おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その3。中島用悪水路。玉子橋。権現堂川用水路。ハグロトンボ。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-06-30 20:03:58 | 中川を遡る

                       右岸を進みます。

中島用悪水路が中川に合流。架かる橋は「古葛西橋」。                                                                                                                                          

幸手市西関宿で江戸川より分水し、主として江戸川より西側の水田地域を灌漑する。中川に合流・終点となる。合流直前に中島排水機場が設置されている。

民家の前に、台座から離れ、朽ちた「馬頭観音」石塔。

                              それでも大事に保存しているのですね。

前方に古びた橋が。

「玉子橋」。昭和24年(1949年)建設。

上流を望む。

権現堂川用水路の上流方向。

   上流の葛西用水路から分かれた北側用水路と合流して南下し、流域の水田地帯の灌漑に利用。

土手が川から離れ、林の中に。右手は河川敷。

                  

この林の中を抜けるとき、真っ黒な羽をしたトンボが無数に飛んでいます。

動きが速く、茅の上に止まっているのを何とか。

全身真っ黒なトンボ。

初めて見ました。何というトンボか?

帰宅後、調べたら、「ハグロトンボ」というトンボのようです。

細長く、黒っぽい翅を持った、ヒラヒラと飛ぶトンボ。オスの胴体は金緑色に輝き、メスは全身が黒い。
河川の岸辺で見られる。平地や丘陵地の、水生植物のはえたゆるい流れを好み、住宅地の周辺でも発生していることがある。

(この項、写真も含め、「」HPより)

「Wikipedia」で補足すると、

成虫体長は 57-67mm、後翅長 35-44mm ほどで、トンボとしてはやや大型。の方がより若干大きいが、大差はない。が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある。

まさに色、かたち、飛び方、止まり方、「ハグロトンボ」でした。薄暗い林の中、しばらく見とれてしまいます。

さらに、

ハグロトンボは本州、四国、九州、種子島、屋久島の低山地、丘陵、平地の水辺に水生植物が繁茂している緩やかな流れに発生し、池沼にも発生します。成虫は5月から10月頃まで見られ、7月、8月が一番多く見られます。羽化した成虫は薄暗いところを好み林の中で暮らすので、センターエリアでは6月ころに出会えます。成熟すると水辺に戻るので、林の中で出会える唯一の季節と言えるでしょう。

オハグロトンボ、神様トンボ、仏トンボ、極楽トンボなどの別名を持ちますが、お歯黒の色に似ていたからなど、どれも翅の色形から来ているようで、薄暗いところをふわふわと飛ぶ黒いトンボに、幽玄さ、神聖さを感じたようです。

水辺では群れていることが多いのですが、林の中で出会うのは単独の場合がほとんどです。翅をそろえて止まったかと思うと、まるでチョウのようにはらりはらりと翅を閉じたり開いたりします。金属光沢を帯びた黒い翅が光の加減で虹色に輝いたりさまざまな色で輝いたりする姿を見ると改めて『黒』の奥深さを感じます。雄の身体が金属光沢を帯びているのに対して、雌の身体は黒く、翅はこげ茶に近い色をしています。

コオニヤンマやシオカラトンボなどが素早く飛び回り昆虫をとらえているのに比べこんなにふわふわしていてエサが採れるのか心配になってしまいますが、意外と俊敏で近づくとすいっと飛んで行ってしまいます。

梅雨の晴れ間、ちょっと神秘的なハグロトンボに林で出会えたらいいことがありそうな気持ちになります。

トンボは全国的に減少しているようですが、ハグロトンボも水質汚濁、河川改修などで数を減らしているようです。水辺のヨシなどで羽化するハグロトンボ、河川改修ではヨシなどは根こそぎ刈られてしまいます。産卵するのも水中の草の根際や水草などです。人にとっては害虫を食べてくれる益虫で、『勝ち虫』と呼ばれ縁起が良いとされてきたトンボたち。コンクリ―トで固めない、水辺の生きものに配慮した河川改修工事も少しずつ進んでいます。これからもトンボたちと共存していきたいものです。

 (この項、「」HPより)

生まれて初めて貴重なトンボを見ることが出来ました。

かつてはちょっと郊外に出れば、シオカラトンボ、オニヤンマ、ギンヤンマ、イトトンボなど見ることができました。今、身近に見ることはほとんどありません。

トンボたちが生息できる環境を大事に保存したいものです。

ハグロトンボを見ることが出来たのは、とてもラッキーでした。

中川もこうした中・上流歩きになると、思わぬ発見、出会いがあるのですね。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その2。打田落悪水路(うったおとしあくすいろ)。万年橋。バラ園。神扇落(かみおうぎおとし)。船渡橋。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-06-29 21:32:34 | 中川を遡る

「打田落悪水路(うったおとしあくすいろ)」解説板(左が北)。「庄内領用悪水路土地改良区」と標示されている。

土手が行き止まりなので、右折して公道に出ます。周囲は田んぼと住宅。時折左に流れる「中川」を眺めますが、土手道はなさそう。そのうち、道路脇の遊歩道に四阿があるので、小休止。そこが、暗渠になった「打田落悪水路」でした。

打田落悪水路は農林水産省補助事業として、埼玉県(春日部土地改良事務所)が事業主体となり、1986年度(昭和61年)から1997年度(平成9年)にかけて総事業費1,112,00万円を投じ、庄和北部打田地区の農地を排水するために整備された農業用排水路である。受益区域は北は春日部市と北葛飾郡杉戸町の境界、東は埼玉県道42号松伏春日部関宿線、南は打田排水機場(立野ポンプ場)、西は中川(庄内古川)までとなっている。 この打田落悪水路は庄和地区を中川の左岸側(東方)を並行するように流下しており、流域周辺を灌漑している中用水からの農業排水を集めながら、主に水田などの農地の中を流下している。流域周辺は一部では民家などの宅地となっているが、主として水田などの農地となっている。打田排水機場付近には、桜並木が流路沿いに植樹されている。(「Wikipedia」より)

来た道を振り返る。打田落悪水路。

ここまでの間、土手を歩いているとき、中川への流入口は気づきませんでした。ぐるっと遠回りします。

周囲は、住宅と田んぼ。田んぼの畔道からの「中川」。

                              奥に見える橋が「大榎橋」。

やっと「万年橋」に出ます。

上流を望む。右岸に移ります。

一面、青々とした田んぼ。

草刈りが済んだ土手道。

土手際・左手にバラ園。

 丹誠込めたさまざまなバラ。    

若い方がせっせと世話をしていました。5月末にいったん咲き終えたようですが、別のバラが7月には咲くそうです。

その先、「神扇落(かみおうぎおとし)」が合流します。

      

かつて起点付近に存在していた神扇沼からの排水路である。神扇落という名称はこの神扇沼および大字神扇からの排水路ということに由来する。かつて神扇沼への流入水路であった浅堀地蔵院落との合流地点が神扇落の起点となる。北葛飾郡杉戸町大字遠野付近にて集落の北東側を流下する以外にはほぼ市街地を流下する区間はなく、流域は主に水田などの農地となっている。流末は中川へと至り終点となる。

                  左岸から。(「Wikipedia」より)

その流れに沿って左へ迂回します。途中で、右折すると、中川土手に出られたのですが、そのまま県道を。

「神扇排水機場」。

その先を右折、「船渡橋」へ。

                       下流を望む。草刈り中。

上流を望む。

※バス停が「船渡橋」と「船戸橋」と2種類あります。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その1。倉松川。首都圏外郭放水路第3立坑。庄内橋。松富橋。流路跡。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-06-28 21:25:36 | 中川を遡る

                 中川人道橋から上流を望む。左手は、「倉松川水門」。(※前回の写真) 

5月に雨がけっこう降ったかと思うと、「梅雨入り」宣言のあとは、今度は一転、あまり雨なしの暑い日が続き、・・・。そして、27日には、もう「梅雨明け」宣言。気象庁も予想できなかった、とか。

昔から気象予報は当たらない、って評判ですが。それにしても、この暑さは!

ずっと以前は、学校が夏休みになるかならないか位の頃が、梅雨明け。

「梅雨明け10日」といって、晴天が続く、この時期。若い頃は、梅雨明けを待ちかねたように、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳などの縦走に出かけたものでした。

今は、・・・、冷房の効いた部屋で読書しつつ、船を漕いでいます。   

さて、

「藤の牛島」駅から土手に出て、右岸を歩き始めます。この日は、曇り空で少し風もあり。

少し前に(それこそ、梅雨時に)、「権現堂川(行幸湖)」から中川を下り、「宇和田公園」先の「新船越橋」まで歩きました。

そこから「朝日バス」(ひばりヶ丘工業団地入口)に乗り、「東武動物公園」駅まで戻りました。

そこで、今回はそこまで北上することに。

「倉松川」。

倉松川は、幸手市中五丁目地先に源を発し、春日部市牛島地先で中川に合流する延長13.8km、流域面積32.1k平方メートルの一級河川です。全区間が埼玉県知事が管理することとされています。

thestartingpointofkuramatsu001倉松川起点付近…幸手駅から撮影

            (この項、「埼玉県」HPより)

水門で中川に合流します。

対岸の奥・左手、「国道16号線」沿いに「イオンモール」や「ビバ ホーム」などの大型店が並んでいます。

「新川橋」。

           ビバホームやイオンなどに向かう車の行き来がけっこう多い。

橋を渡り、左岸を。

                  先に見える橋は、「国道16号線春日部野田バイパス」中川橋。

中川橋の先、対岸には「首都圏外郭放水路」の第3立坑と呑み口。

           中川と倉松川の洪水を取り込むための施設。

    ※「全体構成図」。

その先の対岸には、「幸松排水機場」。

「庄内橋」。埼葛広域農道。

           水色のパイプ橋は、水道橋。

かつての「庄内古川」をなぞる流れか?

              

そのままたどると、土手の道は、だんだん中川から離れていきます。

間に田畑が。

突き当たりを左にまがって、再び中川沿いの土手道に。

「松富橋」と水管橋。

下流を望む。

のどかな土手道。タチアオイ。

土手の両側は、絨毯を敷き詰めたような小さな白い花が。何という草花でしょうか?

        

右手は、青々とした田んぼ。

         

この先で土手道は、大きく迂回します。

      

       振り返って望む。左に土手道。撮影場所は田んぼの畔道。正面の中川は、右に曲がってきます。

川に近づいてみましたが、上流は、個人の敷地のようす。

       

実は、この付近は、かつての流路跡が農地化されて田んぼや畑になっているようです。

この付近の今昔。今の中川が「庄内古川」となっていた頃は、流路が東に大きく曲がっていました。その痕跡が残っています。

                                                                                                                

1880年代のようす。現在よりも東に寄っています。    2010年代のようす。部分的な痕跡。明治以前の流路跡も。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武野田線「藤の牛島駅」。その3。庄内古川橋。「五ヶ門樋(ごかもんひ)」。東武野田線。藤の牛島。(「中川」を遡る。第5回目。)

2022-06-27 22:05:20 | 中川を遡る

                  「春日部市 環境センター」。

水田地帯を歩き、「新4号国道・春日部越谷バイパス」の「庄内古川橋」手前で土手に上がります。

前方に新4号国道バイパス「庄内古川橋」。

     

国道下を抜けて上流へ。

対岸は「豊野 工業団地」。

右は田園風景が広がる。

その先に、「五ヶ門樋(ごかもんひ)」。

解説板。

埼玉県指定有形文化財(建造物)
五ヶ門樋付中庄内樋管一基、排水機場跡一基  平成27年3月13日指定

五ヶ門樋は、現存する煉瓦造りの樋門としては、県内で4番目に古いものです。煉瓦を四重に並べアーチを形造り、その上には「五ヶ門樋」のプレートが設置され、最上部には煉瓦で凹凸を表現した装飾が施されていることが特徴となっています。現在では庄内古川からの逆流防止のため扉は外され、自然排水の樋門として使用されています。

古くから庄内古川の流域では、大雨の際の増水で農作物に影響が生じていました。五ヶ門樋は明治25年(1892)に庄内古川左岸の新堀悪水路(排水路)に設置されたもので、通常時は自然排水、洪水時には扉を閉めて逆流防止の機能を果たしました。

しかし、自然排水のみでは、年々上昇する庄内古川の水位に対応できず、明治40年(1907)に排水機場が建設されました。庄内古川の改修後は自然排水が可能となり、排水機場は撤去され、鉄筋コンクリート製の中庄内樋管が新たに設置されました。

茂みの中に流れがあり、 

道路下をくぐり、中川への排水口へ。

            こちらからは全貌が見えません。対岸からだと、そこで、

           (「Googleマップ」より)

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。「庄内古川」となっていた頃。

                     2010年代のようす。今も現役の水路。

「永沼橋」。

                 「葛中通り」となっている。

続いて「はなみずき橋」。

                   こちらは「はなみずき通り」。

前方に「東武野田線」の鉄橋。

                           左手が「藤の牛島駅」。

鉄橋をくぐり、上流へ。

「南桜井駅」方向。

「藤の牛島駅」に向かう電車。

「中川人道橋」を渡って、駅に。

        

藤の牛島駅。

地名である牛島と、1,200余年前に弘法大師がお手植えされたといわれる特別記念物「藤花園」の牛島ノ藤から駅名とされました。
「牛島の藤」は昭和3年に文部省から天然記念物に指定され、さらに昭和30年には特別天然記念物にも指定されています。
花房の長さは約2.7m、根周りは4mの古木で花の見頃は5月上旬です。

この項、「」HPより)

(「Wikipedia」より)

そういえば、人道橋にも藤が描かれていました。

※「東武野田線」は、「東武アーバンパークライン」という愛称になっています。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武野田線「藤の牛島駅」。その2。田島橋。オオヨシキリ。まつぶし緑の丘公園。左岸・右岸行ったり来たり。(「中川」を遡る。第5回目。)

2022-06-25 21:04:18 | 中川を遡る

               先に古そうな橋があります。「幅1.8m、重量制限1.5t」との標示が。

「田島橋」。「赤岩橋」と同様、軽自動車以下が通行可。

橋の上から上流を望む。

橋を渡って右岸を歩きます。

                すぐ左脇を流れる「八間堀悪水路」の向こうは、水田が広がります。

                         ※悪水路=農業排水路

大量の水が流れ込んでいます。

「豊橋」。

                  道路橋と歩道橋が並んでいます。

流入口。

こうした排水路から流れてくる中川も水量が多い印象。田植え後の水量調整が行われている様子です。

左の水田にはシラサギが。

しきりに甲高い声で啼く鳥たちがいます(姿は見えませんが)。

「オオヨシキリ」のようで、田んぼのそばのヨシ原から聞こえてきます。

            (「Wikipedia」より)

夏の季語「行々子(ギョギョシ)」は、オオヨシキリの鳴き声から。
「行々子口から先に生まれたか」 by小林一茶

全長18.5cm。頭から背、翼の上面、尾の上面は淡褐色をしています。下面は黄白色。口元にひげがあります。腰は淡色。「ギョギョシ ギョギョシ ギョギョシ」あるいは「ケケス ケケス カイカイシ」などと聞こえる大きな声。多数がさえずっていると暑苦しいし、うるさいとさえ思うことがあります。アジア大陸の中緯度で繁殖し、冬期は熱帯地域へ渡ります。日本では全国で繁殖する夏鳥ですが、沖縄地方では渡りのみ。数本のヨシを束ねてお椀型の巣をつくります。一夫多妻性で、同時期ではありませんが、オスの周辺にメスが巣をつくり、抱卵、育雛します。一夫五妻の例も知られています。カッコウに託卵されることも多いことで有名。河川、池沼、海岸などの水辺に広がる葭原に生息しています。

(この項、「|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動」HPより)

※余談ですが、「一夫五妻~僕がモテる理由~」というコミックがあるそうです。

妻味一夫はいたって平凡な30歳のサラリーマン。しかし一夫には、下は10代から上は40代まで5人の妻がいる。妻といっても法律上の妻ではない。結婚を前提としたプレ結婚生活、いわゆる事実婚。1人の夫と5人の妻たちが巻き起こすラブラブ妻コメディー!!

(この項、「」より)

外で、こんな賑やかな鳥の啼き声を聞くのは久しぶりです。

対岸。

「松乃木橋」と水管橋。

この先しばらくは、一直線。

                       先に見えるのは、「新開橋」。

新開橋のところで、釣り人が。

その先、右手から農業用水が合流。

    

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。北に大きく湾曲している。

    上部の流れは、現在の中川の流れとは大きく異なる。

                     2010年代のようす。湾曲した部分が直線化。

     右上には旧流路が農業用水路になっている残っている。

この付近は、かつての流れのまま?

          

左手に小高い丘が見えています。「大落古利根川」歩きの時には気づきませんでした(右手に位置する)。

「まつぶし緑の丘公園」。

県南東部、松伏町の北部に位置し、南側を県道春日部松伏線、北部を県道野田岩槻線に接しています。里山、広場、水辺からなる原風景を創出し、樹林や野鳥、草花、昆虫等のふれあいを通じ、公園利用者が心も体も元気になることを目指して計画した公園です。
中川と大落古利根川に挟まれた平坦な区域に、地域のランドマークとなる緑豊かな丘を築く等、「人と環境にやさしい都市公園」として整備が進められ、 平成19年4月に一部が、平成28年4月に全面が開設されました。

(この項、「埼玉県」HPより)

「倉田橋」。

         

右岸も左岸も、この先は東埼玉道路建設工事のため通行止め。左岸を大きく迂回します。

         

             中川土手方向を望む。一面、水田。イネがけっこう伸びています。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武野田線「藤の牛島駅」。その1。起点まで約50㎞。二郷半領用水路。穀倉地帯。田園ホール・エローラ。(「中川」を遡る。第5回目。)

2022-06-25 19:17:10 | 中川を遡る

今回から、「中川」が「大落古利根川」と「弥生橋」で分岐し北上する川筋を遡った報告。

ここから羽生市にある起点まで、約50㎞。

出かけたのは、梅雨入り間近の6月12日(日)晴れ。その後、曇りが続いた日に歩きました。

それから2週間。今日、6月25日。東京・埼玉は猛烈な暑さです。

こういう猛暑日の川歩きには命の危険が。木陰など遮るものはなし! 近くに休憩できるようなお店もなし! 草いきれの中を歩く! マダニでもいたら、オオゴト! ・・・適度な水分補給と休息を、などいうのんきなことは言ってられません。

というわけで、涼しい部屋でブログを編集しています。

さて、

「弥生橋」から「中川」下流を望む。 

ここで、「大落古利根川」と分かれ、上流へ向かいます。                  

「中川」上流を望む。一直線。昭和初期に開削された水路。

  遠くに筑波山(↓)。

「赤岩橋」。

橋の上から西の方角を望むと、遠くに残雪の富士山(↓)。

この先、土手道は草刈りのため、通行止め。

そこで、すぐ東側を流れる「二郷半領用水路」伝いに歩くことに。

「二郷半領用水路」。

吉川市三郷市北葛飾郡松伏町東部地域の灌漑の為に整備された用水路

水路の歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、現在の東京都葛飾区地内の葛西領利根川に水源を求め水路を整備した際に、松伏溜井から15km下流の小合溜井まで送水するために整備された水路が元である

江戸川中川に挟まれた三郷市吉川市の地域は、古くは二郷半領と呼ばれていた。この地域は早場米の産地であったが、元々中川低地に位置しているため、たびたび水害に悩まされていた。そのため、戦前戦後を通じて幾多の灌漑排水事業を行った結果、良質な穀倉地帯となった現在、松伏町大字松伏の二郷半領揚水機場にて大落古利根川の松伏溜井から、また水量補給の為、三郷市彦川戸の二郷半領中川揚水機場にて中川より取水を行っている

(この項、「Wikipedia」より)

※「領(りょう)」は、利水や水防を目的として、鎌倉時代頃から自然的に発生した共同体。

この用水路に関する記事を掲載したことがあります。

葛飾区水元公園北にある「弐郷半領猿又閘門」。

※「弐郷半領」が、「猿又(東京都の地名。現在水元猿町)」に建設した閘門(水門)という意味。

当初、木造だったので腐朽が激しいうえに、洪水のたびに破壊され、頻繁に修繕を強いられていました。明治時代になり、当時の最先端の建材である煉瓦を使って改良された。

かなり激しい流れになっています。画面左・水元公園側から右・中川(大場川)。かなりの落差があります。・・・

はるか遠くまで広がる水田。

             さすが、「穀倉地帯」です。

土手に上がれそうなので。といっても、草の中の踏み跡。

草刈りをした後のようですが、足もとにはもう草が生え始めています。

次の橋「旭橋」が前方に。

橋を渡った左手には、「松伏記念公園」や「中央公民館(田園ホール・エローラ)など総合運動・文化施設が広がります。

中でも、音楽ホールとしては超一流の施設、田園ホール「エローラ」。

日本が世界に誇る作曲家として、又、温厚さと誠実な人柄ゆえに、多くの人々から愛されていた芥川也寸志先生は、作曲家としての仕事の他、日本音楽著作権協会会長、テレビ、ラジオ、そしてアマチュアオーケストラの育成、ホールの建設にと幅広くご活躍をなされておりました。
当町の音楽ホール建設についても、快くお引き受けくださり、音楽ホールの基本的な考え方やホールの重要性、演奏者としての立場からのご指導を受け、ホール建設が進められました。
そして、町民に呼びかけ、愛称選考委員会や芥川先生にご相談をし、豊かな田園をイメージし、「田園ホール」を推薦いただきました。
そして、先生の訃報を聞くことになり、ホール建設にご指導、ご協力をいただいた先生の功績を後世に伝え、感謝の意を込めて先生の代表的な作品である「エローラ交響曲」よりお名前をいただき、愛称を「田園ホール・エローラ」といたしました。

              (「松伏町」HPより)

※エローラ

インド西部マハラシュトラ州7世紀から10世紀ごろの仏教ヒンズー教ジャイナ教石窟(せっくつ)寺院現存また、巨大な岩塊削り出し造ったカイラーサナータ寺院がある。窟の壁面には美し浮き彫り施され仏像神像などが残っている1983年エローラ石窟群」の名称で世界遺産文化遺産)に登録された。

(「デジタル大辞泉」より)

    (「世界遺産オンラインガイド」HPより)

ここに描かれた神々は、人間の官能性・性愛を肯定。セックスそのものを彫刻にしている。芥川也寸志氏は、この石窟寺院を訪れたときの強い印象から、「エローラ交響曲」を作曲した、とのことです。

二郷半領用水路が右手に離れて行きます(↓)。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その7。和戸橋。日光御成街道。大落古利根川起点。葛西用水路。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-23 21:04:27 | 中川を遡る

                満願寺橋方向を振り返る。

「備前堀川」が合流。

さらに「備前前堀川」が合流。

                    合流地点に架かる橋が左「和戸小橋」、右「和戸橋」。

橋を渡る道は旧「日光御成街道」。

※1 東大赤門先の本郷追分で中山道と分岐した「日光御成街道」は、この先、幸手宿で「日光道中(街道)」と合流します。

               この街道はすでに歩きました。

 その時には、今歩いている「大落古利根川」の起点がこんな間近にあるとは思いも寄りませんでした。

※2 地図の上部に「日光御廻(り)街道」が記されています。この街道は、幸手宿と栗橋宿の間にある権現堂川の洪水被害を避けるため、西回りする迂回路でした。約10キロメートル。現在、ほとんどその道筋は不明になっているようですが。        

和戸橋。

右手に大きな「大落古利根川治水碑」。

ここで、この付近のあれこれ。

①日光御成街道と一里塚

江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、将軍が日光東照宮へ社参する際に利用されました。下高野一里塚は、下高野と下野のほぼ境界に所在し、頂上には松が植えられています。もとは街道の両脇にありましたが、現在は東塚のみが残っています。

②西行法師見返りの松碑

文治2年(1186)西行法師は奈良東大寺再興の寄附を請う旅の途中、この地で激しい風雪に倒れ、土地の人に救われました。庭の松をこよなく愛した法師は村人との別れを惜しみ、この地を去る際にこの松を何度も振り返ったと伝えられています。

③古利根川の渡し

昭和初期以前、古利根川の渡河には渡し船が用いられており、江戸時代から近代の杉戸・宮代周辺では上流から「高野の渡し」「河原の渡し」「矢島の渡し」「船屋の渡し」「ガッタの渡し」の5箇所の渡船場がありました。中世にも現在の満願寺橋付近に「高野の渡し」があったといわれています。

      鬱蒼とした木々が迫る。

          遠くに「圏央道」が見えます。

両岸にはこんもりした森が続きます。

        釣り人の姿。

小高い丘。

   正面に「圏央道」の橋脚。

「中落堀川」が合流。

その先、「青毛堀川」が合流。

                      左が「青毛堀川」、右が「大落古利根川」。

右手は「昌平中学・高校」。

「葛西橋」。

           ここから上流は、「葛西用水路」となる。

「葛西橋 始点(中川合流点)から26.78㎞」。

「葛西橋」から「大落古利根川」下流を望む。

土手の草刈りが始まったばかりで、一部は、夏草ぼうぼうの中を歩きました。起点も草に覆われていて、何とか、かき分けて確認。

葛西用水(本川終点)」標示。

葛西用水の上流のようす。

「大落古利根川」歩きは、ここまで。

中川から分かれてから、変化に富んだ川筋でした。かつての大河を思わせる雰囲気。

特に、春日部(粕壁宿)の古利根川との関わりの深さや市民の景観保持の姿に感心しし、さらに、「杉戸宿」など、日光道中歩きの記憶も蘇ってきての歩きでした。

「中川」歩きから途中で「大落古利根川」歩きになりました。次回、改めて「中川」を遡ることにします。

「青毛堀川」から「大落古利根川」合流点を望む。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その6。髙橋屋。杉戸宿。特急スペーシア。鎌倉橋。満願寺橋。西行。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-22 19:31:46 | 中川を遡る

                  橋を渡り、左岸を歩くことにします。

右手に、

「うなぎ割烹 髙橋屋」。

古利根川の流れとともに
「伝統の味と心を」伝えて百五十年

私共は、川のほとりで、室町三井家の流れを汲んでおります。

かつて多くの旅籠で賑わった宿場町「杉戸宿」。その川沿いで明治より続く、百五十年の歴史を持つのが当店「うなぎ割烹・髙橋屋」です。
古き良き荘厳な佇まいの暖簾をくぐると、庭園を含めた五百坪の広大な敷地がお出迎えいたします。各界の著名人も足繁く通う、髙橋屋ならではの絶品のお料理とおもてなしをご堪能ください。

(「髙橋屋」HPより)

  八九間 空で雨ふる 柳哉   はせ越(松尾芭蕉)

※季語は柳で春。

元禄7年春。51歳。『続猿蓑』中の句。8、9間の柳には春雨が降っている。

※8、9間は柳の高さなのか、幅なのか? 1間は約1.8㍍。

春雨は、降ったり止んだり、しっとりと降る雨で、「来ぬか雨」(小糠雨)とも。

「河原橋」。

左岸の東側は旧「杉戸宿」。

杉戸宿
 現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
 古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。
 宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、杉戸宿の距離1里21町、町並8町20間、道幅5間、人数1663人(男789人、女874人)、家数365人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒(大4・中7)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的よく残り、旧宿場街の面影を感じさせる。(以上、「Wikipedia」より)

1880年代のようす。日光道中に沿っての街並み。

現在のようす。道筋は変わらない。

日光道中歩きの時の写真を紹介。

・・・

宿場の出口・入口にある曲尺手(桝形)に、

    

角穀跡/小島定右衛門邸
 宿場の特徴のひとつでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。
 かつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続きさらなる他の蔵三つが連なっていました。敷地を囲む外壁にも収納空間があったといいます。屋内では大木を使った梁や柱が木材の美しさを際立たせています。また、母屋二階から見晴らす街道のほぼ全景には、ここからでしか味わえない爽快さが感じられます。
 創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡型の通りの「角」にある「米穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。
                       

 ・・・

東武日光線鉄橋。

                   特急スペーシアが通過中。

「南側用水の碑」。

     戦後使われていた、巨大なポンプが産業遺跡として設置されている。

「杉戸宿」の時、用水路跡が遊歩道になっていました。その解説板に、

南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660年)、利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が作られた際に、その支流として当時の幸手領南側一帯(幸手市から杉戸町を経て春日部市まで)に農業用水を供給するためにもうけられた。
杉戸町を9.5kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係りながら、身近な水辺として親しまれてきたという。
だが、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに亘る用水路としての役割を終えた。
 
 
小さな堀が流れ込んでいる。
 
この流れは旧古利根川の古い流路跡になっているようです。そのため、対岸は、杉戸町に。
 
人道橋・「鎌倉橋」が見えてきます。
 
 
           中世の鎌倉街道にちなんでいるようです。
 
  
 
この付近の今昔。
 
1880年代のようす。右岸が西に屈折している。
 
北葛飾郡に所属する「杉戸・下高野村」の境が流路になっている(西は埼玉郡)。 
 
2010年代のようす。右岸に杉戸町の一部が。
 
次の橋は「満願寺橋」。
 
「起点(中川合流点)から24.1㎞」。
 
捨て果てて 身はなきものと おもへども 雪のふる日は さぶくこそあれ 西行
 
芭蕉は『西行上人像讃』で、この歌に、「花のふる日は浮かれこそすれ」と付けた。
 
確かに西行の歌は、後半があまりにも俗人的で、芭蕉の付け句の方が、生涯、花(桜)を詠った、西行らしい。
 
一説では、そもそも西行の歌ではなく、後世の贋作では、という。
 
といっても、芭蕉の時代にはすでに巷間に伝わっていたようですが。        
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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その5。宮東橋・清地橋・古川橋。杉戸宿。古利根川流灯まつり。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-20 18:57:34 | 中川を遡る

                     再び川沿いの道になります。

               遠くに見える橋は、「宮東橋」。水管橋と道路橋が並んでいます。

「起点(中川合流点)から18.98㎞」。橋を渡って右岸に。

下流を望む。

橋の先、左手に休憩スポットがあります。

木陰もたっぷりで、小休止。「「みやしろ健康マッ歩案内図」。

対岸を望む。

左手は田畑。

              

「起点(中川合流点)から20㎞」。

           川幅が狭くなっています。

「清地橋」。

             対岸(左岸)は、杉戸宿の街並みになります。

川沿いには、「流灯ふれあい館・ 杉戸町観光案内所」、「杉戸町流灯工房」が並んでいます。

夏には「古利根川流灯まつり」が行われるそうです。

古利根川流灯まつり

幻想的な流灯を見にきませんか

 古利根川流灯祭は、昭和初期頃に始まり、杉戸町と隣の宮代町との境を流れる古利根川を利用して、杉戸町・宮代町の商店会が協力し、「流燈曾」として、それぞれの店が工夫を凝らした灯篭を古利根川に浮かべる、店のPRを兼ねたイベントとしての祭りでした。

 その後、一時中断しておりましたが、近隣市町のように特色のある、誇れるイベントのない状況を憂慮したした町民より「何か特徴のあるイベントで町おこしを」という気運が盛り上がり、杉戸町の「本町昭和会」(駅前商店会の有志)が中心となって、平成2年に今ある形の「古利根川流灯まつり」として復活されました。

 以後、平成6年より杉戸町観光協会主催として、「古利根川流灯まつり実行委員会」を組織し部会を設け、賛助金の募集方法、イベントの内容、作業日程などの検討を行い、各団体が中心となって毎年準備を進め、実施しております。

 近年では、テレビにも毎年風物詩として取り上げられるようになり、県内外から多くのカメラ愛好家をはじめとする観光客が足を運び、「訪ねて見たい!-21世紀に残す日本の風景遺産100選-」(読売新聞社刊)にも選定されるなど、初期の目的を達成しつつあります。

見どころ

 畳1畳分もある日本一大きな灯篭が川に浮かぶ様子です。

 この灯篭は、組み立て細工の要領で釘を使わずに全て町の人の手作り。これが、200~250基。さらに、ミニ灯篭も加えて約1kmにわたり光の帯が川面を埋め尽くすさまは、まさに地上に降りた天の川のようです。

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(この項、「」HPより)

今年の開催ポスター。

次の橋が、「古川橋」。

だんだん古利根川の起点(あと約5㎞)に近づいてきます。

「起点(中川合流点)から21.68㎞」。

橋から上流を望む。

左折して200m程で、東武線「東武動物公園駅」。

「日光道中」歩きのときは、杉戸宿から「古川橋」を渡り、駅前に出て昼食休憩しました。

               「日光道中 宿場」。

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向島百花園。ネムノキ。寺島ナス。ウツボグサ。ハナシノブ。ナデシコ。常夏。ハギ。秋の七草。梅の実。

2022-06-19 19:04:47 | 向島百花園

    池のほとりにネムノキが2本。

夜になると葉が合わさって閉じて(「就眠運動」)眠るように見えることに由来。漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられた。小枝の先に、淡紅色の花が10 - 20個集まって皿状などに広がり、多数密生する(「頭状花序」。

普通は、夕方に開き、翌日にはしぼむ花ですが、ここでは昼間も咲いています。

かつて、家の小さな庭に植えてありましたので、懐かしく、まずお目当てに。相変わらず素敵な花です。

                 

京成押上線「曳舟駅」近くにある墨田区の「曳舟図書館」に行ったついでに、「向島百花園」に立ち寄ってみました。

しばらく来ないうちに、いろいろな花が咲き乱れています。

門前の梅の実が鈴なり。

さて、入り口には、

「寺島なす」の鉢植え。葉の陰に小ぶりのナス。

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688〜1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村であったが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。

 享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」として、江戸近郊の名産であることが記され、また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」とナスの産地だったことを示しています。

 農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ッ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

(「」HPより)

江戸東京・伝統野菜研究会の大竹道茂氏により地元の白鬚神社に説明板が設置され、地域に知られるようになった「寺島なす」は、創立130周年を迎える第一寺島小学校(一寺小)の創立記念事業として、郷土愛に燃える卒業生の皆さんの熱い思いとともに、復活の話は地元に広がっていきました。そして、寺島ナスの生産者である三鷹市の星野氏の指導協力も得て、校内での栽培がはじまりました。校舎裏の子ども広場では、1年生と地域のお年寄りが一緒に水やりをするなど微笑ましい交流も生まれ、収穫したナスは給食でも食べられました。学校長は「子供たちによるナスの栽培の復活は、郷土の歴史を学び、学年に応じた観察や栽培体験ができる初めての試みです。」と話しています。

・・・「江戸ナス」とも呼ばれる古い品種の"蔓細千成(つるぼそせんなり)"が江戸東部・寺島地区で盛んに生産されていたことから、「寺島なす」と呼ばれるようになりました。鶏卵くらいの大きさのものが美味しいとされ、なす特有の香りが強く、光沢のある黒紫色した実が特徴です。

(「」HPより)

他にも、「うつぼぐさ」。

円筒形の花穂の形、もしくは花穂につく小花の形が、弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ていることに由来する

「はなしのぶ」。

日本固有種。 環境省のレッドデータリスト(2007)では、「ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種」である絶滅危惧ⅠA類(CR)に登録されている。 和名は葉の形をシダ植物の忍(シノブ)にたとえたものである。

「せんじゅがんび(千手岩菲)」。

は、ナデシコ科センノウ属の多年草。 本州(東北~中部地方以北)の山地~亜高山帯の林縁や森林に生える。高さ30~100cm。花期は7~8月、花は白色で直径2cmほど、花弁の縁がギザギザになっている。名前は、日光の千手ヶ浜で発見された中国原産の岩菲(センノウのこと)に似た花から付けられた、といわれている。(「Wikipdeia」より)

園内にも「ナデシコ」の花が。「かわらなでしこ」。

秋の七草の一つ。カワラナデシコには、ナデシコ、ヤマトナデシコの異名もある。これはセキチク (D. chinensis L.) を古くは唐撫子(カラナデシコ)といったことに対する。ナデシコは古くは「常夏(とこなつ)」ともいった。これは花期が夏から秋に渡ることにちなむ。

※「常夏」といえば、『源氏物語』第26帖の巻名。

光源氏:太政大臣、36歳のとき。玉鬘(22歳)との歌の応答。

撫子の とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人や尋ねむ

山賤の 垣ほに生ひし 撫子の もとの根ざしを 誰れか尋ねむ

                 

「ハギのトンネル」に、これも「秋の七草」の一つ、咲き始めたハギ。

              園内のハギも。

そして、園内の梅の実は? 

 

 

 

ザクロの花も満開。

花菖蒲やヤマユリも見頃でした。カルガモが二羽、池で泳いでいました。

四季を通じて楽しめる「向島百花園」です。

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堀切菖蒲園。2022・6・17。江戸菖蒲の競演。人気菖蒲の番付。句碑。堀切水辺公園。葛飾菖蒲まつり。

2022-06-18 18:39:27 | じじばばがゆく

               1年ぶりの堀切菖蒲園。池には、カルガモの姿が。

先日の水元公園とは趣を異なり、色とりどりの花菖蒲。

投票による番付表と人気の菖蒲。横綱の「水の光」など。

「堀切三兄弟(姉妹)」。

ネーミングが素晴らしい。

漢詩や日本の古典から。

職人さんが丹誠込めた育てた花菖蒲が咲きそろう。

                  

四阿からの眺め。

句碑などもいくつか。

                 松野自得 天日に 菖蒲の花の 白まぶし

     中村汀女 花菖蒲 かがやく雨の 走るなり

 数年前、再整備され、かつての情趣が失われた?

荒川河川敷にある「堀切水辺公園」にも花菖蒲が。

遠くに「スカイツリー」。

 

江戸川区の「小岩菖蒲園」の花菖蒲は時ならぬ雹によって痛めつけられたとか。さて、その後は?

こうして今年の「葛飾菖蒲まつり」、6月19日で終わりになります。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その4。国道16号線。首都圏外郭放水路「第5立坑」・(地下神殿)。富士山。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-17 21:17:57 | 中川を遡る

春日部大橋」。

「国道16号線」。この国道は東京エリアを一周しているので(「環状道路」)、街道歩きや川歩きでは必ず出会います。

両側は、静かな住宅地に。

「起点(中川合流点)から16㎞」。

右手に大きな施設。

施設名に「国土交通省 首都圏外郭放水路(彩龍の川) 大落古利根川流入施設」。

ここは、「第5立坑」と名づけられた施設。

             

首都圏外郭放水路は、洪水を防ぐために建設された世界最大級の地下放水路です。中川、倉松川、大落古利根川、18号水路、幸松川といった中小河川が洪水となった時、洪水の一部をゆとりのある江戸川へと流すことができます。
中川・綾瀬川の流域は、利根川や江戸川、荒川といった大きな川に囲まれています。この地域は、土地が低く水がたまりやすいお皿のような地形となっているため、これまで何度も洪水被害を受けてきました。また、川の勾配が緩やかで、水が海まで流れにくいという特徴があり、大雨が降ると水位がなかなか下がりません。さらに近年では、都市化が急速に進み、降った雨が地中にしみこみにくく、雨水が一気に川に流れ込んで洪水が発生しやすくなっています。
首都圏外郭放水路の完成によって、周辺地域で浸水する家屋の戸数や面積は大幅に減り、長年洪水に悩まされてきた流域の被害を大きく軽減しました。

    全体構成図

まず、各河川から洪水を取り入れる「流入施設」と「立坑」、洪水を流す地下河川の「トンネル」、そして地下空間で水の勢いを弱め、スムーズな流れを確保する「調圧水槽」、さらに地下から洪水を排水する「排水機場」などで構成されています。

      

(この項、「」HPより)

江戸川にある調圧水槽

下水路のトンネルから流れてきた水の勢いを弱め、江戸川へスムーズに流すための施設

調圧水槽

この巨大な水槽の役割は二つ、水のくみ上げと排水を安定したポンプ運転で行うこと、ポンプを緊急停止させた時に発生する逆流を調節することです。
地下22mの位置にあり、長さは177m、幅78m、高さは18m。
調圧水槽の天井部分がサッカーグラウンドとなっているので、地上からもその大きさをイメージすることができるでしょう。
内部は荘厳な雰囲気と、柱と空間の巨大さから「地下神殿」とも表現され、首都圏外郭放水路を象徴する人気の施設です。

(「同」HPより)

※78メートル×177メートルの広さと高さが18メートル。池袋のサンシャインビル一杯分の水を貯水できるとのこと。

巨大な柱は500トンの重さで全部で59本あるそうです。

江戸川歩きのとき、国道16号線の手前で、対岸に「地底探検 ミュージアム 龍Q館」という施設があることを知りましたが、行くことが出来ず。見学会もやっているそうなので、機会があったら孫でも連れて来てみるかな。

外観。

古利根川側の流入口は定かではありませんでした。

航空写真(2010年代のようす)。

「小渕橋」。

右岸から「隼人堀川」。

「起点(中川合流点)から17㎞」。

ついで、「姫宮落川」が合流。

釣り人が何人も。

川沿いの細道を進む。

右手は河川敷内の田んぼ。その先で行き止まりに。

右手に左岸堤防。

河川敷外の水田。

「起点(中川合流点)から18㎞」。

振り返ると、遠くに、うっすらと雪を残した富士山(↓)。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その3。見世蔵・土蔵。新町橋。上喜蔵河岸。粕壁宿。古隅田川。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-16 21:29:04 | 中川を遡る

                   蔵造りの家並み。一本、春日部駅寄りの道が「旧日光道中(街道)」

公衆トイレの壁面。

       前回紹介した「碇山のイヌグス」にちなみ、河岸のようすが描かれています。

その先には「新町橋」。

              「中川合流点から15㎞」。

日光道中 粕壁宿 新町橋上喜蔵河岸跡」碑。

新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29㍍)、横幅3間(約5㍍)の板橋で、高覧が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられた。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれる船着き場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「脇本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取りました。 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわいました。

※『日光道中宿村大概帳』によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模であった

「粕壁宿」は日光道中歩きの時に通過。2016年5月、6年前でした。建物を中心に再掲。

・・・


    
 「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。

    
 大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

    

    

蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。

中央奥に「最勝院」。

交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。 
高札場跡 浜島家住宅土蔵
 この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。 
 交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。

    
          「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。

・・・

「日光道中」は新町橋を渡り、その先を左折し、北に向かいます。

今回は、「大落古利根川」歩きです。新町橋を渡り、左岸に移ります。

左手から「古隅田川」が合流します(橋の上から上流を望む)。

かつて、隅田川利根川の下流に位置しており、武蔵国下総国の境界線となっていたと考えられている。埼玉県東京都にある2つの古隅田川はかつては利根川-隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)、元荒川中川、古隅田川(東京側)、隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられている。

なお、現在の埼玉県の古隅田川は元荒川の近く(さいたま市岩槻区南平野付近)を源として古利根川に向かって注いでいるが、中世以前は反対に古利根川から元荒川に向かって大河川が流れていた。

これは現在も一部に残る自然堤防跡や古文書において現在の古隅田川流域の東側地域(春日部市の旧北葛飾郡庄和町など)が「下総国」下河辺荘に属していることからも分かる。

その後、関東造盆地運動の影響により古隅田川一帯が隆起して、利根川の本流が現在の古利根川からそのまま中川に向かう経路を取る様になり、更に江戸時代利根川東遷事業やそれに付随した入間川の荒川・隅田川への付け替え工事によって利根川・中川・荒川(隅田川)が切り離され水位が低下、埼玉の古隅田川の流れも逆方向に向かうようになったと考えられている

(この項、「Wikipedia」より)

※亀有駅付近では、葛飾区と足立区の区界となっている「古隅田川」が存在している(ほぼ暗渠で、一部「東京拘置所」北側に流れが見られる―探索済―)。

                 この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

日光道中沿いの粕壁宿のようす。橋は、「新町橋」のみ。

                     2010年代のようす。

中央に東武線「春日部駅」。古隅田川の流れは変わっていない。

左岸から新町橋を振り返る。

※粕壁宿(春日部)内から遠ざかるので、春日部に縁ある二人の俳句を。

川縁の案内板を見逃したので。※案内板に掲載された句ではありません(たぶん)。

葛飾や桃の籬も水田べり水原秋桜子)

鰯雲人に告ぐべきことならず加藤楸邨)

春日部は「クレヨンしんちゃん」が特に有名ですが、それだけではないのです。そうそう「匠大塚」本店もあります。

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その2。風のテラス。イヌグス・タブノキ。芭蕉・曾良。千住馬車鉄道・テト馬車。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-15 21:59:34 | 中川を遡る

緑道に沿って、様々な草花が咲いています。小さなアジサイもいくつか。地元の方が管理運営しているようです。

             

「大落古利根川 風のテラス」。下流方向へ続く。

他の場所でも花壇など、環境整備に努めているようす。散歩しながらゴミなどを拾い集めている人たちにも出会いました。

「八幡橋」。賑やかな市街地になってきます。

「中川合流点から14㎞」。

「埼葛橋」。

           「国道4号線(現日光街道)」の橋梁。

整備された遊歩道。

左手の森に「イヌグス」の解説板があります。

古くからまちを見守り続けるイヌグス

江戸時代の粕壁宿は、米や麦の集散地として栄え、古利根川を利用した舟運が行われていました。この看板のある付近には、下喜蔵河岸(荷の積み卸し場)があったと伝えられています。舟の停泊に便利で、その岸辺が小高い丘であったことから、地域の人々はこの辺りを「碇山(いかりやま)」と呼んでいました。

また、この「碇山」にあるイヌグスの巨木は、船頭にとって船着き場の目印とされていたと伝えられており、「碇山のイヌグス」と呼ばれ、親しまれてきました。

かつては、夏になると、涼を求めてイヌグスの木陰に集まり、地域の憩いの場となっていました。子どもたちは、枝にロープを付けてブランコ遊びをしたり、昼時になると、近くで働いていた職人たちの食事場となり、イヌグスの枝の上で涼む人もいたようです。

このイヌグスは、現在も地域の人々に愛され、春日部の歴史を現代に伝える貴重な地域資源となっています。

     他の木々も鬱蒼と茂っている、その真ん中にイヌグスの古木があります。

はっきり分からないので、「Googleマップ」から拝借。

※「イヌグス」=「タブノキ」。

・・・漁業では海上から見て陸に高くそびえるタブノキを目印に位置を知り、魚を集める「魚寄せの木」として活用された。(「Wikipedia」より)

「春日橋」。

          どういう用途の舟? ではないか。

その先は、「古利根公園橋」。

立派なお屋敷。

「古利根川親水テラス」に案内板が。

奥の細道 曾良随行日記

三月廿七日夜カスカヘニ泊ル江戸ヨリ九里余 廿八日マゝタニ泊ルカスカヘヨリ九里 前夜ヨリ雨ル辰上尅止ニ依テ宿出 間モナク降ル午ノ下尅止 此日栗橋ノ関所通ル手形モ断モ不入  河合曾良

※尅=刻 廿=二十

解説

曾良随行日記のこの記述から奥の細道の旅の芭蕉が第一夜を春日部に泊まったことが確実視されています。新町橋は江戸時代に古利根川に架かっていたので、芭蕉と曾良は新町橋を渡って日光への道を急いだものと思われます。

(旧暦三月二十七日・・・新暦五月十六日)

草臥れて 宿かるころや 藤の花 松尾芭蕉

※「笈の小文」にある句。季語は「藤の花」で、春。

松尾芭蕉が貞享4年(1687年)10月に江戸を出て、尾張・伊賀・伊勢・吉野・大和・紀伊をまわり、須磨や明石を旅したときの俳諧、記録をまとめたもの。この句は、吉野山(桜の名所・歌枕)に向かうときの句。

『笈の小文』の一節

旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨てたれども、夜の料にとかみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼笥なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとゞすねよわく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶ほすゝまず、たゞ物うき事のみ多し。

        草臥れて宿かる比や藤の花

 

          草土手や 茶屋の前なる 鳳仙花   ※作者名が撮れていない!

         古利根公園橋正面にある千住馬車鉄道「テト馬車」のレリーフ   

明治26年(1893年)日光街道に、千住茶釜橋(現千住新橋付近)を起点とし大沢(現越谷市)まで、レールの上を馬車で人や荷物を運搬する千住馬車鉄道が開業しました。その後、粕壁(現春日部市)まで鉄道は延伸されましたが、東武鉄道の開業に伴い明治33年(1900)に廃止されました。

写真は明治28年(1895年)。

(この項、「草加今昔」HPより) 

ちなみにこの写真は、現市役所付近らしい。「日光道中」歩きの時にこの馬車鉄道の跡をたどっていたわけです。

※「トテ馬車」の由来は、お豆腐屋さんが吹くラッパを使って「トテー、トテトテトテー」と吹いて、馬の歩くリズムと合わせてお客さんに聞かせていたことから、そう呼ばれるようになったらしい。(「コトバンク」参照)

下流を望む。        

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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その1。鳰(にお)・かいつぶり。古利根きらめき通り。ゆりのき橋。川久保公園。葛飾。(「中川」を遡る。第4回目。)

2022-06-14 20:56:58 | 中川を遡る

今回、「大落古利根川」の起点まで歩くことに。橋がけっこうあり、左岸、右岸の歩きやすい土手道を探りながら歩くことにします。

「藤塚橋」からしばらく右岸(西側)を。「古利根きらめき通り」・「古利根川緑道」。

左岸(東側)は桜並木が続く道。右岸は日差したっぷりで暑い! 

古利根の 水なめらかに 鳰進む (高野素十)                              

                             ※鳰(にお)=かいつぶり。冬の季語。

                              鳰の海=琵琶湖の古名。

「万葉集」には、 

鳰鳥の 潜(かづ)く池水 心あらば 君に我(あ)が恋ふる 情(こころ)示さね 《大伴坂上郎女》

※「鳰鳥の」は「葛飾」の枕詞。

鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも

                                         《作者不明・東歌》

(「Wikipedia」より)

カモの子?もしくはカモの仲間? いえいえ、まったく関係ないです

全長26cm。夏羽では首は赤茶色、冬羽では黄茶色です。足には各指にみずかきがあり、潜水は大得意で、足だけで泳ぎます。小魚、ザリガニ、エビ類、大きな水生昆虫などを食べています。日本では全国に分布しています。
水ぬるむ春、池や沼や湖で、そこに浮いていたかと思うとアッという間にもぐってしまい、あちらの方でポッカリ浮かびあがる潜水の名手。カモなどと一緒にいると、カモの子供に見られてしまうことがありますが、親鳥です。水草を積み重ねて水面に浮巣をつくり、夏のはじめ、綿毛のようなかわいいヒナを連れて泳いでいます。
琵琶湖の古名は「鳰(にお)の海」で、鳰―カイツブリは昔から知られていたようです。

(この項、「サントリー日本の鳥百科」HPより)

※「古利根きらめき通り」には、案内板の下部に、このように、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が掲載されています。すべてが当地で詠まれたものではないようですが、歩きながら、果たしていくつ気がつくか? 楽しみです。

 古利根川の遊歩道(古利根きらめき通り)には、いくつかの案内板があります。案内板の下半部に注目していただきますと、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が書かれています。すべてが当地で詠まれたものではありませんが、松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子、水原秋桜子、加藤楸邨等々の俳句は、川歩きをする人々へ心の彩りを与えてくれます。

 春日部来訪者で1、2を争う著名人といえる松尾芭蕉(1644~1694)は、同行していた弟子の曽良の日記によると、元禄2年(1689)『奥の細道』の行程で日光道中粕壁宿に一泊したと考えられています(今日は何の日)。芭蕉が当地で詠んだ作品はありませんが、案内板には、大和国で詠まれた「草臥て 宿かるころや 藤の花」が選ばれています。想像をたくましくして、藤の花で有名になった現代の春日部へ、もしも芭蕉が訪れたとすると、このように藤花を愛でて句を詠んだかもしれませんね。

 古利根川と古隅田川沿いを実際に歩いたのは、近代俳句では著名な2人の人物、水原秋桜子(1892~1981)と加藤楸邨(1905~1993)です。旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)へ昭和4年(1929)に新任で国語教師として赴任した加藤楸邨は、中学校の同僚教師に勧められて俳句を始め、安孫子医院(閉院)に月2回ほど東京から往診に来ていた水原秋桜子から俳句の指導を受けていました。句会が終了すると二人は古利根河畔を散歩して、俳句について論じあっていたといいます。加藤楸邨は、昭和12年に辞職し、俳句を志すため大学に進学し東京へと移ります。この間8年、夫人や子供たちとともに、古利根川と古隅田川の河畔を歩いたことでしょう。夫婦で散歩していて、生徒たちにからかわれたというエピソードも伝わっているようです。

(この項、「春日部市教育委員会・郷土資料館」ポータルサイト」より

※「藤塚橋」の補足(上記の解説板に「さんぞうの渡し」と記されています。

 

昭和17~18年                    昭和25年ごろ

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

(この項、「春日部市教育委員会・郷土資料館」HPより)

やっと木陰が。

                   前方は「ゆりのき橋」。

              

                       その先、左には、「川久保公園」。

川久保公園は、埼玉県春日部市のほぼど真ん中の緑町にある大落古利根川の河川敷を整備して作られた公園です。園内には、珍しい石で作られた滑り台やベンチ、モニュメントがあります。
また、河川敷の水辺の自然をそのまま利用したビオトープがあり、多くの野鳥や水場に生きる生物を観察することが出来ます。
その他に、河川敷側の園路は春には桜が綺麗に咲きますので、桜を見ながらの気持ちいいお散歩やお花見がおススメです。
親子連れや仲間同士でのんびりと過ごすのに適した公園です。(「」HPより)

釣り人の姿。

             対岸も緑豊かな「牛島古川公園」。

東武野田線(アーバンパークライン)橋梁。

全線、ほぼ単線です。

牛島人道橋。

「中川合流点から13㎞」。

          ハンゲショウの群生地のようです。どれがそれなのか、分からず。

※ハンゲショウ は、ドクダミ科ハンゲショウ属に分類される多年草の1種である。カタシログサ ともよばれる。水辺や湿地に生え、高さ1メートルに達し、葉は互生する。夏に小さな花が集まった細長い総状花序をつけ、その周囲の葉が白く変色する 。東アジアから東南アジアに分布し、日本では本州以南から報告されている。

                    (「Wikipedia」より)

春日部市立東中学校。

この付近の1880年代のようす。

                                          「葛飾郡」とある。

葛飾郡は下総国の西端に位置する、南北に長い広大な郡で、南は東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区、千葉県市川市・船橋市西部、北は埼玉県杉戸町、茨城県五霞町に及んでいた。

※現在も杉戸町は、北葛飾郡となっています。

この地域は、東に「庄内古川(現中川)」と西に「古利根川」に、はさまれた微高地になっている。

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