1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。明治初期の川崎宿全体図。東海道に沿って町家が続く。北東(○)が「六郷の渡し」、南西(○)が「棒鼻」。このエリアが「川崎宿」。その先は、田んぼの中を突っ切る幅広い直線の並木道「八丁畷」(↓)となる。
西側の直線は新橋~川崎~横浜間の鉄道。
「東海道かわさき宿交流館」。
ごあいさつ
東海道かわさき宿交流館 館長 青 木 茂 夫
この「東海道かわさき宿交流館」は、地域の方々の長年の活動を踏まえ、東海道川崎宿の歴史、文化を学び、それを後世に伝え、地域活動・地域交流拠点となることをめざして整備した施設です。
川崎宿は、江戸時代に東海道53次のひとつとして栄えた宿場で、現在の川崎の街の原点となる重要な歴史的資源ですが、戦災により、多くの資料を焼失し、江戸時代の宿場の面影は、そのほとんどが失われてしまいました。
しかしながら、今ここに地元の方々をはじめとする関係者の皆様の多大なご協力により、川崎宿に残る記憶と記録を掘り起こし、さまざまな手法を凝らし、皆様に楽しみながら川崎宿を伝える施設として「東海道かわさき宿交流館」を設置しました。
皆様には、この施設にとどまらず、ここで得た情報や知識をもとに、川崎の街歩きへとつなげていただければ幸いです。
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川崎の歴史に深い関わりのある東海道や多摩川をイメージした松葉と水辺の江戸模様を、線(道)で繋ぎ合わせた表現です。(以上、公式HPより)
平成25年10月に開館
「川崎宿の由来」。上の絵は、「東海道五十三次 川崎」―歌川広重 天保4年(1830)制作―
慶長6年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和9年(1623)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる五十三次となった。
慶長5年(1600)、江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが度々の洪水で破損し、元禄元年(1688)から船渡しとなった。
川崎宿は、久根崎、新宿、砂子、小土呂町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋、鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。
徳川将軍四代にわたるお大師様への厄除け参詣が江戸庶民の大師詣でを盛んにし、大師前には門前町ができて大いに賑わった。
明治5年(1872)新橋―横浜間に鉄道が開通したが、大師参詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたのは驚きに値する。
しかしその後、東京―横浜間の通過町としてさびれたが、明治末期から六郷川を利用して川岸に産業が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。
当川崎は宝暦や文久の大火、安政の大地震、また昭和20年4月(1945)の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石像物からわずかに往時を偲ぶのみである。
川崎・砂子の里資料館 館長 斉藤文夫
1917~1924(大正時代)のようす(「今昔マップ」より)。上記の4つの町名が出ている。現在は、「砂子」のみ住居表示としては残っている。
「砂子の里資料館」。館長が収集した浮世絵を中心とした展示を行っている私立美術館。外壁はなまこ壁になっていて、江戸情緒を感じさせる建物。
案内図。上図には、東海道の宿場、右から「品川・川崎・神奈川」の三つの宿場町が描かれている。中央が「川崎宿」。
左下には現在の町のようすと重ね合わせて宿場のようすが掲示されている。
旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所など公的な施設をはじめ、旅館や商家など350軒程の建物が約1,400メートルの長さにわたって軒を並べ賑わいを見せていた。古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、・・・活気にみちた都市的景観を認めることができる。
もともと川崎宿のあたりは砂浜の低地で多摩川の氾濫時には冠水の弊害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るよう配置がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛り土が施されたという。現在でも砂子から小土呂あたりを歩いてみると旧街道が周囲よりも幾分高いことがよく分かる。・・・
注:「今昔マップ」によれば、川崎宿地域(そして、その西側)はほとんど標高2メートル。町はずれの東側になると1メートル、あるいは0メートル地帯となる。
多摩川河畔から東京湾の縁にできた微高地上の縁に街が形成され、のちに東側の低湿地帯に水田、畑地が干拓されて広がっていった、と考えられる。(「品川」「神奈川」もほぼ同様。)
現在のようす。飲食店などが並ぶ繁華街。
「砂子1丁目」。「砂子」と書いて「いさご」と読む。その名の通り、砂地、砂粒を意味する。浜の「まさご」とも。
この地域は、多摩川(六郷川)下流の氾濫原に出来た微高地。周囲は後に開拓され、田畑になった。その間を旧東海道は進んでいく。田んぼの中をあぜ道のように盛り土して街道を造成したと思われる(南西にある「八丁畷(なわて)」という地名がそれを示している)。
ここから小土呂橋交差点まで「いさご通り」。
「砂子2丁目」交差点。
「上の本陣・佐藤本陣」跡。
賑やかな通りの一角。
「佐藤本陣」の斜め向かい「川崎信用金庫本店」の南側角にある「佐藤惣之助生誕の地」碑。
詩人佐藤惣之助は明治二十三年十二月三日に生まれ、昭和十七年五月十五日に五十二才で世を去った。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、現在位置の北隣の砂子二丁目四番地がその旧地である。
惣之助は、大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名編を世に出し、不滅の地歩を築き、また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導育成にあたった。さらに俳句・歌謡・小説・随筆にすぐれた業績を残し、釣・義太夫・演劇・民謡研究・郷土研究・沖縄風物の紹介など、趣味の世界における多方面の活躍も驚くべきものがある。
歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生の並木路」「すみだ川」など、人々の胸をうち、心に通う歌詞の故に今もなお愛唱されている不朽の作品が多い。
ここにその事績を慕う郷党ら相集い佐藤惣之助生誕地記念碑建設委員会を組織し、市内在住の彫刻家の巨匠円鍔勝三郎に嘱し、惣之助の肖像と、嗣予佐藤紗羅夫氏の揮毫になる「青い背広で」の一部を銅碑に彫出して掲げ、記念とする。 昭和五十四年五月十五日
【青い背広で】
青い背広で こころも軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか
紅い椿で ひとみも濡れる 若い僕らの いのちの春よ
小土呂橋交差点。
東海道が「二ヶ領用水」の末流「新川掘」という川筋を横断するところにかかっていた橋。昭和6~8(1931~1933)年に埋め立てられたため、橋の欄干の親柱だけが交差点脇の歩道に保存されている。
江戸時代、参勤交代はもちろん、約280年前にはベトナムからきたゾウが、この橋を渡って江戸に行った、とか。
「二ヶ領用水」は、慶長2(1597)年、用水奉行の小泉次大夫が徳川家康の命を受け、多摩川の両岸に農業用水の開削を開始し、慶長16(1611)年に完成したもの。川崎市側の用水は、稲毛領と川崎領へ水を供給したため、二ヶ領用水と呼ばれる。
現在では川崎区内はほとんど暗渠となって埋立てられ、かつての姿はうかがえられないが、川崎区内の隅々まで、毛細血管のように用水路がめぐらされていた。
二ヶ領用水は、江戸時代には良質な稲毛米の穀倉地帯を生み出したほか、近代に入ってからは、臨海部工業地帯の工業用水にも使用された。
現在の新川橋通りはかつて新川堀と呼ばれていた水路跡。この水路は、水はけの悪い当地域の生産性を上げようと、江戸時代につくられた排水路でした。新川堀には東海道と交わる小土呂橋のほか、新川橋、さつき橋などいくつもの橋が架けられていました。
昭和6~9(1931~1934)年には、新川堀は埋立てられましたが、小土呂橋の親柱が現場近くに保存されています。
(以上、公式HPより)
「小土呂」という地名の由来はよく分からない。「長瀞」などの「瀞」とは字義が異なり、泥湿地帯のそばの微高地だったことから来ているのではないか。
かつての橋の写真。幅約5メートル。
「稲毛神社」にある「小土呂橋」の遺構。
石造りの橋の遺構としては貴重なものらしい。寛保3年(1743)3間×3間の橋で、昭和7年、埋め立てれるまで現役だった、とのこと。
説明板。
「かに道楽」。街道筋を意識した店構え。
「川崎宿京入口」。
このあたりが、「川崎宿」の京(都)側入口。「川崎宿」は江戸から来ると、「六郷の渡し」から下の本陣、中の本陣、上の本陣と続きここまでが宿場町。この宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出るといわゆる八丁畷の一本道となって鶴見市場に至る。
文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外国人警護のための関門が設けられた。
「関札」
石垣の上にはその日その宿場に泊まる大名の関札が掲げられた。これは「八月三日 加藤遠江守宿」と記されている関札。