おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「関宿」あれこれ。その2。(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その4。)

2015-09-30 21:59:47 | 旧東海道
いよいよ宿場の中心部になります。「鶴屋」。

鶴屋脇本陣 波多野家
 脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊まることができた。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。
  関町教育委員会


 東海道五十三次之内 関 本陣早立 / 歌川 広重
 関の宿は、昔、鈴鹿関があったところである。鈴鹿峠の麓にあり、大名の宿泊は、亀山の城下町を避けて、この関に多く定められた。画面は、まだ夜が明ける前に、早立ちする大名行列が、宿所を出る様子を描いている。二本の槍と札棹が全体を引き締めている。
 (「知足美術館」HPより)

    

    
 大正期のようす(「同」)                         現在のようす

細い路地の向こうにも伝統的なおうちが。 

「問屋場跡」碑と「山車倉」。   

中町三番町山車(なかまちさんばんちょうやま)

 「関の曳山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)からつたわるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になりました。
 現在、木崎町(こざき)・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭は毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。
 中町は関宿の中央部で、江戸時代には、街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。
 中町三番町山車は、白木造りで、天場(てんば)高蘭下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、全体は質素なつくりになっています。電線が設置された大正4(1915)、巡行の支障になることから、最上層にあたる天障子が撤去されていましたが、平成14年の大修理の際、これを復原しました。また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。
 見送り幕は、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848~1853)に製作したと伝えられています。

 「関の山」=なし得る限度。精いっぱい。が、うまい用例がなかなか見つかりません。「一夜漬けの勉強じゃ、いくら頑張っても70点くらいが関の山」? あまりいい話ではなさそう。

「関の山車」のビラ。

岩木屋 吉澤家
 同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。
 明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。
  関町教育委員会

川北本陣跡。
                 延命寺山門が「旧川北本陣」の門を移築したもの。

「百六里庭・眺関亭」。

 関宿が見渡せる小公園。関宿が江戸から106里余りにあることから名づけられました。

 「眺関亭」からは関宿の家並みが一望できます。

    
 西を望む。遠くは鈴鹿峠方向。                  東を望む。

        「伊藤本陣 松井家」。
 伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺であった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。
  関町教育委員会 


「橋爪家」。

 同家は代々橋爪一郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大阪の鴻池家と並び称せられる豪商であった。江戸末期は芸妓の置家として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入り建てであるがこれは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった。
  関町教育委員会

    
                         「旅人宿・石垣屋」。

 東海道五十三次のひとつ「関宿」のほぼ中心にある築120年の古民家素泊まり宿です。徒歩・自転車・ライダーさんなどなど、 旅好きな方なら大歓迎です。歴史的町並の残る関宿でのんびりとした時間をすごしませんか。
 「旅人宿 石垣屋」は旅人のための宿です。ホテルや旅館のようなおもてなしはできませんが、田舎のおばあちゃん家に遊びにきた気分で楽しんでください。今回は泊まりではないけど、建物を見学したいという方も歓迎します(要電話)。

HPより)

 寝袋持参での素泊まり。なかなかの魅力です。奥でのんびりくつろぐ姿がちらほら。

        大旅籠 玉屋。
          資料館になっています。店奥に展示してあったのが「吉兆火縄」。 

 関宿の特産物として火縄があります。新所を中心に数十軒の火縄屋がありました。火縄は鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うために購入したため大いに繁盛しました。
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「関宿」あれこれ。その1。(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その3。)

2015-09-29 20:15:55 | 旧東海道
 右手には駐車場と小公園。そこには四阿と観光案内図があります。前方の山並みに因んだ解説板も。

   
    関富士が女山なら 羽黒はをとこ 鈴鹿颪を受けて立つ

左手に「小萬のもたれ松」。    

左に見える松がその松(もちろん植え替えられたもの)。

関の小萬のもたれ松
 江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
 小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
 この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。

 関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)

 平成6年2月吉日 関町教育委員会

 「小万の仇討ち」の詳細はよく知りません。三重では「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)」が有名。
 この決闘(仇討ち)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討ったという事件。
「伊賀越の仇討ち」とも言われ、「曾我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」に並ぶ日本三大仇討ちの一つ、とも(東海道沼津宿・狩野川河畔にある「平作地蔵尊」がこの仇討ちに因んだもの)。
 それに比べて知名度は低いのでしょうが・・・。

 ちなみにHPによれば、

 江戸時代に起きた仇討ちは現在確認できるもので129件あったと言われています。しかし、返り討ちにあってしまうことや、仇の居場所が分からず逃げ切られてしまう場合なども多くあったため、仇討ちの成功率は数パーセント未満だったと考えられています。

しばらくは普通の家並みが続きます。

「東の追分」からいよいよ本格的な「関宿」の町並みに。 



関町関宿重要伝統的建物群保存地区 東の追分 昭和59年12月10日選定

 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
 ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。

  文部科学省 三重県 亀山市

鳥居の裏手にある「関一里塚址」碑。

そこから「常夜燈」ごしに。江戸・日本橋から106里目。

 「関宿」のパンフレットがたいへん役立ちます。
    

連休中でしたが思ったほどの人混みもなくじっくりと歩きまわることができます。

    
                                   「休泊 はせや(長谷屋)伊三郎」

 「関宿」は、家々の日常生活そのものが行われているところ。観光地にありがちな「資料館」や「お土産さん」、食べ物店など最小限におさえられていて、まさに日常そのまま。そのためか、けっこう地元の車の通行も多い。他の伝統文化遺産関係のところが観光客目当ての商売が目立つ中で、この雰囲気はすばらしい。
 
    

「浅原家」。
 同家は、屋号を江戸屋と称し、米屋、材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったところからそれ以前の建築年代と察せられる。
  関町教育委員会

  「御馳走場」。


関町関宿重要伝統的建造物群保存地区 昭和59年12月10日選定 御馳走場   

 関の街並みは、安土桃山時代の天正11年(1588)関盛信によって木崎、新所間に中町が建設されたときに基礎ができました。その後徳川幕府により宿駅が定められてからは、東海道五十三次で47番目の宿場として繁栄しました。
 中心部の中町には宿場の中心的施設が集中し、比較的規模の大きい派手なデザインの町屋が 残っています。
 ここは御馳走場と呼ばれ、身分の高い武家や 公家に対して宿役人が出迎えや見送りの儀式を行ったところです。また、関神社(旧熊野権現)の参道入口でもあります。

「鮮魚青果物商 遊快亭」。

 遊快亭 坂口家
 同家は、松鶴楼といい、かいうん楼と並んで芸妓置屋であった。松鶴楼もかいうん楼も江戸側の御馳走場の前にあって、関宿の中心部の入口をなす賑わった場所柄であった。また、同家には、太閤秀吉が実施した太閤検地の小崎村検地帳が所蔵されている。
  関町教育委員会

雲林院家

 同家は、昔はかいうん楼と称し、隣の松鶴楼と並んで芸妓置店であった。
 街道筋の宿場ではたいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので表の立繁格子やべにがらぬりのかもいや柱にその面影を遺している。
  関町教育委員会

そんな面影を残す2階の外観。


   写真を何枚撮っても追いつかないくらい、興味ある意匠の家々。 

「百五銀行」。町並みに配慮した意匠の銀行。
 平成9年度、三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞しました。


「亀山みそ焼きうどん」。数少ない食べ物屋さんの一つ。

 そこで「亀山みそ焼きうどん」とは?

 三重県亀山といえば古くから東海道の宿場町、現在は東西交通の要所。昔の町並みも、豊かな自然も、ハイテク産業と共存しているおもしろいまちです。
 そこに誕生したB級ご当地グルメ、それが「みそ焼きうどん」。基本素材は”うどん”と味噌だけ。あとは焼くということ。
 それぞれのお店が個性を出し、競い合って独自の味を出しています。

なぜ? みそ焼きうどんなの?

 当地には旧国道沿いに焼肉屋が何軒かあります。従来は大型トラックの運転手が多く利用する店でしたが今では家族連れや若者もたくさん利用しています。ここでは味噌で焼肉をしながら玉うどんをぶっこんで食べるのが通の食べ方です。より味の濃厚となった味噌でうどんを食べる、まさに究極のB級ご当地グルメです。

 この当地の隠れた名物をより多くの皆さんに楽しんでいただこうと、市民有志が立ち上がりました。その名も”亀山みそ焼きうどん本舗”
 市内各所の食堂に「あなたのお店でつくってみませんか?」と呼びかけました。こうしていくつかのお店が「みそ焼きうどん」を独自に工夫して味を競い合っています。

HPより)

    
     「亀八食堂」                      「うえだ食堂」

   (「亀山みそ焼きうどん - マイナビニュース news.mynavi.jp › 旅行 › 国内・地域 › 東海」HPより)

 ぜひ入ってみたかったですが、満員だったので、パス!



関町 関宿 国選定 重要伝統的建造物群保存地区

 関の地名は7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたことに由来します。江戸時代以降は地蔵院を中心に東海道で47番目の宿場として栄えました。
 宿場の西端は大和街道との、東端は伊勢別街道との分岐点で、豊かな自然環境の中、古くから交通上の重要な地でした。
 街道筋には今日でも200棟以上の伝統的な家々が立ち並び、かつての宿場町の様子を知ることができます。
  
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伊勢うどん。野村一里塚。太岡寺畷。・・・(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その2。)

2015-09-28 19:11:21 | 旧東海道
 街道筋らしいおうちもちらほら。次の宿場「関宿」までの道筋。

「名物伊勢うどん」の幟。

 開店前だったので、入らず(朝が早かったのでやっていたら食べてみようか、と一瞬思う)。

伊勢の地元名物「伊勢うどん」

 かけうどんのように多量のツユに浸ったものではなく、たまり醤油に鰹節やいりこ、昆布等の出汁を加えた、黒く濃厚なつゆ(タレ)を、太い緬に絡めて食べるものが主流。太い麺は長時間かけて柔らかくゆで上げられており、具やトッピングが少なく、薬味の刻みネギだけで食べることが多い。
 タレの色(そばつゆとは別物)は非常に濃く、塩辛いと誤解されがちであるが、見た目程の塩分はなく、概して旨味と甘みが強く、後味がまろやかである。この濃いタレの色は、たまり醤油の色である。
 麺は極太で、直径1cm前後のものが多い。非常に柔らかく、もちもちしており、一般的なうどんとはかけ離れた食感を持つ。そのため、博多うどんのように、柔らかいうどんが好まれる地域の人には受け入れられやすいが、讃岐うどん、五島うどんのような「コシが大事」という考え方の人には好かれない。極太麺であるために、麺を茹でる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でる。コシがないと評されることも多いが、打ち立ての麺にはグルテンによるコシがあり、それを柔らかく茹であげているのであって、コシのない麺だと1時間近くも茹でると溶けてしまう。店や料理人ごとに手法は異なる場合もあるが、それぞれが伊勢うどんの特徴である表面はふんわりとしていて、中はもちっとした麺の食感を出すべく工夫している。
 伊勢うどんは、ゆで続けているため、すぐに提供できること、また、汁がないため、すぐに食べ終わることができる。お伊勢参りで混み合う客を次々さばくのにも適したメニューともなっている。
 具は、刻みネギだけか、好みで生卵をトッピングするだけという店が多いが、天ぷらを載せたものを出す店も珍しくはない。また、店によっては、タレではなく一般的なかけうどんのようなつゆで提供する事もあり、数少ないが、焼きうどんを提供する店も存在する。

        

(以上「Wikipedia」参照)

 麺の太さは、讃岐うどんの2~3倍、稲庭うどんの10倍くらいで、1時間もゆでるらしい。東京・新宿にもこの店がある、とか。

しばらく進むと
 森家住宅 国の有形文化財 母屋一棟

 亀山宿・関宿間の野村集落に所在。旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である。切妻造り桟瓦葺きで西麺に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。妻を黒漆喰真壁、下屋に行使を設けるなど町屋的な表構えを見せる。

右手の「焼肉・長次郎」の店に解説板が。

 「明治天皇御召替所跡」との看板。明治天皇が伊勢神宮を参拝したときに立ち寄り休憩した、元「内池家」の母屋だったとのこと。現在は、「焼肉屋」さんの店舗になっています。

 交差点を進んだ右手に巨木が植えられた「一里塚」が見えます。

        
                       「野村一里塚」。
 ここは三重県内で唯一原型をとどめる一里塚です。

史跡 野村一里塚

 一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。
 この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。
 塚の上には、目通り幹周囲5メートル、高さ20メートルの椋(むく)の木がある。
 本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。

なかなか見応えのある椋の大木です。
                            江戸・日本橋から105里目。 

左手に田園風景が広がります。

しばらく行くと左手に「大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」の白い標柱。 

 この権四郎昌克は17代当主で寛永19年(1642)に生まれ、大庄屋在任中亀山藩領86ヶ村を中心にした見聞記「九々五集」(9×9+5=86)を記録し編纂しました。

T字路を右に折れる。

振り返って望む。

 「布気神社」を過ぎしばらく進むと、二叉の道になり、左の下り坂を進みます。

竹藪とヒガンバナ。

この建物の前を左手に曲がり、「関西本線」を越えます。

 跨線橋を渡ると、「鈴鹿川」沿いの道、「大岡寺(だいこうじ)畷」と呼ばれる、まっすぐな道になります。

   関西本線を越えた付近。

一直線の道。 

右手に「太岡寺畷」の解説板。

太岡寺畷(だいこうじなわて)のいわれ

 畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。  
 大岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一とされています。
 松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹き透し」と詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。
 かつては「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い〈待つ〉ばかり」(『亀山地方郷土誌』)と謡われたほどの松並木で、太田南畝(蜀山人)が享和元年(1801)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり、此の十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。
 なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった寺である「六門山四王院太岡寺に由来すると伝えられます。

     

 そして「名阪国道」をくぐります。ガード下には東海道の宿場にまつわる広重の浮世絵と解説があります。

    

「東海道五十三次と歌川広重」

 掲げられてあるのは、広重の、阪之下(坂下)・関・亀山・庄野・石薬師・四日市・桑名宿の浮世絵。

東海道五十三次と歌川広重

 慶長6年(1601)徳川家康は「御伝馬之定」を制定し、東海道沿道の集落五十三ヶ所を宿駅に指定した。
 以後、東海道は江戸と京を結ぶ最も重要な街道として、上り下りの大名行列や庶民にいたるまで、数多くの旅人が往来した。江戸後半には一般の人々の旅行も増大し、それにつれて各宿場の名所や行程などを記した名所絵図や道中記などが次々に刊行された。これらの需要もあって、浮世絵師たちも沿道の風景を画題として描くようになった。
 その風景画の中で最も著名なものが、初代歌川広重(1797~1858)の「保永堂版東海道五十三次」で、五十三の宿駅に日本橋と京を加えた55枚から構成され、四季折々の宿駅風景や人々の姿を描いている。天保4年(1833)から順次出版されたこのシリーズは爆発的な人気を得て広重の名声は一挙に高まり、以後他の絵師たちの描く東海道の風景画は、少なからず保永堂版の影響を受けているほどである。
 また、広重は行書版、隷書版、竪絵などの東海道物や、木曽街道五十九次、名所江戸百景などの名作を次々と発表して、風景画家の第一人者となるとともに、花鳥画や美人画などにも独自の境地を開き、その地位を不動のものとした。
 なお、この作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました。

「太岡寺畷橋」。左手が「鈴鹿川」。

    

 なお、当時の松並木はなくなった代わりに、桜並木が鈴鹿川左岸にあって桜の季節には大変な賑わいを見せるそうです。

      (HPより)

 のんびりと「鈴鹿川」沿いの道を進みます。前方にグループで歩く人達、振り返ると一人のんびりと歩く方・・・。
 道なりに右に曲がり、「関西本線」の踏切を渡って「国道1号線」に出ます。左手にある歩道橋で向こう側に行きます。

右手前方に「関宿」の看板。
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亀山宿西町。西の丸外堀跡。京口門。・・・(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その1。)

2015-09-26 21:24:48 | 旧東海道

 好天に恵まれた連休の一日。思い切って「亀山」宿から「関」宿、「坂下」宿まで足を伸ばしてみようと出かけました。

 9月22日(火)。東京を6時30分発の新幹線で名古屋、そこから関西本線で「亀山」まで。着いたのは9時40分前。前回来たところまで戻って、そこから関宿に向けて出発することに。

 その前に駅前のタクシーの運転手に。

 「これから坂下まで行く予定で、そこから関駅に戻ろうと思っているんで、連絡したら来てもらえますか?」「いいですよ、前に坂下の集会所まで迎えに行ったことがある。そこから関までだと2,500円くらいかな、ここまでだと、3,000円は超えちゃうよ。」「では、着いたら電話を入れますので、だいたい2時過ぎくらいかと。」「いいですと」とタクシー会社の名刺をもらいました。

 何しろ、坂下宿から「鈴鹿峠」を越えていく区間には、バスの便がまったくありません。かつては鈴鹿峠越えをする三重県)内と滋賀県内を結ぶ国鉄(JR)バスがあったのですが、採算が取れず、すでに廃止。
 三重県側の「坂下」宿のどん詰まり(「鈴鹿峠」直下)まで行ったとしても、午後1時過ぎにそこから引き返すにはタクシーしかない。さもなければ、そのまま鈴鹿峠を越え、峠の向こうの滋賀県側の「土山」宿まで延々と歩いていく、という、いざとなったときの足の便がまったくない、ある意味で「旧東海道」の旅では難所中の難所。
 もちろん、「箱根峠」は標高も高く、長く急な上りと下り坂、という意味では、道中一番の難所です。が、あそこでは、街道沿いにバスはけっこう通るし、峠に出れば「小田原」へ戻るにも「三島」へ行くにもバスの便はたくさん。疲れたら逃げ道があるので、心強い。

 しかし、ここは天気でも悪くなったら、それこそお手上げ。進むか戻るかの決断が必要になります。同行の人でもいればまたいいが、たった一人で歩くにはちょっと、・・・。そんなわけで、帰りの足を確保したところでいざ、出発!

 前回のところまで戻って階段を上がる。その手前には「解説板」。

 伊勢国亀山宿は、東海道四十六番目の宿。江戸からは百四里あります。
 文久3年(1863)の『宿内乃軒別書上帳』では本陣で東町問屋の樋口太郎兵衛、脇本陣の椿屋弥次郎、西問屋の若林又右衛門、家数は451軒になります。
 『亀山領内東海道分間絵図』(伊藤容子氏蔵・亀山市指定文化財)は、享和3年(1803)に徳川幕府が亀山城主石川家とともに、実地測量(六百分の一)のうえ作成されたもので、幕府が後に完成させた、千八百分の一(分間)の縮尺による『五街道分間延絵図』の基礎絵図としたものです。
 現存しているのは、亀山領のうち中冨田から小野までの部分で、六巻に分けられ、その長さは22.8mにもおよびます。沿道の寺社や家並み、木の種類に至るまで詳細に描かれ、19世紀初頭の東海道亀山の状況が明確にうかがえるという点で重要な資料です。
 この図は、亀山宿西町の「万町」から「青木門前」にあたる部分です。この場所は、図の中間点「水籠梯子置所」と表された位置付近になり、右手に松並木越えに
 亀山城多門櫓を、眼下にかつての外堀であった池の側を望む絶好のポイントです。

西町問屋場跡

 問屋場とは、江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
 東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程度の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
 現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和3年(1803)の『亀山領内東海道中分間絵図』(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化4年(1807)の『伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図』(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
 なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。

 平成15年10月 亀山市教育委員会

          
 「亀山宿」の中心部から続いて「黄土色」に塗られた道を進みます。

    
                              古いおうち。

突き当たりを右に曲がり、正面・突き当りを左に曲がる。枡形になっている。まもなく京口門へ。                      
    
かつての屋号が三つ並んで。 

 西に折れる右の角地には「亀山城外堀」跡。

    

亀山城西の丸と外堀

 ・・・この復元した西の丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西の丸側には西の丸西櫓がありました。・・・

「亀山城」の全容図。

 現在は、城址一帯は「公園」の他、市役所・小中学校などの敷地になっています。④が現在地。ここから道は西へ向かいます。

しばらく進むと「京口門」跡。

京口門跡

 亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる滝川左岸の崖上に築かれた門である。
 『九々五集』によれば、東海道の番所として当時の亀山城主であった板倉重常によって寛文12年(1672)に完成されたとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山上城郭の城門として位置づけられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両側にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされr。
 大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は、坂の下から見上げると、門・番所のそびえる姿が壮麗であったことから、
 亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」
と謡われるほどであった。
 歌川広重「東海道五十三次」のうち 『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。

 平成20年3月 亀山市教育委員会 


 東海道五十三次之内 亀山 雪晴 / 歌川 広重

 雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。

(「知足美術館」HPより)

    
  大正期の亀山(「同」HPより)。                 現在のようす。

    
 「京口門橋」付近から「京口門」跡を望む。                 行く方向を望む。

ゆるやかに下って行きます。振り返って「亀山宿」を望む。
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飛び出し坊や(東海道番外編。)

2015-09-24 22:48:34 | 旧東海道
 昭和ののどかだった時代の感覚を呼びおこしてくれる安心感のあるデザイン。画家でもある久田泰平さんの手によって、「とび太くん」の図柄は生み出されました。

HPより)

 今日夕方のニュースを何気なしに見ていたら、「飛び出し坊や」のことが話題になっていました。

 東海道を歩いているとけっこう気になる存在です。「桑名」宿に入ってから行く先々で見かけます。地元の小学校PTAだったり、「大森薬局」さんだったり、要所・要所(間違えそうなところとか、こっちだよというように)に。さまざまなバリエーションもあるようで、気になり始めるとホント気になります。
 「ザ・鉄モルDASH」さんの「旧東海道中記」では、随所に登場、こちらもしばしば参考にして歩いています。

 飛び出し坊や(とびだしぼうや)とは、

 児童が道路に飛び出して自動車などと接触する事故を防止する目的で、ドライバーへの注意喚起のために、通学路などに設置されている看板のことである。横断旗の入れ物を兼ねるものもある。正式な名称は存在せず、飛び出し人形・飛び出し小僧.飛び出し君・飛び出し注意君.とび太くんなどとも呼ばれる。「飛び出し坊や」の名を一躍世間に広めたのはイラストレーターのみうらじゅんであるが、最近では実は飛び出さない坊やの方が正しいのではないか、とも言っている。元祖である0系には「飛出とび太」という正式名称が付いている。

 交通戦争と呼ばれた昭和30年代頃から、ドライバーに飛び出し注意を促す看板が日本各地で製作されるようになり、児童が道路に飛び出す姿をモチーフとするものも現れた。始めは板に児童の絵を描いただけのものが多かったが、のちに児童の形に板をくり抜くタイプが生まれ、そちらが主流となった。現在では東北地方から九州まで日本各地にあるが、特に近畿地方に多い。
 
 飛び出し坊やは、滋賀県八日市市社会福祉協議会(現・東近江市社会福祉協議会)の発案によって、1973年6月に地元の看板製作会社「久田工芸」で男の子型と女の子型の11体の飛び出し人形が製作され、八日市市(現・東近江市)内に設置されたのが始まりとされる。みうらじゅんは、ここで製作されたものが現在主流となっている飛び出し坊やの元祖であるとして、「0系」と命名している。飛び出し坊やへの関心の高まりとともに、滋賀県内では「0系」を基にしたゆるキャラやグッズも作られている。

 製作・設置は主に地元のPTAや町内会が行なっている。飛び出し坊やは立て看板や幟などと同じ道路占用物であり、民有地以外に設置する場合は道路管理者の道路占用許可が必要であるが、交通安全啓発を目的とするものであるため、無許可で設置してあっても黙認されているケースがある。しかし、設置場所や設置方法によっては飛び出し坊やが通行の妨げになる場合があり、都市部で見かけることは少なくなっている。例えば、2003年9月に兵庫県神戸市西区で乗用車と飛び出し坊やの接触事故が発生し、飛び出し坊やを設置した地元の小学校PTAが車の修理費用を負担した事例がある。

 目に入りやすいデザイン・色遣いが多い。手作りのものとホームセンターで売られている既製品がある。地域や年代ごとに様々なデザインがあり、特に手作りのものは、細かなデザインの違いが多い。児童に人気のある漫画やアニメのキャラクターが描かれることも多く、なかには著作権上問題となりそうなものもある。その地域の特色にちなんだご当地もののデザインも存在し、交通事故防止だけでなく、まちおこしに活用する動きもある。「坊や」や「小僧」などの名称からわかるように、多くは男の子のデザインであるが、女の子や高齢者のデザインもある。一部の飛び出し坊やには、顔の部分に写真をはめ込んだものもある。そのバリエーションの多さとユニークさから、みうらじゅんなど飛び出し坊や撮影を趣味とする者がおり、『VOW』やABCテレビ『探偵!ナイトスクープ』やtvk『Saku saku』などメディアで取り上げられることもある。

(以上「Wikipedia」より)

 ちなみに1973年生まれなので、今年で42歳の「飛出とび太」さん、滋賀県のゆるキャラとして存在している、とのこと。
 三重県から「鈴鹿峠」を越えてもあちこちにあるのは、そのせいですね。東京では見かけたことがありません(神奈川でも静岡でも愛知でも・・・)が。

ちなみにこれは滋賀県側・「土山宿」近くの「第二名神」橋脚付近にあったもの。
 東海道歩きの人の為のものではないか、とすら。小生もこれを見て間違いなく旧東海道だなと思った次第ですので。

 そこで、「土山」宿に行くまでにたまたま写った「飛び出し坊や(飛出とび太さん)」を。

    

    

 「ザ・鉄モルDASH」さんのHPを見れば、それこそたくさんの、さまざまの「飛び出し 坊や」が登場します。

 TVによれば、インド、ドイツ、ブータン、中国など海外にも進出している、とのことです。

 また、さまざまな関連グッズも販売されています。

  

HPより)

 それにしても「楽天市場」の「滋賀県名産・特産品コーナー」サイトに堂々と入っているのには、知りませんでした。  
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銀座に唯一残る「踏切信号機」。

2015-09-23 20:13:06 | 鉄道遺跡

 「旧新橋停車場」から少し行ったところ、「海岸通り」の「蓬莱橋」交差点を渡った「銀座郵便局」の横に「信号機」が残されています。
 これは、当時にあった踏切に設置されたもののようです。

         

浜離宮前踏切 中央区銀座八丁目21番1号先

 この信号機は、昭和6年(1931)から昭和62年(1987)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京と中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。
 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去される事になりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。

        昭和62年(1987)12月

「築地市場」方向に向かって引き込み線がありました。
    

「海岸通り」方向を望む。



保存理由

 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。
 汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。
 都民の暮しの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。

  昭和62年(1987)12月 銀座御門通り会 銀座金春通り会

              




 1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。引き込み線が写っています。↓が「信号機」のところ。
 「旧汐留駅」跡地の高層ビル街。さらに「築地市場」も移転となると、この周辺は大きく変貌してきます。その中で「浜離宮」(左下のところ)のみ、以前と変わらぬたたずまいを見せています。中央の工事中の敷地は、「朝日新聞社」となります。
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「旧新橋停車場」。「鉄道歴史展示室」。

2015-09-22 22:14:54 | 鉄道遺跡

 2003年(平成15年)に開館した「旧新橋停車場」「鉄道歴史展示室」。日本橋から品川までの「旧東海道」歩きの途中で寄ってきました。

 どなたにも気軽に利用いただける無料の展示室です。日本の鉄道発祥地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展と影響を、様々な事物を通じてご覧いただけます。

企画展のご案内 第38回企画展 温泉と文芸と鉄道 2015年8月4日(火)~11月23日(月・祝)
 130年前、1885(明治18)年に日本初の温泉療養センターといえる医学的施設 が熱海温泉につくられました。小田原~熱海間の交通といえば、1896(明治29)年に、豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)がようやく全通したという時代です。 例えば、明治の大ベストセラー尾崎紅葉の「金色夜叉」は、1897(明治30)年の元旦から讀賣新聞に連載され好評を博しましたが、小説の場面に描かれた熱海の海岸や梅園は、全国的に有名になり一躍人気スポットとなったほか、塩原温泉や箒川(ほうきがわ)の渓谷も「金色夜叉」の舞台として名声を高めていきました。 本展では、“温泉”“文芸” “鉄道”をキーワードとして見えてくる時代や景色を、主に関東周辺や花巻を中心にご紹介してまいります

以上「」HPより)

 館内は、こじんまりとしていますが、上のようにかつての鉄道草創期のようすなどパネルや映像で紹介しています。けっこう興味ある資料が多く展示されています。館内は写真撮影は禁止なので、具体的な内容は実際に出かけてご覧になるといいです。

            

 1872年10月14日(明治5年9月12日)に日本最初の鉄道路線の起点として開業した新橋駅(初代)。リチャード・ブリジェンスの設計による木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎があり、長らく東京のターミナル駅として機能していた。また1873年(明治6年)9月には、当駅と横浜駅(初代・現在の桜木町駅)との間で日本初の貨物列車の運行が開始された。1日1往復の運行で、イギリス製の有蓋車や無蓋車を使用していたという。
 しかし、1914年(大正3年)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止された。駅構内が広大だった当駅は貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称し、同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)と改称している。
 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により開業時からの駅舎は焼失し、しばらく後になった1934年(昭和9年)3月に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎に建て替えられた。
 1959年(昭和34年)に当駅 - 梅田駅間で日本初のコンテナ専用貨物列車「たから号」が運転されるようになり、1964年(昭和39年)には小荷物取扱を開始した。
 東海道・山陽方面へ向かう貨物列車・荷物列車のターミナル駅として君臨し続けたが、荷物輸送が宅配便の登場で衰退し、貨物輸送はコンテナ列車中心に変化していく。
 駅敷地が狭く増加するコンテナの取扱量に対応できず、やがて鉄道による荷物輸送が1986年(昭和61年)11月1日に廃止されると、東京貨物ターミナル駅(1973年開業)に機能を譲り、汐留駅もその長い歴史に幕を閉じた。

3代目歌川広重「新橋ステイション」

浮世絵に描かれた開業当初の駅舎

1872年10月14日(明治5年9月12日) - 新橋駅(初代)として開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日から。
1873年(明治6年)9月15日 - 貨物の取扱を開始。
1914年(大正3年)12月20日 - 東京駅開業に伴い旅客営業を廃止、汐留駅に改称。
・・・

(以上、「Wikipedia」参照)



 1880年(明治13年~)代のようす。「新橋停車場」時代。「汐留川」がある。



 1970年(昭和45年~)代のようす。「汐留駅」が健在の頃。「汐留川」は埋め立てられ、首都高に。

 跡地は、1996(平成8)年12月10日に「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定された。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003(平成15)年、その上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられました。 
 また、建物の裏手には、復元された開業当時の線路と、鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が当時と全く同じ位置に再現されています。

    

                       

0哩(ゼロマイル)標識

 1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、『旧新橋横浜間鉄道創設起点跡』として国の指定史跡に認定されました。

創業時の線路

 創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対称のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の精油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両者からご寄贈いただきました。

    

プラットホーム

構造
 プラットホームは「盛土式石積み」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3F段が出ていました。最下段部分は小口面をそろえて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、市立に小口面と長手面が交互になっているわけはでなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり。4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。

規模
 プラットホームの全長は151.5mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。

地中に眠るプラットホーム部分。

                


建物に併設されて「BEER DINING 銀座ライオン 汐留店」があります。
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息の長い闘いになることも厭わず。

2015-09-20 21:48:40 | 平和
安保法「廃止へ追い込む」=学者の会が抗議声明

 当面は来夏の参院選。ここで自公を追い詰めることができなければ、かえって衆参とも彼らが3分の2以上の議席を(ここには、今回賛成に回った連中と「おおさか維新の会」も加わることに)獲得することにより、いよいよ憲法9条改悪等の憲法改悪に着手するに違いない。
 正念場への息の続く闘いを、へこたれることなく永続的に展開することに。民主、とりわけ共産党(あるいは「日教組」などの公務員労働者組合)への攻撃は「讀賣」、「産経」を筆頭に、政財界、マスコミあげて熾烈になる(かつての「アカ」攻撃を仕掛けてくる)に違いない。いや、もうすでに始まっている。
 そこを見越しつつ、闘いを進めていく必要がある。

 辺野古・キャンプシュワブ基地前での座り込みテントが20人ほどの人間に襲撃され、破壊されたという。国会前デモや駅頭での宣伝活動などに対しても、今回の強行採決で気を強くした連中が何をしでかしてくるか分からない。言論を暴力で圧殺する、というのは、過去の歴史ではなくなった、か!

    
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池田の手法を継承。二匹目のドジョウをねらう。

2015-09-19 21:08:02 | 世間世界
首相、再び経済最優先へ…来月には内閣・党人事

 こうするのは、見えていた手法。御しやすいアベを牛耳る浜田などの画策。国連総会、中韓日の首脳会談。ロシアプーチンの訪日・・・。外交での「得点」と「TPP」の妥結、今や化けの皮がはげてきた「アベノミクス」へ日銀も援護射撃。踊らされるアベ。目くらまし作戦に国民はまたしてもだまされるか? 反対運動だって来年の参院選までもつそうもないよ、と高をくくるアベ自公政権。ほくそ笑む「日本会議」。
 そして、世間は、シルバーウィークに踊らされていく。 
 でも、アベや山口の思惑通りにそう簡単にいくかどうか? いよいよ正念場の様相、彼我共に。
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再び「雨にも負けずアベにも負けず」。

2015-09-17 09:34:42 | 平和
「国民の声無視している」 雨の中、国会前で市民が訴え

 及ばずながら昨日は夜10時頃まで国会前にいました。

 歩道にあふれんばかりの人、人。強い雨の降りしきる中での抗議行動でした。それにしても機動隊の警備は目に余るものが。幾重にも柵を設置し、機動隊の装甲車? が何台も縦に並び、・・・、9月30日の時のような状況を作らせない、という固い警備体制。あちこちで小競り合い。柵に寄りかかったり、手をかけただけで何人もの機動隊員が制止にかかる。
 それでも、傘も満足にさせない中で、断乎「反対」のシュプレヒコールを。若人も老人も、男性も女性も、皆で。
 帰る人もいますが、続々と来る人々でごった返す歩道。年寄りはそんな中で帰宅の途に。
 こんな記事も。 

 一方で、抗議活動を冷ややかに見る人もいた。会社の同僚たちと皇居の周りをジョギングしていた港区の会社員男性(32)は「自分の身に危険が及ぶのなら参加するけど」。通りの向こうの抗議活動をちらっと見て、走り去った。

 アベがうそぶくように、国民の関心は経済、身の回りのことだけだ、自分に関係ないことはすぐに忘れる、だから今回の安保法案もそうなるだろう、じいさんの岸の「安保改定」もそうだった、その後理解が進んだ、と。
 しかし、沖縄に米軍基地が集約され、固定化されたの法的根拠を与えたのは、この時の安保改定、日米地位協定ではなかったか!
 自分の身に危険が及ばない、と米軍基地を廻る多くの課題を基地周辺の住民、とりわけ沖縄の市民に押しつけてきたのではなかったか! おそらく福島原発事故もそうなのだろう。こういう発言をことさら批判するつもりもない(自分もそうであったから)が、国会前の騒々しい連中は一部の人間でしかない、と。昨晩の「公務執行妨害」で10人以上の人間を逮捕し、そのうち何人かは「過激派」の活動家だと明らかにする意図もそこにあるのだろう。

 それにもめげず、そんな報道にも負けず、市民は今日も朝から怒りの声を上げる。
 
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銀座の柳。旧新橋停車場。金杉橋。高輪大木戸。品川宿。・・・(「日本橋」から「品川」まで。その3。)

2015-09-16 23:31:26 | 旧東海道
 相変わらず華やかで人通りの多い(といっても、外国人が目立ちますが)「銀座通り」を南に進みます。

「新橋」。

 その昔、「銀座」は4丁目までしたが、今は8丁目まで。その銀座を過ぎて、ガードをくぐると港区に。かつての「新橋」の親柱が一本残されています。「京橋」同様、「新橋」も川は埋め立てられ、「首都高」が頭上を通っています。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右下一帯は「新橋停車場」(現在の「汐留」)。
 今でも、「土橋」「難波」「蓬莱」などの橋名は交差点名として残っています。

 この付近は中国からの観光客のバス乗降場らしく、道ばたには、現中国の体制を批判する(?)ビラがべたべた掲示されています。


その先には「銀座の柳」碑。「楽譜」付。

西条八十作
中山晋平曲

植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残りのうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
けふもくるくる大通り

 ついでに、二番以降も。

2 巴里のマロニエ 銀座の柳
  西と東の 恋の宿
  誰を待つやら あの子の肩を
  撫でて やさしい 糸柳

3 恋はくれない 柳は緑
  染める都の 春もよう
  銀座うれしや 柳が招く
  まねく昭和の 人通り

 どうも「東京行進曲」の「昔なつかし銀座の柳・・・」の歌詞の方が印象深い。メロディーも「youtube」で視聴しましたが、「東京行進曲」とまったく違うものです。

 ここに植えられている柳は二代目だそうです。

新橋の交差点を左折すると、「旧新橋停車場」へ。

    

旧新橋停車場 Old Shimbashi Station

 この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。
 新橋停車場駅舎は、アメリカ人 R・P・プリジェンスの設計により、 1871(明治4)年5月に着工、 同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
 1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。
 文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
 1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立ち埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の地を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

                        

 鉄道遺跡としてはかなり興味深いものが展示されているようですが、その報告は次回以降にして東海道(国道15号線)を品川に向かって急ぎます。

JRガード下から振り返る。

品川方向を望む。

大門交差点から「世界貿易センタービル」を望む。

 しばらく進むとガード。その下が「金杉橋」。頭上は「首都高」。ここは下に川が流れています。「古川」(上流が「渋谷川」)。



この辺りが日本橋から4㎞ポスト。

 ということはこの辺りに東海道の「一里塚」があったはずですが、それを示すものはありません。

       

 ただ「Wikipedia」などによると、江戸中期にはすでになかったらしく、当初からなかった可能性も高いようです。日本橋から2里目となる「一里塚」も江戸中期にはなかった、とも記されています。

「品川(まで)3㎞」の表示。

旧海岸通りとの交差点。左手にJR線とモノレール線。

 しばらく進み、「国道15号線」と「日比谷通り」の合流点にある「三菱自動車工業」本社ビルのところには、

「江戸城開城 西郷南洲・勝海舟會見之地」碑。

田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内

 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
 現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。


「日比谷通り」。

「札の辻」歩道橋から来た道を望む。

 しばらく進むと、左手にこんもりとした木々に覆われた石垣があります。これが「高輪大木戸跡」。歩道もここは迂回します。

がっしりした石積み。

    


史跡 高輪大木戸跡

 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。

 平成5年3月31日 東京都教育委員会

                           全景。 

しばらく行くと、右手に「泉岳寺」へ向かう坂道。 

 歩道を渡って西側に移ると、「高輪海岸石垣石」の解説板。 

                        

 高輪海岸の石垣石

 ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣にも意いられたものです。
 平成7年(1995)、高輪2丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島中編で採石された安山岩が用いられました。
 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。・・・

 平成13年(2001)5月 港区教育委員会

 右に上がる坂が、

    
                          「桂坂」。

 むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。

 この坂は、以前、紹介済み。

「日本橋から7㎞」ポスト。まもなく「品川宿」。

品川駅を過ぎて振り返る。右手に見えるのは「京急線」。 

京急線の踏切を渡った、向こうの道が旧東海道・品川宿。

    

←が旧東海道の道筋。

    
  品川宿入口付近の広場には、東海道53次の宿場名が刻まれた石柱が並んでいます。



 1880年代のようす。東海道は東京湾沿いに進みます。中央斜めの直線は新橋~横浜間の鉄道線路。停車場が現在の品川駅付近にあります。


 これで何とか「日本橋」から46番目の「三重・亀山宿」までつながりました。
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京橋。江戸歌舞伎発祥の地。銀座。・・・(「日本橋」から「品川」まで。その2。)

2015-09-15 21:40:29 | 旧東海道
 「日本橋」から「京橋」、そして銀座へ。あらためてこの道を歩くと、外国人、特に中国人観光客が多いことに気づきます。行き交う人の言葉がほとんど中国語。日本語での会話はサラリーマンくらい。若い男女の日本語での会話はほとんどなし。平日・午後のせいでしょうか?

日本橋タカシマヤ。

「日本橋まで1㎞」ポスト。道の反対側には「日本橋から1㎞」という表示が。

 これから先、「旧東海道」が「国道1号線」とかぶることも多くあり、歩くときには目安になります。実際歩いてみると、それほど大幅に㎞数が違わないのに気づきます。「旧東海道」は「一里塚」(約4㎞)を目安にして歩きますが。

 しばらく進むと、前方に大きなガードが見えてきます。「京橋」です。ガード下には旧京橋の親柱が三つ残されています。右側の交番脇に一つ、向かいの「警察博物館」前とその先に一つずつ。

    


京橋の親柱

 京橋は、慶長8年(1603)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和38年から40年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造りの親柱一基が残されています。
 このうち、二基の石造親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋』」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
 また石およびコンクリート造の親柱は、大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きょうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
 明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

 平成22年3月 中央区教育委員会

 上は、交番脇にある明治8年の時のもの。次の「警察博物館」前のものも同様。

    

 京橋は古来より其の名著える。創架乃年ハ慶長年間なるが如し。明暦以降屡々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる。此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰の揮毫に係るものなり
                  昭和十三年五月

こちらは大正11年のもの。   

その脇にあるのが、ガス灯と「煉瓦銀座の碑」。 

「煉瓦銀座の碑」

明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり

 昭和三十一年四月二日

 1875年(明治8年)東海道である中央通りの京橋川に、肥後の石工である橋本勘五郎によって、石造りのアーチ橋が架けられ、地域のランドマークとなりました。翌年には、京橋から新橋にかけて煉瓦街が完成し、やがてモダンな銀座と従来の町並みが残る日本橋の接点として位置づけられるようになります。馬車鉄道の軌道が複線で併設された大型の橋でしたが、交通量の増加などに対応して掛け替えが行われてきました。
 1931年(昭和6年)、町名としての京橋が誕生。当時の町域は現在のおよそ半分程度の面積でした。
 1959年(昭和34年)、下を流れる「京橋川」が埋め立てられ、それにともない「京橋」も親柱を除き撤去されることに。現在は「京橋川」など周囲の河川の埋め立て箇所に「首都高」が敷設され、「日本橋」同様に「京橋」跡の上を通っています。

江戸時代末の「京橋」(歌川広重)。

(以上、「Wikipedia」参照)

「京橋と京橋川」解説板。

 それによると、「京橋川」には、「大根河岸」「白魚河岸」「薪河岸」「竹河岸」などの「河岸」があって、大変賑わっていたそうです。「関東大震災」後、築地に市場が移設され、当時の活況もなくなったようです。
 
 交番脇の喫煙スペースにあるのが、「江戸歌舞伎発祥の地」碑。
  
    

 寛永元年2月15日、元祖猿若中村勘三郎、中橋南地といえる此地に猿若座の芝居櫓を上ぐ。これ江戸歌舞伎の濫觴也。茲に史跡を按じ、斯石を鎮め、国劇歌舞伎発祥の地として永久に記念す。

その奥には「京橋大根河岸青物市場蹟」碑。

 銀座通りを進み、「銀座一丁目」交差点の先、道の向こう側、「ティファニー銀座本店」前にあるが、
銀座発祥の地 銀座役所址」。

慶長17年(紀元2272年、西暦1612年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。
当時町名を新両替町と称せしも、通称を銀座町と呼称せられ、明治2年遂に銀座を町名とする事に公示さる。

 昭和30年4月1日建之 銀座通聨合会

 それにしても、この碑と「煉瓦銀座」の碑と、いまだに皇紀を用いているところに驚き!



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 当時、この地域は川・堀割に囲まれた地域だということが分かります。現在は、埋め立てられて首都高になったりして「日本橋川」の他は水路は見当たりません。

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日本橋。道路元標。魚市場跡。・・・(「日本橋」から「品川」まで。その1。)

2015-09-14 21:44:26 | 旧東海道

 「旧東海道」歩き。思いついたのは、去年の2月頃。はじめは宿場巡りをしてみようか、ということで、東京付近の宿場を何かのついでに立ち寄りました。だから「品川」「川崎」「神奈川」については、最寄り駅に降りて、宿場に因んだ名所、旧蹟を散策して、また最寄り駅から戻る、というようなカタチ。
 実際、一番最初は「川崎宿」を散策し、しばらく置いて「品川宿」、「神奈川宿」と順番が異なっています。
 そのうち、「一里塚」にも興味を持ち、今どうなっているか探索しよう、とそんな欲が出てきて、それなら東海道そのものも続けて歩いてしまおうか、と。その頃の探索は、行ったり来たりの旅です。
 あるとき、「日本橋」から「品川」まで(その間に最初の一里塚―日本橋から4里―があるはず。)と歩きましたが、特に写真を撮ることもなく(「一里塚」跡はなかった!)、歩きました。
 その後、「神奈川宿」まで、何とか「旧東海道」がつながり、それから「保土ケ谷(程ケ谷)宿」以降は、順々京・三条大橋を最終目的地にして歩くようになります。
 ただ、「戸塚宿」までは先達の案内を参考にすることがなかったので、下車駅を間違えたり、違うバスに乗ったり、違うところで降りたり、道に迷ったり、(「権太坂」のときは大変でした)・・・。
 交通機関も東海道線を利用、日帰りが中心。やっと「旧東海道」歩きらしくなったのは、「戸塚宿」あたりから。東京駅から東海道線在来線を利用し「金谷」までは一日で往復。その後は、新幹線も利用しながらの一日旅。さらに、「岡崎宿」からは、泊まりがけで出かけることになります。
 泊まりがけになってからは、1ヶ月に1回のペース。今、「亀山宿」まで何とかたどりつきました。ここまでで、約1年半。

 気がついたら、日本橋~品川は、写真がないまま。そこで、大雨が落ち着いた晴れ間にそのコースを改めて行ってみました。

 まだまだ大雨による甚大な被害を受けたまま、行方不明者の捜索などままならない、茨城、栃木、宮城の現状をTVでは放映しています。また、国会はそうした民の嘆きをよそに、アベ自公政権は、強行採決を虎視眈々と狙っている状態。風雲、急を告げている情勢ですが・・・。

 9月11日(金)。約8㎞。時間にして、約2時間15分。

日本国道路元標。橋をくぐった歩道沿いの広場にあるモニュメント。

 本物は、道路(車道)の真ん中に埋まっています。車が来ない隙に少し近づいて。さすがに真上には・・・。

「日本国道路元標」。

 日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最期の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋設されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。
 
「東京市道路元標」。

「里程標」。  
         南西方向(鹿児島まで)。                  北東方向(札幌まで)。    

 現在、日本橋を始点としている国道は、以下の7本。

・国道1号(終点:大阪市・梅田新道)
・国道4号(終点:青森市・青い森公園前)
・国道6号(終点:仙台市・苦竹IC)
・国道14号(終点:千葉市・広小路交差点)
・国道15号(終点:横浜市・青木通交差点)
・国道17号(終点:新潟市・本町交差点)
・国道20号(終点:長野県塩尻市・高出交差点)

国道1・15・20号が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号が北方向へ伸びています。



国指定重要文化財 日本橋

 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに交換されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成10年に照明器具装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

 平成12年3月  中央区教育委員会



 日本橋ハ江戸名所の随一ニシテ其名四方ニ高シ。慶長8年幕府諸大名ニ課シテ城東ノ海浜ヲ埋メ、市街ヲ営ミ、海運ヲ通シ始メテ本橋ヲ架ス。人呼ンデ日本橋ト称シ遂ニ橋名ト為ル。
 翌年、諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ本橋ヲ以テ起点ト為ス。当時、既ニ江戸繁華ノ中心タリシト推知ス可ク橋畔に高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラズ。𦾔記ヲ按ズルニ元和4年、改架ノ本橋ハ長サ37間余、幅4間余ニシテ、其ノ後、改架凡ソ19回ニ及ベリト云フ。
 徳川盛時ニ於ケル本橋付近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ、魚市アリ酒庫アリ、雑閙(=雑踏)沸クガ如ク橋ニ貴賎ノ往来晝夜絶エズ。富嶽遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ、白帆近ク碧波ト映帯ス、真ニ上図ノ如シ。
 明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新タナルニ伴ヒ、本橋亦明治44年3月新装成リ今日に至ル。 茲ニ橋畔ノ碑を建テ由来ヲ刻シテ以テ後世ニ伝フ。

 昭和11年4月 日本橋区

日本の橋100選の碑。

道の起点としての日本橋

 日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などで改築すること18回を経て、明治44年3月石橋の名橋として生まれ変わった。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並み稀代的な町並で日本経済の中心地として今なお活況を呈している。一致は

 なお、1945年(昭和20年)3月10日の「東京大空襲」による焼夷弾跡が残っているそうです。

 さらに、前回の「東京オリンピック」開催に合わせて、1963年(昭和38年)、「日本橋川」の上に首都高速道路が建設されたため、「日本橋」の頭上には首都高が覆い被さっていて、かなり景観を損ねています。そこで、来る「東京オリンピック」に向かって、頭上の高速道路を地下化して、本来の「日本橋」に戻そうという運動が起こっています。

関東大震災直後のようす。

1933年(昭和8年)。

1946年(昭和21年)。

(写真は、「Wikipedia」より)。橋の中央に「東京市道路元標」があります。 

 橋の東側のたもとには、

        

日本橋魚河岸跡

 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川贈沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けにした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売り場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正12年の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市関係者が建立した記念碑があり、碑文には、上に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

 平成19年3月 中央区教育委員会

 背後にあるのは、竜宮城に因んだ「乙姫像」。

そこから望む「日本橋川」。



東海道五十三次之内 日本橋 朝之景 / 歌川 広重

 日本橋は五十三次の出発点であり、ここより京都までは124里半(約492km)である。鐘が七ツ(午前四時)を打つと木戸が開かれ、一日が始まる。朝焼けの空を背景に、日本橋の近くの肴市場から威勢のいい魚商が魚をかついでゆく。大名行列が橋を渡ってくる。犬が遊んでいる。塀や甍の直線に日本橋の力強い曲線の構成が、街の活気をさらに強調している。そして橋の中央から高く立つ毛槍が爽快な旅立ちを表わしている。

(「知足美術館」HPより)

    
    大正期の日本橋。                  現在の日本橋。

 いよいよ京へ向かって出発です。




 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「日本橋」からほぼ南に向かう広い道が「旧東海道」。

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帯坂。「番町皿屋敷」。九段坂。(「九段下」から「市ヶ谷」まで。その3。)

2015-09-11 23:07:51 | 都内の坂めぐり

 「市ヶ谷」駅から「靖国通り」に出て、右手。三菱UFJ銀行の脇を緩やかに上る坂が「帯坂」。

「帯坂」。

 この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市ケ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。

 怪談『番町皿屋敷』

 牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。
 承応2年(1653年)正月2日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。
 やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
 この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず、了誉上人は250年前の1420年(応永27年)に没した人物である。また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった、というようにまったくの史実ではないという。
 が、東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られ、東海道・平塚宿にもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 以前、「平塚宿」を通ったときの記録。

「お菊塚」。平塚駅近くの「紅谷町公園」の一画にある。

説明板。

 番町皿屋敷・お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
 平塚市観光協会

お彼岸で香華が手向けてあった。小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。

 (2014・9・27記) 

 「帯坂」。短くゆるやかな坂で、気づかずに通り過ぎてしまいそうな坂。両側は「ゼンセン会館」「自動車会館ビル」「日本棋院」などの建物が連なり、人の行き来も激しい通り。

    

○が「帯坂」。

 「靖国通り」を「九段下」方向に進みます。

途中に設置された「解説板」。

 現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。
 この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。
 関東大震災以前は今よりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋」が常に集まり、客を待っていたほどでした。
 また、坂上にある靖国神社は、新宿から神田方面に抜ける主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。
 九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋、浅草、本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(ともに現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町とよばれていたのもそのためです。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央の坂が「九段坂」。等高線が続き、かなり長く続く急坂であったことが分かります。当時から道幅は広かったようです。

 「今昔マップ」によれば、神保町付近の標高は1~2㍍、九段坂上では25~26㍍と表示されています。

「九段坂上」交差点から。左手が「靖国神社」。

坂を下っていきます。

解説板。

 「坂の多い東京の中でも九段の坂は霞んで見えるほど長かった」(『明治東京名所図会』)というかつての九段坂は、また現在とは比較にならぬほど勾配もきつかったという。
 関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し傾斜をゆるくする工事が行われ、市電(都電)が坂の中央に設置された。現在は靖国通りの一部として車の往来が激しい。
 坂下の田安門近くには、常燈明台(正式には高燈籠)という燈台がある。かつては坂上の靖国神社前にあったこの燈台の灯は、品川沖の舟ばかりではなく、遠く房総からも望見されたという。

                      

    
 「歩道橋」から坂上を望む。                     坂下を望む。 

「靖国神社」の石垣。何層にもなっている。 

     

 この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。「新撰東京名所図会」には"九段坂は富士見町の通りより飯田町に下る長坂をいう。むかし、御用屋敷の長屋九段に立し故、これを九段長屋といいしより此坂をば九段坂といいしなり。今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして且つ急峻なりし故車馬は通すことなかりし"とかかれています。坂上は観月の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二十六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。

 月末の26日というと、下弦の月もそうとうの下弦。月の出は真夜中過ぎ。そんな時刻まで待っているとは何と風流な人士達と思います。

お堀の蓮。

「九段下」付近から。右手奥に靖国神社の大鳥居。 

「九段会館」。

 九段会館(くだんかいかん)

 旧称は軍人会館(ぐんじんかいかん)。
 二・二六事件では戒厳司令部が置かれた。ホールやレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式、各種公演、会議、試写会などに使用されていたが、2011年(平成23年) 3月11日 東京観光専門学校の卒業式の最中に東日本大震災が発生し、天井仕上げ材の一部崩落で2名が死亡、26名の重軽傷者が出た。
 この事故を受け、経営主体であった「日本遺族会」は会館の営業を終了し、建物を国に返還することになり、2014年に老朽化のため取り壊されることが決定した。

 「大震災」当日、そんな事故があったことも知らず、新宿から徒歩で帰宅中に、ここを通りかかったのです。

「俎橋」からの日本橋川。
   
 
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幽霊坂。富士見坂。一口坂。・・・(「九段下」から「市ヶ谷」まで。その2。)

2015-09-10 22:49:55 | 都内の坂めぐり


 坂下から「東京大神宮」に沿って左に進みます。「早稲田通り」を越えると、目の前に大きな建物群。「飯田橋サクラテラス」。かつてのこの付近のイメージは一変。
 昨年10月に完成、オープンしたようです。テナント、商業施設、オフィスビル、住宅と・・・、複合施設。
 山野勝さんの書では、もちろん記載されていません。それを頼りに歩いていって、ビックリ! さて「幽霊坂」は?
 「飯田橋サクラテラス」の先を左に折れると、道筋はかつてのまま。この辺りは、「富士見1丁目」、「2丁目」。ここに「幽霊坂」が三個所ある、とのこと。このネーミングは、地元の方にとっては、迷惑至極、・・・。

「幽霊坂」①。

「幽霊坂」②。

「幽霊坂」①を振り返る。
 左手は「東京逓信病院」敷地。大きな空き地も。

「幽霊坂」③。但し、私有地につき、通行止め。

ぐっると回り込んで坂下から。

 「白百合学園」のところを右折します。

「富士見坂」。西に向かう坂道。

 「靖國神社」の裏手にあたる道。ここにも機動隊員が待機して警戒に当たっています。

        

 かつては富士山が見えたのでしょうが、現在は見ることはできないようです。右手が「法政大学」、左手が「三輪田学園」。

    

 蔓もどき情はもつれやすき哉 虚子

 この句は高濱虚子の作品で。1947年に詠まれ、1948年10月の「ホトトギス」に掲載されました。その後、1958年12月に、虚子の集大成である「虚子百句」が出版され、これを機会に、終生の友情の証しとして、三輪田元道校長にこの句が贈られ、1959年6月に校内に、句碑が建立されました。
 現在の句碑の位置は、1901年9月から1909年12月にかけての虚子の住居、及び「ホトトギス」の発行所(麹町区富士見町4丁目8番地)筋向かいに当たります。高濱家と三輪田家が、松山市が縁で、筋向かいに住み、親しく付き合っていたことから、校舎改築を機会に、この場所に句碑を移設しました。
 虚子は1920年12月から鎌倉市に転居しましたが、三輪田眞佐子と養子の元道も鎌倉市に別宅を持っており、親しい付き合いが、そこでも続いていました。
 また、虚子の長女の眞砂子は、本校、高等女学校を1915年に卒業しました。

 三輪田学園

 何だか意味深長な句です。

坂下から振り返る。長い直線の坂。

左に折れると、「一口坂」。

坂上から。

来た道を振り返る。

 「一口坂」は、「靖国通り」とぶつかります。「靖国通り」には「一口坂」というバス停があります。



交差点名は、「ひとくちざか」。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
↓が「富士見坂」、→が「一口坂」。

 この地域。「冬青木坂(もちのきざか)」「二合半坂」、「一口坂(いもあらいざか)」、「幽霊坂」、」と曰く因縁のある坂道歩きを堪能できます。

 忘れてならないのは「帯坂」。それに「九段坂」。この二つは、次回に。

 今日の大災害。「政(まつりごと)荒ければ、天怒る」という昔から言われていることばをつい思い出した。
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