おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

雨にも負けずアベにも負けず

2015-08-31 20:23:21 | 平和
「いつか教科書に載る景色」 国会前デモ、なぜ広がった

 昨日この集会へ。午後2時開始となっていましたが、仲間とはぐれても、と思い、午後1時前には約束のところへ着こうと家を出ました。
 「国会議事堂」前駅は、すでに大混雑。「永田町」駅の方がよかったかな、と。
 出口も正面突破ではなくて、ぐるりと迂回して、地上に。もうぞろぞろとたくさんの人、人、人。すでに歩道には大勢の方が立っています。こちらは国会の裏手の方だったので、少しは空いている感じ。
 それでも、歩道の通路は行く人、来る人で大変。やっとのことで、合流しました。
 雨もポツポツ降ってきましたが、続々と集まってきます。
 「国会議事堂」駅から出られない! そんなメールも届きました。
 2時。スピカーを通して集会が始まっても人の流れは止まらず。「雨にも負けず、アベにも負けず」そんな開会宣言からスタート。主催団体を代表してさまざまな立場の方が登壇。政党の代表も岡田さん、志位さん、それに小沢も・・・。手短かな挨拶に拍手と歓声。
 どこかのおじいさん先生が登壇。長々としゃべり、再三司会者から「そろそろ」の声を無視して「アベちゃん」「アベちゃん」と言いながら、60年安保闘争以来の高揚心を熱く・・・。わたし的にはけっこうツボにはまりました。
 そういう具合に、年寄り夫婦や子ども連れ、学生など多種多様の方々が結集。大型バスから手を振る人達、自転車で走りながら、激励する人、皆、立ちぱっなしのまま、シュプレヒコールを繰り返しました。
 途中、周りの様子をと、国会議事堂の正面の方に行ってみようとしましたが、そこまで行くにもたくさんの人々。横断歩道は規制されて渡れず、たどり着けそうもありませんので、断念。
 国会横の坂に「茱萸(ぐみ)坂」の標識・説明板があったので、いつも癖で撮ろうと思いましたが、人が邪魔して撮れず、諦めました。
 創価学会員でしょうか、何人かが「三色旗」をかざして署名活動をしているところには、けっこう人だかりが出来ていました。公明党の「山口代表」に反対の意思をぶつけるのだ、とか。向かい側では、お経を唱えている僧侶達。実にさまざまな立場で反対の気持ちを表現しているのですね。

 集会が終わって帰りが大変。「永田町」駅まで歩いてそこから乗車。

 主催者発表で12万人はいささかオーバーにしても、警察発表の3万5千はあまりにも少なすぎ。「産経」は、国会正門前の空撮をもとに区分けしつつ参加者数を計算、警察発表は正しかった、などと報道しましたが、あそこだけに参加者はいたのではありません。
 こちらのように国会の裏手にも、横も、日比谷公園も、歩道にあふれんばかりの参加者でした。
 なにしろ「10万人国会包囲行動」と銘打って行ったのですから。もっと高い空からの撮影なら国会議事堂を取り囲む大勢の人達の存在を目の当たりにしたはず。どの新聞社もTVそういう大規模な写真は掲載せず、国会正門前のものだけ(下の「毎日新聞」もそう)。いかに参加者が少なかったかと言いたいでしょう。
 かの橋下も、もっと集まっていたのを重々承知の上で、包囲行動参加者を茶化す発言を平然と。彼らの焦りの姿でもあるのでしょうが。(その意味では、反共の旗手・橋下。今後、組合潰し、デモ潰しの露骨なアジ演説をますます鮮明にするに違いない。ことによると、アベよりも数段、タチの悪い男。)

 わたし的にはむしろ組合幹部がびっくりしたのではないか、と。いくら組織力を誇っていても、動員した組合員よりも「一般」市民が続々と詰めかけてくる現実に。老・若・男・女の姿、姿。子ども連れ、老夫婦、学生、・・・まさに「未組織」の人々。
 今回のような政治課題、平和運動などについて、今後の組み立て方を考えないといっそう先細りになってしまいそうです。

 いよいよ正念場の時を迎えつつある緊迫した情勢。昨日はその山場に向けての決起の場でもありました。

       (「毎日新聞」より)
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斬っても出てくる芝居の幽霊。

2015-08-29 16:23:21 | 世間世界
橋下氏が新党結成を表明 維新分裂、野党再編は加速へ

 いつでも話題の中心でいないと我慢できない御仁のようですな、この男は。生来のトリックスター。
政治的な対立をつくって(仕掛けて)、存在感をアピールする劇場型手法。彼の得意とするものだ
 マスコミがどういうことに飛びつくか知り尽くしていて、こうすればマスコミが踊るのを楽しんでいる。
 一度否決された「大坂都構想」もまたぞろ。当然、来年の参院選で大阪選挙区から立候補するぞと言って、またしても(三度目の? )公明党を脅すつもり? そのたびに彼らがオタオタするのを楽しむ、魂胆?
 ご慈悲深い仏様でも、斬っても斬ってもこうたびたび登場されては、いよいよ「仏の顔も三度まで」に?

斬っても出てくる芝居の幽霊
 大衆演劇では役者がいないから、斬られて引っ込んだら、すぐにまた幽霊として出てくる。そして、そのたびに斬っても斬って次々に同じ役者が出てくるのですね。

トリックスター
 時には悪意を持って行動するが、結局は良い結果になることが多い。引っかき回す行動としては、盗みやいたずらというパターンが多い。抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、愚か者として描かれる場合もあり、時には両方の性格を併せ持つ者もある。
 文化的に重要な役割を果たしているとき(例えば、火を盗むなど)や神聖な役割をしているときでさえ、おどけてみせたりもする。文化英雄であると同時に悪しき破壊者であり、あるいは賢者であり悪者など、法や秩序からみれば一貫性を欠いた矛盾する役割が属性である。・・・
 多くの文化では、トリックスターと文化英雄は結びつけられることが多い。例えば、ギリシア神話のプロメーテウスは、人間に火を与えるために神の元から火を盗んだが、彼はトリックスターとしての性格よりも文化英雄としての方が有名である。一方、北アメリカネイティヴアメリカンの伝承では、コヨーテの精霊が神(星や太陽のこともある)から火を盗むが、こちらは文化英雄としてよりも、トリックスターとしての性格の方が大きく現れている。これは、他の話との関連のためで、プロメーテウスは知性のある巨人であったが、コヨーテは単なるいたずら者と見なされることが多い事に関係している。

トリックスターの例
《日本》 スサノオ(日本神話)、きっちょむさん、《中国》 孫悟空、・・・

(以上、「Wikipedia」参照)

 ということになると、よけいいい気になり、彼を褒めすぎか! こけ脅かしのトリックを用いるお芝居屋さん程度かな。

仏の顔も三度まで
 どんなに温厚な人でも、何度も無礼なことをすれば怒り出すことのたとえ。「いくら慈悲深い仏様といえども、三度も顔を撫で回されたら腹を立てる」ということからきている。

 でも、今の公明党では(今から)気もそぞろになっているに違いない。「大阪同時選挙」でもまたまた自民との間で、どっちつかず路線をとるかも知れない。  
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亀山宿。亀山ローソク。江戸口門。・・・(JR「井田川」駅から「亀山」駅まで。その2。)

2015-08-28 22:26:24 | 旧東海道

しばらく広い道を進みます。左手は緑。

 この日もけっこう暑いです。午後の日差しを浴びて水分補給と思いましたが、なかなか自販機が見つからず、やっと「ファミマ」でペットボトルを購入。

 しばらく行くと、左手に「亀山ローソク」の工場。

          

 あれ、聞いたことがある会社名。ローソクの会社がここにあるとは。なるほどここは、「亀山市栄町」。ここにあったんですね。

 カメヤマ株式会社は、大阪府大阪市北区大淀中に本社を置くろうそくを専門に扱う企業である。一般には亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、ろうそくの国内シェアは約5割を占める。なお社名は創業地・三重県亀山市に由来するものである。
 1927年、亀山で谷川兵三郎(ひょうさぶろう)がローソクの製造を目的に、谷川蝋燭製造所を創業。1946年、法人組織となり、亀山蝋燭株式会社を設立。1977年、亀山ローソク株式会社に、1983年、カメヤマローソク株式会社に、それぞれ社名変更。1993年、関連会社を合併を機に、現社名のカメヤマ株式会社に社名変更した。スパイラルキャンドルを生み出した国内最大手メーカーであるとともに、世界でも有数のキャンドルメーカーでもある。
 1995年、キャンドルを中心とした生活雑貨を扱う『キャンドルハウス事業部』を設置。2000年、東京・青山に『キャンドルハウス事業本部』を設置し、全国7箇所(東京、大阪、名古屋、広島、福岡、札幌、新潟)にショールームを設け、アロマキャンドルなど様々なキャンドル、そして、メッシュ製品などのインテリアアイテムまで幅広いアイテムを取り扱っている。
 結婚式において定番となっているキャンドルサービスを1959年に生み出し、2002年からパーティースタイルウエディングを提唱し、様々な流行に添ったウエディングスタイルを発表し続けている。2002年には、キャンドルサービスのホスピテリティを引継ぎ、新たなキャンドルセレモニー「キャンドルリレー」を発表した。
 2001年、本社機能を大阪に移転したが、創業の地・亀山には『亀山本社工場』を設けている。
 2007年からは、コーディネートに最も必要とされるカラーに着目、自在にカラーリングが可能なリキッドキャンドルを用いたスタイルを発表した。 取り扱う商品は仏事用のローソク以外に、線香、生活雑貨用や装飾用のキャンドルの他、メッシュ製のインテリア、窓や鏡をキャンバスに様々なデザインを描けるジェルジェムなどがある。
 その他、同社はCHA青山店(Candle House Aoyama)というブランド名でキャンドルやインテリア雑貨を数多く取り揃えた直営アンテナショップを運営している。2007年(平成19年)4月には東名阪自動車道の亀山パーキングエリアのエリア内にあるハイウェイオアシス館の運営開始とあわせカメヤマ株式会社がCHAオアシス店と称してキャンドル雑貨を販売しており、多くの観光客で賑わっている。

 (以上「Wikipedia」参照)
 
1 新郎新婦が入場し、入り口でご家族の代表の方もしくは親しいご友人から種火を受け取ります。
2 灯火(ともしび)はお父さまからお母さま、おばあちゃまからお孫さんへとつながって新郎新婦はゲストのテーブルに進み、各テーブルの代表の方おひとりへキャンドルの灯火を差し出します。
3 代表の方へのキャンドルの点火後、次のテーブルへ移動します
4 代表の方から順に隣席の方へ、そして同じテーブルの方々へ灯火がリレーされていきます。 ひとつひとつリレーされたキャンドルの灯りがふえていき、会場はだんだんとドラマチックな雰囲気になっていきます。
5 すべてのテーブルに火が灯った後、新郎新婦はおふたりのテーブルへ戻ります。
8 新郎新婦とゲストをつないだ灯火で、ウエディングキャンドルに点火ご友人やご家族の代表の方から、新郎新婦の持つトーチに、ゲストの想いをつないだキャンドルの灯火が返されます。
7 たくさんのゲストとキャンドルの灯りに見守られる中、おふたりの想いを込めてウェディングキャンドルに点火し永遠の愛を誓います

HPより)

 ということだそうです(ということだったかなあ)。

 気になって振り返り、振り返りしていると、正門側にいた女性職員が怪訝そうな顔でこちらを。そそくさと道を急ぎます。

いよいよ本格的に亀山宿内へ。飛出し注意の子どもの姿がまだまだあります。

「従是西亀山宿」。

屋号札の掲示(宿場の賑わい復活プロジェクト)
 亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。
 かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。
 屋号で呼び合ったまちの人たちの暮らしには、なぜか親しみを感じます。
 そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。
 このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。
 今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。

(註 屋号は文久3年―1863―当時のもの。)

 平成15年3月 きらめき亀山21宿場の賑わい復活一座(町並み保存分科会) 
 
露心庵跡

 天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関方鉄斎はわずか十三騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。
 この仏庵が露心庵で、本来の名称は友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。
 明治に至り廃寺となった。この庵から西が亀山宿となる。

 平成15年10月 亀山市教育委員会

「三本松」バス停。

    
                                    「巡見道」(「東海道」と交差する北側)

巡見道
 巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後の将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。
 巡見使はここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し、中山道とつながる。

 平成16年9月建之 亀山市教育委員会

 注:「菰野」町は、三重県の北西部、鈴鹿山脈の東山麓に位置する町。

これまでの宿場町にもあったように、家々には「屋号」が掲示されている。

しばらく進むと、左手に「江戸口門跡」。

江戸口門跡
 延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。
 東西120メートル、南北70メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。 

 平成15年3月 亀山市教育委員会

枡形。右に折れて中心部に入る。

左からやって来て、右に曲がる。正面が「江戸口門」跡。

    
          「公園」。何かいわれがあるのかと思って立ち寄ったため、道路の反対側にある本陣跡や脇本陣跡の表示を見逃しました。

そこにあった「屋号札」に関する掲示板は判読不能。 

「亀山城大手門跡」解説板。

 「大手門」は、東海道に直面する亀山城の正門としてあった門。明治初頭に石垣にいたるまで破却されてしまった、そうです。

古い家並み。

東海道の道筋には色が塗られています。

    
                          「屋号札」の掲示された家。

行く先表示板。広い道を下った右手に「亀山」駅。

西町問屋場跡

 問屋場とは、江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
 東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程度の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
 現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和3年(1803)の『亀山領内東海道中分間絵図』(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化4年(1807)の『伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図』(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
 なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。

 平成15年10月 亀山市教育委員会


 これから西は「関宿」への歩きとなります。今回はここまで。


  東海道五十三次之内 亀山 雪晴 / 歌川 広重

 雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。

(「知足美術館」HPより) 
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「利己」的なお坊ちゃまがはびこる世の中はいったい?

2015-08-27 00:26:37 | 世間世界
武藤貴也議員「釈明会見」で怒号――金銭トラブル報じた「週刊文春記者」を閉め出し

 弁明にもならない主張を繰り返す男。

 今回、アベも麻生も谷垣も、離党したんだから後は個人の責任で釈明せよ。私は、預かり知らん! この三人も実にいい加減だから、こんな年端もいかない男の子を呼び込んだだけ。 
 それにしても、こんなとっちゃんぼ坊やが議員バッジを付ければ、「先生」「先生」。それを利用しての今回の騒動。自分が貸した資金回収のための方策を友人に伝授しただけ、と言ってのける(無)神経で、恥知らず。そうじゃなきゃ、議員などやってられない?

 誰がどう考えたって、国会議員という特権をちらつかせてガセネタをもとに、資金集めをした(させた)ことは事実。本当に週刊文春の記事がウソでだったなら、抗議文どころか名誉毀損で訴えてもいいようなもの。抗議文すら送りつけていない、らしい。
 あげく、その週刊誌の記者を閉め出しての記者会見。
 滋賀では反自民の知事の下にいて、選挙目当てで自民党に鞍替えという、利己的な男の典型。

 そういえばついでに。

 松井さんが「わがままなお子ちゃまだ」、あんなお子ちゃまとは付き合えない、と柿沢をぼろくそに批判している。
 その柿沢。自民党で外相までやった男の息子。都知事選に出たり何かとお騒がせ人間だった父親、しかし、晩年は世俗から離れて地方で自然主義に徹して生活した。

 この息子、江東区では絶大の人気を誇った、そんな親の七光りで都議会議員に。しかし、たしか酒酔い運転で首都高で事故り、辞任。たぶんその頃は民主党から立候補するはずだったのが、それもパー! そんな男でも当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった渡辺に引っ張られて政界入り。これも無節操の極みの男。
 松井さん、橋下さんが怒るのも無理はない、ま、自らの不明を恥じるしかないのだが。浪華の何とかさんを議員辞職には追い込めず、地団駄踏んだ橋下さん、松井さん。こんどこそ大坂魂で軟弱な東男をやっつける、といきり立った。でも、・・・。世間からはまたまた内紛か、と冷ややかなまなざし。

 いったい、武藤も柿沢も今の地位を捨てる気なんかまったくない! と。そう思うと、チンピラにからまれたいい大人たち、という関係か。

 でも、一番のおぼっちゃまがアベ。上がこうなんだから下も推して知るべし!

 柿沢は25日夕、安倍晋三首相も座禅をすることで知られる東京・谷中の全生庵を訪れたことを、自身のツイッターで紹介した、との報道。松井氏との激突に向け、只管打坐(しかんたざ)して無我の境地に達していたのか。アベと柿沢にあやかって、武藤も入門するのかな?

 はてさて、山岡鉄舟は、草葉の陰で苦虫をつぶしているにちがない。さもなければ、三遊亭円朝が遺した幽霊画五十幅から幽霊が「恨めしや~」と飛び出してくるかも知れない。
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井田川駅。和田の道標。和田一里塚。・・・(JR「井田川」駅から「亀山」駅まで。その1。)

2015-08-26 22:51:40 | 旧東海道

 7月21日(火)の続き。ちょっと日にちが経ちましたが、井田川駅から亀山宿までの記録です。この日も暑くてけっこう大変でした。これで、「桑名」宿から「亀山」宿までつながったことになります。

 桑名(42)―四日市(43)―石薬師(44)―庄野(45)―亀山(46)と東海道五十三次の46番目までクリアしたことになります。

 注:21日の実際の経路は、亀山駅から井田川駅まででしたが、京に向かう旅なので構成し直してあります。所要時間は、約1時間40分です(ほとんど高低差のない道のりですのでどちらからでも同じくらい)。

JR「井田川」駅。無人駅で、駅舎・改札口がない。待合室から直接ホームに。かつての駅舎やSLの写真が飾られてあります。駅前広場は整備されたばかりの雰囲気。

駅前広場にある案内板。

しばらく線路沿いの道を進み、「国道1号線」を越えます。

歩道橋から見た上り方向。

歩道橋を下りた付近にある標識。「(日本橋まで)413.5㎞」ポスト。
                    次に「国道1号線」に会うのは、「関」宿の手前になります。

渡り終えたら、左に折れます。 

「椋川」。のどかな道筋。

右手にあるのが「谷口法悦供養塔」。

谷口法悦供養塔
 この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。
 総高2.59メートルで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久国土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。
 造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。

 平成16年9月建之 亀山市教育委員会

 まもなく左手には、和田の道標。

    

 和田道標
 元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸 白子 若松道」左側面に「元禄三庚午年正月吉辰 施主渡会益保」と刻まれている。
 東海道分間延絵図(文化年間・19世紀初頭)には「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下より亀山藩領若松港へいたる重要な分岐点であった。
 県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである。

 平成21年3月 亀山市教育委員会

「神戸」方面。「神戸」は、ここから東北東に位置し、鈴鹿市の中心街にある地名、白子・若松は港町。

すぐ左は「国道1号線」。

    
                           足元にも街道脇にも「東海道」の目印。

    
                           「和田」付近の家並み。

「公民館」前の解説板。

 広重の絵が掲示され、「この絵は歌川広重の描いた東海道亀山の1つでこの場面は和田の坂道を描いたものといわれています。ここより西へ300mです。」との解説文。
 「和田町」集落の形成は弥生時代に遡るほど、古い歴史のある町のようです。

「行書版東海道五十三次亀山」。

 上の解説文にもあるように、ここまで桑名宿からほぼ南(南西)に進んできた東海道がこの辺りからしばらくは西へ向かうようになります。その後、関宿からは鈴鹿峠越えのため北へ向かうことに。

町並みを抜け、ゆるやかな上り坂になります。

 拡幅された道路をしばらく行くと右手に「和田一里塚」跡。

    

和田一里塚跡
 野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。
 かってはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。

 平成13年10月 亀山市教育委員会 

    
 広場になっている。                    解説案内図「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」。

 
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伊達政宗。空模様。青島。台湾。ビール飲み比べ。そしてジャックとの出会いと別れ。

2015-08-24 22:15:32 | 世間世界

 今年の夏は暑い(今日あたりは少し落ち着きましたが)。特に我が家では初めてホームステイを引き受けて、ますます暑い夏でした。
 息子からホームステイの登録をしてみないかと持ちかけられ、つい承諾。さっそく担当者がやってきて、いろいろ調べて聞き取り、登録を受け付ける、とのことでした。
 すると、数日を経ずに、問い合わせ。
「8月2日から1ヶ月、フランスの女性です、もう一方は香港からの男性、この方は2週間ですが」と。フランスの女性は18歳で、朝食付。香港の青年は28歳で、朝夕食付とのこと。どちらも日本語学校に短期夏休み研修で来日するのですが」。即座に、「香港の方なら何とか」と。漢字が読めれば、意思の疎通も何とかできそう。朝・夕の食事の世話が大変だが・・・。
 さっそくその男性のプロフィールが送られてきました。日本には6回も来ているそうで、話す方は何とか不自由しないと。また、スポーツインストラクターという仕事に就いているなど、ま、安心かな! ということでお引き受けしました。

 8月2日(日)午後。最寄り駅まで迎えに行き、我が家へ。180㎝の背丈で我が家にはないタイプ。それから14日(金)まで。

 一番大変だったのは、やはり食事。毎回中国料理というわけにはいかず、できるだけ普段の我が家の食事を、と思っても果たして口に合うかどうか、かみさんはそうとう苦労したようです。

 定番のお寿司、刺身、鳥料理、卵料理、パン、・・・、さらに、納豆、焼き海苔、オクラ、ゴーヤチャンプルと手を変え品を変えての料理。これが一番大変だったとのかみさんの言。しばらくホームステイは引き受けないとまで。
 何でも食べてくれましたが、「納豆」と「オクラ」は苦手だったようです(日本人でもそうですから)。

 名前は、JACK。中国名はありますが、JACKで通しました。でも、そういう通称名は香港では通用するのかな?
 会話は、たどたどしい中にも時々漢字を書いていけば、何とか。

 さて、翌日。我が家から彼が通う「日本語学校」まで案内して欲しいとの日本語学校からの依頼もあって、JACKと新宿駅近くの学校まで連れて行きました。ちょうど一番の通勤時間帯。
 考えてみたら、小生、大学を出てから社会人になっての40数年間、通勤ラッシュなどという経験は皆無。都庁にもいたことがありますが、通勤地獄とはまったく無縁。かつ、混雑時、JR新宿駅なぞは降りたことがない!
 「山手線」に乗って、そのJR新宿駅で降りましたが、こちらが迷うほど。新宿西口で降りてみたものの、さて? 地下街で人はたくさん、通路も迷路のよう。「小田急」側から地上に出て「周辺地図案内図」を見ていると、JACK「今ここですよ」、彼が指さす文字を見ると、「現在地」。反対に教わる始末。そこは、日本人。「確かめただけだよ」と素知らぬふりで目的の学校に着きました。
 しばらくして彼に聞いたら、その後、新宿駅の迷路と人の多さで学校に遅刻したこともあったそうです。一度は、「新南口」まで行ったそう。
 実は、彼の通う学校は、都営地下鉄・大江戸線「新宿西口」駅で降りれば、すぐそばのビル。その後、彼は都営地下鉄の「大江戸線」「浅草線」蔵前経由で行き来したようです。但し、交通費が高いのが厳しかった、とのこと(香港は、地下鉄、バス、タクシーなどけっこう安いそうです)。交通費の高いことを気にして、JRを利用を勧めたのが失敗でした。最初からそうすればよかった、と思っても、後の祭り。
 という、初日からまったく役に立たないお年寄り。さぞかし不安になったことでしょう。

 しかし、青年・JACKは、活動的。
 柏までJリーグを観戦しに行くは(彼は「神戸何チャラ」のファンだそうです)、神宮外苑の花火大会に行くは、江ノ島には行くは、スカイツリーには行くは、池袋、秋葉原(彼はAKBの何チャラのファンだそうです)、横浜、浅草と毎日、かけずり回っています。

 3日から13日まで。朝出かけて学校に行き、午後からは夜まで(学校主催のイベント―華道教室等―もあったようですが)楽しんでいるようすです。出不精のかみさんは、その土産話を聞く係。毎日、宿題が出て大変なようですが、それも茶の間でTVを観ながら。日本のTV番組もよく知っていて、興味があるらしく食い入るように観ています。日本語もたどたどしいながら一生懸命話す姿は青年らしい趣。
 日本の都道府県名を漢字で北から南へ書いて見せてくれました。鍵を預けなかったので(預けるケースもあるようですが)午後からは家を空けるわけにはいかず、誰かが必ず家にいなければなかったのがけっこう面倒でした。

 13日は、お別れ会。家族一同勢揃い、食事して花火をしてお開き。翌日午後我が家を去りました。実は、JACK。この後、東北地方をぐるぐる回り(新幹線乗り放題―東日本―キップで)、19日にまた邪魔しますという。羽田発の便は、20日午前1時過ぎの香港行き。

 19日午後8時過ぎに我が家に来て、夕飯を食べながら旅行の話をたっぷり聞き、これで10以上の都府県に行った(を通った)と喜んでいました。宮城、福島、栃木、群馬、長野、埼玉、千葉、東京、神奈川が今回、以前に大阪、兵庫、京都、奈良、和歌山・・・という具合。へたな日本人よりも行っている感じ。軽井沢は寒かったけれどいい町、福島は何もなかった、・・・等々ここでも土産話をしてくれました。

 お父さんにお土産、お母さんにこれ、お子さん(孫のことですが)にこれと、お土産も忘れずにしっかり買ってきてくれました。

 お土産としてもらったのが、仙台と那須の地ビール、それに青島と台湾のビール(これは横浜で買ったとのこと)。
 さっそく試飲。重たいビール缶(それぞれほぼ350㏄×3缶セット)を運んでくれたJACKに感謝、感謝!

・伊達政宗麦酒 ヴァイツェン  片倉小十郎麦酒 ケルシュ  支倉常長麦酒 ピルスナー の3缶セット。
・サッポロ那須工場・空模様ビール  ヴァイツェン、ピルスナー、デュンケル の3缶セット。

 いずれも飲みごたえのある、味わい深いビールです。

 こうして、午後10時過ぎの電車で羽田に向かいました。駅まで見送って、サヨウナラ。来年の夏にも日本に来るそうです。また会える日を楽しみにしています。

         

                       


 ジャックから来た「メール」。

 8月21日 11:45

こんにちは。

香港に着きました。今、仕事をしています。
昨日寝ませんでしたから、疲れだ。ZZZ ...
昨日の食事は家で中華料理を食べて、たぶん長い時間食べませんでしたので、習慣しなかった、味が違くなりました。(笑い)
最後の夜は晩御飯と写真一緒に空港へ行て、ありがとうございます。
今回の旅行は○○家と会うし、日本語を段々良くなるし、学校の友達と会うし、色々な場所と都道府県へ行く、本当に楽しかった、夢の時間でしょ。
もうすぐ、新しい学校で仕事をして、大変になりますね。でも、悲しい時があるので、楽しい時があります。頑張りたいと思います。

ジャック
  
 話すことはともかく、書くことは大変そう。字の間違いなどありますが、特に時制表現、接続のしかたが難しそうです。それに敬語表現、等。それでも意味が通じるほど書けるのはたいしたものです。

注:○○には我が家の名前。
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「熱中症」危機一髪の東海道。・・・(「内部」駅から「井田川」駅まで。その4。)

2015-08-23 22:23:51 | 旧東海道

 「庄野宿」には、「本陣跡」碑や「問屋場跡」などの解説板が充実しています。

問屋場跡

 問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。
 問屋2名、年寄4名書記(帳付)馬差各45名が半数ずつ交替で詰めた。
 主な任務は公用書状の継ぎ立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭、会計などであった。

「行書」版で広重が描いたのはこの施設?

しばらく進むと右手に「庄野宿本陣跡」。

 庄野宿は東海道五十三次の四十五番目の宿場で、寛永元年(1624)に設置された本陣は沢田家で、間口14間1尺、奥行21間1尺、面積229坪7合、畳数197畳半、板数44畳半あった。

その脇には「里程標」。「距津市元標九里拾九町」

高札場跡

 高札場は、法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。
 庄野資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。

「助郷会所」跡。
 ・・・助郷村々の人馬を手配するため設けられたところで、各助郷村の代表(庄屋等)はここに出勤して問屋場の指示に対応しました。・・・

 この付近になると、かなり暑さにまいってきました。せめて広重にあやかって、「白雨」に出くわしたいものです。

「東海道 庄野宿」碑。ここが京方の出入口? 時刻は、12時20分。

 しばらくして「国道1号線」と合流する地点へ。のどはカラカラ、腹はペコペコ。ここまで、「石薬師一里塚」から約3㎞強。時間にして40分少し。
 途中からは、コンビニはないか、お店はないか、自販機はないかと、ついには他人様のお宅をノックしてお水の一杯でも恵んで下さい、とそう思ったくらいの悲惨な状況に。人も車も通らない炎天下の歩きでした。
 すると、「国道1号線」のところにありました! 「サークルK」。助かった! 飲み物を購入して、一気飲み。ホッと一息。しかし、食事を取るようなスペースなし。トラックの運転手さんは車の中で。こちらはそうもいかず、また炎天下を歩くはめに。

 複雑な交差点を渡って、旧道へ。ま、ここから「井田川」駅まで頑張ろう、と。しかし、この暑さでは・・・。
 ふと角にタイヤ屋さん。ご主人らしき方が、外で仕事中。

 「すいません、この道であっていますか」
 「あってますよ」
 「すいません、少し休ませてくれませんか」
 「いいですよ、この暑さの中では大変でしょう」
 「ありがとうございます」

 お店の中に入ると、ひんやりと涼しい風。

 「冷たいお茶、差し上げますよ」

 奥さんらしき方が紙コップに入れて持ってきてくれました。ゴクン、ここでも一気飲み。

 「勝手なお願いですが、おにぎりを食べていいですか」
 「どうぞ、どうぞ遠慮無く」

 また一杯冷たいお茶を持ってきてくれました。

 「どちらからですか」
 「東京からです」
 「昔、殿様が鹿狩りをしたときに一頭も鹿が仕留められなくて立腹したので、家来がその夜、鹿を捕まえて鈴を付けた。そして、殿様に鈴が鳴ったところを射って下さい、と。面白いように鹿を仕留めた。それが鈴鹿峠のいわれだそうです。ハハハ」
 「そうなんですか」
 「私も生まれは東京の阿佐ヶ谷でして、あそこはいい町ですよね」
 「私はあまり縁がありませんが、商店街は有名ですね」
 「お年はおいくつですか、そりゃ、お元気ですね」
 「何とか今年中には京都に着きたいと思っていますが」
 「タイヤ交換の仕事です。主に大型トラックの」
 「今日のように立ち寄る人いますか」
 「年に何回か、道を尋ねるついでに。ここは少し分かりにくいですからね」
・・・

 四方山話をしながら、ゆっくりと休養できました。 

 「ありがとうございました」
 「いえいえ、そうそう、汗拭き用にこれをさしあげますよ」

 《ブリヂストンタイヤ》のロゴが入ったタオルを頂戴しました。

 その節は、ホントに助かりました。まさに現代の「立場」「茶屋」です。
 
     「タイヤショップ今村ゴムリーヴ鈴鹿」店

「従是東神戸領・これより東 神戸(かんべ)領」
 「神戸藩」と「亀山藩」の境界標。

道の反対側にも。

右に見える石碑は「女人堤防碑」。

 この辺りは鈴鹿川と交流安楽川の合流点で、たびたび氾濫して被害が大きく、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強しました。女性たちは一旦は処刑場に送られましたが赦免の早馬で救われたといいます。
 この碑は、鈴鹿市汲川原町の鈴鹿川北岸堤防下に建っています。

(「三重県観光協会」HPより)

    

左の解説板。中冨田一里塚
 一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
 江戸日本橋を起点として、36町を1里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
 その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。

 平成13年10月 中富田一里塚保存会

右の解説板。

 中富田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。
 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中富田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。大きな木の茂みがある大規模な塚で在り、榎木の大木があったといわれている。

 平成13年10月 中富田一里塚保存会  

 同じ団体が、同じ月に、ほぼ同じ場所に、同じ記念事業で、同じような解説板を、建てることにはこの土地ならではの深い意味がありそうな・・・。

             「中富田一里塚跡」碑。

「従是西亀山領 これより西 亀山領」。

その付近から来た道を望む。

 しばらく道なりに進みます。かつてはそのまま「和泉橋」を渡りましたが、下流に橋が移設されたため、「川俣神社」のところを左に折れて「和泉橋」を渡ります。

橋の上から「鈴鹿峠」方向を望む。

橋を渡り終えたら右に下り、その先で左に折れます。 

 「地福寺」を右手に見て、左に曲がります。「関西本線」の線路と遠くに「井田川」駅がみえます。
 ところが、ここに来て、道に迷ってしまう。分かれ道があって、そのほとんどが「国道1号線」に合流するようになっています。こちらもそっちへ。暑い中、戻ったりしてやっとのことで本来の道へ。関西本線の線路を越えていきます。

この先が駅。

竹林が点在する旧道を振り返る。

 JR「井田川」駅前。東海道はそのまま進みます。ここで、ようやく前回とつながります。
            

 時刻は、午後2時05分。さて、この先は? 「井田川」から「亀山」まで一駅乗って行くつもりが、暑さは一段と。結局、ここでギブアップ。前回と同じ発車時間の名古屋行きで戻ってしまいました。車内の快適さはたとえようがありません。

 夏場・炎天下の「東海道」歩きはまったく不向きです。二度目の挫折!

四日市~亀山までの注意事項(年寄りのための反省事項)。

① 夏場の東海道歩きは遠慮しよう! まず木陰はなく、軒先もない。舗装道路をひたすら歩くのみ。
② 水分補給に万全を! ペットボトルは買えるところで早め、早めに。
③ 沿道にコンビニ、自販機はほとんどないことを覚悟せよ! 公衆トイレもない。
④ いざとなったら無理せず「国道1号線」へ! 大きいお店がある可能性も。
⑤ ガソリンスタンド、タイヤ屋さんなどに遠慮せず飛び込もう! 駅は無人駅が多く、トイレ休憩に。
⑥ 三重の方はみな親切、お言葉に甘えよう!
⑦ 尋ねようにも、お願いしようにも、ほとんど人とすれ違わないことに注意! 
⑧ 「宿場資料館」などの開館日を事前に調べておこう! 月・火・水は避けた方がいい。
⑨ 周辺地図は必携! (らくらく)スマホが便利らしい。(小生の)ガラケイではまったく役に立たない。
⑩ 真夏の午前11時~午後3時は、行動厳禁! 歩くなら、涼しいうちに、そして、涼しくなったら。

・・・

 ともかく「熱中症」「脱水症状」になったら、命の危険! ということを頭に入れて行動しよう! 
 「年寄りの冷や水」ならぬ「年寄りの脱水」ではお話になりません。

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」なんてほざいている場合か! 

  〈結論〉 出かけないことが、一番いい方法。年寄りは秋口まで待つ! 

 って、そんなこと常識でしょ! すいません。 大反省!

 名古屋に戻って、冷えた缶ビールを一気飲み。

 そして、を買って帰りました。
 
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石薬師の一里塚。庄野宿。・・・(「内部」駅から「井田川」駅まで。その3。)

2015-08-22 20:29:52 | 旧東海道

 「石薬師寺」は、宿場の南端に当たるところにあります。道はだんだんと下って行きます。

「瑠璃之橋」から右手「石薬師寺」方向。

 もちろん旧東海道のここに橋はありませんでした。「国道1号線」建設で切り通しになったために、橋が架けられたわけです。広重はこの橋の手前あたりを描いたのでしょうか。

    
 「国道1号線」東京方向。                         京都方向。

    
 現在のようす。                          大正期のようす(「知足美術館」HPより)

 大正期の写真撮影の位置は分かりませんが、「国道1号線」が通る以前は、このように深い森に囲まれたところであったようです。



石薬師寺
 江戸から101里34丁7間、元和2年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。
 現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。
 御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永6年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。
 この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹司社がある。その御曹司社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにしたそれが芽をふいて育ったと伝えられている地元では「逆さ桜」と呼んでいる。

この「蒲桜」を描いた広重の絵(「竪絵版東海道五十三次」)。

そこから宿内を振り返る。

しばらく進むと橋のたもとには、

            

石薬師の一里塚

 信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を1里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。(1町は約109メートル)
 家忠日記には、慶長9年2月(1604)、秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、1里を36町に改めたという。

 くたびれた やつが見つける 一里塚(江戸時代の川柳)
 
 平成4年10月 石薬師魅力再発見委員会

 この一里塚は日本橋から102里目。
 まさにこの川柳のようで、この木陰でしばし休息。
 照り返しの強い舗装道路を人っ子一人通らない道をひたすら歩いて来て、いささか草臥れます。11時20分過ぎ。
 ここで、しっかり早めの腹ごしらえをしておけばよかった! まだこの先にも休めるところはあるだろうと軽く考えていました。さらに、ペットボトルも少し残しただけで飲んでしまいます。ここまで来る間、自販機などはなかったのもすっかり忘れます。たぶん一本東を通る「国道1号線」にはお店も自販機もあるはずですが、ひたすら旧道歩きに専念するために横道にそれず。
 水分補給も食糧も、ま、この先に行ってもコンビニか自販機くらいはあるだろうと、都会的な安易な考え。これらの甘い考えが、後の辛い状況を生み出します。でも、この時は、まだ余裕があったつもり。

          
                                   「石薬師宿」方向を望む。

 ところでこれから「庄野宿」への道。でも、行く道のようすがどうも不自然な印象。ここから先しばらく、旧東海道本来の道はすでに消滅していて、迂回することになるのでは、という感じ。

1947年頃。

 旧東海道は、鉄道(現「関西本線」)が敷設されても変化せず、敗戦直後まで江戸時代からほとんど変わらないようすです。→が「一里塚」跡碑の場所。当時は道路をはさんで橋の反対側にあったことになります。○は、「庄野宿」。

1960年頃。

 しかし、「国道1号線」が開通することで大きく変化します。ただし、「一里塚」の位置は変わりません。
 
1980年頃。

 この付近の道路整備が進み、「一里塚」も現在地に移っています。この付近は現在もほぼ変化なし。

(地図は「今昔マップ」より)

 帰宅後、調べた結果が上の通りでした。やはり直感は正しかったようです。

 もちろん当日はちょっとおかしいなと思いながらも、「石薬師一里塚」を11時35分過ぎに出発。案内表示に従って、関西本線のガードをくぐり、右に曲がって進みます。あぜ道を少し広くしたくらいの道幅。 

    
 左手:田んぼ。                           右手:関西本線。

 たしかに暑くて日差しを避ける木陰もありませんが、雨が降っていない分、よかった! と。
 しばらく行くと、「国道1号線」の下をくぐり反対側に出ます。そこからそれこそあぜ道のようなところを曲がって、「国道1号線」に合流。炎天下、激しく行き過ぎる車を横目にひたすら国道を歩きます。
 けっこうのども渇いてきて、手持ちのペットボトルも飲み干します。道中には、GSはあっても、お店も自販機も見つかりませんでしたが、この先何かあるだろう、と軽い気持ちでいます。

 「庄野町北」の交差点を右折し、その先を今度は左折します。その角が、「庄野宿」の入口。12時10分頃。すでにお昼を回っています。木陰も休むスペースもないので、そのまま進みます。  

解説板。 

庄野宿

 庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ七十戸で宿立てをした。南北八丁で宿入口の加茂町中町上町からなる。
 安藤広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作と言われ、世界的にも高い評価を得ている。


      東海道五十三次之内 庄野 白雨 / 歌川 広重

 庄野の宿近くの街道で、突然の雨にあった様子が描かれている。庄野は山深く、険しい坂道が続いた。駕籠をかつぐ二人は引き返すこともなく、稼ぎに精を出す。右手の二人は農夫であろうか。必死に雨を防いで村を目指している。人物、描写も面白いが、竹薮の風の音、雨の音も聞こえてきそうである。雨で遠くがけむった様子がよくわかる。農夫の傘に五十三次の宣伝があるのも面白い。
石薬師より約3km  亀山まで約8km

(「知足美術館」HPより)

注:「白雨」=白く見える雨。ゆうだち。にわかあめ。

 ただし、庄野宿そのものは「鈴鹿川」の氾濫原にできた町並みのようで、標高は(北西の背後地は40㍍以上ありますが)22、3㍍ほどで、ここに描かれたような急坂は存在しません。
 
    
 大正期のようす(「同」より)。                 現在のようす。  

 しばらく進むと、左手に「庄野宿資料館」。これは助かった! 見学しながら休憩しようと。水分を補給し、昼飯でも食べながら・・・。ところが「休館日」。自販機も置いてない! 結局、この先、宿内の旧道には「自販機」は1台もありませんでした。

    
                    鈴鹿市指定建造物 旧小林家住宅・庄野宿資料館。

 後から調べたら、当日のこの時間帯、この地域は快晴で、気温はすでに32度を越えていたらしい。日なたでは35度以上? 車は時々通っても、道を行き交う人影はなし。木陰もまったくなし。道沿いの家は閉まっていて、庭先にも姿は見えず。のどはからから、お腹はぺこぺこ。街道沿いには「問屋場跡」とか「本陣跡」とかの表示、その写真と解説文を読み読み、キョロキョロするも、旧道らしさを重んじるためなでしょうが、自販機も公衆トイレもなし。・・・もうかなり参った! 
 でも、まだまだ先は長い! はたしてどうなるのでしょうか?
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石薬師宿本陣。佐佐木信綱資料館。「夏は来ぬ」。・・・(「内部」駅から「井田川」駅まで。その2。)

2015-08-21 20:53:19 | 旧東海道

 石薬師宿は、東海道五十三次の44番目の宿場で、元和2(1616)年に宿場となりました。それほど規模は大きくなかったようです。



 田園では稲の刈り取りが終わり、草むらでは夜長に鳴く虫の声が次第に高まる秋となりました。四季の変化が明確な日本では、秋は野山にある多くの植物がたわわに実を結び、動物たちもその恵を得て肥え太る稔りの季節とされていますが、他方では、つるべ落としの夕日に象徴されるような哀愁感のある季節でもあります。
 街道絵・名所絵の名手、初代歌川広重は保永堂版「東海道五十三次之内」シリーズで東海道各宿の風景を、それぞれ沿道の風俗や四季・気象の変化を見事にまとわせた旅情豊かな作品として描き出していますが、今回ご紹介する「石薬師」は東海道44番目の石薬師宿(鈴鹿市石薬師町)の秋の情景を描いたものです。
 「石薬師」の副題は、宿場の南端にあり宿場名の由来ともなった「石薬師寺」です。石薬師宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制によって当初置かれた四日市宿と亀山宿の間の距離が長く離れすぎて人馬の往来に困難が生じていたことから、その解消のために元和2年(1616)に新たに設置された宿場です。また、現在も旧街道沿いに残る石薬師寺は、石造薬師如来を本尊とする古刹(こさつ)で、江戸時代には東海道を往来した旅人はもとより、参勤交代の西国大名も参詣して道中の安全を祈願したと言われています。
 「石薬師」の図はこの石薬師寺を左に配して、石薬師宿の南半を東方から遠望した構図で描かれています。右手の家並みの間を通り石薬師寺の門前を通過する道が東海道、また、遠景の山々は鈴鹿山系の入道ガ岳か野登山付近の山々であると思われます。
 空に引かれたやや赤みを帯びた褐色の一文字ぼかし、背景の山々のやや沈んだ色合い、石薬師寺周囲の木立の暗色が、画面全体に夕暮れ時の静かな、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。本堂や庫裡(くり)の高い屋根のシルエットの前に描かれた山門は夕刻のため既に閉じられ、両側に続く土塀が薄暗さの中で際だっています。その前の街道を馬に乗ってゆっくりと過ぎゆく旅人たちは、これから25丁(約3㎞)先の庄野宿まで行って泊まるのでしょうか。また、手前に広がる収穫を終えた田んぼには積み上げられた稲わらが点在し、次第に深まる暮色の中で野良仕事を続けるただ二人の農夫が小さく描かれ、夕暮れ時の静寂さを一層強調しています。一方、右下から斜めに石薬師寺の山門に続く細い農道は、平板的になりがちな夕景の遠近を深める効果があり、その路上には石薬師寺に向かって担い棒で荷物を運ぶ二人連れが、静寂の中で唯一動きのある姿で描かれています。
 この作品は、ほかの宿場の図のような目立つ画題がみられない地味な構図ですが、街道沿いの哀愁に満ちた晩秋の夕景が写実的に描かれ、ひなびた静かな詩情がただよう味わい深い作品であるとともに、当時の街道の実相をうかがうことができる貴重な資料と言えましょう。(SG)

HPより)

街道入口の案内板。

 また、この地は歌人・文学者の佐佐木信綱さん、父弘綱さんの生誕の地でもあり、それに因んで「信綱かるた道」が街道に沿って掲示されています。

「石薬師宿 信綱かるた道」

 「信綱かるた」から選んだ36首の歌がここから南1.8キロの間に掲示されている。途中には本陣跡、佐佐木信綱記念館、浄福寺(信綱の父弘綱の碑)、石薬師寺などがある。

 佐佐木信綱顕彰会 (財)岡田文化財団助成事業

                  

こちらは案内図。

「北町の地蔵堂」。

 延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている。
 江戸時代、東海道の宿場として賑った石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。
 現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕がなされている。毎年八月二十四日は地蔵さんの会式である。

 平成4年10月  石薬師魅力再発見委員会[鈴鹿市市政50周年記念事業]

そこから来た道を振り返る。

落ち着いた住宅街の一本道が続きます。

ゆく秋の 大和の国の薬師寺の  塔の上なる 一ひらの雲

 民家の塀に「石薬師宿(広重)」の模写。右の小さな絵は、「四日市宿」。
             

    
                         小澤本陣址

 東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。
 大名の泊る宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者萱生由章(1717~75)もこの家の出である。

 鈴鹿市

 表札も「小澤」さんでしたから、現在まで続く旧家です。

隣のおうちの前にも解説板。

 ほぼ同じ内容が記されていますが、

・・・石薬師宿は小高い台地にあり、小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、、別名「松本陣」ともいわれていたという・・・

 さらに門扉の脇には「東海道 旧小澤本陣休憩所」という看板が掲げられてあります。

1920年頃。

1960年頃。
 ←、↑が旧東海道。「国道1号線」の開通によって旧道は分断されています。

1995年頃。

 「今昔マップ」によると、「石薬師宿」は、標高40~45㍍で、「杖衝坂」を上ってきて、また「「石薬師寺」付近からは南に下って行きます。

途中、右手にある「天野記念館」。

 天野修一翁は、この記念館を昭和39年(1964)ふるさと・石薬師本町のために建てられました。天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創始者です。前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫です。
 また天野修一翁は鈴鹿市に小額資金を寄贈して若人の育英にも偉大な功績をあげられています。

 平成18年(2006)12月  石薬師地区明るいまちづくり推進協議会

 この「アマノ株式会社」。

時間情報事業
 「Advanced Time Solutions(一歩先行く時間の活かし方)」をビジネスコンセプトに、限りある時間を最大限に活用し、時刻記録・就業管理・入室管理など、時間(Time Resource)に関するあらゆる問題を解決する時間情報ソリューションをご提案しています。タイムレコーダーから最新の統合システムで、人材の有効活用を推進いたします。

タイム情報システム
 ICカードとネットワークで情報を集中管理。中小事業所向けの最新の勤怠管理から、Web対応就業情報システム、ASPサービス、ICカード社員証を活用したソリューション、ドアセキュリティシステムなど、ネットワーク型時間情報ソリューションをご提案しています。
(以上「」HPより)

という会社のようです。

振り返って宿内を望む。


「信綱かるた道」。「石薬師小学校」脇。

 そのすぐ先が、
    

これのふぐら良(よ)き文庫(ふぐら)たれ故郷(ふるさと)の里人のために若人(わこうど)のために

石薬師文庫
 昭和7年、佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧書として建設され、伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。現在、地域の図書館としてボランティアで運営され親しまれている。



ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の 秋の雲 あふぎみつつ思ふ 父とありし日を 佐佐木信綱

傾けて バイクを駆れる 群が行く 鈴鹿の山は 父祖のふるさと 佐佐木幸綱

                

佐佐木信綱と卯の花の里

 石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
 弘化2年(1845)の石薬師宿宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約7割をしめており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
 当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松阪へ移住する明治10年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。
 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
 石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和63年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。
 初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。

資料館等の配置図。

「夏は来ぬ」佐々木信綱作詞・小山作之助作曲

1.卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

2.さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

3.橘の 薫るのきばの
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

4.楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

5.五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

 つい口ずさんでしまう名曲。卯の花、時鳥、さみだれ、玉苗、橘、蛍、楝、水鶏、五月やみ、夕月、・・・季節感あふれる詩情。しかし、これらの風物も、すっかり忘れ去られてしまった感がします。

    (「Wikipedia」より)

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杖衝坂。采女一里塚。・・・(「内部」駅から「井田川」駅まで。その1。)

2015-08-20 21:47:20 | 旧東海道

 7月21日(火)の続き。

 亀山宿への交通手段は、JR「亀山」駅に行くこと。そのためには、あすなろ鉄道「四日市」駅から歩いて、JR「四日市」駅に行かなければなりません。1㎞以上、広い通りをけっこう歩くことに。
 見通しが甘かった! 近鉄四日市駅付近の賑やかさかに比べると、「四日市」駅は閑散としています。駅の反対側には大きな港湾施設やコンビナートがあるようで、その輸送がメインなのでしょう。乗客もほとんどいない。
 どういうわけか駅の窓口だけは人が列を作っています。どうやら遠くへ出かけるためのキップの手配をしている人達。たった一人の駅員の対応ですので、なかなか対応に手間がかかっています。それでも、お客さんは、じっと我慢して待っています。
 こちらも「時刻表」を見たら、次の「亀山」行きは11時41分。ありゃ! 1時間近くの待ち。でも待つしかない。早めに腹ごしらえ。

 こうして12時過ぎにやっと亀山駅に着きました。駅前の坂道を上って「亀山宿」のとっかかり地点へ。そこからあすなろ鉄道「内部」へ向かって、さあ! 出発。
 けっこう道のりがありそうで、その上、かなり暑くなってきました。途中、休み休みしながら(日影などはほとんどなし)、炎天下の中を歩き続け、2時を少し回ったころに、何とかJR「井田川」駅にたどり着きました。駅のベンチ(ここには駅舎がありません)で休みました。クーラーなんかはないところ。それでもお日様を避けられる。しばし、休息。
 しばらくすると名古屋行きの電車が。とっさに今日はここまで! と飛び乗ってしまいました。車内のクーラーにほっと一息。結局、名古屋で新幹線に乗り換えて、そのまま帰京。

 というわけで、かなり中途半端に終わったが気になります。そこで、8月初頭からの猛烈な暑さがどうやら収まりつつある8月18日。前日の天気予報だと、亀山付近は、「曇り、時々小雨。」これならあの時の炎天下の歩きよりは少しはましかもしれないと。
 翌日には用事が入っていたので、その日のうちに戻らなければなりません。お金の無駄遣いだけれど、この前挫折して行き損ねた「石薬師」宿、「庄野」宿をクリアしてみようと出かけました。

 「あすなろう鉄道内部線」。今度は四日市駅から乗って「内部」駅から「東海道」を歩いて、JR「井田川」駅まで。そうすれば一応「亀山」宿までつながっていく。さらに、「井田川」駅からJRで「亀山」駅まで行って、そこから「関宿」まで歩けたら、と・・・。家人のあきれた顔にもめげず出かけました。一番気になるのは、お天気。

 前日はけっこう大雨が降ったようで、桑名では被害もあった。大雨だけはかんべんして、と思います。曇りなら、いい。

 早朝に家を出て、東京~名古屋~「近鉄四日市」と乗り継ぎ、10時前に「内部」駅に着きました。降りたとたん、強い日差しがさんさんと。雲はちらほらありますが、いいお天気。おいおい予報が違いすぎない! ま、何とかなるさ。この前とは違うだろうから、と歩き始めました。

 ・・・、ということで、石薬師宿から関宿まで。実際の時系列、行程とは異なりますが、旧東海道の順路に従って編集し直しての報告です。

 8月18日(火)。

    
            「あすなろ鉄道内部線」。

 この前もそうでしたが、途中駅での乗降客はそこそこいます。狭軌のせいなのか、かなり横揺れがあり、上り坂はあえぐように。

「うつべから乗って存続させよう」

 廃止の動きがあったとき、地元四日市の熱心な存続の願いが叶ってこうして運行されています。

 近畿日本鉄道(近鉄)が運営していた内部線および八王子線(以下、2線を総称して「内部・八王子線」と記す)は、2012年に鉄道を廃止した上で三重交通によるバス路線に転換するバス高速輸送システム (BRT) 化する方針が近鉄から提案された。
 しかし、これに対して四日市市側が鉄道での存続を要望したことから、2013年に近鉄と四日市市の間で、2015年春から新会社が運行を行い、四日市市が施設・車両を保有する公有民営方式で存続することに合意し、2014年3月に四日市あすなろう鉄道が設立された。 出資比率は近鉄(近鉄グループの鉄道事業会社である近畿日本鉄道)が75%、四日市市が25%の第三セクター鉄道で、社名の「四日市あすなろう鉄道」は、未来への希望と内部・八王子線が軌間762mm(2フィート6インチ)という特殊狭軌「ナローゲージ」であることから選定されたものである。(「Wikipedia」より)

 今後についてはまだまだ課題が残されていますが、沿線住民、地域の過疎化・高齢化などに対して、公共交通機関がどう対応していくか? 民鉄(JRを含めて)では経営上、「赤字」路線は、即、廃止、となってしまう。「公有民営方式」でどこまで対応しきれるか? 各地にある鉄道経営をめぐる試金石でもあるようです。行きずりの観光客が二回乗ったくらいで、大きい口をきけるものではありませんが。

旧道はこの道を進みます。

 しばらく進むと、「内部川」にぶつかり、旧道は分断されてしまうので、左折して「国道1号線」の地下道を抜け、反対側に出ます。

1920年頃。
 →が「内部橋」。○が「杖衝坂」。

1960年頃。
 「国道1号線」開通で旧道の橋がなくなっている。
1992~96頃。
 その後の「内部橋」周辺の道路整備により橋を越えた付近の旧道も消滅した。(地図は「今昔マップ」より)

「内部橋」から下流方向を望む。

「マックスバリュー」の先を左折しする。(日本橋から)401㎞を超える。

「杖衝坂」方向への指示板。
 そこで、「元気だね」と声を掛けられました。その時は激励と思いましたが、後から思うと、こんな暑い日に街道歩きとは、というあきれての忠告だったのでは?

「杖衝坂」方向。

このおうちのところを左折。上り坂へ。

    
             芭蕉句碑「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」

芭蕉の句碑について
 俳聖 松尾芭蕉が貞享4年(1678)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。宝暦六年(1756)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を立てた。明治の初期、坂の下釆女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。

 この句は、『笈の小文』中にあり、

 「桑名より食はで来ぬれば」と云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。  

歩行ならば杖つき坂を落馬哉(かちならば つえつきさかを らくばかな)

と、物うさのあまり云出侍れ共、終に季のことばいらず。

と。「季語」の入っていない句としても有名。

「杖衝坂と血塚、二つの井戸」

 杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、梢に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。
 この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。

 日本武尊(ヤマトタケル)が『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --)『古事記』と言ったとされ、これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれます。

「史蹟 杖衝坂」碑。

そこから振り返って「杖衝坂」を望む。

「国道1号線」に合流。

    
                           「采女一里塚」碑。

 「国道1号線」の向こう側に「采女一里塚」碑があります。交通量が激しく、近所には横断歩道も見当たりません。往来する車の合間を見て、パチリ。道路を渡って撮影する猛者もいるようですが。
この一里塚は日本橋から101里目

「国道1号線」では403㎞。ほぼ同じ距離。

 しかし、炎天下の国道歩きは思った以上に体力を消耗します。

しばらく行き、国道から左に分かれて進みます。

    
        喧噪から離れて、のどかな道筋。車も人も通りません。

 しばらくして再び「国道1号線」に合流。そこの案内図に従って地下道を通って向こう側に渡ります。

              

 渡り終えて横断歩道を行くと、「石薬師宿」へ。 

来た道を振り返って望む。

「石薬師宿」の入口。
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読書「動物記」(高橋源一郎)河出書房新社

2015-08-18 20:49:28 | 読書無限

 血がでてゐるにかゝはらず
 こんなにのんきで苦しくないのは
 魂魄なかばからだをはなれたのですかな
 たゝどうも血のために
 それを云へないがひどいです
 あなたの方からみたら
 ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
 わたくしから見えるのは
 やっぱりきれいな青ぞらと
 すきとほった風ばかりです

 (宮澤賢治「眼にて云ふ」)

 この詩の一節は、辺見庸さんの本からの孫引きです。

 詩全体はこうです。 
 
眼にて云ふ   宮沢賢治
 
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

 この詩を引用したのは、高橋さんのこの本の最後のところに

 わたしの希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものが現れることだ。
 その生きものが、わたしを見つめている。何にも映っていない、なにを考えているのかわからない、真っ黒な瞳で。それでいい。その生きものが、なにを考え、なにを感じているのか、わからないことは明白なのだから。
 それは、わたしが動物たちを見ていた視線でもあるのだろう。わたしが意識を失う前に、その生きものは立ち去るかも知れない。だとすると、わたしは、少しだけ寂しいと感じるかもしれない。けれど、最期を見届けてくれた、その生きものに感謝したいと思うだろう。もちろん、意識が残っていればだが。
 わたしが一度も会ったこともない、父の兄にあたる人は、そんな風に死んだと聞いたことがある。軍人だったその人は、敗走する兵士たちの列から離れ、一本の樹の下に座り、「もう歩けない」と友人に告げた。「一緒に行こう」と腕を摑んだ友人に、その人は「もういい。おまえは行け」といった。一九四五年、フィリピン・ルソン島での出来事だった。その人が最期に、なにか生きものに出合えたどうか、わたしには知ることができないのである。(P271)

 とあったからです。
 けれども、賢治さんのように、それほど澄んだ眼で外界を眺めることができるのでしょうか。

 わたくしから見えるのは やっぱりきれいな青ぞらと すきとほった風ばかりです。

 その後、高橋さんはこの叔父の死んだ戦場に赴き、知り得なかった叔父の死というものをとらえ直します。

 動物を擬人化しながら、その眼から人間世界を垣間見る、そこには諧謔と冷淡と感動と突き放しと、そうして人間の営みを描いています。
 しかし、その動物の眼・視線の奥にあるものは誰もとらえることはできません。同じように、死に逝く人の、薄れ行く(あるいは突然消える)寸前の思いは誰びとも共有できることはできません。
 しかし、末期の眼に何が写り、何を感じたか。・・・
 おそらく、そのことがおじさんの末期の思い、最期に見えた風景とつながっていったのでしょう。
 
 所詮分からない存在同士、でありながら、何とか言葉によって(あまりにも軽薄なもの言いが多いですが、それでもなお)、それに依拠せざるを得ない人間の置かれた宿命的立場を感じます。 
 一方で、人間(自分に、他者に、社会に、未来に)与える言葉の力を何とか自らの側に引き留めつつつ、理不尽な言動にも言葉によって闘うしかない、と。そこには、透徹した眼が必須なものでしょう。その一分でも獲得するために、言葉と闘っているともいえそうです。
    
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『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』辺見庸。「抑止力」「抑止力」と言葉をもてあそび、せせら笑うアベ自公政権。

2015-08-16 22:49:54 | 読書無限
 米軍と一体化した、むしろ肩代わりすら当然とする「安保法制」法案。中国、北朝鮮の脅威をその根拠として、万一の場合にはアメリカ、オーストラリア、イギリスと共に軍事的行動に出ることの法制化。
 しかし、アベ達が具体的に挙げていた、イランによるホルムズ海峡の機雷封鎖云々も現実的ではなくなって、今度は南シナ海を挙げてくる。日本人を輸送する米艦が攻撃されたら云々も今や言い出さない。

そして、つまならいたとえ。

 「お前を殴るぞと脅かしている相手が隣にいる自分の友人を殴りかかってきたら、友人に加勢して相手を撃退する。」

 →そんな兆候があったら、先制的に相手を殴る行動を一緒に行う。むしろ友人の代わりにやっつける。

 「隣家が火事になったら、一緒に火事を消す。」

 →火事の原因となった放火犯を一緒に捕らえに行く。むしろ放火しそうな行動を起こすことをキャッチしたら、放火される前に積極的に相手をたたく。いな、友人に代わってやっつける。

→が「集団的自衛権」の実体的な行使になるわけ。でも、けっして言わない。「 」は、言葉遊びに過ぎないことは承知の上で。

 「友人(隣家)は、自分(我が家)に被害が及ばないよう、わざわざ体張ってがんばっているんだから」とも言う。でも、友人はそれほど体をはることはしない? 結局、「個別自衛権」の行使となり、自衛隊の出動となる。どちらにしても、自衛隊の海外派兵に結びつく。
 アベ達は、「自分や友人によけいなちょっかいをだしてきたら、このように戦うぞ」。これが戦争の抑止力になるのだという。しかし、これが本当の「抑止力」たりうるのか?
 アベにとっての究極の抑止力は「核兵器保有」。そう公言できないから次善の策として、「日米軍事同盟」強化と称し、「ガイドライン」など国会をないがしろにしてどんどん進めている(アメリカのいいなりに)。また、「安保法制」を先取りした合同軍事作戦行動訓練を展開している(沖縄のヘリ事故でその一端が暴露される)。
 さらに、何としても自前の国軍を持つことが究極の選択。それが憲法改正(悪)。これをめざして「譲るべきところは、(やむをえず)譲る。そうすれば支持率は回復する」、その典型が「総理談話」。
 そこへの「一里塚」(それどころか、何本もの法律を十把一絡げで提案するのだから、一里毎ではない、「一里塚」がまとめて築かれるようなもの。)が、今回の「安保法制」。もちろん「(憲法9条を廃棄しての)戦争の道への一里塚」。
 のんきに東海道・京都までの「一里塚」をたどるようなものとは訳が違う。

 『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』辺見庸(NHK出版新書)。

 2011年(平成23年)3月11日。突如襲った「東日本大震災」。それによって、故郷石巻が壊滅的に破壊され、土地も人も生活も文化も伝統も、一切合切、一瞬のうちに失われた(失わさせられた)という痛切な体験の上に(それもその場ではなく、映像や風聞や友人・知人の切々たる言葉によって知らされたものであった)筆者の痛恨の思いを書き綴った書。
 「2011年4月24日に放送されたNHK『こころの時代 瓦礫の中から言葉をー辺見庸』で話したのをきっかけに全面的に書き下ろした、わたしなりの3.11論である。」(あとがき)翌年の1月に初版が出された。
 文章と写真と自らの詩による構成。そこには、郷里・石巻にとどまらず、その後明らかになった「福島第一原発」メルトダウンという衝撃を語る。「安全」、「神話」、「平和」・・・、言葉はいかに人間をだましてきたか。言語表現を生業とする筆者の自らを鞭打ち、自己批判し、それでもなお言語によって、人間の、社会の回復(これすらもまやかしの言葉だが)を思うしかない人間の業。
 とりわけ自らの命をずたすたにされ死んでいった多くの死者に(文字通り手も足も頭もバラバラにされて)、はたして語りかける言葉があるのだろうか。自問自答の末、振り絞っての言葉が真に迫る。辺見庸さんは、読者に何を語りかけているのだろうか?
 一人ひとりにとっての「東日本大震災」「福島第一原発」が問われている。

 「・・・すべてを震災ビジネスが吸収しつつあります。言葉はいま、言葉としてたちあがってはいません。言葉はいま、言葉として人の胸の奥底にとどいていません。言葉はいま、自動的記号として絶えずそらぞらしく発声され、人を抑圧しているようです。」(P182)

 戦後70年、アベの語る、戦争犠牲者への哀悼の言葉の止めどない軽さよ。我が身自らも自省しつつ。 

 「・・・われわれはほんとうのところは、言葉に真に切実な関心をもっていないのではないでしょうか。それは、かつて石原吉郎が指摘したように、人間そのものへの関心の薄らぎを示すものかもしれません。」(P160) 
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歴史は繰り返す、それとも・・・

2015-08-15 00:02:54 | 平和
「ありのまま受け止めて」=安倍首相、各国の理解に期待

 談話発表後のやりとりが、アベの魂胆を明かしていました。

・村山富市首相談話が日本の行為と認めた「侵略」の文言を70年談話にも記述したことに関しては、「具体的にどのような行為が侵略に当たるかは、歴史家の議論に委ねるべきだと考えている」と踏み込んだ説明を避けた。

・首相はまた、「できるだけ多くの国民と共有できるような談話を作っていくことを心掛けた。聞き漏らした声はないか、常に謙虚に歴史の声に耳を傾け、未来への知恵を学んでいく」と語った。 

 これらの二つは記者からの質問のやりとりでの言葉。聞き漏らした声はないか、とは、自虐史観と戦後の歴史教育を批判、否定する「声」に耳を傾けた、としか思えない。また「いつまで謝罪を続けるのか」という(今の日本を牛耳っていると自負する)桜井某を中心とする「日本会議」の声に耳を傾けただけ。

・日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
・世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。
・満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 巷での風呂屋・床屋談義ではあるまいし、この程度の浅薄な歴史認識しか持ち合わせない御仁。まるで「挑戦者」気取りなのだ。 

 たとえば、

・何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

とその責任の所在と反省を言うことなく、「個人」的心情レベルに落とし込むのも、アベを支持する彼らの常套手段。に

また、

・事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 「事変」と「侵略」「戦争」、と脈絡も無く羅列し(「事変」には「○○事変」となるはず。満州事変などという歴史的文言を言いたくなかっただけ)

 他にも突っ込み処、満載。だいたい何が言いたいのか、長いだけで、同じような表現が出てきて日本語能力を疑いたくなる、実に散漫な内容であった。

 しかし、これで、アベ礼賛の声のみが彼の耳に入ってくるだろう、それにいっそう依拠してアベ自公政権は一気呵成に安保法制を仕上げにかかるにちがいない。アベが崇拝してやまない、じいさん・岸が、国会を取り巻く大勢の安保反対の声に対して「後楽園球場はイッパイじゃないか!」「声なき声を聞く」と強引に押し切った手法を予感する。ただし、岸はその後、退陣に追い込まれたのだが。

 歴史は繰り返す。それとも・・・。アベは戦後80年、90年と見得を切ったが果たしてそうなるか?  
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日永の追分。まちかど博物館。内部(うつべ)駅。・・・(「桑名」駅から「内部」駅まで。その9。)

2015-08-14 20:28:33 | 旧東海道

 この付近の「旧東海道」。西は「四日市あすなろう鉄道内部線」、東は国道1号線にはさまれています。特に道一本へだてた「国道1号線」には「イオンタウン四日市泊」の大型複合店舗施設などがあり、交通量も多く、にぎやかで広い通りになっています。

「日永郷土資料館」の先でその国道1号線と合流します。

 正面に「日永の追分」が見えてきました。

    
 左が「国道1号線」(すぐ先で「伊勢街道」を分岐し、西へ向かう)、右が旧東海道(「追分」駅の先で県道と分かれて左に進む。)

左いせ参宮道 右京大坂道

日永の追分

 道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分れ道である。
 道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。
 また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。
 「日永の追分」は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。



三重史跡 日永の追分

 「日永の追分」の神宮遙拝鳥居は安永3年久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち東海道を上下する度毎に参宮街道との分岐点 日永の追分に鳥居がないのを遺憾とし江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買い入れて鳥居を建設した。更に今後の改造費として私財金七百両を寄付されたので地元ではこれを基金として神宮式年ごとに改造してきた。
 その後地元民は勿論旅人からの崇敬の的となり昭和13年4月12日県史跡に指定され昭和16年日永村が四日市に合併して以来日永地区連合会自治会が管理に当たり毎年九月21日に鳥居祭を斎行している。

真向かいにある立派なお屋敷。

 「四日市あすなろう鉄道内部線」の線路を渡ります。

   
 「追分」駅。                              「四日市」駅方向を望む。

 単線で普段は無人駅のようですが、たまたま駅員さんがいたので、駅のトイレをお借りして少し休憩。
 「この先を左に入ったところですよ。ちょっと分かりにくいところもありますが、道標がありますので。」

正面・右から曲がってきます。

こうした案内板がずっと続くので安心です。

「四日市地域まちかど博物館 いわひば処 壽苑」。

 三重県内には個人を中心とし、商店や民家を活用した「まちかど博物館」が各所にあります。


 住宅街の細い道(昔のままの道幅? )を標識に従って進みます。途中、右と左に大きく曲がり、お寺をいくつか見ながら「山中胃腸病院」の脇を通り、広い通りに出て左に進みます。

左手奥に「内部」駅。内部線の終点。

 10時少し前ですが、けっこう日差しが強く、昨日の疲れも加わってちょっと休憩。 

右手の道に入る手前に「案内図」。

右手の道が「旧東海道」。

 これから「杖衝坂」を経て「石薬師宿」に向かいますが、この先にしばらく最寄りの鉄道はありません。体調も考えてこのローカル線に乗ってみることにしました。いったん四日市に戻っていきます。

                  

 軌間762mmという特殊狭軌の軽便鉄道として建設され、現在も当時のままの軌間で運行されています。
 バスよりも狭い? 車内のようす。始発駅では乗客はほとんどいませんが、途中駅からそこそこ人が乗ってきます。

注:標準軌 1435mm 新幹線 民鉄各社 路面電車の大半 世界鉄道の約60%
  狭軌  1372mm 京王電鉄(井の頭線除く) 都営新宿線 都電荒川線等 通称:馬車軌道
      1067mm JR在来線 民鉄各社 日本国内最多
762mm 黒部峡谷鉄道 三岐鉄道北勢線等
  
 京成などと比較すると、約半分の幅。黒部峡谷鉄道と同じ。


「四日市」駅に到着の電車。

 さて、10時30分前に戻ってきてしまったものの、この先、さてどうするか? JR関西本線で「亀山」に向かい、そこから戻ってくることにしました。
 この続きは、後日。勝手気ままな一人旅です。それにしても汗が噴き出してくる。「熱中症」にだけは要注意!
  
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追分道標。日永一里塚。東海道名残りの一本松。・・・(「桑名」駅から「内部」駅まで。その8。)

2015-08-13 23:28:34 | 旧東海道

 さて、7月21日(火)。2日目。晴天。7時半頃にホテルを出発、なるたけ陽が高くならないうちに道をかせごうとしましたが、すでに暑い日差し。さすがに昨日の炎天下歩きの疲れが残っています。亀山まで行ければと思っていますが、・・・。

 旧東海道はほぼ四日市あすなろう鉄道内部(うつぶ)線(あすなろう四日市駅~内部駅)に沿って南下しています。

四日市あすなろう鉄道内部線

 開業は、1912年10月6日。軌間762mmという特殊狭軌の軽便鉄道として建設され、現在も当時のままの軌間で運行される。あすなろう四日市駅 - 日永駅間には、同じく軌間762mmの八王子線の列車が直通している。
 1965年(昭和40年)4月から近畿日本鉄道(近鉄)が運営していたが、2015年(平成27年)4月より、四日市市が第三種鉄道事業者として鉄道施設と車両を所有し、新たに近鉄と四日市市が共同で出資して設立した四日市あすなろう鉄道が第二種鉄道事業者として公有民営方式により鉄道施設と車両を無償で借用して運行する。

 廃線寸前までいった路線が命脈を保っています。

「あすなろう四日市駅」は「近鉄四日市」駅に近接。


 1890年ころのようす(「今昔マップ」より)。鉄道開通前。中央の道が「旧東海道」。


 1932年ころ。→が現四日市あすなろう内部線(当時は「三重鉄道」)。


 1960年ころ。→「近鉄内部線」とある。


 現在。旧東海道は他の道路と見分けがつかない。

 昨日の続き。間もなく左側に崇顕寺というお寺があり、門前に「丹羽文雄生誕之地」と刻まれた石碑が立っています。

        
                                 諏訪神社方向を望む。                

 丹羽文雄は明治37年(1904)、崇顕寺の長男として生れ、早稲田大学在学中に文学を志し、「鮎」で高い評価を受けました。ふるさとの四日市を描いた「菜の花時まで」などを発表。昭和52年(1977)には文化勲章を受章しました。四日市市名誉市民となっています。

近鉄名古屋線のガードをくぐり、古い町並みを進みます。

    

鈴木薬局(旧鈴木製薬所)

 竹の切り口を示す「丸二つの組合せ」の登録商標に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた古い看板を掲げる鈴木薬局は、300年以上も製薬業を営む旧家である。
 当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系ヅによると、第四代勘三郎高春が、寛延3年(1750)2月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。
 当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。これは、第六代勘三郎高光が、嘉永5年(1852)に建てられたものであることが、家系図によってわかる。玄関には、約60㎏の重い木製の上げ下げ奴があり、東海道に面した家の表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある。また、土蔵とともに膏薬をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。



「鹿化橋」を渡ると、古い町並み。

「大宮神明社」付近を振り返る。

「日永つんつくおどり」。

日永つんつくおどり【日永地区】
 元和6年(1620年)の記録にすでに見られる郷土色豊かな踊り。
 地固め、地つきに歌い踊られたものと考えられており、滝川一益の母の隠居所建築のため、天白川の堤防を築くため、などとする伝承がある。
 太鼓・笛などの囃子と歌に合わせて円陣を作って踊る。
 8月14日~16日に両聖寺境内で披露されている。


 しばらく道なりに進みます。けっこう暑くなってきます。



 この写真を撮っていたら、ゴミを出しに来た方が「これからどちらまで」と声を掛けてきました。

「一応、亀山までの予定ですが」

「私も東海道を歩きましたよ、京都から日本橋まで。木曾街道にも少し取りかかっています。でも、こういう暑いころにはあんまり歩いている人いませんよ、普通。僕も涼しいころに歩きました。いや、ご苦労さんです。」

「そうそう、日永神社に寄りましたか? そこにこれから行く追分の道標よりももっと古い旧い道標がありますよ、市にももっと知ってもらうように言っているんですが・・・」

 先に立って案内してくれました。少し戻って「日永(ひなが)神社」の境内に。 

    

追分道標

 この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍らに立てられていた道標である。
 この道標には正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」そして裏面には「明暦二丙申(ひのえさる)三月吉日南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。
 この道標が建てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遙拝鳥居が建立されたときよりも約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。
 更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味あることである。
 嘉永2年(1849)神宮遙拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられたとき、この小さな道標が不要に也、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後明治40年に追分神明社が日永神社に合祀された際に道標も一緒にここに持ってこられたものと推定される。 

 知立にあった道標が元禄9年丙子(ひのえね)(1696)のものだったので、それよりも40年前であったことになります。感謝! 感謝!

「気をつけて行って下さい、無理せずに。」

「ありがとうございます」。時刻は、まだ8時半。先に進みます。

 まもなく右手の建物と建物との間に石柱。「日永(ひなが)一里塚跡」碑。この一里塚は日本橋からちょうど100番目のものです。

    
                  「史蹟 日永一里塚阯 三重縣」

 一里塚は、江戸時代に整備された街道において約1里(約4キロ)ごとに設けられた塚で、市内には東海道筋に4ヶ所築かれた。文化3年(1806)の『東海道分間延絵図』にも、富田・三ツ谷・日永・采女の一里塚がそれぞれ描かれている。
 日永一里塚は、当初は天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。しかし、その後の考証により、日永5丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。
 この日永の一里塚は、もとは5メートル四方で高さ2.5メートルの塚が、東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが、明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消した。

                                 四日市市教育委員会

 解説板は最近設置されたようで、碑のみで何も無かった頃、先達の中には「日永一里塚跡碑」を見逃すケースもあったようです。これからはそういうことはないでしょう。

 しばらく進むと、右手にかつてあった松並木のうちの1本だけが残されていて、脇に「東海道名残りの一本松」の解説板があります。

      

東海道名残りの一本松

 むかし、この辺りから泊の集落までは東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられていた。
 その向こうには、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その蝿手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして大切に維持しなければならない。
 縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9m)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5m)で、現在も変わっていない。


1890年ころのようす(「今昔マップ」より)。
 ○の部分が「縄手(畷)」。これまでも「川崎宿」の先などにありました。直線の道筋。


現在のようす。

そこから来た道を振り返って望む。
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