おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その7。谷中湖(旧谷中村)展望台。思い出橋。わたらせ自然館。「板倉東洋大前」。田中正造・川俣事件。公害の原点。福島原発事故。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-20 21:18:22 | 歴史・痕跡

「←栃木県栃木市 群馬県板倉町→」。

  谷中湖(旧谷中村)展望台。

         △印は、2019.10.13.台風19号による洪水時水位。

強風に煽られながら、上がってみます。南西方向。

南東方向。

     北東方向。

                         遠くに「谷中湖北水門」。

   北西方向。

        再び「←群馬県板倉町 栃木県栃木市→」。

         この付近は、旧渡良瀬川流路に沿って県境が入り乱れています。

「谷中湖」と離れ、「思い出橋」から東武線「板倉東洋大前」駅に向かいます。

「思い出橋」。

            

振り返る。

           

「わたらせ自然館」。

渡良瀬遊水地のインフォメーションセンター。大谷石造りの米蔵を改築利用して、緑道に続く渡良瀬遊水地の入り口に開設しました。東京ドーム700倍の面積に660種以上の植物を抱える広大な渡良瀬遊水地には、年間8万人もの人々が訪れます。その遊水地を立体模型や植物のジオラマ展示などで紹介しています。

「板倉東洋大前」駅。

                           しゃれた駅舎。

※「谷中村」と田中正造に関して。

「日光千人同心街道」歩きのときの「川俣事件記念碑」、「田中正造終焉の地碑」などについて。

川俣事件記念碑」。

                     
碑 文
 川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
 明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
 1898(明治31)年9月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しっを決行した
 その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
 時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
 この後田中正造は足尾銅山鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
 1900(明治33)年2月13日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第4回目の東京押出しを決行した
 前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500余名の被害民は翌朝9時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手間同村川俣地区内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ち受けた300余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である 
 この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
 この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける 
 この地で川俣事件が発生してから100年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
 この史実を風化させないために ここに川俣事件発生100年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである。

「上宿橋」際に立つ記念碑。

正造終焉の家、佐野市指定史跡に           
 正造が息を引き取った佐野市下羽田町の庭田家が、「田中正造終焉の家」として佐野市の指定史跡に決定しました。
 正造が亡くなってちょうど100年となる9月4日付けで指定となりました。
 1913年、8月2日、河川調査から谷中村へ帰る途中、支援者だった庭田清四郎(現当主・庭田隆次さんの曽祖父)宅で病に倒れました。妻カツや木下尚江をはじめ、大勢から献身的な介抱を受けましたが、同年9月4日、同家の8畳間で亡くなりました。
                           
 『田中正造終焉の家』 佐野市下羽田町19-2
   ※ 個人宅のため、見学は要連絡(0283-23-1439)
   お問い合わせ 佐野市生涯学習課 文化財保護係 0283-61-1174
(注:2013年の記事)

田中正造翁終焉の地」碑。
 真の文明ハ(は)山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべし
 田中正造翁は運動の途中倒れ、1913(大正2)年9月4日栃木県佐野市下羽田(旧足利郡吾妻村)の庭田清四郎家で満71才の生涯を閉じた。翁は、近代日本の公害の原点・足銅山鉱毒事件」で苦しんだ被害民の救済・人権回復に半生を捧げた。
 明治政府は、被害地人民の生命と生活をかえりみず最後は谷中村を廃村にし、残留した被害民の家屋まで強制破壊した。
 翁は「亡国日本」を救う運動の中でつちかった「人権・自治・環境・自然との共生・憲法政治の確立・平和・軍備全廃」思想を百年前に主張している。翁こそ、環境人権破壊に抗する人びとの味方として永遠に記憶に留められる人物である。
 庭田家ではその後、現当主隆次氏まで4代にわたって、田中翁が病臥し死去した部屋をそのまま保存し訪れる人びとに翁の思想と行動を伝え続けている。
 庭田家の近くの雲龍寺(群馬県館林市下早川田)は鉱毒被害民運動の拠点だった。当時の住職黒崎禅翁師も被害民と共に闘い川俣事件で逮捕された。
 雲龍寺には翁の分骨地墓と「救現堂」「足尾鉱毒事件被告之碑」がある。
 庭田邸と雲龍寺には「田中正造翁終焉の地」として、「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という翁の戒めを私たちに常に発信し続けている歴史的精神的遺産である。

 2017年8月吉日 記念碑建立実行委員会                    

「足尾鉱毒事件」で生涯を捧げた田中正造の墓がある雲龍寺。
 
「足尾鉱毒事件対策事務所」が置かれていた寺でもあります。

   
 ・・・この墓は田中正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3m「あり、首部の細い特徴のある宝塔です。・・・墓の右手に建つ「救現堂」には正造が祀られています。「教現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。
 日本の近代史の一編を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。


            鉱毒にいのちのかぎり 田中正造」 

大正二年九月四日 享年七十三才 田中正造翁終焉の地」。

正造の歌「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に地を流すとも」。
 
田中 正造
 天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)。
 日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。
 生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。
 父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
 明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚している。
 1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
 1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕される。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で、議長に当選する。
 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
 1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
 1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
 1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
 1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
 12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っている。
 1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。
 1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。
 1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
 1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。
 1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
 土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。
 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
 雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。
 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。
 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、現在でもその跡を残している。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年(平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた今上天皇へと伝えられることとなった。未遂から実に112年後のことであった。

正造の墓の所在地
佐野町(現・佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺
渡瀬村(現・館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、鉱毒対策事務所が置かれていた寺でもある。
旗川村(現・佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺
藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
利島村(現・加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校。加須市麦倉所在)。
久野村(現・足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。

(以上、「Wikipedia」参照。)

広大な谷中湖。サイクリングロード、散策路、釣り、水上スポーツ、老若、多くの人々の一位との憩いの場として親しめる存在となっています。その北西部に湖をハート形にしてまで残された谷中村史跡・・・。

「足尾銅山鉱毒事件」・「谷中村廃村」は、けっして120年以上昔の公害問題だ、と済ませるわけにはできません。

「チッソ水俣工場」により引き起こされた「水俣病被害者救済問題」は70年以上経った今も解決していません。

そして、何よりも12年前に起きた「福島第一原発事故」。

大量の放射線放出により、長年住み慣れた土地、家を捨て、故郷を離れざるをえなくなった多くの住民。いまだに帰村することができない地域も存在しています。政府が先導する帰還事業もほとんど進んでいません。

また、多くの漁民の反対の声を踏みにじり、「汚染処理水」海洋放出を強制的に実施しています。・・・

「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という田中正造の戒めを私たちも常に心に留め、発信し続けていく重要性を感じます。  

「わたらせ渓谷鐵道」に乗ってから気になった、「足尾銅山」廃山後の地元、さらに、渡良瀬貯水池・谷中村巡りを終了します。   

関東エリアのローカル鉄道の旅。次回は、「富士山麓電気鉄道富士急行線(大月~富士山~河口湖)」。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その6。谷中村の変遷・屋敷跡・水塚。体験活動センターわたらせ。ウインドサーフィン。県境。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-19 20:13:48 | 歴史・痕跡

解説板。

              

拡大してより詳しく、

洪水から住居を守るため施した当時の盛土や水塚(みづか・みつか)の跡が点在し、昔の面影を残しています。

・・・昭和47年(1972)、谷中村の中心部にあった役場などを残すよう関係者が話し合いました。昭和51年、役場、雷電神社、延命院などを残すことで貯水池建設工事が始まり、平成2年(1990)に現在のハート形の谷中湖が完成しました。この渡良瀬遊水池は、谷中村廃村や周辺地域の大きな犠牲の下にあることを忘れてはなりません。

栃木市 看板管理(谷中村の遺跡を守る会)

※谷中湖がハート形になっているのには上記のような経緯があったわけです。

             「谷中村の移り変わり」。

《左》渡良瀬遊水池からみた谷中村      《右》史跡保全ゾーン周辺図

はるか遠くに筑波山。

      屋敷と背後に田畑が広がっていたようす。

盛土(「水塚」)。

その上にかつての屋敷跡。小さな祠が残されています。

                

湖の方へ戻ります。

            

         「体験活動 センターわたらせ」。

「体験活動センターわたらせ」では、渡良瀬遊水地の利活用及び湿地環境等に関する情報提供、資料の公開、展示や渡良瀬遊水地の環境を生かした体験・環境学習などの支援を行っています。

谷中湖。

湖面にウインドサーファーの姿が。

       

           強風の下、けっこうスピードがあります。

             

右手には「子供広場ゾーン」。

「水辺ゾーン」。

                

    

                 「←群馬県板倉町 栃木県栃木市→」。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その5。雷電橋。ススキ。自然のふれあい それゆけ藤岡島。谷中村史跡ゾーン。屋敷跡碑。イノシシ親子に遭遇。村役場跡。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-19 09:36:55 | 歴史・痕跡

雷電神社の先は、整地され、一面、広々としたところに。

散策路があるようですが。

雷電橋。

       

             

この一帯には、家屋や田畑、屋敷林などもあり、人々の暮らしがありました。今は、すっかりアシなどの原に。

木々が生い茂る小道。

至る所に「イノシシ出没注意」の看板があります。年寄りにはちょっと・・・、引き返すことに。

    

墓地のところまで戻ります。

                              ススキ。

湖沿いの道を再び歩きます。

                         湖面に浮島が見えます。

                 渡良瀬遊水池エコプロジェクト。

みんなでつくった谷中湖の鳥・魚のヒミツ基地 自然のふれあい それゆけ藤岡島

湖面に浮かぶ浮島は、1999年6月17日(木)、藤岡町立藤岡小学校の5年生64名が植物の苗を植栽し製作したもので、製作に参加した児童によって命名されました。

芝生の広場に出ます。

              右手奥一帯が、「谷中村史跡ゾーン」。

屋敷跡の杭が設置されています。

落合雄吉屋敷跡。

       橋を渡り、向う側に行こうとしましたが、

イノシシの親子が対岸に。

               しきりに食べ物を探しているようです。木の実でもあるのか。

しばらく眺めていると、

  走って左奥の藪の中に消えていきました。途中、じゃれあったりして、まさに自然体です。

イノシシたちが消えていく後ろをゆっくり進みます。

         

村役場跡(休憩所)。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その4。一面ヨシの原。旧谷中村の歴史。延命院共同墓地。雷電神社跡。ヒガンバナ。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-18 09:47:49 | 歴史・痕跡

一面ヨシの原。

             

谷中湖。

小高い丘、森が点在。

                       旧谷中村の一部があった付近。

         

湖面一帯にも集落がありました。

谷中村の歴史

渡良瀬川巴波川思川の合流地点付近にあった。村の北は赤麻村で、間には赤麻沼・赤渋沼・石川沼・前原沼があった。西は旧上野国群馬県)海老瀬地区で、大正7年(1918年)に藤岡台地を開削・通水する以前は、渡良瀬川が「七曲がり」と呼ばれ屈曲して境を流れていた。これは現在も栃木・群馬県境の形として引き継がれている。

室町時代からこの地は肥沃な農地として知られていた。江戸時代には主に古河藩が開拓を行った。当時から洪水が頻発していたため、古河藩はこの地の年貢を大幅に減免する措置をとった。しかし、洪水がない年の収穫は非常に大きく、1年収穫があれば7年は食べられるとも言われたほどだったという。

1888年に全国で市町村制度改定があり、内野、恵下野、下宮の3村が合併して谷中村が成立。

主な産業は稲作を中心とする農業で、レンガ工場もあった。赤麻沼などで漁業も行われていた。詳しい記録は残っていないが、元村民の島田宗三によれば面積13平方キロメートル、人口2700人、戸数450戸。

足尾鉱毒事件

明治中期以降は、渡良瀬川が氾濫するたびに板倉町などとともに足尾鉱毒の被害を受けるようになり、以後、鉱毒反対運動の中心地となる。

1902年(明治35)、政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てる。しかし、予定地の埼玉県北埼玉郡川辺村利島村(現在の加須市北川辺地区)は反対が強く、翌年には予定地が谷中村に変更になる。

1903年1月16日、栃木県会に提案されていた谷中村遊水池化案が廃案となる。この時点で谷中村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年7月30日から実質的に谷中村に移住した。

1904年、栃木県は堤防工事を名目に渡良瀬川の堤防を破壊。以後、谷中村は雨のたびに洪水となった。同年12月10日、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。このとき、谷中村遺跡を守る会によれば、人口2500人、戸数387戸。面積1000町歩。

鉱毒により作物が育たなくなった時点での価格が基準とされたため、買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円と、近隣町村に比べ非常に安かった(約5分の1といわれる)。

末期には鉱毒で免租となったために多くの村民が選挙権を失い、村長のなり手がなくなった。このため、最後の村長は下都賀郡の書記官である鈴木豊三が管掌村長という形で兼任した。鈴木は税金の未納などを理由に村民らの土地を差し押さえるなど、廃村に協力した。

栃木県は1906年3月、4月17日までに立ち退くよう、村民らに命じた。3月31日、村に3つあった小学校のうち2つが、谷中村会の議決を経ることなく強制的に廃校になった(残りの1つは藤岡町立となり、1913年3月末まで存続)。4月15日、谷中村会は藤岡町への編入合併案を否決。5月11日、栃木県は7月1日をもって谷中村を藤岡町に編入すると発表。7月1日、管掌村長の鈴木は、栃木県に、谷中村は藤岡町に編入したと報告。谷中村は強制廃村となる。この時点での人口は島田の推計で1000人、戸数140戸。しかし、一部の村民は村に住み続けた。

1907年1月、政府は土地収用法の適用を発表。村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出た。多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)などの親類宅に身を寄せた。この年、島田による推計で村の人口400人、戸数70戸。最後まで立ち退かなかった村民宅は6月29日から7月2日にかけ、強制執行により破壊された。破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)。しかしこの16戸(田中正造も含む)はその後も村に住み続けた(のちに1戸減)。

1908年7月21日、政府は谷中村全域を河川地域に指定。

1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始。この地は現在の常呂郡佐呂間町栃木である。しかし、移住民のほとんどが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。

1912年、買収額を不当とする裁判の判決が出る。買収額は増やされたが村民らは不満として控訴。1919年には買収額を5割増しとする判決が出たが、村民達には既に裁判を続ける気力が残っておらず、そのまま確定した。

1914年、残留村民らが田中正造の霊を祀る田中霊祀を建設したところ、河川法違反で連行され、裁判で罰金刑を受けた。なお同様の裁判はこれ以前にも数例ある。いずれも、仮小屋に住んでいた元村民が小屋の修理をした際に河川法違反に問われたものである。

1917年(大正6)2月25日ごろ、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。

2022年10月31日現在、旧谷中村の大字に当たる栃木市藤岡町下宮と同市藤岡町内野に若干名が住み、かつての藤岡町恵下野は無住となっている。栃木市藤岡地域内に旧谷中村合同慰霊碑が、渡良瀬遊水地内に谷中村役場跡・雷電神社跡などの遺構があり、見学することが可能である。

《村民の主な移転先》

大字ごとに傾向が分かれ、下宮からは茨城県古河市、内野からは藤岡町、恵下野からは野木町への移転数が最多であった。全体での移転先は多い順に下記の通り。

(この項、「Wikipedia」より)

※以下「下野新聞」《アカガネのこえ ―足尾銅山閉山50年》より

志鳥谷中-。那須烏山市志鳥の山あいの地も移住先の一つだ。「山で地力がないから、いい作物は採れなかった」。子孫の亀田東一(かめだとういち)さん(82)は、苦労を重ねた先祖に思いをはせる。

 志鳥がある下江川村(現那須烏山市)へは県のあっせんで18戸が入植した。谷中村が強制廃村となる前年の05(明治38)年。亀田さんの曽祖父の時代だった。

 農閑期は村の経験を生かして菅笠(すげがさ)作りで生計を立てた。その後のタバコと養蚕は一時期、この地を一大産地にした。痩せ地の原野は変貌した。

 亀田さんは打ち明ける。「昔は『谷中』を口にしなかった。かつて、ばかにされるように使われた言葉だから」。年を重ね、そんな意識は自然と消えた。

 現在の志鳥谷中は田畑が連なる中、民家が点在する。

・・・

ヨシ原の奥にお墓がいくつか見えます。

小道をたどって近づきます。

                 

点在するお墓。

   雷電神社跡

雷電神社は、雷除け、雹除け、厄除け、豊作祈願などの神様です。谷中村周辺一帯は、農作業中の落雷事故を避けようと、雷電信仰が盛んでした。谷中村へ移住した田中正造が、村を守るために尽力した村民を慰め激励した場所でありました。亡くなる直前には、谷中村に帰り、この神社にて病気の治療を望んだと言われるほど雷電神社を敬愛していました。・・・この雷電神社は、谷中村廃村後も、田中正造と谷中村廃村に反対する人々が,村に残り続けたため長く残りました。建物がなくなったあとも盛り土や水塚の跡により当時を偲ぶことができます。この雷電神社跡は、谷中村の存在を後世に伝える歴史的に貴重な場所と言えます。 

 延命院跡・鎮魂の鐘。

延命院共同墓地

延命院は、その敷地から大きな寺院だったことが推察されています。延命院共同墓地は、谷中村廃村後も谷中村の人々に使われ続け、特に残留民には、雷電神社戸共に、心の拠り所となりました。谷中村が廃村になってからも、多くの墓石や供養塔が残りました。点在した石造物の大部分は、渡良瀬遊水池周囲堤の外側の旧谷中村合同慰霊碑へ移転しています。しかし、関係者の要望により、延命院の周囲には供養塔や僧侶の墓塔である無縫塔、そして村民の少数の墓石が残りました。昭和61年(1986)、埼玉県幸手市の消防署施設から延命院の半鐘が発見されました。・・・

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その3。「西橋」・「東橋」。イノシシ出没注意・うり坊。越流堤。東谷中橋(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-17 09:35:58 | 歴史・痕跡

「谷中湖」を横断する中央橋を歩きます。

「西橋」。日光連山。

「渡良瀬貯水池」。

               左右に水面が広がります。

橋の方向を振り返る。

                   中央奥は、「谷田川第一排水機場」。

快晴ですが、強風にあおれる。樹木もこんなようす。

「中の島」。そのまま東に進みます。

  「イノシシ出没注意」の看板。

・近づかない ・刺激しない ・出会ったら静かに離れましょう ・うり坊の側には親が必ずいます

イノシシの子ども時代をうり坊と呼びます。たまらなく愛嬌があり可愛らしい姿なので、キャラクターなどでも使用されることがありますし、ぬいぐるみでもよく見かけますよね。

地方、地域などによっては、うり坊のことを「うりっこ」「うりんこ」などとも呼んでいます。いずれの呼び方もかわいらしい響きです。

「うり坊」と「イノシシ」、同じ動物なのに全く呼び名が違うのは不思議ですよね。イノシシの子どもは、なぜ「うり坊」と呼ばれるのでしょうか?

その理由は、うり坊の体の縞(しま)模様にあります。縞々模様が「縞瓜」によく似ていることから、「うり坊」と呼ばれるようになりました。うり坊を上からみたときの体型も、瓜を連想させます。

この縞々は、外的から身を守るための保護色。イノシシの子どもが生まれる春頃、森の木洩れ日の下で背景に溶け込みやすい柄です。大人になると模様は完全に消え、全身くすんだ黒や茶色の毛になります。

野生下だと子どものころは敵が多く、一度に3~5頭ほど生まれても1年生き残ることができるのはその半分ほどといわれています。

うり坊と呼ばれる期間は、だいたい生まれてから4カ月ほど。授乳期が終わるころには、可愛いうり坊も大人のイノシシの姿になります。

半年もたつと模様が消え、見た目は立派なイノシシです。しかし、完全に大人というわけではなく、子どもが作れるようになるまでには1年半ほど、完全に成獣になるまでには5年ほどかかります。

ちなみに、うり坊時代の体重は、ほぼ子犬と同じぐらい。だいたい5kg前後ですが、イノシシになると、70kg以上にまで成長します。個体によっては100kgを超えることもあるのだとか。大きな体ですが、走ったりジャンプしたりするのも得意と意外と身軽です。

とても可愛らしい姿のうり坊ですが、大きくなると迫力ある姿に成長します。あの姿は、小さな間の数カ月間しかみることのできないからこそ、より愛おしく感じるのかもしれませんね。

(この項、「Chiik!」HPより)

※この後、旧谷中村跡で出くわします。

      

「東橋」。

         日光連山。 

遠くに見えるのは赤城山。 

          

右手の湖面(南ブロック)。

     対岸は「越流堤」。

            洪水時には越流堤より調節池内へ水が流れ込み下流に流れる水の量を減らす。 

来た道を振り返る。

東端の案内図。湖の中央を西から東に渡ったわけです。 

「東谷中橋」付近。  

一面、ヨシの原。

                右手奥に現在の渡良瀬川が流れている。  

この先、谷中湖の東側に沿って、北上します。        

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その2。下宮橋・板倉川。渡良瀬遊水池付近の今昔、目的・足尾銅山鉱毒対策。谷中湖・旧谷中村。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-15 15:27:55 | 歴史・痕跡

「下宮橋グラウンド」。

「旧谷中村・谷中湖 (渡良瀬貯水池)」案内板。湖のハート型になっています。

この付近の今昔(「歴史的農業環境閲覧システム」」より)

                            現在のようす。県境(破線)はかつての渡良瀬川の流路。

                            1880年代のようす。かつての渡良瀬川は激しく蛇行する。                            

「下宮橋」。板倉川に架かる。

     

                 

橋を渡り、土手に上がると、眼前に大きな「谷中湖」が。

                            「道と川百選 渡良瀬遊水池」。

遠くに筑波山。

             

                            男体山など日光連山。

谷中湖は、洪水調節・水道用水の安定供給等を目的に第1調節池内に建設された貯水池の通称です。
その規模は、面積約4.5平方キロメートル、総貯水容量2,640万立方メートルで、平成2年度よりダムとしての利用を開始しました。
また、周辺を含めた広大な空間は、スポーツやレクリエーションの場として親しまれており、現在までに約百万人の人々が訪れています。

(この項、「」HPより)

※「谷中湖」は、渡良瀬遊水池の中で、唯一、常時水を貯めている。湖の北東部は、葦が生い茂る遊水池などになっている。

台風・豪雨で大量に水量が増えると、一帯が水没します。

中央の「谷中湖」だけでなく、北東、下流一帯が水没している。

             

八ッ場ダムより水を貯めた渡良瀬遊水地の誕生秘話

 2019年は29個の台風が発生し、このうち5個が日本に上陸した。特に台風19号は、列島に甚大な被害をもたらした。国土交通省によると、豪雨で川の堤防が壊れる「決壊」は7県、71河川、140か所で発生。川の水が堤防を越える「越水」は16都県の延べ285河川で発生した。

 SNSなどでは「八ツ場ダムが首都圏を救った」という情報が拡散されたが、その貯水量は7500万立方メートル。

 だが、それ以上に水を貯めたのが渡良瀬遊水地だった。渡良瀬遊水地の貯水容量は東京ドーム140杯分に当たる約1億7000万立方メートル。今回の台風では過去最大となる約1億6000万立方メートルをため込んだ。

 日本最大の遊水池の面積は3300ヘクタール。東京都内を走る山の手線内の南半分(中央線以南)の面積にも匹敵する。・・・

(この項、「橋本淳司水 ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表2019/12/30(月) 12:00」より一部引用。

足尾銅山鉱毒事件

日本の公害の原点。古河市兵衛経営の足尾銅山から流出した重金属を含む鉱滓や酸性廃水によって,渡良瀬(わたらせ)川の中・下流,利根川下流域の10万ヘクタールに及ぶ農地が鉱毒被害をうけた。被害農民は田中正造とともに明治政府に対して足尾銅山の操業停止を訴え,東京へ押し出し(大挙請願運動)を行うなど,強力な鉱毒反対運動を展開,大きな社会問題となった。政府は刑事弾圧を加える一方(川俣事件),日露戦争中に鉱毒問題を治水問題にすりかえて運動を分断し,1907年(明治40)遊水池設置のため谷中(やなか)村民の家屋を強制破壊した。今も足尾には,約2000ヘクタールの禿げ山,旧谷中村(現,栃木市)周辺に3000ヘクタールもの湿地帯が広がり,鉱毒事件の生き証人となっている。

(「山川日本史辞典 改訂新版」より)

※「田中正造」、「川俣事件」は、後述します。

・・・足尾鉱毒事件の発生当時は、鉱毒対策が目的で設けられたのではなく、洪水防止が目的とされたが、1903年の大日本帝国政府の第二次鉱毒調査委員会が、足尾銅山の渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されており、鉱毒対策目的であることは明白であった。

法令上は、国土交通省が管轄する河川の内部になっている。足尾鉱毒事件から100年以上経って鉱毒は減少し、主に治水と利水のための地域になっている。ただし、減少したのは上流から新たに流れてくる鉱毒の量であって、遊水地の土壌には2020年現在も銅などの重金属が多く含まれている。

面積は約3300haで羽田空港の2倍以上の広さがある。ゴルフ場が造成されている場所があったり、ごく一部に旧建設省の許可を得て圃場が行われた場所があったりするが、建物はなく、若干の道路と橋のみがある。

内部に第1調節池、第2調節池、第3調節池がある。渡良瀬川の西側が第1調節池である。第2調節池は巴波川の東で、第3調節池は渡良瀬川と巴波川の北側である。第1調節池はかつてお化け沼と呼ばれ、釣り人に親しまれたが、その後の造成により南側の一部がコンクリート張りの谷中湖になった。谷中湖を除く第1調節池の大部分と、第2・第3調節池は、増水時のみ貯水する構造で、平時から池としての実態があるのは、谷中湖のみである。

(この項、「Wikipedia」より)

この付近の今昔。

   

     谷中村は廃村になり、住宅や田畑は、すべて遊水池となった。(「今昔マップ」より)                            

※1 人の住まなくなった旧谷中村の跡地に土砂が堆積して葦(ヨシ)が自生するようになり、現在では遊水地の総面積の約半分(1,500ha)にヨシ原が広がっている。ヨシは、ヨシズなどの地場産業に利用されてきた。冬の間にヨシを刈り取ったのち、3月下旬に「ヨシ焼き」が行われる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

※2「ヨシ焼き」は、去年(2022年)3月5日。江戸川歩きの初日に黒煙を目撃しました。

利根川と江戸川の分岐点から。

午前8時半、遊水地の各所で一斉に火入れ。土手に並んだ見学者は、ヨシが春風にあおられ燃え上がる様子を写真に収めていた。 同会は「例年より早く燃えた。ドローンも使い、鎮火確認もスムーズにできた」とした。

       

(この項、「下野新聞チャンネル」HP。映像は「YouTube」より))

                         ※栃木市内でもそのときの灰が降ってきたようです。

※3 旧谷中村の中心部は、「谷中村史跡保全ゾーン」として、水塚(みづか・みつか)や史跡(役場跡・雷電神社跡・延命院跡・谷中墓地等)が保全されている。          

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その1。東武日光線「柳生駅」下車。特急スペーシアX。「群馬・栃木・埼玉三県境」。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-14 20:01:45 | 歴史・痕跡

東武日光線「柳生駅」。

当駅所在地の地名から命名されています。
穀倉地帯であるこの地域は、渡良瀬川をはじめ谷田川、合の川等多くの川が流れており、川の氾濫でたびたび水害を引き起こしていました。
そこで地域住民は水害対策の一環として、堤に根張りの良いといわれる柳の木をたくさん植えて、水害から守ったそうです。
そんなところから「柳生」という地名が生まれました。

足尾鉱毒によって全村が廃村になった「谷中村」跡を訪ねました。広大な渡良瀬遊水池になっています。

10月6日(金)快晴・強風。

 

たわわに実るクリの木。

田舎からゆで栗をたくさん貰い、一家で美味しく食べたばかりです。

                     

踏切で待っていると、「特急スペーシアX」が通過。

孫がもう乗りたがって乗りたがって、近々一緒に出かける予定です。                               最新型の特急。

        

渡良瀬遊水池に行く前に「三県境」地点へ。

柳生駅から歩いてわずかなところに位置します。向かって左が埼玉県、正面が群馬県、手前が栃木県。

三県境は栃木県栃木市・群馬県板倉町・埼玉県加須市(北川辺地域)にまたがり、道の駅きたかわべの南東方向約500メートルの水田にある行政界です。

三県境は以前、渡良瀬川の中に位置していましたが、明治時代から大正時代にかけての渡良瀬川の改修工事により、現在の河道に変わり、現在の水路の位置となりました。平成28年1月から3月にかけて、2市1町(栃木市・板倉町・加須市)を代表して栃木市により、測量が実施されました。その結果、三方向からの水路の交点から、以前、入れられたと思われるコンクリート製の杭が見つかり、その点が三県境と確認されました。

「歴史的農業環境閲覧システム」によれば、

現在のようす。

              〇が「三県境」。

1880年代のようす。

        渡良瀬川の中に三県境が存在。

中央の標柱。                                  

群馬県(旧上野国)側。 

埼玉県(旧武蔵国)側。 

栃木県(旧下野国)側。  

「三県境」遠景。

渡良瀬遊水池へ向かいます。

土手から振り返る。        

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「博物館 網走監獄」その2。(網走行。その2)

2019-11-13 22:29:46 | 歴史・痕跡
                             現在の網走刑務所全景。(「Wikipedia」より)

 「博物館 網走監獄」は、元々の「網走監獄(刑務所)」があった位置ではありません。
 1973年(昭和48年)に網走刑務所の改築計画が公表され、貴重な建築物が失われることを憂慮した網走新聞社(現在は廃刊)社主の佐藤久が、刑務所建築物の移築保存=「刑務所施設の博物館構想」を提唱しました。これに網走市、北海道、法務省などの関係機関も協力し財団法人を設立することになります。建物の移築や復原のために9億円の資金を財団が借り入れるため、佐藤は借入金の個人保証をするなどの努力があり、金融機関も資金を貸し付けることで実現しました。今では全国にある博物館の中でも、「網走監獄」は、多くの訪問客を集めています。

1980年(昭和55年):財団法人設立認可。 1983年(昭和58年):開館。

 

哨舎」。登録有形文化財。

味噌・醤油蔵」。

 
                              「休泊所」。
 明治5年の監獄則で罪囚のまくらは丸太を半分にした「半円木」を定められたが外役所や休泊所では手間を省いて一本の丸太のまま使われたこともあったといわれている。この方法はのちの「たこ部屋」にも使われて朝になると丸太の一端をたたいて一斉に起こしたといわれている。

 道路の突貫工事の進行に伴って、1,200人の受刑者が、休泊所を解体したり建てたりを繰り返しながら、前進しました。別名、「動く監獄」と呼ばれていたようです。

二見ヶ岡農場」遠景。重要文化財。
 ここは自給自足を目指し、受刑者自身の自立を促す開放的処遇施設という重要な役割を担っていました。馬鈴薯等の作物の管理から収穫まで受刑者が行っていました。建物は、庁舎、舎房、教誨堂、教誨堂、食堂、浴場等が渡り廊下でつながっています。
 遠方に「高見張り」。

 網走刑務所二見ヶ岡農場は、明治20年(1887年)に設置され、刑務所農場としては日本一広い土地を有効に活用しながら、受刑者に働く喜びを体験させ、健全な心身を作ることをも目標として、寒冷地農業に取り組んでいます。・・・

 この施設は移築されたもので、現在も「刑務所農場」が別のところに存在しています。
 約359ヘクタールの敷地内で全国唯一の和牛肥育のほかタマネギや小豆、ジャガイモなどの野菜、牧草の栽培をしています。95頭の黒毛和牛を育て、出荷する4割が最高のA5ランク。一部は「網走監獄和牛」のブランド名で市場に出回っています。
           

網走刑務所の開放農場公開 法務省「信頼関係が必要」(産経ニュース 2018.6.11 21:16)より
 法務省は11日、塀のない開放的矯正施設の網走刑務所二見ケ岡農場(北海道網走市)を報道陣に公開した。同じ開放的施設の松山刑務所大井造船作業場(愛媛県今治市)で4月に脱走事件があり、受刑者の心情把握徹底などを図るとしている。
 農場は1896年、網走刑務所から約6キロ離れた網走湖畔に開設された。面積は東京ドーム約75個分の359ヘクタールで、当初から農場の周囲には逃走防止用の塀は設置していない。網走刑務所で1~2年服役し、生活態度の良さや就労意欲を認められた受刑者が農場内の寮で共同生活し、牛の世話などに従事する。
 この日は寮と食堂、牛舎などを公開。現在は刑務所の受刑者約740人のうち20人が暮らしており、目覚まし時計やCDプレーヤーを購入できるなど優遇されている。農場に移った受刑者の多くは半年から1年程度で仮出所するという。

五翼放射状平屋舎房」。重要文化財。

                   中央見張り所」。重要文化財。
 1912年(明治45年)から実際に1984年(昭和59年)9月まで使用されていました。刑務所の施設としては 日本最古。木造の刑務所としては 世界最古と言われています。
   (「博物館 網走監獄」HPより) 

  

浴場」。

                         
脱衣に3分、第1槽入浴3分、洗身3分、あがり湯の第2槽入浴3分、着衣に3分と、入浴時間は合計で15分間。これは現在も同じ15分のようです。

煉瓦造り独居房」。登録有形文化財。
 明治時代、監獄内の規則を守らない者には食事の量を減らし、一定の監禁生活させる罰がありました。窓のない真っ暗な、この独居房での生活は受刑者にとって大変つらい生活でした。
 この煉瓦造り独居房は、明治末期に造られ、平成3年3月に博物館網走監獄に移設しました。

             教誨堂」。重要文化財。
 囚人達に精神的、倫理的、宗教的な指導を行うための施設。寺院を思わせる外観とは対照的に内部は柱のない広い空間になっています。

釧路監獄署網走囚徒外役所正門(再現)」。
 網走刑務所は、明治23年3月、釧路監獄署の外役所として設置されました。
北海道中央道路の開削工事にあたり、道東から工事を始めるため、釧路監獄署から網走に囚徒1200名を移動させ外役所を開設しました。
 外役所施設を囲む塀は、この木塀でしたが、木塀では脱走や外部からの侵入を防ぐことが難しいので、時代とともに、社会を遮断する威厳のある煉瓦正門へと変化していったのです。

ぐるっと一巡して館外へ。

 この時期に訪れてもけっこう肌寒いのに、厳寒期はさぞかし過酷な自然のもとでの生活環境であったことが想像できます。
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「博物館 網走監獄」その1。(網走行。その1)。

2019-11-12 20:26:41 | 歴史・痕跡
 7日~9日。所用のため、網走まで初めて出かけました。東京は、20℃ほど、網走は7℃ほど。寒いから冬の格好で、と言われ、ダウンのコートを携えて。
 三日間とも雪雲は時々通りすぎましたが、日中は、おおむね晴れ。特に、8日は快晴。しかし、夜になると、雨が雪に変わってちらつきます。翌日、周囲は、うっすらと霜が降りたよう。道路は凍っています。
 同行の方がかつて網走で仕事をしていた方で、レンタカーで三日間。市内の様子も、運転も慣れているようで、安心して同乗。

 初日。羽田を飛び立ち、午後1時前に「女満別空港」に到着。足下がひんやりして、寒さを実感。さあ、出発です。
 「網走に来たら、ぜひここは見学した方が」ということで、「網走監獄」へ向かいました。 

「鏡橋」。左手に「監獄食堂」。

                     
 網走刑務所の囚人は皆、収容される時も出所の時も、刑務所の外堀に沿って流れる網走川に架かる橋を必ず渡らなければなりません。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をぬぐいおとす目的で岸に渡るように」と、誰とはなしに鏡橋と呼ばれるようになりました。
 網走刑務所鏡橋は現在までに、4回に亘り架け替えが行われておりますが、この鏡橋は京都五条の大橋に付けられている擬宝珠を模倣し作られた網走刑務所二代目鏡橋の面影を残し、再現しています。

 昼食は、「監獄食堂」で網走刑務所の受刑者が昼食として食べている「監獄食」を。ご飯(米7割・麦3割)、味噌汁、焼き魚(ホッケ)、副菜のセット定食。
   

 ところで「ムショ帰り」などと言いますが、この「ムショ」の語源は?
 「刑務所」の略ではないそうです。
 江戸時代には牢屋のことを「虫寄場(むしよせば)」と呼ばれていました(牢屋が虫カゴのような形をしていたから)。そこから来た。
 また、食事の麦と米の割合が6対4であったから「六四(むし)」とも。この方が、何か言い当てているようですが。

 正直なところ、刑務所の施設を見て回っても、と思いましたが、1時間以上ぐるりと見学。

「入場ゲート」。奥が「正門」(煉瓦造り)。
 明治24年に始まった中央道路開削工事などの、外役労働が終わり、網走刑務所が自給自足による農業監獄を目指して本格的な開墾が始められました。
 明治29年には、現刑務所から西方6㎞の二見ヶ岡に外役所が設けられて、やがて日本一の広大な(16,181,266m)刑務所農場がつくられました。
 この門は、博物館に移築復元されている二見ヶ岡農場の正門を再現し、博物館網走監獄の入場ゲートとしたものです。

                「映画『網走番外地』撮影地の碑」。
「映画監督・石井輝男の作品「網走番外地」のシリーズは、網走刑務所を舞台に作られた。石井監督の墓は、網走市内潮見霊園にある。」

 高倉健が主演した『網走番外地』は、1960年代の世相を反映して大ヒットし、『続網走番外地』『網走番外地 望郷篇』などシリーズ化されて、石井監督で10本、降旗康男監督らの『新網走番外地』シリーズで9本の人気作品となりました。
 このように、高倉健さん主演の映画「網走番外地」シリーズが人気となったことで、「網走刑務所」の名は全国レベルでの観光名所となっています。しかし、小生はこの映画を1本も観たことがありません。

「正門」。

「正門」裏から「教誨堂」を望む。


 

            「庁舎」。
                 囚人が切り開いた北海道開拓の歴史と施設内の見所を展示したコーナーあり。

 庁舎の展示物、解説やパンフレットを見て、まったくの誤解と知識の無さに気づかされました。

 1868年(明治元年)約260年余り続いた徳川幕府が終わりを告げて、天皇を中心とする明治政府が誕生しました。明治政府は、徳川幕府の鎖国政策によって世界の変化から取り残された日本の近代化を推し進めるため、すなわち古いシステムや制度を壊して新しい政治を行う中央集権化を始めました。
 しかし、明治天皇はこの時、16歳という年齢で、新しい政治で手腕を発揮するには幼すぎたので実際には江戸幕府を倒すために功績があった薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らが中心となって政治を行いました。
 まず真っ先に行ったことは、武士による政治は終わったと宣言する王政復古の大号令でした。新政府にとって、徳川家を中心とする幕府の生き残りは大きな脅威でした。
 この結果、旧幕府の家臣たちと新政府は戦うことになり、日本を二つに分けた内乱戊辰戦争(1868年~1869年)がおきました。この戦いにより、江戸城の無血開城がなされ、新政府は江戸城に入城しました。もちろん旧幕府軍の中には納得しない人たちもいました。彼らは江戸をあとにして会津に向かいました。会津藩と新政府軍の戦いでは白虎隊の悲劇が有名です。更にこの戦いは当時蝦夷地と呼ばれていた北海道に移ってきました。戦いの舞台は函館、五稜郭という城に新選組の副長だった土方歳三や榎本武揚らが立てこもり、彼らは蝦夷共和国という政権を樹立しましたが4ケ月で敗北、城を明け渡し戊辰戦争が終わりました。
 これにより、明治政府による本格的な政治がはじまったのです。明治政府は富国強兵というスローガンを掲げ、諸外国に追いつき、追い越すために産業を育成し、国を豊かにさせ兵力を強くし国力を充実させようと必死でした。その目標達成のためには、蝦夷が島の手つかずの資源が必要だったのです。しかし19世紀に入って蝦夷が島周辺には、イギリスやアメリカ、ロシアの艦船がやってきて調査を行うようになりました。ロシアは、シベリアやカムチャツカ、サハリンを植民地とし、蝦夷が島をもロシアの植民地にしそうな勢いでした。
 そこで、1869年(明治2年)明治政府は蝦夷地を北海道と名づけ、開拓使という役所を置いて開拓を進めることにしました。
 一方で明治政府は欧米の進んだ文化を学んでみようと大使節団を派遣することにしました。このリーダーに選ばれたのが岩倉具視です。 使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを2年間かけて訪問し諸外国の進んだ文化に感嘆し殖産興業への意を固めたのでした。このことが、留守を預かっていた西郷、板垣らとの考え方に溝を深めることになりました。
 この頃、日本と朝鮮は国交断絶状態にあり、国交回復を何度か朝鮮に呼びかけましたが、拒絶されたことに憤慨した板垣退助は、武力で開国させようとしましたが、この考えに意を反したのが、使節団として派遣された人たちでした。
 先進国の進んだ文明を見せつけられた彼らは武力による開国に反対しました。 使節団と留守部隊の考えの相違により、西郷と板垣は明治政府を去ることになったのです。ここから板垣退助は国会開設を政府に要求する自由民権運動を開始します。西郷は地元鹿児島に戻り私学学校を作り若者の教育に努めました。
 この時、同じように明治政府を去った江藤新平らが佐賀の乱(1874年明治7年)を起こし、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が相次ぎました。そしてとうとう1877年(明治10年)西郷が立つ日がやってきました。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台とした8か月に及ぶ内戦は西郷の自害で幕を閉じました。
 征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。
 広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。
 当博物館は、このような歴史的背景や政情により犯罪者となった人々が未開の地、北海道集治監に送られ北海道開拓という使命のもと北海道開拓に果たした功績と、彼らが罪を償いながら暮らした証である五翼放射状舎房をはじめとする明治の行刑建築物を文化財として保存公開しております。これらの行刑建築物は、西欧の建築技術を模倣し近代的で且つ斬新に建てられました。その結果北海道に設置された5つの集治監の建築物は偽洋風建築という特徴のある建物となったのです。
 特に網走監獄は、広大な土地に永久的に監獄を存続させようとの意図がありましたので、他の集治監よりも整備された建築物でした。
 「博物館網走監獄」は北海道行刑という明治の黎明期に忽然と現れ、北海道開拓の布石としてその役目を終え、消え去った行刑の歴史を名勝天都山中腹の緑豊かな森に甦らせ、網走の風土と共に語り継いでいくことを理念とする「野外歴史博物館」です。

(以上、「博物館 網走監獄」HPより)

庁舎内の「展示」。
 北海道の集治監は、北海道開拓において重要な役割を担いました。北海道開拓といえば屯田兵や入植団が知られていますが、開拓の礎となった囚人労働のことはあまり知られていません。
 明治時代の初め、政府はロシア帝国の南下政策に備えるため、北海道開拓を急ぐ必要があり、北海道に集治監を設置し、囚人を労働力として使うことが考え出されたのです。網走監獄は1890年(明治23年)に釧路集治監の外役所として開設され、1200人の囚人が、道路建設に昼夜兼行で使役され、北見道路(国道333号)は、僅か1年で、網走から北見峠まで約160kmが開通したと言います。
 しかし、過酷な労働でありケガする者、遠くで働いている際に食料運搬がうまく行かなく栄養失調になる者も多く、死者は200名を越えました。
 その後も、網走港、現在の女満別空港辺りの広大な農地の開拓などにも受刑者が駆り出されました。北海道の大地を貫く道路や鉄道も、農地も切り拓いたのは囚人たちでした。
 逃亡を防ぐため、囚人は2名が鉄の鎖で繋がれていたと言いますので、作業も過酷だったようです。うまく逃げたとしても、今の北海道と違って周りは原生林ですので、生き延びられる可能性は低い状態だったようです。網走の冬は外気温が零下20度まで下がると言う厳しいところでした。
 その後、囚人は炭坑や火山の硫黄採取などにも動員されますが、過酷な労働を課すことが国会で問題となり、明治27年には廃止されました。

《補足》
 道央とオホーツク海沿岸を結ぶ道路開削工事は、険しい自然の地理的条件と野生動物のヒグマとの戦いであったといわれており、囚人労働史上で最も悲惨な事例とされている。1891年(明治24年)4月の雪融けを待って5月から原始林に駆り出され、斧を振りかざし大木を切り倒し、土砂や切り株をモッコに入れ担ぎ、夜にはカガリ火を焚き、松明をかざしながらの重労働が行われ、連日昼夜兼業で強行された結果、わずか8か月後の同年12月末には、北見峠・白滝 - 網走間の163キロメートル区間を完成させた。
 道路建設では、囚徒200人(220人とも)を一団として4組に分け、3里から4里(約12–16キロメートル)を1区画として受け持ち、15間幅(約30メートル)に立ち木を切り倒して、3間幅(約6メートル)の道路を建設する工事が進められたが、割り当てが早く終わった組には次の工区の選択権が与えられていたため、空知集治監と網走監獄の各組の看守間で熾烈な競争が起こった。囚徒たちへの過酷な強制労働は、山岳部の奥地に建設現場が進むにつれて食糧運搬がうまくいかなくなったことにより、栄養失調や怪我で211人とも言われる多くの死亡者を出す事態となり、多大な犠牲を払った。囚人たちの傷だらけの身体にヤブカややヌカカの大群が襲来したほか、寒さや過労、食糧不足からくる栄養失調から水腫病とよばれる全身が膨れ上がる病が大量発生し、北見では半年間で、出役した1150人のうち900人以上が発病して180人から230人以上が死亡した。
 当時、囚人たちの人権は無視されていたといってもよく、「囚徒らがたとえ死んだとしても監獄費の経費節減になる」という思想がまかり通っていた時代であった。囚徒たちの労働生活は、全員が1本の丸太を枕として眠り、夜明け前の午前3時半の起床では看守が大声で叫ぶほか、丸太枕を叩いて起こし、逃亡防止のために2人の足を鎖でつないで使役させられていた。看守たちは携帯したピストルとサーベルや長棒で囚徒たちの後ろから威嚇し、強制労働の苦痛に耐えきれず逃亡を謀った者は「拒捕惨殺(きょほざんさつ)」といって、見せしめのために看守にその場で切り殺されるか、逃亡できたとしても、食糧を見つけることが困難な山中では食いつなぐことも出来ず、結局は作業場へ戻るしかなかったと伝えられる。病死や惨殺されていった囚徒たちの屍は、そのまま現場近くへ捨てられて風雨にさらされたといい、やがて当時の仲間の囚人たちによって土を盛るようにかぶせられて埋葬された。
 のちにそうした「土まんじゅう」は入植者らによって見つけられ、掘り起こされると土に還りつつある人骨と、墓標の目印として置かれた鎖がそのまま出てきたことから鎖塚とよばれるようになり、鎖でつながれたままの2人の白骨も発見されている。北見市のJR緋牛内駅の周辺でも3基の鎖塚が残されている。
(この項、「Wikipedia」より)

「典獄は語る」。

 「裏門」。

            「刑務所水門」。

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「三原城」跡。JR山陽本線・新幹線「三原」駅。その2。そして、「HelloKitty Shinkansen」。

2018-11-15 21:30:05 | 歴史・痕跡
                           お濠側から見た「天主台跡」。
「やっさだるマン」からのおねがい、と。
やっさだるマン(Yassadaruman)
 広島県三原市の公式マスコットキャラクターである。
 2014年11月17日から12月25日に応募された1017点の応募作から優秀作8点を選び、その中から市民投票などで採用された三原市の公式マスコット。
 2015年4月29日、三原市芸術文化センター(ポポロ)で開かれた「三原市合併10周年記念式典」で初披露された。 三原といえばやっさ祭りと三原神明市(ダルマ市)ということから、やっさ踊りを踊る日本一の大だるまをイメージして生まれた。
 2018年4月21日、やっさだるマンがタイトルの三原市のご当地映画『やっさだるマン』が公開された。

名前:やっさだるマン
年齢:推定450歳
住まい:東町のとある倉庫
好きな食べ物:三原のスイーツ
好きな飲み物:三原のお酒。大吟醸が大好き
性格:とても優しい。特に、子どもと年配の人に
チャームポイント:ワイルドな眉毛とつぶらな瞳
好きなタイプ:三原なまりの女性
趣味:人前に現れ、ハッピーをもたらすこと。やっさ踊りを踊ること
座右の銘:七転び八起き
(以上、「Wikipedia」より)

三原市のご当地映画『やっさだるマン』
 広島県三原市を舞台に、人気のない市の公式キャラクターを人気者にすべく奮闘する市役所の若者たちを描いた青春映画。如月肇と赤畑里美は広島県三原市役所やっさだるマン課で市の公式キャラクター「やっさだるマン」の管理運営を担当している。
 しかし、やっさだるマンの人気は低く、全国からご当地キャラなどが集まる「ゆるキャラグランプリ」でも全国236位という順位に甘んじているが、肇はさして気にもとめずに昼は淡々と業務をこなし、夜は行けつけのバーで飲んだくれる日々を送っていた。
 ある日、やっさだるマンの大ファンである礒谷優那が課に配属されてきた。彼女に一目ぼれした肇は、これまでにないやる気を見せ、やっさだるマンの一大プロジェクトを立ちあげることとなるのだが……。
 人気声優の竹達彩奈らが出演し、同じく竹達が実写映画初出演した「ライトノベルの楽しい書き方」の大森研一監督とメインキャストの佐藤永典、須藤茉麻、竹達が再結集した。
(この項、「」HPより)

お濠の周囲を回ってみます。
               明治時代の天主台跡周辺古写真
 左の古写真では、すでに三原城の天主台の櫓は壊されており、石垣のみとなっています。西国街道があった天主台跡濠の北側には、家が立ち並んでいる様子が見えます。右の古写真では、橋が架かっていますが、その後埋め立てられて現在のような道になりました。

史跡 三原城址」。東・西・北のお濠周辺は、公園として整備されています。

史跡 小早川氏城跡(三原城跡)
 『小早川家文書』によると、三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10(1567)年沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで築かれたと伝えられています。城は、海に向って船入りを開き、満潮時には海に浮んだように見えることから「浮城」とも呼ばれました。
 小早川氏の後は福島氏・浅野氏の支城となり、明治維新後には建物・樹木などが競売に付されました。
 その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)には三原駅が開業しました。
 今では、市街地化がすすみ、天主台跡とその濠、船入櫓跡、船入跡、中門跡などが残るのみです。

「天主台」跡。石垣が見事です。

後藤門の石垣」(推定復元)。天主台濠の北側に設けられていた城門。
 『備後国三原城絵図』(慶応年間三原城絵図)に描かれた後藤門(絵図では後東門と表記)の石垣をもとに復元しています。実際の石垣は高さがもう少し高く、北側の石垣も現在の市道の歩道部分あたりまで延びていました。門自体は、現在の市道直下にあたります。石垣の東側は階段状の雁木となっています。・・・

三原城下町」。
 三原城の東西に形成された町は、小早川隆景の時代(戦国時代の終わり頃)にまず東側(東町)から整備がすすめられました。その後、福島氏の時代(江戸時代のはじめ)に西側の町割りを行い、西町の整備がすすめられました。江戸時代後期の絵図では、西国街道に沿って両側に町屋が並び、活気ある様子がうかがえます。
 

解説板

                    

西側のお濠。右上に見えるのが新幹線のホーム。

                        


三原城跡歴史公園」。
・・・この公園は、平成23(2011)年から3年をかけて発掘調査を行い、歴史公園として整備しました。『備後国三原城絵図』が描かれた江戸時代末期の様子をイメージしています。

 
西国街道の石列
 天主台濠端の周囲から(濠から1.4mの場所)で石列がみつかりました。この石列の上部がすでに壊されていたため正確な構造ははっきりしませんが、柵などの跡もみつかっておらず、西国街道の土砂が濠に落ちるのを防ぐ土止め役割と、歩く人の転落防止の機能を持たせたものであったと考えられます。

桜山」。

さて、そろそろ「新幹線」に乗る時間。お濠巡りはここまで。
                                 「公衆電話ボックス」の上もお城。

 石垣が新幹線高架下に。   

天主台石垣」。
 日本一の規模を持つこの天主台は広島城の天守閣なら6つも入るという広さを持つ。三原城が作られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。しかしこの三原城築城時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
 この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群をぬきます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積み形式を400年経た今日まで立派に伝えております。
 1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。しかし破損箇所は、・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵圓のことと推測します。


 駅南側にも石垣などの史跡が残っているようです。時間があれば行って見たい、と。残念ですが、ここまで。
          

新幹線ホームから見た「天主台」。

しばらく待っていると、下り線ホームにピンク色の新幹線が到着。

                               

HelloKitty Shinkansen 」。

「ハローキティ新幹線」って?
 新大阪~博多間を結ぶ山陽新幹線に登場する、ハローキティ仕様の新幹線。鋭いロングノーズの500系が、おしゃれ可愛く“変身”します。
 西日本の地域活性化をめざし、ハローキティが案内人となり期間ごとに西日本の沿線地域を取り上げ、地域といっしょに魅力を発信します。

 「ハローキティ新幹線」はココがすごい!
 特に可愛い注目ポイントを3点ほどピックアップします。
①500系が可愛いピンク色に!
 地域を「つなぐ」「結ぶ」という思いが詰まったリボンをモチーフにデザイン。先頭車両では制服を着たハローキティのイラストがお出迎え。また各号車には地域限定デザインのハローキティが描かれています。

②内装もハローキティ!
 8両編成のうち、1・2号車の車内はハローキティの世界観が楽しめる遊び心もたっぷりの特別デザイン(3~8号車はほぼ通常内装)です。
1号車は展示スペース。可愛い車内で西日本の各地域を展示や映像で発信、お買い物や休憩もできます。2号車はハローキティ仕様の自由席で、どこかに隠れハローキティも!?フォトスポットも設置されます。
 ハローキティ新幹線は2018年6月30日から「こだま730号」(博多6:40→新大阪11:13)・「こだま741号」(新大阪11:29→博多15:38)として運行されます。


                    

                           
(この項、写真含め、「」HPより)

 孫に見せたら、あまり反応せず。彼の関心は、キティーちゃんではないんですね、残念! 今度乗せて、と言われなかっただけでも幸いですか。      
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「三原城」跡。JR山陽本線・新幹線「三原」駅。その1。

2018-11-14 20:01:59 | 歴史・痕跡
                             「三原城・天主台跡」。
「史跡 小早川氏城跡 三原城跡」
 小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。
 隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して、沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築き、ここに移った。三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので、「浮城」とよばれていた。「船入櫓」。

 小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き、今は天主台跡とそれをめぐる濠および船入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
「鉄道開通後」。

(「Wikipedia」より)

 先日、広島県三原市市内へお葬式のためにでかけました。
 出棺を見送り、車で送ってもらい、JR「三原」駅まで。新幹線に乗るまで時間があったので、駅構内を歩いていると、
 
 案内板に誘われて駅の北側に向かいます。

 かつての三原城本丸など一帯が「山陽本線」「山陽新幹線」の鉄道敷地になっています。手前が新幹線ホーム。奥が在来線。
(「」HPより)

そのため、駅構内の階段を上ると、すぐそこが「三原城・天主台」跡。
国指定の史跡になっています。



                西北側。

高台だけに景観はすばらしい。石碑「大游園」。 


東北側。

                   東南側(JR線方向)。

ひとしきり天主台跡の園内を散策、いったんJR構内へ。
その途中の新幹線の壁にある標識。「761K000M」
                               『駅探』では、「東京~三原 822.8km」となっていますが。



                 三原やっさ」。
 毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間、「三原やっさ祭り」が開催され、中国地方を代表する夏祭りとして約40万人の人出で賑わいます。
○「やっさ踊りの由来」
 今から約450年前の永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために、水・陸・交通の要地である備後の国・三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。
 やっさ踊りは、この築城を祝って老若男女を問わず三味線・太鼓・笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝いごとは "やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。
 また、その歌詞は、時代とともに移り変わり、近郷の地唄・はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを"やっさ踊り"と呼ぶようになりました。
 全盛を極めて明治のはじめ頃は、子どもが踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いたものである。また当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は町中を踊りまわり夜が明けるまで賑わっていました。
○「やっさ踊りの特徴」
 足の踊りといわれ、動きのある踊りであるが、きまった踊りの型はなく、はやしのリズムにあわせ、各人各様におもしろく、気やすく踊れるところにあり、三味線、鉦・太鼓・笛・四つ竹など賑やかなはやしと歌声にあわせ、各人思い思いの所作で自由奔放に踊る様は、見ている者もそのおもしろさに我を忘れて踊りたくなるものです。 
  

(「」HPより)

 ところで、「毛利元就」といえば、「三矢の教え」と呼ばれる逸話が知られています。

 晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。

 この逸話に関する古い文献としては、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」があり、死に際の元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して隆元や元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。

(この項、「Wikipedia」参照)

 今度は構内の外に出てみます。
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船橋。けっこう深みのある街並み。垣間見ただけですが、・・・。

2017-09-13 20:53:51 | 歴史・痕跡
 船橋は京成からJRに乗り換える時くらいしか降りたことがありません。街を歩くことは今まで、皆無。
 ちょっと用事ができて、そこまでの道すがら、「船橋発祥」の「海老川」付近を。


                  

その昔、市内を流れる「海老川」は、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったそうです。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、橋の代わりにしたことから「船橋」という名がつきました。伝説では日本武尊が東征の折、海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造ったといいます。
 現在は陸地ですが、「夏見干潟」と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていました。船橋の海は江戸時代、将軍家に新鮮な魚を献上する「御菜ケ浦(おさいがうら)」と呼ばれ、漁師町は大きな力をもって発展してきました。現・本町2~3丁目一帯の旧漁師町には、舟溜りの「舟町(ふなまち)」、寺が多い「寺町」、納屋が置かれていた「納谷(なや)」等の地名がありました。 江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日、西側では9の日に市が開かれたことから、それぞれ、五日市村(現宮本)、九日市村(現本町・湊町)と呼ばれていました。この二つに海神村(わたつみむら・現在はかいじんと読む)を加えたところを総称して、船橋村とか、船橋宿と言われていました。
 「海神」という地名の起こりは、日本武尊がこの地に上陸して入日(いりび)神社に神鏡を祀り、海の神として崇めたことにちなんでいます。
 「船橋大神宮」の北側の坂「宮坂」は東金街道の起点ですが、明治元年の戊辰戦争では激戦地となりました。

 江戸時代には房総往還東金御成街道佐倉街道などの主要街道沿いの地域は宿場町として栄えました。今でもそうした関連の古い商家や史跡が残っています。

房総往還
 船橋大神宮下で成田街道と分かれ、江戸湾東岸(内房総)に沿って房総半島の南端館山に至る房総半島の主要街道で、房総諸藩の参勤交代路であり、また近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。「上総道」とも呼ばれた。


東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。


佐倉街道
 江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。大別して2つのものが存在するが、ここでは、水戸街道・新宿の追分~佐倉を結ぶ「水戸佐倉道」をさす。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。


千葉県内の古街道一覧。この「佐倉(街)道」は千葉から。

 
 
               (「歴史的農業環境閲覧システム」より)
→が海老川に架かる「船橋」。船橋湊(港)方面の発展のようすが分かります。右の駅は京成線「大神宮下」駅。下は「京葉道路」



「明治天皇行在所跡」碑。
 明治天皇の最初のご来県は、明治6年(1873)4月29日から5月1日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましのときです。
 この第1日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、小休憩2回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした。

 道路の左右に古い商家が二軒。
「廣瀬直船堂」。和菓子屋さん。
 大正7年に建造された木造二階建切妻造瓦葺で、軒を張り出した出桁造の建物。耐火中高層建築物化が進んでいる中で、宿場町であった船橋の面影を今もなお残している建造物。「今回指定されたことによって、お店を守って頂ける、また宣伝効果にもなりお客様の層が増えうれしい」と廣瀬太一さん。「戦争で車や食料等を軍に全て持っていかれ、原材料がない状態で再スタートしたため、お金がなく建替えができませんでした。しかし、このままのほうが廣瀬直船堂を見て懐かしいと思っていただけたり、前に船橋に住んでいた方が来店した時に昔話をしていただいたりしてうれしい」とも。
 本町通り沿いの家屋は、昭和30年代後半から耐火中高層建築物化が進んだが、廣瀬直船堂は建て替えをせずに建築当時の姿を今に伝えている。

                           

向かい側にある「森田呉服店」。
 創業140年。太宰治が暮らした街、船橋の和装専門店です。リニューアルしてモダンな雰囲気を増した店内には、着物・生地・手拭・和装小物まで豊富に取り揃えております。特に梨園染の江戸手拭は300柄以上の品揃え。
                           

《補足》太宰治と船橋
 昭和の日本を代表する小説家、太宰治。青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)に生まれ、『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など数々の名作を残すも、昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。
・・・
 大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間(昭和21年)』の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。
 盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。
 短い滞在期間でしたが、太宰はここで濃密な時間を過ごし、ゆかりの場所が現在に伝えられています。
太宰ファン必見の場所の数々をご紹介します。

 太宰の旧居は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家でした。現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置です。
 現在、旧居跡には別の住宅が建っています。船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどありません。
近くには、海老川が今も静かに流れています。

 太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。
『めくら草紙』(昭和11年)より
《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》
 太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。

 太宰は船橋で、『ダス・ゲマイネ』『地球図』『めくら草紙』『虚構の春』『狂言の神』などの作品を執筆したほか、最初の短編集『晩年』を発表しています。
これらの実績だけ見ると、さぞかし充実した創作活動をしていたのでは……と受け取れますが、実際には苦難の連続でした。
 太宰が船橋に住み始めた翌月の昭和10年8月、第1回芥川賞の発表がありました。太宰は候補に残ったものの、落選(受賞作は石川達三「蒼氓」)。文壇に認められたいという思い、借金だらけの生活を好転させなければという焦り……太宰は強く受賞を望んでいただけに、その落胆は大きかったことでしょう。選考委員だった川端康成に対し、怒りを露わにした文章を発表したことは有名です。また、同じく選考委員であった佐藤春夫に対しては、第2回の受賞を懇願する書簡を送っています。
 そんな願いもむなしく、第2回芥川賞の選考結果は「受賞者なし」。今でこそ抜群の知名度を誇る人気作家の太宰ですが、最後まで、芥川賞を受賞する夢が叶うことはありませんでした。

 船橋に滞在して約1年が経過した昭和11年6月、太宰は最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行します。太宰にとって初めての単行本でありながら、『晩年』というタイトル。若くして、死を強く意識していた太宰ならではといえます。鎮痛剤中毒からの療養のため船橋に引っ越してきたはずが、症状は改善せず、健康状態は不良でした。
 鎮痛剤パビナールによる中毒が深まる太宰を救おうと、家族や知人は入院を勧めます。昭和11年10月13日、井伏鱒二の説得により、太宰は東京板橋の武蔵野病院に入院し、船橋の家を引き払いました。病に打ち克つことができず、流行作家にもなれなかった船橋時代。それでも太宰は、のちの作品でこのように述べています。

『十五年間』(昭和21年)より
《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》
《どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない》

 太宰がなぜ、船橋のことを「最も愛着が深かった」と述べたのか、今となっては知る由もありません。太宰が船橋を去ってから、約80年もの月日が経っています。
 ただ、今も船橋には太宰ゆかりの場所や、太宰が暮らした昭和初期の雰囲気を感じられる場所が多く残っています。
 長い時間の隔たりはあるけれど、同じ場所に立って、歩いてみると……太宰が暮らした1年3カ月が、おぼろげながら見えてくるかもしれません。

 (以上HPより)


これも立派な「島村写真館」。
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小樽運河。倉庫群。「カモメ呼ぶ小女」像。運河公園。・・・(小樽。その1。)

2015-05-09 22:00:55 | 歴史・痕跡
  
 4月29日、札幌まで出かけ、翌日は小樽へ行きました。札幌での所用、日帰りでもよかったのですが、ホテル朝食付きで往復の航空券を含めて、3万1千円(ANA)、それにしようということで(最近は、こういう行き方が多くなりました)。
 泊まったホテルは、「リッチモンドホテル札幌駅前」。この前、帯広に行ったとき、朝食のサービスなど、利用したときの印象がよかったので、今回も。
 行きの飛行機は満席、帰りはがら空きでした。
 29日の夜は、地元の方何人かとと飲食をし、談論風発、気がついたらホテルのベッドというありさまでした。
 さて、翌日は午後の便をとっていたので、札幌からJRで小樽まで出かけました。特にお目当てがあるわけではなく、小樽運河あたりでも、くらいの観光客気分で。インターネットで入手した「情緒あふれる『北運河』コース」を片手に。
 ところが、駅前から運河に向かって行くと、何と「鉄道線路」が。「手宮線」。現在は廃線となっているそうです。

        

 運河見物もそこそこに「小樽市総合博物館」へ。そこから廃線をたどって「南小樽駅」方向へ歩きました。思いがけない収穫。そのレポートです。
 今回は、小樽の近代史に敬意を表して、観光客であふれる(それも外国人観光客で)運河周辺を見物したところから。そういえば、札幌からの車内は、中国人、韓国人、その他、外国人がたくさん乗っていました。

    

旧安田銀行小樽支店 建築年:昭和5年(1930)年 構造:鉄筋コンクリート造

 ・・・ギリシャの建築様式をもった昭和初期の典型的な銀行建築で重厚さあふれる円柱が特徴です。・・・

             

 この円柱様式は、都内でも関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリートの復興校舎などにも特徴的に取り入れられています。また、半円形の窓などもよく似ています。都内にあったこうした建物も新改築でほとんど姿を消してしまいました。

  
                             「運河プラザ」。

 北海道で最も古い営業用倉庫である「小樽倉庫」を利用した物産プラザ。隣には「小樽市総合博物館 運河館」があります。入口右手前にある犬の銅像は、「消防犬ぶん公」。

    
    中庭。                                   外観。

 屋根には若狭(福井県)産の瓦とシャチホコが上げられている。シャチホコは、高さ1.5メートル、重量120キログラムの銀瓦製で、かなり目立つ逸品です。
 また中庭の日の字型に配された倉庫は左右対称で、現存する木骨石造倉庫群の代表格とされ、歴史的建造物に指定されています。

「小樽運河・中央橋」。

案内図。昭和初期の写真が載せられています。

運河沿いの倉庫。     

                                 

運河の西側・左手の遊歩道には大勢の観光客がそぞろ歩き。似顔書きや写真販売など露店がずらり。
    
  小型の観光船ものんびり就航中。

歩道に沿った道路側には小樽の歴史や文化に関するモニュメントがずらり。
           
                                  「力じまんの仲仕」。

小樽に因んだ歌謡曲も。
 
    
 「おれの小樽(唄:石原裕次郎)」。                   「小樽のひとよ(唄:鶴岡雅義と東京ロマンチカ)」。  

    
 「小樽と日本海航路」。                           「商業の町 小樽」。 
  
    
                                「開拓で伸びた鉄道」。

観光船は、港の方へ。

「旧大家倉庫」。

    
       「北海製罐(株)小樽工場」。小林多喜二の『工場細胞』のモデルとなった工場。

「北浜橋」。

               
                「カモメ呼ぶ小女」像。

運河に係累されている船。

    

 「旧渋沢倉庫」。明治28年から大正までに建築され、増築により三つの屋根が組み合った珍しい形をした倉庫。現在は、ライブハウス「GOLD STONE」や喫茶店「PRESS CAFE]が入っています。

    
                    「運河公園」。正面中央奥に見えるのが「旧日本郵船(株)小樽支店」。



 日本郵船 船入澗跡

 船入澗(ふないりま)は、大型船が接岸できるふ頭がつくられる以前、港湾荷役の中心だった艀(はしけ)による貨物の積み降ろし場所でした。
 日本郵船船入澗は、明治20年代に海岸の埋め立てと合わせてこの場所に整備されたもので、支店事務所と周囲の石造倉庫群が一体化した光景の中、貨物を満載した艀が活発に出入りする姿が見られました。
 この公園の池は、当時の船入澗を4分の1の面積で再現したものですが、実際の船入澗のあった位置には、四隅に青銅板を配置しそれらを黒御影石で結んでおります。。

 「運河公園」には、童謡「赤い靴」のモデルとなった親子の像がある、とのことですが見ませんでした。公園の西側にある「旧日本郵船(株)小樽支店」へ。

        

                        
重要文化財  旧日本郵船株式会社小樽支店

 この建物は、明治39年日本郵船株式会社が小樽支店として新築したものです。設計は工部大学校出身の佐立七次郎工学博士で、当時としては最も新しい石造洋風建築です。新築後間もなく、日露戦争の講和条約による樺太の国境画定会議が小樽で開かれることになり、この建物の2階会議室において両国代表による会議が開かれ、隣の貴賓室で祝杯が交わされました。昭和30年、市がこの建物をゆずり受け、小樽市博物館として使用していましたが、昭和59年から62年にかけて保存修理工事を実施し、営業室、会議室、貴賓室などを往時の姿に復元しました。

                                 小樽市

    

 旧日本郵船(株)小樽支店残荷倉庫

 旧日本郵船(株)小樽支店(国指定重要文化財)と同時にこの残荷倉庫も建設されました。工部大学校第一期卒業の佐立七次郎の設計による一連の建築として貴重なものです。マンサード屋根の小屋組、壁の石積みの仕様などは支店社屋と共通しています。・・・

                                小樽市
注:「マンサード屋根(マンサードやね)」とは、17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサールが考案したとされる屋根で、寄棟屋根の、外側の4方向に向けて2段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配屋根である。天井高を大きくとったり、屋根裏部屋を設置したりするのに適している。マンサード様式などとも呼称される。                     
 (「Wikipedia」より)            
 
そこから東にある「運河公園」を望む。
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桜島。ボンタンアメ。かるかん。薩摩揚げ。・・・鹿児島あれこれ。(鹿児島。その8。)

2014-06-24 22:49:52 | 歴史・痕跡
 
 鹿児島あれこれ。

①桜島
 鹿児島・一泊二日のあわただしい旅。桜島はほとんど、見えず。街を歩くとこんなコーナーが随所に。

 少し前にかなり降灰があったようで、このように積み上げられていました。

②「鹿児島県里程元標」
 道路元標は、道路の路線の起点や終点、経過地を表示するための標識のことで、大正9年に設置された。明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれている。


 正面に「鹿児島縣里程元標 鹿児島縣」裏面には「明治三十五年十月」と記されている。

 

③共研公園・鹿児島女子興業学校(現鹿児島女子高等学校)跡地
 昭和20年6月17日鹿児島を襲った大空襲で、鹿児島女子興業学校は焼失、寮生10名が犠牲になった。

慰霊碑。「雪に耐えて桜花麗し」。

門柱。

石畳の一部。


 博物館や美術館、まだまだ見所たくさんの市内中心部。さらに「桜島」「垂水」「鹿屋」・・・、自然はもとより、産業遺跡、戦争遺跡や鉄道遺跡など、今度はじっくりと見て回りたいものです。

 おしまいに、お土産シリーズで。

①「ボンタンアメ」
 鹿児島県鹿児島市にあるセイカ食品株式会社が製造・販売する飴菓子。
 キャラメルよりも柔らかく、甘さの奥にほんのりと香るボンタンの風味が特徴的。ボンタン飴・文旦飴とも表記。
 餅に水飴を練り込みボンタンの果汁(鹿児島・阿久根産のボンタンを使用)を添加した飴で、包み紙のオブラートごと食べられる。ただ、歯の裏や上あごにくっついてけっこうやっかいな代物(個人的には)。
 原材料はもち米で、佐賀・熊本産の「ひよくもち」を使用している。販売以来、九州全県を中心に日本全国の駄菓子屋、小売店、食品スーパー、コンビニ、キヨスクなどで売られている。
 いろいろな味の6箱入り(サツマイモ味、抹茶風味、ミルク味・・・)のもの。その一つがこれ。
口の中にほんのりショウガの香りが漂う。

 帰京後、知人にその一箱をあげたら、母親が大好きで、子供の頃、電車で出かけると、必ず駅のホームで買ってはよく食べさせられた、と懐かしそうでした。

②「かるかん」
 これもお土産に買ってきたが、日持ちがしないようなので、写真を撮るまもなく家族で食べてしまった。写真は「Wikipedia」から拝借。

 軽羹(かるかん)は、鹿児島県をはじめとする九州特産の和菓子。餡を包んだ「かるかんまんじゅう」が一般的。
 原料は、米粉、砂糖、山芋。これらの原料に水を加えて蒸し、弾力性のある白色のスポンジ様に仕上げたもの。
 薩摩藩で軽羹が成立した要因としては、原料の山芋が藩内のシラス台地で自生し、琉球や奄美群島で生産される砂糖も入手しやすかったことなどが挙げられる。
 一方で近世の砂糖は高級品であり、天明6年(1786年)に菓子類の値下げが発令された頃には、軽羹1箱は日本酒1斗と同程度の価格だった。
 島津斉彬が江戸から招聘した明石出身の菓子職人八島六兵衛によって安政元年(1854年)に軽羹が考案されたという説が一般的だったが、それ以前、貞享3年(1686年)から正徳5年(1715年)ごろにすでに薩摩藩で誕生したとみられる。
 八島六兵衛が出身地を店名として創業したのが、現在も続く菓子舗の明石屋である。
 今では、鹿児島県内だけでなく、宮崎や大分、さらに福岡の菓子舗でも製造販売されている。(以上「同」参照)

 この他に、鹿児島名産、土産品と言えば、「薩摩焼酎」に「薩摩揚げ」ですね。

③「薩摩揚げ」

 さつま揚げは、今から約140年前の弘化3年(1864年頃)、島津藩主斉彬公の時代に琉球を統治するようになり、中国福建省文化の流れを組む琉球文化との交流が盛んになりました。
 その為、食生活も影響を受け、ことに中国料理特有の脂っこい物が多く、その中に魚肉のすり身を澱粉と混ぜて油で揚げた「チキアギ」なるものがありました。それがなまって「ツケアゲ」になったと言われています。
 この「つけあげ」が串木野を中心に鹿児島県内で多く製造されるようになり、関東では「さつまあげ」、関西では「てんぷら」と呼ばれています。
HPより)

 魚肉のすり身に塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で揚げたもの。丸形・角形など形は様々である。ゴボウ、イカ、ゆで卵などの素材を包み込んだものもある。
 地元で多く取れる魚を材料とする事が多く、イワシ・サメ・カツオ・サバ・ホッケなど多様だが、ほとんどの場合2種以上の魚を混ぜて使う。魚のすり身のみで作られた物のほか、キクラゲ、紅しょうが、玉ねぎ、ネギなどの野菜を入れた物、じゃこ、イカ、タコ、エビなどの魚介類を入れた物、薬味を加えたものなどもある。
 そのまま、あるいは軽く焼いてショウガ醤油やからし醤油などを付けて食べる。おでん種、うどんの具、皿うどんの具、煮物の材料にも用いられる。
 その一つ。近所で買ってくる薩摩揚げよりも、いくぶん甘みが強いか。



 ところで、前日の夕飯は「豚とろ 鹿児島中央駅前店」の鹿児島ラーメン。まさにとろとろの叉焼、スープだか具だかわからないほど。少し味は濃いようで、って当然ですよね。それでも、「豚骨系」はけっこう年寄りの割には大好きで、今回もよかった!



 翌日の昼。午後発の鹿児島空港へのリムジンバスを待つ間、ビル地下の食堂街へ。


 蕎麦と揚げたての天ぷら。値段も手頃でおいしかった! 威勢のいい店員の包丁さばきを見ながらの食事。


 群馬の「富岡製糸場」が世界遺産(文化)に登録されました。来年は、官営八幡製鉄所(北九州市)などを含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が世界文化遺産登録を目指すそうです。
 残念ながらまだ行きそびれている遺産ばかりですが。

 以上、鹿児島シリーズはおしまいです、
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山形屋。いづろ通り。天文館通り。(鹿児島。その7。)

2014-06-23 21:51:48 | 歴史・痕跡

 南日本銀行から少し行くと、「山形屋」。ひときわ目立つ装いのデパート。読みは、「やまがたや」ではなくて「やまかたや」。

 「山形屋」の始祖・初代源衛門は江戸中期元文3年(1738年)に出羽国山形に生まれる。宝暦元年(1751年)当時山形の経済を支えていた紅花仲買と呉服太物行商を興し、大阪・京都へ立ち回り、八面六臂の大活躍をしていた。源衛門が薩摩入りを決断したのは、薩摩藩主・島津重豪の商人誘致政策を機として薩摩入りをし、木屋町通り(のちの金生町)に店を構えた。呉服太物店を構え、山形屋と称する。

《沿革》
1916年(大正5年)ルネッサンス式鉄骨鉄筋コンクリート(地下1階~地上4階)の新店舗落成。
大正期:

1932年(昭和7年)新館(地下1階~地上7階、売場面積延べ10,403㎡)落成。
1945年(昭和20年)本社、空襲により被災。
1957年(昭和32年) 1階~4階 エスカレーター運転開始。
1963年(昭和38年) 新旧両本館4,971㎡の増築と内部、外装とも一新、新装工事完成。売場面積16,229㎡となる。
昭和期:

1972年(昭和47年) 全館増築完成・新装オープン。(売場面積22,292㎡となる)
1998年(平成10年) 山形屋1号館外壁工事竣工。ルネッサンス調のデザインに一新。
平成期:

(以上、「山形屋」HPより)

 山形屋の創業は1751年(宝暦元年)、デパートメントストア化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西におけるデパート第1号である。
 商業面積は約33,000㎡、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。
 1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設し、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客している。
 かつては、島津氏の勢力圏そのままに、熊本県人吉市や沖縄県那覇市(沖縄山形屋)にもグループ百貨店が存在した。
 現在、山形屋グループは、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)において、上記のグループ百貨店をはじめ、スーパー部門子会社の山形屋ストア、山形屋ショッピングプラザなどの企業を展開している。
 電車通りに面した1号館は1999年に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。
 今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。
 名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める。屋上には遊園地もある。また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。
 店内放送のチャイム(山形屋グループ百貨店共通)として「アルプスの牧場」が使用されているが、これは国鉄の20系客車で使用されていたものと同じである。
 地域における商品力、ブランド力は昔から格段に強く、鹿児島市の中心繁華街である天文館地区においてガリバー的存在として君臨している。そのため、鹿児島市の商圏規模を考えれば共存できるはずの丸屋デパート(後の鹿児島三越・三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)や高島屋デパート(現在のTAKAPLA(当初は高島屋プラザ)で大阪に本社を置く同名の百貨店とは無関係)といった競合店は苦戦を強いられてきた。
 地元には山形屋を脅かす競合店が存在せず、また北部九州地域との交流も限定的であったため、文字通り「一人勝ち」の状況が続いてきた。
 しかし、新幹線や高速道路などの高速交通網の整備や、大規模小売店舗立地法の施行に伴う郊外大型商業施設の増加などの影響もあり、近年売上高は減少傾向にある。
 鹿児島中央駅ビルアミュプラザ鹿児島のオープンや、イオン鹿児島ショッピングセンター(現・イオンモール鹿児島)など郊外大型商業施設の相次ぐオープンに対抗するため、「We Love 天文館協議会」への参画や各種イベントの開催などにより、天文館地区における協力調和と地域活性化を図る姿勢を明確にしている。
(以上、「Wikipedia」より)

 まさに、「地元の雄」というような存在です。

尖塔が特徴的。大正期の建物にはあったが、戦災、復興期などを経て取り除かれた。それを平成になって復活させた。建物全体の印象として復古調の味のある建物。存在感がある。建物の内部もすばらしい、とのこと。





 いづろ通りから天文館通りに向かいました。

いづろの歴史~石灯籠(いづろ)通りの由来(「いづろ @ 天文館商店街ホームページ」より)

 石灯籠通りは天文館の松山通りから石灯籠交差点を通り、海岸まで突き抜ける通りである。藩政時代には、突きあたりの港の岸壁に石灯籠が一基立っており、錦江湾を航行する船の灯台の役目を果たしていた。これが石灯籠通りの由来といわれる。
石灯籠通りは現在はその面影はほとんど残っていないが幕末から明治、大正にかけて鹿児島城下で最も繁栄した通りでした。
 明治中期、石灯籠通りは新道松山通り共に、鹿児島市の有力店舗が集まり、鹿児島市の二大商店街を形成していた。
石灯籠通りは、大通りの繁華街で、明治屋呉服店など大店舗が多かった。このころ明治屋呉服店は座売りで山形屋より明治屋という気分であったようだ。
 また大正時代はじいさん、ばあさんたちの若いころは、人前で恥をかくことを、『こともあろうに、石灯籠通りで滑って転んだようだ』と言っていたらしい。石灯籠通りの海岸側は現在と比較にならない程、にぎやかな通りであった。
石灯籠通りが鹿児島で第一の殷賑を極めているのは呉服屋が多いからであると言われていた。

海岸に向かう通り「いづろ通り」昔賑わっていた頃の面影はない。

「電車通り」から「天文館通り」が繁華街の中心。

鹿児島名物の「ボンタンアメ」と軽羹などを製造販売している「薩摩蒸気屋」のお店と広告。市電もけっこう行き来している。


芝生を敷き詰めた軌道。

かつての市電のレリーフ。

アーケードの商店街が通りをはさんで続く。

  

 その商店街のはずれ近くに「天文館跡」のモニュメントがあります。
 

「天文館跡」碑。

説明文
 島津家25代重豪が、天文観測や研究のため、1779年にここに明時館を建て、藩内の暦はすべてこの明時館から配布し、薩摩暦とか鹿児島暦といわれました。
 明時館は別名天文館とも呼ばれ、現在の繁華街天文館の名は、ここから由来しています。この付近は当時、石垣をめぐらした武家屋敷や迎賓館にあたる御着屋、花岡屋敷などがありました。

碑文「天文館通りの由来」
 ここは安永8年(1779年)島津重豪のころ天文観測や研究をし、又薩摩暦などを造った明時館の跡であります。それでこの通りは天文館通りとよばれるようになりました。
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