おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

『そして誰もいなくなった』(「 And Then There Were None」)アガサ・クリスティ

2014-11-29 20:59:31 | 世間世界
そしてみんないなくなった 浅尾代表が解党会見(朝日新聞) - goo ニュース

 以前、民主党の政権転落後のドタバタ劇について、掲載した記事。今回また載せます。

『そして誰もいなくなった』(原題: 「Ten Little Niggers」 のちに改題「 And Then There Were None」)

 1939年に刊行されたアガサ・クリスティの代表的な長編推理小説。

 孤島から出られなくなった10人が1人ずつ殺されていくというクローズド・サークルの代表的作品であるとともに、「童謡殺人(見立て殺人)」の代表的作品。

《招かれた10人》

・ヴェラ・エリザベス・クレイソーン 秘書・家庭教師を職業とする娘。
 謎の声によると、家庭教師をしていた病弱な子供に、泳げるはずのない距離を泳ぐことを許可して溺死させた。
・フィリップ・ロンバート元陸軍大尉。
 謎の声によると、東アフリカで先住民を見捨てて食糧を奪い、21人を死なせた。
・ウィリアム・ヘンリー・ブロア元警部。
 謎の声によると、偽証により無実の人間に銀行強盗の罪を着せて、死に至らしめた。
・ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ 高名な元判事。
 謎の声によると、無実の被告を有罪にするように陪審員を誘導して、死刑判決を出した。
・エミリー・キャロライン・ブレント 信仰のあつい老婦人。
 謎の声によると、使用人として使っていた娘に厳しく接し、その結果自殺させてしまった。
・ジョン・ゴードン・マカーサー 退役した老将軍。
 謎の声によると、妻の愛人だった部下を故意に死地に追いやった。
・エドワード・ジョージ・アームストロング 医師。
 謎の声によると、酔ったまま手術をして患者を死なせた。
・アンソニー・ジェームズ・マーストン 遊び好きで生意気な青年。
 謎の声によると、自動車事故で2人の子供を死なせた。
・トマス・ロジャース オーエンに雇われた召使。
 謎の声によると、仕えていた老女が発作を起こしたときに、投与すべき薬を投与せず死なせた。
・エセル・ロジャース オーエンに雇われた召使で料理人。トマスの妻。
 謎の声によると、トマスと同じく、発作を起こした老女を助けようとせず死なせた。
                                            (以上「Wikipedia」参照。)

 責任の取り方でお互いが疑心暗鬼になったあげく、ついに「誰もいなくなっ」てしまうことになりそうな・・・。たぶん今の執行部(根っからのお人よしの海江田さん)では「菅」切り(「缶」を切る「缶切り」すらなさそう)にまで持ち込めそうな感じがない。こうして、またしても何も決められない「烏合の衆」。むしろ、カラス集団の方が知恵もあって都会で上手に生息している。
 ということは、それ以下ということに。次の衆議院選挙までに本当に誰もいなくなる可能性、大。 

《余談》
 童謡「Ten Little Niggers」は1864年にアメリカで作詞され、1868年にイギリスで改作された。1940年、大西洋を渡ってアメリカで本書が出版された際、「Niggers」に代って「Indians」が採用された。
 イギリス版の童謡には実際二種類あり、「一人が結婚して、誰もいなくなった」という歌詞の方が一般的だった、らしい。

Ten little Indian boys went out to dine;
One choked his little self and then there were nine.

Nine little Indian boys sat up very late;
One overslept himself and then there were eight.

Eight little Indian boys travelling in Devon;
One said he'd stay there and then there were seven.

Seven little Indian boys chopping up sticks;
One chopped himself in half and then there were six.

Six little Indian boys playing with a hive;
A bumblebee stung one and then there were five.

Five little Indian boys going in for law;
One got in Chancery and then there were four.

Four little Indian boys going out to sea,
A red herring swallowed one and then there were three.

Three little Indian boys walking in the zoo;
A big bear hugged one and then there were two.

Two Little Indian boys sitting in the sun;
One got frizzled up and then there was one.

One little Indian boy left all alone;
He went out and hanged himself and then there were none.→こちらの歌詞が小説版のもとになっている、らしい。

(One little Indian boy living all alone;
He got married, and then there were none.)→こちらの歌詞が一般的なようです。

 以上、再掲しました(一部、省略あり)。

 民主党はこの記事以降、何とか命脈を保ってここまで来た。前回は、第3極旋風の中で埋没した「民主党」。敵失と乱立でまんまと政権を奪取した自公。その後の2年間をみていると、戦後、最低・最悪の政治がまかり通った。

 今度こそ、野党の「要」として、アベ(極めて精神不安定、かつ自己中。どこかの領袖様にも似てきた)の思惑を見事に打ち壊してて欲しいものだが、国民の目はまだまだ厳しい。またしても自公圧倒的多数か!
 すかさず、アベどもには、「憲法9条」改悪を中心とした憲法改悪を通すめどが見えてくる。何とか阻止したい。

 野党議員。「次世代」「大阪維新」以外は「小異を捨てて、大同につく」ことができないものか?

 これで「民主」をはじめ思ったほど伸びなければ、野党全体がそれこそ「そして誰もいなくなった」状態になってしまう。いよいよアベ版ファシズムが現実味を帯びてしまう。

 いずれにせよ、せっかくの機会、棄権するのが一番ダメな選択!


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箱根旧街道杉並木。「箱根八里」碑。箱根関所。・・・(箱根路。その8。)

2014-11-28 22:17:41 | 旧東海道

 杉並木を進みます。
 
  
                 「箱根旧街道杉並木」碑。

    

               「説明板」。

 そこには、東海道では唯一のもので、第二次世界大戦中に伐採されそうになったこともあった、現在では国指定史跡として保護され、約420本の杉の大木が残されている、とのことなどが記されている。

                     

      
                            木の間越しの「芦ノ湖」。
 横断ほどを渡って「県立恩賜箱根公園」に入ると、その一角に、

      「箱根八里」碑。

 鳥居忱(まこと)作詞、滝廉太郎作曲。

箱根の山は、天下の嶮
函谷關も ものならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳え、後にささふ
 雲は山を巡り 
 霧は谷を閉ざす
昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士
大刀腰に足駄がけ
八里の岩根踏みならす
斯くこそありしか、往時の武士

 さて、いっさい仮名を振っていない歌詞。リズムも合わせて間違わずに歌えるかどうか、我々の世代はおそらく皆歌えるでしょうが、若者にははたして?

 そのまま進むと、「箱根関所」へ。

 と、この写真で携帯の電池切れ。しまった!

 これからの写真及び説明は今年の4月にここまで来た時のものを一部、再掲します。

復元された東海道・杉並木。道幅は当時と同じらしい。

  

 「箱根関所」は、2007(平成19)年春に復元工事が完成し、一般公開されたという。

《箱根町 箱根関所『よみがえった箱根関所』》に「復元整備までのいきさつ」や関所の歴史、調度品など詳細な解説あり。

 江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である『相州御関所御修復出来形帳(慶応元年:1865)』が、静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から、昭和58年(1983)に発見されました。箱根町でこの資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになりました。そこで、平成19年(2007)春の完成をめざして発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行うことになったのです。
 平成11年度から平成13年度にかけて、箱根関所の跡地一帯の発掘調査を行ない、資料との整合性や遺構の残存状況の確認を行った上で、大番所・上番休息所、厩、雪隠、京口御門などの建物や生垣、石段などの構造物の復元を行ない、平成16年(2004)4月から、これらの建物の公開を始めました。
 平成16年度からは屏風山側の整備を進め、遠見番所や足軽番所、江戸口御門や足軽番所雪隠、京口御門から芦ノ湖へと続く石垣や京口千人溜斜面の石垣の復元工事を行ない、さらに周辺環境整備として電線類の地中化の準備や杉並木の保全を行ない、平成19年春の全面公開に至りました。

(以上、「」HPより)

御触書。高札。

背後の丘の上にある「遠見番所」への石段から。

 江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。
 箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。
 これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。
 貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
 箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられた。(以上、「Wikipedia」参照)

 復元された「箱根関所」の見学コースには、ほぼ上記の内容に沿った解説がなされています。

しっかりした造り。かつての建物通りの再現ではなさそうだが。

 以前からある、隣の「資料館」の裏手の屋根は、老朽化し崩れ落ちているのに比べ、どの建物も組み立てが、がっしりしている。



「遠見番所」。中にいるのは、役人の人形。
 随所に、役人の姿が「シルエット展示」(衣服の色、模様、顔つきなど淡い色で表現されている)されている。


  

復活した井戸。

京口御門を望む。

  
      京口御門。                    京口御門付近から東を望む(江戸方向)。

説明板。
明治初年の頃の「箱根宿」のようす。

 結局、今回はここまで。小田原駅行きのバスに乗り戻ってきました。国道1号線は上りも下りも大渋滞。バスに乗ったときにはまだ夕方前だったのに、終点に着く頃にはすっかり日も暮れて・・・。しかし、 初めて「箱根駅伝の山下りコースを眺めながら通りました。

 駅前の居酒屋で新鮮な魚をつまみにちょっと飲んで、帰路に。

 次回は、「箱根関所」、「箱根峠」から「三島宿」までの箱根路・西坂にチャレンジです。年内にはとは思いますが、果たして?


葛飾北斎「富嶽36景」28. 相州箱根湖水図 (「Wikipedia」より)

 天下の険を越えてきた旅人が「芦ノ湖」の穏やかな湖面と背後の富士山に心和む風情か? 安藤広重の「箱根」と比較すると興味深い。

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「箱根馬子唄」碑。二子山。権現坂。元箱根。一里塚。・・・(箱根路。その7。)

2014-11-27 19:26:50 | 旧東海道

 旧街道の石畳道が続く。先ほどよりは歩きやすく、芦ノ湖から「甘酒茶屋」お目当ての観光客も行き来。
 右手に小さな広場があり、「箱根馬子唄」碑がある。

                  
                  箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川

 この広場からは木が邪魔で見えにくいが「二子山」が右手にある。

説明板。

「二子山について」

 二子山は駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始めサンショウイバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
 現在は保護のため入山を禁止しております。

          神奈川県

 しばらく進むと、車道をはさんで下り坂にさしかかる。その手前から来た道を振り返る。

「箱根旧街道」。

「権現坂」。前方が明るく開けた下り坂。

 小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。
 目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです。

   

   いよいよ「芦ノ湖」。でも油断をしていると、石畳で足を取られそう。

 目の下にG・S。車の騒音も久々。

 下ったところが、「元箱根」の一角。

  
       木製の歩道橋を渡って「杉並木」へ。

  

 杉木立の中にある記念碑が、「ケンペル・バーニーの碑」。

 ドイツの植物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節の一員として元禄4年(1691年)と翌年に箱根を讃え、箱根の美しさを世界に紹介してくれました。
 C・M・バーニーは、この地に別荘をもっていた英国の貿易商です。大正11年にケンペルの著書「日本誌」の序文を引用「自然を大切にするように」と碑をたてました。左の英文はその原文です。

 私達は二人の功績を讃えここに碑を立てました。

昭和61年11月
箱 根 町 長      勝俣 茂
ケンペル祭実行委員長 信濃一男

 およそ320年前来日したドイツ人医師であり博物学者であったケンペルが、日本の山々や自然の美しさを称えて記したのが『日本誌』。その後、イギリス人の貿易商バーニーはその『日本誌』に感激し、箱根の自然保護を訴えた。この二人の功績を称える石碑。毎年4月12日にはケンペル・バーニー祭が行われている、とのこと。

  
      一面の落葉。                        「天下の険」碑。

               杉並木。

 「成川美術館」の先で国道を離れ、すぐ脇の杉並木に入って行くと、喧噪とは無縁の落ち着いた道に。

  
                   「箱根旧街道一里塚」跡。「日本橋」から24番目。国道1号線では100㎞ポスト付近。



 本図は天下の嶮である箱根山中の切り立った山と静かに水をたたえる芦の湖,そして背後に小さく富士を添えた図様である。そして険しい山道を登る大名行列とおぼしき人々を描いて画面に興趣を与えている。但しこの図の中心は何といっても中央やや右に画面を断ち切るようにそびえる山であり,また,モザイクのような山肌の表現の仕方である。東海道では大胆すぎる構図であるが北斎の「富獄三十六景」に見られる一点集中の意図がここでも見られる。
 (「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
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追込坂。甘酒茶屋。於玉坂。白水坂。天ヶ石坂。・・・(箱根路。その6。)

2014-11-26 21:13:13 | 旧東海道

 そのまま、ゆるやかな県道を上ると、バス停。

バス停「猿滑坂」。

 実は、県道のすぐ下を通る道が「須雲川自然探勝歩道」。先ほどの分岐点を左にとる道筋。

「案内図」。


その最後の詰めにある坂が「猿滑(さるすべり)坂」。

「西海子坂」「橿木坂」と並んで箱根街道きっての急坂といわれていたところ。「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と、難所らしい坂の名の由来がある。

県道から「猿滑坂」? を望む。

歩道橋を渡ると、追込坂(おいこみざか)の入口。これで急登はなしか?

そこから上って来た道を望む。

     東側を望む。

  

 『新編相模風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、フッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。



 着いたところが「甘酒茶屋」の裏手。

「甘酒茶屋」。けっこうな賑わい。

 東海道の難所、箱根山の中腹にある400年の伝統を持つ茶店。畑宿と箱根宿の中間付近で、江戸時代は箱根の関所を前にした休憩所として、現代は箱根を歩くハイカーの休憩所として親しまれている。現在の店は神奈川県道732号湯本元箱根線(旧国道1号)の脇に建つが、店の前の道路は過去の街道と同じ線形という。忠臣蔵の芝居の神崎与五郎詫証文の舞台となる茶店であり、旅行経験のない江戸市民にも高い知名度を誇っていた。建物自体は、地震や火災により被害を受け、そのつど立て直しが行われている。現在の建物は2009年に改装したもので、茅葺き屋根や土間など昔の雰囲気を持たせつつ、囲炉裏(いろり)や座敷などを増設する改修が行われたもの。
名物は、甘酒、力餅など。特に甘酒は、江戸時代から使われている麹を発酵させ、砂糖を加えないで甘さを引き出す伝統的手法で製造する。
(以上「Wikipedia」参照)

  

「甘酒茶屋」について
 江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。東海道はその中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本~箱根関所間、通称「東坂」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通の1日十里(一里は4キロメートル)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。
 道中には「甘酒」をふるまう茶店が設けられるようになり、文政年間(1818~29)には「甘酒小屋」と記録があり、箱根地域には9箇所設けられていたようです。この地には4軒あり、付近の追込坂上、樫木坂上、猿滑坂下にもありました。
 しかし、明治十三年(1880)、国道1号の開通などから街道を歩く人々が減少して、現在ではこの地に1軒が残るのみになっています。
*当時「甘酒」が旅人の疲労回復に役立っていたと言われています。

        神奈川県 箱根町教育委員会

 「箱根を旅するみなさまのおかげをもちまして、わたくしどもはこれまで甘酒茶屋を営んでくることができました。かつて、お客さまのご来店は日に2〜3組、ときにはおひとりもみえないということもたびたびございました。それなのにどうして続けてこられたのでしょうか。
 それは「あぁ、灯りだ。助かった!」「甘酒を一杯」そんな風にわたくしどもを頼りにしてくださる旅人のみなさまに支えられてのことだったのかもしれません。また先人たちが脈々と受け継いできた、旅人をもてなすあたたかい心であったのかもしれません。
 今も昔も箱根越えは難所です。みなさまの旅路のささやかな灯台でありたいという想いをこめて、昔ながらの灯りをともして「八夜」にわたる特別なおもてなしをさせていただければと思います。
 ここ甘酒茶屋に機械文明の代名詞「電灯」がついたのは、先の東京オリンピック景気に沸く昭和30年代。それまでは灯油ランプとろうそくのみの灯りで、煤で曇るランプのホヤの掃除は、小さな手の子どもたちの仕事でした。そのころに想いをはせながら、ランプを灯しコンサートも電気を使わない楽器そのものの音でお届けいたします。
 また甘酒はもちろんのこと、「箱根八夜」のときだけのお食事としておにぎりと季節によって変わる手作りのおばんざい(お惣菜)もご用意させていただきますので、どうぞ箱根の夜をゆっくりとお楽しみくださいませ。

 文/山本 聡(十三代目甘酒茶屋店主)

公式HPより)

 『箱根八夜(はちや)』は、畑宿の箱根甘酒茶屋が主催する『箱根らしい、八夜にわたる音楽イベント』です。話の起こりは甘酒茶屋十三代目店主山本聡氏の『夏の節電運動』から始まります。アースアワーなどの世界的なエコ活動の高まりの中で、夜は完全に電気を消し昔ながらの油の灯りのもとで過ごすことで、昔ながらの箱根の夜を満喫していただくというものでした。そんな中、箱根の各所で音楽イベントを企画していたハーモニカ奏者の広瀬哲哉との出会いがあり、実験的なイベントとして、無電気状態の中での『箱根甘酒茶屋ー夕涼みライブー』の三夜が開催されました。
 甘酒茶屋の昔ながらの日本建築の暖かみと揺れる油の光。同じく電気を通さぬ完全アコースティックの状態のハーモニカと弾き語りのライブは予想以上に好評となり、定期開催をのぞむ声が早くから上がりました。このライブの中でブルース風に演奏された『箱根八里』がとりわけ話題を集めたこともあり、それを文字って、イベントのネーミングを『箱根八夜』としました。また、『食』や『話』にもこだわり、サブタイトルには『箱根甘酒茶屋劇場』が付くことになりました。さらに演奏者と店主との話し合いにより飲食などの利益は『石畳の保全活動』へと寄付されることとなり、箱根町をはじめ、一般財団法人箱根町観光協会、箱根湯本観光協会、箱根町教育委員会など多くの後援をいただきつつ、2014年3月22日をかわきりに10月11日まで、毎回多くのお客様にお集まりいただき盛大に開催させていただきました。(以上、「同」HPより)

 また、江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討ち入りに向かう途中、ここで馬子にいいがかりをつけられ、大事の前であったため、馬子に詫証文を書いた、と忠臣蔵「甘酒茶屋」のくだりとして講談などで有名なところ。
 この逸話は歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」では扱われていないが、映画などではしばしば取り上げられるらしい。  

 休憩所と併設して建てられているのが箱根旧街道資料館。旧東海道を往来した旅人達の衣装や、道具などが展示されている、とのことだが、今回、見学は省略。上のイベントも含め、じっくり立ち寄ってみたいところ。

・・・   HPより

 「甘酒茶屋」の裏手の林間の道を進む。

  「於玉坂」。

 もう少し進んだところに、「お玉ケ池」という池があります。関所破りをした玉という娘が処刑されたのが、その池の近くだったとのこと。この坂名は、それと関連があるようです。

 この先、緩やかな石畳が続く「白水坂」、「天ヶ石坂」を登り切ると、街道は下りの権現坂に入り、いよいよ「元箱根」へ。

  
                           「白水坂」。

 付近の土地の古老は「城見ず坂」と呼んでいる。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻略の時、小田原法条方が尾根の上から大量の石を落としたため進軍を阻まれ、やむなく小田原城を見ることなく引き返した、といういわれがある坂だそうだ。

  「天ヶ石坂」。


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畑宿。「一里塚」。「西海子坂」。「橿木坂」。・・・(箱根路。その5。)

2014-11-25 22:37:06 | 旧東海道

 上り着いたところが「畑宿」。

バス停「本陣跡」。



 ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約70年前大正元年(1912)全村火災の折、消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。本庭園は、ご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他に無かったようです。
 畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。
 この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。安政4年(1857)11月26日、米国初代領事 伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここ休息鑑賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
 下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたという。
 ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治天皇

明治元年十月八日東京遷都の御途次、
翌年皇后の京都還幸の御途次
同二年三月二十日東京再幸の御途次
小休ナラセラレタ聖蹟です。

「畑宿」説明板。

 畑宿は郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ、育ったところです。畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。
 江戸時代、「畑宿」は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根寄木細工が旅人の足を止めました。

 
「畑の茶屋」。寄木細工の工房でもある。             「桔梗屋」。「ざるとろ」そばを食す。900円。

旧東海道への入り口。

  
                                     「畑宿一里塚」(右側)。日本橋から23番目。

  
 かつての「一里塚」碑。       平成24年3月に設置された説明板。その奥に見えるのが、左側の塚。

 明治以降、一部が削られるなど、江戸時代の姿が失われてしまっていたが、近年、復元整備を行うことで、往時の様子を現代に伝えている。右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられている。
 箱根町に湯本、畑宿、箱根と三ヶ所あった「一里塚」のうちで、ここだけが復元されている。 

  
                     急な石畳道。ほとんど登山道という雰囲気。

目の下は「箱根新道」(国道1号線」のバイパス)。 

 急な上り坂が続く。道ばたには、随所に案内板があって、旧箱根街道の石畳の歴史や構造が絵入りで紹介されている。

 「箱根八里」は東海道最大の難所。標高800㍍を越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪が降ると、旅人はすねまで泥につかるありさまで、歩くことが大変困難なところだった。
 そこで旅人の便宜を図るため、江戸幕府は延宝8年(1680)に石畳道に改修した。当初は、石ではなく、箱根山に群生している通称「箱根竹」と呼ばれる細竹が使われていた。
 ところが、道に敷かれた竹は腐ってしまうため、毎年敷き変えなければならず、多くの竹と人手とお金が必要となってしまうため、竹に変えて、石畳とした。小田原から箱根峠までの東坂には現在7ヶ所、3.3㎞にわたって石畳が残っている。

 今に残る石畳道は石は不揃いで、長年の間に摩滅も激しく凸凹で、実はけっこう歩きにくい(特に下り坂)。昔のわらじばきだとどうだったろうか?

 今もスニーカーなど足元がしっかりしていないと、足を取られそうで、ひときわ疲れる感じ。膝の負担も大きい、という贅沢で勝手な思い。 

 
  「西海子坂(さいかちさか)」。

「箱根旧街道」

 江戸幕府は延宝八年(一六八〇)箱根道を石畳道に改修しました。それ以前のこの道は、雨や雪のあとは大変な悪路になり、旅人はひざまで没する泥道を歩かねばならないため、竹を敷いていましたが毎年、竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていました。



 「西海子坂」を登り切ると、県道に出る。「箱根七曲り」と呼ばれているところ。旧街道は、この七曲りをほぼ直角に突っ切って上って行くが、かつての急坂の多くが崩落や荒廃によって、かつてはなかった階段で上り下りするところも多い。

 この階段、意外なくせ者。高さはかせげるが、何カ所も連続すると、いささかうんざり。しかし、この急坂を上っていたかつてを偲べば、わがままも言ってはいられない。



左が県道、右が箱根新道。

  「橿木坂」。

 県道沿いの歩道を少し歩くと、旧街道はまた階段となる。橿木(かしのき)坂と呼ばれていたところであるが、崩落し、今は急な階段となっている。

橿木坂(かしのきざか)

『新編相模国風土記稿』に、「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあります。
『東海道名所日記』には、けわしきこと道中一番の難所なり。おとこ、かくぞ詠みける。
「橿の木の
 さかをこゆれば、
 くるしくて、
 どんぐりほどの、
 涙こぼる」

 階段が長く続き、けっこうきつい坂。しかし、紅葉が見事で疲れもほどほどに。



  

 「橿木坂」の階段を登り切ると分岐になる。まっすぐ行くと、県道で見晴らし台のあるところ。左は「須雲川自然探勝歩道」(旧東海道部分を含む道)の道。

 左折せずに進み、県道に出てそのまま上り、「橿の木平」・「見晴茶屋」跡に向かう。

思いがけず「小澤征爾の碑」。

 貴方は
 今
 歌ってますか

はるか小田原が一望でき、相模湾までよく見える。
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須雲川。「女転ばし坂」。「割石坂」。紅葉の。・・・(箱根路。その4。)

2014-11-24 19:44:05 | 旧東海道

 久々の箱根路。連休初日に行ってきました。「箱根湯本」駅はごった返し。紅葉も見頃。大勢の観光客で大賑わい。その脇を通り抜け、温泉宿周遊バスに乗せてもらい、前回の所まで。宿の正面に着いたので、そこから坂を上っていくことに。

 夫婦連れで同じ方向に目指すようす。他にも何人か同じような目的で歩いている人が前方に、後方に。

 中には、日本橋から京都までを目指しているというご夫婦。けっこう同好の士がいることに、安心。抜きつ抜かれつで芦ノ湖まで行くことに。こちらは、「箱根関所」、出来たらもう少し先まで。
 畑宿のおそば屋さんで一緒になったご夫婦は、何とか今日中に「三島」までと張り切っていました。

 「元箱根」まで9.5㎞。

バス停「奥の茶屋」。
 
 しばらくは舗装道路を上っていきます。

  
 遠くには箱根連山。                                  「葛原坂」。

ホテル「はつはな」付近。「須雲川」インター。

  
「初花の滝」の説明碑。「須雲川」の対岸の山の中腹に初花の滝があるのだが・・・。

  
 道は下り坂になって、「須雲川」の集落に入る。

 この周辺の集落を須雲川といいます。むかしは、川端とも呼ばれていました。この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永の頃です。
 天下の街道となった箱根道を往来する人々のためまた、道を維持管理するために、一定の間隔を置いて集落をつくる必要があったのです。

 集落に入ると県道の幅が狭くなります。江戸時代から? の道幅。まっすぐに伸びている。「須雲川」は江戸期においては立場(休憩所)として栄えたところだが、今は一軒の商店も無い静かな集落。
 集落を抜けると、県道は緩やかな上り坂に。左側には、立派な公衆トイレ。須雲川橋の手前から左に道が入っていく。実は、この道は旧街道ではない。

「女転ばし坂」碑。以前あった場所から移設されたもの。

「須雲川自然探勝歩道」。

 この道標に導かれて私たちもこの歩道に歩みを進めることになるが、旧街道は須雲川橋を渡っていき、橋の向こう側からが「女転ばし坂」だった。

 この坂にはその名が示すとおり、「馬でこの坂を上ろうとした女性が急坂のあまり落馬して死亡した」という言い伝えがあることが寛文十二年(一六七二)の『須雲川村明細帳』に記載されている。当時の坂は現在、須雲川橋向こうの樹木の中に隠れ、歩くことはできない。(「国土交通省 関東地方整備局」東海道を歩く~宿場案内~」HPより) 

  
                     よく整備された遊歩道。

岩がごろごろした「須雲川」を木橋で渡る。

発電所の向こうに二子山。

 バス停「発電所」のところから県道に合流してしばらく進む。

「割石坂」。

 曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨岩を真二つに切り割ったところと伝えられています。

  
                           「江戸時代の石畳」。
                     

「須雲川自然探勝歩道」説明板。

 そこには、この石畳は明治、大正時代、元の巣雲川小学校の通学路として一部整備したもの、と記されている。この道が当時の小学生の「通学路」であったわけです。

「箱根路のうつりかわり」説明板。

 「碓氷道」(最も古代)→「足柄道」(奈良・平安時代)→「湯坂道」(鎌倉・室町時代)→「旧東海道」(江戸時代)→国道1号線(現在)

「接待茶屋」跡。「割石坂」にあった。

 県道に合流してすぐに道の反対側には、「大澤坂」。

 江戸時代の石畳が一番よく残っているところだそうで、急坂で石畳が苔むしている。携帯では感度不足。これはほとんどが鬱蒼とした木々に覆われた旧道(特に石畳・坂道)に共通する。携帯写真の限界かもしれない。

  

        
 県道との合流点(畑宿側)。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その6。

2014-11-21 22:03:58 | 鉄道遺跡

 アトランダムに「安比奈」駅構内の写真を掲載します。

 いつまでこうした景観が残っているものやら。

 「廃線」(西武としては「休止線」という扱いだが)探索として都心から近く、最寄り駅の「南大塚」(西武新宿線「本川越」の一つ手前)からはレールをたどり、迂回しながら歩いて、「安比奈」駅まで約1時間ほどで着けます。
 住宅地の生活感あふれる裏道沿い、田んぼや畑のあぜ道、農家の軒先、鬱蒼とした森の中、川原の荒野の中、と行く先々で変化に富んだ鉄道風景を堪能できます。
 特に、晩秋の枯れた世界。朽ちた鉄橋がいくつもあり、蔦に絡まれて電柱が立ちすくむ風景あり、TVの撮影現場跡あり、「まむし注意」多数あり、・・・など充分楽しめました。
 もちろん、がっちり柵があって、「立ち入り禁止」の看板が随所に立っているので、そこはほどほどに・・・。
 ただし、バスの便も悪く、タクシーか(行きは駅前から乗れるが、帰りはまずつかまらない)行き帰りとも歩かなければならない、ゆっくり探索していくと往復3時間くらいは必要かもしれない。
 そういう意味でも、「廃線」探索の面白さ・妙味が充分あるところです。

        

  

        

  

        

  

        

  

        

                

昭和40年代初め(「今昔マップ」より)。

昭和58~62年頃。「水道橋」までが休止線の表示。

平成4年~7年頃。「八瀬大橋」への取り付け道路が現在のようになっていない。この頃までは橋によって分断されずに残っていた(はず)。

現在。「八瀬大橋」への道路が新しくなって、分断されてしまった(○)。また、「安比奈駅」ヤードも消滅している(○)。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その5。

2014-11-19 21:07:28 | 鉄道遺跡

 「水道橋」の先に「安比奈駅」ヤード(操車場)があったようです。
 
 「入間川」を渡る「水道橋」は目を引くような景観を形作っています。 
  
                  青と緑に映える赤く染め上げた鉄橋。

  

 その橋の下辺り、レールは藪の中に消えていきました。

  

 藪の脇の細道をしばらく進むと、広いでこぼこ道に出会います。その先には、架線柱が二つ。ここから南に「安比奈」駅構内が広がっていたらしい。

           

 すっかり蔦に覆われ原形が定かでなくなってしまっている。

  

振り返って望む。

 さっきの藪に消えたレール。「安比奈駅」構内は線路が複数配置されてけっこう広がった大きな駅だったようです。架線柱も何本も立ち、間隔も広くなっています。


 足下のレールは全く目に付かず、藪に埋もれてしまっています。かすかに↓にレールが。


 コンクリート製の遺物。
  

                  
 地上にはこうしたもの以外はかつてここが砂利採掘の集積地であったことをものがたるものは見当たりません。ただ、蔦にからまれた電柱や架線柱のみです。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その4。

2014-11-18 20:19:45 | 鉄道遺跡


 右手は河川敷なのか鬱蒼とした雑草に覆われていますが、右手は雑草も刈られて原っぱになっていたり、畑になっています。そんな中を線路は続きます。

架線柱はすっぽり緑に覆われている。

線路に覆い被さるように伸びる灌木。

 整地され、明るく開けたところに出てきました。
  

キャンピングカーが何台か。バーベキューを楽しんでいるグループの姿も。

  
 左手に「National Park Kawagoe」「NPO法人こども二輪塾」の施設。

子どもの居場所づくり 心身の成長を願って...NPO法人こども二輪塾 事務局 TEL: 049-242-8419

 今年は平成16年6月30日の設立から10年の節目を迎えます。
これまでに様々な出来事があり、難局に直面したこともありました。それを乗り越えて来られたのは皆様のお陰であり、感謝の気持ちで一杯です。日頃から、ご協力いただいている講習の先生方、関係各位に御礼申し上げます。
私たちは小さなNPO法人ですが、大きな志と強い信念のもとに設立し、歩み続けています。設立当初からの趣旨 にご賛同いただいている皆様とともに、今後も歩み続けてゆきたいと考えております。
これからもよろしくお願い申し上げます。

        (HPより。)

 きちんと許可を得てのユニークな活動。何組かの親子連れが訪れていました。

 この辺りは整備・整地され、足下に埋まったレールだけがかつての面影。
         

来た方向を振り返る。

  
             コンテナと雑草に埋もれたフォークリフト。

レールは、木の根っこで持ち上げられている。
   
                        鉄道敷地を示す標識。 

左手は整地された耕作地。

さらに進む。(奥に見える朱塗りの橋は、「水道橋」)。

レール上に行く手を阻むように大木が。

閉鎖されてからの年月の長さ。約50年。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その3。

2014-11-17 20:57:02 | 鉄道遺跡

 中央奥の森へ線路は一直線で吸い込まれていく。
     

 森の奥には、思いがけないすばらしい風景が広がっていく。

来た道を振り返る。

  森の入口。

木漏れ日の中の線路。紅葉が見事。

  

                  

 森を抜け、道路を越えると、鉄橋。この森の道は、整備された遊歩道。しかし、「まむしに注意!」 の看板が随所に。


 この道は、川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』の番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が「遊歩道」として開放されたところのようだ。5年も経って、忘れ去れてしまったのか? 小心者の小生、鉄橋を渡ってすぐ引き返した。

  

 冬の日だまりを求めて歩くにはいいところではあります。もう「まむし」も出てこないと思うから。・・・

 「入間川」を渡る「八瀬大橋」南の交差点。遠くに白雪に輝く富士山が見えました(↓)。


  

「八潮大橋」からの「入間川」。

 肝心の「安比奈線」は、「八瀬大橋」の橋脚にはばまれてしまいました。
  

 架線の支柱もすっかり緑に覆われています。

 「安比奈」駅の方はどうなっているのだろうか? 

 ところが、橋の向こう側に通じる道は見当たらない。下には道路が見えるし運動公園もあるし、・・・。そこで、交差点に戻り、道を探してようやく橋の向こうに行く小道を見つけました。産廃が散らかった橋の下をくぐると、そこにはレールが。



 レールはずっと向こうまで続いています。

  
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その2。

2014-11-16 21:22:23 | 鉄道遺跡

 この付近は、住宅や工場などに囲まれた一角。再開となると騒音、震動などで住民の反対運動が起こりそうな雰囲気。

  

 次第に住宅密集地から田園風景の広がる地域へ。

 鉄道敷地も線路と架線柱を残したまま、花壇や家庭菜園などに利用されてきます。

草むらに残されたレール。

そのレールも不確かなものに。

  
 線路脇には手入れの行き届いた草花たち。
 
 沿線の人達による思い思いの花や野菜が。

 行き止まりになるので、線路から離れて「入間川街道」を歩き、右折すると、再び線路に出会う。

「入間川街道」。

道路上のレール。

線路を振り返る。直線で伸びている。

再び、道路上にレール。

 田んぼや畑の中を直進する。

 田んぼの中にところどころに鉄橋が敷設されています。

最初に出会った?用水路上の鉄橋。

次のは大きい。

かなり腐食している。

田んぼや畑の中を行く鉄道。ローカルな雰囲気。

  
                      あぜ道のように盛り土された線路。

 まっすぐに入間川方向に進む線路。

  
               農業用水路を越える、朽ちた鉄橋が行く先々に。



 すっかり木や下草に埋もれてしまったレール。

  
 田園風景そのもの。この中を電車が走っていたと思うと、郷愁の世界。

時には、こうして小さな道路を横切る。


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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その1。

2014-11-15 21:57:15 | 鉄道遺跡

 先日、「朝日」夕刊のシリーズ囲み記事「各駅停話」で、西武新宿線の「南大塚」駅・「安比奈線」が取り上げられていました。この路線、以前から話には聞いていたので、さっそく出かけることにしました。「南大塚」駅に12時少し過ぎに着いて歩き始めました。

 ところで、この「安比奈線(あひなせん)」。
 「Wikipedia」によると


 埼玉県川越市の南大塚駅から同市内入間川沿いの安比奈駅へと至る西武鉄道の貨物線である。1967年(昭和42年)から、長らく休止されたままとなっている。あくまでも「休止中」であって廃止ではないが、周囲の道路の橋脚が建築限界を侵食して建設されていたり、線路が寸断されている個所も多数存在していたりと、現状では列車の運転は不可能であり、実質的には廃止状態である。書籍などによっては「廃線」とされているものもある。

 なお、当路線が延びている入間川の対岸には安比奈新田(あいなしんでん)という地名があるが、安比奈線の安比奈の読みは「あひな」である。

《歴史》

 入間川で採取した砂利の運搬を目的として1925年(大正15年)2月15日に開業した。
 入間川での川砂利の採取が1967年(昭和42年)に禁止され、当路線は休止された。一時期、西武鉄道の貨車の留置・解体に使われたこともあったが、路線としては復活も廃止もされることがなく、休止されたままとなっている。

《現況》

 現在、線路や架線柱などは残されているものの、ほとんど整備はされておらず、即座に運行再開できる状態ではない。枕木は朽ち果て、国道16号の横断など踏切はほぼすべてアスファルト舗装で埋められており、八瀬大橋への取り付け道路は路線を完全に遮っている。
 長らく放置され、かつては線路上を歩くこともできたが、枕木の腐朽が進んで危険なことから、踏切など線路に入れる場所にはすべて柵が取り付けられた。また敷地内への立ち入りを禁止する旨の看板も設置されている。
 2006年(平成18年)11月5日、西武鉄道の前身川越鉄道の開業111周年を記念した「小江戸川越鉄道開設111周年記念フェア」の関連イベントとして、「幻の貨物線西武安比奈線を歩く」が開催された。イベントにあわせて一部手入れがなされたようであり、「廃線ではない」ことをアピールしている。
 川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』のオープニングシーンで当路線の一部(池の辺の森 - 池部用水橋梁付近)が映し出されている。写真では枯葉のシーズンの廃線跡が掲載されている。また、劇中でも川越市内を電波調査して回るシーンがあり、つばさ(多部未華子)と昌彦(宅間孝行)が線路脇を歩いたほか、竹雄(中村梅雀)が妻の加乃子(高畑淳子)を乗せたトロッコを押して走り続けたら西武新宿駅まで行ってしまうシーンがあった(実際には線路が分断されているので行くことはできない)。
 最終回終盤の場面では当路線にて翔太(小柳友)がつばさの乗ったトロッコを押して走るシーンがあった。また番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が遊歩道として開放され、撮影時使用されたトロッコも展示されたほか、放送を記念した見学イベントも開催された。同年12月放送の『つばさ総集編』前に放送されたスピンオフ『好きと言えなくて。青春編』にもトロッコを押して走るシーンが撮影され放映された。

《安比奈線復活計画》

 1980年代末、西武新宿線の旅客増に対応するため上石神井駅 - 西武新宿駅間を複々線とする計画が発表され、それに伴う車両の増備のために安比奈駅に新しい車両基地を作る計画が浮上した。川越市と狭山市では仁杉巌社長(当時)が出席し地元説明会も開催された。当路線の旅客線・通勤線化という話まで出ていたが、少子高齢化などの影響で需要予測が下方修正されたため、この計画は1995年(平成7年)に無期延期となった。
 当路線の復活には、住宅地開発の事業として川越市や隣の狭山市も乗っており、2001年(平成13年)12月の狭山市議会において、狭山市側から車両基地完成は2008年(平成20年)3月ごろの見込みとの答弁があった。南大塚駅すぐ横の国道16号や八瀬大橋との交差問題や、安比奈駅周辺の土地買収に反対している少数の地主がいるために難航しているが、すでに西武建設安比奈作業所が設けられ、車両基地設置のためのトラック進入路整備などの工事は行われている。合意が得られていない地権者がいるため、現段階の計画では車両収容数は200両の予定だが、合意が得られ次第300両にするとしている。300両収容が実現すれば、当車両基地は新宿線系で最大となり、本所が南入曽から変更されることも考えられる。
 なお川越市では、当路線の復活とともに将来的に新駅設置と的場駅まで延伸する構想があり、市議会で度々議題にあげられている。
 西武鉄道本社の見解としては、「西武新宿線(支線を含むと推測される)の車両収容限界が近づいており、ゆくゆくは新たな車両基地を安比奈に建設する予定」との姿勢を変えていない。そのため、近年周辺整備を始めている。そのせいか、線路が分断されているにもかかわらず、割と新しいPC枕木が挿入されている個所がある。しかし、西武鉄道からの復活に関する発表は未だにない。


   下り線ホームから見たところ。                同(新狭山駅方向)。

 「南大塚」駅。現在は相対式ホーム2面2線の地上駅だが、かつては、構内踏切のある島式ホーム2面4線の形態であった、らしい。その名残が線路配置等に見られるようだ。

《地図上の変遷》

昭和初期(「今昔マップ」より)。開業当初。
昭和40年代初め。「入間川」砂利採取禁止前後。
昭和50年代初め。休止線の表示。
現在。地図上で線路は分からない。

左側の線路。
 但し、中央左奥に見える架線柱の位置とずれている。もう少し左側の道路沿い(あるいは道路そのもの)が本来の線路と思われる。

 地上に降りていよいよ探索開始。

まず本線との合流地点を探索。新狭山駅方向へ。



↓から↓へ来て本線と合流している。

 その先の踏切のところにレールが埋め込まれている。

「新狭山駅」側は、レールが切断されている。
 これは南大塚駅構内支線の一部が残っているものか?

  
                       「南大塚駅」方向を望む。



「0」。「安比奈線」の起点。


 ここからいよいよ本格的なスタート。

 いきなり線路は途中で途切れ、コンクリート製の枕木が行く手を阻むようにたくさん積まれている。
        

  
 新設道路上の真新しい線路(びっしり道路に埋め込まれていて走れる状態ではない)。進むべき線路の方向(かつての方向)と右に少しずれている。どういう意図があるのか? 

  
              架線柱が残っている。このあたりは、けっこう広いスペースになっている。

雑草の中の線路。

 カーブを描きながら進むと、国道16号線と交差する。

正面の広い通りが「国道16号線」。

振り返って「南大塚」駅方向を望む。

この辺りから直線になる。
 交通量の激しい「国道16号線」。復活したとしても、この交差をどうするか?

 国道上には線路はいっさいなく、両側の歩道に残っている。

 向こう側に行くのには、少し離れた横断歩道か、歩道橋しかない。ぐるっと迂回して線路脇を歩くことに。

  

線路をふさいでいる支柱。

柵でがっちりガードされている。
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森鴎外旧居。時の鐘。旧岩崎邸。いつしか日もとっぷり暮れて。・・・(じじばばがゆく。「池の端編」。)

2014-11-13 20:55:38 | じじばばがゆく

 前日の雨とはうって変わった穏やかな晩秋の日差しに誘われて、「谷根千」へ。といっても、「鷹匠」でお蕎麦を食べて、そぞろ歩き。お酒も、おつまみも蕎麦もけっこうなお味。お客さんも少なくて、ゆっくりとできました。
 さて、お店を出てからは坂道を上ったり下ったり、と、この辺りは何回も来ているので、少し南に下って(文京区と台東区の区界・「旧藍染川流路」跡の細い路地を通って)、不忍池方面へ。
     

「水月ホテル 鴎外荘」入口にある「森鴎外旧居跡」碑。

森鴎外旧居跡

 森鴎外は文久二年(1862)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治二十二年(1889)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年八月に「国民之友」夏季附録として、「於母影」を発表。十月二十五日に文芸評論「しがらみ草子」を創刊し、翌二十三年一月は処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官よしても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。

     平成十五年三月             台東区教育委員会

 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居には「水月ホテル 鴎外荘」が建っており、森鴎外の自筆原稿、写真など貴重な資料も保管・展示されています。また、敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢300年と推定される木が残り、「舞姫」の題字、署名、本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。


  
 文学碑。「舞姫」の一節が刻まれている。

彼は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど手に入るは卑しき「コルポルタージユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを余と相識る頃より余が借したる書を讀みならひて漸く趣味をも知り言葉の訛をも正し幾ほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ、かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき

 ・・・碑の文字は鴎外の毛筆書き「舞姫」の原稿から子息森 類が選定した。碑に刻まれたものでは唯一の直筆です
                                            長谷川泉 撰

  「舞姫の間」。

ホテル奥のロビー。

 近くに「上野精養軒」があるので、外のテラスで、しばしお茶を。隣のテーブルでは、老いた二人連れが、健康談義。こちらも話すことは相違ない・・・。

 その帰り際、上野公園にありながら実は初めて見上げたのが、「時の鐘」。
 
時の鐘(ときのかね)

 台東区上野の寛永寺に現存している時の鐘である。上野大仏の近くに建っている。
 多くの「時の鐘」が江戸市中にあったが、上野の最初の鐘は1666年に。その後、1787年に現存する鐘ができた。谷中感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」と彫られてある。
 また、「享保撰要類集」には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴ったという。 1996年6月、環境省の残したい日本の音風景100選に選ばれた。今でも時の鐘は午前・午後6時と正午に撞かれている。

 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉

 この句は有名ですね。
 
  

 夕暮れも近づきつつある、晩秋。
 もう少し行ってみるかということで(というより、この前の「坂道行脚」で入りそびれた)、「旧岩崎邸庭園」に向かいました。すでに4時を回っていて、もう室内の明かりが灯されている。なかなかの風情がありました。

  

 この洋館は、1896(明治29)年、岩崎彌太郎の長男で三菱三代目社長の岩崎久彌の本邸として造られたもの。往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたが、現在は3分の1の敷地になり、洋館、撞球室(ビリヤード室)、和間大広間の3棟のみ。
 まあ、内装から何から、豪華絢爛。当時の庶民の(今でも)暮らしぶりからは想像も出来ない豪邸。近代住宅建築史上、希有の建物としての評価が高い、らしい。

1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。Aが現在の洋館、Bが和館、Cが「撞球室」以前の建築物? →の庭は築山風で池になっています。

 なお、「Wikipedia」によると、

 「旧岩崎邸庭園」として公開されているのは旧邸宅敷地の一部にすぎず、かつての敷地は、西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいた。
 旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家(現在の新潟県上越市高田)の中屋敷であった。明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、1878年(明治11年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものである。現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代の岩崎久弥によってジョサイア・コンドルの設計で建てられ、1896年(明治29年)に竣工したものである。1923年(大正12年)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。
 1945年(昭和20年)、GHQが接収、諜報機関「キャノン機関」本部となり、さらに敷地全体が国有化。GHQから国に返還された後、1969年(昭和44年)、司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が約1/3となった。とのこと。

 上記の地図(1880年頃のようす)は、初代・岩崎彌太郎が邸地を購入した頃のようすを示しているようです。

1970年頃のようす(「同」より)。
 敷地の西側に接する建て物は「司法研修所」庁舎(改修後、現「国立近現代建築資料館」)等。

列柱の並ぶベランダ。
 東南アジアの植民地で発達したコロニアル様式を踏襲したものらしい。1階の列柱はトスカナ式、2階はイオニア式の特徴をもつ、らしい(といっても、何のことやらわかりませんが)。
 また、2階客間に貼られた「金唐革紙」の壁紙の豪華さ、精密さには驚きます。

和館大広間。書院造りを基調にした建て物。
  
  
 撞球室。スイスの山小屋風の造り。校倉造り風の壁。洋館からは地下通路でつながっていた。

 これに対して、芝生を敷き詰めた広い庭。変哲のなさが気になる。おそらく元々は池になっていて、回遊式の庭だった。


 こうして、午後の半日。そぞろ歩きの末に、御徒町の「釜飯 春」に立ち寄ってお開き。最後はこのお店の雰囲気、客あしらい、出てきたものへの軽い批判を交えての食事でした。

 年を取ると、お互いの立ち居・振る舞いが気になるのですね。注意!ちゅうい!
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「三枚橋」。箱根街道一里塚。石畳道。・・・(箱根路。その3。)

2014-11-11 22:32:51 | 旧東海道
 「三枚橋」を渡って、「旧道」へ。

「三枚橋」。遠くに見えるのが、「箱根湯本」駅。

 曲がりくねった上り道。上り下りの車も多く、またサイクリングの人たちも勢いよく下りてくる人、あえぎあえぎこぎながら上る人、・・・歩いている人はほとんどいません。道も狭く、カーブもあり、きょろきょろして歩くのには要注意。

この先には「コンビニ」。上り下りのツーリングの人達が小休止中。

「下宿」。

 旧道には、「下宿」「中宿」「台の茶屋」とかつての賑わいを見せる地名が残っています。現在は、温泉宿が並び、街道筋らしい落ち着いて、ひなびた雰囲気を醸し出しています。近代的なホテルの建て物もそうした景観を考慮している感じ。

まだゆるやかだが、ひたすら上りが続く。振り返る。

 「早雲寺」前。

 「早雲寺」は、1521年(大永元年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により北条氏綱が創建した臨済宗大徳寺派の寺院。開山は大徳寺八十三世の以天宗清。
 本尊は釈迦三尊仏(室町時代)。
 小田原北条氏の菩提寺として栄え、1542年(天文11年)には後奈良天皇の勅願寺となったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山の一夜城が完成すると焼き払われた。
 その後、1627年(寛永4年)、十七世菊径宗存によって再建されている。

  「惣門」。

 早雲寺を過ぎて、ゆるやかな上り坂の道はS字カーブとなる。

  
湯本中宿。

来た道を振り返る。

祠。

曲がりながら上っていく。

「箱根街道一里塚跡」碑。日本橋から22番目の一里塚。本来の場所は少し前方に行ったところにあったらしい。

「台の茶屋」。

 湯本茶屋の集落を過ぎ、右斜めへ下る道を下ると石畳の道となります。この道は約300mほどで県道に合流するが、箱根路に入り初めて旧東海道の石畳道を歩けるところ。

  

 国指定史跡 箱根旧街道入口
 
 江戸幕府は延宝8年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。この先から約255メートルはその面影を残してあり、国の史跡に指定されている。
 この道は県道に通じ、元箱根方面への近道となる。

  昭和50年3月25日 箱根町教育委員会

  
 見た目以上に木々に覆われ、明るさが不足し、思ったよりも携帯では写真が撮りにくかった。
 
 小さな沢に架かる橋が「猿橋」。そのそばにネコがこちらをじっと。   

  

 足下は石畳(歩きにくいことは歩きにくいが)ですが、右手はフェンスで木の間越しにホテルの裏手とあまり情緒のない石畳道。正直なところ、「案内板」がなければ歴史を感じる道ではないように思います。この先、もっと「らしい」道が登場することを期待して。


 眼下にホテルが広がっています。
      

舗装道路に合流。いよいよ本格的な上り道。今回はここまで。

 次回は「箱根峠」へ。といっても、なかなか来られそうもない。 
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象ヶ鼻。風祭一里塚。日本初の有料道路。山崎の古戦場。・・・(箱根路。その2。)

2014-11-10 18:16:45 | 旧東海道

 「小田原厚木道路」の高架下から、「旧東海道」は、国道1号線から右手に分かれて、「箱根登山鉄道」の踏切を渡ります。踏切を渡ってすぐに右へ線路に沿って登る小道があります。奥には古びた門。

  
                                    「説明板」。
 
 日蓮聖人霊跡 

 文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日、当所を通り巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く、遙かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼陀羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て、首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。
 その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名、下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。おしくも大正二年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。
      神奈川県皇国地誌残稿より

昭和47年8月13日
      日蓮聖人讃仰の有志一同
 

「踏切」を振り返る。

 静かな通りになります。  

 この地域は、「風祭」地区。

「風里(かざり)」。民家の喫茶・軽食のお店。

道ばたには祠。

「小田原の道祖神。風祭の一里塚塚」跡。(赤く塗ってあるのは、選挙ポスターのため。)
                 
                     「21番目の一里塚」。
東海道風祭の一里塚 

 ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。
 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双堠あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里堠に続けり」とある。

       
    のんびりと歩く旧道。まだまだ道はゆるやか。道幅もかつてのままのよう。

  
              通りの両側には、ミカンの木など。
 
小田原城主稲葉氏の墓所のある「紹太寺」付近から西を望む。

 「入生田」駅の先で踏切を渡ります。中央奥が「入生田」駅。



 国道1号線に沿ってさらに進みます。

  
「箱根登山鉄道」橋梁に「駒ノ爪」とある。             その先に「駒ノ爪橋跡」碑。

駒ノ爪橋跡 

 天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。
 これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひづめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。
 そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」と、道中足が痛まないよう祈願したということです。
 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです。
                                    箱根町
 国道1号線と合流する直前には、

「日本初の有料道路」碑。

日本初の有料道路

 明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通しました。
 江戸時代の東海道を拡げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。
 開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。
 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。
                          箱根町

  
                合流点。微妙に広い空間がある。   歩道は線路脇の石段へ続く。

旧東海道の付け替え道を振り返る。

  
 線路沿いの歩道。ススキがたくさん。         混み始めた国道1号線。
  
「箱根町」交通安全のモニュメント。

  

 再度国道1号線に出る緑地帯に「山崎の古戦場」の石碑があるはずだが、この付近一帯、大規模な道路工事中。緑濃き一角あたりかと思うが確認できず。

 小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。
 
山崎ノ古戦場 神奈川県足柄下郡箱根町湯本

 明治元年(1868)5月26日、山崎村に布陣した遊撃隊と同盟から一転恭順の姿勢を示した小田原藩が激戦を繰り広げた古戦場跡。小田原藩の後詰めには長州、鳥取、津、岡山の諸藩が新政府軍として派遣されており、激戦の末、遊撃隊は箱根関所方面への退却を余儀なくされた。

HPより。)

箱根に向かう下り線は渋滞中。小田原方向を望む。

 しばらく国道1号線沿いに進むと、「三枚橋」。橋を渡って旧東海道へと進みます。
 
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