おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ビルとビルの間。路地裏の細道。龍閑児童公園。(「浜町川」跡をたどる。その2。)

2014-01-31 22:15:39 | 河川痕跡
 久松小脇の公園を過ぎると、かつての堀割に民家が建ち並びます。
ここ辺りから細長く縦に二列で並んでいる風景に。町の境は、家と家。
来た道を振り返る。道の中央にくぼみに沿って地下に下水溝が通っているようす。旧河川を埋めた跡がこのようになっているのに出くわす。
右側の家屋がかつての堀割跡に建っている、と思われる(「浜町川」の東側半分)。
「問屋橋交番」(旧「堀割」の東沿い)。
交番脇の路地。(旧「堀割」上)。
交番を過ぎたあたり。細い路地の両側にパン屋、寿司屋など商店や小さな町工場などが並んでいる。昔のままのごみごみした雰囲気が残っている一角。
途中からは、ビルに変わる。
ビルとビルとの間の路地。ここもかつての堀割で、地下には下水管がつながっていて、東京都下水道局管轄の都有地となっている。

所々にこうした掲示板がある。
ほぼ直線で北に向かう。
車は通らない、自転車も通れそうもない細道。
「鞍掛橋」交差点(「江戸通り」国道6号線)。右手が浅草橋方向。
江戸通りを渡って南を望む。ビルとビルの間が来た道。
龍閑児童公園。この公園が「中央区立」と「千代田区立」という同名の公園という不思議な趣。ここが、区界ということになるため。
左から龍閑川が合流する。龍閑川は、現在、千代田区と中央区の区界の一部になっている。龍閑川跡の探訪もしてみよう!

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この時期には、上流部分は堀割になっていない。また、「龍閑川」もなくなっている。再掘削の直前の地図かもしれない。赤丸が合流点。

 龍(竜)閑川は、東京都中央区および千代田区にかつて存在した河川である。日本橋川より千代田区と中央区の区界に沿って北東に向かい、東神田付近から直角に折れ、浜町川を経て箱崎川、隅田川へと抜ける人工の堀であった。明治の掘割の際に神田川への流路も掘割されている。
 龍閑川が最初に掘割されたのは江戸時代の1658年である。その後一度堀は埋立てられ、1883年(明治16年)に再び掘割された。しかし戦後の残土処理のため1948年(昭和23年)から再び埋立が始まり、1950年(昭和25年)には埋立が完了し、水路としての龍閑川は完全に消滅した。

(以上、「Wikipedia」参照)

(注:「goo」昭和22年の航空写真では水路が写っている)。

 上の記事によれば、「浜町川」と「龍閑川」との関係は、「龍閑川」が「日本橋川」から北西に流れ、小伝馬町の先、現在の「龍閑児童公園」付近で直角に折れて、南下し(そこからは「浜町川」と称した。龍閑児童公園から北の部分は後に掘削され神田川と結んだ、というふうにも読み取れる。なぜ埋め立てられ、のちに再び掘削されたのか。江戸から明治、昭和前期にかけての水運との関連は興味深い。
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有馬小。首都高浜町出口。弁慶像。久松小。(「浜町川」跡をたどる。その1。)

2014-01-30 21:32:00 | 河川痕跡
 先日、「震災復興52小公園」めぐりで、「蛎殻町公園」・「有馬小」に行った際、有馬小の東、首都高下の路がかつての堀割「浜町川」であることを知り、今回、その跡を訪ねてみました。「半蔵門線・水天宮前」駅から「JR・秋葉原」駅まで。帰宅してネットを調べると、すでに何人もの方が探訪していて、写真も豊富。でも、めげずに報告。

2000年代のようす(「今昔マップ」より)。赤線が「浜町川」跡。最上部の川が「神田川」(赤丸)。神田川から分流した堀割と日本橋川から分流した堀割「龍閑川」を途中で合わせて、南下して箱崎川(運河)を経て隅田川に注いでいた川が「浜町川」。

有馬小。ここからスタート。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。矢印が「有馬小」。

緑道になっていて、頭上は首都高・浜町出口への道路。けっこう灌木など緑が多い印象。


舟を模した石組み。夏場などは水が流れているようす。


新大橋通りから南を望む。中央が首都高・浜町出口。
渡ると、モニュメントをくぐる。「久松警察署」まで本格的な緑道公園となる。
振り返ると、高層ビルが。
武蔵坊弁慶(歌舞伎十八番「勧進帳」)。冠木(かぶき)門が公園の出入口に。
説明板があり、「人形町」のいわれなどが記されている。
今の時期、水は流れていないが、夏場は涼しそう。
「漢方醫学復興之地」碑。
遊歩道としてゆっくり堪能できる路。

消防署出張所に突き当たって緑道は終わりになる。


通りを過ぎると、旧堀割は、久松小と道を隔てた公園に。
右が小学校側。
西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。
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上六尋常小学校。東郷尋常小学校。九段小学校。(震災復興52小公園。その35。)

2014-01-29 23:31:02 | 震災復興小公園
 千代田区内では唯一残っている震災復興校舎。現存する数少ない復興校舎の中でも最古。公園側が正面玄関。



《九段小の沿革》(「九段小」HP参照)

明治36年 東京市上六尋常小学校認可。開校式。
大正12年 関東大震災のため校舎は全焼、重要書類は全部無事
15年 現在の鉄筋コンクリート建築の新校舎竣工し落成式を挙行
昭和 9年 名称を東京市東郷尋常小学校と改称
・・・
  21年 東京都九段国民学校と改称
  22年 東京都千代田区立九段小学校となる
・・・
  50年 校舎北側土手改修
平成 5年 東京都千代田区立千代田九段小学校となる
   6年 東京都千代田区立九段小学校となる
   7年 校章・校歌制定
・・・
  21年 本校校舎、経済産業省「近代化産業遺産」に認定

復興校舎の特徴をよく表している正面玄関の庇。
校庭側の外観。
円柱形の柱、放物線を描いたような丸窓、大きな窓等これまで見てきた復興校舎のスタイル(二つのパターンのうちの一つ)がうかがわれる。
通用門からの外観。外壁は塗装し直してある。
裏門の門柱と庇。
北側の階段(東郷公園からの坂)から見た景観。奥の建物の形状(土筆の塔?)が特徴的。


北側の土地(東郷公園)との高低差はかなりあり、崖になっている。
廊下には、書き初めがずらっと掲示されていた。

校内のようす。(「九段小」HPより)

 現在、施設整備計画が検討されています。基本設計計画が着々と進んでいるようです。

九段小学校・幼稚園施設整備計画

 教育委員会では、校舎・園舎の整備に計画的に取り組んでいます。このたび、竣工後約80年が経過している九段小学校・幼稚園について、施設の老朽化に対する改善と、良好な教育環境の整備の検討に着手しました。施設整備の検討にあたり、地域の皆さんや関係者等の意見を反映させるため、「九段小学校・幼稚園施設整備検討協議会(会長:田中康博氏(三番町町会会長))」を設置し、平成24年7月17日に第1回の会議を開催しました。
 これまで協議会では、施設整備における前提条件の整理について議論、整備手法の検討、校園舎整備にあたっての諸課題について検討を行い、第6回では、平成24年度に協議いただいた内容を踏まえたまとめを行いました。平成25年度初回となる第7回では、プロポーザル方式により決定した基本設計業者の紹介と、今後の検討の進め方について確認を行い、第8回及び第9回では校舎・園舎の敷地レイアウトについて検討を行いました。第10回では校園舎の建築物としての価値とその継承について委員の皆さんが感じる校舎の良さや思い入れを中心にご意見をいただきました。今後も引き続き、協議会委員の皆さんの意見を伺いながら、施設整備を進めていきます。
(「千代田区」HPより)
 
 こうした区の計画・方針に対して、同窓会や建築学会などから現状の校舎を保存すべきだ、全面改築への危惧などの意見具申や運動が起こっているようです。早急な決定を避けて、時間をかけてじっくり議論すべきです。かつての中央区立明石小などのように、行政主導での全面改築になっては取り返しがつきませんから。

 さて、10月から始めた、墨田区、江東区、台東区、中央区、千代田区と探索した「震災復興52小公園」シリーズもいよいよ大詰め。残すは港区内の二つと、落としていた台東区二つ、文京区の一箇所のみ(のはず)となりました。
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上六公園。東郷元帥記念公園。九段小学校。(震災復興52小公園。その34。)

2014-01-28 21:25:56 | 震災復興小公園
 続いて、「靖国通り」を西に、市ヶ谷方向へ。「東郷公園前」交差点を左折、細い路を行くと、「東郷公園」に。
「三番町」の来歴を記した説明板。
 
 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
 寛政5年(1793)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
 日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町)との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
 また、『濹東綺譚』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌『明星』を創刊しました。
錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「上六公園」、「九段小学校」付近。「上六」という名称は、「上六番町」にあったから。公園内に「三番町」の由来碑があるが、この頃の「三番町」は少し上方に位置していた。

⑦上六公園、東郷公園、九段小学校。

 公園内は高低差があり、昭和4年に低い部分が上六公園(※震災復興52小公園の一つ)として開園し、その後昭和13年に公園に隣接していた東郷平八郎連合艦隊司令長官(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った)の私邸が東郷元帥記念会から寄付を受け、高い部分を公園として開園しました。
 園内には東郷邸にあったライオン像や力石が残され、子どもたちのための遊具も設置されています。
HPより。)

中央に見えるのが、ライオンの石像。
力石。(「佃島」などにあったのと同じようなかたちをしている!)
 説明板によると、「57貫目」(213.75㎏)との銘文があるが、実際に計量したところ、146.4㎏(約39貫目)だったとのこと。

「東郷元帥記念公園」由来碑。

 当公園は、当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。
 当初、東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥没後、東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した

遊具施設、健康施設があって、大人も子どもも楽しめそう。
左手が「九段小学校」。震災復興校舎で、現役の校舎。さくらの花が一輪、二輪とほころび始めていた。
「上六公園」を下に望む。けっこう高低差があり、子ども達が駆け上がったり下ったりして活発に遊んでいた。
古い樹木も多い。
学校帰りの小学生。学校と公園とが一体化している(当初の目的に適っている)。南側からの公園風景。奥の東郷元帥記念公園との高低差がはっきり分かる。

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西小川(西神田)公園。旧西神田小学校(現「西神田コスモス」)。(震災復興52小公園。その33。)

2014-01-27 19:23:13 | 震災復興小公園

⑥西神田公園。旧西神田小学校(廃校)。

 「靖国通り」と「白山通り」との交差点「神保町」からしばらく北西の方角に歩いたところ。「西神田公園」は、震災復興52小公園としては、名称は、「西小川公園」。小学校名も「西小川小学校」。

広場中心の公園。南側に遊戯設備あり。大幅に改装され、復興公園の面影はなさそう。
煉瓦造りの門。改装前からあったものか?

 西神田小学校は1993(平成5)年統廃合の計画で廃校となり、その跡地は、「西神田保育園」や住宅などが入った高層ビルの「西神田コスモス館」となった。


西神田保育園のご紹介

 地下鉄神保町駅からも、JR水道橋駅からも徒歩で5分~10分ほどの距離にあり「本と学生の町」として知られている地域にあります。
昭和47年に開園され平成11年に今の場所に移転して来た新しい施設です。
コスモス館として児童家庭支援センターや、集会室、住宅と併設され、その1階と2階部分が保育園です。園舎は曲線を多く取り入れ、明るく広々とした環境です・・・
(「西神田保育園」HPより)

通りを挟んで。右が「西神田コスモス館(かつての「西神田小学校」)。左が公園。タクシーがけっこう停まっていた。

西神田小学校・幼稚園記念碑。

 西神田小学校は、明治36年(1903)地元住民の絶大なる協力のもと東京市西小川尋常小学校として、この地に設立された。翌明治37年(1904)、修業年数2年の高等科が併置され西小川尋常高等小学校と改称した。明治39年(1906)には尋常夜学校が併設された。昭和18年(1943)まで続けられ、修了生は1459名を数えた。昭和2年(1927)西神田尋常小学校と変更、さらの昭和16年(1941)西神田国民学校、昭和22年(1947)千代田区立西神田小学校と校名変更を重ねた。また、昭和21年には西神田幼稚園が併設された。特に、統計教育、放送教育、社会科教育においては全国・全都の学校の指導的役割を果たした。
 開校以来児童数は増加を続け、関東大震災直前の大正11年(1922)には1437名を数えたが、以後徐々に減少し続け再びこの人数を回復することはなかった。
 平成4年(1992)創立90周年を迎えたが、千代田区公共施設適正配置構想のもと、翌平成5年(1993)3月西神田小学校・西神田幼稚園の長い歴史に幕を下ろし、同平成5年(1993)4月、西神田区立お茶の水小学校として再出発をした。
 明治、大正、昭和、平成と4代にわたる激動の時代を生き抜き、10896名に及ぶ児童、2470名に及ぶ園児の健全な育成に携わるとともに、地域発展のため常に精神的な拠り所として、その役割を果たしてきた西神田小学校・同幼稚園の栄光を、永久に記念するためにこの碑を建立するものである。

ベンチ。かつて小学校で使用していた?
記念樹の説明板。
創立80周年記念の「オオシマザクラ」。
「西神田コスモス館」。
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錦華公園。旧錦華小学校(現お茶の水小学校)。(震災復興52小公園。その32。)

2014-01-26 23:18:02 | 震災復興小公園

⑤錦華公園。旧錦華小学校(現お茶の水小学校)

 なお、「神奈川大学 関東大震災・復興データベースによる開園当時の平面図」で当時のようす(小学校校舎と公園との位置関係など)が分かる。 
 
 ここは、「山の上ホテル」、明大の西側(裏手)に位置している。表通り(明大通り)からは緩やかな上り坂。「山の上ホテル」を回り込んで、少し下ると公園。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が錦華小学校があるあたり。「小松宮邸」とその南側はは現在の明大の敷地。邸の一部が現在の「山の上ホテル」。崖伝いになっていることがよく分かる。

公園北側の入口。「錦華坂」。元は、武家屋敷の一角。
このあたりは、門柱など開園当時のままの雰囲気。
石組みなども昔のままか?
 学生の頃、ここの公園で開かれていた古書市(古本まつり)に何度か来たことがあった。それ以来久々に。待てよ、40年以上も昔の話なので、勘違いかも?
昨年のようす。
HPより)

公園に隣接されている「お茶の水幼稚園」園舎(もともとは、公園だったところ)。公園との一体感があり、迎えの母親が公園内で待機していた。

公園の西側から東を望む。左奥が「山の上ホテル」。
北側の通りから公園を見下ろす。
公園北側の通り。奥に見える店舗が、関ヶ原の戦い前に創業した、という酒屋・豊島屋「豊島屋」。

《錦華小》
明治6年 開校。第四中学区二番小学校(後、久松学校と称す)。
1926(昭和元)年 関東大震災のため焼失した校舎が、鉄筋コンクリート三階建て校舎として完成。
1973(昭和48)年 鉄筋五階建ての新校舎完成。
1993(平成 5)年 千代田区の統廃合計画により120年の歴史に幕。
 以後、近隣の小川小学校、西神田小学校と統合し、お茶の水小学校となる。校舎は、旧錦華小学校の場所に存続。「錦華」の名は、隣地の錦華公園、その脇の錦華坂、錦華通りにその名を残している。
 開校記念式典には、昭和天皇や現在の天皇も皇太子のときに夫妻で列席しているほどの「名門」小。
背景は、震災復興校舎。
(以上、HPを参照。写真も。)

校名が変わり、「お茶の水小学校」へ。
校舎南・校庭側から望む。遠くの高層ビルは、明大校舎。
敷地沿いに古木が保存されている。
「吾輩は猫である 名前はまだ無い  明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ」
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淡路公園。旧淡路小学校(現「WATERRAS/ワテラス」)。(「震災復興52小公園」。その31。)

2014-01-25 20:13:55 | 震災復興小公園
 今回は、JR「お茶の水」から「市ヶ谷」まで。淡路公園。錦華公園。西神田公園。上六公園。

④淡路公園。淡路小学校(廃校)

 この辺りの変貌も著しく、久々に来てびっくり。古い校舎の小学校もなくなり、静かな緑の公園もまるで面影なし。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右端に「小川女子小学校」とある(旧淡路小学校沿革史の赤字部分参照)。なお、地図の中央は、現在のニコライ堂付近。


上とほぼ同じ場所の1970年代のようす(「同」より)。右の赤い↓が「淡路公園」「淡路小学校」。中央の↓がニコライ堂。

《旧淡路小学校 沿革》
 明治 8(1875).11. 4  神田小川町1番地に開校、当時小川小学校と称す
 明治 11(1878). 2.26  小川女子小学校と改称
 (錦華小学校と男女児入れ替え本校は女児のみ収容)

 明治 11.10. 1  神田淡路町2丁目(旧校地)に移転
 明治 32. 5. 9  東京市淡路女子尋常高等小学校と改称
 明治 41. 4. 1  東京市淡路女子尋常小学校と改称
 (高等科児童全員神田高等小学校へ移籍)
 明治 44. 3.23  新校舎落成(木造3階建)
 明治 44(1911). 4. 1  東京市淡路尋常小学校と改称(男女共学化)
 大正 12. 9. 1  関東大震災により校舎全焼
 昭和 2. 3.22  新校舎落成
(「昌平小」HPより)

 ※「震災復興校舎」としては、その後、1993(平成5)年、統廃合で廃校になるまで現役の校舎。 
 その跡地には、再開発プロジェクト「WATERRAS/ワテラス」が2013年4月に開業。
超高層ビルに大変化。
説明板。「淡路小学校」が平成5年、117年の歴史を閉じたことなどが記されている。
赤い印が淡路公園。
淡路小の校歌。モニュメントとして保存されている。

 公園には、かつての「園公路淡市京東」と記された銘板と建設年月が記された記念碑があるなど、千代田区内のこれまで訪れたところよりも歴史を継承するためのモニュメントが置かれている、ような気がした。

かつてあった「開成学園発祥の地」の碑もそのまま(むしろ目立つ位置に)置かれている。(西日暮里への校舎移転は関東大震災により校舎が壊滅したため。)
北側に同じ頃完成したテナントビル「お茶の水ソラシティ」。

 公園も一体としての再開発の対象でした。
開放的な芝生の広場に。
農産物の即売会が開かれていてそこそこの賑わい。「ワテラス」から下に公園を望む。

 もともと段差がある公園なので、それを生かしたつくり。しかし、こんもりした雰囲気がない。帰宅後、かつての公園のようすが、

公園探訪:公園の良さをじっくり観察「park.tokyo1970.com/data/149.html」)‎様のblog

に掲載されていましたのでお借りします。






この表示はモニュメントの一部として残っています。

 今となっては実に貴重な写真になりました。
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「DIARY OF A SEX ADDICT(DIARY OF A NYMPHOMANIACT)」(古きよき映画シリーズ。その50。)

2014-01-24 23:35:32 | 素晴らしき映画

邦題「セックス依存症の私」。
原題:「DIARIO DE UNA NINFOMANA」2008年・スペイン(97分)
監督:クリスティアン・モリーナ
脚本:キュカ・カナルス
原作:ヴァレリー・タッソ「Diario de una Ninfomana」(作者のヴァレリー・タッソが、高級娼婦として働き、その経験に基づいて書き下ろしたベストセラー小説。2003年 出版)。
(「Amazon」より)

出演:ベレン・ファブラ/レオナルド・スバラグリア/ユム・バレラ/ジェラルディン・チャップリン/アンヘラ・モリーナ/ペドロ・グティエレス

《あらすじ》

 知的な雰囲気をもつ、キャリア・ウーマンのヴァル(ベレン・ファブラ)は、初体験のときに性的な快楽を強く感じ、それ以後、セックスなしではいられなくなってしまった女性。いわゆる「セックス依存症」。

 性衝動を抑えることができず、次々と男性との関係を持っていく。

 一方ではそのことで悩む彼女にとっての唯一の理解者は祖母(ジェラルディン・チャップリン)だった。あるがままの自分を受け入れ、社会からの偏見など気にせずに人生を楽しむように語りかける。

 しかしその祖母が亡くなり、彼女はいっそう孤独感に陥る。
 就職活動を通じて金持ちの会社社長・ハイメ(レオナルド・スバラグリア)と知り合う。

 ヴァルは心の安らぎを得るが、嫉妬深さを次第にエスカレートさせるようになったハイメ。
 彼を半狂乱にさせてしまったのは、自らの過剰な性的欲求によって相手を傷つけていたせいなのではないか、と。結局、ヴァルは彼と離別することに。
 ヴァルは、抑えきれない性的な欲求を娼館で働くことで満たそうとする。

 しかし、そこでの自分はあくまで男の性的な所有物でしかないことを思い知る。

 そんな時、下半身不随の客と出会う。その男は、ヴァルに自分の生き方を大切にすべきだ、と。
 
 ヴァルは娼館をやめて、自分らしく(自分の思いのままに)生きようと決意する。
 


 邦題(原題)から想像するようなポルノ映画ではありません。「セックス依存症(中毒)」の女性、さぞかし過激な・・・、というような興味本位のみで観ることができない内容。もちろん、セックスシーンが多いのは当然ですが。
 自分の生(性)的傾向性をどう見つめ、対峙していくか、いっときのはやり言葉で言えば(まったく好きな言葉ではありませんが)「自分」探し? というテーマをもつ映画になっています。
 その分、主人公をとりまく背景(成長過程、家族関係、「依存症」に陥る精神的背景・・・)等への描写がないのが残念。それがあると、もう少しフロイト的で、ミステリーぽい展開があったかもしれません。
 性に目覚めたときから自らの、人と異なった(他者と比べて異常なほどと自覚され、それが罪悪感などを伴う)性向を持った女性の生き方が、語り(モノローグ)、回想、日記を書くシーンなどを巧みにちりばめて、豊かな色彩と静かな音楽を背景に、感情豊かなシーンが紡がれていきます。


《性(セックス)依存症》
 主に性行為(性交渉)への依存が多いため、「セックス中毒」とも称される。
 原因は、性的虐待によるストレス、幼少時に適切に愛情を与えられなかったなどの空虚感を性的快楽を得ることで埋めようとし、行為は空虚感からの逃避や自己肯定の手段が主で、依存へと駆り立てる本当の心理的動機に目を向け治療しなければ、その行為を繰り返してしまうと言われている。
 依存する対象は実際に相手のある性交渉だけでなく、自慰行為やポルノへの過度な耽溺および収集、強迫的な売買春、乱交、露出や覗き行為、性的ないたずら電話、インターネットを介したアダルト・チャットなど全ての性的な活動が考えられる。
 依存者はそれらに性的な興奮や刺激に溺れることが習慣化し、徐々に自己コントロールを失っていく。ギャンブル依存や買い物依存などと同じく「行動への依存」に分類される。
 性依存症は1970年代から主にアメリカで研究されてきたが、1998年にクリントン大統領の不倫スキャンダルが性依存症に起因したものであるという説が取り上げられて以来、一般での認知度が急激に高まった。近年ではアルコール依存や薬物依存、ギャンブル依存(賭博依存)と並び代表的な依存症であるという考え方が広まりつつある。
 日本国内においては、性依存症は認知度が低く、興味本位の記事として取り上げられることが多い。
 「性的な行動への依存」を依存症のひとつとして位置づけるのかどうか、また、どのあたりに「正常」と「依存症」の境界を引くかなどで、長い間論争が続いている。「依存症」ではなく、行動制御障害であるという論もある。また、性依存症という概念を一切認めないとする考えを持つ人々も存在する。
 アルコール依存症やギャンブル依存症などが疾病及び関連保健問題の国際統計分類で正式な病気として認定されているのに対して、性依存症は病気としては公認されていない。
 浮気をしても性依存症という病気だと言えば罪が減免されるため、浮気や不倫の言い訳として用いられる場合もある。
 他の依存症と同じく、性依存症にも患者による自助グループが存在する。 欧米では州ごとに多数存在すると見られる。 国内でも小規模ではあるが、首都圏にグループがあり、定期的に集まるなどして個々に快復へ向けた活動を続けている。
 性依存症であること、または過去に性依存症の治療を受けたことを公表している著名人には、ビル・クリントンのほかにハリウッドの俳優であるマイケル・ダグラスやロブ・ロウ、ビリー・ボブ・ソーントン、エリック・ベネイ、チャーリー・シーン、デビッド・ドゥカブニーなどがいる。 2009年11月、米国の有名プロゴルファータイガー・ウッズの不倫騒動でこの性依存症という言葉が一躍広まった。
(以上、「Wikipedia」参照)

 ただ、上の人名からも知れるように、「性依存症」は、統計的には女性に比べて男性が圧倒的に多い、とされています。一方で、女性の方が公表・言い出しにくいという側面も考慮しなければならないようです。

※画像はすべて「YouTube」より。
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神田児童公園。千代田小学校。(震災復興52小公園。その30。)

2014-01-23 22:05:20 | 震災復興小公園
 続いては、JR神田駅の西。休日のため、サラリーマンの姿もなく閑散とした通りを抜けたところにある。
「神田青果市場発祥の地」碑。

 このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。はじめは青物市が江戸中に分散していたのが、明暦の大火(1657)以降徐々にここに集まってきたといわれています。
 徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物が荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500㎡)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
 当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。現在の市場のイメージと異なり、当時は市場の中に町があったのです。周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
 大正12年(1923)月関東大震災にあって 市場は全滅しましたが、 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれました。その後、 昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。
(以上、「千代田区観光協会」HPより)

この付近にも、ビルの間に昔ながらの家屋が残っている。


③神田公園。旧神田小学校(現千代田小学校)
名称は「神田児童公園」に。他の震災復興公園でも改修工事をした後は「○○児童公園」と名付けるケースが多くみられる。
 ここの公園も校舎も大幅に改修、新築。震災復興公園・小学校という面影はなくなった。また、学校とも通りを挟んでいるため、関連性がなさそう。
公園の西北側から。
せせらぎ。この時期止めている公園が多いのに、ここは流れている。
一番古めかしいコンクリート製の揚水設備?

学校側の通りから。
平日はサラリーマン達の憩いのスペースに。
千代田小学校。立派な建物。千代田区立はどこも豪華。
時計塔がシンボル。中央区内の震災復興校舎は新築してもかつての建物の特色を生かす工夫があるが、千代田区にはそういうことは感じられない。

「祝開校開園20周年」。

・区立神竜小学校(1966年神田小へ統合)
・区立神田小学校(1993年千桜小と統合し千代田区立千代田小学校へ)
・区立千桜小学校(1993年神田小と統合し千代田小へ)

平成 5 4 学校設置条例の改正に伴い、千代田区立千桜小学校と千代田区立神田小学校、千代田区立永田町小学校(一部)が合併し、千代田区立千代田小学校となる。
平成 7 12 旧神田小跡に新校舎着工。
平成10 2 旧校舎とのお別れ
     3 新校舎の落成を祝う会。
     4 新校舎出発の会を開催。校舎移転・・・(「千代宇田小」HPより)

屋上が校庭。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸に「神田小学校」とある。現在のJR線路は地図上で右端から少し斜めに敷かれている。 

 千代田区立の小中学校も統廃合が多く行われています。地域の児童数の減少などからある意味仕方がないことです(かつては他区、時には都外からの越境入学児童・生徒で成り立っていた学校も多くあった)。が、統廃合の際の校舎の豪華な新築はさすがお金持ちの区ですが、校名の決定で、旧来の地域名、創立時のいわれなどを勘案せず、統合する学校間の妥協的なネーミングが気になります。

 そういう意味で、この「千代田小」というネーミングは、もう少し南にかつてあった「千代田町」からとったのでしょうが、位置的にも歴史的にもおかしい感じがします。
 もちろん、このことは千代田区に限ったことではなく、中央区(合同のため、二つあわせてやたら長い名前になったり)や北区(とってつけたような校名になったり)などでも目にします。
 もともとあった場所故の校名が、他へ移ってもそのままの学校などは、都立高校にあります(江戸川区や墨田区に移っても「紅葉川」、「日本橋」、・・・)ので、とやかく言う筋合いのものでもないですが・・・。

 各校の沿革史も統合後のものが掲載されるケースが多くあって、かつての学校の歴史、校舎、伝統などを調べようにも限界があるのが残念です(特に、震災復興校舎当時の写真が各校のHPには掲載されていない)。
 また、歴史をつなぐモニュメントがないのも気になりました(探し方が悪いのかもしれませんが)。中央区はその継承・記念をしっかり行っているようでした(同窓会・卒業生などによって)。

 児童数は、千代田小243名(1~4年1学級、5,6年2学級)、昌平小253名(3年のみ1学級、残りの学年は2学級)とどちらもけっして大きくはない。豪華な校舎・設備。宝の持ち腐れにならぬよう、祈ります。
 それとも、現在、幼稚園(保育園)を併設する(している)だけでなく、後には「老人ホーム」併設・転用を想定している? (神奈川県の公立高校は、そういう将来展望で建てたところもあるそうです)あるいは、地域センター的なものにも活用する計画?
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芳林公園。旧芳林小(現昌平小学校)。萬世橋。(震災復興52小公園。その29。)

2014-01-22 19:23:35 | 震災復興小公園

 賑やかな秋葉原・中央通りを右折したところにある公園。
久々の秋葉原。これが噂の「AKB48劇場」。待てよ、劇場は、ここだけなのかな? 
 へんてこな(お世辞にもかわいいとは言えそうもない)コスチュームを着たオンナの子が黄色い声を上げてあちこちでビラ配り。これが噂の・・・。

 そんな雑踏の混雑がちょっと途切れたところにありました。
学校脇に設置されてある「金澤町」の表示。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この当時、学校はここにはなく、もう少し南の旅篭町にあった、ようだ。

②芳林公園。昌平小。

 ここも大幅改修。「震災復興52小公園」の一つとして開園した当時の面影はない。
立派な門柱。
その脇にあった「滝沢馬琴住居跡」説明板。

《「芳林公園」の由来》
 旧芳林小学校(現「昌平小学校」)に隣接することから芳林公園と命名。

昌平小学校と一体的な利用施設になっている(「震災復興公園」の本来の目的を生かしたものか)。公園入口に備えつけた水まき用のホースにも「昌平小」とあった。
歩道橋で学校と結ばれている。
公園の奥に遊具施設がある。
公園から昌平小校舎を望む。
オフィスビルのような趣。

《芳林小学校》
安政4(1857). 1.18  有馬藩出身で清水家侍臣・金子政成が神田牛込袋町代地(現在の外神田1-18付近)に家塾を開き、加賀藩主前田斎泰が芳林堂と命名、芳林小の前身となる
明治 6. 2.  第5大区第4小区内幼童学所と改称、東京府下私立小学校のさきがけとなる
明治 7. 2.  第1大学区第5中学区第7番小学に編入、3月旧名を冠し芳林小学校と改称
明治 10(1878). 6.  火災により旅籠町2丁目8番地(現在の外神田1-8付近)に移転
明治 19.12.  私立芳林尋常高等小学校と改称
明治 26.12.  東京市神田区代用尋常小学校となる
明治 42.12.22  木造2階建新校舎竣工(現在地)
明治 43(1910). 2.25  隣接の練成小学校から一部児童を収容(学区域整理)し、東京市芳林尋常小学校として開校式挙行
明治 45. 5.31  東京市外神田図書館を校舎内に開設
大正 12(1923). 9. 1  関東大震災により校舎の大半焼失
大正 15. 2.  新校舎建設のため練成尋常小学校地(五軒町17番地)に移転

昭和 3(1928). 4.25  新校舎落成(現在地)

昭和 5(1930). 4. 1 校歌制定、芳林公園開設
昭和 6(1931). 9. 1  東京市芳林幼稚園開設
・・・
(「昌平小」HPより)

 実に古い歴史を持った学校です。震災復興校舎は、昭和3年完成。その当時の雰囲気はまったくなく、近代的な建物に大変化。
併設されている幼稚園の園庭。

 また秋葉原駅の雑踏に戻って神田駅方向へ。その前にちょっと寄り道。


1880年代のようす(「同」より)。現在のJR秋葉原駅付近。広大な敷地が「鎮火社(のち、秋葉神社)」。「昌平橋」の上流には、旧(元)「萬世橋」(地図上では見えない)。現在の「萬世橋」は、当時の「昌平橋」にあたる位置。


ほぼ同じ場所の1970年代のようす(「同」より)。左端が「萬世橋」。

 本来なら、「秋葉神社」から、「あきばはら」という読みのはずだが、どうして「あきはばら」と読む(発音する)ようになったのか、いろんな説があるようです。
 興味深いのは、駅をつくったとき、「あきばはら」と読めなかった駅員が「あきはばら」と誤って読んだから、とか。・・・。今は、「あきば」という言い方で定着したようなので、元に戻ってよかった!よかった!

万世橋。
親柱。
万世橋から秋葉原駅方向を望む。

《万世橋》
 「万世橋」の歴史は、1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。当橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。
 1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成し、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。眼鏡橋とも呼ばれた。
 上流の昌平橋が1873年(明治6年)に洪水に流され、1896年(明治29年)に復旧される迄は、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。
 1903年(明治36年)、一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、1906年(明治39年)に撤去された。新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災、のちに修復された。
 大震災後の帝都復興事業に指定され、東京地下鉄道の渡河工事に伴う水路変更の必要もあって、1930年(昭和5年)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋に架け替えられた。
(以上、「Wikipedia」参照)

説明板。この橋も、関東大震災復興事業に関わりがあった。
完成当時の写真。
神田川。左は、もとの万世橋駅。
煉瓦造り。
「交通博物館」があったところ。
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練成公園。アーツ千代田3331。五軒町。(震災復興52小公園シリーズ。その28。)

2014-01-21 21:49:15 | 震災復興小公園
 今回から、千代田区編。地下鉄銀座線・末広町からJR神田まで。
 ただし、千代田区は、都会も都会、日本の政財界の中心地。したがって、その変貌も激しく、「上六小学校(現九段小学校)」(現在、改修計画が検討されている、らしい)以外は震災復興校舎も現存しないようです。はたして「震災復興公園」はどうか?

①練成公園。練成小→練成中→アーツ千代田3331。
公園。ぽつんと古木(昔のまま、それとも?)。しだれ桜?が一本。あとは西端に花壇。そして、立派なトイレ。


公園側が出入口というのは、かつてのコンセプトのまま。

公園から「アーツ千代田3331」の建物を望む。
公園の方は、取り立てて特徴はなさそう。

「練成中学校」と校章の残った正門。

 これだけが震災復興公園の証。
「昭和6年1月1日開園」。新しく設置したもののようだ。

 そして、「五軒町」という表示。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 3331 Arts Chiyodaは旧練成中学校を利用して誕生したアートセンターです。地下1階、地上3階の館内には、アートギャラリー、オフィス、カフェなどが入居し、展覧会だけでなくワークショップや講演会といった文化的活動の拠点として利用されています。また、誰でも無料で利用できるフリースペースも充実しており、お昼時には近隣にお勤めの方々やベビーカーを押すお母さんたちで賑わい、夕方には宿題をする子供たちの姿も見られます。
 アートに興味を持つ人のみならず、誰でも気軽に利用できるのが3331 Arts Chiyodaの特徴。第一線で活躍するアーティストやクリエイターから、地域の子どもたちまでが集い、日常的に創造力を育む文化的活動に触れることができます。東京だけでなく、日本各地や東アジアをはじめとする「新しいアートの拠点」を目指す一方、区民の方々をはじめ人々の憩いの場でもあるのです。
 当施設は千代田区文化芸術プランの重点プロジェクトとして始まりました。
プロジェクトの経緯については、こちらからご覧ください。
当施設はその経緯をふまえ、運営団体が民営による運営を行っています。

※「3331」の由来
 「江戸一本締め」をご存知ですか?江戸一本締めは、おめでたい席で感謝の意を表す風習として、古く江戸時代から受け継がれてきた手締めの文化です。かけ声の「イヨーオ」は、「祝う・祝おう」が語源といわれ、さらに「シャン・シャン・シャン」と三回打つことが三回で合わせて九(苦)となり、最後に「シャン」と一回打つことで苦を払い、「九」に一画加えて「丸」になるとされています。「3331」のマークは、そのリズムを数字で表したもの、ロゴマークもよく見ると、そのリズムを数字で表したもの、ロゴマークもよく見てみると。「三・三・三・一」の文字からできていることに気づきましたか?


 (以上、「千代田3331」HPより)

 センスがあるんだかないんだか、ちょっと疑問の命名、と思う。また、隣接していた「震災復興公園」当時の考え方をもっと生かすべきではなかったか、と。
 ただ、学生を含めて人の出入りも多く、活発な活動を行っているようすが知れ、公園も周囲の雑踏の中での貴重なアプローチ・憩いの場としてはコンパクトによくまとまってはいる。
コメント (2)
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読書「吉本隆明 煉獄の作法」(宇野邦一)みすず書房

2014-01-20 22:26:25 | 読書無限
 「煉獄」は、カトリック教会の教義で「この世の命の終わりと天国との間に、多くの人が経験する清めの期間であり、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である。」と説明されている。
 煉獄は「清めの火」というイメージで語られ、信者は、自分自身の救いのためだけではなく、聖徒の交わりの力によって、煉獄の霊魂のために祈り、死者のための施しや免償、償いの業を行うように勧められ、それによって煉獄の霊魂は救われると教える。
 煉獄の霊魂の救いのために捧げたという証明書が「贖宥状」で、これを金銭で販売・売買していたことが教会の腐敗につながり、マルティン・ルターによる宗教改革の発端にもなった。
 このような歴史的経緯から、プロテスタントの諸教派は煉獄の概念を否定し、また、正教会も「聖書」に記載がないことなどから煉獄の存在を認めていない。(以上、「Wikipedia」参照)

 吉本隆明が死して今年の3月で、丸2年。彼が死んだとき、マスコミにあふれた「知の巨人」との賞賛。60年代の新左翼運動の興隆の中で、「反帝」「反スタ(ソ連型社会主義の限界と展望)」という切り口が学生・大衆に受け入れられ、思想界(とりわけ新左翼)を圧倒して以来、長年に亘って「敵の敵は味方」式の論戦術(ヘーゲル的弁証法?)の上に立って、巧みかつ歯切れよく、世相(世界)に切り込んでいった言語の(用い方の)「魔術師」。
 そして、文学者の「反核」署名・提起を批判するあまり、ついには、「核兵器」と「原発」を区別しての「原発擁護、推進」に立ち至った生前の言動、特に、3・11にかかわる発言に少なからず違和感を感じていた「私」。

 この書は、筆者が死してなお自らの思想活動、営為につきまとう「吉本イズム」の深さと根源を探り出そうと悪戦苦闘した書。初期の作品群をなす「言語論」、「芸術論」、「共同体論」「大衆論」(ここに彼の一番の落とし穴があったと私は思っていますが)を分析しながら、生涯を通して貫かれた吉本思想・哲学の行い(作法)を、死して語らず、という現実から、死してなお語らせ(読み取る中で)ていきます。
 その上で、現在的(むしろ未来的、人類的)評価(自分にとっての、あるいは今生きる人にとっての)を見定めようと、個人的思いを抑えて、その功罪を解析していきます。
 哲学者としての故人への深い尊敬の念を失うことなく、かといって盲目的に従うのではなく、というところにこの書の立場があります。

 晩年の「吉本隆明」の立場には疑問を持っている私。改めて「吉本」思想・哲学をとらえ直す契機になりました。
 とはいっても、「煉獄」というとらえ方に興味を持っただけかもしれませんが。裁きの場というようなものとも異なることに。
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オール反「反原発」「脱原発」。

2014-01-19 21:44:56 | 世間世界
連合、舛添氏を支援 都知事選 原発即時ゼロに反発(産経新聞) - goo ニュース
 予想通りの展開。電力関係労組を傘下に抱える連合、当然「細川NO!」。宇都宮陣営、「細川NO!」。これで舛添さんは、ますますほくそえむことになった!

 「四面楚歌」。一斉に細川攻撃。何としても原発再稼働に持ち込みたい政財界。その尻馬に乗る大手マスメディア。
 負け戦必至! でも挑戦する細川さん。「原発即時ゼロ」。節を曲げずに主張する姿勢、よし! お殿様のご乱心、お戯れでけっこう。

 細川追い落とし一辺倒の言論で、今後の日本のエネルギー政策は「原発推進」「原発再稼働」で決着。これから先、原発事故が起ころうと、核のゴミがあふれようと・・・、もう戻れない。後世の世代にすべて負のつけは回しての・・・。 

 原発を即時ゼロにした場合、電力不足に加え、原発再稼働を前提にした料金体系も見直しが必要になる。電気料金の値上げは避けられず、採算の厳しい中小企業の経営にも打撃となって産業空洞化が進みかねない。
 2020年東京五輪・パラリンピックへの影響を指摘する声もある。大会組織委員会の会長に就任する森元首相は、18日のテレビ東京の番組で、「6年先の五輪のためにはもっと電気が必要だ。今から(原発)ゼロなら、五輪を返上するしかなくなる。世界に対して迷惑をかける」と批判した。
 最大の電力消費地である東京都の知事が原発即時ゼロを主張すれば、原発がある立地自治体が反発するのは確実で、原発再稼働への影響も必至だ。

(2014年1月19日 読売新聞)

 最後のフレーズは論理矛盾。地元が「反発」して再稼働NO!と、なるわけはないはずで(もしかしたら、かの「分からず屋」の新潟県知事を想定している?)、原発再稼働反対派を勢いづかせるだけ、という意味? 

 いずれにしても、舛添さん、ますます図に乗る形勢、いやはや。こうして機を見るのに敏でなかった男が、ここに来て見事な嗅覚でまんまと知事の座をせしめることになる。こうなったら、東国原さんにでも出てもらいたいくらいだ。

 しかし、浮かれ騒ぐ日本の中で、

 福島第一原発。今でも、作業員も近づけない高濃度放射能汚染水がじわじわと出所不明なままに流れ出てくる。

 こうした中で、稲嶺さんの再選、快哉!

 さらにハチの一刺し。
 党都連に所属する片山氏は過去に舛添氏と婚姻関係にあったこともあり、首相が党大会の会場で「誰よりも片山さんに(舛添氏の)応援に立ってほしい」と要請。これに対し、片山氏は「舛添氏は障害を持つ婚外子に対する慰謝料や扶養が不十分だ。解決されていない」と述べ、現状では難しいとの認識を示した。

 
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「DASH・0円食堂」の企画性すら持ち合わせない企業の貧困さ。

2014-01-18 23:02:43 | 世間世界
クボタ系列会社、ごみに混ざったコメ販売(時事通信) - goo ニュース

 「ザ!鉄腕!DASH!!」。あまりTVを見ない小生にとっての好きなTV番組の一つ。

 DASH村(「福島第一原発事故」の影響をものともせず・・・)やDASH島、DASH海岸、明雄さんの日本農業ノート、(終わってしまったが)ソーラーカー。「TOKIO」のメンバーが出演(この方々の「本来」の芸能活動は全く見たことも聞いたこともないが)。

 その中で、最近私的にはまっているのが「0円食堂」シリーズ。

「捨てられてしまう、いらなくなってしまった食材を集め、おいしい料理にする」という。

•色や形の悪いシイタケ
•傷つきやねじれたレンコン
•白菜の一番外側の葉

 それ並みの企画だったのか? まさかね。
 ゴミの中から回収して、手間暇掛けてせっかく精米したお米。どうせなら老人ホームや児童福祉施設に寄付するとかすれば、いい企業宣伝にもなったのに。

 それをごまかして売ってしまうだから、なんともはや企業の「もうけ主義」もきわまった。親会社は農機具など農協とタイアップしてあこぎに農家に売りつけていた! 親も子も、相変わらずやることはえげつないね。

注:写真はすべて「NTV」HPより。
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読書「無地のネクタイ」(丸谷才一)岩波書店

2014-01-17 22:16:42 | 読書無限
 作者、筆者に失礼な話だが、読んでゐるうちにつひうとうとしてしまふものがあります。小難しい内容のものとか、内容と関係はなく、こちらが疲れてゐて読んでゐる内に、バサツと手元から本が落ちる・・・。
 実は、丸谷さんの随筆集はそんな読書体験の一つです。気がつくとさういふ傾向のものが多かつたやうな気が。
 読む気がしないから、ではなく、難しくて理屈ぽつくて、ではなく。つひつひ引き込まれて心安らかになつて、うとうとしてしまう。
 これは読者としては最低ですが、作者としては最高ではないでしょうか、と勝手に思つてゐます。
 今回も亡くなられた後、岩波の「読書」に掲載されてゐたもののまとめ。池澤さんが解説文を書いてゐますが、引き出しのおほさと、とつかかりの鋭さとに触れてゐることにも、なるほどと同感。
 読みやすいページ数ですが、二日がかりになつた、いひわけでした。

 池澤さんもおつしゃつてゐますが、中身はなかなか硬派。しかし、大上段にふりかぶつてゐるのではなく、見聞きした事柄を理論武装しての展開。電柱を撤去できない都市計画、それは経済性を優先した結果であり、失はれた美的感性を取り戻すべきだ、と。 最近では、幹線道路を中心にやうやく地中化の工事が始まつてゐますが、それもまだまだ。

 あるひは、がらつと転じて、今賑はふ歌舞伎(上演、営業)における「松竹」の果たしてゐる功罪。あるひは春画論。硬軟両様(ご本人は保守本流の「硬」派の気概での書きやうですが)。とういふことで、つゐつゐなるほどなるほど、いや待てよ、と思ひつつ、バサツと本を枕元に落としてしまふのでした。

  
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