「キリスト教神学者でありながら,反ナチ抵抗運動の一員としてヒトラー暗殺計画に加わり,ドイツ敗戦直前に強制収容所で処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー(1906―45).生命を賭して時代への抵抗を貫き,若くして殉教への道を選んだのは,なぜか.新たな知見も交えながら,その生涯と思想の意味を現代に問う。」とあります。
極めて示唆的な言葉。1940年頃に執筆された遺稿『倫理』草稿より。
「平穏な時代の静かな流れにおけるよりも、むしろ、嵐の時代において、人間性の弱さは、よりいっそうはっきりと示される。予期しない脅威やチャンスに直面して、不安・欲望・依存心・獣性といったものが、圧倒的多数者の行動の動機として示される。このような時に独裁的な人間軽蔑者があらわれて、人間の心の低俗な部分を養い育て、これにほかの名前をあたえることによって、これを利用することは、まことにたやすいことである。低俗な人間が低俗になればなるほど、彼は独裁者の手の中で御しやすい道具となる。・・・独裁的な人間軽蔑者が、深く人間を軽蔑しながら、しかも彼が軽蔑している当の人たちからの人気を求めれば求めるほど、いよいよ確実に、彼は、自分の人格が群集によって神格化されるのを経験する。人間の軽蔑と人間の神格化とは、深く関連している。」
ここには、「独裁的な人間軽蔑者」というだけで、具体的に名指しされてはいませんが、あきらかに《ヒトラー》が示されています。しかし、その関心は、ヒトラー像そのものの規定というよりも、むしろ、その犠牲となった人びとに向けられています。しかも、ここでは、権力によって身体的に弾圧・追求されている人びとではなく、一連のデマゴギーによって自立性を奪われ、人権や権力分立についての判断力を奪われ、いわば《未成人化》されて体制の同調者・協力者となっていった民衆の姿に目が向けられています。これは、嵐の時代の中で、「イエス・キリストの受肉」という福音のメッセージが狂信的な指導者崇拝を《非神話化》することができる逆説を鮮やかに示すものでしょう。」(P334)
今の日本の政治状況を見透かされているようです。その意味でも、未来を透徹した警鐘の書であり、ナチスファシズム時代の遺作でありながら、「未来もまたしかるべし」と。ボンヘッファーの眼には未来にも必ず出現するファシズムへの警告とその流れにどう抗するか、まさに今の日本人、いな世界の人びとに厳しく問いかけている一文です。
ボンヘッファーが強制収容所で処刑された、そのわずか数週間後にヒトラーの自決によって、ヒトラーファシズム体制は終わりを告げました。
極めて示唆的な言葉。1940年頃に執筆された遺稿『倫理』草稿より。
「平穏な時代の静かな流れにおけるよりも、むしろ、嵐の時代において、人間性の弱さは、よりいっそうはっきりと示される。予期しない脅威やチャンスに直面して、不安・欲望・依存心・獣性といったものが、圧倒的多数者の行動の動機として示される。このような時に独裁的な人間軽蔑者があらわれて、人間の心の低俗な部分を養い育て、これにほかの名前をあたえることによって、これを利用することは、まことにたやすいことである。低俗な人間が低俗になればなるほど、彼は独裁者の手の中で御しやすい道具となる。・・・独裁的な人間軽蔑者が、深く人間を軽蔑しながら、しかも彼が軽蔑している当の人たちからの人気を求めれば求めるほど、いよいよ確実に、彼は、自分の人格が群集によって神格化されるのを経験する。人間の軽蔑と人間の神格化とは、深く関連している。」
ここには、「独裁的な人間軽蔑者」というだけで、具体的に名指しされてはいませんが、あきらかに《ヒトラー》が示されています。しかし、その関心は、ヒトラー像そのものの規定というよりも、むしろ、その犠牲となった人びとに向けられています。しかも、ここでは、権力によって身体的に弾圧・追求されている人びとではなく、一連のデマゴギーによって自立性を奪われ、人権や権力分立についての判断力を奪われ、いわば《未成人化》されて体制の同調者・協力者となっていった民衆の姿に目が向けられています。これは、嵐の時代の中で、「イエス・キリストの受肉」という福音のメッセージが狂信的な指導者崇拝を《非神話化》することができる逆説を鮮やかに示すものでしょう。」(P334)
今の日本の政治状況を見透かされているようです。その意味でも、未来を透徹した警鐘の書であり、ナチスファシズム時代の遺作でありながら、「未来もまたしかるべし」と。ボンヘッファーの眼には未来にも必ず出現するファシズムへの警告とその流れにどう抗するか、まさに今の日本人、いな世界の人びとに厳しく問いかけている一文です。
ボンヘッファーが強制収容所で処刑された、そのわずか数週間後にヒトラーの自決によって、ヒトラーファシズム体制は終わりを告げました。