おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「落語鑑賞教室」その17。八代目桂文楽「明烏」。

2021-08-31 19:20:43 | 落語の世界

 八代目文楽師匠は、上品な色気ときっちりした芸が売りもので、特にこの“明烏”は得意中の得意なだし物。

気が弱く女の扱いがわからない若旦那、時次郎と吉原に誘う札付きの遊び人源兵衛と太助の二人の会話も小気味よいテンポで進む。

これは有名な話ですが、甘納豆を食べる仕草が絶妙で、この噺を聞いた後で、甘納豆がよく売れたとか。

磨きぬかれた芸は何度聞いても飽きない。完成度の高い芸となっています。

前にも紹介しましたが、文楽師匠の最後の高座。噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまい「また勉強して参ります」と言って高座をおり、そのまま二度と高座にあがることはなく、その後、しばらくして亡くなりました。

文楽師匠は、上野の黒門町という所に住んでいたので、今でも「黒門町の師匠」と言えばこの人の事です。

さて、お噺は、

日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛のせがれ時次郎。19才。勉強ばかりして青い顔して部屋に閉じこもってばかり。

今日もお稲荷さまの参詣で赤飯を三膳ごちそうになってきたと、おやじの半兵衛に報告する。おやじは跡継ぎとしてこれからの世間付き合いができるだろうか、と心配だ。


すると、町内きっての札付きの遊び人、源兵衛と多助にお稲荷さんのお籠もりに行こうと誘われたことを父親に報告する。どこにあるかと聞くと、何でも浅草の観音様の裏手にあってけっこう繁昌している、と。これは、もちろん吉原のこと。
本人には、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたら費用はおまえが全部払ってしまえと送り出す。

       

時次郎を待つ二人の会話も実に面白い。親から頼まれたいきさつを話したり、・・・。

大勢の人で賑わう吉原に着くと、あそこの見返り柳の下で待ってますから、と時次郎。

大門をくぐって吉原遊郭へ入った時次郎、お茶屋まではよかったが、大見世に入れば花魁・遊女たちが廊下をカランコロンと歩いている。いくら初心(うぶ)でも、ここがどこで、何をする所くらいは知っている時次郎。
 お稲荷さまとだましてこんな所へ連れて来られたと泣いて騒ぎ出し、帰るとだだをこねる。

源兵衛と太助は大門を三人で入ったのに、一人で出て行くと怪しいやつ思われて会所で留められ、縛られてしまうとおどして、やっと部屋に上がらせる。
 芸者連が来て賑やかな酒の座敷が始まるが、時次郎は隅で泣いている。あげくには「女郎なんか買うと瘡をかく」なんてことを言い出す始末。
 早いことお引けと、いやがる時次郎を敵娼(あいかた)の待つ部屋へ押し込む。時次郎の敵娼は十八になる浦里という絶世美女。初心な時次郎にこちらも積極的。連れの一人は、障子に穴を開けてのぞきこんだりする。

 明烏、一声鳴いて、夜が明ける。「振られた者の起し番」で、結局、敵娼に振られた源兵衛と太助は歯磨きをしながらぶつぶつ言う仕草も絶妙。甘納豆を口に放り込みながら、時次郎を起こしに来る。

      

           


照れているのか、布団にもぐったままの時次郎。

源兵衛「けっこうなお籠もりで。そろそろ帰るから、早く起きてください」

浦里も「若旦那、早く起きなんし」と声を掛ける。
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて・・・・」と云う始末。

甘納豆を食べながら、ぶつくさ言う二人。
頭に来た太助、「じゃ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは横浜に行くので、先に帰りますから」

時次郎は、布団から顔を出し、「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められるから」

        

※写真は、「youtube」より。

 

この舞台は?

「日本堤通り」をはさんで少しくねった道が「吉原」への道。手前の道路際に「見返り柳」。

見返り柳」。「吉原大門交差点」にあるガソリンスタンドの前。
「見返り柳の碑」。

 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
 きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
 見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。      平成8年9月 台東区教育委員会


この奥に遊郭が広がっていた。

1880年代のようす。○が吉原。斜め右に「山谷堀」。

明烏」=夜明けがたに鳴く烏。また、その声。近世、男女の朝の別れの情緒を表現するのに用いられた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」その16。古今亭志ん朝「船徳」。

2021-08-29 20:29:32 | 落語の世界

夏にふさわしい「船徳」を、今は亡き、古今亭志ん朝師匠で。「youtube」にUPされていましたので。

国立劇場にて。

名人芸。何度視聴してもあきません。

三代目古今亭志ん朝。1938年(昭和13年)3月10日 - 2001年(平成13年)年10月1日。

東京都文京区本駒込出身の落語家。本名∶美濃部 強次。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。

五代目古今亭志ん生の次男で、十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。

獨協高等学校でドイツ語を学んだ。噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。

同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に七代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。

一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。

所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。

父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。

最後の高座は2001年8月11日~20日までの浅草演芸ホール「住吉踊り」。公演途中の14日から緊急入院していたが、病院から寄席に出演し続けた。

2001年10月1日、肝臓がんのため、自宅で家族、弟子に見守られる中、63歳で死去。

(この項、「Wikipedia」参照)

船徳

船宿に居候している若旦那。船頭になると言い出す。

親方「若旦那、あなたみたいな細い体で、船頭なんぞになれやしません」

徳兵衛「なれやしねえったって、おんなし人間じゃねえか、みんなにやれてなぜ俺にできねえんだ」と食い下がる。親方は船頭の大変さをくどくどと説くが、

徳兵衛「そうかい、親方のとこが駄目だって言うなら、よそへ行って船頭になるよ」と強情だ。

親方「若旦那、”竿は三年、艪(ろ)は三月”と言いやすが、本当に辛抱できますか?」、「もちろん、するとも」で、そこまで言うならと親方は承知して船頭たちを呼び、徳兵衛を船頭仲間へ紹介する。

            

 集まった船頭たちはてっきり親方から小言を食らうと思って、叱られる前に謝ってしまおうと、それぞれの不始末をあれこれと白状するが、全部親方の知らないことばかりでかえってやぶ蛇に。

親方は船頭に”若旦那”の呼び名は似合はないので、これからは「徳」と呼ぶことにすると言って徳兵衛を船頭の仲間入りをさせる。

            

 さて、今日は、暑い盛りの浅草観音様の「四万六千日」。船頭たちは出払ってしまい、船宿には徳一人。そこへなじみの客が、船が嫌いな友達を連れてやって来て大桟橋まで行ってほしいと言う。

 船宿のおかみは今日は船頭は出払ってしまっていないと断るが、客は柱に寄りかかって居眠りをしている徳さんを見つける。おかみさんは断り切れずに、徳さんが船を出すことになる。

徳は出てこない。聞くとひげをあたてていたと。

さて、船を出そうとするが、舫(もや)ったまま。

竿を流してしまったり、同じ所を三回も回ったりして、「ここんとこはいつも三度ずつ回ることになってまして・・・」なんて言いながらも、なんとか大川へ船を出した徳。

船の嫌いな相客は心配する。

徳「この間、赤ん坊連れのおかみさんを川に落としてしまったけど・・・」

大川に出たは出たが船は揺れすぎて、たばこ盆を寄せて吸うのも大変。

そのうち、石垣の方に寄って行ってしまい、石垣にくっついて身動きがとれない。

徳は客のこうもり傘で石垣を突かせ船は離れたが、こうもり傘が石垣の間に挟まってしまう。もう二度とそこへは着けられないと言われ、客はこうもり傘をあきらめるしかない。

 漕ぎ疲れてきた徳、暑くて汗が目に入り前が見えない。客に「前から船が来たらよけてください」なんて言い出した。ようやく大桟橋の近くまで来たが、浅瀬に乗り上げ、それ以上進まない。

客は一人を背負ってやっとのことで岸に上がる。客が船の方を振ると、徳はぐったりしている。

客「おーい、若い衆、大丈夫か」

徳「上がりましたらね、柳橋まで船頭ひとり雇ってください」

枕も船遊びのおもしろさにちょっと触れただけで、いきなり本題へ。枕、それも楽屋話が長すぎて本題になかなか入らない最近の落語とは異なり、このへんのテンポは実に巧み。羽織を脱ぐと、話にふさわしく、夏を感じさせる、爽やかな着物。

徳、船宿の主人、おかみさん、船頭達、お客の二人(相客は船が嫌い)とそれぞれ役どころが異なる人物を演じきる。船をこぐ仕草など、名人芸でした。

ところで、舞台の場所はどこなのか?

 話のオチにもあるように神田川と隅田川の合流付近の柳橋が船に乗った所です。今でも船宿があり、神田川には船がたくさん浮かんでいます。

                     現在の柳橋付近

 到着したところは、駒形橋の西詰めにある駒形堂。ここに隅田川(大川)に突き出た大桟橋があったようです。明治期入ってからも船の発着場がありました。そこから上がると、雷門、浅草寺にと繋がります。

名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」(広重)。

駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。

 駒形堂は、天慶5年(942)に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。現在の堂宇は平成15年(2003)に再建されたもの。

  (「浅草寺の駒形堂」由来より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」その15。春風亭一之輔「子別れ(子は鎹=かすがい)」。そして「処暑」。

2021-08-28 20:47:55 | 落語の世界

             「夏の神保町まつり 一之輔一門会」より。

                    

                   

      楽屋話ばかりで本題に入らないので、師匠に怒られる。 

師匠登場。人情話の中でも笑いと涙で聞かせる「子別れ」を。

枕で弟子達の話をからめ、先代師匠の話から、師匠として弟子のかわいさを淡々と思い出話風に語り出します。

「子別れ」初代春風亭柳枝創作落語で、3代目麗々亭柳橋4代目柳家小さんの手を経て磨かれた人情噺の大ネタです。

上は「強飯の女郎買い」、下は「子はかすがい(鎹)」の名で呼ばれることがあります。一之輔師匠は、この下の部分を。「大酒飲みが下では酒を断って改心したのか、どうも分からない、」とか、ぼそぼそつぶやきながら。

上。熊五郎は腕のいい大工だが酒好きなのが玉に瑕。ある日、泥酔して帰ってくると妻のお光に向かって女郎の惚気話まで始めてしまい、夫婦げんかの末にお光は一人息子の亀を連れて家を出てしまう。

中。熊はお光と離縁して女郎を身請けし、一緒に暮らし始めるが、彼女は一切の家事をせず、朝から酒を飲んでは寝てばかり。結局他所に男を作って出ていってしまう。

そして下。家から出て行った親子と別れてから3年。熊は酒を断って心を入れ替え、懸命になって働いたおかげでなんとか身を持ち直し、親方の身分に。

 ある日、熊五郎はお店(たな)の番頭と茶室に使う木口を木場へ見に行く。途中で前の花魁の悪妻女房のお島、その前の亀吉の母親の良妻賢母のお徳の話や、亀吉が好きだったまんじゅうの話などする。

 話ながら歩いていると番頭が亀吉が歩いてくるのを見つける。熊五郎は番頭を先に行かせ亀吉に話かける。

熊五郎 「今度のおとっつぁんは、おめえを可愛がってくれるか」

亀吉 「おとっつぁんは、おまえじゃないか」

熊五郎 「おれは先(せん)のおとっつぁんだ。新しいおとっつぁんがあるだろ?」

亀吉 「そんな分からない道理があるもんか。子どもが先に出来て、親が後から出来るのは芋ぐらいのもんだ」

 母親のお徳は独りで仕立ての針仕事をして、貧乏暮らしをしながら亀吉を育てているという。

足元を見ると貧乏生活で、クツも履いていない、また虐められて、額に傷まで出来ている。

熊五郎はこれまでのことを亀吉に詫び、50銭銀貨の小遣いをやり、ウナギを食わせるから明日また会おうと約束する。

 家に帰った亀吉は母親の糸巻の手伝いをしている時にお金を持っているのを見つる。

                     
お徳 「なんだい、こりゃあ、まあ、50銭銀貨じゃないか。どうしたんだい、お使いを頼まれたのかい。どうしたんだい?・・・おまえまさか悪い了見出して盗んだんじゃないだろうね。はっきりとお言いな、言わないと、おとっつぁんの玄翁(げんのう)で叩くよ」、ついに亀吉は泣きながら父親に会ったこと、小遣いをもらったことを話し出す。

                   

 あくる日、亀吉は約束通りに鰻屋へ行って父親とウナギを食べていると、鰻屋の前を母親が行ったり来たり。亀吉は母親を座敷へ引き入れて両親が再会するが、二人ともかしこまって堅くなり、他人行儀でもどかしい。

      

熊五郎 「えへん、えへん、じつは昨日ねえ、亀坊に会ったんだよ。で、ウナギが食いてえって言うもんだから、じゃあ、食わせてやろうじゃねえかってことになって、・・・えへん、えへん、じつは昨日ねえ・・・」なんども同じことを繰り返していて埒があかない。

亀吉の「元のように3人で一緒に暮らそうよ」の一言で熊五郎はお徳に頭を下げ、元の鞘に収まることになります。

お徳 「こうやって夫婦が元の鞘に収まれるのも、この子が有ったればこそ。お前さん、子は夫婦の鎹(かすがい)ですね」。

亀吉 「え、あたい鎹かい、それで昨日、おっかさんが頭を玄翁(げんのう)でぶつと言ったんだ」。

約45分。父親と母親、子供と使い分けながらの熱演でした。

鎹。玄翁(げんのう)。

春風亭一之輔

1978年1月28日生まれ、千葉県野田市出身。2001(平成13)年3月 日本大学芸術学部卒業。


2001(平成13)年5月 春風亭一朝に入門
2001(平成13)年7月 前座となる 前座名「朝左久」
2004(平成16)年11月 二ツ目昇進 「一之輔」と改名
2012(平成24)年3月 真打昇進

プロフィール
主な持ちネタ:不動坊 茶の湯 鈴ヶ森 初天神 など
趣味:程をわきまえた飲酒 映画・芝居鑑賞 徒歩による散策 料理 喫茶店めぐり 洗濯
自己PR:自他共に認める「十八番」のある噺家を目指し、精進致しております。ごひいきのほど宜しくお願い申し上げます。
ホームページ:https://www.ichinosuke-en.com
Twitter:ichinosuke111

《出演が予定されている定席》
鈴本演芸場 9月上席 昼席
浅草演芸ホール 9月上席 昼席
末廣亭 9月中席 夜席 
池袋演芸場 9月中席 夜席
鈴本演芸場 9月下席 昼席
浅草演芸ホール 9月下席 昼席

・・・

先週の月曜日・23日は、「処暑」でした。

 「処暑(しょしょ)」は、厳しい暑さの峠を越した頃のこと。暦の上では朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてくるころで、暑さが和らぎ、穀物が実り始めます。同時に台風シーズンにもなります。

どうも昨今の気候。「処暑」以降も残暑厳しい日々が続きます。

「七十二侯」では、

・8月23日〜8月27日頃「綿柎開」わたのはなしべひらく

綿を包む柎が開き始める頃。柎とは花の萼(がく)のこと。柎が開き始めるとふわふわとした綿毛が中からとび出してきます。

・8月28日〜9月1日頃「天地始粛」てんちはじめてさむし

ようやく暑さが静まる頃。秋雨前線が冷たい空気とともに秋を運んできます。とはいっても、日中はまだまだ暑い日が続きます。

・9月2日〜9月6日頃「禾乃登」こくものすなわちみのる

日に日に稲穂の先が重くなってくる頃。稲穂が実り、色づき始めます。

 

日中の暑さは相変わらずで、熱帯夜も続きます。いつになったら寝苦しい夜から解放されるのやら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その4。

2021-08-26 20:03:58 | 読書無限

明けて昭和16年(1941年)。筆者の半藤さんが小学校4年生になったとたん、小学校が「国民学校」と改称されます。

前年に「日独伊三国同盟」を結んだ日本は、いよいよ英米を敵に回すことに。そして、運命の12月8日を迎えます。

前年11月にレコードになった海軍軍歌「月月火水木金金」が年明けと共に巷で歌われ始めます。

♪朝だ夜明けだ潮の息吹き うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務 月月火水木金金

「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)のOPテーマは開始した1977年に、この曲の替え歌を使用していました。ザ・ドリフターズはけっこう軍歌(替え歌を含め)を歌っていました。

「国民学校」の音楽の授業も「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロハ」に。

そして12月8日。真珠湾奇襲の勝利、マレー半島上陸作戦の成功の第1報で、日本中が気持ちをスカッとさせました。

その4日前、ドイツ軍は、ソ連軍の猛反撃と-50℃という極寒のために後退せざるをえなくなっていました。そうしたドイツ軍敗退の報を知らさせていない国民の大半は、日本軍の初戦の電撃的大勝利にすっかり意気軒昂になってしまいました。

昭和17年(1942年)。

開戦より3ヶ月で、マニラ占領、シンガポール占領、ラングーン(現ヤンゴン)占領、ジャワの蘭印軍降伏と連戦連勝。ところが、6月のミッドウェイ海戦の敗北、8月、熾烈を極めたガダルカナル島攻防戦・・・次第に戦局は厳しくなっていきます。わずか半年で日本の戦いは悪化。そうした状況は、国民に明らかにされるはずもありません。

「本土初空襲」が4月18日。

そして、「加藤隼戦闘隊」隊長加藤建夫陸軍中佐(戦死後、陸軍少将)の戦死。

5月22日、第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場にブレニム1機(第60飛行隊ハガード准尉機)が来襲し爆撃。一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中射を浴び発火。この機体こそが戦隊長加藤建夫中佐機であり、帰還不可能と察した加藤機は左に反転しベンガル湾の海面に突入し自爆した。戦死した加藤中佐は「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評される南方軍総司令官寺内寿一元帥大将名の個人感状を拝受、さらに帝国陸軍初となる二階級特進し陸軍少将、また功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となった。(「wikipedia」より)

加藤隼戦闘隊

♪エンジンの音 轟々と 隼は征く空の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描けし赤鷲の 印はわれらが戦闘機

昭和18年(1943年)

4月、山本五十六長官の戦死。5月、アッツ島守備隊の玉砕。9月、イタリア軍が米英連合軍に無条件降伏。12月、学徒動員。

内務省情報局は、米英そのほか敵性国家に関係ある楽曲一千曲を選び、演奏、紹介、レコード販売を禁止します。「私の青空(マイ・ブルー・ヘブン)」「コロラドの月」「上海リル」・・・。

「燦めく星座」にまでクレームがついてしまいます。「星は帝国陸軍の象徴である。その星を軽々しく歌うことはまかりならん」と。

燦めく星座」(昭和16年3月)灰田勝彦の甘い歌声が一世を風靡した。

♪男純情の愛の星の色 冴えて夜空にただ一つあふれる思い 春を呼んでは夢見てはうれしく輝くよ 思い込んだら命がけ男の心 燃える希望だ憧れだ 燦めく金の星

井上ひさしきらめく星座ー昭和オデオン堂物語

当時、灰田の甘く軽やかな歌声への人気が衰えず、当局はそうした傾向に対して軽佻浮薄だと断じ、さらに「星」が陸軍の象徴だということで、当局に睨まれたことの周辺を描いた戯曲。

さらに米英語の雑誌名が禁止、改名せよ、と。「サンデー毎日」が「週間毎日」、「キング」が「富士」、「オール讀物」が「文藝讀物」・・・。喫茶店などの店名も。「ロスアンゼルス」が「南太平洋」、「ヤンキー」が「南風」と。

野球でも「ストライク」=「よし」、「三振」=「それまで」、「アウト」=「ひけ」、「ファウル」=「だめ」。

陸軍報道部によって決定された「決戦標語」が撃ちてし止まむ」。

若鷲の歌(予科練の歌)昭和18年9月)

♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く

12月、文部省が学童疎開促進を発表。弟妹は疎開しますが、筆者は、当時、中学生だったので、東京に残り、昭和20年3月10日未明の「東京大空襲」で九死に一生を得ることになります。

昭和19年(1944年)

太平洋諸島での玉砕につぐ玉砕、インパール作戦での敗走、米大機動部隊によるマリアナ諸島への猛撃、これによって、米軍に制海空権を奪われます。そして、特別攻撃隊が正式の作戦となります。

中学生の筆者も、学徒動員で軍需工場に通うようになります。

学徒勤労動員の歌「あゝ紅の血は燃ゆる」(昭和19年9月)

♪花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ あゝ紅の血は燃ゆる あゝ紅の血は燃ゆる

そして、昭和20年(1945年)

本土の盾にされ、軍の盾にされた「沖縄戦」も軍・民、約20万人もの死者・行方不明者を出す悲惨な戦闘の結果、6月には壊滅。8月、広島・長崎に原爆投下、ここでも20万人以上の犠牲者。満州居留民・開拓民達の必死の逃亡。そして、8月15日、玉音放送。

同期の桜

♪貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭で咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため

原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部に発表された西條の歌詞が元になっている。

時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず、特に末期の特攻隊員に大いに流行した。日本軍を代表する軍歌ともいえ、戦争映画等ではよく歌われる。また、この歌詞にも、当時の軍歌ではよく現れた「靖国神社で再会する」という意の歌詞が入っている。

その一方で、戦争映画でみられる兵士が静かに歌うシーンは実際にはなかったという説もある兵学校71期生の卒業間際に、指導教官が「死に物狂いで戦っている部隊で歌われている歌」として紹介して以来、教官の間で広まっていき、大戦末期に海軍兵学校から海軍潜水学校で一気に広まったとされており、兵学校に在学していても、戦後まで全く知らなかった人物も多い1945年(昭和20年)6月29日と同年8月4日のラジオ番組で、内田栄一によって歌われているのが、この曲に関する最も古い記録といえる。

(この項、「Wikipedia」参照)

こうして、半藤さんの労作の中から当時歌われた歌を取り上げてみました。

けっこう知っている(歌える)歌が多いのにも我ながら驚きました。リバイバルソングとして歌われているからなのでしょうか? 

替え歌を含め、戦争当時の国民の実相を映し出す鏡でもあった数々の歌。

しかし、たんなる郷愁、懐かしむことで終わらせることなく、再び悲惨な戦争が起こらないよう、心して現在の政治などを監視していくことが大事だと思いました。

それがまた、亡き半藤さんが我々に伝えたい、強く固い思いではなかったでしょうか。

東京大空襲(3月10日)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その3。そして、李香蘭

2021-08-25 18:42:53 | 読書無限

              「寫眞週報 昭和14年9/6号」表紙。

昭和14年(1939年)。この年の8月、ヨーロッパではドイツがポーランドに電撃作戦を開始。英仏がただちにドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が勃発しました。

何日君再来(ホーリー ジュン ザイライ作詞 黄 嘉謨 / 作曲 劉 雪庵

 もともと中国の歌でしたが、1939年、渡辺はま子が「いつの日君来るや」、そして1940年、李香蘭(山口淑子)が「いつの日君また帰る 」のタイトルで歌って、日本で大ヒットしました。

好花不常開 好景不常在 愁堆解笑眉 涙洒相思帯

今宵離別後  何日君再来 喝完了這杯 請進点小菜

人生難得幾回酔 不歓更何待 「来来来、喝完了這杯再説」

今宵離別後 何日君再来

 

一杯のコーヒーから(作詞は作詞は藤浦洸で、作曲は服部良一。歌は霧島昇ミス・コロムビア

ちなみに、この当時のコーヒー一杯の価格は15銭であった、とか。

♪(女)一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 

    二人の胸の灯が ちらりほらりとつきました

 (男)一杯のコーヒーから モカの姫君ジャバ娘 歌は南のセレナーデ 

    あなたと二人朗らかに 肩を並べて歌いましょ 

明けて昭和15年神武天皇が即位して、皇紀2600年の年。

小生が通った小学校。階段の踊り場の鏡に「皇紀二千六百年記念」の文字が刻まれていたのを鮮明に覚えています。

この時の奉祝國民歌「紀元二千六百年」
内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定
 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

 金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる
 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
 はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年・・・

出だしの部分は、今でも歌えますね。

3月には、芸名のなかで、ふまじめ、不敬、外国人と間違えやすいものの改名を指示してきました。

・リーガル千太・万吉→柳家千太・万吉、 ディック・ミネ→三根耕一、 藤原釜足→藤原鷄太、 中村メイ→中村メイコ

隣組(昭和15年6月)作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫

♪とんとんとんからりんと隣組 格子を開ければ顔なじみ 回して頂戴回覧板 知らせられたり知らせたり 

 とんとんとんからりんと隣組 地震や雷火事泥棒 互いに役立つ用心棒 助けられたり助けたり

隣組制度(「回覧板」)は相変わらず健在のようで、今でも回覧板や年末の募金など回ってきます。

当時は、「隣組」を「国民の道徳的錬成と精神的団結を図る基礎組織」と位置づけていました。そうならないように。

半藤さんたち悪ガキに、近所の在郷軍人のおっさんが教えた「兵営ラッパ」を紹介。これは知っています。

〈起床ラッパ〉 起きろよ、起きろ、みな起きろ、起きないと 隊長さんに叱られる

〈消灯ラッパ〉 新兵さんは、可哀想だね、また寝て泣くのかよ

〈突撃ラッパ〉 進めや進め、みな進め、進めや進め、みな進め

ここで、「何日君再来」の歌を歌った「李香蘭(山口淑子)さん」の紹介を。

1920年(大正9年)2月12日に、中華民国奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、奉天北煙台で生まれた。南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられる。本籍は佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)。親中国的であった父親の方針で、幼い頃から中国語に親しんだ。小学生の頃に家族で奉天へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春中国語版将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。・・・

「中国人スター・李香蘭」として

1940年(昭和16年)、歌舞伎座にて

日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。・・・

1939年の兵庫県西宮市でのコンサート
 
1940年、日満合作映画「支那の夜」に主演
 
資生堂石鹸のポスター(1941年)

日中戦争中には満映の専属女優として日本映画に多く出演し、人気を得た。人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した。1941年(昭和16年)2月11日紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を7周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動であったと伝えられている(日劇七周り半事件)

日劇七周り半事件の様子

1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳英語版』(151分)に、林則徐の弟子・潘達年の恋人(後に妻)役で主演した。中国全土で映画が封切られるや、劇中、彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と挿入歌「戒煙歌」は大ヒットした上、映画『萬世流芳』自体も、中国映画史上初の大ヒットとなったのである。また内容は、阿片戦争の相手国であったイギリスを当時の日本に見立てて、中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった。

『萬世流芳』の大ヒットにより中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた。・・・

それまで、李香蘭は満州国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』とその主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などのヒット曲により、中華民国でも人気スターとなった。歌においては、1945年(昭和20年)にカップリングで吹き込み発売された「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の収録曲となった。なお「第二夢」は2012年、中国で蒼井そらによりリヴァイヴァルされ、現代の中国人にも創唱者は李香蘭であるということが知れわたった。その「第二夢」は、台湾のトップ・シンガー費玉清が、「夜來香」「何日君再來」「只有你」等と共に、台湾は元より東南アジアや中国大陸各都市でのコンサートでも歌い継いでいる。
 
帰国

李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国政府から漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明された。結果、漢奸罪は適用されず、国外追放となった。無罪の判決を下す際、裁判官は「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と付言を加え、李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した。

李香蘭は船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオから聞こえてきたのは、奇しくも自分の歌う「夜来香」だった。・・・

帰国後は、山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をした。・・・また、1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員を3期務めた2014年9月7日心不全のため、東京都千代田区一番町の自宅で死去した。94歳だった。

(この項、「wikipedia」参照。写真も。)

戦乱期の日中を巡る数奇な人生を歩んだ方でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その2。

2021-08-23 18:45:52 | 読書無限

                  昭和12年(1937年)正月の浅草風景。

筆者の半藤さんは、この年の4月、小学校1年生に。

当時の同級生の家の職業が列記されています。豆腐屋、イカケ屋、下駄屋、自転車屋、大工、酒屋、ミルクホール、左官屋、米屋、魚屋・・・。下町の土地柄を表しています。ちなみに母親は、お産婆さんだった、とのこと。

その街中に聞こえてくる物売りの声も列挙。

・なッとなッとなッとうゥ、なッとうに味噌豆エ

・あさりイ―、しじみイ―

・はさみ包丁ッ、かみそり磨ぎイ―ッ

・竹や―さお竹ッ

・朝顔の苗ェ、夕顔の苗ェ―

・玄米パーンの、ホヤホヤ―ア

他にも物干し売り、カチャカチャと独特の箪笥の鐶を鳴らしてくる定斎屋などが紹介されています。

注:定斎屋(じょうさいや)

夏に江戸の街を売り歩く薬の行商人是斎屋(ぜさいや)ともいい、江戸では「じょさいや」という。この薬を飲むと夏負けをしないという。たんすの引き出し箱に入った薬を天秤棒(てんびんぼう)で担ぎ、天秤棒が揺れるたびにたんすの(かん)が揺れて音を発するので定斎屋がきたことがわかる。売り子たちは猛暑でも笠(かさ)も手拭(てぬぐい)もかぶらない。この薬は、堺(さかい)の薬問屋村田定斎が、明(みん)の薬法から考案した煎(せん)じ薬で、江戸では夏の風物詩であった。

[遠藤 武](「ニッポニカ」より)

筆者の挙げた物売りの声、「定斎屋」以外は、聞いたことがあります。

つい最近までは、焼き芋屋さん、物干し売り屋さんが来ていましたが、最近はまったく声を聞きません。近所に来るのは、廃品回収の小型トラックくらいか。

この頃には「日中戦争(支那事変)」が本格化。知人や隣近所の若者達に赤紙つまり召集令状がきて、次々と戦場へ出征していく「戦時下」になっていった。

露営の歌(昭和12年9月)

♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄を立てずに死なれよか 進軍ラッパ聞く度に 瞼に浮かぶ旗の波

・愛国行進曲(昭和12年12月)

♪見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は躍る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき 我が日本の誇りなれ

作曲は「♪守るも攻めるもくろがねの」でおなじみの「軍艦行進曲(マーチ)」の作曲者。

海行かば(昭和12年10月)

♪海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ

『万葉集』にある大伴家持の長歌の一節。信時潔作曲。後に、この歌は、対英米戦争中に「玉砕」という悲惨な報と共にラジオで必ず流された。

昭和13年(1938年)になると、中国大陸での戦火はますます激しくなります。

麦と兵隊(昭和13年12月)

♪徐州徐州と人馬は進む 徐州よいか住みよいか 洒落た文句に振り返りゃ お国なまりのおけさ節 髭が微笑む麦畠

注:藤田まさとは当初『麦と兵隊』中の孫圩(そんかん)での中国軍の強襲後の火野の述懐を元に「ああ生きていた 生きていた 生きていましたお母さん・・・」という歌い出しの文句を書いた。ところが、軍当局から「軍人精神は生きることが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ」と大目玉を食らい、そこで、「徐州 徐州と人馬は進む・・・」という現行の歌詞に書き直した。(この項、「Wikipedia」より)

旅の夜風(昭和13年9月)

♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ 月の比叡を独り行く

川口松太郎『愛染かつら』の主題歌。映画にもなって大ヒットした。

人生劇場(昭和13年4月)

♪やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか 義理がすたればこの世は闇だ なまじとめるな夜の雨

佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の歌謡曲「人生劇場」が楠木繁夫の歌として発表され、広く知られている。特に早稲田大学出身者や学生に愛唱され、「第二の早稲田大学校歌」とも云われている。後年には中島孝村田英雄によっても歌われた。特に村田版は名唱として知られ、1965年版テレビドラマ(製作 フジテレビ日本電波映画、監修 渡辺邦男)の主題歌にも使われ、今では村田英雄が本楽曲のオリジナル歌手だと認識されることも多い。(この項、「Wikipedia」より)

尾崎士郎『人生劇場』。

尾崎士郎の自伝的大河小説愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。

1933年(昭和8年)に都新聞に「青春篇」が連載され1959年(昭和34年)までに「愛慾篇」「残侠篇」「風雲篇」「離愁篇」「夢幻篇」「望郷篇」「蕩子篇」が発表された。作品は自伝要素を混じえ創作されたが、「残侠篇」は完全な創作である。この作品を手本としたものに、同じ早稲田大学の後輩である五木寛之の自伝的な大河小説『青春の門がある。

 (「同」より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その1。

2021-08-22 20:52:45 | 読書無限

相変わらずの読書三昧、と言いたいところですが。ついつい緊急事態宣言下でも出かけてしまい、・・・。少し自重して。

さて、今年1月亡くなられた半藤一利さん。ブログでも何度か紹介していますが、下町・大畑(現在の八広)生まれということで、けっこう親近感を持っています。生家は、通称「こんにゃく稲荷」・三輪里稲荷神社の前だったとか。

この本が世に出たのは、2016年2月。それから3年後。平凡社ライブラリー版として発刊されました。

『昭和史1926―1945』がA面としたら、この書は、戦前の市井の生活を描いたもの。

半藤さん自身は、1930年(昭和5年)生まれですから、生まれる前から昭和が始まっています。小学校(国民学校)から府立7中(現隅田川高校)に進学、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で九死に一生を得て、茨城・下妻、さらに父の生地である長岡へ、というまさに時代に翻弄されつつ、少年・青年期を送って来た方。

「60年近く一歩一歩、考えを進めながら、調べてきたことを基礎として書いた本書の主題は、戦場だけでなく日本本土における戦争の事実をもごまかすことなしにはっきりと認めることでありました。民草の心の変化を丹念に追うということです。昔の思い出話でなく、現在の問題そのものを書いている、いや、未来に重要なことを示唆する事実を書いていると、うぬぼれでなくそう思って全力を傾けました。」

「・・・レコードには主となるA面と裏側に従となるB面とがありました。それにならえば、昭和史も政治・経済・軍事・外交といった表舞台をA面、そしてそのうしろの民草の生きる慎ましやかな日々のことをB面と呼んでも、それほどおかしくないと勝手に考えました。」

「誰の名言であるか忘れましたが、『戦争はうその体系である』というのがあります。その名言にそっていえば、わたくしは物心ついてから15歳まで、その『うその体系』のなかで生きてきました。その後の70余年の平和は、そのことをじっくり考えさせてくれました。」

文庫本でも650Pになりますが、じっくり読んでほしいと思います。

巻末に載せられた、同年生まれの澤地久枝さんとの対談もすばらしい内容です。

今回読み進めていくうちに、意外なことに気づきました。戦後生まれ、半藤さんよりも15年以上、年が離れている小生。

当時、大いにはやった流行歌、また軍歌などが載せられていますが、けっこう知っている(歌える)ものが多いことに。

そのいくつかを。

・昭和4年(1929年)『東京行進曲』♪昔恋しい銀座の柳 仇な年増を・・・

「その第4連の出だしは♪シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか・・・と実はもともとの歌詞は♪長い髪してマルクス・ボーイ 今日も抱える『赤い恋』・・・であった。」

・昭和5年(1930年)

浅草のエノケンの舞台ではやったのは『洒落男』♪俺は村中で一番 モボだと云われた男 己惚れのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た

注:「モボ」(「モガ」という語もあります)「モダンボーイ」に「モダンガール」のこと。

・同じく『デカンショ節』♪俺らが怠けりゃ 世界は闇よ ヨイヨイ 闇に葬れ資本主義 ヨーイヨーイデッカンショ

昭和6年(1931年)

・『酒は涙か溜息か』♪酒は涙か溜息 こころのうさの捨てどころ とおいえにしのかの人に 夜毎の夢の切なさよ

・『侍ニッポン』♪人を斬るのが侍ならば 恋の未練がなぜ斬れぬ

昭和7年(1932年)

・『天国に結ぶ恋』♪ふたりの恋は清かった 神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ

注:この歌は知りませんでした。「坂田山心中」事件にからむ歌。

昭和8年(1933年)

・『島の娘』小唄勝太郎の名調子で♪ハアー島で育てば 娘16恋心 人目忍んで 主と一夜の仇なさけ

注:この年、大島三原山が投身自殺の名所になった。

・『東京音頭』♪ハア踊りおどるならチョイト東京音頭ヨイヨイ 花の都花の都の真ん中で  サテヤートナソレヨイヨイヨイ

注:日比谷公園では、1週間ぶっ通しで踊り、日本中の神社や境内、公園、空き地で人波が大きな輪をいくつもいくつもつくって踊り狂った、という。

今は、「ヤクルトスワローズ」の応援歌? となっています。

昭和9年(1934年)

・『さくら音頭』♪ハアー咲いた咲いたよ 弥生の空に ヤットサノサ

注:前年の「東京音頭」につづく「音頭」。お分かりのように、出だしが「ハアー」となっていて、「島の娘」で大受けして、「歌い出し」としてはやった。

昭和10年(1935年)

二人は若い』♪あなたと呼べばあなたと答える 山のこだまのうれしさよ 「あなた」「なんだい」 空は青空 二人は若い

昭和11年(1936年)

・『うちの女房にゃ髭がある』♪何か言おうと思っても 女房にゃ何だか言えませぬ

・『あゝそれなのに』♪空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は

・『花嫁行進曲』♪髪は文金高島田・・・みなさんのぞいちゃいやだわよ

・『花言葉の唄』♪可愛い蕾よきれいな夢よ 乙女ごころによく似た花よ

こうして挙げていくと、まったく戦後生まれの小生ですが、TVなどの「懐メロ特集」かなんかで耳に残っているのかも知れません。知らない歌もありますが。

しかし、A面では昭和11年(1936年)2・26事件を契機に一段と軍部支配が強固になり、次第に戦争体制の気配が色濃く、思想統制・弾圧も激しくなり、市井の生活にも次第に窮屈になってきます。

2・26事件。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」。その14。橘家文蔵「笠碁」。碁敵(がたき)は憎さも憎し懐かしし(さ)。

2021-08-21 20:33:42 | 落語の世界

              「第4回文蔵組落語会」。

枕では、コロナ禍での手持ちぶさたな日常を描きながら、本題に入ります。

 碁がたき同士が、今日は「待った」なしで碁打ちはじめる。しばらくして形勢の悪い方が「待った」と言い出す。相手は待てないと言い、お互い「待て」、「待てない」と強情を張る。

 あげくの果てに一方はおととしの暮れに金を貸したのを恩に着せ、返す日を延ばしてくれと言われた時に、「待った」してあげたではないかと言い出す。

これには相手も怒りだし、お互い「へぼ」「ざる」、「大へぼ」、「大ざる」とののしりあって喧嘩別れとなる。

 そのうちに雨が何日も続き、碁が打てない腹いせに番頭や丁稚にあれこれ意見をするし、孫にまで当たる始末。碁会所に行くように勧められるが、皆強すぎて相手にしてもらえないのも承知しているので、ますますいらいらが募る。

 その相手も碁を打ちたくてしょうがなく、菅笠をかぶって出かけ、店先を行ったり来たり。

旦那の方も笠をかぶって前を行ったり来たりするのに気づくが、照れくさくて中へ呼び入れることができない。

         

碁盤を持ってこさせ一人でパチン、パチンとわざとらしく大きな音を立てて、碁石を置き始める。

相手も音が気になって近づいてくるが、また通り越してしまう。どうにもたまならくなって、

「やいやい、へぼ!・・・へぼやい!」
「へぼと言ったな、ざるの大ざるめ!」
「大ざるだと。俺がざるかへぼでないか一番やるか?」
「ああ、やるとも」

中に入ってきて、碁を打ち始めるが、なぜか碁盤に雨のしずくが落ちてくる。いくら拭いても落ちるので、ひょいと見上げる。

旦那 「ああ、まだかぶり笠取らねえじゃねえか」。

下げは不思議と碁盤が濡れているので雨漏りかと思えば相手の笠だったという下げであるが、普通は座敷に雨具をかぶったまま上がったりはしない。

それに旦那もなぜ濡れていることにこだわるのか、それは「雨垂れ」が「涙」を暗喩しているから。

つまり、旦那は嬉しさで涙が潤んでいるのを雨漏りのせいにし、相手も笠を被りっぱなしで、同じように嬉しい顔を見せられなかったと。

 代表的な人情噺として知られ、五代目柳家小さんや八代目桂文楽などが得意とした。

一見、単純な噺のようで、心中、複雑な二人のようすが、人情味豊かに描かれている。

また、碁敵ではなくても、無二の親友との間で、このような経験はありがちなことで、共感を呼ぶのでしょう。

幕前の、ゲストの柳家喬太郎師匠との掛け合い落語が面白い。

           

八代目林家正蔵一門の二代目橘家文蔵に入門。がっしりとした体格とドスが効いた威勢の良い口調で、「らくだ」の兄貴分や「天災」の八五郎など、豪快な「乱暴者」キャラを見事に演じる。落語界においても特異な存在感を放つのが、橘家文蔵だ。

「前座噺」と呼ばれるシンプルな構成の演目や、落語ファンにとってお馴染みの演目でも。破壊力抜群の人物描写と同時に、登場人物の心理を丁寧に繊細に表現する話芸と、随所に織り込まれるテンポの良いギャグで、観客を爆笑の渦に巻き込んでしまう。

2003(平成15)年からは、『BS笑点』に出演し、強面キャラを存分に発揮したパフォーマンスで人気を集める。

亡き師匠の得意ネタに挑む独演会『文蔵プレミアム』をはじめ、自ら座長・脚本・演出を務める『ボク達の鹿芝居』、『落語協会 大喜利王選手権』でプロデュース・司会を務めるなど、多才ぶりを発揮している。

そして、入船亭扇辰・柳家小せんと組み、フォークユニット「三K辰文舎(さんけいしんぶんしゃ)」では都内の落語会やライブハウスだけにとどまらず、全国各地の落語会で楽曲を披露している。

コロナ禍の2020年には、後援会「文蔵組」を結成すると同時に、いち早く業界初の無観客生配信落語会『文蔵組落語会』を全世界に配信。開始からの1か月で生配信の総視聴者数が延べ5,000人を記録し落語界に一石を投じ、オンライン配信落語会のパイオニアとしての地位を確立した。

(この項、「official Website」より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」。その13。入船亭扇遊。柳亭こみち。

2021-08-15 18:25:30 | 落語の世界

             入船亭扇遊「垂乳根(たらちね)」。

このお話。展開はよく聞き知っていますが、何度聞いても面白い。

ある長屋に住む独り者の八五郎は、大家さんから勧められ、結婚することにした。

気の早い話で、その日のうちに祝言をすることになり、早速床屋と銭湯に行って身綺麗にしてきた八五郎。七輪を取り出し、火をおこしながら夫婦生活に思いをめぐらせた。差し向かいで飯を食う様子を大声に出して歌う。

♪サークサクーのポーリポリのチンチロリン、ザークザクのバーリバリのガーシャガシャ

『食事が始まると茶漬けが出て来てさ、おかみさんはそれを上品にサークサク、沢庵を箸で摘んでポーリポリ。箸が茶碗に当たってチンチロリン。俺の方はでかい茶碗で茶漬けをザークザーク、沢庵だってでかい奴をバーリバリ。箸が茶碗に当たってガーシャガシャ』

話に偽りなく美人のお嬢さんに、八五郎は大喜び。

二人きりになった所で八五郎がご挨拶。すると、お嫁さんの返事。

「賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す」

「なになに、『金太郎を干す』だって?」

わけがわからない。名前をたずねると、

「自らことの姓名は、父は元京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光。母は千代女(ちよじょ)と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴を夢見て妾(わらわ)を孕めるが故、垂乳根の胎内を出でしときは鶴女(つるじょ)。鶴女と申せしが、それは幼名、成長の後これを改め、清女(きよじょ)と申し侍るなり」

漢文調でよどみなく並べ立ててのける。紙に書いてもらい、早速読んでみた八五郎。しかし、途中から読経の節になってしまい、最後には「チーン、親戚の方からどうぞご焼香を」。

翌朝、お清、朝食を用意し始める。ところが、米がどこにあるかわからないので、寝ている八五郎のところへ尋ねに来た。

「アァラ、わが君! アァラ、わが君!」

八五郎もびっくり、「その『わが君』ってのは俺のことかい? そのうち『我が君のハチ公』だなんて変なあだ名がつくからやめてくんねえ」と苦情を言い、何事かと聞くと「シラゲの在り処、いずくんぞや?」。

米びつの場所一つを教えるのに一苦労。お清は料理を再開するが、今度は味噌汁の具がなくて困った。そこへ八百屋がやってくる。

「これこれ、門前に市をなす商人、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」

芝居がかった言葉につい釣られ、八百屋も思わず「はぁはぁー!」と平伏してしまう。

一文字草とは長ネギのこと。

そんなこんなでご飯が整い、八五郎を起こす。

「アァラわが君。日も東天に出御(しゅつぎょ)ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」

今度は八五郎が釣られて

「飯を食うのが『恐惶謹言』、酒なら『依って(=酔って)件の如し』か」

「たらちね」:『母』にかかる枕詞。漢字では『垂乳根』と書く。

「精げ(シラゲ)」:白米。宮中の女房言葉に由来。

「一文字草(ヒトモジグサ)」:『長ネギ』。これも、宮中の女房言葉に由来。

「恐惶謹言(キョウコウキンゲン)」:文書や手紙の末尾につける挨拶語で、『恐れかしこみ、謹んで申し上げる』。

「依って件の如し(ヨッテクダンノゴトシ)」:恐惶謹言とおなじく末尾の挨拶語。『以上、右(本文)に書いたとおりである』。

1972年に九代目入船亭扇橋に入門。前座名「扇ぽう」を名乗る。77年に二つ目昇進で「扇好」、85年に真打昇進で「扇遊」と改名した。

淀みないしゃべりと明るく粋な芸風で、観客を江戸情緒の世界へと引き込む古典落語の名手。表情豊かに艶っぽい女を見事に演じる。

「携帯電話も持っていない古いタイプの人間」とは本人の談。得意ネタは「明烏」「不動坊火焔」など。92年の「入船亭扇遊独演会」にて、文部省芸術祭賞を受賞。

1953年、静岡県生まれ。落語協会所属。

肩のこらない軽やかな芸風で、親しみやすい。。

柳亭こみち「蚤のかっぽれ」。

母蚤「坊や、そんなにちょこちょこ出歩いたら、あぶないじゃないか。」
子蚤「大丈夫だよ、あぶない時にはピョーンと跳ねちゃうから。

・・・

男「♪沖ぃぃの、暗ぁいのぉぉに、白ぁ帆が見える・・・」
母「ここの親父が帰って来たよ。」
男「♪あれは紀の国、ヤレコノオッコレワイサノサ・・・」
子「あのおじさん、踊ってらぁ、面白いな。サノサッサッサ・・・」
母「お前まで踊っちゃいけないよ。あれは、かっぽれという下等な踊りで、踊ると、お前の人柄、じゃない、蚤柄にかかわるから、およし。」
子「じゃあ、おっかちゃん、あの人は下等な人なのかい。」

母「下等だとも、ロクな人間じゃないよ。お父つぁんは、あの男に捕まって、親指の爪でつぶされちまったんだよ。だから、あの男は、お前にとって親の仇、私にとっては亭主の仇。」
子「そいじゃあ、あたいが親の仇を討ってくるから。あの男の血をうんと吸ってやるんだから・・・はは、やってら、おもしろいな、これで血を一杯呑みながら、かっぽれを見物したら、愉快だろうな。この辺で血を吸ってやれ。お父っちゃんの仇、覚悟しろ・・・いけない、堅いと思ったら、かっぽれに夢中になって、カカトを刺していた。背中へ廻ってみよう。」

男「♪エ、ヤレコノコレワイサ、と、なかなか上手くできねぇ、とてもシラフじゃできねぇ、一杯ひっかけてくるかな。」

子「あ、出かけるのかい、困ったな、背中の奥に潜り込んだから、出るに出られない。こっちも腰を据えてチビチビ頂くか・・・だんだん血が濃くなってきやがった、お酒入りだぞ。」
男「おい、姉さん、お銚子のお代わりだよ。ああ、痒い、姉さん、ちょっと背中を見てくんねぇ、背筋に蚤が一匹いやがるんだ。」
女中「ちょっと着物を脱いで、振るっちまえば落ちますよ。」
子「ああ、良い心持になってきたぞ。あ、いけねぇ、もう少しで振るい落されるところだった。見つからなければ良いんだが・・・あっ、しまった!」

           

男「ちくしょう、つかまえたぞ、人の血をさんざん吸いやがって。」
子「おじさん、勘弁しておくれよ。」
男「変だな、誰だい?」
子「蚤だい。勘弁しておくれよ。」
男「人の体を食い荒らして、つかまったら、勘弁してくれとは何だ。」
子「もし、勘弁してくれるなら、あたいがかっぽれを踊って見せるよ。」
男「かっぽれを踊るような粋な蚤ならむやみに殺すもんか。助けてやるから、さぁ、踊ってみろ。」

子「かっぽれなんてものは、シラフじゃ上手く出来ないだろ。おじさんは、何のために、ここへ酒を呑みにきたんだい?」
男「ぜいたく言ってやがら、さぁ、ついでやる。」
子「おっと、と、と、散ります散ります。」
男「ふん、いっぱしの口をきくねぇ。」
子「おじさん、ひとつ、返杯をしよう。」
男「なかなか心得てるねぇ。さあ、お前に返すぞ、おっと、銚子が空だ、姉さん、お銚子のお代わりだ。そろそろ、かっぽれが出そうなもんだ、俺が歌うから、ひとつ踊って見せてくれ。」

           

子「じゃおじさん、景気の良い声でたのまぁ。」
男「よしきた・・・♪アヨイヨイヨイ、沖ぃぃのぉ・・・」
子「セッセ(踊る)。」
男「ふうん、うめえもんだな・・・♪暗ぁいのぉに・・・」
子「アヨトコラサ。」
男「こりゃあおもしれぇや、こりゃ・・・♪白ぁ帆がぁ見える・・・」
子「アヨトコラサ。」

男「♪あれは紀の国、エヤレコのコレワイサ。」
子「サのサッサッサ。」
男「いや、どうも恐れ入ったね。鮮やかなもんだね・・・♪ぇ豊年じゃあ、満作じゃ、あすは旦那の稲刈りで、小束にからげてちょいと投げた、投げぇぇたぁ・・・おい、合いの手を入れねぇか、おい蚤、どこへ行った?どこかへ跳ねちまったのかな、あ、しまった、ノミ逃げをされた。」

今回は、出かける場面はなく、家でのお話に。

2003(平成15)年 早稲田大学卒業 社会人を経験後、柳亭燕路に入門 前座名「こみち」
2006(平成18)年11月 二ツ目昇進
2017(平成29)年9月21日 真打昇進

趣味
ピアノ・ギター・ウクレレ演奏 野球(落語協会野球部所属) 日本舞踊(吾妻流名取、名取名「吾妻春美」) 長唄

自己PR
唄って踊れて、古典落語がしっかりできる噺家を目指しています!

こみち師匠の文章を掲載。

20代前半までは芝居が好きで、売れる前の古田新太さんや堺雅人さんたちの芝居を観に、時間があれば小劇場に通っていました。ある日チケットがどうしても取れないときに、友人に寄席を勧められ、人生が変わりました。ジジイがただボソボソしゃべっているだけの落語がこんなに面白いなんて(笑)。芝居通いをぱったりやめ、寄席に通うようになり、挙句は「噺家になりたいです」と会社に辞表を出してしまいました。

政府の緊急事態宣言の発出で、高座に上がれなくなったときはつらくて仕方がなかったです。考えるとつらいので、新しいネタを練ったり、稽古をしたり、噺を覚えたりと、プラス思考に転換しました。

家庭では夫婦ともに「不要不急」の商売とされ、2DKの狭い部屋で2人の息子がどう楽しく過ごせるのか、家族全員が心身ともに元気でいられるように気を配りました。

・・・

寄席は再開されたけど、お客様はかなり減りました。そもそも、落語協会には真打は200人以上いますが、寄席に出られるのは一握りです。今後は、使っていただける噺家もさらに淘汰されるかもしれません。

自粛中はとてもつらかったけど、修業時代に比べれば、たいしたことはありません。落語がやりたいのに何年も掃除ばかり。そのうちに、ただただ「落語がやれればいい」と思うようになりました。

「ああ、これが修業の意味なのだ」ということが後になってわかりました。「竹に雪が積もって、その重さが取り払われたとき、すっと伸びるのだ」と師匠方に言われた意味を体感したのです。

・・・

入門当初の稽古では、抑揚や気持ちは置いておいて、大きな声を出します。何百回もやっているうちに、「ご隠居さん」や「八っつぁん」が身近になっていくのです。

ところが、男性の役を男性らしく演じることは、女性にとっては簡単ではありません。セリフの徹頭徹尾を男性である登場人物として成立させることができて、初めて「マイナスをゼロに戻した」ことになるのです。

これに対し、男性の噺家はゼロからスタートし、噺を面白くしていきます。少しの間、会わないうちにうまくなったなと感じることも少なくありません。

私は真打ちです。女性の噺家としては「違和感なく聞こえた」は及第点。「(違和感はないけど)男性のほうが面白かった」ではだめです。生き残っていくには、自分しかできない演出を加えなければなりません。

古典落語は脈々と語り継がれた確固たるものがあります。そして、男性が築いてきた伝統・文化を女性がやるとどうなるかを今、試されているのです。唄や踊りを取り入れたり、これまでスポットライトが当たらなかった江戸の女性を登場させたり、本当のチャレンジはこれからが本番です。

新型コロナウイルスは、現代社会に深刻な分断をもたらしている。ワクチンや治療薬が普及し、コロナ後の社会がやってきたとき、エンターテインメントが人々を癒し、協調を取り戻す力となる。

寄席に来るお客様は、コロナ禍でも寄席を盛り上げたいというお気持ちでいらしてくださいます。ソーシャルディスタンスの客席では笑いの火は付きにくいけど、いつも通りの笑顔です。

一方で、お年を召したお客様は寄席から遠ざかりました。「人込みが怖い」「電車に乗るのが怖い」とのお便りをいただき、お米やお肉を送ってくださる方もいます。

寄席に来られないお客様のために、インターネット配信やSNSで笑いや近況を発信していますが、お客様の中にはメールアドレスやインターネットとは無縁で、配信にたどり着くことができない方もいます。

でも無理して来ていただくことはないと思います。恐怖を感じながら、高座を見ても楽しめないですから。身の安全が第一です。お互いの気持ちは通じ合っていると思いたいです。というか、落語から離れてしまうお客様のことは、結構こちらは気にしていますよ。

時間はかかりますが、コロナ禍がいずれ終息し、寄席にお客様がどっといらっしゃるのを心待ちにしています。音楽や演劇などのエンターテインメントは、「不要」ではなく、人の心が元気でいるためにはなくてはならないものだと信じています。
 「コロナ危機に克つ:落語家 柳亭こみちさん

(この項、「社団法人 日本生産性本部」HPより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」。その12。柳家権太楼「百年目」。

2021-08-14 20:57:00 | 落語の世界

トリの柳家権太楼師匠。「寄席」では余りお目にかからない、約50分をかけて、「百年目」を演じました。ただし、権太楼師匠は毎年の5月興行では恒例になっていたようですが。

「金比羅」の出ばやしで登場。1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

枕で、10日間の演目を春夏秋冬に擬えて、冬は「うどんや」「二番煎じ」。夏は「船徳」「へっつい幽霊」。春は「百年目」「宿屋の仇討ち」。秋には、という趣向で演じようとした、と。今日は3日目なので「百年目」を、と。

それぞれ、古典落語の粋と言うべき演目がズラリ。コロナ禍での無観客の中での配信。権太楼師匠だけではなく、落語家の皆さん、その他の芸人さんたちの複雑な思いをかみしめながら、視聴しました。

この「百年目」。大坂・船場の商家を舞台にした大ネタで、かなりの技量と体力が演じ手に求められる。大旦那、番頭、丁稚、手代、幇間、芸者など多くの登場人物を描きわけ、さらに踊りの素養が必要、等、難しい噺である。

船場の商家の堅物番頭の次兵衛は今日も店の者に小言を並べている。定吉、佐助、喜助と続き、藤助には、芸者遊びをして帰った藤助には嫌みの限りを言い、ご本人は、得意先を回って来ると言い店を出た。

 その先には太鼓持ちの茂八が待っていて、桜の宮に花見に行く屋形船が待っている高麗橋へと向かう。途中、着物を預けてあるある駄菓子屋で、着物、羽織の紐から持ち物、帯、雪駄の鼻緒まで粋な物に着替える。

 芸者衆らが待つ高麗橋の浜から屋形船に乗った次兵衛は誰かに見られるとまずからと障子をぴったりしめ、ちびりちびりと酒を飲み始めた。船の中は締め切って蒸し暑く桜も見えず、芸者衆は不満でぶつぶつ言い始めるので、障子を開けると満開の桜の見事な春景色で、次兵衛は顔を扇子で隠して芸者衆らと土手に上がることにする。

 一方、店の旦那も桜が見ごろと聞き、医者の玄白先生と歩いて桜の宮へやって来た。玄白先生は扇子で顔を隠して芸者らと踊っている次兵衛をめざとく見つける。まさかと思った旦那もよく見ると次兵衛に違いない。

 旦那はこんなところで出会って恥を掻かせてもいけないと、脇を通り抜けようとして次兵衛につかまってしまった。顔の前の扇子を取った次兵衛は、「これはこれは、旦さんでございますかいな。長らくご無沙汰を致しております。承りますれば、お店も日夜ご繁盛やそうで、陰ながら・・・・」と、神妙な面持ちで喋り始めた。旦那は取り巻き連中に、「大事な番頭だからケガなどさせないように遊ばしてやって下さい」と言って帰って行った。

          

                 

 さあ次兵衛はいっぺんに酔いも醒め、顔面蒼白。歩いて駄菓子屋に行き、着替えて店に戻るが生きた心地もせず、店の者にいつもの小言を並べる余裕などなく、頭が痛いから布団を敷いくれと言って二階に上がったが寝られる心理状態ではない。荷物をまとめてこっちから先に店から逃げ出して行こうとしたり、あれこれと考えて悶々としているうちに夜が明けてしまった。

 帳場に座ったものの、帳簿の字なんか頭に入るはずもない。いつかいつかと思っているとやっと旦那からお呼びが掛かった。

 旦那の顔をまともに見られない次兵衛を前に、旦那は一家の主を旦那という由来を話し始めた。

「五天竺の一つの南天竺というところに赤栴檀 という見事な木があり、その根元に難莚草(なんえんそう)という雑草がはびこっているそうじゃ。難莚草をむしり取ってしまうと、赤栴檀も枯れるそうじゃて。 難莚草が生えては枯れるのが赤栴檀の肥やしになり、赤栴檀の下ろす露が、難莚草には肥やしになるんじゃそうな。 赤栴檀の「だん」と難莚草の「なん」と取って、『だんな』というようになったそうな」と、店の旦那と番頭、番頭と丁稚と互いに支え合う大事な関係だということを話した。

 ぺこぺことお辞儀ばかりしながら有り難そうに聞いている次兵衛に、旦那は次兵衛が店に来た十二才の頃の話しをし、やっと本題の昨日の一件に入った。この話の中で番頭には一年後に暖簾分けが決まっていることを話す。

 旦那は昨夜、帳面を全部調べたが一つの間違いもおかしな所もなかったと言い、「立派なもんじゃ。使うときはびっくりするほど使こうてこそ、またびっくりするよな商いもでけますのじゃ。やんなされ、やんなされ。わしも付き合うさかい誘うてや」と、次兵衛の目には涙が。

旦那 「けど昨日は、妙な挨拶をしたなぁ、”長らくご無沙汰をしとります”とか”陰ながら”とか、長いこと会わんようなことを言うたが、 あら酔うてたんじゃな?」

次兵衛 「お顔を見た途端に酒の酔いなんかきれいに消し飛びましたけど、あぁ申し上げるよりしょうがございませんでした」

旦那 「何でじゃいな?」

次兵衛 「こんなとこ見られたんで、こらもう”百年目”じゃと思いました」

「ここで会ったが百年目」とは、 悪事や企みが露見 して万事休す、もうおしまいと いう時に使う言葉。

演者によって少しずつ趣向が変わっているようです。

権太楼の『百年目』は、旦那に気づいた番頭が顔を扇子で隠して逃げる、旦那の方も顔を合わせまいとしてと逃げようとする。そのやりとりが面白い。

 翌朝、旦那は呼び出した番頭にいきなり「昨日は賑やかだったね、向島」と切り出し、番頭が「あれは商売上の……」と言い訳するのを「お付き合いで遊ぶときは相手より多くお金を使ってくださいよ」と軽くいなしてから「ゆうべ眠れたかい? 私は寝られなかった」と本題へ。

「帳面には穴がこれっぽっちも空いてない。あの出来の悪い子が、立派な商人になった」と思い出話に入り、そこで“栴檀と南縁草”の譬え話を持ち出して「旦那と番頭の関係から、丁稚へのしかり方」をこんこんと説く。

最初に向島の件を切り出して、“栴檀と南縁草”を最後に」という演じ方は志ん朝の演出と同じようです。

上方の噺を江戸の噺に仕立て上げたもの。

に大柄な身体を活かして、ダイナミックに演じた権太楼師匠。50分間、最後は少し着物の裾が乱れてしまうほどの熱演。

まったく飽きさせない話芸の粋でした。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」その11。桂文楽。林家三平。林家木久蔵。そして柳家さん喬。春風亭一朝。

2021-08-12 20:15:45 | 落語の世界

落語の世界も代替わりがあって、しばらく見ないうちに、当方がなじみの名跡もどんどん変わってしまいました。

        

桂文楽師匠。名人・先代の文楽師匠の落語は聴聞したことはありますが、当代(9代目)の師匠はかつて「ペヤング」のCMでなじみ深い、くらいの印象(申し訳ありませんが)。けっこう貫禄がついてきて、ビックリ。

先代と比較されてあれこれ批判もされたでしょうが、先代・「黒門町」をもう知る人も少なくなってきているので、安心して(堂々と)いきましょう。

《8代目桂文楽師匠の晩年》

高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していた

1971年(昭和46年)8月31日国立劇場小劇場における第5次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった

高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず、絶句した8代目文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。

舞台袖で8代目文楽は「僕は三代目になっちゃったよ」と言った。明治の名人・3代目柳家小さんはその末期に重度の認知症になり、全盛期とはかけ離れた状態を見せていた

以降のすべてのスケジュールはキャンセルされた。8代目文楽自身からの引退宣言はなかったものの、二度と高座に上がることはなく、稽古すらしなくなった。ほどなく肝硬変で入院し同年12月12日逝去した。79歳没。

(この項「Wikipedia」より)

さらに、林家三平さん、林家木久蔵さんなど、本当に若くなって・・・、そのうち先代をしのぐ名落語家になっていく(ほしい)と。

        

昭和の爆笑王の息子としてのプレッシャーも大きいようですが。

9歳のときに、父の三平が死去したため、初代三平の弟子だった林屋こん平が惣領弟子となって初代三平一門を統率、こん平に直弟子として入門した。

       林家木久扇師匠の息子さん。

柳家喬太郎さんの師匠、柳家さん喬師匠も登場です。

             

実家は都営地下鉄・本所吾妻橋駅を上がってすぐにあった洋食店「キッチンイナバ」(ハンバーグなどを食べに行ったことがありましたが、現在は、「東日本銀行」の大きな建物のため、廃店しました。)。

幼少のときから祖父や父に寄席や演芸場に連れていってもらうなど、落語に親しむ環境にあった。得意とする演目は『うどん屋』『井戸の茶碗』『笠碁』『猫の災難』『野ざらし』『片棒』『そば清』『百川』『棒鱈』『幾代餅』『天狗裁き』『柳田格之進』『芝浜』『締め込み』『初天神』『真田小僧』など。

つやのある声と柔らかな物腰で女性ファンも多く、江戸の四季を色あざやかに浮かび上がらせる情景描写や男女の心理描写に定評がある。(以上、「Wikipedia」より)

そして、春風亭一朝師匠。

        

五代目春風亭柳朝の総領弟子。師匠柳朝と同じく江戸前噺家である。またNHK大河ドラマ龍馬伝』の江戸ことば指導も行なった。

柳朝の師匠八代目林家正蔵にとって最初の孫弟子である。実際に、最初に入門を願い出た先は彦六の門であり、面倒が見切れないということから、総領弟子柳朝に頼み、柳朝も快く引き受けたというエピソードがある。

総領弟子朝之助が六代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進する。2012年3月 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進する。

(この項「Wikipedia」より)

弟子の一之輔が人気者なので、師匠が霞んでしまうようですが、上記のように江戸前噺家らしい雰囲気を持ち、話しぶり、所作など通好みの落語家です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」その10。林家木久扇「彦六外伝」。+林家正蔵・彦六。

2021-08-11 18:36:55 | 落語の世界

               「笑点」でお馴染み、林家木久扇師匠の「彦六外伝」。

師匠を語らせたら天下一品。

師匠は、八代目林家正蔵。後に林家彦六

                     

生年月日明治28年 5月16日 品川生まれの浅草育ち。

明治45年18歳で三遊亭三福(3代目三遊亭円遊)に入門、福よし。大正3年扇遊亭金八に改名するが、5年師と4代目橘家円蔵の門下に移り、6年橘家二三蔵で二ツ目。8年3代目三遊亭円楽を襲名し、9年真打ちに昇進。11年師・円蔵の死に伴い3代目柳家小さんの預かり弟子となった。12年大阪に赴き、2代目桂三木助から上方の噺を習い、「煙草の火」などを江戸の噺に作り直した。のち4代目蝶花楼馬楽の内輪弟子となり、昭和3年馬楽が4代目小さんを襲名するとともに5代目馬楽を譲られ、東宝名人会などで活動した。

戦後、7代目林家正蔵の遺族から一代限りの名乗りを許され、25年8代目林家正蔵を襲名。43年に人情ものの「淀五郎」で芸術祭賞、51年には怪談「牡丹灯籠」で芸術祭大賞を受賞。滋味あふれる語り口で、駆け出しの頃に初代三遊亭円朝の直弟子・三遊亭一朝に稽古をつけてもらったことから、円朝の衣鉢を継ぐ三遊派の人情噺や道具を使った怪談噺・芝居噺を得意とする一方、新作落語も手がけた。

正蔵の名は、7代目正蔵の長男である林家三平が生きているうちに譲り渡すつもりでいたが、三平が若くして死去したため、56年海老名家に正蔵の名を返還し、以後は彦六を名乗った。

反骨心があり曲がったことが大嫌いな性格から“トンガリ”とあだ名され、弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。破門宣告の回数は殆どの弟子が2桁を数えていて、木久扇は37回、好楽は23回破門宣告をされている。

弟子に5代目春風亭柳朝、2代目林家正楽、林家木久扇(初代林家木久蔵)、三遊亭好楽らがいる。

独特な人柄、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。

林家木久扇は、二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「彦六伝」を十八番としている。

日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ」とのことであった。

30年以上に亘って朝日新聞を愛読したが、紙上で落語評論家が当代の名人について、5代目古今亭志ん生・8代目桂文楽・6代目春風亭柳橋・10代目金原亭馬生の名を挙げ「ここまでくると次の指が折れない」と書いたことに激怒し、執筆者に宛てて「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と書いた葉書きを速達で送りつけ、朝日新聞の購読を停止し、「しんぶん赤旗」を取るようになった。

無駄使いを嫌い、新聞の折込みチラシの中で片面印刷のチラシを見つけたら切ってネタ帳の代用していたという逸話があるほど。

(余談:昔、私の知っている方もこういう方がいました。原稿を広告の裏面に書いて、それを人前で読むので、広告面がみんなの目の前に。話しの内容よりもそれを見て、クスクス笑い声が。)

仕事で頻繁に寄席へ通うため「通勤用定期券」で地下鉄を利用していたが、「これは通勤用に割り引いて貰っているんだから、私用に使うべきでない」として、私用で乗る際には別に通常乗車券を購入し、改札口では駅員に突きつけるように見せていた。談志もこの律儀さには呆れつつも感心し、国会議員当時に「世の中にはこんな人もいる」と国会で彦六の逸話を紹介している。

せっかちな性格で、飛行機を使って東京に帰った時、たまたま羽田空港着陸の際、混雑のため、しばらく上空を旋回したことに「てめえの家の玄関先まできてて入れねえって法があるもんけい」と腹を立て、爾来、飛行機を使わず鉄道で地方巡業に行くようになった。それでも、出発の1時間前にホームに向かうので周囲から早すぎると止められても、「遅れることがあるんだから、間違って早く出るかもしれねえ」と言って意に介さなかった。

稲荷町の住居は昔ながらの四軒長屋の隅の家で、近所に銭湯があり、まさに落語の世界そのままだったという。玄関には「林家」の暖簾がかかっており、春夏・秋冬で2色あった。現在、長屋は取り壊されコインパーキングになっている。

(この項、「Wikipedia」などを参照)

そんな師匠のようすを口調をすっかり真似しながら、さまざまなエピソードを紹介します。稽古を付けて貰う場面、さらに区長の選挙運動や立川談志の選挙応援とか・・・、選挙演説で小話を披露する談志など。

談志の身振り手振りで。

             稽古の様子。

               「隣に囲いができたってねえ」「へえ」。

        

彦六さんの落語を聞いたことがない人でも、この方の語り口ですっかり耳に残ってしまいます。

      「コロナに負けないで・・・」。

            

(「youtube」より)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「落語鑑賞教室」。その9。四代目三遊亭圓歌「やかん」。+三代目三遊亭圓歌「授業中」。

2021-08-10 18:40:07 | 落語の世界

こちらが聞き知っている「やかん」。「Wikipedia」風のものですが。(以下「Wikipedia」より)

岩田の隠居がおを飲んでいると、そこへ八五郎がやってくる。

        

「おぉ、現れたなグシャ」
「へぇ」
「マァ、上がれグシャ。お茶でもどうだグシャ」
「な、何ですか、その『グシャ・グシャ』っていうのは。ぬかるみを歩いているんじゃ無いんですから」
「あぁ、グシャとは愚か者の事だ、愚者」
「愚か者…そうですか。おれぁそんな事とは気づかず返事しちゃった」

カチンとなった八五郎。如何してやろうかと考え込み、あるアイディアが…。

「隠居は、何でも知っているんですねぇ」
「その通りだ。森羅万象・神社仏閣、この世に知らぬものは無い」
「そうですか。じゃあ聞きますがね…」

のっぴきらない状況に追い込み、八五郎の逆襲が始まった。

まずは、お魚の由来で小手調べ。

「じゃあ、魚の名前なんかどうです? まずはマグロ
「真っ黒だからマクロだ」

コチは?」
「こっちへ泳いでくるからコチだ」
「向こうへ行く事もあるでしょ?」
「お前が向こうに回ればコチになる」

「じゃあ、平目は?」
「平たいところに目が付いてるからヒラメだ」
「詰まんない事聞いちゃったな。じゃあは? カレーライスなんて言ったら怒りますよ?」
「うーん、あれはヒラメの家来で、家令をしている」

は?」
「昔はヌルヌルしていたのでヌルといった。あるときがヌルをのみ込んで、大きいので全部のめず四苦八苦」
「へぇ」
「鵜が難儀したから、鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギだ」

「ウーン…。じゃあ、は?」
「イワシは『下魚』といわれるが、あれで魚仲間ではなかなか勢力がある。だから鰯が魚たちの名付け親になったんだ」
「ですから、その鰯自身は誰が名づけたんですか?」
「うー。ほかの魚が名をもらった礼に来て、「ところであなたの名は?」と尋ねられて「わしのことは、どうでも言わっし」と答えた。これでイワシだ」

「では、次は日用品ではどうでしょうか? まず土瓶
「土でこさえた瓶だから土瓶。鉄で作れば鉄瓶だ」
茶碗は?」
「置くとちゃわんと動かないから茶碗だ」

「手ごわいな。じゃあ薬缶は?」
「や()で出来て…いないか」 隠居はダンマリ。八五郎はニマニマ…。

「答えてやろう。昔は…」
「ノロと言いました?」
「いや、これは『水わかし』といった」
「それをいうなら『湯わかし』でしょ」
「水を沸かして、初めて湯になるのではないのか?」
「はあ、それで、なぜ水わかしがやかんになったんで?」
「これには物語がある」

川中島の合戦で、片方が夜討ちをかけた。
かけられた方は不意をつかれて大混乱。

ある若武者が自分のをかぶろうと、枕元を見たが何故かない。
あるのは水わかしだけ。そこで湯を捨て、兜の代わりにかぶった。

この若武者が強く、敵の直中に突っ込む。
敵が一斉に矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。

「矢があたって…」
「矢が当たってカーン…だから薬缶か」
「その通りだ」
「でも、蓋が邪魔になりませんか?」
「ボッチをくわえて面の代わりだ」
「つるは?」
「顎へかけて緒の代わり」
「じゃあ薬缶の口…」
「昔の合戦には『名乗り』があった。聞こえないと困るから、穴があったほうが好都合だ」
「あれ、かぶったら下を向きます。上を向かなきゃ聞こえない」
「その日は大雨。上を向いたら、が入ってきて中耳炎になる」
「耳なら両方ありそうなもんだ」
「ない方は、をつけて寝る方だ」

という具合で、「やかん」の話は実に面白いところでした。

しかし、当代の圓歌師匠。そんなパターンに添った(古典)落語ではありません。

 

             

イカとタコの違いは? ハブは冬眠しないのか? カメは万年、ツルは千年とは? 水洗トイレの起源は? ・・・

フランス語から韓国語までダジャレづくし。 

「やかん」にいたっては、夜間工事現場で、必ずカアンと音がするものにあたる。夜間工事のたびにだ、そこで「やかん」といった。というぐあいに、ダジャレもダジャレ、素人でも思いつきそうなダジャレが次々と。子どもが「してやったり」というような仕草、くりくり目玉が愛嬌があって、笑いを誘います。

先代の圓歌(歌奴)師匠は、『授業中』のくだり、「山のあな、あな、あな、あなたもう寝ましょうよ」のフレーズが今でも印象に残っています。但し、師匠自身が「吃音」を直すために落語家になった、とのこと(立川談志によれば、吃音ではなかった、と)です。

自らの生い立ち、新大久保駅員の頃の話し、同居していた爺さん、婆さんの話し(真偽はまったく不明)などを語った「中沢家の人々」も秀逸。

その後を継いだ現圓歌さん。独特の味わいで楽しめました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その3。+西武鉄道特急ラビュー(~池袋)。(「荒川を遡る」番外編。)

2021-08-09 20:30:12 | 荒川を遡る

武甲山が左手に見えてきます。石灰岩の採掘で階段状の山容。孫に、石灰岩からセメントとして、さらに、コンクリートとして大きな建物に使われるんだよ、と説明しましたが、フンフンと頷くだけ。

あらためて「武甲山」。 

山名:日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説が元禄時代の頃から定着した。

南方(ハワイの方)にあった火山島が活動を終え、浸食によって削られサンゴ礁を纏うようになる。サンゴによってできた石灰石を載せた海山は、プレートの動きにより北上し、深い海溝に引きずり込まれる。そして大陸プレートに押しつけられはがれ落ち、やがて隆起し浸食されることで地表に現れた山が武甲山。

武甲山の石灰岩は日本屈指の良質な大鉱床であり、可採鉱量は約4億トンと推定されている。山の北側斜面が石灰岩質であるために古くから漆喰などの原料として採掘されていた。明治期よりセメントの原料として採掘が始まり、特に1940年(昭和15年)に秩父石灰工業が操業を開始して以降、山姿が変貌するほど大規模な採掘が進められ、とくに北斜面で山体の崩壊が著しい。

1900年(明治33年)年)には標高1,295メートルとされた。元の山頂付近は1980年9月頃に採掘のために爆破されている2002年(平成14年)に改めて三角点周辺を調査したところ、三角点より西へ約25m離れた地点で標高1,304mが得られ、国土地理院はこれを武甲山の最高地点と改めた。そして、地図上では1,295mの三角点と最高地点1,304mの両方を表示することとした。

(この項、「Wikipedia」参照)

注1:ヒマラヤ山脈のエベレストの頂上や、アルプス山脈のアイガー等は石灰岩でできている。日本では武甲山の他、伊吹山や藤原岳など全山、石灰岩。日本には採掘しやすい場所に高品位の石灰岩が大量に存在し、数少ない国内で自給可能な鉱物資源。伊吹山も東海道新幹線から眺めると、石灰岩採掘のため、大きく山容が変化していることがわかる。

注2:石灰岩の主成分である炭酸カルシウムは雨水に溶解するため、溶食によって鍾乳洞を造り、特徴的なカルスト地形を形成する。日本では秋吉台や吉備高原、また四国西部や北九州地域にカルスト地形が存在する。また、風化に強いが溶食され易いことから、中国の桂林のような特異な地形を形成する場合がある。また、南西諸島の沖永良部島、喜界島、伊良部島のような隆起性珊瑚礁と呼ばれる島々では、現在も島周辺で大量の造礁サンゴが石灰岩を生成し、島自体は成長を続けている。これらの島は大部分が石灰岩でできている。

秩父駅に到着。

武甲山が間近に。 

                                                                                                                                                                               

                      

いよいよ終点の三峰口駅へ。上り坂のせいか、あえぎあえぎ上る感じが蒸気機関車らしい。

         

右手に荒川。深い谷になっていて、流れを見ることはできません。

       

ようやく三峰口駅へ到着。

右手に「転車台」があります。

 一般的には、蒸気機関車の方向転換に用いるものとして知られています。蒸気機関車の全盛期には各地の機関区や拠点駅・起終点駅に必ず設けられていましたが、蒸気機関車が廃止され、方向転換の必要がない電気機関車ディーゼル機関車などが増加するにつれ不要となり撤去され、あまり見られなくなってきました。ここは、その貴重な現役の転車台。

客車から切り離される蒸気機関車。ホーム下から見上げると、けっこう大きく複雑な構造をしています。

遠ざかる蒸気機関車。

さて帰り。

駅周辺でのんびりしてもいられず、慌ただしく羽生行きの普通電車に。

ラッピングカー仕立て。

帰りの電車は快調に「御花畑」駅まで。ここで「西武秩父駅」に向かいます。

秩父鉄道食べ物路線図。

西武秩父駅は垢抜けした雰囲気の駅舎と付属設備。そして、乗った特急は、2019年(平成31年)3月に運行を開始した、愛称は「Laview(ラビュー)。愛称の「Laview」は以下の頭文字に由来。

  • L - 贅沢(Luxury)なリビング(Living)のような空間
  • a - 矢(arrow)のような速達性
  • view - 大きな窓から移りゆく眺望(view)

流線型の車体、足元まで広がる大きな車窓、明るいモノトーンの車内・座席・・・、孫達もびっくり、喜んでいました。

蒸気機関車、ラッピングカー、最新鋭の特急電車、と変化に富んだ乗り物の旅に孫たちも満足したようです。

実は、「荒川を遡る」歩きでは、秩父鉄道の最寄り駅の行き帰りに2度往復で。今回で、3度目の乗車。

           

次回の「荒川を遡る」歩きでも往復、乗る予定なので、その時にまとめて紹介します。

そうして、風呂に入り、夕飯を食べて満足顔の孫達が帰ったあと、土産で買った秩父の地酒を飲みます。

           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その2。(「荒川を遡る」番外編。)

2021-08-08 15:43:27 | 荒川を遡る

この付近では、「荒川」沿いを国道140号線と並行して走ります。

長瀞駅に向かって進む。

時折、眼下に荒川の流れ。

対岸に「日本イスエード(株)」。

        

長瀞駅ではたくさん下車。その先の「荒川橋梁」で荒川の清流を眼下に。歩きでは河原から見上げました。秩父鉄道はここから荒川右岸沿いの河岸台地を終点の三峰口駅まで進んで行きます。

鉄橋からの荒川の流れ。

下の写真は、歩いたときの写真。ちょうど石灰岩を載せた貨物列車が通過中でした。

車内のポスターより。

橋梁の下から眺め、今回は上から眺め、と貴重な体験をしました。

瞬間的でしたが、孫達は長瀞の渓谷を見下ろしてビックリしていました。

荒川右岸の河岸台地。

            

「大野原」駅の手前、右手に大きな工場が。

大きなセメント工場。

秩父太平洋セメント 本社・工場。

石灰石の大鉱床として知られる武甲山のふもとの地に、秩父セメントが創業したのは1923年で元々の工場は秩父市の市街地に近いところにあったが、朝鮮戦争による特需を受け、生産力を増強するため、別の敷地に新しい工場を建てる計画が持ち上がる。

秩父セメント第2工場、現在の秩父太平洋セメント秩父工場の基本設計を会社が依頼したのは、当時、東工大教授だった谷口吉郎で、谷口はそれまでにも東京工業大学水力実験室(1932年)や慶應義塾の校舎(1949年)などの作品を手がけていたが、大学の卒業設計では「製鉄工場」を題材にしていた。それだけに本格的な工場設計の機会を得て、大いに意気込むが生産性の高さのほか安全と衛生の面からも優れ、しかも美しさを兼ね備えた、理想の工場を実現しようとしたという。実施設計には日建設計工務(現日建設計)が当たり、1956年に竣工した。

秩父セメントは1990年代に進んだセメント業界の再編により小野田セメント、日本セメントと次々と合併を果たし、太平洋セメントとなってさらに2000年に太平洋セメントの子会社として秩父太平洋セメントが設立され、この時ほぼ同時期に秩父セメントの第1工場が操業を停止。その結果、秩父セメント第2工場は現在、秩父太平洋セメント秩父工場と名前を変えている。

この工場施設は美しく分割された壁面、中央を貫く幅の広い通路、その両側に、圧倒的なボリュームで建築群が建ち並んでおり、第1期工事の建物に限ってみても、建築面積で1万坪(約3万3000m2) を超えて、巨大な建築だが絶妙なボリューム配分と、リズミカルに連続するボールト屋根の効果で、単調さを全く感じなくさせている。このほか特筆されるのが立面の美しさで、谷口作品に共通する縦に長い四角形のパターンで構成される端正なプロポーションによる壁面分割は、スチールサッシ、スレート、レンガ、コンクリート打ち放しなど、様々な素材を用いながら、外壁を覆い尽くしている。これだけ大規模な建築でありながら、このデザインの密度が隅から隅まで保たれているという。

(この項、「Wikipedia」参照)

圧倒的な存在感があります。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする