おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

白坂宿~白河宿~女石の追分。その5。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-11 22:49:50 | 奥州街道


 (12:07)交差点の右の角に新しくて大きな道標があります。
  

道標(複製)
 建立年 嘉永2年(1849)
 高さ  2.05㍍

 本町にある奥州街道と棚倉・石川方面の街道が交わる交差点、通称「四ツ辻」に建てられていた石造の道標です。
 白河城下を東西に走る奥州街道はここから北に方向を変え、城下を出た女石の追分で会津街道と分岐し、桑折宿(福島県桑折町)では羽州街道と分岐して仙台方面に向かいました。
 この道標は江戸時代後期の嘉永2年に建てられたもので、北側・西側・南側の3面に文字が彫られています。奥州街道を下る場合に目にするのは、西側に彫られている文字、上ってきて四辻に達したときにに目にするのは、北側に彫られている文字です。

 せんだい あいづ
(西側)左 で八(出羽) ゑちご(越後)
    右 日光 江戸
(北側)
    左 たなくら い八き(いわき) 水戸
(南側)嘉永二年己酉四月

コーナーには「奥州街道と白河城下」解説板。

 いよいよ最終コーナー。
 左折して「「横町」に入り、「田町大橋」で「阿武隈川」を渡ります。その先が「女石追分」。


「横町」。 

 本町の四辻から北に直角に折れる奥州街道に沿って南北に延びる町です。小峰城の東側に接し、町の北端には三の丸に入る「横町門」があり、東側には藩の家臣が住む「番士小路」がありました。
 町名の由来は分かっていませんが、大手(追手)門のある城の正面に対して、その横にある町という意味とも推測されます。
 「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は112軒とあります。

                                白河市

「白河だるま」のお店。

    
              (12:13)JR東北本線のガードをくぐります。「陸羽街道」とあります。

左手に「応急仮設住宅団地 双葉町」の表示。

「田町」。    

 北側を流れる阿武隈川と接するのが田町です。江戸時代中頃まで、阿武隈川は歩いて渡っており、橋が初めて作られたのは元禄2年(1689)のことと伝わります。
 会津・仙台方面からの入口で、町の北端には城下の入口を示す大木戸が置かれていました。また、大木戸の外側には享和3年(1803)の洪水で失われた「河原町」がありました。
 町の中央付近に城内に入る「田町門」があり、三之丸の北小路と通じていました。
 「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は131軒とあります。

                                白河市

(12:19)「田町大橋」。「阿武隈川」を渡ります。
                  
    

阿武隈川(あぶくまがわ)
 福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で、一級河川。水系としての流路延長239kmは、東北で北上川に次ぐ長さの川。古くは大隈川と呼ばれていた。
 那須岳の1つ三本槍岳のすぐ北に位置する福島県西白河郡西郷村の甲子旭岳に源を発し東へ流れる。白河市に入り西白河郡中島村付近で北に流れを変えると、須賀川市・郡山市・福島市と福島県中通りを縦貫して北に流れる。
 福島県と宮城県の境界付近では、阿武隈高地の渓谷を抜ける。この区間を並走する国道349号は、待避所のある1車線の険しい道路となっている。宮城県伊具郡丸森町で角田盆地に入り、角田市を流れて仙台平野に出る。現在は岩沼市と亘理町の境で太平洋に注ぐが、古代の旧河口は現在の鳥の海である。
 勾配がゆるやかな川で穏やかな印象があるが、増水時にはあふれやすく洪水被害の絶えない暴れ川でもある。1986年には台風による増水で大規模な洪水が起こっているほか、2011年には津波の逆流により大規模な海嘯が発生している。
                                             (以上、「Wikipedia」参照)

                               遠く那須岳一帯を望む。

 (12:30)しばらく集落の中を進み、坂を越えると、「女石」に達します。

女石の追分。

 「奥州街道」と「会津街道」との追分の手前、左手高台に戊辰戦争で戦死した仙台藩士の戊辰戦歿之碑(中央の石柱)が建っています。
    

「戦死供養塔」と解説板。

仙台藩士戊辰戦歿之碑
 かつて会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点であったここ女石の地にあるこの碑は、明治23年(1890)、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。
 なお、この碑の傍らの「戦死供養塔」は、白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓で、明治2年(1869)の建立である。

                           白河観光物産協会

「仙台藩からす組の旗」。

そこから「追分」を望む。右が「奥州街道」、左が「会津街道」。
                 

    
 奥州街道。               会津街道(「国道294号線」)。その先は「国道4号線」との交差点。 

左手にある解説板。

ちょっと足を伸ばして、「国道4号線」との合流地点まで。

「国道4号線」(郡山方向)。

 (12:40)左手にある「コンビニ」で昼食を食べながら、休憩。

 幕府管轄の「奥州街道」は、「女石の追分」まででした。「追分」から来た道(「奥羽街道」)を振り返って望む。
                                    

(「今昔マップ」より)

           ○が女石の追分。右手に旧奥州街道が続きます。上の道が国道4号線。

今回の旅もここで終了。JR白河駅まで戻ります。ほとんど寄り道をしなかったせいか、時間も距離も短く済みました。

(13:18)白河駅構内。

ホームから望む「小峰城」。

 芭蕉が訪れた「白河の関」は訪れることはできませんでしたが、「奥の細道」の一節を。
 
 心許(もと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便(り)求めしも断(ことは)り也。中にも此(の)関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶(ほ)あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲(き)そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

  卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良

 当時、「白河の関」は、旧奥州街道(国道294号線)よりももっと東側の道を進んだところにありました。現在、旧跡「白河の関」として残されています。今回で「奥州街道」歩きの一区切りとします。松尾芭蕉と曽良は、もっともっと北上し、奥州から日本海側に歩みを進めていきました。

 中断している「中山道」歩きは、来春にでも再開することにして、このかんに「甲州街道」歩きにチャレンジしてみようかとも思っていますが・・・。 

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白坂宿~白河宿~女石の追分。その4。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-10 18:44:50 | 奥州街道
 (11:54)宿内には、他にも明治期の歴史的建造物が残されています。ただ、この地域は戊辰戦争の激戦地だったため、明治以前の建物、史跡等はほとんど残っていないようです。旧奥州街道の道筋のみがかつてを知る手立て?


歴史風致形成建造物 大谷家住宅建造物群 
 大谷家は、元々味噌醸造を営む商家であった。明治後期に本町大谷忠吉本店から味噌醸造店として分家・創業し、昭和52年頃まで営業していた。
 旧奥州街道に面した2棟の蔵は、創業当時の明治後期に建築されたもので、内部空間は土間を持つ店舗や座敷蔵となっており、主屋部分は中庭に連続する伝統的な町屋建築となっている。
                               白河市

その隣には、「楽蔵」。
                 お土産屋さん、飲食店などが並んでいます。「白河戊辰見聞館」などもあり。

  (HPより)

 しばらく進むと、再び桝形になり、「常陽銀行」のところを右折、その先を左折していきます。
    
                                        左折したところ。右角にベンチあり。

「中町」から「本町」に入ります。宿場の中心街。

(12:00)右手に「本陣芳賀家跡」があります。現在は「堀川印刷所」となっている辺り。

白河宿本陣芳賀(はが)家跡
 本陣は、江戸時代の大名、幕府役人などの宿舎となる旅籠である。白河宿の本陣は、この地にあった本町の芳賀源左衛門家が代々務めた。明治9年(1876)明治天皇の第1回東北巡幸の際には休憩所とされた。本陣芳賀家の表門口は当時約16間余り(約30m)であった。
                                             本町復起会
      
その向かい側に「脇本陣柳屋旅館跡」。

歴史的風致形成建造物 旧脇本陣柳屋旅館建造物群
 本町は江戸時代の奥州街道白河宿の中心で、本陣・脇本陣をはじめ旅館が50軒ほど軒を連ねていた。この地は脇本陣柳屋旅館跡地で、奥には当時の旅館の屋敷蔵がある。脇本陣を経営していた柳下家は、江戸時代の「本町絵図」には旅館渡世 柳屋丹右衛門」と記され、代々旅館を経営していた。
 表通りに面して建つ建築物は明治期に「勧工場(デパート)」として建築されたもので、文明開化の時代を伝える洋風建築物である。奥には江戸時代に建築された座敷蔵があり、明治14年(1884)に明治天皇の宿泊所になった由緒を持つ蔵である。座敷蔵は3室あり、一番奥の座敷は玉座と呼ばれ、床の間・違い棚・付け書院を兼ねた本格的な書院空間となっている。

                                            白河市

 左の建物がその「勧工場」。白河における初めての百貨店の建物だったようです。当時の雰囲気が外装などに感じられます。
    



白河県立病院・白河医術講議所跡」。
 明治4年(1871)8月、白河県(明治2年~4年)は、県立病院と医術講議所を白河宿本陣の芳賀源左衛門宅の一部に開業した。病院長に大学東校(後の東京大学医学部)の教授横川正臣、旧白河藩医岡崎東海など医師7~9名で診療を行った。病院に付属させた医学生教育機関の医術講議所もあわせて設置された。
 明治4年11月白河県が福島県に包括されると、翌5年2月病院医術講議所は須賀川へ移転した。この場所は、全国に先がけて、近代病院経営と医術演習の草創期をになった地である。

                                               本町復起会

古旅籠風の商家。

(12:03)「本町」解説板。

本町(もとまち)
 「十軒店」と称される、ひときわ大きい「カギ形」で中町と接しているのが本町です。「白川風土記」(1805年完成)によれば、家数は96軒で、町名の由来は記されていませんが、一説には古くからの町であるためとも言われています(「白川因縁記」)。
 職業が記される町の絵図では半数近くが宿屋であり、旅館街ともいえる町でした。大名が参勤交代の際などに宿泊する本陣と脇本陣も置かれていました。

                                                白河市

    

萩原朔太郎の妻・美津子の生家
 この地は、日本を代表する大正・昭和期の詩人である萩原朔太郎ゆかりの地である。当地の大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍した。忠一郎は、萩原朔太郎にも師事し、「北方詩人」などを主宰した。萩原は、当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのよう縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚した。
                                 本町復起会

「白陽」の蔵元。

 「奥州街道」はその先の信号を左折しますが、その右角に明治13年創業の「渋木茶舗」があり、その建物の左隅に「岩淵悦太郎の生家跡」の解説板があります。
    
                      渋木茶舗建造物群・岩淵悦太郎生家跡
 
歴史的風致形成建造物 渋木茶舗
 渋木茶舗は、明治13年(1880)に八百屋町渋木家から独立した渋木啓次郎氏によって横町に渋木商店として創業された。その後明治23年に当地に移転営業し、丸喜園茶舗、さらには渋木茶舗と名称変更した。当初は養蚕家であったが、次第に茶舗としての営業を行うようになった。
 建造物群は、旧奥州街道に面した伝統的な切妻・平入り形式の店舗。その奥にかつては住居であった主屋・中庭の奥に座敷蔵という構成であり、白河の伝統的な町屋建築である。これらの建造物は、明治23年頃に建築されたものである。

                                                白河市
 現在は「お休み処」になっているようです。

岩淵悦太郎生家跡
 岩渕悦太郎は、現代日本語の生態の科学的研究方法の基礎を作った国語学者である。文部省教育課程審議会・同国語審議会等の委員を務め、 NHK放送文化賞を受賞している。主な編著作は「日本方言地図」「岩波国語辞典」「国語史編集」などがある。
 この地は、悦太郎の生家の跡である。悦太郎は明治38年(1905)に白河の本町で酒造業を営む「岩淵屋」に生まれ、少年期に東京に引っ越し、東京帝国大学を卒業の後、国立国語研究所の所長などを務めた。昭和53年没。
                                                                                                                     本町復起会

 「岩淵屋」は現存しないようで、空き地(広場)のところにあったものか。
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白坂宿~白河宿~女石の追分。その3。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-07 22:04:50 | 奥州街道

古い建物を生かした店家などがあります。

北側にはすてきな赤松と土蔵造り。

    
               (11:35)「奈良屋呉服店」。白壁が素晴らしい。

    
                          「新町」解説板。

 江戸から奥州街道をたどり、白河城下の入口にあたる町が新町です。一番町・二番町・七番町・九番町の五つに分けられています。
 江戸時代初期、会津領時代の絵図には「鉄炮(砲)町」とあり、初代白河藩主となった丹羽家時代には「足軽町」とあります。
 このことから、当初は新町が江戸側の防御の役割を担っていたことが推測されます。後に町人が中心の町になっても足軽屋敷が点在していたのは、その名残りと考えられます。
 町名の由来は、「白河風土記」(1805年完成)によれば、新しく取り立てられた町と推測していますが、いつ頃よりこう称されるようになったのかは不明であると記しています。また家数は202軒とあります。
                                                白河市

「国道294号線」が旧街道そのものになっています。


 「一番町」を過ぎて「天神町」交差点を右に直角に曲がります。その角に「月よみの庭」という庭園があります。
    

 石英安山岩質の凝灰岩(火砕流堆積物)の為、色が白く東京・京都の神社仏閣では珍重されたそうで、クッション性に富み、内部に水を含み蒸散作用で足元が涼やかに感じられるそうです。
 何だか割れた石を無造作に置いてあるだけ(建物を取り壊し終わった敷地という印象)という感じで、「月よみの庭」という名称のいわれが知りたくなります。

「関山満願寺」。
 詩人の詠に古への連想床し都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河や
 我が白河の名ぞかおる
 その郷に関の山ぞありける

 西郷村谷地中の道場窪にある笠松より関山を東南東に望む。
 笠松の場所が白河石黒目の産出地である。
 古代は関山の見える処が人の住める処のようです。

 脇の石には「霞が関の名の由来か」とありますが。詳細不明。 

    
         足元にさりげなく置かれた解説プレート。・・・「江戸時代の踏石」。

 奥に樹齢100年、明治中期に植えられた赤松の「優陽の松」があります。
 赤松は白河の市民木。西日に当たると若々しく優しい艶を出すといわれ、北西(北極星)に向かって斜めのラインをもつこの赤松は、「雄飛の松」とも呼ばれているそうです。
    

その右奥には古い建物。

(11:41)「天神町」バス停。国道194号線。

白壁造りのおうちが目立ちます。

    

歴史的風致形成建造物 今井醤油店建造物群
 今井醤油店は、江戸時代末頃に今井清吉氏によって創業された。江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823)「天神町絵図」には「肴商売武兵衛」、天保年間(1830~44)には「肴屋清吉」と記されている。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数える。
 建造物群は、旧奥州街道に面した漆喰塗りの座敷蔵と切妻・平入りの伝統的町屋建築の店舗が一体となって特徴的な景観を呈している。座敷蔵は、明治26年(1893)に建築されたもので、店舗・主屋は、魚屋を営んでいた江戸時代の建造物を増・改築し、現況の外観は昭和30年代の改修によるものである。
                              白河市

この家も増改築はしてあるが街道筋らしい建物。

その奥には白壁造り。

(11:46)「白河提灯まつり・みこし格納庫」。

白河提灯まつり
 2年に1度(西暦偶数年)開催される「白河提灯まつり」は、新潟県の「弥彦灯篭まつり」、愛知県の「諏訪神社大提灯まつり」と並ぶ日本三大提灯まつりの一つに数えられます。
 神社みこしが町内に繰り出した後を、各町のみこしや提灯が従い、粛々とすり足で進む行列と、宵闇に揺れる幻想的な数千個の提灯が見物客を魅了します。別名「儀式まつり」といわれるほど、武家社会の格式が導入された独特の行事で、伝統文化として白河の地に受け継がれています。

    

歴史的風致形成建造物松井薬局建造物群
 松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861~64)に、安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1870)当地に移転した。2代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めている。
 建造物群は、旧奥州街道に面した店舗と並立する蔵を先頭に4棟の蔵、2棟の倉庫の計6棟の蔵、倉庫群が連担する景観が特徴的である。蔵の建築年次は、手前から明治43年(1910)、明治13年(1180)、明治33年(1900)、明治17年(1184)となっている。また、敷地東側にも大正2年(1913)建築の蔵が配置されている。

                                                白河市
                 

 その先、突き当たりを左折し、すぐ右折します。
                                               振り返って望む。  

     
奥州街道と白河城下
 小峰城跡は、慶長年間頃に 城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を多用した城郭に改修されました。
 城郭の改修と合わせて、奥州街道沿いに城下町も形成され、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。
 城下町は「通り五町」と呼ばれた天神町・中町・本町・横町・田町を中心とし、これに平衡して南東側に裏町が配置されていました。
 記録によれば寛文年間(1661~73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。福島県内では、会津若松城下に次ぐ規模を誇っていました。
 市街地には、多くの歴史遺産とともに、当時の奥州街道を中心として町割りが非常によく残されており、今も城下町の姿を偲ぶことができます。
                                            白河市教育委員会
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白坂宿~白河宿~女石の追分。その2。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-05 21:57:07 | 奥州街道

 この地は、戊辰戦争の時の白河口古戦場の跡地で、「戊辰の役古戦場碑」や会津藩主松平容保題字の大きな「鎮魂碑」などが建っています。

      

戊辰の役古戦場
 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応4年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩摩大垣等西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
 東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、潤4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数しれず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
 戦後両軍は、各戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
 この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平松容保の題字の鎮魂碑がある。
                       白河市教育委員会

注:明治新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いを西軍、東軍と言い表しているところにいまだに続く「白河」の気概があるようです。

    

長州大垣藩六人之墓(松並地内)
 慶応4年(1868)閏4月25日、新政府軍が白河を初めて攻めた際に戦死した長州、大垣藩将藩士(3名)と大垣藩士3名の墓である。
 当初は薩摩藩兵7名も埋葬されており、「薩長大垣千戦死十三人之墓」と刻まれていたが、薩摩藩が大正4年(1916)に小峰城東側の丘陵(鎮護神山)に戦死者を合葬したため、現在のの姿となった。
 明治9年6月に明治天皇が、同41年9月には皇太子時代の大正天皇が立ち寄り、戦死者の霊を弔った。
           白河観光物産協会

          

そこから道の向こう側を望む。
 
白河口の戦い
 戊辰戦争における戦いの1つ。戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。
 慶応4年閏4月20日から7月14日(1868年6月10日から8月31日)にかけて、南東北の要地白河小峰城(白河城)を巡る奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦い。
 仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津藩・庄内藩と提携し新政府と敵対する軍事同盟成立に際し白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。ここに戊辰戦争の東北地域での戦闘・東北戦争が勃発した。しかし新政府軍は約700名程度で列藩同盟側約2500名の駐屯していた白河城を奪還した。同盟軍は白河を経由した関東への進軍を意図し約4500名まで増援を行い7回にわたって攻撃したが、新政府軍は劣勢な兵数で白河城を守りきった。
 白河は奥州街道沿いの要地であった。小峰城(白河城)は寛永6年(1629年)に丹羽長重によって改築された城で、仙台藩をはじめとする東北諸藩を仮想敵として設計されていたため、南方は比較的手薄となっていた。
 慶応4年閏4月20日、二本松藩兵が守備していた白河城へ田中玄清の息子左内が率いる会津兵と新選組が侵攻しこれを占領した。
 新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。新政府軍は薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で形成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。
 25日払暁に新政府軍の先遣隊数百名は白坂口へ奇襲をかけて、会津藩遊撃隊と新選組は新政府軍と激しく交戦をした。
 新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、宇都宮城の戦いでの死闘による疲労と弾薬不足、そして宇都宮からの無理な強行軍の疲労と土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。
 新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎたい所だったが、土佐藩は今市の戦いの最中であった。そこで東山道軍に伊地知正治率いる薩摩藩と長州藩と大垣藩と忍藩の部隊を合流させ増員した。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2,000から2,500名であった。新政府軍は28日に激しい銃撃戦を展開させて会津兵を撃退させて翌29日に白坂口に本陣を置き、5月1日に白河城の攻略にかかった。
 新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。
 この頃新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため、白河城へ増援する余裕が無く、黒川藩によってわずかに兵力を増強できたに過ぎなかった。一方、列藩同盟軍も連携が悪く兵力の集結や総攻撃の決断ができずに、5月16日から17日に小規模の攻撃を行った程度であった。こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。
 26日、列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援された。列藩同盟軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが失敗に終わった。
 16日、平潟に新政府軍1500名が上陸。続々と派兵され7月中旬には3000の兵を擁するようになった。平潟の上陸軍に呼応し24日に白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて南東へ出発した。棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があったからである。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した。
 25日、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗。更に7月1日の攻撃にも失敗し、戦況は新政府へ傾き、8日に庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。また13日、平潟の上陸軍は平城を占領し、以後軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始、三春にて板垣の白河軍と合流した。
 列藩同盟軍の白河城への攻撃は14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となったため、これに狼狽した列藩同盟軍は会津藩領を経由し白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した。
 白河口での敗北によって列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決した。

                                   (以上、「Wikipedia」参照) 
大正、昭和初期のようす。



奥州街道と白河城下
 白河宿は、江戸日本橋を起点とする奥州街道の27番目にあたります。
 現在城下を通る街道は、寛永4年(1627)初代白河藩主丹羽長重が、城下町を整備した時の形がほぼ乗っているものです。町境ごとに残る鈎型(かぎがた)は、的の侵入に備えた防備のくふうであり、江戸時代の絵図と現在の街道はそのまま重なります。
 記録によれば、寛文年間(1661~73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。
 ここ松並は白河城下の入口にあたり、絵図を見ると道の両側には土塁が築かれ、直角に曲がって町に入る形になっています。丹羽長重入封以前には、直線だったと推測される城切り口を敵からの防御を重視して長重が作り替えたものです。

                                      白河市教育委員会



稲荷山公園。

 戊辰役古戦場のすぐ先、左側に、戊辰戦争の激戦地だった稲荷山があり、現在は公園となっています。

 「奥州街道」は、古代からの官道として、鎌倉期の源義経、江戸期の芭蕉、さらには「明治維新」(戊辰戦争)と歴史・文化のダイナミックな動きに位置する史跡の豊富な地であったことを実感させられます。

「九番町」に入ると、家屋が並び、次第に市街地となります。
    

 (11:29)「谷津田河」に架かる「南湖橋」を渡って、宿場の中心地へ向かいます。
    

 宿内には、宿場らしい古い建物や史跡が残っています。

つるべ井戸。
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白坂宿~白河宿~女石の追分。その1。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-04 20:22:06 | 奥州街道
 いよいよ「奥州街道」歩きも最終回。夕方から所用があるので、手際よく。ということで、出かけました。

 10月30日(日)。予報ではまずまずの天気、ということでしたが、雲が多く、肌寒い一日でした。「奥州街道」歩きでは、どうもカラッとした晴れには恵まれませんでした。那須もくっきりとは見えず、という具合。

 さて、「白坂」駅には在来線を乗り継いで午前10時少し前に着きました。前回の土曜日よりは駅前の広場には車がたくさん。降りた客は2名でした。元のところへ戻るのはロスタイムになるので、途中省略して駅前の道を直進して、「国道294号」へ出ます。白坂宿からの山間の道をカットしたわけです(ごまかしたわけです)。

 交差点からは「皮籠(革籠=かわご)」地区となります。
       

 この付近から東南にかけての地が上杉軍が家康軍との戦闘のために陣を敷いたところだそうです。

革籠原の防塁跡

 NHKの大河ドラマ『天地人』において、直江兼続が主君上杉景勝とともに、東征してくる徳川軍を迎え撃つための「決戦の場」と定め、慶長5年(1600)に防塁を築いた場所と言われています。
 この地に徳川軍をおびき寄せ、常陸の佐竹義宣とともに側面から攻撃し、徳川家康を討ち取るという用意周到な作戦でした。しかし、家康は栃木県小山より引き返し石田三成との関ヶ原の戦いに臨んだため、革籠原は「幻の白河決戦」の地となりました。
 この防塁跡は、中世の館跡の土塁の一部とも考えられていますが、上杉家の土塁の特徴である二重土塁構造で、堀幅についても上杉家が築いたものと合致するなど似かよる点が多いと考えられています。
 現存しているのは約370メートルですが、江戸時代の軍記物には数キロメートルにもわたって築かれたと記されています。

(以上、HPより)


注:大河ドラマ『天地人』
 2009年1月4日から同年11月22日まで放送されたNHK大河ドラマ第48作。原作・火坂雅志、脚本・小松江里子、音楽・大島ミチル、主演・妻夫木聡。
 主人公は、上杉景勝に仕えた上杉家の家老・直江兼続。
 ひたすら利のみを求める戦国時代に、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。主君・上杉景勝をはじめ、師と仰ぐ上杉謙信や友人・石田三成との深い係わりを主軸に、同時代に生きた戦国武将や妻・お船をはじめとする女性たちとの人間関係、利を求める社会において発生する格差など現代社会に通じる問題、といった様々なテーマを盛り込みながら、兼続の生涯を描く。(この項、「Wikipedia」参照。)

 上に「愛」の文字を据え付けた「兜」が話題になりました。

(10:18) 左手の角に「(伝)金売吉次三兄弟の墓」案内板。

左に曲り、その先、住宅街の左手に。

 林の中に三基の石塔があります。
    

市指定重要文化財(史跡) (伝)金売吉次兄弟の墓 
 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。
 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混ざっています。紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。
 承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉寺兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。
 石塔の石囲いは、元治元年(1864)7月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。

                     平成十六年 白河市教育委員会


    

    
 石仏が三基と「金売吉次古跡」の標石。           向かいには「二十三夜塔」。

路傍の石塔。遠くに北那須の山々。

(10:35)「一里段」バス停。

 地名から、この付近に「一里塚」があったようですが、現在は不明となっています。右先にコンビニ。

緩やかな坂を下って行きます。

                          稲刈りの終わった田んぼ。
    

「ため池」。  

(10:53)その先、前方が開けてくると、「旧道」は国道から右へ入って行きます。
    

一面、大豆畑。

ススキ。  

小さな集落になっています。

 芦野宿からここまで、「奥州街道」は山あいにある小さな集落を細い線で結びながら進んでいました。旧道を継承した「国道294号線」の整備は、そうした集落を通らず、ほぼ直線的につくったため、国道から外れたかたちで左右に集落が残り、旧道も残っているようです。

(11:11)再び国道に合流します。

旧道を振り返って望む。

すぐに「国道289号線」と交差します。左折すると新幹線の「新白河」駅に進みます。周囲はショッピングモールなど大型店舗が目立つ賑やかな通り。
「国道289号線」。正面が「新白河」駅方向。

奥州街道(「国道294号線」)はまっすぐ進み白河市街地に向かいます。

 (11:11)しばらく進むと、「稲荷山」にぶつかって、旧道は右折します。
 
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その7。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-31 20:34:19 | 奥州街道

 「奈良川」を越えて宿内へ。ここにも「地蔵」が置かれています。
    
・・・
また、ここ地蔵尊の立てられている位置は、奥州街道芦野宿の町外れで、城下・宿場の入口(出口)になる。このことから河原町の地蔵尊と考え合わせ、様々な災厄を自分たちの生活の域内に入れない役目もあったと思われる。・・・

宿内。静かな街並み。

桝形? 

                屋号の入った石灯籠。
「紙すき屋」。「屋根屋」。

こちらが本格的な桝形になっています。
    

宿場の中心地。

(14:56)かつての本陣跡が「石の美術館」(「STONE PLAZA」)になっています。
    

            「芦野石」を用いたしゃれた建物。

「なす(那須)屋」。

 さっきの「遊行庵」でこの酒屋で勧められたお酒がおいしかった、というので、お店の中に。
 地酒などなかなか手に入りにくいお酒を扱っているとか。ご夫婦でお出迎え。試飲したりして、栃木のお酒「姿」を購入しました。要冷蔵とかのお酒。保冷剤をあてがい、丁寧に新聞紙で何重にも包み、コメントまで書いてくれましいた。
 さっそく帰宅して飲みました。口当たりがよく、ワイングラスが合いそうなお酒です。あっという間に飲んでしまいました。

 さっきの「遊行庵」で二合ほど飲んだばかりですが、宿内を見物。
 「仲町道標」

 「奥羽街道」の下に右側「越堀鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル」、左側「白坂ヲ経テ白河ニ至ル」 と刻まれ、右側面は、「南ハ伊王野ヲ経テ黒羽ニ至ル」、「黒田原ヲ経テ小島ニ至ル」と刻まれています。
 それぞれ、下に里程が刻まれているようですが、判読できず。

「丁子屋」。    

旅館も経営?  

    
               那須の名木 平久江家のしだれ桜 平成6年11月3日指定
                推定樹齢  400年
                幹回り  252cm
                樹高     18m
                                               那須町

    

那須町指定建造物 平久江家門及び構え 旧平久江家
 この門の建築は、棟門の一種で、この地域における比較的上級武士の門構えである。
 平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一段高い地に家屋敷を構えていた。
 当家は、分家筋にあたり、幕末には家老職を勤めた人物も輩出している。
 構えは枡形の形式をとっており、武家屋敷特有のものといえる。
 この門及び構えは、当時をしのばせるものとして貴重なものである。
                                   那須町教育委員会

「しだれ桜」。

屋敷内のようす。

 その先、左手には朽ち果てたような屋敷門。

「那須歴史探訪館」への道の右手に。「柳独逸文庫」。

「探訪館」から宿内を見下ろす。

裏手からの「歴史探訪館」。    

 (15:09)そろそろ時間が。「芦野仲町」バス停へ。といっても、まだ宿内をうろうろして、バス停に着いたのは、15:40。

 前回と同じように、「黒田原」駅まで出て、そこから帰京という寸法。待っていると、老夫婦がバス停に。やはり「奥州街道」を歩いている方。すでに「東海道」など四つを歩き終え、「奥州街道」が五街道の最後だとか。千葉の方のようです。
 今日は「大田原」から歩き、今夜は「黒磯」で泊まり、明日またここに戻って、「白河」まで、とのこと。
 不思議と今まで会った旅人は、皆、「東海道」「中山道」などを終えての方ばかりでした。それも異口同音に「中山道はよかったですよ。」と。

 「ここから白坂まではコンビニも食べ物屋さんもありません。バスに乗る前に調達した方がよろしいですよ。自販機もあまりないし。」ということはお話ししました。 

 今回は、3組・4人の旅人とお話ししました。それと「遊行庵」の若い女性スタッフ、「なす屋」の若夫婦。計7人。それぞれ有意義でした。前回名刺をくれた「丁子屋」のお隣、「那須通信建設」の社長のWさんに会えなかったのは残念でした。

 次回、「奥州街道」の旅もいよいよ最終回。「白坂」駅から「白河宿」まで。距離的にはもそれほどかからない行程です。これでやっと三つ、制覇になるかどうか。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その6。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-29 16:22:36 | 奥州街道
 この場所は奥州街道歩きでは、ぜひ立ち寄りたかったところです。思ったよりも小ぶりながらよく整備され、西行法師の歌碑や芭蕉や蕪村の句碑などもあって、さすが「歌枕」の地だけのことはあります。今でも田んぼの中にあります。

『奥の細道』より。(芭蕉は「殺生石」についでここを訪ねたようです。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此(の)所の郡守戸部某の此(の)柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此(の)柳のかげにこそ立(ち)より侍つれ。

  田一枚 植て立去る柳かな

 注:芭蕉は、現在の「遊行柳」という言い方ではなく「清水流るゝの柳」と記しています。当時は、西行法師の歌から名付けられた呼称でした。

    

遊行柳の由来
 遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。
 その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明3年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、
   おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは
とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。
別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。
 それ以来、遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。
 これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
 なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。
 これは西行の
   道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ

の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。
 代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明18年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅(ほうたく=先人の行跡)が偲ばれている。


解説板。    

遊行柳
 諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現われ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
 いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。

                          那須町教育委員会

芭蕉句碑
   
                   田一枚 植て立去る 柳かな  芭蕉 

蕪村句碑
          柳散清水涸石処々  蕪村   (柳散り清水かれ石ところどころ) 

西行歌碑
          道の辺に 清水流る 柳かげ 志ばしとてこそ 立とまりつれ

 謡曲「遊行柳」と朽木柳
 謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
 夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞いを通して念仏の利益を見せる名曲である。
 朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。

                                            謡曲史跡保存会

那須の名木・遊行柳」平成6年11月3日指定 幹回り90cm 樹高10m

    

    

正面のあぜ道から振り返って望む。
 大型バイクで乗り付けた二人の壮年が降りて行きました。

足元にはイヌタデ(赤まんま)が群生。

 (14:43)再び「遊行庵」に戻ってきました。地元野菜の即売所が併設されています。


実はこんな大きさ。

前回訪れた「芦野宿」へ。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その5。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-28 22:43:32 | 奥州街道
 (13:30)「板屋」を抜けると、国道を横切って右手の峯岸への道となります。

    

右手の山際に「峯岸館兵従軍之碑」「峯岸館従軍者の碑」。

 戊辰戦争の時、黒羽藩は官軍として戦ったが、藩領であった峯岸近隣の集落の農民がここに設けられた峯岸館で洋式の軍事訓練を受けて各地に転戦、戦功を挙げたその顕彰碑のようです。

    
                                  振り返って望む。そのうち忘れ去られる運命?

(13:37) 国道に合流して今度は右に入ります。
    

右手から来る道がおそらく旧道。

「べこ石の碑」が右手に。

 びっしり約3.500字が刻まれています。
    

べこ石の碑
 この碑は嘉永元年(1848)10月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠恕が撰文建立したもので、全文19段、約3500の文字を刻した碑文である。
 長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。
 この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形が臥牛に似ているための呼称と思われる。
 この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として貴重である。

                                 那須町教育委員会

べこ石の碑文の全文が解説板に載っています(省略)。

べこ石の碑と時代背景
 べこ石の碑が建立された嘉永元年(1848)の時代は、外国船が日本近海にしばしば来航し、通商を求めた時期にあたり、これに対し幕府は「外国船打払令」をもって対抗し、その後講和策が講じられている。国内では、大塩平八郎の乱や渡辺崋山・高野長英らが投獄された蛮社の獄を経て、水野忠邦による天保の改革が始まり、尊王攘夷思想の高まりとともに幕藩体制が崩壊に向う時期にあたり、徳川幕府にとってまさに外患内憂の時代といえる。
 碑は芦野宿の問屋職であった戸村忠恕(ただひろ)が晩年中風の身をもって、人倫道徳の本道を衆庶に教え論すために撰文したもので、路傍の石に彫らせ、建立したものである。
 戸村家は黒羽町須佐木の出身で、元禄年間(1688-1704)芦野に移り住み、酒造業を兼ねた。明治天皇の東北・北海道御巡幸に際し、三度行在所になった名家である。その元は佐竹の一族で、佐竹氏の秋田移封の時、帰農し須佐木に定住した一族である。
天保 8年(1837) 大塩平八郎の乱
天保10年(1839) 蛮社の獄
天保11年(1840) 天保の改革始まる
天保13年(1842) 異国船打払令を改め、薪水給与令復活
天保15年(1844) オランダ国王開国を進言
          フランス船、琉球に来航。薩摩藩に限り、琉球対仏貿易を許す
弘化 3年(1846) 海防の勅論、幕府に下る
          幕府、外船来航を奏上
          米使ピッドル浦賀に来航、通商を要求する
弘化 4年(1847) 島津氏、琉球を英・仏に開港
          信濃善光寺付近で大地震
嘉永元年(1848) べこ石の碑建立
嘉永 3年(1851) 朝廷、国難を七寺七社に祈願。再び海防の直論、幕府に下る
嘉永 6年(1853) ペリー浦賀に来航。開国
安政元年(1854) 日米和親条約調印。日英・日露和親条約調印

                              那須町教育委員会

「峯岸」バス停。

(13:40)みごとな土蔵造り。

集落を振り返って望む。

集落の外れ、右手に「岩倉右大臣歌碑」。

「みちのくの 鄙のはてまで あきらけき 御代の日彰を 傾かぬぞなき」。明治天皇の行幸に同行した岩倉具視の歌が刻まれています。

そこから「峯岸」集落を望む。

(13:46)「甦る豊郷」碑。

行く先の右奥に「遊行柳」が見えてきます。

(13:49)国道沿いにある「遊行庵」に到着。
    

 「芦野仲町」バス停の発車時間までまだまだありそう。ここで「季節の野菜カレー」とお酒を飲んでしばし休憩。店内は土曜なのに誰もいなくて、静かにJAZZが流れています。「遊行柳」はすぐそこなので、JAZZを聞きながら40分ほど、のんびり。

「遊行柳」入口。田んぼの中にあります。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その4。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-27 20:50:59 | 奥州街道

「寄居」集落のようす。

土蔵造り。屋根は赤茶けた色合い。

 ここではこうした朱塗りの屋根や塀が目につきます。
    

(12:14)「寄居本郷」バス停。

「道標」。

 「寄居」は「下野国」最後の間の宿として賑わっていたようですが、今は静かな街並みです。
    「常夜燈」。

「寄居」を振り返って望む。

 (12:21)再び国道に合流します。

 「白坂」宿から「芦野宿」までの区間。「国道294号線(旧奥州街道)」の整備・拡幅(直線化等)工事によって旧道は寸断され、丘陵と平地(田んぼ)の間にあった集落同士を結んで進んでいた旧道は、ほとんど消滅してしまい、集落内に一部残っているだけのようです。

路傍にある古い石塔群。その付近に旧道? 

 歩道沿いにある植樹が鳥の姿に刈り込まれています。
    

遠く「寄居」方向を望む。

左手が旧道? 

国道脇の小高い塚・墳墓? 振り返って望む。

けっこう長く続く道(信号機はまったくない)。

左手に常夜燈。新しいもののようですが。

その脇の道が旧道? 

(12:40)「平田」バス停。裏手は「三ヶ村公民館」。

左手にある「板屋」という間の宿へ向かいます。

(12:45)火の見櫓のもとに「五輪塔」。
   
                                          「道標」。

左の道を入ると「脇沢」。

古い馬頭観音碑群。  

ここにも朱塗りの屋根のおうち。

 小さな集落を抜けて田んぼの脇の道を進みます。路傍には「馬頭観音」などが。
    

「横岡」「高瀬」? を振り返って望む。
 右手に「高徳寺」。もう少し進んだ、写真の右手後方に「手つかずの奥州街道」道があるとか。

再び田んぼ沿いの道。

坂道を進むと「板屋」地区。

 (13:10)坂道を登り切ったところに「板屋の一里塚」。
    

解説板と馬頭観音など数碑。

那須町指定史跡 板屋の一里塚
 奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長9年(1604)5月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の三ケ所がある。板屋の一里塚は、日本橋から44里(176キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西二ケ所に残存し、当時の面影を残している。

                            那須町教育委員会

どの部分が塚なのか、左右とも判然としません。坂を削って切り通しにしたために、塚は高い位置になっています。

来た道を振り返って望む。

行く先を望む。けっこう急な坂道。

集落の中心地に入って行きます。

坂下にも「一里塚」の解説板。

 (13:14)右手に「諭農の碑」があります。この先の集落にある「べこ石」と同じく、芦野宿の問屋を務めた戸村忠恕が記したもの。
    

諭農の碑 
 板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。
 べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。

                         那須町教育委員会

隣には雑然とした花屋さん? 

    
    集落内のようす。                       集落ごとに火の見櫓。

「板屋」バス停。

土蔵造りを改造した「第六分團機具置場」。

振り返って望む。

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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その3。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-26 20:08:38 | 奥州街道
 今度は、国道から右手に入ります。すぐ右手には「瓢箪」の形をした「瓢石(ふくべいし)」と道標を兼ねた石碑があります。

    

「瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」。

 (11:47)しばらく進むと、左手の田んぼの傍らに「初花清水」の石碑と解説板。
    

初花清水と瓢石 寄居 
   ♪いざり勝五郎 車にのせて
   引くよ初花 箱根山

 これは那須町近在の田植え歌であり、盆唄であり、追分でもあり、誰もが知っていて、唄った歌である。また、酒宴の興にのって、中村歌右衛門もどきのこわ色をはりあげて、
  「ここらあたりは山家故、紅葉のあるのに雪が降る」
という、いまでこそ知る人もすくないが、ラジオもテレビもない明治から大正の、なつかしくも忘れがたい「初花」のせりふである。
 「いざり勝五郎」――歌舞伎名題「箱根霊験躄(いざり)仇討」という芝居は、寄居大久保にも深い関係があって、わが里には、ことさらに近しく親しく迎えられたのである。

 奥州街道はこのあたりさびしい山道である。暮れかかる崖下の道辺に旅の男がしゃがみこみ、女がおろおろとしていた。
 山仕事を終えて帰る人が、これを助けて寄居の里へ連れてきてやり、庄屋徳右衛門に事情を話してあずけた(『芦野小誌』には大島四朗平とある)。
 飯沼勝五郎その妻初花といい、兄の仇を求めて旅をつづけ、棚倉から豆沢を経て来たのだ。箱根権現に願かけて、どうしても仇討をとげたいのだといったが、駆落者ではないかとも思われる――徳右衛門は、しかしせんさくはしなかった。
 勝五郎は、足腰が立たなかった。これでは江戸を過ぎてもまだはるかな箱根にはとうてい行けないだろう。徳右衛門は、大久保の先のところに小屋を建てて二人を住まわせてやることにした。ここなら街道往来の旅人が見える。もしかしたらその仇が通るかもしれないと、二人ににも話した。二人は鍋かまを借りて、ここに住んだ。たべ物は少しずつだが、山働きの里人たちがとどけてくれた。
 崖のすみから、きれいな清水がわいて流れていた。
 初花は勝五郎の回復を日夜、神仏に祈った、が――思うようではなかった。
 足腰が立たない勝五郎は、初花が、御礼かたがた徳右衛門方へ仕事の手伝いに行っている間、たまに通る旅人の中に仇を求めながら日を過ごした。手もち無沙汰になると、すわった岩に小柄で無心に瓢を刻んだ。大小さまざまの瓢が、道の面や崖の岩肌に紋様のように彫られた。
 わき出る清水で洗う初花の顔はきれいで美しかった。
 往来の旅人からは仇は見つからなかった。
 勝五郎、初花は、ここを旅立つことにした。
 徳右衛門も、それがよかろうと、勝五郎のために箱車を作ってくれ、小金もわずかだが初花にくれた。「わしは四朗兵衛の下司下郎。よなべに作ったこのわらじ。足が立ったらはかしゃんせ(義太夫の語り)」と、大島四朗兵衛は、わらじを勝五郎に贈った。
 二人は深く礼を述べ、本懐成就を誓った。
 勝五郎をのせて初花が引く車が、やがて一里塚のかげに消えた。

註○「箱根霊験躄仇討」については、『歌舞伎辞典』(434ページを参照されたい)。
 ○いざり勝五郎・初花についての点描的言い伝えは、寄居・山中・木戸でも聞いたが、話の中で一つしかないものが、どこにもあったりして混乱する(たとえばお礼においていった刀が、山中にも木戸にもあった)。
 ○初花清水の石標は昭和三年、芦野青年団が建てたが、私が見たときは倒れて田のあぜのところに頭を埋めていた。(現在は清水の傍に建っていた)
 ○瓢石は、現在拡幅された道路ぞいの崖に、だれが刻んだかただ一つある。詩心豊かな人の作であろう。この瓢石はおそらく三代目なのか。すっと前にはあたり一面、道路まで大小さまざまの瓢が彫られていたのだという。
                   

そこから旧道を望む。右手は崖。

田んぼの向こうには国道294号線。

振り返って望む。中央に「初花清水」。

路傍の石塔群。

(11:51)右手の路地を行くと、石切場があります。

芦野石
那須町芦野地区の国道294号線に沿った約10キロの地域では「芦野石」という安山岩が産出されます。



 準硬石なので加工しやすく、石塔、墓地外柵、倉庫、石垣、石塀、門柱など、様々な用途に用いられてきました。
 現在では、建築、公園、広場等の公共物にも使われています。

■芦野石の成り立ち
 今から130~90万年前「更新世」前期。現在の福島県天栄村の羽鳥湖の近くで大噴火が起こりました。この爆発に伴う火山灰や軽石が大量に降ったあと、大火砕流が現在の白河市やこの芦野地域を覆ったようです。その結果、こんにちの「芦野石」となる地層が出来上がった、と研究者たちは考えているようです。
 この芦野火砕流は、降下火砕物の上に厚さ10m以上の「溶結凝灰岩」として重なっているのだそうです。
 国道294号線(旧奥州街道)を那須町芦野から、福島県白河市方面に向かうと、国道沿いに何ヶ所か、この「芦野石」の採石場を目にすることが出来ます。

■赤目白目
 芦野石には「赤目」と「白目」の2種類があります。普通那須で見かけるのは白目(灰白色)です。
 同種の石でも福島県白河地方産を白河石。栃木県那須町産を芦野石と呼びます。白河産は赤目のものが多いそうです。

■芦野石細工  
 加工しやすい準硬石という性質を利用して、芦野石はさまざまな石加工品として利用されてきました。
 その中でも「道祖神」や「地蔵さん」など含む民俗的な立体造形を「芦野石細工」と呼んでいます。

■栃木県伝統工芸品
 芦野石細工は栃木県から「伝統工芸」としての指定を受けています。

■芦野石を使った美術館
 那須町芦野には特産の芦野石をふんだんに使った美術館があります。「Stone Plaza」。建築家隈研吾氏が設計、2001年、国際石材建築大賞を受賞。

(以上、「道の駅 那須高原友愛の森工芸館 那須町工芸振興会」公設ページより。)

    
   「山石神」。

再び国道に合流します。

左手に廃道のようになった道路があります。この道が旧道?

         
                                      目の先に「泉田の一里塚」。

 (12:03)駐車場の片隅にあり、左の塚(白河に向かって)が現存しています。
    

那須町史跡 泉田の一里塚
 旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である。
 一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長9年(1604)徳川ニ代将軍秀忠の時で、36町を1里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした。
                          那須町教育委員会

「泉田の一里塚」を振り返って望む。

(12:09)しばらく進むと、旧道は右に入って行きます。
    

 右手に道標「関東ふれあいの道」。その脇に「白河の関」という案内板。ここにあったとは思えませんが。
    
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その2。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-25 20:04:46 | 奥州街道

 緩やかに上って行くと、意外に早く県境(福島と栃木。旧磐城国と旧下野国)の峠に着きます(10:52)。
 ただ、この国道。ほとんど信号がないせいか、大型トラックやダンプなどが、かなりのスピードで通り過ぎて行きます。それほど交通量は多くありませんが、歩道もないので路肩を歩くしかない旅人は冷や汗ものです。
 運転手は人間が歩いているとはあまり思っていないのでしょうか、避け方もけっこう激しい。峠付近はカーブも多く、坂道で見通しもきかないため、ちょっと怖い感じです。
 栃木県に入ってしばらくすると、道路も広くなり、見通しもきき、歩道もあって安心して歩けます。福島県側の白坂宿付近は整備された広い道でしたが。

来た道を振り返って望む。
 峠の手前に「弘法大師衣替えの清水」という史跡があるようですが、案内板も見当たらずに通り過ぎてしまいました。

境の明神とニ所の関」。

 白河の関は「ニ所の関」と古来からいわれるとおり二ヶ所にあった。勿来の関といわれた菊多剗(せき)と共に大和政権が蝦夷対策として設けたもので南北八キロ間に数ヶ所配置された関があった。白河市旗宿地内の「関の森」は城主松平定信候が「古関蹟」と断定し昭和十三年国史跡指定となっている。奈良、平安初期の国境には男女ニ神を祀るとされ、下野国住吉神社に中筒男命を祀り、関東明神と称し、岩城国玉津島神社に衣通姫命を祀り、奥州明神と称し「二社の関」の由来するところであります。
 江戸五街道の設置と奥州街道白坂宿場町の発展と共に旅人の安全祈願の参詣も多く、参勤交代や旅人の茶店南部屋の千代の餅、仙台屋のうぐいす餅が親しまれたという。関守石井家と共に、境の明神祈願寺別当に天台宗一実神道派修験法院の豊神寺が社殿脇に建立されたのもこのころである。
 徳川最盛期元禄ニ年、庶民芸術・文化のはなやかな頃、芭蕉が曽良を伴い奥州の第一歩を関の明神へとさしかゝり夕暮れ時、くいなが鳴いていた。

     関守の 宿をくいなに 問おうもの  曽良

 初夏の奥州路は、うつぎの花が真白に咲いてにぎやかな田植え唄がきこえやっと奥州に入った。気をはずませて旅を続けたことゝ思う。

道路をはさんだ反対側にある解説碑。

白河ニ所之関址
 白河ノ関ハ古クカラニ所ノ関ト呼ハレハ潢準平原ノ中ヲ横断スル奥州路ハココテ道ヲ幾通リニモ選ヘルノテアル白河楽翁ニヨリ指定サレタ今ノ旗宿道ハ其ノ一本テアル 然シコレヨリ西側三キロノ所ヲ通ツテイル白坂道ハ昔カラヨク利用サレ古ノ関蹟ニミラレル関ノ男女ノ明神址カアリ古関ノ体裁ヲモツトモヨク保チナカラ白坂ノ関址ハ全ク無視サレテ来タ 余 多年関境ノ研究ニ没頭シ江戸時代ヨリノ関守ノ家テアル石井浩然(南部藩士テ故アツテ南部藩ノ参勤交代路ニアタル白河ノ関守トナッタ石井七兵衛ノ子孫)ト其ノ考証ノ當タリ遂ニソノ関屋跡ヲ確認スルコトカ出来タ 茲ニ白河ニ所ノ関址之証ヲ機トシ白坂道白河関址ニ記念碑ヲ建立シ永ク白河ニ所ノ関ノ意ヲ傳承セントスルモノテアル
     昭和五十七年五月  建之
     理学博士・東京学藝大学名譽教授・國士館大学教授 岩田孝三
     白河関守                            石井浩然

そこから「神社」側を望む。

 本殿脇には、芭蕉の句碑があるようですが、見逃しました。

        はせお
     風流の
       はじめや
         奥の
       田うへ唄

 栃木県那須町方向(下野国)を望む。
    

県境の峠はけっこうガレ場がある切り通し。

 写真左に「県境の碑」があります。『境 福島縣西白河郡・栃木縣那須郡』と刻まれた県境の碑が立っています。

栃木(下野)側の「境の明神」。

福島県側を望む。

解説板。

那須町指定史跡 境の明神
 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。
 創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。
                        
                那須町教育委員会

 峠は鬱蒼とした木々の中にあります。かつてはもっと急な峠道だったようで、現在の国道は2㍍ほど掘り下げられているようです。 

 (11:05)峠で小休止し、栃木県側に来ると、左右に里山風景が続きます。
    

「明神の地蔵様」。

(11:13)こちらは「馬頭観音碑」。

緩やかに下って行きます。

 ここで、いかにも街道歩きをしている方が向こうからやってきました。「今日はどちらまで。」「芦野温泉に泊まって、今日は白河までです。」という。「逆コースをお歩きですか? 」「いや、バスの便が悪いんで、今回だけ逆コースです。」「白坂はすぐですよね。」「ええ、けっこうダンプとか大型車が通るので気をつけて下さい。」

 (11:24)しばらく進むと、国道から離れ、「山中」に入っていきます。
    
                                           振り返って望む。
   「山中」。

    

 (11:33)民家の塀の内側に「明治天皇山中御小休所」の石碑と説明板が立っています。石碑は、昭和13年3月建之とあります。

明治天皇山中御小休所 
 那須郡蘆野町大字寄居字堂矢場にあり。
 鈴木留治宅地千八百五十六番地三百三十坪の内、實測百十一坪六合を指定せり。
 明治十四年山形秋田両縣及び北海道巡幸の際、八月七日及び還幸の砌十月七日御小休所となりたる處なり。
 白河に通ずる舊陸羽街道中、山中とよばれし所にして、當時鈴木清次郎の居宅なり。
 今、孫留治繼承せり。
 平屋建茅葺なり。御座所にて充てられしは、八疊の座敷にして舊規模よく保存せらる。
     昭和十ニ年十二月 文部省発行明治天皇聖蹟抜粋

 この史跡を見物していると、同じように入ってくる方が。挨拶がてら聞くと、昨日、芦野温泉に泊まって今日は白河まで行くとのこと。「前に一人歩いている方がいましたよ。」「芦野に泊まった方ですね。」「奥州街道はどこまでですかね。」「一応白河までとなっているようですが。」「ま、青森っていうわけにはいかないけれど、仙台までは行ってみようと思っていますが。」「芦野宿までですので、のんびり行きます。」「では、お気を付けてお互いに。」
 この方はすでに「五街道」の内、東海、中山、日光、甲州を制覇し、残りはここだけということでした。 

集落の外れには「馬頭観音」が数体建っています。 

そして再び国道に合流して進みます。

「奈良川」。芦野宿迄この流れにほぼ沿って進みます。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その1。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-24 22:59:10 | 奥州街道
 一日に4本しかない、JR「黒田原」駅から「芦野宿」の「芦野仲町」までのバス。それも、朝8:10発のバスではとうてい乗れそうもありません。タクシーはあるようですので、それを利用すればいいのですが、・・・。

 次の宿場・「白坂宿」の最寄り駅、JR「白坂」駅ならそのまま歩くことが出来ます。

 そこで、今回はイレギュラーで、「白坂宿」から「芦野宿」まで順路とは反対に歩くことにしました。帰りは前回と同じく「芦野仲町」バス停15:58発のバスで「黒田原」駅へ。そして前回と同じく、黒磯で乗換え、快速ラビットで帰京ということに。
 従って、これまでの右、左が反対になって、宇都宮に向かって右、左となりますので。

 10月22日(土)。予報では晴れ間もありそう、とのことでしたが、厚い雲にほぼ一日中覆われ、風もあって肌寒い一日でした。

 上野~宇都宮~黒磯~白坂。普通電車の旅。白坂駅に着いたのは、10時少し前。誰も降りず、駅も無人駅。トイレも何もありません。駅前も閑散として空き地に何台か車があるだけ。もちろん、コンビニなどの売店もありません。駅に降りてから食料、飲み水を調達しようしたら、大変な悲劇が訪れます。



 結局、芦野宿の手前にある「遊行庵」まで、開いているお店は一軒もありませんでした。 

 すでに上野駅でおにぎりや飲み物は確保した当方。今回は、それほど歩かないし、何しろ「芦野仲町」のバスは15:58なのですから。ゆっくり、のんびり。しかし、それまで時間をつぶせるのか、とむしろそんな心配が。

    

 しばらく進むと、左手に案内板。「アウシュビッツ平和博物館」と「原発災害情報センター」。無人駅・白坂駅の近くにこのような施設があるとはまったく知りませんでした。寄ることはしませんでしたが、不明を恥じ、紹介します。



アウシュビッツ平和博物館
 「新たな戦争の危機」に対し、私たちは何をすべきなのでしょうか?
 「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が終わり、平和への期待が高まった今世紀は、残念ながら、凄惨なテロで幕を開けました。
 今、私たちは、「テロvs報復」といった暴力の連鎖による「新たな戦争」の危機に直面しています。
 ひとたび戦争が起これば、常に最大の被害者となるのは、何の罪もない一般市民や子供たちです。大切な命を凄惨殺戮行為から救うために、今、私たちは何をすべきなのでしょうか?
 地球上からあらゆる戦争を根絶して平和な社会を実現させるためには、過去の歴史的事実を正しく次世代に伝えていくことが不可欠です。
 私たちの博物館では、ユネスコの世界遺産アウシュヴィッツ収容所跡を保存するポーランド国立オシフィエンチム博物館の協力のもと、「人間が人間に対して行った殺戮行為の極限」といえる「アウシュヴィッツ」の事実を語り継ぐ活動を通して、命の尊厳と平和の価値について、皆様と共に学んでゆきたいと願っています。

《常設展》
●アウシュヴィッツ
 「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産」狂信的な全体主義や排他的な民族主義の結果、人類に暗黒の歴史を残しました。
収容所の成立・強制連行・ガス室・人体実験・抵抗運動・証拠隠滅・収容所の解放ほか

●アンネ・フランク
アウシュヴィッツは、人間がどこまで冷酷になれるかを実証した場でしたが、一方では、いかなる迫害にあっても最後まで人間の誇りを貫いた人たちもいました。
アンネフランク財団(アムステルダム)から版権を取得した関連写真150点の中から約20点を常設展示。

●レスキュアーズ
 第二次世界大戦中、ナチスによって多くの人々が命を失いましたが、一方、他者を命がけで救った人々もいました。レスキュアーズの精神とは一体何なのでしょうか
「闇を照らすともし火」杉原千畝、コルベ神父、コルチャックについて
「いのちの救済者・勇気ある人びとの肖像」ナチスに立ち向かった市民たちの勇気と感動の記録。

● ビデオ室
「アウシュヴィッツ関連ビデオ」の上映
● 平和の広場
フラワー・ガーデン
        (以上、HP参照。)

原発災害情報センター

活動の内容
 原発災害を心に刻み、生活の再生と原発におびえないで暮せる平和な社会が実現する日まで、この白河の地から全世界に向けて原発廃絶の願いを発信していきます。
 センターでは以下を中心に活動をしていきます。
1.福島原発事故の被害に係る資料、関連情報を収集し正確に発信する。機関誌の発行等。
2.過去―現在―未来をつなげる各種企画展示と集会の開催。
3.県内外の人々が自由に意見交換やおしゃべりし、復興へ向けて励ましあえる場を作る。
4.将来、原発事故が正確に検証された時点で、広島や長崎の原爆資料館と同じような役割を果せるように語り継ぐ施設を目指す。
運営は全国と地域のボランティア、専門家によるボランティアグループによって行ないます。

施設の概要
◾展示棟(約36坪=144㎡)
木造、耐火壁、平屋建て、カラー鉄板葺き、北側屋根/天窓、南側屋根/ソーラー発電パネル

        (以上、HPより)

 その先を右折して上り坂を行くと、国道294号線との交差点へ出ます。ここを右折して、「芦野宿」へ向かいます。「国道294号線」を辿っていきますが、集落が左右にあり、そこでは旧道に入ります。

(10:22)

「白河宿」方向を望む。

「観音寺」。

 (10:26)「白坂宿」の面影はありません。静かな街並みです。
    

「泉岡」バス停。この付近が宿場の中心だったようです。

白坂宿
 奥州街道26番目の宿場。
 小田原攻めの勝利を確信した豊臣秀吉が伊達政宗に小田原から会津の街道整備を命じた際に、芦野と白河間が長すぎるということで宿駅となったのが白坂宿の起こり。
 江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には宿内人数 289人、宿内惣家数 71軒(本陣1、脇本陣1、旅籠27)。

    
 「いなりや 菊地」。              「中丁子屋」。

「かめや 亀山」。かつての旅籠。

 この先辺りで「白坂宿」は終わり、栃木と福島の県境を越えて、「芦野宿」へ向かいます。
振り返って望む。(10:36)

 古代から中世にかけての「白河の関」案内板。「6.5㎞」とあるので、諦めます。


 ここでいう「白河の関」は現在の旧奥州街道(国道294号線)に沿った関ではなく、ずっと東側を通る、県道76号線(伊王野白河線)にあった関を指しているようです。その道が律令時代に整備された官道・東山道(近畿から美濃→信濃→上野→下野→陸奥の各国府を結ぶ道路)だった、とか。

古関蹟(旗宿)(写真は「Wikipedia」より)。 



 (10:39)民家が途切れる右手に常夜燈、祠などがいくつか建っています。その左手には、
    

戊辰戦役旧大垣藩士
   酒井元之丞戦死之跡
 
 大垣藩士酒井元之丞重寛の戦死場所に立てられた碑である。明治39年(1906)に妹により建立された。墓は別に観音寺にある。
 慶応4年(1868)5月26日白坂を警備していた大垣藩士らは奥羽越列藩同盟軍襲撃を受けた。酒井元之丞も応戦したが、胸に被弾して戦死した。
 碑の右側面には妹が詠んだ
 「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びてたつる石ふみ」の歌が刻まれている。

                            白河観光物産協会
 右手の山沿いには「馬頭観音」などの石仏が並んで建っています。この地域は、特に馬頭観音碑が多いことに気づきます。

    
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その7。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-22 21:42:28 | 奥州街道

 山道を下って行くと、いよいよ今回の終点・「芦野宿」も間近になってきます。途中、県道から左に入って旧道を進みます。
    

 右手が開けてきて、羊が何頭かこちらを見てけっこうな勢いで近づいてきます。一瞬、あれ! よかった! 鎖につながれています。


路傍には馬頭観音碑などが。   !? 

右手が県道の橋。

 その先で県道に合流し、さらに国道を越えていきます。途中に芦野氏の居館跡などの案内表示。
    



「国道」

「奈良川」を越えると、「芦野宿」。左手には「川原町地蔵尊」。
    

                         

この先は、桝形になっていて、左折、右折、左折となって宿内に入って行きます。各戸には宿場時代の屋号を記した石灯籠が建っています。
  

宿内は静かで落ち着いた街並み。

桝形を振り返って望む。

 右からの道と合流して宿内に入って行きます。ほぼ直線の道路沿いに建物が続いています。
    

 芦野宿については、主にを参照。

 奥州道中は幕府の命により整備され、これによって、従来の東山道、中世以来の関街道と呼ばれた伊王野谷を通る道は、脇街道となった。
 関ヶ原合戦の後、慶長年間のことである。これにより、芦野は城下町として、また新街道の宿駅として、江戸時代の流通経済の発展に伴い交通の要衝(江戸方面からみれば 関東北端の宿駅であり、東北からすれば、関東の入り口に当たる)として発展した。
 芭蕉の奥の細道をはじめとして、多数の文人墨客がこの地を訪れている。明治になるとこの道は、「陸羽街道」となり、新国道の開通まで国道の機能を果たしていた。

 奥州街道25番目の宿場。人口350人、家数168軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
 (旗本・芦野氏は鎌倉時代からの地頭で、那須七騎の一家としてこの地を治めていた)

「交通網の変遷」。

 この地域は、「奥の細道」(芭蕉)にも大いに関係する土地柄です。また、奥州と言えば、源義経にも・・・。

「奥の細道 那須路」。

宿場の中心付近。

丁子屋(右の建物)。

丁子屋
 旧奥州街道の芦野の旅籠として、江戸時代から300年もの歴史を持つうなぎ料理の老舗。奈良川から水を引いた堀の中にうなぎを放し、自然に限りなく近い形で育てている。20分~30分蒸した後、炭火でじっくりと焼く昔ながらの料理法。身がしまった、見た目よりもさっぱりした味わいが評判となっている。江戸時代から300年守り続けた秘伝の味が自慢のお店。

    
                                              油屋。
 今回の終点「芦野仲町」バス停には、15:40到着。宿内をじっくり探索するのは次回にして、
「芦野仲町」バス停。15:58発のバスでJR「黒田原」駅に。

 「芦野」は鉄道網からは離れていて、最寄りの駅との間には1日4本(午前2本、午後2本)の東野バスが往復するだけです。16:10前に「黒田原」駅到着。16:24発の電車で「黒磯」まで。「黒磯」からは「上野」まで16:39 発、直通の「快速ラビット」で戻ることが出来ました。
 バス停で待っているとき、老人が近づいてきて、話しかけてきます。「丁子屋」の隣にある「那須通信建設」の社長のWさん。
 「時間があれば車で案内してやるよ、遊行柳とか他にもたくさんあるし。」「白河の関とか、車で回ればわけないから。」「こっちもぼけ防止で車の運転をするさ。」「年? 79だよ。」「また今度来るときには案内するから。」と、名刺をくれました。ずいぶんと親切な方です。「だんだん日が短くなるから、気をつけてな。」
 今回、会話をした二人目の方でした。

 すると、一人の青年がバス停に。何でも昨日は西那須野から大田原に行き、今日はここだったそうです。住まいは明石の方とか、彼とはバスの中、さらに駅のホーム、黒磯までの車内までおしゃべり。その後、お別れ。

 車内を見回すと、近くにどうも見たことがある夫婦連れ。男性の方がかつて20年以上も前の職場の同僚らしき雰囲気。この地の地名と同じN氏。同僚時代、よく山に行っていた仲間。が、話しかけようも、ちょっと逡巡している内に、「黒磯」に。
 当方と同じく、お二人も「上野」行きに乗り換え。計算されつくした素振りを見ていると、かつての雰囲気とよく似ている。「快速ラビット」でもたまたま近くに座って観察。向こうは、まったく当方に気づかぬようす。そのうち、大宮に着くと、隣のホームに停まっている電車に急いで乗り換えていきました。何だ、人違いだったか! 
 と、彼らが乗った電車のホームの行き先表示を見ると、「八王子行き」。たしか、かなり前に奥多摩の方に移り住んでいたはず。やはり、元同僚のN氏だった! とそのとき、確信。
 結局、話すじまいでした。残念! 

 今回は、実におもしろい「一人」旅でした。次回は白坂、白河までどう行くか? 
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その6。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-21 18:52:04 | 奥州街道
 元々の奥州街道は「余笹川」を渡った先に残っているようです。そこで、「高柳梨園」の向かい側から旧道に入ります(14:20)。

左手が「余笹川」側。右に続いています。

平成10年の集中豪雨の時の浸水水位。目の高さ以上。

のどかな道筋。蔵造りの建物も。

 (14:24)まもなく県道に合流します。その地点に、蓄魂碑という牛の像が乗っているものや、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。蓄魂碑は昭和60年に地元の畜産関係者が建立したもの。全国各地にあるようです。

    

右の解説板は奥にある「馬頭観音」碑にまつわるものです。

弁慶の足踏み石(馬頭観世音碑)
 馬頭観世音碑の横に、草鞋のような形の大きさのくぼみがある。地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後に、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、奥州平泉へ落ち延びる途中、石田城にて一休みし、さて出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が佩いていた草鞋の形に沈んでしまったとされている。
 後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬
の守り神とするため、ここ石田坂に設置したという。
 馬頭観世音碑は、以前はこの付近の別の場所に建っていたが、平成10年の那須水害の後に、現在の場所に移設された。

                    平成26年3月          鍋掛地域車座談義運営委員会

どこなのかはっきりしませんが。

 (14:28)先に進むと。右手の方からオートバイの爆音が聞こえてきます。我が家の近所でおなじみの「レッドバロン」の絵柄が。



   
 基本のライディングをもう少し練習したいというリターンライダーやビギナーの方のための安全運転講習会、バイクを通じてたくさんのライダーたちとふれあえる、雑誌社・スポンサー主催の走行会や各種イベント。
 そして、公道では体験できないマシン本来のポテンシャルを味わうことのできるスポーツ走行など、那須モータースポーツランドは幅広いライダーの方に、さまざまなかたちでバイクを楽しんでいただけるプログラムを展開してまいります。
                                               (HPより)

のどかな田園風景。

 (14:45)路傍にはかなり古びた「馬頭観音」「二十三夜塔」などが点在しています。
    

 「石田坂」を下ると、黒川地区に入ります。
    

 旧道は「黒川」の手前で、県道からまっすぐ細い道を進み、黒川を渡っていましたが、今は、橋は少し上流になり、道は土手にぶつかります。左折して現在の「黒川橋」を渡ることになります。

    

(15:00)橋のところに集中豪雨時の氾濫水位が示されています。橋桁を越える勢いだったようです。

かつて橋のあった付近を望む。黒川地区。

 「黒川」を渡った旧道はまっすぐ続いていたようですが、現在の改修された県道は大きくU字型になり、遠回りになっています。右手の道路脇に大きな岩があります。「夫婦石」。
    

 現在の県道は大きく迂回、拡幅・工事がされたようで、かつては旧道・田んぼの右手にこの「夫婦石」があったようですが、今は、すぐ目につく所にあります(15:08)。

民話◆夫婦石(みょうといし)

 ここは奥州街道のとおる、芦野からすこしはなれた、とても小さな村です。
 ここに、人間にばけるという、ヘビの夫婦がいました。
 ヘビ夫婦は、いろいろな人間にばけていました。いまは百姓夫婦にばけました。
 「ねえ、おまえさん、百姓にばけたのはいいけど、百姓の道具がぜんぜんないよ」
 「どっからか、かりてこよう」
 夫婦は、近くの家にかりにいきました。
 「すンませんが百姓道具を貸してくれませんか」
 「あぁ、いいよ」
 うまく、夫婦は百姓道具をかりてきて、それから毎日いっしょうけんめい、働きました。そばを通りかかる人はみんな、声をかけていきました。
 「やァ、ごせえが出るネ」
 「まったくだ。まったくだ。あんたらこの村じゃ、いちばんの働きもンだがな」
 「いやぁー」
 夫婦は村でとても人気者になりました。ところがあるばん、きょうあったことなどをはなしているうちに、なにがおもしろかったのか、ふたりで、ゲラゲラわらいだしました。
 「わっはっは」
 「おっほっほ」
 すると、夫婦とももとのヘビにもどってしまいました。あまりわらいすぎると、もとのすがたになってしまうのです。夫婦は、こっそり村をでて、1里(4キロメートル)ほどはなれた山の中のほらあなににげていきました。
 そのころ、村ではふたりがいなくなったので、心配していました。ヘビ夫婦は、また人間にばけようと話をしていました。
 「ねぇ、おまえさん、こんどはどんな人にばけるかねぇ」
 「そうだな、くすり売りにでもばけてやるか」
 こうして、くすり売りにばけ、村にいきました。そしてまた、村に住みついて、くすり売りをはじめました。
 夫婦は、またこの村の人気者になりました。というのは、貧しい人びとにはくすりをただであげていたのです。この村にすみついてからちょうど2週間たって、つい、あることからわらいがとまらなくなってしまいました。それでまたヘビのすがたにもどってしまいました。しかたないのでまた、山のほらあなににげていきました。
 ほらあなの中で、ヘビ夫婦はまた、なににばけようかとそうだんしました。いろいろはなしあい、かんがえた末、海から魚や海草を買い入れてきて売ることにしました。
 そこで夫婦は、魚や海草を買い入れて、また村にいきました。村では、魚や海草などめずらしいため、みんなよってきました。それに安かったので、よろこんで買ってくれました。
 こうして、村人にもすっかりなれたというときに、また、わらいがとまらなくなり、もとのヘビのすがたになってしまいました。ところが、ヘビのすがたにもどるところを、こんどはとおりかかった村人にみられてしまいました。村人は、
 「これはたいへんだ。みんなにおしえなければ」とびっくりして逃げていきました。そして村にいき、みんなにはなしました。するとひとりが、
 「土ンなかにうめたらどうだんべか」
 「うんだ、うんだ」
 と、はなしの結果、ヘビ夫婦を土の中にうめてしまいました。
 ところが、ヘビをうめたところに、いつのまにか2つに石ができていました。1つは大きく、1つはそれよりもやや小さいのでした。村人はみな、ふしぎがりました。
 うめられたヘビ夫婦がうらんで石になって出てきたのではないかと考えました。それからというもの、村人は石のそばをとおるのをさけ、きみわるがりました。
 こんな出来事があって1ケ月すぎたある夜、石のところから子どもの泣き声がきこえるのでした。毎晩、泣き声はきこえました。村人はきみわるくなりました。それでこうして村の人全部があつまって話し合いをしているのです。
 「どうすべか。このままじゃ、きみわるくて夜なんか、ねらんねべな」
 「うんだ、うんだ」
 「どうだべか、芦野から坊さまをよんで、お経でもあげてもらうべか」
 「うんだ、そうすべ」
 ということになって、芦野の宿へお坊さんをよびにいきました。そしてお坊さんにお経をよんでもらいました。
 それからは子どもの泣きごえもきこえなくなりました。しかしまた、小さな石ができたそうです。
 それでも村は平和になりました。

 現在、夫婦石という集落があり、ここに、その石がいまでも実在する。「みよといし」の方面へお越しの際はぜひご覧ください。
 大きな石と小さな方の石が、よるになるとくっついてしまうという話もある。

(「」HPより)

旧道らしき道。県道の左手。

(15:14)しばらく進むと、右手前方に「夫婦石の一里塚」。

    

夫婦石の一里塚
 一里塚は中国に例があり、日本では織田信長が天正元年(1572)に38町を一里(4㎞)として塚を築かせたといわれています。さらに江戸幕府は慶長9年(1604)2月大名たちに東海・甲州・中山の各街道の整備と共に一里塚を築かせました。同年5月には同じく将軍徳川家康の命令により奥州街道の整備が進められ、三代将軍家光の代にはほぼ完成したとのことです。その後、この街道の両側にも一里塚が築かれました。
 夫婦石の一里塚は、本町の最も南にあり、江戸日本橋より43里(172㎞)目の塚です。一里塚は、旅人にとって旅程の目標となり、時には憩いや休息の場としても利用されました。那須町には、この一里塚の次に、44里目の『板屋の一里塚』、45里目の『泉田の一里塚』があります。この奥州街道は、江戸時代の主要な街道=五街道のひとつとして参勤交代の大名とその家臣たちの通行をはじめ多くの旅人の往来、物資の輸送路として大きな役割を果たしました。

                                          那須町教育委員会
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その5。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-20 22:53:18 | 奥州街道
 「那珂川」を渡って、すぐ左にまがると、「越堀宿」となります。「鍋掛宿」とは、約800㍍離れているだけです。

越堀宿(こえぼりじゅく)
 宇都宮追分から14里5町2間(55.5㎞)、白河宿まで7里13町17間半(28.9㎞)
 宿内人数 569人、宿内惣家数 113軒(本陣1、脇本陣1、旅籠11)。奥州道中ではかなり遅く出来た宿場で、正保3年(1646)開設。

閑散とした宿内のようす。

「越堀」バス停。この路線は予約制で事前に予約しないとダメ。

宿はすぐに終わってしまい、前方の道は枡形になっています。

振り返って望む。時たま車が通過。

右手に浄泉寺があり、境内には黒羽領境界石がありますが、省略。

越堀宿」解説板。

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌9年、奥州街道が整備された。
 以後、幕府のご機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた。
 伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急遽、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向かった。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野村の藤田和泉重統である。
 宿場の形成は彼がその仮屋を払い請け、堅牢に建て替えたことに始まる。
 越堀の地名は、波が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。参勤交代の制度確立と共に、大名行列、麹米その他の物資の輸送、商人、旅人の往来当で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった。

 平成26年5月 鍋掛地域車座談義運営委員会
  

「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」

 鍋掛村役場跡
 黒磯町鍋掛支所跡
 黒磯市老人憩の家鍋掛荘跡

     越堀自治公民館建設記念

宿内を振り返って望む。

 右手の民家の庭先に大きな石碑「征馬之碑」と「殉従軍馬之碑」が建っています。


 (13:21)その先に越堀宿坂本屋の石碑と、新しい道標(石碑)が一段高い所に据えられている。
    

奥州街道
 右 これより江戸四十里
 左 これより白河宿七里
     平成十七年ニ月吉日 鈴木金弥



 「越堀宿」が終わると、街道は右にカーブして上り坂になります。この右カーブする所を左に分かれて行くのが『奥の細道』らしい。
 しばらく進むとその途中の左側崖上に高久靄崖の墓があるとのことですが、その標柱を見逃しました。

山道を進みます。

振り返って望む。

 (13:31)杉渡戸(すぎわたど)という集落に入っていきます。

「杉渡戸公民館」前に「伊勢大神宮遥拝碑」が建っています。

(13:38)こちらは、大きな「馬頭観音碑」。

これは現代の「一里塚」。単なる盛り土ですが。

 また山道になります。車も通らず、人にも遭わず・・・。
    

 やがて地図上では「富士見峠」に差し掛かりますが、どこかはっきりしないまま、峠を下っていくと、「寺子」という集落になります。

    

「寺子十文字」バス停。
 この辺りでは「十字路」(交差点)を「・・十文字」というようです。ここまでにもいくつかこういう表示を見ました。

 (13:58)「寺子十文字」手前右側の「寺子一里塚公園」があります。

    

寺子の一里塚(史跡)   管理者 寺子行政区
 一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
 ここ寺子の一里塚は、奥州街道42番目のもので、江戸より42里(約165キロメートル)の距離を示す塚である。
 一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 鍋掛の一里塚が慶長9年甲辰(1604)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
 最初の一里塚は、現在地から約50メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
 現在の塚は、平成7年3月に復元されたものである。
                                   平成7年3月吉日 那須塩原市教育委員会

    

富士見峠の馬頭観世音
 馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と、旅人の交通の安全を祈り道標として建てられた石仏である。
 安永4年(1775)12月寺子村を施主村として、寺子組25ヶ村のうち14ヶ村が協力して碑を建立したようである。
 地元の古老の話では、かって奥州街道富士見峠には2~3軒の茶屋があり、行き交う旅人の休息地であったという。
 この馬頭観世音も峠の頂上付近に建てられていたが、保存のため街道景観形成事業により現在地に移された。
                       平成8年丙子3月 那須塩原市

 公園内の東屋で休んでいる自転車の方に会いました。地元(那須)の方で、今日はこの辺りを90㎞ほど走ったそうで、これから帰宅するとのことです。60代後半で実にお元気な方。今回、初めて人と会話しました。後1時間20分くらいで「芦野宿」には着きますよ、とスマフォで検索してくれました。
 さて、もう少しです。御礼を言って出発します。

            

 (14:19)「寺子交差点」を渡って少し下った右側に会三寺があります。すぐ先の「余笹川」に架かる「寺子橋」を渡っていきます。



 その橋の手前右側には余笹川見晴らし公園があります。

 平成10年8月、余笹川流域では、台風4号に刺激され活性化した前線の活動で、二日間で総雨量1,340mmという豪雨を記録し、大洪水が発生、この大雨による被害は、黒磯市や那須町などの栃木県北部を中心に広範囲に及び、県内の死者は5名、行方不明者2名、床上または床下まで水に浸かった家屋は2,846棟に上り、住民5,500名以上が避難しました。特に余笹川では、洪水流により数時間で流路幅が3倍から5倍に広がり、河岸の8割以上が決壊しました。
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