おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。国道356号。銚子大橋。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-17 21:01:22 | 銚子往還

賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。

        

「鈴木海苔株式会社」。

しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。

左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。

以下は、利根川歩きのときの記録。・・・

銚子大橋。

            橋の長さと利根川の川幅の広さにビックリ。

対岸(波崎)。

      

              「銚子大橋と利根川」。

日本最大の流域面積をもつ利根川は、別名を「坂東太郎」といい、群馬県北部の大水上山に源を発し、関東平野を貫流して銚子市から太平洋に注いでいます。その延長は322㎞で、日本で2番目の長さです。その利根川河口に昭和37(1962)年に対岸の茨城県波崎町(現神栖市・かみすし)とを結ぶ銚子大橋が架けられました。延長1450mは川面に架けられた橋では日本一の長さです。現在は、斜張橋(ハープ橋)に架け替えられ、観光スポットとなっています。

※「神栖市」=東は太平洋鹿島灘)に面し、南は利根川常陸利根川)が流れる。かつては広大な面積の池「神之池(ごうのいけ)」があったが、現在は鹿島開発のため一部を残して大部分が埋め立てられている。

     対岸を望む。

上流方向を望む。

    ハープ橋。

・・・

ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。

総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。

右に行くと「銚子駅」。

この先は、前回、行きました。

しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。

この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。

銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。

              利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。

「下総豊里」駅。

この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。

成田線にも利根川歩きを含め、何回もお世話になりました。

車窓より。

利根川から離れて成田へ向かいます。

これで、3ルートにわたった銚子までの街道歩きが、完結です。

房総往還(「内房線」沿線)、房総東往還(「外房線」沿線)、そして銚子往還(「総武本線」沿線)、「佐原銚子街道(「成田線」沿線)。さらに、「佐倉・成田・佐原街道」「東金御成街道」「鮮魚街道」「木下街道」を含めて、けっこうたくさん街道を歩きました。

それぞれの街道は、まだまだ海、川、山など自然がたくさん残され、農業、漁業などの地元の産業も豊かな土地柄を味わうことができました。

残るは「大多喜街道」「久留里道」?

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。松岸駅。飯沼観世音江一里。銚子市のマンホール。利根川・銚子港。桝形。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-16 18:07:39 | 銚子往還

「松岸町北」。

ここを右に曲がって進むと、「松岸駅」に。

JR「松岸駅」。

「松岸駅」は「総武本線」(千葉~銚子)と「成田線」(成田~松岸)が合流する駅。

「金井栄蔵商店」。

           街道筋らしいお店。

実は、この道は利根川歩きのとき、土手が工事中のため、途中から通った道です。

利根川の土手に行ってみましたが、相変わらず工事中(何年越しでしょうか)でした。

この先、街道から少し右に入ったところに、

石碑「飯沼観世音一里」。残り4キロ。

残りわずかに。

庚申塔などが一か所に集められています。

銚子市のマンホール。

図柄は「犬吠埼灯台」と「カモメ」と市の魚「イワシ」。

利根川沿い・銚子港の一角。

           

街道に戻ると、「木内旅館」。

この先、桝形になっています。

                  

この付近の今昔。

                               (現在)

〇が桝形の部分。赤い線が国道356号線(利根水郷ライン)。

                               (1880年代)

街道は利根川・銚子港沿いに進んでいる。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その4。飯沼観世音江二里。余山貝塚。四日市場町。大網からの「銚子往還」との追分。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-15 20:59:04 | 銚子往還

しばらく進んだ右手に、石碑「飯沼観世音二里」。あと8キロ。

その先、右手に入る道が旧道です。

                       

田畑が広がります。

            遠くには風力発電所。

国道356号線に復帰。 

田んぼが広がる。  

 

右に入る道も旧道のようですが、省略し、国道をそのまま進みます。

「高田川」。利根川方向。

           上流方向。

バス停「余山(よやま)」。   

「余山貝塚」は、利根川に注ぐ高田川東岸の標高約7メートルの浜提上の集落によって形成された長軸約140メートル、短軸約70メートルの広がりを持つ貝塚です。

貝塚は縄文時代後期から晩期を中心にして形成されていますが、弥生、古墳、奈良・平安時代に至る遺構や遺物も出土しており、原始から古代の長期間にわたって継続した遺跡です。

余山貝塚は明治時代中ころから多量の人骨や遺物が出土することで考古学界に知られるようになり、考古学史上著名な貝塚のひとつです。貝塚は、チョウセンハマグリが主体として構成され、そのほかの貝も鹹水(かんすい)産であることから貝塚形成時は太平洋に面していたと考えられています。

出土した遺物は土器のほかに土製耳飾り、大量の貝輪、各種の石器及び骨角器類などがあります。

また、貝塚から出土した土偶一点が重要文化財に指定され、現在は兵庫県西宮市の辰馬考古資料館に所蔵されています。

                

貝塚には吉野長太郎が昭和8年(1933年)に建立した「コロポッグル喰ひ遺したり四千年」の石碑があります。

(この項、「」HPより)

キャベツ畑。     

Jteウインド奈村第一」。

              鮮魚店のようです。

「国道356号」・「高橋食堂」から左に入っていきます。

         

利根川の土手に近づきます。

 

           

「四日市場町青年館 入口」。 

総武本線「旭駅」から歩いてきた「銚子街道」との合流点(追分)にいよいよ近づいてきました。

「銚子往還」が右からきます。

内房線「大網駅」から6日間かけ、ここにたどり着いたのは、2ヶ月前。

「銚子往還」。東房総台地を越えてここまで来たわけです。

この付近の今昔。  

        (現在)〇が追分。         (1880年代)集落内。

飯岡灯台から歩いてきた、もう一つの銚子往還との出会いが、この先の銚子駅付近であります。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その3。ジグザクな道筋。「滑川家住宅母屋・長屋門」。椎柴駅。野尻町交差点。利根水郷ライン。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-13 19:32:08 | 銚子往還

銚子市立椎柴小学校。

見事な槙の生垣。

右左折します。

             

  

桝形のような形状の道筋ですが、

かつては利根川沿いの道だったので、それと関連があるか、と。

庭一面に「かきつばた」。

バス停「野尻」。

※「野尻」は、野尻河岸に多くの河岸問屋が存在し、舟運で栄えた集落でした。

左手に大きな長屋門が見えてきます。

「滑川家住宅母屋・長屋門」。

滑川家住宅主屋

滑川家は所蔵している「家系譜」によると、応仁の乱(1467~1477)の時滑川内匠助がこの地に住み始めたと伝えられています。江戸時代に入り代々「藤兵衛」を名乗り、名主として海運業に従事していました。
主屋は木造瓦葺き2階建てで、主体部、座敷部、玄関(旧帳場)部から成り立っており、1873年(明治6)に建築されたことが確認できます。滑川家は江戸時代末期には日本橋牡蠣殻町に出店を構えており、座敷部は加賀藩前田家の下屋敷(現東京都板橋区加賀)建物を買い受け、移築したといわれています。座敷部の室内意匠と仕様は、上級武家住宅風の造りとなっています。

滑川家住宅長屋門

長屋門は、梁間3間、桁行8間半の木造平屋建て、屋根は寄棟造、桟瓦瓦葺きで背面西寄りの部分に幅1間の下家が付いています。建築年代は、天保年間(1830-1844)の飢饉の時に「救い普請」として建てられたといわれています。

多くの河岸問屋が存在していた野尻河岸において、舟運で栄えた集落の往時の様子を示す貴重な建物であると同時に、旧銚子街道に面しており、街路景観の重要な構成要因になっています。

 

来た道(「佐原銚子街道」)を振り返る。

バス停「椎柴駅」。

「椎柴駅」は、利根川歩きの初日、その帰途に利用した駅です。

 「椎柴駅」。

「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。

「野尻町交差点」。

               利根川沿いに進んできた国道を振り返る。

この付近の今昔。

                           (現在)西北からの黄色い線が旧街道。

利根川河川敷が広がる。

                           (1880年代)

野尻河岸があり、集落が形成されている。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その2。里山風景。牛舎。水準点・海抜6.8m。「利根かもめ大橋」。ジグザクな道筋。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-12 21:01:11 | 銚子往還

周囲に広がる田園地帯を、

                        「成田線」上り電車が通過中。

                 

左手に牛舎があります。

                   真っ黒な体に目が光る。久々に見ました。

                  

バス停「塚本町」。

家並みが続くようになります。

                  落ち着いた街並み。

石碑。忠魂碑? 詳細不明。地元の方はおわかりでしょうが。

遠くの踏切を下り電車が通過中(↓)。

久々に木漏れ陽の中を歩きます。

水準点。海抜6.8m。この付近、緩やかな上り下りがある道筋。

風力発電所の風車が見えます。

「利根かもめ大橋有料道路」。

利根かもめ大橋は、利根川に架かる利根川河口から数え2番目の橋です。
慢性的な渋滞が激しい銚子大橋の混雑解消と、千葉県東総地域と茨城県鹿行地域を結ぶ幹線道路として両県の地域発展に寄与するものです。

              

(この項、「」HPより)

「利根川」歩きの時の記録。

             

   

・・・

この先、道はジグザグに進みます。

この付近の今昔。

                           (現在)ジグザクな道筋。利根川の流域整備がされている。

                           (1880年代)「至 東京道」とある。

千葉町(市)に向かう、これまでの銚子往還ではなく、利根川沿いに木下・我孫子方向に進み、水戸街道に合流していた道のようです。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その1。石碑「飯沼観世音江三里」・水準点。「第三佐原銚子街道踏切」。イチゴ栽培。忍町。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-11 18:17:31 | 銚子往還

6月8日(土)。晴れ。「佐原銚子街道」の最終回(むりやり)。

「下総豊里駅」。跨線橋からの眺め。

                         「利根川」を望む。さすが大河。

佐原方面を望む。

街道に復帰します。  

田園風景が広がる。

千葉交通バス停「森戸西」。一日朝夕2本ずつ。

                    

15分くらい歩いた右手に、石碑「飯沼観世音三里」。

                            「水準点」=海抜10.0M。

個人のお宅の一角にあります。

ゴールまで約12㌔。

道なりに左にカーブ。

成田線の踏切を渡ります。

                      「第三佐原銚子街道踏切」。

※「第一」、「第二」に続いて「第三」となります。

「(第一)佐原銚子街道踏切」

           (「小見川」~「笹川」)。

「第二佐原銚子街道踏切」。

        (「小見川」~「笹川」)

・・・

下総豊里駅方向。椎柴駅方向。

利根川に注ぐ小川。けっこう深い谷になっています。

右手が開けてきます。

               

振り返る。バス停「忍町」。

忍町の集落に入っていきます。

露地でイチゴの栽培。

                日本人に交じって、若い外国人労働者が手作業していました。

眺めていると、長く伸びた芽(枝?)を手で取って、小さな鉢に移し替えていました。イチゴはそうしてどんどん増やしていくそうです。

温室内のイチゴ。

この辺はイチゴ栽培が盛んなようです。

         

そういえば、我が家のイチゴも地植えですが、毎年のように収穫できます(甘くはないですが)

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その6。標高10M。忠魂碑。千葉若潮牛。下総豊里駅。新国立劇場 舞台美術センター。水田・麦畑・筑波山。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-06-03 18:18:02 | 銚子往還

のどかな田園地帯。

「この場所は標高10M」。

集落に入ってきます。

左手線路際に大きな石碑。

「銚子市立豊里小学校」。

道路脇に「紀念碑(忠魂碑)」(大正7年建立)。

「千葉若潮牛」。

「豊かな自然と温暖な気候のもとで、心を込めて育てあげました。」

左に折れると、「下総豊里駅」。

右手にある建物。

                         「銚子速算塾」。以前は、商家だった?

「下総豊里駅」。

ホームから改札口を見ると、

            「新国立劇場 舞台美術センター」の案内図。ここで製作しているのですね。

車窓から広がる水田や麦畑を眺めながら、帰途に。

         

        

そして、筑波山(↓)。                 

次回は、ゴールしたいと思いますが、なかなか日程がとれず(雨模様の天気が続き)、いつになることやら。

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その5。「飯沼観音江四里」。銚子市入り。明治中期の街道。「みゆき坂」。諸持(もろもち)。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-06-02 19:37:02 | 銚子往還

右手、街道脇に「飯村観音四里」

                    があるのですが、確認せずに通り過ぎてしまいます。 

(「Wikipedia」より)

               右手前に「道標」があったはず!

実は、「歴史的農業環境閲覧システム」では、この道標付近から、旧道は東に向かい、利根川沿いに進むようになっています。

                           (現在)旧道は線路を越え、「国道356号」よりも利根川寄りを進んでいたようだ。

現在、道筋は部分的に不明瞭もしくは消失している。

                           (1880年代)顕著な道筋になっている。

※1880年代の街道は集落をつないでいる様子です。今回のコースは「下総豊里」付近に顕著な集落があるのみ。

今回歩いている道は、そのまま南下する道筋。1880年代の道筋とは、「下総豊里駅」付近で合流します。 

※「今昔マップ」では、明治後半・大正には、今回歩いた道になっています。

「利根川」流路の整備工事に伴って、新しい道路整備があったようです。水田が広がっています。       

線路沿いの道。右手に畑と丘が広がります。

                

          

遠くまで続く農道。

「みゆき坂」。丘の上にある「六所大神」への道。

右手から丘陵が近づいてくる。

大きなお屋敷。

「諸持(もろもち)郵便局」。

           

このお店にも玉ねぎの大きな袋が山積み。

たくさんの買物客。

まもなく「下総豊里駅」に。

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その4。スイカ・タマネギ。「下総橘駅」。火の見やぐら。東今泉街道踏切。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-06-01 20:40:15 | 銚子往還

先に進みます。振り返る。

店先にスイカ。今年初めて見ました。

            それよりも、玉ねぎがたくさん、大きな袋に入ったまま、並べられているには驚きました。

右手には田畑が広がる。

左手に高橋農園・いちご園。

                          来た道を振り返る。

道標。「・・・観世音 壱丁」。詳細不明。※丁=町 約100m。

「↑銚子 →下総橘駅」。

右手の奥、丘の上には、

「東庄町国民健康保険東庄病院」・「保健福祉総合センター」

バス停「石出」。

「トゥーノーイシデショウ(旧東庄町立石出小学校)」。

やってみたい!が見つかって、やってみた!が得られる場所

千葉県香取郡東庄町では、2020年3月31日をもって、5つあった小学校が1校に統廃合され、4校(石出小学校、神代小学校、橘小学校、東城小学校)の校舎が使われなくなってしまいました。

そこで、東庄町出身者を中心に設立されたオンラア未来会議では、2020年7月から旧石出小学校を、知るための施設”トゥーノーイシデショウ”として生まれ変わらせました。

あらゆる人が「やってみたい!」を見つけ、「やってみた!」が得られる場と機会を創出することを目指しています。

※「オンラア」とは地域の言葉で「私たち」を指し、町内の地域住民はもちろん、町外の住民も含めて、それぞれが「私たち」として
地域の未来を話し合っていきたいという想いを込めて名付けました。

「下総橘駅」に寄ってみます。

上り電車が到着。

国道沿いに「火の見やぐら」。久々に見ました。まだ現役なのでしょうか?

次の駅「下総豊里」駅に向かいます。

房総らしい屋根のおうち。

この先で国道から離れ、右の道へ。

右に入っていきます。

  

       落ち着いた家並み。                          成田線「釜踏切」。

路傍に「庚申塔」・石仏等。

成田線の踏切を渡ります。

                         「東今泉街道踏切」。※「東今泉」は、この付近の地名。

「下総豊里駅」方向。

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その3。レストラン「だんだん」。水準点・海抜4.4m。新宿。利根川大橋・常陸川大橋。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-30 20:12:12 | 銚子往還

しばらく国道歩き。  

          「→東庄町役場・・・」

直売・苺狩り。営業中の「林いちご園」。

バス停「菰敷(こもしき)青年館」。横道に入ると、

水田が広がる。

              

遠くに「筑波山」(↓)。

「笹川」。

右手奥に、「レストランだんだん」。

             若い娘さんが幟を立てていたので、「さりげなく」声をかけて先に進みます。

バス停「一本松」。

大きな石碑。「日本名山霊地巡拝大乗修養碑」。

この隣の塀の中に、「水準点」。海抜4.4m。

直線の道が続く。

バス停「寺前」。

             左手奥に「忠魂碑」。右に「新宿青年館」。

お店が並ぶ交差点に。

         

            山裾には住宅地が広がっています。  

高速バス停「橘」。

「バスターミナル東京八重洲」行きのバスの停留所です。

「利根川大橋入口」交差点。

右手では県道の拡幅整備工事中。 

「←常陸川大橋 鹿嶋 ↑利根かもめ大橋 銚子」。

                     (現在)南西から接続する県道は未完成。

         

         利根川河口堰・利根川大橋 (完成年1971年)※利根川歩きのときの写真。

利根川河口堰は、河口から18.5キロメートル上流にあり、水郷筑波国定公園の水郷地域内に位置します。河口堰の直下流で、旭市と香取市を源とする「黒部川」が右から、霞ヶ浦から流れ出る「常陸利根川」が左から合流し、「利根川」はさらに大河の様相を呈します。

河口堰に合わせて「利根川大橋」が併設されています。

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その2。「天保水滸伝」。田中角栄石碑・利根の川風 袂に入れて・・・。笹川繁蔵・飯岡助五郎。飯沼観世音江五里。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-29 20:02:19 | 銚子往還

まだしつこく「天保水滸伝」の続き。

「利根川」歩きの時、「黒部川」と「利根川の」間の土手のすぐ左手の駐車場脇に田中角栄の石碑がありました。

元首相「越山・田中角栄」の筆による「天保水滸伝」の歌詞の一節。

利根の川風 袂に入れて 月に棹さす 高瀬舟

浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。下の版画は、"大利根河原の決闘"を描いたもの。

      

      歌川芳虎〈1828~87頃〉「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(「城西国際大学水田美術館」より)

※天保15年、博徒でありながら幕府の十手持ちでもあった助五郎が多数の子分たちをひきつれ、繁蔵一派に斬り込んだという史実に基づいている。

笹川繁蔵物語

 笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
 繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け笹川一家を張ることになる。
 一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
 天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
 この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
 飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
 初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
 弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
 笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。

(この項、「」HPより)

さて、もう一方の「飯岡助五郎」について、「」では、

飯岡助五郎

飯岡の漁業振興につくした遊侠の親分、飯岡助五郎。
市内には助五郎の墓をはじめ、天保水滸伝に登場する人物たちの遺跡が残っています。

古くから漁業で繁栄した旭市。飯岡助五郎は、江戸時代、海難事故により途絶えかけた漁師の人材の確保をはじめ、海岸侵食を防ぐための堤防工事など、旭市の漁業振興に力を注いだ人物でした。
また、網元として成功するかたわら、「十手持ち」として近隣の治安にあたるほか、江戸相撲を興行するなど、地域振興に活躍した人物でもあります。光台寺には助五郎の墓があります。

【天保水滸伝】
浪曲や講談でおなじみの「天保水滸伝」では、笹川(現在の東庄町)一帯を中心に勢力を拡大する笹川繁蔵一派との勢力争いが「大利根の決闘」として語られています。
この決闘で一度は笹川方に大敗した飯岡方ですが、のちに繁蔵を討ち果たします。その時討ち取られた繁蔵の首は飯岡助五郎によって、定慶寺の境内に丁重に葬られたといわれています。

というわけです。任侠二人が、それぞれ、地元でこうして今でも語り継がれているわけです。

※「東庄町」は、利根川沿い、「旭市(飯岡)」は、九十九里浜沿い。

では、田中角栄との関連は? 

天保水滸伝は浪曲として二代目玉川勝太郎の名調子によって語られ、多くの人々の共感を呼んだ。利根に一雨来そうなと言れわる豪快にして沈痛な読み口には大利根の哀愁があり詩情が漂う。この一節を永く讃えることとなり、揮毫は浪曲を愛し庶民の心を理解される 時の宰相田中角栄氏に懇請快諾を得た。ここに天保水滸伝の一節は越山田中角栄書として一段の光彩を放ち、永遠に大河のほとりに在ることとなった。

・・・ということで、

今回の街道歩きに戻ります。「桁沼川」(「黒部川」方向)。

         上流方向。

「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。

来た道(旧街道)を振り返る。

通りの向こうに石碑。

近づくと「飯沼観世音五里」。残り20㎞。

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成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その1。「笹川駅」。諏訪大神。「天保水滸伝」・笹川の花会・十一屋。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-28 20:52:25 | 銚子往還

5月17日(金)。快晴。今回「椎柴駅」まで行く予定でしたが、一つ手前の「下総豊里駅」で終了。

あと1日でゴールの銚子・飯村観音までたどり着けるか、微妙に。

成田線「笹川駅」。

                         素朴な駅舎。

アーケードをくぐって街道に復帰。

                   

「御大典記念築堤」碑。

「諏訪神社(大神)」境内。

坂上田村麻呂蝦夷征討の際、悪神退散を祈願して建てた一祠が当社の始まりとされ、大同2年(807年)に創建されたといわれており、須賀山明神とも称された。東国鎮護の神社として国司武将等の崇敬篤く、特に大江維時は社殿を造営し、源頼朝建久2年(1191年東重胤に命じて社殿を改築した。その後天正19年(1591年)に徳川家康朱印地10石を寄進し、享保3年(1718年)には神階正一位を授けられた。

当社の春の例祭には、神前の神楽殿で「笹川の神楽」が演ぜられる。天狗の面・小屋根の面・大玉の命の面・乙女の面・手力男の面などの十六座からなり、太々神楽あるいは岩戸神楽ともよばれ千葉県の無形民俗文化財に指定されている。また、秋季例祭には相撲まつりが行われる。山車が街中に繰り出し、笹川繁蔵が催して以来続けられている素人相撲大会などが開かれ、遠近からの参拝客でに賑わう。2017年の大相撲夏巡業期間中は出羽海部屋幕下以下の力士がここへ合宿に訪れていた

なお境内には、天保13年(1842年)に笹川繁蔵が建てた野見宿禰の碑[2]が残っており、境内の入り口には天保水滸伝遺品館[3]がある。

脚注

  • 笹川繁蔵が、相撲の元祖野見宿禰の碑を建てるとともに農民を救済することを名目として大花会を行った時に建てたもので、花会には、清水次郎長国定忠治大前田英五郎など天下の親分衆が駆けつけ大盛会であったと講談『天保水滸伝』は伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前で、国定忠治も手配書が出て逃亡中であり、真偽のほどは不明であるともされている。
  • 3 繁蔵の使った合羽や駒札、平手造酒の手槍と徳利、勢力富五郎の火縄短銃などといった、遺品・古文書を展示している。

(この項、「Wikipedia」より)

※「野見宿禰(のみのすくね)神社」が、両国・北斎通りにあります。

「北斎生誕の地」の掲示板と四つ角をはさんでほぼ南側にある神社。

かつて東側に高砂部屋があった。明治18(1885)年親方の高砂浦五郎が津軽藩上屋敷跡地であったこの地に相撲の神様・野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まり、という。石柱には力士や相撲関係者の名前が刻まれている。また、境内には歴代横綱の名を記した石碑がある。

野見宿禰(のみのすくね)
 能見宿天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速に勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後、垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる「埴輪の制」を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった、という。

「とうのしょう観光マップ」。

参道脇に、

                  「天保水滸伝遺品館」。開館していませんでした。

「天保水滸伝遺跡案内図」。

「天保水滸伝」は、天保から嘉永にかけて下総一帯で繰り広げられた飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の騒擾を題材とした実録体小説、および同じ題材を元に作られた講談浪曲等の演目。天保15年8月6日、下総国大利根河原で実際にあった「大利根河原の決闘」が物語のハイライトとなっており、飯岡助五郎や笹川繁蔵が実名で登場する。数ある演目の中でも特に文化史的に重要なのが講談で、初代宝井琴凌が自ら現地で採集した実話を元に拵えた。侠客を主人公にした侠客講談の皮切りであり、清水次郎長伝など、一連の侠客物が続々と作られるきっかけとなった

(この項「Wikipedia」より)

その物語のうち、

講談『天保水滸伝 笹川の花会』

【あらすじ】
 朝、笹川繁蔵から飯岡助五郎の元に、花会を笹川の十一屋で開くとの知らせが届く。花会とは親分衆ばかりが集まって開く賭場のことである。助五郎は風邪をひいて寝込んでいるので、洲崎(すのさき)の政吉に花会に行くよう言いつける。政吉は助五郎の跡目を継ぐ者であり一番信頼のできる子分である。政吉は笹川繁蔵に渡す「義理」(金)として、親分・助五郎から5両、その子分一同から3両を預かった。2人の子分を連れて5里離れた笹川まで赴き、花会が開かれる宿屋・十一屋へ着く。
 宿屋に入り、「義理」を繁蔵の子分に渡そうとするが、傍らにいた繁蔵はそれを自分の懐にしまい込んでしまう。横から金を頂戴してしまうようなしみったれた野郎だと政吉は鼻で笑う。花会の開かれる二階の広間に入ると政吉は驚いた。見渡すと、どこの誰だかは知らないが一目見ただけでこれは大物だと分かる貫禄のある親分衆がズラリと居並んでおり、すっかり威圧されてしまった。政吉はそれほどの貫禄は無いし、見知った親分も見つからない。どこへ座ればいいものかと思っていると、「こっちへ来い」と声がかかった。常陸国の親分、皆治であった。皆治は助五郎の親分である銚子の五郎蔵と兄弟分の仲である。皆治は参席している親分たちに政吉のことを紹介する。ひとり、皆治の向かい側に胸毛の見える眉毛の太い、いかつい顔をした男が腕を組んで政吉をじっと睨んでいる。この男は政吉の親分の助五郎のことを「スケ」と呼ぶ。頭にきた政吉。その男は広間に居並ぶ、遠方からも駆け付けた大親分の歴々の名を言い立てる。さらに飯岡と笹川がすぐ近くなのにも関わらず、這ってでもなぜ来なかったと助五郎をなじる。この男こそ上州の大親分、国定忠治であった。
 鴨居にはどこどこの親分からいくらいくらの「義理」を貰ったとのビラが貼って並べてある。そこには親分だったら50両から60両、身内一同だったら25両というような額が並ぶ。ところが助五郎が渡した「義理」は5両でその身内一同からは3両。これでは助五郎は大恥をかく。ところが繁蔵の子分が張った、助五郎の義理のビラには「助五郎50両、身内一同30両」と書いてある。政吉は自分が渡した義理を、繁蔵が懐へしまい込んだ理由が分かった。助五郎が万座の中で恥をかかないようにと繁蔵は金を差し換えてくれたのだ。政吉は繁蔵をありがたく思う。このビラを見て国定忠治も機嫌を直したようで、にっこり笑って盃を渡す。
 政吉は繁蔵に深々と頭を下げて礼を言い、他に回るところがあるからと先に花会の場を去る。飯岡に戻った政吉は、助五郎に花会の模様を話す。大変に盛んで、遠くからも各地の大親分が集まっていた。助五郎親分も明日、顔を出したらいかがでしょうかと言う。繁蔵を妬ましく思う助五郎。政吉はひとり酒を手酌で飲みながら繁蔵になにか恩返しをしなければとしみじみ思う。

(この項、「」HPより)

※私事ですが、父親の出は「清水」、母親は「赤城」、叔父は、戦後まもない新宿のテキ屋の親分、かみさんは小見川(笹川の隣町)、「飯岡」は銚子往還で立ち寄ったところ、というわけ。まるで「天保水滸伝」・任侠の世界ですな。

「諏訪大神」前の道。

この道が旧街道。講談で「花会(賭場)」の会場として登場する旧旅館「十一屋」の建物が左手奥にあります。

この付近の今昔。  

        (現在)桝形が残っている。     (1880年代)「諏訪社」は広大な敷地を有していた。 

「笹川十一屋」。現在は陶芸のお店になっているようです。

  裏手に大きな屋敷。

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JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その2。「犬吠駅」。「澪つくし」。「高浜虚子句碑」。犬吠埼灯台。ゴツゴツした岩に波が砕け散る。ウミウシ。(「銚子街道」番外編。)

2024-05-27 19:21:29 | 銚子往還

車両の顔。「澪つくし号」。

※澪標(みおつくし) 通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭。 水深の浅い河口港に設けるもの。 古来、難波のみおつくしが有名。和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられることも。

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」(元良親王「小倉百人一首」)

この電車。マニアの方にはどこで使用されていた車両かはご存じでしょうが、・・・。

終点・外川に向けて走り去る電車。

ホーム。

       「最高だぜ! ちょうし アイドルマスターSideM」。「ありがとう とかわ」。

駅前広場。

駅舎。

         

「犬吠埼灯台」に向かって歩きます。右手の眼下に大海原が広がってきます。

       

                   「銚子グランドホテル」。

高浜虚子句碑。犬吠の 今宵の朧 待つとせん

左手奥に「犬吠埼灯台」。

           

周辺観光案内図。

            

郵便ポストも白色。

上に上るか? いや、海の方に行きたい。

というわけで、99段の階段を上らずにすみました。

解説板。

国産レンガで造られた初の灯台

犬吠埼灯台は、イギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督のもと、文明開化の先駆けとして明治7年(1874年)11月15日に初めて点灯し幾多の歴史を刻むとともに、我が国の発展に貢献してきました。・・・

灯台の左手にある階段を下って、海辺へ。

ゴツゴツした岩に波が砕け散る。その砂浜を行ったり、来たり。

男の子が何か捕まえました。網の中で動く生物? 黒くてグニャグニャ動く。何だかわからないらしい。すると、孫は「ウミウシだ」と返事。生物好きな面目躍如。種類はいくつかあって・・・、と話し出します。じいさんは、黙って見つめるだけ。

ウミウシ

主に浅い海の海底に生息し、世界中に分布している。体長は数mmから20-30cm程度。形態は種によって変異に富み、色も青、赤、緑、黄色、ピンクなど、鮮やかな原色系の体色を持つものから地味なものまで様々である。種によって触角は2対から1対で分岐するものや全く欠くものもいる。基本的には貝殻を持たないが、痕跡的な貝殻を持つものもいる。

こうしているうちに昼時になったので、階段を上がって、灯台近くの「なぎさや」さんへ。

ラーメン好きな孫は、チャーシューメンをうまそうにそうに食べます。

このラーメンはおいしい、家の近所のラーメン屋とは違う、また今度来たいな。

ソフトクリームが食べたい、というので、「Seaside Terrace」に。それも満足したようです。

というわけで、次回の約束までさせられて「犬吠駅」に戻りました。

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JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その1。犬吠埼灯台まで。駅名愛称のネーミングライツ・「金太郎ホーム」・「髪毛黒生」。「綿谷岩雄」・ぬれ煎餅。キャベツ畑。(「銚子街道」番外編。)

2024-05-26 15:00:38 | 銚子往還

「佐原銚子街道」がまだ完歩していませんが、その前に、一番小さな孫と銚子電鉄で犬吠埼灯台まで。

5月25日(土)。曇りのち晴れ。

           父親のザックだそうで、大きく、重そう。

行きは、特急「しおさい」。帰りは成田線経由で京成電車。半日の慌ただしい旅。

孫も小型のカメラで撮っています。こちらは、それを気にせず、

地域鉄道の鉄道事業経営は時代の流れと共に年々厳しさを増しております。
弊社は幾度とない経営危機を迎えましたが、どんな逆境にもあきらめない想いと、ぬれ煎餅の製造販売に代表されるような、常識にとらわれないチャレンジ精神で、必死に鉄道事業を守り続けてきました。
⇒倒産の危機を救った 奇跡のぬれ煎餅 銚電ストーリーはこちらをクリックしてご覧ください。
⇒奇跡濕仙貝(ぬれ煎餅)物語 也是拯救銚子電鐵從因財務困境而差點倒閉狀況中起死回生的最大功臣,為人津津樂道。

しかし、東日本大震災以来観光客が激減し、それに伴い弊社の乗客数も減少し、いまだ回復の目途がたっておらず、現在また経営危機の真っただ中にいます。
今回、そんな経営状態を打開するために取り組んだのが、「駅名愛称のネーミングライツ」です。
今回のネーミングライツは、単なる駅名愛称の命名権だけでなく、「銚子電鉄の経営再建」「銚子への地域貢献」という熱い想いを持った6社に、銚子の活性化への取り組みを共にチャレンジしていくパートナーとして集って頂きました。私たちにとって、こんなに心強いことはありません。
今後、このネーミングライツ事業の先にあるものは、地域鉄道による地域活性モデルの確立です。
地域鉄道の最大の使命は地域貢献です。
私たちはこの銚子の町に鉄道を存続させるため、そして「この町に銚子電鉄があってよかった♪銚電ありがとう!」と言われる会社になるために、今回のネーミングライツ事業に取り組んでいます。

2015年12月1日より、ネーミングライツによる新駅名愛称の運用が始まりました。

「がんばれ銚子電鉄」 西村京太郎

ここにきて、高齢者の交通事故が問題になって、免許証の返還が話題になっているが、それに比例して、地方の交通手段、特に鉄道の必要性がクローズ・アップされた。こうなると、銚子電鉄は、高齢化社会、過疎社会の重要な切り札になってきたといってもいいだろう。経済的に大変だということも、よくわかるが、銚子の人たちにとっては、必要欠くべからざるものだし、何よりも、地域の人たちの、銚子電鉄への愛情が、素晴しい。いくつもの地方鉄道に乗っているが、お世辞でなく、地元の人たちの愛し方は一番だと思う。だから、第三者の私も乗っていて楽しいのだ。現状維持だけでなく、半島を一周する鉄道になって欲しい。その時には、絶対に初電車に乗りたい。
がんばれ、銚子電鉄!
 
 
・・・
 
 
(この項、「」HPより)

けっこうお客さんが乗ってきます。途中から団体も。満員電車級です。

「ヤマサ醤油」の工場脇。

「金太郎ホーム」。「観音駅」。

※今歩いている「佐原銚子街道」のゴールが「飯村観音」。その最寄りの下車駅。

「本銚子駅」付近から緑の向こうに利根川河口・銚子港が見えてきます。

 

※「本銚子駅」は、利根川河口から歩き始めたときに下車した駅です。河口まで約2㎞歩きました。

そのときの記録。

・・・

下車した「本銚子(もとちょうし)駅」。

駅舎は1923年(大正12年)に当駅が銚子鉄道の駅として改めて開業した際に建てられたもので、その後何回か改修が行われているが、築後百年近くが経過し、近年は老朽化が著しく、全面的な改修もしくは建て替えが望まれる状態であった。しかし、所有・管理する銚子電気鉄道には建て替えのための予算の余裕がなく、2000年代に入ると修復が行われていない箇所が目立つものとなっていた。

2017年8月26日 - 8月27日に、日本テレビ系列24時間テレビ40』内の企画である「ヒロミの24時間リフォーム〜オンボロ駅を直そう!〜」にて、当駅の主な利用客である銚子市立清水小学校の生徒より依頼された、という形でヒロミがリフォームを手掛けた。これにより、駅舎は外壁、屋根、待合室内といった箇所を一新し、レンガ様の外壁の大正モダン風のものとなった。待合室内には清水小学校の生徒が製作したガラスを用いたステンドグラスが飾られている。しかし、一部の鉄道ファンからは「以前の雰囲気が失われた」「元の駅舎に戻してほしい」といった不評もある

リフォームと同時に駅舎内の掛け時計も新調したが、2018年に時計が盗難に遭い、銚子電鉄が情報提供を呼びかけたが見つからなかったため、鉄道ファンから別の時計を寄贈して貰ったが、2020年10月に再度盗難に遭ったことが明らかになった

・・・駅全体が切り通しの中にあり、周辺は林となっている。アジサイの開花シーズンにはホームの反対側の植え込みから隣駅の笠上黒生駅間にかけて多くのアジサイが咲く。

(「Wikipedia」より)

駅舎内。

                (「銚子市観光協会」HPより)

(「もとちょうしえき」)

「上り調子・本調子」。

跨線橋から。

・・・

「髪毛黒生」

「かみのけくろはえ」だそうで、我が頭髪への痛烈な皮肉ですなァ。

本来の駅名は、「笠上黒生(かさがみくろはえ)」。

 

「ぬれ煎餅買ってください。電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです。」

存続がかかっているというストレートな理由から商品を買って欲しいというその文章は、当時の電子掲示板や個人ブロガーの間で話題となり、結果的にマスコミへのPRとなったことで支援のための注文が全国から殺到しました。注文をさばききれず、一時は受付を止めなければいけなくなるほど。この売上によって修理代の費用が工面でき無事に保安検査をパス、銚電は存続することができました。
このエピソードは有名で色々なところで語られていますが、この銚電のぬれ煎餅の生みの親でもある当時の専務取締役 綿谷岩雄さんはまさに銚電を救った張本人だと竹本講師は言います。

ぬれ煎餅など物販事業を進めたのは当時経理課長だった綿谷さんで、銚電を失くしたくないという一心からとにかく利益になることは何でもやろうという姿勢でした。
横領事件発生後は代表権の無い専務として走り回り、ダメ元で飛び込んだ公庫から融資の話を得ることができました。ただ、条件として交代した当時の社長の自宅を担保にするなら貸すというもの。ところが当時のその社長の自宅が借家であったため、専務の綿谷さんの自宅を担保にすることにしました。
専務取締役といっても代表権の無い綿谷さんにとって何の保証もないその決断は、銚電を愛するが故のものであり、銚電の救い主だと今でも感謝していると竹本講師は言います。綿谷さんは昭和23年に入社して銚電一筋70年、4年前に88歳の生涯を閉じられたということです。

この項「―銚子電鉄代表取締役 竹本勝紀さんをお招きしお話を伺いました―「日創研東京経営研究会」HPより)

沿線に田園地帯が広がってきます。

              キャベツ(見事におおきくなった)、トウモロコシ(まだ苗)・・・。

何を植えるのでしょうか?

               

「君ヶ浜」。

           

終点「外川」の一つ手前「犬吠」で下車。

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成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その6。第二佐原銚子街道踏切。「水の里 風ロマン 東庄町」。モニュメント「積雲の彼方へ」。天井にツバメの巣。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-25 20:40:05 | 銚子往還

「第二佐原銚子街道踏切」。

                        「笹川駅」方向。

「小見川駅」方向。

「国道356号(利根水郷ライン)」。右手に「高橋いちご園」。

この地域でも、房総特有の槇の生け垣が続きます。

「タイヨー 東庄店」。

 向こうに水田が広がる。利根川の対岸には、鹿島臨海工業地帯(神栖)の高い煙突群。

バス停「新切(しんせつ)」。

雪洞風の街灯。

右手奥に「笹川駅」。今回はここまで。

駅に向かいます。

             「水の里 風ロマン 東庄町」というアーケード。

成田線「笹川駅」。

駅前の広場。

右手の駐輪場にあるモニュメント。

                      タイトルは「積雲の彼方へ」。葉と人と鳥が融合したかたち。 

足下に、

「天井に ツバメのお家 があります。 ご注意下さい。 あたたかく見守ってね」

見上げると、

小見川とここと、ツバメに出会いました。

跨線橋から。銚子方向。

南東側。

上りホーム。次回はこの駅から。

成田線は、佐原や小見川など一部の駅以外は無人で、素朴な駅舎と待合室が印象的です。

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