今回のJR西日本の大惨事。あれだけの方々が思いもかけず生命を中断され、本人の無念さは無論、残された方々の心中は察するにあまりある、本当に悲惨な事故でした。特に、亡くなった方の4割が10代・20代だったとか。聞き手のない携帯電話が無情にも捜索中の車内で鳴っていたそうです。親から友人からクラスメートから恋人から・・・。そういう談話にも何だか涙が出てきます。今の日本人の年齢構成からしても全く理不尽な災難でした。
しかし、こういう大惨事にもかかわらず、JR社員の対応は、関係者の気持ちを逆なでするかのような態度・姿勢だったようです。「置き石」犯人説や速度制限オーバーキロのごまかしもその大きなものでしたが・・・。
新聞やTVなどに登場するJR職員の対応や発言をみると、人材不足の組織・企業なのではないかと感じました。力のある40代、50代の中堅、ベテランの姿と若い社員とかとのバランスが悪い組織に思えたのです。ずばり言えば無責任企業集団。電鉄事業というものの公共性、何よりも安全性重視の姿勢があまり見られないのです。
トップは無責任で、自己保身に固まった連中。黒字が過去最高だったということだけは、こういう大惨事の渦中でも堂々と発表する無神経さ。
これは、おそらく国鉄からJRになったときに、国鉄時代から担ってきた方々が引退、あるいは配置転換、強制退職などで大きく年齢構成にいびつが出たまま、JRになった今に至っているのではないのではないでしょうか。国鉄OBの姿もなさそうです。
たしか、国鉄時代、大幅な赤字経営のために、新規採用をまったくしなかった期間が長くありました。そのとき、それでは今後、必要な人材が不足する事態を招くと批判されたことがあります。しかし、「背に腹は代えられない」と、そうした危惧の声にも耳を傾けず、職員の新規採用を行ないませんでした。また、国鉄末期からJRに変わるころ、国労などの組合員を徹底的に差別・選別し、生クビを切るような徹底した合理化政策、人事管理政策を導入しました。
その基本は、企業利益の優先、そのためのペナルティの強化でした。JRに残ることが出来た人間に対しては、罰則の強化と賃金カット、配置転換、「研修」という名の「いじめ」政策を行いました。こうして、企業への忠誠心を強め、上司の言うことを黙って素直に聞く人間のみを登用してきたように思えます。
当時、郵政省でも徹底した合理化政策の中で、多くの非人間的な管理政策をとりました。また、電電公社でもNTTへの転換の中で、徹底した合理化を行いました。そうした中で、立場を獲得してきたのが、今の、強面で管理支配することに何の疑問を持たない、管理職の連中だといってもよさそうです。そうしなければ、残れなかったこともまた事実でしょう、なかにはそうしたやり方に批判的な人間・管理職は早々と職場を去っていったのではないでしょうか。
これは、教員の世界でも言えるようです。小学生や中学生の生徒減から新規採用を徹底して抑えた時期がありました。例えば、東京都では、全都でわずか数名しか採用しないような時期が長く続きました。そのときに、学級生徒数の上限見直しや教員配置数の見直しとかの政策を導入し、教員採用数を出来るだけ減らさないという政策は取られず、人員削減だけを行いました。
そのひずみが今、各学校現場にあらわれているようです。30代後半から40代半ばの先生がほとんどいないということです。たしかにいますが、採用された人間が、本当に人材なのかどうか。
「千里の馬」は常にいますが、「伯楽」が常にいるとは限らないのです。
今回の大惨事で露呈したJRの実態は、日本企業の、特に公共機関(企業)役所・学校・鉄道等の企業の脆弱性を物語ってはいないでしょうか。これらの組織のゆがみは今後日本の未来を暗くするような気がしてならないのです。
実にもう20年以上前からの、バブル経済からその崩壊へと・・・。その場しのぎの人材育成・採用計画、未熟な管理体制強化が、今になってあだ花として咲き始めたと見るべきではないでしょうか。
しかし、こういう大惨事にもかかわらず、JR社員の対応は、関係者の気持ちを逆なでするかのような態度・姿勢だったようです。「置き石」犯人説や速度制限オーバーキロのごまかしもその大きなものでしたが・・・。
新聞やTVなどに登場するJR職員の対応や発言をみると、人材不足の組織・企業なのではないかと感じました。力のある40代、50代の中堅、ベテランの姿と若い社員とかとのバランスが悪い組織に思えたのです。ずばり言えば無責任企業集団。電鉄事業というものの公共性、何よりも安全性重視の姿勢があまり見られないのです。
トップは無責任で、自己保身に固まった連中。黒字が過去最高だったということだけは、こういう大惨事の渦中でも堂々と発表する無神経さ。
これは、おそらく国鉄からJRになったときに、国鉄時代から担ってきた方々が引退、あるいは配置転換、強制退職などで大きく年齢構成にいびつが出たまま、JRになった今に至っているのではないのではないでしょうか。国鉄OBの姿もなさそうです。
たしか、国鉄時代、大幅な赤字経営のために、新規採用をまったくしなかった期間が長くありました。そのとき、それでは今後、必要な人材が不足する事態を招くと批判されたことがあります。しかし、「背に腹は代えられない」と、そうした危惧の声にも耳を傾けず、職員の新規採用を行ないませんでした。また、国鉄末期からJRに変わるころ、国労などの組合員を徹底的に差別・選別し、生クビを切るような徹底した合理化政策、人事管理政策を導入しました。
その基本は、企業利益の優先、そのためのペナルティの強化でした。JRに残ることが出来た人間に対しては、罰則の強化と賃金カット、配置転換、「研修」という名の「いじめ」政策を行いました。こうして、企業への忠誠心を強め、上司の言うことを黙って素直に聞く人間のみを登用してきたように思えます。
当時、郵政省でも徹底した合理化政策の中で、多くの非人間的な管理政策をとりました。また、電電公社でもNTTへの転換の中で、徹底した合理化を行いました。そうした中で、立場を獲得してきたのが、今の、強面で管理支配することに何の疑問を持たない、管理職の連中だといってもよさそうです。そうしなければ、残れなかったこともまた事実でしょう、なかにはそうしたやり方に批判的な人間・管理職は早々と職場を去っていったのではないでしょうか。
これは、教員の世界でも言えるようです。小学生や中学生の生徒減から新規採用を徹底して抑えた時期がありました。例えば、東京都では、全都でわずか数名しか採用しないような時期が長く続きました。そのときに、学級生徒数の上限見直しや教員配置数の見直しとかの政策を導入し、教員採用数を出来るだけ減らさないという政策は取られず、人員削減だけを行いました。
そのひずみが今、各学校現場にあらわれているようです。30代後半から40代半ばの先生がほとんどいないということです。たしかにいますが、採用された人間が、本当に人材なのかどうか。
「千里の馬」は常にいますが、「伯楽」が常にいるとは限らないのです。
今回の大惨事で露呈したJRの実態は、日本企業の、特に公共機関(企業)役所・学校・鉄道等の企業の脆弱性を物語ってはいないでしょうか。これらの組織のゆがみは今後日本の未来を暗くするような気がしてならないのです。
実にもう20年以上前からの、バブル経済からその崩壊へと・・・。その場しのぎの人材育成・採用計画、未熟な管理体制強化が、今になってあだ花として咲き始めたと見るべきではないでしょうか。