おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ごまめの歯ぎしり

2013-01-31 20:43:23 | 格言・ことわざ
「元の自民党に戻りつつある」民主・輿石氏(朝日新聞) - goo ニュース
 どうも傍目には・・・。
 「ごまめ」はカタクチイワシを素干しにしたもの。取るに足らない、実力のない者のたとえ。そういう小魚の「歯ぎしり」なんですから・・・。
 実力のない者が、やたら憤慨して悔しがったり、いきりたっても、まるで相手にされないことにたとえる。「蟷螂の斧」なんかもその謂。
 
 無論、こういう自分自身、こう言っていても、所詮、ごまめの歯ぎしりだということもわかっていますが。
 地団駄踏んだところでどうにも「引かれ者の小唄」にしか聞こえない、とまで言っては気の毒ですが。自ら蒔いた種でもあるようで・・・。
 「引かれ者の小唄
 引き回しの刑に処せられた者が、平静を装って小唄を歌う。どうにもならない事態におちいっていながら、負け惜しみをして強がっていること。
 せめて、大巨人(魔人)・自民党と刺し違えるくらいの気骨は失わないで欲しいものです。
 それに、「獅子身中の虫」とか「蟻の一穴」なんて言うことわざもあります。あちらさんがことによると、政策の齟齬から「同士討ち」、瓦解することもありますので(そう仕向けるという戦法もあり)。これも、そうなる前に、民主党が瓦解しそうな・・・。無残

 
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読書「北の愛人」(マルグリット・デュラス)河出文庫

2013-01-30 21:51:34 | 読書無限
 長崎まで往復の飛行機中。一気に読み進めた本。作家・脚本家・映画監督・・・。84年、70歳で執筆した『愛人』から7年余りの後。自身の生涯の終わり間近に、その「愛人」の死を(それも何年も前に死んだ、と)人づてに聞いて、「小説の作者に戻った」と前書き風の文章には、ある。
 巻末の訳者・清水徹氏の解説が懇切丁寧で、その背景の一部始終が紹介されていると、読後感にも揺らぎが出てしまうのは、恐い。「自伝「的(らしき)」小説であることということのこだわり(「自伝」ではない)・指摘は、まさにその通り。
 「愛人ラマン」を先に読み、その後に映画化された作品・『愛人―ラマン』を観直し、そしてこの作品と、読み進めていけるのは、読者の最大の特権。
 作品として原作を脚本化し、再構成した映画(制作準備段階からご本人はえらくご不満だったようだ)との内容的・映像的な重なりを意識しつつ、一方でその根本的な相違(制作費と興行収入とを常にはかりにかけなければならない「娯楽」としての映画制作は、原作者の意図に反することも、またそれ故に原作を越えて映像化できることも・・・)を感じることができるのが、強みでもある。
 特に作者は、文字世界と映像(写真)世界との視点の往来を客観化(言語化)することに、実に卓越しているので、ますます読書する楽しみが増す。
 この『北の愛人』(邦訳としてはこうなるしかないかも知れないが、ニュアンスがイマイチ伝わらない)で、気になったのは、「タン」という人物の存在。孤児になった男の子。母親が引き取って二人の兄と少女の3人の子どもたちとともに育てているという設定。いつも少女と行動し、兄と妹のような関係。女の子の方は、タンと性的関係を持ちたいが、タンは拒絶している。
 いつかシャムに戻って、両親を探し妹や弟との再会を期している(かなわぬ願い)。さらに「中国の男」(少女の愛人で、困窮している一家への多額な金銭的な援助を行っている)とも密接な関わりをもち、行き来し、家族への多額の金銭を預かりもする。
 フランスに帰国し、長い年月が経った後、ずっと関わりを持っていなかったかつての愛人(中国の男)からの電話の中で、タンはその後一度も便りがないこと、シャムの森の中に帰っていったがきっと道に迷って死んでしまったにちがいないと、男は言う。
 小説の冒頭に、「タンに」との献辞が置かれてある。それほど「わたし」にとって重要な人物。公開された映画ではまったく存在しない人物でもある。タンは、「わたし」にとって、今もって(執筆的現在において)どういう存在なのか? 存在感があるようで、ない、という印象を読者に与える。
 
 「あの中国の男の死、あの人の身体の死、あのひとの肌、あのひととのセックス、あのひとの手の死(注 映画の冒頭、車の中での少女と中国の男との手との微妙な触れあいから、性的関係の中での少女の繊細な体を洗う細やかな手つきなど、見事に映像化して印象深い)が起ころうなどとは想像もしていなかった。」・・・
 「こんどは、物語を語っているうちに、突然、現れたのだ、まばゆい光を浴びて、タンの顔と―それから下の兄、私と同類だったもうひとりの男の子の顔とが。わたしは、あれらの人びとと一緒に、物語のなかにいつづけた、一緒にいたのはあの人たちだけだ。」

 中国の男も、タンも、そして下の兄もすでに死して、この世(今)にはいない。取り残された「わたし」。「死」の匂いが色濃くなってきたとき、はじめて物語の作者になったのだ、と思える。愛の物語から死への物語、むしろ、死の物語から生の(人間が息づく)物語へとなっていったのではないか。
 作者の、80歳近くになってもいまだ衰えを知らない、奥深く幅広い研ぎ澄まされた感性が、そして、その奥に潜む死へのおののきが濃密に展開される作品であった。
映画のラストシーン。ショパンのピアノ曲を聴きながら、中国の男を愛していたことを実感し、涙する場面。『北の愛人』は、ここから遡っていく物語でもある。
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「ラストタンゴインパリ」(古きよき映画シリーズその21)

2013-01-29 21:26:45 | 素晴らしき映画
 かなりインパクトのある映画。

《あらすじ》
 ある冬の朝、パリのアパートの空き室を探す若い娘・ジャンヌ(M・シュナイダー)。彼女が下見に行った部屋の中には、中年の男・ポール(M・ブランド)がすでにいた。男は腕をつかみ、暴力的な性行為に及ぶ。ジャンヌにはTVプロデューサーの婚約者がいた。彼は、彼女を主人公にドキュメントタッチの作品を手がけている。
 ジャンヌは再び部屋を訪れると、予期したようにポールがいた。ここにいる間は、ただの男と女同士。名を知らせず、家族や過去を明かすこともないという条件の下で、二人はセックスだけにおぼれていく。

 ポールは下町で簡易ホテルを経営していたが、妻のローザを自殺で失ってしまう。彼にはその理由が分からない。妻には自分よりも愛する男がいたことを知る。
 次第に(時間的経過はさほど長くない設定のようだが)ジャンヌはこうした性行為のみでの逢瀬に耐えられなくなってきた。彼女はトムとの結婚を決意し、トムとこの部屋を訪れるが、新しい二人の生活の場として別のアパートを探すことになる。その帰り道、ポールはジャンヌを待ち伏せていた。ダンスホールに入った二人。社交ダンス・コンテストが開かれ、タンゴの曲が流れている。関係の終わりを告げ、その場から逃げるジャンヌを、ポールは後を追いかけ、彼女の住まいへ押し入る。抱き寄せるポールに、ジャンヌは軍人だった父の遺品のピストルを発射する。ポールはベランダに崩れ折れていく。


 上映当時は大胆な性描写、会話が主に取り上げられて話題になったが、今回、改めて観る。
 妻を自殺によって失った中年の男の悲哀・屈折感(生殖能力を失ってもいる)、自分を心身ともに独り占めにしようとする恋人への不満や葛藤に揺れる若い女性。
 そうした二人が世界から隔絶された一室(生活感の全くない)で、ひたすら性行為に没頭し、お互いの現在、そして過去を一切詮索せず関係していこうとする。しかし、結局は自らのあるがままの現在、捨てきれない過去を引き引きずっていかざるを得ない(互いに知って欲しい、分かって欲しい)、そんな人間的な欲求、存在、そして他者との関わりの苦しみなどを描いている。ラストで、男を射殺した女が「知らない」関係にこだわり自分の行為を納得させようと必死につぶやく場面が印象的。
 「地獄の黙示録」の醜く太った、それでいてかなりの存在感のあったマーロンブランド。「ゴッドファザー」とほぼ同時期の作品。生活に家庭生活に疲れ、それでいてまだまだ行動力を失っていない、中年男の存在感を演じていたことに、さすが! 改めて感動。
 音楽も素晴らしかった。盛り上げ方が最高。

 カメラワークも鏡に姿を映すなど凝っている。また、時々登場する鉄道橋の下など直線的で遠近感のあるタッチの映像がうまく用いられているのが、とても興味深い。
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ケンカ政治。または泣く子と泣く(泣き落とし)ハシモトにはかなわない。

2013-01-26 20:17:23 | つぶやき
橋下市長が挑む「3分の2の壁」 地下鉄民営化で攻防激化(産経新聞) - goo ニュース
 またしても、「辞表」を懐(あるいは議会リコール)にしてのケンカ政治。市立高校の入試中止もそのヤリ方。おそらく「カジノ法案」も・・・。こうした脅し戦法が通用しそうなのが、今の橋下大阪?
 さまざまな局面で人心を荒廃させていく感じ(諦めも含めて)だが。 
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読書「眼の隠喩」(多木浩二)ちくま学芸文庫

2013-01-23 22:41:48 | 読書無限
 最近、文庫本にはまっています。手軽に読めるのがよい。特に以前発刊された学術書などが文庫本になって再登場、というのが、魅力。当時、気になっていて読み損ねたものを読む。
 この書も10年以上も前のもの(初版は、すでに30年以上も前)を5年前に文庫本化した、とのこと。今もその視点・狙い・つかみに輝きを失っていないというのが、すごい!
 隠喩は、暗喩とも。個人的には、「メタファー」という言い方の方がなじんでいますが。
 隠喩は、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換えて、簡潔に表現する機能。「・・・のようだ」とか「・・・のように」という直喩に比べて洗練されている印象を持つレトリック(修辞法)。ここで、見逃せないのは、いわゆる言語(言葉)に限らないで、絵画、映画などの「視覚」の領域でも起きること。そこに、この書の基本的な出発点があります。
 隠喩は、人間の類推能力の応用による認知のひとつの方法で、この世界・空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理、つまり、人間が、根本的な(他者)世界の認知、見え方に深く関わっているということです。(個々人にとっては)自らの眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官の働きにとどまらず、それぞれの脳内神経作用において言語化されていくことになる。
 重要なのは、言語化する(非現実化する)に当たって、それが単に個人的で恣意的なものではなくて、その手立てとしての言語作用そのものが言語的文化・伝統、思想、時には集団的意図(政治など)を内包し、さらには言語生活における個人のの認識そのものを規定していくことになっていく。
 特に、「眼」(「まなざす」こと)による事物の認識について、筆者の関心は強く寄せられています。具体的な建築物(自由の女神)、人形の家(文字通り「人形の家」からイプセンの戯曲「人形の家」の隠喩、さらには古代からの演技者と観客に関する劇場としての構造の変化・・・)、写真(撮影者の眼差し)。
 想像力によって造りあげられた対象(物・者)が眼(まなざし)・視覚によって再規定され、取り込まれていくプロセス。「まなざす」主体に積極的に関わっていく。・・・人間の(人類の)基本的な意識構造、世界への関わり方について改めて考えさせられます。
 特に「椅子の身体論」は興味深い。あるいは肖像画(写真)について。塔についても、しかり。東京タワーからスカイツリー(当然、著述当時はなかった)へなど、と人類が高きを追求することの意味的根源・・・。多彩な話題が展開されていきます。今読んでもけっこう新鮮で示唆に富んだ書です。
 
 ちなみに「ちくま学芸文庫」にあるもののうち、関連してのお薦め。アトランダムに。
「モードの迷宮」(鷲田清一)「場所の現象学」(エドワード・レリフ)「映像の修辞学」(ロラン・バルト)「見るということ」(ジョン・バージャー)「エクリチュールの零度」(ロラン・バルト)・・・。
 
 余談ですが、今年のセンター試験の国語現代文(評論)問題に小林秀雄の文章が取り上げられました。内容といい、文体といいい、不慣れな受験生には取っつきにくかったのではないでしょうか? でも、小林を出題したことに、敬意(個人的にはとても興味深い評論家ですから)。

 
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読書「卍」(谷崎潤一郎)新潮文庫

2013-01-22 19:05:45 | 読書無限
 『陰翳礼讃』を読んで、ついでに、久々に谷崎文学に少しはふれてみようと。いきなり『卍』というのもなんですが。
 
 関東大震災(大正大震災)で関西に移住した谷崎が、昭和5年から5年にかけて『改造』に断続的に掲載した作品。関西という新しい風土になじみ始めた谷崎が、東京弁に比べて耳に心地よく響いてくる、と感じ始めた関西弁を語り口調にして、女性同士の情欲、さらに異性関係上での愛憎がもたらすどろどろとした世界を描いています。
 関西弁、加えて女性言葉ですから、最近の小説の表現文体、多くは(こういう言い方はとても抵抗がありますが)「標準語」に慣れていると、取っつきにくい感じがします。一方、最近のTVで圧倒的に多い(えせ関西人も多いようですが)「関西」芸人の語り口などで耳が慣れていますので、活字を追いながら自然と音声化していく、という具合に読み進めていきました(もっともTVでは、東京の視聴者に合わせた語り口なのでかえってよくないかも知れない)。
 それにしても、80年以上の昔の時代に女性に語らせるという手法はたいした先駆性がありました。その頃は、「標準語」(東京語)に冒されていない、関西という風土に根付いた「美しい」言葉遣いが確乎としてあったということでもあります。それに比べて、近年では井上ひさしさんの戯曲など、登場人物たちは舞台となったお国の言葉を巧妙に操っていますが、芝居という表現形態の故でしょう、ある意味で「洗練された」言語表現となっていました。
 内容は、奔放な若い女性(ご寮人)に、精神も肉体も惹かれ同性愛の虜になっていく女性。弁護士である、その夫。さらに女性を翻弄しながらも一方では異性と関係する。その男は生殖能力に欠陥のある人間。三つどもえというか、四つどもえの愛憎渦巻く世界。
 最後は、夫と女性との三人で「薬」漬けの愛欲世界に陥り、心中を図り、二人は死に、一人は生き残る。その女性がことの一部始終を作者に語るという形式。
 内容云々もさることながら、全編を通しての言葉の機微がもたらす独特の語り口のおもしろさ。こうした言語表現のイントネーション、ニュアンスは、現在の関西にはまだまだ残っているのでしょうか?


ついでに(では失礼ですが)。井口昇監督脚本の「卍」予告編より。2006年3月、秋桜子と不二子の主演で映画公開。ちなみに井口昇さん。この映画の出来はどうだったか知れないが、映画(含むAV)監督、俳優・・・、特異なキャラで多彩な才能の持ち主の方。前に、「大人計画」の芝居で観たことがあったような(違う人かな?)・・・。
 

 
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「愛のコリーダ2000」(古きよき映画シリーズその20)

2013-01-21 22:15:55 | 素晴らしき映画
 大島渚監督が亡くなった。「青春残酷物語」「日本春歌考」「戦メリ」とか観た記憶がありますが、何だか遠い昔話のような世界(映画を観たと言うこと自体が)。映画の冒頭にベランダから鳩を撃ち殺す場面がとても印象的でしたが、はて何という題名の映画だったか。
 大学を卒業し(大学・高校紛争のさなか、「東大・安田講堂」は卒業の年)。何とか就職し、仕事にかまけている(映画よりも芝居に夢中になって)うちに、映画の世界からも遠ざかり、大島渚の名を再び耳目にしたのは、TV。こんなに偉そうなしゃべりをするおっさんだったかしら・・・、違和感があったことを、ふと。野坂昭如との殴り合いの映像は、見たような記憶が。
 そんな風に遠ざかっている内に、今回の訃報。むしろ、監督として活躍した話題よりも、円熟期に突然倒れた夫への献身的な介護に尽くした小山明子さんの方が印象が強かった。介護うつ、も含めて。
 その小山明子さんが舞台に復帰する、その本番の前夜に亡くなった、これほどドラマチックな出来事はないでしょう。その出来事の方に大きな関心・興味が。女優・小山明子の再登場を待っていたかのように。「本番いきま~す」(まさかこんなかけ声はしないでしょうが)カチンコが下ろされた・・・。その緊張の瞬間(のときめき)が伝わってきました。
 
 そこで、今回は「愛のコリーダ2000」。1976年公開の日本・フランス合作映画。2000年に「完全ノーカット版」としてリバイバル上映されたもの。
 昭和11年、東京・中野の料亭に、30過ぎの女が女中として住み込んだ。名は阿部定。定は料亭の主人吉蔵に一目惚れしてしまう。吉蔵も、定の小粋な姿に惹きつけられた。
 二人は夜更けの応接間や、早朝の離れ座敷などで密会を重ねていくうちに、ついに吉蔵の妻に知れてしまった。そして、その翌日、二人は駆け落ちした。最初は一日か二日のつもりで家を出て来た吉蔵も、いつしか定の情熱に引きずられていった。
 やがて定は、吉蔵に自分の赤い長襦袢を着せて部屋に閉じ込め、自分は名古屋のパトロンのもとへ。再会した二人は、待合を転々として愛欲の世界に浸り込んでいく。定は戯れに「今度、別れようとしたら殺してやる!」と叫んで出刃包丁をふりかざす。
 ついに、定は吉蔵を自分一人のものにするため、吉蔵を殺す決意を。吉蔵の首に腰紐を巻きつけ、力を込める。死んだ吉蔵への愛は絶ちがたく、性器を出刃包丁で切り取ってしまう。
 1976年、カンヌ映画祭で一大センセーションを起こした『愛のコリーダ』が25年経って、ノーカット版として再登場。


 主演の二人、松田英子と藤竜也のからみは、壮絶。定の鬼気迫る姿が印象的。過剰な性的欲求が男を次第に追い詰めていく、その演技は見事。もともと大島監督は、この役は松田英子にしていたらしい。男役はいなせな優男の感じが初々しい藤竜也。 殿山泰司が老乞食役で出演して味を出している(はやし立てる子ども達が「旭日旗」でからかうのは、監督の見事な意図が表れている)。
 戦争の色が濃くなって来た時代。吉蔵が出征する兵士の一団と遭遇する場面があるが、その他はほとんどが愛欲シーン。さらに、着るものなども、最後の血まみれ場面も含め、すべて鮮やかな、時にはどすぐろい「赤」色を基調としたところにこの映画の本質を垣間見た思い。

 もっとお元気ですばらしい衝撃的な作品を作って欲しかった、ですが、この「愛のコリーダ」を越える作品はそう簡単に創造できるものではなさそうです。
 題名の「コリーダ」はスペイン語で闘牛を意味する「Corrida de toros」からとっている、とのこと。
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百戦錬磨の毒気は、色気・欲気にも勝るとは、このことか

2013-01-15 00:51:46 | 世間世界
「あなたが出たら100人当選」小沢氏、嘉田氏を説得?(朝日新聞) - goo ニュース
 ホントかウソか。事の真偽は不明。「朝日」以外にも掲載したのだから、話したのは事実でしょう。もちろん、この件、小沢さんは知らぬ存ぜぬ、と。
 こうして、小沢さんはしたたかに生き残り(細々と、あるいは「老醜」を晒して)、嘉田さんは、次期知事の座は危うい。なまじっか政治への「色気」「欲気」に負けたのか。今反省しても、時遅し。「脱原発」運動の足をも引っ張った感じがしますが。「騙す男が悪いのか、騙される女が悪いのか」。世間の俗っぽいお話と同じレベル。そこで。

「夢金(ゆめきん)」(五代目三遊亭圓生)より。その枕の部分。

 世の中は色気と欲気の二つでもっているので、人間は色気と欲気に離れゝばモウ、裟婆を離れたも同様でございます。けれどもこれが度に過ぎると、ついには命を失うようになりますから、何でも物は程にしなければなりません。
 とは申すものゝ、この程という奴がどの位の所が程なんだか、そこが誠に難しい。殊に欲の充満した人間は一層お笑いの種を作るようで「欲深き人の心と降る雪は積もるに付けて道を忘るゝ」また諺に「一文銭か生爪か」という事がありますが、この銭は大分厚いようだが、二文重なってるんじゃァないかと、剥がそうとして、自分の爪を剥がすなぞという、こう欲も満ちて来ると始末にいけません。
 なかには歩きながら幾らか拾いたい/\と思っていると十円の金貨が落ちていた。ヤレ嬉しやと拾おうと思っても取れません。地に凍り付いてるんだから、小便をしたら温たかみで氷が解けて取れるだろうと、小便をすると冷たいンで、眼が覚めて見ると、金貨の落ちていたのは夢で、小便だけはほんとうだったという、こんな馬鹿げたお話も随分あります。・・・

 これは金銭欲にまつわるお話。だが、結局、嘉田さん、金銭欲には無縁の方のようなのに、この面でも、小沢さんの手練手管に見事にはまって・・・、いやはや。・・・。女性政治家として、実に華のある方ですので、再起を期して欲しいですが。
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足立区立郷土博物館。そして爆弾低気圧。

2013-01-14 19:12:53 | つぶやき
 12日(土)午後。第二、第三土曜日は入館料無料。ということで、今回は館内に(もともと大人200円ですが)。東京東北部(足立)地域の歴史をはじめ、農業、地場産業などの変遷をたどる展示。隅田川・千住地域は宿場町・商業地域として賑わっていた。その千住は荒川の西側。明治末から大正にかけての荒川放水路の開削によって、大河を挟んで足立区は分断された形になっているが、荒川以東の方が地域は圧倒的な広さ。
 一方で、郷土博物館のある地域、昭和40年代前半まではまったくの農村地帯。急激な都市化、宅地化などの土地開発によってその面影はなくなっている。そうした発展段階の違いから、それぞれ風土も歴史も異なっている。
 残念だが、現在まで残されている歴史的な文物(有形無形を問わず)は、千住地区が中心。ここでの展示もそうした傾向がありそう(ちょっと館内を一周しただけの感想だが)。
 それでも、戦後の、平屋で二軒合わせの都営住宅(東武「五反野」駅辺りにもありました)の復活展示は、間取りや家財道具など懐かしい。また、写真だが「千住のお化け煙突」。さらに、かつての農村風景。肥だめなど子どもの頃、友達が落っこちて大変だったことなど思い出す。
 戦争期の高射砲陣地の地図や爆弾、なかでも、撃墜し死亡したB29の搭乗員の慰霊碑(の写真。道路拡張工事のため撤去されて現存しない)は興味深い。・・・
 常設の展示スペースはそれほど大きくないが、奥に「資料室」があり、郷土史に関する書籍や地図、写真集ながあってゆっくりと閲覧できるのは、ありがたい。所蔵品の「浮世絵―もとの松方三郎コレクションを中心に約1060点」、「地口絵紙コレクション」などの資料の閲覧もできるようだ。
 ボランティア(?)で解説する方々も配置されていて、質問したり、語り合いながら往時を懐かしむ方にはいいだろう。じっくり見て回るときに、ちょっと煩わしい印象も。館内はもちろん写真撮影は禁止。以下は、外の写真紹介の続き。
特別展示として「古文書展」。 
「蛇橋」。綾瀬川に架かっていた橋。
花畑地域にあったもの。
足立区内は農業用水が縦横に流れていた。取水は葛西用水、綾瀬川。さらに中川。取水口(堰)の建造物が取り壊され、保存されている。「圦(いり)」という漢字が目につく。
「圦」《「圦樋(いりひ)」の略》土手の下に樋(とい)を埋め、水の出入りを調節する場所。水門。樋口(ひぐち)。樋(ひ)の口。(「デジタル大辞泉」より)
石臼。いくつか置かれている。
そのうちの一つ。

 そして、今日14日、成人の日。午後になって、予想以上の大雪。車で出かけて帰りには難渋した。「爆弾低気圧」」とか。命名も実態も何だか殺気だっていて雪景色を楽しむゆとりなどなし。
あっという間の積もりよう。往路は雨。所用を済ませた1時間後、いきなり大雪。みるみるうちに積もった。
5㎝以上?
まだまだ降り続くようす。風も強くなってきた。これで、明朝晴れたら、道路は凍結?
 それでも、孫達は雪遊びに夢中だとか、連絡あるも、動く気なし。
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「愛人(ラマン)」(古きよき映画シリーズその19)

2013-01-13 18:13:33 | 素晴らしき映画
 以前(3年くらい前)映画の原作になった小説について投稿したことがあります。(その時のもの)
 
 1984年9月刊行。70歳を過ぎた著名なフランスの女流作家の、15歳の時の最初の性愛経験を写真を一枚一枚取り上げながら、その思い出を追体験するような、淡々と映像的、叙情的に描いた作品。いわば、セピア色の世界。
 仏領インドシナ・サイゴン(現在のベトナム・ホーチミン市)。15歳のデュラスと中国人の愛人との交情の物語であると同時に、彼女の母、二人の兄達との愛憎と殺意が渦巻く彼女の家庭の物語でもある。
 

 「やがて娘は言うだろう、わたしはフランスに戻る費用として五百ピアストルをあの人に頼んだの。母親は言うだろう、あら、そう、パリに住むにはそれくらい要るだろうからね、・・・」

 「映像は、手すりに倚る白人の娘に男が声をかけるよりまえ、男が黒塗りのリムジンから降りたときから始まる、男が娘に近づきはじめ、娘のほうでは男が怯じけづいていると気がついたときから。」

 15歳の娘が、母からも兄達からも自立していくために、ある種の義務感から独身の中国人との肉体関係を結ぶことになる。初めての性体験の描写も、メコン川ののように夢のようにゆっくりと回想されていく。少女から女への変貌のドラマ。
 さらに、寄宿舎で同室の処女の女性(17歳)への同性愛的な関わり(欲望)も赤裸々に語られる。

 「あんな上質の小麦粉のような乳房を、男のひとから貪るようにかじられたらどんなかしら。わたしは欲望でぐったりしている。」

 結婚できるはずもない二人の関係も2年余で終わりを告げ、主人公はフランスに帰国する。勉学のために。そして、戦後何年かたって、男が妻を連れてパリに来る。再会の電話、会話。主人公は声を聞いただけで誰だか理解する。家族のこと、死んだ下の兄さんのこと・・・。
 
 
 「男は女に言った、以前と同じように、自分はまだあなたを愛している、あなたを愛することいをやめるなんて、けっして自分にはできないだろう。死ぬまであなたを愛するだろう。」


 しかし、デュラスは、その時すでにそれを回想するかたちでしか表現することが出来なかった。
 フランス文学。独特の味わいのある世界だと感じた。

 
 
 今回は、それをもとにした映画の鑑賞。公開当時、大胆な性愛描写で話題になった(設定では、15歳の処女と年上の男性との間のセックスシーンなので)。上のような原作をほぼなぞりながら進んでいく。ラストシーン近く、フランスに戻るインド洋上での夜の船上で、聞こえてくるショパンのピアノ曲に、我慢してきた涙がはじめて頬を伝う、というシーンが含まれている。
 1920年代の仏領インドシナ(ベトナム)・サイゴン。夫に死なれ、騙されて財産を失い、小学校の先生として生活する母。アヘン中毒に冒され、家の金を盗み、暴力を振るう上の兄、その兄を溺愛する母親。フランスに送り返すとき、波止場で傘も差さずにずぶ濡れのまま見送る母の姿は、印象的。貧乏暮らしの中、長兄への憎しみと母親への屈折した思い、下の兄への同情・・・、そうした葛藤の中で、中国人青年とサイゴンへ戻る船上で出会う。

 男物の帽子はしっかりしているが、足元の靴はする切れている。それでもフランス白人女性としての気位と将来小説家になるという夢は確乎として持ち続けている15歳の「私」。一方、中国人の青年。莫大な財産家の父のもと、フランス留学から帰って来た。将来を継ぐことになっているが、今は無職。
 フランスの植民地であるが故に、中国人は母や兄にとっては、侮蔑の対象。招待されて高級料理店に出かける親子。話もせず目線も合わせずがつがつと料理に集中するシーン。支払いの時の札束に目が向く家族たち。その後、「私」に向かって、爆発する中国人青年。
 親同士が決めた結婚相手がある青年との関係は、お金目当ての「愛人」としての存在であることを、「私」も青年もむりやり納得しよう(させようと)する、二人。

 最後のシーンでは、サイゴンの港から遠ざかる船上で、波止場の片隅で車の中、姿は見えない青年を確かに確実に認める「私」。そして、夜中、誰も居ない船上で、ショパンのピアノ曲を聴いて落涙する「私」へと画面は進んでいく。

 ラストは、パリでの電話のシーン。窓辺越しに雪が降っている。後ろ姿を映して画面は遠ざかる。終わりの方では、少し情緒的・感傷的すぎるシーンが続く。
 戦前の植民地。フランス統治の雰囲気を色濃く残す建物群。雑多な界隈。大勢行き来するのベトナム人の活動的で一方どことなくゆったりとした立ち居振る舞い。悠然と流れる大河、豊かな自然・・・、現在のホーチミン市とも重なる雰囲気が想像でき、すてきな映像が楽しめた。
 

 
  
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読書「俺たちが十九の時―小川国夫初期作品集―」(小川国夫)新潮社

2013-01-12 13:34:14 | 読書無限
 解説(勝呂奏)によると、平成20年4月に急逝した小川国夫から、亡くなる直前、資料整理の依頼を受け、死後、草稿・習作原稿・創作ノート・日記・メモ類まで、一々吟味する中で、未発表小説が含まれていた。それらを平成24年9月号に初出、さらに今回、二つの作品を新たに収録して単行本となった、とのことです。
 その意味では、解説が充実していて、作品の解題なども丁寧です。生前からたくさんの手つかずの資料を、死後、吟味しながらこうして公にしたという経過や執筆時期特定へのアプローチ。それにもまして、小川国夫自身が自らの小説の流れに「三筋」を意識してきた、その端緒が初期作品群の中に見て取れるということを明らかにしています。
 第一は聖書世界の作品、第二は故郷の大井川流域を舞台にした虚構作品、第三は私小説風の作品。こうした自身の整理にほぼ見合っていることを裏付けられる作品群だと、述べています。俗に言うように、作家は処女作に向かって深化する、ということだと改めて感じました。
 特に第二、第三に関する作品、すでに承知の(読んだことのある)少青年期を扱った「浩」「用宗」物など、まさに同時代的な感性のままに書いたと思われる作品もあって、けっこう楽しめました。
 小川国夫は、大学卒業後、昭和28年、フランスに私費留学、大学で学ぶ一方でオートバイでスペイン、イタリア、ギリシャ等を旅した、その経験が後の作家としての開花につながった、ということはつとに有名ですが、その後も、自費出版した『アポロンの島』を昭和40年、島尾敏雄に絶賛されたことで世に出た、そこに至るまでの、あるいは父親の会社に勤めながら文学に呻吟する青年時代(20代、30代)の「文学修行」者としての真摯な向かい方に、今また、「小説家とは文体を持っている人」と確信する文学者としての生き方を改めて感じました。

小川国夫 昭和2(1927)年、静岡県藤枝町(現・藤枝市)生まれ。戦後、旧制静岡高校(現・静岡大学)の時カトリックに入信、その頃から小説を書き始める。・・・。平成20(2008)年4月肺炎のため死去。

「青銅時代」「試みの岸」「漂泊視界」。我が家にあった初版本。
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学校のあり方・評価にも関わる避けて通れない、痛ましい出来事

2013-01-11 00:47:20 | つぶやき
熱血?暴力? バスケ部顧問、割れる評価(朝日新聞) - goo ニュース 
 
 そうとうの強豪チームだったバスケ。学校の知名度もその大活躍によって上がる。そのために、鉄拳制裁を含む情熱的な「熱血」指導(者)を学校側も受け入れてきた。多くの保護者もそうではなかったか。インターハイを目指し、レギュラー・出場メンバーに入るために我が子を鍛える「熱い」指導を望む。そうでもしないと、選手の座は勝ち取れない、と。
 
 今回の生徒に対して、「敗残者」くらいの認識の保護者もいるのではないか。かえって不名誉なことをしてくれた、と。たぶん、自殺した生徒、即、「負け犬」というような感覚(おそろしく退廃した感性だが)。一人、競争相手がいなくなった程度の認識だとすれば、かなりおぞましい。
 
 でも、こうして公に出なければ、それで済んでいたはず。有名高校にスポーツ推薦で入学してきた子が怪我や能力で落ちこぼれていく(時には人生そのものにも)悲惨な現実を見聞きした者にとっては、何とも言いようがないが・・・。
 
 中学・高校の部活動。野球、バスケ、バレーなどの運動系はもちろん、吹奏楽や演劇、美術など、顧問の力量、熱意、指導力によって俄然伸びてくる。それは中学校などでは顕著。親も子も、学校選択制の導入などによって裏付けられ、そうした「熱血」指導を求めてその中学校に入学してくる。高校ではそうもいかないが、東京の区立中学。熱心で戦績が上位の部活顧問の先生が転勤すると、一緒に新しい学校に転校する生徒もいるらしい。一方で、そういう「熱い」顧問が異動していなくなると、とたんに成績が落ちる学校も多くある。
 
 そうしたスポーツ・エリート(?)が集まってくる名門高校であろう、今回の高校。府立高に比較しての「市立」ゆえの悩みも焦りも多いはず。人材発掘、指導力のある教師(顧問)は限られている。学校も生徒が活躍するのはタイヘン名誉なこと。教師はなかなか異動しない(むしろ、学校や保護者がさせない)。
 
 その背景には、特色ある学校づくり「政策」によって、部活強化のための予算もつけ、学校の評価も高くなる、ということもありはしないだろうか。ジャンルも範囲も異なるが、受験指導。都立高校では、難関大学進学者数を競わせる政策が導入され、成果に応じての優遇策を取り入れている。また、国体などに出場する選手養成のため、学校を指名しての予算や人を振り向けている施策も実施中。
 
 「いじめ」「体罰」による「自殺」。痛ましい事件が起こるたびに、当事者と学校を非難する風潮が多い。それは当然のことだが、部活動などの学校を取り巻く環境・状況の深刻さを抜きにしたマスコミの取り上げ方にも目を向けないと、橋下さんの目論む「教育委員会」憎し・不要論に与することになって、かえって橋下さん自身が煽っている「競争による学校づくり策」への「ちょっと待ってください」がうやむやになってしまいそうだ。
 
 今回、朝日新聞があえて「割れる評価」と表現したのは、甲子園に燃える「熱血」「高校野球」の指導へのあり方に飛び火するのを警戒したためなのだろうか(「うがった見方」)。
 
 それにしても、真の指導者(という言葉があるかどうか分からないが)たるもの、せめて、この生徒がリーダー・主将に適しているか、この子を叱ったら(まして体罰を加えたら)どうなるか、この子の才能を引き出すにはどういう指導がふさわしいか、伸びるかを見極める、人間育成のプロでなければ、と思う(「千里を走る名馬はいても、その才能を引き出すことのできる伯楽はいない」という中国の故事をつい思い浮かべる)。
 
 「いい」大人が感情(誤った信念・はき違えた情熱のもと)のおもむくままに、年端もいかない(抵抗できない)青少年を相手に、暴力を振るって支配しよう(恫喝によって)という「えせ」指導者根性そのものが、卑しい(最近、アベさんの出身大学では、年老いた部活のOB指導者に対して、指導を受けていた学生が暴力を振るって死なせるなんていうこともあったが)。
 それを持ち挙げている(きた)学校も、保護者も、OBも、同罪。市教委も。そして、鬼の首でも取ったように責め立てる大阪市長も。
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「縞模様のパジャマの少年」(古きよき映画シリーズその18)

2013-01-10 19:33:00 | 素晴らしき映画
 ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。

 第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。

 学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
 シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。

 ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
 ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
 ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
 父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
 ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・

 この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
 ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
 これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
 
 ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
 家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
 精神的に追い詰められていく母親。・・・
 シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
 ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。

 許しを請うブルーノに対するシュムエルの反応。
 
 それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。

 もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか? 主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。
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「7月4日に生まれて」(古きよき映画シリーズその17)

2013-01-09 21:07:56 | 素晴らしき映画
 ロン・コービックの同名の自伝的小説を映画化した作品で、ベトナム戦争をもとにした映画。「プラトーン」のオリバー・ストーンが監督し、トム・クルーズが熱演している。
《あらすじ》
 1946年7月4日、アメリカの独立記念日に生をうけたロン・コービック。高校時代、学校にやってきた海兵隊の特務曹長の言葉に感銘し、海兵隊に入隊。13週間の訓練を経て、熾烈な戦闘が続くベトナムに身を投じる。
 67年10月、軍曹になったロンは、部下を率いて偵察に出かけ、激しい銃撃戦の後、子供を含む農民を惨殺した事実にショックを受ける。この混乱に乗じたベトコンの攻撃にパニックになったロンは、部下のウィルソン伍長(マイクル・コンポターロ)を誤って射殺してしまう。
 68年1月、激しい攻防のさ中、ロン自身も銃弾に倒れ、脊髄を損傷、下半身不随の重傷を負ってしまう。ブロンクス海兵病院に運び込まれたロンは、人間らしい扱いをしてもらえない苛酷な現実に直面する。
 69年、故郷に戻って来たロンは家族に温かく迎えられるが、ヴェトナム戦争を批判し、反戦デモを繰り広げている世間の様相に大きなショックを受ける。ロンは幼なじみのドナを訪ねるが、彼女も大学での反戦運動に加わっていた。
 世間の冷たい風当たりに、ロンは次第に酒に溺れ、両親の前でも荒れ放題。逃避するように70年にメキシコに渡ったロンは、退廃しきった気分の中で酒と女で孤独を紛らわせる。
 しかし、メキシコの砂漠でほっぽり出されたとき、チャーリー(ウィレム・デフォー)からの厳しい言葉を浴びせられる。それをきっかけに、ロンはウィルソンの両親を訪ね罪を詫びる。
 そして、ニクソン再選を決定する「共和党大会」会場に向かって、車いすを操って仲間とともに反戦デモに立ち上がる。


 7月4日アメリカの独立記念日に生まれ、毎年、誕生日に行われるパレードで、第二次世界大戦などに従軍したアメリカの英雄達が街の人々から歓迎されるようすを見て育ち、従軍した父に大きな期待をかけられながら育った少年。大学に進学せずに高校卒業とともに海兵隊に志願、ベトナム戦争に。
 しかし、現実のベトナムでの戦争は、想像を絶する極限状況。ベトナムの農民、ついには同僚の命まで奪ってしまうことに。結局、自らは下半身不随に。人間としての尊厳を奪われるうような海軍病院での扱われ方。さらに車椅子で故郷に戻ってきても、自分のような障害者としてのベトナム帰還兵を英雄として崇める時代は終わっていました。
 今後一生、車椅子の生活を送ることになった自分の惨めな身体を実感し、幼い頃からの信念は揺らぐことに。親愛する家族との諍い、精神的な退廃、・・・。
 ベトナム反戦運動に参加することで、戦争によって障害者となった自分の存在が、世界に向かって何を言い、行動すべきかを見出していくことになります。
 大いなる夢、希望、使命感。その後の現実の中でわき起こる葛藤、挫折。そして、苦悩の果ての蘇生・・・。
 
 場面、場面で使われる当時のヒット曲の数々。遠く離れたアジアの地での不毛な戦争と多くの犠牲者・・・、その物語の進行とともに、「すてきな」アメリカ音楽(「マイ・ガール」「ムーン・リバー」「ビーナス」・・・)が、その時代のムードと主人公の心境を(時には裏腹の世界を)映し出しています。オリジナル曲も印象的です。
 


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足立区立郷土博物館

2013-01-08 18:44:21 | 歴史・痕跡
 葛西用水(曳舟川)。その親水公園(緑道)に沿って、葛飾区には「葛飾区郷土と天文の博物館」があります。そこから上流にたどって常磐線のガードをくぐりしばらく進むと、「足立区立郷土博物館」。二つの郷土資料館が古くから農業用、物流などで活躍した「用水路」沿いにあるというのも意義深いものがあります。
 「足立区立郷土博物館」は、東京都足立区の歴史、生活文化に関する資料を収集・保管するとともに、展示等による事業活動を実施している博物館。昭和61(1986)年に開館。平成21(2009)年、展示内容を一新してリニューアルオープン。新テーマは「江戸東京の東郊」。
 足立区内の古文書、民具などを収蔵、全国的に知られる資料も次の通り収蔵、公開しています。
・綾瀬金子家文書 - 慶応4年3月13日から4月1日に設営された新選組の五兵衛新田屯所に関する古文書。寄託資料。
・下山事件資料 - 昭和24年7月5日に発生した下山事件に関する同時代資料。
・浮世絵コレクション - もとの松方三郎コレクションを中心に約1060点。
・地口絵紙コレクション - 地口絵紙とは地口(一種の駄洒落)と滑稽な絵で構成される絵で行灯にして飾る。現在、東京で製作される地口絵 紙をコレクション。

 今回は、外回り編。
建物南側(庭先)には、「道標」や「石臼」などが展示されています。
芭蕉の句碑。「春も漸けしきととのふ月と梅」。文久3(1863)年建立。千住3丁目氷川神社境内にあったもの。
「富士講・一心講」碑。昭和13年建立。富士山信仰のよすがとして。民有地から移設された。
「力石」。いくつも置かれています。

 (以下、「wikipedia」による)
 力石(ちからいし)は、力試しに用いられる大きな石。江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
 力石の存在が確証されるのは、16世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、1603年の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく文治二年(1186年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永9年(1632年)が知られているかぎりもっとも古い。
 江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
 20世紀後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。一部では住民が喪失を惜しんで力石を神社に奉納、境内に安置した。また後には自治体の民俗文化資料館に置かれたり、看板を立てて所在と由来を示したりして残された。21世紀初めまでに高島愼助が調査して報告した数は約14000、市町村が有形文化財とした力石は約350個、無形文化財に指定された力持ち(力試し)は1ある。また、18の力持ちの大会が神社の祭りや非宗教的大会として開催されている。
 石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には300キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦方法がある。
 人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。
 石に文字を刻むことも盛んに行われた。力石という普通名詞としての名のほか、石に与えられた固有名を刻んだものがある。また、持ち上げた人の名と年月日を記念に刻んだものもある。しかし大半は無銘で、慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなる。
 力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。典型的には石を抱えて持ち上げる。持ち上げ方は、胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。
 力試しに挑戦するのは、村の若い男であった。娯楽が少なく力仕事が多い時代には、力持ちは若者のスポーツの一種であった。通過儀礼的に、力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。しかし過去に一、二の人しか持ち上げられなかったという石もあり、力試しの位置づけもまた多様である。
 伝説上の人物が持ち上げたり放り投げたりしたと伝えられる力石が、やはり全国各地にある。たいていは一人では持ち上げられそうにない巨石である。

 それにしてもよく集めたものです。初めて実物を見ました。
「道標」。
「水戸海道・道標」。千住4丁目の角にあって、日光街道との分岐点にあったものを移設。「海」という表示に注目。
現在、その場所にある新しい「道標」。
「旧千住新橋」。
 1912(明治45)年から1926(大正15)年にかけて荒川放水路(現在の名称は「荒川」)を開削した際、分断される日光街道に1924年6月20日に架けられた。橋名は、隅田川に架かる「千住大橋」との対比のため。1972(昭和47)年から架け替えを行い、1983(昭和58)年に新しい橋が完成。その時の旧橋梁の親柱を移設。
かなりごつい感じの柱。
現在の「千住新橋」。上下線で二つの橋に分かれている。
「裏門堰」の柱。これも荒川放水路開削の際、不要になったものを移設したらしい。ただし、どこにあったものなのか何の説明もなく、放置されたまま(通りかかった職員に聞いても要領を得なかった)。
「東渕江庭園」。建物の西側は池を中心とした日本庭園になっています。
「バクチノキ」。絶えず古い樹皮が長さ数10cm程度のうろこ状に剥がれ落ち、黄赤色の幹肌を顕す。木の名の由来は、これを博打に負けて衣を剥がれるのにたとえた、とのこと。
「枯れ尾花」。冬の日差しの中で、静かな池の畔。
池越しに見る郷土博物館の建物。
 昭和40年代前半まではこの付近、田んぼや畑が多く、近郊農業の盛んな農村地帯でした。広い道路は「葛西用水」沿いの南北の道くらいで、あとはあぜ道。都市化に伴って急速な土地開発・整理が行われ住宅地に変貌しました。
昭和7年度当時のようす。「東渕江村大谷田」地区。中央右の南北の用水が「葛西用水」。その東が「八か村落し」用水。周囲は、「佐野新田」などの新田の地名が確認できます。
館前の「東渕江橋」からの「葛西用水」。
少し下流・かっぱ橋にある河童のモニュメント。
入り口正面にあるモニュメント。土地区画整理事業の完成を記念してのもの。
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