いよいよ宿場の中心部になります。「鶴屋」。
鶴屋脇本陣 波多野家
脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊まることができた。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。
関町教育委員会
東海道五十三次之内 関 本陣早立 / 歌川 広重
関の宿は、昔、鈴鹿関があったところである。鈴鹿峠の麓にあり、大名の宿泊は、亀山の城下町を避けて、この関に多く定められた。画面は、まだ夜が明ける前に、早立ちする大名行列が、宿所を出る様子を描いている。二本の槍と札棹が全体を引き締めている。
(「知足美術館」HPより)
大正期のようす(「同」) 現在のようす
細い路地の向こうにも伝統的なおうちが。
「問屋場跡」碑と「山車倉」。
中町三番町山車(なかまちさんばんちょうやま)
「関の曳山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)からつたわるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になりました。
現在、木崎町(こざき)・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭は毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。
中町は関宿の中央部で、江戸時代には、街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。
中町三番町山車は、白木造りで、天場(てんば)高蘭下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、全体は質素なつくりになっています。電線が設置された大正4(1915)、巡行の支障になることから、最上層にあたる天障子が撤去されていましたが、平成14年の大修理の際、これを復原しました。また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。
見送り幕は、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848~1853)に製作したと伝えられています。
「関の山」=なし得る限度。精いっぱい。が、うまい用例がなかなか見つかりません。「一夜漬けの勉強じゃ、いくら頑張っても70点くらいが関の山」? あまりいい話ではなさそう。
「関の山車」のビラ。
岩木屋 吉澤家
同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。
明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。
関町教育委員会
川北本陣跡。
延命寺山門が「旧川北本陣」の門を移築したもの。
「百六里庭・眺関亭」。
関宿が見渡せる小公園。関宿が江戸から106里余りにあることから名づけられました。
「眺関亭」からは関宿の家並みが一望できます。
西を望む。遠くは鈴鹿峠方向。 東を望む。
「伊藤本陣 松井家」。
伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺であった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。
関町教育委員会
「橋爪家」。
同家は代々橋爪一郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大阪の鴻池家と並び称せられる豪商であった。江戸末期は芸妓の置家として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入り建てであるがこれは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった。
関町教育委員会
「旅人宿・石垣屋」。
東海道五十三次のひとつ「関宿」のほぼ中心にある築120年の古民家素泊まり宿です。徒歩・自転車・ライダーさんなどなど、 旅好きな方なら大歓迎です。歴史的町並の残る関宿でのんびりとした時間をすごしませんか。
「旅人宿 石垣屋」は旅人のための宿です。ホテルや旅館のようなおもてなしはできませんが、田舎のおばあちゃん家に遊びにきた気分で楽しんでください。今回は泊まりではないけど、建物を見学したいという方も歓迎します(要電話)。
(HPより)
寝袋持参での素泊まり。なかなかの魅力です。奥でのんびりくつろぐ姿がちらほら。
大旅籠 玉屋。
資料館になっています。店奥に展示してあったのが「吉兆火縄」。
関宿の特産物として火縄があります。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。火縄は鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うために購入したため大いに繁盛しました。
鶴屋脇本陣 波多野家
脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊まることができた。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。
関町教育委員会
東海道五十三次之内 関 本陣早立 / 歌川 広重
関の宿は、昔、鈴鹿関があったところである。鈴鹿峠の麓にあり、大名の宿泊は、亀山の城下町を避けて、この関に多く定められた。画面は、まだ夜が明ける前に、早立ちする大名行列が、宿所を出る様子を描いている。二本の槍と札棹が全体を引き締めている。
(「知足美術館」HPより)
大正期のようす(「同」) 現在のようす
細い路地の向こうにも伝統的なおうちが。
「問屋場跡」碑と「山車倉」。
中町三番町山車(なかまちさんばんちょうやま)
「関の曳山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)からつたわるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になりました。
現在、木崎町(こざき)・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭は毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。
中町は関宿の中央部で、江戸時代には、街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。
中町三番町山車は、白木造りで、天場(てんば)高蘭下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、全体は質素なつくりになっています。電線が設置された大正4(1915)、巡行の支障になることから、最上層にあたる天障子が撤去されていましたが、平成14年の大修理の際、これを復原しました。また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。
見送り幕は、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848~1853)に製作したと伝えられています。
「関の山」=なし得る限度。精いっぱい。が、うまい用例がなかなか見つかりません。「一夜漬けの勉強じゃ、いくら頑張っても70点くらいが関の山」? あまりいい話ではなさそう。
「関の山車」のビラ。
岩木屋 吉澤家
同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。
明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。
関町教育委員会
川北本陣跡。
延命寺山門が「旧川北本陣」の門を移築したもの。
「百六里庭・眺関亭」。
関宿が見渡せる小公園。関宿が江戸から106里余りにあることから名づけられました。
「眺関亭」からは関宿の家並みが一望できます。
西を望む。遠くは鈴鹿峠方向。 東を望む。
「伊藤本陣 松井家」。
伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺であった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。
関町教育委員会
「橋爪家」。
同家は代々橋爪一郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大阪の鴻池家と並び称せられる豪商であった。江戸末期は芸妓の置家として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入り建てであるがこれは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった。
関町教育委員会
「旅人宿・石垣屋」。
東海道五十三次のひとつ「関宿」のほぼ中心にある築120年の古民家素泊まり宿です。徒歩・自転車・ライダーさんなどなど、 旅好きな方なら大歓迎です。歴史的町並の残る関宿でのんびりとした時間をすごしませんか。
「旅人宿 石垣屋」は旅人のための宿です。ホテルや旅館のようなおもてなしはできませんが、田舎のおばあちゃん家に遊びにきた気分で楽しんでください。今回は泊まりではないけど、建物を見学したいという方も歓迎します(要電話)。
(HPより)
寝袋持参での素泊まり。なかなかの魅力です。奥でのんびりくつろぐ姿がちらほら。
大旅籠 玉屋。
資料館になっています。店奥に展示してあったのが「吉兆火縄」。
関宿の特産物として火縄があります。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。火縄は鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うために購入したため大いに繁盛しました。