おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

一之江~東小松川。モニュメント。城東電車江戸川線跡をたどる

2012-09-30 19:59:06 | 鉄道遺跡
 城東電車江戸川線(東小松川~今井)。
 廃止されてすでに60年、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも、44年が経過しました。今井街道(旧行徳道)を走っていたトロリーバスの遺構はもうすでにありませんが、並行して専用軌道を走っていた城東電車(後に都電)の線路跡は、道路や住宅に変わっていて、道路や住宅、公園の緑地帯の雰囲気で、何とか痕跡を「感じる」だけです。
 城東電車・江戸川線は、今井街道のすぐ南側に専用軌道のかたちで走り、その廃止後、トロリーバスは今井街道を走っていました。

〔歴史〕
明治43年 5月 6日 本所区錦糸町~南葛飾郡瑞江村大字上今井 電車軌道敷設出願
明治44年 3月 7日 東京府と調整の上で内務省より特許(免許)下付
大正 2年 1月     城東電気軌道株式会社 創立
大正 6年12月30日 小松川線   錦糸堀~小松川 3.38km 開通
大正10年 1月 1日 砂町洲崎線 水神森~大島四丁目 1.0km 開通
大正13年 7月11日 砂町洲崎線 大島四丁目~仙気稲荷(稲荷前) 開通
大正14年12月31日 江戸川線   東荒川~今井橋 3.178km 開通
大正15年 2月     小松川(後に西荒川から)~東荒川 に連絡バス運行開始 (当初は徒歩で小松川大橋を渡った)
大正15年 3月 1日 小松川線   小松川~西荒川 0.2km 開通
昭和 2年 3月 8日 砂町洲崎線 仙気稲荷~東陽公園前 開通
昭和 3年 6月 3日 砂町洲崎線 東陽公園前~洲崎 開通
昭和12年 3月25日 東京乗合自動車株式会社と合併し、更に東京地下鉄道株式会社と合併
昭和17年 2月 1日 東京市に全線買収され市電に編入される
昭和18年 7月 1日 都制施行により都電と名を改める
昭和27年 5月19日 都電26系統 東荒川~今井橋 廃止
昭和27年 5月20日 トロリーバス101系統 上野公園~今井 開通
昭和43年 9月28日 都電25系統 西荒川~須田町 廃止、トロリーバス101系統 上野公園~今井 廃止
昭和47年11月11日 都電38系統 錦糸堀~門前仲町 廃止 (現:荒川線を除いて都電全廃)

別の角度からのもの。戦後は生活汚水で汚れた川でしたが、現在は、「一之江境川親水公園」として区民の憩いの場として親しまれています。
区民・地域の熱い思いが込められているようです。
東側を望む。
 1996(平成8)年4月にこの親水公園が出来る以前、橋台跡がしばらく残っていました。今あるのは、後で作ったモニュメント。場所的にはほぼあっていますが、本来の線路とは方向が異なっています(もう少し西向き)。
上がトロリーバス。下が城東電車。
ケース越しに親水公園側から今井街道側を望む。
 今井街道と境川が交差する付近の「一之江境川親水公園」にあるガーター橋と線路のモニュメント、ガラスケースに収まったトロリーバスと電車のブロンズ模型により、半世紀以上の昔、ここに城東電車やトロリーバスが走っていたことを示しています。
今井街道の歩道上のモニュメント(トロリーバス)。
同じく城東電車の絵柄のはめこみ。「マッチ箱電車」という愛称? 大正14年から昭和27年と記されています。
江戸川線の東小松川駅(終点)は、荒川に突き当たる場所にあって、現在の首都高の橋脚下辺りになります。このあたりの一画が終点。当時は大きな敷地になっていました。今は工場、住宅地に。
 終点付近は、首都高のインターチェンジ新設工事のため、用地買収が進み、空地が増えていました。古くからの知人の中に、首都高建設で立ち退いて高速脇に家を新築、再び移転せざるをえない方がいます(もともとは都電敷地跡に家があったそうです)。こういうケースも珍しい。代替地は示されず、自分たちで補償金を元手に探さなければならない、とか。
 いずこを問わず、都市計画に翻弄される一家は多いようです。河川の整備、(高速)道路建設、鉄道の高架化、区画整理・・・、さまざまなかたちで住むところを追われる話は、身近にも聞きます。
 
 線路跡など城東電車が走っていたなどの具体的な遺構・痕跡は残念ながら見当たりません。道路や公園・・・。
 今井街道(旧行徳道)のすぐ南側に線路があったことは、昭和22年の航空写真ではっきり確認できます。また、昭和38年撮影の航空写真でも、すでに線路など撤去された跡地が家屋の並び方や道路、空地など線状に残っていました。が、今では、皆目、見当もつきません(昭和38年の写真では、線路跡にまるで電車のように連なった家屋が数軒、終点近くに見られますが、その後の高速道路建設のためになくなっているようです)。
 せめて道路くらいは、とそのあたりを行きつ戻りつして探索して回りましたが、これだと確定できる道路(線路跡の)もはっきりしませんでした、残念!
お寺の塀沿いの道。
細長い敷地の児童公園。
「環七」近くの細い直線道路。
 それぞれ、各家屋・敷地の裏に面している直線道路、というのが、何となくの根拠。「一之江保育園」の敷地もそんな感じでしたが。
今井街道。「環七」方向を望む。
今井街道。小松川橋方向を望む。
今井街道から南を望む。正面の建物あたりに線路があった、と思われます。
都営新宿線・一之江駅付近。
 城東電車(都電)」(廃止後のトロリーバス)は、もう少し東南、江戸川に架かる今井橋・東詰まで続いていました。
 
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西小松川~旧中川。(「西用水(西井堀)」・「小松川街道」?跡をたどる。その3)

2012-09-29 16:59:40 | 河川痕跡
 平井大橋を渡って、「平井」(西小松川)方向に向かいます。ここから再び水路跡が「庚申塚通り」として残されていました。
荒川から南西を望む。右手は東電の変電施設。社員住宅もあってかなり大きな施設。この道の先で「行徳道」と交差していたようです。
変電所内のモニュメント。鉄製の歯車が組み合わさった変電設備のもの。構内なので確認できず。
荒川方向を望む。このあたりはほぼ直線。
明治13年の地図。北東から南西に向かう道が「西用水・小松川街道」と思われます。途中まで直線、集落のはずれで右に左に曲がっていき、中川に合流しています。旧中川合流付近はカギ型の水路になっていました。下方(南)の道は旧千葉街道。現在の京葉道路・中川新橋は水路の合流付近。小松川街道は平井(小松川)地区に入ってから「行徳道」(地図上で右斜めに横切っている直線道)と交差していました。
JR平井駅の南方。曲がっているようすがかつての水路の跡であることをとどめています。このあたりは昭和20年3月10日、東京大空襲で壊滅的な被害を受けた地域。昭和22年になっても、まだほとんど空地のままになっています。
旧中川までの道、実にくねくねと曲がっているのには驚きます。昭和38年の航空写真では、用水路の両脇が道になっています。かつては土手のような道?
「庚申塚」脇の道。カギ型水路の一部だったか?
旧中川の土手から東側を望む。コンクリート壁はかつての土手の痕跡?
 「逆井の渡し」(ここからはちょっと下ったところ)、「平井の渡し」(ここから少し上流)で中川を越えれば、江戸市中(両国へは「逆井の渡し」経由で元佐倉道・旧千葉街道を通って。浅草へは「平井の渡し」経由で行徳道・浅草道を通って。)に向かうことができます。新金線にあった「東京街道踏切」という名称もあながち外れてはいないようですが・・・。




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新小岩付近。(「西用水(西井堀)」・「小松川街道」?の跡をたどる。その2)

2012-09-28 20:53:25 | 河川痕跡
 巽橋を越えると、駐輪場となって水路跡が続きます。総武線の線路沿いに西に向かった水路跡は、途中、高架線をくぐり、荒川・中川にぶつかります。
 荒川を越えると、再びかつての水路・街道跡が続きます。この通りは、「庚申塚通り」。旧中川にぶつかる手前のところ、正面に「庚申塚」があります。
公営の駐輪場が広がっていて、水路跡ははっきりしません。正面の高架線がJR総武線。新小岩駅の北西に当たります。
この先は、鉄道線路(高架)に沿った直線になっていて、もともとの水路ではないと思います。
高架線の下、斜め(南西方向)に通じる空間。これが水路跡だと思います。
水路だったことを彷彿とさせる高架線の構造。
鉄道敷地を示す柵がそのまま残っている?
高架線を越えたところ。大きく頑丈なコンクリート壁が左右に残っています。斜めに高架線をくぐっています。鉄道線路は上にはないので、かつての鉄橋の名残か、と。
その向かう先は、中川の土手。右手にもコンクリート壁。
中川堤防下の道路から線路方向を望む。
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高砂~新小岩・巽(たつみ)橋。(「西用水(西井堀)」・「小松川街道」?跡をたどる。その1)

2012-09-27 23:47:13 | 河川痕跡
 小合溜から「大堰枠」で分岐した水路(「東用水」)は南下して、京成電車の高架線手前で二つ(東用水・西用水)に分岐します。「小松川街道」は西用水に沿って南西に向かった、と思われます。新中川で寸断された水路(街道)は「環七」を越えてJR新小岩駅方向に向かいます。蔵前橋通りの近くになると、「緑道公園」となって巽橋交差点を斜めに突っ切っていきます。自転車駐輪場から総武線沿いに進み、高架下を越えて荒川方向へ。越えた後は江戸川区・小松川地区に入り、「庚申塚通り」として旧中川まで続いていきます。今回は、高砂から新小岩までの探索です。
出発点。新金貨物線の踏切。新宿で水戸街道と分岐した成田・佐倉に向かう「佐倉道」から、さらに途中で派生した通りが「小松川街道」?
中央カギ型のところで、佐倉道から分かれてしばらく南下し、「東用水」に沿って続く道が「小松川街道」。その角地にある「角柱三猿浮彫道標」の正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」とあります。「下の割」は現在の江戸川地域。
「高砂小橋交差点」。正面のガードが水路跡。交差する道路は、高砂橋を通って青戸方向から高砂・柴又(帝釈天)へ抜ける道。かなり昔からある道。
高砂橋(高砂小橋交差点)の先。南を望む。広くて車の行き交う道路。
新金線の線路を越える。踏切名は、「東京街道踏切」(現在の小松川地区は「東京」都内ということ?)。新金線には「三重田街道踏切」など、今ではぴんと来ないような踏切名があります。踏切の向こう側に、水路跡。
用水を越えるための鉄橋が残っています。水路跡には緑がそのまま。
新中川で寸断。対岸の「西沼公園」脇を水路が通っていました。
「西沼公園」。
公園前の農地。収穫のさなか。
西沼公園付近から新中川方向を望む。
奥戸街道の手前付近。カーブがかつての水路跡を思わせます。
奥戸街道を越えて進みます。このあたりは大きなお店や温泉、ボーリング場などが並んでいて賑やかな通り。
ここから蔵前橋通り・「巽橋交差点」まで
緑道(親水)公園となります。「西井堀せせらぎパーク」。
残念ですが、水は流れていませんでした。途中のモニュメント。流れがあればけっこう見応えがありそう。
巽橋交差点付近。来た道を望む。
交差点脇の巽橋の柱。
 
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大堰枠。新宿(にいじゅく)。

2012-09-26 23:14:06 | 河川痕跡
 水戸街道の中川大橋を越えて、亀有警察署の先の信号を右折すると、水元公園に通じる広い道路になる。しばらく進むと大きく右にカーブする交差点となる(JR常磐線の高架の手前)。ここが「大堰枠」と呼ばれる地点。以前は信号機に「大堰枠」という表示があったと思った。今回久々に出かけて、それがないことに気がついた。
 この交差点、左に大きく曲がって西南に向かう道。細い道が東西に。開けている割には少し見通しの悪いカーブになっている。ここは「小合溜」→「上下之割用水」(下の割ー現在の江戸川区ーまでつながっていた)→「大堰枠」。ここで、南に向かう「小岩用水」?と南西に向かう「東用水」とに分岐していた。それだけではなく、ここには他にも目についただけでも二本の用水路が残っている。(「東用水」は高砂の手前で「東用水」と「西用水」とに分岐していた。)つまり、「大堰枠」は、多くの水路の分岐点。
交差点近くにあった広告用の看板の中に「大堰枠」との表示が残っていた。
例によって古地図(明治13年当時)出典は、「歴史的農業環境閲覧システム」。
 カギ型に曲がっている道が「水戸街道」。その中心が「新宿」の宿。中央の二股が「大堰枠」。上(北)が小合溜(水元公園)方向。地図の左(西)の流れが中川。左下が亀有からの「渡し」。水戸街道から右下に分かれている道が柴又街道(帝釈道)。
 これを見ると、当時は「大堰枠」は、小合溜からの流れが分岐する地点で、現在見られるようなたくさんの用水路(跡)は明治以降の用水路だということが分かる。「大堰枠」という地点名も後になって付けられたもののようだが。
 今回は、この近辺を探ってみた。用水路がすべて道路などに変貌し(広い道路、歩行者・自転車道、行き止まり・・・)、かつての面影は全くなくなってしまった。JRのガードを越えた、東京理科大校舎建設現場の前の広い道路もかつては用水路。旧水戸街道も国道6号線(現水戸街道)のために寸断されている。それでも、どこかに痕跡が残っていないか・・・。
右奥の道が「東用水」。手前の道が小さな用水路跡、右手の道も用水路跡(ただし、もともとの用水路跡は右の建物の裏手になる)。
正面の広い道が「上下之割用水」跡。南を望む。中央奥が現・水戸街道。
そばの団地の案内図にはまだ水路が掲載されています。「東用水」水路。
すっかり広い道路に変貌。「大堰枠」方向を望む。
少し前には工事中で、新金貨物線の鉄橋が残っていましたが、現在は立派な踏切に。
3年前の同じ地点。鉄橋が工事中の土砂の中に埋もれています。
柴又街道(帝釈道)と新金線の踏切近く。橋桁が残り、水路跡があります。
新金線の線路で行き止まりの歩行者道(用水路跡)。この先が「大堰枠」に通じる用水路跡の道に。
この道も用水路跡。左は公園。
東からの小さな用水路跡。正面が「大堰枠」。
水戸街道から少し北西に入ったところ。水戸街道と佐倉街道の分岐点近くの「金阿弥橋」が架かっていた用水路跡(用水路自体、それほど古くはない)。江戸時代には水戸街道はその分岐点から東に向かい、東用水を越えて北に進み、しばらく進んでから東北に向きを変えます。(北上する道は、現在、東用水路跡と重なって広い通りになっています。)
1990年版の地図。地図上でが「金阿弥橋」。赤い線が旧水戸街道。上方で右下に折れている赤線が「柴又道(帝釈道)」。用水路はそのまま記載されています。
現・水戸街道を越えた「東用水」は、「佐倉道」の東側の広い道路として高砂方面(南)に向かいますが、この用水路は「佐倉道」と「中川」との間を南に流れていきます。水戸街道から見た用水路跡。新しく歩行者道路になっています。
南の部分がまだ完成していないため、ほとんど歩行者もいないようす。
住宅の裏手に流れていたため、けっこうな段差が残っています。このあたりは「佐倉道」とにはさまれた細長い土地になっています。
行き止まり。排水機場跡。自転車置き場(駐輪違反の自転車?)。正面奥は中川の土手。
現在のポンプ場。
 東用水跡の広い道路は高砂に入って二つに分かれ(かつての用水路と同様)、佐倉道とも交差します。
1990年版の地図。 が水戸街道南側の用水路跡の歩道。下方二叉の部分()が西用水との分岐点。
分岐跡。どちらも京成電車のガードを抜けて南に進む。左(東用水)は親水緑道となって小岩方向に向かいます。
「東用水」・京成電車線路脇にあった「火の見櫓」。神社の境内地にありました。
新金貨物線「小松川街道踏切」を通過し、新小岩駅(進行方向・左)に向かう「貨物列車」。偶然出くわしました(9/21)。
 「小松川街道」という名称。「西用水」はそのまま南西に向かい(途中で「中用水」と分岐)、現在の小松川地区にまで続き、中川(京葉道路・中川新橋・東詰付近)に合流していました。その土手道を指していると思われます。新宿から小松川まで、一直線の道のようでした(新宿~高砂~新小岩~小松川~中川)。新中川・荒川の開削、さらに「環七」の開通などで寸断されてしまいましたが、ほぼ道路として残された水路跡を追うことができます。

   
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使い回しは、自民も、維新も同じように思いますが・・・

2012-09-25 20:08:48 | つぶやき
民主、限界人事 新役員内定 「この党は人がいない」「メリーゴーラウンドだ」(産経新聞) - goo ニュース
 これは民主党だけのことではない、というのが世間の冷めた目だと思いますが。。民主を目の敵にして自分たち好みの天下国家を大上段から振りかぶるのがお得意のサンケイ。自民党の総裁選、その後の人事をどう評価するか? 全員がお世継ぎ議員の争い。出戻り、(いまだに)叔父の七光り、(ひ弱な)大お坊っちゃん、エコノミー症候群、・・・。どの方も新鮮味には欠けます。
 維新も、新参議員と元首長の使い回しのパフォーマンス。中田さんを含めてそれぞれ「難」ありの商品。イトーヨーカ堂の安売りセールと同じ趣向。消費者を飛びつかせるのが目的。
 社民も共産もみんなも減税もいずこも人材不足。その間隙を縫って、いかがわしい連中も媚びを売り議席を狙って、右往左往。今や政党政治の限界となって、もっと訳の分からない連中の天下になったら一大事。さりとて期待すべくもなく・・・。
 朝日も「脱原発」路線の骨抜きで、もう完膚無きまで民主をぼろくそに叩く。民主、こうして全マスコミを相手に苦戦中。「自業自得」ということでもありますが。
 もしかすると、「使い回し」も戦術として大いにあり。一番いいのは、「使い潰し」とか「使い倒し」・・・。役に立たなくなったら、(商品価値がなくなったら、賞味期限が過ぎたら、自分たちが不利になりそうになったら、)即「首切り」して「お家は安泰」という高等(低級)戦術。民主党の場合、マスコミ的には「使い古し」ということになりますか。
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読書「詩人と戦争」「空白と責任●戦時下の詩人たち」(櫻本富雄)小林印刷出版部/未来社

2012-09-24 20:25:27 | 読書無限
 『死と滅亡のパンセ』(辺見 庸)を読み進めている中で、この著者の作品(とその一貫した姿勢)に触れていました。改めていくつかの作品を読みました。
 題名にも明らかなように、かつての「大東亜戦争」(太平洋戦争)、筆者は具体的には昭和16(1941)年から昭和20(1946)年の期間を指していますが、日本が中国戦線から太平洋戦線へ拡大し、ついには国内外に計り知れないほどの多くの人命を失い(奪い)、遂には、「敗戦」を迎えます。その戦争に一億国民を導く(扇動する)担い手として文化人、文学者の多くが、戦争遂行に荷担していきます。特に当時は「小国民」としてあった筆者の痛切な反省と自戒の上に立って、戦争賛美の作品を発表していった詩人たちへの戦争責任を追及したのが、この二冊の書です。「詩人と戦争」は1977年10月の刊行、「空白と責任」は、1983年7月の刊行。基本的な作品構成、内容は、「詩人と戦争」が先行、ただし、奥書では限定300部となっていますので、広範の人の目には触れなかったようです。その後、一般向けの書として後者が発刊されたと思われます。 
 その矛先は、積極的に戦争を賛美した詩を次々と発表し、あげく、若者を戦場に勇躍して送り込ませ、死に至らしめた、そうした行為を厳しく自己批判した高村光太郎などに向けられたものではありません。
 いっさいそうした自己批判もなく(口をぬぐい)、むしろ自らの戦争賛美の詩を後に改ざんし自らの所行を隠蔽していった草野心平、金子光晴の二人を取り上げて、戦後、いかに己の所行を隠蔽してきたかを厳しく追及していく。この二人は詩壇の押しも押されぬ重鎮中の重鎮。むしろ、戦争当時、我も我もと戦争賛美に傾いていった(別の見方では、息が詰まるような文壇、出版界の)中にあって、反戦、非戦を貫いてきた詩人として戦後高く評価されてくる人たち。そのために、吉本隆明、伊藤信吉などという著名な詩人、評論家を敵に回す作業でもあった。それにも臆せず、「戦い」を挑んでいきます。
 それは、3・11とりわけ福島第一原発事故を受けて、それまでいかに多くの文化人・文学に関わる人間が「原発」推進に手を貸し、ひとたび事故が起こるや、それまでの自らの言動への自己批判もなく、我関せずを決め込む「輩」への辺見さんの鋭い追求姿勢と重なっています。辺見さんは、自らの依って立つ姿勢によって、先駆的な「評論」活動として櫻本さんの著作を評価するわけです。
 改ざん、あるいは埋もれてしまった資料を明らかにし、改ざんされた詩と発表当時の詩を比較検討する、ある意味で、執念深く追求する姿勢は、筆者自身の自己否定・自己批判の姿勢と重なっていきます。こよなく詩を愛するが故の、詩人の発言です。
 一方で、これらの書が出版されて、30年近く。一頃、詩人全集などが発刊されてもてはやされた時代からもずいぶんと時が経ちました。詩が人の心をうち、慰め、勇気を与え・・・、戦争当時のように鼓舞する、いい意味でも悪い意味でも、そうした勢い・インパクトに欠けている現在(と思われます)。詩自体が、詩壇という仲間意識、あるいはサロン化されて閉塞状態にもあるように感じます。
 筆者たちが熱く論争した時代は、ある意味で詩のよき時代でもあったようです。さて、東日本大震災・福島原発事故以降の文芸界のあり方は果たして? 辺見さんやタカハシさんなどは積極的に打って出ていますが。
 
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堀切菖蒲園駅~区立青葉中付近(用水路跡をたどる。その2)

2012-09-23 11:47:21 | 河川痕跡
 駅のガードをくぐると、商店街に並行して北上します。この水路は古隅田川に沿うように東南側を流れていました。
賑やかな駅前の商店街。中央通りに面して水路跡にお店が立ち並んでいます。橋の欄干がそのまま残っていました。水路は下水道化されて流れていないはずですが。流れは左から右へ。
店の裏手。奥の水路跡はお店の裏側に細く続いています。完全にふさがれてお店の敷地になっている箇所もあります。
右が水路跡の歩道。少し建物がはみ出しています。南側を望む。
左は、JR綾瀬駅方向に向かう広い通り。用水路跡らしき上には、建物が並んでいます。狭く細長い土地です。右側(裏)にも歩道。
いったん広くなった歩道も少し狭まって建物が建っています。駅前からこのあたりまで、様々な事情がありそうな・・・。
小菅近くなると、ようやく本来の水路跡らしい歩道に。
水路跡も広くなり、歩道が続きます。駅から来た方角を望む。
建物の裏手を進む。緑道になっています。
分岐地点。左に進むのが区立青葉中学の脇を通ってて京成電車「お花茶屋」駅近くに続く水路跡。西側を望む。
 葛飾区内には農業用の水路が縦横に走っていました。その後、宅地化されて生活汚水などが流れ込み、淀んだ流れに。下水道工事の進展でだんだんとそうした水路が緑道や道路に変わってきました。なかには宅地化された箇所も・・・。
 用水路跡の探索で新たな発見もありそうです。
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ほめ殺し???

2012-09-22 12:03:08 | つぶやき
自民総裁選候補5人をズバッと…森元首相、独断で人物評(朝日新聞) - goo ニュース
 民主党の党首選。朝日ではレコードで言えばB面。A面が自民党総裁選。どのマスコミもスタンスは同様。自民党の次期総裁が次期首相になるとの前提なのでしょう。それにしても、その総裁選。候補者は、二世・三世議員。あまり代わり映えがしない。そこで、マスコミもおもしろおかしくかき立てる。そのなかで。

 9月20日、自民党の麻生太郎元首相が、秋葉原の街灯で総裁選候補の安倍晋三元総理の応援演説を行ったと、ウォール・ストリート・ジャーナルにより報じられた。麻生元総理は、約5000人の聴衆を前に、ついったーやフェイスブックで安倍元総理の話や感想を全国に伝えて欲しいと呼びかけた。
 秋葉原は、麻生元総理と安倍元総理が、小泉純一郎元総理の後継を争った2006年の総裁選で、敵同士として共に演説を行った因縁の場所だ。安倍元総理は、自分の為に麻生元総理が熱弁を振るってくれて、こんなに嬉しい事はないと持ち上げた。
 これらによる2ちゃんねるの反応
「本当は麻生カムバックなら、自民党は総選挙必ず勝てるんだけどな。」
「じっさい うれしいよな。」
「安倍は麻生のクーデーターで辞めさせられたのに恨んでないのかよ」
「民主の元首相2人も揃って演説してみれば?」
因縁の場所とされる秋葉原での応援。心が踊ったのは、安倍元総理だけではないだろう。
【記事:フェイトちゃん】
参考元:ウォール・ストリート・ジャーナル

 この男の失言癖は少しも直っていなかった。
 自民党総裁選(26日投開票)に立候補している安倍晋三元首相(58)が20日夜、秋葉原で開いた演説会に“助っ人”として駆けつけた麻生太郎元首相(72)。漫画やアニメ好きで、2年前の参院選以来の“聖地”での演説に気合が入りすぎたのか、安倍をさんざん持ち上げた後、こう口を滑らせた。
「安倍さんの健康がどうとか言っている人がいたけど、言っていた人の方が倒れた。健康というのは、人が(とやかく)言うんじゃない。自分が一番分かっているのだから」
 安倍の体調を不安視しながら、18日に入院した町村信孝元官房長官(67)を痛烈に批判したのだ。その瞬間、笑顔を振りまいていた安倍の顔は引きつり、陣営スタッフは頭を抱えた。
「安倍さんは町村派の所属です。今回、一本化できずに両者、出馬しましたが、もし安倍さんと石破さんの決選投票になった時は、町村派の大半が安倍さんに投票してくれる。町村さんは大切な“身内”なのです。それなのに大観衆の前でコケにした。そもそも今回の総裁選は、お互いの批判はしないというルールがあった。麻生さんは、相変わらず迷惑な人ですよ。本人は失言とも思っていないので、さらにタチが悪い」(安倍陣営の中堅議員)
 麻生の演説はニコニコ動画で生中継され、ユーチューブでもアップされた。町村陣営はカンカンで、すぐさま安倍陣営に抗議の電話をしたというから深刻だ。
 おとといは、民間人が主催した「安倍を応援する会」でも失言が飛び出した。安倍の熱烈な応援団で知られる田母神俊雄・元航空幕僚長が壇上で「人権救済法案が閣議決定されました。弱者が権力を握ろうとしています。国をつくってきたのは権力者と金持ち。言葉は悪いが貧乏人はおすそ分けにあずかって生きてきた」と発言。参加者はドン引きし、ネット上では「右翼バカ」「こんなやつの支援を受ける安倍さんは応援しない」との声が広がっている。
「大本命だった石原伸晃さんの失速で、タナボタ2位に浮上している安倍さんですが、今回の2つの失言が命取りになる可能性もある。残りの期間は他人に頼らず、自力で戦うしかありません」(党関係者)
 どいつもこいつも、レベルが低すぎる。 .
「ゲンダイネット」
 はたしてどうなるか?贔屓の引き倒し、さもなくばほめ殺し作戦。いやはや・・・。
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不満のはけ口がどこに向かうのか

2012-09-21 20:58:48 | つぶやき
生徒自殺の高校、私服登校指導…通行人が中傷で(読売新聞) - goo ニュース
 「通行人」というからには、地域の人なのだろうか。さもなければわざわざ出かけていき、生徒に向かって罵声を浴びせるのか・・・。学校教育、教師への不満が、「いじめ」問題では一気に露骨に現れてくるご時世。いじめ被害者の自殺。深刻な事態ではあるが、何とも空しい「大人」たちの対応。
 「登校中に見知らぬ人から『死ね』と言われ、・・・」。このニュースでマスコミが押しかけ、いっそう生徒・学校が混乱するのは避けたいと願うのだが、無理だろうか? 今のマスコミや「世間」に望むことは。
 政治、経済・・・、多くの場面で「閉塞感」が漂う中で、心(不満・不信)の行き所がはけ口を求めて、より「弱者」に向かう傾向すら感じる今日の状況。
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まだまだ暑さが続く。秋の夜空。花火。

2012-09-20 19:28:31 | つぶやき
 9月18日(火)。静岡・富士宮の花火。携帯電話で撮りました。このブログに掲載する写真はすべて、我が携帯電話のもの。出かけた先でパチリ。
 晴れている時は何とかいいのですが、悲しいかな、暗いところではなかなかうまくいかない。瞬間撮影に不向き。
 携帯電話の機能自体がちょっと前の機種なので、限界かもしれません。特に花火はうまく撮れない。去年はほとんど何を撮ったのか分からなかった。さて今年の出来は?
今年の花火。約40分。次々と打ち上げられました。
屋台も出て、地元の人も繰り出して、大盛況。
秋の夜空を飾る。
 雨が心配されたが、無事に。夜半からは、ひとしきり大雨でした。
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前車の覆るのを見ても・・・。

2012-09-19 22:28:33 | つぶやき
「原発ゼロ」新戦略、あいまい閣議決定 骨抜きのおそれ(朝日新聞) - goo ニュース
 「八ッ場ダム」「普天間基地」・・・、他にも数々の大胆な政策転換実現への大風呂敷。かっこよくぶち上げて、すぐに収拾がつかなくなって、まるっきり正反対の方針に変更。かえって不信(失笑)を買う(多くの票を失う)。
 3年間余り、何度も何度も何度も、同じ事のくりかえし。そのたびに全く教訓にしない(できない)方々というのも、実に希有な存在。思想信条もなき烏合の衆、と言われてもしかたがないか。
 今回は先手を打って「曖昧路線」にしようという方針。かえって賛否双方に大きな「不信感」を・・・。これ、民間企業だったら、消費者にも、働く者にも、金融機関にも総スカンを食って、とっくに倒産の憂き目に。
 そういう事態が目の前に来ているのに、それすらも危機感もなく相変わらずの右往左往。
 政権交代直前の自民党のごたごたぶりも見て「反面教師」として見ていたはずなのに。この際、いにしえの知恵、ことわざ・格言を学んだ方がよさそう。
「前車の覆るは後車の戒め」。少しも学ぼうとしない。その本質は、所詮、「身から出た錆」ですか。「鼎の軽重」が問われている瀬戸際なのに・・・。
 自民党も「対岸の火事」ではないはずだが、ここはここで、うかれているのみ。
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地盤・カンバン。政治家の相続。

2012-09-18 18:38:16 | つぶやき
武部氏「声なき声、求めている」と不出馬表明(読売新聞) - goo ニュース
 きれい事を話す偉大なイエスマン。息子に後を継がせるだけの話。上役だったコイズミさんと同じ手法。最後までイエスマンでした。今回の自民党総裁選挙候補も全員が二代目、三代目。民主党もどうかと思うが、自民党もまったく反省の色がない。それでも、今度の選挙で政権復帰。野党になったときの総裁選には今回の5人、誰も出なかった。今回は都合よくなって、とたんに5人も相続議員が・・・。いやはや。
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「堀切菖蒲園」~京成電鉄「堀切菖蒲園」駅(用水路跡をたどる。その1)

2012-09-17 19:22:40 | 河川痕跡
 JR「綾瀬」駅東方、高架線をくぐるあたりで古隅田川から分岐し、南下する用水路は葛飾区立青葉中学校の北側で、今度は西と南に分かれます。南に向かう用水路は、南東へ蛇行しながら、区立双葉中学校の東側を通って左折し、曳舟川方向に向かいます。もう一方は、南西に下って平和橋通りの脇を通り、京成電車「堀切菖蒲園」駅のホーム下をくぐって、「区立堀切菖蒲園」の北に。そして、綾瀬川に合流していました。今回は、綾瀬川合流点跡から堀切菖蒲園駅までの探索です。
 「葛飾区立堀切菖蒲園」は、花菖蒲の名所として知られ、京成電車「堀切菖蒲園」駅の南西500mほど(徒歩約10分)のところにあります。貴重な江戸系花菖蒲を中心に、200種6000株の花菖蒲が植えられており、見ごろは、6月の中旬。その頃は訪れる人々でにぎわいます。その歩行者道路が今回の用水路跡。正門前の広い道ではなくて(この道も用水路跡ですが)、一本北側、マンションの小道がそれです。
向かい側が綾瀬川。かつては綾瀬川に流れ込んでいました。
綾瀬川合流点からの最初の橋。「中田橋」という橋名が残されています。ここから歩行者道。かつての用水路跡。
水の流れこそありませんが、手入れの行き届いた植木が続く落ち着いた道。
その用水路跡の一本北側の広い道。この道は、明治時代末期に荒川放水路が開削される以前は、対岸の鐘淵から通じていた「古道」のようです。JR綾瀬駅の南東付近で日光街道・千住の宿から分岐した「水戸街道」と合流します。この道は隅田川の左岸(東側)を通って江戸市中に向かっていたと思われますが、現在では、まったく見当がつきません。荒川放水路の開削によって分断された道路や土地が多くありました(四股。木根(下)川。堀切・・・)。
明治13年の頃。かつての堀切橋(現在よりも南の地点の荒川に架かっていた)に通じる道につながって現在の中央通り・平和橋通りと続いていたようです。地図中「村」という字の左あたりが現在の荒川・綾瀬川の土手。地図の左下、北西から南東に斜めに続く水路(綾瀬川から中川へ通じていたもの)は荒川放水路の開削で消滅した(鐘ヶ淵付近で隅田川と合流していた綾瀬川も荒川と並行する水路に変更された)。
住宅の裏を縫うようにして続く。
唯一、短いですが、モニュメント風の流れがありました。
「堀切菖蒲園」駅近く。人通りも多く、道幅も広くなっています。かつても広い水路でした。
道ばたに橋名が残されていました。「毛無池橋」。
駅横の商店街。ここには小高い樹木があってかつての用水路の雰囲気が残っていました。ガード下から南を望む。
駅ホーム下の地下道。用水路跡。ここから綾瀬・小菅方向へ。

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小岩市川関所。(佐倉道その3)

2012-09-16 21:54:40 | 歴史・痕跡
 北小岩は佐倉街道(成田街道)、元佐倉街道(千葉街道)、岩槻街道(篠崎街道)が交差・合流する交通の要所でした。参勤交代のみならず、江戸の後半には、さいたま市岩槻の慈恩寺、成田市の新勝寺、千葉市の千葉寺などへの参詣で大勢の旅人が行き来していました。必ず通過しなければならない関所もありました。そのため、文化財・旧跡が多い場所でもあります。じっくり歩けばまだまだ興味深い発見があるところのようでした。
江戸川の土手から御番所町跡(西方)を望む。
対岸の市川市側にある「関所跡」のモニュメント。
立派な説明板。
 それには、「・・・関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。・・・明治2年(1869年)に『関所廃止令』が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。平成16年7月 市川市」とある。
関所跡から対岸の小岩を望む。護岸工事で江戸時代よりも大きな川幅にはなっている。右に見えるのが京成線の鉄橋。河川敷あたりがかつての渡船場なのか。
市川橋。「千葉街道」。市川橋の西詰付近で南西に折れる「千葉街道」と分かれて西に向かう広い道路は「蔵前橋通り」。歩いて渡るとけっこうな長さ。橋の正面奥に見えるのはスカイツリー(右の方)。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
江戸川を渡ると道は南東へ折れる。(「同」より)
正面が千葉街道。右(西)から来た道路は「蔵前橋通り」。ここから「千葉街道」となって市川に向かう。「江戸川」交差点。
旧千葉街道沿いの「一里塚」跡。バス停名と篠崎街道(岩槻街道)との交差点名に残っている。
「千葉街道」と交差する通りは、「岩槻街道(篠崎街道)」。この道は、岩槻方面へ行徳の塩などを運ぶ道でもあった。「岩槻街道」はそのまま北上し、「善兵衛樋」(「道標」)付近で「佐倉道」と交差して江戸川右岸沿いに北に向かった。古地図で見ると、田んぼの中の広いあぜ道という感じだが。

(「同」より)。北小岩付近。中央の道は、「岩槻街道」、右が「佐倉道」。
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