おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

七里の渡し。蟠龍櫓。歌行燈句碑。本陣。・・・(「桑名」駅から「内部」駅まで。その1。)

2015-07-31 20:43:11 | 旧東海道

 7月20日(祝)、21日(火)。今回の旧東海道行は、桑名駅に降り立ったところからです。桑名到着は、9時20分少し前。東京~名古屋~桑名と新幹線、JR関西本線を乗り継いでの旅。

 が、東京は梅雨明け、ここもまさに、猛暑。駅から「七里の渡し」跡まで約20分。強い日差しの下、もうすでに汗が噴き出します。

 今日の予定としては、「四日市宿」の先まで、「近鉄四日市」駅近くのビジネスホテルに泊まって、明日は、亀山まで、という胸算用。でも、この暑さでは「熱中症」になりかねません。

 東海道歩きに「熱中」するあまり、炎天下を歩くなどというのは、無謀の限りかも? 桑名駅から照り返しの強い歩道を東に向かって歩き出して、すぐに反省。何しろ、この時間でも歩いている人はほとんどいませんから。
 
広い通りを進み、左に曲がる。旧東海道(写真の中央の道)。その先に「七里の渡し」跡。

         
                     
三重県指定史跡 東海道五十三次 七里の渡し跡

 桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、江戸時代唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)であることから、七里の渡しと呼ばれました。七里の渡しはちょうど伊勢神宮の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられました。
 七里の渡しの西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡しの南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
 昭和33年(1958)、七里の渡し跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959)の伊勢湾台風によってこの付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡し跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡し跡の風景は、江戸時代と異なる表情を見せています。

伊勢湾台風(いせわんたいふう)昭和34年台風第15号、国際名:ヴェラ〔Vera〕)

 1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。
 全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)、うち愛知県で3,351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1,211人と、紀伊半島東岸の2県に集中。負傷者38,921人。全壊家屋36,135棟・半壊家屋113,052棟、流失家屋4,703棟、床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻。被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。
 伊勢湾台風での犠牲者の数は、1995年1月17日に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生するまで、第二次世界大戦後の自然災害で最多のものであった。ほぼ全国に及んだ経済的被害は人的被害以上の規模となり、GDP比被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵し、東日本大震災との比較対象に達するものであった。
 伊勢湾台風で最も顕著であったのは高潮の被害であった。
 名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地の被害も激甚で、鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、318人の在住者のうち、133名が犠牲となった。
 このような高潮で最も多くの人命が失われたのは名古屋市南西部の南区や港区であるが、これには名古屋港の貯木場から流出した 20万 t に及ぶラワン材などによるところが大きい。直径 1 m 、長さ 10 m 、重量 7 - 8 t にもなる木材の大群が高潮に乗って住宅地を壊滅させたものである。高波と風の勢いでこの巨大な木材が縦に転がったという目撃談もある。南区ではおよそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によると考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突した。・・・

(以上、「Wikipedia」による)

 この台風は、東京に住んでいた人間にも大きなショックを与えました。被災記録を目にしたり、被災手記を読んで、その惨状に衝撃を受けた記憶があります。

 その後、河口付近の防潮堤の建設、水門、河川の改修、地下水のくみ上げの制限など国を挙げての大がかりで構造的な改修工事によって現在の名古屋市南部地域、三重県東北部などが整備されました。

   
 伊勢湾台風で高潮に襲われた愛知県半田市(名古屋地方気象台提供)
 (HPより)

 名古屋出身の作家・清水義範さん(初期の『国語入試問題必勝法』は、無類の面白さ。それ以来、けっこう好きな作家の一人で、この方の作品はほとんど読んでいる。)に「川のある街―伊勢湾台風物語―」があります。

「江戸時代中期「宝暦治水」。

 木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で河床が低くなっていて、輪中を取り囲んで網の目のように流れていたため、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流して氾濫を繰り返していた。そのため、宝暦4年4月(1754)、治水工事が進められた。

「伊勢湾台風以降の治水整備」。

 昭和34年(1959)の伊勢湾台風は台風災害として最大の被害をもたらした。高潮の発生で当時の小さな堤防は次々と決壊、台風後も木曽三川下流部では水との闘いが続いた。その教訓から、地下水利用制限などの地盤沈下対策、高潮対策事業によって堤防の高さや構造が見直された。


 東海道五十三次之内 桑名 七里渡口 / 歌川 広重

 桑名は揖斐川の河口の港町として発展しており、港の入口には浮き城のように見える桑名城があった。船を精一杯引き寄せて描き、手前の波の様子からは水が船にあたって出す音や、船の揺れが感じられる。

(「知足美術館」HPより)

    
 大正期のようす(「同」HPより)。                    現在のようす。

目の前に広がる「揖斐川」河口。

舟だまり。桑名城外堀。

    
                   「水門統合管理所」の建物。「七里の渡し」付近は、桑名城の「三の丸」。

「七里の渡し跡」遠望。

    

水門統合管理所の概要

 管理所周辺は、城跡や名所旧跡・リクレーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
 揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。 管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の概観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけられるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守閣が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。

蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)について

 桑名城には、元禄大火災後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。この中でも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡し付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
 文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物に「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

 開館していたので、見学しました。ボランティアの案内の方がいて説明も。見晴はすばらしい。

    

「本多忠勝の像」。

 忠勝(1548~1610)は、徳川四天王の一人。関ヶ原での功績によって桑名10万石を与えられた。慶長6年(1601)忠勝は桑名に初めて近世城郭を築き、町屋川や大山田川の流れを変え、町割りを行った。この都市計画は「慶長の町割」と呼ばれ、現在の旧市街地の現形はこの時に築かれた。

「蟠龍」瓦。今も川面を見守る。

 外に出ると、再び汗でびっしょり。北側に本陣跡などがあるというので、少し行ってみます。

「常夜燈」。

 この「常夜燈」は、もともと「鍛治町常夜燈」と呼ばれ、鍛治町の七ツ屋橋の近くにあり、天保4年(1833)、江戸、名古屋、桑名の人たち241名が寄進して建立された常夜燈。しかし、戦後の道路拡張のため、七里の渡し跡に移転され、一部、補修された。

「旧蹟七里の渡し 桑名保勝会」碑。

「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」。

 桑名宿の脇本陣であった「駿河屋」跡の料理旅館「山月」の玄関にある石碑です。

    

歌行燈句碑(うたあんどんひ)

 かはをそに
  火をぬすまれて
     あけやすき  万

 明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。
 昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
 船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
 俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
 自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に建てられた。

 平成18年6月 寄贈 桑名三田会 

「船津屋」。

格調の高い建物。

                        

 大塚本陣跡 左
 大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業。

 脇本陣「駿河屋」跡 右
 脇本陣(本陣に準じる宿)は桑名宿に4軒あったが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが、現在は料理旅館「山月」の一部となっている。

桑名宿は「船津屋」のもう少し西にも広がっていたようです。

 と、「七里の渡し」跡付近を散策して、いよいよ南に向かいます。ここまでで、40分経過。出立は、10時15分過ぎ。
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「LUST,CAUTION(色|戒)」(古きよき映画シリーズ。その52。)

2015-07-29 23:22:41 | 素晴らしき映画
 久々に映画を。

 2007年公開の『ラスト コーション』(原題: 色・戒)。

《監督》
アン・リー

《キャスト》
トニー・レオン:易(イー)
タン・ウェイ:王佳芝(ワン・チアチー)= 麦(マイ)夫人
ジョアン・チェン:易夫人
ワン・リーホン:鄺祐民(クァン・ユイミン)
・・・

 アイリーン・チャン原作の小説「色・戒」を映画化。第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、金獅子賞と金オゼッラ賞(撮影賞)を受賞。第44回金馬奨にて最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演男優賞(トニー・レオン)を受賞。
 舞台は第二次世界大戦中、日本軍の支配下にあった上海。中国人でありながら日本の傀儡政権である汪兆銘政権の下で、抗日組織の弾圧を任務としていた男とその暗殺計画に係わる若い中国人女子学生工作員との愛憎を描いた物語。

 映画の冒頭のシーンに登場するのは、イー夫人達と麻雀に興じている若く美しいマイ夫人。しかし、女子学生が貿易商の夫人と偽って接近するというのにはかなり無理がある話。麻雀はすこぶる弱いし、身につけているものも高級なものとはいえず、またその仕草も上流夫人とは思えない(たとえば、コーヒーカップに口紅をべったりつけたままだったり・・・)。それはすでにイーには見抜かれていたのではないか。にもかかわらず、あえて接近させた(自らの命を狙っていることを承知の上で)。所詮、大学生達の、拳銃の扱いにも不慣れな「遊び事」に過ぎなかった。案の定、失敗してしまう。

イーとの性行為を意識して友人にはじめて身をまかせる。

 それから3年、学生として再び学んでいるチアチーはかつての学生仲間と再会し、密かに心を寄せていた男の誘いに応じて、イーの命を狙うように工作員として活動することになる。舞台は香港から上海に。この時のチアチーは、イーへの屈折した思いが(再び会うことへの)あったのではないか。かつて失敗した貿易商夫人という想定では、相手方にバレるのも必定にもかかわらず。
 こうして再び接近してきたチアチーに対して、イーはレイプまがいの行為を行う。それをきっかけにチアチーとイーの関係が進んでいく。おそらくイーには、色仕掛けで迫るという女スパイの存在を知っていた。しかし、イーの内面はどうであったか。
 それからイーとチアチーはお互いを激しく求めあう。イーとの情事を重ねていく中で、次第にイーへの愛が目覚めていく。



 一方、日本料理店でチアチーが歌った中国の歌「天涯歌女」を聞きながら、イーが涙したのは、何を意味するのか。イーが中国人としての自分を考えた瞬間?



 高価なダイヤモンドを受け取るため二人で宝石店で出向くように仕組み、イー襲撃の包囲網が思い通りに進んだ時、チアチーはイ-に唇の動きでその危険を知らせる。
                                       察知し、すばやく逃げるチー。・・・

 その時点で計画は失敗し、チアチーはあえて仲間達と一緒に処刑される道を選ぶ。

処刑を認めたチー。

 二人のセックスシーンは、「ラストタンゴ イン パリ」での暴力的な性行為に及ぶシーンを彷彿させる。さらに「愛人(ラマン)」の場面をも。

    

 上映当時、二人の赤裸々な性愛シーンが話題を呼んだが、生か死かの(選択を強いられる)極限状況にある二人。それは、戦争という国家の存亡の危機にある時代状況という制約下。
 権謀術数のうずまくスパイもの、という括りにはあるだろうが、当時の中国・上海の国際上に置かれた立場、反日、親日の立場を越えた民族意識、錯綜した男女の思いを描いている。
 雑踏、建物、車、衣装、身だしなみ、風俗、日本人、・・・当時の上海の雰囲気をよく伝えている。そういった面でも興味深い作品になっていた。



(映像は、「YouTube」より。)
  
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松尾芭蕉。熱田荘。丹羽家。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その7。)

2015-07-27 21:20:46 | 旧東海道

 「七里の渡し」には、まだまだ興味深いものがあります。


東海道五十三次之内 宮 熱田神事 / 歌川 広重

 熱田神宮の門前町であるが、伊勢参りの旅人も集ったので、たいへん賑わい、東海道の中で最大の宿駅であった。画面は馬追祭の様子であるが、神宮にはこのようなしきたりはなく、御馬献上の行事とも考えられる。天と地を暗い色にすることにより、夜であることがわかる。左の先頭の男の右手を頂点として、紡錐形に右側に広がる構図である。
桑名まで約27.5km

(「知足美術館」HPより・「保永堂版」)

「隷書版東海道五十三次・歌川広重」
     HPより

 「七里の渡し舟着場跡」解説板には、この浮世絵が掲載されています。

    

松尾芭蕉と七里の渡し

 松尾芭蕉(1644~94)は、日本を代表する俳人で「野ざらし紀行」「おくの細道」や「古池や蛙飛び込む水の音」などの句が有名です。
 旅の初期に熱田を度々訪れ、林桐葉(現熱田神宮南門付近)の計らいで、名古屋、鳴海の門人達と交流。七里の渡しから舟遊びで、あゆち潟(愛知の語源)を楽しみ、熱田三歌仙を残しました。

 「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」妙安寺石碑
 「海暮れて鴫の声 ほのかに白し」妙安寺石碑五・五・七
 「なんとなしに 何やらゆかし すみれ草」宮中学校石碑

 子の舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する「芭蕉の時代」となるきっかけが生まれました。後に名古屋が「蕉風発祥の地」と言われる由縁です。
 また熱田神宮が「蓬莱宮」と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。

 平成26年11月吉日 名古屋熱田ライオンズクラブ


宮の宿とシーボルト

 ここ宮(熱田)の宿・神戸(ごうど)の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。
 名古屋の本草(ほんぞう)学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが文政9年(1826)2月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、4月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。
 彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。

 名古屋市教育委員会

 通りをはさんだところには、宮の宿の賑わいを彷彿させる建物が残されています。

    

熱田荘

 木造・二階建・切妻造・桟瓦葺・平入り・正面庇付で、この建物は明治29年(1896)武藤兼次が建てた「魚半」という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用されている。
 建造は新しいが、近世の町家形式を継承しており、旧船着場丹羽家(伊勢久)とともに、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指令されている

 名古屋市教育委員会


 
丹羽家住宅

 丹羽家は場期末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある提灯箱などが遺されている。正面の破風付玄関は、かっての格式の高さを残している。創建は不明であるが、天保12年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。

 こうして名残惜しいですが、公園でしばらく足を休めて(目の前の川を見ながら、のんびりと)「七里の渡し」を後にしました。
午前8時30分前に「豊明」駅を出発して、ここの到着時間は、午後2時前。けっこうはかどりました。帰途は「伝馬町」交差点に戻って、名城線で名古屋まで出て、新幹線で帰京。夕飯には十分間に合う時間には帰宅できました。

 次回は、桑名宿への行き方は、

・その名の通り、海上七里を船で行く(ツアーがあるようです)←貸切でけっこう金額は高い。
・「国道1号線」(江戸時代初期の海岸線)を行く。←基本:マイカー。
・「国道23号線」(江戸時代後期の海岸線)を行く。←基本:路線バス乗り継ぎ。
・「明治東海道」跡(明治初期の「東海道」。これは興味深い道筋)を行く。
・「佐屋街道」(「七里の渡し」を経由しない陸路。これも興味深い)を行く。
・名古屋から鉄道で移動。

 等の方法があるようです。
 この中で一番楽な方法「桑名まで名古屋駅から鉄道で移動」にしました。次回は、42番目の宿場・桑名宿~となります。


1880頃のようす(「今昔マップ」より)。↓がこの頃の「東海道」。○が「七里の渡し」。


現在のようす(「今昔マップ」HPより)。


《補足》

 現在熱田神宮がある場所(名古屋市熱田区)は、縄文・弥生時代は岬のようになっており、名古屋市の熱田神宮以南は海の中にありました。
 7~8世紀頃、熱田神宮から木曽川河口には広大な干潟が広がっていました。
 江戸時代の初めには、熱田神宮(名古屋市熱田区)のあたりから、下之(しもの)一色(いっしき)(名古屋市中川区)という町まで海岸線でした。
 江戸時代に入り、米の生産拡大のために熱田区以南の新田開発が進んできました。江戸時代初期の海岸線は東海道(現在の国道1号線)のあたりでしたが、江戸時代後期には現在の国道23号線付近まで干拓が行われていたものと考えられています。現在の藤前の土地や永徳(現在の稲永スポーツセンター(名古屋市港区)がある土地)という場所は、江戸時代末期に干拓されたようです。

(以上「環境省」HPより)
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伝馬町一里塚。裁断橋。七里の渡し跡。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その6。)

2015-07-25 13:50:38 | 旧東海道

 伝馬町を通っていよいよ「七里の渡し」跡へ。 

「東海道」道標。

名鉄常滑線のガードをくぐると、右手に「伝馬街園」。

    
                                 水と緑と歴史のまち 宮地区

宮地区の歴史

 熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。

公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気ですが、説明は見当たりません。

 しかし、ここまで、一つ前の「笠寺一里塚」からほぼ4㎞の道のりがあります。これが日本橋から89里目となる「伝馬町一里塚」とではないかと思います。これ以降、「海上七里」のため、「一里塚」は桑名宿と四日市宿の間にあるものまで、しばらくありません。

 しばらく進むと、左手に説明碑や記念碑、石柱のある一角に出会います。

    
   「裁断橋址」碑。                          解説板。

裁断橋址

 宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思をついで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
 現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。

 名古屋市教育委員会

旧裁断橋桁石。

右手にある解説板。

裁断橋

 文献では永正6年(1609)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正15年に川が埋め立てられ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正15年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
 昭和28年3月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成4年3月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
 圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成5年5月此処に架設した。

奥には「都々逸発祥の地」碑。 

都々逸発祥の地碑について

 寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったという。その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていった。やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となった。歌碑は縦1.8m、横30cmほどの御影石で、裁断橋跡の西側のたもとにある。

(以上、「都々逸発祥の地碑」 - じゃらんnet www.jalan.net/kankou/spt_23109aj2200025718/ より)

寄席芸としての都々逸
 近年の邦楽の衰退と共に、定席の寄席でも一日に一度も都々逸が歌われないことも珍しくなくなったが、少なくとも昭和の中頃までは、寄席では欠かせないものであった。特に得意にしていた芸人として、柳家三亀松や都家かつ江が挙げられる。即興の文句で節回しも比較的自由に歌われることも多い。
 俗曲として唄われる場合は、七・七と七・五の間に他の音曲のさわりや台詞などを挟み込む「アンコ入り(別名・さわり入り)」という演じ方もある。都々逸が比較的簡単なものだけに、アンコの部分は演者の芸のみせどころでもあった。
 また、しゃれやおどけ、バレ句なども数多くあるので、演者が楽器を持つ時代の漫才のネタとして、あるいはネタの形式として使われることも多かった。

作品例

・恋にこがれて 鳴くせみよりも 鳴かぬほたるが 身をこがす
・ついておいでよ この提灯に けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから
・あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
・あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ
・はげ頭 抱いて寝てみりゃ 可愛いものよ どこが尻やら アタマやら

(以上、「Wikipedia」参照)

 「伝馬町」との表示がある通りを進むと、大きな通りに分断されるので近くの「伝馬町」交差点を渡ります。



そのまま進み、正面を左折します。

右に折れると、熱田神宮へ。

       「里程標」。東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点。

足元も「宮の渡し」に。

「国道247号線」を歩道橋で渡ります。正面が進む道。

「蓬莱陣屋」。

 宮宿の陣屋跡地に1873年(明治6年)創業。
 「蓬莱」の名は、昔、熱田の地が蓬莱あるいは蓬莱島と呼ばれていた事にちなむ。当初は単なる料理店であったが、明治末期に現在のひつまぶしに相当する料理を出したところそれが客に好評を博し、以来ひつまぶしが看板料理となった。
 「ひつまぶしの店」として有名になったため、客の多くがひつまぶし目当てに訪れるが、現在でもあくまで日本料理店としてのスタンスを崩しておらず、ひつまぶし以外の単品メニューや会席料理などのコースメニューも豊富である。

ひつまぶしの起源

 鰻丼の出前で、空の丼を下げる帰途に割ってしまう事が頻繁にあったという。
 頭を悩ました当時の店主・甚三郎(2代目)が、女中頭お梅の知恵を借りて、割れない木の器と数人分の鰻飯を入れたお櫃(ひつ)で出前するスタイルに切り替えた。ただ、御飯の上に鰻を載せていると鰻ばかり先にとって、下の御飯が残り易くなってしまった。
 そのため、また店主と女中頭が工夫を凝らし、鰻を細かく刻んで、御飯と混ぜるように変えたら、好評を博した。そこで、出前だけでなく店内の会席料理としても提供し始めたのが、当店における ひつまぶしの起源である。

        

 蒲焼にしたウナギの身を切り分けた上で、お櫃(ひつ)などに入れたご飯に乗せ(まぶし)たものを、食べる側が茶碗などに取り分けて食べるのが基本的なスタイル。
 これが料理名の由来(由来には異説もあり)となっている。そのまま通常の鰻飯として食べてしまうこともできるが、一般的にワサビや刻み海苔・刻みネギなどの薬味、出汁やお茶などが添えられて提供されるため、それらを食べる側の好みに合わせて取り分けた鰻飯に掛けたり、お茶漬けにすることにより、味の変化を楽しみながら食べることができるようになっている。

(以上、「Wikipedia」より)

 昨日(24日)は、土用丑の日。平賀源内さんにのせられて、我が家でもささやかな鰻丼。さぞかしこのお店は賑わったことでしょう。

「宝勝院」。

宝勝院

 ・・・

 熱田湊常夜灯は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。

 名古屋市教育委員会

いよいよ到着! 宮の渡し公園。

    
                                   ひときわ目立つ「時の鐘」。

    

時の鐘
 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていた。
 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。
 熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。

 昭和58年3月   名古屋市 

 そして、こちらが先ほどの「熱田湊常夜燈」。

    

熱田湊常夜灯
 この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船つき場跡である。
 常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に常夜灯を建立した。その後風害で破損したために承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元された。

    

 かつてのようすとは、当然、異なっていて、はるかかなたに名古屋湾があります。



 

(上の図は、HPより)

 「国道1号線」がほぼ江戸時代初期の海岸線。その後、干拓が進んでいき、江戸時代後期には「国道23号線」ラインまで干拓が進みました。桑名への航路も変化していったようです。

注:図中の「藤前干潟」は、名古屋港の臨海工業開発の中で残された、日本最大級の渡り鳥渡来地。渡り鳥たちの休息と栄養補給の、大切な中継地になっています。藤前干潟にはゴミ埋立計画がありましたが、市民の長年の保全活動によって断念され、そこから名古屋市の画期的なゴミ減量が進みました。

 「今昔マップ」に見る変遷。船着場(埠頭)の位置は変わっていません(○)。



 



 

                         

七里の渡し舟着場跡

 江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていました。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標となっていましたが戦災で焼失し、その後昭和58年に復元されて往時の名残りをとどめています。
 安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます。

 名古屋市

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あゆちがた。呼続。東海道踏切。熱田橋。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その5。)

2015-07-24 22:47:58 | 旧東海道

 さて、「七里の渡し」跡まで、後半戦。
「笠寺一里塚」の先には、「笠覆寺(りゅうふくじ)・笠寺観音」。

「環状線」を渡る手前にある「笠寺の由来」。

 寺伝によれば、天平5年(733年、一部の文書には天平8年-736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
 その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年-935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。
 この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。

            
      「笠寺商店街」。                   左手奥が名鉄本笠寺駅。

 踏切の先の交差点を右に曲がります。分岐点には「東海道 是より北よびつぎ」という「道標。

                  

東海道を意識したつくりの寺社が並んでいます。 

 街角毎に道標。ここは「東海道 塩付街道」の道標。 


        宿駅制度制定四百年記念碑

 今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。
 現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。

 平成13年吉日  名古屋市・呼続学区 

「万葉の里 年魚市潟あゆちがた」。

 この「年魚市潟」(あゆちがた)という名称が、「愛知」の地名の由来とされます。また、万葉の里との関連は?

高市連黒人(たけちのむらじくろひと)

 桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る (巻3 271)

〈訳〉 桜田の方へ鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて飛んでいく。
年魚市潟は名古屋市熱田区、南区の当時海岸であった一帯。県名「愛知」の由来となった。

作者未詳

年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし知多の浦に朝漕(こ)ぐ舟も沖に寄る見ゆ (巻7 1163)

〈訳〉 年魚市潟は、潮が干いたらしい。知多の浦で朝漕いでいた舟も沖の方に寄っているのが見える。 

HPより)

 前者の歌は、特に有名です。「年魚市(あゆち)」の語源は? 魚の「あゆ」とは関連がなさそうな印象ですが。
 
 この付近(呼続)の変遷を「今昔マップ」より。

 地図上の色分けで分かるようにこの辺りは四方を海や川などの低湿地帯に囲まれた標高13、4㍍ほどの小高い丘陵地帯でした(下・中央が「笠寺」)。浮島のような土地。
 西側は標高3、4㍍で水田地帯。そのさらに西は標高-1㍍、0㍍となっていて、かつては海でした。東側も低地。
 旧「東海道」は丘陵の西の縁を南北に進んでいたことが分かります。
 江戸時代に入って干拓が進み、西に大きく土地が広がり水田になり、それ以前の海岸線はまったく分からなくなりました。
 時代が下がり、丘陵の西側に「名鉄」が開通、西側にあった水田・田畑が区画整理されましたが、その後、宅地化され、田園風景はなくなりました。
 さらに、東側の丘陵一帯や東側も開発され、宅地化。かつての面影はまったくなくなり、現在に至っています。

1890年頃。 

1920年頃。

1932年頃。

1992年頃。 

かつての街道らしく緩やかに曲がっている。

「ここは松巨島、呼続。七里の渡しまであと5,555歩。」
 励みになります。

    
                               「東海道 鎌倉街道」。

   
       宿駅制度制定四百年記念碑

 古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。

「山崎の長坂」。

    
 進む方向を望む。                              振り返って望む。

「山崎橋」手前にある道標。    
                                         「北あつた 南よびつぎ」。

橋を渡って左に曲がります。

広い道路になり、「名四国道事務所」を左手に見ながら進む。

この先で大きな「松田橋」交差点になります。

「歩道橋」から行く手を望む。正面が「国道1号線」。 

「国道1号線」に合流します。「(日本橋から)357㎞」ポスト。

 しばらく進み、「国道1号線」から左側の側道に入って、JR東海の踏切を渡ります。

「東海道」の名が。

古い町並みも。

熱田橋を越えると、「熱田区」。

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鳴海宿高札場。笠寺一里塚。(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その4。 )

2015-07-23 21:43:46 | 旧東海道

 現在の鳴海宿には、当時のものは寺院以外は残っていないようですが、2009(平成21)年、高札場が復元されました。本町交差点を右折したところにあります。

    

東海道 鳴海宿高札場(復元)

 東海道鳴海宿では、江戸時代、宿場の中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋ね付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。
 この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ2間2尺、長さ3間、幅1間との記述が残されています(1間:約180m、1尺:約30㎝)。また、当時の高札8枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。




《右の高札》
 慶応4年(1868年)に出された「外国人への乱暴禁止」の高札。鎖国政策を廃し外国との交流を進める明治新政府の方針が読み取れる高札。



今般王政御一新ニ付朝廷之御條理ヲ追ヒ外国御交際之儀被仰出諸事於朝廷直チニ御取扱被為成万国之公法ヲ以条約御履行 被為在候ニ付而ハ全国之人民叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被仰付候 自今以後猥リニ外国人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業イタシ候モノハ朝命ニ悖リ御国難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦御交際被仰出候各国ニ対シ皇国之御威信モ不相立次第甚以不届至極之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ士列之モノト雖モ削士籍至当之典刑ニ被所候条銘々奉朝命猥リニ暴行之所業無之様被仰出候事
三月     太政官
右之通被仰出之訖
弥堅可相守者也
名古屋縣

【訳文】


 この度王政復古となったので朝廷の筋道に従い外国と交流を表明された。諸々の事は朝廷が直接取り上げられ国際法を以って条約を実行されるので全国民は朝廷のお考えを謹んで戴き心得違いの無い様命ぜられた。今後みだりに外国人を殺したり不心得な事をした者は朝廷の命に反し国難を生み出すだけでなく、国交を始めた各国に対し天皇が治める国としての威信も立たない事となり大変不届き千万である。よってその罪の軽重に従い士族の者であっても身分を剥奪し、罪相当の刑罰に処せられるので銘々朝廷の命令を戴きみだりに乱暴な行為の無いようにと命令をなされた。

三月       太政官(だじょうかん)

 右の通り仰せ出があったので、厳守すること。
         名古屋県

《左の高札》
 慶応4年(1868年)に出された「徒党・強訴・逃散を禁ずる高札」。この高札は、明治初年、今の内閣に相当する「太政官」が出したもので、新政府の方針のひとつを示したもの。

徒党・強訴・逃散を禁ずる高札

 定

何事によらすよろしからさる事に
大勢申合候をととうととなへ
ととうしてしいてねかひ事
くわたつるをこうそといひ
あるひハ申合せ
居町居村をたちのき候を
てうさんと申す
堅く御法度たり
若右類之義これあらハ
早々其筋の役所へ申出へし
御ほふひ下さるへく事
慶応四年三月
太政官
右之通被仰出之訖
弥堅可相守もの也
名古屋縣

【訳文】
 定

 どんな内容のことであっても、よくないことに集団で企みをすることを「徒党(ととう)」といい徒党してお上(かみ)に要求を出そうとすることを「強訴(ごうそ)」という
さらにまた、相談して居住地を立ち去ることを「逃散(ちょうさん)」という
これらは堅く禁止する
もしも、右にあげたことが有ったならばすぐに関係の役所へ知らせよ 知らせたものにはご褒美をくださるであろう

慶応四年(1868)三月
太政官(だじょうかん)

右の通り仰せ出があったので厳守すること
名古屋県*
*(慶応四年の時点では、まだ尾張藩家老名で書かれていたものが、明治四年の廃藩置県で名古屋県が出来たのでその部分のみ書き換えられたものと推定されます)

HPより)

 通りを挟んで高札場の反対側には、最古の芭蕉供養塔がある「誓願寺」があります。

東海道に戻った左側に「本陣跡」碑。


鳴海宿本陣跡

 鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。
 宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。
 鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。
 なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、2軒あった。

  名古屋市教育委員会

通りの向かい側には、「鳴海宿食い呑み問屋場」。

「作町」交差点を右折します。

しばらく進むと、右手に「丹下町常夜燈」。ここまでが「鳴海宿」。

    

丹下町常夜灯

 鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。
 表に「秋葉大権現」右に「寛政四年--」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
 寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
 旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
 平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。

 名古屋市教育委員会

一段高くなった歩道を歩きます。

右手にある「鉾ノ木貝塚」説明板。

 鳴海潟に面した丘陵の海岸に近い斜面にあります。面積はあまり広くありませんが、厚さ70㌢の貝層のうち、下層はハイガイの生育
が悪く、上層は生育のよい貝ばかりです。遺物は縄文前期の土器ですが、下層からは、やや厚い縄文のある土器とともに薄手の細線文
土器を出すのに、上層では爪形文・羽状縄文をもつ土器を主体として、すべての点で上下二層の間に相違があります。市内に残る唯一の縄文式貝塚で、見つかった土器は「鉾ノ木式」と名付けられています。

「山王山」交差点を横断して、「天白橋」方向へ向かいます。

 橋を渡ると、「緑区」から「南区」へ。

                   
      歩道には「東海道」のタイル。            道路際には「東海道」の標柱。

 その先に「大きく細長い古地図(絵図)」。

    
                                            現在地。 

熱田宿付近。 

    昔のままの道筋。

前方にこんもりと茂った大木。「笠寺一里塚」。

    

笠寺一里塚

 一里塚は、慶長9年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。
 ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが現存している。 

12時少し前になり、ベンチもあるのでここで昼食休憩。
コメント (1)
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有松一里塚。鳴海宿。曲尺手(かねんて)。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その3。)

2015-07-22 23:23:40 | 旧東海道

二つ目の山車の倉庫。「唐子車山車庫」。

 これまでの道中では、一番宿場町らしい町並みに出会いました。

    

名古屋市有松町並み保存地区

 有松は、旧東海道と知立の宿の間に慶長13年(1608)に、間の宿として開かれた。尾張藩の症例により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞りは有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞りと共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起こり全村ほとんどが焼失した。
 村の復興に当たり、建物は従来の茅葺きを瓦葺きにし、壁は塗り籠め造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。
 商家の建物は、中2階建て切り妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞りの店頭販売の為に大きく開かれていたが、今は格子がついている。
 名古屋市は有松を町並み保存地区に指定し伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並み調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。

 平成7年3月31日  名古屋市教育委員会


 東から西まで約800㍍、徒歩で約10分の範囲。北は名鉄線、南は国道1号線に挟まれた区域。周囲は、(新興)住宅地となっています。現代と江戸が微妙に交差しつつ、江戸時代の雰囲気をそのまま残しています。

    

中舛竹田荘
 中舛(なかます)竹田家は、旧東海道の歴史的な町並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田書屋九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。
 老朽化が進み建物と町並みの保存が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ、所有者である竹田様と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で、「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ外観は江戸期の様式を再現しました。

   平成22年10月26日竣工

 このような取り組みもなされています。

注:左の写真で道路上のマンホールの文様はミズスマシ? 有松絞りでこのような文様があるのでしょう、なかなか粋な計らいです。


 まだまだ見所が多いところですが、そろそろ西のはずれにさしかかります。

       
町並みの奥に見えるのは、「名古屋第二環状自動車道」の橋脚。            振り返って望む。

三つ目の山車の倉庫。神功皇后山車庫。

 有松には、『布袋車(ほていしゃ)』『唐子車(からこしゃ)』『神功皇后車(じんぐうこうごうしゃ)』の3輌の山車があります。これらは毎年10月第1日曜日に開催される「有松祭り(天満社祭礼)」に曳きだされます。そして、最近では6月に行われる「絞りまつり」にも展示されています。また、この3輌の山車は名古屋市が「有形民俗文化財」として指定しています。
 旧東海道の面影を残す町並みを3輌の山車が練り歩きます。山車のすれ違いや方向転換の際の迫力や、山車の上でくりひろげられるからくり人形の演技はこのまつりのみどころとなっています。
                   
布袋車   唐子車  神功皇后車

有松絞り山車まつり
 有松絞り山車まつり 毎年10月第1日曜日に行われる秋の大祭。東海道の町並みを背景に練り歩き、山車の上でくりひろげられる「からくり人形」の実演は、このまつりの見所です。

HPより。


右手には、梅屋鶴寿歌碑。

「あり松の 
  柳しぼりの 
    見世にこそ 
 しはしと人の
  立ちとまりけれ
             梅屋鶴寿
梅屋鶴壽
 幕末の狂歌師。享和元年(1801)江戸神田佐久間町に生まれる。姓は諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した。秣(まぐさ:馬や牛の飼料とする草のこと。馬草とも書く)をあきない、尾州家の御用を勤める。
 若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、後に長谷川町に待合を茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった。狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて季吟おほし本町側糸巻連の魁首にして其の名度四方に鳴る。老後は秣翁とも言うようになった。
 元治元年(1864)正月12日享年63歳で亡くなる。

 この人は、歌川(安藤)広重とは同年の生まれで、同じ頃に活動した浮世絵師「歌川国芳」のパトロンだったそうです。

国芳の作品はユニークなものが多い。(「Wikipedia」より)

 この歌碑を過ぎると、突然、現代に戻ります。頭上には、「名古屋第二環状自動車道」の高架道路。その橋脚の下には、「有松一里塚跡」碑。 
                               

    

有松一里塚

 一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を基点に、道程一里(約4㎞)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。
 この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、無くなりました。しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年、当地に復元されました。

「名古屋第二環状線自動車道」。

高速の下で、名鉄線の踏切を越えます。

 道なりに進み、途中にあったスーパーで昼飯のためのおにぎりなど買って小休止。その先の交差点のところに大きな「常夜燈」。

    

平部町常夜灯

 東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。
 表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
 文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除けなどを秋葉社(火防神)に祈願した。
 大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時をしのぶことができる。

 名古屋市教育委員会

ここが鳴海宿の入口になります。

電柱には解説板がくくりつけられている。

鳴海宿概要

 町並みは平部町東端の秋葉常夜灯から始まり、平部町から中島町までほぼ直線に東海道が走り、中島橋で扇川を渡ると相原町に入る。
 相原町と本町の境あたりに曲尺手(かねんて)があり、本町と根古屋町の境あたりに高札場が設置されている。根古屋町、作町まではほぼ東南から西北にまっすぐ東海道は通っている。相原町から作町は、北側に鳴海城(根古屋城ともいう)の丘陵地帯、南側に扇川があり、そのはさまれた細長い部分に宿場が発達している。平部町から作町の距離15町18間、作町からは直角に曲がり、山花町、花井町、北浦町、丹下町と山の西縁に家屋が並んでいる。山花町から丹下町まで距離1町半、宿場は表方と裏方に分けられ、表方は平部町より作町まで6町、裏方は山花町から丹下町までの4町を指す。 
 組頭は十町と枝郷の古鳴海、前之庵から1名ずつ計12名で運営されていた。
 宿場北の丘陵地帯の麓、山の手辺りは寺町で、(略:11の寺院名)・・・
 本陣は元和7年(1621)ごろ設置され、寛永10年(1633)ごろ根古屋町に移り、江戸時代末ごろまで代々西尾伊右衛門家が勤めていた。
 後に西尾家を引き継ぎ下郷次郎八本家の11代次郎八が勤め、東店家より本家の養子となった良之介が本陣職を継いで明治維新まで続いている。
 旅籠は本町、根古屋、作町に集中しており、名産としては鳴海絞りが名高い。

現在のようす。

    
 東海道をイメージした石碑。                  其の辺りから来た道を振り返る。

「扇川」を渡り、相原町に入ります。古い町並みが続きます。

 相原町と本町との境目付近に「曲尺手」。

     


 1880年頃のようす(「今昔マップ」より)。←が常夜灯の位置。○が「曲尺手」。道筋は現在と変化がない。宿場の西側、南側は水田地帯。


 現在のようす(「同」より9。「城跡公園」以外は宅地化され、かつての丘陵地帯、水田地帯との区別も明らかではないが、色合いの違いで高低が見て取れる。


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大将ヶ根。有松。有松・鳴海絞り。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その2。)

2015-07-21 19:04:10 | 旧東海道

 「桶狭間病院」の前を通る道が旧東海道。「国道1号線」から左に入ります。
    

 再び「国道1号線」に合流し、しばらく進み、「大将ヶ根」交差点で向かいの道に進むと、有松の町並みに。ここは、名古屋市緑区。


(「okehazama.blogspot.com/2013/05/blog-post_10.html」より)

 この「大将ヶ根」は、古くは「太子ヶ根」と言う地名でしたが、桶狭間の合戦の際に信長の軍勢が集結した場所であると云い、以後「大将ヶ根」に変わったと云われています。地域的には、名鉄線・有松駅からは東側一帯の地域。緑区鳴海町字大将ヶ根が町名変更で太子1~3丁目になったのは昭和54年のことのようです。
 江戸時代、このあたり一帯は鳴海山と総称した標高40~60mの丘陵地。今は新興住宅地として開発され当時をしのぶ山林は無くなっているが、峰の名前が地名になって残っていることと急勾配の道が、昔ここが山の中であったことを物語っているようです。

しばらく進むと、歌碑。

 たちならぶ花にしきと家ごとにかけ渡したるたくりり染かな 離家 鈴木朖

いよいよ有松の町並みに。

 広重も鳴海の宿はこの町並みを描きました。


  東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞 / 歌川 広重

 鳴海は絞り染の名産地であり、店が並んでいた。この図は鳴海より約一里東にある有松絞を売る店を描いたものである。建物や樹木を暗く着色し、地面も単純に描き、店の中に目が行くように描かれている。駕籠、馬、徒歩と、女性の旅人が通る。

(「知足美術館」HPより)

    
   大正期の鳴海(「同」より)。竹田家。              現在のようす。ほとんど変わっていない。

右手には「有松山車会館」。

「有松絞会館」脇、広重の絵。

 有松 名物有松絞りを吊した店が並ぶ。手前の女性がその美しさを眺めている。のれんにある菱形内の「ヒ」は広重の印 脇の「竹内」は版元名。 鳴海信用金庫

有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)

 愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
 木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。

有松絞りで染め抜かれた文様。

 現在の有松地域は江戸時代のはじめには人家の無い荒地であったため、この地域を通る東海道の治安に支障をきたしており、尾張藩は人の住む集落を作るために住民を募り1608年(慶長13年)東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた。
 しかし、有松地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではなく、また鳴海宿までの距離が近かったことから間の宿としての発展も望めなかった。そこで有松に移り住んでいた住人の一人である竹田庄九朗が、1610年(慶長15年)から1614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになったと言われている。
 また、1655年(万治元年)に豊後(現在の大分県)より移住した医師三浦玄忠(ただし医師であったこと、玄忠という名前については疑問も呈されている)の妻によって豊後絞りの技法が伝えられ、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げた。
 このときに伝えられた技法は三浦絞りあるいは豊後絞りの名前で呼ばれ現在にも伝わっている。なお、鳴海絞りではこの三浦玄忠夫人を鳴海絞りの開祖と伝えている。
 有松での絞り染めが盛んになるにつれ、鳴海などの周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていったが、この状況に対し有松側は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え、1781年(天明元年)尾張藩は有松絞りの保護のため有松の業者に絞りの営業独占権を与えた。
 ただし、絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。独占権を得た有松には現在につながる豪壮な町並みが形作られた。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると凶作に苦しむ領民の生活扶助のため独占権が解除された。
 明治に入ると鳴海や名古屋、大高などの周辺地域にも絞り染めを扱う業者が現れるようになる。愛知県以外でも全国各地で絞り染めが生産されるようにもなり、東海道が交通の中心から外れたことも影響して有松の絞りは衰退期を迎える。しかし、明治の中ごろ以降は販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることになる。
 第二次大戦中には戦時統制が強化されて原料が入手できなくなり絞り染めは衰退するが、戦後に統制が解除されると復興し、社会にゆとりが生まれると共に生産量も増加した。
 しかし、昭和の中ごろを過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者難などから生産量は減少し、現在ではかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じている。一方で、1975年(昭和50年)9月に愛知県内で初めて伝統工芸品に指定された他、第一回国際絞り会議の開催(1992年(平成4年))と「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞り振興のための取り組みも行われている。

 有松と鳴海は現在共に名古屋市の緑区に属しているが、名古屋市に編入されるまでは有松は知多郡、鳴海は愛知郡に属しており、元々は全く別の地域である。有松絞りと鳴海絞りは現在でこそ「有松・鳴海絞り」として一括して伝統工芸品に指定されているが、江戸時代より互いに本家争いや販売、訴訟合戦を繰り返し、戦後に友禅の人間国宝山田栄一を鳴海絞りの人間国宝にもしようと運動が行われた際には、有松側から横槍が入ったと言われる。
 なお、江戸時代にも絞り染めの生産の中心は一貫して有松地域であったが、正式な宿場ではない有松は旅人の停留する所ではなく東海道五十三次の一つであった鳴海宿においても販売を行ったことから、有松絞りも江戸では専ら「鳴海絞り」と呼ばれていた。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 素敵な町並みをキョロキョロしながら歩いている途中、床屋さんの店先でご主人とベビーカーに男の子を乗せた母親が会話しているのを小耳に。

 乳児に話しかけるご主人「すてきな浴衣だね、お婆ちゃんが染めてくれたのかな」
 にこっり笑いながら答える母親「ええ、そうなんです」。

 ちらっと横目で見るとあざやかな藍色の浴衣でした。写真を撮り損ねたのが残念!

【服部幸平家住宅】
 服部幸平家は、服部孫兵衛家(井桁屋)の第6代の弟が明治時代に東隣に主屋を建造して分家した。この主屋の西側に建つ土蔵は、元は服部孫兵衛家の倉で、分家に際して幸平家に譲られたものである。服部孫兵衛家の屋敷構えを示す一部として、県指定の文化財となっている。
 主屋は、二階建、切妻造、桟瓦葺で、建造は江戸末期と見られている。妻を東海道側に向けて立ち、2階の2ヶ所に窓を開ける。切石の土台の上に建ち、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とする外観は、西隣の服部孫兵衛家の表倉と一連のものとして調和しており、東海道沿いの景観要素として貴重である。
 建築年:明治28年(1895年)
 愛知県指定重要文化財(1987年)
 現在の使用:絞り商

 以下、建物の説明は、HPより

    
                            【服部家住宅】
 服部孫兵衛家は、寛政2年(1790)向かいにある大井桁屋から分家し、創業した絞問屋で屋号を井桁屋という。屋敷地は、有松東海道に面し広い間口を有し、中央部に2階建の主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など併せて11棟が指定文化財となっている。有松の有力な絞問屋の屋敷構の典型として価値のある遺構となっている。主屋は、切妻造、2階建、桟瓦葺、1階には格子をはめ、2階は黒漆喰の塗籠造で屋根両妻に卯建をあげる。主屋の西は、往還沿いに塀を構え、門を入ると座敷が建つ。
・・・
 有松の有力な絞り問屋の屋敷構えを建築的に特徴づけるものは、間口の大きな敷地の中に、絞りの原材料製品のための蔵、接客用の座敷などが立ち並ぶ構成といえるが、服部孫兵衛家はその典型といえ、よく保存された屋敷構え全体が価値あるものとなっている。
 建築年:文久元年(1861年)
 愛知県指定重要文化財(1964年)
 現在の使用:絞り商

【小塚家住宅】
 当住宅は、茶室の付く主屋、表倉、南倉などからなり、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめており、改造も少なく、建築的にも優れ、歴史的にもまた町並み景観の上からも貴重な建物である。
 主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入り、外壁および軒裏は塗籠漆喰塗で、一階は格子窓、隣家との境に卯建が設けられている。
 小塚家が有松に移住した年代は、寛文年間(1661~1673)といわれ、屋号を山形屋として明治期まで絞り問屋を営んでいた。それ以後は専用住宅として使用され現在に至っている。
 建築年:文久2年頃(1862頃)
 名古屋市指定有形文化財(1992年)
 現在の使用:住居

【岡家住宅】
 当住宅は、江戸時代末期の建築で、当時は丸屋丈助の店として、小田切春江の錦絵にも描かれている。
 敷地は奥行が深く、主屋は木造切妻造二階建、桟瓦葺、土庇付の建物で、二階窓は優美な縦格子、塗篭漆喰塗になっている。お勝手の釜場の壁は、防火上の配慮から柱を巻き込んで塗りこめられた土壁が、独特の波形を描いている。
 主屋の裏の敷地に、座 敷、作業場、東 倉、西 倉が立ち並ぶ。 有松の幕末における典型的な町屋形態をとっている。
 建築年:江戸時代末期
 名古屋市指定有形文化財(1987年)
 現在の使用:住居

【竹田家住宅】
 竹田家は、有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で300年以上の伝統を持ち、有松における代表的家系の一つである。
 主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りであるが、明治から大正にかけて平屋的構えを2階形式にし、表側に下屋(庇)を付設し土庇にしたり、出格子窓を造り、併せて、「申々居」移築あとの敷地に新たに書院が建造され、主屋と書院との間の間取りも大幅に改築されている。
 また、屋敷内の南方に、築150年以上とされる茶室「裁松庵」がある。
 同家の造りは、絞問屋としてはもとより、接客用としての正確も強く、右側の門や玄関、書院、茶室などはこれらを具体的に示すものである。外観の偉容は、全盛時代の有松の豪華さを誇った代表的な建築の面影を偲ぶことが出来る。
 建築年:江戸期(主屋)
 名古屋市指定有形文化財(1995年)
 現在の使用:絞り商

 他にも、

【中家住宅】
 建築年:明治中期頃
 国登録有形文化財(2008年)
 現在の使用:絞り商

【棚橋家住宅】
  建築年:明治8年(1875年)
 国登録有形文化財(2009年)
 現在の使用:住居

など、ほれぼれするような立派なおうちが東海道の両側に建ち並んでいます。

    

《付》広重の他の版の鳴海宿も有松が舞台です。

    

HPより)
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阿野一里塚。桶狭間古戦場。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その1。)

2015-07-19 20:32:16 | 旧東海道

 「旧東海道」の旅の続き。
 さて、6月17日(水)。お天気はどうにか持ちそうです。その代わり、暑くなりそう。今日は、宮宿の「七里の渡し」跡までですから、それほど長い行程ではありませんが。
 「名鉄イン刈谷」は、朝食付で5,900円。改札口直結なので大変便利です。
 通勤、通学の人達に混じって「刈谷」から「知立」経由で昨日の最終地点「豊明」まで戻って、再開。「国道1号線」に戻って西に向かいます。8時30分少し前。少し歩くと、「(日本橋から)345㎞」付近となります。

まず「阿野一里塚」から。

 「案内」表示に従って、国道1号線から左の道に入り、県道57号線の高架をくぐると、国指定史跡の「阿野一里塚」があります。

    
                       道の両側にきちんと残っています。

      「国指定史跡 阿野一里塚」。
 徳川家康は慶長9年(1604)すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて、道の両側へ塚を築かせ、、一里ごとの目印とした。
 県内には18の一里塚があったが、現存するのは4ヶ所。そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と知立市のみである。
 昭和11年12月に指定を受けた。

 豊明市教育委員会

 この一里塚は、「日本橋」から86里目のものです。

この塚には、句碑があります。 

 春風や坂をのぼりに馬の鈴  市雪

 東海道の阿野一里塚から「前後」に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」の意である。この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の「名区小景」に載る。

 豊明市観光協会

ここから緩やかな上り坂。坂の途中から行く手を望む。

坂の上から来た道を望む。

立派なおやしきの黒塀。

左手に名鉄の線路が近づいてきます。バス停「五軒屋」。

右手には常夜燈。

「寂応庵」跡。ごみの集積所になっていて気の毒。

街道筋らしいおうちが続きます。

 急に道が広くなり、周囲も畑などがあって開けた場所に。その先で「国道1号線」と合流します。この辺りも「桶狭間」の古戦場跡?


「中京競馬場」入口には馬の像。

「旧東海道」は左に折れ、名鉄のガードをくぐります。 

 左手にある大きな病院が「桶狭間病院」。そこを左に折れると、「桶狭間古戦場伝説地」。
「史蹟・桶狭間古戦場」碑。

桶狭間の戦い

 永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国・桶狭間で行われた合戦。
 2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦いである。
 戦後、東海道に君臨した今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった。
 一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康(徳川家康)は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。元康は今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。

『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画

(以上、「Wikipedia」参照)



 古戦場

 この地は永禄3年(1560)5月19日今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間あるいは桶狭間と呼ばれた。
 今川義元松井宗信無名の人々の塚があり、明和8年(1771)七石表が建てられた。文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵徳本行者念仏碑などがある。

 昭和12年12月21日 国指定史跡

 豊明市教育委員会

 石碑など公園の中に点在しています。
    

 七石表(一号碑)

 桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。
 明和8年(1771)、尾張藩士人見弥右衛門、赤林孫七郎佑之により建てられた。
 北面「今川上総介義元戦死所 東面「桶峡七石表の一」 南面「明和八年辛卯十二月十八日」建」と刻まれている。

 豊明市教育委員会  


 今川治部大輔義元の墓

 駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
 以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月に、この墓を建てた。

 豊明市教育委員会 

「香川景樹・歌碑」。

あと問へば 昔のときの こゑたてて 
    松に答ふる 風のかなしさ 景樹

 桂園派の巨匠、香川景樹が己の歌風を江戸に広めようと意気込んで出府したが、迎えられず、失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年(1560)5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持ちをくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首で「尾張名所図会」に載っている。

 豊明市観光協会   


「桶狭間の戦い 解説板」。 

  
 説明文にもあるように、今川義元が戦死した所であって、この場所が主戦場だったかどうかは定かではないようです。桶狭間の戦場そのものは、ここの他にもうひとつあるそうです。(今川義元の墓のあるここは、「館狭間」といったらしい。)

HPより。

桶狭間はこっちのもんだぎゃぁ 名古屋市緑区vs.豊明市

(1/2ページ)2014/6/6 6:30


 桶狭間はこっちのもんだぎゃぁ 名古屋市緑区vs.豊明市

(1/2ページ)2014/6/6 6:30

 織田信長が今川義元を破ったことで有名な「桶狭間の戦い」。その主戦場を巡り、愛知県豊明市と名古屋市緑区の間で論争が続いている。戦国時代の歴史の舞台となってから450年余り。定説はなく、我が町が「本家」と譲らない。歴史ブームを背景に古戦場は今や、注目の観光地。愛知県は桶狭間近くで今秋に開く武将祭りに双方を招待する意向で、観光地としての「桶狭間」の魅力が、双方のPR合戦に拍車をかけているようだ。
 名古屋鉄道中京競馬場前駅から数分歩くと、豊明市側の「桶狭間古戦場伝説地」が現れる。明治時代にできた義元の墓や、義元やその重臣が戦死した場所として江戸時代に建てられた7つの石碑などが並ぶ。
 1937年に史跡として国から指定を受けており、地元団体「桶狭間古戦場祭保存会」(豊明市)の内藤四郎会長(77)は「国から指定を受けたのはここだけ」とアピールする。
 古戦場伝説地から南西に約1キロ。名古屋市緑区にあるのは「桶狭間古戦場公園」だ。2010年、義元と信長の銅像を建立。石や小道などを配置し、桶狭間の戦いに登場する城やとりで、街道に見立てたジオラマもつくった。義元の馬をつないだとされる「ねずの木」や墓碑もある。
 08年設立の地元団体「桶狭間古戦場保存会」(名古屋市緑区)の梶野泉会長(65)は「(緑区には)信長が義元を討ち取った後、村人に戦死者を埋葬するよう命じた塚がある」と譲らない。
 「桶狭間の戦い」を扱った書籍の出版が相次ぎ、「本家」論争に火が付いたといわれる。論争が決着しない背景には、数少ない歴史文書の解釈が何通りにもできることがある。中近世史を専門とする名古屋市博物館の鳥居和之学芸課長(60)は、桶狭間の合戦を描いた江戸時代の絵図はあるが、「現在の地形にあわない」と指摘。合戦に関して記した「信長公記」も武将の動きなど記述はあるが、桶狭間に向かう道のりに関する記載は少なく、鳥居課長は「新たな資料などが出ない限り、論争は決着しない」とみる。・・・


   桶狭間古戦場公園に建つ織田信長(左)と今川義元の銅像(名古屋市緑区)


 地形的な面から見ると、豊明市の史跡は少し上り坂の途中にあり、もう少し南に上って行くと、南西に小高い丘陵に囲まれた地域が広がっています。そこに名古屋市の「桶狭間古戦場公園」があります。


 1880年頃のようす(「今昔マップ」より)。
 ここでは、↓「今川義元墓」とともに戦場のマークが付いています。→が緑区の「桶狭間古戦場公園」。ただ、この時期以降、「今昔マップ」にはこの辺りには何の表示もありません。


 1968年頃のようす(「同」より)。
 ↓「今川義元墓」から「桶狭間古戦場伝説地」に変更になった頃。


 現在のようす(「同」より)。

 地形的には、「古戦場伝説地」(標高34㍍)から坂道を上ると標高50㍍になり、下って34㍍ほどの地域になる。西側は45~50㍍の丘陵が続く。南は30㍍以下、東は50㍍以上の丘陵になる。また、「古戦場伝説地」から北の標高はいったん低くなったあと、再び40~60㍍の丘陵地帯となる(以上データは「今昔マップ」より)。 

 どちらも、直接、旧東海道の道筋とは離れていますが(特に名古屋市緑区)、「国道1号線」には、「大将ヶ根」という交差点があり、「桶狭間の戦い」(信長と義元のいくさ)に深く関連がある地名です。
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これこそ、マッチポンプ?

2015-07-18 23:00:07 | 世間世界
新国立競技場の計画白紙に 政府、半年以内に新デザイン

「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」。

 問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現。

 アベの、あるいは森の、あるいは自民党のやり口。これで、安保法案強行採決で下がりそうなアベ支持率を回避できそう、・・・そういう思惑が見え見えの。つい数日前まではどうだったのか! また、オリンピック招致の時の演説はどうだったのか! 森はどういう発言をしていたのか! ・・・

 またしても民主党政権時代の「決められない政治」から「決める政治」へ。すべて民主党に責任を負わせるというやり方も同様。
 こうして世論誘導を果たす。
 
 もちろん、安保法案、辺野古新基地などは、聞く耳を持つ気はさらさら、ない。

 「よく決断してくれた」「さすが」。こうして、またまた国民はだまされる。
 「国民は自分の生活に関係ないことはすぐに忘れる。」「オリンピックで挙国一致を。」

 かつてのナチスの手法と同じようだ、と気づいたときにはもう遅い。後ろを向いて舌を出している姿が想像できそうだ。


 首相は白紙化の理由について「国民の批判があった」と述べ、「1カ月ほど前から見直せないか検討してきた」と強調した。
 しかし、規模縮小で3千億円の総工費が2520億円に圧縮された計画が6月下旬に公表された際は、何の異論も唱えなかった。
 今月10日の国会答弁でも「(計画を見直せば)五輪に間に合わない可能性が高い」と消極的だった。どこで考えが変わったのか。
 見直し論は、安保法案が衆院特別委で強行採決された15日に突然浮上した。
 19年9月のラグビーワールドカップ(W杯)で新競技場使用を要望していた日本ラグビー協会前会長の森喜朗元首相には、安倍首相自ら使用できないことを伝えた。
 政府・与党内には安保法案の扱いに続いて、新競技場の問題でもつまずけば内閣支持率がさらに下がるとの声があった。
 建設計画の白紙撤回で支持率低下を食い止めようとの思惑があるとすれば、それこそ筋違いだ。一連の混乱の責任は誰にあるのか。

・・・

 (「北海道新聞」社説)

 (アベ)首相は「五輪は国民皆さんの祭典だ。主役は国民、アスリートだ。皆さんに祝福される大会でなければならない」と強調。(「共同通信」より)

 よくいけしゃあしゃあというよ。
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・・・いいえ、わたしは女優! (じじばばがゆくシリーズ。城ヶ島編。)

2015-07-17 22:58:37 | じじばばがゆく

 恒例の(高齢の)「じじばばがゆく」シリーズ。今回は、梅雨時の三浦海岸へ。

 7月4日(土)雨空の中を決行、とあいなりました。総勢10名。いつものメンバーでした。

 ちょっと遅れましたが(このところの猛暑だったら、みんな熱中病でひっくり返っていました)、やっと報告します。

 というか、まだなの、では私がと、このblogに投稿があったので、そのまま載せます(誤字脱字、構成もそのままです、あしからず)。なお、写真は当方が撮ったものを載せます。

 数日前から、急に暑くなったり、体調管理が大変な今日この頃。その上、台風も来たりでイヤになってしまいますわ。

 そうそう、先生にはお足元の悪い中、品川くんだりまで遠路はるばるお越し戴き、有り難うございました。その後、いかがお過ごしですか? 

 こっちも電車に延々乗って、乗り換えて、・・・。どういう魂胆ですかね、幹事の人達はね、そう思いません?

 あれからあっという間に2週間が経ってしまいそうです。とても楽しい一日でした。

 品川に集まった時にはちょっと雲も多く雨も降りそうだったので、三崎はやめて「横浜中華街」にしよう、という話も出たけれど、すぐ却下。だって、ここにしようと決めた幹事がそういうんですからね。

 やっぱり行こう行こうということで。せっかくここまで着たんだから、と。ここで、幹事交代! 現地との連絡はカンジさんがやりました。

「みさきまぐろきっぷ」。品川から3,060円。

 そういえば、一人、もう前々からしつこく鮪の解体ショウを見に行こう、って騒いでいた人もいたよね。その人の顔を立てたのかしら、今回の企画。ま、どうでもいいですけど。

 でも、何とか雨が降らないでよかったですね。三崎口駅を下りたときはちょっと肌寒いくらいでした。あら、そう、電車の中に傘を置いてきちゃったんですって、相変わらずですね。

 それから昼食。カンジさんが予約した食堂に移動してそれぞれ注文、先生は2杯も生ビールを飲んでいらしたわね、大丈夫でしたか? そうそう、あの人は昼酒は飲まないっていう主義らしいですのよ。

 がら空きでしたね、あのお店。7月の最初の土曜日がこれじゃあ、商売あがったりですね。お店のおじさん、外ばかり見て手持ち無沙汰でしたわね。晴れていればもっとお客さんが入るのですかね。

 お土産にもらったのが、「おつな味噌」。「つな」で「鮪」をかけているんですって、ネーミングはともかくちょっと大きいビンでしたね。

 キュウリにつけて食べたりすればいいよ、とか言ってた人もいたけど、でも、それだけじゃね。

 まだ封も切らずに冷蔵庫の中に入っていますわ。今度お目にかかった時、差し上げましょうか、なんてね。来年7月まであるわけないですわ、オホホホ。

    
           「城ヶ島灯台」。

 さて次は、ということで、海岸の岩伝いに歩くなんてひどいことになったわよね。先生の靴も大変なことになっちゃって・・・、ホント申し訳なく思いますわ。

 でも、革靴で来るなんて、というような皮肉は言いませんわよ、けっして。

 ハイハイ、足元に「ご用心」!
 
        

「馬の背洞門」のところでハイ! パチリ!

人が邪魔なのでもう1枚。

 今度は海岸を見下ろしながら、丘の上を元の所に戻ってきて、渡し船で「魚市場」に向かって「産直センター」へ行ったんですね。そこで、買い物券を使って買い物をして他にもいくつか買って。・・・

 往復の電車、バス代、食事代、お土産、これで、3,060円というのは安いですよね。

 でも、鮪の解体ショウなんてやってないじゃない。どこでやってるのよ! ・・・(無言)と思いましたわ。

 そのうち、なんだかんだで3時過ぎになってしまって、バスで駅まで戻って、そして、品川まで。お疲れ様でした。
 
 でも、先生と別れたあと、私たちだけ(誰も帰らず)で飲み屋さんに行きました。そこでも、話が盛り上がって、そのとき、私のことをみんながやっと女優と認めてくれたんですわ。ふ、ふ~ん。ここまで長い年月がかかったわ。 

・・・

 来年は、私たちも古稀、先生は喜寿ですよね、また元気でお逢いしたいものですわ。それまでお互いに元気で。

 暑さの夏にも「ご用心」、お体ご自愛のほどを切に切にお祈り申し上げます。

 おっと、その前に、12月に逢うまでに、ますます女優業に磨きを掛けてきますわ。でも、日暮里じゃね。

・・・

 「私はカモメ。いいえ、私は女優。」って、たしかチェーホフのお芝居の台詞。「城ヶ島」にはカモメはいなかったけど、トンビはいましたわ。

 では、再会する日を楽しみにしています。


 注:この投稿の中で、しばしば登場する「先生」は小生ではありません、念のため。
 また「女優」も自分でそう思っているだけで、本職は地元の「介護施設」で朝・昼・晩のシフト体制のもと、毎日、料理つくりを担当しています、お間違えにならないよう。
 でも、どっちが介護されているんだか見分けが付かない中で、一生懸命頑張っているようです。敬服!

  
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辺野古・高江。青い空と青い海と緑の森。・・・(じじばばがゆく。沖縄編。その3。)

2015-07-15 23:31:31 | じじばばがゆく

 6日(火)。第3日目。

 今日は名護からもっと北東へ向かい、東村・高江地区へ。
 そこでは、「ヤンバルクイナ」「ノグチゲラ」など地球上でここにしかいない固有種や絶滅危惧種が数多く生息する緑深き自然の森に、米軍の「ヘリパッド」(ヘリコプター着陸帯)基地(実は、オスプレイ発着のために使用する施設)造成を強行しています。
 それに反対して長年、交代・交代で座り込み・監視の闘いを行っている「ヘリバットいらない住民の会」への激励行動。

 ※「ヤンバル」とは豊かな森に囲まれた地域をさす。「山原」。

 この地域は、1000以上の高等植物や5000以上の動物が暮らしている。その価値の高さから「世界自然遺産」候補リストに挙がっているが、米軍基地の存在が大きな障害となっている。

「ヤンバルクイナ」(「Wikipedia」より)

           

「公益財団法人 山階鳥類研究所」HPより

 世界中でやんばるの森にだけ生息します。
 沖縄島北部の国頭村,大宜味村,東村を合わせた「やんばる」と呼ばれる地域にはヤンバルクイナをはじめ、ノグチゲラ、ヤンバルテナガコガネなどのここにしか棲んでいない「固有種」が生息しています。これらの固有種は、やんばるの森が失われてしまえば、地球上から姿を消してしまいます。
 ヤンバルクイナが棲むやんばるの森は、シイやカシなどの常緑広葉樹林が広がっています。


 《出発前の余談》

 宿泊したホテルは「ホテル ゆがふ いん おきなわ」。「北海道日本ハムファイターズ」の春期キャンプ時の宿舎として有名なようです。

    
 ホテル正面。                                球場。     
       
 「ホテル」のロビーには「日本ハムファイターズ」の記念写真やモニュメントが飾られています。ところが、37年間続いた、ここ、名護キャンプも来年から取りやめるという報道があります。はたして?

 さて、移動中のバスでは、

 このかんの沖縄知事選をめぐって、さまざまな思惑の中で、何とか知事統一候補として「反基地・平和」の一点で、翁長さんを立てながら「オール沖縄」で闘ってきた、その経過など、保革の枠や労組、自民党、公明党支持者との確執を乗り越えて勝利するまでの道のり・闘いという当事者の生の体験を聞きことができました。

 さらに、高江が置かれている現状、昼夜を問わず住宅地や小中学校の上を低空飛行訓練を行っている、日本政府が3600億円もの税金を使ってオスプレイ17機を購入し、日米共同訓練を行うことなど、高江地区のみの問題ではなく、これから日本全体でこうした状況が起こりうるのだというとなどを切々と訴えられました。

 東村・高江は人口約150名の集落。美しい山と川に囲まれた地域。しかし、米軍北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)と隣り合わせにある。1957年に使用が始まり、ベトナム戦争でのゲリラ訓練が行われた。北部訓練場にはヘリパッドが22ヶ所あって、常に地元は爆音や墜落の危険性にさらされている。そこへ2007年から新たなヘリパッドの建設が始まった。・・・

 こうした予備学習のもとで高江に向かいました。途中、トイレ休憩したところで。

    
   「東村憲章」。「豊かな自然の中で生命が輝く農村」をめざして、・・・。高江地区は地図上で右のはずれ奥に位置します。



 ヤンバルクイナなどの野鳥の天敵・マングースを捕らえる仕掛け。
 
 ハブを退治するために放ったマングースが野鳥などを襲うようになってしまった、らしい。

    

 やんばるの森の中に直径75メートルの円形の「ヘリパッド」を造成する、その資材運搬のためには森の中に道を新たにつくらなければならない。さらに完成して運用されれば、オスプレイのような大型軍事ヘリが飛び交うことになっていき、点が線に、線が面になって豊かな生態系と住民の暮らしに与えるダメージは計り知れない。

連日交代で座り込みを行っている地元の方から説明を受けました。

    

 しかし、悲壮感の漂うような雰囲気ではありません。厳しい闘いの中で、大らかに、屈せず、果敢に闘っている日焼けした顔々に感銘しました。

「座り込みガイドライン」。

1、私たちは非暴力です。言葉の暴力を含め、だれもキズつけたくありません。
2、自分の意思で座り込みに参加しています。誰かに何かを強いられることはありません。自分の体調やきもちを大切に。
3、いつでも愛とユーモアを!
4、人物、車(工事業者さんを含む)を撮影する時は許可をとってから。 

 短い時間の訪問。激励とカンパを差し上げて帰路に着きました。
 昼食のために、「古宇利島」に移動しました。かつて、その島の先生をしていた方の案内です。沖縄は反基地云々ばかりではありませんよ、かつての船で渡っていた漁師の村に島を結ぶ長い橋が開通し、小さいけれど観光地になりました。ぜひ立ち寄って下さい、と。

    

 途中では、サトウキビ畑が遙か彼方まで続くところを通過しました。「ザワワザワワ・・・・」の世界そのもの。が、9、10日の台風で大きな被害を受けたことをニュースで知りました。

    

 小一時間、お弁当を食べたあと、つかの間の散策。澄んだ水、明るい太陽。・・・

    

      
                              「古宇利橋」。
橋から砂浜を望む。このあたりから飛び込む青年二人にビックリ!

ハマユウ。

お土産に買った「ドラゴン・フルーツ」。

帰りの車中から橋を振り返る。

帰途、「国立療養所沖縄愛楽園交流会館」に立ち寄りました。

 この交流会館は、戦争被害、ハンセン病に対する差別・偏見という負の歴史を直視し、そこから学ぶことで平和を希求し、共生の可能性を追究する目的でつくられたもので、今年6月に開館しました。

    

 かつて、ここはハンセン病の強制隔離政策によってつくられた医療施設の一つでした。現在は、高齢のハンセン病回復者の生活の場としてのみでなく、地域医療の開放を進め、ハンセン病回復者の外来や内科・外科などの一般外来患者の診療を行っています。
 こうした中で、ハンセン病に関する誤った認識や強制隔離政策の歴史を理解し考える拠点としての新たな取り組みの場所です。

ハイビスカス。

 ハンセン病に関する基礎知識(誤った認識を改めるための)、強制隔離政策の歴史的な背景、患者・回復者へ差別・偏見の実態、隔離されたことによる非人間的な生活のようす、その中での奪われた人間的尊厳、苦しみ・哀しみ、・・・など、具体的な資料をもとに詳細な説明がされています。さらに、回復者たちの作品展示など、改めて考えさせられるものが多くあります。館内は撮影禁止。次の写真は、ちょっと失礼! パチリ!

「OFF LIMITS 許可なき者立ち入り禁止」。

     

遠くに見えるのは、先ほど通ってきた「古宇利橋」。

 この会館を最後の訪問地として那覇空港に戻ってきました。

 《6日》「県庁前」―「辺野古」―「名護」 計約80㎞。
 《7日》「名護」―「高江」―「古宇利島」―「那覇空港」 計170㎞。

 早めに着いた「那覇空港」で解散。帰りの便まで時間があったので、空港1階の奥にある知る人ぞ知る安い空港食堂で飲みかつ食べての反省会。格安航空便で帰ってきました。

 「貸切バス」での移動でしたが、車内での学習会、感想発表など充実し、交流もでき、学ぶことも大きな旅でもありました。企画し、案内してくれた方、何よりも現地沖縄の退職教職員の大勢の方々に深く感謝します。

・教員を退職したあと、タクシーの運転手をしているいなせな方。
・沖縄に何度も来ていて、沖縄での友人、知人が出来た方。
・アベと母校(小・中)が同じなことを心底嘆いている方。
・引退後、いっとき新宿西口で雇われマダムをしていた方。
・まだまだ働かなければならない、誠実な苦労人の方。
・息子が同じ仕事に就いている、事務方に精通する方。
・百名山をクリアし、再度セレクトして百名山に挑戦している方。
・しおりをつくり、ゼッケンをつくった意外に器用な方。
・東海道五十三次を歩き、「宮の宿」までやっとたどり着いた方。
・階段もなんのその、さっさとフットワークよく歩いていく方。
・バスを降りそこない、こういう生徒必ずいるよね、と言われた方。
・サトウキビ畑を見ながら「フィールドOFドリームス」を語る方。
・60過ぎとは思えない万年青年の趣で、今回のまとめ役の方。

・・・直前に90歳を過ぎた母親が転んで大けが、そのために参加できなかった方。

 多士済々、それぞれ環境や考え方、ライフスタイルが異なっていても、思いは共通。今の日本、このままでいいのか、何とかしなくちゃ、てなわけで、ますますお体大切に、明るく元気で頑張りましょう!

 今日、アベは多くの反対の声を無視して憲法無視の戦争法案を強行採決に踏み切りました。まったく聞く耳を持たない、しゃにむに突き進む対米追従。

 でも、まだ反対の闘いを諦めません。沖縄の闘いに学びつつ。
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辺野古・高江。青い空と青い海と緑の森。・・・(じじばばがゆく。沖縄編。その2。)

2015-07-14 21:24:41 | じじばばがゆく

 午後の座り込みの前に、「辺野古」基地の予定地を対岸から展望するため、海岸沿いに北へ向かいました。

    

 草地の脇を砂浜へ。

    

 ところで、紅紫色の花は? ヒルガオの一種で、「グンバイヒルガオ(軍配昼顔)」。つる性の多年草で四国から沖縄の海岸の砂地に生えます。葉の先端が凹み、軍配に似ているところから名前が来ているようです。



現地の方から詳しく説明を受けました。
     現在いるところは、地図では一番上の方。左下の赤い囲みが基地の建設予定エリア。

    

目の先には、 

 大浦湾沖合には立ち入り禁止の赤いブイがぐるりと囲んでいます。

    

砂浜には珊瑚のかけらが一面に。孫にかけら二つ拾いました。

 再び、午後の座り込みへ。戻る途中、キャンプシュワーブの左手奥が弾薬庫。周辺一帯が大きな米軍基地になる予定。


歌あり、踊りあり。

午後もデモ行進。

    

 これまで1年以上に亘る反対運動、1年になる座り込み、カヌーなどによる海上行動などの記録写真がたくさん掲示されいます。



 特に反対運動への機動隊や海上保安庁の理不尽な現場写真なども。

        

 午後4時になり、座り込み行動が終了、再会と東京での連帯の闘いを約して帰途につきました。



 夜の交流会では大勢の現地の方々と「豚足」「刺身」「ゴーヤ・豆腐・ソウメンチャンプル」などの料理と地元おすすめの「泡盛」を酌み交わしました。

    

 宴もたけなわの頃、当日行われた安保法制の公聴会に出席した名護市長の稲嶺さんが登場。いっそう明るく元気になりました。

    

 前回の選挙に担ぎ出されたときの率直な思い、その後のいきさつ、明るい選挙戦のようす、市長になってから、そして、「辺野古新基地反対」の強く粘り強い決意。さらに「オール名護」から始まった「オール沖縄」の反基地、平和の闘いへの道筋を、少しも肩をはらず淡々と、しかし力強い言葉で語ってくれました。こうしてますます交流会は盛り上がりました。

        

 「泡盛」ですが、地元のすすめでを飲みました。

 そのうち稲嶺市長が見えると、こっちがおいしいよ、ということで、名護の泡盛「國華」に。

       HPより)

 まだビンにかなり残っていたので、お開きの際にホテルに持ち帰りました。が、どこで聞きつけてきたのか、ドアをノックする音。
結局、二人で飲み干しました。せっかく持って帰ろうとしたのに(実は一人で飲もうと思ったのです)。空港の売店では見つかりません! 残念!
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辺野古・高江。青い空と青い海と緑の森。・・・(じじばばがゆく。沖縄編。その1。)

2015-07-13 23:00:41 | じじばばがゆく

 前々から誘われていましたが、なかなかチャンスがなくていけなかった「沖縄」。
 かつての(かなり昔の)の仲間とさらに神奈川や石川、福岡からの参加者もいて、「都高教退・日退教 辺野古高江連帯ツアー」。
 総勢30名で出かけました。その名の通り、教員退職者の集まり。平均年齢は? 60歳以上なのは確か。でも、皆、お元気そうです。

 7月5日(日)~7日(火)。

 現地・沖縄の退職教会長さん他大勢の方々が待ち受けてくれ、大歓迎を受けました。
 初日夜の「交流会」。2日目は終日、辺野古座り込み、夜の「交流会」には安保法制の「沖縄公聴会」を終えた名護市長・稲嶺さんも駆けつけてくれました。
 3日目は高江座り込み監視行動への激励、「国立療養所沖縄愛楽園交流会館」訪問。

 那覇のホテルから辺野古へ、名護のホテルからと現地までの長いバス旅では現地の闘いの学習会、交流と盛りだくさんでしたが、「垣間」見た「オール名護」から始まった「オール沖縄」(そこに至るまでの大変な苦労・・・)の反基地・平和の闘いを、熱く感じて帰ってきました。

 出発日の東京は雨、気温23度。午後4時頃着いた沖縄は33度。勿論、6、7日もそんな気温。けれども、遠く南方洋上にある台風の影響なのでしょうか、座り込み中もテントの下、時折強い風が吹き、黒雲がかかるなど、思った以上にしのぎやすい3日間でした。
 わずか3日の「連帯」。暑い日差し、台風襲来など厳しい自然環境の中で、粘り強く、諦めず未来に希望を持って明るく闘いを進める沖縄の方々に脱帽。

 我々が参加した(お邪魔した)6日(月)は、ちょうど辺野古座り込み「365日目」でした。

7月5日(日)。午後4時。15年くらい前に来て以来の沖縄。那覇空港に着いたとたん、さすがに暑い! 上着をさっそく脱ぎました。
モノレールにもはじめて乗りました。空港から「見栄橋」駅まで。

モノレール「ゆいレール」から。

 那覇空港は自衛隊と共用の空港。海上、航空自衛隊、更に陸上自衛隊の駐屯地も空港のそばにあります。

初日の交流会会場。ホテルの近くには飲み屋さんがたくさん。

    
                      そんなお店の一つ。貝殻がいっぱい。

 交流会では美味しいお酒(泡盛)と料理を堪能しつつ、隣に座った現地の方と沖縄戦の状況からこのかんの闘いのようす、苦労をきくことができました。そのうち話題がずれて、沖縄の鉄道の話になりました。
 戦前には「軽便鉄道」があったそうです。それも戦争の激化で完全に破壊され、レールや機関車などの鉄類は戦後スクラップにされてしまった。米の占領・施政下で線路跡もあとかたもなくなってしまった。現在、当時の鉄道に関する遺構などはまったくないとのこと。
 また、道路も戦前の道は米軍基地内に取り込まれたりしてほとんど残っていない、と。あるのは、首里城付近くらいではないか、と。
 破壊の限りを尽くされた、勿論、人の命までも大勢奪われた、苛酷な歴史を語ってくれました、ありのままに。時折、笑顔を絶やさず、・・・。
 淡々とお話する姿にこちらの軽い気持ちは吹っ飛びました。 


《余談(まったくの)》

 ホテルに戻って周辺の地図を見ていたら、「ファミマ」と「ローソン」の店舗名はありますが、「セブンイレブン」が見当たりません。ホテルの方に聞いたら「たしかにありませんね」「一軒もないと思いますよ」「どうしてですかね」
 一緒の仲間に聞いたら「そういえばそうだね」・・・翌日、バスの中から気をつけて見ていても確かにない! (何しに行っているんだとしかられそうですが)、・・・そうそう、「イオン」の店舗が目立ちます。
 そして、帰りの空港。「沖縄タイムス」の記事に「セブンイレブン、いよいよ沖縄進出検討中」と。
 現在、「青森」「鳥取」「高知」「沖縄」の4県に未進出らしいですが、さてどうなる?


 6日(月)。9時。
 「沖縄県庁」前に集合してバスで辺野古へ。10時30分着。

 「新基地断念まで座り込み抗議・不屈365日」。

激励の挨拶。

「キャンプシュワーブ」ゲート。

三線(サンシン)の演奏あり、歌声あり、踊り(カチャーシー)あり。デモ、シュプレヒコールもあり、各地からの参加者の発言あり。・・・ゲート前で「沖縄を返せ」を歌いました。この歌は「沖縄返還闘争」当時のもの。再び真実味を帯びています。

    
        三線の演奏。                     歌声グループ。  

    

ゲート前でのデモ行進。    

    
 皆で、怒りのシュプレヒコール。                      「沖縄を返せ」の合唱。

    
                                         黄線の右が米軍基地。

           
 七夕飾りに祈りを込めて。                  通り過ぎる車に向かってプラカード。

 昼食のために、近くの大浦地区の「道の駅」に移動。この施設は、地域の方で自主運営されています。

         
                           目の前に広がる青い海。正面奥の海域が辺野古基地予定地。

↓が現在地。○が基地予定地。

     
 地元の農産物を直売しています。「モーイ」。               「トウガン」。

「マンゴー」。どれも安い!    
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一ツ木一里塚。いもかわうどん。境橋。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その6。)

2015-07-11 16:11:22 | 旧東海道

 このあたりで少し雲行きがあやしくなって、雨がポツポツ降ってきます。先を急ぐことに。逢妻川の土手に突き当たったら左へ折れ、「逢妻橋」を渡ります。

「常夜燈」のモニュメント。

「国道1号線」に合流。「名古屋25㎞」の標示。

「刈谷市」に入ってまもなく、

「一里山歩道橋」。向かって左側・歩道橋の下に、「一里塚跡」。

    

一里塚

 慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松を植えて一里塚を築かせた。この地は松であったといわれる。
 国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に塚と記載されている。
 ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。

 平成14年3月  刈谷市教育委員会

 この「一ツ木一里塚」は日本橋から85里目の一里塚。

 しだいに風も強く、雨がけっこう激しくなり、折りたたみ傘の柄が一瞬のうちに折れ曲がってしまうほど。「一里山歩道橋」を上がり、反対側(右側)に移ります。

「夢」と刻まれた石碑の先で「国道1号線」から右の道に入ります。

 これまでも旧東海道沿いにあったように、倉庫が並ぶ道をしばらく進み、再び「国道1号線」に合流し、「歩道橋」を渡り、反対側へ。

    
   「歩道橋」から来た道を望む(正面奥)。                 これから進む道を望む。

 雨・風も思ったほどでなく、止みそうな気配。助かります。しばらく進むと、左手に「常夜燈」。

       

洞隣寺

・・・寺の入口にある常夜灯は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。
 墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の「墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある。 
 
 洞隣寺の墓の伝承(「Wikipedia」参照)

・・・洞隣寺には「めったいくやしいの墓」と「中津藩士の墓」があり、墓にまつわる伝承が残されている。
 かつて洞隣寺に気立てのよい娘がおり、高津波村(現刈谷市中部)の医王寺で住職に恋をしたが、娘の恋はかなわずに憤死してしまった。亡骸は洞隣寺に葬られたが、この墓の上に青い火玉が浮かんだり「めったいくやしい」という声が聞こえたりしたという。
 また寛保2年(1742年)、中津藩家臣の牟礼清五郎と渡辺友五郎が今岡村を通りがかった際、遊女の話で口論となり、斬りあった末にふたりとも亡くなった。ふたりの亡骸は洞隣寺に葬られたが、二基の墓は互いから離れるように傾き、何度直しても傾いてしまった。村人が改めて手厚く葬ってからは傾かなくなったとされる。一般には上記のように語られるが、岡山大学付属図書館が所蔵している『日録』にはやや異なる記述がある。これによると、渡辺友五郎が病気で牟礼清五郎をうち果たし、自身も命を絶ったという。同伴した喜多村弥三右衛門ら4人は洞隣寺で後始末をし、友五郎の位牌には「帰真剣山智光信士霊位」という戒名が書かれている。

 今度は右手に「いもかわうどん」の説明板。

                 

いもかわうどん
 江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。

 平成14年3月 刈谷市教育委員会

 きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴の『好色一代男』には平打ちうどん(いもかわうどん)が登場し、膝栗毛には「今岡村のたてばにいたる。此ところはいもかはと云めんるいの名物、いたって風味よしときゝて、名物のしるしなりけり往来の、客をもつなくいもかわの蕎麦」という記述がある。(「Wikipedia」より)

 「いもかわうどん」は、「芋川うどん」ということで、「芋川」というのは地名だったとは! 
 子供頃、幅があって平べったいうどんを「ひもかわうどん」と言っていました。普通の細く丸いうどんは「うどん」で、区別していました。「きしめん」という言い方はなかった。
 だから、10年前くらいまで(名古屋と行き来するまで)は、「ひもかわ」と「きしめん」とは別の種類のうどんだと思っていました。

古い家並み。

左手奥には名鉄「富士松」駅。

 その先の県道を「歩道橋」で越えます。

「歩道橋」を渡ってしばらく進み、振り返る。

 「今川町」交差点で「国道1号線」を横断します。左の道に入り、道なりに右に曲がり、とちょっとややこしく迂回し、右に細い流れがある「地下道」で国道をくぐりぬけ、向こう側に出ます。

渡って振り返る。「ローソン」の右側の道が旧東海道。 

 渡った先は少し広い道になります。右手に大きな「敷島製パン刈谷工場」、左手は「健康センター」。

来た道を振り返る。「境橋」に向かう。

    
                              「境橋」。

境橋
 慶長6年(1601)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち合いで橋が架けられた。
 この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。
 やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。

 この橋が国境で、いよいよ三河国から尾張国へ入ります。

    
    上流。                                下流。

 渡ったところの橋のたもとにあるモニュメント。

    

 うち渡す尾張の国の境橋
 これやにかわの継目なるらん  光廣

 狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋、三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。読み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸殿と称せられた。

 豊明市観光協会

 そのまま進み、「伊勢湾岸自動車道」のガードをくぐり「国道1号線」に合流します。

ガード下から望む。左手が名鉄「豊明」駅方向。

 ここで午後4時。初日はここまでにして、「豊明」駅に向かいました。そこから「知立」経由で刈谷駅へ。今夜の宿・「名鉄イン刈谷」は改札口直結でした。
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