「京成曳舟駅」から東南を望む。
先日、5年くらい前(2012-06-14)に投稿した「下町・向島の銭湯『曳舟湯』」にコメントが寄せられました。
当時、投稿した記事。
墨田区・向島界隈にもまだ見かける銭湯。
東京都内の銭湯は、昭和12年には約2,900軒(銭湯組合の組合員名簿による)の銭湯が営業していましたが、昭和20年の東京大空襲により、約400軒に激減したようですが、その後復活、それも、昭和43年の2,687軒をピークに、平成20年4月時点では約900軒の公衆浴場が営業しているだけになっています。墨田区でも、今は30軒余りが営業、最盛期の三分の一だそうです。
自然に銭湯といっていますが、ものの本によれば、明治以前には江戸では「銭湯」「湯屋(ゆうや)」と呼び、上方では「風呂屋」と呼ぶのが一般的であったそうです。
・・・
「銭湯」と聞くと、昔から富士山の壁絵を思い浮かべます。今の銭湯はどうなのでしょうか。
富士山のペンキ絵は、東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥といわれ、大正元年(1912年)に「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始めで、これが評判となり、これに倣う銭湯が東京や東日本を中心に続出しました。
また、入口に「唐破風」「破風」が正面にある「宮型」造りという建築様式の都心での発祥は、東京墨田区東向島の「カブキ(歌舞伎)湯」に始まるということです。
神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに、合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っているとのこと。
そこには一般の建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「日光東照宮参り」 など、日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えて娯楽であったことも影響して、平凡な日常を送る庶民にとって、宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能したといえそうです。
・・・
写真は、「曳舟湯」。二つの通りにはさまれた、ちょっと窮屈そうな建物ですが、レトロな味わいのあるお風呂屋さんです。
この記事から5年。その後、このお風呂屋さんは戦前からの80年という長い歴史を閉じて、廃業しました。
この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。
京成線の西側は行き帰りで通り、その町並みの大きな変化も身近に感じますが、東南側は「ひきふね図書館」以外、あまり歩く機会がなくなりました。
そこで、久々にかつてあった「曳舟湯」付近をちょっと歩いてみました。実に様変わり。「曳舟湯」がどこにあったのか、皆目見当がつかないほど。建物だけでなく路地もなくなり、道路も付け替えられ、広くなって・・・。
写真の奥付近?
この付近にあったはずですが。
ところで、かつて線路沿いに古木がありました。周囲の住宅の中で、何か曰くがありそうな古木でした。その木の周囲に祠などはありませんでしたが、いくつか石が置かれてありました。
「曳舟湯」付近から見たスカイツリー。↓の木。
工事中のフェンスの向こうにそのまま残っていましたが、現在は。
古木はなくなり、新しい木が植えられ、周囲は公園になっていました。
一帯は再開発され、「アトラスタワー曳舟」という大きなマンションになっています。一部が「曳舟湯」にかかっているようです。
○付近が「曳舟湯」跡?
かつての町並み。密集した家々。
実はその「曳舟湯」さん。「アトラスタワー」の1Fで喫茶店を開いていました。ご主人もそのまま。店名は「1010CAFEいちまるカフェ」。
ちょうどかつて「曳舟湯」があったところなのです。何だかホッとしました。そういえば、チェーン店ばかり営業している中で、当時の中華そば屋さんや床屋さんなどもマンションの一角で営業していました。
そこから京成曳舟駅方向を望む。
この奥の方はかつてのまま。
児童公園。
そういえばやはりこの付近に「三佑酒場」という飲み屋がありましたが、そのお店もありません。
ところで、ご近所の他の銭湯は?
「おかめ湯」。
京成曳舟駅近く、明治通りと曳舟通りとの交差点付近にある銭湯。今も現役。
他に、スカイツリーのすぐそばにも現役の銭湯があります。
「薬師湯」。開店と同時に十数人のお客さんが。
先日、5年くらい前(2012-06-14)に投稿した「下町・向島の銭湯『曳舟湯』」にコメントが寄せられました。
当時、投稿した記事。
墨田区・向島界隈にもまだ見かける銭湯。
東京都内の銭湯は、昭和12年には約2,900軒(銭湯組合の組合員名簿による)の銭湯が営業していましたが、昭和20年の東京大空襲により、約400軒に激減したようですが、その後復活、それも、昭和43年の2,687軒をピークに、平成20年4月時点では約900軒の公衆浴場が営業しているだけになっています。墨田区でも、今は30軒余りが営業、最盛期の三分の一だそうです。
自然に銭湯といっていますが、ものの本によれば、明治以前には江戸では「銭湯」「湯屋(ゆうや)」と呼び、上方では「風呂屋」と呼ぶのが一般的であったそうです。
・・・
「銭湯」と聞くと、昔から富士山の壁絵を思い浮かべます。今の銭湯はどうなのでしょうか。
富士山のペンキ絵は、東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥といわれ、大正元年(1912年)に「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始めで、これが評判となり、これに倣う銭湯が東京や東日本を中心に続出しました。
また、入口に「唐破風」「破風」が正面にある「宮型」造りという建築様式の都心での発祥は、東京墨田区東向島の「カブキ(歌舞伎)湯」に始まるということです。
神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに、合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っているとのこと。
そこには一般の建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「日光東照宮参り」 など、日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えて娯楽であったことも影響して、平凡な日常を送る庶民にとって、宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能したといえそうです。
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写真は、「曳舟湯」。二つの通りにはさまれた、ちょっと窮屈そうな建物ですが、レトロな味わいのあるお風呂屋さんです。
この記事から5年。その後、このお風呂屋さんは戦前からの80年という長い歴史を閉じて、廃業しました。
この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。
京成線の西側は行き帰りで通り、その町並みの大きな変化も身近に感じますが、東南側は「ひきふね図書館」以外、あまり歩く機会がなくなりました。
そこで、久々にかつてあった「曳舟湯」付近をちょっと歩いてみました。実に様変わり。「曳舟湯」がどこにあったのか、皆目見当がつかないほど。建物だけでなく路地もなくなり、道路も付け替えられ、広くなって・・・。
写真の奥付近?
この付近にあったはずですが。
ところで、かつて線路沿いに古木がありました。周囲の住宅の中で、何か曰くがありそうな古木でした。その木の周囲に祠などはありませんでしたが、いくつか石が置かれてありました。
「曳舟湯」付近から見たスカイツリー。↓の木。
工事中のフェンスの向こうにそのまま残っていましたが、現在は。
古木はなくなり、新しい木が植えられ、周囲は公園になっていました。
一帯は再開発され、「アトラスタワー曳舟」という大きなマンションになっています。一部が「曳舟湯」にかかっているようです。
○付近が「曳舟湯」跡?
かつての町並み。密集した家々。
実はその「曳舟湯」さん。「アトラスタワー」の1Fで喫茶店を開いていました。ご主人もそのまま。店名は「1010CAFEいちまるカフェ」。
ちょうどかつて「曳舟湯」があったところなのです。何だかホッとしました。そういえば、チェーン店ばかり営業している中で、当時の中華そば屋さんや床屋さんなどもマンションの一角で営業していました。
そこから京成曳舟駅方向を望む。
この奥の方はかつてのまま。
児童公園。
そういえばやはりこの付近に「三佑酒場」という飲み屋がありましたが、そのお店もありません。
ところで、ご近所の他の銭湯は?
「おかめ湯」。
京成曳舟駅近く、明治通りと曳舟通りとの交差点付近にある銭湯。今も現役。
他に、スカイツリーのすぐそばにも現役の銭湯があります。
「薬師湯」。開店と同時に十数人のお客さんが。