おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その5。大沼工業団地。向谷橋。「一級河川 中川起点」碑。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-13 20:50:33 | 中川を遡る

         「繰舟落とし」の両岸に大きな工場が連なる。

この橋を渡り、右岸へ。

繰舟落としを横断する水路橋。

その上流にある橋。

このあたりで、道を間違えたことに気付きました。

そのまま、県道84号線(羽生栗橋線)へ出ます。さらに、「埼玉県立特別支援 学校 羽生ふじ高等学園」脇を通って、中川に架かる「向谷橋」へ向かいます。

学園に稲が干してありました。

中川の起点まで、500M弱。ここで、やっと「中川」に出会うことができました。

向谷橋。下流を望む。拡幅整備されています。

      

上流(起点)方向を望む。

起点までの左側、公園のところに橋が架かっています。それが最上流の橋ということに。そして、

やっと着きました。「一級河川 中川起点」碑。

起点からの下流。

           

河口から約80km!。

突き当たり、立体交差しているのは、葛西用水。上流方向(利根川方向)。

   下流(東京)方向。    

この付近の今昔。

1880年代のようす。

が中川の起点。斜めに葛西用水。西側には水路はない。蛇行している流れが「繰舟落」。

2010年代のようす。

北側に市街地が広がっているが、南は今も田園地帯。東武線・羽生駅は西北に位置する。

西に続く「宮田落」から、「葛西用水」の下を伏越(サイフォン)で通過し、「中川」となります。

羽生駅へ向かうために、宮田落を遡ります。

けっこう歩き、やっと羽生駅に着きました。利根川歩きのときに利用したことがありました。

さて、墨田区・江戸川区の境界・旧中川河口から、延々、途中、はしょったり、迷ったりしましたが、一応、これでクリア、ということで。

現「中川」の本流だけでなく、「中川」へ合流する「古利根川」は起点まで歩き、「行幸湖(権現堂川)」も歩きました。

いつも身近にある川「中川」。

こうして起点まで遡ることで、市街地、田園地帯を流れる川の姿、そして地域住民の治水、自然保護、共生などの歴史などを実感したことが貴重な経験でした。

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JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その4。加須吉沼。道下橋。中荻大橋。繰舟(くりぶね)落とし。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-12 21:09:30 | 中川を遡る

                    東北道の側道を歩き、左折して中川土手に。

加須吉沼。

左手に加須吉沼。広大な面積を誇るヘラブナ管理釣り場です。5本ある桟橋からは、水深2~6メートルまでタナ(水深)があり、短竿の浅ダナから長竿の底釣りまで様々な釣り方を楽しむことができます。

加須吉沼の特徴は、魚影が濃く数釣りが楽しめること。加えて「活き餌」の使用以外の規定が無く、自由な釣り方を楽しめます。

初心者でも比較的釣りやすいオカメの使用もできる為、入門者におすすめの釣り場と言えるでしょう。

(この項、「」HPより)

けっこうたくさんの釣り人が。

ここまでの土手歩きを振り返ると、「権現堂堤」の上流から、魚釣りをする人は見かけませんでした。特に、この付近では農業用水の排水路なので、魚は棲めないのか。

※この先も釣り人の姿は見かけませんでした。

       

田んぼの畔道をたどって、ようやく「中川」土手に。

「東北道」方向を望む。

上流を望む。

道下橋。かなり古びた橋。

橋から上流を望む。足もとが気になります。

左岸に移ります。

振り返って望む。

中荻大橋。

その先、右岸にも池が。

この先、右岸側に繰舟(くりぶね)落としが合流します。

       右手・手前が繰舟(くりぶね)落とし、左手・奥が中川。

繰り舟落としの上流。

こちらが中川の流れ。

ここで、重大なミス。

2つ並ぶ橋のうち、向こう側にある橋を渡って、中川を遡らなければならなかったのですが、そのまま右岸(繰舟落とし側)を歩いてしまいました。

かなり先に行って気付いたのですが、そのまま・・・。

※そのため、中川に架かる天神橋、弁天橋、藤北橋等は通りませんでした。

ここから先は、「繰舟落とし」沿いの歩きです。

上流を望む。

左岸に調整池。大きな原っぱ。

                  正面奥の方に中川の流れがあります。

前方に大沼工業団地。古い橋。

             中川の北側一帯と繰舟落としの北側にある大きな工業団地。

                     2010年代のようす。

 中央の流れが「中川」、下方の流れは「繰舟落とし」。右端が分岐点。工業団地内から中川は改修工事が進んでいる。

 

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JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その3。火の見櫓。雁波橋・西道橋と次々に。戸川橋(日本橋)。東北自動車道。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-11 20:40:13 | 中川を遡る

              火の見櫓。

「雁波(がんなみ)橋」。

近くに大きなお屋敷。

             

「西道(さいどう)橋」。

振り返って望む。

上流方向。

足もとにバッタ。

 

 

「西道橋」の上流に架かる橋が「学校橋」。人道専用橋。

                           付近には学校はなさそうですが。 

上流に橋が見えます。「日本橋」? 

         右手の広場に、「戸川町屋土地改良区竣工記念碑」。

                    掘割り。

「日本橋」。下流を望む。

※「Googleマップ」では「戸川橋」となっています。かつては特徴的な意匠の欄干のある橋だったようです。

この先は、「東北自動車道」の下をくぐります。

             

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JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その2。一直線の水路。鷹野橋。天神橋。十軒橋。・・・赤城山・筑波山。やぐるま街道。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-10 20:44:01 | 中川を遡る

          右岸を歩きます。対岸は、「埼玉園芸市場」。

「内野橋」までは、1617年(元和3)に完成した灌漑用水路「手子堀」沿いを歩いたため、中川に架かる「鹿沼橋」、「板橋」等は通りませんでした。

その隣でも大きな建設工事。

田園地帯が広がります。

鱗雲?

川沿いの直線道。下流方向。

上流方向。見渡す限り一直線。車、人とも遭わない。

鷹野橋。

上流を望む。遠くに上州の山々が。

赤城山(↓)。

天神橋 

上流を望む。

※橋の名については、親柱に刻まれた橋の名はほとんどなく、また、次々と橋が架かっています。そのため、先人の記録を頼りに記していますが、定かではありません。

天神橋。

                     遠くに筑波山(↓)。

JAの施設。「利根川のめぐみ ほくさいのお米」とあります。

「十軒橋」のたもとには「やぐるま街道」ポケットパークがあります。

        

この道路は、江戸時代から明治初期まで河川交通で栄えた大越(おおごえ)と、その後東武鉄道の開通を機に繁栄を遂げた加須市内とを結ぶ道として、加須市の伝統工芸品である「こいのぼり」を象徴した個性的な街づくりの一環として整備した、市を南北に貫く花と緑のネットワーク道路です。

また、加須市は利根川沿いに開けた水田地帯であるため、河川や用水路が多く流れていることから、この河川等で魚が元気に泳ぐ姿を市の伝統工芸品である「こいのぼり」に、南北を縦断するこの道路をこいのぼりの竿に、この竿の頂点にある矢車を大越の利根川と見立て、その矢車に通じるということで別名「やぐるま街道」と呼んでいます。

この「やぐるま街道」は、「桜」「ハナミズキ」や市の花「さつき」が植栽されているほか、こいのぼりのモニュメントやポケットパーク等が設置されており、桜が咲き楽しく歩けるみちとして親しまれています。

また、「ジャンボ鯉のぼり」の遊泳等様々なイベント会場となる利根川まで来訪者を導く案内路であるとともに、緑と花に親しまれる散歩路等が「やすらぎと潤い」のある空間を醸し出しています。

加須市の鯉のぼり産業は明治時代から続いています。全長100メートルのジャンボこいのぼりは、昭和63年に開催された「さいたま博」に合わせ、加須青年会議所により加須市のPR作品として制作されました。その後、専門家の助言などをいただき加工・修繕し、ジャンボこいのぼりは平成元年第1回加須市民平和祭で公式に初遊泳されました。それ以来、毎年同イベントの目玉行事として、ジャンボこいのぼりの遊泳を実施し、現在は4世が活躍しています。

2世データ 全長111メートル 重量730キログラム

   4世データ 全長100メートル 重量330キログラム

   (この項、「」HPより)

句碑。日本の 空の長さや 鯉のぼり 水尾

その隣には詩碑「日と水と」。

前に水あり 後ろに空あり ・・・前に誓ひあり 後ろによろこびあり 感謝あり

解説板。

         俳句・詩は、どちらもも地元の俳人 落合水尾さんの作品。

ここで、小休憩。歩き初めて約80分。

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JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その1。八ツ島橋・古い橋。道橋。合流する落水(堀)。内野橋。天神堀。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-09 20:23:29 | 中川を遡る

                      起点にある解説板。

10月9日(土)。晴れ。

久々の晴れ間。今回で「中川を遡る」の最終回にしようと、出かけました。前回同様(同じ事を繰り返す)、途中で迷い、途中、中川から外れ、最後、何とか起点にたどり着きました。

今回。前回の最終地点までは、バス便がない。そこで、JR東鷲宮駅から朝日バスに乗って、「豊野コミュニテイセンター」まで。そこから上流に向かって歩くことにします。

「県道3号線」が通る「門樋橋」(前回の最終地点)から工業団地までを省略するかたちになります。

      

                    田園風景。遠くの山々まで見渡せます。

左岸を歩きます。

              

途中で見かけた大きなお屋敷。

                   

前回の時とは違い、日差しはあるものの、爽やかな天気。

前日までの雨で水は濁り、けっこう流れも速そう。その中に、水鳥(たぶんカルガモ)の姿もチラホラ。

今日最初の橋。

「八ツ島橋」。人道専用橋。欄干はボロボロでかなり古い橋。橋名の八ツ島はこの付近の子字名。

下流を望む。

         上流の橋「道橋」には、短い距離で。

道橋」脇に設置された「一級河川 中川」の標識。

この先、通行不能のため、橋を渡ります。合流する落水「手子堀」の土手を進むことに。

 

「農榮橋」。この落水(堀)から右折して中川へ。

「内野橋」。そこにあった「天神堀」という標識。

河川改修前は、この付近の中川は、天神堀(この付近の上流)や島川(下流)と呼ばれていました。

この先、中川土手を歩きます。

下流を望む。

上流を望む。

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東武線「幸手駅」~「栗橋駅」。その3。島川の流れ。カルガモ。JR宇都宮線。県道3号線。(「中川」を遡る。第7回目。)

2022-10-04 21:26:57 | 中川を遡る

               「久喜宮代衛生組合 八甫清掃センター」。

新幹線の鉄橋をくぐり、すぐ上流にある橋を渡ります。

下流を望む。

上流を望む。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。中川(旧島川)のようす。

けっこう大きな流れになっている。自然堤防が現在も残っている。利根川東遷後も、大きな川としてあり、両岸には「塚」という地名があり、微高地だったことが分かる。

                     2010年代のようす。改修された中川。

左が新幹線。左岸に旧土手が細い道に。

右岸を上流の「島川橋」に向かって歩きます。

新幹線高架橋。

水鳥。大きくなったカルガモの姿も。

田園風景が広がる。

「稲荷木排水路」。

ヨシの原。

          

しかし、この先、「島川橋」の改修工事のため、土手道は行き止まり。土手を下りて歩くことに。

迂回してやっとたどりついた「島川橋」から上流を望む。

橋を渡って左岸へ。ふと下を見ると、カルガモの姿。

TVなどで見る雛を連れてのカルガモの移動シーン。そのカルガモたち。大きくなって、こうして広々とした川面で生活しているのですね。

下流を望む。

この先、渡ろうとしたJR宇都宮線の踏切付近も大工事中。大きく迂回せざるをえません。

遠くに中川に架かる水道橋。

大きく迂回して踏切を渡ります。

     

畔道のような道を歩き、大きな「県道3号線(川越栗橋線)」に出ます。

左折して進み、中川に架かる橋を渡って右岸を歩けばよかったのですが、そのまま左岸を歩くうちに、工場地帯に紛れ込み、また県道3号線に戻ってしまうしまつ。

午後2時近くになったので、ここで挫折。沿道のお店に入って遅い昼食を食べて、今回は、お終い。

そこから最寄り駅はJR・東武線「栗橋駅」。けっこう歩きました。学校帰りの高校生の後をついて、駅まで。

次回は、どこから歩き始めるか、思案中です。

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東武線「幸手駅」~「栗橋駅」。その2。かつての利根川本流(権現堂川)。狐塚。東北新幹線。(「中川」を遡る。第7回目。)

2022-10-03 21:17:48 | 中川を遡る

                      広場の四阿。左手奥が中川の流れ。

その手前の農家の道路端にはコスモス。

     周囲のようす。

                     ここで、小休止。

さて、先を続けます。

                     右手は狐塚というところ。歩いているところは、自然堤防の一部。

右手に池が。

この「内池」は、天明六年の洪水によってできた「落ち堀」。その3年前に起こった浅間山の噴火の影響で火山灰などが堆積し、中川(当時は島川)は、河床が上昇し、洪水が起こりやすくなっていました。

「狐塚ヘルシーパーク」。 

 「ヘルシー」という名前のとおり、おもに大人が健康を保つための遊具が置かれています。トイレがあります。

「昭和橋」。

中川左岸の久喜市狐塚と右岸の幸手市松石とを結び、埼玉県道316号線(阿佐間幸手線)が通ります。

この先は、中川を見ながらの土手歩き。

「昭和橋」を振り返る。

                      右手が久喜市、左手が幸手市。

暖かい日差しの下、のんびりと。というか、暑い、暑い!

遠くに「東北新幹線」「秋田新幹線」「山形新幹線」。連結された列車。

       

                   一面に広がる、まだ刈り入れの終わらない稲穂。

            

 

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東武線「幸手駅」~「栗橋駅」。その1。権現堂堤・彼岸花。行幸橋。中川旧流路。(「中川」を遡る。第7回目。)

2022-10-02 20:31:47 | 中川を遡る

                     「権現堂堤」。                              

久々に「中川」の上流を歩きました。予定では、「権現堂堤」から上流を行けるところまで、と。

ところが、JR宇都宮線の踏切から先の道に迷い、行ったり来たり。

うろうろしたあげく、暑いくらいの陽気の中で歩き疲れ、途中、県道沿いのお店に入って、遅い昼食。

その先は諦めて、栗橋駅まで戻ることに。結局、駅の数としては二駅分。

それでも、青空の下、久々の歩きでした。

幸手駅から歩いて約40分。日光道中歩き以来の「幸手宿」。そして、「権現堂堤」へ。

前回、中川歩きで今年の6月に来たときは、アジサイの花がたくさん。今回は、彼岸花が。

少し時期は遅かったですが、それでも、堤一面、彼岸花。

         

                          白色のものも。

        

土手上にあるのは、「行幸堤之碑」。

行幸堤(みゆきづつみ)之碑」。

 権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
 明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
 人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
 明治22年の町村制施行によって高須賀村。外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併し行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
 また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなっために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。

さて、上流に向かいます。

   権現堂堤・西端。

「行幸橋」からの中川。

これより上流の中川は、かつての「権現堂川」に流路の変更を行った「島川」(一部、開削された水路)になります。

橋を渡って左折し、すぐ右折しますが、この道は旧「日光街道」。

右に折れる。

                前方は、東武日光線の鉄橋。

旧日光街道から分かれ、左の道へ。東武線のガードをくぐると、中川の土手へ。

東武線の鉄橋を振り返る。

中川の流れ。

右手には、一面、刈り入れが終わった田んぼが「広がる。

こちらは、畑。

             農作業中のご婦人に聞くと、ネギや小豆を植えている、とのこと。

少し回り込み、中川に合流する流れに架かる橋を渡ります。

大排水路。

この流れの桜並木がすばらしい、とか。

再び、中川の土手道へ。

河川敷に遊歩道があります。

この付近は、かつて流れが大きく広がっていました。

1880年代のようす。中川(旧「島川」)の氾濫原(沼地)。

2010年代のようす。自然公園風になっています。かつての土手が現在の道に。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その5。木造校舎・幸手市郷土資料館。幸手の土器。宇和田公園。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-07-03 21:20:45 | 中川を遡る

                      「吉田橋」を振り返る。

ビワの木。けっこう実っています。

実をとっている方に「結構大きいですね」「甘いです。鳥が食べちゃうんですがね。」一房、頂きました。甘くて美味しかった!

その先、右手に、洒落た和風建築の建物があります。「幸手市東公民館」。

その前にある解説文。

庄内古川とも呼ばれるこの川は、昔の姿を保ちながらゆったりと流れて、権現堂桜堤の脇を通り、宇和田公園の所でゆるやかに南に曲がってここに至ります。平成3年5月に開館した東公民館は、和風建築の外観で、国際交流の場としても活用できる生涯学習の拠点となっています。春には菜の花やカラシ菜の小さな花の群れがカーブを描き、桜と色を競っているようです。

その隣に古い木造校舎。

回り込むと、「幸手市郷土資料館・民具資料展示室」です。

むかし懐かしい木造校舎の「民具資料展示室」について

民具資料展示室の建物は、昭和24年5月に竣工した元の吉田村立吉田中学校の校舎です。半世紀を経た木造校舎のたたずまいは、訪れる人に子ども時代を思い起こさせるノスタルジックな雰囲気を醸し出しています。

吉田中学校は、昭和53年3月に廃校となり、翌54年4月からは吉田幼稚園の園舎となりました。

その後、昭和55年7月に文化財保護関係委員を中心にして始められた「民具を集める運動」により数多くの民具資料が収集されます。

昭和59年9月に吉田幼稚園が移転したため、同年12月、現在の場所に民具資料館を開館し、衣食住・社会生活・農業・漁撈・職人などのテーマに沿った民具資料の展示が始まります。

平成24年からは15年にわたる市史編さん事業の成果に基づき、市の歴史や指定文化財、偉人の展示を加え、内容の充実をはかり、市民への地域学習の機会を提供してきました。

そして、平成30年10月23日、幸手市郷土資料館の開館にともない、民具資料展示室として新たなスタートをきりました。

かつての教室にそれぞれのテーマに基づいて懐かしい民具が展示されています。とくに田んぼの作業に関わる農機具がたくさん置かれています。また、日用品や船道具など所狭しと展示されていました。

非常用の船。

洪水の記憶なども写真など詳細に。この地域の治水の歴史など知ることができます。

東京の隅田川以東の下町でもカスリーン台風などの水害の歴史があります。半世紀以上の昔の出来事とのみにせず、人々の歴史の教訓を活かしたいものです。

その意味で、この資料展示など後世に伝えていくことの大事さを感じます。

新しい資料館では、企画展示として「土器からみえる 人びとのくらし」をテーマに「幸手の土器」展を開催中でした。

~土器の見方を知れば郷土の歴史がみえてくる、原始・古代の幸手の歴史をのぞいてみよう~

         縄文時代のペンダント。

     アサリなどさまざまな貝が出土しています。(縄文時代の貝塚から)

興味深いものがあります。ただし、弥生時代の遺物はまだ出土していないようです。

帰りしな、係の方から、以前の企画展示で行った「権現堂堤の歴史~江戸時代の幸手と周辺の河川、用悪水路の変遷~」の資料をもとに説明して頂き、今後の中川歩き、すでに歩いた江戸川などの歴史を知る上で、大変参考になりました。

資料が充実していて、地域の生活(特に、治水)の深く貴重な歴史を知る上で大変参考になります。

さて、今回の、残りわずな道のりを急ぎます。

「古川橋」。

       ※バス停名が、朝日バスは「吉田橋」、コミュニティバスは「古川橋」となっています?

左岸は、遊歩道(「ふれあい散策路」)に。

が、橋を渡って右岸を進みます(※左岸の遊歩道は、この先の橋の下をくぐって、上流に向かう)。

左は一面緑の田んぼ。

上流の左岸は、草刈り作業中。

     用水路。

「新船渡橋」。

            前方左が上流にある「宇和田公園」。かつての「権現堂川右岸」にあたります。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。細い流れが中川の前身?

大正から昭和にかけて、右岸(現在の宇和田公園付近)を開削し、現在の中川の流路ができました。

                     2010年代のようす。

中央が中川。右端に江戸川の一部が見える。かつての権現堂川は、「中川上流排水機場」で江戸川へ。

ここで、先日「権現堂堤」から歩いたときの「中川」と結びつきました。

遠く江戸川土手を望む。

今回は、ここまで。

橋を渡り、左岸際にあるバス停「ひばりヶ丘工業団地入口」(朝日バス)から乗車、「東武動物公園駅」に向かいます。

次回は、権現堂堤からの中川上流へ。葛西用水との出会い・起点までの予定。

しかし、この暑さが、いつまで続くことやら。台風4号の動向も気になるところ。

さて、いつになるか。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その4。中川(放水路)の開削。天神橋。吉田橋。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-07-02 20:48:56 | 中川を遡る

                     前方が開けてきて、橋が見えてきます。

ここまで暑い日が続くとは、まったく思いもよらず。せめて、川沿いの、少しは涼しげな風景を。

といっても、♪利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟 という風情には残念ながらほど遠い「中川歩き」ですが。

もちろん、今日みたいな日に歩いたら、危険!

               

「天神橋」。

実は、現在の中川の流れと明治初期の様子はまるで異なっています。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。上に「天神橋」。

   周囲は、田園地帯。今の季節、田んぼの緑があざやかです。       

しかし、1880年代では、灌漑設備が整っていないせいか、水田は、わずかなようす。

                     1880年代のようす。沼地と細い流れがあるのみ。

  歩いてきた右岸の林の中の小道は、上の図で自然堤防のところのようです。その東側に中川が開削されました。

明治13年陸軍作成「迅速図」(※上図と同様、「歴史的農業環境閲覧システム」)には、越谷市、吉川市、松伏町にまたがる地域に現在の中川の流路がありません。これは当該区域の中川が後世(大正・昭和)に開削により造られたことを物語っています。

この地域の上流には庄内古川と呼ばれる川筋があり、松伏町金杉あたりで東へ屈曲して江戸川へ注いでいました。庄内古川は江戸時代寛永末から正保にかけて開削され、北葛飾郡北中部の悪水路(農業用排水路)として利用されていました。しかし、下流の地域は排水不良で水禽の遊泳地のような状況になっていました。明治になっても状況は変わらず、明治44年8月5日、庄内古川管理者北葛飾郡長武田熊蔵(※)から平田内務大臣に「江戸川改修ニ伴フ庄内古川前後処分ニ関スル意見書」等が提出されるなど、江戸川を改修するに併せて庄内古川の改修を要望する声が上がっていました。

既にこの時代に排水機場の設置など検討されていましたが、住民の賛同がなかなか得られない状態が続いたようです。しかし、金杉村(現在の松伏町金杉)の岡野平八という人が自己の資金で排水機場を設置して関係住民と請負契約をして排水を行っていたという記録が残っています。この効果が非常に大きく、明治39年以降この地域では悪水路普通水利組合が続々と設立されて、大正12年の排水機による治水対策が講じられました(出所:庄内古川外三悪水路改修工事概要)。

要望もあり、大正4年に内務省が中川改修を発表し、庄内古川を付け替えて大落古利根川に疎通することとなりました。江戸川に流入していた庄内古川の流末を松伏町金杉付近から人工的に開削して越谷市増森地先の大落古利根川につなぐといった大工事を断行したのでした。これにより吉川市大字川藤、大字須賀が吉川市から切り離されて飛び地となったのは、この開削工事の結果です。

この改修事業は、内務省東京土木出張所があたりました。当初大正11年度をもって終了する予定でしたが、大正14年度に変更され、さらに3か年度の変更があり、昭和3年にようやく工事が終了し、現在に至っています

このようにして現在の中川の流れが出来上がっています。

・・・

 中川については、大臣管理区間上流端から大落古利根川合流点までは、かつて江戸川へ合流していた庄内古川を中川へ付け替えた区間です。高水敷を持たず河岸の入り組み等も少なく、緩やかな田園地帯を流れる水路的環境となっています。この区間は、モツゴやタナゴ類など純淡水域の水生生物が見られますが、全体的に生物生息環境としては単調です。

(この項、「埼玉県」HPより)

「天神橋」(人道橋)を渡り、左岸を進みます。

下流を望む。

               右手の森がハグロトンボ生息地。

「天神橋」を振り返る。

左手に中川の流れ。

対岸。両岸とも土手は低い。

               土手と同じ高さに家屋。掘り下げた工事であることが分かる。

前方に橋が。

地面に放置されたままの親柱。「たかひらはし」とある。

上流を望む。

脇にアジサイなど草花が咲く土手の道を進みます。

           

「吉田橋」。

       右手奥に「幸手市東公民館」「郷土資料館」の建物が見えます。

ここまで、新しくなった「天神橋」を除き、「玉子橋」「高平橋」「吉田橋」と戦後すぐに建設され、似たような構造の橋が続きました。いずれも軽自動車以下の車のみが通行できる橋です。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その3。中島用悪水路。玉子橋。権現堂川用水路。ハグロトンボ。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-06-30 20:03:58 | 中川を遡る

                       右岸を進みます。

中島用悪水路が中川に合流。架かる橋は「古葛西橋」。                                                                                                                                          

幸手市西関宿で江戸川より分水し、主として江戸川より西側の水田地域を灌漑する。中川に合流・終点となる。合流直前に中島排水機場が設置されている。

民家の前に、台座から離れ、朽ちた「馬頭観音」石塔。

                              それでも大事に保存しているのですね。

前方に古びた橋が。

「玉子橋」。昭和24年(1949年)建設。

上流を望む。

権現堂川用水路の上流方向。

   上流の葛西用水路から分かれた北側用水路と合流して南下し、流域の水田地帯の灌漑に利用。

土手が川から離れ、林の中に。右手は河川敷。

                  

この林の中を抜けるとき、真っ黒な羽をしたトンボが無数に飛んでいます。

動きが速く、茅の上に止まっているのを何とか。

全身真っ黒なトンボ。

初めて見ました。何というトンボか?

帰宅後、調べたら、「ハグロトンボ」というトンボのようです。

細長く、黒っぽい翅を持った、ヒラヒラと飛ぶトンボ。オスの胴体は金緑色に輝き、メスは全身が黒い。
河川の岸辺で見られる。平地や丘陵地の、水生植物のはえたゆるい流れを好み、住宅地の周辺でも発生していることがある。

(この項、写真も含め、「」HPより)

「Wikipedia」で補足すると、

成虫体長は 57-67mm、後翅長 35-44mm ほどで、トンボとしてはやや大型。の方がより若干大きいが、大差はない。が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある。

まさに色、かたち、飛び方、止まり方、「ハグロトンボ」でした。薄暗い林の中、しばらく見とれてしまいます。

さらに、

ハグロトンボは本州、四国、九州、種子島、屋久島の低山地、丘陵、平地の水辺に水生植物が繁茂している緩やかな流れに発生し、池沼にも発生します。成虫は5月から10月頃まで見られ、7月、8月が一番多く見られます。羽化した成虫は薄暗いところを好み林の中で暮らすので、センターエリアでは6月ころに出会えます。成熟すると水辺に戻るので、林の中で出会える唯一の季節と言えるでしょう。

オハグロトンボ、神様トンボ、仏トンボ、極楽トンボなどの別名を持ちますが、お歯黒の色に似ていたからなど、どれも翅の色形から来ているようで、薄暗いところをふわふわと飛ぶ黒いトンボに、幽玄さ、神聖さを感じたようです。

水辺では群れていることが多いのですが、林の中で出会うのは単独の場合がほとんどです。翅をそろえて止まったかと思うと、まるでチョウのようにはらりはらりと翅を閉じたり開いたりします。金属光沢を帯びた黒い翅が光の加減で虹色に輝いたりさまざまな色で輝いたりする姿を見ると改めて『黒』の奥深さを感じます。雄の身体が金属光沢を帯びているのに対して、雌の身体は黒く、翅はこげ茶に近い色をしています。

コオニヤンマやシオカラトンボなどが素早く飛び回り昆虫をとらえているのに比べこんなにふわふわしていてエサが採れるのか心配になってしまいますが、意外と俊敏で近づくとすいっと飛んで行ってしまいます。

梅雨の晴れ間、ちょっと神秘的なハグロトンボに林で出会えたらいいことがありそうな気持ちになります。

トンボは全国的に減少しているようですが、ハグロトンボも水質汚濁、河川改修などで数を減らしているようです。水辺のヨシなどで羽化するハグロトンボ、河川改修ではヨシなどは根こそぎ刈られてしまいます。産卵するのも水中の草の根際や水草などです。人にとっては害虫を食べてくれる益虫で、『勝ち虫』と呼ばれ縁起が良いとされてきたトンボたち。コンクリ―トで固めない、水辺の生きものに配慮した河川改修工事も少しずつ進んでいます。これからもトンボたちと共存していきたいものです。

 (この項、「」HPより)

生まれて初めて貴重なトンボを見ることが出来ました。

かつてはちょっと郊外に出れば、シオカラトンボ、オニヤンマ、ギンヤンマ、イトトンボなど見ることができました。今、身近に見ることはほとんどありません。

トンボたちが生息できる環境を大事に保存したいものです。

ハグロトンボを見ることが出来たのは、とてもラッキーでした。

中川もこうした中・上流歩きになると、思わぬ発見、出会いがあるのですね。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その2。打田落悪水路(うったおとしあくすいろ)。万年橋。バラ園。神扇落(かみおうぎおとし)。船渡橋。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-06-29 21:32:34 | 中川を遡る

「打田落悪水路(うったおとしあくすいろ)」解説板(左が北)。「庄内領用悪水路土地改良区」と標示されている。

土手が行き止まりなので、右折して公道に出ます。周囲は田んぼと住宅。時折左に流れる「中川」を眺めますが、土手道はなさそう。そのうち、道路脇の遊歩道に四阿があるので、小休止。そこが、暗渠になった「打田落悪水路」でした。

打田落悪水路は農林水産省補助事業として、埼玉県(春日部土地改良事務所)が事業主体となり、1986年度(昭和61年)から1997年度(平成9年)にかけて総事業費1,112,00万円を投じ、庄和北部打田地区の農地を排水するために整備された農業用排水路である。受益区域は北は春日部市と北葛飾郡杉戸町の境界、東は埼玉県道42号松伏春日部関宿線、南は打田排水機場(立野ポンプ場)、西は中川(庄内古川)までとなっている。 この打田落悪水路は庄和地区を中川の左岸側(東方)を並行するように流下しており、流域周辺を灌漑している中用水からの農業排水を集めながら、主に水田などの農地の中を流下している。流域周辺は一部では民家などの宅地となっているが、主として水田などの農地となっている。打田排水機場付近には、桜並木が流路沿いに植樹されている。(「Wikipedia」より)

来た道を振り返る。打田落悪水路。

ここまでの間、土手を歩いているとき、中川への流入口は気づきませんでした。ぐるっと遠回りします。

周囲は、住宅と田んぼ。田んぼの畔道からの「中川」。

                              奥に見える橋が「大榎橋」。

やっと「万年橋」に出ます。

上流を望む。右岸に移ります。

一面、青々とした田んぼ。

草刈りが済んだ土手道。

土手際・左手にバラ園。

 丹誠込めたさまざまなバラ。    

若い方がせっせと世話をしていました。5月末にいったん咲き終えたようですが、別のバラが7月には咲くそうです。

その先、「神扇落(かみおうぎおとし)」が合流します。

      

かつて起点付近に存在していた神扇沼からの排水路である。神扇落という名称はこの神扇沼および大字神扇からの排水路ということに由来する。かつて神扇沼への流入水路であった浅堀地蔵院落との合流地点が神扇落の起点となる。北葛飾郡杉戸町大字遠野付近にて集落の北東側を流下する以外にはほぼ市街地を流下する区間はなく、流域は主に水田などの農地となっている。流末は中川へと至り終点となる。

                  左岸から。(「Wikipedia」より)

その流れに沿って左へ迂回します。途中で、右折すると、中川土手に出られたのですが、そのまま県道を。

「神扇排水機場」。

その先を右折、「船渡橋」へ。

                       下流を望む。草刈り中。

上流を望む。

※バス停が「船渡橋」と「船戸橋」と2種類あります。

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東武野田線「藤の牛島駅」~伊勢崎線「東武動物公園駅」。その1。倉松川。首都圏外郭放水路第3立坑。庄内橋。松富橋。流路跡。(「中川」を遡る。第6回目。)

2022-06-28 21:25:36 | 中川を遡る

                 中川人道橋から上流を望む。左手は、「倉松川水門」。(※前回の写真) 

5月に雨がけっこう降ったかと思うと、「梅雨入り」宣言のあとは、今度は一転、あまり雨なしの暑い日が続き、・・・。そして、27日には、もう「梅雨明け」宣言。気象庁も予想できなかった、とか。

昔から気象予報は当たらない、って評判ですが。それにしても、この暑さは!

ずっと以前は、学校が夏休みになるかならないか位の頃が、梅雨明け。

「梅雨明け10日」といって、晴天が続く、この時期。若い頃は、梅雨明けを待ちかねたように、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳などの縦走に出かけたものでした。

今は、・・・、冷房の効いた部屋で読書しつつ、船を漕いでいます。   

さて、

「藤の牛島」駅から土手に出て、右岸を歩き始めます。この日は、曇り空で少し風もあり。

少し前に(それこそ、梅雨時に)、「権現堂川(行幸湖)」から中川を下り、「宇和田公園」先の「新船越橋」まで歩きました。

そこから「朝日バス」(ひばりヶ丘工業団地入口)に乗り、「東武動物公園」駅まで戻りました。

そこで、今回はそこまで北上することに。

「倉松川」。

倉松川は、幸手市中五丁目地先に源を発し、春日部市牛島地先で中川に合流する延長13.8km、流域面積32.1k平方メートルの一級河川です。全区間が埼玉県知事が管理することとされています。

thestartingpointofkuramatsu001倉松川起点付近…幸手駅から撮影

            (この項、「埼玉県」HPより)

水門で中川に合流します。

対岸の奥・左手、「国道16号線」沿いに「イオンモール」や「ビバ ホーム」などの大型店が並んでいます。

「新川橋」。

           ビバホームやイオンなどに向かう車の行き来がけっこう多い。

橋を渡り、左岸を。

                  先に見える橋は、「国道16号線春日部野田バイパス」中川橋。

中川橋の先、対岸には「首都圏外郭放水路」の第3立坑と呑み口。

           中川と倉松川の洪水を取り込むための施設。

    ※「全体構成図」。

その先の対岸には、「幸松排水機場」。

「庄内橋」。埼葛広域農道。

           水色のパイプ橋は、水道橋。

かつての「庄内古川」をなぞる流れか?

              

そのままたどると、土手の道は、だんだん中川から離れていきます。

間に田畑が。

突き当たりを左にまがって、再び中川沿いの土手道に。

「松富橋」と水管橋。

下流を望む。

のどかな土手道。タチアオイ。

土手の両側は、絨毯を敷き詰めたような小さな白い花が。何という草花でしょうか?

        

右手は、青々とした田んぼ。

         

この先で土手道は、大きく迂回します。

      

       振り返って望む。左に土手道。撮影場所は田んぼの畔道。正面の中川は、右に曲がってきます。

川に近づいてみましたが、上流は、個人の敷地のようす。

       

実は、この付近は、かつての流路跡が農地化されて田んぼや畑になっているようです。

この付近の今昔。今の中川が「庄内古川」となっていた頃は、流路が東に大きく曲がっていました。その痕跡が残っています。

                                                                                                                

1880年代のようす。現在よりも東に寄っています。    2010年代のようす。部分的な痕跡。明治以前の流路跡も。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武野田線「藤の牛島駅」。その3。庄内古川橋。「五ヶ門樋(ごかもんひ)」。東武野田線。藤の牛島。(「中川」を遡る。第5回目。)

2022-06-27 22:05:20 | 中川を遡る

                  「春日部市 環境センター」。

水田地帯を歩き、「新4号国道・春日部越谷バイパス」の「庄内古川橋」手前で土手に上がります。

前方に新4号国道バイパス「庄内古川橋」。

     

国道下を抜けて上流へ。

対岸は「豊野 工業団地」。

右は田園風景が広がる。

その先に、「五ヶ門樋(ごかもんひ)」。

解説板。

埼玉県指定有形文化財(建造物)
五ヶ門樋付中庄内樋管一基、排水機場跡一基  平成27年3月13日指定

五ヶ門樋は、現存する煉瓦造りの樋門としては、県内で4番目に古いものです。煉瓦を四重に並べアーチを形造り、その上には「五ヶ門樋」のプレートが設置され、最上部には煉瓦で凹凸を表現した装飾が施されていることが特徴となっています。現在では庄内古川からの逆流防止のため扉は外され、自然排水の樋門として使用されています。

古くから庄内古川の流域では、大雨の際の増水で農作物に影響が生じていました。五ヶ門樋は明治25年(1892)に庄内古川左岸の新堀悪水路(排水路)に設置されたもので、通常時は自然排水、洪水時には扉を閉めて逆流防止の機能を果たしました。

しかし、自然排水のみでは、年々上昇する庄内古川の水位に対応できず、明治40年(1907)に排水機場が建設されました。庄内古川の改修後は自然排水が可能となり、排水機場は撤去され、鉄筋コンクリート製の中庄内樋管が新たに設置されました。

茂みの中に流れがあり、 

道路下をくぐり、中川への排水口へ。

            こちらからは全貌が見えません。対岸からだと、そこで、

           (「Googleマップ」より)

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。「庄内古川」となっていた頃。

                     2010年代のようす。今も現役の水路。

「永沼橋」。

                 「葛中通り」となっている。

続いて「はなみずき橋」。

                   こちらは「はなみずき通り」。

前方に「東武野田線」の鉄橋。

                           左手が「藤の牛島駅」。

鉄橋をくぐり、上流へ。

「南桜井駅」方向。

「藤の牛島駅」に向かう電車。

「中川人道橋」を渡って、駅に。

        

藤の牛島駅。

地名である牛島と、1,200余年前に弘法大師がお手植えされたといわれる特別記念物「藤花園」の牛島ノ藤から駅名とされました。
「牛島の藤」は昭和3年に文部省から天然記念物に指定され、さらに昭和30年には特別天然記念物にも指定されています。
花房の長さは約2.7m、根周りは4mの古木で花の見頃は5月上旬です。

この項、「」HPより)

(「Wikipedia」より)

そういえば、人道橋にも藤が描かれていました。

※「東武野田線」は、「東武アーバンパークライン」という愛称になっています。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武野田線「藤の牛島駅」。その2。田島橋。オオヨシキリ。まつぶし緑の丘公園。左岸・右岸行ったり来たり。(「中川」を遡る。第5回目。)

2022-06-25 21:04:18 | 中川を遡る

               先に古そうな橋があります。「幅1.8m、重量制限1.5t」との標示が。

「田島橋」。「赤岩橋」と同様、軽自動車以下が通行可。

橋の上から上流を望む。

橋を渡って右岸を歩きます。

                すぐ左脇を流れる「八間堀悪水路」の向こうは、水田が広がります。

                         ※悪水路=農業排水路

大量の水が流れ込んでいます。

「豊橋」。

                  道路橋と歩道橋が並んでいます。

流入口。

こうした排水路から流れてくる中川も水量が多い印象。田植え後の水量調整が行われている様子です。

左の水田にはシラサギが。

しきりに甲高い声で啼く鳥たちがいます(姿は見えませんが)。

「オオヨシキリ」のようで、田んぼのそばのヨシ原から聞こえてきます。

            (「Wikipedia」より)

夏の季語「行々子(ギョギョシ)」は、オオヨシキリの鳴き声から。
「行々子口から先に生まれたか」 by小林一茶

全長18.5cm。頭から背、翼の上面、尾の上面は淡褐色をしています。下面は黄白色。口元にひげがあります。腰は淡色。「ギョギョシ ギョギョシ ギョギョシ」あるいは「ケケス ケケス カイカイシ」などと聞こえる大きな声。多数がさえずっていると暑苦しいし、うるさいとさえ思うことがあります。アジア大陸の中緯度で繁殖し、冬期は熱帯地域へ渡ります。日本では全国で繁殖する夏鳥ですが、沖縄地方では渡りのみ。数本のヨシを束ねてお椀型の巣をつくります。一夫多妻性で、同時期ではありませんが、オスの周辺にメスが巣をつくり、抱卵、育雛します。一夫五妻の例も知られています。カッコウに託卵されることも多いことで有名。河川、池沼、海岸などの水辺に広がる葭原に生息しています。

(この項、「|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動」HPより)

※余談ですが、「一夫五妻~僕がモテる理由~」というコミックがあるそうです。

妻味一夫はいたって平凡な30歳のサラリーマン。しかし一夫には、下は10代から上は40代まで5人の妻がいる。妻といっても法律上の妻ではない。結婚を前提としたプレ結婚生活、いわゆる事実婚。1人の夫と5人の妻たちが巻き起こすラブラブ妻コメディー!!

(この項、「」より)

外で、こんな賑やかな鳥の啼き声を聞くのは久しぶりです。

対岸。

「松乃木橋」と水管橋。

この先しばらくは、一直線。

                       先に見えるのは、「新開橋」。

新開橋のところで、釣り人が。

その先、右手から農業用水が合流。

    

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。北に大きく湾曲している。

    上部の流れは、現在の中川の流れとは大きく異なる。

                     2010年代のようす。湾曲した部分が直線化。

     右上には旧流路が農業用水路になっている残っている。

この付近は、かつての流れのまま?

          

左手に小高い丘が見えています。「大落古利根川」歩きの時には気づきませんでした(右手に位置する)。

「まつぶし緑の丘公園」。

県南東部、松伏町の北部に位置し、南側を県道春日部松伏線、北部を県道野田岩槻線に接しています。里山、広場、水辺からなる原風景を創出し、樹林や野鳥、草花、昆虫等のふれあいを通じ、公園利用者が心も体も元気になることを目指して計画した公園です。
中川と大落古利根川に挟まれた平坦な区域に、地域のランドマークとなる緑豊かな丘を築く等、「人と環境にやさしい都市公園」として整備が進められ、 平成19年4月に一部が、平成28年4月に全面が開設されました。

(この項、「埼玉県」HPより)

「倉田橋」。

         

右岸も左岸も、この先は東埼玉道路建設工事のため通行止め。左岸を大きく迂回します。

         

             中川土手方向を望む。一面、水田。イネがけっこう伸びています。

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