県道に出てしばらく進むと、左手に「学生歌 デカンショ節発祥の地 江戸屋旅館跡」碑。
大正から昭和にかけて学生の間でデカンショ節という歌が大流行しました。この歌は明治31年から八幡の江戸屋旅館を本拠に合宿を始めた一高水泳部がつくりだしたものです。もともとは丹波篠山の民謡デコンショで、偶然江戸屋に投宿した篠山の青年たちから水泳部員に教えられて、デカンショ節が生み出されました。これを記念して江戸屋跡地にデカンショ節発祥の地の記念碑が建てられています。古式泳法を伝える安房泳法会は、一高水泳部の水府流・神伝流の伝統を受け継いでいるものです。
(この項「館山市立博物館」HPより)
一方、
デカンショ節の起こりは、廃藩置県後、東京に出た旧藩主青山忠誠(ただしげ)の子忠允(ただこと)や上京した篠山出身者が、篠山の盆踊り歌「みつ節」(デコンショ)にふるさとを想う歌詞をつけて唄ったことにあります。
♪デコンショデコンショと皆さんと共に コラコラ 歌いましょかい ふるさとを ヨホイヨホイ ♪空を凌げる旧城の松に 思い起こせよふるさとを |
当時の青山家の寄宿舎 |
など郷愁の念が強く現れています。
さらに
♪丹波篠山鳳鳴の塾に 文武鍛える美少年 |
1998年の寮歌祭の風景 |
といった今も歌われる名文句から
青山忠允と学友 |
♪山の深山の山家のせがれ 質素武勇が本色じゃ ♪丹波荒熊 男の肝に 爺これ見よ 毛が生えた |
など豪快な歌詞が多かったのでした。
旧制一高生との出会い
1898年館山・江戸屋旅館での旧制一高生との偶然の出会いを生んだのもこの豪快な歌詞のためであったでしょう。
一高生は寮生活に持ち帰り、ストームとデカンショ節が寮生活になくてはならないものとしました。そしてわずか1,2年のうちに全国に大流行となりました。
このころ、夏目漱石が「我が輩は猫である」に「いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波の国は篠山から昨日到着し立てでござるといわれぬばかりに黒く逞しく筋肉が発達している」と書いているのもこの歌詞のためではないでしょうか。
一高で歌われていた歌詞としては
♪デカンショデカンショで半年暮らす
あとの半年寝て暮らす
♪丹波篠山鳳鳴の塾で
文武鍛えし 美少年
♪丹波篠山山家の猿が
花のお江戸で芝居する
といった今もポピュラーなものから
♪デカンショデカンショが赤門の前で
おでん 燗酒 いなりずし
♪ほんに一高は不思議なところ
星のある夜に雨が降る
♪ほんに独逸語は夫婦の喧嘩
「ダス」の「デル」のと大騒ぎ
♪一部あたまを叩いてみれば
権利権利の音がする
など当時の寮歌としての雰囲気を十分に伝わっています。
地元篠山に逆輸入されたデカンショ節は公募され
デカンショ風景 |
♪北と南に分かれて落ちる 鼓峠のさかれ水 ♪さかさ釣して あの光秀の 母を殺したやぐら松 |
など篠山地方の地域性を色濃く出した歌が作られています。
大正末期の頃までに現在のデカンショ節のほとんどがつくられています。
1930年~終戦のころまでに作られた歌は記録として残っていません。
また、
丹波篠山は、伝統が生きるデカンショのまちである。デカンショ節の元唄は、この地方の古い盆踊り唄「みつ節」である。これが明治の中頃、旧篠山藩主、青山忠允の教育係をしていた亘理章三郎が作った「デッコンショ」が明治31(1898)年夏、房州館山の江戸屋旅館で旧制第一高等学校の生徒らに伝えられ、「デカンショ」と変じた。最初は学生歌、バンカラな書生節で、明治、大正にかけて日本全国に広がっていった。
デカンショ節は今では歌詞も情緒纏綿としたものも増え、幅広く日本の代表的な民謡となり、丹波篠山に住む人たちの連綿として流れる生活の営み、文化そのものを表現している。
戦後、それまで各地区別に行われていた盆踊りを統一し、昭和28(1953)年8月に第1回デカンショ祭が開催され、幾多の変遷を経て、現在のように篠山城三の丸広場での盛大な祭りに発展している。
丹波篠山の人たちの尽きることのない、あふれるばかりのエネルギーがデカンショ節を歌い、デカンショ節を踊って熱狂する。感動のるつぼと化して完全に燃え尽くしてしまい、また新しいエネルギーを生み出していく。デカンショは丹波篠山の人たちの生き甲斐である。
人影無き市民グランドの中央の、デカンショ祭の囃櫓の跡に一人静かにたたずめば、地の底からデカンショ、デカンショと響いてくる。天守台の石垣からデカンショ、デカンショとこだましてくる。
と「」HPで詳しく解説されています。
注:「篠山(ささやま)」市は、2019年に「丹波篠山(たんばささやま)」市と市名を変更している。「丹波篠山黒豆(黒枝豆)」、「丹波栗」などが特産品。
この歌詞と旋律は覚えています。
「デカンショ」は「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略だと思っていましたが、どうも単なる囃子ことばのようです。
その先には、養蜂園が。
販売とカフェも併設。「ひふみ養蜂園」。
左から「菜の花はちみつ」、「桜はちみつ」、「枇杷はちみつ」。
(この項、「ひふみ養蜂園」HPより)
「鶴谷八幡宮」前。
左に折れて進むケースが多いですが、このまま直進します。
マキの生け垣の見事なつらなり。
近所の団地の南側にもマキの生け垣があります。見事とはいえませんが、けっこうな連なり。
実がなりかかっています。
熟すとこんなかたちに。下の部分は食べられるそうです。(「」より)
商店街に入ります。
「館山駅東口」交差点。
寂しい商店街。シャッターの閉まった店も多い。
「内房線」の踏切を越えます。
「館山駅」方向を望む。
踏切を越えてすぐに右斜めの道に。「汐入川」沿いの道。
「潮留橋」へ到着。「房総往還」(船橋~館山)がここで一区切りとなります。
「汐入川」。
上流方向。
来た道を振り返る。
案内図。
「下町」から「宮城」にかけて旧市街が広がります。
「下町」方向。
1880年代のようす。○が潮留橋。 2010年代のようす。上方に館山駅。