おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

内房線「富浦駅」~「館山駅」。その5。デカンショ節。ひふみ養蜂園。館山駅。潮留橋。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-31 19:58:11 | 房総往還

県道に出てしばらく進むと、左手に「学生歌 デカンショ節発祥の地 江戸屋旅館跡」碑。

大正から昭和にかけて学生の間でデカンショ節という歌が大流行しました。この歌は明治31年から八幡の江戸屋旅館を本拠に合宿を始めた一高水泳部がつくりだしたものです。もともとは丹波篠山の民謡デコンショで、偶然江戸屋に投宿した篠山の青年たちから水泳部員に教えられて、デカンショ節が生み出されました。これを記念して江戸屋跡地にデカンショ節発祥の地の記念碑が建てられています。古式泳法を伝える安房泳法会は、一高水泳部の水府流・神伝流の伝統を受け継いでいるものです。

(この項「館山市立博物館」HPより)

一方、

デカンショ節の起こりは、廃藩置県後、東京に出た旧藩主青山忠誠(ただしげ)の子忠允(ただこと)や上京した篠山出身者が、篠山の盆踊り歌「みつ節」(デコンショ)にふるさとを想う歌詞をつけて唄ったことにあります。

♪デコンショデコンショと皆さんと共に コラコラ
 歌いましょかい ふるさとを ヨホイヨホイ


♪空を凌げる旧城の松に
 思い起こせよふるさとを
当時の青山家の寄宿舎の写真
当時の青山家の寄宿舎


など郷愁の念が強く現れています。
 さらに

♪丹波篠山鳳鳴の塾に
文武鍛える美少年

1998年の寮歌祭の風景の写真
1998年の寮歌祭の風景


といった今も歌われる名文句から

青山忠充の学友の写真
青山忠允と学友
♪山の深山の山家のせがれ
 質素武勇が本色じゃ

♪丹波荒熊 男の肝に
 爺これ見よ 毛が生えた


など豪快な歌詞が多かったのでした。

旧制一高生との出会い

 1898年館山・江戸屋旅館での旧制一高生との偶然の出会いを生んだのもこの豪快な歌詞のためであったでしょう。
 一高生は寮生活に持ち帰り、ストームとデカンショ節が寮生活になくてはならないものとしました。そしてわずか1,2年のうちに全国に大流行となりました。
 このころ、夏目漱石が「我が輩は猫である」に「いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波の国は篠山から昨日到着し立てでござるといわれぬばかりに黒く逞しく筋肉が発達している」と書いているのもこの歌詞のためではないでしょうか。

一高で歌われていた歌詞としては

♪デカンショデカンショで半年暮らす
 あとの半年寝て暮らす

♪丹波篠山鳳鳴の塾で
文武鍛えし 美少年

♪丹波篠山山家の猿が
花のお江戸で芝居する

といった今もポピュラーなものから

♪デカンショデカンショが赤門の前で
 おでん 燗酒 いなりずし

♪ほんに一高は不思議なところ
 星のある夜に雨が降る

♪ほんに独逸語は夫婦の喧嘩
 「ダス」の「デル」のと大騒ぎ

♪一部あたまを叩いてみれば
権利権利の音がする

など当時の寮歌としての雰囲気を十分に伝わっています。

地元篠山に逆輸入されたデカンショ節は公募され

デカンショ風景の写真
デカンショ風景
♪北と南に分かれて落ちる
 鼓峠のさかれ水

♪さかさ釣して あの光秀の
 母を殺したやぐら松


など篠山地方の地域性を色濃く出した歌が作られています。
 大正末期の頃までに現在のデカンショ節のほとんどがつくられています。
 1930年~終戦のころまでに作られた歌は記録として残っていません。

また、

丹波篠山は、伝統が生きるデカンショのまちである。デカンショ節の元唄は、この地方の古い盆踊り唄「みつ節」である。これが明治の中頃、旧篠山藩主、青山忠允の教育係をしていた亘理章三郎が作った「デッコンショ」が明治31(1898)年夏、房州館山の江戸屋旅館で旧制第一高等学校の生徒らに伝えられ、「デカンショ」と変じた。最初は学生歌、バンカラな書生節で、明治、大正にかけて日本全国に広がっていった。
 デカンショ節は今では歌詞も情緒纏綿としたものも増え、幅広く日本の代表的な民謡となり、丹波篠山に住む人たちの連綿として流れる生活の営み、文化そのものを表現している。
 戦後、それまで各地区別に行われていた盆踊りを統一し、昭和28(1953)年8月に第1回デカンショ祭が開催され、幾多の変遷を経て、現在のように篠山城三の丸広場での盛大な祭りに発展している。
 丹波篠山の人たちの尽きることのない、あふれるばかりのエネルギーがデカンショ節を歌い、デカンショ節を踊って熱狂する。感動のるつぼと化して完全に燃え尽くしてしまい、また新しいエネルギーを生み出していく。デカンショは丹波篠山の人たちの生き甲斐である。
 人影無き市民グランドの中央の、デカンショ祭の囃櫓の跡に一人静かにたたずめば、地の底からデカンショ、デカンショと響いてくる。天守台の石垣からデカンショ、デカンショとこだましてくる。

と「」HPで詳しく解説されています。

注:「篠山(ささやま)」市は、2019年に「丹波篠山(たんばささやま)」市と市名を変更している。「丹波篠山黒豆(黒枝豆)」、「丹波栗」などが特産品。

この歌詞と旋律は覚えています。

「デカンショ」は「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略だと思っていましたが、どうも単なる囃子ことばのようです。

その先には、養蜂園が。

販売とカフェも併設。「ひふみ養蜂園」。

    

     左から「菜の花はちみつ」、「桜はちみつ」、「枇杷はちみつ」。

               

(この項、「ひふみ養蜂園」HPより)

「鶴谷八幡宮」前。

左に折れて進むケースが多いですが、このまま直進します。

マキの生け垣の見事なつらなり。

        

近所の団地の南側にもマキの生け垣があります。見事とはいえませんが、けっこうな連なり。

実がなりかかっています。

熟すとこんなかたちに。下の部分は食べられるそうです。(「」より)

 

商店街に入ります。

「館山駅東口」交差点。

寂しい商店街。シャッターの閉まった店も多い。

「内房線」の踏切を越えます。

「館山駅」方向を望む。

踏切を越えてすぐに右斜めの道に。「汐入川」沿いの道。

               

「潮留橋」へ到着。「房総往還」(船橋~館山)がここで一区切りとなります。

「汐入川」。

上流方向。

来た道を振り返る。

案内図。

「下町」から「宮城」にかけて旧市街が広がります。

「下町」方向。

                                       

1880年代のようす。○が潮留橋。                        2010年代のようす。上方に館山駅。

                                                                                                                                                           

 

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その4。那古寺。平久里川。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-28 20:04:21 | 房総往還

                     右手にも古風なおそば屋さん。「明月庵」。

                                                            古民家そのもの。

その先に「那古寺」通称「那古観音」。古刹。伝によると710年、行基の開基、とか。

今年の祭礼は山車5台、屋台1台の引き回しは行わず、祭典のみとなったようです。 

潮音展望台」が左手の高台に。(「Googleマップ」より)

ここも古い酒屋さん「喜寿屋」。この付近は、けっこう昔からの門前町だったようです。

先に進みます。かつては倉庫?

左手の住宅には「マキの生け垣」が続きます。

路地の両側にずっと先まで。

これはマキではありませんが、見事な生け垣。

「平久里川」手前、右手の旧道に入ります。

途中の小川、けっこうきれいな流れ。

左手には農地が広がる。

そのまま進むと、「平久里川」に突き当たります。

下流を望む。

行き止まりになってしまうので、戻ります。

この道が旧道だったような気が。

県道に出て、「湊橋」で「平久里川」を渡ります。

内房線鉄橋、河口付近を望む。

「セブンイレブン館山湊店」の東側に旧道が続きます。

先ほど行き止まりになった対岸を望む。

上流を望む。

再び、旧道を進む。

県道(「内房なぎさライン」)に復帰。

振り返る。右が旧道、左が県道。

この付近の今昔。

                                  

1880年代のようす。橋が架かっていたようです。         2010年代のようす。○が分岐点。鈎型の旧道は不明。

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その3。那古船形。内房線。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-27 20:06:13 | 房総往還

                    館山湾方向。

左手は房総の丘陵。緑が濃い。

海岸沿いのおうち。眼下に海が広がる。

南国情緒漂う別荘。

左手中腹に「崖の観音」として有名な「大福寺」。

海側を望む。

「船形漁港」方向に進みます。

古いおうち。奥の方にも廃屋が。

真っ直ぐ進むと漁港。旧道はここを左折。

閑散とした街並み。右手の旧道に。

 県道に復帰。

1880年代のようす。○が左折点。↓が旧道。

2010年代のようす。漁港が下方に。

新盆の飾り付け? この地域の風習なのか。

左手奥に内房線「那古船形」駅があります。駅名の由来は、「那古寺」と「船形漁港」からきているとか。

 ところで、内房線。君津を過ぎると単線。この房総往還の歩きで何回も利用しましたが、乗降客は、ほとんどいませんでした。いつもの夏場のシーズンは賑やかなのか、今年は千葉県内の海水浴場が全て閉鎖されているせいもあるのか? それとも・・・。

 そこで、乗降客一覧。

内房線 - 駅別乗降客数データまとめ(「station.kkty.jp」による)(上位順)

蘇我駅 63220人/日 (2015年)
五井駅 37304人/日 (2015年)
木更津駅 27602人/日 (2015年)
八幡宿駅 23702人/日 (2015年)
姉ヶ崎駅 20852人/日 (2015年)
君津駅 16792人/日 (2015年)
浜野駅 14106人/日 (2015年)
長浦駅 12334人/日 (2015年)
袖ヶ浦駅 9176人/日 (2015年)
館山駅 3764人/日 (2015年)
巖根駅 3600人/日 (2015年)
青堀駅 2960人/日 (2015年)
安房鴨川駅 2828人/日 (2015年)
大貫駅 2264人/日 (2015年)
上総湊駅 1612人/日 (2015年)
南三原駅 1024人/日 (2015年)
千倉駅 834人/日 (2015年)
安房勝山駅 672人/日 (2015年)
浜金谷駅 612人/日 (2015年)
岩井駅 594人/日 (2015年)
佐貫町駅 562人/日 (2015年)
保田駅 560人/日 (2015年)
富浦駅 466人/日 (2015年)
那古船形駅 368人/日 (2015年)

                         

5年前の資料なので、現在はもっと減少? 特に「佐貫町」以降南の駅の減少が目立ちます。「那古船形」と同じ無人駅の「竹岡」は100人台のようです。「那古船形」は、「竹岡」に次ぐ少なさ。また、「安房勝山」駅に次いで2駅目の棒線化となっています。

(棒線化=鉄道においてポイントも側線も持たない停車場。列車の行き違い・待避設備のない停車場

 内房線全体が、モータリゼイションの変化、特に東京湾アクアラインや館山道などの自動車専用道路の拡充・整備の影響が大きいのでしょう。君津以降は単線となり、1時間に1本程度。かつて平日日中にも運転していた特急が廃止され、土日のみ「新宿さざなみ」として運行されるのみに。

 町の衰退も気になるところです。土日に歩いてもお店は閉まっているし、人通りもほとんどなし。車はけっこう通りますが。対岸の三浦半島の現状と比べて、その差は格段です。

内房線のガードをくぐり、道なりに右折します。

                         勤王屋酒店。ネーミングの由来が知りたいところです。

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その2。槇(マキ)の生け垣。房州うちわ。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-25 19:48:10 | 房総往還

         「多田良」で国道から離れ、県道302号線(「内房なぎさライン」)へ。さらにその先を右折します。

           

                                

1880年代のようす。                      2010年代のようす。

静かな道を進む。両側はマキの生け垣。見事な景観。

枇杷の畑。

この先よく見かける「マキ(槇)」の生け垣。

館山市内には、マキ(イヌマキ)の生垣が多く見られます。マキは、千葉県の木にも選定されており良く知られた樹種ですが、館山市をはじめ県南部では、防風、防潮、防火などの効果を目的に家の周囲を生垣で囲う際、この木を用いることが多いようです。マキがよく生垣に用いられるのは、塩分に強い性質であること、砂地に適した木であることに加え、刈り込むほど枝が密になるので、冬の西風が強い房州では風避けにも適しているだからだと言われています。

(この項、「」HPより)

館山市内だけでなく、ここ南房総市など房総半島ではよく見られるマキの生け垣です。

斜め左に折れて、県道に合流。

沿道には、マキの生け垣が続きます。

「うちわの太田屋」という看板が。

うちわの太田屋

房州うちわは、温暖な南房総は「うちわ」の材料となる良質な篠竹に恵まれています。漁師の婦人や老人の手内職として大正時代末期~昭和初期にかけて「うちわ」の生産地として発展してきました。全国でも最高と言われる安房地方の女竹を使用した丸柄の「房州うちは」は、竹の皮むきから始まる24の工程すべて1本1本が手作りです。太田美津江さんも代々続くうちわ職人の家系で生まれました。昭和59年度(1984年)に千葉県の伝統的工芸品の指定を受けた父の太田一男さんからその技術を受け継ぎました。

施設名

うちわの太田屋

所在地

〒299-2404 千葉県 南房総市 富浦町多田良1193

営業時間

お越しの際は事前にご連絡ください。

千葉県伝統的工芸品(平成9年度(1997年)選定)です。ちりめん地・ゆかた地を貼った、昔ながらの紙を貼ったものもあります。「うちわ」の形は変えられません、色や柄や材質に工夫をこらしています。1本の丸竹で柄から面まで作ります。普段でも気軽に使いやすく、贈答用にも大変喜ばれています。房州うちわは、国の伝統的工芸品(平成15年3月16日指定)です。

(この項、「千葉県公式観光情報サイト-まるごとe!%20ちば-」HPより)

         (写真は、「房州うちわ振興協議会」HPより)

この先で「館山市」に入ります。

右手に海が見えてきます。

               

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その1。枇杷倶楽部。万祝。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-24 20:26:05 | 房総往還

                    ステンレス製のオブジェ「幸福のびわの木」

                       

「国道127号線(内房なぎさライン)」に復帰。

 前回の到達地点・岩井からの旧道として、

①木の根峠越えの道。但し、現在の、木の根峠越えの県道とは異なる。

                                     1880年代のようす。道はしっかりしていたようです。館山に行く最短距離の道。

                                     2010年代のようす。旧道が破線で記されているが、はたして現状は?

②内陸に入り富山南麓から平久里川に沿う道。

③海岸沿いの道。途中、山間部に入る。現在の道は、海岸沿いで、トンネル多し。

                                     1880年代のようす。山間部の道。

                                     2010年代のようす。旧道は破線(右)か? 途中、不明。

とあるようです。

①はほとんど廃道同然になっているようです(昨年の台風の影響もまだ残っているか? )。②のルートは、『南総里見八犬伝』と里見氏ゆかりの地を訪ねる道筋で、先達の記録では、①の冒険談もありますが、②を歩く方が多いようです。

「房総往還 | 旧街道地図・高低図 - GPSCycling」 

「歴史的農業環境閲覧システム」

では③の海岸沿いの道(一部廃道)が表示されています。

真夏の歩き。ここは体調も考え、今回、「岩井―富浦」間はで移動(「浜金谷―保田」と同様に)することに。9日目、10日目と後半は、街道「歩き」ではなくなってしまいました

富浦駅に到着。国道との丁字路のところに、ビワのオブジェ。この地域一帯は、枇杷の産地として有名なようです。「国道127号(館山バイパス)」沿いにある道の駅の名称も、

「道の駅とみうら枇杷倶楽部」

 1993年に千葉県初の道の駅としてオープン。富浦町は枇杷の産地としても有名で、5月上旬~6月下旬にかけては、びわ狩りの体験もできます。また、びわを使ったオリジナル商品の販売なども行われています。

 2000年(平成12年)3月には全国道の駅グランプリで最優秀賞を受賞し、2004年(平成16年)11月にはびわワインを復活、2006年(平成18年)1月にはびわ葉茶工場を新設して新装開業。2015年(平成27年)度には全国モデル道の駅に選定されたそうです。

(この項、「」HP参照)

というわけで、お土産に。

沿道は新築のおうちが目立ちますが、裏手には昔らしいおうち。

旧道は、南に向かいます。

「岡本川」河口方向。右手は海です。  

左手のおうち。↓に注目。「紺屋歴史資料室」。万祝・武具・民具。

私設の資料館のようです。「海軍用地第三六五號」も収集品の一つ?

ここを訪れた方の記事がありますが、室内は万祝や神輿、軍関係など豊富な資料が所狭しと展示されているようです。

万祝(まいわい、正字体:萬祝)とは、漁師の晴れ着として作られてきた和服の一種。江戸時代から漁師の間で広まった民俗的衣装で、江戸時代の房総半島の漁村が発祥といわれる。その後、広く太平洋岸の漁村にも広まった。

起源は、大漁祝いの引き出物として船主や網元が漁師に配った祝い着であるとされ、長半纏を染め上げたものだったという。柄は、黒潮を表す藍色で文字を染め抜いた地味なものもあるが、多くは鶴亀・宝船・鯛など、縁起の良いものを多色染色で鮮やかに描いている。その鮮やかさは「漁民民芸の結晶」と呼ぶ者もいるほど。生地は、通常は木綿が使われるが、稀に絹が使われた事例も見られる。房総で万祝の技術を継承する染物屋は鴨川市などの2軒に減ったが、その染色技法は、大漁旗づくりや現代ファッションにも転用されているほか、各地に伝わって民芸品などに活かされている。

正月の参詣などで漁師仲間が打ち揃う時には、全員がこの衣装をまとって道を練り歩き、沿道の人々の目を引いたという。太平洋戦争前は、万祝を羽織った漁師が神前で宴会を開いていた。万祝の風習は太平洋岸の静岡県から三陸海岸北部の青森県内まで広く伝播した。最盛期は、江戸期を過ぎて明治から大正にはいってからであったとされる。これが廃れるのは、昭和30年代以降である。漁師への祝儀が実用的なジャンパーや家電製品に変わっていったなどが背景にある

(この項、「Wikipedia」より)

第18回 萬祝まいわい紺屋亦右エ門こうやまたえもん


網の中の鰹がすそ模様のめずらしい萬祝

 内房・富浦町の小林栄一さん(75歳)は、父親の代まで萬祝紺屋まいわいこうやを職としてきた。小林家は家業を継ぐと亦右エ門と改名する。8代前までの亦右エ門は分かっているそうだが、それ以前は、もらい火で寺の過去帳が消失し、さだかではない。紺屋は主に藍を使って反物などを染める仕事で、他に紅屋、茶屋とそれぞれ得意の色で分かれている。紺屋は、日本人のほとんどが着物を着ていた時代に繁盛し、着物がすたれるにつれて、止めたり、同じ布や水を扱うということでクリーニング業に転じた家も多い。小林さんの父親・亦右エ門は、明治の生まれで、西行さいぎょうと呼ばれる染色職人を10人ほどかかえていたが、終戦後は大型洗濯機(当時ワッシャと呼んだ)を2台入れて、クリーニング屋を始め、小林さんの代に至っている。

 萬祝は、大漁祝いなどで船主から乗子に贈った正月の引き出ものである。江戸中期から流行はやりだした漁師の丹前(綿わた入りの防寒着で、関東のどてらと似ている)で、藍染めに朱色などを使って、あざやかな絵柄が染め上げられている。鶴亀、恵比寿・大黒、波に魚や千鳥、三人囃(ばやし)など、船主は紺屋の型紙から図柄をえらんぶ。紺屋亦右エ門の萬祝は、人物をテーマにした図柄が多い。複雑で手間が多く、染でごまかしがきかないという。

 小林さんは以前、テレビの「なんでも鑑定団」に亦右エ門の萬祝を出したことがある。本人は5万、10万と評価額を付けていたら、“オープン・ザ・プライス60万円!”と出た。萬祝で網にかかったかつおの図柄は見たことがない、という理由から値付けが上がった。
 古いもの、珍しいものを、こよなく愛する小林さんは、50歳のころから骨董を集めだした。現在、家の近くに、私設博物館「紺屋歴史資料館」を開いてる。壁を飾る見事な萬祝をはじめ、兵隊人形、江戸の虫売りがかついだ駕籠かご、南総里見八犬伝本と八犬伝版画、日本一大きいくじらのペニス、代々の亦右エ門が使った藍瓶あいがめなどなど。

・・・

(この項、「 」HPより)

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その8。東京湾フェリーかなや丸。(「房総往還」をゆく。番外編。)

2020-08-14 20:48:56 | 房総往還

                     遠ざかる船。すれ違う船はほとんどありません。

のんびりと景色を眺める。

                

  三浦半島が次第に近づいてきます。

          

カモメが近づいてきます。

カップルが投げるお菓子に。

        

    

そうしているうちに「久里浜港」に。

 

接岸。ささやかな、でも久々の船旅も終了。そこからバスに乗って、京急久里浜駅まで。

久里浜は横須賀に近いだけあって、都会的な雰囲気。房総ののどかな田園風景とはまったく違う!

久里浜港の遠く向こうに房総半島が。

「房総往還」の旅も、次回で最終回となりそうです。館山まで歩くことに。しかし、コロナウィルス感染症の第二波蔓延で、はたしていつ行けるか?

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その7。東京湾フェリーかなや丸。(「房総往還」をゆく。番外編。)

2020-08-13 21:12:45 | 房総往還

                   東京湾フェリー「かなや丸」から。

出港直前に駆け込み乗船。何とか間に合ってホッと一息。「久里浜港」まで約40分の船旅です。初めての体験。

 

遠ざかる「浜金谷港」、房総の山々。

        

      

 

あまり乗客はいません。車なしで乗船する方もいるようです。

デッキは閑散としています。

 上空にカモメ。

北方向を望む。遠くに工場の煙突群。

        大型船と行き交う場面はなし。

    

カモメがついてきます。

上総湊方向。

もう一つのフェリーとすれ違う。「くりはま丸」。

進路が少し北寄りに。

東京湾も大海原という感じ。

南側を望む。この先は太平洋。

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その6。「大五郎」踏切。岩井民宿のまち。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-11 19:39:43 | 房総往還

                   左手に山里らしい風景が開けてきます。

「県道89号線」の高架下をくぐり、民家の脇を抜け、県道脇の細い道(旧道? )を進むと、内房線「大五郎」踏切。

               いわれは不明。人名? 付近の地名?

ここにも溜池。この付近、けっこうこうした池が点在。

「かついわトンネル」の脇に出ます。

その先、国道127号の斜め向こうに旧道が続いています。    

           来た道を振り返る。国道の向こう側。

岩井海岸方向を望む。 

すぐに国道に復帰。あとは岩井駅まで国道歩き。       

「館山から(まで)15㎞」ポスト(→)。     

「久枝海岸入口」表示。国道から海岸までは少し離れています。            

大きなマンションが左手に。「エスカール岩井」。

「岩井川」。

「岩井駅入口」。

正面が岩井駅。                  

岩井は民宿の街。大きな案内板にはたくさんの民宿名。

ホームからの風景。

            

                         2010年代のようす。海側に広がる街並み。

民宿の他にも、各区の臨海施設や学校の施設が点在しています。そういえば、小学校の時の臨海学校は、この岩井でした。

東京都北区立岩井学園

「ろくや」。(写真は「Googleマップ」より。)

弓なりに広がる白砂の岩井海岸。
夏の海水浴はもちろん磯釣りや、夕日ウォッチングなども楽しめるとても美しい海として
知られており、房総の漁師町特有の素朴な雰囲気が今なお息づいています。
海岸から200mほど街なかに歩いたところに、「網元の宿ろくや」がございます。

ろくやでは自前の船で地元の小浦港から毎朝定置網漁にでています。
自分たちの船で、自分たちの網でその日使う食材を厳選してお出ししているので
どこにも負けない新鮮な地魚がご提供できます。
季節によって獲れる魚は違いますが、房総はアワビ・伊勢海老・キンメダイやタカアシガニなど高級な食材から、ちょっとかわったものも獲れる、まさに魚介の宝庫です。

 

(この項、「」HPより)

 

それにしても、今日11日は、猛烈に暑い一日でした。

昼前から東京都心はもう猛暑日 ハイペースで気温上昇、熱中症に厳重警戒」とのアナウンス。

(歩いた日の「房総往還」は緑も多く、海風もあって、少しはしのぎやすかったのですが)。

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その5。旧道? 東京都勝山学園。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-10 19:42:53 | 房総往還

                      「第一房総街道踏切」。

短い旧道は国道127号に合流し、左折します。その先、先達によって旧道の道筋が異なっています。常に参考にさせて戴いている『歴史的農業環境閲覧システム』に掲載された旧道(房総往還)を歩くことにします。「下佐久間」交差点から国道を離れ、左に進みます(「県道184号線」)。

内房線の踏切名が「房総街道踏切」となっています。

           

国道127号をそのまま進むと、「館山まで17㎞」ポスト。

そこから少し戻って踏切を渡ります。

この付近の今昔。

1880年代のようす。直線道路のあと、山を避けて進みます。

2010年代のようす。赤い線が国道127号線、黄色い線が県道184号線。白銀で右折します。←が歩いた道。

まっすぐな道。

田園風景が広がります。

この先を右折。「下佐久間白銀」交差点。

「白銀」バス停。

左手の一画に「東京都勝山学園」。

海と山 豊かな自然環境に囲まれて

東京都勝山学園は、さまざまな事情から家庭での生活が困難な子どもを家庭に代わって養育し、健全な成長と自立を支援する、児童福祉法に基づく児童養護施設です。

園長あいさつ

勝山学園は、児童福祉法に定められた社会的養育機関です。当学園は、学園の養育理念に基づき、子供達と「共に生きる」施設を目指して、仕事の専門性を自覚し、最善の援助を実践します。

1976年4月に鋸南町に移転後、町内の皆様をはじめ、関係各位のご理解並びにご支援を得て施設を運営してまいりました。また、今年(令和元年)の台風被害に際しても、地元をはじめ多く方々にご心配、ご支援を頂きありがとうございました。

今後とも、鋸南町の素晴らしい環境の中で、子供達の成長を支援してまいりますので、引き続きご理解、ご支援をお願いいたします。

東京都勝山学園長 長島 建一

(この項、「」HPより)

学園を回り込むように進みます。園内からは子供達の声が聞こえてきます。

 

さまざまな事情を抱えた子供達に幸あれ! さらに職員の方々のご健闘を!

道は森の中に入っていきます。

林の中に祠。

左手には溜池が。

  

山道を抜けると小さな集落に。もとは藁葺き屋根?

来た道を振り返る。

 

                     1880年代のようす。溜池の脇を通り、森の中に。

 

                     2010年代のようす。飯之坂付近では、旧道は不明?

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その4。源頼朝上陸地の碑。「傾城島」。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-07 19:45:05 | 房総往還

                          「真珠島」。

国道から離れ、旧道ではありませんが、右の道に進みます。右手に小島。橋が架かっていますが、立入禁止の表示。個人所有の土地のようです。かっては橋を渡って島に行けたそうです。「真珠」という名のいわれは? 「Googleマップ」だと頂上に祠があるようですが。

磯釣りができそうな岩場。

「大六海水浴場」を右手に進むと、岬の突端に「源頼朝上陸地の碑」。

             

治承4年(1180)8月、伊豆で挙兵した源頼朝は、23日、平家方の大庭影親勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。『吾妻鏡』によれば「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟( 小さな舟)に棹さし、安房国平北郡猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。ここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総を上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられています。房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、9月3日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り味方を募り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、13日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。

1880年代のようす。旧道は内陸部を進む。

2010年代のようす。→に「頼朝上陸地の碑」。

四阿からの眺め。「浮島」(右)「傾城(けいじょう)島」(左)方向。

「鋸山」方向。釣り人がたくさん。「鋸山」山頂付近は、雲の中。

堤防から。対岸は霞んで見えず。

ひとり、たたずむ人。

「国道(房総往還)」に戻らずに、そのまま「勝山」海岸沿いに歩きます。

「佐久間川」河口。「傾城島」が間近に。

鳶が二羽、上空に。

 

「佐久間川」の橋を渡り、左折し、国道127号線に復帰。                

「武内医院」。倉庫を改造?

その先、左手に短い旧道。 

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その3。菱川師宣。見返り美人像。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-06 21:20:04 | 房総往還

             「保田駅」から再開。鈎型の道筋になっています。振り返る。

 

保田は、浮世絵師「菱川師宣」の誕生地。記念館はこの先に。

浮世絵の祖、「見返り美人」の作者として有名な菱川師宣は、寛永7年(1630)頃、縫箔刺繍(ぬいはくししゅう)を業(なりわい)とする吉左衛門の4番目の子、長男(7人兄弟)として、保田で生まれた。俗称は吉兵衛。晩年は剃髪して友竹と号した。生年は不詳だが、寛永中頃(1630年頃)と推定されている。幼い頃から絵を描くのが好きだった師宣は、刺繍の下絵を描くかたわら、漢画や狩野・土佐派の絵を独学で学び、絵師を志すようになった。

江戸に出た師宣は、当時広く出回っていた御伽草子や絵草紙の版本の挿絵師として名を高め、延宝~元禄初期(1673~1694)にかけて活躍。当時一部の人々の間でしか鑑賞できず、また高価だった絵画を、木版画により広く庶民に普及させた功績は高く評価される。また、庶民風俗を題材とした新しい絵画形式「浮世絵」を確立。師宣の江戸庶民を題材とした独自の美人画は、「菱川やうの吾妻俤(あづまおもかげ)」と詠まれるほど流行し、特に木版画に彩色を施し大量に複製する方式を用いたことから「浮世絵の祖」とよばれている。師宣の没後、浮世絵は技法的にも発達し、約1世紀後には多色摺りの錦絵へと発展した。

江戸で大成した師宣であるが、終生故郷房州を愛し、「房陽」「房国」の文字を落款(らっかん)に入れたり、息子の名に房を用い「師房(もろふさ)」と名付けるなど、故郷を常に愛していたようである。晩年には保田の別願院に梵鐘を寄進している。元禄7年(1694)6月4日江戸で亡くなり、遺骨は遺言により故郷保田の別願院へ葬られたと伝えられているが、その墓石は元禄16年(1703)の大津波で流され現在は残っていない。(「千葉県教育委員会」HPより)

左折し、右折します。  

 保田漁港の方へ進みます。「保田川」。

日差しが強い。

保田漁港。

漁協直営の「ばんや」。この先にお店があります。

お客様の「おいしかった。」その心のこもった一言を聞けるように、鮮度抜群の魚介類をふんだんに盛り込んだお料理を、漁協直営だから実現できるお得な価格でご提供しています。
天候・水揚げの状況および仕込状況により、当日のメニュー内容が変わりますので、ご来店時のメニューボードでご確認ください。

この項「」HPより)

    「館山から(まで)20㎞」ポスト。

「ラムネ温泉」!? 「ばんや」併設の温泉施設。

炭酸温泉とは・・・
お湯の中に炭酸ガスがとけ込んでいる温泉のこと。ヨーロッパでは「心臓の湯」とも呼ばれ、古くからその医学的効果が浸透しています。
炭酸を水に溶かしこむ特許技術で、天然温泉より炭酸が高濃度になって、更に効用・効果が高くなっています。

温泉の効能・効果
●皮膚から吸収された炭酸ガスが毛細血管を広げ、血行を促進します。
●身体がよく温まり保温効果も高く、冷え性でお悩みの方に最適。
●冷え症、リューマチ、動脈硬化等の改善にもつながります。
●肩こり・腰痛・筋肉痛などの緩和や疲労回復にも効果があります。
●美肌効果!入浴後「ツルツル」「サラサラ」滑らかな肌触り

その先に道の駅「きょなん」。

「南房エリア観光ガイド」。

見返り美人像。

「菱川師宣記念館」。

菱川師宣の信頼できる肉筆画の中で世にもっとも知られた作品であるが,一人立ち美人図である点では珍しい作例でもある。歩みの途中でふと足を止めて振り返った印象的な姿は,まさに「菱川様の吾妻俤」(ひしかわようのあずまおもかげ)(『虚栗』)と謳われたそのものであろう。

(この項、「」HPより)

道の駅で、小休止。けっこう暑くなってきます。再開。

  遠くに見える島は、「真珠島」。

「亀ヶ崎」バス停。

今年はどこも海水浴場は閉鎖。遠くに「鋸山」。

大型犬を海に入れて戯れる家族連れ。

他は人っ子一人いない海辺。大六海水浴場。

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その2。「ふしぎな岬の物語」。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-04 20:31:31 | 房総往還

                             「」。

「鋸山」が海に落ちるところ。

大小の岩場となって海に注がれています。

      

              

                     2010年代のようす。岬の突端にカフェ「岬」。

千葉・房総で立ち寄りたい!海が目の前!映画のモデルになった音楽と珈琲の店『岬』

鋸山の少し先、海に突き出た高台にある、音楽と珈琲の店『岬』。その名のとおり明鐘岬(みょうがねみさき)の先端にあり、目の前に広がるのは、海と空だけという潔さ!映画の舞台ともなったこのカフェに魅せられた人たちが立ち寄って、いつも人でいっぱいです。訪れた人を虜にするカフェ、「岬」の魅力をご紹介します。

2016年08月31日

目の前に広がる海を独り占め!

鋸山を過ぎて国道127号を南下したところにある少し小さめの岬、明鐘岬(みょうがねみさき)。ここにあるのが、音楽と珈琲の店「岬」です。まさに海の目の前にあり、その素晴らしい景色と雰囲気をコーヒーと一緒に楽しもうと、多くの人が訪れています。ここでは、カフェ「岬」の魅力をご紹介します。

ここは、映画「ふしぎな岬の物語」のモデルになったカフェ。吉永小百合さん主演で、モントリオール映画祭で入賞した映画です。

1978年にオープンしたお店ですので、なんと40年近い歴史のあるのです。しかし、2011年1月に火事で建物が焼失してしまうという悲しい出来事がありました。しかし、オーナーとご近所の皆さん、そして常連のお客さんの力で、新しい店舗が同じ年の12月に再オープン。以前と同じマリンブルーに塗られた建物は、やはり同じく海が美しく見えるカフェなのでした。

明るい昼のキラキラした海をのんびり眺めながらコーヒーをスイーツをいただくもよし。

雲が多い日でも、幻想的な、趣のある夕暮れに出会えるかもしれません。天気がいい日は、富士山のシルエットがくっきりと対岸に見えます!
 
 
テラスからの眺め。あいにく富士は見えず。 
 
           
海もすてきですが、背後の山並みもけっこう魅力的です。 
 
 
                     1880年代のようす。岩場をたどる旧道。現在は、廃道になっているようです。
 
突堤で釣り人一人。
 
岩場で磯釣りや磯遊びをする家族連れが。
 
         
 
             
 
 
 
いつまでも見飽きない風景ですが、次の予定が。再び「浜金谷」駅に戻ります。
 
               
 
鳶が悠然と空を舞う(↓)。
 

ふしぎな岬の物語

第38回モントリオール世界映画祭」の審査員特別賞グランプリとエキュメニカル審査員賞をW受賞した名作。岬の先にあるカフェの女主人と、そこに集う人々が織り成すドラマは多くの人に感動を与えました。原作は鋸南町に実在する喫茶店をモチーフに執筆され、映画でも喫茶店とその周辺で多くのロケが行われました。

 

音楽と珈琲のお店 岬

物語に登場する「岬カフェ」のモチーフとなったのは、安房郡鋸南町にある喫茶店「音楽と珈琲のお店 岬」。ここは明鐘岬にあり、目の前には絶景が広がる知る人ぞ知る名店です。店内にはジャズが流れ、注文が入ってから豆を挽くというこだわりの珈琲をいただけます。同店には、映画同様のゆったりとした時間が流れています。

 

 

 

 

 

 

(この項、「公益社団法人 千葉県観光物産協会-まるごとe! ちば-」HPより)

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その1。親子星物語の石碑。明鐘隧道。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-03 19:29:47 | 房総往還

         浜金谷駅から旧道を。港付近の華やかさと比べ、落ち着いた街並み。

 今回。浜金谷駅から「明鐘(みょうがね)」岬まで往復し、「明鐘隧道」などトンネルが続く危険な歩きは避け、(街道歩きでは邪道ですが)電車で保田駅まで移動し、岩井駅まで歩く。そして、再び「浜金谷」まで戻り、「東京湾フェリー」で対岸の久里浜まで渡る、という計画。               

富士見橋で金谷川を渡り、安政元年創業の旅館「かぢや旅館」を通り過ぎ、国道127号に合流します。

 

鋸山が背後に迫る海辺。

               

「鋸山ロープウェー」乗り場入口。

                 山頂駅が遠くに(↓)。

金谷港。

対岸の三浦半島が遠くに。

「親子星物語の石碑」。

碑文がかすれていて、詳細不明。盲目の娘と母親の話のようです。娘を案ずる母親が房総半島のお寺に詣で、7年後、その祈願により娘の目が見えるようになった。娘は母親を探しに房総半島へ渡り、探しあぐねた末に、「お堂」から母の歌声が聞こえてきて無事に再会できた。というようなお話?

金粉銀粉 天の川  きらきらきらり おほしさま  ちかちかちかり おほしさま  しずやしずやと おほしさま  いたずら小ぞう 泣いている  背なのやや子も 泣いている  うたっておくり わらべうた  うたっておくり 子もりうた

眼下に岩場。左手崖上には古い社が。

         釣り場になっているようです。

海風に当たりながらのんびりと。 

「鋸山」の切り立った山肌。「明鐘隧道」付近。

「明鐘隧道」。「歩行者・自転車に注意」の看板が目立つ。

隧道の脇に道があったのですが、現在は途中で行き止まり。そこにある「岬」という喫茶店まで行きます。

車がけっこう停まっています。

              

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