おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

42 「青砥駅」・幻の線路跡?

2009-04-30 18:31:59 | つぶやき
 京成電車が京成本線(上野線)「お花茶屋」駅から「青砥」駅に向かうとき、かなり急カーブとなって青砥駅に到着します。そこには、あまり知られていない歴史があったようです。(今となっては真偽の程は確かではありませんが。)
 青砥駅は、1928(昭和3)年、日暮里 - 青砥間開通時に、押上線との分岐駅として開業し、1931(昭和6)年、日暮里~青砥間が本営業を開始しました。実は、それまで、立石駅(押上線)~高砂駅間に、駅は設置されていませんでした。
 もともと、京成電鉄は、1909(明治42)年、「京成電気軌道」として創立されました。古くから参詣者を集めていた、成田山新勝寺への参拝へ、東京から向かうための鉄道事業(具体的には押上~千葉~成田間の電気鉄道)でした。そのために、「京成(東京~成田)」と社名を命名しました。
 1912(大正元)年には、帝釈天(今では「寅さん」で有名な)へ向かう「帝釈人車軌道」(線路上の車を人間が引いて走る?)を買収、本格的な鉄道事業を始めます(今のJR金町駅から柴又駅まで)。
 次第に東へ東へと線路敷設工事が進捗して、1921(大正10)年には押上から千葉まで全通します。さらに、1930(昭和5)年、押上~成田間が全通します。こうして、本来の目的が完成しました。
 しかし、当時、押上は、都心に行くには大変不便な位置にあるため、京成は、当初からの狙いである、押上から隅田川の向こうにある浅草まで、線路を延ばす画策をします。けれど、政財界を巻き込む「疑獄事件」を起こして、東武鉄道にその権利を取られてしまいます(東武鉄道は浅草まで乗り入れ。)。
 そこで、鉄道敷設の権利を持っていた他の鉄道会社を買収して、権利を得て、上野・日暮里から高砂までの路線を敷設し、都心まで乗り入れることになりました。
 この計画が持ち上がった時、葛飾区青戸町の南地域には駅はありませんでした。土地の古老の話ですと、今の東立病院辺り(現在の青砥駅の少し南西側)に、臨時停留所みたいなものがあって、電車が来ると、手を挙げて停めて貰ったとか。
 もともとは、京成としては、お花茶屋駅(ことによると、一つ日暮里寄りの「堀切菖蒲園」駅)から直接高砂駅までの線路を接続して、高砂を押上線との分岐駅にする計画だった。
 そこで、今の青砥駅付近の地主が立ち上がり、自分の土地を提供して青砥駅を新設することを要請した、その結果、青砥駅が出来たということです。
 1931(昭和6)年青砥~日暮里間開業。1933(昭和8)年、日暮里~上野公園(現・京成上野)間が開業し、上野から成田まで貫通しました。
 話は、余談ですが、来年・2010(平成22)年4月には、今の北総鉄道(高砂~日医大)が成田空港まで延長され、「成田新高速鉄道線」として、開業となります。同時に新型スカイライナーの投入によって、大手私鉄では最高速度となる160km/h運転を実施する予定です。40分くらいで、日暮里~成田空港間を結ぶとか。そのために将来的には、上野線を全線高架化することになるようです。
 こう見てくると、直進で進む押上線に比べて、青砥駅から分岐する上野線(京成本線)は、かなりきついカーブになっていて、たしかに不自然な感じがしないわけでもありません。また、青砥・高砂と二駅続いて、押上線と上野線の分岐駅があるのも不必要な感じがしますが。
 写真は、お花茶屋駅付近から続く直線道路で(今は、水戸街道で分断されていますが)、高砂橋を通って、高砂駅まで至る道筋です。もしかしたら、この道路が幻の鉄道線の跡なのかもしれません。右手が、青戸公団住宅です。
 もし、そうだとしたら、青戸の現在も、ずいぶん違った発展の仕方があったかもしれません。青砥駅設置のもっと詳しい事情が知りたいものです。
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39 猿江恩賜公園、木場の跡

2009-04-27 22:03:48 | つぶやき
 隅田川以東の掘り割りには、どこも材木が浮かんでいた。昭和30年代のことである。
 gooの航空写真。1947(昭和22)年では、戦災の爪痕も生々しく、大きな建物はほとんどなく、空き地の状態。運河も木材一つ浮かんでいない。
 ところが、1963(昭和38)年の航空写真を見ると、縦横に走る川には、木材がぎっしり浮かんでいる。戦後の復興期を象徴するかのよう。
 建設ラッシュが、もうすでに始まっていた。全国から材木が集められ、大横川、北十間川、横十間川、竪川・・・、どこの運河にもたくさんの材木が係留されている。その集積地・貯木場が「木場」。現在、木場公園となっている所は、かなり大きな貯木場。材木屋さんも沿岸に軒を並べていた。写真を見ても、びっしり材木が浮かんでいる。
 錦糸町駅の北側にも、大きな貯木場があった。また、運河を利用して運ばれた貯木場が他にも。そのうちの一つが、今の猿江恩賜公園にあたる地域。横十間川を利用して運ばれてきた材木の集積場。
 ここの歴史は古く、1733年、江戸幕府公認の貯木場として開かれた。
 その後、明治政府御用達の貯木場になり、1932(昭和7)年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念して、猿江貯木場の一部を東京市に下賜(現在の南園部分)され、「猿江恩賜公園」として開園した。昔から貴重な緑地として周辺住民には知られていた。
 公園の北側の地区は、その後も貯木場として使用されていたが、1972(昭和47)年に廃止され、江東区潮見に移転(新木場)、約250年にわたった猿江貯木場の歴史を閉じた。
 その後、東京都が買収して、1981(昭和56)年に追加開園された。
 かつての木場のように、水面のある環境を残すために、造った「ミニ木蔵」が公園の南側、新大橋通りと横十間川との間にある。
池の周囲の護岸として使われている石は、材木を長い間貯蔵するときの重しとして使われていたものとのこと。
 写真は、その「ミニ木蔵」の一部。これでは、当時の、貯木場の面影を偲ぶことはできないだろうが。

             
             

1970年代のようす。まだ木場の機能を有しています。        2010年代のようす。すっかり様変わり。
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34 押上駅前、トロリーバス

2009-04-22 22:48:59 | つぶやき
 かつて都内にもトロリーバスという乗り物がありました。このへんでは、今井(江戸川区)~亀戸~押上~上野公園間を走っていました。
 トロリー・バスは、道路上に架線を敷設するだけなので、新時代の交通機関として期待されたこともあったようですが、交通渋滞や大型バスの出現により、採算が合わなくなり、都電よりも早くなくなり、最後、1968(昭和43)年9月30日 今井 - 上野公園間が廃止となって、東京の街からはすっかり姿を消しました。
今は、黒部ダムのトンネル内を走っているくらい?)。
 以下、「Wikipedia」を参考にまとめました。
 トロリーバスは、道路上の架線から、棹状の集電装置(トロリーポール)を用いて集電して電気モーターを回し、動力としています。このトロリーポールの先端には、架線に接して電気を伝えるための滑車が付いています。この滑車をトロリーホイールといい、このトロリー(ホイール)が付いているので「トロリーバス」と呼ばれました。
 タイヤは普通の自動車と同じゴムタイヤ。外観も屋根上のトロリーポール以外は普通のバスとほぼ同じ。動力源は電車に近いですが、電車と違って線路にアースさせる事が出来ないため、2本のトロリーポールをそれぞれ並行する架線に当てています。
 カーブを曲がる時などに速度を出しすぎたり、急カーブを切ろうとすると、しばしトロリーポールが架線から外れてしまうことがあり、その場合は一旦車両を停止させ、運転士が車両の後ろに回り、トロリーポールのケーブルを引っぱって、架線にトロリーポールを引っ掛け直す必要がありました。
 なお、最近では部分的に架線を取り付けることのできない区間(踏切など)を走行する時や離線した時、交通の妨げにならない場所まで車両を移動する時、道路工事や災害等で本来の路線の道路が通行止めになった時などの為に、補助エンジンやバッテリーを搭載している車両が、主流になっているようです。かつては、車両の絶縁が不十分であったことから、しばしば漏電を起こして、乗客や運転士が感電することがあったといいます。
 トロリーバスは、軌道が必要ないため、①建設費用やメンテナンス費用が削減され、ある程度の障害物も避けることができる。②通常のバスと違い、電気を動力とするため排気ガスやエンジンの騒音がなく、環境に与える影響は非常に小さい
という特長を持っています。
 長所も多いトロリーバスですが、①架線が必要なため沿線の美観を損ねる。②トロリーポールが届かない場所や架線のない道路へは行くことが出来ず、一般のバスのような自由がない。③路面電車のように、3両以上連結しての走行はできないため、輸送量にも限界がある。④路面電車と同様、走行路線上は他の車より優先するため、交通量の多い道路や幅の狭い道路では渋滞を招く。
 そのような理由のため、日本では性能の良いディーゼルエンジンを持った大型バスの出現と共に消えていきました。
 ただし、日本以外の国では、排気ガスや騒音対策に有効とされ、多くの町でトロリーバスが運行されています。トロリーバスの欠点である「架線のない道路へは行くことができない」という点は、ディーゼル発電機を用いたハイブリッド形や蓄電池併用型の車両を採用することにより、かなりの距離を架線なしで運行できるようになっています。
 中華人民共和国では、北京市のトロリーバスのように、王府井の繁華街の景観対策や長安街の横断対策(建国記念日である国慶節の際、節目の年には長安街で大規模な軍事パレードがあるため、架線が張れない)に役立っています。
 トロリーバスもまだまだ元気に活躍しているようですね。
 写真は、トロリーバスの路線があった、押上駅付近のようす。トロリーバスは、浅草通りを東に向かい、亀戸を経由して今井まで走っていました。

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31 アサヒビール吾妻橋工場、フラムドール

2009-04-19 21:06:59 | つぶやき

 本所吾妻橋。橋のたもと。「フラムドール」。通称「う○こ」。屋上に金色に輝く。本当は、炎をイメージしたらしいですが、今や特異な形で、世界に知れわたっているとか。そういえば、建物全体が窓もなく黒く、聖火台のように見えなくもありません。
 かつてここには、アサヒビールの工場がありました。そして、通りに面して、ビアホールがあり、工場から直に出してくれるおいしい生ビールが飲めました。
 けっこう人が入れる大きなフロアが二階にあって、どういういきさつだったか、貸し切りでやった、友人の結婚披露宴に出席したこともありました。当時、近所にはしゃれたホテルもなく〈「浅草ビューホテル」(浅草国際通り・浅草国際劇場跡)なんかずっと後に出来ました〉、こういうところが、安上がりで重宝されていたのです。
 その後、工場はなくなり、かなり広い敷地が売却されました。その後に、しゃれた建物と大きなマンションが出来ました。「フラムドール」の4階にだか、ワンフロアの多目的ホールも作られ、演劇などに利用されています。中は、船の中にいるような雰囲気で、おもしろい内部構造の店です。
 また、その隣には、アサヒビールの本社の高層ビルがあります。このビルも全体が金色の色調で、屋上は、ビールの泡をモチーフにしてあるという、ビールジョッキのイメージをもつ、実に変わった建物です。
 その北側には、墨田区役所の高層ビルがあります。区役所の最寄りの駅は、墨田区内では、「本所吾妻橋」駅ですが、たぶん一番近いのは、台東区にある「浅草」駅、という変わった場所にあります。ここの1階には、小ホールが今もあるはずです。
 写真は、闇の中に浮かび上がる金色の「う○こ」型モニュメント。

〔宣伝文句〕
「スーパードライホール」は、フランス人デザイナー、フィリップ・スタルクによるもの。「炎」のオブジェは躍進するアサヒビールの心の象徴です。こちらは1階~3階がレストラン、4階はイベントホール「アサヒ・アートスクエア」となっています。
また敷地内には、ビアカフェ、ブラッセリー、メインダイニング、バーラウンジの異なる4つの店舗からなるアサヒビール アネックスも併設しています。こちらでは全店で、アネックスビルの2F/3Fにて仕込・醸造されたハンドクラフトビールの「ヴァイツェン」や「スタウトビール・DST」をお楽しみいただけます。
                                   
 ちなみに、アサヒビールが売りに出してその後、本社ビルを建てるために買い戻した時には、売ったときの何倍ものお金がかかったそうです。まさにバブルの時代であったわけです。

1970年代のようす。アサヒビールの工場。

2010年代のようす。この一画以外はあまり変わらず。

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30 『ワルツ』(花村萬月 作)の舞台、新宿

2009-04-18 21:25:22 | つぶやき
 新宿西口。敗戦直後の街。闇の世界。国家権力の中枢が崩壊した混乱期。生き抜かなければならない人々。その混沌を仕切る(仕切ろうとする)人々。組織、集団。 戦争の傷跡も生々しい新宿。食うためには(食わせるためには)どんなことでも実行する強靱な生命力、忍耐力、掌握力。暗躍、裏切り、荒廃、虚無そして暴力・・・。ダイナミックに変化する街を、舞台にした物語。やくざの世界、任侠の世界。切った、張ったといってしまえば、それまで。けれども、そこには、敗戦直後に必死にうごめいていた、日本人の精神と肉体の闘いそのものを感じさせる。実によく当時のことを調べてあって、かなりの長編小説だったが、一気に読み通した。
 この作品は、これまで培ってきた作者独特のこだわりみたいなを感じさせるものがある。その中身とは、人間は、その生きる地、人、世界の中で生きていくしかない、ということでしょうか。
 登場人物は、はっきり言ってステレオタイプの人物が多い。また、話の展開もほぼ予想通り。その点では、鉄火場の場面、襲撃の場面、殺人・・・。そうしたこともさることながら、人間関係の細部のこだわりのところに、この作品のおもしろさがあるのだろう。
 実は、興味深かったのは、そういうことだけではない。上・中・下巻を通して、ある組織の名前が出て来ることだった。「安田組」。子どものころ、無縁の存在ではなかったからだ。すごみのきいた親分の面影。組の若い衆に連れられて、西口のマーケットも歩いたことがある。日本刀を手に持って飛び出す、組員の姿も目撃したことがあった。
 たしか今の新宿駅西口・(青梅街道)大通りのガードの角にあったと思う。その後、そこが、どうなったかは全く知らない。裏には、竹問屋みたいなものがあったような・・・。どういういきさつで関係していたかは、伏せておく。
 この作品は、まったくのフィクションの体裁をとっていて、たしかにそのような気がする。そうした中で、この組名だけが実際にあったものだった。不思議ではある。
 今の新宿。戦後64年。すっかりこぎれいになり、雑踏の街並みの中で、敗戦後の坩堝の喧噪がすっかり忘れさられ、赤裸々な人間模様は、ますます奥深く見えにくくなっている。
 写真は、新宿駅西口付近から青梅街道をのぞんだもの。正面のあたりに組の大きな事務所があった。右手のビルの裏側が「思い出横町」。
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29 スカイツリー(続)

2009-04-17 07:55:19 | つぶやき
 久々に東武線で浅草まで出かけました。一つ手前の駅、業平橋のホームから撮ったスカイツリー工事現場。入線してきたのが、スペーシア。浅草から東武日光駅までの特急電車。
 外国人にも人気の日光。その出発駅近くに、600㍍以上の世界一のタワーができる。タワー本体の工事もさることながら、付帯施設の建設も急ピッチ。写真は、その工事部分。さまざまなお店が入るのだろうか。
 完成すれば、観光客もかなり訪れ、経済効果はそうとう高いと試算されている。浅草観音様とセットで売り出す予定?さらには、スペーシアで、日光東照宮、日光江戸村、鬼怒川温泉までの旅へと。
 ついでに、吾妻橋のたもとにある、世界に名高い金色に輝くう○こビル。アサヒの経営で、これも評判はよろしいようで。タワーから浅草まで、隅田川までのそぞろ歩きコース。まさに一大観光地(といっても、テンでしか観光資源はない)が出現する、とのもくろみ。まずは、タワーそのもので、集客作戦。
 東京タワーが完成して、しばらくした小さい頃に、親に連れられて行った記憶がある。たぶんその時が一回かぎり。けれども、次々と一回限りでも観光客が来てくれれば言いわけですね。東京タワーは、日本が戦後の復興期を乗り越えて、高度経済成長時代に入ろうかという夢も希望もまだまだあった時期。さて今は、世界的な大不況と厳しい生活、夢も希望もなくなりつつある時代。だからこそ、起死回生の目玉がこの計画。
 これに、オリンピックの誘致が決定すれば、隅田川から東は、明るい展望が生まれてくる。最初はバカにし反対だったイシハラさんも、今は、表だって意見を言わない。オリンピックのみ。・・・
 建設目的が、電波のためだが、観光・町おこしでもあるよう。せめて、その二次的な目的が、第一義にならぬよう。て、最初からそっちのほうが主目的だったのだが、東武および墨田区は、と思う。
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28 東京スカイツリー

2009-04-16 20:51:59 | つぶやき
 北十間川の北側、東武鉄道の敷地内で610㍍タワーが建設中です。完成すれば、その時点では鉄塔としては世界一、建築物としても世界第2位。
 下町復興のシンボルタワーにすべく、墨田区も一体となっての大事業が始まったわけです。東武本社、その裏手の鉄道敷地、さらに大きなセメント工場を移転させて広大な敷地となりました。東武本社は、少し線路に沿った北側に大きなビルを建築中です。
 最近、朝日新聞が大々的に何度か紹介したせいでしょうか、このところ、お天気にも誘われて、見物客が増えているような感じです。佳境に入った工事現場を、どぶ川をはさんで、フェンス越しに眺めたり、写真(携帯、デジカメ、高級なカメラ)やビデオを撮っています。なかには、人様のビルの非常階段に上がっている人も。行きずりの見知らぬ人と工事の様子を見ながら、不思議と会話がはずみます。札幌や名古屋の電波塔の話、パリのエッフェル塔・・・、そして、東京タワー。下町の町おこしと庶民の心おこしには、確実に寄与しています。
 たしかに、この地域。大きな建物やマンション、工場もなく、それほど交通量も多くない、広々とした浅草通りの両側に、ぽつんぽつんと散在している商店。三つ目通りが交差する「本所吾妻橋」(都営浅草線)駅周辺の商店街、これといった華やかさ、賑わしさのまったく感じられない町並みです。曳舟川通りも、言問通りも同様、お寺と倉庫があるくらい。
 そんな街に巨大なツリーが誕生するのですから、これから地元の生活、環境がどう変化するのか、皆目、見当も付きません。「三丁目の夕日」の世界がまだ残っているような風情の街の大変化。
 そういえば、最初に映画化された「ALWAYS 三丁目の夕日」は、建設中の東京タワーの足元の街が舞台でした。1958(昭和33)年の頃。舗装された広い通りのまん中には都電が走り、まだまだ車の数も少なく、ちょっと路地裏に入ると、狭い生活空間の中での、人情あふれる生活が描かれていました。
 失われた郷愁。街と自然と生活と人間達・・・。懐かしさ、温かさ、そこには、高度経済成長期にさしかかり、うごめく日本人の姿があったわけです。
 ところが今や、東京タワーの周辺は高層ビルが建ち並び、タワーもかすむほど。地面に足をつけた、人々の暮らしはほとんどなくなって、芝公園と増上寺とが何とか昔の雰囲気を保っているくらい。そして、世界の経済は、とてつもなく破綻してしまった。
 こういう暗澹たる状況の中で、下町に夢と希望を与えるのか。「スカイツリー」、クリスマスツリーのように大人にも子どもにも、ささやかな幸せを運んでくれるのか、それとも・・・。
 今のクリスマスが、商魂たくましいイベントと化し、「ツリー」もささやかに家に飾るモノではなくて、人目を引きつけるモノとなってしまっています。

 写真は、もとあった大きな二つの「セメント工場」(「東京エスオーシー」「日立コンクリート」、・・・)がすっかり整地され、その向こうに工事現場をのぞんだもの。はるか遠く中央奥にかすかに見えるのは、アサヒビール本社ビル。左は、高層住宅。右手の奥に、墨田区役所の高層ビルがある。

 東京エスオーシー(「住友大阪セメント」の直系生コンメーカー)の業平橋工場は、日本初の生コン工場として1949(昭和24)年に操業し、主に大型建築物へのコンクリートを供給していましたが、2007(平成19)年10月に操業休止。同じように、製造・販売していた日立コンクリートも、ほぼ同時に操業をやめました。
 ここは、見上げるような大きな設備と、ひっきりなしにミキサー車が出入し、いつもほこりでもうもうとしているような地域でした。
 「セメント工場」の原料である石灰岩は、日本では数少ない100%の自給率の資源です。まさに、建築の基本を支えていた産業資本をあえて他に移転させ、その後に、地元資本ではなく、大企業進出。周辺を一大観光地化するために立ち退き、地上げ・・・、だとしたら。
 ショッピング街には、地元の店では高額なテナント料を、とうてい払うこともできず、大型チェーン店が軒並み進出してくるでしょう。そうなると、東京タワーの二の舞にはなりはしないでしょうか。
 そう思うと、一部の大資本の思惑に気がついたら絡め取られてしまわないよう、墨田区は、行政の責任として、地元の人々、都民・区民の願いをきちんと受け止めてほしいと思います。
 なにしろ、地デジ化は、アメリカでも延期される中で、日本はどうしてこうも必死になって、税金をたくさん使って推進しているのか、と思っていますので。
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23 用水路と肥溜めと

2009-04-11 09:10:36 | つぶやき
 子どもの頃、まだ葛飾区の中央部あたりでも、国鉄や京成電車の駅の周辺を除いてはほとんどが田んぼでした。田んぼの中にあぜ道が続く風景。今の環七と中川との間の地域には農家が多くありました。その西側は、一面田んぼでした。田植えから稲刈りまで春から秋までまさに農村風景でした。黄金の秋には、刈り取った稲干しの棚がずらっと並び、干し草の匂いが一面に漂っていました。小学校には、そのあぜ道を通って通いました。(もちろん当時は、環七など姿形もありません。)
 通っていた中学からは、はるか遠く北の方まで見渡せて、ちょっと歩くと、常磐線を走る蒸気機関車の姿を見ることが出来ました。
 その後、少しずつ家が建ち並んで来ていましたが、まだまだ至る処に用水路が流れていました。幅2㍍くらいで、一㍍くらいは掘り下げられていたでしょうか、雨が降ると、けっこうな水量になりました。田んぼがなくなり、家が建ち、だんだんと汚いどぶ川のようになってきました。
 コンクリートで枠がつけられ、ところどころ、幅10センチくらいの桁が架けられています。子ども達はそこを渡ったりするのが、遊びの一つでした。だから、落ちたりする子もしばしばです。中には、川の向こうに渡ろうとして、幼くして命を落とす悲劇もありました。また、池でおぼれて、死に損なった子どももいました。そのうち、上にコンクリートのふたが出来、暗渠となりました。そして、アスファルトで舗装され、道路に。
 今、かなり大きな下水管が、そうした道路の下を通っているところも多くあります。もうすっかり昔の面影はありません。田んぼどころか、畑も見あたりません。たまに見かけても、家庭農園用に一般区民に貸し出している所しかないようです。
 落ちると言うと、冬の日、雪の積もった時に、友達が肥溜めに落ちて大騒ぎになったこともあります。田んぼの中に、肥溜めがあった時分です。すっかり地面が雪景色で、どこが道か田んぼか肥溜めか分からない。そして、ついに肥溜めにずっぼとはまってしまったのです。あわてて、大人達が引き上げましたが、実に大変な状況。糞尿にまみれて、臭いわ、汚いわ。もう深刻ですが、何となくおかしな光景でした(見ている者にとっては)。こうして書きながらも、その雰囲気、臭いまでもよみがえってきます。これらは、葛飾の60年近く前の出来事。
 そういえば、何年か前に、職場の同僚から、「どうもこの下町は、足元に水が流れているようだ」と言われたことがあります。まさに、今ある道路の大半、家の下は、かつては、水田と用水路だったのです。その方の指摘は、直感として正しかったのです。
 写真は、水戸街道・亀有警察署前の「新宿交通公園」近くにある「小岩用水」。細く穏やかで、きれいな流れになって、水辺には草花も植えられています。今の子ども達は落ちることも、おぼれることも、おそらく怪我をすることもないでしょうが・・・。
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20 鉄橋除去工事

2009-04-08 22:38:48 | 鉄道遺跡
 現在の水元公園(小合溜)からの農業用水の流れ。1947(昭和22)年9月、キャサリン台風の時にこの用水の源であった小合溜(桜堤)付近が決壊して高砂、小岩、さらに南へと大きな被害をもたらしましたことがあります。
 この用水は、西南に流れていき、現在の「大堰枠」という信号付近で小岩への水路を分岐し、中川の左岸沿いに流れていき、現在の中川と荒川との合流点辺りまで通じていました。かつてこの地域に広がっていた田畑を潤す、重要な水資源としての役割を果たしていたわけです。田んぼの中の水路は、行く先々で分岐し、南下していきました。
 その基幹水路(?)だったものが、現在、大きな立派な道路に変貌しています。途中、金町から新小岩へ向かう貨物線(新金貨物線・現在も使われています。)を越えます。
 もうすっかり川は埋め立てられていて、そこにかかる鉄橋の除去工事が行われています。ここからしばらくの区間(数百㍍ほど)がでこぼこ道。川もまだ埋め立てられたままで、雑草が生え、道にはなっていない状態。たまたま自転車で通りかかった近所の二人連れ、「なんでここだけこうなのかしら」とつぶやきながら、通り過ぎていきます。
 写真は、そのようす。除去した後は、踏切にするのでしょうか。陸橋にでもするのでしょうか。けっこう期間が長く続いている工事のようです。めったに目にするシーンではないので、パチリ!(携帯電話でですが)。
 もともとこの路線。単線ですが、複線化する構想があったのでしょう、鉄橋なども線路こそないものの、複線対応。そのために、この工事現場でも、コンクリートの土台を壊したりなにやらで、思いの外、時間がかかっているのかもしれません。
 車道になった道はさらに南下し、二手に分かれます。新しい舗装道路は、西に向かって中川橋を越え、環七へ通じる走りやすい道(旧水戸街道と重なるかたち)と合流します。もう一つは、水戸街道(国道6号線)に通じています。水戸街道の先も舗装された広い道路となって、用水路としての姿・形はすっかりなくなっています(これは、旧佐倉街道と一部が重なっていきます。)こうしてその先、以前の水路は、新中川ができた時、その流れに吸収されてしまったようです。
 葛飾区内では、今、道路となっているものの中には、もともと下町の近郊農業を支えた、農業用水路であったものが多いのです。碁盤の目のように区画された流水地域には、すっかり田んぼも畑もなくなって、住宅地になってしまっています。まさに歴史に埋もれるものたちと言ってもよいでしょう。
 
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16 理科大の敷地(予定)にまたも怪しい物件が

2009-04-04 00:11:18 | つぶやき
 すっかり更地になってしまった三菱製紙の跡地。JR金町駅の北西側は、今や再開発ですっかり様変わり。跡地のすぐ東側では、道路を挟んで、大型高層マンションの大工事が佳境に。この辺りでは、かなり大きなマンション建設。駅から近いので、お値段の方は?
 金町駅北口からの曲がりくねった道。相変わらず、人も自転車も車もすれ違うのも大変な商店街の道、その道も途中からぐっと広く、整備されている。そして、三菱の跡地の向こうには、大型の福祉型マンションが一棟建設済み。本当に大変化を遂げつつある。
 こうして、今や手つかずなのは、三菱製紙の跡地のみ。マンション建設の他、東京理科大がやってくるという。
 フェンスの向こうを見ると(この前紹介した写真とは反対の、南の方)、煉瓦作りの建物が二棟残っている。何のためなのか?回り込んで近づいてみたが、フェンス越しから見ても、かなり古い煉瓦建て、換気扇みたいなものはあるものの、すでに使用されていない風情。いったい何の建物なのだろう? どうして残っているのか?
 フェンスが高く、よく撮れないので、自転車に乗ったまま、思い切り手を上に伸ばして、携帯電話で撮ってみた。それが、この写真。よく見ると、奥の建物の壁の側面に、何やらおどろおどろしく怪しげな落書きが、二つ。
 全く思いもよらなかった! 普通に通り過ぎていたのでは、目に入る箇所ではない。果たしてこれは何を意味するか? この建物は、gooの昭和22年航空写真にも写っています。
 三菱の跡地には、二つ、実に不思議なものが写っていました。
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