おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京葉線「市川塩浜駅」往復。その2。干潟・三番瀬(さんばんぜ)。江戸川右岸先端。(「江戸川」を歩く。第7回目。)

2022-04-24 20:10:11 | 江戸川を歩く

目の前が開けてきます。

                  「三番瀬(さんばんぜ)」。水面は深くなさそうで、さざ波に。

西の展望テラス解説板。

三番瀬のエリア。中央に航路がある。

「三番瀬」というと、「潮干狩り」などで賑わう、船橋市にあるエリアしか思っていませんでした。

習志野・市川・浦安も含む大きな干潟なのですね。

                      

現存する三番瀬は、浦安市の埋め立て地の東沖に位置する江戸川(江戸川放水路)の河口付近の干潟および浅海域を指し、市川市船橋市習志野市の沿岸に接する。東端には船橋航路や千葉港があり、西端には猫実川河口や日の出新浦安駅付近)の埋立地が広がる。埋立が進む以前は、より西側の旧江戸川河口付近まで干潟や浅海域が広がっていた。

旧江戸川から供給される土砂によって、旧江戸川河口一帯の前置斜面の前浜干潟および浅海域に広く干潟や浅海域が形成され、現在の三番瀬は、その一部が埋め立てを免れて現存している状態である。

江戸川(江戸川放水路)河口の沖合いにある深さ6.5メートルの市川航路によって中央部で分断されており、東半分を「船橋側」、西半分を「市川側」と呼ぶこともある。東西5700メートル、南北4000メートルの範囲に広がっており、水深1メートル未満の面積は約1200ヘクタール。水深5メートルまでの海域を含めると面積は約1800ヘクタールに達する。千葉県企業庁によれば、以浅の範囲は陸岸から沖合3 - 4キロメートルの広い範囲にまで広がっており、海底勾配は1/1000程度と非常に緩やかな勾配で傾斜している。大潮時に干出する面積はそのうち140ヘクタール。

三番瀬の付近には、谷津干潟行徳湿地(行徳鳥獣保護区・行徳近郊緑地特別保全地区・市川野鳥の楽園・宮内庁新浜鴨場)などの干潟や水辺などが散在する。

(この項、「Wikipedia」参照)

右手に干潟が見える。

もう少し先まで行きます。

東側にある展望テラス。

市川航路を大型船が行き来。

      

      遠浅の海。

この先で行き止まり。

行徳漁協の許可を得て、先に。

やっと目的地まで。対岸を望む。↓が前回歩いた「左岸」の先端。

右岸の先端からの「江戸川」。

東京湾。

小さな漁船が出航。

              

目的を果たし、戻ります。

松林が続く道。

帰り道。干潟が広がっています。

右手にある会社の正面にモニュメントが。

             「boundary rift」高山夏希

「・・・ところで今あなたの目の前にうつる海はどうだろう」

        

干潟。

    何羽もの水鳥の姿が。

干潟が大きく広がる。

              

岩場のようなところも。

     

来た道を振り返る。

こうしてJR「市川塩浜駅」へ戻ってきます。

赤い線が歩いた道筋。

歩いて、往復約2時間でした。

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京葉線「市川塩浜駅」往復。その1。松林。大型物流施設。漁港。行徳漁業協同組合。干潟(三番瀬)。(「江戸川」を歩く。第7回目。)

2022-04-23 18:13:37 | 江戸川を歩く

                         松林が続きます。

   

      海浜を意識した趣。

4月19日(火)。晴れ。

というわけで、またまた江戸川放水路右岸の河口探索にやってきました。

                     2010年代のようす。

「江戸川放水路(現江戸川)」歩きの時は利根川の分岐から右の○、左岸の突端まで歩きました。

今回、左の○のところまで行こうと思います。右岸の突端とみなして。

最寄り駅は「市川塩浜駅」。周囲は大型の工場や物流施設が並んでいる地域です。

    

左奥に江戸川放水路。

やっと海がみえるところへ。

港湾施設になります。

左に折れると、漁港が続きます。

         

左手は「GLP・MFLP市川塩浜」。 

大小たくさんの漁船が係留されています。

        

猫の姿が。 

東京湾への出入り口。 

                       干潟が広がっています。

対岸は、新浦安地区。

市川市行徳漁協漁具倉庫。

ブロックごとに係留。 

            

干潟が広がる東京湾。

             

中央、はるか遠くには市原の工業地帯。

左手はMFLP市川塩浜II。

    これら物流施設の向こう側(北側)は大きな港になっています。

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その4。葛西臨海公園その2。あれこれ。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-22 20:30:08 | 江戸川を歩く

          

何回か来ていますが、この辺りまで歩くことはありません。

解説板。

ここは遠浅の海でした

昔の東京湾は豊かな海でした。ハゼ・キスなどの魚やアサリ・シジミなどの貝がたくさん生息していました。それと同時に、たくさんの野鳥たちも集まってきました。しかし、埋め立てや公害のために生きものたちが生息する場所は、だんだん少なくなってしまいました。

ここ葛西の海は東京湾に残された数少ない干潟で、野鳥の集まる場所として知られていました。この鳥類園は、失いかけた自然を取り戻すと同時に、野鳥観察の場として造られました。野鳥とは野生の鳥のことです。人間が近づくと怖がって逃げてしまいます。あせらずに遠くからそっと双眼鏡や望遠鏡などで観察しましょう。野鳥も学習します。野鳥が「人間は怖くない」と知ればもっと近くで観察できるようになるでしょう。「おどかさない、近づかない、行動を妨げない」の3つのルールを守って観察しましょう。

この掲示板が設置されてどれくらい経過したが分かりませんが、現状はどうなのでしょうか?

     

パークトレイン。

東京水辺ライン発着場。

     

              写真は、東京ゲートブリッジ。

公園案内図。

芝生広場。

           

左に「西なぎさ」。

「西なぎさ」へ。

                中央遠くに「東京ゲートブリッジ」。

          

左は「ディズニーリゾート」。

西に砂浜が広がります。

         

葛西なぎさ橋。葛西臨海公園駅へ。

          

JR「葛西臨海公園」駅。

大観覧車(ホームから)。

これで、旧江戸川両岸の河口付近歩きを終了。

そういえば、江戸川放水路。左岸はクリアしましたが、右岸の方は?

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その3。旧江戸川右岸河口付近。葛西臨海公園。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-21 20:19:17 | 江戸川を歩く

                    

舞浜大橋の下を通って葛西臨海公園側へ。

通路にはペンギンやイルカなどのイラストが。

舞浜大橋の下流に出ました。

               ここは、葛西臨海公園内(裏口? から入った)。対岸は、ディズニーランド。

右手の角が現在の河口の末端?

この付近の今昔。

1880年代のようす。※この南側は地図が掲載されていない(海になる)。

     2010年代のようす。

西を望む。東なぎさ。

       

対岸は、ディズニーランド。

      

突端から東京湾を望む。 

この付近が旧江戸川の河口とみなし、

葛西臨海公園内を歩きます。久々の訪問です。

               

解説板。

野鳥と自然環境

野鳥たちは豊かな自然環境の中で生活していました。しかし、都市化が進むにつれ、林や草原がなくなり、水辺も少なくなりました。都市の中から野鳥たちが逃げ出しています。「自然の豊かさのバロメーター」とも言われる野鳥を再び呼び戻すために、私達ができることはどんなことなのでしょうか?

葛西臨海公園鳥類園には野鳥たちが快適に生活できる環境が作られています。人工なぎさや人工干潟には鳥たちのエサとなるカニやゴカイ類が住みつき、渡りの途中のチュウシャクシギやメダイチドリなどが利用できる採餌場となります。

           

    

遠くに「葛西臨海水族園」のドーム屋根と「大観覧車」。

※「葛西臨海水族園」

地上30.7メートルにもなる大きなガラスドーム。
この下では、2,200トンのドーナツ型の大水槽で群泳するクロマグロや、国内最大級のペンギン展示場で泳ぎ回るペンギンの姿など、600種を超える世界中の海の生き物たちを見ることができます。

※「大観覧車」

高さ117m、日本最大級の観覧車です。晴れた日には東京スカイツリーや東京タワー、海ほたるなど東京近郊の名所や遠くは富士山まで望むことができ、夜にはロマンチックな東京都心の夜景を鑑賞することが出来ます。

                 (この項、「葛西臨海公園」HPより)

鳥類園。

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その2。なぎさニュータウン。旧江戸川河口付近。舞浜大橋。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-19 20:31:04 | 江戸川を歩く

                  釣り人がチラホラ。

対岸は、見明川。

なぎさニュータウン。

河川敷の原っぱ。

          

散歩する人や釣り人がいます。川面。

「健康の道」。

                「舞浜大橋」、「京葉線」橋脚。

対岸は、「ディズニー」エリア。

河口らしい雰囲気に。

「旧江戸川」の標識。

上流を望む。

この付近の今昔。

                                               

1880年代のようす。         1970年代のようす。         2010年代のようす。

クランク状の堤防の位置にはあまり変化がなさそうです。水田が宅地化され、住宅地に。江戸川には4本の橋脚が。

今回は河川敷を歩いたので、道路は「確認できず。

そこで、2013年に歩いた時の記録を再掲。

ほぼ直角に曲がった道路。海岸堤防もこうなっていました。

の部分。

その曲がり角には土盛りのままの高台が、堤防の西側に幅広く残っています。

こんな感じ。「ゴルフ禁止」の立て札がありました。

上流を望む。

下流を望む。鉄橋はJR京葉線。
来た道を振り返る。

・・・

その後、この付近も護岸工事が進み、現在は、整備され遊歩道になっています。

 

舞浜大橋。 

遊歩道はここまで。

            

             橋脚は左から一般道、首都高湾岸線、一般道、そして京葉線。

この付近の水面はあまりきれいではなさそう。青黒く濁っています。

        

この先は「葛西臨海公園」のエリア。

向こう側に行くために、いったん堤防上へ。

        葛西臨海公園の大観覧車が見えます。

対岸の浦安を望む。

南葛西のマンション群。

「健康の道」案内板。

振り返る。

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その1。雷公園。左近川。なぎさ公園。オオバン。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-18 20:35:41 | 江戸川を歩く

今回は、「旧江戸川」右岸(西側)歩き。右岸河口の「葛西臨海公園」まで。途中は省略して、東京メトロ・東西線「葛西」から「旧江戸川」に向かいます。

旧江戸川は、以前、「舞浜大橋」から「今井橋」経て新中川まで、自転車で遡ったことがあります。

今回。ところが、この付近の堤防は護岸工事のため、立入禁止。堤防下を歩くことに。

「雷(いかずち)公園」を過ぎ、「島忠」や「イトーヨーカドー アリオ」の脇を通り、「左近川親水緑道」のところへ。

※「雷公園」

旧江戸川の土手に隣接している公園。「いかずちこうえん」と読む。自然の高低差をそのまま活かして整備されており、園内にあるローラー滑り台は、少し高くなっている南東から勢いよく滑り降りる、子ども達に人気の遊具。園内に植樹されている桜の木のうち、1本は薄緑色の花を咲かせる「御衣黄(ぎょいこう)」という桜。ソメイヨシノの花が終わった5月頃に、その珍しい花を咲かせる。

HPより)

この付近は、かつては水田。周囲には自然堤防が連なり(「江戸川」の氾濫原)、上記のような高低差があったようです。

                                                                        

1880年代のようす。                       2010年代のようす。中央に「雷公園」。

左近川親水緑道。

※「左近川」は、かつては東京湾(袖ケ浦)に注いでいた。

1880年代のようす。

2010年代のようす。周囲はすっかり都市化。

※「左近川親水緑道」

川のせせらぎと緑が豊かな親水公園。

「なぎさ公園」の北側から南西の方角に流れ、「海岸水門」を経てからはさまざまなレクリエーション施設のある大きな水上公園風になる。

(「今昔マップ」より)
明治中・後期のようす。

赤い線が「左近川」、黄色い線が海岸線。

2013年(平成25)に歩いた時には、「海岸水門」が残っていました。かつての「左近川」河口。東京湾最奥、「海岸堤防」のおへそのような位置? その時の掲載記事を。

旧堤防(現・都道450号線)からの「海岸水門」。


「海岸水門」。右方向が「新左近川親水公園」。

「海岸水門」。往時を偲ぶ遺構。

コンクリート製の頑丈なつくり。ゼロメートル地帯の高潮・水害を防ぐ機能を持っていた。


道路をはさんだ「左近川」側に残る「海岸水門橋」の遺構の一部。

水門越しには埋め立て地に建てられた建物群。

※「海岸水門」は、2020年3月、再整備されて遺構として残されています。

・・・

なぎさ公園。

ここで、やっと土手の道に上がることが出来ました。

対岸は、千葉県浦安市。

河川敷は工事中。

なぎさポニーランド。

なぎさ公園。

水上ステーション(船着場)。

上流・対岸遠くに「堀江ドック」。

       江戸川区側・この付近にも「堀江町」があります。

河口に向かって歩き始めます。

眼下の草原にオオバンの群れ。

オオバン

頭をフリフリ泳ぐ真っ黒い鳥    白い額がトレードマーク

全長39cm。全体は灰黒色で額とくちばしは白色です。足は緑青色。「キュイッ」と聞こえる声を出します。陸上を歩くこともありますが、水上生活が多く、すばやく水上へ逃げていきます。「水鶏(にわとり)」と書いてクイナと読みますが、名の通り、その種類の多くは水辺の草やアシの中にすんでいます。このオオバンも、クイナの仲間ではいちばん大きく、太っています。黒いからだに白いおでこ、というモノトーンのしゃれた配色で、西洋では、その色彩やら身のこなしから美や雅(みやび)のシンボルとなるいっぽうで、白い頭部の連想から、英語で「額がハゲあがっている」ことをas bald as a coot(オオバン)といいます。池沼に生息していて、40年前は関東より北で繁殖していましたが、近年増加の傾向にあり、日本中で見られています。「|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動」HPより)

                 (「Wikipedia」より)

※千葉県我孫子市の「市の鳥」となっています。

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その6。舞浜海岸遊歩道(続き)。トイ・ストーリーホテル・・・。そして、舞浜駅。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-17 20:18:48 | 江戸川を歩く

左手に目新しい建物。

              東京ディズニーリゾート・トイ・ストーリーホテル。4月5日にオープンしたばかり。

ここを4月7日に歩いたので、まさにオープン直後。

          

ディズニー&ピクサー映画『トイ・ストーリー』シリーズがテーマのホテル

東京ディズニーリゾート・トイ・ストーリーホテルは、ディズニー&ピクサー映画『トイ・ストーリー』シリーズがテーマのホテルです。
訪れたゲストが『トイ・ストーリー』シリーズのおもちゃの世界に入り込んだかのように感じられる遊び心のある工夫が散りばめられています。
              (写真を含め、「TOY STORY HOTEL」公式サイトより)
 
孫を連れて来ようかしら。宿泊費は、親持ちで。
 
ホテルオークラ東京ベイ。
 
振り返る。散歩する人が何人か。
 
東京湾。
 
シンデレラ城が左奥に。
 
 
ディズニーシーの裏手。
 
     
 
釣り人が一人。
 
   遠くには東京湾アクアライン「風の塔」(↓)。
 
※「風の塔」
 
 川崎市浮島の沖合約5kmに作られた直径約200m、深さ75mの人工島。上には、高さ90mと75mの大小2つの塔がそびえている。これらはトンネル内部の空気を排気したり、外から空気を送気したりするための施設です。
 
 
      こちらには、「東京ゲートブリッジ」(↓)が遠くに。
 
※「東京ゲートブリッジ」

江東区若洲大田区城南島間約8kmを結ぶ東京港臨海道路の一部で、全長2,618m(陸上部アプローチ橋を含む)のトラス橋である。水面(荒川工事基準面、A.P.)から橋梁最上部の高さが87.8m、海上を跨ぐ区間の長さが1,618m(横浜ベイブリッジレインボーブリッジの約2倍)で、RC橋脚の上部に3径間連続トラスボックス複合構造の橋桁が架けられ、4車線道路が設けられている。建設地が東京国際空港(羽田空港)に近く航空機の飛行ルート上にあるため、航空法により橋の高さに制限(98.1m以下)が課されている一方、東京東航路を通る大型船舶が航行可能な桁下の高さ54.6mを確保すべく、吊り橋斜張橋ではなく、三角形に繋いだ鋼材を組み合わせて橋桁の荷重を分散するトラス構造が採用された。また、支間長は440mで、日本国内のトラス橋としては、港大橋(同510m)に次ぐ規模である

  (「Wikipedia」より)

橋の特異な格好から「恐竜橋」とも。

行ってみたい橋ですが、自転車・歩行者は通行不可。「東京湾遊覧船」などから見られるかも知れません。

向こうは、千鳥海岸。
 
振り返る。
 
S.S.コロンビア号」レプリカ。

1900 年代の蒸気船。カクテル ラウンジと高級レストランがあります。

左にカーブする道に沿って、「舞浜駅」方向へ。
 
ディズニーシー駐車場。
 
右手には「浦安市 運動公園」。多様なスポーツが楽しめます。入口のモニュメント。
 
 
 
駅まではけっこう歩きます。平日ですが、大勢の人が歩いています。
 
 
右手にはホテルやショッピングモールが並ぶ。ディズニーアンバサダーホテル、イクスピアリ、ディズニーストア 東京ディズニーリゾート店・・・。
 
ディズニーアンバサダーホテル。
 
             
 
イクスピアリ。
 
舞浜「お上りさん」には、何がどういう店なのか、まったく分かりません。
 
ようやくJR「舞浜駅」に到着。
 
みどりの窓口には、長蛇の列。
 
駅前の案内板。
 
        右上の○が展望テラス(上が南方向)。浦安市は東北に大きく広広がっています(埋め立て地)。
 
ディズニーランド入場口。
 
駅の時計もディズニー仕様でした。
 
しかし、舞浜駅。ディズニーランドに入らず、また、ホテルにも買い物にも、仕事やスポーツにも関係なく、ただ歩いてきたという人間がはたして何人いるでしょうか?
 
後期高齢者が一人ぶらつくのも、また良しかな、と。ミッキーづくめの若い華やかな人々の姿を見つつ。
 
・・・
 
こうして、「旧江戸川」の千葉県・浦安側の河口、と思われる地点までやってきました。
 
ついでに、東京・江戸川区側の河口を探ってみようと、後日、歩いてみました。
 
次回からは、その報告を。
 
  
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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その5。ようやく河口付近に、しかし・・・。舞浜海岸遊歩道。東京湾。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-15 20:03:52 | 江戸川を歩く

上流方向。右に「見明川」。

「なぎさニュータウン」。

          

遠くに「スカイツリー」(↓)。

葛西臨海公園の大観覧車(↓)。

                    「舞浜大橋」と「京葉線」鉄橋。 

 

この付近の案内板。上空からの眺め。

舞浜大橋と京葉線。

左手奥にディズニーランド・リゾート地区。

土手歩きはここまで。

堤防沿いに進みます。旧江戸川や東京湾の展望はまったく出来ないまま。

      「TOKYO DisNEy RESORT」。

こうして左手にあるホテルなどを眺めながらの歩きとなります。

駐車場入口。

このずっと先に「舞浜海岸遊歩道」があるはず。そこまで行けば海がみえるかな、と。

              

旧江戸川の河口(「0㎞」標示)がどこにあるか、ということではなくなりそうです。

    埋め立ての進み方。○が旧江戸川の左岸河口の先端部分? (「今昔マップ」より)

裏手からの眺め。あれは何だっけ?

ディズニーランドの徹底したところは、外から(裏からも)まったく内部をうかがうことができない、ということ。

シンデレラ城も遠くからは見えていましたが、この辺りからはまったく見えません。たしかに「夢の国」仕立てなのですね。

盛り土した細道を歩く。

           高い防波堤のため、ここからも海は見えません。左手にはホテルが建ち並んでいます。

もう少し海寄りの道を。立入禁止ですが。

東京ベイ舞浜ホテル。

        こちらは?

ようやく遊歩道へ。やっと東京湾が見えました!

高層ビル群。

 葛西臨海公園。

               東京湾。

                     右手に「東京ゲートブリッジ」。

展望テラス。

そこからの眺め。

この辺りが旧江戸川・千葉県側の河口に当たるか?

モーターボートが快走。

この先は、遊歩道を東に向かって歩きます。

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その4。浦安市の歴史・発展。旧江戸川河口はどこ? 変なホテル。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-14 21:00:07 | 江戸川を歩く

       

この先に「堀江ドック」。回り込んで進みますが、その先の土手は工事中のため、立入禁止。そのため土手下の道を歩くことに。

                     2010年代のようす。堀江ドック周辺。

※「堀江ドック」=「堀江の船溜まり」。かつてはびっしりと船がとまっていましたが、老朽化に伴い数は少なくなりました。現在は、主に屋形船の乗り場として機能しています。(1966年に整備・完成)

この南東側、1970年代にはほとんど住宅がありません。

                     (「歴史的農業環境システム」より)                              

浦安一帯は急速に変貌していきます。

堀江排水機場。

左手には住宅が建ち並んでいます。

再び土手の道に。

                 対岸は、江戸川区東葛西。

上流を望む。

視界が開けてきます。

遠くに「東京ディズニーランドホテル」が見えてきます。

ここで、浦安市の歴史を。

明治22年、町村制の施行に伴い堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」が誕生しました。
当時の戸数は1040戸、人口5946人。その命名の由来は、当時漁村であった当地の漁浦の安泰を祈願する意味で、初代村長新井甚左衛門によって名付けられたといわれています。
また、一説には日本国は昔「浦安の国」と称したことから、この名を採用したともいわれています。

その頃の主な交通手段は、明治27年に開航した川蒸気船「通運丸」でしたが、大正8年には定期船「通船」「葛飾丸」が就航、浦安-高橋(江東区)間を約1時間半で結び、発着場となった「蒸気河岸」は大変な盛況ぶりでした。
その後、昭和15年に浦安-葛西間に浦安橋が開通するとともに自転車、自動車の普及が進み、60年余り浦安の重要な足として親しまれた船の交通は、19年に廃止されました。

明治42年9月「浦安町」がスタート。
昭和初期の浦安の産業は、のりの養殖やアサリ漁など水産業中心に栄え、境川や船圦川にはべか舟がひしめき合い、漁師町として発展しました。

一方では浦安の歴史は、さまざまな災害に立ち向かう歴史でした。大津波や大火によりいく度となく、まちは甚大な被害を受けてきました。

昭和19年には米軍の空襲に見舞われ、家屋の焼失など被害が相次ぎ、犠牲者を出しました。
戦後の混乱が続く24年8月31日、キティ台風の来襲による堤防の決壊や高潮の被害が続出し、家屋の倒壊・流出や農漁業などの産業にも凄まじい爪あとを残しました。

33年4月、本州製紙江戸川工場からの排水による魚介類の大量死滅が発生し、6月には工場に押しかけた漁民との間で大乱闘事件にまで発展しました。
この事件がもとになり、「公共水域の水質の保全に関する法律」などが公布。深刻化する漁場の汚染と京葉工業地帯土地造成のための海面埋め立ての進行を受け、37年漁民は漁業権の一部を放棄し、39年秋から海面埋立事業が本格化、住宅地造成などが進みました。46年には漁業権を全面放棄するまでに至りました。

44年3月、地下鉄東西線が開通し浦安駅が開業、東京のベッドタウンとして都市化が急激に進行しはじめました。
53年1月の首都高速湾岸線の一部開通によって道路のアクセスも良くなり、54年5月には人口5万人を突破。
56年3月第二期海面埋め立ての最終部分が終わり、市域が16.98平方キロメートルへ。
56年4月1日に念願の市制施行を果たしました。

58年4月、東京ディズニーランドが舞浜に開園し、新しい浦安のシンボルとなりました。
62年5月には人口10万人を突破、翌63年ベイエリアのホテル群がオープン。また、待望の京葉線が開業したことにより、ますます都心が近くなりました。
平成元年、浦安誕生100年の年にフロリダ州オーランド市と姉妹都市提携を果たし、着々と国際化を進めるなか、18年には市制25周年を迎えました。
その後も浦安市は、未来を見据えた都市計画を順調に進め、人が輝き躍動するまち・浦安を目指しています。

(この項、「」HPより)

※現在の浦安市の面積16.98平方キロのうち約74パーセントが海面埋立てでできた土地から成り立っている。

 

埋め立ての歴史。

(この項、「」HPより借用)大変参考になります。

しおかぜ緑道「富士山噴水」。

土手から本物の富士山が見えるそうです。今回は残念ながら見えませんでした。

この先「見明川(みあけがわ)」で行き止まり。

左手に「見明川」。

旧江戸川の最下流の浦安市富士見と浦安市舞浜との境界より分岐し、南東方向へ流れ三番瀬に注ぐ。舞浜地区の埋めたての際に川として残された人工河川で、川幅50m、コンクリート護岸の直線状の河道として整備された。汽水域であり、ニゴイ、ボラ、スズキ、ハゼなどが確認されている。(「Wikipedia」より)

「今昔マップ」より)

旧江戸川の河口。左岸は右の○付近、右岸は左の○付近。中央に「三角州」。

ということは、現在の「見明川」が東京湾と旧江戸川(左岸)との境界線だった可能性が。

実は、市川付近までは「海から○㎞」という標識があったのですが、上流の「広尾防災公園」にあった「東京湾5㎞」という標示からその先、全く見当たりませんでした。果たしてどの地点が「海から0㎞」なのでしょうか?

「見明川」脇を抜けて、「大三角線」通りに出て、橋を渡ります。その橋のたもとに「変なホテル」。

東京ディズニーリゾート®の最寄駅である舞浜駅から徒歩圏の「変なホテル舞浜 東京ベイ」。フロントでは恐竜ロボットで非対面チェックイン。客室にはコミュニケーションロボット「ロボホン」を全室設置。世界最先端のロボットが、皆さまの快適なホテルステイをサポートします。(「同」HPより)
(「Wikipedia」より)

ところで、「大三角線」通りのいわれは?

旧江戸川の河口に大きな三角州があったことから。その三角州を埋め立てたのが現在の舞浜地区。三角州の一辺が旧江戸川の本流で、もう一辺が旧江戸川から分流する人工河川の見明川。

※上図(「今昔マップ」)参照。

旧江戸川。

上流を望む。

「見明川」。

        この南には東京湾の干潟(三角州)・荒れ地が広がっていました。

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その3。蒸気河岸(がし)。通運丸。『青べか物語』。境川。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-13 21:05:04 | 江戸川を歩く

                      地下鉄東西線鉄橋。

「蒸気河岸」解説板。

このあたりは、かつて蒸気船「通運丸」の発着所があったところで、「蒸気河岸」と呼ばれていました。

通運丸は、明治10年(1877)内国通運株式会社によって運航された大型蒸気船で、東京深川や両国などから小名木川、新川を経て、江戸川・利根川一帯を定期的に運航していました。

大正8年(1919)には通運丸にかわり、東京通船株式会社(昭和3年に東京通運株式会社と改称)の定期船が、深川高橋(たかばし)から浦安を経由し行徳までを航行しました。高橋から浦安までの所要時間は1時間から1時間半でした。その後、葛飾汽船株式会社の経営する「葛飾丸」も営業を開始しました。これらの定期船を地元の人は、通称「通船」と呼んでいました。浦安から東京方面への行商や通学には、これらの定期船が利用されていました。

その後、葛飾汽船株式会社は、自動車の普及に伴い、経営が悪化してきたことから、昭和5年(1930)、東京通運株式会社に買収され、葛飾丸は就航を停止しました。さらに、昭和15年2月、浦安橋が開通し、昭和17年、東京市営バス(通称「青バス」)が浦安橋西詰まで開通したため、定期船の利用者は少なくなり、昭和19年に廃止されました。

※「通運丸」についてはこのBlogでも「利根運河」のとき(「利根川」を歩く)に取り上げたことがあります。

・・・

1915年(大正4年)の利根運河

・・・
1892年(明治25年)4月14日に内国通運会社(現在の日本通運)が、利根運河に初めて汽船の運河往復試運転を実施、1893年(明治26年)4月1日に銚子汽船(後の銚子通運会社、銚子合同汽船会社)が初就航し、銚子-東京間は6時間短縮された。1895年(明治28年)2月15日には、東京-銚子間の直行の汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

1896年(明治29年)12月25日日本鉄道土浦線(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。1897年(明治30年)6月1日、銚子-東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年(明治43年)頃までのわずか20年程度であった。

(この項、「Wikipedia」参照)

上記のように、「通運丸」は明治10年(1877)から大正8年(1919)まで、内国通運株式会社(現在の日本通運の前身)が経営した定期船。大型の蒸気船で、東京深川を起点とし、北関東、主に利根川や霞ヶ浦方面に広く航路を持っていた。東京-行徳航路として、浦安にも寄港した。

※「通運丸」は、車輪状の推進器を船の両翼につけた外輪船でした。

通運丸開業広告引札明治10年(1877) 山崎年信画

                         (「」HPより)

浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔のりと釣場とで知られていた。町はさして大きくはないが、貝の罐詰かんづめ工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして、魚釣りに来る客のための釣舟屋と、ごったくやといわれる小料理屋の多いのが、他の町とは違った性格をみせていた。
 町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海になっていた。交通は乗合バスと蒸気船とあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運航していて、片方の船は船躰せんたいを白く塗り、片方は青く塗ってあった。これらの発着するところを「蒸気河岸がし」と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場があった。

                                  (山本周五郎「青べか物語」より)

 

 

橋のたもとにある「船宿吉野屋」。「山本周五郎著『青べか物語』の船宿千本」と記され、登場人物のモデルになったようです。

青べか物語

根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作。

(この項「新潮社」HPより)

※1960年(昭和35)1~12月号《文芸春秋》に連載。作者の山本周五郎は昭和3年(1928)から1年余、浦安に仮寓していました。そこでの体験・見聞から生み出された傑作。

※「べか舟」

べか舟とは、のり採り舟のことです。

長さ12尺(3.6メートル)、幅2尺8寸(84センチ)位の薄板で造った小舟です。幅が狭いのが特長で、これはのり採りをするとき、棚の間隔4尺(1.2メートル)に入りやすくするためでした。

一人乗りで艫部に縛りつけた櫂で漕ぎます。のちに、機械化され、4馬力から5馬力の発動機を取り付け、のり採りは電気掃除機のような長い柄がついたモーター付きの採取機で、のりの網の上から吸い込んで行うようになりました。

(「」HPより)

「境川西水門」。

境川から見る西水門と東西線の陸橋は元町浦安を代表する景観として地元住民から親しまれています。水門の両側にある大桜は浦安の桜の名所の一つとして毎年見事な桜を見せています。

              境川。

※昭和30年代まではアサリやハマグリ漁、海苔の養殖などで隆盛を誇った潮の香が漂う漁師町で、市内を北西から南東に流れる川もかつて漁港の指定を受け、最盛期には千数百隻もの大小さまざまな漁船の基地となり、生活用水や消防用水に利用され、子どもたちの遊び場でもあって町の発展を支えてきた重要な川であった。

境川に平行して延びている堀江地区のフラワー通りは、芝居小屋や寄席があり、この辺りで一番の繁華街だったところで、周辺には寺社が数多く、貴重な民家や昔ながらの銭湯、駄菓子屋が現在も点在している。(「Wikipedia」より)

                     1880年代のようす。

この地域のみ集落が集中していた。微高地だったのか?

                     2010年代のようす。

周囲にも住宅が密集している。上に東西線「浦安駅」。

歌川広重画・名所江戸百景「堀江ねこざね」。「境川」を挟んで「堀江」村と「猫実」村。

リンド技師記念碑」。

現在も利根川・江戸川の工事用基準として使われている利根川・江戸川の水位基準面の基となった「堀江水準標石」を設置するなど、日本における近代測量の基礎を成したオランダのリンド技師の功績を称えた記念碑。

表面がかすれて判読不能になってしまっているのが、残念!

振り返ると電車が通過中。

河口に向かうボート。

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その2。当代島・猫実。堀江の渡し・浦安の渡し。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-12 20:49:23 | 江戸川を歩く

          こちら側は、市川市。建物は、「市川市島尻自治会館」。「島尻」という表現に注目!

その先、水門脇の周辺案内図。ここは、浦安市に。

                          「当代島」という地名が記されている。

※「当代島」

鎌倉時代に田中十兵衛がここを開墾したことにより、住みついた住民が当代(自分たちが生まれ育った時代)にできた島であるので「当代島」と名付けたと言われている。また、昔ここに灯台があったからという説もある。

(「Wikipedia」より)

旧当代島水門。

南には「猫実(ねこざね)」という地名があります。

鎌倉時代に、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が豊受神社付近に堤防を築き、その上に大きな松の木を植え、この松に根を波浪が越さないように願い、「根越さね」と言われた。それが「猫実」と称されるようになったと言われる

・・・

1889年(明治22年)3月1日には隣接する東葛飾郡当代島村、堀江村と合併し、猫実は浦安村の大字となる。浦安村発足時には浦安村役場が置かれていたが1895年(明治28年)に堀江へ移転。

浦安村となった2年後の1891年(明治24年)時点の戸数は426戸、人口は2,250人で、船が286隻存在した。1898年(明治31年)には海苔の養殖が開始される1909年(明治42年)には浦安村の町制施行により浦安町の大字となる。1960年(昭和35年)頃からは地域内で地盤沈下が発生したことにより自然排水が困難となり、猫実と当代島にかけて浦安北部土地改良区を設立、土地改良を始める。

また、1969年(昭和44年)には営団地下鉄東西線が開通し、大字猫実(現在の北栄一丁目)に浦安駅が設置され、2年後の1971年(昭和46年)には漁業権を全面放棄し、約350年もの間漁業を中心としていた歴史に幕を閉じることとなる。

同地に海岸部の埋立事業が積極的に行われるようになり、1964年(昭和39年)には町役場が地域内に移転。69年ぶりに行政の中心地となる。1981年(昭和56年)4月1日には浦安町の市制により浦安市の大字となり、同年10月1日には住居表示を施行。大字猫実は猫実一丁目~猫実五丁目、北栄一・三・四丁目となる。

(この項、「Wikipedia」参照)

この地域の変遷(住宅地・都市化)はめまぐるしいものがあります。

妙見島の工場群。

両岸とも、江戸川の水運を活かしています。

「浦安橋」が遠くに。  

船宿が並ぶ。釣り船や屋形船の船宿です。 

「浦安橋」。

          この先が「妙見島」の南端。  

渡し場跡」解説板。 

江戸末期から明治初期にかけて、旧江戸川対岸の堀江飛地(現江戸川区南葛西)の農地耕作のため、「堀江の渡し」が内田平次郎によってはじめられました。待合所は、堀江4丁目69番地地先(現境川水門堀江側)にありました。

その後、この渡しは廃止され、そのかわりにこの場所に待合所ができ、ここから対岸の東長島(現江戸川区東葛西)を往復する「浦安の渡し」が開かれました。所要時間は20から30分ほどかかったといわれています。町が営業権を所有していましたが、明治43年(1910)から希望者を募って、入札で渡し船を請け負わせました。渡し船は、主に伝馬船を使っていました。大きさは、長さ3間(約5.4㍍)、幅1間半(約2.7㍍)くらいで、昭和初期の渡し賃は、大人2銭、子供1銭、自転車3銭、小車4銭であったといいます。(当時のアンパン一つの値段が3から5銭くらい)

昭和15年(1940)の浦安橋の開通により、対岸へは徒歩や自転車で渡れるようになっため、渡し船はその役目を終えました。

                                                                                          

1880年代のようす。妙見島を回り込んでいたか。         2010年代のようす。東西線。境川水門。

対岸・妙見島南端。

振り返る。

 

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その1。「東京湾5㎞」。新中川。「妙見島」今昔。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-11 21:47:39 | 江戸川を歩く

                 「広尾防災公園」。「→東京湾(まで)5㎞」という標示。

今回は、旧江戸川河口まで歩きます。「東京ディズニーランド」「ディズニーシー」までということになります。

「今井橋」から左岸、江戸川合流点(上流)までは、「木下(きおろし)街道」で歩いたので、省略。

「一之江駅」で下車し、「今井街道・新大橋通り」を歩き、旧江戸川に架かる「今井橋」からスタート。

振り返ると、「今井橋」。

                   河川敷には、「広尾防災公園裏船着場」。

   「新中川」が右手奥から「旧江戸川」に合流。橋は、新中川に架かる「瑞穂大橋」。

         堤防沿いの道を進みます。

小型タンカーの船着場。

三共油化工業(株) 。

                ベースオイル、潤滑油製造をする石油化学プラントの会社のようです。

「カミソリ堤防」のような視界を遮る堤防ではありません。

  釣り船など停泊中の船が多い水面がよく見えます。

対岸は、東京都江戸川区。

東京都港湾局の船が。

はげかかった案内板。

            近辺の寺院や旧跡が記されています。

妙見島が見えてきます。

妙見島には、「月島食品工業」などの工場やマリーナがあります。

   

ここで、「妙見島」について。

旧江戸川の島(中州。南北の幅は約700m、東西の幅は約200m東京都江戸川区東葛西3丁目の一部で、すぐ東側の旧江戸川の水面を都県境が通る東京23区唯一の自然島とされるが、異論もある

概要

島の周囲は1979年(昭和54年)以降、すべて壁のようにコンクリート護岸で囲まれて軍艦のような外観になっている。護岸工事が行われるまでは「流れる島」として知られ、川の流れで北端が削られて南端に土砂が堆積して徐々に下流へと移動していた。明治初期の地図上では、島は現在の位置よりも約80メートル上流にあった

現況は産業廃棄物業者の工場やマリーナなどが十数軒建ち並び、社員寮などで暮らす数十人が生活する。北部に妙見神社がある浦安橋から島に降りることができる。

葛西橋通りを往来する車両は、「ただの工場地帯」として通過するばかりで、島であることに気付く人は少ない。島民はいるが、人の気配はほとんどなく、トラックネコの多い島である

歴史

最古の記録は南北朝時代1362年貞治元年)。島に妙見堂が建立されたという記録がある。近辺の猫実 (浦安市)も、1417年応永24年)頃には陸地化していたとされる14世紀後半のパリア海退などにより、河口の陸地化が進んだものと思われる。

下総国国府を流れる太日川の河口であり、交通の要所だった。付近には長島高城があったという説がある。長島には長島湊があり、国府の外港の1つとして栄えた。また長島には1372年文中元年/応安5年)に、香取神宮の河関(灯油料所)があったことが知られている

江戸時代は下総国欠真間村の飛び地であった。島の北は行徳船の航路になっており、江戸の庶民にとってなじみ深い地域だった。曲亭馬琴南総里見八犬伝』の舞台としても登場する。また、江戸時代の景観図では島内に松林が確認できる

1895年明治28年)、千葉県から東京都に編入明治時代後半より工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭和初期には工業地帯化した。昭和中期にかけては漁業も盛んな地域で、島内に海苔製造場や貝の加工工場も営業していたが、1960年代には水質汚染で漁ができなくなった1940年昭和15年)には浦安橋が開通している

2011年10月14日放送のテレビ朝日系列タモリ倶楽部』にて妙見島が取り上げられ、島内にある業務用マーガリンを主に生産する「月島食品工業東京工場」、妙見島の名前の由来ともなったとも言われる「妙見神社」、都内でも最大の会員制マリンクラブである「ニューポート江戸川」などが紹介された。

島名の由来

妙見とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。妙見信仰は千葉氏が信仰していた日蓮宗とも密接に関わる。日蓮宗は中山法華経寺を中心に布教が行われていた。妙見堂の建立は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだったという説もあるなお初代の妙見堂は、東一之江村(現・江戸川区一之江)の妙覚寺に移されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

                                                                   

1880年代のようす。欠真間村の飛地。上の川は「新川」。     2010年代のようす。北側が削れ、南側が延びる。

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京成線「国府台駅」~京葉線「二俣新町駅」。その5。「江戸川放水路0㎞」。突端まで。東京湾を望む。「二俣新町駅」。(「江戸川」を歩く。第4回目。)

2022-04-10 20:43:10 | 江戸川を歩く

                この先が河口?

振り返ると、京葉線の電車が通過中。

対岸は、「東洋合成工業(株)高浜油槽所」のタンク群。

左に回り込んだところにありました。船だまり。

                     「江戸川放水路0㎞」の標識。

江戸川放水路開削前後の変遷。○が「0㎞」標示付近。

                                       (「今昔マップ」より)

このように時を経て、江戸川河口・東京湾の干拓、開発が進み、この先まで岸壁は続くことに。

干潟に大勢の人が。

漁船などが停泊中。

そこで、もう少し先まで行ってみます。

この付近の今昔。「江戸川放水路」がまだない頃との比較。

(「今昔マップ」より)

白抜きのところは塩田。          上の○が「0㎞」地点。下の○まで行きました。

                                     2010年代のようす。→が「0㎞」表示のところ。赤い線を往復しました。 

スマホの地図でこの広い道をまっすぐに岸壁まで。

貨物船の向こうに東京湾が広がる。

          

                対岸は「日本トイザらス㈱市川物流センター」。 

その右奥が「三番瀬」(船橋市)になります。

       (「Wikipedia」より)

東京湾最奥の干潟。埋め立てによってほとんどの干潟がなくなりましたが、この地域は埋め立てを免れました。 

戻る途中、左手に岸壁に通じる広い道があります。江戸川からの岸壁のようです。行けるところまで、と。

 

振り返る。 

東京湾。 

対岸は、市川塩浜。 

              

先端まで来ました。

           対岸遠くは、房総半島・市原付近の工業団地か?    

いちおう目的を果たしたので、戻ります。潮がだんだん満ちてきました。

         

一羽の水鳥が飛んできました。

貨物船が来ます。

左手の港に向かうようです。

  小さな漁船の姿も。

さて、最寄りの駅に戻ることにします。JR武蔵野線・京葉線「二俣新町駅」が近そうですが。

ところがここから駅まで道がつながっていません。

この付近は、入り江や「真間川」など河川が入り組んでいて、遠回りをしてやっと駅へ。

↑が駅。左からの線路と右からの線路に挟まれています。

この駅は「二俣」というように独特の位置にあります。

武蔵野線「西船橋駅」へ行くのには、いったん右に位置する「南船橋駅」まで行き、そこから戻るような感じで北上します。その時は「二俣新町駅」は通りません。(上図では、右側に大きくカーブして進みます。)

「東京駅」方面はそのまま左へ、「蘇我駅」方面は右に。(「京葉線」という路線。)

周囲には工場や倉庫が並び、住宅はあまり見当たりません。朝夕を除き、乗降客はそれほど多くないようです。

・・・

こうして、江戸川(放水路)河口、さらにその先まで歩きました。

次回は、「旧江戸川」の左岸を河口まで歩くことに。

「東京ディズニーランド」「ディズニーシー」の先まで、となります。

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京成線「国府台駅」~京葉線「二俣新町駅」。その4。東京湾の牡蠣。ホンビノス貝。干潟。「海から0.25㎞」。(「江戸川」を歩く。第4回目。)

2022-04-09 18:30:57 | 江戸川を歩く

「守ろうよ ふるさとの自然」。

左には中国語での注意書きが。

自転車やバイクが停めてあり、干潟では長靴姿で熊手等を使って貝を採っている人が数人います。

        

牡蠣を採っているようです。

かなりの収穫量。付近には捨てられた牡蠣の殻がたくさん。

しかし、食べられるのでしょうか?

もともと小生、強烈な牡蠣アレルギーの持ち主で、まったく食べられないのですが。

対岸を見ると、そこにもたくさんの人が。

5,6年前にTVなどでも紹介されたようです。

・・・

獲っちゃダメ!食べちゃダメ!

【理由】

1、あぶない!

カキは、1日約400リットルもの海水を濾過するといわれています…他の生物とは圧倒的に海水濾過量が違うんです!

関東…東京・千葉・神奈川=3000万人以上の排水と、工場からの廃水をモロに濾過してます。海水浴場も汚染を理由に50年以上閉鎖されていた東京湾…下手すると死にます。

2、ほとんどが海を浄化するためのカキ!

水道局や様々なNPOなどが、東京湾を浄化するために蒔いたカキかもしれません。(マガキは大量に産卵するのでそれが増えて拡がってることもあります…あんまり増えすぎるのも問題は問題なんですが)

東京湾だけでなく、世界的に牡蠣による水質浄化活動が行われております。カキはそれくらい「スゴイ海水浄化装置」なのです。

3、お店には流通できてしまう・・

「自分で食べるため」と言われてしまうとなかなか取り締まることも難しいのが現状。

そもそも東京湾は顔もつけてはいけない海水浴場だったり汚れてしまっている。さらには牡蠣はその汚染を濃縮してしまうのです。

食中毒の原因となる大腸菌やノロウィルスならまだお腹を壊すだけなのでかわいいものです。肝炎ウィルスや貝毒や重金属、そのほか汚染物質は一生の病気になったり、場合によっては死ぬことすらあります。

加熱しても消えない病原体や汚染物質もあります。

牡蠣は「生産者がわかる」「最新の検査表を提示している」お店で食べることをオススメしています。

まとめると、
「かきおいしい」は「うみおいしい」

カキは海をそのまま濃縮します!
だからこそ「うまい」!
だからこそ「あぶない」!

キレイな海のカキ以外は食べちゃダメダメ!!!

ニュース(2014-05-06|TBS|Nスタ、2016-05-02|TBS|ビビット)で「東京湾の潮干狩りで中国人が天然のカキを密漁」と放送されたらしく、早速、カキ好きの皆さんから「東京湾でカキが獲れるの?」「江戸前のカキがあるの?」と…

明治から大正にかけては、東京湾の沿岸には広大な干潟が拡がっていて、特に品川はカキの養殖が盛んでした。

さらにいまでも、三番瀬(船橋)や多摩川、旧江戸川河口に残された天然干潟には「カキ礁(カキが群生して場合によっては地上にまで出て島になる)」が残っていたり復活したりしています。

そりゃ「江戸前の牡蠣」とか食べられるなら食べたいですよ…だって、牡蠣は獲ってすぐがウマいんだから…

でもね、いまは無理なんですよ…それは最初に書いたとおり。

(この項、「KAKIPEDIA(カキペデイア)」HPより)

・・・

牡蠣の他にもホンビノス貝なども採っている人もいるようです。

去年、テレビ朝日系の「ざわつく!金曜日」でも取り上げられたとのことです。

※牡蠣の異常増加の原因として、昨年の東京五輪・パラリンピックのボート、カヌー会場として東京都が新設した「海の森水上競技場」(江東区)の浄化のために大量の牡蠣が投入され、その後、東京湾内で異常に増えてしまった、とか。

きれいな砂浜が続くところも。

海岸で咲くような草花。

「海から1.0㎞」。

            いよいよ河口に近づいてきました。

対岸を望む。

         首都高湾岸線とJR武蔵野(京葉)線の橋脚が並ぶ。

市川市クリーンセンター。

散策マップ。

「←行徳橋 →江戸川放水路河口」。

貝を採っているのでしょうか? 数人の姿。

      

         

JR武蔵野線(京葉線)。

            引き潮でしょうか? 干潟が広がる。

ここにも人影が。

「海から(まで)0.25㎞」。

                      東京湾が目の先に広がります。

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京成線「国府台駅」~京葉線「二俣新町駅」。その3。旧江戸川との分岐点。行徳橋・行徳可動堰。「海から2㎞」。水管橋。(「江戸川」を歩く。第4回目。)

2022-04-08 20:38:11 | 江戸川を歩く

「海から9.75㎞」。

いよいよ「海まで10㎞」を切りました。ラストスパートです。

旧江戸川との分岐点。

右が旧江戸川。

 右手奥、旧江戸川に「江戸川水閘門(江戸川水門・江戸川閘門)」があります。

この付近は、かつて陸続きでした。

                                              

1880年代のようす。行徳街道が左に。         2010年代のようす。

            ※旧大和田村が江戸川放水路(現江戸川)開削によって分断された。

「稲荷木(とうかぎ)」バス停。

※「稲を干す木」稲木から来ている。

「稲荷木」は木下街道歩きの際、行徳から「行徳橋」を渡って本八幡方面に向かうときに通りました。

少年野球場。

行徳橋。

行徳橋に併設されてる「行徳可動堰」が橋の左手に。

        旧橋梁が残っている。

    

「行徳可動堰」建設に至る経緯

明治改修後、昭和10年、13年と相次いで大洪水に見舞われて、昭和14年に江戸川増補計画が策定されましたが、第二次世界大戦によりほとんど工事は進捗しないうちに終戦となりました。
そして、昭和22年9月のカスリーン台風による大洪水を契機に、昭和24年利根川改訂改修計画が策定され、江戸川では引堤が行われました。
江戸川放水路の堰地点の流下能力が不足していたため、固定堰を可動堰形式にするために、行徳可動堰の建設が行われました。行徳可動堰は昭和25年に着工され、昭和32年3月に竣工しました。その後、広域地盤沈下のため昭和50年から52年の3ヶ年にゲートの嵩上げ工事を行いました。

行徳可動堰は江戸川の最下流部に位置し、江戸川水閘門と連携して、平常時はゲートを閉めて首都圏の生活用水に海水が混入しないよう塩分遡上を防止するとともに、洪水時にはゲート操作により堰下流に洪水を安全に放流させる目的で設置した施設です。
完成後50年以上が経過した行徳可動堰は、老朽化という問題をかかえていたことから、平成22年度から5年間をかけてゲート設備の更新と堰柱の耐震補強対策を実施しました。平成26年度からは、行徳可動堰の管理橋機能を兼ねた行徳橋の架替工事を実施しています。(平成32年3月供用開始予定。)

(この項、「」HPより)

 

新行徳橋。

浅瀬が増えてきます。

        標識を見ると、「海から3.0㎞」。

                  

先ほどのキロ数は旧江戸川の河口までの数字だったのです。

江戸川放水路は海までは短いのですね。あと3㎞。ちょっと拍子抜けしてしまいました。

この付近では「外環道」、「京葉道路」、「湾岸線」などが交差し、物流などの施設が多くあります。

ガス管橋? 妙典地区へ。

河川敷の砂利道を歩きます。

振り返る。

   葦が生い茂る。

     対岸は、市川市立妙典小学校の洒落た建物。普通3学期制だが、2期制。さらに「ノーチャイム」らしい。

                 

東京メトロ東西線。

              

その先に水管橋。

                     「海から2.0㎞」。あと30分。

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