おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想」(宮田光雄)岩波現代文庫

2019-10-23 19:08:37 | 平和
 「キリスト教神学者でありながら,反ナチ抵抗運動の一員としてヒトラー暗殺計画に加わり,ドイツ敗戦直前に強制収容所で処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー(1906―45).生命を賭して時代への抵抗を貫き,若くして殉教への道を選んだのは,なぜか.新たな知見も交えながら,その生涯と思想の意味を現代に問う。」とあります。

 極めて示唆的な言葉。1940年頃に執筆された遺稿『倫理』草稿より。

「平穏な時代の静かな流れにおけるよりも、むしろ、嵐の時代において、人間性の弱さは、よりいっそうはっきりと示される。予期しない脅威やチャンスに直面して、不安・欲望・依存心・獣性といったものが、圧倒的多数者の行動の動機として示される。このような時に独裁的な人間軽蔑者があらわれて、人間の心の低俗な部分を養い育て、これにほかの名前をあたえることによって、これを利用することは、まことにたやすいことである。低俗な人間が低俗になればなるほど、彼は独裁者の手の中で御しやすい道具となる。・・・独裁的な人間軽蔑者が、深く人間を軽蔑しながら、しかも彼が軽蔑している当の人たちからの人気を求めれば求めるほど、いよいよ確実に、彼は、自分の人格が群集によって神格化されるのを経験する。人間の軽蔑と人間の神格化とは、深く関連している。」
 ここには、「独裁的な人間軽蔑者」というだけで、具体的に名指しされてはいませんが、あきらかに《ヒトラー》が示されています。しかし、その関心は、ヒトラー像そのものの規定というよりも、むしろ、その犠牲となった人びとに向けられています。しかも、ここでは、権力によって身体的に弾圧・追求されている人びとではなく、一連のデマゴギーによって自立性を奪われ、人権や権力分立についての判断力を奪われ、いわば《未成人化》されて体制の同調者・協力者となっていった民衆の姿に目が向けられています。これは、嵐の時代の中で、「イエス・キリストの受肉」という福音のメッセージが狂信的な指導者崇拝を《非神話化》することができる逆説を鮮やかに示すものでしょう。」(P334)

 今の日本の政治状況を見透かされているようです。その意味でも、未来を透徹した警鐘の書であり、ナチスファシズム時代の遺作でありながら、「未来もまたしかるべし」と。ボンヘッファーの眼には未来にも必ず出現するファシズムへの警告とその流れにどう抗するか、まさに今の日本人、いな世界の人びとに厳しく問いかけている一文です。

 ボンヘッファーが強制収容所で処刑された、そのわずか数週間後にヒトラーの自決によって、ヒトラーファシズム体制は終わりを告げました。
 

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台風19号の爪痕。二子玉川。

2019-10-17 19:22:44 | 世間世界
多摩川の決壊・水害が報じられています。東急「二子玉川」駅の南側。かなり以前、このブログで取り上げたことがあります。再掲します。

二子玉川園。多摩川陸閘跡2011-06-28 20:49:08 | 歴史・痕跡

 東急田園都市線・大井町線「二子玉川」駅。かつての駅名は、「二子玉川園」。
 駅名は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前の1922(大正11)年に「玉川第二遊園地」や「玉川プール」などが開設され、行楽地として賑わいました。(「二子」という地名そのものは神奈川県川崎市高津区にある地名。多摩川をはさんであった左岸が東京都世田谷区瀬田に編入された。東京側は「玉川」)
 太平洋戦争中はパラシュート練習場が、海軍空挺部隊や陸軍挺進連隊の訓練設備として使用されました。戦後、玉川第二遊園地は、「二子玉川園」となり、フライングコースター等の施設や映画館なども設けられ、行楽地として栄えました。
 しかし行楽施設の充実や変化という時代の流れにはついていけず、1985(昭和60)年に閉鎖されました。その跡地にスポーツ施設やナムコ・ワンダーエッグ、いぬたま・ねこたまなどのテーマパークが建設されましたが、それも廃園。
 2000年代に入って、二子玉川駅東口から二子玉川園跡地にかけて再開発計画が進行しています。東口一帯に2棟のタワーから構成される大規模な商業地域・ホテル・住宅地域が建設されることとになり、駅前はかなり整備されてきましたが、東側の地域では盛んに工事が行われています。
 さて、今回、「二子玉川園」の痕跡を探ろうと、駅の東口に。見上げるほどの大きなショッピングモール、高層ビル。明るい広々としたロータリー、大型マンションなどが立ち並んで・・・。まだまだ大型工事中のところもあって、ちょっと想像した以上の大変化。西口が高島屋などの大型店舗が多くあって、賑やかな雰囲気。それに比べてあまりにも整然としすぎているような印象を。かつて、遊園地周辺には昔ながらの商店街があったとか。まったくその面影はありませんでした。
 東西に通じる道路(多摩堤通)も広く整備されています。その道路の多摩川寄りに芝生状のものに覆われた小高い丘が続いて、その土手の草刈りの作業が行われていました。炎天下の中での作業ですので、実に大変そうです。その土手が途中で切り取られ、そこに道路が通り、両側の土手の部分を赤い煉瓦で固めた箇所が、二箇所ありました。
 実は、これが多摩川堤にある「陸閘」です(それぞれ「東」「西」と名称がついています)。
 「陸閘(りっこう、りくこう)」とは、河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで、暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設だそうです。津波や高潮を防ぐ海岸線の堤防・防潮堤にあるゲート(防潮扉)も同じ役割をすることから「陸閘」と呼ばれる、とか。
 扉を人力や動力で閉じる方式や木板等をはめ込む方式など様々な方式や規模のものがあるそうです。天井川のある地域や海抜ゼロメートル地帯、港湾部に多数存在し、例えば、愛知県伊勢湾岸には数多くあるとのことです。
 この多摩川のものは、赤レンガで固めて鮮やかな朱色をしています。土手の部分には桜なども植えられていて、ちょっとした散歩道・自転車ロードのようになっていました。道路に並行して東はもう少し下流まで、西側は鉄道の高架線や橋などがあるためとぎれています。土手の上を歩くと、眼下には多摩川の岸辺近くまで住宅街が広がっていました。
 江戸時代、二子(多摩川の右岸・神奈川県側)は、矢倉沢往還(大山街道・現在の246号「厚木街道」)の渡船場でした。「矢倉沢往還」は、神奈川県南足柄市の矢倉沢方面から物資を運ぶための道でしたが、丹沢の大山信仰の登山口でもあったため「大山道」とも呼ばれました。
 江戸時代、博打と商売にご利益があるとされた「大山詣り」は大流行し、二子宿には、旅籠をはじめ多くの商家が軒を揃え、大いに賑わいました。また、江戸幕府への献上用としても好まれた鮎漁も盛んに行われ(鵜飼い)ていたといいます。
 明治40(1907)年になると、渋谷から対岸(東京都側)まで玉川電気鉄道が延び、多摩川をはさんだ二子の渡し周辺は、再び行楽地として注目を集めます。近郊の人々が多摩川を訪れ、旅館に泊まって田園風景や多摩川の風情を眺めたり、屋形船で鵜飼いを楽しみながら川魚を賞味して余暇を過ごしました。旅館が建ち並び、鮎漁・鮎料理、鮎寿司を看板にしている店々が軒をつらねた様子が記録に残されています。
 行楽地として賑わう反面、下流部に位置し、東京と神奈川両府県にまたがるため断続的な堤防しかないこの辺りは、古くから水害に苦しめられていました。
 大正3(1914)年8月9月、多摩川を襲った2度の大洪水が発端となって起きたのを契機に、国の直轄による「多摩川改修工事」が行われる事になりました。大正7(1918)年から竣工され、昭和8(1933)年度に完了した工事の対象区間は、河口から二子の渡しの少し上流までの約22kmです。
 現在残る世田谷区玉川1丁目から上野毛2丁目付近の堤防もこの時築かれますが、川辺に建ち並ぶ料亭などから「眺めが悪くなる」として合意が得られず、堤防と川の間に料亭や田畑を残す形に計画を変更しました。
 しかし、川辺の料亭や渡しへむかう人馬が、この堤防を越えていくのは大変です。そこで堤防の一部を削って通路をつくり、水位が上昇した時は手動で締め切って、水が流れ出るのを防ぐ仕組みの「陸閘(りっこう)」を設置したのです。一面から見れば、堤防内の人も住居も見捨てるということに? ま、その前に避難命令が出るでしょうが。考えてみれば、治水に対する生活の知恵 ともでもいうようなもの。
 近辺の宅地開発に、交通網の発達と関東大震災後の影響が拍車をかけ、都心から多摩川沿いの住宅地へと移り住む人々は急激に増え、世田ヶ谷の人口も、大正9年から昭和35年の間に16倍以上にもふくれあがります。昭和初期の航空写真には、料亭と田畑だけだった堤防と川の間にも家々が密集し、まちが形成されている様子が写っているようです。
 現在、堤防と川の間の住宅地を洪水から守るために、多摩川側に堤防を築く計画がつくられています。(以上、「京浜河川事務所」の資料を参照しました。)


1880年代のようす。多摩川の自然堤防が広がる。


2010年代のようす。左に「二子玉川」駅。「陸閘」のある土手が道路沿いに。

・・・

 今回の水害に見舞われたところは、この堤防と多摩川の土手(堤防ではない)との間にある住宅地が中心で、この堤防の外には被害が及ばなかったようです。
 しかし、この下流付近では多摩川に設置された水門を閉めたことによる下水等の逆流があって浸水被害が生じました。
 いずれにしても、元々は河川敷、多摩川の堤防もなく、さらにその外にある堤防で仕切られた土地という条件が被害を大きくしたのでしょう。

「今昔マップ」より。
赤で囲んだところ。

 自分の住む土地が元々どういう土地であったのか、その歴史的変遷を知ることが大事だと。
 利根川の決壊も、江戸の町を守るため、また水運のために江戸時代に掘削された「利根川東遷」にその遠因があるのではないか、とも。
 本来ならそのまま南下して江戸川、中川から東京湾に注いでいた水路を90度くらい屈折させて、東に曲げたわけですから、自然の摂理からすれば無理があったのでしょう。治水事業もその視点から見直すことも必要ですね。
 その面では、キャサリン台風の教訓から、新中川を掘削したのは先見の明があったというべきです(明治から大正にかけて掘削された「荒川放水路(現荒川)」―「隅田川」の洪水を防ぐ目的―)もそうでした)が、今ではほぼ不可能でしょう。さて、どうするか? 残るは「自己責任」、では困ります。

 
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その5。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-07 18:41:24 | 東金御成街道
                         坂を上ると、里山が広がります。
          来た道を振り返る。森と畑。 

(13:15)その先に「圏央道」が見えてきます。 

                               

その先の県道を越えると、砂利道になります。
  
左右はソーラーパネルの発電所になっています。その道ばたで小休止。

この付近の今昔。

1880年代のようす。破線が旧道(↓)。



2010年代のようす。この当時はまだソーラー施設はない。



 (13:40)「国道409号線」に突き当たります。ここまでが直線道路としての旧「東金御成街道」。
    「東金市」の標識。

          来た道を振り返る。ここが一応のゴール。

 この先、東金御殿跡の「県立東金高校」まで4㎞以上、まだまだ街道歩きは終わりません。表道と裏道があったようですが、まずは国道歩きから。

 (13:48)由緒ありそうな大きなお屋敷。
 

その先にも。

西側が新興住宅地。

台風15号の爪痕が痛々しい木々。

(14:02)右手の森の入口に「解説板」。
東金御成街道の関係史跡
<歴史的概要>
 慶長18年12月(1613)、徳川家康から東金辺での「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝は,船橘から東金までの沿道にある97ケ村の農民を動員し、翌年1月に「道法八里余り」(約37km)の「東金御成街道」を完成させました。
 東金の滝地区からは旧道を利用したといわれ、右図のルートが現在有力となっています。とくに②の所で分岐し、2ルートとなっていますが、本街道に関する資料が南ルート(赤色)に多く残り、本道の可能性が高いと考えられています。また東金では、家康の鷹狩りの際に「文珠組」を組織し、その組織の鳥見役(鷹場を巡検して鳥の所在を追跡する役人)には油井村大豆谷村・台方村の者がみられ多くは元酒井家の家臣であったといわれています。
①古道跡:
この場所は廃道となり山林の中に痕跡が見られますが、散策するには厳しいです。享保7年(1722)の『下総牧図』(東京都世田谷区満願寺蔵)には、この道に沿うように「上総下総国境土手」が油井村入ロまで描かれています。
②道祖神:
道標を兼ね三面に以下の内容が刻まれていますが制作年代は不明です。
(正面)是より下ハ東金道 是より上ハ左(佐)倉道
(右面)油井村 (左面)是より西 江戸道
③おあし坂:
切り通しの道。急な坂道のため、歩幅を広く取り大足で上り下りしなければならないことから、通称「おあし(大足)坂」と呼ばれていた。
この先の谷津田に「土橋」が残っており、当時の街道の面影が感じられます.
④一里塚跡:
数十年前(1970年代か)まで高さ7mほどの塚があり.塚上に一本の黒松が植えられ地元の人たちは「一本松」・「一里塚」とよんでいた。
終点の東金御殿まで約3.9km。
⑤御成表道:
享保7年(1722)の『下総牧図』には「油井村入口〇御成表道」と記載され、御成街道の本道と考えられます。
⑥御成裏道:
享保7年の『下総牧図』には「油井村入口〇御成裏道」と記載されています。
⑦十六石殿:
早野家の屋号。家康が御成りの途中に早野家に立ち寄って休息をとり、その接待のお礼に宅地前の水田十六石をいただいたのが屋号の起こりといわれています。
⑧火正神社:
元禄11年(1698)創建。幕府が出した火事・消防に関する定めに基づき、現在地に火消大明神を建立したのが起こりといわれています。
火伏の神の迦具上(かぐつち)神が祭神。
⑨御成橋:
家康の御成に際し、架け替えられたといわれています。
⑩厳島神社:
石鳥居に元禄3年(1698)9月建立の銘。寛文3年(1626)に日吉神社の隔年の神幸祭に神興の一夜の御旅所と定められています。
⑪日吉神社:
石鳥居に明暦3年(1657)9月建立の銘。中世東金城(鴇ケ嶺城)の鬼門の守護神として重んじたといわれています。「山王宮社」には、家康の参拝に備えて土井利勝が社殿を再興したと記されています。
⑩東金御殿:
東金御成街道の終点。将軍(大御所)の宿泊所で現圧の県立東金高校敷地内。
この御殿は、慶長18年(1613)から翌年にかけて、土井利勝の命により代官嶋田治兵断が工事に当たったといわれています。
          地図入りの案内板。

 この解説板からは「おあし坂」が当時の表道だったようです。足を踏み入れましたが、この先、倒木などがありそうで、断念! かつての裏道(現在の舗装された県道)を進むことに。


(14:16)「コンレイ坂」。
             「魂霊坂」とも書き、激戦で死んだ武士を埋葬した地だったようです。

 この先、終点をめざしてひたすら歩くのみ。けっこうしんどい坂道あり。上り、下りに疲れもピークです。
(14:30)「楓ヶ池」。この付近には池が点在します。

 ひとしきり上り坂を進むと、「丸山公園」。その先を右折しますが、ここからが膝が笑うほどの急坂。タクシーなど車もけっこう通るのでヒヤヒヤしながら下ります。写真を撮るのも面倒になってきます。
 (15:14)坂をやっと下って左折すると、正面に大きな鳥居。その先に、「八鶴湖」が見えてきます。湖水の向こうには「東金高校」。ホッと一息。
     

「本漸寺」三門脇の「燕塚」と「歌碑」。

 当時の日本野鳥の会会長で歌人でもあった中西悟堂さんが詠んだ歌。

  みんなみに 帰り得ざりし 燕らが
     冬越す ここは 上総東金

(15:18)東金御殿跡と東金城址の説明板。

東金城址
 東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454~82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末~16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
 遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。

東金御殿跡
 東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋-東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
 東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
 寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半~明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。

 

「東金高校」。れんが造りの正門。

湖畔にある「八鶴亭」。

                         

「ビリヤード棟」など歴史のある料亭。
 八鶴亭(旧八鶴館)は明治期創業の老舗旅館で、東金市を代表する景勝地八鶴湖のほとりに所在することから、北原白秋や伊藤左千夫ら多くの文人墨客が訪れました。
 現存する建物のほとんどが大正から昭和初期に建てられ、そのうち本館・新館・宿泊館・浴室棟・ビリヤード棟5棟が国の登録有形文化財に登録されました。・・・


そこからの「八鶴湖」の眺望。

「八鶴湖」。

                   
八鶴湖
 その昔、谷池(ヤツ)と謂う 谷はヤチ(谷地)に通じアイヌ語で草深い湿地の意なり
 慶長18年(1613)家康公 東金御殿を造営されるに、その「御殿前池」として弁天島等を設け整備される
 面積は約1万1千坪(3万6300平方メートル)周囲10町(約1000メートル)
 天保年間、幕末の尊王家、梁川星厳その弟子遠山雲如ら詩人、学者盛んに湖に遊ぶ
 雲如その詩句に八鶴湖と称し天下に紹介される


これでようやく東金駅に向かいます。駅前の商店街は閑散としています。

                   (15:31)「秋葉旅館」。営業している?

この付近の今昔。


1880年代のようす。「八角湖」となっています。




2010年代のようす。中央右にJR「東金駅」。

 これで、ひたすら一直線だった船橋から東金までの「東金御成街道」終了。今回は、予想以上に最初からほとんどがアップダウンの道路で、けっこう疲れましたが、里山風景(ただし台風の爪痕が各所に)を眺めながらの歩きでした。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その4。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-04 20:14:13 | 東金御成街道
                       (12:20)相変わらずアップダウンが続きますが、車はぐっと少なくなります。この辺も台風被害あり。



住宅地に入っていきます。

        道路上にトタン屋根などが。屋根瓦も壊れています。

(12:34)広大な北総台地。農作物の被害も多いようです。

 やがて前方に斜度14%という表示のある急坂が見えてきます。「馬渡しの険」と呼ばれたところで、一気に下って、一気に上る。
 (12:37)その坂の途中に「上砂(かみいさご)の一里塚跡」碑。
 
八街市指定文化財(史跡)御成街道の一里塚
 この塚は、慶長18年(1613)に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた御成街道の一里塚である。
 一里塚とは、街道沿いに一里ごとに設けられた里程標で、江戸時代には徳川幕府による街道整備政策の一環として全国の主要街道に設置された。塚上には松や榎が植えられ、寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった。
 船橋から東金にいたる御成街道には8カ所の一里塚があったとされるが、現存するものは、ここ上砂と千葉市千城台東、富田町の3カ所のみである。
 これらの一里塚は、まっすぐに街道を結ぶための目印として築かれたと考えられており、それぞれの塚の距離は約4.7kmである。
 江戸時代初期に築かれ、ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されているこの一里塚は、江戸時代の交通文化や、徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財である。
※この一里塚は、土地所有者が長い間守り続けてきな貴重な文化財です。塚に登ると土が崩れてしまいますので、絶対に登らないでください。

 

来た道を振り返る。

何回も上り下りを繰り返す街道。

こうして広大な田園地帯へ。

                          

 この辺りは、太郎坊(たらんぼう)という地名。
 天正十年(1582)東金城主酒井小太郎定隆・土気城主酒井胤治父子が椎崎(しいなざき)(山武郡山武町)城主椎崎三郎と争った小間子(おまご)・吉田の原の戦い跡で、勝者の酒井小太郎定隆の小太郎の名を取り、「太郎防」のち「太郎坊」となったといいます。

(12:54)途中の民家の脇に「御成街道」の解説板。
御成街道
 御成街道は、慶長18年(1613年)、徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、近隣九十数ケ村の農民を動員し、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜を問わず突貫工事で一晩のうちに、または三日三晩で完成したという伝承があり、別名「一夜街道」や「提灯街道」、また家康にちなんで「権現道」などとも呼ばれている。
 この街道は、将軍の鷹狩りのために使用され、家康、秀忠、家光の三代将軍が鷹狩りに興じた記録がある。しかし、単に鷹狩りのための道ではなく、軍事等の政策上の意図があったとも言われている。
 街道は船橋-東金間約40kmをほぼ一直線に結んでいたが、今では大部分が拡幅舗装や耕地整理等により姿を変えたり消滅してしまい、旧街道の面影を残す場所は八街市沖地区(一部市指定史跡)と東金市滝地区の山林の中のみとなってしまった。
 なお、ここから西へ約1kmの場所に「一里塚」が残り、東へ約500mの場所に鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」がある。

(「今昔マップ」より)
直線が「御成街道」。○のところに解説板あり。旧道の上が新道としての「東金街道」。

 (13:00)しばらく進むと、鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」。


          周囲を森に囲まれた静かな趣。
 この付近一帯は、南北に連なる低湿地帯で、田んぼや沼地が続いていたようです。現在のように池として整備されたのは、近年のこと?


1880年代のようす。旧道は破線の道で少し曲がっています。池の表示はありません。「今昔マップ」には地名として「ビンダライ」とあります。


2010年代のようす。池の形から谷津(谷戸)の一部を形成しているようです。街道の北側にも池があった? 街道も直線化されています。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その3。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-03 18:47:12 | 東金御成街道
             ほぼ一直線ですが、けっこうアップダウンがあります。谷津(谷戸)と丘陵地帯が交互に現れます。

道ばたにはヒガンバナが。

 (11:00)「おなりみるく工房」をすぎて、「袖ケ浦カンツリークラブ新袖コース」にさしかかると、道筋には台風15号の爪痕が。
フェンスが壊れ、倒木が目立ちます。

                          道路の左側のようす。

ゴルフ場内の倒木。しかし、グリーンなどは被害が無く、ゴルファーの姿も。


                                   

(11:17)道路上では、かなりの距離にわたってNTT通信施設の復旧工事中。
 

愛媛ナンバーの車も。「通信施設災害復旧車」。

暴風雨のせいでしょうか、畳が何枚も。

(11:26)道が左にカーブするところで、「八街市」に入ります。

 そこで、「東金御成街道」は、森の中に消えていきます。街道消滅の解説板が上方に。


                      
 御成街道は、徳川家康が初代の佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、船橋-東金間約40キロメートル余をほぼ一直線に結んでいた。
 現在は殆どが舗装され、旧道の面影を残している部分は八街市沖地区と東金市滝地区のごく一部となってしまった。
 八街市内では、この後ろの山林中に僅かに昔の面影を止める地区があり、市指定文化財(史跡)に指定されている。
 ここから西の四街道方面へ走る街道は御成街道を舗装したもので、陸上自衛隊下志津駐屯地で一部途切れてはいるが、船橋市まで続いている。

向こうの森の中、あるいは畑地に消えてしまったのか? 

(11:31)「風景谷(ふがさく)」コミュニティバスのバス停。
 ちなみに「おまごバス」の「おまご」とは「小間子」という地名から来ています。

(11:42)現在の道を進み、「沖十文字」交差点を右折します。そこで小休止。

「旧街道跡」の東西方向の表示。

西北側。ただし、この道ではなさそう。

東南側。道は不明。

(「今昔マップ」より)
 明治中期以降、旧街道は廃道に近い状態になり、わずかに部分的に破線で記されているのみ。
 明治に入ってから、農地開墾(現在は、多くは住宅地などに)の対象となったため、旧道はほとんど失われたようです。




2010年代のようす。○の中の直線(道路から玄関まで)が旧道跡のようです。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
右下に位置する「旧街道跡」の表示板、さらにその先、旧道復活地点とも直線でつながっています。

(12:11)ラーメン店「悟空」。

この先を左折し、道なりに進むと、旧街道に復活します。地元の方々によって、廃道状態の旧道を整備・復活させた、と思われます。


             

                     (12:19)復活地点。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その2。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-01 22:50:07 | 東金御成街道
                        田園風景が広がります。
                         栗畑。

名産のピーナツ畑。

ハウスのイチゴ栽培。

(10:18)しばらく進むと、右へ下る坂道が旧道。

広い道につながります。
右手の高台には、中田やつ耕園(中田都市農業交流センター)。
 本市の主要な農業地域である鹿島川流域(15町4,100ha)のいずみ地区を対象に、都市部と農村部の市民交流を促進し、農業振興と地域の活性化を目指す「いずみグリーンビレッジ事業」の交流拠点施設の一つです。
 農作業を楽しめる市民農園を中心とし、そのほかにも野バラ園や芝生広場などがあり、レクリエーションの場として活用できます。


(この項、「」(中田市民農園管理組合)HPより)

          その先は田畑の中の一本道。
 

 「県道66号線」を横切り、曲がった急坂を下り、家並みを過ぎると、再び、真っ直ぐな街道へ。
来た道を振り返る。

(10:35)「富田入口」交差点。

左手一面に田んぼが広がります。

 旧東海道歩きで目にした「飛び出し注意」の標識が。
 
                                               「真光寺」とあります。
しばらく進んで、振り返るとそりたったような本堂が。

                               

その先も豊かな田園風景。
 

けっこうきつく長い上り坂が目の前に。

富田の集落に入ります。

その先、右手奥に椎の木の古木。一里塚だったそうです。

(10:54)その手前の長屋門。先日の台風で傾いてしまったようです。

                                

それに気を取られて椎の木を撮り損ね、通過。右手前にあるはず。
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