城東電車江戸川線(東小松川~今井)。
廃止されてすでに60年、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも、44年が経過しました。今井街道(旧行徳道)を走っていたトロリーバスの遺構はもうすでにありませんが、並行して専用軌道を走っていた城東電車(後に都電)の線路跡は、道路や住宅に変わっていて、道路や住宅、公園の緑地帯の雰囲気で、何とか痕跡を「感じる」だけです。
城東電車・江戸川線は、今井街道のすぐ南側に専用軌道のかたちで走り、その廃止後、トロリーバスは今井街道を走っていました。
〔歴史〕
明治43年 5月 6日 本所区錦糸町~南葛飾郡瑞江村大字上今井 電車軌道敷設出願
明治44年 3月 7日 東京府と調整の上で内務省より特許(免許)下付
大正 2年 1月 城東電気軌道株式会社 創立
大正 6年12月30日 小松川線 錦糸堀~小松川 3.38km 開通
大正10年 1月 1日 砂町洲崎線 水神森~大島四丁目 1.0km 開通
大正13年 7月11日 砂町洲崎線 大島四丁目~仙気稲荷(稲荷前) 開通
大正14年12月31日 江戸川線 東荒川~今井橋 3.178km 開通
大正15年 2月 小松川(後に西荒川から)~東荒川 に連絡バス運行開始 (当初は徒歩で小松川大橋を渡った)
大正15年 3月 1日 小松川線 小松川~西荒川 0.2km 開通
昭和 2年 3月 8日 砂町洲崎線 仙気稲荷~東陽公園前 開通
昭和 3年 6月 3日 砂町洲崎線 東陽公園前~洲崎 開通
昭和12年 3月25日 東京乗合自動車株式会社と合併し、更に東京地下鉄道株式会社と合併
昭和17年 2月 1日 東京市に全線買収され市電に編入される
昭和18年 7月 1日 都制施行により都電と名を改める
昭和27年 5月19日 都電26系統 東荒川~今井橋 廃止
昭和27年 5月20日 トロリーバス101系統 上野公園~今井 開通
昭和43年 9月28日 都電25系統 西荒川~須田町 廃止、トロリーバス101系統 上野公園~今井 廃止
昭和47年11月11日 都電38系統 錦糸堀~門前仲町 廃止 (現:荒川線を除いて都電全廃)
別の角度からのもの。戦後は生活汚水で汚れた川でしたが、現在は、「一之江境川親水公園」として区民の憩いの場として親しまれています。
区民・地域の熱い思いが込められているようです。
東側を望む。
1996(平成8)年4月にこの親水公園が出来る以前、橋台跡がしばらく残っていました。今あるのは、後で作ったモニュメント。場所的にはほぼあっていますが、本来の線路とは方向が異なっています(もう少し西向き)。
上がトロリーバス。下が城東電車。
ケース越しに親水公園側から今井街道側を望む。
今井街道と境川が交差する付近の「一之江境川親水公園」にあるガーター橋と線路のモニュメント、ガラスケースに収まったトロリーバスと電車のブロンズ模型により、半世紀以上の昔、ここに城東電車やトロリーバスが走っていたことを示しています。
今井街道の歩道上のモニュメント(トロリーバス)。
同じく城東電車の絵柄のはめこみ。「マッチ箱電車」という愛称? 大正14年から昭和27年と記されています。
江戸川線の東小松川駅(終点)は、荒川に突き当たる場所にあって、現在の首都高の橋脚下辺りになります。このあたりの一画が終点。当時は大きな敷地になっていました。今は工場、住宅地に。
終点付近は、首都高のインターチェンジ新設工事のため、用地買収が進み、空地が増えていました。古くからの知人の中に、首都高建設で立ち退いて高速脇に家を新築、再び移転せざるをえない方がいます(もともとは都電敷地跡に家があったそうです)。こういうケースも珍しい。代替地は示されず、自分たちで補償金を元手に探さなければならない、とか。
いずこを問わず、都市計画に翻弄される一家は多いようです。河川の整備、(高速)道路建設、鉄道の高架化、区画整理・・・、さまざまなかたちで住むところを追われる話は、身近にも聞きます。
線路跡など城東電車が走っていたなどの具体的な遺構・痕跡は残念ながら見当たりません。道路や公園・・・。
今井街道(旧行徳道)のすぐ南側に線路があったことは、昭和22年の航空写真ではっきり確認できます。また、昭和38年撮影の航空写真でも、すでに線路など撤去された跡地が家屋の並び方や道路、空地など線状に残っていました。が、今では、皆目、見当もつきません(昭和38年の写真では、線路跡にまるで電車のように連なった家屋が数軒、終点近くに見られますが、その後の高速道路建設のためになくなっているようです)。
せめて道路くらいは、とそのあたりを行きつ戻りつして探索して回りましたが、これだと確定できる道路(線路跡の)もはっきりしませんでした、残念!
お寺の塀沿いの道。
細長い敷地の児童公園。
「環七」近くの細い直線道路。
それぞれ、各家屋・敷地の裏に面している直線道路、というのが、何となくの根拠。「一之江保育園」の敷地もそんな感じでしたが。
今井街道。「環七」方向を望む。
今井街道。小松川橋方向を望む。
今井街道から南を望む。正面の建物あたりに線路があった、と思われます。
都営新宿線・一之江駅付近。
城東電車(都電)」(廃止後のトロリーバス)は、もう少し東南、江戸川に架かる今井橋・東詰まで続いていました。
廃止されてすでに60年、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも、44年が経過しました。今井街道(旧行徳道)を走っていたトロリーバスの遺構はもうすでにありませんが、並行して専用軌道を走っていた城東電車(後に都電)の線路跡は、道路や住宅に変わっていて、道路や住宅、公園の緑地帯の雰囲気で、何とか痕跡を「感じる」だけです。
城東電車・江戸川線は、今井街道のすぐ南側に専用軌道のかたちで走り、その廃止後、トロリーバスは今井街道を走っていました。
〔歴史〕
明治43年 5月 6日 本所区錦糸町~南葛飾郡瑞江村大字上今井 電車軌道敷設出願
明治44年 3月 7日 東京府と調整の上で内務省より特許(免許)下付
大正 2年 1月 城東電気軌道株式会社 創立
大正 6年12月30日 小松川線 錦糸堀~小松川 3.38km 開通
大正10年 1月 1日 砂町洲崎線 水神森~大島四丁目 1.0km 開通
大正13年 7月11日 砂町洲崎線 大島四丁目~仙気稲荷(稲荷前) 開通
大正14年12月31日 江戸川線 東荒川~今井橋 3.178km 開通
大正15年 2月 小松川(後に西荒川から)~東荒川 に連絡バス運行開始 (当初は徒歩で小松川大橋を渡った)
大正15年 3月 1日 小松川線 小松川~西荒川 0.2km 開通
昭和 2年 3月 8日 砂町洲崎線 仙気稲荷~東陽公園前 開通
昭和 3年 6月 3日 砂町洲崎線 東陽公園前~洲崎 開通
昭和12年 3月25日 東京乗合自動車株式会社と合併し、更に東京地下鉄道株式会社と合併
昭和17年 2月 1日 東京市に全線買収され市電に編入される
昭和18年 7月 1日 都制施行により都電と名を改める
昭和27年 5月19日 都電26系統 東荒川~今井橋 廃止
昭和27年 5月20日 トロリーバス101系統 上野公園~今井 開通
昭和43年 9月28日 都電25系統 西荒川~須田町 廃止、トロリーバス101系統 上野公園~今井 廃止
昭和47年11月11日 都電38系統 錦糸堀~門前仲町 廃止 (現:荒川線を除いて都電全廃)
別の角度からのもの。戦後は生活汚水で汚れた川でしたが、現在は、「一之江境川親水公園」として区民の憩いの場として親しまれています。
区民・地域の熱い思いが込められているようです。
東側を望む。
1996(平成8)年4月にこの親水公園が出来る以前、橋台跡がしばらく残っていました。今あるのは、後で作ったモニュメント。場所的にはほぼあっていますが、本来の線路とは方向が異なっています(もう少し西向き)。
上がトロリーバス。下が城東電車。
ケース越しに親水公園側から今井街道側を望む。
今井街道と境川が交差する付近の「一之江境川親水公園」にあるガーター橋と線路のモニュメント、ガラスケースに収まったトロリーバスと電車のブロンズ模型により、半世紀以上の昔、ここに城東電車やトロリーバスが走っていたことを示しています。
今井街道の歩道上のモニュメント(トロリーバス)。
同じく城東電車の絵柄のはめこみ。「マッチ箱電車」という愛称? 大正14年から昭和27年と記されています。
江戸川線の東小松川駅(終点)は、荒川に突き当たる場所にあって、現在の首都高の橋脚下辺りになります。このあたりの一画が終点。当時は大きな敷地になっていました。今は工場、住宅地に。
終点付近は、首都高のインターチェンジ新設工事のため、用地買収が進み、空地が増えていました。古くからの知人の中に、首都高建設で立ち退いて高速脇に家を新築、再び移転せざるをえない方がいます(もともとは都電敷地跡に家があったそうです)。こういうケースも珍しい。代替地は示されず、自分たちで補償金を元手に探さなければならない、とか。
いずこを問わず、都市計画に翻弄される一家は多いようです。河川の整備、(高速)道路建設、鉄道の高架化、区画整理・・・、さまざまなかたちで住むところを追われる話は、身近にも聞きます。
線路跡など城東電車が走っていたなどの具体的な遺構・痕跡は残念ながら見当たりません。道路や公園・・・。
今井街道(旧行徳道)のすぐ南側に線路があったことは、昭和22年の航空写真ではっきり確認できます。また、昭和38年撮影の航空写真でも、すでに線路など撤去された跡地が家屋の並び方や道路、空地など線状に残っていました。が、今では、皆目、見当もつきません(昭和38年の写真では、線路跡にまるで電車のように連なった家屋が数軒、終点近くに見られますが、その後の高速道路建設のためになくなっているようです)。
せめて道路くらいは、とそのあたりを行きつ戻りつして探索して回りましたが、これだと確定できる道路(線路跡の)もはっきりしませんでした、残念!
お寺の塀沿いの道。
細長い敷地の児童公園。
「環七」近くの細い直線道路。
それぞれ、各家屋・敷地の裏に面している直線道路、というのが、何となくの根拠。「一之江保育園」の敷地もそんな感じでしたが。
今井街道。「環七」方向を望む。
今井街道。小松川橋方向を望む。
今井街道から南を望む。正面の建物あたりに線路があった、と思われます。
都営新宿線・一之江駅付近。
城東電車(都電)」(廃止後のトロリーバス)は、もう少し東南、江戸川に架かる今井橋・東詰まで続いていました。