7月20日(祝)、21日(火)。今回の旧東海道行は、桑名駅に降り立ったところからです。桑名到着は、9時20分少し前。東京~名古屋~桑名と新幹線、JR関西本線を乗り継いでの旅。
が、東京は梅雨明け、ここもまさに、猛暑。駅から「七里の渡し」跡まで約20分。強い日差しの下、もうすでに汗が噴き出します。
今日の予定としては、「四日市宿」の先まで、「近鉄四日市」駅近くのビジネスホテルに泊まって、明日は、亀山まで、という胸算用。でも、この暑さでは「熱中症」になりかねません。
東海道歩きに「熱中」するあまり、炎天下を歩くなどというのは、無謀の限りかも? 桑名駅から照り返しの強い歩道を東に向かって歩き出して、すぐに反省。何しろ、この時間でも歩いている人はほとんどいませんから。
広い通りを進み、左に曲がる。旧東海道(写真の中央の道)。その先に「七里の渡し」跡。
三重県指定史跡 東海道五十三次 七里の渡し跡
桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、江戸時代唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)であることから、七里の渡しと呼ばれました。七里の渡しはちょうど伊勢神宮の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられました。
七里の渡しの西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡しの南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
昭和33年(1958)、七里の渡し跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959)の伊勢湾台風によってこの付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡し跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡し跡の風景は、江戸時代と異なる表情を見せています。
伊勢湾台風(いせわんたいふう)昭和34年台風第15号、国際名:ヴェラ〔Vera〕)
1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。
全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)、うち愛知県で3,351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1,211人と、紀伊半島東岸の2県に集中。負傷者38,921人。全壊家屋36,135棟・半壊家屋113,052棟、流失家屋4,703棟、床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻。被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。
伊勢湾台風での犠牲者の数は、1995年1月17日に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生するまで、第二次世界大戦後の自然災害で最多のものであった。ほぼ全国に及んだ経済的被害は人的被害以上の規模となり、GDP比被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵し、東日本大震災との比較対象に達するものであった。
伊勢湾台風で最も顕著であったのは高潮の被害であった。
名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地の被害も激甚で、鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、318人の在住者のうち、133名が犠牲となった。
このような高潮で最も多くの人命が失われたのは名古屋市南西部の南区や港区であるが、これには名古屋港の貯木場から流出した 20万 t に及ぶラワン材などによるところが大きい。直径 1 m 、長さ 10 m 、重量 7 - 8 t にもなる木材の大群が高潮に乗って住宅地を壊滅させたものである。高波と風の勢いでこの巨大な木材が縦に転がったという目撃談もある。南区ではおよそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によると考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突した。・・・
(以上、「Wikipedia」による)
この台風は、東京に住んでいた人間にも大きなショックを与えました。被災記録を目にしたり、被災手記を読んで、その惨状に衝撃を受けた記憶があります。
その後、河口付近の防潮堤の建設、水門、河川の改修、地下水のくみ上げの制限など国を挙げての大がかりで構造的な改修工事によって現在の名古屋市南部地域、三重県東北部などが整備されました。
伊勢湾台風で高潮に襲われた愛知県半田市(名古屋地方気象台提供)
(HPより)
名古屋出身の作家・清水義範さん(初期の『国語入試問題必勝法』は、無類の面白さ。それ以来、けっこう好きな作家の一人で、この方の作品はほとんど読んでいる。)に「川のある街―伊勢湾台風物語―」があります。
「江戸時代中期「宝暦治水」。
木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で河床が低くなっていて、輪中を取り囲んで網の目のように流れていたため、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流して氾濫を繰り返していた。そのため、宝暦4年4月(1754)、治水工事が進められた。
「伊勢湾台風以降の治水整備」。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風は台風災害として最大の被害をもたらした。高潮の発生で当時の小さな堤防は次々と決壊、台風後も木曽三川下流部では水との闘いが続いた。その教訓から、地下水利用制限などの地盤沈下対策、高潮対策事業によって堤防の高さや構造が見直された。
東海道五十三次之内 桑名 七里渡口 / 歌川 広重
桑名は揖斐川の河口の港町として発展しており、港の入口には浮き城のように見える桑名城があった。船を精一杯引き寄せて描き、手前の波の様子からは水が船にあたって出す音や、船の揺れが感じられる。
(「知足美術館」HPより)
大正期のようす(「同」HPより)。 現在のようす。
目の前に広がる「揖斐川」河口。
舟だまり。桑名城外堀。
「水門統合管理所」の建物。「七里の渡し」付近は、桑名城の「三の丸」。
「七里の渡し跡」遠望。
水門統合管理所の概要
管理所周辺は、城跡や名所旧跡・リクレーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。 管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の概観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけられるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守閣が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。
蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)について
桑名城には、元禄大火災後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。この中でも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡し付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物に「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。
開館していたので、見学しました。ボランティアの案内の方がいて説明も。見晴はすばらしい。
「本多忠勝の像」。
忠勝(1548~1610)は、徳川四天王の一人。関ヶ原での功績によって桑名10万石を与えられた。慶長6年(1601)忠勝は桑名に初めて近世城郭を築き、町屋川や大山田川の流れを変え、町割りを行った。この都市計画は「慶長の町割」と呼ばれ、現在の旧市街地の現形はこの時に築かれた。
「蟠龍」瓦。今も川面を見守る。
外に出ると、再び汗でびっしょり。北側に本陣跡などがあるというので、少し行ってみます。
「常夜燈」。
この「常夜燈」は、もともと「鍛治町常夜燈」と呼ばれ、鍛治町の七ツ屋橋の近くにあり、天保4年(1833)、江戸、名古屋、桑名の人たち241名が寄進して建立された常夜燈。しかし、戦後の道路拡張のため、七里の渡し跡に移転され、一部、補修された。
「旧蹟七里の渡し 桑名保勝会」碑。
「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」。
桑名宿の脇本陣であった「駿河屋」跡の料理旅館「山月」の玄関にある石碑です。
歌行燈句碑(うたあんどんひ)
かはをそに
火をぬすまれて
あけやすき 万
明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。
昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に建てられた。
平成18年6月 寄贈 桑名三田会
「船津屋」。
格調の高い建物。
大塚本陣跡 左
大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業。
脇本陣「駿河屋」跡 右
脇本陣(本陣に準じる宿)は桑名宿に4軒あったが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが、現在は料理旅館「山月」の一部となっている。
桑名宿は「船津屋」のもう少し西にも広がっていたようです。
と、「七里の渡し」跡付近を散策して、いよいよ南に向かいます。ここまでで、40分経過。出立は、10時15分過ぎ。