おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「能取(のとろ)岬」・「能取岬灯台」・「オホーツクの塔」。(網走行。その4)

2019-11-15 20:35:02 | つかのまの旅人
                       9日(土)。ホテルからの網走湖。明け行く空と湖水と木々。
                              

眼の下を列車が通過中(↓)。
 「石北本線」。1932年(昭和7年)10月1日に難所だった北見峠を越える石北線が全通して、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。通過しているのは、「旭川」行きの列車?
(「Wikipedia」より)

 今日も天気はよさそうですが、ホテルの道路や車のガラスは夜の内に降った雪で、一面びっしり凍り付いています。

 余談ですが、レンタカーを借りたとき、助手席の足下に大きなブラシが置いてありました。ちょっと邪魔くさいな、何でこんなものがあるんだろうと後ろの座席に放っておきました。

 朝出発するときに初めて気づきました。ああ、このためにあったのだな、と。これでゴシゴシとフロントガラスにびっしり張り付いた氷を落とします。東京では、お湯を掛けたりして溶かしたりしますが、それでは瞬時に凍ってしまうのですね。

 「能取岬」に向けて出発。網走市街地から約20分。右手にオホーツク海を見ながら。周囲はすっかり冬景色。
 牧場地帯を通過、目の前が一気に開けてきます。
  

すばらしい景観。

能取(のとろ)」の名は、アイヌ語の「ノッ・オロ」(岬のところ)に由来するそうです。

 ちなみに「オホーツク」はロシア語で「狩猟」(英: hunting)から来ているとのことです。

案内板。
           

 前方に八角形、黒と白のツートンカラーの灯台が。
    
         「能取岬灯台(のとろみさきとうだい)」。1917年(大正6年)10月1日に初点灯。
 八角形の外観はフランスの技師レオンス・ヴェルニーが設計した江戸条約の灯台の影響を受けたとされています。

 ※「江戸条約」=徳川幕府が米、英、仏、蘭の4か国と結んだ改税約書。その中で、第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」とあり、航路標識の設置が義務づけられました。

 日本が今のような灯台を建てるようになったのは、今から約140年前に、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国と結んだ江戸条約で、灯台などを建てる約束をしたことが始まりです。
 もちろん、日本人のだれも西洋式の灯台を見たことがありませんので、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の買入と指導を頼んでいましたが、そのころ徳川幕府の政治がおわったので、明治新政府が、この仕事を引きつぎました。
 このようにして、明治2年1月1日に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本で初めての西洋式の灯台が誕生しました。作ったのは、ヴェルニーというフランス人です。
 フランス人の作った灯台は東京湾のまわりの4か所だけで、それから後は、ブラントンがひきいるイギリス人によって作られました。
 ブラントンは、灯台を26か所に建て、灯船(灯台の役目をする船)2隻をつくっています。
 また、ブラントンは、新しくできた灯台にイギリス人の灯台員をすまわせて、日本人に灯台の仕事を覚おぼえさせ、そのための教科書も作りました。
「観音埼灯台」。

(この項、「」HPより)

                            

 何やら案内板が。かすれて見えないのか、と。ところが、同行の方が手で払うと、何と雪がうっすら覆っていたのです。
「知床の山々の案内図」。よく見えず、残念!

岬の突端の方に大きな塔があるので、向かいます。
                            海を隔てた遠くに知床の山々。

 途中、左手が断崖絶壁。荒々しい波が打ち寄せています。


                     

来年1月下旬には流氷で埋め尽くされる。


 オホーツク海の最北西部沿岸で厳しい寒気に吹き付けられた海水は、-1.8度まで冷えると海面近くに小さな針や板状の氷に変化します。氷晶(ひょうしょう)の誕生です。これが少しずつ増えて、やがて海面を覆います。それが互いにぶつかり合ったり、結合したりして蓮の葉状の氷に成長します。
 11月頃に誕生した蓮葉氷は強い北西の季節風と東カラフト海流に乗って、さらに成長しながらゆっくりとオホーツク海を南下します。それが1月下旬~2月上旬に北海道のオホーツク沿岸へとたどり着きます。


(「」HPより)

オホーツクの塔」。
 1978年の設置。裏側の銘文には「水産日本の発展を希求」と。網を肩にかけ、鋭い視線で遠くを見やる漁師の姿。本郷新 作。

 本郷新の作品には
「わだつみの声」

「北の母子」。など。

(作品紹介は、「」HPより)

さて、戻ることに。



振り返る。

「能取岬」看板。

北西方向を望む。
        はるか遠く紋別付近。左奥には「サロマ湖」。

 雄大な自然を堪能しました。車を運転してくれた方に深い謝意を。

 伝え切れない能取岬の自然を「」HPなどから拝借して紹介。



                        

アッケシソウ。

エゾカンゾウ。

                        
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「オホーツク流氷館」・「天都山展望台」。(網走行。その3)

2019-11-14 20:27:42 | つかのまの旅人
                     遠くにオホーツク海、その向こうに知床半島の山並み。 

 「網走監獄」の近くにある「オホーツク流氷館」、「天都山展望台」へ。

   
 流氷とオホーツク海の生き物をテーマとした観光施設。

 正面と左右上下に展開する総インチ数400インチの大迫力5面「流氷幻想シアター」が、ちょうど始まったところ。
 視界すべてに広がり、映像に包み込まれます。オホーツク海の四季。特に流氷のど迫力に圧倒されます。


展望台では、一面に広がるオホーツク海、網走湖、能取湖、濤沸湖、藻琴湖、知床連山の雄大な絶景を体感できます。

「館内」。

                  

   


「クリオネ」。 

小さくて何を撮ったのか分からず。画像を拝借。


「流氷体感テラス」。
                           (写真は、「」HPより)
マイナス15℃の室内で本物の流氷に触れ、夕景や夜明け、低緯度オーロラの再現を体感。今年の流氷が100t展示されています。
 濡れたタオルを凍らせる「しばれ実験」が人気のようで、振り回すようにやってみましたが、見事に凍りました。

  

屋上の展望台へ。

 「天都山」は、眺望がすばらしく、「天の都のような山」という意味で付けられました。

                

遠くに網走の街並み。
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つかのまの倉敷。

2019-04-24 19:00:42 | つかのまの旅人

 平成の初め頃に少し立ち寄ったきりで、何十年ぶりかで倉敷の町を駆け足で。
 4月21日(日)。岡山市内でお祝い事があったついでに、ほんのちょと倉敷まで。新幹線出発時間も迫っていて、ゆっくり見学もできず。

 蔵造りの街並みは川越などでもお目に掛かりますが、瀬戸内の街並みもまた風情があります。外国人観光客もたくさん。夕暮れ前のそぞろ歩きを楽しんでいます。


一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」。
 井上家住宅は、倉敷川畔の重要伝統的建造物群保存地区の中でも代表的な大型の町屋の一つで、古くから倉敷の中心通りである本町通り(往還)に面して建っています。
 小屋組みの登り梁形式で束を併用しているなど、非常に古いかたちを採用しています。また、何面二階外壁の7つの倉敷窓には火災に備えて土扉が付いています。倉敷では少なくとも江戸時代後半には大火がなく、こうした古い町屋の形式が残っているのは井上家だけとなっています。
 今回の修理で発見された墨書から、主屋は享保6年(1721)に上棟されたことがわかり、倉敷美観地区内では最古の町屋であることが判明しました。

ところで、地名の由来は?
 現倉敷市の名称は、全国的にも観光地として知られる倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に由来します。倉敷という地名は、中世に支配地の年貢米や貢納物を領主へ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地」に由来しているとする説が地元の歴史家の間では有力とされています。
 倉敷地は「蔵屋敷が立ち並んだので、『蔵屋敷』地が転訛して『倉敷』地となった」と云われ、また「倉とは船蔵屋敷あるいは水夫屋敷のことを指す」ともいわれています。
 倉敷村が誕生したのは戦国時代~安土桃山時代の間(1565年~1585年)。
 江戸時代に幕府代官所が置かれ陣屋町となり、また物資の集散地になり、川港として栄えて豪商の蔵が建ち並び商家町として繁栄。現在の美観地区周辺の基礎が生まれた。
                               



                      「有鄰庵」。
 築100年の古民家で、岡山と倉敷のおいしいものを
 有鄰庵は、倉敷の美観地区の中心にある、地元の食材にこだわったカフェ。(夜はゲストハウスになります)
 せっかく倉敷にいらっしゃったのなら、地元のおいしいものを、楽しみながら味わってほしい。
 そんな思いで、食材と味はもちろん、接客にも心をこめています。
 私たちが目指しているのは、「また来たいと思っていただける最愛のおもてなし」。
 岡山県でも有数の観光地である美観地区で、たくさんの方々に岡山ならではの食材やメニューを楽しんでいただくことが、地元の生産者の皆さんにも貢献できることにつながります。
 そうやって地元での結びつきも大事にしながら、お客様から愛される、「このお店に来てよかった」と思っていただけるおもてなしをさせていただきたいと思っています。
    

 (この項、「」HPより)

右手の店先で外国人がアイスを販売。楽しそうに? 仕事中。

                         重厚な造り。

情趣ある裏通り。右手は「有隣荘」。
                                            大原孫三郎が家族で住むために建てた大原家の旧別邸。独特の製法で焼かれた瓦は、見る角度によって緑色に光り、地元では「緑御殿」とも呼ばれています。

「中国銀行」。

江戸時代から続く「茶道一式 森江商店」。

「デニム製作所」。デニムのスーツが店頭に。

アーケード街、並ぶ商店は見世倉造り。

《おまけ》人々の心を癒す幻想的なあかり

 美観地区を訪れる観光客は、陽の高いうちに町を見てまわる人がほとんどでしょう。この周辺の施設の多くは午後5時を過ぎると閉館するため、夕方には美観地区を離れるという人が大多数だと思われます。日中の明るい日差しの下で見る町並みもとても美しいのですが、実は夕暮れ時からの景観もさらに美しく、おすすめです。
 夕陽が西の空に落ちる頃、美観地区全体が景観照明のやさしい光に包まれ始めます。暗闇の中から浮かび上がるように照らされた倉敷格子や白壁の建物、それらが倉敷川の川面に映る姿は幻想的です。
 この景観照明は世界的な照明デザイナー石井幹子さんがプロデュースしたもので、倉敷市と周辺住民の協力で始まり定着しました。この照明によって昼間とはまた違った表情を見せる夜の美観地区の美しさを、多くの観光客の皆様にぜひ知ってもらい、心ゆくまで堪能してもらえたらと思います。
(この項、「倉敷観光WEB」HPより)

 次回は、泊まりがけでゆっくりと探索してみましょう。
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初めての釧路。その3。

2018-05-14 20:22:51 | つかのまの旅人
                                      夕日が美しい。
「春の像」。春夏秋冬の像があります。
           携帯写真なので実際以上に夕日が大きく見えます。

釧路空港へ戻るまでの時間。つかの間の市内見学。

「幣舞橋」。橋のたもと正面には大きな「花時計」。

幣舞橋(ぬさまいばし)
 釧路川に架かる橋。幣舞の名前はアイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」(nusa-o-mai 幣場の・ある・ところ)が由来とされている。
 幣舞橋は、1889年(明治22年)に北海道内で最も長い木橋「愛北橋」(全長207m、幅3.6m)として架橋されたのが始まりである。それまで渡船により越えていた釧路川に、名古屋に本社を持つ商事会社「愛北物産」が自費で架橋し、有料で橋を運営した。ところが、1898年(明治31年)に橋は倒壊してしまう。
 1900年(明治33年)、官設となる木橋(全長203m、幅4.2m)が架けられ、地域の名称から「幣舞橋」と名づけられた。しかし、この橋も増水による上流からの流木や、冬場の結氷や流氷によって1909年(明治42年)に倒壊。同じ年に新たな木橋(全長203m、幅4.5m)が架けられたが、流木や流水によりおよそ6年で倒壊してしまった。1915年(大正4年)には幅員を拡げた新たな木橋(全長201m、幅7.2m)を架けた。
 1928年(昭和3年)、およそ4年の歳月をかけて永久橋(全長113m、幅18.3m)が完成。歩道と車道が分けられ、車道は片側2車線になった。優雅なアーチを描くヨーロッパ風のデザインと橋上に設置された四基の大理石によるオベリスクは、頑丈なだけでなく美しさも兼備しているとして高く評価され、豊平橋(札幌市)、旭橋(旭川市)と並んで「北海道三大名橋」と称された。
 1976年(昭和51年)、老朽化と渋滞緩和を目的に新たな橋が架橋された。設計は市民参加型で行われ、四基のオベリスクやアーチ型などは旧橋の面影を残しながら新たな試みを採用し、橋脚上には4人の彫刻家による作品「四季の像」が設置されている。
(以上、「Wikipedia」参照)

・春の像 舟越保武 作「若葉が萌えいずる雪解けの季節」
・夏の像 佐藤忠良 作「さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ」
・秋の像 柳原義達 作「迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感」
・冬の像 本郷新 作「寒さと冬をはねのけて春を待ち望む心」
(「国交省北海道開発局釧路開発建設局」HPより)

「冬の像」。

石川啄木の歌碑がある、というので「米町公園」へ。その途中には、
「啄木ゆかりの人 小奴」碑。

明治四十一年一月二十一日石川啄木、妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

  あはれかの国のはてにて
  酒のみき
  かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

  小奴といひし女の
  やはらかき
  耳朶なども忘れがたかり

  舞へといへば立ちて舞ひにき
  おのづから
  悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴もまた啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり七十余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今、此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす

  昭和四十一年十一月
    朝日生命保険相互会社
                   

 以下、「青空文庫」より。
石川啄木と小奴 野口雨情
 石川啄木が歿なくなつてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、況や石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信をおけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。
 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境については石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏によつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで述べてみよう。
 石川の歌集を繙く人は、その作品の中に小奴といふ女性が歌はれてゐることを気づくであらう。
 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。その時東京からの扈従記者は新聞では国民新聞の坂本氏、通信社では電報通信の小山氏、日本通信の吉田氏らであつた、その時の新聞班の係長はつい先ごろまで、千葉県や群馬県の県知事をしてゐた県忍氏で県氏はその当時北海道庁の事務官であつたため新聞班の係長に選定されたのである。
 そこで我等扈従こせう記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。
 時は丁度灯ともしごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢としは二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は
『小奴とは君かい。』
と聞いてみた。すると
『ええ、わたしですが何故ですか。』
と不思議さうに私の顔をみる、私は
『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』
といふと小奴は
『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて
『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』
『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』
『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』
『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』
 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は
『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』
と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。
『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』
『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処どこにゐらつしやるのでせうか。』
 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。
『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』
『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。
 さうしてゐる中に酒席は酣になつて、一同のかくし芸が始まる。小山氏の手品、坂本氏の詩吟等と主客共愉快になつて、大はしやぎにはしやいだ。私は小奴と石川のことを話し合つてゐたために、同行の某君は、けしからんけしからんといひながら傍へよつて来て、たうとう私と小奴との話をさへぎつてしまつた。そこで小奴はまた支庁長の方へ行つて三味線をひきだした。私も大分酔つて来て一行と共に出来ないかくし芸なぞしてはしやいだ。
 やがて宴会が終つて芸者連は帰つてしまつた。私達も旅館へ引きあげようとして階段を下りて来ると、女中が一通の手紙を私に渡した。封筒には唯、野口様と書いただけで誰からの手紙ともわからなかつたが、開けてみると鉛筆の走り書きで、
『石川さんのお話もお伺ひしたうございますから、お帰りに私の家によつて下さい、人力車でいらつしやればすぐでございます。  小奴』
とあるのでその手紙が小奴からであることがわかつた。そこで私は帰りに小奴の家に寄つてみた。家は○万楼から四五丁位の処でその辺は花柳街で、小奴の家は格子戸のはまつた、下が三畳に六畳の二間、二階も一間位はあつたらしい、小じんまりした家であつたやうに記憶してゐる。
 小奴は私の行くのを待つてゐたらしく直すぐに六畳の部屋に迎へて呉れた。壁には三味線が二梃ばかりかかつて本箱の上には稽古本が二冊位のつてゐた。左の方の柱に石川の書いた短冊が一枚かかつてゐた。短冊にかかれた歌の文句は忘れてしまつたが、歌の意味は、『小奴ほど人なつかしい女はない』といふやうなことであつた。全く小奴は人なつかしい温和しい女性でまた正直な女であつた。小奴は酒に酢のものを添へて料理を出して、心から私を歓迎してくれた。
 何でも小奴にはそのころ三つか四つぐらゐになる子供があつた。その子供の親は石川ではなく、小奴の前の旦那の子供であるといふことであつた。小奴の家庭は、小奴とその子供と箱屋と女中とをかねた五十ぐらゐの婆さんの三人暮しで、いふまでもなく小奴は自前の芸者として釧路でも姐さん株であつた。小奴の母親は幼少のころ亡くなつたが、父親は、そのころ、――実の父親か義理の父親であつたかよく記憶はしてはゐないが、――何れにしろ父親は釧路駅の従業員をしてゐて小奴とは別居して暮らしてゐた。小奴と逢つた翌日その父親にも停車場で逢つたが、決して裕福な暮しではなかつたやうである。
 小奴は私に石川のことについて次のやうなことを話して聞かせた。
『石川さんが釧路へ来て間もなく、社(釧路新報社のこと)の遠藤決水さん達と一緒に逢つたのが、初めてで、それから始終石川さんとお逢ひしてゐましたが、初めの中は料理屋の勘定なども無理な工夫をして支払つてゐましたし、私も出来るだけお金の工面もしましたが、たうとう行きづまつて、はてはお座敦に行けばお客達から『石川石川』といつてからかはれお座敷の数もだんだん減つてどうすることも出来ないやうになつてしまつたのです。それに石川さんにはお母さんも奥さんも子供さんまであつて、お金に困りつつ小樽にゐるといふことを遠藤決水さんから聞かせられて、私は第一奥さんにすまないと思ひましたのでそれからは、心にもない不実な仕打をするやうになりました。それとしらない石川さんはその後私を大変恨むやうになりました。そこへまた社の社長(釧路新報の社長白石義郎氏のこと)さんも石川さんに意見をするやうになつたので、それやこれやで石川さんは釧路をたつ気になつたのでせう。
 けれどもたつといつたとこで、一文の金の融通さへも出来ないまでに行きづまつてしまつた石川さんは、丁度その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。
 さあ石川さんが夜だちをしたとなると勘定の滞つてゐる料理ややそばやが皆私の方へ催促をするので私はよくよく困つてしまひました。仕方がないから社の社長の白石さんを尋ねて何とかして下さいませんかと頼みましたが、白石さんはぷんぷん怒つてゐて、てんで取り合つてくれませんでした。尤も石川さんが夜だちをする二日ほど前に
『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんなことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめてもの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありませんから、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』
と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、
『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。
 その後東京へ帰つてから、東京朝日新聞社に石川を尋ねて小奴の話を伝へると、石川はきまり悪さうに笑ひにまぎらして何とも答へなかつた。同じその晩石川と銀座のそばやで一杯やりながら再び小奴のことを話しだすと石川も感慨無量の面もちでうなだれてしまつたので、もうそれ以上私は石川に小奴の話をする勇気がなくなつてしまつた。そしてその後幾度か石川には逢つてもついその話はせずにしまつた。
 それから余程経つた後であつた。小奴にそのうち石川と一緒に釧路へ君を尋ねるといふ葉書を出したことがあつたが、小奴からは何の返事もなく、石川も他界してしまつたので、時折歌集を繙く度に小奴の名の出てくるのをみると、釧路の夕を思ひ出しては芸者小奴は今、どうしてゐるかといふことを考へるのであつた。
     ○
 その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話のはずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都にをりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれた。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いてみると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。
 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君になつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都にゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。
 大正十年といへば今から七八年前のことであるから、今も小奴は京都にゐるかも知れない。
 そのころ無名の詩人であつた石川、今の石川の名声と思ひ合はせて考へた時、小奴はたしかに感慨深いものがあるであらう。
 私も機会があつたら、もう一度小奴に会つて石川の話もしてみたいやうな気もするが単に京都とばかりでは、京都の何処どこにゐるのやら知るよしもなくそのままになつてしまつた。
     ○
 石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚きたんなく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。
 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。
 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。
 このことを石川が地下で聞いたならば苦笑をもらすか、微笑をもらすか、石川のことであるから多分苦笑をもらし乍ら煙草を輪に吹いてだまつてゐるだらうとそれが私の目に見ゆるやうに感じられてくる。
底本:「定本 野口雨情 第六巻」未來社
   1986(昭和61)年9月25日第1版第1刷発行
底本の親本:「週間朝日」
   1929(昭和4)年12月8日

 注:上記の碑文とこの文章では晩年の「小奴」のようすが異なっています。

啄木の恋人は?今も論争 76日滞在の釧路で     
                            (日経新聞2015/1/13付)
 明治期の歌人石川啄木(1886~1912年)が新聞記者として76日間を過ごした北海道釧路市で、当時の恋人は誰だったのか、今も論争が続いている。12日には文化施設「港文館」主催の啄木講座が開かれた。没後100年以上も経過し、何が人々の心を捉えているのか。
 「小奴だというのが通説だが、ふたりは芸妓(げいぎ)と客の関係にすぎず、恋人は梅川操だと思う」。講座で、講師役の釧路啄木会会長北畠立朴さん(73)は持論を展開した。
 恋人と目されるのは、芸妓の小奴と看護師の梅川。講座の女性参加者からは「妻一筋では」との第三の説も飛び出した。
 啄木は1908年1月に妻子を小樽に残し、釧路入り。滞在中、頻繁に料亭に通い、揚げ句に借金を踏み倒して上京。釧路では「女たらしだった」と伝えられている。
 啄木は「小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり」などと歌集「一握の砂」で小奴を詠んでおり、通説の有力な論拠だ。
 一方、梅川は啄木の小説「病院の窓」に登場する看護師のモデルとされ「『喰ひつきたい程可愛く思はれる』と梅川に寄せる思いが書かれている」(北畠氏)という。
 論争が続く理由について北畠氏は「啄木は恋多き男で、作品と恋は切り離せない」と指摘。参加した女性(66)は「啄木の歌は分かりやすく、身近な存在。週刊誌的な話題をしても、誰も傷つけない点もいい」と話す。
 別の女性は「未解明の点が多く、興味深い研究対象」と話す。ただ近年新資料の発見はなく、当面決着の見通しはない。
 啄木が釧路に着いた1月21日に開かれる行事「雪あかり」は今年も、啄木と小奴に扮(ふん)した男女が通説通り恋人を演じる。〔共同〕
(以上、「」HPより)

 「米町公園」にある石川啄木「歌碑」。
 
しらしらと氷かがやき
千鳥啼く 
釧路の海の冬の月かな


 啄木日記の明治41年(1908)1月21日に「・・・九時半釧路に着。停車場から十町ばかり、迎へに来た佐藤国司らと共に歩いて、幣舞橋というを渡った・・・」とあって、76日間の釧路生活が始まりました。啄木22才の時のことです。
 この歌は歌集「一握の砂」に収められた一首であり、歌碑は啄木生誕50周年を記念して昭和9年(1934)に建立されました。この知人岬の地は作家林芙美子の勧めにより選ばれたもので、釧路の啄木歌碑の中では最も古く、全国で6番目に立てられたものです。

 釧路市内には、26基の啄木歌碑などが各所に建てられているようです。


高浜虚子の句碑もあります。
                燈台は低く霧笛は峙てり

 明治・大正・昭和の日本俳句界に大きな足跡を遺した巨匠高浜虚子は、昭和8(1933)年8月23日この釧路を訪れた。
 碑句は知人岬付近から眺めた北の港の厳しさとこれを守る燈台、霧笛への虚子独特の感慨を詠ったものである。一連の中には
露領より帰りし船と鮪船
があり、ともに当時の釧路港の歴史、産業、風土、文化を今に伝えている。・・・


 「展望台」から望む。
釧路港。

                              



                釧路市内。街並み。

 漁港に立ち寄ります。一時の賑わいはなくなった、とのこと。


               

      

 こうして駆け足で市内見物。空港に向かいました。市内は車の数はそこそこありますが。歩く人の姿はほとんど見かけません。たまに、ジョギングしたらり散歩しているのはお年寄りが目立ちます。
 「20万都市から今は17万くらいですか。日本製紙の工場が頑張っているくらい。・・・」送ってくれた方の弁。

「たんちょう釧路空港」。
 
              求愛のポーズのようです。

 夕日に染まる空港。北の大地。



 「啄木ゆかりの地」巡りなどを兼ねて、またゆっくりと訪問したい、と。
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初めての釧路。その2。

2018-05-11 20:27:30 | つかのまの旅人
                                     「釧路市湿原展望台」。

 そこで、釧路湿原へ。

 自然がこの地に与えてくれた歴史的遺産「釧路湿原」は国内28番目の国立公園として昭和62年に指定されました。
 この展望台は湿原に群がる「谷地坊主」をモチーフとした、古風な西欧の城を思わせる建物で、昭和59年にオープン。屋上からは四季折々の湿原の変化を見ることができます。(「パンフレット」より)

展望台から。
 
                  

 見渡す限りの大草原。ただ、尾瀬ヶ原などのような湿原が広く点在しているようですが、意外と起伏があり、樹木に遮られてしまっています。
              

 館内は、展示館のようになっていて、幻の魚「イトウ」なども展示されています。写真がうまく撮れなかったので、「Wikipedia」から借用。

イトウ(伊富、伊富魚、伊当、𩹷 )
 サケ目サケ科イトウ属に分類される淡水魚。別名は糸のように細長い体系を持つ個体が多いことから名付けられたとされるイト、イド、チライ、オビラメなど。
 日本最大の淡水魚として知られており、体長は1mから大きいものでは1.5mに達する。記録上最大のものでは、1937年(昭和12年)に十勝川でおよそ2.1mのイトウが捕獲されたことがある。また体長1㍍に育つまで10年程度の時間が必要である旨、イトウ研究者からの発表もなされており、サケ科の魚としては長命である半面、成長速度が非常に遅いという特性があり、この点がイトウの希少性と相まって、個体数の減少に拍車をかけているものと考えられるため、早急な保護策の策定が急務であると考えられる。
 和名は「糸魚」の意味で、これはサケ類としては全長に比して体高が低く細長い体形である上に、サケとは違い早春に上流に遡上・産卵するため、初春から晩春にかけては生殖活動後の痩せ細った個体が多く見られるために、「糸のように細い魚」という印象が持たれたことによる。婚姻色はしばしば鮮やかな茜色で、大きな魚体を川面に反転する姿が目撃されることから、イトウのハネとして釣り師の格好の狙いの的になることがある。また春に遡上するイトウは、その魚体の大きさから、種川において容易に姿を見つけることができるため、特に遡上期における保護策の徹底が重要である。
 日本では北海道の一部(11水系)の河川・湖沼に、その他樺太や、南千島に生息している。現在、イトウの生息する南限は北海道の尻別川であるが、河川改修や森林の伐採・農地拡大等による汚泥の流入、ダムによる川の寸断などにより、尻別川での自然増殖はほぼ絶望視されている。
 かつては岩手県で1水系、青森県小川原湖のほか1水系にも生息していたが、絶滅した。北海道には広く分布していたが1960年代には9水系での生存が確認できなくなっていた。また、1980年代末には、24水系での生息報告が途絶えた。
 イトウは他のサケ類に見られるように降海性を持つ。急流性の河川は好まず勾配の緩い河川を好み生息し、稚魚の成育には氾濫原の様な水域が必須とされている。一部の個体は汽水域や沿岸域で生活するが、通常は夏季は上・中流域、冬季は下流域で生活する。降海後の海洋での生活史は十分に解明されていない。降海後の個体が沿岸でのサケ・マス漁で混獲されることもある。
 性成熟はメスで6-7歳約55cm、オスで4-6歳約45cmで迎える。他のサケ類と違い産卵後に死なず、一生のうちに何度も産卵を繰り返す(ただし、毎年産卵するわけではない)。北海道での産卵期は3月から5月であるが寒冷な地域では遅くなる。
 卵は鮮やかな朱色で、直径はおよそ6mm。受精後37-40日で孵化する。孵化後の稚魚の体長は1.5-1.7mm。稚魚の身体の側面には6-7個のパーマークがあり、体長が15cmほどになると消える。寿命は長く、15-20年以上生きる。
 当歳魚は岸寄りで流速の緩い場所に好んで生息し、主にカゲロウ類等の水棲昆虫を食べるが、陸生昆虫の水面落下個体はあまり食べない。1歳魚以降は流心に近い場所や、水面上に河畔樹木の枝が張り出した2m以上の水深のある淵などに移動する。また魚食性が表れ、共食いを含め他の魚を食べるようになる。但し、ヤマメやアメマスより動きの鈍いフクドジョウを多く食べているとする研究がある。大きな個体はカエルやヘビ、ネズミ、水鳥のヒナ等を食べることもあるほどの悪食さでも有名で、後述のように鹿を飲んだという伝説すらある。
                          

遊歩道を少し歩いてみます。
 釧路湿原国立公園は、わが国最大といわれる釧路湿原を中心にその周囲の湖沼を含み、釧路市・標茶町・釧路町・鶴居村にまたがる28,788ヘクタールの面積を有しています。
 ハンノキの木立を点在させたヨシの草原と蛇行する河川などがおりなす広大な水平景観、その中に見られる動植物のさまざまな営みと原自然の保存度の高さは、わが国では他に類例がない特異性をもっています。・・・


                       

 残念ながら直接湿原に触れあう機会がなかったので、HPより写真をお借りします。


 広大な湿原のとばっくちに立ち寄っただけです。
     



           

       

 もちろんこうしたところに立ち入ることはできません。遊歩道の先にある木道だけでも歩いてみたかった、と。ぜひ機会があれば訪ねてみたいと思います。

 「釧路湿原」は「ラムサール条約」によって保護されています。


                
ラムサール条約
 湿地の保存に関する国際条約。水鳥を食物連鎖の頂点とする湿地の生態系を守る目的で、1971年2月2日に制定され、1975年12月21日に発効した。1980年以降、定期的に締約国会議が開催されている。
 正式題名は特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(英:Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat)。
 「ラムサール条約」は、この条約が作成された地であるイランの都市ラムサールにちなむ通称である。

 車の中からの景色。一面に広がる湿原は金網でしっかりガードされ、保護されています。


                 

 一部では宅地化されて農場や建物などがあります。案内してくれた方に尋ねると、湿原をそうするためには水抜きで何年もかかり、その上に土盛りをしてさらに何年もかかってようやく利用できるようになるそうです。
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初めての釧路。その1。

2018-05-10 19:50:45 | つかのまの旅人
                                丹頂鶴自然公園。
 台湾から帰国して次の日曜日。釧路に出かけました。初夏の台湾から4月の東京に戻り、そしてまだ春浅い釧路へと日帰りの旅。
 しばらく音信不通だった方とお会いすることは出来ず、残念! でも、他の方々のお元気な姿に一安心。釧路空港に着いてからのひとときと帰りの便までの間のひととき。ちょっとばかり釧路の観光案内をしてもらいました。
「釧路市丹頂鶴自然公園」パンフレット。
 この公園は絶滅の危機にあるタンチョウを保護増殖するため、昭和33年(1958年)5羽のタンチョウが放され開園しました。
 10年後に自然ふ化、昭和45年(1970年)には人工ふ化に成功して以来、多くの増殖を手がけてきました。・・・現在、20羽のタンチョウが放飼されています。

餌場に近づくタンチョウ。

餌を食べにやってくるタンチョウ。それ以上にカラスが狙って横取り。しかし、タンチョウは鷹揚に構えています。 

 柵に囲まれていますが、園内は自然の湿原を保っています。
 

                    

 冬の季節では園外で自然に生活するタンチョウを身近に見ることができます。しかし、それも保護活動によるところが大きいようです。冬に入ると、大部分のタンチョウは給餌場に集まってきます。

 以下、HPより。

 開発で森は消失し湿原も荒廃してしまい、湿原の生物多様性も危機にさらされています。
日本野鳥の会では、タンチョウを湿原の生物多様性保護のシンボルとして、その保護活動に取り組んでいます。
タンチョウとは
 日本で最大級の野鳥

 タンチョウは日本の野鳥の中では最大級で、全長は1m40cm、つばさを拡げると2m40cmもあります。生息地は北海道東部に限られていて、本州などではほとんど見ることができません。日本では7種類のツルが観察されていますが、国内で繁殖するのはタンチョウ1種類です。
 巣は湿原のヨシ原の中で、ヨシを直径1mほどの大きさに積み上げて作ります。巣は卵を2個産み、雌雄が交代で温めて約1ヶ月でふ化します。ヒナはふ化するとすぐに歩くことができ、両親と一緒に湿原の中で餌を探しながら育ちます。子別れは翌年の冬が終わる頃です。
 大陸ではロシアや中国の東北部にも生息しています。大陸のタンチョウは渡りをし、冬は朝鮮半島や中国南部に移動しますが、現在の日本のタンチョウは渡りをしません。
 タンチョウは漢字で「丹頂」と書きます。「丹」は赤い、「頂」はてっぺんという意味で、頭のてっぺんが赤いためこの名前が付きました。頭の赤いところには羽がなく、ニワトリのとさかのようになっています。
 江戸時代までは北海道各地にたくさんいたようで、関東地方でも見られたようです。
 しかし明治時代になると乱獲され、さらに生息地である湿原の開発により激減してしまいました。そして全く見られなくなったため、大正時代には絶滅したと思われていました。
 しかし大正時代末期の1924年に、北海道東部の釧路湿原で十数羽が再発見されました。その後、1935年に天然記念物、1952年には特別天然記念物に指定され、国や自治体による保護施策が講じられるようになりました。当初は、ドジョウの放流やセリなどの植物の移植などが行われましたが、なかなか数が増えませんでした。
 1950年頃の猛吹雪の日、数羽のタンチョウが畑に置かれた冬の保存用トウモロコシを食べにきました。これをきっかけに給餌がうまくいき、各地で給餌活動が行われるようになったことで現在は千羽を超えるまで数が回復しています。
 千羽を超えたことは良い傾向ですが、しかし依然として北海道東部にだけの分布で、昔のように広く見られることはありません。生息地である湿原の面積は減少する一方で、残されている湿原も保護指定がなされていないところも多く、いつ開発されてもおかしくない現状です。
湿原の減少に加え、周辺の森林の多くも伐採されてしまいました。森が無くなると湧水が少なくなるので、川が冬になると凍ってしまいます。凍ってしまうと餌を採ることができないため、冬は人からの給餌に依存し生き延びている状況です。
 近年では道路に出てきて交通事故にタンチョウもいます。また列車や電線への衝突事故もあります。
数が増えてきているとはいえ、決して安心できる状態にではありません。
 日本野鳥の会では1987年に北海道阿寒郡鶴居村に「鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ」を開設し職員を常駐させました。ここは故・伊藤良孝氏の所有地で、元々、伊藤氏が個人で給餌をしていた場所です。伊藤氏と協定を結ぶことで、サンクチュアリとなり、伊藤氏が亡くなられた後も、協定はご遺族に引き継いでいただき、サンチュアリは継続しています。
 サンクチュアリでは、伊藤氏の活動を引き継いだ冬期のタンチョウへの給餌活動のほか、生息する湿原の保全や調査、普及教育やボランティアの受け入れなど様々な活動を行っています。
 伊藤良孝氏は、鶴居村で酪農の傍ら1966年(昭和41年)よりタンチョウに給餌を始め、その後北海道の委嘱でタンチョウ給餌人(1968年~1996年)、タンチョウ監視人(1981年~2000年)を務め、タンチョウ保護を支えられました。
 サンクチュアリがオープンした1987年以降は、サンクチュアリのタンチョウ・レンジャーとして後進の指導、育成にもあたられ、タンチョウへの給餌の方法や採餌環境の整備など様々な知識が現在のレンジャーへ受け継がれています。
 1987年に北海道根室市でタンチョウが営巣する湿原約8haを買い上げ、民間としては初めての野鳥保護区を設置しました。その後も湿原を買い取るなどして保護区化を進めた結果、現在では21ヶ所、約2,600haをタンチョウの生息地として保護しており、そこにタンチョウ30つがいが生息しています。
 これらの野鳥保護区は当会のレンジャーが定期的に巡回し、タンチョウの生息状況や環境の変化、侵入者などの監視なども行っています。
 鶴居村の早瀬野鳥保護区温根内では、周辺の森林の開発により湿原に土砂が流れ込むことで、ヨシ原にハンノキが繁茂し、1994年以降、タンチョウが繁殖できない環境になってしまいました。1999年からハンノキを伐採し、ヨシ原を復元する事業を進めてきた結果、2002年から再び繁殖がはじまりました。・・・
 現在、タンチョウの生息数は千羽を超え、極めて危険な状態は脱しました。しかし冬の採食場所はまだ少なく、給餌に依存して越冬している状況は改善されていません。その原因のひとつは、明治時代以降の森林伐採で土地の保水力が不足し、湧水が減少してしまったことです。湧水が豊富に流れ込む川は厳冬期でも凍結しない水面が残り、タンチョウが餌をとれます。また湿原を乾燥化させて農地などにしたため、やはり冬に凍らない水面がほとんど無くなり、湿原でも餌を探せなくなっています。
 このため、現在では冬の採餌環境(冬期自然採食地)を増やしたり、復元する活動を進めています。2009年には、サンクチュアリ内に、冬も凍らない水路を作り、タンチョウが利用しやすいように樹木の間伐を行いました。すでに、最大20羽にもなるタンチョウが冬に利用しています。
 2010年には、鶴居村内の農家の協力を得て、樹木に覆われた水路を整備することで、タンチョウの自然採食地になるようにしました。今後も、畑の水路や採餌場所となる水辺を整備し、自然採食地を増やしていきます。
 現状では、冬の給餌を行わないと生息数は10分の1にまで減るといわれています。11月~3月までの冬期、餌不足を解消するため、サンクチュアリの給餌場で飼料用トウモロコシ(デントコーン)を給餌しています。サンクチュアリの給餌場は約13haの面積があり、タンチョウが来ない春~秋の間は、牧草の採草地として地元の酪農家に活用されています。採草地に使われていることで、管理コストをかけずに給餌場に適した草地環境を維持することができています。
・・・
 10月~3月の間は、鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリのネイチャーセンターを開館しており、どなたでも無料でお入りいただけます。センターではタンチョウの生態や保全状況など様々な情報をご提供しています。センターの利用案内はこちら。そのほか、フォトコンテストや写真展などを全国で開催したり、環境イベントにブース出展してタンチョウの現状について広く伝えています。また、タンチョウの生息する地域の子どもたちを対象に、タンチョウイラスト展を実施しています。
 タンチョウの繁殖環境や冬期自然採餌環境の保全、鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリの運営は、日本野鳥の会への会費や寄付を財源に進めています。タンチョウと湿原の生物多様性保護のため、どうぞご支援をお願いします。

タンチョウ(丹頂、Grus japonensis)種小名japonensisは「日本産の」の意。
 鳥綱ツル目ツル科ツル属に分類される鳥類。その美しさから、日本や中国では古来深く親しまれてきた鳥である。 折鶴、千円札、昔話などで身近なことから、鶴(タンチョウ)は日本を象徴する鳥になっている。
 全長102 - 147センチメートル。翼長64 - 67センチメートル。翼開長240センチメートル。体重4 - 10.5キログラム。全身の羽衣は白い。眼先から喉、頸部にかけての羽衣は黒い。頭頂には羽毛がなく、赤い皮膚が裸出する。タン(丹)は「赤い」の意で、頭頂に裸出した皮膚に由来する。・・・
 食性は雑食で、昆虫やその幼虫、エビ類・カニ類などの甲殻類、カタツムリ類・タニシ類などの貝類、ドジョウ類・コイ・ヤチウグイ・ヌマガレイなどの魚類、エゾアカガエルなどのカエル、アオジ・コヨシキリなどの鳥類の雛、ヤチネズミ類などの哺乳類、セリ・ハコベなどの葉、アシ・スゲ・フキなどの芽、スギナの茎、フトモモ・ミズナラなどの果実などを食べる。
  奈良時代以降は他種と区別されず単に「たづ・つる」とされ、主に「しらたづ・しろつる」といえば本種を差していたがソデグロヅルも含んでいたと推定されている。

若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさしてたづ鳴き渡る(山部赤人「万葉集」)

 アイヌ語では「サロルンカムイ」と呼ばれ、これは「葦原の神」の意がある。
 日本では1924年に釧路湿原で再発見されるまでは絶滅したと考えられていた。
 北海道での生息数は2012年における確認数は1,470羽で生息数は1,500羽以上と推定されている。
 江戸時代には、江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた。
                            広重「蓑輪金杉三河島」。
タンチョウは毎年10月から3月にかけて見られたという。幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた。 給餌の際はささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという。タンチョウは午後6時頃から朝6時頃まではどこかへ飛び去るので、その間は矢来内に入ることを許された。 近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという。こうした“鶴御飼附場”では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた。 
 東アジアにおいては古くから、タンチョウはその清楚な体色と気品のある体つきにより特に神聖視され、瑞鳥とされ、ひいては縁起のよい意匠として、文学や美術のモチーフに多用されてきた。 また、「皇太子の乗る車」を指して「鶴駕(かくが)」と呼ぶように、高貴の象徴ともされた。
 道教的世界観の中ではとくに仙人、仙道と結びつけられ、タンチョウ自体がたいへんな長寿であると考えられたほか、寿星老人が仙鶴に乗って飛来するとか、周の霊王の太子晋が仙人となって白鶴に乗って去ったといった説話が伝えられている。
 なお、古来の日本で「花」といえば梅を指したのと同じように、伝統的には、中国や日本で単に「鶴」と言えばタンチョウを指しているのが通常である。
 通俗的には、「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と能曲『鶴亀』や地唄にも謡われるように、鶴と亀はいずれも長寿のシンボルとされ、往々にしてセットで描かれてきたほか、また花鳥画以来の伝統として松竹梅などとあわせて描かれることも多い。花札の役札「松に鶴」などもこうした流れのものであるということができる。
 アイヌ民族の間にはタンチョウの舞をモチーフにした舞踊なども伝えられている。
 1964年(昭和39年)、北海道の道鳥に指定されている。 日本航空のシンボルマークはいわゆる「鶴丸」。
      家紋としての「鶴丸」。
(以上、「Wikipedia」参照)

              

解説板。

 身近に見ることが出来ました。大型でなかなか見応えのあるツルでした。

 今日から16日までの7日間が「愛鳥週間」(バードウィーク)です。

帰りがけに、柵の向こうになにやら?

奇妙な球状の植物がぎっしり、頭を連ねています。何ですかと聞くと、「谷地坊主(ヤチボウズ)ですよ。」


 そう言われてみると、けっこうあちこちに群生しています。頭を覆うように枯れ草がたっぷり。己と比べてそのたくましさに敬服。ただし、季節的には春、まだ浅しで枯れ草の塊のようになっています。そこで、

釧路湿原の魅力3 ヤチボウズ・ヤチマナコ
 ヤチは谷地、湿原を意味し、マナコは眼のことで、漢字を当てれば谷地眼。ヤチボウズは谷地坊主と書く。谷地を歩いていると必ずこの異形の存在に出会う。楽しいトレッキングは、一気にミステリーゾーンに迷い込む。ヤチマナコとは、要するに水が溜まった落ち窪みのことで、例えば夕日に赤く照らされた水面などは夕闇の中で赤い眼がギロリと見開いているように見えないこともない? ところで、ただの水溜まりと侮ってはいけない。底なし沼というほどではないが、マンホールほどの大きさの穴の深さが3〜4メートルにも達するという。
 一方、ヤチボウズだが、その名のとおり高さ1メートルほどの坊主頭が草原に点々と並ぶさまはかなりシュールである。実は丸坊主ではなく、長髪もいればモヒカン頭もいる。これはスゲの根っこが未分解物とともに成長を重ね、さらに冬の凍上現象が加わって長い歳月をかけて盛り上がってできたものらしい。 湿原ならではの水のいたずらでできた、マナコとボウズの凹凸コンビ。不気味ではあるが、ちょっとユーモラスでもある。

 

(以上、HPより)

 「谷地坊主」をもう少し詳しく説明したもの。
 川の流域や沢地に、カブスゲやヒラギシスゲといったスゲ類の植物が盛り上がって株をつくります。これがヤチボウズです。
葉は秋に枯れて倒れます。枯れた葉は気温が高いと微生物などに分解されてなくなることが多いのですが、低温過湿の湿原では微生物の活動が活発ではなく、枯れた状態で残ります。
 冬には凍結作用で株ごと持ち上げられ、春には雪解け水が根元を満たして株周囲の土を侵食し、枯草の間から新しい葉や茎が生育してきます。
これを繰り返し、40~50cmの高さに盛り上がります。形がちょうど坊主頭のように見えるので、ヤチ(谷地)すなわち湿地の坊主、ヤチボウズと呼ばれるようになりました。
(この項、HPより)
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初めての台湾。その5

2018-05-08 23:03:28 | つかのまの旅人
                      珠玉の作品が多数、一同に。


        

     

    

つかの間の見学でした。

 最終日は関係者のビルに立ち寄ってお世話になった御礼と帰国の挨拶。
 
 遠くに見える高層ビルは「台北101」。

台北101(タイペイいちまるいち、中国語: 臺北101)
 台北市信義区にある超高層ビル。地上101階建てで、名前はこれに由来する。高さは509.2mで、地下は5階まである。
 7年間の工期を経て、2004年に世界一の超高層建築物として竣工した。設計は李祖原建築事務所、施工は熊谷組を中心としたJVにより行われた。総工費は約600億元。
 2004年12月31日、出入口でオープンを祝う式典が催され、当時の馬英九台北市長と陳水扁中華民国総統も出席してのテープカットが行われた。また、2005年12月31日の大晦日にはこのビルのある市政府で、カウントダウンイベントが行われ、台北101から電飾と共に2分強の間、「節」などから大量の花火が打ち上げられた。(注:この「大晦日の花火打ち上げ」は現在も行われているようです。)
 毎年5月(開催当初は6月)には、このビルの1階から展望デッキのある91階までの2046段の階段を駆け上がる「台北101國際登高賽」レースが開催されている。
 509.2メートルという高さは2007年7月にブルジュ・ハリーファに抜かれるまでは、完成建築物としては世界一高いものだった。全面ガラス張りの近代的建築ながら、輪郭は伝統的な宝塔と竹の節がイメージされている。また、環境設計や安全を踏まえ設計された。例えば、この外面のガラスは8トントラックが乗っても耐え得るほどの強靱さをほこり、さらに、紫外線や熱量を2/3カットする性能を持ち併せ、内部が暖まるのを防ぎ冷暖房を効きやすくしている。
 杭は8本の巨大な柱で、支持層(岩盤)の下30メートルまでしっかり打ち込まれている。風による振動を緩和するために、巨大なTMD(チューンドマスダンパー)が建物上部に設置されている。
 27階から90階にかけて、逆台形をした8階分を一節として、8つの「節」が縦に連なる。24階から27階にかけて、中華圏の昔の貨幣(通貨)をイメージしたオブジェが各方位に設置されている。
 中華圏において8は縁起の良い数字であることから多用されている。

ビルの屋上からの展望。あいにくの雨空。

      

 こうして四泊五日の旅も終了。羽田に午後6時過ぎに到着しました。偏西風に乗って3時間弱。機内食で一口蕎麦が出たので、久々の日本食。

 機会があったら、また行ってみたいと思います。

                   空港ロビーにて。

台湾のお金。 

お土産。

「パイナップルケーキ」。

そして「金魚ちゃんティーパック」。
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初めての台湾。その4。

2018-05-07 21:08:52 | つかのまの旅人
                                 「翠玉白菜(すいぎょくはくさい)」(清)。
                
 翠玉白菜の大きさは高さ18.7センチメートル×幅9.1センチメートル×厚さ5.07センチメートル。
 原石は、半分が白、半分が緑の翡翠(ヒスイ)輝石で、原産地は雲南からミャンマーだと推測される。原石には空洞などの欠陥箇所もあるが、この彫刻ではそれが白菜の茎や葉の形にうまく活かされている。上部の緑色で白菜の色を再現しているが、これは人工着色ではなく、石に元から付いていた色を生かしたものである。このように原料本来の形のみならず、色目の分布をも生かした玉器工芸は「俏色(しょうしょく)」といい、硬玉が中国に普及する清朝中期以降に流行した。清代に本作と類似した作品が数例あるが、そのなかでも翠玉白菜は、新鮮な葉の息吹まで感じさせる瑞々しい造形や、白と緑の対比や緑の濃淡差によって小品とは思えないほどの深い奥行き感をもち、俏色のなかでも最も完成された作品の一つと言える。
葉の上にはバッタとキリギリスが彫刻されており、これは多産の象徴と考えられている。しかし、このキリギリスは学名Gampsocleis gratiosaと呼ばれるものであり、「螽斯篇」(『詩経』の一篇)の「螽斯」の意味とは異なる。この虫は、鳴くことが得意とされており、清の康熙帝の時代から、宮廷で宴会の雰囲気を盛り上げるために用いられていた。したがって、イナゴと同じように子孫繁栄を象徴しているとは解釈できない(『翠玉白菜上の昆蟲研究』洪章夫)。白い白菜の方は純潔の象徴とする説が有力であり、このように解釈すると後述の瑾妃の寝宮から発見されたという史実と整合性が取りやすい。
 現在は木製の台に斜めに立て掛けられて展示されている。しかし、本来は盆景の一部として、四枚の花弁を象った琺瑯の小さな植木鉢の上に、四角い木製の支持具によってまっすぐ立った姿であった。ところが、1925年に故宮博物院が開館する際、当時の展示担当者はこのような組み合わせでは白菜の特質を壊してしまうと考え、また直立する白菜の姿にも違和感を感じたため、簡易な木製の台をわざわざ新規に作らせて現在のような鑑賞形態となった。この琺瑯鉢と支持具は長らく行方不明だったが、21世紀になって再発見され、現在は翠玉白菜の隣に展示されている。・・・
 この彫刻の作者は伝わっていない。
 (以上、「Wikipedia」参照)

 
        肉形石(にくがたいし)
 国立故宮博物院で最も人気のある文物の一つです。素材は玉髄類の碧玉で、石が形成される過程でいくつもの層が重なり色合いのある縞模様が生まれました。自然原石のままの肉部分と無数の穴を開け染色された上部の皮部分との自然と人工の絶妙な組み合わせが見事です。
 冷たく硬い石を柔らかくとろけるような「東坡肉(トンポーロウ、豚の角煮)」に変えてしまうという工匠の巧みな思いつきです。北宋の文学者、蘇軾は黄州に左遷されていた時に「豚肉頌」の中で「肉が煮えるのを自然に任せるのだ。煮上がった時、それは自ずと輝き出す... ... ああ満腹で満ち足りている」と詠みました。また別の宋人は「芭蕉の葉に包んで蒸し、火が通ったら酒をふりかける。黄金色の照りといい、箸がふるえる柔らかさ」と豚肉を調理する詩を残しています。
 「肉形石」は中国人の玉文化だけでなく、食文化の特色をも表しています。「この世の美しい物が、私を食いしん坊にしたのだ。」と蘇軾が言うのも無理はありません。
 どうです?この石を見るとお腹がすいてきませんか?
HPより)

 この肉形石は、もとは紫禁城の「養心殿」に陳列されていた。「養心殿」は、雍正帝(1678年―1735年)以降の皇帝の執務室であるとともに寝室である。1924年(民国13年)に清朝最後の皇帝の溥儀が紫禁城を追われた翌1925年、故宮に遺された文物を点検する清室善後委員会のメンバーが、この肉形石を見て、あまりに豚肉にそっくりなため、「豚肉の化石」と目録に記したというほどのエピソードが残る。
(この項「Wikipedi」より)

 二つともすごい緻密な造形美です。感動! いくら見ていても飽きません。

「パンフレット」表紙。

館内を現地のガイドさんの日本語による案内で回ります。

「璧」。
 璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信を表すものとして使われた玉器。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。

 精緻な作品群。

           

  「象牙透彫雲龍文套球」。
 象牙細工。わずか直径12センチほどの球の表層には精巧な9匹の龍の彫刻が彫られ、その中には透かし彫りの幾何学文様が施された24層の球体があり、各層自由に回転させることができる。

中国では宝石を「玉」と称しています。

「翡翠」製。
                      
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初めての台湾。その3。

2018-05-05 20:49:57 | つかのまの旅人
                 衣料品チェーンストア「しまむら(日本思夢樂)」の開店広告。台湾には40店舗以上、展開しているとのこと。

「振り込み詐欺」の注意喚起の宣伝も。「防詐騙」。
           台湾でも社会問題になっているようです。
 
 「北投」地区には温泉があります。そこで昼食。張学良が幽閉されていたところのようです。どんどん山道を上っていきます。


 

張 学良(ちょう がくりょう、1901年6月3日 - 2001年10月14日)
 中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。字は漢卿。軍人時代の最終階級は国民革命軍一級上将。
 1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として台安県桑樹林子郷にて出生。
 満州の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。
 1928年6月4日、父・作霖が関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。 当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。
 1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
 1931年満州事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。
 1936年共産党と「抗日救国協定」を結んだ。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。
 1936年12月25日に反逆罪により逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。
 1945年に第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾島に逃れたが、この際に張も台湾に移され50年以上も軟禁され続けた。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。
 1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた形となった。
 1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相についてとは証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。同時に青年期にアヘン中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。
 張学良は中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶した。その後、1991年に釈放され、アメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。

西安事件
 1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。


                      

「小帥禅園・台北北投張学良軟禁旧居」。
 小帥禅園は1920年代に建てられ、元々「新高旅社」と呼ばれて北投の温泉区でも名高かった。また、第二次世界大戦のとき、日本軍に神風特攻隊が出陣前の接待所として使われていたのです。1960年代、中国東北出身の若い将軍張学良と婦人趙一荻氏が一時期ここで軟禁されていた。・・・

一般的な中国料理よりもあっさりいています。

そこからの眺め。

風光明媚な土地です。

昼食後、「故宮博物院」の見学に赴きます。


「国立故宮博物院」。
 フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュと並んで世界四大博物館のひとつに数えられています。故宮博物院には、およそ70万点近くの収蔵品があると言われていますが、常時展示している品は、6000~8000点。特に有名な宝物数百点を除いては、3~6カ月おきに、展示品を入れ替えているため、すべてを見て回るには、10年以上はかかると言われています。
 コレクションは、玉器は8000年前のものから、5500年前の新石器時代の翡翠の彫り物、4400年前の陶器、3300年前の青銅器・象形文字、2200年前の秦の始皇帝の時代、さらに隋、唐、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承し、その内容も数も極めて豊富です。中国芸術文化の集大成!
 中華民国は、建国13年目に清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、1925年10月10日、紫禁城を故宮博物院として正式に設立させました。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた世にも稀なる貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、鑑賞できるようになりました。
 また、南京に設立された中央博物院籌備処の文物は、1937年11月、戦火を逃れるため水路により西の重慶へ移され、1939年には昆明、楽山にそれぞれ運ばれた後、四川省南渓の李荘に安置されました。が、1945年8月、日本が降伏すると、奥地に移されていた中華文物は、再び全てが南京へ運ばれました。
 1948年の秋、国共内戦の結果、蒋介石率いる国民党中央政府は、故宮博物院および中央博物院籌備処の優れた文物を台湾へ移すことを決定。同年末、第1陣の文物が南京を出発し、海路により基隆に到着、翌年には第2、第3陣の文物も合わせ、全部で2972箱が台湾に運ばれました。しかし、これでも北京から台湾まで南遷した文物は全体の22%に過ぎませんでした。しかし、そのうち852箱の中央博物院所蔵の文物は、そのほとんどが逸品で占められています。
 2016年12月から、館内で写真撮影がOK! ただしフラッシュの使用は禁止。
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初めての台湾。その2。

2018-05-02 20:45:32 | つかのまの旅人
                  赤煉瓦が映える「中華民国(國)総(總)統府」。

 日本統治時代の1919年に完成した建物(設計:長野宇平治)で、台湾総督府として利用されていた。
第二次世界大戦末期のアメリカ軍による空襲によって内部が全焼し、中にいた職員の多くが死傷、建物も大きく破損した。世界大戦終結後に台湾へ進駐した中華民国政府が接収し、修復を行ったため1948年に元に戻った。その後蒋介石総統生誕60周年を記念し「介寿館(介寿とは蒋介石の長寿を祝うという意味)」と名を改めた。
 翌1949年、国民党が国共内戦の際、中国より追われる形で台湾に中華民国の首都機能を移転。以降、中華民国の総統府として利用されるようになった。現在、文化資産保存法により国定古蹟として登録されている。
 上空からの写真では日本の「日」に見える。
(以上、「Wikipedia」より)
注:長野宇平治
 辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残しました。「日本銀行本店本館」(1896/明治29年)が現存し、国の重文として登録されています。

 この建物は、もと「台湾総督府(日清戦争の結果、清国から割譲された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁)」の建物。
 台湾総督府は、明治28年(1895年)4月17日に調印された下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することとなった。同年6月17日、台北において始政式が行われ、台湾総督府による台湾統治が正式に開始された。
 ただし台湾総督は内閣総理大臣の、さらにのちには内務大臣や拓務大臣などの指揮監督を受けることになっており、宮中席次でも朝鮮総督が第6位なのに対して台湾総督は親任官として第11位と、陸海軍大将や枢密顧問官よりも地位が低かった。
初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。児玉源太郎総督の下で明治31年(1898年)に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
 昭和20年(1945年)10月25日の中国側への降伏調印式において事実上その職権を停止。以後業務を台湾地区日本官兵善後連絡部へ引き継いだ。昭和24年(1949年)6月1日に新憲法に基づく国家行政組織法が施行され、これにより台湾総督府は法制上も消滅した。
 初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、六三法によって特別立法権までもが付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものだった。
こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀・桂太郎・乃木希典・児玉源太郎・佐久間左馬太・安東貞美・明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。
 そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものだったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。
 その明石が総督のとき、総督の下にあった台湾軍の指揮権を台湾軍司令官に移譲したため、以後台湾では文官でも総督になることが可能になった。
 台湾の統治方式が抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。
 二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものだったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。この貧乏くじを引いたのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは当時の新聞が「異例中の異例人事」と評するほどの驚愕人事だった。
 小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢だったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。
 太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和19年(1944年)暮、人材の不足や台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将に台湾総督を「兼任」させられると、前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。一方で台湾人にも帝国議会の選挙権や被選挙権が与えられるなど、日本人との台湾人の関係対等化も進んだものの、翌年の終戦によって、台湾総督府も閉鎖機関に指定され、解体されることになり、昭和20年(1945年)10月25日、台北公会堂で安藤は陳儀中華民国台湾省行政長官との間に降伏文書を交わし、半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕を引いた。
(以上、「同」参照)

 翌日、翌々日とお祝いの行事が続き、台湾の方々とも親しく交流できました。
 23日にはじめて台北市内を案内してもらいました。

「総統府」前の大通り。

「台北賓館」。
 日本統治時代の明治32年(1899年)に起工し、明治34年(1901年)に完成した。もともとは台湾総督の官邸として建てられた。設計は当初福田東吾と野村一郎が担当し、後に森山松之助も設計に携わった。
建物はバロック風の二階建てで、庭園は日本風である。
 日本統治時代においては、台湾総督の暮らす住居と執務の場である官邸であった。また、迎賓館としても使用していたため、内装は豪華絢爛で、皇太子時代の昭和天皇をはじめ、数々の要人が宿泊した。
 もっとも、住居としての使い勝手は、必ずしも良くなかったことから、この官邸を使用することは次第になくなり、田健治郎(第8代台湾総督)の時に、総督の日常生活を行う住居として数寄屋造りの別館が新設され、総督の公邸として使用された。
 第二次世界大戦の終結後、建物は中華民国に引き渡され、以降迎賓館として使われるようになった。
 日華平和条約はこの台北賓館で1952年4月28日に調印された。(「同」)

「景福門」。

 

「中正紀念堂」。
 初代総統である蒋介石の顕彰施設。
 中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である。
 蒋介石生誕90年に当たる1976年10月31日に起工式が催され、1980年3月31日に完成した。蒋介石逝去5周忌の4月4日に併せて落成式が盛大に行われ、海外の3000名余りの華僑・華人が参加し、翌4月5日に一般公開された。
 民進党政権下での「台湾正名運動」の影響で、2007年には「台湾民主紀念館」に改名され、入り口の門に書かれた「大中至正」の文字が「自由広場」に架け替えられ、儀仗隊交代式が中止していた時期がある。国民党が政権復帰した2009年に、再び元の「中正紀念堂」に戻る(ただし、「自由広場」はそのままである)。

蒋介石座像と儀仗隊。
                                    微動だにしない儀仗隊。
中国大陸を望んでいる。

 敷地面積は25万平方メートルに上り、日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地である。敷地中には本堂のほかに国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園、池(光華池・雲漢池)なども併設されている。本堂を始めとするこれらの施設は市民達の憩いの場となっている他、公園広場は政治的な集会の場として使用されることも多く、特に1987年の戒厳令解除後には学生運動やストライキの集合地点としてしばしば使用された。


                               

 敷地の東側に位置する紀念本堂の面積は約1万5千m2で、建物の高さは70mにも及び、西にある中国大陸を臨むように設計されている。本堂正面には高さ30メートルの大中至正門と他2つの門があり、その内部はメインフロアと地階に分けられている。メインフロアの奥には巨大な蒋介石の銅像が設置されており、銅像の上部には蒋介石の基本政治理念であった「倫理、民主、科学」という三民主義の本質が、像の土台には蒋介石の言葉がそれぞれ記されている。日中は像の両脇で儀仗隊が警護しており、1時間ごとに交代の儀式が行われる。なお、フロアの天井の最上部には国章である「青天白日」の徽章が描かれている。
 午前6時30分に儀仗隊が中正紀念堂に進駐し、午前9時より警護及び毎時交代儀式が行われている。儀仗隊交代式は台湾観光の名物となっている。なお、儀仗隊の交代儀式は、水曜日は午前10時から午後6時まで、それ以外の日は午前10時から午後4時まで、1時間ごとに行われている。
 蒋介石を追悼する場であると同時に、中国文化・精神と中華民国の思想(イデオロギー)を示す場でもあるため、建物の各部分が様々なテーマに基づいて設計されている。

左右にスローガン。 

「青天白日」の徽章。

 1時間毎に行われる儀仗隊の交代儀式は台湾観光の名物らしい。
 

 交代終了、まるでろう人形のような気配には驚き。
 



                     

北側から。

通りは南国の趣き。

    

 そのあと、「国家文創礼品館(原台湾手工業推広中心)」で民芸品を見学しながらお土産を。通りに出るとなにやら抗議? 集会が。
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初めての台湾。その1。

2018-05-01 21:08:04 | つかのまの旅人
                                  4月20日 台北(臺北)松山空港(機場)。

台北市内案内図。

 久々の外国。お祝い事があって、初めての台湾。行事が続いて市内見物は一日半のみ。時差が1時間なので、アメリカの時とはだいぶ楽です。天気も日本の同じ時期に比べて蒸し暑いですが、それでも体調はよし。
 最終日には雨に降られましたが、薄曇りの中での台湾です。
 漢字圏なので会話は無理ですが、看板や標識は何とか分かりそう。旧字体なのがちょっと大変。
 日本語表記に漢字、ひらがな、カタカナと三種類あるのは、実に恵まれている、と実感。何しろ外来語をカタカナで表示できるのはいいです。「ブリヂストンタイヤ」「ファミリーマート」などはそれぞれ「普利司通輪胎」、「大家」(これはうまい表現! )「セブンイレブン」は日本と同じロゴで表示。
 漢字でも「歯」が「牙」だったりして。余談ですが、バスから通りを眺めていると、けっこう「歯医者(牙醫診所)」が目に付きます。「植牙」はインプラントでしょうか? 地元の方に聞くと、歯並びなどにはけっこう気にしていて、小さい頃から矯正歯科に通わせるそうです。
 そういえば楊枝も歯間ブラシのようなものになっています。

 質屋(金貸し)は「當舗」といい、店には大きく「當」という漢字が出ています。そういう店がけっこうたくさん。日本の質屋と違う所は、両替として利用されている所もあるということで、台湾を観光される方などは「當」で両替される方もいるようです。
 汽車(ちー・ちゃー)屋さんが多いのにも驚き。車の整備からタイヤ販売などいたるところに店を構えています。バイクも大型ではなく、かつてのホンダのカブを大きくしたバイク(二人乗り)がたくさん。それも三人乗りして車の中を縫って走っています。交差点では何重にも列をなして停まり、信号が変わると、一斉にスタートする光景は日本ではほとんど目にしなくなっています。


 その分、自転車はあまり見かけません。けっこう上り下りの多い町のせいかもしれません。ところどころに「レンタル自転車」でしょうか。同じ自転車が何台も置いてあります。
            

「行天宮」。
 台湾の台北市中山区に位置する関帝廟。多いときで1日に2万人以上が訪れるとされる、台北地域でも人気の高い寺院・観光地のひとつである。
 1949年に基隆炭鉱の所有者であった黄欉(こうそう、1911年-1970年、行天宮では「玄空師父」と呼ぶ)によって、台北市九台街(現在の林森北路)にて建てられた。当時は規模が小さかったが、この地に国民中学が建設されることとなり1968年に現在地に移転した。
 黄欉は福建省泉州出身の所謂外省人であり、当宮は本来、閭山派正一教という道教の一派がルーツであるとされるが、既に彼が居た時代の福建省では仏教や儒教などと習合した「福建道教」に変化しており、更に第二次世界大戦や国共内戦を経た台湾に至って、「台湾道教」とも呼ばれる独特の多様性を持つ民族宗教に発展した。祀られているのは関羽(關雲長)、呂洞賓、張単(張單)、王善、岳飛の「五恩主」である。
宗旨は「広推行道徳教化」「不偏於功利取向」「不帯有商業色彩」「不迷信人間偶像」。
(以上「Wikipedia」より)



                   昼食会場「圓山大飯店」。


 台湾台北市に位置する中国建築が特徴のホテル。剣潭公園に隣接し、台湾神宮の跡地に建設されており、台北のランドマークになっている。
 日本統治時代、剣潭山に建立されていた台湾神宮の跡地を利用して建設された。建設に際しては龍の彫刻を多用し、龍宮との異称を有す。また龍以外にも石獅、梅花をふんだんに用い、中国建築の特徴を前面に出した装飾となっている。
 またこのホテルでは地下道の存在も有名である。過去において円山大飯店が政治色が強いホテルであったため、蒋介石総統時代、長さ180mの地下道が建設された。1963年の改築の際には東西2本の地下道が設けられ、滑り台も設置された。地下道はホテルから剣潭公園と北安公園に連絡しているが、現在一般公開はされていない。
 開業当初は世界に冠たる中華民国一のホテルという方針で日本語はおろか英語によるサービスすらしようとしなかったが、現在は経済発展によるビジネス主義への転向と国内外の政情の変化により英語、日本語によるサービスを受けることが出来る。
(「同」より)

そこからの眺め。

                流れは「基隆河」。

 
「台湾ビール」に「紹興酒」、焼酎と飲み物も豊富。これから帰国するまでしっかり中華料理を堪能します。

ホテルに到着。「首都大飯店(キャピタルホテル)」。

 食事をそれぞれ異なるホテルなどで食べましたが、どこも禁煙なこと。ホテルのロビーも当然、禁煙。外のテントに喫煙所が指定されています。もちろん食事場所では禁煙。日本よりもはるかに禁煙が徹底しているのに感心します。
 
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金沢城。兼六園。その6。

2018-04-27 21:00:29 | つかのまの旅人
                                 金沢城(正式名称は「金沢城公園」)・「石川門」。

「兼六園」とは「石川門口」で結ばれています。
兼六園と金沢城公園をつなぐ入口
 兼六園に向かい合って建つ石川門はかつては搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門でした。 2層の菱櫓と複数の門が組み合わされた枡形(ますがた)と呼ばれる複雑な構造になっており、敵が進入してきたときに勢いを鈍らせる目的で設けられたものです。白く見える屋根瓦には鉛を使用。溶かして鉄砲弾に作り変えるための工夫だったとも言われています。

(「金沢日和 旅ガイド」HPより)

                   



                 「石川門」の石垣について。
 この石垣は、右と左で積み方が違います。右側は「切石積み」左側は「粗加工石積み」となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられています。
 文化年間に書かれた文書には「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されており、石垣の積み方にもいろいろなこだわりや思いがあったことがうかがえます。

「二の丸・五十間長屋」を裏手から望む。

 左手にある「鶴丸倉庫」へ向かいます。その途中に、井戸の枠と「辰巳用水」の解説板。


                         
辰巳用水
 辰巳用水は寛永9年(1632)に建造された用水路である。金沢市内を流れる犀川の上流部から金沢城までのおよそ11㎞の水路の約半分の4.5㎞は隧道(トンネル)を掘削し、当時としては卓越した土木技術を駆使した用水である。
 寛永8年(1631)の大火で防火の必要が高まったことが建設の大きな原因といわれ、用水の水を引くことにより城内の堀は水堀となり、余水は城下町の用水として利用された。
 兼六園から城内二の丸までは地中に埋設された導水管により水が運ばれたが、堀を越えるために、いったん低い位置に導水管を設置し、高い位置にある二の丸に吐出口を設けている。これは「伏越しの理(逆サイフォン)」と呼ばれ、この原理を成功させるには漏水のない高い施工技術が必要となる。
 当初の導水管は木製であったが天保12年(1841)から文久2年(1862)にかけて越中(現在の富山県)の金屋石製の石管に取り替えられた。
 
「鶴丸倉庫」。

                         

金沢城鶴丸倉庫
 東の丸付段にあった武具土蔵です。江戸時代前期は2棟並列してありましたが、宝暦の大火(1759)の後は1棟となり、弘化5年(1848)、現在のものに建て替えられました。
土蔵造りの総2階建てで、屋根は切妻の瓦葺きとなっています。現存する近世城郭の土蔵の中では最大のもので、腰壁の貼石などの意匠は金沢城の土蔵建築を代表するもので貴重です。
HPより)

 明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていました。「国指定重要文化財」となっています。

 積まれた石垣のうち、刻印のある石が。
 
 刻印はそれぞれ異なっていて、石を切り出すときの作業分担や石材加工などを示すために付けられたともいわれています。その担当者(家臣)の目印として○の中に×があるもの、、田のようなものなど色々あります。

丑寅櫓跡」。本丸の東北角。

                      「兼六園」方向を望む。

城内を望む。

東の丸」跡。

辰巳櫓跡」。本丸の東南角。



           東南方向を望む。

本丸」解説板。
 古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、天正15年(1586)頃に天守を設けたといわれる。
 天守は慶長7年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。

鬱蒼とした草木に覆われています。

       

 
                                「三十間長屋」。

「解説板」。
 宝暦の大火(1759)の後、長く再建されず、安政5年(1858)に再建された長屋。大火以前は食器などを納めていたが、幕末の再建後は武器・弾薬を納めたといわれている。
 昭和32年(1957)国の重要文化財に指定された。
こちらは立派な解説板。
 金沢城では倉庫と防壁を兼ねた建物を長屋と呼び、建物の長さをとり三十間長屋・五十間長屋などと名付けられた。他の城郭においては多聞櫓と呼ばれる。

 さてそろそろ金沢駅に向かう時間。「近江町市場」もちょっとのぞいて、と「金沢城」をあとにします。
「近江町市場アーケード」入口。
 金沢市民の台所!近江町市場商店は現在約185店舗あります。
鮮魚・青果・菓子・昆布・蒲鉾製造販売・豆腐製造販売・花など食材、生活用品などピンからキリまで何でもそろいます。おみちょの魅力は新鮮で豊富な品揃えそして対面販売!威勢のいい売り子の声がひびく市場の雰囲気、旬の食材の調理法などお店の方とのやり取りはスーパーでは味わえないお買物の楽しさを味わえます。
 飲食店も多く市場の新鮮な旬の食材を使った美味しい料理が召し上がれます。
 お買い物・お食事に是非おみちょへお越しくださいませ。


 (HPより)

昨日とはうってかわって賑やかな雰囲気。

     

アーケードが縦横無尽に。  

 こうして「金沢駅兼六園口」正面へ。
鼓門・もてなしドーム」。

                      

 金沢はちょっと立ち寄るだけではもったないほどの見所満載の街でした。今度はじっくりと見て回りたいものです。
                                     
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金沢城・兼六園。その5。

2018-04-26 20:51:58 | つかのまの旅人
                           登り口に芭蕉の句碑があります。
                 
                     あかあかと 日はつれなくも 秋の風



 卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。
 ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬、早世したりとて、その兄追善をもよおすに、 

  塚も動け 我(が)泣(く)声は 秋の風

 ある草庵にいざなはれて 

  秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子

 途中吟

  あかあかと 日はつれなくも 秋の風

 小松といふ所にて
 
  しほらしき 名や小松ふく 萩すすき

 この所太田(ただ)の神社に詣ず。
 真盛が甲・錦の切れあり。
 往昔、源氏に属せし時、義朝公よりたまはらせたまふとかや。
 げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。
 目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊唐草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ったり。
 真盛(さねもり)討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使せしことども、まのあたり縁記にみえたり。

  むざんやな 甲の下の きりぎりす

(『奥の細道』より)

 金沢から小松へ向かう旅路での吟詠。「七月中の五日」は陰暦7月15日。盂蘭盆会の日でもある。すでに秋の気配、その夕べの風情。「つれなく」は、「さりげなく」と「かそしらぬふり」の意。「も」の一語が活きている。
 先行する歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)がある。
「くりからが谷」は、富山県と石川県の境にある倶利伽羅峠。木曽義仲が牛の角に松明を点けて大軍と見せかけ、平家を敗走させたという古戦場。

苔むした道を上っていきます。



頂上にある四阿。

  

「辰巳用水」を取り入れたせせらぎ。

眺望台」からの眺め。能登半島方向。

水道の遺構」。

          
 園内を流れてきた辰巳用水がここから逆サイフォンの原理で金沢城二の丸へ導かれた水道の遺構である。寛永9年(1632)に作られたときは木管であったが、天保15年(1844)に石管に替えられた。
 この取水口を土塀で囲み三つの番所水御門を構えて厳重に管理していた。

        「徽軫灯籠(ことじとうろう)」。
  

                      

 霞ヶ池の北岸に配された兼六園を代表する景観です。徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので、高さは2.67m。かたわらのモミジの古木、曲水に架かる虹橋と一体となって優れた風景を醸し出しています。(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/21/より)

 この灯籠はこれまで何度も倒されたそうで、もともとは両脚とも同じ長さ・高さだったが、明治維新前後に片脚が折られ、石の上に乗っている。その特異な形のため、かえって注目を引くようになった、とか。
 1969(昭和44)年に修復されが、1977(昭和52)年に壊され、現在のものは、2代目だそうです。

満開の桜の下には大勢の外国人。

兼六亭」。
 室生犀星の小説「性に目覚める頃」お玉の掛け茶屋が今の「兼六亭」です。

 
                                「噴水」。
 この噴水は霞ヶ池を水源としており、自然の水圧であがっている。通常、水の高さは3.5㍍で、霞ヶ池の水位の変化によって変わる。1861(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっているが、兼六園の噴水はその試作といわれている。日本最古といわれている噴水である。(「パンフレット」より)

 そろそろ帰る時間ですが、名残惜しく「黄門橋」から「獅子巌」の方へ。
 

 結局、梅林、「時雨亭」、長谷池方面には行く時間がなく、お茶屋さん、お土産屋さんが並ぶ通りを抜けます。


  
「ゴジラ対金沢城」。                      「金沢城対キングギドラ」。 
   
江戸町跡」。
 平成元年に茶店の改築にともなって、埋蔵文化財発掘調査をおこなったところ、「江戸町」の遺構が確認された。
 「江戸町」とは、慶長6年(1601)に前田利常(後の三代藩主)のところへ二代将軍徳川秀忠の娘珠姫が輿入れ(嫁入り)したときに、江戸からお供してきた大勢の武士等が、長屋を建てて移り住んだ町並みのことである。

「兼六園案内図」。

 「兼六園」に別れを告げ、「石川門」から「金沢城」へ。前日行けなかったところへ向かいます。
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金沢城・兼六園。その4。

2018-04-25 19:37:07 | つかのまの旅人
                         「霞ケ池」を眺めながら「成巽閣」方向へ。

                         

 正面奥に大きな建物。国の重要文化財「成巽閣(せいそんかく)」。


                  
成巽閣(せいそんかく)
 文久3年(1863年)に加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城からみて東南方即ち巽(辰巳)の方位に在るとして当初は巽新殿と名付けられたが、明治7年(1874)に兼六園が一般公開された時に成巽閣と改称された。
・・・幕末武家造りの遺構として他に類例がないものと高く評価されている。昭和13年国宝建造物に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている。建造物および藩政時代の美術工芸品が公開され、季節ごとの展示替えが行われる。

 4月16日までは「雛人形・雛道具特別展」を開催中。
                  

根上松(ねあがりのまつ)」。
 根が地上にせり上がった迫力の奇観で有名な黒松。13代藩主前田斉泰(1822~1866)が、稚松を高い盛土にお手植えし、徐々に土を除いて根をあらわしたものと伝えられる。

「明治紀念之碑」。
 像は日本武尊。明治10年(1877)西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑。明治13年(1880)に建てられた。

隣には見事な松。

 園内の樹木はどれもすばらしく、じっくりと見て回りたいところですが、時間も無く・・・


菊桜」。 
 日本で一つしかなかった天然記念物、兼六園菊桜の2代目。一つの花に花びらが300枚以上つき、ちょうど菊の花のように咲くことからこの名で呼ばれています。開花期は4月下旬から5月上旬までの約2週間。普通の桜と違って、濃紅、薄紅、白と色が移っていくのが特徴。全国にある桜のなかでも特に珍しい品種です。(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/21/より)
 見た目、身体中に包帯を巻かれたような有様で(もちろん、樹勢を保つためでしょうが)痛々しい印象です。
 
   
                 「七福神山」。
別名「つつじが岡」または「福寿山」とも呼ばれる築山に、七福神をなぞらえた天然石が置いてあります。「どの石が大黒様かな?」と探しながら見ると楽しいですよ。
七福神山は、12代藩主斉広が造った竹沢御殿の庭園の一部で、曲水護岸の石組み、雪見橋や雁行橋、雪見灯籠などの配置もほとんど当時のまま残っています。
(「」HPより)

園内は観光客もたくさん。

「霞ヶ池」の向こうは「内橋亭」。
 兼六園の中程にある大きな池「霞ヶ池」。その池のほとりに立つ お食事処・お土産処です。池の上に立つ水亭と手前のお部屋の間に橋が掛かっていることから「内橋亭」と呼ばれました。もと蓮池庭(兼六園の始まりとなった庭園)内にありました四亭の中の一つで、鯰之亭(なまずのてい)ともいわれており大変歴史のある建物です。(「同」HPより)



                 唐崎松」。
 兼六園の中で最も枝ぶりが見事な松である。13代藩主・斉泰が琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて実生から育てた黒松である。11月1日に雪吊り作業を始める。北陸の冬の訪れを告げる風物詩となっている。(「パンフレット」より)

(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/new/ivent/yukituri.htmHPより)



                雁行橋」。
 11枚の赤戸室石を使って雁が列をなして飛んでいる姿に作られているので雁行橋と呼んでいる。また、一枚一枚の石が亀甲の形をしているので別名を亀甲橋ともいう。(「パンフレット」より)

 今度は芭蕉の句碑がある「山崎山」に向かいます。
  
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金沢城。兼六園。その3。

2018-04-19 20:14:39 | つかのまの旅人
 駅前からバスで「兼六園」近くのバス停で下車。途中、バスの車窓から眺めていると、「武蔵が辻」付近から賑やかな商店街が続き、「香林坊」という碑がある付近まで大きなテナントビルが並び、市内(石川県随一)の一大商業地という印象を持ちました。人通りも多く賑やか。
※「香林坊」
  町名の由来は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力である。(「Wikipedia」より)


 バスがその交差点を左折していくと、右手は「金沢市役所」「金沢21世紀美術館」と連なり、左手には「石川四高記念文化交流館」さらに「しいのき迎賓館」その奥に「金沢城」の石垣が見えます。


「石川県政記念しいのき迎賓館」。

 
         「堂形のシイノキ」(迎賓館前にある樹齢300年の一対のシイノキ、国の天然記念物)。

 旧石川県庁として1924年(大正13年)6月8日に竣工。石川県内の建築物としては初めて鉄筋コンクリート構造を採用したもので、国会議事堂などの設計を手掛けた矢橋賢吉による近代的な建築物である。石川県庁が金沢市鞍月に移転するまでは、永らく広坂地区のランドマークとして位置づけられていた。
 外観には武豊産のスクラッチタイルを使用したり、建設当時としては最新設備であった水洗式便所を採用するなど近代的な技術も取り入れている。
 2003年(平成15年)1月に、石川県庁舎の金沢市鞍月への移転に伴い跡地利用が浮上し、旧庁舎を活用。金沢城公園側はガラス張り構造とし、金沢市役所側は庁舎をそのまま保存する形で開業した。また、現在の施設には免震構造を採用している。

「堂形前」碑。
 加賀藩初期、京都の三十三間堂の「通し矢」を模した練習場があり、これを堂形と呼んだ。のち、そこに米倉が建てられた。

 
                               たくさんぼんぼりが並ぶ大通り「広坂」。

          

 「広坂」交差点の突き当たり左手が「兼六園」。「真弓坂」口から入ります。65歳以上、入園料は無料です。


園内案内図。

「兼六園」のいわれが刻まれた石碑。

兼六園(けんろくえん)
 国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。
 17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の一つに数えられている
 2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』には最高評価の3つ星に選ばれた。
 兼六園の名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。
 春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。
 とくに、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。
定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されている。
(以上「Wikipedia」参照)

「瓢(ひさご)池」。

               奥に「翠(みどり)滝」。

海石塔」。
 瓢池の中島に建つ、高さ4.1mの塔。虫が喰ったように穴の空いた淡茶色の笠石が、六重に重ねられている。3代藩主・利常がつくらせ、金沢城の庭園にあった13層の石塔の一部を移したという説と、朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち帰ったものを、のちに豊臣秀吉が、前田利家に贈ったという説がある。

 
 
              
伯牙断琴の手水鉢
 表面には中国の琴の名手「伯牙」が友人の死を悲しんで琴の弦を絶ったという故事が浮き彫りにされている。



              

「夕顔亭」。
 園内に現存する最古の建物で、1774(安永3)年に建てられた茶室である。茶室の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の透かしがあるので、夕顔亭という名がつけられている。本席は三乗台目で相伴畳を構えた大名茶屋。藩政時代は「滝見の御亭」とも呼ばれていた。


 園内はほとんど外国人。中国、韓国、フランス(耳に入る言語から)・・・他にも聞いたことのない外国語が飛び交っています。その人たちに紛れて、広い園内を案内図をもとにうろうろ。次は栄螺(さざえ)山に向かいます。
  

                        

振り返る。

頂上。



                          
                               「霞が池」を望む。正面に「唐崎松」。

 明日から海外旅行。投稿はしばらく中断します。
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