麦が熟し、たっぷりと金色の穂をつける頃。百穀が成熟する、麦にとっての「秋」です。この時期に穂を揺らしながら吹き渡る風を麦嵐、また降る雨を麦雨と呼びます。
(解説の項は「暦生活」HPより)
この麦畑が一面黄金色に染まったらさぞ見事でしょう。(写真は、一昨年5/3「日光東往還」歩きの時のもの)
佐賀市の麦秋の風景
佐賀市は大和町以北の山間部と有明海まで続く佐賀平野からなっており、平野部では稲作だけでなく麦の生産も盛んに行われています。麦が実り、収穫期を迎えた初夏の季節のことを「麦秋」と言います。麦秋の季節には一面に黄金の麦畑が広がります。特に佐賀市の南部地域(川副町、東与賀町、久保田町、諸富町)は丘陵のない広大な麦畑が広がっており、吹いた風が麦を揺らし、風が見える爽やかな風景を見ることができます。
(この項、「佐賀市観光協会」HPより)
※ 「麦秋」といえば、映画「麥秋」。日本映画の名作と呼ばれている作品のひとつ。
1951年製作/124分/日本
配給:松竹
劇場公開日:1951年10月3日
監督:小津安二郎。撮影:厚田雄春。
ストーリー
間宮周吉は北鎌倉に住む老植物学者である。息子康一は医者で東京の某病院に通勤、娘紀子は丸ノ内の貿易会社の専務佐竹宗太郎の秘書である。佐竹の行きつけの築地の料亭「田むら」の娘アヤは紀子と学校時代からの親友で二人共未婚であるが、安田高子と高梨マリの級友二人はすでに結婚していて、四人が顔を合せると、未婚組と既婚組とに対立する。折から間宮家へは周吉の長兄茂吉が大和の本家より上京して来たが、紀子の結婚談が出る。同時に佐竹も自分の先輩の真鍋という男との縁談をすすめる。間宮家では、周吉夫婦をはじめ康一たちも佐竹からの話に乗り気になり、紀子も幾分その気になっているが、古くから間宮家の出入りである矢部たみの息子で、康一と同じ病院に勤めている謙吉が、急に秋田の病院へ転勤するときまったとき、謙吉こそ自分の結婚すべき相手だったことに気がつく。謙吉には亡き妻との間に光子という三才の遺児があり、恒産もないので、間宮家では四十歳ではあるが、初婚で、善通寺の名家の出である真鍋との結婚を希望するが、紀子のたっての希望を通してやることにする。紀子は秋田へ去り、周吉夫妻も大和の本家へ引きあげて行く。その大和はちょうどさわやかな麦秋であった。
(この項、「」HPより)
※ 「秋」を「とき」と読む。「危急存亡の秋」の「秋」も「とき」と読むことに注意。漢字も正しく書きましょう。
「危急存亡の秋」は、魏・蜀・呉の三国時代、魏との戦いに出征する蜀の諸葛孔明の『出師の表』にある言葉。「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」に基づく。「秋」は、穀物を収穫する一年で最も重要な時期であることから、重大な時機を示す語。
今まさに自民党・公明党の連立政権と、立憲民主など野党との危急存亡の秋(とき)。
旬の食べ物としては、「らっきょう」、「アジ」。
・らっきょうの旬は5月頃から7月頃まで。6月頃が出荷の最盛期です。取り扱い量は約893トン。最も多いのは鳥取県産(約363トン)で全体の約41%を占めています。続いて鹿児島県産(約316トン:約35%)、茨城県産(約63.7トン:約7%)となっています。〈ただし、この数値は「東京都中央卸売市場」扱いに基づく。〉(「野菜ナビ」HPより)
・アジは1年を通して獲ることのできる魚であり、日本国内であればいつでも手に入れることができます。 ただ、アジの旬といわれる時期は春~夏にかけてです。 資料によって多少の違いはありますが、5月~8月程度に獲れるアジは質が良く、特に6月~7月のアジは非常に食味に優れます。
(「ふるさと納税」HPより)
そして、6月1日は、「衣替え」。
衣替えの習慣は、平安時代の宮中行事から始まった。中国の風習に倣って旧暦の4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣(こうい)」と呼んだ。
しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。季節による取り替えは衣服以外についても、女房が手に持つ扇も冬は桧扇(ひおうぎ)、夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。
鎌倉時代になると、更衣は衣服だけでなく調度品までとり替えることを含むようになった。
江戸時代になると着物の種類が増え、江戸幕府は公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。武家の制服は、旧暦の4月1日 -5月4日が袷(あわせ=裏地付きの着物)、5月5日 - 8月末日が帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、9月1日 -9月8日が袷、9月9日 - 翌年3月末日が綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、一般庶民もこれに従った。
明治時代になると、明治政府は洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。
1873年(明治6年)1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、太陽暦6月1日 -9月30日が夏服、10月1日 - 翌年5月31日が冬服と定められた。やがて、これが学生服に、次第に一般の人にも定着し、官公庁・企業・学校が毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。(「Wikipedia」より)
かつてはこういう風に半ば制度化されていたため、特に制服のある学校では肌寒い日でも夏服、暑い日でも冬服と決められていた。(たしか、クーラーなどの冷暖房機器運転もそうなっていたような)。
一方で、昨今のように5月中に夏日となっても、冬服を着用させたり、クーラーも5月中は運転しないなど・・・。おかしな風習(風潮)もありました。
さすがにそれじゃ健康・活動にそぐわないと、5月、6月は夏服・冬服併用(9月・10月も同様)でも可にしたり、クーラーも運転可としているように、真夏のような東京地方の暑さの厳しさから、それも次第になし崩しになってきています。
熱中症が怖いですから。「衣替え」という言葉(風習)も死語になりつつある、ということでしょうか。
官民問わず、「クールビズ」がすっかり定着し、ノーネクタイが一般的になっています。
世の中も暑さ・寒さで一喜一憂。政財界も同様?
次の二十四節気は、6月5日「芒種」。