おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

久々の向島百花園。自然体で。(じじばばがゆく。散策編。)

2017-04-29 21:20:36 | じじばばがゆく

4月18日(火)。雨のち晴。

久しぶり。やっと暖かくなってきたわね。

でも、嵐みたいな天気には驚いたわよ、昨日の夜には。朝方は90%の降水確率だっていうじゃない。鎌倉なんて無理だったわよ。

で、「向島百花園」っていうことね。タクシーで行こう!

何だか晴れ間も見えてきて。さすが晴れ男だわね。

向島百花園か、もうずっと前に母親と来たことがあったかな。萩のトンネルがちょうど見頃の頃だった。

でも、雨上がりのこういうところもいいわよね。桜がちらほら残っているくらいだけど。

自然のままっていいわよね。自然体って難しいけど。この年になると、こういう風情もまたいいものよね。



へえ、芭蕉の句があるんだ。「春もやゝ けしきととのふ 月と梅」か。

ところでさあ、「春もやゝ」ってあるけど、「もやゝ」っていったい何なの? どういう意味なのよ?

えっ、それは「春も やゝ けしき(景色)ととのう 月と梅」って続くんだよって。

あら、イヤだ。俳句ってホントウに奥が深いのねえ。

そういう問題じゃないだろうって、失礼しました。

この後は、静かに句碑を楽しみ、お花を楽しみますわ。


 芭蕉句碑。「こんにやくのさしみも些(すこ)しうめの花 はせを」。

こぢんまりとしているけど、手入れが行き届いていて、それでいて自然のままっていうのは、いいわねえ。

・・・

向島百花園
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1804年(文化元年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者であった絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。当初梅園として営まれたが、その後、園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。
 その後も民営の公園としての長い歴史を経たが、明治以降、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、のちに東京市に譲渡されて1939年(昭和14年)には公営の公園として出発した。
 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲により全焼し、それまで遺っていた往時の建物も焼失してしまい、石碑以外、樹木も含めてほとんど跡形もなくなった。戦後、跡地を少年向けの野球場にしようという声も出るなか、「百花園」として復興されることとなり、1949年(昭和24年)に再開された。
 幾度か変転を経ながらも、園内の景観は今なお旧時の趣きを保っており、文人庭の遺構としても貴重なものである。江戸時代の花園として僅かに今日に遺るものであり、その景観、遺跡ともに重要であるとして、1978年(昭和53年)10月13日、国の史跡および名勝に指定され、保護措置がとられることとなった。

                                          (以上「Wikipedia」参照)

「墨沱梅荘記」碑(亀田鵬斎)。


    千樹庵益賀「鳥の名の都となりぬ梅やしき」。


 山上憶良「秋の七草」の歌碑。「秋の野に 咲きたる花を 指折りかき數うれば 七種の花 芽の花 乎花葛花 瞿麦の花 姫郎志 また藤袴 朝顔の花」。

「春の七草」。
 「せりなずな ごぎょうはこべら仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」。

「ごぎょう」はハハコグサ、「はこべら」はハコベ、「仏の座」はタビラコ、「すずな」はカブ、そして「すずしろ」はダイコンをさすのよね。

1月7日「人日」に「七草がゆ」を、って習慣はいいわよね。


    茶筅塚と柘植黙翁句碑「おりたらん 草の錦や 花やしき」 


    井上和紫「紫のゆかりやすみ連(れ)江戸生れ」。


    金令舎道彦「今日の月さても惜しまぬ光かな」。


    雪中庵梅年「黄昏や又ひとり行く雪の人」。


    賀屋月彦「うつくしきものは月日ぞ年の花」。

あんまり歩けないけど、最近は。足の具合がわるくて、指の付け根のところが。腰も痛くてはしはししないし、やになっちゃうわよね。年取るっていうのは。

気になったんでこの前、脳の検査に行った来たわよ、MRIとかいろいろ調べてもらった。これまで元気だった分、この際、検査してもいいかなって。

そりゃあ、結果が出るまで心配だったわよ、脳梗塞とか腫瘍とか。

おかげさまで異常なしだった、ってあなたの世話になったわけじゃないけどさ。

この前、高校の同級生と久々に会ったのよ、男3人、女4人で。男も女も何人かガン患者。でも、見た目には元気だったわ。肝臓に肺に・・・。ガン年齢ということを実感したわよ。




    「空蝉の世のうきことはきこえこぬいわおの中も秋風のふく  鶴久子」


    最中堂秋耳「限りなきそらの要や望の月」。


    北元居士「水や空あかり持ちあう夜の秋」。


    其角堂氷機「朧夜やたれを安るし乃(あるじの)墨沱川(すみだがわ)」。

二代河竹新七追善狂言塚の碑。
    
解説文。
    


    哥沢芝金顕彰碑
       ほととぎす今一声のきかまほし
       月はさゆれど姿を見せず
       エエぢれったい何としよう
       しんきくさいじゃないかいな

•二神石の碑



月岡芳年翁之碑。

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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その7。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-27 19:25:45 | 甲州街道

いよいよ「小原宿」入り。「小原の郷」という観光施設が右手に。

小原宿
 甲州街道の9番目の宿場町(注:「甲州街道37宿」とした場合)であり、現在の相模原市緑区小原の一部に相当する。江戸より16里。
 東西に2町半(約270m)と小さかったが、難所である小仏峠の甲府側に位置するため、重要な宿場であった。
 西隣に位置する与瀬宿と対応して片継ぎの宿場となっており、江戸・小仏方面から来た人や荷物は当宿から与瀬宿を通り越して2つ先の吉野宿へと継ぎ立てるが、信州・甲府方面から来た人や荷物は与瀬宿から当宿を通り越して小仏宿へと継ぎ立てられた。つまり江戸方面から甲府方面に向かう場合のみこの宿場を利用できる。
 旅籠は7軒あり、一般の旅人だけではなく身延山や富士山への参拝客も泊まっていたという。


(14:39)「日本橋より63㎞」ポスト。

 (14:41)その先、右手に豪壮な建物。「小原本陣」です。
    
                          「甲州街道小原宿本陣」。

建物の概要
・建物構造 4層のカブト造りの入母屋風の建物
・建築年代 19世紀初期(江戸時代後期)
・規模 間口13間、奥行7間、91坪
・部屋数 15畳が2間、12.5畳が1間、8畳が3間、6畳が3間、4畳が3間、2畳が1間

「小原本陣パンフレット」より
 与瀬村に属していた小原宿は、江戸より16里、14番目の(布田5宿を1宿とすると9番目)の宿場として設置されました。宿場には本陣と脇本陣、7軒の旅籠と宿内29軒が軒を並べていました。 
 宿東端に御高札所があった小原宿は、西方与瀬宿を通り越し小仏宿へ継ぐ宿場で、小原宿、与瀬宿ともに片継宿場でした。家並みは街道の両側にあり、用水は大久保沢川の樋谷路沢より240間の樋を懸けて渓水を引き宿中を流しました。飲料水は水道のように各戸に導水し管理していたことは、他の宿場にはみられない事でした。中野、底沢は枝郷であり、千木良村、寸沢嵐村、若柳村は助郷村で、他に13村が加助郷村として伝馬人足を供給しました。往時の甲州道中の人馬継ぎ立は、25疋25人でした。ちなみに東海道は100疋100人でした。
 現在の本陣は、往時と変わりなく4層のカブト造りの入母屋風の建物で、定紋のついた敷居の高い玄関がある間口13間、奥行7間91坪の純日本風の豪華な建物です。小原本陣は、神奈川県下26軒あった本陣で現存する唯一の建物です。平成8年2月13日、神奈川県教育委員会より神奈川県重要文化財に指定されました。
 現在の建物の建造年代は定かではないが、およそ200年経過しているものと思われます。大名止宿の本陣らしい特色として、お座敷風の厠(便所)、湯殿(風呂)、大名が使用した「上段の間」には欅の1枚板が使われていた床の間があり、縁の下からはずせる忍の止宿の動静を探る仕組みになっていました。上段の間に続く部屋が、側近や家老などの「控えの間」です。さらに、畳が敷かれた15畳が1間、8畳が3間、6畳が3間、4畳が3間、2畳が1間と15畳ほどの板敷きには、かつては馬を繋いだといわれる広い土間があり、勝手には古色蒼然とした自在鍵のさがる囲炉裏があります。
 上段の前庭には松の木、泰山木、木蓮などの老樹、檜、かや、ドウダンツツジの巨木が由緒ある本陣の生証人のごとく見守っています。

補足1:この本陣を利用したのは信州諏訪藩、高遠藩、飯田藩の大名と甲府勤番の役人で、本陣に泊まりきれない家来などは脇本陣や別の旅籠などに泊まった。
補足2:甲州街道で現存する本陣は、「日野本陣」「花咲本陣」とここの3つ。

    

小原本陣(旧清水家住宅)
 この小原本陣は、江戸時代に信州の高島・高遠・飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、江戸との往復の時宿泊するために利用したという古い歴史をもった建物です。
 この建物の当主清水家の先祖は、後北条の家臣清水隼人介で、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、代々問屋と庄屋を兼ねていました。
 この建物の年代に関する資料は不明ですが、「甲州道中宿村大概帳」(天保14年・1843年)によると、「本陣凡そ建坪八十四坪門構二而玄関之無宿人口壱軒」とあり、現在の建物の建築様式から推測しても、江戸時代後期の18世紀末期から19世紀初期の頃の建築と思われます。
 規模は、間口12間、奥行き7間で土間妻側の裾を兜とした入母屋造りです。東側居住部分は天井が低く中二階があり、二階三階共に養蚕室として使われました。
 西側奥座敷は、三部屋に区切られその外側を入側縁で囲み、築山のある庭に面しています。奥座敷の北側の部屋が「上段の間」で大名が止まった部屋です。
 このように、旧清水家住宅は、本陣特有の座敷構えを示すと共に、津久井郡の典型的な大型養蚕農家の構造をしており、県下に26軒あった本陣の中で、唯一現存する貴重な建物です。

                                 平成8年2月13日指定  相模原市教育委員会

正面玄関。

駕籠。

    

本陣の前には高札場が復元されています。

「小原宿」の街並み。

                             旅籠風の建物がチラホラ。
    

左手、広場に向かう道に「与瀬宿」への道標があり、それに随って広場を横切り、右に進むと、国道に復帰します。
             

その先、すぐに国道を渡り、旅館「ひらの」がある坂道を上がって行くのが旧道ですが、見逃してそのまま国道を歩いてしまいました(次回はここからに)。

相模湖のダムサイト。

中央道方向。

 左手の奥の山上に、かつて何回か来たことがある旧「さがみ湖ピクニックランド」の観覧車が見えます。今は名称も変わって「さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト」というそうです。いろんなアトラクション、遊具、キャンプなどもできるそうです。

「与瀬」。

(15:11)ここで「旧道」が合流します。

(15:13)「相模湖駅前」交差点。右折すれば駅に。

 次回は、「鳥沢」駅までではけっこうあるので、「上野原」駅までにします。それほど時間もかからないようなので、少しゆっくりと出かけしよう。
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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その6。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-26 20:22:19 | 甲州街道
 (13:35)しばらく下ると、高圧電線の鉄塔のところに出てきます。


 脇をすり抜けるようにして、斜面をジグザグに下っていきます。健脚ならトントン飛ぶように下りていけますが、けっこう膝にきました。それでも足下は枯れ草があって少しは、楽。
 そのまま下って行くと、舗装道路に出ます。
    

  (13:55)指導標と案内板。←小仏峠1.8㎞
    

「底沢」とありますが、バス停はもっと下の方に。

案内板の通り、広い車道を下って行きます。周囲が開けてきます。


(14:05)頭上には中央道。左下にはJR線。
    

 (14:11)分岐点。右は「美女谷温泉」への道。「小原宿」へは左に下りて行きます。
    

照手姫ものがたり
 浄瑠璃や歌舞伎で知られている「小栗判官と照手姫」の物語。
 照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったとも言われています。
 北面の武士だったという父とやさしい母から生まれた照手姫は美しい娘に成長し、美女谷川上流の七ツ淵で豊かな黒髪を梳くその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者を魅了したと言います。
 しかし不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷から消えてしまいました。
 その後、数奇な運命をたどった照手姫は相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをしますが、満重は毒殺されてしまいます。姫の必死の思いが通じたのか、満重は遊行上人という瞑想のお陰で蘇生し、常陸国の小栗城に帰り、照手姫を迎え、末永く幸せに暮らしたといいます。
    

 このお話にはいろいろなバリエーションがあるようです。以下「Wikipedia」より。

 小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し、一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり、浄瑠璃や歌舞伎などになった。
 常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子・小栗助重がモデルとされる。
 「小栗の判官」「おぐり判官」「をくりの判官」「をくり」「おくり」などの名でも伝えられる。伝承は多く残っており、後に創作されたものもあり、それぞれにかなりの相違が見られる。説経節や浄瑠璃、歌舞伎など多くに脚色されている。また縁のある土地にもそれぞれの伝承が残っており、小栗の通った熊野街道は小栗街道とも呼ばれる。
 人物としての小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、15、16世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされる。

①長生院(藤沢市)に残る小栗判官・照手姫の伝説
 応永22年(1415年)、上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(他の資料では小栗判官(小栗助重)の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す)は鎌倉公方足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に、相模横山家(横山大膳・横浜市戸塚区俣野に伝説が残る)の娘・照手姫を見初め、結婚の約束を交わす。横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。照手姫は本来上皇や法皇の御所をまもる武士である北面武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた。
 小栗の行為に怒った横山庄司親子は、小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛(おにかげ)」に乗せ噛み殺さようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗。しかしついには権現堂にて酒に毒を盛り、家来もろとも殺してしまう。横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来11人の屍を上野原に捨てさせる。この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける。危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが、最後まで小栗への貞節を守り通す。
 一方、小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし異形の餓鬼阿弥の姿で、癩病にかかっており、歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺(清浄光寺)の大空上人の助けを蒙り、地車に乗せられて東海道を西進する。小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち、「上野原に11人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に戻すために力を貸せ」と告げていた。上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともにまだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった。
 小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが、2人はお互いの素性に気づかない。小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情を受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する。
 小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち、家来の菩提を弔う。さらに小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた。小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、永享元年(1429年)に遊行寺内に草庵を結んだという。

②説経節にみる小栗判官伝説]
 正本として、延宝3年(1675年)「おぐり判官」(作者未詳)、年未詳「をくりの判官」(佐渡七太夫豊孝)その他がある。
 鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず交わり、妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れて隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になる。このために7日間も暴風雨が続き、小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵・相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、彼に頼んで照手に文を渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は10人の家来とともに、照手姫のもとに強引に婿入りする。これに怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原で土葬に、家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受け、千手観音の加護により難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、もらわれた美濃国青墓宿の万屋でこき使われる。
 一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗の墓から現われたのを見た上人は手紙を読み、餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せると胸の木札に「この車を引くものは供養になるべし」と書きしたためた。多くの人に引かれた車は美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた照手姫は餓鬼阿弥が小栗であると知らずに5日間に渡って大津まで車を引き、ついに熊野に到着する。熊野・湯の峰温泉の薬効にて49日の湯治の末、小栗の業病は完治し元の体に戻ることができる。その後、小栗は京に戻り天皇により死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた。

 どちらも「熊野信仰」との関わりが濃厚のような気がしますが・・・。この地の「照手姫」伝説は、「美女谷」という地名伝承にかこつけたもののようです。

家並みも見え始めます。

中央道の高架橋をくぐった右手に道標と「馬頭観音」。「板橋」とあります。
    

 小仏峠からのジグザグ道を下って、車道に出た後の旧道は消滅しているようです。↓の鉄塔からここまで下ってきました(14:18)。


JR線路に沿って進みます。旧道ではなさそうです。

(14:24)ガードをくぐります。

「甲州道中 長久保」。

先ほどの分岐点にあったものと同じ案内板。

ようやく「底沢」バス停に着きます。「底沢橋」。

 (14:34)「国道20号線」と合流です。「20号線(甲州街道)」は西浅川からけっこう曲りくねりながら「大垂水峠」を越えてここまで来ます。
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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その5。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-24 18:54:21 | 甲州街道
 まだしばらくは舗装道路が続きます。 左手に「寶珠寺」。門前に「カゴノキ」の碑があります。どれが「カゴノキ」なのか?


道標。

 (12:06)曲がりくねった車道を進みながら、次第に高度を上げていきます。峠付近はまだしも、これが江戸時代の旧道だとは思えませんが。
   

 まもなく駐車場。そこで、昼食・小休止。しばらく林道を歩き、その先は、本格的な山道になります。
    

(12:27)林道の途中にある水場。

  
           「浅川」の源流付近。石ころだらけの道でけっこう歩きにくい。

(12:49)道がゆるやかになると、「小仏峠」。

狸の置物。標高548㍍。

峠の地蔵、庚申塔など。

案内図。  

来た方向を振り返って望む。 

小仏峠
 武蔵の国と甲斐の国を結ぶ路は、その境界線上の峠を介して幾つかあり、時代によって様々に変化したようです。
北から、雁坂峠、柳沢峠、大菩薩峠、松姫峠、そして笹尾根の幾つかの峠や、相模の国を経て和田峠、そしてこの小仏峠と続き、現在一般道では最も交通量の多い大垂水峠となります。
 標高548メートル。
 北の景信山と南の高尾山からの尾根と鞍部で、戦国時代の武田信玄の家臣、大月岩殿城主、小山田信茂が、武州滝山城を攻めた時に、この山路を越えて廿里の砦を急襲した頃から峠路として利用するようになったようです。
 室町時代末期に、北条氏照の八王子城の前進防衛基地として小仏峠の頂上に砦を設けて富士関役所と称していました。
 その後北条が破れ、関東を秀吉の命により家康が治めるようになって、小仏峠には家康の命で関所が設けられたのです。家康は、広い関東の西の端を治めるのに、当時武田や北条の残党を雇い入れて、屯田兵のように半農の千人同心を組織し、八王子に住まわせた千人同心にこの関所を守らせます。
 その後、関所は、山麓に移されてしまいました。

 小仏峠は、1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたのが峠の命名の由来となっています。

 以前は、この小仏峠にはきのこや山菜、野草の店があり、飲み物が売っていたのだが、残念ながら廃業されてしまったよう。とりあえず、今はベンチやテーブルはあるので休むには便利だ。

 さて、この小仏峠には、明治天皇や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。
これらは、明治13年(1880)に山梨巡行の際に、明治天皇の通行を記念して建てられたものだ。歌碑に刻まれている和歌は、三条実美が、命を受けて高尾山薬王院で詠んだものといわれている。

来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ

こかひはた織とは、蚕飼ひ機織り のことで、当時の多摩や甲州が養蚕や製糸、機織業でにぎわっている様子がわかる。

                                           (以上、HPより)

「明治天皇小佛峠御小休止址及野立所」碑。 

「三条実美歌碑」。

新聞記事と傍らに地蔵。

「甲州道中歴史案内図」。

 (13:02)「高尾山」や「景信山」に向かうハイカーを尻目に、道標・案内板に随って西へ下りて行きます。ほとんど行く人はいません。
    

 下りになって膝に痛みが。道は上りより歩きやすいのですが。かなりのペースダウン。
    

 (13:34)道標が随所に立っているので、安心です。
    
                             ←底沢バス停2.3㎞  小仏峠1.2㎞→

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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その4。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-21 21:17:51 | 甲州街道

 

 頭上高くには「圏央道」、「中央道」の橋脚。
    

左手には「エス・オー・エスこどもの村」。

未来をつくるこどもたちのために
 児童福祉法第1条は「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ且つ、育成されるように努め、すべての児童はひとしくその生活を保障され愛護されなければならない」、第41条は「養護施設は、乳児を除いて保護者のない児童、虐待されている児童、その他環境上養護を要する児童を入所させて、これを保護しあわせてその自立を支援することを目的とする施設とする」と規定しています。
 私達は父と母の愛情のもとに育まれ成長しました。しかし世の中には、この児童福祉法第1条に定めるような環境にない保護する人を無くした要養護児童がいつもたくさん発生します。
 「エス・オー・エスこどもの村」ではこのようなこども達を預かり、未来を作るこども達として健やかに、逞しく育つように養育、自立支援、家庭支援活動をしている施設です。

 ・・・エス・オー・エスこどもの村のSOSは Save Our Souls の頭文字からなり、「魂を救う」という意味合いが込められています。
HPより)

 春らしい穏やかな風景が広がります。
    

(11:18)するさしの豆腐を製造販売する「峰尾豆腐店」。

 「するさし」を漢字で書くと「摺差」。「寄せ豆腐」とか「おからドーナツ」が人気で、その「おからドーナツ」を買いました(5ヶ入りで350円)。

???

すてきなお庭。

                  木々の向こうには中央道の橋脚。

 (11:27)左手に大きな池。「浅川国際マス釣場」。
    

道標「右 小仏峠 景信山」。

 JR中央線のガードをくぐると、「小仏宿」。
    

小仏宿
 日本橋から12番目の宿場。本陣と脇本陣がなく、旅籠が何軒かありました。この先は難所の一つ、小仏峠へと続き、峠の向こうにある「小原宿」となります。

 注:甲州街道の宿場町は小さくて合宿が多いため、44宿とも45宿とも数えられています。「小仏宿」は、日本橋から13番目という説もあります。また、「上下高井戸」「布田5宿」などを一つと数えて、37宿という数え方もあります。それだと「小仏宿」は8番目となります。8番目ですと、「東海道」では「大磯」、「中山道」では「熊谷」。それらと比べてみて、「小仏宿」は、日本橋からは比較的短い距離で、宿間が短いことが分ります。「甲州街道」には、山道が多いことや沿道には寒村が多かったことがいえます。

 現在の「小仏宿」は特に当時の史跡も見当たらず、ゆっくりと「小仏峠」目指して上って行きます。左はJR線路。


振り返って望む。

 「JR小仏トンネル」口付近にコンクリー製の工作物。はたして?
    

 (11:48)高尾駅からの京王バスの終点・小仏バス停にようやく着きます。
    

案内図。←が「小仏峠」。
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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その3。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-20 21:27:06 | 甲州街道

(10:43)「小仏関所」跡。
国指定史跡 小仏関跡
 小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州街道の重要な関所として現在地に移されると共に整備された。
 この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。
 関所の通過は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
 特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の積みが課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取り壊された。

          平成10年7月1日 八王子市教育委員会


 これで、「五街道」のそれぞれの「関所」をクリアしたわけです。
・東海道にある関所:箱根関、新居関。
・中山道にある関所:碓井関。
・日光・奥州道中にある関所:栗橋関。
そして、・甲州道中にある関所:小仏関。という具合。
 江戸の周囲を固めているのが、以上の関所。特に、上にもある「入鉄砲に出女」といわれるように、江戸へ入る鉄砲と江戸から出る人質の大名の奥方を警戒しました。

手形石と手付石。

当時の位置関係と解説文。
    

左の絵図:小仏関所絵図
 関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら戦災により焼失し、現存していません。
 小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていました。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。
右の絵図:駒關要樞
 千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のものです。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏関と呼ばれるようになり、関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていたようです。

跡地は広場になっています。

そこには「駒木野宿」の碑があります。

「川村」姓のおうち。

 「駒木野宿」は、「小仏関」に付随した宿場で、特に遺構はなさそうです。街並み。
    

 この先辺りから道は下り坂になります。
    

 (10:48)坂の左手に石仏群と「「念珠坂」碑。
    

「思源庵」。

「浅川」の流れ。サクラが満開。

廃校になった浅川小学校・分校跡。現在は保育園。

次第に渓谷風になった「浅川」。

 バス停「蛇滝」付近にある旧旅籠。軒下には蛇滝で水行を行う人達の家紋や氏名などが記された札が並んでいます。その隣には「上行講」と彫った道標。
    

右手の足下に「湯の花(いのはな)慰霊碑」への案内板。

 (11:00)線路の方に上がっていくと、線路際に地元の有志が建てた「慰霊碑」があります。
    

慰霊の碑
 終戦間近の昭和20年(1945)8月5日 真夏の太陽が照りつける午後12時20分頃、満員の新宿発長野行419列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかった時、米軍戦闘機P511機または3機の銃撃を受け、52名以上の方々が死没し 133名の方々が重軽傷を負いました。この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。 私どもはこの戦争の惨禍を決して忘れることができません。ここに確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

     平成4年8月5日         いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

 注:手前の慰霊碑は、昭和25年に地元の青年団が建てたもの。左側には犠牲になった氏名が刻まれている。

湯の花(いのはな)トンネル列車銃撃事件
 第2次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現、八王子市裏高尾町)内の国鉄中央本線、湯の花トンネルでアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。
 東京周辺には帝都防空用として、陸海軍ともに比較的まとまった数の航空機が配備されていたが、この時期にはすでに弾薬や燃料が底をつき、また、操縦士も極端に不足していたため、予想された本土決戦に備え飛行可能な機体を地下壕や掩体壕に温存する措置が取られるなどの惨状であった。一方、日本軍の迎撃のない中イギリス軍やアメリカ軍機は、やすやすと本土進入を果たし、鉄道施設及び列車に対しても攻撃が行われるようになっていた。そうした列車攻撃の中でも最悪の人的被害を出したのが、中央本線湯の花トンネルにおける機銃掃射事件である。
 新宿発長野行きの下り419列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。この列車には軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されていたが、富士演習場に向かう19名だけで、殆どが非戦闘員の一般乗客であった。
 8月5日に全面開通したこの日2本目の列車であり、また八王子駅で419列車が出発する前の列車が発車しなかったため大変な混雑だったとされていた。
 419列車は八王子駅が八王子空襲により焼失していたこと、単線区間での列車交換に手間取ったことなどの事情があり、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れの午後0時15分に出発した。この時点ではすでに空襲警報が発令中であったが、停車中に乗客から「早く出せ」と怒声が飛んでいたこと、更なる遅延を回避するためや、湯の花トンネル、小仏トンネルに入った方が安全と考えたため、駅員や乗務員は発車させたものと見られている。
 その後、419列車は第一浅川橋梁を通過した後、湯の花トンネルの手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機のいずれかだったと言われている)に捕捉され、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した。この措置はトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒される結果となったため、犠牲者を増加させることとなった。
 犠牲者の数については、国鉄の資料によると49名となっているが、慰霊碑では52名以上(氏名判明のみ)としている。また、事件の慰霊会は65名以上が犠牲になったとしている。負傷者は130名以上であったと言われているが、戦時体制下のため、当時の正確な記録が残されていないという。
 この列車には筑摩書房創業者の古田晁が乗っており、古田が車内で目を通していた原稿用紙に、近くにいた人物から吹き出した血が付着した。この「血染めの原稿用紙」は現在、塩尻市にある市立古田晁記念館に展示されている。
 なお、419列車は送電線が機銃掃射で切断されたため、蒸気機関車に牽引されて浅川駅へ回送され、この事件によって不通となった中央本線は当日夕方までに送電線の再接続を完了し、全面復旧した。
 戦後、この事件に係る慰霊碑が建立され、毎年8月5日には現在でも地元の住民が主体となって慰霊祭が行われている。

「湯の花トンネル」。

                                          (以上、写真を含め、「Wikipedia」による)

トンネル方向。頭上は、「中央道」と「圏央道」とのジャンクション。

「甲州街道」方向を見下ろす。

 終戦末期(あと10日で終戦)に米軍機による列車銃撃事件。春爛漫の、のどやかな雰囲気の村里にそんな悲劇があったとは知りませんでした。
 前回、八王子宿に入る手前の「大和田橋」歩道上に残された投下された、たくさんの焼夷弾の跡も強く印象に残りました。
 太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。
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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その2。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-19 19:07:06 | 甲州街道

まずは高尾駅前まで向かいます。イチョウ並木が続きます。

 (9:32)「長房団地入口」交差点を右折し、すぐ左折します。その角には大きな道標。
    
 左側は道標で右高尾山、左真覚寺とあります。右側の石碑はイラストが描いてあり、昭和2年(1927年)に新道(「国道20号」)が出来て路が真っ直ぐになったときの様子が描かれています。
 また、ここは「散田一里塚」跡でもあり、日本橋より13番目の一里塚があったといわれています。

この通りが旧道です。

立派なお屋敷。

しばらくして国道に復帰します。「日本橋から49㎞」ポスト(9:48)。

「多摩御陵」入口。ケヤキ並木が続きます。

 この先には、大正天皇陵(多摩陵たまのみささぎ)、貞明皇后陵(多摩東陵)、昭和天皇陵(武蔵野陵)、香淳皇后陵(武蔵野東陵)の四つの陵墓があります。

(9:56)その少し先を右手に入ります。

 案内板が立っています。                     車の喧噪から離れた静かな旧道。
    

サクラも見頃。

手入れの行き届いた庭。

 長い板塀などに囲まれた大きなお屋敷がチラホラ。通り沿いには勢いよく流れる用水も。
        

    

振り返って望む。

「国道20号線」に合流する手前にほんの少し旧道が残っています。

 (10:14)しばらく国道を進むと、左手に「高尾」駅。駅前には大勢のハイカーが。バスを待つ人、待ち合わせをしている人。トイレ休憩して、駅前のベンチで小休止。


 さていよいよ「小仏峠」めざして出発。国道をしばらく進み、「西浅川」の交差点で国道から右折して向かいます。角に目印となっていた「ポプラ・コンビニ」は改装中? ここでおにぎりなどを買うつもりだった人は、また駅前に戻るしかありません(10:34)。
    

 なお、現在の「国道20号線・現甲州街道」の原型である「旧国道・甲州街道」は、明治後期より「高尾」付近から「大月」付近までほぼ相模川・桂川沿いに進むことになり、上野原宿、鳥沢宿、猿橋宿など一部を除き、江戸時代の甲州街道・旧道と宿場は急速に廃れてしまいました。また、その国道も相模川をせき止めてできた「相模湖」によって一部は水没しています。
 地元の案内では江戸時代の甲州街道を「甲州古道」と表示していますが、その「古道」も「中央道」建設、土地開発などによってほとんど寸断されています。
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八王子(横山)~駒木野~小仏~小仏峠~小原。その1。(「甲州街道」をゆく。第3日目。)

2017-04-18 20:29:45 | 甲州街道
 4月15日(土)晴れ。一時にわか雨。

 久々の甲州街道歩き。今回は、街道歩き最初の難関「小仏峠」越え。ハイカーが行き違う中での街道歩きです。じじばばと山ガールがけっこう目につきます。途中であった80歳代の老夫婦。爺さんはさっさと歩き、後からお婆さんが。
 その小仏峠。登りは歩けたが、下山は膝に負担が。けっこう時間がかかる始末。途中で雨も降り出して、カサを出したり、たたんだり。で、何とかJR「相模湖駅」まで。「八王子駅」から「相模湖駅」まで、約30,000歩(18㎞)。

八王子宿
 甲州街道の宿場であり、八王子十五宿、八王子横山十五宿とも呼ばれる。現在の東京都八王子市の市街地の元となった。飯盛旅籠が置かれ、戦後まで続いた。
 1590年、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、八王子城は上杉景勝・前田利家らの北陸勢の猛攻を受けて落城した。その後小田原城が降伏し、北条氏照が兄の北条氏政とともに敗戦の責任をとって切腹すると、没収されたこの地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた。家康もまた後北条氏と同じく、家康の居城が置かれる江戸を甲州口から守るための軍事拠点として八王子を位置付けた。
 しかし徳川氏は後北条氏のように八王子に支城を置かず、八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領とした。八王子には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当した。長安は甲州街道を整備し、八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに新たに八王子町を設けて旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた。
 徳川氏による八王子の開発の結果、1650年代までに現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、「八王子十五宿(八王子横山十五宿)」とよばれるようになる。八日市・横山・八幡などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ、そして八王子町へと受け継がれたものである。また徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣で軽輩の者を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ、普段は百姓として田畑を耕し、日光警護など特別な軍事目的の場合には下級の武士として軍役を課す八王子千人同心とした。
 八王子宿への代官の駐在は1704年に廃され、関東御料の代官は江戸に移住する。なお、八王子宿は幕府直轄の天領であったが、江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く、一元的領域支配は行われていない。
                                                          (以上「Wikipedia」参照)

(8:41)宿場の中心地であった「横山」町。

郵便局の角には「野猿街道」起点の標識。

野猿街道
起点:東京都八王子市横山町 横山町郵便局前(国道20号〔甲州街道〕交点)
終点:東京都国立市谷保 青果市場東交差点(国道20号〔日野バイパス〕交点)

 起点となる甲州街道直前は南向き一方通行の1車線の道路ですが、八王子市の打越交差点(国道16号交点)から国立市の青果市場東交差点までは4車線(片側2車線)という広い道路として整備されています。八王子市子安町五差路交差点から同市北野町南交差点(国道16号交点)からまでは2車線(片側1車線)。
 「野猿街道」の名前は、同街道上にある八王子市の野猿峠(標高160m)に由来します。野猿峠は古くは猿丸峠や猿山通りと言い、旧由木村と八王子の中心部を結ぶ峠道。峠で休憩するために馬や牛に水を飲ませる水飲み場がありました。
                                                 (以上、「Wikipedia」参照)

 旧道沿いらしい建物はほとんどありません。
    

 (8:51)通りの右手、「夢美術館」前に「八日市宿跡」碑。
    

八日市宿跡について
 戦国時代の終わりごろ、それまで関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の命を受け、徳川家康が新たな領主となりました。
 家康の統治下となった八王子では、それまでの八王子城下(現在の元八王子)から現在の市街地へ街が移転され、新しい街づくりが始められました。まず東西の道(甲州道中)が整備され、東から横山・八日市・八幡の三宿が開かれました。
 江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、また地域経済の中心都市として発展しました。なかでも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣がおかれ、山上家や新野家が本陣役を務めるなど、八王子の中心的な役割を担っていました。
 四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で六斎市が立ち多くの人々で賑わいました。 

振り返って望む。

 通り沿いには現代風なつくりにかつての意匠を取り入れた建物。
    

 また、どっしりとした蔵造りの建物も見受けられます。
    

「長安祭」ポスター。

 ここで大久保長安について

・武田信玄・徳川家康の家臣として
 天文14年(1545)、猿楽師の次男として生まれた長安は、甲斐国にて武田信玄に見出され、士分として武田家に仕え、民政や農政に従事しました。武田家滅亡後は、徳川家康に仕えますが、家康の重臣である大久保忠隣に庇護を受け、信任を得て、姓が「大久保」となります。家康支配下の甲斐国にて、民政のみならず幅広い分野で成果を挙げ、家康から高い評価を受けていました。

・大久保 長安の経緯
1545 天文14年 猿楽衆大蔵太夫の次男として生まれる
1573 元亀4年 このころ信玄の家臣となる
1582 天正10年 甲斐武田氏が滅亡
1590 天正18年 八王子城落城、徳川家康江戸入城、長安も家康に従う
1591 天正19年 多摩をはじめ周辺地域の検地を行う、髙尾山薬王院に禁制を出す
1592 文禄元年 八王子小門陣屋竣工、八王子のまちが元八王子から現在の場所に移る
1600 慶長5年 同心衆を千人とする(八王子千人同心のはじまり)関ヶ原の合戦で徳川秀忠に従い出陣、大和国の総代官に任ぜられる
1601 慶長6年 伊奈忠次らと東海道の整備を行い宿場を整える、石見銀山の奉行 となる、岐阜の総代官にも任命される
1603 慶長8年 家康が征夷大将軍に。佐渡一国を支配する、信濃の川中島藩の付家老を兼任、 官途名を「石見守」とする、東海道などに一里塚をつくる
1605 慶長10年 このころから家康の年寄衆として全国支配の基盤固めの諸政策を 行っている
1607 慶長12年 角倉了以を京から招聘して富士川の開発を行う
1610 慶長15年 福島藩(のちの高田藩)の付家老に就任
1613 慶長18年 駿府の地で中風により死去(69歳)

・長安が行った八王子の町づくり
 天正18年(1590)、秀吉の命により関東に国替えになった家康に付き従い、武蔵横山領(八王子市)を中心とした幕府直轄地を統治しました。宿場の造成により、町を急速に発展させ、また、町の治安維持のために千人同心を組織しました。江戸を守る西の拠点として、八王子の新たな町づくりを行ったとされています。また、代官頭として関東一帯の統治も行い、検地や新田開発、寺社支配等、長安の活躍は多岐に渡ったと言われています。

・各地での長安の活躍

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に従軍、食糧・武器・弾薬輸送などの後方支援や戦後処理に活躍しました。家康の天下統一後も全国をまたにかけて手腕を振るいますが、中でも石見・佐渡・伊豆の鉱山奉行としての活躍は目覚ましく、これにより幕府の財政基盤は整えられました。さらに山林の管理による町づくりの基礎となる大量の木材の供出など、徳川幕府の礎となる働きをしました。

                                                 参考文献:はちとぴNO.21
                         (以上、HPより)

(9:01)「日本橋から46㎞」ポスト。


  「こんにゃく屋」さん。

 (9:08)その先が「追分」となります。
    
                                     歩道橋の上から。左の道が「甲州街道」。
「甲州街道」。

 道標。
    

追分の道標について
 この道標は文化8年(1811)、江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
 その後、昭和20年(1945)8月2日の八王子空襲によって4つに折れ、一部は行方不明となってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館に展示されていました。
 このたび、地元の要望を受け、この道標が復元され、当地に建立されました。2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。

      八王子市教育委員会 平成15年5月
        
左 甲州道中 高尾山口  右 あんげ道(注:案下道・「陣馬街道」のこと)

 「八王子千人同心屋敷跡」碑。
    

八王子千人同心
 江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。
 寛政12年に集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、現在の苫小牧市、白糠郡白糠町の基礎を作った。
・・・千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。
 千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至った。
・・・千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。
 八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられた。現在の八王子市千人町に、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。
 千人同心が武士身分であったかについては疑問も多い。従来は千人同心だったもの達の主張に従い武士(御家人)だったというのが通説であったが、近年に入り現存する史料などの研究が進むと、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきている。
・・・
                                       (以上、「Wikipedia」参照)
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虎の威を借る狐。衣の下の鎧(よろい)。・・・ますます政治家の劣化が甚だしい。

2017-04-17 22:13:18 | 平和
山本地方創生相「学芸員はがん」発言撤回し陳謝

 「アベ一強」体制の下で、国会議員、とりわけ自民党閣僚の劣化がひどすぎます。アベ自身もそれほど政治理念があるわけではなく、どこの誰だか知らないが、いいようにお坊ちゃま扱いで。夫妻で国の行く末をかき回しています。
 自民党は圧倒的多数という数の横暴の上に乗って、言いたい放題、やりたい放題。問題発言や行動を指摘されるとすぐに謝罪した格好をすれば、まったくおとがめナシ。
 こうなったのも、民進党があまりにもだらしないからですが。公明党も都議選を控えてじっとガマン。

 今回も何のことなくそのままスルーする気配。対する野党も内部から腰砕け状態。小池さんも本質的に(ブレーンは特に)右翼的傾向(「日本会議」派)。だからアベもケンカするなと自民党執行部には忠告。

 そういえば、谷さんを因果を含めて海外に出し、アキエさんにもおとがめナシになりそう。こうして気がついたら、「共謀罪」成立に向けて着々と強行採決路線へ。だいたい対象の犯罪に「政治資金規正法」は除外してあるというお手盛り、民衆弾圧法案。自公支持者は大賛成、反対は一部の連中、高をくくっていよいよ威力業務妨害罪の予備罪で弾圧体制成立か!

「衣の下」に「鎧(よろい)」が見え隠れ。それでも気づかぬ我が国民。
 アベ一派をはじめ、国会議員選挙で何でこんな連中ばかりを当選させたのか。有権者もsinnkokuに反省する必要がありそうですが・・・。ないでしょうね。

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狐と狸の化かし合い

2017-04-13 20:10:39 | 平和
対ロ関係「史上最低」=北朝鮮対応で中国評価―米大統領

 国際政治の常とは言え、いよいよ化かし合いが顕著に。

 でも。「敵の敵は味方」とも。「漁夫の利」とも。「一石二鳥」とも。「二兎追う者は一兎も追えず」とも。「逆鱗に触れる」とも。「窮鼠猫をかむ」とも。「取らぬ狸の皮算用」とも。「どぶに落ちた犬は叩け」とも。「急いては事をし損じる」とも。「(アメリカが)くしゃみをすれば(日本は)風邪を引く」とも。「ご主人様にしっぽを振る犬」とも。「同じ穴の狢」とも。「抱きつき作戦」とも。「馬耳東風」とも。「ぬかにくぎ」とも。「寄らば大樹の陰」とも。

 ・・・権謀術数、何が何やら攻守入り乱れて蠢く内に、果たしてどういう結末が。

 「とどのつまり」、権力争い、主導権争いをおもしろがっていると、結局、悲劇を見る(当事者になる)のは、またまた名も無き民衆。それも子どもたちか?

 欧米主導のシリア決議案にロシアが拒否権を行使するのは8回目。今回も拒否権行使は事前に予想されていた。欧米はシリアのアサド政権が攻撃に関与したとみており、採決にはアサド政権を擁護し続けるロシアの孤立化を際立たせ、圧力をかける狙いがあったとみられる。
 採決では理事国15カ国中、10カ国が賛成。ロシアとボリビアが反対し、中国、エチオピア、カザフスタンは棄権した
 否決後、ライクロフト英国連大使は「加害者を非難する国際社会に同調せず、加害者を擁護したロシアに弁解の余地はない」と非難。ヘイリー米大使は「(拒否権により)ロシアは孤立し続ける」と述べつつ、政治解決を目指す国際社会の動きにロシアも協調するよう促した。
 一方、ロシアのサフロンコフ次席大使は「決議案は客観的な調査を行う前から犯人を決めつけている。一方的で絶望的だ」と拒絶した。ロシア寄りのボリビア大使は「決議案はモスクワでの米ロの会談に影響を行使する道具に使われたようだ」と批判した。

 ティラーソン米国務長官とロシアのラブロフ外相は12日、モスクワで会談し、対テロ戦の米ロ協調を確認するとともに、関係修復に向けた作業部会を設置することで一致した。米国のシリア攻撃で溝が深まった米ロは今回の外相会談で決定的な対立を回避したが、ロシアが後ろ盾となるシリアをめぐる見解の相違は埋まらなかった。
 会談後の共同記者会見で、ラブロフ外相は「国際テロとの妥協なき戦いを共に目指すことを確認した」と説明。米国のシリア攻撃を受け、ロシアが停止したシリア上空の米ロの偶発的衝突の回避措置について「再開準備をすることを(プーチン)大統領が確認した」と述べ、協調姿勢を見せた。
 一方、ティラーソン長官は「両国間の信頼は低い水準にある」と指摘し、「世界の核保有2大国がこのような関係であってはならない」と強調。米ロが抱える深刻な問題に取り組む前段として、「より小規模な問題」の解決に向け、作業部会の設置で合意したことを明らかにした。 

(二つの記事とも「時事通信」より)

 両大国の「核」をちらつかせての腹の探り合い、なにしろ北朝鮮、シリア問題などは彼らによっては「小規模な問題」にすぎないのだから。

    
プーチン?                          トランプ?

 一説によると、狐が美人に化け、狸がおにぎりに化けたところ、腹を空かせた狐がおにぎりを食べようとして狸に負けた、ということらしいが。

 ここにパンダと秋田犬が加わって。

    
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じいさんもばあさんも生涯一働き人

2017-04-11 18:35:32 | じじばばがゆく
将来推計人口 条件付き推計を同時公表 希望出生率達成なら1億人維持 

 さすがサンケイ。アベさんの「一億人総活躍社会」実現の旗振り役を健気なほどに演じています。「希望」は「未定」なのに、何とも切ないほどの論調。

 それに対して、「毎日」などでは「働かざる者食うべからず」社会になってしまうぞ、と。

 今回の推計で、現役世代(15〜64歳)の人口は50年後、現在より4割以上減るとされた。人口構成が激変していく中、社会の担い手をどう確保していくのか。
 政府が昨年6月に発表した「1億総活躍プラン」。現役世代の男性に偏っていた働き手に、女性や高齢者にもより多く加わってもらい、経済活動の維持を図る狙いがある。今後、65歳以上の雇用延長も進める方針で、高齢者に、支えられる側から支える側に回ってもらいたい考えだ。高齢者となっても「引退」しない時代は目前に迫る。

・・・

 高齢者という「くくり」自体も見直そうという動きがある。高齢者の定義は国際的にも「65歳以上」が一般的だ。これを「75歳以上」に見直すべきだとする提言を日本老年学会などが今年1月に発表した。同学会前理事長の大内尉義・虎の門病院院長は「今の65歳以上の人は、以前に比べ元気な人が多い」と説明する。ただ高齢者の健康状態は人によってさまざま。新たな年齢の線引きを設けるには慎重な検討が必要だ。
 人手不足の中、外国人労働者の受け入れも広がっている。技能実習生や留学生のアルバイトなどとして、日本で働く外国人は昨年108万人となり、初めて100万人を超えた。政府はさらに拡大しようと昨年、法改正し、これまで農家や工場などでの労働に限っていた技能実習生の働く場を介護分野などにも広げた。今秋にも介護での実習生が来日する予定だ。しかし、技能実習生については低賃金、劣悪な労働条件などが問題になっている。また政府は移民政策は取らない姿勢で、どこまで門戸が広がるかは、見通せない。
 昨年の出生数は、1899年に統計を取り始めて以来、初めて100万人を割る見込みだ。既に現役世代は毎年50万人以上減っている。社会・経済活動を維持するための対策は急務だ。

・・・

 高齢者増がもたらすのは医療や介護など社会保障費の膨張だ。2015年度の約117兆円が10年後に149兆円に拡大。高齢化率が38・4%となる65年にどこまで膨らむか見通せない。経団連の榊原定征会長は7日、財政制度等審議会(財務相の諮問機関)会長就任の記者会見で「改革しなければ社会保障制度は持続可能性を確保できない。国民の将来不安を招き、消費停滞につながる」と訴えた。
 しかし安倍政権は痛みを伴う改革に及び腰。社会保障財源の安定確保のため12年に与野党合意した消費税率10%への引き上げを2度延期。安倍晋三首相は19年10月の引き上げを明言するが、政府内では「本気なら経済が比較的堅調だった昨年6月に先送りを決めなかったはず」(経済官庁幹部)と実現を危ぶむ声が根強い。・・・
                                         (以上、「毎日新聞」2017/04/11朝刊より)

 ここにあるように、消費税10%の道は険しい。じじばばがひとたび病気になったら、はたして・・・?

 どこの組織も若者の姿は無く、分別あるはずの年寄りのはずがどうも、というような人物が目につく昨今、特に政治家には顕著な世の中。

 ま、心身共に元気な年寄りはいいが。
 問題は、頭は冴えていても身体がいうことをきかない、身体は元気だが頭の方がどうも不自由。年々、しだいにどちらもバランス良く衰えることはなさそうな昨今。

 一方で、若者に対して、サンケイのように、ただただ産めよ、育てよ、あげく年寄りにまで「一億人活躍」と叫んでみても、無い物ねだりになっていてはいないか?

 いずれにしてもゆっくり余生を楽しむ、なんてことは夢物語になってしまう時代到来か。
 働き始めたとき(50年前)、諸先輩が老後の楽しみを語っていたのが懐かしい。 

 せめて、人生に「じじばばが行き惑う」ことがないように。

(「毎日新聞」より)
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