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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

茶草場の里。夜泣き石。西行法師歌碑。佐夜鹿一里塚跡。・・・(金谷駅から掛川駅まで。その3。)

2015-02-28 20:20:52 | 旧東海道

 道の途中、こんな表示があります。
                         「世界農業遺産 茶草場の里 日坂」。

 はて「茶草場」というのはどういう農業方法なのか? 

 ようやく「箭置坂」=「青木坂」(「やおきさか」と「あおきさか」のほぼ同じ音で混同があった? )という長い上り坂も終わり、少し開けたところに出ます。左手が接待茶屋跡、右手が久延寺。



    
大正期の峠付近「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」       ほぼ同じ場所の現在。正反対の方向ですが。 
(「知足美術館」HPより)  

 左の写真にある丸い石は「夜泣き石」? 門前の路傍にあった、とのことですが。

 「久延寺」境内には、「夜泣き石」と同じ形で、「夜泣石物語」の小石姫(妊婦)を弔うために建てられた供養塔があります。はじめ、門前の路傍にありましたが、昭和40年頃境内に移されたそうです。

    

伝説 小夜の中山夜泣石

 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。
 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
 そこへ轟業右衛門が刃研ぎにきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。

   文化元年滝沢馬琴の 「石言遺響」より
 

 「夜泣き石(よなきいし)」は、石にまつわる日本の伝説の一つで、全国各地にさまざまな夜泣き石が存在するそうです

 (以下、「Wikipedia」を参照)

 大別すると、①泣き声がする、②子どもの夜泣きが収まるとの伝説に分かれる。
 中でも静岡県の小夜の中山夜泣き石がよく知られているが、日本各地に存在する夜泣き石の中には、小夜の中山のように殺された者の霊が乗り移って泣き声をあげるといわれるほか、石自体が怪音を出すといわれるものも多い。

日本各地の夜泣き石

泣き声がする

・静岡県掛川市佐夜鹿 小夜の中山峠(夜泣き石) - 身重のまま殺された母が乗り移った石が子を思い、泣くといわれている。
・長野県飯田市 - 水害の時に子どもが亡くなったという言い伝えがあり、夜中になると泣く声がする。
・京都府京都市 八坂神社
・大阪府交野市 源氏の滝
・兵庫県三田市 御霊神社 - 城の庭に召し上げられたが、元あった神社に帰りたいと夜毎泣き、神社に戻されたといわれている。

夜泣きが収まる

・栃木県河内市 法華寺跡地
・和歌山県有田市

 夜泣き石のように、石が声を発したり人を化かしたという伝承は各地にある。岡山県苫田郡泉村箱(後の奥津町、現・鏡野町)の「杓子岩」(しゃくしいわ)は、夜に通行人に対して「味噌をくれ」と言って杓子を突き出したという。同県御津郡円城村(現・同県加賀郡吉備中央町)にあった「こそこそ岩」という巨岩は、夜に人が通りかかると「こそこそ」と音を立てたという。香川県琴南町(現・まんのう町)美合の山中の「オマンノ岩」は、近くを人が通りかかると、中から老婆が現れて「おまんの母でございます」と名乗ったという。長野県北安曇郡小谷村大所の「物岩(ものいわ)」は、かつて命を狙われている者が付近を通りかかったとき「殺されるぞ」と声を出し、命を救ったといわれる。
 古来から日本人は石や岩を霊的なものとして崇拝しており、そうした霊的な存在は妖怪にとって格好の住処であったとされることが、こうした伝承の背景と考えられている。

付近の案内図。

    
           「命なりけり学舎」(中山地区のコミュニティーセンター)。

来た道を振り返る。

 「小夜の中山夜泣き石伝説」にも登場する飴屋さん「扇屋」。。土・日・祝日しか営業しないそうで、閉まっていました。
   

 ちょうど昼時なので、その店先のベンチに座ってコンビニのおにぎりを食べました。金谷駅周辺にはコンビニもなく、ここまで歩いてくる間にも・・・、一カ所くらいあったかな? 出かける前、地元の駅で買っておいてよかった。

 目の前が「小夜の中山公園」。西行の歌碑が建っています。

説明板。



西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ―  
西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。

年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山

 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
 小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
 当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。
 西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和55年10月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。 

・・・う~ん! どうもしっくりこないモニュメントです。デザイン・造形的にはいろいろな意図が含まれているらしいですが、かなり浮いた印象。

 この歌碑は  円位という西行の別名を/ 力強いがまろやかな性格を/ 大木の幹の姿に重ねた年輪を/ 背割り切り口の鋭さに明晰さを/ たて積みの煉瓦に北面の武士の鎧を/ 時々陽光に輝やく真鍮の文字に歌人の心を/ 池水に映る影に再び越える気分を/ 池に囲む玉石に数珠を/ いぶした煉瓦の色は黒染めを/ そして笠を外してひと休みする西行を/ 造形したものです。
                  

 せっかくの古道の情緒や周囲の風景を、そしてところどころの歌碑を楽しみながらやっと峠まで来て、これでは「ぶちこわし!」という感じでした(言い過ぎかもしれませんが)。

 気を取り直して、先に進みます。振り返りつつ。

 しばらく行くと、「この先、犬に注意」との表示。案の定、犬が大声で吠えてきます。
 その家の前にいた老夫婦に、

「茶の字がすばらしく身近に見えますね」
「そうです。このあたりからが一番いいかな」
「ところで、あの西行さんの碑は気に入りませんね」
「有名な先生が造ったらしいがね」
「飴屋さんも休みでしたし・・・」
「あそこはうちで管理しているのですよ。ちょっと待って」

 観光用のパンフレットをいただきました。

「ありがとうございます。この先からは下りですよね」
「そうです。お気をつけて」
「ところで、さっき《茶草葉の里》ってあったんですが、ちゃ・・・? どういう農法ですか? 」
「《ちゃぐさば》のことか。それは、秋から冬にかけススキなどの雑草を刈り取り茶畑の肥料にする、冬場の保温に役立てる、その刈った後には自然とまたワラビだとか草が生えてくる、そんな自然農法がここあたりの茶畑のやり方なんですよ」

・・・

 初めて知りました。さっそく、インターネットで調べてみました。

 茶草場農法とは、茶園の畝間にススキやササを主とする刈敷きを行う伝統的農法のことである。この茶草によって、茶の味や香りが良くなると言われている。
静岡県の茶栽培では、秋から冬に掛けて、茶園の周辺にある【茶草場】の草を刈って茶園の畝間に敷く作業が行われている。 夏にはただの草むらにしか見えない茶草場であるが、秋になるときれいに草は刈られ、刈られた草が束ねられて干してある風景を見ることができる。

    
                                          草刈場。

 茶草場で刈り取る草の中で代表的なものは「ススキ」である。ススキは10~20年ほどの長い時間をかけて土に還る。「ススキ」が分解されて出来た土は、手にとるとふんわりと崩れてしまうほどやわらかい。茶草場のある茶畑では、その土で茶の木の根元を覆い、茶栽培が行われている。
 世界農業遺産(GIAHS、世界重要農業遺産システム)に認定された「静岡の茶草場農法(しずおかのちゃぐさばのうほう)」では、 高品質な緑茶を生産しようとする茶草場農法によって、秋の七草・ササユリなどの希少植物が守り伝えられ、 人と自然とが共存しながら、豊かな生物多様性の里山が保全されてきました。

                             

                                         (以上、「掛川観光協会」HPより。含写真。)

                     

     
                           「茶」の字が遠くに。

 しばらく進むと、左手に「佐夜鹿一里塚跡」。

    
                           「佐夜鹿一里塚跡」。

佐夜鹿(さよしか)(小夜の中山)一里塚

 徳川家康は慶長6年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道に宿駅を設置しました。
 その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。
 一里塚とは、江戸日本橋を基点にして1里(36町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約9メートル)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。
 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長9年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて56里目と云う説があります。
 また、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿まで52里30町ですので、この一里塚は52里に相当します。
 天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では日坂宿まで54里26町、小夜の中山までは54里2町ですので、この一里塚は54里に相当すると思われます。
 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。
 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。

 上の説明ですと、この一里塚は「56番目」か「52番目」か「54番目」か判然としません。「56番目」とすると、一つ前の「金谷一里塚」は「53番目」だったので、二つ欠番が生じてきます。これまでの旅程から、この間で3里の道のりがあったとは思えませんが、説明に従って「56番目」とします。
 歩いてきた実感としては「54番目」がふさわしいと思います。この一里塚から約1時間半。「日坂宿」を過ぎ、次の「伊達方一里塚」もクリアした後で合流した「国道1号線」の標記が「(日本橋から)224㎞=約56里=」でしたし、・・・。

 ところで、この「佐夜鹿」というちょっと変わった地名。そのいわれは? 特別な・・・

 明治初年に野新田村、小中山村、大鹿村が合併し、それぞれの一文字「佐」、「夜」、「鹿」を採って佐夜鹿村が誕生したからだそうです(な~んだ! )。現在、島田市(菊川側)と掛川市(日坂側)とに分かれていて、どちらの市にも「佐夜鹿」があります。
 こういう例は、全国あちこちにあるようです。東京にも。有名なのは「大田」区。「大森」区と「蒲田」区が合体して「大田区」。だから、「太」田区ではありません。

 茶畑の中、緩やかな下り坂が続きます。

「小夜の中山 白山神社」。 
来た道を振り返る。
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読書「花田清輝批評集 骨を切らせて肉を斬る」(花田清輝)忘羊社

2015-02-27 23:11:48 | 読書無限

 注:書名中の「肉」は

 久々に花田清輝の本を読んだのである。むろん、「東海道線」行き帰りの電車の中だ。実は、図書館で手にしたとき、この中に何とあの、懐かしい「ものぐさ太郎」の一文が載っていることに気がついたからである。
 初めて読んだときの痛快な読後感が忘れられない、今もあったから。
 これはもちろん「ものぐさ太郎」というおとぎ話(民話)の紹介、評論、詮索ではない。自らの存在感をこれでもか、これでもかと万人に知らしめようという魂胆ありあり。だから、最後は照れ隠しで、結末を書いていない。文中には、かの巨匠・岡本太郎の挿話まで出てくるけれども。
 つい噴き出してしまいそうな、自己弁護、自己肯定、自画自賛、他者攻撃、おとしめ、そして、その斜に構え方が何となく憎めない論調。「大向こう受けしている」(とは、これっぽちも思っていない)の吉本隆明と一大論争をしかけた方でもあるのだから。吉本だけではない、俗にいう文化人に対して、あるいは、左翼、右翼・・・、型どおりで、紋切り型の評論家をなで切りにしていく、ある種の爽快感がおそらく60年代には受けたのではないだろうかね。誰に大衆に、ではなく映画などの芸術運動、その担い手たちに。

 が、この「先駆的」な「ごろつき評論家」(誰にでもかみつく)と揶揄されながらも、時代を先取り(今の政治情勢、文化情勢、そしてマスコミ報道の堕落ぶり・・・)したということを改めて思うのである。
 帰りの、3万歩くらい歩いての帰りの鈍行列車、勤め帰りの人達が乗り込んでくるのを尻目に、この本を拡げてくすくすと笑いがこみ上げて来つつ、妙に納得顔をして頷く小生に、いったい誰が気づいたであろうか。

 「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一連のエッセイを書いた。良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された。いまとなっては、殉教者面ができないのが残念でたまらない。思うに、いささかたくみにレトリックを使いすぎたのである。一度、ソフォクレスについて訊問されたことがあったが、日本の警察官は、ギリシャ悲劇については、たいして興味がないらしかった」復興期の精神初版跋(本書P38)

 それにしても、福岡市文学館嘱託員の田代ゆきさんが収集し、発刊したたこのエッセイ集に込められた意図は奈辺にあるのか、いささか知りたい気分ではある。最後まで読んでいったい何なのさ、と批判されるだろうが。・・・

 そうそう、「首が飛んでも動いてみせるわ」は『四谷怪談』中の「民谷伊右衛門」の名台詞だが、ずいぶん前、歌舞伎座でだったか、片岡仁左衛門の、台詞でぴたっと決まったときに、身震いがしたことがあった。

  

 
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間の宿(あいのしゅく)・菊川。ロマンの里。小夜の中山・歌碑。・・・(金谷駅から掛川駅まで。その2。)

2015-02-26 21:53:54 | 旧東海道

 「菊川」の家並み。平日のせいか、人通りもない静かな集落を歩きます。このまま、誰にも会わずに次の「日坂宿」まで、とすら思えるようなのんびりした歩み。
 と、橋のたもとに老夫婦。「こんにちは。この道でいいんですよね。」「こんにちは。ええ、いいですよ」「ありがとうございます」。
 しばらく進むと、バスが。「おでかけバス・金谷駅行」。二人は乗り込みました。

見送りがてら、来た道を振り返る。

「菊川の里」。「きくがわ」と読むらしい。

巨大な案内図。「昔をしのぶ 間の宿 菊川」。
           家並みと2,3代前の持ち主の名前が記されています。

そこから、来た道を振り返る。

「間の宿 菊川」。隣が「おでかけバス」のバス停。

間の宿 菊川

 間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿 「菊川」 が置かれました。
 間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。
  島田市観光協会

 「菊川の里会館」には、昔をしのぶ案内碑がいくつかあります。


宗行卿詩碑 日野俊基歌碑
 
 源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。
 「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ
  今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」
 承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。
 「いにしえも かゝるためしを 菊川の
        おなじ流れに 身をやしづめん」
 間の宿菊川は史跡とロマンの里である。

 島田市教育委員会
    観光協会

 右の石柱が「日野俊基の歌碑」、左が「宗行卿の詩碑」。

「菊川由来の石」。

 その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。白菊姫の伝説による菊石は北へ1㎞位の処にある佐夜鹿公民館の傍らにあります。

 説明板の足元にある石には、たしかに菊の文様らしきものが。

木柱に書かれてあるのは、源頼朝の歌。

 まちえたる人のなさけもすはやりのわりなく見ゆる心ざしかな
 一一九〇年十月十三日 源頼朝公詠

 ここでは、どうも鎌倉幕府側は分が悪いのでしょうか、もう少し気の利いた石碑か説明文が必要だと思いました。だいたい「一一九〇年」は、ありえないでしょう。もちろん、この地での歌でもなさそう。

注:「すはやり(すわやり)」とは半生干しの魚肉、特にサケ(鮭)の肉をさす、らしい。戦国武将たちの大好物だったとか。

   

 金谷宿の昔ばなし

・「八挺鉦(やからかね)」(八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話。)

・「与茂七越し」(東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)

・「柳井戸」(渇水期にもまったく涸れることがなく柳色の水を湛えている「柳井戸」を造った名医のお話)

・「矢の根鍛冶五條才兵衛のこと」(大阪城攻撃の際、徳川家康開運の鏃として名高い矢の根鍛冶の名手のお話。)


 トイレに入ったついでに。バス停には、宗行卿にまつわる絵などが描かれています。まさに「ロマンの里」らしい雰囲気です。

 「小夜の中山方面」という道標に従って進みます。

緩やかな上り道。後ろを振り返る。
                        左奥、山間に見える橋脚は「国道1号線」。

丘陵地帯。見渡す限り「茶畑」。

「茶」の字が遠くに見えます。

「←日坂の宿。菊川の里→」。

そこから振り返る。けっこう歩いて来ています。

「阿仏尼・歌碑」

 ここから先には、「小夜(さよ・さや)の中山」峠にちなんだ和歌や俳諧の碑が続きます。気がついて撮ったものをまとめて先に紹介します。

 上の碑は、「雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月  阿仏尼」


「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり  衣笠内大臣」


「旅寝する さよの中山 さよ中に 鹿も鳴くなり 妻や恋しき  橘為仲朝臣」 


「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山  西行法師」 


「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山  蓮生法師」


「あづまぢの さやの中山 なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ  紀友則」 


「ふるさとに 聞きしあらしの 声もにず 忘れね人を さやの中山  藤原家隆朝臣」


「道のべの むくげは馬に くはれけり 芭蕉」


「あづまぢの さやの中山 さやかにも 見えぬ雲居に 世をや尽くさん  壬生忠岑」


「命なり わずかの笠の 下涼み  芭蕉」


「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり  芭蕉」


「甲斐が嶺を さやにも見しが けけれなく 横ほりふせる さやの中山  読人不知」

 一つか二つ落としたかも知れませんが、さすが古よりの「歌枕」の名所だけのことはあります。お茶畑、道の辺にさりげなく置かれた歌碑は見物でした(唯一、「私的には」西行法師の歌碑だけはいただけませんが)。
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金谷坂・菊川坂の石畳。平成の助郷「道普請」。(金谷駅から掛川駅まで。その1。)

2015-02-25 21:51:32 | 旧東海道

 今回の中心は、「小夜の中山峠」越え。「小夜」は、「さよ」と読んでいましたが、西行法師の有名な歌「年たけて」では、「さや」と詠んでいることを発見。「佐夜」とも書くと。
 この峠は、「箱根」「鈴鹿」と共に東海道中の三大難所と言われていたところ。すでに「箱根峠」を越え、「薩埵峠」を越え、「宇津ノ谷峠(蔦の細道)」を越えて来たので、何となく楽な印象。が、ここは最後に、「二の曲がり」沓掛の急坂が待ち構えています。
 以前からどんな急な山道りでも、登りはほとんど苦になりませんでしたが、下りはどうも膝の関節が・・・。今回は、果たしてどうなるか?
 周囲は、丘陵。お茶畑が一面に広がるところ(のはず)。少しくらい寒くても、西風さえあまり強くなければいいな、と願うばかりの、2月24日(火)。

 在来線の東海道本線。東京から沼津、静岡を経て、「金谷」まで、4時間以上かかってやっと到着。「金谷」駅のホームからは富士山が見える、らしい(ホームから富士山が見えるもっとも西の駅、らしい)。でも、あいにくの曇り空。残念!

 ガードをくぐって駅の裏手に出て、坂道を上がっていきます。
「常夜燈」。左手の民家の脇。

 その先、橋のたもとには、
「金谷大橋(西入口土橋)跡」。

 現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。
 金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました。

  島田宿・金谷宿 史跡保存会 島田市教育委員会

 東海道線の敷設などで、川幅や道筋にも変化があって、宿場そのものも分断されてしまったようすです。
 緩い坂道を上り、国道473号線を横切ると、「旧東海道石畳入口」になります。

                        

 ここが上り口。

 すぐ右手にあるのが、「石畳茶屋」。

説明板。

 島田市指定史跡 「東海道」金谷坂の石畳

 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。
 いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました。

 平成4年3月 島田市教育委員会

 その先にあるのが「鶏頭塚」。 
    
          

鶏頭塚

 鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。
「曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保甲子4年(1744)2月19日没」と刻んだ自然石の碑である。
 巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。
 なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。

 東海道金谷宿

 いよいよ本格的な石畳の上り坂。上りやすいように敷き詰められています。旧宿場町挙げての一大イベントでよみがえったことはすばらしい、心意気を感じます。

                          

 右手には「すべらず地蔵尊」。

長寿・すべらず地蔵尊

 このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。

    

 けっこう汗をかいてきて、ダウンのコートを脱いで歩いた方がいいような天気になってきました。

案内板。

 上りきって県道にぶつかったら右に進みます。この辺りは、「牧ノ原台地」の一角、「川根茶」の産地。一面、お茶畑です。



 「国指定史跡 諏訪原城跡」という案内板を見て、右手の細い砂利道を行くと、

    

 深くて急斜面の自然の堀が残されています。

 しばらく進み、県道を越えると、今度は「菊川坂」という「下り坂」になります。

 休憩所・四阿が設置されていて丁寧な説明板があります。「茶の里再発見 粟が岳の『茶』の字が見えるよ」に誘われて北西を見ると、一面の茶畑の向こうに、


案内板。

 菊川坂と金谷坂

 江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であっっため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。
 この故事に因んで、菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再び蘇らせました。
 菊川坂は21世紀の幕開けの事業として平成13年1月21日静岡県内の東海道21宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷約500名を越える皆さんの力で道普請に着手。平成12年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約700メートルの石畳が完成しました。
 金谷坂は、町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって、平成3年11月24日子供達からお年寄りまで500名余の町民の力で道普請に着手、翌年3月に400メートル余の石畳が出来上がりました。
 江戸時代後期の石畳そして平成の道普請により出来上がった石畳に、それぞれ、むかしの旅人への、あるいは平成の助郷役の人たちへ思いを馳せながらこの石畳を踏みしめてください。

 島田市

    

 ちらほらと桃や梅の花が。

「芳名板」。

平成十三年一月廿一日、「菊坂助郷伝説として旧東海道22宿助郷並びに大勢之助郷を以て平成之道普請を相催し候
依って茲に助郷として出役下され候面々の氏名を刻印し、以て当石畳之復元を後世之伝説と致すべく候。就いては助郷衆に対し謝意を表すべく此の芳名板を設置致す者也

 遠江国棒原郡金谷宿

    

 菊川坂石畳

 この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。
 江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣十二ヶ村に割り当てられた助郷役の人たちによって、敷設されたものです。この長さは380間(約690メートル)あったともいわれています。
 しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損したところもありますが、このように長さ161メートル、最大幅4.3メートルを残しておあります。
 かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時を偲ぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません。

 島田市教育委員会

  
    平成の道普請。                     江戸時代後期の石畳。   

 けっこう急坂になります。道端には、春先らしい花々。
    




 菊川坂石畳と間の宿菊川

 菊川坂石畳は平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。
 菊川の里は吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。
 承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。
 更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変でとらえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。
 江戸時代には、西の日坂宿・東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。
 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。

 ●中納言宗行卿の詩  昔南陽県菊水 汲下流而延齢   今東海道菊河 宿西岸而失命
 ●日野俊基の歌 古も かかるためしを 菊河の おなじ流れに 身をやしづめん
           
 島田市教育委員会

「菊川坂」を振り返る。

 こうして、「金谷宿」のはずれから「間の宿・菊川」入口まで、二ヶ所、平成の道普請の石畳道を上って、下ってきたわけです。
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読書「平和の申し子たちへ 泣きながら抵抗を始めよう」(なかにし礼)毎日新聞社

2015-02-23 21:49:09 | 読書無限

 つい先だって「朝日新聞」で、なかにし礼さんへのインタビューが連載されていました。その中で、今の政治情勢、とりわけアベ内閣のめざす方向(戦時体制へ向かうがごとき方向)への大きな怒り・憤りを自らのアベの登場と同時期のガン闘病と重ねて吐露してしていました。
 肉親へのこれほどの憎悪(葛藤の果ての)があっただろうかという「兄弟」という作品。その時には、この方の生き様のすさまじさを垣間見た感がしました。
 その後、いくつかの小説を読みましたが、今ひとつ心に響くものがなかった、何だかまさにうまく整えた「作りごと」のような印象でしか、・・・。
 また、TVのコメンテーターとしての発言などから、「左翼」の運動、特に平和とか反戦とかの主張には冷ややかな対応、批判的な言動をもっているのでは、という印象が強くありました。

 が、その根底には、紋切り型の団体運動、主体的な、とは名ばかりの「運動」に対する批判であった、というようなことを、今となって感じます。

 おそらくは、自らの熾烈な闘病体験、既成の、型どおりの方法でしかガンに立ち向かうとする現状の医療(技術)現場を突き破る方法で、ガンを克服した(しつつある)その体験が、今、こうした時代状況の中で、持ち前の反骨精神となにくそ!という、満州以来の実体験と結びつき、ある意味、ここに来て全面開花した、といえそうです。 


平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう
 二〇一四年七月一日火曜日

 集団的自衛権が閣議決定された

 この日 日本の誇るべき

 たった一つの宝物

 平和憲法は粉砕された

 つまり君たち若者もまた

 圧殺されたのである

 こんな憲法違反にたいして

 最高裁はなんの文句も言わない

 かくして君たちの日本は

 その長い歴史の中の

 どんな時代よりも禍々(まがまが)しい

 暗黒時代へともどっていく

 そしてまたあの

 醜悪と愚劣 残酷と恐怖の

 戦争が始まるだろう

 ああ、若き友たちよ!

 巨大な歯車がひとたびぐらっと

 回りはじめたら最後

 君もその中に巻き込まれる

 いやがおうでも巻き込まれる

 しかし君に戦う理由などあるのか

 国のため? 大義のため?

 そんなもののために

 君は銃で人を狙えるのか

 君は銃剣で人を刺せるのか

 君は人々の上に爆弾を落とせるのか

 若き友たちよ!

 君は戦場に行ってはならない

 なぜなら君は戦争にむいてないからだ

 世界史上類例のない

 六十九年間も平和がつづいた

 理想の国に生まれたんだもの

 平和しか知らないんだ

 平和の申し子なんだ

 平和こそが君の故郷であり

 生活であり存在理由なんだ

 平和ぼけ? なんとでも言わしておけ

 戦争なんか真っ平ごめんだ

 人殺しどころか喧嘩(けんか)もしたくない

 たとえ国家といえども

 俺の人生にかまわないでくれ

 俺は臆病なんだ

 俺は弱虫なんだ

 卑怯者(ひきょうもの)? そうかもしれない

 しかし俺は平和が好きなんだ

 それのどこが悪い?

 弱くあることも

 勇気のいることなんだぜ

 そう言って胸をはれば

 なにか清々(すがすが)しい風が吹くじゃないか

 怖(おそ)れるものはなにもない

 愛する平和の申し子たちよ

 この世に生まれ出た時

 君は命の歓喜の産声をあげた

 君の命よりも大切なものはない

 生き抜かなければならない

 死んではならない

 が 殺してもいけない

 だから今こそ!

 もっともか弱きものとして

 産声をあげる赤児のように

 泣きながら抵抗を始めよう

 泣きながら抵抗をしつづけるのだ

 泣くことを一生やめてはならない

 平和のために!

 なかにし礼。

 私が生まれたのは
 一九三八年正しくは昭和十三年いやもっと正しく
 康徳五年というべきか
 その九月二日午後七時
 大満州帝國黒龍江省牡丹江市
 中區平安街四ノ六であった
 日本軍が悪名高い
 南京攻略を行った翌年のことであり大満州帝国の意気
 最も盛んな時であった

・・・

 先日、職場の大先輩の方の話を聞く機会がありました。その方は、1936年満州のアントン生まれ。その後、激動の時代の中で、翻弄されながらも生き抜いてきた人生をお聞きしました。
 なかにし礼とほぼ同時代に生きてきた方のお話しは、大変示唆に富んだお話しでした。肩を張って声高に「平和」や「戦争」を語るのではなく、晩年にきた人生を振り返りながら、淡々とお話しをする姿、・・・
 なかにし礼の、この本を読んだ時期と重なっていたことも、不思議でした。

 俗な話ですが、カラオケで行くと必ず(最初に)歌う歌は「北酒場」です。なかにし礼の作品。 
 


(追記)こんな記事を目にしました。

 ついに日本時間の23日、第87回アカデミー賞が発表になる。注目は、長編アニメ映画部門賞にノミネートされている高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』の行方。長編アニメ映画部門で日本人がノミネートされるのは、宮崎駿監督以外でははじめてのこと。さらにもし受賞すれば、2002年の『千と千尋の神隠し』以来2度目の快挙となる。下馬評では『ヒックとドラゴン2(仮題)』の受賞が有力視されているが、『かぐや姫の物語』の群を抜いた芸術性によって、高畑監督は世界から視線を集めているといっていいだろう。

 高畑監督といえば、1988年に日本で公開された『火垂るの墓』が海外でも高い評価を受け、イギリスでは実写映画化される予定も。いまなお“反戦映画”として引き継がれている名作だが、じつは、高畑監督はこの自作について意外な認識をもっているらしい。

「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか。そう言うと大抵は驚かれますが」

 このように答えているのは、今年の元旦、神奈川新聞に掲載されたインタビューでのこと。

 しかし、『火垂るの墓』を観たときに多くの人が抱くのは、なんの罪もない幼い兄妹・清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみだ。そして、やさしいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという、戦争のもうひとつの恐ろしさを知る。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない──そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと思っていたし、実際、学校などでも「戦争という過ちを犯さないために」という理由で『火垂るの墓』が上映されることは多い。
 それがいったいなぜ役に立たないのか。高畑監督はこう語っている。
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」

 そう。高畑監督にいわせれば、「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだと指摘する。
 ・・・だが、高畑監督の言うように、死にたくない、殺されたくないというのは、一見、戦争に反対しているように見えて、それだけで戦争を抑止する力にはならない、というのは事実だ。
 死にたくない、というだけなら、その先には必ず、死なないために、殺されないために相手を殺す、という発想が出てくるからだ。さらに、存在を放置しておいたら自分たちが殺される、という理由で、先に攻撃を加えるようになる。

 実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた。日本国憲法制定時の総理大臣・吉田茂は「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛 権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。」と言ったが、先の戦争はまさにそうだった。日本はアジア各国で『火垂るの墓』の清太と節子と同じように罪のない人たちを戦争に巻きこみ、日本兵が殺されたように他国の兵隊や一般市民を殺してきたのだ。

 それは最近の戦争も変わらない。いや、ありもしない大量破壊兵器の存在を名目にアメリカが始めたイラク戦争のように、「殺されたくないから先に殺す」という傾向はますます強くなっている。自分は安全な場所にいてミサイルのスイッチを押すだけなら、戦争してもいいというムードさえ出てきている。

 本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる。おそらく高畑監督はそう言いたかったのだろう。
だが、残念ながら、この国はまったく逆の、百田的な方向に向かっている。「殺されたくない」という人の気持ちを利用して、集団的自衛権の行使容認や憲法9条の改正を目論む安倍首相をはじめとする勢力と、彼らがつくり出している空気に、いま日本は覆われようとしている。

 高畑は同インタビュ―でそうした動きについても踏み込んで、つよく批判している。
「「戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う」とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」
 そして、高畑は“憲法9条があったからこそ、日本は戦争によって殺されることも、だれかを殺すこともしないで済んできた”と言う。それがいま、安倍首相によって崩されようとしていることに強い懸念を示すのだ。
「(憲法9条が)政権の手足を縛ってきたのです。これを完全にひっくり返すのが安倍政権です。それも憲法改正を国民に問うことなく、憲法解釈の変更という手法で、です」

「「普通の国」なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」
 高畑がその才能を見出し、ともにライバルとしてスタジオジブリで切磋してきた同志・宮崎駿も、先日、ラジオで改憲に踏み切ろうとする安倍首相への危機感と9条の重要性を口にした。だが。映画界の世界的な巨匠ふたりが揃って発するメッセージを、安倍政権がまともに相手にすることはないだろう。

 しかし、それは結局、わたしたちの選択の結果なのだ。高畑はこの国の国民のメンタリティについてこんな懸念を表明している。
「(先の戦争について)いやいや戦争に協力させられたのだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝うちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。
「空気を読む」と若者が言うでしょう。私はこの言葉を聞いて絶望的な気持ちになります。私たち日本人は昔と全然変わっていないんじゃないか、と。周りと協調することは良いことですが、この言葉は協調ではなくて同調を求めるものです。歩調を合わせることが絶対の価値になっている。(中略)
 古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に踏み込んでいったのです。私はこれを「ズルズル体質」と呼んでいますが、「空気を読む」なんて聞くと、これからもそうなる危うさを感じずにはいられません。」
                              
2015.2.21(酒井まど)(「http://lite-ra.com/」より。)

 注: 第87回米アカデミー賞授賞式が22日(日本時間23日)、米ロサンゼルスのドルビー・シアターで行われ、受賞が期待された長編アニメ映画賞ノミネートのジブリ作品「かぐや姫の物語」は受賞を逃した。
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脇本陣跡。七里役所。三度笠。金谷一里塚。機関車トーマス。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その6。)

2015-02-22 18:41:00 | 旧東海道

 宿場は、緩やかな上り坂の旧道(「国道478号線」)に沿うようにつくられています。
 現在の航空写真で見ると、町の中心は大井川に沿った北西側に広がり、南西部は、「牧之原台地」など茶畑が多くある丘陵地帯となっています。
 「旧東海道」は金谷宿のはずれ、JR「金谷駅」東のガードをくぐり、南西の丘陵地帯の、上り・下りの続く峠道へ向かいます。 「金谷宿」が、旅人にとって東は大井川、西は小夜の中山、と難所を控える宿場として繁盛したことが分かります。
 車も人も行き来が少ない国道を西方に上がって行きます。
 「金谷宿」には東海道時代の建物など当時のそのものは復元を含めて残っていないようですが、当時の様子を伝える説明板が充実しています。

「脇本陣(角屋・金原三郎右衞門家)跡」。

 脇本陣とは、参勤交代の大名や勅使(天皇の使い)、公家(朝廷の直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。
 元禄~正徳(1688~1715)ころの家並み図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。
 寛政3(1791)年の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失してしまいました。それから10年後の享和2(1802)年の記録では、幕府からの借金で、玄関・門構えなどは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし、「脇本陣なし」となっています。
 天保14~安政6(1843~1859)年の「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪105坪(346.8m)、玄関付(門構えなし)と記録されています。
 これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衞門が勤めました。金原三郎右衞門は、享保19(1738)年金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(1818~1830)から明治3(1870)年の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。

 島田市教育委員会 島田宿・金谷宿 史跡保存会

「お七里役所(七里継ぎ御状箱御飛脚小屋)跡」。

 徳川御三家のひとつ、紀州家が重要書類の送信のために、七里(約28㎞)ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)のことです。
 この飛脚は幕府の継ぎ飛脚、民間の定飛脚(町飛脚)に対して、「大名飛脚」・「七里飛脚」とも呼ばれていました。
 紀州家は江戸~和歌山間(146里・約584㎞)に役所を23ヶ所設け、江戸勤番の中間(仲間・下級武士)の中から、体格も良く才能の優れた者を二人ずつ選び配置しました。極めて華美な格好と才覚から、宿内外の顔役となる者も多かったようです。
 実際の御状箱の搬送は、宿問屋から人足を出させるか、賃金を払って人足を雇いました。
 ちなみに上りは掛川宿、下りは丸子宿で引き継ぎました。常便は、月三回(江戸は五の日、和歌山は十の日に出発)、道中は8日かかりましたが、臨時の急便は4日足らずで到着したと言います。しかし、経費が掛かるため、いつの頃か廃止され、定飛脚に委託するようになりました。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会 

 「急便」だと584㎞をわずか4日足らずであった、ということは、1日150㎞近くを駆け抜けたということになり、ほぼ1日、5ヶ所の「七里役所」を継ぎ立てしていったことに。まさに「駅伝」です。
 
    
                        「定(じょう)飛脚問屋(三度屋)跡」。

 田町の南側に「朝倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という定飛脚の問屋がありました。
 定飛脚とは「三都定飛脚」ともいい、江戸と京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。
 並便は昼間のみの往来でしたが阿、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を6日としたことから「定六」とも呼ばれました。
 明治4(1871)年、郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の輸送もこの定飛脚で取り扱われました。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会

 「三度笠(さんどがさ)」の由来をはじめて知りました。

 「三度笠」=竹の皮や菅を編んで作られた笠のうち、頂の部分が尖っている形状のもの。

 これまでは、おなじみの「股旅もの」などの時代劇で渡世人が被っている印象が強かったのですが、もとは江戸、京都、大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び、彼らが身に着けていたことからその名がついた、らしい。「へエ~」という感じです。

 あんかけの時次郎(あんかけのときじろう):藤田まこと。三度笠をかぶり各地を放浪する渡世人。顔が長いところから、馬呼ばわりされる。
 珍念(ちんねん):白木みのる。時次郎の相棒の小坊主。口が達者で小生意気。食べ物に目がない。時次郎が馬呼ばわりされるのに対し、珍念はイイダコ呼ばわりされている。
 という「てなもんや三度笠」って懐かしいTV番組がありました。
 

    
     「金谷宿」案内絵図。              現在とほとんど道の形状は変わっていないようです。

JR「金谷駅」手前には、

     
           「金谷一里塚跡」。

 「一里塚跡」金谷町新町

 延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎木」とある。
 里程 江戸へ53里
    島田へ1里
    日坂へ1里24町

 金谷宿 

 この「一里塚跡」碑を左に折れてJRのガードをくぐって右に行くと、「小夜の中山」方向へ進みます。
     

 今回は、ここまで。「大井川鐵道」の始発駅(乗り換え駅)でもあるJR「金谷駅」へ向かいます。

   
         大井川鐵道線の電車が停車中。
         「沿線観光案内図」。

機会があったら、乗ってみたい路線の一つです。
      
      大井川本線。                井川線・日本唯一のアプト式鉄道。

 この鉄道は、蒸気機関車の動態保存(運転)で有名。子供達には、


 
 平成26年夏、大反響の中運転された『きかんしゃトーマス』号が本年も、大井川鐵道で走行いたします。
 本年は運転日も少し増やして運転しますので、ぜひトーマスに会いにお越しください。また、ジェームスが新 しく仲間に加わることになりました。
 トーマスもヒロもジェームスも皆さまのお越しをお待ちしております。
         ※ 平成27年度の運転は、6月7日~10月12日までの予定です。


(以上、「大井川鐵道」HPより。含:鉄道写真)

 我が家の孫達もいっときは「トーマス」ばかり。絵本やらレールを敷いては走らせて大いにはしゃいでいたが、今や「妖怪ウオッチ」にシフト。連れて行くこともなさそうですが。・・・

 こうして、ほぼ予定通り、午後3時に「金谷駅」に到着しました。しかし、ここから在来線を乗り継いで東京に帰るのも、一苦労です。 

JR金谷駅からの「小夜の中山峠」方向。
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期待するだけムダ!

2015-02-21 22:42:54 | 平和
【安保法制案】公明、目立つ譲歩姿勢 統一選の足並み乱れ回避(産経新聞) - goo ニュース

 このところ、「朝日新聞」は、安保法制に関連して、昨夏の自公協議のあらましを伝える特集を組み、公明党が歯止めをかけるためにいかに苦心したかを伝えています。他にも、公明党に期待する論調が目立ちます。

 しかし、公明党・創価学会はますます自民にすり寄っている感がしてなりません。
 政権与党から「離脱」するという選択肢はまったくないのですから、安倍にすっかり足元を見られてしまって、不満・不平すら言わない状態に。・・・

 党首の山口さんをすでに選挙目当てのお飾りにしてしまったかのような印象です。もともとそうなることは分かっていたことですが、普通の感覚では。

 アベ100%以上、支持の産経。政権もそれを認めている。それをいいことにあうんの呼吸で、「朝日」たたきに拍車をかける「産経」(そして「讀賣」)の報道。いよいよ勝ち負けがはっきりした、感じがします、残念ながら。

 しかして、現場の学会員は、こうした議論がどうなろうと、自分たちの地域の公明党議員当選のため、すでに行動を開始しているようです。もし自分たちのところで落としたら、「完全勝利」が党是の組織の中ではその後の状況がみえてくる、そんな戦い方をさせられる学会員が気の毒ではありますが・・・。

 ますますアベさんのほくそ笑む顔がしばしばTVに映し出されることでしょう。何しろ、ヤジを飛ばす顔を大写しにするTV、彼に何の反省も求めていないようですから。

  
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金谷宿川越し場。「大井川鐵道踏切」。本陣跡。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その5。)

2015-02-20 21:44:20 | 旧東海道

 大井川の土手をしばらく南下すると、右手に下り坂。その道を下っていくと、金谷宿側の「川越し場」。

 ここも、対岸の「島田宿川越し場」と同じように、「川会所」「札場」人足の詰所「一番宿」から「拾番宿」などの施設が置かれていた。
 公園の先にある小さな「八軒屋板橋」を過ぎると、その「川越し場」施設のあるところになります。
 といっても、「島田宿川越」のように、復元・保存されているわけではない。現在、生活している建物に「八番宿跡」というように表示されている。

    
       「八番宿跡」。                       「九番宿跡」。

 「大井川」は、今も昔も流れのところと川原のところが入り組んでいて、旅人は、川を渡ったり、橋を越えたり、石だらけの川原を歩いたり、と渡河が困難だった。

 『東海道中膝栗毛』に「・・・蓮台に打乗り見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今や命を捨てなんと思ふほどの恐ろしさ、たとゆるにものなく、まことや東海道第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して蓮台をおりたつ嬉しさいはんかたなし」とあるように、蓮台に担がれて渡ってもその怖さがひしひしと伝わってくる。

「大井川鉄道」踏切。「旧国道踏切」と記されています(↓)。

振り返って望む。緩やかにカーブしながら上る道が続く。

 「金谷宿」は、「大井川」の河原から西の台地に連なる谷間にかたちつくられた町。
 現在、牧の原台地など金谷周辺の丘陵には茶畑が多くあるが、これは、大政奉還後、窮乏生活をしている旧幕臣らが、地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡が全国一の茶生産地となる基礎を築いた。そこには、かの勝海舟の尽力もあった、と。

「佐塚屋本陣(本町・佐塚佐次右衛門)」。佐塚家は現在も続いていて、15代目になる。

少し進むと、左手に「柏屋本陣跡」。
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朝顔の松。風花。大井川橋。富士山。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その4。)

2015-02-19 22:06:58 | 旧東海道

 北西の空の雲行きが、ますます怪しくなってきました。西風もますます強く、花びらが散っているかのように、雪が舞ってきます。

注:「風花(かざはな、かざばな)」

 晴天時に雪が風に舞うようにちらちらと降ること。あるいは山などに降り積もった雪が風によって飛ばされ、小雪がちらつく現象のこと。からっ風で有名な静岡県や群馬県でよく見られる。
 冬型の気圧配置が強まり、大陸から日本列島に寒気が押し寄せてくると日本海側で雪が降るが、その雪雲の一部が日本列島の中央にある山脈を越え、太平洋側に流れ込んできたときに風花が見られる。(「Wikipedia」より)

「川越遺跡」の町並みを振り返る。

 左手に広がるのが「朝顔の松」にちなむ公園です。

              「朝顔の松」碑。

 風の強さと寒さでさっさと通過しようとしましたが、せめて説明板だけでも、と撮りました。長文なので、立って読んでいると凍えそう。家に戻って、じっくりと拝見。

朝顔の松の由来

 昔、ここに一本の大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋が掛けられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。
 ここには次のような物語があります。安芸の国(広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。
 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。
 しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。
 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎの旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。
 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
 その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。
 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1メートル56センチ、高さ20メートル)でしたが惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。書かれている題辞は「風松久髣舜歌曲枯髄猶留瞽女魂」で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。
 この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている。松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。
 この物語「朝顔日記は」、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています。

                   島田市

 上にもあるお堂「あさがほ堂」が説明板の左にあります。

 土手に上がって、対岸を望む。

 対岸は、はるか遠く。「金谷宿」は江戸時代には「遠江国」に属していました。
 北側の雲は雪雲そのもの。立っているのがやっとのほどの強風、どうしようか、一瞬、戸惑いました。渡る橋は北側の「大井川橋」。あそこまでけっこう距離はありそう。猛烈で冷たく雪の舞う西風の中、土手の上を進むしかありません。

                     

 辺りを見回す余裕もなく、帽子が飛ばないよう必死に押さえながら、やっと橋のたもとに。

「大井川橋」。

 大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。・・・当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋です。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会推奨土木遺産として認定されました。
          静岡県

 道路橋の南側に「歩行者・自転車」専用の歩道橋があります。1㎞という橋の長さですから、15,6分はかかりそう。

   
    対岸はかすんで見えるのみ。             振り返れば、少し明るくなった島田宿方向。

 やっと半分くらい? 天気も晴れてきて、でも西風のすごさは並大抵のものではありません。

             

     
         下流方向。携帯電話も(油断すると、人間まで)飛ばされそうで、おちおち写真も撮れません。

 向こうからは女子高校生二人連れ。自転車で。なりふり構わずという感じで、必死に自転車をこいで通り過ぎて行きました。

やっと対岸の金谷へ。所要時間:16分。

 しばらく土手を進み、ほっとして橋の方向を振り返ると、何と! 橋の向こうに富士山が。


     

 ウソみたいに晴れ渡ってきて、風もいくらか穏やかに。土手の上を自転車に乗ってやって来た地元の方、自転車を停めて、富士山を指し、「今日はよく見えますね、すばらしいですね。」と去っていきます。こちらも土手の上で、すてきな景観をしばらく眺めていました。

     

 ここまでやって来た甲斐がありました。土手を下れば、富士山ともお別れです。


     「東海道五十三次之内 嶋田 大井川駿岸 / 歌川 広重」

 嶋田宿を立つと、東海道第一の大河である大井川がある。水が出ると、旅人は嶋田で足留めになる。図は大名行列の川渡りを上方から描いたもののように見えるが、よく見ると武士・町民の姿もある。大名の先頭はようやく中洲にたどり着いたところで、清流の青の色彩に対し、河原の黄の対比で河の大きさを表現していることがわかる。

大正期の嶋田「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より 
(「知足美術館」HPより)  

 ※ この写真の撮影地点は、木橋が度々流され、「川越し」(船渡し)していたところのようです。まだ恒久的な橋は建設されておらず、また「大井川橋」そのものも、上流の旧国道1号線(現県道381号)に架けました(昭和3年開通)。

現在の、ほぼ同じ地点から。現在の河川敷は、川の中に。                  
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「おんな泣かせ」。川越遺跡町並。「川会所」。(藤枝駅から金谷駅まで。その3。)

2015-02-18 21:59:13 | 旧東海道

 県道34号線を西に向かいます。正面には、「特種東海製紙島田工場」の大きな煙突が見えます。

 右手にあった酒蔵。「大村屋」。

 徳利をもった若鬼が目印。「大村屋酒造」は、島田で残された唯一の酒蔵で、ここの銘柄酒は、「若竹鬼ころし」、「おんな泣かせ」。特に「おんな泣かせ(純米大吟醸)」は、静岡地酒の中で、そのユニークなネーミングと、ラベルに配された歌麿の美人画で有名、らしいです。
 そういえば、「藤枝宿」からの街道筋、酒屋さんの看板にありました。今度、スカイツリータウンにある地酒屋さんに行ってみよう。

道標。「西 大井川渡船・・・」。判読不能

 ただ「大井川」の渡船は、明治以降なので、この道標は、江戸時代の東海道に関わる、古い道標ではありません。

ここで、「大井川」の渡しの歴史を。木橋の「蓬莱橋」についても。

《歴史》
1870年(明治4年) - 川越人足廃止に伴い、渡船が運行開始。
1875年(明治9年) - 木製の仮橋を架設するが、しばしば増水で流された。
1883年(明治16年) - 本設の木橋が完成。
1895年(明治29年) - 増水で流失し、渡船が復活。
1928年(昭和3年) - 鉄橋(トラス橋)が完成。

 大井川の徒渉し(かちわたし)の制度は幕府の交通政策の整備と連動して整えられていった。旅行者が少ない時代は自力で川を渡るのが原則であったが、公儀御用の通行が増えると、川を渡す専門の人を一定数確保しておく必要が生じ、その費用を大名や一般の人からの通行料によって賄う制度がつくられた。その結果、専業の川越人足が定着し、高い料金が設定されることになった。そしてこの制度を守るために幕府は他の場所で渡るのを禁止した。
 こうなれば渡船事業などを申請する人があったとしても、地元の人々の権益を保護し、伝馬制度を守る立場から官民がこぞって反対し、新規事業の申請をことごとく握りつぶすことになった。また当時の大井川に1000メートルを越える長大橋を架けて維持できるほどの費用対効果がなかったことも橋が架けられなかった大きな要因である。
 このように官民一体となって維持されてきた大井川の徒渉しも幕府の崩壊にともなってその基盤が失われた。明治になると、宿駅制が廃止され、ついには渡河の方法や位置までもが自由化されることになると、その命運は一気に尽きることになる。時代の変革によって職を失うことになった川越人足の千数百人、家族を含めると三、四千人の人たちが転職を余儀なくされた。地元の有力者の尽力や県の援助によって丘陵地を開墾することになったが、新しい作物を生み出す苦労は並大抵ではなく、たくさんの離脱者を出しながら茶の栽培が軌道に乗せられていった。こうして日本一の茶所・静岡の基盤が築かれたのである。
 明治新政府は希望者には有料の橋の架設や渡船の設置を認める通達を出した。大井川でも地元の有力者が中心となって架橋計画が立てられ、明治15年に延長1,255メートルの有料の橋が完成した。しかし、その経営は楽ではなかったようで、20年ほどで廃絶してしまった。その後は渡船にもどり、大井川に近代的な道路橋が完成するのはようやく昭和3年のことである。鉄道に比べて道路の整備はずいぶん遅かった。これが現在の大井川橋である。
 大井川橋から4キロほど下流に蓬莱橋という日本最長の木橋が架かっている。この橋には明治維新の際、時流に取り残された徳川家直参の武士たちの苦難の歴史が秘められている。大井川の右岸に位置する牧之原は、現在では見事な茶園が広がっているが、もとは耕作に適さない荒地であった。大政奉還の後、駿府城主となった徳川家達(いえさと)にしたがって駿河へ移住した直参の御家人たちが家族とともに入植し、茶づくりに取り組んだ。また大井川の徒渉しがなくなって失職した人々も開墾事業に加わった。
 苦難の末、ようやく茶の生産も安定してくると、対岸の島田の町へ渡る橋が必要になってきた。このため島田宿の開墾人総代を始め40名余りの人々が中心になって架橋仲間出資組合がつくられ、明治十二年一月に竣工した。出資者以外は有料であった。この橋を「蓬莱橋」と命名したのは元の城主、徳川家達であったといわれる。

 大井川で簡易な木橋を維持していくことは容易なことではなかった。何度となく流失の被害を受けながら地元の人達の努力で存続されてきた。現在では大半の橋杭はコンクリート製になっているが、上部は長さ約900メートルの日本一長い木の橋である。

(以上、HPより)

 日本一のお茶処「静岡」誕生の秘話を初めて知りました。
 「蓬莱橋」は、ぜひ渡って見たい橋です。せっかくの機会を逃してしまいました。何とかまた来よう!

 街道筋には、興味深いお店も。ピザの店「あいおい」。

「大善寺・時の鐘」。
 明け六ッ(日の出の時刻)と暮れ六ッ(日の入りの時刻)の鐘の音は、大井川川越しの始まりと終わりの合図ともなっていたそうです。
 もともとあった鐘は戦時中に供出され、現在のは、戦後つくられたものだそうです。そういえば、三島宿にあった「時の鐘」も同じような運命をたどっていました。

   
                    低層で二重で庇の大きい屋根など、特徴のある家屋。

「島田宿」という表示。通りには小松。

 三叉路を左の道に進み、「東海製紙工場」の脇を行きます。しばらく行くと、旧街道らしい雰囲気になっていきます。

    
                       上段の間が現存する塚本家

 「上段の間」とは、奥の一室が一般の座敷より一段高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことです。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣に必ず備えられていました。
 塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ泰妙、大村藩によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行しました。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられています。・・・
 塚本家の主人の多くは「三太郎」を名乗り、家系の記録では、元禄までさかのぼりますが、川越し場が開設した当時からの旧家と思われます。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会

 その先の道ばたに道標。
                     「国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並」。

          「川越遺跡・全体絵図。

「六番宿」。
 川越し人足たちが詰めていた番宿。一番宿、二番宿と通りの左右にありました。
   
「島田市博物館分館」。

 上空は青空ですが、何となく風花が舞ってきて、薄ら寒い天気に。人っ子一人いないところを歩きました。建物に入ると、等身大の人足や品々が置いてあります。 
 車が停まっていて、生活している家もありますが、復元・保存され見学自由な建物が並んでいます。
      

一方で、生活しているおうちも。

    
                                        室内から琴の音色が。 

「仲間の井戸」(左奥)。右手には「手押しポンプ」。

「関川庵」。八百屋お七の恋人吉三郎の墓がある、とか。

    
                           「札場」。

 川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。
 一日の川越しが終了すると、それぞれの番屋において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました。 

       町並み。

    
                    「川会所(かわかいしょ)」。       

 川越しの料金を決めたり、川札を売った所。元禄9(1696)年に川越制度が確立されてから、川役人が川越業務を行なってきた建物です。現存する建物は安政3(1856)年に建てられたもので、明治以降数回の移転を経て、昭和45(1970)年、川会所跡の西側の現在地に復元保存されました。

芭蕉の句碑。「馬方はしらじ時雨の大井川」

 この句は、まさに「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」ですね。なお、水深4尺5寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止(「川留め」)となった、ようです。

「せぎ跡」。大井川の増水を食い止めるための堰。
 両側にあって、板を差し込めるような溝があります。

振り返って望む。

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島田宿一里塚。本陣。如舟。芭蕉。其角。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その2。)

2015-02-17 23:39:05 | 旧東海道

 いよいよ島田宿への道のりです。
国道沿いで見かけた鶏白湯ラーメン屋「燕がえし」。

こちらは古風でしゃれた趣のお店。

「(日本橋から)206㎞」標示。けっこう歩いて来たものです。

 「六合」で、国道から離れて右の道に進みます。

このあたりが「阿知ヶ谷」。

 しばらくして、再び「国道1号線」に合流。向かいは、お茶問屋さん。

古風な店構え。
                 この付近には、お茶屋さんの問屋が目に付きます。さすが本場!


    

栃山土橋

 大津谷川と伊太谷川が、この橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。
 享和3年(1803年)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の「栃山橋」は土橋で、長さ17間(36.6米)、横幅3間(5.4米)、橋杭は三本立て七組で支えていました。
 土橋とは板橋の上に柴(木の枝)を敷き、その上に土を貼ったものでした。
 この橋の東端が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていました。

 島田宿史跡保存会

「栃山橋」を振り返る。

しばらく進むと、小さな水路の近くに。「監物川と監物橋」。

 旧東海道は、国道1号線から離れ、左の「島田駅」方向の道に進みます。しばらく行くと、「島田宿東見付跡」。
「升形跡(宿東入口)」。

 宿場の出入口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張施設のことをいいました。宿場の見付は、上に咲くや竹矢来を設けた石段や土手で、街道に直角や鍵の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升形の見付もありました。
 島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは5間四方(約80㎡)ほどです。ここには宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。

 島田市教育委員会 島田宿・金谷宿史跡保存会 

そこから街道筋を振り返る。

 次第に商店街に入っていきます。足元にはタイルが。「帯まつり」。



 日本三奇祭のひとつ、三年に一度の島田大祭(帯まつり)は、元禄8年から始まり本年で107回目を迎えます。
 繁栄と豊穣の願いをこめた帯まつりは300年余の間、島田の街に華を添え続けています。
 その昔、島田に嫁いできた花嫁は、晴れ着姿で大井神社へお参りし、その姿で町を歩き披露するのが習わしとされていました。それは気の毒ではないかと花嫁を気遣う心から、女の命「帯」を大奴が木太刀に飾り、安産祈願とあわせて、人々への披露を行うことになりました。
 そうなると親たちは嫁入り道具の中でも特に帯に気を配るようになり、娘を気づかい、はるばる親が来る。逸品を見ようと商人が来る。さながら帯のファッションショーとなったのが帯まつりの始まりです。
 現代では、25人の大奴が2本の帯を下げながら、傘を片手に街中を練り歩きます。

HPより)

 ちなみに「日本三大奇祭」といえば、、「なまはげ(秋田県)」、「吉田の火祭り(山梨県)」、「西大寺会陽の裸祭り(岡山県)」? でも、うちこそは「三大奇祭」と名乗りを上げる祭は他にもたくさんあるようです。

商店街にある「島田宿」。

島田宿の説明板。

1、島田宿の成立
 慶長6年(1601) 徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される
 慶長9年(1604)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島田」で仮に継立てを行った。
 元和元年(1615) 元の島田宿に戻り復興した。
1、位置 
 江戸へ 52里2町45間(約204㎞)
 藤枝宿へ 2里8町(約8.7㎞)
 金谷宿へ 1里(約3.9㎞)
1、宿内往還(道悦島村境より大井川堤まで)の長さ
 34町53間(3.8㎞)
 道幅4間(7m24cm 向かいの車道に鋲で表示してあります)
1、宿内家並東西長さ
 9町40間(約1.1㎞)
1、宿内人口(天保14年・1843年)
 6727人 内 男3400人 女3327人 (当時の静岡県内では、府中についで人口が多かった)
1、宿内総家数(天保14年・1843年)
 1461軒
1、宿泊施設
 本陣 3軒 上本陣 村松九郎次家(3丁目)、中本陣 大久保新右衛門家(3丁目)、下本陣 置塩藤四郎家(4丁目)
 脇本陣 なし
 旅籠屋 (大6軒・中7軒・小35軒)
1、問屋場 1ヶ所(5丁目)
 宿建て人馬人足 (人足 136人 馬 100疋)
1、高札場 1ヶ所(西入口北側・大井神社南鳥居横)
1、郷倉 1ヶ所(5丁目南裏)

 「東海道宿村大概帳」より
              島田宿・金谷宿史跡保存会

 右手に「島田宿一里塚跡」碑。
     

島田宿一里塚

 慶長9年(1604年)徳川家康は、東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。塚は5間四方(直径約9米)、上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。
 島田宿一里塚は天和年間(1681~1684年)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。
 幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅5間2尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています。
 
  島田宿史跡保存会

 ここでは、江戸(日本橋)から「50里」(=約200㎞)、と記されていますが、現在の数え方だと、25里目の「箱根山中(なし)」と36里目の「富士川中(なし)」の二つを数えることが多い。それに従うと、「52番目」となります。日本橋からの実距離では、「52里」(=約208㎞)、の方がより正確だと思います。

閑散とした印象の商店街。

 駅前近くなると、道幅も広くなり、整然とした町並みに。

案内図。道のかたちはほとんど変わらない。

旧来の商店街方向を振り返る。

            「五丁目まちかど物語」。

 1932年、日本で最初の私設天文台がこの地に開設されました。
 その5年後、1937年1月それまで行方不明となっていたダニエル彗星が、開設者・清水真一氏(島田市名誉市民第1号 1889‐1986年没)により再発見されたのです。
 それは、アマチュア天文家の周期彗星検出第一号という世界的快挙となりました。
 これにより、日本天文学会天体発見賞を授与され、その功績が大いに讃えられました。

「問屋場跡」。

 「問屋場」は、宿駅の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、旅行者に人足や電場を提供し、継立てを行う施設。
 島田宿の問屋場が間口8間(約14.5M)、事務所は間口5間半(約10M)奥行き5間(9M)の建物でした。・・・常備の人足は136人、伝馬は100疋、飛脚は10人が常駐していました。・・・

 その隣にある碑が「島田刀鍛冶」の碑。

島田刀鍛冶の由来
・・・
 島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている。
 島田の刀鍛冶は室町時代より江戸時代末期にわたる約四百年間の歴史をもち、繁栄期にはこの島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は義助、助宗、広助を主流とし、作風は相州風、備前風、などのみえる業物打ちであった。 江戸時代になると、貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。

「からくり時計」のある通り。

島田宿下本陣置塩(おしお)藤四郎家跡です。

   

島田宿本陣跡

 本陣とは幕府の高官や公家・大名・旗本・高僧など支配層の人々が休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設です。
 はじめは「大名宿」と呼ばれていた、各宿場の広い家屋敷を持つ富裕な家を寛永12年(1635年)頃、参勤交代が制度化されると、幕府は「本陣」に指名しました。
 島田宿には、西から上本陣村松九郎治家・中本陣大久保新右衛門・下本陣置塩藤四郎家の3軒がありましたが、脇本陣はありませんでした。享和3年(1803年)の「島田宿明細書帳」によると、上本陣は建坪262坪、中本陣は建坪244坪、下本陣は建坪271坪とそれぞれの規模が記されています。
 諸大名は、各宿場の本陣を指定し、定宿としていました。本陣へは藩主と側近の一部が泊まり、その他の家臣団、女中、中間などは宿内の旅籠や商家、民家、寺院あるいは農家などにも分散して泊まりました。
 参勤交代の行列は、数百人から千人以上にも及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われています。

 島田市教育委員会 島田宿史跡保存会

         

 屋敷跡を広い整備された通りにし、「東海道」を挟んで南側にも同じような「観光」施設を設けています。もちろん、かつての東海道とは直角に交わっています。


 平日のお昼前のせいか、ほとんど人通りもなく、お店も閉まっているようです。駅前再開発計画の一環としてつくられた施設です。

    
                           「本陣跡」(二ヶ所)。

 この付近には、かつての宿場を記念する立て札、史跡碑が道の左右にあって、通りを渡ったり、戻ったりです(幸いに車も人もほとんど通らないので助かりますが、町としてはこれでいいのかどうか? )。

    
                   通りの左側にある「塚本如舟邸跡」。

【句碑】 俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸跡(如舟と芭蕉と連句碑)

         やはらかにたけよ今年の手作麦 如舟
         田植とゝもにたひの朝起 はせを

          元禄七(年)五月雨(さみだれ)に降こめられてあるし(あるじ)のもてなしに
            こころうこ(動)きて聊(いささか)筆とる事になん

 塚本家は島田宿の名家であり、芭蕉は二度ばかりこの如舟の家を訪れています。はじめは元禄四年十月、「奥の細道」の旅を終えて江戸へ帰るときで、二度目は元禄七年、故郷の伊賀上野へ向かう最後の旅のときです。このときはたまたま大井川の川止めにあい、塚本邸に四泊しているようです。碑に刻まれているのは、二度目の訪問のときに詠まれた如舟と芭蕉の連句とその後書き。


聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸址標識について

 塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて
  宿かりて名を名のらする時雨かな  馬方はしらじ時雨の大井川
などの句を残したが越えて元禄7年5月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して
  さみだれの雲吹きおとせ大井川    ちさはまた青葉なからになすび汁
など詠じ更に興に乗じて田植の連句
  やはらかにたけよことしの手作麦  の如舟の発句に翁は  田植とともにたびの朝起
と付句し、且、元禄年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん
と後書まで添えた真跡が260年後の今日までそのまゝ塚本家に伝えられたことは何ともあり難い事である。この標識の碑面は其連句の真跡を写真模刻したものである。願うにわが島田の地に俳聖の佳吟が残され又はやくから蕉風の唱えられたのも如舟交遊の賜であった。誠に郷土として永く伝うべき文化史跡というペきである。
                   昭和28年発已芭蕉忌  島田  早苗会同人誌

注:「ちさ」=苣(萵)<チシャ>
 ヨーロッパ原産で「レタス」のこと。キク科の植物。平安時代に中国から日本に渡来した。この時代には春の食材とされ、「なすび」は夏のもので、春と夏が汁の具として共にあるのを示して、主の心遣いを詠っています。「島田市博物館」の庭にこの句の句碑があるようです。

 塚本如舟邸跡

 塚本家は代々孫兵衛を名乗り、元禄9(1696)年、初代の川庄屋を代官から任命されています。その他にも組頭、名主、問屋場の年寄、六代目からは問屋を務めるなど代々宿役人の養殖を務めました。当時の屋敷は、間口5間余、奥行き49間余でした。
 三代目孫兵衛は「如舟」と号して俳諧を嗜みましたが、後に子孫が、彼のことを「家業に精を出し、酒造・製茶を営んで、江戸に送り、東叡山(上野寛永寺)への献茶の御用を蒙るるなど繁盛して富貴になり、宿高の150石を持っていた」と伝えています。塚本家は主に茶商と大地主として財を成したようです。
 また彼は、島田出身の連歌師宗長を偲んで、長休庵という草庵を建てましたが、後に宗長庵という寺になっています。
 元禄4(1691)年、俳諧師芭蕉が江戸に向かう途中、俳人として知られていた如舟宅を訪れました。このとき芭蕉48歳、如舟51歳でした。
 また、元禄7(1694)年、芭蕉は、江戸から郷里伊賀上野へ向かう途中、再び如舟宅を訪れ、川留めのため、4泊5日滞在しています。このときにも、石碑に記されているような有名な句をいくつか残しています。
 なお芭蕉は、この年10月に永眠しましたが、芭蕉没後も塚本家には、芭蕉ゆかりの跡を求めて、親友の素堂や高弟の嵐雪・桃隣・支考・許六・涼菟らが訪れています。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会




【句碑内容】 
      するかの国に入て

       するかちやはなたち花もちやのにほひ はせを

  この句も元禄七年、芭蕉の最後の旅のときに詠まれたものです。

 この他にも、島田市内には「駅前緑地」「博物館」など数カ所に芭蕉の句碑があります。 
 
「宿かりて名を名乗らするしぐれ哉」

「馬かたはしらじしぐれの大井川」

「たはみては雪まつ竹のけしきかな」

「道のべの木槿は馬に喰われけり」

「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」

 さて、12時半も回ったので、そろそろ昼飯にでも。コンビニのおにぎりもありますが、けっこう風も冷たく強いし、このあたりにお店があれば入ろうか、と駅方向に向かいました。が、1軒、「ラーメン屋」さんがあるだけ。他に何か、と探すも、「魚民」「千年の宴」「山内農場」とか飲み屋のチェーン店ばかり。もちろん、開店前。
 「ラーメン屋」のおやじが出前の帰り、こちらをじろじろ見ながら通り過ぎます。つい入りそびれて・・・。もう少し行ってみるかと、東海道に戻ることに。
 左手にあるのは、創業300年の「清水屋」さん。名物の小饅頭は、こし餡の酒饅頭。これはこれでいいけれど・・・。
 ふと店の前には「饅頭で 人を尋ね与 山佐くら 其角」と、芭蕉の門人、宝井其角の句碑がありました。つい、この句碑で満足!

「宝井其角句碑」。

 其角には、「切られたる ゆめはまことか のみのあと」なんて、けっこうこじゃれた句があります。

 結局、西に向かって歩き、「大井神社」前のバス停のベンチで、おにぎりを食べて、大井川に向けて出発です。

 そこには、「島田宿西見付」。

 升型跡(宿西入口)

 ・・・島田宿の西入口には、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていました。・・・ 

 この付近までが厳密な意味での「島田宿」内ということになります。
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牓示石。古東海道。千貫堤。瀬戸の染飯。上青島一里塚。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その1。)

2015-02-16 21:25:35 | 旧東海道

 今回は、藤枝~六合~島田~金谷と、ほぼJR東海道線に沿った旧道の旅。その間には、(越すに越されぬ)「大井川」。

 2月13日(金)。

 想像以上に西風が強い中での探索。晴れてはいますが、時々黒雲が通り過ぎ、雪もちらつくというコンディション。距離的にはそれほどではありませんが、思った以上に風に逆らって歩く、しんどさがあります。

遠くに「松並木」。

 JR「藤枝」駅に着いたのが、10時頃。3時前には「金谷」駅には着きそうですが。

 前回の「青木」交差点から出発。しばらく進むと、松並木が出てきます。この区間は、街道沿いにぽつん、ぽつんと松並木が登場する、らしい。

    
    「従是東田中領」。         「田中藩領牓示石蹟」。(注:「牓」は、「傍」、「榜」とも記す)

田中藩領牓示石蹟

 瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す牓示石を立てた。
 この牓示石は一丈余(約三M)の石柱で、「従是(これより)東田中領」と書かれていた。 これと対になるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。
 牓示石は、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。
 上青島にも牓示石があった。

 平成10年5月  青島史蹟保存会 

 その先、道が少し左にカーブする手前、左手にあるのが、「鏡池堂六地蔵尊」。      
 この堂宇は昭和三十三年に昔の形を残して改築したもの。地蔵尊の周辺は時代の変遷により変化しているが、堂宇の位置は変わっていない、らしい。

「鏡池堂」から歩いてすぐ右側に古東海道の跡碑があります。

    

古東海道蹟

 昭和三十年代までは、こゝから西に瀬戸山の丘が続いていた。
 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸のへ通じていた。
 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。
 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。
 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。
 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。

 平成10年5月 青島史蹟保存会

 正面奥の細い道がそれらしい。

 その先の左側には今度は「東海道追分」碑があります。

    

東海道追分

 こゝには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。
 瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。
 当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。
 東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。

 平成10年5月 青島史蹟保存会 

 この地点付近は、江戸時代からの東海道、中世の古東海道、旧東海道の三つの東海道の分岐点(追分)だった、ようです。

「追分」付近を振り返る。

再び松並木。

    

市指定文化財 千貫堤

 寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360米、高さ3.6米、巾29米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。

 昭和31年1月21日指定 藤枝市教育委員会

 昭和40年代の土地開発によって、藤五郎山をはじめ堤は取りのぞかれ、現在は石野家の南側に約40Mの堤がそのときのままの姿で残っているのみのようです。

左手奥の敷地付近。

わずかばかり盛り上がっているのが分かる。

南側。奥に見えるのが、「千貫堤瀬戸染飯伝承館」。



 先を急いでいたので、中に入らず。そのため、以下の内容をお借りしました。

藤枝宿の名物 「瀬戸の染飯」(せとのそめいい)

 「東海道」に面した瀬戸の茶屋(現在の藤枝市内瀬戸、上青島辺り)で古くから売られていたものです。
 文献によると、古くは戦国時代・天文22年(1553年)の紀行文『参詣道中日記』 に 「せとのそめいゝ」 が登場しています。
もち米を蒸した強飯(こわいい)を、くちなしの実で黄色に染めすりつぶした後、小判形などに薄くのばし乾かしたものです。

柏の葉にのせてあります

 くちなしは漢方薬として疲労回復の薬とされ、それを使ってつくられた染飯は、足腰の疲れをとる食べ物として、また携帯食として旅人に評判になったそうです。
 竹の皮と紙に包んで、一袋12文で売られていたそうです。1文20円くらいだそうですから、240円になるそうです。お手頃価格?
 染飯は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場。また、寛永4年(1792年)旅の道中、小林一茶もここで一句詠んでおり、人気の程がうかがえます。
 で、染飯ですが、なんと今でも買うことができるのです。藤枝駅から徒歩3分の駅前にある 「喜久屋」では、これを再現し販売しています。もち米をクチナシの実で黄色く染め蒸しあげたもので、普通のお弁当やお惣菜と同じように販売されているので、気軽に買うことができます。
頼めば竹の皮で包んでくれて、資料館で見たものとそっくりなパッケージにしてくれます。値段は300円。染飯が入った染飯弁当もあります。

(以上、HPより)

染飯を売る時の包み紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている、そうです。
 

「育生舎跡」。1874年(明治7)年にできた公立の学校。

「田中藩領牓示石蹟」。

 江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたゝめ、藩境を示す牓示石を立てた。
 田中藩上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銭太郎の所領となっている。
 この標石は一丈余(約3M)の石柱で「従是西田中領」と書いてあった。
 これと対になるのは、田中藩領細島村の西域と考えられる。
 市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった。

 平成10年5月 青島史蹟保存会 

 松並木が時々現れます。

「青島酒造」喜久酔。

松の古木の向こうに、田んぼと東海道線。

 しばらく進むと、「上青島一里塚跡」。日本橋から51番目。この付近には松並木が保存されています。
    


     

 昭和32年当時の松並木
 現在も残る松並木ですが、昭和30年代には江戸時代の街道を偲ばせる風景がよく残されていました。当時は、道路沿いの両側に松並木があり、土手の上に生えていました。

 発掘された一里塚
 昭和57年に発掘調査され、塚のかたちを表す円形の石積みがみつかりました。上青島の一里塚は江戸から51里(約200㎞)の地点にありました。市内にはほかに岡部(川原町)、鬼島、志太に一里塚がありました。

              
    少しばかり土盛りされた(削られてしまった)土手に生えている松並木。

 しばらく進むと、「国道1号線」に合流します。その交差点名が「一里塚」にちなんだ「一里山」。この先で、藤枝市から別れて島田市に入ります。
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本陣跡。問屋場跡。志太一里塚。「おんな泣かせ」。・・・(宇津ノ谷峠から藤枝駅まで。その6。)

2015-02-14 21:36:04 | 旧東海道

 宿場内には「常夜燈」が目立ちます。

   

 右の「常夜燈」の隣にある建物。大正モダンという雰囲気。

 「大慶寺」の「久遠の松」。クロマツの大樹。なかなか見事。

 宿内には、この先の「正定寺」境内にも「本願の松」というすばらしい松があります。

「藤枝宿案内絵図」。確認しながら歩けます。

 商店街(名称も地区ごとに付いている)を進むと、歩道のところに「下本陣跡」のタイル。

 その先には、「上本陣」跡。

 「ニコニコヤ」さんとか隣のタクシー会社などの一角がそうだったのでしょうか?

                      
    宿内を望む。


 しばらく行くと、「問屋場」跡。今は交番になっています。

   

 ここが版画の上伝馬問屋場跡

 慶長6年(1601年)徳川家康は宿を置き、旅人や荷物を次の宿場まで運ぶ継立(つぎたて)と通信業務のために人馬や飛脚をそろえました。
 これを伝馬制といい、その業務を取り扱う場所を問屋場(といばや)といいました。
 その後田中城の大手口にも問屋場が置かれたので、前者を上伝馬、後者を下伝馬といって区別していました。


      「東海道五十三次 藤枝 人馬継立」(絵師 安藤広重)

 岡部より1里29町。広重は,保永堂版ではこのあたりの風景にはまったく目をむけず,宿駅における問屋のありさまを描いている。ウマの背から荷をおろすもの,荷物を重そうにかつぎあげようとするもの,汗をふくものなど,労働人夫の世態をことこまかに描写する。問屋場というのは伝馬所とか馬締とかいい,駅伝の中枢機関であった。荷物の目方をはかり,賃銭をきめ,人馬の継立てや貨物運送のあっせんをする場所であった。この貨物をになうためにウマや雲助がかかえられ,役人がこれを統率した。広重画はこのありさまをいまにつたえる。

 (『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』鹿児島県立図書館HPより)
大正期の藤枝「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」
(「知足美術館」HPより)

 「継立」とは旅人の荷物を宿場から宿場へと受け継ぐ際に、人や馬を新しく換えること。東海道は江戸から京都の間に、53の宿場が設けられていたため、「東海道五拾三次」と呼ばれるようになりました。

 しばらく進み、「藤枝宿」の西のはずれ、「瀬戸川」に架かる「勝草橋」を渡ります。ここで約2㎞にわたる「藤枝宿」も終わりです。

    


 「隷書版東海道 藤枝」には瀬戸川が描かれています。雨をしのぐ人馬の姿が印象的です。
               

 「勝草橋」の西のたもとには「田沼街道」の説明があります。



 田沼街道

 勝草橋の志太側の袂から瀬戸川堤を百㍍ほど下流へ行った場所は、田沼街道の終点であった。田沼街道は宝暦8年(17589相良藩主になった田沼意次(おきつぐ)によってお国入りのために整備された道で、相良街道ともいった。城下町であった相良の湊橋を起点として、相良・棒原・吉田の静岡地域を通り、大井川を小山の渡しで渡河して藤枝宿へ至る約7里(28㎞)の道であった。田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明6年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。田沼街道は大名の通行路としてでなく、河岸部と山間部を結ぶ物流の道としても盛んに利用された。吉永や静浜で作られた塩を藤枝方面へ運ぶため行商人が往還したといい、田沼街道の内瀬戸谷川の橋は塩取橋といわれ、塩売り商人から税を納めさせた場所であった。江戸時代の田沼街道は近代の道路拡幅やくっかうせいりなどによって現在その面影をとどめていない。
 
勝草橋を渡るとすぐ右手に「志太一里塚」の石碑が立っています。

    

志太一里塚

 奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。 主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
 徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
 志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
 藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。

 平成10年5月 青島史蹟保存会 

 これでようやく日本橋から「200㎞」となりました。宿場も22ヶ所クリア。

「藤枝宿案内絵図」もここまで。 

 次の「島田宿」までの街道歩きとなります。
    
         「八百屋本陣」。                  「おんな泣かせ」。

    
          ほんのわずかの「松並木」。

 これを過ぎると、「青木」の交差点。今回はここまで。

 さすが藤枝。足元にもサッカーのハメ絵が。
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鬼島の建場(たてば)。藤枝宿。藤枝静男。小川国夫。・・・(宇津ノ谷峠から藤枝駅まで。その5。)

2015-02-13 22:47:04 | 旧東海道

 「葉梨川」を渡ってすぐに右に曲がります。ここは、「御成街道」。

   
  通りの右手にあった道標。かなり土に埋もれてしまっています。「東海(道)」「御成街(道)」としか読み取れず。

 しばらく道なりに進みます。

 左手にモニュメント風の火の見やぐらと常夜燈があり、説明碑が設置されたところへさしかかります。

     

 東海道・鬼島の建場

 街道の松、枝を鳴らさず、往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。
 大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕篭・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の両人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。
 ここは宿場間のお休み処。茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペツ、ブツブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる。「処もとは鞍の鐙ケ淵、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」

  十返舎一九 東海道中膝栗毛

 注:「建場(たてば)」は一般的には「立場」と書き、幕府公認の宿場と宿場の間の休憩施設・「お休み処」があったところ。発展すると「間の宿(あいのしゅく)」となることも。

 かなり離れた「大井川」が「川留め」になると、その手前にある島田宿が満員に、さらに藤枝宿も。こうなると、岡部宿から先には進めなくなる場合もあるようです。弥次さん、喜多さんもそのあおりで、「岡部宿」に滞留したと思われます。
 また、「鐙ヶ淵」とあるのは、大楠(クスの巨木)のある「須賀神社」、「全居寺」(「鐙ヶ淵の観音堂」がある)一帯は、もともと「元葉梨川」の淵になっていたところで、その形が馬具の鐙に似ていたことから鐙ヶ淵と呼ばれていたようです。
 さらに、「街道の松の木の間」と表現していますが、現在は数本残すのみとなってしまいました。「藤枝宿」は、その先にあたります。



 さて、行く手の道路は広くなっています。その右手に「大楠」。このクスは、樹齢おおよそ500年で、静岡県下でも有数の大きさを誇っています。このあたり一帯が「鐙ヶ淵」となります。 
  
 「大楠」。               振り返って望む。左手一帯が「鐙ヶ淵」。



『東海道中膝栗毛』中に出てくる「松並木」。

 このあたり(「水守」地区)は、土地整備計画で大きく変わっています。「松並木」の道(「東海道」)も工事中。南側には大きなホームセンターやお店が出来て、周囲の道も広くなって東海道の痕跡は、この松並木のみ。保存するようですが。


  「しずてつストア」脇の道が「東海道」。        ぽつんと「東海道」の標識があります。

 「旧東海道」は、そのまま広い「国道1号線」を斜めに突っ切る道ですが、あいにく道路を斜めに渡るような状況ではありません。
そこで、「水守」交差点を渡ってから少し左に進み、右に折れて「旧東海道」を進みます。ちょっと分かりにくいところです。

「左車神社」前の道標。薄れてしまって判読不能。「・・・所跡」?

通りの向かい側にも「道標」。「東海道藤枝宿左車町」。

 いよいよ「藤枝宿」の中心部へ。振り返って望む。

  現在の「藤枝宿」は、ほぼ直線の道沿いの商店街になっています。

「濱小路」。右に一里余で「焼津湊」へ。

昔ながらの商家の趣。「桜えび」の張り紙あり。

埋もれた道標。「是西傳馬 是東左車」。

 藤枝といえば、今は、サッカー。

          
奥の店の看板に「藤枝名物サッカー最中」。   こちらは、「藤枝名物サッカーエース最中」。

「藤枝宿 絵図」。

 この絵図からみると、先ほどの左車神社前の標識は「東木戸跡」だったのかもしれません。こうした絵図が行き先々にあるので、便利です。

 右手にある病院の敷地に「藤枝静男」生誕の地」碑。
「小川国夫撰」とあります。

 藤枝静男は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。本人の言の通り、簡潔で硬質な力強い文体と自他を隔てず冷徹な観察眼において志賀直哉の影響を受けており、「心境小説」を幻想に推し進め、私小説の形をとりながら虚実のあわいに遊ぶような作品が多い。 (「Wikipedia」より)

 同じく藤枝出身の小川国夫の作品はけっこう読んでいますが、この方のはいままで接したことがありません(読んだ記憶があいまい)。
 実は、小川国夫の生地であるということで、「藤枝」には興味がありました。が、「東海道」を歩いているだけの「通りすがり」には、小川国夫の痕跡を知ることはできませんでした。
 藤枝生まれ、藤枝育ちで、自らを「枝っ子」(えだっこ)と呼んだ小川国夫は、平成20年4月8日、80歳の生涯を閉じるまで、ふるさと藤枝で執筆活動を続けました。
 帰りの東海道線で「用宗」駅を過ぎたときに、ふと小川国夫のことを連想しましたが。

「常夜燈」。

   
                 平日の午後のせいか、人通りも少なく、閉まっている店も目立ちました。
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岡部宿の松並木。傍示杭。鬼島一里塚。・・・(宇津ノ谷峠から藤枝駅まで。その4。)

2015-02-12 23:32:13 | 旧東海道

 再び県道(「つた街道」)に合流。広い通りになって、道は南に向かいます。

 「岡部宿」のはずれにあった誓願寺(現・「五智如来公園」)から「横内」境までの道の両側(約1㎞)には松並木がありましたが、旧国道1号線(現・県道208号「つた街道」)建設の際、東側の松並木が切り倒され、西側だけが残っています。

「五智如来公園(誓願寺跡)」。

「東海道岡部宿松並木」。

「岡部宿」(中央・右奥にあたる)の方向を望む。 

   
  「松並木」の南のはずれ。                 「岡部宿」碑の向こうには「常夜燈」。

 「国道1号線・藤枝バイパス」の下をくぐり、「横内」へ。

「うなぎや」という名の「うなぎや」さんのPが目印。

すぐ右手に「傍示杭」があります。

   

岩村藩領傍示杭

 「従是西巖村領 横内」(是より西、岩村領横内)
 この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
 岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。
 駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
 
 横内歴史研究会  

こちらの方が古そうな「杭」。

軒下に木製の荷車が立てかけてあります。

この街道筋の家々には、かつての屋号が掲げられています。

 ところで、店先の幟の「ビワミン」って? 「ビワミン」はビワ葉エキス入りアルカリ健康ぶどう酢のようです。初めて知りました。

道標。「小字名 油街途」。

近代的な「常夜燈」。

「惣平さん」のおうち。  

町並み。 

          
         「横内あげんだい」。

 「夏祭り川原供養祭、盆の送り火法要あげんだい」。何本も立てて燃やす行事らしい。「あげんだい」とは、高さ5メートルほどの竿の上部に竹を割って籠をつくり、その中に燃えやすい松葉や麦わらなどを入れたもの。その中へたいまつを投げ入れる、たいまつによる玉いれのようなもの? いったんは廃れていたのを1999(平成11)年に復活させたそうだ。

 「朝比奈川」に架かる「横内橋」から横内地区を望む。川岸のところに「横内あげんだい」が見える。けっこう目立つ!
                  

  街道筋らしい町並みが続く。

再び松並木が出てくると、「仮宿」の交差点。

「従是東巌村領横内」。

「歩道橋」から「横内」地区を望む。
 
   
「従是西田中領」。    

従是西田中領

 この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。
 斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871年)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っているが、この碑を本来あるべきこの地に復元しようと、ここに複製を建立し後世に伝えるものである。因みに碑文の題字は本碑の拓本に依るものである。

「傍示杭」付近を振り返って望む。

久々の「国道1号線」。「(日本橋から)197㎞」。

 その手前のところに、朽ちた木柱。

 そこには、「史跡 傍示石跡」と。もともとは、「従是西田中領」という傍示杭(石)は、ここにあったのではないでしょうか?

 「国道1号線」に合流してすぐに左の道に入ります。旧道はほんの一部、国道に吸収されていたことになります。
振り返って望む。不自然なほどの広い空間。

 しばらく進むと、左手の建物のところに標識。
                                    「史跡 鬼島一里塚跡」。日本橋から49番目。

松並木もちらほら。

町並みがなくなると、田園風景に。
コメント (4)
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