おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

意欲たるやよし、です

2011-12-30 21:33:51 | つぶやき
ひるまぬ首相「民主党は政治改革家の集団だ」(読売新聞) - goo ニュース
 政治生命をかけて、いう意気込みを民主党議員の一部は、冷ややか。しかし、離党までして次期選挙で勝てるのか。次期総選挙に立候補でない鈴木さんは、離党組とは別の新党結成。「真」と付したのはご愛敬。
 それにしても、野田さん。初志貫徹で頑張るという気概は、よしとしよう。国会議員定数削減など我が身を切る大作戦に、議員諸公はどう対応するのか。攻守ところを代えての状況になるかどうか。矛先が今度は自分たちの身に及んだとき、世論は見極める。
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仙川。成城学園。

2011-12-26 22:26:41 | つぶやき
 仙川。「せんがわ」と言ってしまうが、正しくは、「せんかわ」。ただ、玉川上水から分岐する「千川」上水が「せんかわ」と言うので、区別するためか。
 小金井市貫井北町三丁目の新小金井街道直下が「上端」と定められ、東京都による立札が設置されている。現在の上流部は人工的に作られたもの。狭い幅・浅い深さ・枯れ川に等しい水量、特に曲がり角が蛇行でなく直角であるなどにその証拠を残す。
 現在、仙川の源流を確認することはできず、コンクリート垂直三面張りの改修が施された流路の大半も、すでに20年以上にわたって常時水のない状態が続いている。
源流域からおおむね東に向かい、公務員住宅の横を流れ、市街地(北大通り北側歩道と重複する箇所は暗渠)を曲がりながら武蔵野市に入る。亜細亜大学や桜堤団地の近くを流れ、南に向きを変え、武蔵境駅の少し東でJR中央本線の下をくぐり、市街地(一部暗渠)を曲がりながら抜けてゆく。このあたりでもふだん水のない状態は変わらない。やがて三鷹市に入る。
 三鷹市をしばらく行くと野川宿橋の所から川幅が広がり、流れも自然な蛇行となる。ここで地下から汲み上げた水を放流する。ここが、現在、確立された最初の水源。
 少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき、調布市に入る。少し下流で再び三鷹市の境界に触れるが、そこで三鷹市東部下水処理場の高度処理水が放流される。
 水量もある程度のものになったところで国道20号や旧甲州街道と交差し、世田谷区に入る。京王電鉄京王線と交差し、祖師谷公園を通り抜け、成城学園の横を流れる。小田急小田原線をくぐり、世田谷通りと交差、東名高速と交差、世田谷区鎌田で北西から流れて来る野川に合流する。
 今回は、成城学園駅付近のようすを撮影。新小金井駅北付近で見た人工的で全く水のない川筋と比べ、水量もあり、コンクリートで護岸され、川面に下りることはできないが、自然らしい雰囲気がうかがわれた。
両岸には遊歩道が続いています。成城学園脇から上流をのぞむ。
右手が成城大学。中央奥が、小田急線。
川辺には、草地もあります。水鳥の姿もちらほら。
小田急線の橋脚の南側から。
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12月25日。スカイツリー。

2011-12-25 22:24:28 | つぶやき
 久々のスカイツリー。昨夜は、薄くぼんやりと白色に点灯されました。まだ試験的とかで三分の一とか。午後5時30分から10時まで(たしか)。今度は大晦日の日だそうです。周りの雰囲気も様変わり。付属施設もほぼ完成。北十間川も整備され、言問通りも歩道の整備が始まっています。ホントに昔日の感があります。
工事が始まる直前の建設予定地。左に見えるのが、東武鉄道本社。業平駅の東側には、車両基地と貨物集積場が広がっていました。その奥に見えるのは、線路をはさんだ向こうにある都営住宅。
この辺りには、大きなセメント工場があって、ミキサー車がほこりを舞上げながら行き交っていました。
工事準備の施設。右側には京成電鉄の本社がありました。まだ建物は残っていますが、すでに本社は移されています。画面の奥に見える建物は、線路をはさんだ反対側にあるマンションなど。
昨晩は、寒い中で見上げる人々は、心なしかカップルが多かったような。そして、今日も見物客がおおぜい、若いカップルも年寄りのカップルも上を見上げて・・・。
テナントごとの内装工事もかなり進んでいるようす。
夜のスカイツリーは、残念ながら、わが携帯電話ではうまく写せません。
右側のビルが現在の東武本社。
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大隈庭園

2011-12-24 21:55:43 | つぶやき
 早稲田大学構内に久々に入りました。今回は、「大隈庭園」。
井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を大隈重信侯が文人風に改造したもので 大正12年没後、大学に寄贈されました。  
 昭和24年空襲で廃墟化しましたが、ほぼ昔の景観通り復元、園内には800年前の民家を移築した「完之荘」があります。
広々とした芝生。立ち入り自由なのがいい。
夫人の像。
小さな趣のある池。
完之荘。
亀甲形の置き石。
「完之荘」の玄関口。ここは、お茶会などの集会にも利用できるそうです。
 早稲田の学生でも、あまりここまでは来ないらしい。OBが好みそうではあります。
孔子像と対面しています。
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晩秋の新宿中央公園

2011-12-21 22:39:49 | つぶやき
 めっきり寒くなってきました。ちょっと郊外にある友人の家。朝、出かけの時の車のエンジンがかかりにくくなり、車の窓ガラスは霜で真っ白。お湯くらいではすぐ凍りつく、とか。霜柱を踏んでの通勤、とか。
 一頃よりはそんなに風になることは珍しくなった都内。寒冷地では、これから寒さが一層。被災地の冬は一段と厳しくなりそうです。
 かの北朝鮮では、-10度をはるかに越える寒さとか。
 イチョウの葉が落ちずに黄色く、光に映えているのは、それでも温暖化のせいでしょうか。モミジもきれいに色づいています。
 相変わらずパソコンの調子はよくありません。
広場の中央にあるイチョウ。見事なほどの黄色。写真を撮りに来る人も多い。
昼休みには、散歩がてら紅葉を楽しむサラリーマンも。
都庁第一庁舎。
冬木立の向こうに見えるのは、都庁第二庁舎。
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しばらく更新できません

2011-12-17 15:15:29 | つぶやき
 パソコンの調子が最悪。文字の打ち込みも画像フォルダ操作も、ほとんど動かなくなってしまいました。立ち上がりもめちゃくちゃ遅く、メールもダメ。ちょっと動かしても、保存できず、フリーズしてしまう。おそらく容量オーバーなのでしょう。しばらく更新しません。PCを替える予定ですが。今も絵文字が使えず、「(残り1項目)・・・をダウンロードしています」という表示が虚しく、延々と続いています。
 (強制終了させて再開)
さっきは投稿もできませんでした。今度は果たして・・・。
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桜上水・三井牧場

2011-12-16 17:46:32 | 歴史・痕跡
 京王線「桜上水」駅。駅名は、北側を流れる玉川上水にちなんだという。そこで、その名にひかれて途中下車。ぶらり駅の南側。狭い通り。商店も少なめ。ちょっと路地に入ると、昔の道のような趣き。田んぼの端をめぐるたんぼ道。桜の古木がその道に沿って残っている。日頃のカンで・・・。
 実は駅の南東側。古い中層住宅、「桜上水公団団地」。初期の頃の分譲マンションという。老朽化して、建て替え工事が始まるらしい。その裏手は日大文理学部、都立松原高校、区立松原中学校。それぞれ深い緑に囲まれ、落ち着いた自然環境の中のたたたずまい。道も細く曲がりくねったまさに畦道の風情。本筋を外れて少し散策した。
 帰ってから、インターネットで調べると、何とここが「三井牧場」の跡地だった。松原高校と松原中学校の間の道が牧場につながる道だったらしい。正門は、松原高校付近に。
 gooの航空写真・昭和22年を見ると、駅への道は不鮮明だが、田んぼの中に牧場のような敷地があり、周回するような道も存在している。もっと丁寧に観察してくれば良かったが、後の祭り。今度はじっくりと見てこよう。
 鹿島建設も関わっていたらしく、「三井牧場」に関する文章を見つけた。掲載します。

 大正7年、三井合名は東京に住む三井家の自家用牛乳確保のため、東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)に牧場を作る。見慣れぬ種類の牛がいる牧場と洋風の牧舎は、藁葺屋根の農家が点在する村で異彩を放っていた。
 今は公団団地が広がる住宅街で牧場の面影はないが、この牧舎を建設したのが鹿島であった。

(中略)

 大正3年、三井合名は東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)の茶畑と丘陵5万m²を購入、翌年5万m²を追加購入する。10万m²(東京ドーム2倍強の広さ)の牧場で、乳質の優秀なジェルシー(ジャージー)種の乳牛10頭を英国から輸入して飼育し、そこから取れる新鮮な牛乳を東京近郊に居住する三井家の人々に提供するためだった。当時牛乳は高価でまだ一般的ではなかったが、家庭教師やコックに外国人を雇うことの多い上流階級の人々にとってはごく普通の飲み物だったのかもしれない。
 大正7年の暮れも押し迫ったころ、竹川渉は鹿島組建築部長の小林政吉に招かれる。高井戸に作る三井家の新設乳牛場の入札指名を受けていて、入札日が来年1月7日に迫っているので、ぜひ鹿島組に入って力を貸して欲しいと言う。今のように見積専門の部隊がいるわけではなく、見積のできる人間も限られていた。彼らは皆現場を抱えていて見積をする余裕はない。当時竹川は家の仕事の関係で勤めに出るのは無理があったのだが、再三懇願され、とうとう「三井の見積だけ」を手伝うこととなる。そして、この工事が落札される。建築工事では特命入手がほとんどだった鹿島にとって初めての入札による入手工事である。小林に口説かれ、2,3か月手伝うつもりで入社した竹川は、結局昭和27年1月に監査役を去るまで鹿島で建築の要職を勤めることになる。
 当時の営業経歴書によると、「三井、牛舎牧場建築工事、木造 53,200円。大正8年3月~大正8年6月」とある。経理のメモによると大正8年と9年に分けて工事利益が計上されている。竹川が「評判も成績も良く竣工して、お手伝いの仕甲斐があったと喜び且つ安心した」(*2)のもうなずける。大正7年に建築した煉瓦造りの中央大学(第4回参照)も4か月程度で竣工しているので、工期としてはこのようなものなのであろう。しかし残念なことに、当時の写真などは三井文庫にも三井不動産(昭和16年~所有)にも当社にも一切残っていない。
 京王線笹塚・調布間が開通したのは大正2年。それまでは甲州街道を新宿から調布まで定期便馬車が一日4便通っていた。京王線桜上水駅は開業しておらず(大正15年北沢車庫前として開業)、この三井牧場の最寄駅は玉川電車(現・東急世田谷線)の下高井戸駅だったため下高井戸牧場と呼ばれた。そして品質の高い生牛乳で有名となり、三井家の誇りの一つとなっていった。
 茶畑、野菜畑、麦畑、桑畑、藁葺屋根が点在する村に突如として出現したオランダ風の畜舎、サイロ、見慣れない牛(当時は牛と言えば役牛)・・・・すべてが当時の人々の想像を超えていた。この地で初めて電灯を引いたのは三井牧場で「電柱と電線を持てば電気を引いてあげる」と、近隣の3軒の農家にも電灯をともした。夕方時間が来ると自然に明るくなるのを人々は不思議がったという。今では郊外とも言えない東京の住宅街の、90年前ののどかな様子がわかる。東京府下だった荏原郡一帯は、関東大震災と京王線の開通で人口が増え、地価が上がっていく。世田谷区が誕生して東京市に併合されたのは昭和7年10月のことだった。
 戦後、三井牧場では乳牛を乳の多く出るホルスタイン種に改め、昭和23年10月からは牛乳を一般にも販売するようになる。搾乳から瓶詰めまでできる機械設備を備え、厚生省から衛生モデルケース指定も受けた牛乳はその品質のよさから「特別牛乳」と呼ばれ、都内の病院や外国人向けに販売された。最盛期には12万リットル/年も生産されたが、昭和37年牧場は閉鎖される。昭和39年、東京オリンピックの開催と相前後して、日本住宅公団が跡地を住宅団地として開発し、桜上水団地が誕生した。

 現在、その当時の痕跡はないらしい。さらに公団住宅の建て替えが始まれば、もっっと歴史の彼方に去っていってしまうだろう。
こんな感じの道が駅に向かって何百㍍か続く。昭和22年の航空写真では田んぼ道だったようで、「三井牧場」はもっと南東側に位置していたらしい。
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玉川上水(代田橋~五條橋)その2

2011-12-12 20:27:28 | 河川痕跡
 今回、散策した箇所は、玉川上水が姿を見せる箇所が多いので、歩き甲斐があった。渓谷のようなうっそうとした桜並木。浅い川筋、草花が咲きそろう。そして、児童公園。
 玉川上水は、四季の変わりとともに、さまざまな表情を持った流れです。
代田橋のホームをくぐり、南下した玉川上水はここでしばらく暗渠となります。横に横断する太い鉄管は、和田堀給水所からの導水路。
環七の手前から暗渠になって環七を横切る。環七を地下道でくぐり抜ける。配管が何本も通っていて、「頭上注意」の標識。珍しい体験ができる。
笹塚駅の近くまで水路をたどれる。この橋は、稲荷橋。ただ表面が削られて判読不可能。「昭和○年○月竣工」とある。ものの本によると昭和二年とか。橋の中央に一本柱が立っている。
笹塚駅近く。けっこう深い堀状になっている。
笹塚駅前。暗渠になっているが、この桜の古木が玉川上水沿いであることを示している。
笹塚駅を過ぎると再び水面が姿を現す。このあたりは、少し堀が浅くなる。高低差を考慮しての絶妙な建設技術に感服。
水面沿いに歩道がある。
再び暗渠になって、新宿まで緑道に。遊具施設や広場などが設置されている。
五條橋の手前。笹塚駅からの遊歩道の終点。
通りの向こうが「五條橋」。そこから新宿駅近くまで遊歩道が続く。
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玉川上水(代田橋~五條橋)その1

2011-12-11 16:25:00 | 河川痕跡
 京王線「代田橋」駅で途中下車。玉川上水に沿って、笹塚まで。代田橋駅付近と笹塚駅付近は、玉川上水の流れを見ることができます。途中は緑道公園になっていて、桜の木など樹木も多く、歩きやすい道のりです。枯葉に敷き詰められた上水路でした。
 玉川上水の全区間にわたって桜並木が続くのは、おそらく桜見物をする人出によって、土手を踏み固めるという意図があったようです。
 写真の正面は、代田橋駅のホーム。この下を玉川上水は通過します。
甲州街道は暗渠で通過し、ここから再び水の流れが見えます。上は、首都高。
けっこう深く掘られた水路。枯葉がいっぱいです。桜の季節は、見事。深い渓谷のような雰囲気がすてきです。
淀橋浄水場の機能が終了し、玉川上水も下流は廃止。まったく水が流れないまま、ゴミ捨て場のような惨状になってしまった。それを清流復活事業で再びかつての面影を取り戻します。
 桜なども伐採されずに残り、古木が多い。整備されたおかげで、新しい草花も自然のままに。地元の方々も清流保護のために尽力しているようす。ゴミもほとんど見当たりません。
ただ散策路は流れに沿ってありますが、直接、水面に触れることのできるところは
小平監視所下の清流復活の碑があるところ一箇所なのが残念です。それもしかたないことですかね。
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ひさびさの青梅。冬の、清澄な空。

2011-12-10 23:04:48 | つかのまの旅人
 1年ぶりに所用で青梅まで。以前の時の、薄暗い曇り空とは異なり、そして昨日までの冷たい雨とは違って、冬の抜けるような青空。真冬並の寒さでしたが。
 それでも、青梅街道沿いに少しぶらぶらした程度。とんぼ返りで区内へ。
新宿~青梅~立川~分倍河原~桜上水~笹塚。けっこう乗りでのある旅でした。
街道筋に残る旧家の屋敷。重厚な趣のある建物でした。
江戸末期から明治初期の建物のようです。壁にも屋根にも、古い年月が。
新旧取り混ぜた街並み。
青梅街道。奥多摩方面に向かう。
赤塚不二夫に敬意を表して。「となりのレトロ」という喫茶店は今も健在でしょうか?
 そして、今夜は皆既月食。今、すっかり月が地球の影にかくれたところです。南側に薄く帯のようにたなびいていた雲もなくなりました。心なしか星がたくさん見えてきたような。オリオン座もはっきり。肉眼では、流星は見えません。
 布団にくるまりながら、寒さの中で窓を開けて眺めています。地球の姿がぼんやり写り、意外に立体的な感じに見えます。
 それにしても、高層マンションの部屋・部屋・部屋の明るい光。
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善福寺川。善福寺池。東京女子大。寒い日に。

2011-12-09 23:25:07 | つぶやき
 東京地方、寒い雨の日が続きます。1月下旬の頃の寒さとか。そんな寒い日。JR西荻窪駅で下車、善福寺川の上流を少しばかり歩く。善福寺川は神田上水に注ぐ川。その水源は、善福寺池。二つの池の上の池にその湧水の一つがあります。「遅の井」。今は泉が涸れてしまって、井戸を掘り、ポンプで汲み上げています。
 「遅野井」。善福寺池の湧水のひとつ。言い伝えによると、約800年前、源頼朝が奥州征伐に向かう途中、この地で飲料水を求めるために土を掘りました。折からの干ばつでなかなか水が出ず、自ら弓の「はず」で土を7箇所掘ると、しばらくしてその7箇所に水が湧き出たといわれています。水の出を「今や遅し」と待ったところから「遅野(の)井」と命名されたというわけです。池の名前は、池のほとりに昔あったと伝えられる古い廃寺「善福寺」に由来しているそうです。
 広々とした水面の上の池。紅葉がきれいで、野鳥もたくさん。都心に残された池を名ぐる自然公園という雰囲気でした。
 下の池から善福寺川は流れていきます。少しくらい寒くても、晴れた日にのんびりと川を下ってみたくなりました。
西荻窪駅から最も近い地点。コンクリートで固められていますが、水は澄んでいて水鳥も餌をついばみ、大きな真っ黒な鯉が泳ぎ、ささやかな草地には季節外れのアヤメ・の紫の花がここかしこに咲いています。
善福寺池からの落ち口。善福寺川の発端(コース案内では「遅野井」)。ここから川が始まります。
川の方から池をのぞむ。
湧水の一つ。東京女子大の裏手辺り。
意外と広々して開放的。紅葉がとても見事です。
水鳥もたくさん。中には白鷺(ゴイサギ?)の姿も。
「遅野井」。
燃えるような紅色。ただ携帯写真だと色が抜けてしまう。「この木上らば鬼女となるべし夕紅葉」でしたか。
東京女子大。女子大の名門。俗に「本女(ぽんじょ)」に対して「とんじょ」。
1910年スコットランドのエディンバラで開かれたキリスト教世界宣教大会における決議に基づいて、北米のプロテスタント諸教派による援助を受けて開設された。初代学長は新渡戸稲造。
 善福寺キャンパスは、1920-30年代にかけてアントニン・レーモンド設計の建築群によって構成され、正面の本館を含む計7棟の建造物は国の登録有形文化財に登録されている(現在も通常使用されている)。
 写真は、本館と東館。落ち着いた雰囲気の大学です。
 寒い曇り空も、帰りには冷たい雨に変わっていました。
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またしても発見

2011-12-08 22:28:37 | つぶやき
 今日の午後、中野サンプラザの前、バスロータリーにある横断歩道で発見。JR中野駅北口から出てすぐの横断歩道には、表面が薄れて形だけが白く残っているのも発見しました。さていったい?疑問はつのるばかりです。
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はたして、このシールは???

2011-12-07 21:10:24 | つぶやき
 最近、街を歩いていて気になるもの。ふと地面に視線を落とすと発見する、このシール。バンザイしてたり、あくびをしてたり・・・。同じような女の子。歩道のライン、黄色い線の上にぺたぺたとはってあります。果たして何?私が出かける、行く先々で見るので、何だか不思議です。
 いつ? 誰が? 何のために? どこに?
 写真のものは、1週間以上も前に発見した、我が家の近くのもの。
 何日か前にスカイツリーの近くでも見かけた、という情報もありました。
白線の上を点々と100㍍以上に続いています。
先週、三田の慶應大学の正門前を通った時に発見。バス停のところに、まとまって何枚か。
昨日の昼過ぎ、JR新宿駅南口・甲州街道の横断歩道を渡ったところに。数は少なかった。
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読書「この人から受け継ぐもの」(井上ひさし)岩波書店

2011-12-06 20:00:47 | 読書無限
 2010年4月に井上ひさしさんが亡くなった。もう1年半以上にもなる。この書で語られるものは、3人、いや4人・・・、もっと多くの、政治の、文学の、哲学の、そして劇作の先駆者達の姿、姿勢(生き様)についての井上流の読み解きです。
 自らが戯曲化することでより鮮明になったその人物像。成し遂げた(し残した)仕事、取り巻く時代状況など、多くの資料を駆使してのつかみ取った実態が語られていきます。
 吉野作造の憲法観、国家観。立憲君主制の下で、「立憲」を大きく掲げ、「君主」を小さくする、という「民本主義」(民主主義)の旗を掲げて、主張し、行動した。左右からも攻撃されながら、職を奪われながらも敢然と闘った姿に、今の政治情勢(民主主義の危うさ)のもとで、改めてその先駆性を捉え直すべきだ、と。弟(バリバリの官僚)との葛藤?等を織り交ぜた「兄おとうと」という戯曲を創作したことにもふれながら。
 宮沢賢治のユートピアについて。これも「イーハートーボの劇列車」という芝居をかいたときにつかんだ宮沢賢治の生涯(人となり)を今一度捉え直しながら、彼が意識的あるいは無意気的に残して行ったもの、受け継がなければならないものは何かを語りかけています。
 宮沢賢治のいうユートピア思想を井上さんは、時間のユートピアという概念で捉え直そうとしています。時を忘れて精神の解放を分かち合う重要性、人が集まってきて、「おまえも人か、俺も人だ」という確認からはじまる、そんな理想の時間を宮沢賢治はあこがれていたのではないか、と。それも、東京とか世界とかを視野に入れつつも、花巻という地に於いて・・・。宮沢賢治が躁鬱気質であった、という分析はしごく納得しましたが。
 日本人としては、もう一人。丸山真男。ここでは、戦争責任論というかなりシビアな問題を、すなわち東京裁判が昭和天皇を免責することを大前提にして行われたことの誤りについて言及していく。
 たんなる文献主義ではなくて、実証主義的に現代社会を成立させている民主主義機構の持つ危うさを鋭く指摘した丸山政治哲学から多くを学び取ったことを明らかにしている。
一番トップが責任を取らないため、二番目もとらなくて済み、三番目も、以下・・・。
このあたりの論理のおかしさ、まやかしは、「頭痛肩凝り樋口一葉」でその片鱗が具体的に戯曲化されていましたが。
 さらに、「強羅ホテル」でも描かれた敗戦直前の「日ソ会談」も取り上げられて、いかに日本のトップが世界情勢に疎いか、内向きでしかなかったか、記録をもとに痛烈に批判しています。
 この他に、「笑い」についてのエッセイも収録されています。特にチェーホフの生き様にふれながらチェーホフ劇の本質に迫っています。
 この本は、井上ひさしが亡くなった年の12月に発刊されたものなので、表題は編集者がつけたと思います。言い得て妙です。つまり、残された私たちは、いかに井上ひさしの思いを受け継いでいくのか、という問いかけにもなっているからです。大江健三郎にもそういう視点で書いているものがあります。 
 
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関東村跡地

2011-12-05 20:01:09 | 歴史・痕跡
 1965(昭和40)年10月10日「東京オリンピック」開幕。当時、代々木にあった米軍施設と住宅(通称ワシントンハイツ)は選手村(オリンピック終了後は、「代々木公園」として整備された)とするために、米軍関連施設は、府中基地周辺と調布飛行場周辺に移転されることになった。「関東村」とは、現・調布飛行場近辺地域に移転してきた米軍施設や住宅を総称して付けられた名称である。
 「調布飛行場」は、かつては旧帝国陸軍の「帝都防空部隊基地」。敗戦後に米軍に接収されたが、1972(昭和47)年に返還された後、民間航空会社の飛行基地(伊豆七島の一つ・新島へ行く便など)として使用されている。
 関東村は、その調布飛行場の北西側、西武多摩川線の多磨駅近くに位置していた。現在、広大だった敷地は、東京外語大学(北区から移転)、警察学校(中野区から移転)、「武蔵野森公園」などになっている。
 現在、一箇所のみ、当時の「関東村」が残されている。それは、東京外国語大学キャンパスに隣接した区画で、外語大に接する北側に細長く一区画、道路をはさんで一区画(こちらは大きい)。周囲はフェンスで覆われていて、敷地内に入ることはできない。
 かつては、この区画内には14棟ほどの建物があった、という。現在は再開発のための環境調査が行われている。区画内の建物はほとんどが取り壊されてしまっているようだ。
 仮に残っている廃屋があったとしても、いずれも敷地内の奥に位置しているため、その詳細を把握することは全くできない。フェンスの中は大きな樹木と雑草、ツタなどに覆われて自然のままのようす。
 フェンスの外から中を見ると、ツタに埋もれて何か建物があるようだが、肉眼では、守衛所みたいなものが二つ見えるのみ。ただ、関東村跡地内にあった消火栓。これだけは、ポツンと一つ残っている。
東南の角からのようす。一面、窪地状のところに雑草が密集している。
建造物があったと思われる敷地。奥にも建造物が。
フェンス際にあった建物の土台部分。一面、ツタが匍っている。
多磨駅寄りの通り沿いのフェンス。
消火栓。唯一はっきりと確認できる痕跡。
東京外語大のキャンパス。


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