9日(土)。ホテルからの網走湖。明け行く空と湖水と木々。
眼の下を列車が通過中(↓)。
「石北本線」。1932年(昭和7年)10月1日に難所だった北見峠を越える石北線が全通して、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。通過しているのは、「旭川」行きの列車?
(「Wikipedia」より)
今日も天気はよさそうですが、ホテルの道路や車のガラスは夜の内に降った雪で、一面びっしり凍り付いています。
余談ですが、レンタカーを借りたとき、助手席の足下に大きなブラシが置いてありました。ちょっと邪魔くさいな、何でこんなものがあるんだろうと後ろの座席に放っておきました。
朝出発するときに初めて気づきました。ああ、このためにあったのだな、と。これでゴシゴシとフロントガラスにびっしり張り付いた氷を落とします。東京では、お湯を掛けたりして溶かしたりしますが、それでは瞬時に凍ってしまうのですね。
「能取岬」に向けて出発。網走市街地から約20分。右手にオホーツク海を見ながら。周囲はすっかり冬景色。
牧場地帯を通過、目の前が一気に開けてきます。
すばらしい景観。
「能取(のとろ)」の名は、アイヌ語の「ノッ・オロ」(岬のところ)に由来するそうです。
ちなみに「オホーツク」はロシア語で「狩猟」(英: hunting)から来ているとのことです。
案内板。
前方に八角形、黒と白のツートンカラーの灯台が。
「能取岬灯台(のとろみさきとうだい)」。1917年(大正6年)10月1日に初点灯。
八角形の外観はフランスの技師レオンス・ヴェルニーが設計した江戸条約の灯台の影響を受けたとされています。
※「江戸条約」=徳川幕府が米、英、仏、蘭の4か国と結んだ改税約書。その中で、第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」とあり、航路標識の設置が義務づけられました。
日本が今のような灯台を建てるようになったのは、今から約140年前に、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国と結んだ江戸条約で、灯台などを建てる約束をしたことが始まりです。
もちろん、日本人のだれも西洋式の灯台を見たことがありませんので、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の買入と指導を頼んでいましたが、そのころ徳川幕府の政治がおわったので、明治新政府が、この仕事を引きつぎました。
このようにして、明治2年1月1日に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本で初めての西洋式の灯台が誕生しました。作ったのは、ヴェルニーというフランス人です。
フランス人の作った灯台は東京湾のまわりの4か所だけで、それから後は、ブラントンがひきいるイギリス人によって作られました。
ブラントンは、灯台を26か所に建て、灯船(灯台の役目をする船)2隻をつくっています。
また、ブラントンは、新しくできた灯台にイギリス人の灯台員をすまわせて、日本人に灯台の仕事を覚おぼえさせ、そのための教科書も作りました。
「観音埼灯台」。
(この項、「」HPより)
何やら案内板が。かすれて見えないのか、と。ところが、同行の方が手で払うと、何と雪がうっすら覆っていたのです。
「知床の山々の案内図」。よく見えず、残念!
岬の突端の方に大きな塔があるので、向かいます。
海を隔てた遠くに知床の山々。
途中、左手が断崖絶壁。荒々しい波が打ち寄せています。
来年1月下旬には流氷で埋め尽くされる。
オホーツク海の最北西部沿岸で厳しい寒気に吹き付けられた海水は、-1.8度まで冷えると海面近くに小さな針や板状の氷に変化します。氷晶(ひょうしょう)の誕生です。これが少しずつ増えて、やがて海面を覆います。それが互いにぶつかり合ったり、結合したりして蓮の葉状の氷に成長します。
11月頃に誕生した蓮葉氷は強い北西の季節風と東カラフト海流に乗って、さらに成長しながらゆっくりとオホーツク海を南下します。それが1月下旬~2月上旬に北海道のオホーツク沿岸へとたどり着きます。
(「」HPより)
「オホーツクの塔」。
1978年の設置。裏側の銘文には「水産日本の発展を希求」と。網を肩にかけ、鋭い視線で遠くを見やる漁師の姿。本郷新 作。
本郷新の作品には
「わだつみの声」
「北の母子」。など。
(作品紹介は、「」HPより)
さて、戻ることに。
振り返る。
「能取岬」看板。
北西方向を望む。
はるか遠く紋別付近。左奥には「サロマ湖」。
雄大な自然を堪能しました。車を運転してくれた方に深い謝意を。
伝え切れない能取岬の自然を「」HPなどから拝借して紹介。
アッケシソウ。
エゾカンゾウ。
眼の下を列車が通過中(↓)。
「石北本線」。1932年(昭和7年)10月1日に難所だった北見峠を越える石北線が全通して、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。通過しているのは、「旭川」行きの列車?
(「Wikipedia」より)
今日も天気はよさそうですが、ホテルの道路や車のガラスは夜の内に降った雪で、一面びっしり凍り付いています。
余談ですが、レンタカーを借りたとき、助手席の足下に大きなブラシが置いてありました。ちょっと邪魔くさいな、何でこんなものがあるんだろうと後ろの座席に放っておきました。
朝出発するときに初めて気づきました。ああ、このためにあったのだな、と。これでゴシゴシとフロントガラスにびっしり張り付いた氷を落とします。東京では、お湯を掛けたりして溶かしたりしますが、それでは瞬時に凍ってしまうのですね。
「能取岬」に向けて出発。網走市街地から約20分。右手にオホーツク海を見ながら。周囲はすっかり冬景色。
牧場地帯を通過、目の前が一気に開けてきます。
すばらしい景観。
「能取(のとろ)」の名は、アイヌ語の「ノッ・オロ」(岬のところ)に由来するそうです。
ちなみに「オホーツク」はロシア語で「狩猟」(英: hunting)から来ているとのことです。
案内板。
前方に八角形、黒と白のツートンカラーの灯台が。
「能取岬灯台(のとろみさきとうだい)」。1917年(大正6年)10月1日に初点灯。
八角形の外観はフランスの技師レオンス・ヴェルニーが設計した江戸条約の灯台の影響を受けたとされています。
※「江戸条約」=徳川幕府が米、英、仏、蘭の4か国と結んだ改税約書。その中で、第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」とあり、航路標識の設置が義務づけられました。
日本が今のような灯台を建てるようになったのは、今から約140年前に、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国と結んだ江戸条約で、灯台などを建てる約束をしたことが始まりです。
もちろん、日本人のだれも西洋式の灯台を見たことがありませんので、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の買入と指導を頼んでいましたが、そのころ徳川幕府の政治がおわったので、明治新政府が、この仕事を引きつぎました。
このようにして、明治2年1月1日に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本で初めての西洋式の灯台が誕生しました。作ったのは、ヴェルニーというフランス人です。
フランス人の作った灯台は東京湾のまわりの4か所だけで、それから後は、ブラントンがひきいるイギリス人によって作られました。
ブラントンは、灯台を26か所に建て、灯船(灯台の役目をする船)2隻をつくっています。
また、ブラントンは、新しくできた灯台にイギリス人の灯台員をすまわせて、日本人に灯台の仕事を覚おぼえさせ、そのための教科書も作りました。
「観音埼灯台」。
(この項、「」HPより)
何やら案内板が。かすれて見えないのか、と。ところが、同行の方が手で払うと、何と雪がうっすら覆っていたのです。
「知床の山々の案内図」。よく見えず、残念!
岬の突端の方に大きな塔があるので、向かいます。
海を隔てた遠くに知床の山々。
途中、左手が断崖絶壁。荒々しい波が打ち寄せています。
来年1月下旬には流氷で埋め尽くされる。
オホーツク海の最北西部沿岸で厳しい寒気に吹き付けられた海水は、-1.8度まで冷えると海面近くに小さな針や板状の氷に変化します。氷晶(ひょうしょう)の誕生です。これが少しずつ増えて、やがて海面を覆います。それが互いにぶつかり合ったり、結合したりして蓮の葉状の氷に成長します。
11月頃に誕生した蓮葉氷は強い北西の季節風と東カラフト海流に乗って、さらに成長しながらゆっくりとオホーツク海を南下します。それが1月下旬~2月上旬に北海道のオホーツク沿岸へとたどり着きます。
(「」HPより)
「オホーツクの塔」。
1978年の設置。裏側の銘文には「水産日本の発展を希求」と。網を肩にかけ、鋭い視線で遠くを見やる漁師の姿。本郷新 作。
本郷新の作品には
「わだつみの声」
「北の母子」。など。
(作品紹介は、「」HPより)
さて、戻ることに。
振り返る。
「能取岬」看板。
北西方向を望む。
はるか遠く紋別付近。左奥には「サロマ湖」。
雄大な自然を堪能しました。車を運転してくれた方に深い謝意を。
伝え切れない能取岬の自然を「」HPなどから拝借して紹介。
アッケシソウ。
エゾカンゾウ。