おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

金沢城。兼六園。その6。

2018-04-27 21:00:29 | つかのまの旅人
                                 金沢城(正式名称は「金沢城公園」)・「石川門」。

「兼六園」とは「石川門口」で結ばれています。
兼六園と金沢城公園をつなぐ入口
 兼六園に向かい合って建つ石川門はかつては搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門でした。 2層の菱櫓と複数の門が組み合わされた枡形(ますがた)と呼ばれる複雑な構造になっており、敵が進入してきたときに勢いを鈍らせる目的で設けられたものです。白く見える屋根瓦には鉛を使用。溶かして鉄砲弾に作り変えるための工夫だったとも言われています。

(「金沢日和 旅ガイド」HPより)

                   



                 「石川門」の石垣について。
 この石垣は、右と左で積み方が違います。右側は「切石積み」左側は「粗加工石積み」となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられています。
 文化年間に書かれた文書には「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されており、石垣の積み方にもいろいろなこだわりや思いがあったことがうかがえます。

「二の丸・五十間長屋」を裏手から望む。

 左手にある「鶴丸倉庫」へ向かいます。その途中に、井戸の枠と「辰巳用水」の解説板。


                         
辰巳用水
 辰巳用水は寛永9年(1632)に建造された用水路である。金沢市内を流れる犀川の上流部から金沢城までのおよそ11㎞の水路の約半分の4.5㎞は隧道(トンネル)を掘削し、当時としては卓越した土木技術を駆使した用水である。
 寛永8年(1631)の大火で防火の必要が高まったことが建設の大きな原因といわれ、用水の水を引くことにより城内の堀は水堀となり、余水は城下町の用水として利用された。
 兼六園から城内二の丸までは地中に埋設された導水管により水が運ばれたが、堀を越えるために、いったん低い位置に導水管を設置し、高い位置にある二の丸に吐出口を設けている。これは「伏越しの理(逆サイフォン)」と呼ばれ、この原理を成功させるには漏水のない高い施工技術が必要となる。
 当初の導水管は木製であったが天保12年(1841)から文久2年(1862)にかけて越中(現在の富山県)の金屋石製の石管に取り替えられた。
 
「鶴丸倉庫」。

                         

金沢城鶴丸倉庫
 東の丸付段にあった武具土蔵です。江戸時代前期は2棟並列してありましたが、宝暦の大火(1759)の後は1棟となり、弘化5年(1848)、現在のものに建て替えられました。
土蔵造りの総2階建てで、屋根は切妻の瓦葺きとなっています。現存する近世城郭の土蔵の中では最大のもので、腰壁の貼石などの意匠は金沢城の土蔵建築を代表するもので貴重です。
HPより)

 明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていました。「国指定重要文化財」となっています。

 積まれた石垣のうち、刻印のある石が。
 
 刻印はそれぞれ異なっていて、石を切り出すときの作業分担や石材加工などを示すために付けられたともいわれています。その担当者(家臣)の目印として○の中に×があるもの、、田のようなものなど色々あります。

丑寅櫓跡」。本丸の東北角。

                      「兼六園」方向を望む。

城内を望む。

東の丸」跡。

辰巳櫓跡」。本丸の東南角。



           東南方向を望む。

本丸」解説板。
 古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、天正15年(1586)頃に天守を設けたといわれる。
 天守は慶長7年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。

鬱蒼とした草木に覆われています。

       

 
                                「三十間長屋」。

「解説板」。
 宝暦の大火(1759)の後、長く再建されず、安政5年(1858)に再建された長屋。大火以前は食器などを納めていたが、幕末の再建後は武器・弾薬を納めたといわれている。
 昭和32年(1957)国の重要文化財に指定された。
こちらは立派な解説板。
 金沢城では倉庫と防壁を兼ねた建物を長屋と呼び、建物の長さをとり三十間長屋・五十間長屋などと名付けられた。他の城郭においては多聞櫓と呼ばれる。

 さてそろそろ金沢駅に向かう時間。「近江町市場」もちょっとのぞいて、と「金沢城」をあとにします。
「近江町市場アーケード」入口。
 金沢市民の台所!近江町市場商店は現在約185店舗あります。
鮮魚・青果・菓子・昆布・蒲鉾製造販売・豆腐製造販売・花など食材、生活用品などピンからキリまで何でもそろいます。おみちょの魅力は新鮮で豊富な品揃えそして対面販売!威勢のいい売り子の声がひびく市場の雰囲気、旬の食材の調理法などお店の方とのやり取りはスーパーでは味わえないお買物の楽しさを味わえます。
 飲食店も多く市場の新鮮な旬の食材を使った美味しい料理が召し上がれます。
 お買い物・お食事に是非おみちょへお越しくださいませ。


 (HPより)

昨日とはうってかわって賑やかな雰囲気。

     

アーケードが縦横無尽に。  

 こうして「金沢駅兼六園口」正面へ。
鼓門・もてなしドーム」。

                      

 金沢はちょっと立ち寄るだけではもったないほどの見所満載の街でした。今度はじっくりと見て回りたいものです。
                                     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢城・兼六園。その5。

2018-04-26 20:51:58 | つかのまの旅人
                           登り口に芭蕉の句碑があります。
                 
                     あかあかと 日はつれなくも 秋の風



 卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。
 ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬、早世したりとて、その兄追善をもよおすに、 

  塚も動け 我(が)泣(く)声は 秋の風

 ある草庵にいざなはれて 

  秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子

 途中吟

  あかあかと 日はつれなくも 秋の風

 小松といふ所にて
 
  しほらしき 名や小松ふく 萩すすき

 この所太田(ただ)の神社に詣ず。
 真盛が甲・錦の切れあり。
 往昔、源氏に属せし時、義朝公よりたまはらせたまふとかや。
 げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。
 目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊唐草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ったり。
 真盛(さねもり)討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使せしことども、まのあたり縁記にみえたり。

  むざんやな 甲の下の きりぎりす

(『奥の細道』より)

 金沢から小松へ向かう旅路での吟詠。「七月中の五日」は陰暦7月15日。盂蘭盆会の日でもある。すでに秋の気配、その夕べの風情。「つれなく」は、「さりげなく」と「かそしらぬふり」の意。「も」の一語が活きている。
 先行する歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)がある。
「くりからが谷」は、富山県と石川県の境にある倶利伽羅峠。木曽義仲が牛の角に松明を点けて大軍と見せかけ、平家を敗走させたという古戦場。

苔むした道を上っていきます。



頂上にある四阿。

  

「辰巳用水」を取り入れたせせらぎ。

眺望台」からの眺め。能登半島方向。

水道の遺構」。

          
 園内を流れてきた辰巳用水がここから逆サイフォンの原理で金沢城二の丸へ導かれた水道の遺構である。寛永9年(1632)に作られたときは木管であったが、天保15年(1844)に石管に替えられた。
 この取水口を土塀で囲み三つの番所水御門を構えて厳重に管理していた。

        「徽軫灯籠(ことじとうろう)」。
  

                      

 霞ヶ池の北岸に配された兼六園を代表する景観です。徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので、高さは2.67m。かたわらのモミジの古木、曲水に架かる虹橋と一体となって優れた風景を醸し出しています。(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/21/より)

 この灯籠はこれまで何度も倒されたそうで、もともとは両脚とも同じ長さ・高さだったが、明治維新前後に片脚が折られ、石の上に乗っている。その特異な形のため、かえって注目を引くようになった、とか。
 1969(昭和44)年に修復されが、1977(昭和52)年に壊され、現在のものは、2代目だそうです。

満開の桜の下には大勢の外国人。

兼六亭」。
 室生犀星の小説「性に目覚める頃」お玉の掛け茶屋が今の「兼六亭」です。

 
                                「噴水」。
 この噴水は霞ヶ池を水源としており、自然の水圧であがっている。通常、水の高さは3.5㍍で、霞ヶ池の水位の変化によって変わる。1861(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっているが、兼六園の噴水はその試作といわれている。日本最古といわれている噴水である。(「パンフレット」より)

 そろそろ帰る時間ですが、名残惜しく「黄門橋」から「獅子巌」の方へ。
 

 結局、梅林、「時雨亭」、長谷池方面には行く時間がなく、お茶屋さん、お土産屋さんが並ぶ通りを抜けます。


  
「ゴジラ対金沢城」。                      「金沢城対キングギドラ」。 
   
江戸町跡」。
 平成元年に茶店の改築にともなって、埋蔵文化財発掘調査をおこなったところ、「江戸町」の遺構が確認された。
 「江戸町」とは、慶長6年(1601)に前田利常(後の三代藩主)のところへ二代将軍徳川秀忠の娘珠姫が輿入れ(嫁入り)したときに、江戸からお供してきた大勢の武士等が、長屋を建てて移り住んだ町並みのことである。

「兼六園案内図」。

 「兼六園」に別れを告げ、「石川門」から「金沢城」へ。前日行けなかったところへ向かいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢城・兼六園。その4。

2018-04-25 19:37:07 | つかのまの旅人
                         「霞ケ池」を眺めながら「成巽閣」方向へ。

                         

 正面奥に大きな建物。国の重要文化財「成巽閣(せいそんかく)」。


                  
成巽閣(せいそんかく)
 文久3年(1863年)に加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城からみて東南方即ち巽(辰巳)の方位に在るとして当初は巽新殿と名付けられたが、明治7年(1874)に兼六園が一般公開された時に成巽閣と改称された。
・・・幕末武家造りの遺構として他に類例がないものと高く評価されている。昭和13年国宝建造物に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている。建造物および藩政時代の美術工芸品が公開され、季節ごとの展示替えが行われる。

 4月16日までは「雛人形・雛道具特別展」を開催中。
                  

根上松(ねあがりのまつ)」。
 根が地上にせり上がった迫力の奇観で有名な黒松。13代藩主前田斉泰(1822~1866)が、稚松を高い盛土にお手植えし、徐々に土を除いて根をあらわしたものと伝えられる。

「明治紀念之碑」。
 像は日本武尊。明治10年(1877)西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑。明治13年(1880)に建てられた。

隣には見事な松。

 園内の樹木はどれもすばらしく、じっくりと見て回りたいところですが、時間も無く・・・


菊桜」。 
 日本で一つしかなかった天然記念物、兼六園菊桜の2代目。一つの花に花びらが300枚以上つき、ちょうど菊の花のように咲くことからこの名で呼ばれています。開花期は4月下旬から5月上旬までの約2週間。普通の桜と違って、濃紅、薄紅、白と色が移っていくのが特徴。全国にある桜のなかでも特に珍しい品種です。(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/21/より)
 見た目、身体中に包帯を巻かれたような有様で(もちろん、樹勢を保つためでしょうが)痛々しい印象です。
 
   
                 「七福神山」。
別名「つつじが岡」または「福寿山」とも呼ばれる築山に、七福神をなぞらえた天然石が置いてあります。「どの石が大黒様かな?」と探しながら見ると楽しいですよ。
七福神山は、12代藩主斉広が造った竹沢御殿の庭園の一部で、曲水護岸の石組み、雪見橋や雁行橋、雪見灯籠などの配置もほとんど当時のまま残っています。
(「」HPより)

園内は観光客もたくさん。

「霞ヶ池」の向こうは「内橋亭」。
 兼六園の中程にある大きな池「霞ヶ池」。その池のほとりに立つ お食事処・お土産処です。池の上に立つ水亭と手前のお部屋の間に橋が掛かっていることから「内橋亭」と呼ばれました。もと蓮池庭(兼六園の始まりとなった庭園)内にありました四亭の中の一つで、鯰之亭(なまずのてい)ともいわれており大変歴史のある建物です。(「同」HPより)



                 唐崎松」。
 兼六園の中で最も枝ぶりが見事な松である。13代藩主・斉泰が琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて実生から育てた黒松である。11月1日に雪吊り作業を始める。北陸の冬の訪れを告げる風物詩となっている。(「パンフレット」より)

(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/new/ivent/yukituri.htmHPより)



                雁行橋」。
 11枚の赤戸室石を使って雁が列をなして飛んでいる姿に作られているので雁行橋と呼んでいる。また、一枚一枚の石が亀甲の形をしているので別名を亀甲橋ともいう。(「パンフレット」より)

 今度は芭蕉の句碑がある「山崎山」に向かいます。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢城。兼六園。その3。

2018-04-19 20:14:39 | つかのまの旅人
 駅前からバスで「兼六園」近くのバス停で下車。途中、バスの車窓から眺めていると、「武蔵が辻」付近から賑やかな商店街が続き、「香林坊」という碑がある付近まで大きなテナントビルが並び、市内(石川県随一)の一大商業地という印象を持ちました。人通りも多く賑やか。
※「香林坊」
  町名の由来は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力である。(「Wikipedia」より)


 バスがその交差点を左折していくと、右手は「金沢市役所」「金沢21世紀美術館」と連なり、左手には「石川四高記念文化交流館」さらに「しいのき迎賓館」その奥に「金沢城」の石垣が見えます。


「石川県政記念しいのき迎賓館」。

 
         「堂形のシイノキ」(迎賓館前にある樹齢300年の一対のシイノキ、国の天然記念物)。

 旧石川県庁として1924年(大正13年)6月8日に竣工。石川県内の建築物としては初めて鉄筋コンクリート構造を採用したもので、国会議事堂などの設計を手掛けた矢橋賢吉による近代的な建築物である。石川県庁が金沢市鞍月に移転するまでは、永らく広坂地区のランドマークとして位置づけられていた。
 外観には武豊産のスクラッチタイルを使用したり、建設当時としては最新設備であった水洗式便所を採用するなど近代的な技術も取り入れている。
 2003年(平成15年)1月に、石川県庁舎の金沢市鞍月への移転に伴い跡地利用が浮上し、旧庁舎を活用。金沢城公園側はガラス張り構造とし、金沢市役所側は庁舎をそのまま保存する形で開業した。また、現在の施設には免震構造を採用している。

「堂形前」碑。
 加賀藩初期、京都の三十三間堂の「通し矢」を模した練習場があり、これを堂形と呼んだ。のち、そこに米倉が建てられた。

 
                               たくさんぼんぼりが並ぶ大通り「広坂」。

          

 「広坂」交差点の突き当たり左手が「兼六園」。「真弓坂」口から入ります。65歳以上、入園料は無料です。


園内案内図。

「兼六園」のいわれが刻まれた石碑。

兼六園(けんろくえん)
 国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。
 17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の一つに数えられている
 2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』には最高評価の3つ星に選ばれた。
 兼六園の名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。
 春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。
 とくに、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。
定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されている。
(以上「Wikipedia」参照)

「瓢(ひさご)池」。

               奥に「翠(みどり)滝」。

海石塔」。
 瓢池の中島に建つ、高さ4.1mの塔。虫が喰ったように穴の空いた淡茶色の笠石が、六重に重ねられている。3代藩主・利常がつくらせ、金沢城の庭園にあった13層の石塔の一部を移したという説と、朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち帰ったものを、のちに豊臣秀吉が、前田利家に贈ったという説がある。

 
 
              
伯牙断琴の手水鉢
 表面には中国の琴の名手「伯牙」が友人の死を悲しんで琴の弦を絶ったという故事が浮き彫りにされている。



              

「夕顔亭」。
 園内に現存する最古の建物で、1774(安永3)年に建てられた茶室である。茶室の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の透かしがあるので、夕顔亭という名がつけられている。本席は三乗台目で相伴畳を構えた大名茶屋。藩政時代は「滝見の御亭」とも呼ばれていた。


 園内はほとんど外国人。中国、韓国、フランス(耳に入る言語から)・・・他にも聞いたことのない外国語が飛び交っています。その人たちに紛れて、広い園内を案内図をもとにうろうろ。次は栄螺(さざえ)山に向かいます。
  

                        

振り返る。

頂上。



                          
                               「霞が池」を望む。正面に「唐崎松」。

 明日から海外旅行。投稿はしばらく中断します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢城・兼六園。その2。

2018-04-18 21:29:38 | つかのまの旅人
                           「橋爪橋」を渡っていきます。


橋爪門
 橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化5年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809)に再建された姿を復元しています。

雁木坂」。 
                                          これはその一部の復元?
 このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂という石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿への玄関に至ります。

 階段になった坂を一般に「雁木坂」といいますが、もともとは木組みで造られていたのではないかと思います。東京・港区麻布に「雁木坂」と呼ばれる坂があります。
  木漏れ陽の下の急坂。
                (「都内の坂めぐり」より。2015・5・18撮影)

広大な空間「二の丸広場」に出ます。
                            向こうに見えるのは、「菱櫓」と「五十間長屋」。



                     
二の丸~金沢城の中枢~
 初期の金沢城は本丸を中心とした城作りが行われていたが、寛永8年(1631)の大火を機に中心は二の丸に移った。敷地を拡張し大規模な御殿が作られ、以後、城主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。
・・・二の丸御殿は、幾度となく姿を変えながらも幕末・維新期まで御殿としての機能を持ち続けていた。その後、陸軍の兵舎として利用されたが、明治14年(1881)の失火により惜しくも全焼した。
 現在金沢城内に二の丸の名残は見られないが、御殿正面玄関にあった唐門は場外へ移築され、現在は尾山神社の東神門(国登録有形文化財建造物)となっている。

跡は広大な空間になっています。

「二の丸」解説板。開館時間を過ぎていました。

周囲も薄暗くなってきて、そろそろホテルに戻ろうと思います。
                                      大きな楼台石垣が残っています。

「大手門口」から望む。  
                                                  「大手町」碑。

「大手堀」。

「博労町南」交差点。

「旅館すみよしや」。風情のある建物。

 百万石の城下町、金沢。
すみよしやは、この街で最も長い歴史を持つ旅館です。
けやきの一枚看板、ひと抱え以上もある松の梁などに往時を忍ぶ姿が見られます。
時代は移り変わっても、「ようこそ金沢へ、きてもってあんやとね,
なんもないけど いんぎらあーと していってたいね…」の心で、
これからもお宿一筋に努めてまいります。
どうぞ、ごゆっくりとおくつろぎください。
HPより)

                    「べんがら塗り」。

こちらは伝統を生かした家屋。

「近江町市場」にも立ち寄りましたが、この時間だとほとんど閉まっています。明日に期待。


落ち着いた街並み。

 ホテルにチェックインしたあと、しばらくして夕食へ。金沢はおいしい食事処が満載。さて? 事前に調べておいたお店に。
 

                  
                            「能加万菜 郷(のうかばんざい KYO)
 器が九谷焼、輪島塗、ガラス工芸と凝っています。特にガラス製の酒器は抜群。ゆっくりと能登のお酒、焼酎を飲みながら「おばんざい・おまかせ八寸」などをつまみ、仕上げには氷見うどん。
 若い男女がカウンターの中で手際よく食事をつくり、運び。店内には静かにジャズが流れる、シックでモダンな色調の落ち着いた雰囲気。けっこう満足しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢城・兼六園。その1。

2018-04-17 23:00:51 | つかのまの旅人

 4月15日(日)。
 「新幹線」が金沢まで開通して以来、初めて金沢へ。前々からぜひ来て下さい、と。お祝いごとにかこつけて一泊二日で。上野から3時間余りの旅(「はくたか」は高崎から先は各駅停車。「かがやき」はもっと早く着きます。)に出かけました。

 会の終了後、駅近くのホテルまで送ってもらう車で途中下車。「金沢城」へ向かいました。その手前には、
「豪姫住居遺趾」。

 豪姫は1574年(天正2)加賀藩藩主前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と称せられる。
 1600年(慶長5)、関ヶ原の合戦に破れた秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰る。三代藩主利常より1500石を与えられ、この辺りで居住したと文献は伝えている。
 1634年(寛永11)5月23日、豪姫はこの地で60年の生涯を閉じた。豪姫の人生の半分は両親ゆかりの金沢で過ごしたといってよい。

その奥にある建物。          
 



通りを挟んで立派な旧家。

黒門口」から城内へ。お堀。

枝垂れ桜。 

「金沢城跡」・「兼六園」の観光案内図。


                    

「近江町市場」、「武蔵が辻」方向を望む。

 城内に入った入ったとたん、芝生がびっしり敷き詰められた大きな広場が目に入ります。人の姿も見当たらず、ジョギングする青年、散歩中のお年寄り。・・・
 出会った方。「ここはすばらしいよ、朝夕、散歩に来ているんだ。すぐ裏手に住んでいるんですよ。お城の中よりもここの方がずっといいよ。」

「新丸広場」。しっとり濡れた芝生が気持ちいい。

                  
 二代藩主前田利長が跡を継いで間もない慶長4年(1599)頃に、新たに拡張された郭が新丸であるといわれる。
 新丸の東側は越後屋敷と呼ばれ、もともとは剣術の達人で重臣であった富田越後守重政の邸宅であったことが名前の由来となっている。江戸中期以降、参勤交代で江戸に滞在する藩主に代わって重臣たちが政務を行う場として利用されるようになった。西側には城内の建築工事などを司る作事所や、登城した藩士たちの食事を用意する下台所があり、いわば、新丸は城内の官庁街ともいうべき郭であった。
 新丸の西側には南北に伸びる水場があり大手堀へと繋がっていたが、現在は埋め立てられている。

「湿生園」。大きな白鷺がポツンとたたずむ。

「いつももっといるよ。今の時間、他はどこかに行ってるんだな。」

右手上には大きな城郭が見えます。

「河北門」へ。「一の門」。

 
ニラミ櫓台と太鼓塀
 一の門の右脇に設置された二十櫓が「ニラミ櫓」です。大手筋に「睨みを利かせる櫓」という意味でしょう。背後に見える二の丸の菱櫓(三重櫓)の偉容とあいまって、大手筋に威圧感を与えています。創建は17世紀前半とみられ、宝暦の大火(1759年)で焼失しあとは再建されず、櫓台の上に太鼓塀を巡らすだけとなりました。

豪華な城門「二の門」。

 「河北門」は「三の丸の正面」で、金沢城の実質的な正門に当たります。現存する「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢三御門」と呼ばれていましたが、金沢城の建物の大半が消失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建され、明治15年頃に無くなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
 約130年ぶりに蘇った河北門は、平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。復元にあたっては、現存する絵図、古写真、文献及び埋蔵文化財の調査結果を踏まえて、史実を尊重し、日本古来の伝統工法によって、戸室石による石垣積み、漆喰仕上げによる白壁、軸組をはじめとする木工事及び屋根鉛瓦など、構造、仕上げ部材の細部にわたり石川の匠の技が発揮されています。(以上「解説文」より)

門脇に設置された楼台から新丸広場を望む。

「二の門」の櫓部分(二階)から城内を望む。

         

石川門」。
 三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから石川門と呼ばれた。石川櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す櫓でもあった。屋根は鉛瓦を葺いてある。
 国指定重要文化財である。
            「橋爪門」を望む。

「橋爪門」に向かう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「深代惇郎と新聞の時代 Tenjin」(後藤正治)講談社文庫

2018-04-11 22:37:27 | 読書無限
 「朝日新聞」天声人語の筆者として、今も語り継がれる深代惇郎さんと同時代の新聞界を描くドキュメンタリー。

昭和50年(1975)8月16日付け天声人語

 一昨日、昨日につづいて、もう一度「敗戦」のことを書く。敗戦によって、われわれの精神構造や行動様式は変わったか。30年の歳月は何を変え、何を変えなかったのか
 敗戦後9ヶ月して極東軍事裁判が開かれ、戦争指導者たちの責任が問われた。そこで指導者たちは何を主張したかを、丸山真男『現代政治の思想と行動』(未来社)からみてみたい。木戸被告(元内大臣)は、日独伊三国同盟について「私個人としては、この同盟に反対でありました。しかし現実の問題としては、これを絶対に拒否することは困難だと思います」と答えている。
 東郷被告(元外相)も同じ問題で「私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事には成り行きがあります」と述べた。大勢の流れに反対の意見を述べるのは私情をさしはさむものだ、という考え方であろう。「既成事実」こそすべての王であり、それに従わねばならぬという理屈は、他国人には理解を超えるものだったに違いない。
 この点で、小磯被告(元首相)を論難する検事の言葉は痛烈だった。「あなたは三月事件にも満州事件にも、中国における日本の冒険にも、三国同盟にも、対米戦争にも反対してきた。あなたはこれらに反対して、なぜ次から次へと政府の要職を受け入れ、一生懸命に反対する重要事項の指導者の一人になってしまったのか」(以上要約)
 これに対し小磯被告は「自分の意見は意見。国策がいやしくも決定せられました以上は、それに従って努力する」と答えている。指導者のだれもが戦争を望まなかったが、戦争は突如として天変地異のごとく起こったような錯覚さえ持たせる。実は「天変地異」ではなく国策であったのに、それに責任をもつ者は一人も現れない。そして勝手に「天皇」が使われ、「英霊の声」が利用された。
 「個人としては別だ」「それが世論だ」という言い方で個の責任を免れようとする無責任な集団主義は、はたして克服されたであろうか。

 このところのアベ政治への批判が高まる中、かえって、アベシンパによるマスコミたたきはますます激しくなっています。
 TVはもちろん、新聞に対しても、紙面に掲載された反アベ的言動に対して、激しくネットで揚げ足取り、非難(時には中傷)が飛び交い、「マスゴミ」という言い方とあいまって、「反日だ! 」は一部のネットでは当然の如く「快哉」「快哉」と叫ばれ、新聞報道やTV番組を「偏見・反日」と決めつける圧力団体・個人も登場。とりわけ、「朝日新聞」への批判、攻撃はとどまるところを知りません。

 特に、「朝日新聞」の森友問題での文書改ざんスクープ。当初は、ガセネタと批判していたが、それが本当だと確定されると地団駄を踏みながら、「憎っくき」朝日を追い落とすため、次の手を打ってきています。
 今回、加計問題でアベの関わりを暗示するような文書を紙面で公表した朝日に対して、またぞろ執拗な攻撃(キャンペーン)をしかけてくるでしょう。

 そんな朝日新聞。かつて、その朝刊一面の「天声人語」を担当した深代惇郎さんの評伝。それだけにとどまらず、当時の新聞、マスコミ界の記者群像を描きながら、マスコミ報道のありかたを考えさせる書です。

 戦前、軍部独裁にほとんど抵抗の筆を折られたまま、結局は破滅に導いた、その一翼を担ってしまった、という痛切な自己批判、反省の上から戦後のマスコミ界を担っていた若き記者たち、マスコミ関係者たち。その交流を描きながら、深代さんのジャーナリストとしての生涯を追っていきます。

 深代惇郎さんが天声人語を担当したのは、1973(昭和48)年2月15日から1975(昭和50)年11月1日までの2年9ヶ月でした。
 この間、内閣総理大臣は田中角栄から三木武夫へ。第4次中東戦争を引き金として石油危機が勃発、「狂乱物価」と呼ばれる超インフレが巻き起こり、企業倒産が続出し、トイレットペーパー買い占め騒ぎなども起きました。戦後初のマイナス成長、金大中事件、朴正煕狙撃事件、三菱重工ビル爆破事件、スト権スト、・・・内外ともに流動混迷の時代でした。
 
 そうした中にあって、深代さんはジャーナリズムは権力の監視を担うという信念を持ち続けていました。時の権力者への厳しい批判の目、特に田中角栄首相については厳しい筆で迫っています。

 担当してわずか2年9ヶ月、46歳で早世してしまいます。しかし、深代・天人の、視野が広く、柔軟な思考のもと、ウィットとユーモアに満ちた文章は、読者をうならせました。そんな文章を通して醸し出される彼の新聞人・ジャーナリストとしての真価・器量を同僚や先輩、また他社の記者たちの証言を通して明らかにしていきます。


 資料を駆使し、当事者へのインタービューなど、筆者の粘り強い取材力、視点なども本書の魅力です。一気に読ませます。

 「日曜版」で「世界名作の旅」シリーズが1964(昭和39年)が始まったとき、夢中で読んでいたことを思い出します。
 名作文学を素材にその作品の誕生の地を訪ね、随想としてまとめる、という企画物でした。深代惇郎がその中の「チボー家の人々」「風と共に去りぬ」など10編を担当していたことを、今回、はじめて知りました。

 ところで、現在の記者の取材力、それに基づく文章力はいかがでしょうか? 今のコラムニストの力量はいかかでしょうか? 権力の監視という不屈の精神を失っていないででしょうか?
 どんな理不尽で不当な圧力が掛けられてきたとしても、肩肘張ってではなく、ジャーナリストとしての誇りと気概を失わないでほしいと
思います。

 音楽評論家・安倍寧が、深代惇郎が『ドン・ホーテ』を脚色したミュージカル『ラマンチャの男』の主題歌「インポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)」を英詞で歌い始めたエピソードを伝えています。(P379)

To dream the impossible dream(決してかなえられぬ夢を見)
To fight the unbeatable foe(決して倒れぬ敵を向こうに回し・・・)


・・・歌い終えると、深代は少し照れくさそうな顔になって「あのミュージカルには、こんな科白もあるんです。ご存じですか?」といいつつ、さらさらっとこう書いた。

Facts are the enemy of truth(事実は真実の敵だ)

 道半ばにして倒れた深代惇郎を思うときに、まさに「impossible dream」を追い続けた強い意志を、今に生きる我々それぞれがどういうかたちで継承できているでしょうか?

 ある日の「天声人語」には群馬のとある私鉄の駅に掲げられている地元の方の詩を紹介しています。

一陣の風が
通りすぎた
あと
花が
香りを残してゆくような
そんなひとに
逢いたい

 実に感性豊かな人となりであったことが知れます。

 深代さんは、下町の浅草橋育ちで府立三中(現・両国高校)の出身。そんなことからも改めて親しみを感じました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「真空地帯」(野間宏)岩波文庫

2018-04-10 23:14:53 | 読書無限
 復刻版が出ました。

 1956年1月9日第1刷発行。2017年12月15日改版第1刷発行。

 という奥書になっています。

 アベ一強体制の下、森友問題での改ざんなど政府を筆頭に行政組織の腐敗・堕落が衆目にさらされ、さらに自衛隊においても隠蔽工作(意図的な資料隠し)が明らかになりつつあります。とくに最大・唯一の実力組織(暴力装置)における文民統制が危うくなっているのには背筋が寒くなります。
 強行採決によって成立した新安保体制の下、まして憲法第9条を改悪しようとするアベ内閣。いよいよ「依らしむべし、知らしむべからず」体制が、現実的で深刻な事態となっていくようです。

 こうしてさまざまな歪みが露呈する今日。久々に読み応えのある小説が復刻(といってもいいでしょう)され、戦前の(戦争末期の)軍隊組織の非人間的暴力的退廃(それは、個々の意思を越えた、戦争末期の組織ぐるみの退廃といってもいいでしょう)を目の当たりにしました。

 物語は敗色が濃厚になりつつある昭和19年(1944)冬、木谷一等兵が陸軍刑務所から仮釈放され、大阪にある連隊に復帰するところから始まります。前年の秋には学徒動員が決定し、この部隊にもその初年兵たちが配属されています。隊に残っているのは、後方待機になっている古参兵ばかり。同年兵はすでに(おそらくは死地となる)戦場へ派兵され、4年兵の木谷を知る者は誰もいません。

 なぜ、自分は軍法会議にかけられ、陸軍刑務所へ送られたのか?

 木谷はある日、部隊視察に訪れた林中尉が落とした財布を草むらに発見し、中身を抜いて財布を隠してしまいます。その行為が露呈して起訴され、2年間という懲役刑に。しかし、窃盗事件にしてはあまりにも罪が重すぎないか?

 林中尉の服から抜き取ったと決めつける検察官に対して、木谷は事実を訴えますが、検察官は、その証言を認めず、かえって朝6時から夜9時まで正座で壁と対峙するという過酷な拘束を強いられ、結局、彼は、嘘の自白を強要され、認めてしまいます。

 刑務所に入って2年。ようやく仮釈放になり、原隊に復帰した木谷。
 刑務所帰りだという噂が広がる中、彼の話相手として登場するのは、曽田上等兵のみ。二人のやりとりを通じてことの真相に迫ります。

 世間から隔絶された兵舎の中で入隊前の大学生、工員、サラリーマンなど、世間でのそれぞれの生き方、信条などが全く捨て去られ、兵舎暮らしの中で次第に「兵隊」となっていく。

 ・・・曽田は軍隊内務書を次のようにおきかえている。

 兵営ハ条文ト柵ニトリマカレタ一丁四方ノ空間ニシテ、強力ナ圧力ニヨリツクラレタ抽象的社会デアル。人間ハコノナカニアッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレテ兵隊ニナル
 たしかに兵営には空気がないのだ、それは強力な力によってとりさられている。いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる。・・・(P284)

 起床から就寝までの部隊内の日常が細かく描写され、まさに人間一人ひとりの心身にとどまらず、組織も「真空地帯」になっていく様が描かれます。

 木谷は外出時に出入りした遊郭の女性への手紙の内容が反軍的であるということも罪とされます。しかしそれは木谷を重い罪に陥れるひとつの根拠にすぎません。

 小説の終盤。南方送りとなった木谷の前に、除隊間近な林中尉が現れ、真実が明かされます。

 軍隊内部の強力な上意外達のピラミッドの構造。特に戦争末期、枢軸の一角が崩れ、次第に追い詰められてきた日本。その中にあって、激しくなる上官、古参兵によるいじめ・パワハラ。日常的に行われる理不尽な暴力行為。その一方で、指揮官である中尉や大尉クラスの腐敗ぶり。軍隊物資の横流し、金品の横領、出入り商人との収賄などが日常化している現実。

 凄惨な軍隊経験をした作者の実体験に基づく小説。「木谷」、「曽田」、「安西」(学徒出陣兵)という登場人物が作者の分身として、軍隊の反人間的な実態を語らせていきます。時にユーモアを交えて(語り口としての関西弁が効果的です)、「真空地帯」となっている兵営生活を。

 長編(文庫本)ですが、一気に読ませる厚みのある小説でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「水声」(川上弘美)文藝春秋

2018-04-09 21:15:32 | 読書無限
 久々に川上弘美さんの読書感想。というか、前に書いておいたものが中途半端なままで、つまり「下書き」で終わっていたので、改めて。

 2014年9月30日刊行。

 母が亡くなって、その後10年間そのままに空き家にしておいた東京・杉並の古い家に、姉の都は一つ下の弟の陵と住むことになる。・・・。
 夢枕に立った「ママ」。

 あなたたち、とうとう一緒に住みはじめたのね。・・・
 うん。住みはじめちゃった。
 夢の中で甘えた。
 ママはうすく笑い、
 あらあら、そんなことして、いいのかしら。
 と言った。おそろしかった。笑っているのに。
 ママはすぐに、消えた。起きてからも、ふるえが止まらなかった。陵には夢のことは言わなかった。(P12)

 ミステリアスな冒頭の一節。こうして読者を「川上ワールド」に引き込みます。 

 姉は、弟を愛している自分の感情におののき、両親にも誰にも隠していた。弟の方も同じ感情を持ち始め、ついに二人は肉体関係を持ってしまいます。
 その後、それぞれの道を歩んでいた姉弟。その弟が再び実家に姿を現したのは、母の死が迫ってきたときでした。夏、姉は弟と体を重ねる。

 決して起こらないことだと思っていたのに、それはいともたやすく行われた。
 不自然さは全くなかった。まるで体を重ねることを習慣としている男女のようだった。
(ふつうの男の体のよう)
 わたしは思っていた。
 陵と体を重ねる直前、もしも事が成ってしまったなら、時間はこののち決して連続的に流れないのではないかと予感した。けれど、そんなことはまったくなかった。する前。している時。した後。時間が不連続になることは、まったくなかった。空白も、爆発的な変換も、何もなかった。
 しているうちに、相手が陵だということを、一瞬忘れさえした。
 男と、している。
 それだけだつた。
 かつて恋人だった幾人かの男たちと体をかさねた時に、思わず「愛している」という言葉を口からほとばしり出させたような、あのやつあたりにも似た強迫的な感覚さえ、おぼえなかった。
 わたしの上で動いているのは、物質としての身体を持つだけの、何者でもない者だつた。そして、その下でうねるように動いているわたしも、ただの物質だつた。
 (だけど、なんてきもちがいいの)
 ただそのことだけを、わたしは感じていた。
 終わつてから、陵は恥ずかしそうに下着をつけた。
 「照れてるの?」聞くと、陵はうなずいた。
 「都だつて、そうだろ」
 顔を見合わせて、苦く笑った。今の自分の笑い顔は、きっとママに似ていると思った。陵の笑い顔は、パパに似ていたから。(P190)

 実は、パパとママも兄妹の関係だったことが二人の実の父親から明かされる。

 時の流れと共に、次第に青年期から壮年期、お互いに異性との恋愛を経験し、そして老いていく姉弟。そして、再会し、一緒に住みはじめてからの二人。

 閉じた目を開かないよう、力をこめる。陵の指の腹が、閉じたままのまぶたを、頤を、頬を、首筋を、なぞってゆく。あの夏、陵はこんなにゆるやかな動きをしはしなかった。あれは性急で、何かを押しっぶそうとするような動きだった。
 ゆっくりと、目を開けた。「するの?」
 「どっちでも」
 陵は静かに答えた。
 両のてのひらで陵の顔をはさんだ。ママのことを、少しだけ思い出した。でも、ほんの少しだけだ。
 「しなくても、大丈夫?」言うと、陵はうなずいた。
 「うん、そうだね。もう、どっちでも、いいね」かみしめるように、陵は答えた。
 だから、ふたたびわたしは陵の顔を両のてのひらで包んだのだ。
 どっちでも、いいの。そうだね。言い合いながら、互いの体をさぐる。体温のこもった布団の中で、足をからめる。欲情していなかったものが、ふれることによって少しずつ高まってゆく。体を重ねることで明らかにできることなんて、何もないことを知っているからこそ、ほがらかに体を重ねる。
 日曜日は、いいね。
 うん、ゆっくりできて。
 光がよく差してるよ。
 もうすぐ桜が咲くから。
 陵の足とわたしの足の区別がつかなくなってゆく。指も、腕も、脇腹も、背中も、頭蓋骨を包む薄い肌も、髪も、陵のものはすべてわたしのもので、わたしのものはすべて陵のもの。(P206)

 陵がわたしの体にはいってくるおりに、最初にふれあうのは、陵とわたしの体そのものではなく、わたしたちの体の中に蔵された水と水なのではないか。その時、水と水とは、どんな音をたててまじりあってゆくのだろう。(P215)

 物語は、1986年母の死前後に起こった御巣鷹山の飛行機事故、チェルノブイリ原発事故、そして1996年の地下鉄サリン事件に遭遇し死生観を考えさせられた陵、2014年に地震によって(2011年の東日本大地震で痛めつけられた築50年の家が崩壊の危機に)など不慮の死にまつわる事件や事故を織り交ぜながら、二人の人生を語り継いでいきます。

 パパ(健在ですが二人の子供たちとは別々に暮らしている)の残しておいた古時計が、物語の、そして二人の時を刻んでいく。

 2014年 都は56歳、陵は55歳。長年住んだ、その家・土地を離れ、二人のそれぞれの生活が始まるところで終わりになる。しかし、・・・。

 東京に戻ると、もう家はきれいに壊され、ただ平らな土地だけがあった。思っていたよりもずっと狭かった。ママの好きだったゆすらうめも、あじさいも、なくなっていた。
 また夏がくる。鳥は太く、短く鳴くことだろう。陵の部屋を、今日はわたしから訪ねようと思う。(P222) 
  
 近親相姦というまがまがしい(と世間的にはとらえる)の話を男と女の生き方(性にからめて)の話に昇華していく川上ワールドは、いつになくすてきでした。

水声
 水の流れる音。「谷川の水声」。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敵の敵は味方。

2018-04-07 21:13:05 | 世間世界
民進新党名、「民主」有力=立憲と本家争いも

 落ち目になってしまった(ふりの)アベを助ける新たな親衛隊が登場、としか思えない。

 「本家争い」と茶化されて「どっちもどっちだ!」と有権者を誘導させるマスコミ。
 
 それを承知の上で、新党を結成し、「民主」に。選管も丸め込んで、「民主」は無効票あるいは、折半。

 野党の結集といいながら、やっていることはあまりにもえげつない。  
 
 国民も、今のところ上げ潮ムードの「立憲」だって、結局、あの「民主党」と同じ穴の狢ではないか、と。
 
 ほそえむアベ。

同じ穴の狢(おなじあなのむじな)
【意味】
 一見すると違ってみえても、同類・仲間であることのたとえ。
 普通、悪事を働く同類の意味で使われる。
狢(ムジナ)は、狸に似た動物でアナグマの異名。
『和漢三才図会』より「狢」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田公園。4月3日。サクラ残照。

2018-04-04 20:22:44 | 世間世界
                      すっかりソメイヨシノが散ってしまった、隅田河畔。

 4月3日。「ソメイヨシノ」はもうすっかり葉桜になっています。足元は散った花びらで桃色に敷き詰められています。
 いっときの賑わいも終わり、静かな河畔を迎えています。
                      

 藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
 弘化2年(1845)11月、この地にあった水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに詠んだ漢詩。

 幕末の水戸藩士で勤王家として知られた藤田東湖(1806~1855)は、水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭った。その際母を助けて外に出たが、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、東湖は力尽きて下敷きになり圧死した、という。「小石川後楽園」にそれにちなんだ碑があります。

 「隅田公園」内には、シダレザクラやヤエザクラが咲いていて、散策の慰めになります。
「ハナガサ」。

隅田公園内。まだまだ桜を愛でる人々の姿。
 

樹木の向こうにはスカイツリー。

「ランラン(蘭々)」
 上野動物園の、亡くなったパンダにちなんだ命名。

「コウカ(紅華)」。 

   



                    

「フクロクジュ(福禄寿)」。

「ハナモモ」。 
                 東武線近く。                  こちらは墨堤通り沿い。 

「スカイツリー」。 

「ソラニハ(Soraniwa)」
            
「墨堤通り」。足元には花びらが。

帰りがけの親水公園で見かけた「カルガモ」。

  そのうち雛の姿も。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田公園。さくら。サクラ。桜。3月28日(水)午前。その2。

2018-04-03 21:34:19 | 隅田川

                                 遠くには墨田区役所の庁舎。
「ヤエベニシダレ」。
 エドヒガンザクラの枝垂れるタイプで、八重咲き。

 土手側に移動します。この付近の今昔。


1880年代のようす。右上の堀割は「山谷堀」。下の流れは「北十間川」。右下が現在の隅田公園。



2010年代のようす。隅田川に架かる橋は、上から「桜橋」、「言問橋」、「東武線鉄橋」。

「言問橋」上から北側を望む。

        

南側を望む。正面は墨田区役所。

   

隅田川上流。向こうの橋は「桜橋」。

まさに桜花爛漫。

「首都高」の下。

桜並木に沿って雪洞が提げられています。

あでやかな名入り。

対岸は台東区(浅草・今戸)。

「桜橋」から上流を望む。

「桜まつり」。地元の茶店も営業中。


               昼過ぎから夜まで。

               「・・・上り下りの船人が櫂のしずくを・・・」。
  

菜の花。 

  



          「ミヤビ(雅)」。

振り返って望む。

上流。遠くの橋は「言問橋」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田公園。さくら。サクラ。桜。3月28日(水)午前。

2018-04-02 20:58:01 | 隅田川

 3月28日(水)。晴れ。じじばばがそぞろ歩きの隅田公園。桜を愛でる人々。そんな隅田公園(墨田区側)を。

 
 序詞 野口雨情
                 都鳥さへ
                 夜長のころは
                 水に歌書く
                 夢も見る
  

立札
 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唄われたものである。
 東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
 昭和63年10月9日 墨田区

 何とも仰々しい「立て札」ではあります。

 ついでに台東区側の隅田公園にある歌碑、句碑。
「花」(滝廉太郎)の碑。「春のうららの隅田川・・・」

「羽子板や子はまぼろしのすみだ川 秋櫻子」水原秋櫻子の句碑。

 さて、墨田区側。
「住民が育てた墨堤の桜」。
 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1880年代から、地元の村の融資らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
 墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
 墨堤の桜が地元の人々に愛された桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

「墨堤植桜の碑」。

こちらは「平成植桜の碑」。

早咲きの「河津桜」。すでに葉桜になっています。

 隅田公園には土手に植えられた「ソメイヨシノ」の並木の他にも、単体でさまざまなサクラが植えられています。
「オオシマザクラ」。
 「長命寺の桜もち」のお店のそばにあります。
 ここは、正岡子規の仮寓の地でもあったようで、解説板があります。

 向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉

 近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の二階を3ヶ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次のような句を詠んでいる。

 花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ
 
明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も

 から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん

 と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。
 子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴き声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。

「エドヒガン」。

「ベニユタカ」。

 「シロタエ」。 

「ヨウコウ」。

 
                        「ヤエシダレザクラ」。

「センダイヤ(仙台屋)」。
 原木は高知市内の仙台屋という店の庭にあったことから、牧野富太郎が命名した。
              
「ソトオリヒメ(衣通姫)」。
  ソメイヨシノとオオシマザクラの自然交雑で生じた。

他にもたくさんの種類のサクラ。咲き終わったのや、これからのものも。撮り損ねたのもまだまだありそう。

公園内もソメイヨシノが満開。
                     
ソメイヨシノ」。

 「ソメイヨシノ」は、江戸末期から明治初期に、江戸・染井村の造園師や植木職人達によって育成されました(ただし、「吉野」とあるが、吉野山に多い「ヤマザクラ」とは別種)。
 「ソメイヨシノ(染井吉野)」は「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交配によってできたかなり限られた数の原木を始源とするクローンであることが判明しています。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)挿し木などによって増やしたもので、ソメイヨシノ同士の自然交配による純粋な子孫はありません。そのため、すべての個体が同一に近い特徴を持ち、一斉に咲き、一斉に花を散らす理由になっています。よくTVで見る「桜前線」は、そうした特徴をよく表しています。
 しかし、病気や環境の変化に負ける場合には、多くの株が同じような影響を受け、植樹された時期が同時期ならば、同時期に樹勢の衰えを迎えようです。
 公園や街路樹などでソメイヨシノばかりが植えられている現状にはこれでいいのかとうなってしまいますが・・・。

     根元にも花が数輪。

「明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯」の碑。

 「隅田公園」は、関東大震災後の復興計画の中で、、三大公園(あとの二つは「浜町公園」と「錦糸公園」)の一つとして計画されました。隅田公園は、隅田川の両岸にあって、徳川吉宗以来、桜の名所であった隅田川堤と旧水戸藩邸の日本庭園(墨田区側)を取り込み、和洋折衷の大規模な公園として整備されました。

  
    「ユリカモメ」が数羽、羽を休めています。

 主人公として在原業平が想定されている『伊勢物語』の「九段 東下り」に登場する「都鳥」は、ユリカモメを指しています。

 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。・・・さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 ここでの「都鳥」は「ユリカモメ」だとされています。当時、京の都には飛来していなかった鳥のようです。
「ミヤコドリ」。(「Wikipedia」より)

                   

               

                 

「ゲンペイモモ(源平桃)」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする