突撃寸前、玉音放送で終戦を知る。武装解除の後、シベリヤに抑留。こうした経験が、作品に色濃く反映されている。
 「鶴」は、国境線の監視所、塹壕の小さなのぞき穴からみた世界を描く。最後は、敵の砲撃によって自らの血の海に沈んでいく。現実的な緊迫感と奇妙な開放感が混じり合った作品。
 マクシム・ゴーリキー(1868年3月28日 - 1936年6月18日)。ロシアの作家。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦しい人」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者で社会活動家。
 家具職人の子として生まれる。10歳で孤児となった後、話が上手であった祖母に育てられる。祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年の自殺未遂事件の後、ロシアの各地を職を転々としながら放浪する。その後、地方新聞の記者となる。1892年にトビリシで、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗った。1895年、『チェルカシュ』を大衆雑誌『ロシアの富』に発表。1898年にはペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行し、一躍人気作家になった。1899年、散文詩『26と1』、最初の長編物語『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。1902年、代表作である戯曲『どん底』を発表し、同年モスクワでコンスタンチン・スタニスラフスキー(リアリズム演劇、演出・演技方法のメソッド創設者として名高い)の演出で上演され、翌1903年、ベルリンでも上演された。
 「二十六人とひとり」は、1899年に書かれた。カザンのパン製造工場での体験を元にした作品。短編の醍醐味を味わえる。薄暗い地下室でパン焼きに明け暮れ、疲れ切った男たちのささやかな希望をつなぐ、一人の若い女性。果たして結末は?

さてまったくの余談。
ポケモンの一つ、ゴーリキー。???
他のポケモンも含めて、ネーミングは実におもしろい。タネ、進化系など多彩。次々と生みだしていくんですから。
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JR上野駅不忍口。5月25日。午後7時。

2012-05-27 19:25:56 | つぶやき
BENが久々に会おうかというんで、ここまで来たけど、それも10分前からいるのに、誰も来ない。

いったいどういう連絡になっているんだろうね。

「不忍口」、間違いない。日比谷線からの「通路」、間違いない。こうして白い柱のもとに立ってる俺って何なの?

高校時代の仲間だから久しぶりにいいかなって、それにSFも来るっていうし、ま、あまり好きなタイプじゃなかったけれど。

何よりもあのURUKAが来るっていうから、わざわざやってきたんだが。

あっ、思い出した!あの人から、昨日のうちに都合が悪いってメールがあった、ちょっと気分がなえてきた。

7時、約束の時間だ。だいたい金曜日の上野なんかどこもいっぱいで、さっと入れる店なんかないのに。
相変わらずいい加減なやつだ。学校の先生をやってるって聞いたけど、ちゃんと勤まっているのかねえ。

おい、ここにいるのが見えないか、ってあそこで話している二人、一人は白髪、何だか輝くような白さのじいさん、もう一人は背広姿の若そうなやつ。

あいつらかな? ちょっと声でもかけてみるか。
でも、駅の方ばかり向いて、何だか熱心に話しているみたいだし、待ち合わせているって感じだが。いったい誰を待っているのかな。

俺? ここにいるって。気づかない感じ。こちらから声かけるのもしゃくだしっていうか、間違えたら俺のプライドが傷つく・・・。

もう15分過ぎた・・・。人がいっぱいで誰が誰やら、何しろ卒業して40年も経つ。
お互い様子も変わっているし、すぐには分かるわけないよ、たぶん、俺たち。

この前、偶然、電車の中で会って、久々!元気か!なんて声かけられたのが、運の尽き。
あいつ相変わらず調子いいから、今度会おう、って。つい、乗った俺がバカだった! 

仕事をはしょって来たのにこの仕打ちはないだろう。いったい、どこにいるんだ、君たちは。俺は、ここ、白い柱のところにいるからさ、気がつけよ。

ま、高校時代から存在感が薄かった俺だから・・・。って、今さら、ここでいじけてどうするって。

おや、もう一人加わったぞ、禿げたおじさん。たしか女性も入れて4、5人って言ってたから、そうかもしれないな。JIっちゃんとかUDUとか、あとは忘れた! でも、あんなつるつる頭のおやじは知らないぞ。TSUBAかな? それにしても、見事になくなったもんだな。

しょうがないな、人はいっぱいだし、そろそろ忍耐も限界、メールしてみよう「10分前から待っているけれど誰も来ないので縁がなかったということで、帰ります」と。・・・

おや、3人のうちの2人がこちら側に移動してきたぞ、あいつらかな? それにしても白髪のじいさんと禿頭じゃ、どうもお目当ての人ではないようなあるような・・・。白髪のじいさんがさっきからちらちらこっちを見ているが、俺は知らんぞ、あんなおじいさん。SFだったらいくら年取っても、もう少し若い感じだし・・・、おい、そうじろじろ見るなよなって。

おや、駅側に残った男がしきりに携帯をいじっているが、俺のメールでも読んでいるのかな、しきりに「不忍口」を見上げているし・・・。あいつかも知れないな、ではちょっと声でもかけてみるか。

いや待て、さっき「もう帰ります」って送っちゃったし、今さら、のこのこ声かけるのもしゃくにさわるなあ。赤の他人だったらもっとカッコ悪いし。

もう知らん!今日は気分がすぐれないから帰ろうっと。「縁がないと思って帰ります。今度は、古希の時に会いましょう」っと。そうそう、返信が煩わしいから、電源は切ってしまおう! あとは知らないよって。

久々の年寄り同士の集い。もうお互いに老けてきて、何十年の歳月が顔も体型も大きく変化してしまった。それはそう、18歳頃とは大違い。上野駅の雑踏で待ち合わせ、というのに無理があった。
 
名札でも付けてくるとか、今の自分の写真を事前にメールしておくとか、服装・かっこうを事前に打ち合わせするとかがよかった、という反省しきりの上野駅不忍口。25日夜7時45分。ちょっと小雨が降ってきた、途中で飯でも食って帰るか、しょうがないから。

ま、こういうこともあるさ。いつか会える、懐かしい友人たちだから。それまでお互い、元気でいようや。もしかしたら、さっきの3人だったかも知れないけどさ。じゃあ、バイバイ。 



 


 
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都営浅草線・本所吾妻橋駅。ぶらりと。

2012-05-26 16:51:00 | つぶやき
 昨日は、東京スカイツリーがオープンして4日目。小雨に煙るスカイ・ツリー。それでも、大勢の見物客が訪れています。電車なら、東武線の「とうきょうスカイツリー」(もとの業平橋)駅か京成線・半蔵門線・東武線・都営浅草線が乗り入れている「押上(スカイツリー前)」駅が下車駅。浅草~スカイツリー~錦糸町駅などの路線バスや区内巡回バスなども出ていて、交通手段は豊富。自家用車で行って駐車場探しで苦労するよりも、楽。
 ところで、都営地下鉄浅草線の「本所吾妻橋」駅。押上駅と浅草駅との間の駅で、スカイツリーにも遠くないのに、今ひとつ存在感が薄い、と思うのです。
 エスカレーターはなく、階段は狭くて急。すれ違うのも大変な上、いつも地上口からは強い風が吹き抜ける。ホームも狭くて暗く、ちょっと薄汚い感じ。かつて、都営地下鉄の駅の中で、汚さではワースト・ワンと言われたことも。その後、化粧直しなどしましたが、シミが残っているような模様のタイルなので、やっぱりきれいな印象は? 
 不名誉返上で、今、エレベーター工事を盛んに行っていますが、さていつ完成するのやら。下り方面はまだしも、上り線の方はちょっと設置場所が離れているような・・・。
 でも、駅の付近。三ツ目通り(水戸街道から続く)と浅草通りの交差点。押上駅・浅草通りの商店街の閑散ぶり(今はどうやら持ち直しているようですが)に比べて、賑やかな商店街のはず。隅田川に架かる吾妻橋を渡れば、向こうは浅草、という地の利。以前からしゃれたお店も多くあったような気がします。行き交う人で賑やかな表通りからちょっと路地に入ると、まだまだ素敵な雰囲気の食べもの屋さんがあります。
 東京スカイツリーの足下、春雨の中、そんな横町の通りすがりの散策。
浅草通りと区役所通りの交差点。「行幸記念・・・」と刻まれた低く古い柱が一つ。隅田公園の桜を天皇が訪れた時の記念? おそらく明治天皇とは思いますが、いつなのか年月の文字も薄れています。どうしてこの場所なのかも不思議です。
民宿のようです。外国人向け?
墨田区では「小さな博物館」があちこちにあります。これもその一つ「小さな硝子の本の博物館」。古今東西、硝子に関する本がたくさん展示され(750冊)、手にとって見ることができます。風鈴などの硝子製品の展示やら何やら。墨田区や江東区などの下町では、「江戸切り子」が今でも作られています。若い女性が留守番代わりにいました。
魚屋さんのお店。隣では、昔ながらの魚屋さん。まさか、あそこで今、包丁をさばいているおじいさん(失礼)が夕方からはお隣の魚料理を担当している?
創作ダイニング(和食)の店。以前は、緑に覆われ目立たず、さりげない感じの店でしたが。
立ち飲み屋的な雰囲気のお店。全国の焼酎、純米酒など豊富に取りそろえ、その場でも飲める、らしい。
会員制の店、だった。いつも分厚い板でできたシャッターが下ろされ、時々お客さんの出入りを見かけました。昼時、開いていて中にお客さんがいるのには、びっくり。ランチタイムには営業していたのですね。通好みの店、という感じでした。
質屋さんの一角。びっしり青々としたツタで覆われ、窓も何も全く埋もれています。ツタの凸凹でしか建物の外形が想像できない、という徹底ぶり。
区役所のそば、間口一間ほどのこじゃれた二階家。二階部分は斜めに切ってあります。いったい間取りはどうなっているのでしょう。 
三つ目通り沿いの店。「みがき」専門店。店の中には、ぴかぴかの金属製品が・・・。みがくための道具類を扱っている、らしい。
三つ目通り、源森橋からのスカイツリー。ちょうど東武の日光・鬼怒川行きの特急電車が通過中です。
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「ブンナよ木からおりてこい」(水上勉)

2012-05-25 19:33:50 | 読書無限
「大脱走」ペンギン、82日ぶり保護…外傷なし(読売新聞) - goo ニュース
 葛西臨海公園の水族館から脱走?したというニュースを目にした時、すぐに水上勉の「ブンナよ木からおりてこい」が浮かびました。ずいぶん前に、劇団青年座の芝居を観た時の内容をです。
 
 跳躍力に優れ、木登りも巧みなトノサマガエルのブンナは、ちっぼけな池で暮らすのに飽き足らなくなり、新天地を見つけようと周囲の反対にも耳を貸さず、土の広場となっている椎の木の頂上に登っていきます。しかし、天敵のヘビなどがいない天国に思えたその場所は、トビの餌の保管場所でした。そこで、ブンナは、自分たち蛙の敵だと思っていたスズメ、モズ、ヘビなどが、泣いたり悔やんだり、怒ったり、諦めたりしながら、最後にはトビに食われ死んでいくところを目の当たりにします。そして敵だと思っていたネズミから、トビは死んだ獲物は食わない、自分の死んだ後、体から虫が湧いてくるからそれを食べて生きろと言って命を助けられます。ブンナはそれを食べて地上に降りる時を待ちます。椎の木の頂上にひとり生き残ったブンナは、蛙の仲間につらかった体験を話して聞かせると同時に、自分達は皆、生きるために他の生きものを食べているんだと、みんなの生命はつながっているのだから大切に生きなければならないと皆に語りかける。
 生き延びた自分は、他の動物の生命により生かされていること、そして、すべての生き物が生命の尊さを抱えて生きていることにブンナは気づく。

 もちろん、このペンギン、ブンナとは大違い。まだ幼く、性別もはっきりしない、とのこと。ひょんなことから外界に飛び出したにすぎないでしょう。東京湾や江戸川には外敵もなく、えさも豊富、さぞかし自由を満喫した? かな。でも、仲間に外界の自由ですばらしい(本当は必死で餌をあさっていたのかもしれない)様子を語って聞かせたら、ブンナのようなペンギンが出てくるとも限らない。
 少しの不自由さを我慢すれば、餌も豊富な水族館の方がはるかにましだ、と長老のペンギンは語って聞かせるでしょうが。

 「ブンナよ木からおりてこい」。もともとは、1972(昭和47)年に『蛙よ木からおりてこい』という題で新潮少年文庫シリーズから刊行されましたが、劇団青年座が1978(昭和53)年に脚本化し上演した時、今のようなタイトルになりました。
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読書「カフカ式練習帳」(保坂和志)文芸春秋

2012-05-24 23:18:22 | 読書無限
 カフカ(1883~1942年)は、長編を大判の四つ折ノートで執筆する一方、短編にはより小さい八つ折ノートを宛て、短編の他にも多くの書きさし、断片、アフォリズムなどを記していたそうです。
 そうしたカフカが残した文学(手法)に長年、なれ親しんできた作者。そこで、自らと自分にまつわる家族、友人、猫たちに囲まれ、支えられてきた(支えてきた)そうした人生の感慨(断片)を、カフカにならって手元に置いたノートに、あるいは携帯メールに書き綴ってきたものをまとめて(とはいえない風にして)小説的、随想的で独自な世界を作り出しています。作者の小説作法の根幹(こだわり)が垣間見られる作品になっています。
 初出は、「文学界」の2010年1月号~2011年12月号。ということは、昨年の3・11をはさんでの連載だった。大地震と大津波、それに福島原発事故。
 それらに対して、津波から逃げ延びた親子の体験談が一つ引用されていますが、「大地震の日にもうジジは生きていなかった。」から始まる文章があるだけです。(ジジは、スマトラ沖大地震では、異常なほど激しく反応した。)
 しかし、妻と何度も交わしたこの言葉は、誰のために何のために言われたのか、と。何度も反芻していく中で、ジジの生前、悪化する容態を前に、「生きていない方が楽だね」とは思ったことはない自分に気づく。そこから、生きること(他者が生きていること)と死ぬこと(他者の死に直対すること)を思い、、生と死をへだつこととは何か、というように(とりわけ自分自身と肉親たちの)世界と人生に思いをはせていきます。
 猫にまつわる話もたくさん。その多くは愛する猫との別れ。作者自身に関わるかどうかを考えつつ、手抜きできない、多くの猫たちへの思い入れ、眼差しは、時には人間への愛の感覚をさえ越えるほどです。
 それに比べて、犬には・・・。「目の前にいたチワワが、デジタルの画像が乱れるように乱れた。気持ち悪かった。」ちょっと言い過ぎ? でも、猫好き・犬嫌いの私は、同感しましたが。
「私の外延は私の知らないところでどこまで欲望のいいなりなのか? 私は私の外延のしていることを予感することしかできない。」この世の生きとし生けるものとの「閾」を常に感じつつ生活する作者ならではの感慨。
 カバー写真が、一瞬の間に通り過ぎる、人生という(過去・現在・未来という)、持続すると思っている「時間」を刹那に切り取った、意味深い写真になっています。ことわざに、「白駒(はっく)の隙(げき・ひま)を過ぐるがごとし」(白馬がせまいすきまの向こう側を通り過ぎる)というのがありますが、そんなイメージを感じました。
 ついでに、カフカには、「書くことは、祈りの形式である。」という名言が残っています。
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読書「絆」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-22 21:17:08 | 読書無限
 「絆」。3・11以来、いろんな場面で用いられようになった。未曾有の大惨事を経験して、犠牲者への深い鎮魂の心と日本の復興・再生のために、互いに一致協力して「がんばろう」。その合い言葉。
 「絆」とは、断つことのできない人と人との結びつきをいう。「ほだし」とも。 もともと、馬などをつなぎ止めるための綱のことで、転じて、自由を束縛するものという意味を持っていた。「断とうにも断ち切れない」という意味合いが強く、「しがらみ」という言葉が適切な感じ。現在、頻繁に用いられる「絆」には、人と人との結びつき、その肯定的側面ばかりが強調されているが、人間同士の結びつきには、人(互いに)に苦をもたらす一面があることも・・・。
 今回の海音寺潮五郎、山本周五郎。二人とも時代小説家(大衆小説家)として今でも人気を博している。もう一人のコナン・ドイルもシャーロック・ホームズシリーズで世界中に愛読者がいる。そんな3人の短編の中から「絆」という括りで採りあげられた。
 それぞれの物語から、人間どうしの友情、信愛、思いやりが長い年月の経過の中で醸成されてきたもので、生半可なものではないことを伝えてくれている。時には信頼していた相手への不信感、また相手の心根を斟酌する度量のなさ、自暴自棄、余計な束縛感、しがらみ、それでも疑わない心・・・、そうした数々の互いの葛藤を経て、「絆」が成り立ってくる不思議さ。「絆」というものが、その時限りの心の作用ではないことを示している。
 昨今の世相は移ろいやすく、人々の心も気まぐれ。「熱しやすく冷めやすい」のが常とはいえ、TV・マスコミを中心に、政治家や評論家たちの、次々と大向こうを狙う言動に振り回され、ことの本質が見えにくくなって(見えにくくさせられて)、いつしか「絆」という言葉が指し示した理想・目的は曖昧となりつつあるように感じる。もともとそのことば自体、軽い内容・本質ではないことを思い知らされる。
 「善助と万助」(海音寺潮五郎)。「山椿」(山本周五郎)。「五十年後」(コナン・ドイル)。
 
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金環食。5月21日。

2012-05-21 18:23:28 | つぶやき
 東京地方、予報では曇り空。金環食、果たして観察できるか。朝7時過ぎ。薄雲が広がる中、太陽が右上の方から欠けてくるのがはっきりと見えました。次第にあたりは薄暗く、心なしか涼しい風が吹き始めました。期待に胸ふくらませていると、7時30分頃、見事な金環食。すっぽりと月に隠され、まさに金環食。太陽と月と地球上の自分(たち)が一直線に並んだ瞬間でした。
 二度とは見ることができない、世紀の瞬間を肉眼でとらえられ、すばらしいひとときでした。それもつかの間、月が太陽の左下に移動し、9時過ぎには、すっかり元の姿を見せました。
 小学校の子どもたち、今日は少し遅れての登校。8時30分頃から、近所の子どもたちの登校風景が見られました。
 素人カメラマンでは世紀の瞬間をうまく撮れないらしく、まして携帯では難しい。でも、めげずにパチリ。でも、何が撮れたのだか。三日月型の木漏れ陽は何とかうまくいったかな。トップの写真は、近所の公園で撮影した。
庭先の木漏れ日。何となく欠けた太陽に見えますが。
孫がじいさん用に買ってくれた観察用めがね。パンダというのがご愛敬です。6月6日、金星が太陽の表面を通過するとのこと。その瞬間も、これで見られるそうです。
欠けている途中の写真。光が強すぎて何だかよく分からない。
金環食の瞬間。でも、光が広がってしまいました。
我が家の猫たちも不安そうに外を見ていますって、ただ窓が開いたので外に飛び出そうか迷っているだけ・・・。外では、カラスが何羽も鳴き騒いでいますって、ただゴミ収集車がきただけ・・・。
すっかり戻りつつある太陽。光が反射して見にくいですが、よく見るとまだ左下が欠けています。
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読書「影」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-19 16:19:59 | 読書無限
 影。「ふと忍び寄る」というような修飾句をセットで(実に月並みですが)思い浮かべます。「死の」影。「疑惑」の影・・・。「夕闇に浮かぶ」とかは、直接的ですか。
 今回の三話とも、そうした、ふと浮かび上がってくる「影」がキーワード。第1話。ロレンスの「菊の香り」。
 炭鉱で働く夫の思いもかけない死。子どもと身重の自分を残して死んでしまった夫への思い。いつものように不満を抱きつつ飲んだくれの夫を待つ自分。不安が夫の死という現実となって襲ってくる。肉体の生と死をへだつ、深淵。性的な関係を昇華する生者と死者という関係。
 死体となって運ばれてくる夫を待つ「部屋の中には菊のひえびえとした死のような匂いが漂っていた。」菊の花の匂いが死の匂いを暗示しています。
 次の内田百の「とおぼえ」。
 師である漱石の「夢十夜」などにもある、夢幻的な世界。友人を見舞っての帰り道、薄暗い道を歩く恐怖から明かりの灯る氷屋に立ち寄る。その主人の不思議な言動につい引き込まれていく自分。
 かつて墓場で見た人魂の話、死んだという夫のために焼酎を買いに来た女、とりまく色彩の基調は、「青」。どこからか犬の遠吠え。次第に不安になって、自分がもしかしたら墓の中からさまよい出た亡霊のように感じ始める。深夜の寂しい道での一人歩き、犬の鳴き声、異界に住んでいるような人物たち・・・。
 第3話は、永井龍男の「冬の日」。
 女の子の出産と同時に死んでしまった娘とその夫。二人を引き取って暮らしていた母親が、2年後、再婚を決意したその男と孫との生活にきまりを付けて、一人、家を出て行く。そのために、年末に畳替えを頼む。仕事の合間でのその職人と息子とのやりとり、縁談の仲立ちをした佐伯の友人二人、それぞれ、さまざまな思いを込めて年が明けていく。
 2歳の孫娘、同居した当時42歳の登利と30歳の佐伯という男女、2年間でこの二人に何があったか? 読者の邪推を予想して、作者は、佐伯の友人たちの会話に忍び込ませている。「・・・今度佐伯と一しょになる女性が一枚加わって、佐伯とお袋の関係を嗅ぎつけたら、というふうにね」そうした読者の「邪悪」な(あるいは図星な)詮索をよそに、元日の夕日が沈んでいく。「床の間に供えられた小さな鏡餅には、もう罅が入っているようであった。」
 「影」という括りがはまっている三話でした。
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江東橋界隈。ちょっと。

2012-05-18 21:53:17 | つぶやき
 最近の東京地方は、変わりやすい空模様。朝方は、強い雨。そのうち晴れてきて、暑いくらいの強い日差し。すると、午後からは一転にわかにかき曇り、強い雷雨。それもつかの間、また晴れてきて・・・。
 「男心と秋の空」「女心と秋の空」(どちらも相手から見たときの心変わりをたとえたものらしい)とは、世に言いますが、今や春の空もそんな感じです。でも、「女心と春の空」(男心でも可)では、ちょっとニュアンスが異なるような・・・。
旧江東橋。
 さて、京葉道路・江東橋。大横川(今は親水公園)に架かる橋。西は、両国、東は亀戸へ。車の行き来の激しい幹線道路です。
 
この橋の歩道と車道との車止めは、マッチ棒をかたどっています。そのわけは?
錦糸町駅方向を望む。
 江東橋の橋のたもとに、都立両国高校があり、京葉道路沿いのフェンスの内側に、 「国産マッチ発祥の地」と刻まれた黒御影石の記念碑が建っています。表には、当時のマッチ箱のラベルも描かれています。今の時期、植え込みのあじさいの陰に隠れてあまり目立ちませんが、立派な碑です。石川県金沢出身の清水誠が、フランス留学から帰国後、1876(明治9)年に、この地(本所柳原)に「新燧社」を設立して、本格的に国産マッチの製造を始めた、という。
両国高校にある碑。精妙なラベルが描かれています。
 それ以降、全国に続々とマッチ製造工場ができ、2年後には初めて輸出されました。その後 明治から昭和初期にかけてマッチの輸出は黄金時代を迎え、 太平洋戦争前まで続きました。戦後になってからは、広告マッチが流行し、生産量が拡大していきましたが、1970年代より使い捨てライターが急速に普及し、マッチの生産量も急減して、今ではほとんど見かけなくなりました。そういう歴史があって、江東橋には頑丈なマッチ棒が並んでいるのでしょう。

 そこで、再び、少し蘊蓄を。
 5月12日は、「マッチの日」。国産マッチの開祖・清水 誠は明治2(1869)年にフランス留学し、パリ工芸大学で理工科系科目を習得しました。ここで学んだことが、マッチの開発に役立つことになります。そこで、フランス留学のため清水 誠が横浜港を出航した日の5月12日を「マッチの日」としたわけです。
 1975(昭和50)年5月12日(創業100年)には、亀戸天神社境内に、震災などで壊れたままだった「清水誠顕彰碑」が再建されました。その碑には、細かないきさつが述べられています。
 さらに蘊蓄を。
 マッチの国内生産の80%は、姫路地域。まさに地場産業の一つ。。そのHPより。
 
 日本製のマッチは種類の豊富さ、品質やサービスに優れている為、世界各国からの広告マッチの受注が多いです。現在日本マッチ生産量の2割は輸出向けで、主にヨーロッパ、米国に輸出しています。
 マッチの需要は減少傾向にありますが、業界では早くから経営の多角化を図り、かつてマッチ産業が育てた土地・技術・販路の資産を有効に活用し、消費者のニーズに沿った商品の開拓に取り組み複合産業へと展開しています。
 マッチ製造で培った印刷技術を生かした分野としては、各種印刷事業、紙器の製造、生活日用品雑貨への名入れ、土地を活用した分野としては、テニスクラブ・スポーツ施設・駐車場などを展開し複合産業へと発展しています。
 明治維新直後、失業士族救済、国内産業振興のため、全国各地にマッチ工場がつくられました。
 兵庫県では姫路の就光社、尼崎の慈恵社が設立されましたが明治10年~20年に起こった経済恐慌には持ちこたえる事が出来ませんでした。そのため職員がそれぞれ「独立」をし神戸、大阪にマッチ工場をつくり、日本を代表する貿易港である神戸港からマッチが輸出されるようになりました。神戸で造船・鉄鋼・ゴム製品などの工業が発達するとマッチ生産の中心が西へ移動し、現在は姫路地域で国内の約80%を生産しています。
 兵庫県の姫路地域の地場産業として発展した理由。
1.日本を代表する神戸港に近く「原材料の輸入」「製品の輸出」に有利。
2.雨が少なく温暖な「瀬戸内海性気候」が乾燥工程の多いマッチの製造に適していた。
3.新しいものに取り組もうとする「播州人」の気質があった。
4.地域に工場が少なく、働きたい人が多かったので人を集めやすかった
                                           (電子じばさん館HPより)

江東橋の南。  
 大横川沿いの本所入江町に、本所・深川のまちまちに時を告げる、「時の鐘」がありました。近くには北辻橋、南辻橋、新辻橋という三つの橋があり、まとめて鐘を打ち鳴らす撞木(しゅもく)から「撞木橋」と呼ばれていました。撞木橋跡は北辻橋のことで昭和63年6月に撤去されていますが、「時の鐘」の記念碑が残っています。(資料:墨田区文化観光協会)
大横川親水公園の向こうには、東京スカイツリー。
「勝海舟揺籃の地」の碑。江東橋を少し南に下った建設会社入り口にある。
揺籃とは幼児期のこと。この辺りが当時の勝家屋敷でした。勝の生誕の地である男谷家を出た勝家はその後→天野右吉の敷地→山口鉄五郎の敷地と引越し、その後に移り住んだのがここ。旗本・岡野孫一郎の敷地です。3回目の引越し先で、4度目のお屋敷の跡。なお、40歳代頃の銅像が、隅田川河畔の墨田区役所にあります。
京葉道路。中央の植え込みは、都電線路の跡地。錦糸堀車庫(現在は、丸井のビル)から出た都電は、錦糸町駅前の行き先別にたくさんあった停車場を経て、東西南北、縦横無尽に走っていました。
両国方向を望む。
番外。錦糸町駅南口・墨田ハローワーク付近。どういうわけかかなり前からある「トーテムポール」。
 正面の店がかつての「くじら屋」さんの跡? 両国高校生御用達の店だった、らしい。安い鯨肉が食べられた(小学校の給食のおかず定番が「鯨の竜田揚げ」の時代。渋谷には「くじら屋」が今でも健在のはず)。先生と先生が出くわすこともしばしばだった、とか。石田衣良さんたちの世代にはあったのかしら。
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読書「清遊」(領家髙子)実業之日本社

2012-05-17 23:17:17 | 読書無限
 「清遊」俗塵を離れた静かな旅行・遊び。
 古い写真が織りなす家族の物語。いっとき前の福永武彦風の小説。辻邦生でもありそう。よく仕立てられた展開になっています。
 中国・大連から東京・隅田川の東、押上。世田谷から湯島。そして、八ヶ岳山麓。それぞれの土地を結びつけていく一枚の写真。拒食症。脳梗塞のため半身不随になった夫、かなり年の離れた若い妻の献身的な介護。その奥底に潜む女としての性。突然、家出し行方知らずになった一人娘に思いを寄せる、老境にさしかかった夫婦。
 様々な思いを抱く主人公たち、中国の大連がそれらを次第に結んでいく。引用された原口統三の「海の瞳」の一節が効果的。ちょっと下火の「ブログ」が狂言回しになっているのがおもしろい。おさまり方がちょっとおざなりな印象。しかし、読後感はさわやかです。こうした読書三昧も、まさに「清遊」ですね。
 二人の隠れ家がとなった長屋風の建物群は、すっかりなくなり、今はもう、東武鉄道の本社屋と大きなマンションになっています。もとは、東武鉄道の社宅だった、と思いますが。線路を挟んだ向こうには「東京スカイツリー」が天空に向かって伸びています。開業間近の押上・業平橋界隈です。
 余談ですが、この方は、小池昌代さんや石田衣良さんと同じく、墨田区江東橋にある都立両国高校の出身です。
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子規記念野球場、奏楽堂、・・・上野公園散策。

2012-05-16 21:39:28 | 歴史・痕跡

寛永寺参道脇。壊れたままの灯籠。葵のご紋入り。
寛永寺の本坊の表門。修復中。慶応四年の彰義隊の戦争により焼失し、現在はその表門だけが往時の姿を留めていて、現在でも官軍の攻撃による弾痕(だんこん)が数多く残り、戦争の激しさを偲ばせている、らしい。
せめて案内板だけでもパチリ。周囲は木々に囲まれ、その脇には、小さな花が咲いていました。
正岡子規記念野球場。公園の真ん中にある草野球場。公園内のベストポジションにあることに、曰く因縁がありそう。
 ここで少し蘊蓄を。
 歌人、俳人で名高い正岡子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889(明治22)年に喀血してやめるまでやっていました。ポジションは捕手。幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことも。
 「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚という人物ですが、読み方(のぼーる)は異なりますが「野球」という表記をすでにその4年前に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規だそうです。
 また、「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしています。ちなみに、子規は2002(平成14)年に野球殿堂入りをしています。そういう因縁があるのでは、簡単に草野球場をつぶすわけにはいきませんね。
記念碑。「春風や まりを投げたき 草の原」(子規)。
ついでに、俳句と短歌をご紹介。
・柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
・春や昔十五万石の城下哉
・をとゝひのへちまの水も取らざりき
・鶏頭の十四五本もありぬべし
・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
・いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
・足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
旧東京音楽学校奏楽堂。日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされる。現東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の演奏会場として、1890(明治23)年に建設された。老朽化のため、1983(昭和58)年に台東区へ譲渡され、台東区は解体・修理後に上野公園内へ移築を行い、現在、一般公開されている。1988(昭和63)年1月、国の重要文化財に指定された。
建物の傍らにある滝廉太郎の銅像。
摺鉢山古墳。東京文化会館の西側裏手にあるこんもりとした山。摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円形式の古墳と考えられている。現存長70メートル、後円部43メートル、前方部幅は最大で23メートル。後円部の道路との比高は5メートルである。現在、丘の上は休憩所となっているが、昔のままに摺鉢の形を保っている。
前方後円墳と見えなくもないが。
階段を登ると、休憩所(頂上)。
遠目からみたもの。古墳とは気がつかず通り過ぎてしまいそうです。
科学博物館脇のD51蒸気機関車。反対側は、シロナガスクジラ。取り合わせがよく分かりません。

 現在、科学博物館では、マチュピチュ発見100年記念「インカ帝国」展を開催中。これはおもしろそうです。
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京成電鉄「博物館動物園駅」跡。

2012-05-15 19:57:08 | 鉄道遺跡
「博物館動物園駅」。1933(昭和8)年、上野駅まで京成本線が開通したのに合わせ、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、東京科學博物館、恩賜上野動物園や東京音樂學校・東京美術學校(現在の東京芸術大学)などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少のため、1997(平成9)年に営業休止、2004(平成16)年に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存する。
 相対式ホームで、上下線で互い違いにホームが設置されていた。改札口は上りホーム側に設置されていた。地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館の敷地内と上野動物園旧正門へ続く2か所があった。
 前者は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古く、営業休止時まで供用されていた。後者は、昭和40年代に現行の動物園正門が開設されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。
 地下の壁面には東京芸術大学の学生が描いたとされる「ペンギン」「ゾウ」の絵画がある。最後まで木製の改札ラッチが使われていた。大規模な改修を受けなかったため、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く残していた。また、自動券売機が設置されなかったため、当駅発行の乗車券は駅員による手売りであった。
 ホームや通路は薄暗く、壁はむき出しのコンクリート、さらには戦前、戦中、戦後にかけての長い営みを経てところどころで煤けていた。改札からホームへ向かう階段の途中にトイレが設置されていた。
 当駅の休止にあたって、「記念乗車券(ありがとう博物館動物園駅 営業休止記念乗車券)」が発売され、5枚セットの各硬券乗車券には、ホームや改札、ペンギンの絵画など、当駅の特徴あるイメージが添えられていた。
 休止・廃止された理由として、ホームの有効長が短いため、京成では最も短い4両編成しか停車することができず、その4両編成でさえも先頭車両の端の部分はホームからはみ出している状態だった。はみ出ている部分には列車と壁の隙間に台を設置して対応していたが、このことが安全面で問題になっていた。
1981(昭和56)年以降、普通列車の一部が6両編成になったことで停車する列車本数が減り、乗降客の多くが南隣の本線の終着駅・京成上野駅を利用するようになった。同駅からの距離は0.9kmと近い。
 休止直前は営業時間が7時台から18時台までで、1時間に1本も列車が停車しない時間帯があった。駅員は一人勤務であり、駅員の休憩時間確保のためにこのようにしていた。さらに、開業以来本格的な修繕がなされていないため、老朽化が進んでいた。自動券売機や自動改札機が設置されておらず、改修や維持に大規模な投資が必要だった。
 乗降客数が最も多かったのは、1972(昭和47)年に中国からジャイアント・パンダが上野動物園に来園し、その後に起こったパンダブームの頃と言われる。
 現在、駅舎(地上部分)である西洋式建物の地上口には、廃止となってから「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲示された。この地上口は扉こそ閉じられているが、休止前と変わらない。
 地下施設のホームや改札も休止前の状態を保っており、列車が通過する際のわずかの間に見ることができる。上下線とも進行方向左側を眺めていると、地下道、地上への階段、案内表示などがそのままであるのがわかる。非常灯が点灯しているが暗めである。
 1991(平成3)年頃から「上野の杜芸術フォーラム」(2003年よりNPO法人)を中心に「M in M」(Museum in Metro)と称し、西洋式建物を含めた地下施設の保存・再生を提案している。なお、営業休止以降も西洋式建物については定期的にクリーニングを行っている。また、毎年9月から10月頃にかけてこの界隈で開催されるイベント「art-Link 上野 - 谷中」にも度々当駅を利用した企画が行われている。
1995,1996年の3月には、駅構内をアート空間として照明・音響・映像などの演出を試みる『光と音のインスタレーション』というイベントが催された。
2010(平成22)年12月から駅舎取り付けの照明灯が復元された。電球はLEDのものを使用している。
                                                (以上、ウィキペディアを参照)

 子どもの頃、親に連れられて、あるいは小学校の遠足で、上野動物園や博物館に行くのに利用した記憶があります。上の記事のように、薄暗く、何だか空気が淀んだような臭いがして、子供心にもあまり利用したくない駅でした。長じてからは利用した経験がありません。上野駅の方で降りた、というよりも動物園などにも行かなくなったということでしょうか。
 ただし、当時の京成上野駅も今のこぎれいな雰囲気の駅・ホームとは違って、地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だった。
 帰りの電車。出発して右に左にカーブを繰り返し、スピードを出し始め、あっという間の通過ですが、ホームがはっきりと見えました。明かりが灯されて黄色の柱、壁も見えたような・・・。
ひっそりとした佇まい。気がつかない通行人も・・・。屋上の部分の彫り物も、西洋風。
博物館側の出口。
動物園側の出口。
東京都美術館本館の建物と道路を隔てた場所にある。現在何に使われているか不明。出入り口、窓はすべて封鎖されている。
旧駅舎壁面のプレート。
京成電車。かつて走っていた電車の色調。今も4両編成。




 
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