(12:07)交差点の右の角に新しくて大きな道標があります。
道標(複製)
建立年 嘉永2年(1849)
高さ 2.05㍍
本町にある奥州街道と棚倉・石川方面の街道が交わる交差点、通称「四ツ辻」に建てられていた石造の道標です。
白河城下を東西に走る奥州街道はここから北に方向を変え、城下を出た女石の追分で会津街道と分岐し、桑折宿(福島県桑折町)では羽州街道と分岐して仙台方面に向かいました。
この道標は江戸時代後期の嘉永2年に建てられたもので、北側・西側・南側の3面に文字が彫られています。奥州街道を下る場合に目にするのは、西側に彫られている文字、上ってきて四辻に達したときにに目にするのは、北側に彫られている文字です。
せんだい あいづ
(西側)左 で八(出羽) ゑちご(越後)
右 日光 江戸
(北側)
左 たなくら い八き(いわき) 水戸
(南側)嘉永二年己酉四月
コーナーには「奥州街道と白河城下」解説板。
いよいよ最終コーナー。
左折して「「横町」に入り、「田町大橋」で「阿武隈川」を渡ります。その先が「女石追分」。
「横町」。
本町の四辻から北に直角に折れる奥州街道に沿って南北に延びる町です。小峰城の東側に接し、町の北端には三の丸に入る「横町門」があり、東側には藩の家臣が住む「番士小路」がありました。
町名の由来は分かっていませんが、大手(追手)門のある城の正面に対して、その横にある町という意味とも推測されます。
「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は112軒とあります。
白河市
「白河だるま」のお店。
(12:13)JR東北本線のガードをくぐります。「陸羽街道」とあります。
左手に「応急仮設住宅団地 双葉町」の表示。
「田町」。
北側を流れる阿武隈川と接するのが田町です。江戸時代中頃まで、阿武隈川は歩いて渡っており、橋が初めて作られたのは元禄2年(1689)のことと伝わります。
会津・仙台方面からの入口で、町の北端には城下の入口を示す大木戸が置かれていました。また、大木戸の外側には享和3年(1803)の洪水で失われた「河原町」がありました。
町の中央付近に城内に入る「田町門」があり、三之丸の北小路と通じていました。
「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は131軒とあります。
白河市
(12:19)「田町大橋」。「阿武隈川」を渡ります。
阿武隈川(あぶくまがわ)
福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で、一級河川。水系としての流路延長239kmは、東北で北上川に次ぐ長さの川。古くは大隈川と呼ばれていた。
那須岳の1つ三本槍岳のすぐ北に位置する福島県西白河郡西郷村の甲子旭岳に源を発し東へ流れる。白河市に入り西白河郡中島村付近で北に流れを変えると、須賀川市・郡山市・福島市と福島県中通りを縦貫して北に流れる。
福島県と宮城県の境界付近では、阿武隈高地の渓谷を抜ける。この区間を並走する国道349号は、待避所のある1車線の険しい道路となっている。宮城県伊具郡丸森町で角田盆地に入り、角田市を流れて仙台平野に出る。現在は岩沼市と亘理町の境で太平洋に注ぐが、古代の旧河口は現在の鳥の海である。
勾配がゆるやかな川で穏やかな印象があるが、増水時にはあふれやすく洪水被害の絶えない暴れ川でもある。1986年には台風による増水で大規模な洪水が起こっているほか、2011年には津波の逆流により大規模な海嘯が発生している。
(以上、「Wikipedia」参照)
遠く那須岳一帯を望む。
(12:30)しばらく集落の中を進み、坂を越えると、「女石」に達します。
女石の追分。
「奥州街道」と「会津街道」との追分の手前、左手高台に戊辰戦争で戦死した仙台藩士の戊辰戦歿之碑(中央の石柱)が建っています。
「戦死供養塔」と解説板。
仙台藩士戊辰戦歿之碑
かつて会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点であったここ女石の地にあるこの碑は、明治23年(1890)、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。
なお、この碑の傍らの「戦死供養塔」は、白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓で、明治2年(1869)の建立である。
白河観光物産協会
「仙台藩からす組の旗」。
そこから「追分」を望む。右が「奥州街道」、左が「会津街道」。
奥州街道。 会津街道(「国道294号線」)。その先は「国道4号線」との交差点。
左手にある解説板。
ちょっと足を伸ばして、「国道4号線」との合流地点まで。
「国道4号線」(郡山方向)。
(12:40)左手にある「コンビニ」で昼食を食べながら、休憩。
幕府管轄の「奥州街道」は、「女石の追分」まででした。「追分」から来た道(「奥羽街道」)を振り返って望む。
(「今昔マップ」より)
○が女石の追分。右手に旧奥州街道が続きます。上の道が国道4号線。
今回の旅もここで終了。JR白河駅まで戻ります。ほとんど寄り道をしなかったせいか、時間も距離も短く済みました。
(13:18)白河駅構内。
ホームから望む「小峰城」。
芭蕉が訪れた「白河の関」は訪れることはできませんでしたが、「奥の細道」の一節を。
心許(もと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便(り)求めしも断(ことは)り也。中にも此(の)関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶(ほ)あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲(き)そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良
当時、「白河の関」は、旧奥州街道(国道294号線)よりももっと東側の道を進んだところにありました。現在、旧跡「白河の関」として残されています。今回で「奥州街道」歩きの一区切りとします。松尾芭蕉と曽良は、もっともっと北上し、奥州から日本海側に歩みを進めていきました。
中断している「中山道」歩きは、来春にでも再開することにして、このかんに「甲州街道」歩きにチャレンジしてみようかとも思っていますが・・・。