葛西用水(曳舟川)。その親水公園(緑道)に沿って、葛飾区には「葛飾区郷土と天文の博物館」があります。そこから上流にたどって常磐線のガードをくぐりしばらく進むと、「足立区立郷土博物館」。二つの郷土資料館が古くから農業用、物流などで活躍した「用水路」沿いにあるというのも意義深いものがあります。
「足立区立郷土博物館」は、東京都足立区の歴史、生活文化に関する資料を収集・保管するとともに、展示等による事業活動を実施している博物館。昭和61(1986)年に開館。平成21(2009)年、展示内容を一新してリニューアルオープン。新テーマは「江戸東京の東郊」。
足立区内の古文書、民具などを収蔵、全国的に知られる資料も次の通り収蔵、公開しています。
・綾瀬金子家文書 - 慶応4年3月13日から4月1日に設営された新選組の五兵衛新田屯所に関する古文書。寄託資料。
・下山事件資料 - 昭和24年7月5日に発生した下山事件に関する同時代資料。
・浮世絵コレクション - もとの松方三郎コレクションを中心に約1060点。
・地口絵紙コレクション - 地口絵紙とは地口(一種の駄洒落)と滑稽な絵で構成される絵で行灯にして飾る。現在、東京で製作される地口絵 紙をコレクション。
今回は、外回り編。
建物南側(庭先)には、「道標」や「石臼」などが展示されています。
芭蕉の句碑。「春も漸けしきととのふ月と梅」。文久3(1863)年建立。千住3丁目氷川神社境内にあったもの。
「富士講・一心講」碑。昭和13年建立。富士山信仰のよすがとして。民有地から移設された。
「力石」。いくつも置かれています。
(以下、「wikipedia」による)
力石(ちからいし)は、力試しに用いられる大きな石。江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
力石の存在が確証されるのは、16世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、1603年の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく文治二年(1186年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永9年(1632年)が知られているかぎりもっとも古い。
江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
20世紀後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。一部では住民が喪失を惜しんで力石を神社に奉納、境内に安置した。また後には自治体の民俗文化資料館に置かれたり、看板を立てて所在と由来を示したりして残された。21世紀初めまでに高島愼助が調査して報告した数は約14000、市町村が有形文化財とした力石は約350個、無形文化財に指定された力持ち(力試し)は1ある。また、18の力持ちの大会が神社の祭りや非宗教的大会として開催されている。
石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には300キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦方法がある。
人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。
石に文字を刻むことも盛んに行われた。力石という普通名詞としての名のほか、石に与えられた固有名を刻んだものがある。また、持ち上げた人の名と年月日を記念に刻んだものもある。しかし大半は無銘で、慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなる。
力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。典型的には石を抱えて持ち上げる。持ち上げ方は、胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。
力試しに挑戦するのは、村の若い男であった。娯楽が少なく力仕事が多い時代には、力持ちは若者のスポーツの一種であった。通過儀礼的に、力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。しかし過去に一、二の人しか持ち上げられなかったという石もあり、力試しの位置づけもまた多様である。
伝説上の人物が持ち上げたり放り投げたりしたと伝えられる力石が、やはり全国各地にある。たいていは一人では持ち上げられそうにない巨石である。
それにしてもよく集めたものです。初めて実物を見ました。
「道標」。
「水戸海道・道標」。千住4丁目の角にあって、日光街道との分岐点にあったものを移設。「海」という表示に注目。
現在、その場所にある新しい「道標」。
「旧千住新橋」。
1912(明治45)年から1926(大正15)年にかけて荒川放水路(現在の名称は「荒川」)を開削した際、分断される日光街道に1924年6月20日に架けられた。橋名は、隅田川に架かる「千住大橋」との対比のため。1972(昭和47)年から架け替えを行い、1983(昭和58)年に新しい橋が完成。その時の旧橋梁の親柱を移設。
かなりごつい感じの柱。
現在の「千住新橋」。上下線で二つの橋に分かれている。
「裏門堰」の柱。これも荒川放水路開削の際、不要になったものを移設したらしい。ただし、どこにあったものなのか何の説明もなく、放置されたまま(通りかかった職員に聞いても要領を得なかった)。
「東渕江庭園」。建物の西側は池を中心とした日本庭園になっています。
「バクチノキ」。絶えず古い樹皮が長さ数10cm程度のうろこ状に剥がれ落ち、黄赤色の幹肌を顕す。木の名の由来は、これを博打に負けて衣を剥がれるのにたとえた、とのこと。
「枯れ尾花」。冬の日差しの中で、静かな池の畔。
池越しに見る郷土博物館の建物。
昭和40年代前半まではこの付近、田んぼや畑が多く、近郊農業の盛んな農村地帯でした。広い道路は「葛西用水」沿いの南北の道くらいで、あとはあぜ道。都市化に伴って急速な土地開発・整理が行われ住宅地に変貌しました。
昭和7年度当時のようす。「東渕江村大谷田」地区。中央右の南北の用水が「葛西用水」。その東が「八か村落し」用水。周囲は、「佐野新田」などの新田の地名が確認できます。
館前の「東渕江橋」からの「葛西用水」。
少し下流・かっぱ橋にある河童のモニュメント。
入り口正面にあるモニュメント。土地区画整理事業の完成を記念してのもの。