おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その3。レストラン「だんだん」。水準点・海抜4.4m。新宿。利根川大橋・常陸川大橋。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-30 20:12:12 | 銚子往還

しばらく国道歩き。  

          「→東庄町役場・・・」

直売・苺狩り。営業中の「林いちご園」。

バス停「菰敷(こもしき)青年館」。横道に入ると、

水田が広がる。

              

遠くに「筑波山」(↓)。

「笹川」。

右手奥に、「レストランだんだん」。

             若い娘さんが幟を立てていたので、「さりげなく」声をかけて先に進みます。

バス停「一本松」。

大きな石碑。「日本名山霊地巡拝大乗修養碑」。

この隣の塀の中に、「水準点」。海抜4.4m。

直線の道が続く。

バス停「寺前」。

             左手奥に「忠魂碑」。右に「新宿青年館」。

お店が並ぶ交差点に。

         

            山裾には住宅地が広がっています。  

高速バス停「橘」。

「バスターミナル東京八重洲」行きのバスの停留所です。

「利根川大橋入口」交差点。

右手では県道の拡幅整備工事中。 

「←常陸川大橋 鹿嶋 ↑利根かもめ大橋 銚子」。

                     (現在)南西から接続する県道は未完成。

         

         利根川河口堰・利根川大橋 (完成年1971年)※利根川歩きのときの写真。

利根川河口堰は、河口から18.5キロメートル上流にあり、水郷筑波国定公園の水郷地域内に位置します。河口堰の直下流で、旭市と香取市を源とする「黒部川」が右から、霞ヶ浦から流れ出る「常陸利根川」が左から合流し、「利根川」はさらに大河の様相を呈します。

河口堰に合わせて「利根川大橋」が併設されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その2。「天保水滸伝」。田中角栄石碑・利根の川風 袂に入れて・・・。笹川繁蔵・飯岡助五郎。飯沼観世音江五里。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-29 20:02:19 | 銚子往還

まだしつこく「天保水滸伝」の続き。

「利根川」歩きの時、「黒部川」と「利根川の」間の土手のすぐ左手の駐車場脇に田中角栄の石碑がありました。

元首相「越山・田中角栄」の筆による「天保水滸伝」の歌詞の一節。

利根の川風 袂に入れて 月に棹さす 高瀬舟

浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。下の版画は、"大利根河原の決闘"を描いたもの。

      

      歌川芳虎〈1828~87頃〉「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(「城西国際大学水田美術館」より)

※天保15年、博徒でありながら幕府の十手持ちでもあった助五郎が多数の子分たちをひきつれ、繁蔵一派に斬り込んだという史実に基づいている。

笹川繁蔵物語

 笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
 繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け笹川一家を張ることになる。
 一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
 天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
 この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
 飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
 初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
 弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
 笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。

(この項、「」HPより)

さて、もう一方の「飯岡助五郎」について、「」では、

飯岡助五郎

飯岡の漁業振興につくした遊侠の親分、飯岡助五郎。
市内には助五郎の墓をはじめ、天保水滸伝に登場する人物たちの遺跡が残っています。

古くから漁業で繁栄した旭市。飯岡助五郎は、江戸時代、海難事故により途絶えかけた漁師の人材の確保をはじめ、海岸侵食を防ぐための堤防工事など、旭市の漁業振興に力を注いだ人物でした。
また、網元として成功するかたわら、「十手持ち」として近隣の治安にあたるほか、江戸相撲を興行するなど、地域振興に活躍した人物でもあります。光台寺には助五郎の墓があります。

【天保水滸伝】
浪曲や講談でおなじみの「天保水滸伝」では、笹川(現在の東庄町)一帯を中心に勢力を拡大する笹川繁蔵一派との勢力争いが「大利根の決闘」として語られています。
この決闘で一度は笹川方に大敗した飯岡方ですが、のちに繁蔵を討ち果たします。その時討ち取られた繁蔵の首は飯岡助五郎によって、定慶寺の境内に丁重に葬られたといわれています。

というわけです。任侠二人が、それぞれ、地元でこうして今でも語り継がれているわけです。

※「東庄町」は、利根川沿い、「旭市(飯岡)」は、九十九里浜沿い。

では、田中角栄との関連は? 

天保水滸伝は浪曲として二代目玉川勝太郎の名調子によって語られ、多くの人々の共感を呼んだ。利根に一雨来そうなと言れわる豪快にして沈痛な読み口には大利根の哀愁があり詩情が漂う。この一節を永く讃えることとなり、揮毫は浪曲を愛し庶民の心を理解される 時の宰相田中角栄氏に懇請快諾を得た。ここに天保水滸伝の一節は越山田中角栄書として一段の光彩を放ち、永遠に大河のほとりに在ることとなった。

・・・ということで、

今回の街道歩きに戻ります。「桁沼川」(「黒部川」方向)。

         上流方向。

「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。

来た道(旧街道)を振り返る。

通りの向こうに石碑。

近づくと「飯沼観世音五里」。残り20㎞。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その1。「笹川駅」。諏訪大神。「天保水滸伝」・笹川の花会・十一屋。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

2024-05-28 20:52:25 | 銚子往還

5月17日(金)。快晴。今回「椎柴駅」まで行く予定でしたが、一つ手前の「下総豊里駅」で終了。

あと1日でゴールの銚子・飯村観音までたどり着けるか、微妙に。

成田線「笹川駅」。

                         素朴な駅舎。

アーケードをくぐって街道に復帰。

                   

「御大典記念築堤」碑。

「諏訪神社(大神)」境内。

坂上田村麻呂蝦夷征討の際、悪神退散を祈願して建てた一祠が当社の始まりとされ、大同2年(807年)に創建されたといわれており、須賀山明神とも称された。東国鎮護の神社として国司武将等の崇敬篤く、特に大江維時は社殿を造営し、源頼朝建久2年(1191年東重胤に命じて社殿を改築した。その後天正19年(1591年)に徳川家康朱印地10石を寄進し、享保3年(1718年)には神階正一位を授けられた。

当社の春の例祭には、神前の神楽殿で「笹川の神楽」が演ぜられる。天狗の面・小屋根の面・大玉の命の面・乙女の面・手力男の面などの十六座からなり、太々神楽あるいは岩戸神楽ともよばれ千葉県の無形民俗文化財に指定されている。また、秋季例祭には相撲まつりが行われる。山車が街中に繰り出し、笹川繁蔵が催して以来続けられている素人相撲大会などが開かれ、遠近からの参拝客でに賑わう。2017年の大相撲夏巡業期間中は出羽海部屋幕下以下の力士がここへ合宿に訪れていた

なお境内には、天保13年(1842年)に笹川繁蔵が建てた野見宿禰の碑[2]が残っており、境内の入り口には天保水滸伝遺品館[3]がある。

脚注

  • 笹川繁蔵が、相撲の元祖野見宿禰の碑を建てるとともに農民を救済することを名目として大花会を行った時に建てたもので、花会には、清水次郎長国定忠治大前田英五郎など天下の親分衆が駆けつけ大盛会であったと講談『天保水滸伝』は伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前で、国定忠治も手配書が出て逃亡中であり、真偽のほどは不明であるともされている。
  • 3 繁蔵の使った合羽や駒札、平手造酒の手槍と徳利、勢力富五郎の火縄短銃などといった、遺品・古文書を展示している。

(この項、「Wikipedia」より)

※「野見宿禰(のみのすくね)神社」が、両国・北斎通りにあります。

「北斎生誕の地」の掲示板と四つ角をはさんでほぼ南側にある神社。

かつて東側に高砂部屋があった。明治18(1885)年親方の高砂浦五郎が津軽藩上屋敷跡地であったこの地に相撲の神様・野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まり、という。石柱には力士や相撲関係者の名前が刻まれている。また、境内には歴代横綱の名を記した石碑がある。

野見宿禰(のみのすくね)
 能見宿天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速に勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後、垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる「埴輪の制」を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった、という。

「とうのしょう観光マップ」。

参道脇に、

                  「天保水滸伝遺品館」。開館していませんでした。

「天保水滸伝遺跡案内図」。

「天保水滸伝」は、天保から嘉永にかけて下総一帯で繰り広げられた飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の騒擾を題材とした実録体小説、および同じ題材を元に作られた講談浪曲等の演目。天保15年8月6日、下総国大利根河原で実際にあった「大利根河原の決闘」が物語のハイライトとなっており、飯岡助五郎や笹川繁蔵が実名で登場する。数ある演目の中でも特に文化史的に重要なのが講談で、初代宝井琴凌が自ら現地で採集した実話を元に拵えた。侠客を主人公にした侠客講談の皮切りであり、清水次郎長伝など、一連の侠客物が続々と作られるきっかけとなった

(この項「Wikipedia」より)

その物語のうち、

講談『天保水滸伝 笹川の花会』

【あらすじ】
 朝、笹川繁蔵から飯岡助五郎の元に、花会を笹川の十一屋で開くとの知らせが届く。花会とは親分衆ばかりが集まって開く賭場のことである。助五郎は風邪をひいて寝込んでいるので、洲崎(すのさき)の政吉に花会に行くよう言いつける。政吉は助五郎の跡目を継ぐ者であり一番信頼のできる子分である。政吉は笹川繁蔵に渡す「義理」(金)として、親分・助五郎から5両、その子分一同から3両を預かった。2人の子分を連れて5里離れた笹川まで赴き、花会が開かれる宿屋・十一屋へ着く。
 宿屋に入り、「義理」を繁蔵の子分に渡そうとするが、傍らにいた繁蔵はそれを自分の懐にしまい込んでしまう。横から金を頂戴してしまうようなしみったれた野郎だと政吉は鼻で笑う。花会の開かれる二階の広間に入ると政吉は驚いた。見渡すと、どこの誰だかは知らないが一目見ただけでこれは大物だと分かる貫禄のある親分衆がズラリと居並んでおり、すっかり威圧されてしまった。政吉はそれほどの貫禄は無いし、見知った親分も見つからない。どこへ座ればいいものかと思っていると、「こっちへ来い」と声がかかった。常陸国の親分、皆治であった。皆治は助五郎の親分である銚子の五郎蔵と兄弟分の仲である。皆治は参席している親分たちに政吉のことを紹介する。ひとり、皆治の向かい側に胸毛の見える眉毛の太い、いかつい顔をした男が腕を組んで政吉をじっと睨んでいる。この男は政吉の親分の助五郎のことを「スケ」と呼ぶ。頭にきた政吉。その男は広間に居並ぶ、遠方からも駆け付けた大親分の歴々の名を言い立てる。さらに飯岡と笹川がすぐ近くなのにも関わらず、這ってでもなぜ来なかったと助五郎をなじる。この男こそ上州の大親分、国定忠治であった。
 鴨居にはどこどこの親分からいくらいくらの「義理」を貰ったとのビラが貼って並べてある。そこには親分だったら50両から60両、身内一同だったら25両というような額が並ぶ。ところが助五郎が渡した「義理」は5両でその身内一同からは3両。これでは助五郎は大恥をかく。ところが繁蔵の子分が張った、助五郎の義理のビラには「助五郎50両、身内一同30両」と書いてある。政吉は自分が渡した義理を、繁蔵が懐へしまい込んだ理由が分かった。助五郎が万座の中で恥をかかないようにと繁蔵は金を差し換えてくれたのだ。政吉は繁蔵をありがたく思う。このビラを見て国定忠治も機嫌を直したようで、にっこり笑って盃を渡す。
 政吉は繁蔵に深々と頭を下げて礼を言い、他に回るところがあるからと先に花会の場を去る。飯岡に戻った政吉は、助五郎に花会の模様を話す。大変に盛んで、遠くからも各地の大親分が集まっていた。助五郎親分も明日、顔を出したらいかがでしょうかと言う。繁蔵を妬ましく思う助五郎。政吉はひとり酒を手酌で飲みながら繁蔵になにか恩返しをしなければとしみじみ思う。

(この項、「」HPより)

※私事ですが、父親の出は「清水」、母親は「赤城」、叔父は、戦後まもない新宿のテキ屋の親分、かみさんは小見川(笹川の隣町)、「飯岡」は銚子往還で立ち寄ったところ、というわけ。まるで「天保水滸伝」・任侠の世界ですな。

「諏訪大神」前の道。

この道が旧街道。講談で「花会(賭場)」の会場として登場する旧旅館「十一屋」の建物が左手奥にあります。

この付近の今昔。  

        (現在)桝形が残っている。     (1880年代)「諏訪社」は広大な敷地を有していた。 

「笹川十一屋」。現在は陶芸のお店になっているようです。

  裏手に大きな屋敷。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その2。「犬吠駅」。「澪つくし」。「高浜虚子句碑」。犬吠埼灯台。ゴツゴツした岩に波が砕け散る。ウミウシ。(「銚子街道」番外編。)

2024-05-27 19:21:29 | 銚子往還

車両の顔。「澪つくし号」。

※澪標(みおつくし) 通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭。 水深の浅い河口港に設けるもの。 古来、難波のみおつくしが有名。和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられることも。

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」(元良親王「小倉百人一首」)

この電車。マニアの方にはどこで使用されていた車両かはご存じでしょうが、・・・。

終点・外川に向けて走り去る電車。

ホーム。

       「最高だぜ! ちょうし アイドルマスターSideM」。「ありがとう とかわ」。

駅前広場。

駅舎。

         

「犬吠埼灯台」に向かって歩きます。右手の眼下に大海原が広がってきます。

       

                   「銚子グランドホテル」。

高浜虚子句碑。犬吠の 今宵の朧 待つとせん

左手奥に「犬吠埼灯台」。

           

周辺観光案内図。

            

郵便ポストも白色。

上に上るか? いや、海の方に行きたい。

というわけで、99段の階段を上らずにすみました。

解説板。

国産レンガで造られた初の灯台

犬吠埼灯台は、イギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督のもと、文明開化の先駆けとして明治7年(1874年)11月15日に初めて点灯し幾多の歴史を刻むとともに、我が国の発展に貢献してきました。・・・

灯台の左手にある階段を下って、海辺へ。

ゴツゴツした岩に波が砕け散る。その砂浜を行ったり、来たり。

男の子が何か捕まえました。網の中で動く生物? 黒くてグニャグニャ動く。何だかわからないらしい。すると、孫は「ウミウシだ」と返事。生物好きな面目躍如。種類はいくつかあって・・・、と話し出します。じいさんは、黙って見つめるだけ。

ウミウシ

主に浅い海の海底に生息し、世界中に分布している。体長は数mmから20-30cm程度。形態は種によって変異に富み、色も青、赤、緑、黄色、ピンクなど、鮮やかな原色系の体色を持つものから地味なものまで様々である。種によって触角は2対から1対で分岐するものや全く欠くものもいる。基本的には貝殻を持たないが、痕跡的な貝殻を持つものもいる。

こうしているうちに昼時になったので、階段を上がって、灯台近くの「なぎさや」さんへ。

ラーメン好きな孫は、チャーシューメンをうまそうにそうに食べます。

このラーメンはおいしい、家の近所のラーメン屋とは違う、また今度来たいな。

ソフトクリームが食べたい、というので、「Seaside Terrace」に。それも満足したようです。

というわけで、次回の約束までさせられて「犬吠駅」に戻りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その1。犬吠埼灯台まで。駅名愛称のネーミングライツ・「金太郎ホーム」・「髪毛黒生」。「綿谷岩雄」・ぬれ煎餅。キャベツ畑。(「銚子街道」番外編。)

2024-05-26 15:00:38 | 銚子往還

「佐原銚子街道」がまだ完歩していませんが、その前に、一番小さな孫と銚子電鉄で犬吠埼灯台まで。

5月25日(土)。曇りのち晴れ。

           父親のザックだそうで、大きく、重そう。

行きは、特急「しおさい」。帰りは成田線経由で京成電車。半日の慌ただしい旅。

孫も小型のカメラで撮っています。こちらは、それを気にせず、

地域鉄道の鉄道事業経営は時代の流れと共に年々厳しさを増しております。
弊社は幾度とない経営危機を迎えましたが、どんな逆境にもあきらめない想いと、ぬれ煎餅の製造販売に代表されるような、常識にとらわれないチャレンジ精神で、必死に鉄道事業を守り続けてきました。
⇒倒産の危機を救った 奇跡のぬれ煎餅 銚電ストーリーはこちらをクリックしてご覧ください。
⇒奇跡濕仙貝(ぬれ煎餅)物語 也是拯救銚子電鐵從因財務困境而差點倒閉狀況中起死回生的最大功臣,為人津津樂道。

しかし、東日本大震災以来観光客が激減し、それに伴い弊社の乗客数も減少し、いまだ回復の目途がたっておらず、現在また経営危機の真っただ中にいます。
今回、そんな経営状態を打開するために取り組んだのが、「駅名愛称のネーミングライツ」です。
今回のネーミングライツは、単なる駅名愛称の命名権だけでなく、「銚子電鉄の経営再建」「銚子への地域貢献」という熱い想いを持った6社に、銚子の活性化への取り組みを共にチャレンジしていくパートナーとして集って頂きました。私たちにとって、こんなに心強いことはありません。
今後、このネーミングライツ事業の先にあるものは、地域鉄道による地域活性モデルの確立です。
地域鉄道の最大の使命は地域貢献です。
私たちはこの銚子の町に鉄道を存続させるため、そして「この町に銚子電鉄があってよかった♪銚電ありがとう!」と言われる会社になるために、今回のネーミングライツ事業に取り組んでいます。

2015年12月1日より、ネーミングライツによる新駅名愛称の運用が始まりました。

「がんばれ銚子電鉄」 西村京太郎

ここにきて、高齢者の交通事故が問題になって、免許証の返還が話題になっているが、それに比例して、地方の交通手段、特に鉄道の必要性がクローズ・アップされた。こうなると、銚子電鉄は、高齢化社会、過疎社会の重要な切り札になってきたといってもいいだろう。経済的に大変だということも、よくわかるが、銚子の人たちにとっては、必要欠くべからざるものだし、何よりも、地域の人たちの、銚子電鉄への愛情が、素晴しい。いくつもの地方鉄道に乗っているが、お世辞でなく、地元の人たちの愛し方は一番だと思う。だから、第三者の私も乗っていて楽しいのだ。現状維持だけでなく、半島を一周する鉄道になって欲しい。その時には、絶対に初電車に乗りたい。
がんばれ、銚子電鉄!
 
 
・・・
 
 
(この項、「」HPより)

けっこうお客さんが乗ってきます。途中から団体も。満員電車級です。

「ヤマサ醤油」の工場脇。

「金太郎ホーム」。「観音駅」。

※今歩いている「佐原銚子街道」のゴールが「飯村観音」。その最寄りの下車駅。

「本銚子駅」付近から緑の向こうに利根川河口・銚子港が見えてきます。

 

※「本銚子駅」は、利根川河口から歩き始めたときに下車した駅です。河口まで約2㎞歩きました。

そのときの記録。

・・・

下車した「本銚子(もとちょうし)駅」。

駅舎は1923年(大正12年)に当駅が銚子鉄道の駅として改めて開業した際に建てられたもので、その後何回か改修が行われているが、築後百年近くが経過し、近年は老朽化が著しく、全面的な改修もしくは建て替えが望まれる状態であった。しかし、所有・管理する銚子電気鉄道には建て替えのための予算の余裕がなく、2000年代に入ると修復が行われていない箇所が目立つものとなっていた。

2017年8月26日 - 8月27日に、日本テレビ系列24時間テレビ40』内の企画である「ヒロミの24時間リフォーム〜オンボロ駅を直そう!〜」にて、当駅の主な利用客である銚子市立清水小学校の生徒より依頼された、という形でヒロミがリフォームを手掛けた。これにより、駅舎は外壁、屋根、待合室内といった箇所を一新し、レンガ様の外壁の大正モダン風のものとなった。待合室内には清水小学校の生徒が製作したガラスを用いたステンドグラスが飾られている。しかし、一部の鉄道ファンからは「以前の雰囲気が失われた」「元の駅舎に戻してほしい」といった不評もある

リフォームと同時に駅舎内の掛け時計も新調したが、2018年に時計が盗難に遭い、銚子電鉄が情報提供を呼びかけたが見つからなかったため、鉄道ファンから別の時計を寄贈して貰ったが、2020年10月に再度盗難に遭ったことが明らかになった

・・・駅全体が切り通しの中にあり、周辺は林となっている。アジサイの開花シーズンにはホームの反対側の植え込みから隣駅の笠上黒生駅間にかけて多くのアジサイが咲く。

(「Wikipedia」より)

駅舎内。

                (「銚子市観光協会」HPより)

(「もとちょうしえき」)

「上り調子・本調子」。

跨線橋から。

・・・

「髪毛黒生」

「かみのけくろはえ」だそうで、我が頭髪への痛烈な皮肉ですなァ。

本来の駅名は、「笠上黒生(かさがみくろはえ)」。

 

「ぬれ煎餅買ってください。電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです。」

存続がかかっているというストレートな理由から商品を買って欲しいというその文章は、当時の電子掲示板や個人ブロガーの間で話題となり、結果的にマスコミへのPRとなったことで支援のための注文が全国から殺到しました。注文をさばききれず、一時は受付を止めなければいけなくなるほど。この売上によって修理代の費用が工面でき無事に保安検査をパス、銚電は存続することができました。
このエピソードは有名で色々なところで語られていますが、この銚電のぬれ煎餅の生みの親でもある当時の専務取締役 綿谷岩雄さんはまさに銚電を救った張本人だと竹本講師は言います。

ぬれ煎餅など物販事業を進めたのは当時経理課長だった綿谷さんで、銚電を失くしたくないという一心からとにかく利益になることは何でもやろうという姿勢でした。
横領事件発生後は代表権の無い専務として走り回り、ダメ元で飛び込んだ公庫から融資の話を得ることができました。ただ、条件として交代した当時の社長の自宅を担保にするなら貸すというもの。ところが当時のその社長の自宅が借家であったため、専務の綿谷さんの自宅を担保にすることにしました。
専務取締役といっても代表権の無い綿谷さんにとって何の保証もないその決断は、銚電を愛するが故のものであり、銚電の救い主だと今でも感謝していると竹本講師は言います。綿谷さんは昭和23年に入社して銚電一筋70年、4年前に88歳の生涯を閉じられたということです。

この項「―銚子電鉄代表取締役 竹本勝紀さんをお招きしお話を伺いました―「日創研東京経営研究会」HPより)

沿線に田園地帯が広がってきます。

              キャベツ(見事におおきくなった)、トウモロコシ(まだ苗)・・・。

何を植えるのでしょうか?

               

「君ヶ浜」。

           

終点「外川」の一つ手前「犬吠」で下車。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その6。第二佐原銚子街道踏切。「水の里 風ロマン 東庄町」。モニュメント「積雲の彼方へ」。天井にツバメの巣。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-25 20:40:05 | 銚子往還

「第二佐原銚子街道踏切」。

                        「笹川駅」方向。

「小見川駅」方向。

「国道356号(利根水郷ライン)」。右手に「高橋いちご園」。

この地域でも、房総特有の槇の生け垣が続きます。

「タイヨー 東庄店」。

 向こうに水田が広がる。利根川の対岸には、鹿島臨海工業地帯(神栖)の高い煙突群。

バス停「新切(しんせつ)」。

雪洞風の街灯。

右手奥に「笹川駅」。今回はここまで。

駅に向かいます。

             「水の里 風ロマン 東庄町」というアーケード。

成田線「笹川駅」。

駅前の広場。

右手の駐輪場にあるモニュメント。

                      タイトルは「積雲の彼方へ」。葉と人と鳥が融合したかたち。 

足下に、

「天井に ツバメのお家 があります。 ご注意下さい。 あたたかく見守ってね」

見上げると、

小見川とここと、ツバメに出会いました。

跨線橋から。銚子方向。

南東側。

上りホーム。次回はこの駅から。

成田線は、佐原や小見川など一部の駅以外は無人で、素朴な駅舎と待合室が印象的です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その5。「道標」飯沼観音江六里。成田線沿い。広がる水田地帯・筑波山。東庄町へ。いちご街道。相撲まつり。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-24 19:39:10 | 銚子往還

左折し、直線道を進みます。この道筋は大きな桝形(曲尺手)?

街道沿いに集落。

この付近の今昔。

(現在)左折した後、成田線沿いに進む。

(1880年代)阿玉川の集落。

         舟運のための水路が見える。

広く大きな屋敷。

「飯沼観音六里」。銚子駅まであと24㎞弱となります。

ということは、あと6時間。軟弱な小生。あと2.5日ペース。

成田線沿いの直線道になります。

左手下には水田が広がる。

眼下は成田線の線路。「黒部川」、その向こうに「利根川」。

          

北西遠くに「筑波山」(↓)。

                利根川歩きのときは、筑波山を眺めながらの歩きでしたが、振り返るときにのみ。

「東庄(とうのしょう)町」に入ります。

成田線。

        

右手は森。

色褪せた看板。「ようこそ東庄へ。これよりいちご街道」。 

成東駅から歩いたときにも「いちご街道」がありましたが、東庄町でもイチゴ栽培が盛んなのですね。

この先、イチゴの販売所やいちご狩りの農園があります。

上り電車(千葉・成田行き)が通過中。

「第二佐原銚子街道踏切」。

                 今回のゴール・「笹川」の町並みに入ります。

踏切の手前に、

              「わが町には相撲がある」という大きな看板。

・奉納相撲(秋季大祭)

・笹川夏合宿(出羽海部屋)

諏訪神社秋季大祭(笹川相撲まつり) 東庄町観光協会

天保水滸伝ゆかりの相撲まつり

笹川の相撲まつりは、浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」にも登場する由緒あるおまつり。現在は、7つの地区の廻り番により、毎年7月最終土曜日に開催され、自衛隊力士や町内の子ども会力士による「団体戦」や「勝ち抜き戦」、「三役相撲」など多くの取組が行われる。当日は、山車の引き回しも夜10時まで行われ見どころ満載。

大相撲の巡業なども行われているようです。

※「天保水滸伝」については、この後、次回の街道歩きの冒頭で。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その4。国道356号。ツバメ。「おくまや」・ウナギの白焼き。佐原銚子街道踏切。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-23 18:23:47 | 銚子往還

国道356号に合流します。

                左折し、国道歩き。この通りが「(旧)佐原銚子街道」になっています。

                    

頭上を何羽ものツバメが飛び交っています。

このお店の「デ」の上に巣がありました。(↓)    

近所の工場に毎年、ツバメがやってきましたが、近年はまったく見なくなりました。久々のツバメの姿を見ました。

ツバメ (「Wikipedia」より)

・・・

「燕尾服」の由来となったオスの尾羽は長ければ長いほどモテる?!

全長17cm。オスメス同色ですが、尾は長い方がオスです。空中を飛んでいる虫を餌にしていますので、農薬を使っていなかった昔は稲作の害虫を食べてくれる大切な鳥でした。そのためツバメを大切にするような言いつたえが各地にありました。日本で繁殖をしたツバメは台湾を経由してフィリピン、マレーシアで越冬する事が知られています。ツバメは南の国からやって来る渡り鳥の代表です。一般的には夏鳥ですが、暖かい地方では越冬するものもいます。家の軒下(のきした)に巣をつくったツバメは、雷や火事を防ぐ生きものと信じられ、子どもを生み育てるおめでたいしるしの鳥として人々に愛され、大切にされました。今も町の商店や消防署、警察署、駅のホームなどで、子育てから巣立ちまでを見せてくれる身近な鳥です。

オスカー・ワイルドの有名な童話をご紹介しましょう。 ある町の高い円柱の上に「幸福な王子」と呼ばれる立像がありました。あるときそこへ飛んできたツバメがひと休みしようと降りると、王子の眼から涙がこぼれているのに気づき、そのわけをたずねました。王子は「高いところから町を見ていると、かわいそうなことが起きているのがわかって悲しいから」と答えました。情(なさけ)ぶかい王子に感心したツバメは、王子の目になっている宝石や、からだに張ってある金パクを不幸な人に届ける役をひき受けて働きました。やがて冬が来て、ツバメは凍(こご)え死に、王子の像もボロボロになってこわされましたが、心やさしい王子とツバメは天国に召されていきました。

今来たと 顔を並べる つばめかな 一茶

(この項、「サントリーの愛鳥活動」HPより)

「青面金剛(しょうめんこんごう)」碑。神は庚申とも呼ばれる。

左手にいい匂いと煙が。

若い職人がウナギを素焼きしています。 

オクマヤは明治5年(1872年)の創業よりご愛顧を頂いております。
”肉質の柔らかな良質のうなぎ”を厳選し、一品一品真心を込めて作らせていただいております。
当店自慢の炭火うなぎの白焼き、うなぎ佃煮、川魚佃煮等取り揃えておりますので、ぜひご賞味くださ「い。

(「

」HPより)

大きなウナギの白焼き。

かば焼きとしては販売せず。自宅等でお好みで味付けして食べるのもいいかもしれません。その代わり、

  

けっこう地元では人気のお店のようで、車が出入りしています。「おくま」はこの商いを始めたおばあさんの名だそうです。

ぽつんと一軒家。

                  かつての川魚漁師のつくり?

街道歩きを続けます。右に大きく曲がります。                

この付近の今昔。

(現在)→。踏切を越えた後は、成田園沿いに進む。

(1880年代)北に河岸への道。「小見川」とは別の集落。

告示「阿玉川区総植土を令和6年5月9日(木・大安)とします」。

これはどういう行事なのでしょうか? 

 

「成田線」の踏切を渡ります。

「佐原銚子街道踏切」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その3。小見川の歴史。大橋・黒部川。谷屋呉服店・夢紫美術館・貝紫。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-22 21:32:40 | 銚子往還

古代、小見川の大部分は海であり、陸地部には縄文人が住み着いていた。そのため現在でもその地域には貝塚が多数存在している(白井、阿玉台、木内、内野、良文等)。

46世紀には、日本の他地区と同様、小見川でも古墳が作られた。100基程見つかっており、代表例として三ノ分目大塚山古墳や、城山古墳群が挙げられる。

鎌倉時代に入ると、千葉氏の勢力が強まり、その一族である粟飯原朝秀が小見川城を築いた。一方で、西地区の一部(織幡など)は香取神宮が領有を主張していた。

粟飯原氏はその後も、源氏足利氏北条氏と密接に関わり地域を支配していた。しかし、やがて千葉氏の勢力が衰え、天文21年(1552年)に正木時茂により小見川城が攻略されると、粟飯原氏一族は離散した。また、香取神宮も天正19年(1591年)の太閤検地によって多くの社領を失い、織幡は普通の村落になった。

文禄3年(1594年)、松平家忠が小見川に封ぜられた。これが小見川藩の始まりである。続いて土井利勝安藤重信が封ぜられ、その後天領などを経て慶安2年(1649年)、内田信濃守正信の領するところとなり、以降幕末まで内田氏による統治が続いた。また、この頃から利根川東遷事業により、東北地方銚子醤油などが利根川を経由して江戸に運ばれるようになった。これにより佐原などはその中継地として栄えたが、小見川もまたその恩恵を受けた。・・・

※残念ながら、小見川の町並みは、明治 13 年(1880)、明治 20 年(1887)、明治 21 年(1888)と立て続けに大火に遭っている。・・・これにより多くの商家も焼失したと言われているが、現在も、新町通りの谷屋呉服店などいくつかの商家などが残っており、江戸時代末期の創業であるが、ちば醤油や飯田本店などの醸造業者が今も営業を続けている。・・・

この付近の今昔。

                        (現在)北方が「利根川」など河川改修されている。

                          (1880年代)湖沼が広がっている。

       中央左寄りの集落が「小見川」。    

「黒部川」沿いの古い建物。

下流方向。「大橋」。

                    「銚子街道」上の橋。

上流方向。農業排水路なのでしょうか、けっこう濁っている。

「振袖専門店 谷屋呉服店」。

               街道沿いのお店。土蔵、古い店構え。

                

解説板。

利根川支流黒部川の舟運で栄えた小見川の代表的な商家である。旧銚子街道沿いに南面して建つ呉服店で、創業は嘉永元年(1848)とされる。蔵は明治初期のもので、土蔵造2階建、南北棟の切妻造り、桟瓦葺き。平入で、店舗側の東面に蔵前を設け、入口には重厚な黒漆喰仕上げの観音開きの扉をしつらえている。西面は下見板張、2階の表通りに面して観音開きの窓を設ける。外壁は白漆喰仕上げ。腰を高く造り、洪水に備えて1階床を高く上げるなどの工夫や、防火構造壁(厚さ60cm)も併せ持っている。

現在、土蔵は、貝紫(アカニシ貝)の染色による「江戸友禅」の着物、帯、染め絵額や正倉院復元織物などを収蔵・展示する夢紫美術館として公開されている。

 

千個の貝からわずか数グラム

貝紫は、膨大な数の巻貝を必要とし、希少かつあまりにも高価なため、帝王や貴族の式服にしか使用を許されず「最も高貴な色」と言われてきました。権威の証でもあったことから「帝王紫」や「クレオパトラの紫」と重宝されていましたが、東ローマ帝国の滅亡とともに途絶え幻の色と なりました。秋山は藍の発酵からヒントを得て独自の手法で日本近海に生息するアカニシ貝の内臓(パープル腺)から紫の色素の抽出と染色に成功し、現代に蘇らせました。

類まれな美しい色と優れた堅牢性において貝紫は、染織職人にとり他の追随を許さない天与の染料です。

"創業177年の谷屋呉服店です。成人式の振袖レンタルと購入、ママ振袖、成人式当日の着付け・ヘアメイクのお支度、前撮り写真撮影のお手伝いをしております。地域の皆様がいつご来店いただいてもお喜びいただけるように、常時1,800枚以上の振袖をご用意しております。振袖は今トレンドのくすみ系やアースカラーなどの流行柄から伝統的な京友禅をはじめ絞り柄などの古典柄、レトロ柄、モダン柄など、色のバリエーションやデザインイメージも豊富。袋帯、帯締め、帯揚げ、半襟、重ね襟、草履、バッグ、髪飾りなども幅広く取り揃え、経験豊富なスタッフが上品でおしゃれな振袖コーディネートをご提案いたします。老舗着物専門店としての伝統と実績でお客様の成人式や前撮り撮影を最高の日にするために、スタッフが一丸となってサポートいたします。ぜひお気軽にご相談ください。"(「谷屋呉服店」HPより)

けっこうお客さんが連れ立って来店しています。

立派なお屋敷。

「佐原銚子街道」(旧道)を振り返る。

桝形を過ぎ、「国道356号(利根水郷ライン)」に向かいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月18日(土)晴れ。「向島百花園」。カルガモたち。色づく梅の実。かるみや。葛の葉。あじさい。ふじ。寺島なす。・・・

2024-05-21 21:18:41 | 向島百花園

すっかり緑が濃くなった「向島百花園」。

         

5月18日(土)。このところ、不思議と土曜日に晴れるの日が続きます。

       

その後のカルガモたちは? 

           いました! 

2組のつがい?

          

池を思い思いにスイスイ。

あやめ。水辺も初夏らしく。

梅の実も大きく、色づきつつ。「とうばい」。

「しろかが」

 

                        「べにすずめ」。

「かるみや」。

カルミアはコンペイトウのような形をした、色濃い蕾を持っています。花が開くと皿形になり、色は薄く模様が入って、蕾の様子とは全く異なった印象を受けます。開いた花をよく見てみると、雄しべの先は花弁のくぼみの中に収まっています。この雄しべは、飛来した昆虫などによって刺激を受けると飛び出して、花粉も散るというおもしろい仕組みをもった花です。
カルミアは、7種からなる小さな属で、北アメリカとキューバに分布する常緑低木です。一般にカルミアと呼ばれるのはラティフォリア種(Kalmia latifolia)をさし、いくつかの品種が鉢植えや庭植えの花木として栽培されます。栽培はシャクナゲに準じ、夏の暑さと乾燥に注意が必要です。

(「」より)

「しゃくなげ」。

葛の葉。

やまあじさい。

「にわふじ」。

「寺島なす」の花。

「せんだん」。

※”栴檀は双葉より芳し” の栴檀は、この栴檀のことではなく、白檀(びゃくだん)という木のことを指す。 (白檀は別名を栴檀と呼ぶ)

 <参考>”栴檀は双葉より芳し” (せんだんは ふたばよりかんばし)。

栴檀(白檀)は発芽したころから芳香を放つことから、優れた人物は、幼いときから他と違って優れていることを示すことわざ。

「さくらそう」。

「やまぶきそう」。

帰途、近所の公園で「立葵(たちあおい)」の花を目にします。

 

    これから見頃に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月20日。「小満」。蚕。紅花。麦秋。らっきょう。アジ。衣替え。

2024-05-20 21:07:23 | 二十四節気

今日、5月20日は、二十四節気の第8番目「小満」。

東京地方。このところ、真夏日になったり、雨が降ったり止んだりと変化が激しく、すっきりしないお天気が続きます。「走り梅雨」でしょうか。しばらくすると、本格的な梅雨に入ります。

さて、「小満(しょうまん)」とは、あらゆる生命が満ち満ちていく時期のこと。

太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節です。

七十二侯では、

・初侯 5月21日〜5月26日頃

蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ

蚕が、桑の葉をたくさん食べて成長する頃。人々の暮らしを支えていたため、「おかいこさま」と敬称をつけて呼ぶ地方もありました。

※ 養蚕の歴史は古く、紀元前15世紀頃に中国で始まり、その後、日本や遠くヨーロッパに伝わっていきました。絹織物は当時大変な貴重品であり、皇帝や国王などの権力者への献上品や、友好国への贈り物として用いられました。絹織物はその美しさから世界中の人々を魅了し、ペルシャや古代ローマの商人は海、山、砂漠などを越え、危険な目に遭いながらも絹織物を求めて中国までやってきました。交易路として彼らが通った道は、「シルクロード(絹の道)」として現在も知られています。(「農研機構」より)

・養蚕業が盛んだった頃は、群馬県、栃木県や埼玉県北部などでは桑畑を多く見かけましたが、中山道、日光街道など歩いている中では、まったく見かけることができませんでした。

伊勢崎市田島弥平旧宅主屋全景。

田島弥平旧宅は、田島弥平(文政5年(1822年)生、明治31年(1898年)没)による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物です。伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平家も有力な蚕種製造農家でした。 蚕の飼育は難しく、年によって収量の差が大きかったため、弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功しました。 

また、「清涼育」に適した蚕室の工夫を行い、文久3年(1863年)には棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築しました。桁行き約25.38メートル、梁間約9.4メートルの大規模な建物で、1階を住居、2階を蚕室としました。 弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872年)に『養蚕新論』を著し、ヤグラを付けた養蚕農家建築は、その後の近代養蚕農家建築の標準となりました。

幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組みました。

明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際には、器械製糸は富岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースでした。また、富岡製糸場の外国種などの試験飼育の要請に応え、繭品種の改良や統一運動に協力しました。

・次侯 5月27日〜5月31日頃

紅花栄 べにばなさかう

あたり一面に紅花が咲く頃。紅花は古代エジプト時代から染料として利用されていました。花びらの水に溶ける黄色の色素と、水に溶けない赤の色素から、紅色がつくられます。

ベニバナ(紅花、学名:Carthamus tinctorius)

 キク科ベニバナ属の一年草または越年草。雅称を末摘花(すえつむはな)余計な注:「源氏物語」に異様な赤鼻の女性を主人公にした「末摘花」という挿話がある)ともいう。紅色染料や食用油の原料として栽培される。
 エジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されている。日本にはシルクロードを経て4 - 5世紀ごろに渡来したといわれている(6世紀伝来説もあり)。古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味。
 高さは1m。花期は6 - 7月で、枝先に頭状花をつける。花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
 日本では、平安時代に千葉県長南町で盛んに栽培され、江戸時代中期以降は現在の山形県最上地方や埼玉県桶川市、上尾市周辺で盛んに栽培された。しかし、明治時代以降、中国産の紅花が盛んに輸入され次いで化学的に合成可能なアニリン染料が普及したことから、こうした紅花生産は急速に衰退した。現在では紅花染めや観光用などにわずかに栽培されている。
 山形県ではベニバナが県花になっており、同県河北町には、「紅花資料館」がある。また、千葉県長南町も紅花を町花に指定し、月1回の紅花染め教室を開催している。
 紅花の花を摘んでから発酵・乾燥させたものが、紅色の染料や着色料(食品添加物、化粧品の口紅)の材料となる。
 ベニバナの花の色は黄色である。紅色にするには花を摘んですぐに水にさらして乾燥させる。これを何度も繰り返すと紅色になる。ベニバナの花の色素は水に溶けやすい黄色の色素サフロールイエロー99%と水に溶けにくい紅色の色素カルタミン1%が混在しており、水にさらすことによって分離するのである。
 紅花染めは、水にさらして乾燥させた花を水に含ませて餅つきと同じ方法で杵でついた後、丸餅の形にして乾燥させた状態の紅餅(べにもち)を灰汁の中に入れてかき混ぜた状態にしたのち、衣類を漬け込み(一次染め)水にさらす(灰汁はアルカリ性の液なので苦く、色もオレンジ色に仕上がる)。次に、紅餅入りの灰汁に烏梅(注:未熟な梅の果実を、薫製にしたもの)を少量加えたものに漬け込み(二次染め)水にさらす(烏梅はクエン酸の多い酸性の液体なので酸っぱく、色も赤みが加わってくる)。さらに、烏梅を少しずつ加えて配合を変えながら何度も染め上げて水にさらし乾燥させると完成する。このような手間をかけるのは、色が中に染み込みにくい特性を持つからである。

    (桶川市内)。

(以上「Wikipedia」参照)

 昭和57年には、紅花が山形県の花として定められ、山形県民に広く親しまれています。現在では、加工用品種の「もがみべにばな」や、切花用品種の「とげなし紅花」・「しろばな紅花」などが、山形県内の村山・置賜地方を中心に栽培されております。

(「」HPより)

・末侯 6月1日〜6月5日頃

麦秋至 むぎのときいたる

麦が熟し、たっぷりと金色の穂をつける頃。百穀が成熟する、麦にとっての「秋」です。この時期に穂を揺らしながら吹き渡る風を麦嵐、また降る雨を麦雨と呼びます。

(解説の項は「暦生活」HPより)

この麦畑が一面黄金色に染まったらさぞ見事でしょう。(写真は、一昨年5/3「日光東往還」歩きの時のもの)

佐賀市の麦秋の風景 

佐賀市は大和町以北の山間部と有明海まで続く佐賀平野からなっており、平野部では稲作だけでなく麦の生産も盛んに行われています。麦が実り、収穫期を迎えた初夏の季節のことを「麦秋」と言います。麦秋の季節には一面に黄金の麦畑が広がります。特に佐賀市の南部地域(川副町、東与賀町、久保田町、諸富町)は丘陵のない広大な麦畑が広がっており、吹いた風が麦を揺らし、風が見える爽やかな風景を見ることができます。

(この項、「佐賀市観光協会」HPより)

※ 「麦秋」といえば、映画「麥秋」。日本映画の名作と呼ばれている作品のひとつ。

 

1951年製作/124分/日本
配給:松竹
劇場公開日:1951年10月3日

監督:小津安二郎。撮影:厚田雄春。

ストーリー

間宮周吉は北鎌倉に住む老植物学者である。息子康一は医者で東京の某病院に通勤、娘紀子は丸ノ内の貿易会社の専務佐竹宗太郎の秘書である。佐竹の行きつけの築地の料亭「田むら」の娘アヤは紀子と学校時代からの親友で二人共未婚であるが、安田高子と高梨マリの級友二人はすでに結婚していて、四人が顔を合せると、未婚組と既婚組とに対立する。折から間宮家へは周吉の長兄茂吉が大和の本家より上京して来たが、紀子の結婚談が出る。同時に佐竹も自分の先輩の真鍋という男との縁談をすすめる。間宮家では、周吉夫婦をはじめ康一たちも佐竹からの話に乗り気になり、紀子も幾分その気になっているが、古くから間宮家の出入りである矢部たみの息子で、康一と同じ病院に勤めている謙吉が、急に秋田の病院へ転勤するときまったとき、謙吉こそ自分の結婚すべき相手だったことに気がつく。謙吉には亡き妻との間に光子という三才の遺児があり、恒産もないので、間宮家では四十歳ではあるが、初婚で、善通寺の名家の出である真鍋との結婚を希望するが、紀子のたっての希望を通してやることにする。紀子は秋田へ去り、周吉夫妻も大和の本家へ引きあげて行く。その大和はちょうどさわやかな麦秋であった。

(この項、「」HPより)

※ 「秋」を「とき」と読む。「危急存亡の秋」の「秋」も「とき」と読むことに注意。漢字も正しく書きましょう。

「危急存亡の秋」は、魏・蜀・呉の三国時代、魏との戦いに出征する蜀の諸葛孔明の『出師の表』にある言葉。「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」に基づく。「秋」は、穀物を収穫する一年で最も重要な時期であることから、重大な時機を示す語。

今まさに自民党・公明党の連立政権と、立憲民主など野党との危急存亡の秋(とき)。

旬の食べ物としては、「らっきょう」、「アジ」。

・らっきょうの旬は5月頃から7月頃まで。6月頃が出荷の最盛期です。取り扱い量は約893トン。最も多いのは鳥取県産(約363トン)で全体の約41%を占めています。続いて鹿児島県産(約316トン:約35%)、茨城県産(約63.7トン:約7%)となっています。〈ただし、この数値は「東京都中央卸売市場」扱いに基づく。〉(「野菜ナビ」HPより)

・アジは1年を通して獲ることのできる魚であり、日本国内であればいつでも手に入れることができます。 ただ、アジの旬といわれる時期は春~夏にかけてです。 資料によって多少の違いはありますが、5月~8月程度に獲れるアジは質が良く、特に6月~7月のアジは非常に食味に優れます。

(「ふるさと納税」HPより)

そして、6月1日は、「衣替え」。

衣替えの習慣は、平安時代の宮中行事から始まった。中国の風習に倣って旧暦の4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣(こうい)」と呼んだ

しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。季節による取り替えは衣服以外についても、女房が手に持つ扇も冬は桧扇(ひおうぎ)、夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。

鎌倉時代になると、更衣は衣服だけでなく調度品までとり替えることを含むようになった。

江戸時代になると着物の種類が増え、江戸幕府は公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。武家の制服は、旧暦の4月1日 -5月4日が袷(あわせ=裏地付きの着物)、5月5日 - 8月末日が帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、9月1日 -9月8日が袷、9月9日 - 翌年3月末日が綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、一般庶民もこれに従った。

明治時代になると、明治政府は洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。

1873年(明治6年)1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、太陽暦6月1日 -9月30日が夏服、10月1日 - 翌年5月31日が冬服と定められた。やがて、これが学生服に、次第に一般の人にも定着し、官公庁・企業・学校が毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。(「Wikipedia」より)

かつてはこういう風に半ば制度化されていたため、特に制服のある学校では肌寒い日でも夏服、暑い日でも冬服と決められていた。(たしか、クーラーなどの冷暖房機器運転もそうなっていたような)。

一方で、昨今のように5月中に夏日となっても、冬服を着用させたり、クーラーも5月中は運転しないなど・・・。おかしな風習(風潮)もありました。

さすがにそれじゃ健康・活動にそぐわないと、5月、6月は夏服・冬服併用(9月・10月も同様)でも可にしたり、クーラーも運転可としているように、真夏のような東京地方の暑さの厳しさから、それも次第になし崩しになってきています。

熱中症が怖いですから。「衣替え」という言葉(風習)も死語になりつつある、ということでしょうか。

官民問わず、「クールビズ」がすっかり定着し、ノーネクタイが一般的になっています。

世の中も暑さ・寒さで一喜一憂。政財界も同様? 

次の二十四節気は、6月5日「芒種」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その2。御大典記念碑・道標。城山公園。小見川大橋。初代松本幸四郎墓所。鶴嶋製作所。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-19 19:00:23 | 銚子往還

用水路脇を歩きます。

                   

明照保育園。

左手が開けてきます。

と、そちらを眺めながら歩いていたので、「飯沼観音七里道標」を見逃してしまいます。

「COCO'S小見川店」と反対側の国道沿いにあった!

「城山公園」に向かう道の角に、「御大典記念碑」。

                         「北 大倉村 津之宮方面 西 分郷神里村方向」

「東 小見川町 笹川町 銚子町方面」

※1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で挙行された昭和天皇の即位式を記念したもので、全国にある。この石碑は道標にもなっている。

※「城山公園」

城山の名前のとおり鎌倉時代から戦国時代末期にかけて、豪族粟飯原氏の城が築かれたところで、今でも城跡の一部が残っているほか、古代の古墳群もあります。

 現在では70種余り、約6,000本のさまざまな樹木が植えられ、四季を通じていろいろな花木が楽しめる公園となっています。中でも春は、1,000本のソメイヨシノと4,000本のつつじが山一帯に咲き乱れ、北総随一の花見の名所として知られています。ほかにも、夏のアジサイやサルスベリ、秋のアベリアやキンモクセイなどが、行楽に訪れる家族連れの目を楽しませています。

 

 公園内には、遊具が整備された「アスレチック広場」や「チビッコ広場」「わんぱく広場」のほか、茶会や華道などの集まりもできる数寄屋造りの「清風荘」があり、子どもから大人まで楽しめます。

(この項、「」HPより)

水田が広がります。                 

         右手奥、「利根川」に架かる橋が、「小見川大橋」。

「小見川大橋入口」交差点。

        

バス停「八日市場」。小見川の町中に入ります。

                  

国道から離れて街中を歩きます。初代松本幸四郎墓所。

歌舞伎役者の初代松本幸四郎の墓は、JR小見川駅から歩いて10分程の善光寺にあります。本堂に通じる参道の入り口には、「初代松本幸四郎の墓所入口」と刻まれた碑が建てられており、参道を100メートル程歩いていくと本堂前に設けられた案内板が墓所まで案内してくれます。

 初代松本幸四郎は、延宝2年(1674年)に小見川の島田家に生まれ、10歳の時に佐原の小間物屋「高麗屋(こうらいや)」に奉公しました。元禄の初め江戸に出て久松多四郎の門に入り、最初は松本小四郎と名乗りました。

 享保元年(1710年)に幸四郎と改名。享保13年(1722年)11月に「弁慶」の当たり役で喝采を浴び、荒事立役を最も得意としました。弁慶の上演回数は実に千数百回に及び、2代目市川団十郎と並び当代の名優と称せられました。享保15年(1730年)3月25日、57歳で、その生涯を閉じています。

(この項、「香取市」HPより)

鶴嶋製作所。

江戸末期からの清酒造りの蔵元だったが、昭和37年に廃業、機械加工工場として再出発した。

旧道。

       枡形のところ。

この付近の今昔。

                     (現在)南にも市街地が広がっています。

赤い線が国道356号。旧道は北にそれた道筋。枡形(曲尺手)が二カ所、残っています。川は「黒部川」。

                     (1880年代)北側には大きな湖(沼地)。

   北にある利根川に通じる水路を活用して発展した町。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その1。水郷駅。一の分目(いちのわけめ)・三の分目。前方後円墳・「三ノ分目大塚山古墳」。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

2024-05-18 20:40:08 | 銚子往還

5月10日。快晴。佐原銚子街道歩きの続き。

水郷駅。下車客1名。

「一の分目(いちのわけめ)」

※地名は新田開発に伴う地割に関係するものと思われます。「三の分目(さんのわけめ)」という地名も同様か。

この付近の今昔。

                        (現在)現在も水田が広がる。

「利根川」が上部に。赤い線が「国道356号(利根水郷ライン)」。

                        (1880年代)街道は、集落に沿って続く。

利根川は、周囲の河川、沼地などで流路が狭くなっていた。後、大規模な河川改修がなされ、現在のような流れに。

バス停「水郷駅」。

                

右手に「前方後円墳」。

 ※    「前方後円墳」の基本形。

「三ノ分目大塚山古墳」。

            

解説板。

香取市一ノ分目・三ノ分目・富田地区の利根川に沿った微高地上には10基以上の古墳が確認されており、「豊浦古墳群」と総称されている。中でも最大の本古墳は、墳丘の全長が123mの前方後円墳で、後円部の径68m、高さ9.5m、前方部の幅62m、高さ7.5m。墳丘は三段に築かれ、周囲には盾形に周堀が巡っている。これは、現在のところ、利根川(旧鬼怒川)下流域最大で、千葉県内でも屈指の規模を誇る。また、墳頂と各段の平坦部には円筒埴輪列や朝顔形埴輪が確認されている。後円部墳頂は共同墓地となっているが、その傍らに大きな板石が3枚立っている。これは石棺に使われた石材で、底石には側壁石と小口石を載せるための切り込みがみられる。この石棺は長持形石棺と呼ばれ、畿内では5世紀の大王や大豪族級の大型古墳に採用された形式である。しかし、この石棺がいつ、どのような経緯で掘り出されたのか、副葬品は何があったのかなどは、わかっていない。本古墳は、墳丘の形、埴輪や石棺の特徴などから、古墳時代中期の5世紀ごろに築造されたと考えられる。香取地域においても、強大な勢力をもつ首長がいたことを物語る古墳で、香取市のみならず、関東地方を代表する中期古墳である。

墳丘に上がってみます。

  

                 写真の3つが板石。

よく原形が保たれています。

水田の部分が、かつての堀跡?

来た道に戻ります。

     左が古墳。

下から見上げた全景。

国道に復帰。「三之分目」。

大きな石碑(詳細不明)。

左手奥が利根川。

左右が開けてきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その6。長屋門。旧大倉小学校。水郷駅・しゃれた駅舎。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-16 20:13:32 | 銚子往還

狭い歩道。家などのところでは下りたり上がったりで、けっこう膝にこたえます。車の行き来も多い。

車道を歩いたり、歩道に上がったり・・・。もうじき「水郷駅」のはずですが。

右手に立派な長屋門。

               

左手には「旧大倉小学校」。

2022年3月末をもって、香取市立大倉小学校(千葉県香取市大倉501)が閉校します。

1879年に千手院を仮校舎として大倉小学校が創設。ここが当校の創立起源となります。水田地帯が広がる自然環境に恵まれた同校は、児童数35名の小規模校。この地域では梨栽培が盛んなため、学校の校庭でも梨が育てられています。自然と触れ合う授業が多いことでふるさとを知る機会となっているそうです。また授業間の時間には縄跳びを行ったり、昼休みに「ロング昼休み」を実施したりと楽しく体力づくりにも励んでいます。

143年間に渡りこの地区を見守り続けてきた同校ですが、残念ながら2022年に閉校。その歴史は新設の統合校の香取市立水の郷小学校に引き継がれ、同校は学び舎としての役目を終えます。ゆかりのある方はこの場所にもう一度足を運んでみてはいかがでしょうか。(2021年8月執筆)

(この項「」HPより)

右へ緩いカーブ。その角に古い石塔が3つ。

                           詳細不明。  

バス停「大倉」。  

やっと右手奥に「水郷駅」が見えてきました。   

街道は先に続きます。   

なかなかおしゃれな駅舎。  

利根川方向を望む。   

何とかたどり着きました。

ところが、ホームには高い跨線橋を上がって下りることに。痛む膝にはこたえます。

眺望は最高。

              待合室が渋い。近づくと、中では若い外国人二人が痴話げんか中。遠慮しました。

住宅の向こうに水田が広がる。 

          住宅地。

「小見川駅」方向。

「香取駅」方向。

次回も国道356号線歩きが続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その5。成田線と「利根水郷ライン」。側高神社・髭撫祭(ひげなでまつり)。東関東自動車道。飯沼観世音江八里。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-15 15:37:53 | 銚子往還

右手、線路の向こうは丘陵。

成田線・国道356号は台地の裾を縫うように進む。

バス停「側高(そばたか)青年館」。この先に、「側高神社」の大きな看板。

左手は利根川堤に続く田んぼ。

水準点。これも民家の敷地内にある。「海抜2.0m」。

「側高神社入口」。

奇祭「髭撫祭(ひげなでまつり)」で知られる側高神社は、香取神宮第一の摂社です。香取神宮の祭神である経津主命と縁故の深い神を祀った神社ですが、その主祭神は神秘とされて明らかにされていません。
鳥居をくぐって拝殿へと向かう石段の脇には、「四季の甕」と呼ばれる石段が並んでいます。石段の側から春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕といい、夫々の甕の水量が四季折々の降水量を示すとされています。
この神社は利根川を見下ろす台地に建立されていますが、はるか昔は香取ヶ浦と呼ばれる広大な内海が眼下に広がっていたであろうと想像されます。そして境内には樹齢500年を超えるといわれる夫婦杉があり、さらに太さ7.4mもの杉のご神木も見事に聳え立っています。
本殿は寛文五年(1665)の建立で、独自の構造を持つ本殿は当地域ではほかに例がなく、昭和57年に千葉県の有形文化財に指定されました。

毎年1月第2日曜日に行われる髭撫祭は今から約800年前、鎌倉時代の建保二年(1214年)に始められたと伝えられています。大倉村中の氏子を氏族別に18組に分け、18当番の各組が毎年交互に2組ずつ祭り当番・請当番として奉仕するしきたりで、祭当番引き継ぎの行事として執り行われます。当日、神前に注連縄(しめなわ)を張り、鶴亀遊ぶ蓬莱山(ほうらいさん)を飾り、両当番は西と東に分かれて酒を飲み合います。年番のみが髭をつけています。紋付羽織袴という古式の礼装に威儀を正し、荒筵(あらむしろ)の上に著座し、二人ずつ交互に出て七引き合いの杯事を行い、初献より七献目(満献)まで、一杯・三・五・七・七・五・一杯と定められています。この定められた杯を飲み干したのち、年番は請年番に酒を勧めるため立派なひげを撫でます。これは「もっと飲め」という合図で、請年番は断れないしきたりになっています。これが「ひげなでまつり」といわれる所以です。見事に飲み干す度に勇者を褒めはやす鬨(とき)の声が新年早々の側高山に湧き上がり、今なお昔ながらの手振り床しく、五穀豊穣、子孫繁栄を祈念して引き継がれているのです。貴重な伝統文化であり、昭和52年に市の無形民俗文化財に指定されました。

(この項「」HPより)

「東関東自動車道」の橋梁。

             

利根川河畔を望む。

            田植えを終えたばかりの水田が広がる。

この踏切際に道標「飯沼観世音八里」があるようですが、車の行き来が激しく確認できず。

バス停「丸峰入口」。

成田線上り電車が通過。

         この1本後の電車に乗るつもりです。しかし、膝の痛みがますます激しく、やっと歩いている感じ。

丘陵が迫ってきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする