おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

梅まつり。向島百花園。その2。

2018-02-26 22:24:07 | じじばばがゆく
               梅の花にも一重や八重。また白、薄紅、淡紅、濃紫紅などいくつもの色合いがあるようです。

「墨沱梅荘記」碑。

「藤牡丹枝垂れ」。

「白滝枝垂れ」

少し大きな野鳥が飛び立ちます。

その上には月が(↓)。



                   

遠くに「スカイツリー」。

                     

 行きつ戻りつ園内を散策。芭蕉の句碑。
「こ(ん)にやくのさしみも些(すこ)しうめの花 はせを」。
 《仏前にコンニャクの刺身が少し供えられている。梅の花が咲いて春はもう近い。芭蕉》

「初雁」。

「見驚(けんきょう)」。

ふたつとも「御成座敷」入口に咲いています。



                「みつまた」。

しだいに暮れなずむ園内。



園内には終了のチャイムが聞こえはじめました。
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梅まつり。向島百花園。その1。

2018-02-24 13:43:46 | じじばばがゆく
                       益賀句碑「鳥の名の 都となりぬ 梅やしき」。

向島百花園「梅まつり~梅花彩る江戸花屋敷~」 2018/2/10(土) ~ 2018/3/4(日)

 2月23日(金)。

 冷たい雨もようやく上がった夕方前。「向島百花園」に立ち寄ってみました。4:30で入園終了(5:00閉園)。ぎりぎり間に合いました。
 いつものメンバーは体調など都合がつかず、予定は未定。せっかくのかつて「新梅屋敷」とも呼ばれた「百花園」。近くまで出かけたついでにちょっとのぞいた次第。
 「じじばばが(ひとりで)ゆく」、という趣向。雨上がりと傾いた日差しの中での散策。

 入園料:70円(65歳以上)。

向島百花園
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1804年(文化元年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者であった絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。当初梅園として営まれたが、その後、園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。
 その後も民営の公園としての長い歴史を経たが、明治以降、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、のちに東京市に譲渡されて1939年(昭和14年)には公営の公園として出発した。
 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲により全焼し、それまで遺っていた往時の建物も焼失してしまい、石碑以外、樹木も含めてほとんど跡形もなくなった。戦後、跡地を少年向けの野球場にしようという声も出るなか、「百花園」として復興されることとなり、1949年(昭和24年)に再開された。
 幾度か変転を経ながらも、園内の景観は今なお旧時の趣きを保っており、文人庭の遺構としても貴重なものである。江戸時代の花園として僅かに今日に遺るものであり、その景観、遺跡ともに重要であるとして、1978年(昭和53年)10月13日、国の史跡および名勝に指定され、保護措置がとられることとなった。

                                          (以上「Wikipedia」参照)

芭蕉「春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅」。

 満開とはいえませんが、けっこう園内にはさまざまな種類の梅が咲いています。「百花園」で準備された「梅マップ」によると、21種類の梅。去年の水戸の偕楽園や一昨年行った三浦半島の「田浦梅の里」、あるいは他の梅林に比べると、小規模ですが、そこそこ味わえます。

「紅冬至」。

「白加賀」。

園内。

                    



足元には「春の七草」が。

「御成座敷」の庭に咲く「唐梅」「白加賀」。

「唐梅」は八重。

「紅千鳥」。

                  

鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。(写真は「Wikipedia」より借用)  

 花の蜜を大変好むため花期に合わせて行動し、春には好物の花の蜜を求めて南から北へと移動するものもいる。特に早春はツバキや梅の花に群がる様子がよく観察され、「チー、チー」という地鳴きで鳴き交わす様子がよく観察される。花の蜜を好むことから「はなすい」、「はなつゆ」などの地方名がある。
 メジロは甘い蜜を好み、また里山や市街地でも庭木や街路樹などの花を巡って生活している。そのため昔から人々に親しまれた鳥である。現在も、切った果物や砂糖水などを庭先に吊しておくことでメジロを呼ぶことができ、野鳥観察において馴染み深い鳥の一種である。エサ場でヒヨドリがメジロを追っ払うのもよく見かける光景である。
 またメジロは比較的警戒心が緩く、頻繁に鳴き交わしつつ群れで行動するため、慣れた人だと口笛で(歯笛の感覚で吹く)仲間がいると思いこませ、群れを呼び寄せることもできたという。
 メジロとウグイスはともに春を告げる鳥として親しまれていたこともあってか、時期的・場所的に重なる両種は古くから混同されがちであった。
 メジロは梅の花蜜を好み、早春には梅の花を求めて集まってくる。また比較的警戒心が緩く、姿を観察しやすい。いっぽう、梅が咲く頃によく通る声でさえずりはじめるウグイスは警戒心がとても強く、啼き声は聞かれても姿を現すことはあまりなく薮の中から出ることは稀である。またウグイスは主に虫や木の実などを食べ、花蜜を吸うことはめったにない。
 ウグイスとメジロの混同を示すものとして「鶯色」がある。ウグイス色と言った際に、ウグイスの灰褐色(オリーブ色に近い)を想像する人もいれば、メジロの緑色に近い色を想像する人もいる。
 なお、古来より春を告げる言葉として「梅に鶯」があるが、これは梅の花に鶯の声を添えた風情を意味し、日本画で梅の枝にメジロを描くのとは意味が異なる。
      (以上、「Wikipedia」参照。)

 こうして身近にメジロを目にしたのは珍しく、「梅とウグイス」ならぬ「梅とメジロ」という趣向にしばし。
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「すまじきものは宮仕え」とは心にも思っていないでしょう。そうじゃなければここまで・・・

2018-02-16 21:34:05 | 世間世界
国税長官足かせに? きょうから確定申告 「雲隠れ」半年以上、書類廃棄にクレーム

すまじきものは宮仕え
 自由を束縛され、苦労が多いので、すべきではないものは宮仕えだ。
 「すまじき」は、してはならない、すべきではないの意。「宮仕え」とは、古くは宮中に仕えること、現在では、官庁や会社などに勤めること。

 それでもしがみつかざるを得ない、高級官僚。何しろ(そうとう理不尽であったろう)上司に仕えて、やっとここまで上り詰めた。この先も立派な天下りが保証されている(にちがいない)役職。そう簡単に手放せないよ! もちろん上司である麻生やアベを困らせるわけにはいかないっ、ていうか私が守ってあげたんだから、恩ぐらい感じろよ! 申し訳ないが、困らせるのは(ちょっぴり申し訳ないけど)部下たちに。

 納税者・国民には? 
 もし『記録がありません』と言い続けても、資料を廃棄した・なくしたと言ったって、ご自分が損するだけですよ、こちらには(隠し)資料がありますので、それを元に取り立てます、それでいいですね? 
 長官が気にくわないとおっしゃって駄々をこねても、きちんと納期にはおさめてもらいます。遅れた場合は、追徴金をきちんと払ってもらいますので。結局損するのはあなたですよ。・・・

 たぶんマスコミが税務署に押しかけて、納税者の不満の声を大げさに取り上げるだろうけど、気にすることはない、ない。こっちの立場(なんてたってお上だからね)は強いんだから、とうそぶく。
 窓口のお役人、ひたすら低姿勢の体(そぶり)。

 ここまで厚顔無恥な官僚の世界(人生)。覚えめでたく、ここまで出世した! 
 一方で、この方のように高位高官になれなかった官僚の方も多かったでしょう。まさに競争社会(出世社会)そのもの。

 つい「すまじきもの」ならぬ「すさまじきもの(あきれるもの、興ざめなもの)は宮仕え」と言い換えて、笑うしかないですね。清少納言のように。

 この場合は、司得ぬ(官職につけなかった)人へのあてこすりですが、でも、端から見てはあきれる、興ざめなものでしょう、宮仕えするのも、と宮仕えしている清少納言の言。

枕草子『すさまじきもの』より。
 除目に司得ぬ人の家(はすさまじきもの)。今年は必ずと聞きて、はやうありし者どもの、ほかほかなりつる、田舎だちたる所に住む者どもなど、みなあつまり来て、出入る車の轅もひまなく見え、もの詣でする供に、我も我もと参りつかうまつり、物食ひ酒飲み、ののしりあへるに、はつる暁まで門たたく音もせず、あやしうなど、耳たてて聞けば、前駆追ふ声々などして、上達部などみな出で給ひぬ。もの聞きに宵より寒がりわななきをりける下衆男、いともの憂げに歩み来るを見る者どもは、え問ひだにも問はず、ほかより来たる者などぞ、「殿は何にかならせ給ひたる。」など問ふに、いらへには「何の前司にこそは。」などぞ、必ずいらふる。まことに頼みける者は、いと嘆かしと思へり。つとめてになりて、ひまなくをりつる者ども、一人二人すべり出でて去ぬ。古き者どもの、さもえ行き離るまじきは、来年の国々、手をおりてうち数へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いとをかしうすさまじげなる。

 こうして得た官職を死守する(したい)人もいれば、あわよくば次は私だ、とアベにこびを売って猟官運動をする御仁もたくさんいるでしょう。 
 
 ところで、「すさまじい」の意味は、「広辞苑」では

①期待や熱意が冷えてゆく感じがする。
②荒涼としている。殺風景である。
③さむざむしい。
④色などさめきって白っぽい。
⑤よそよそしく冷たい。
⑥恐怖を感じさせるほどである。
⑦程度がはなはだしい。
⑧あきれはてるさまである。あきれるほどひどい。

とあるようですが、何だかどれもあてはまりそうですね。

 いつの世も役人(雇われ人)の世界は「すまじきもの」「すさまじきもの」。なんて言ったって、所詮、持たざる者の悲哀(ねたみ)ですね。
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岩槻宿~幸手追分。その3。(日光御成道。第3日目)

2018-02-07 20:05:28 | 日光御成街道
 ひたすら「日光御成道」=「県道65号線」を進みます。幸手方面に通じる、主要道として整備されています。

果樹園や畑地が広がっています。特に史跡もなく幸手の追分(「日光道中」との合流地点)に向かいます。


                 

ガードレールに何かの絵柄が。

カバが描かれているようです。

「備前堀川」。 

(12:49)「東武伊勢崎線」の踏切を越えます。

旧和戸村に入り、「備前前堀川」、続いて「大落古利根川」を越します。


                   

  
  
1880年代のようす。                 現在のようす。

(12:57)渡った左手に大きな「古利根川治水」碑」があります。


大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
 埼玉県を流れる一級河川。利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。
 現在の起点は久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋である。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。当川の起点には上流から葛西用水路が流れ込んでいる。当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。大河の頃の名残で流域には発達した河畔砂丘や自然堤防が見られる。
 当川(および上流の葛西用水路の一部)は江戸時代以前の利根川本流であり、利根川の主要分流である会の川と浅間川とが合流した地点(加須市川口)から南流し東京湾へ注いだ。当川の古い流路(最下流については隅田川)は、武蔵国と下総国(葛飾郡)の当初の境界だった。
 最下流は葛飾区亀有付近で二つに分流し、江戸川区西葛西付近を河口に持つ東の河道は中川、葛飾区小菅・墨田区向島付近を通り現在の横十間川付近の河口へ向かう西の河道は隅田川と呼ばれた。両者の河口に挟まれて亀戸島があった。東京湾へ注ぐ分流量の比は近世にかけて後者から前者の河道へ移った。
 文禄3年(1594年)に会の川の流頭が締め切られ、元和7年(1621年)に浅間川が久喜市佐間で南への流れが締め切られたため、当川の河道は利根川から切り離され古利根川と呼ばれるようになった。
 1918年(大正7年)の開削工事で庄内古川下流が松伏町下赤岩(越谷市との境)付近で古利根川へ接続された。庄内古川および合流点から河口に至る旧古利根川河道は全て中川とされた。

(以上「Wikipedia」参照)

注:利根川が現在のように関宿から取手・佐原を流れて銚子沖の太平洋に流れたのは、承応3年(1654年)。今から360年ほど前のことで、それ以前は、会の川と大落古利根川が利根川の本流でした。
 しかし、徳川家康の関東入府とともに、利根川をはじめとする河川の瀬替えや分離、統合等の事業が行われ、江戸へ通じる舟運路の整備や新田開発が積極的に進められました。利根川の流路の付け替え(利根川東遷事業)は文禄年間に始まったとされ、八甫(現鷲宮町)から南流していた利根川の本流は東へと流路を変えていきました。



約1000年前の利根川は、東京湾に流れこんでいた。

東遷が完成したときの利根川。

(この項、HPより)

 通りの向かい側には「日光御成道」の大きな案内看板がありますが、ほとんど剥落しています。


この先は、「杉戸宿」の一角になります。

 (13:06)しばらく進むと、右手に「下高野一里塚」が東塚のみ残っています。江戸日本橋から12里目(本郷追分から11里目)で、「日光御成道」最後の一里塚です。
 

解説板。
・・・この一里塚は下野田の一里塚より北東1里の地点に位置している。ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の両側に5間(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。・・・

                 



この付近の今昔。
  
  

 (13:22)しばらく進んだ道の左に二本だけ見事な松が残っています。
  

 
御成街道の松並木
 ・・・当時、この街道の両脇には、松をはじめ、杉、榎などが数多く植えられてあった。昭和30年頃は、まだ松並木として残っていたが、交通の発達や道路の拡幅に伴い、徐々に減りつづけ、今ではわずかに残る松が往時の面影を偲ばせる唯一のものになってしまった。


振り返って望む。

幸手市に入ります。

(13:35)「圏央道」の橋脚。

いよいよ「幸手追分」に近づきます。その手前には「道標」と「日光御成道と琵琶溜井」解説板。

琵琶溜井(びわためい)
 埼玉県久喜市栗原4丁目・幸手市大字上高野、南2丁目の境界に所在する水利施設である。
 1660年(万治3年)に伊奈忠克によって葛西用水路が整備されるとともに設けられたという溜井で、中郷用水路および南側用水路を分水している。琵琶溜井の水利施設は1962年(昭和37年)・2002年(平成14年)にそれぞれ改修工事が行われている。また琵琶溜井の水利施設内に葛西宮(久喜市栗原側)が祭られており、公園のように整備された空間(幸手市上高野側)も所在しているが、一般の人は通常この敷地の中に自由に立ち入ることはできない。
 北方はかつて葛西用水路が二条の水路に分かれており、中央部に弁天島と称する島が存在していた。この弁天島の北半分は現在の久喜市青毛字本郷、南側は久喜市栗原字川原である。現在はこの葛西用水路の二条の水路のうち、東側の水路が埋め立てられ、埋め立てられた余剰地は主に畑などに利用されている。
 すぐ東側を日光御成道(埼玉県道65号さいたま幸手線)が通過しており、街道の道標や青面金剛などが設置されている。

(以上「Wikipedia」参照)

 ・・・ダムのような施設で、その形が楽器の琵琶に似ていたことからその名が付けられました。溜めた水は、圦樋(いりひ)という水門から葛西用水、中郷用水、南側用水として分水され、その機能は今も変わりません。土地の人がここを「樋の上(ひのうえ)」と呼ぶのもそうした歴史にちなんでいます。(「解説板」より)

 (13:42)その先が「幸手追分」。「ベルク」のところで日光道中と合流します。ここが「日光御成道」の終点。
 
       右手から来る道が「日光道中」。

「日光御成道」を振り返る。

解説板。日光道中・日光御成道合流点」。

                

 以上で三日間の旅は終了。「日光道中」の時に立ち寄れなかった「石井酒造」に入ってしばらく試飲して、お酒を購入。


              「冬単衣」。酸っぱ味が新鮮。

(13:52)東武線「幸手駅」に向かいました。一里塚や道標などがしっかりと残されているなど意外と往時を偲べる道でした。
○が「幸手追分」。左の道が「日光御成道」。中央の道が「日光道中」。
  
  
1880年代のようす。                現在のようす。ただし、「圏央道」開通以前。

 「中山道」はこの時期、雪のため無理なので、春先までは「青梅街道」でも歩きますか!
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岩槻宿~幸手追分。その2。(日光御成道。第3日目)

2018-02-06 22:57:55 | 日光御成街道

 かつて、旧道沿いには松か杉の並木が続いていたようですが、現在は?
  
  
  
1880年代のようす。                   現在のようす。




 「岩槻工業団地入口」交差点の右の角には、
(10:15)石橋供養塔。

ありました! 松の木が。一本だけすくっと立っています。
 

 (10:42) その先には、日光御成道で唯一残された「杉並木」があります。
 

 その手前に「一里塚」跡があるとのことで戻ってみましたが、見当たらず。ただ、塀の一角に石が積みされたところがあります。これでしょうか?
 
 特に解説板などなし。ここだとすれば、江戸日本橋から10里目(本郷追分から9里目)となります。
杉並木を振り返る。

しばらく進むと、「宝国寺」。ここからの富士の眺望はすばらしかった、とのこと。駐車場の中を進んで林間から、西を望む。


     晴れていれば眺望は、良。

ここにもポツンと。

その先には、見事なケヤキ。
 
(11:21)「白岡市」に入ります。

かつての堀河が遊歩道に。

「ひこべえの森」?

ひこべえの森
この森は彦兵衛下小笠原遺跡の一部に位置し、同遺跡の西縁が上小笠原遺跡と接しており、二遺跡に囲まれた樹齢100年のけやき等のある樹林です。
(「白岡市観光協会」HPより)

「隼人堀川」に架かる「往還橋」。

「県道65号線」をひたすら進みます。
 



                        

 (12:02)「姫宮落川」を越えると、その先に「下野田の一里塚」が見えてきます。東西両塚が残っています。


 

                   解説板。
埼玉県指定史跡。
江戸日本橋から11里目(本郷追分から10里目)となります。

「日光御成道」を望む。

                       

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岩槻宿~幸手追分。その1。(日光御成道。第3日目)

2018-02-05 19:46:57 | 日光御成街道
                                     (9:30)岩槻宿。

 久々の「日光御成道」。いよいよ最終日。2月3日(土)。薄曇り。

「東玉大正館 (旧中井銀行岩槻支店)」。
 「中井銀行岩槻支店」として大正時代後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築です。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例です。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。また、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっています。

HPより)
 なお、この建物付近に旧本陣があったようです。
 
 先日の雪がまだまだ残っている街を進みます。要所要所に宿場時代の旧町名が記されています。
 「久保宿」。

足下には岩槻宿にちなんだタイル絵。「綾瀬川思い出かたるしじみ取り」。

商家。

(9:37)「日光御成道一里塚跡」碑。
 ・・・日光御成道が通っていた岩槻でも、桜久保、岩槻城下久保宿町、相野原(現存、県指定史跡)の三ヶ所に一里塚が設けられていました。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前のあたりに設けられていました。

 江戸日本橋より9里目、本郷追分から8里目。

旧岩槻市役所庁舎は解体され、工事中。

旧家。所々にかつての古い建物が残っています。

      
 その先、「日光御成道」は、渋江交差点を左折して、県道65号さいたま幸手線にはいります。○が渋江交差点。
  
  
1880年代のようす。                 現在のようす。

 

「田中町」。

 東武野田線を越し、次第に北へと向かいます。
(9:55)「出口町」。岩槻宿の北口で、番所と門があったようです。

         

(10:05)「人間総合科学大学」を過ぎ、「元荒川」を「慈恩寺橋」で越えます。「慈恩寺」自体は、まだまだ先。


 明治中期まで「元荒川」の流路は大きく南方へ蛇行していたようで、この大学の先で川を渡っていました。現在の緑地がかつての流路跡。
  
  
  
  
1880年代のようす。                 現在のようす。

 

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