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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

田端銀座。中里用水。やっと駒込駅へ。谷田川跡をたどる。その3。

2013-08-31 12:33:37 | 河川痕跡
 駒込駅は、豊島区。その東側は「北区」になります。区界を追ううちに谷田川通りから西の方へ。そのままたどると、商店街になりました。「田端銀座」商店街。
(「田端銀座商店街振興組合・HP編集委員会」より引用)谷田川通りとクロスして伸びています。下町的雰囲気のお店。さびれがちな商店街が多くなった中で、まだ元気がある方ですか。
ここから北に続いています。この通りは、右が「北区」、左が「文京区」の区界になっています。文京区はこのあたりまで。
「谷田川」通りから先のようす。賑やかそうでした。
 この先で、文京区本駒込、北区中里、豊島区駒込と三つの住居表示が混ざってきます。
右の家は、「北区田端3」ですが裏手は「豊島区駒込1」、左手は「文京区本駒込5」という具合。
回り込んだところ。「豊島区駒込1」。
この通りが三つの区の区界。
駒込駅方向に進む道。
「中里用水架道橋」。駒込駅の北東にある「ガード」の名。
この道がかつての「谷田川」の流れだった。
南東方向を望む。
ガードをくぐったところから。標高からもこの場所がこの辺では一番低い。ガードをくぐるために掘り下げたということではなさそう。
北西方向を望む。この先の「本郷通り」との交差点が、「霜降橋」。
線路沿い(田端駅方向)の道はゆるやかに上っている。
田端駅よりに進んだところから、駒込駅方向を望む。谷田川(中里用水)が底にあたり、駅方向もゆるやかなのぼりになっている。やっとここまで来ました。


 今回のコース。右下が「不忍池」方向。中央が低地の部分。蛇行するように北西方向に向かっています。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
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またしても、路地裏探索。谷田川跡をたどる。その2。

2013-08-30 00:33:49 | 河川痕跡
 ここで、荒川区ともお別れ。今度は文京区と北区の区界。このあたりでも、「谷田川」跡の道路が区界ではありません。
右が「北区」、左が「文京区」。「谷田川通り」と「不忍通り」の間にある、この細い路地が区界。
 その探索の前に「谷田橋」の確認を。
「谷田橋」交差点。
ここは、JR田端駅から下ってくる道との交差点。西が「動坂下交差点」(「不忍通り」)。間違いなく、旧「谷田川」の川筋であった。谷の、いちばん底のところを流れていた。
谷田橋付近から西を望む。動坂を上った右側に「都立駒込病院」がある。

動坂遺跡(どうざかいせき)
昭和49年、都立駒込病院の外溝工事中に貝塚が確認され、2次にわたる発掘調査が行われた結果、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見された。
 縄文遺跡は、縄文中期のもので、住居跡と土器、特におもりが多く出土し、このあたりでの漁労の跡がしのばれる。
また、江戸時代の遺跡は、8代将軍徳川吉宗が復活した鷹匠の屋敷跡であった。
現在、動坂貝塚記念碑がある。(「文京区」HPより)
 
 なるほど、遙か昔には本郷台地のへりが海岸線であったことと、「鷹匠」の幟が交差点にあったわけですね。「不忍通り」は、その台地の縁を回るように西にカーブします。

 このまま駒込方面に進んでいこうと思いましたが、やはり「区界」が気になって「不忍通り」から少し路地裏の方に。
交差点にあるビルを回り込むと、そこが今度は「北区」と「文京区」の区界の道でした。右が「文京区」、左が「北区」。
反対方向。右が「北区」、左が「文京区」。「不忍通り」から一本入った小道が区界として続きます。
「谷田川通り」から直角に入った小道が区界。右が「北区」、左が「文京区」。
自転車がやっとすれ違えるようなところも。
田端駅からの道を越えても、細い路地が続きます。文京区側は、「不忍通り」に挟まれた狭い区域。右が「北区」。
「不忍通り」。少し上り坂になっています。
区界の道は「不忍通り」からは一段、低くなっています。
北区側の奥の方も高くなっています。このあたり一帯が上野台地(田端駅方向)と本郷台地に挟まれた谷の部分だという感じがします。
「今昔マップ」。明治末頃のようす。下の赤丸が現在地。上の赤丸が「田端駅」。
同。現在のようす。青い線が「田端駅」からの通りと「不忍通り」。
右が「北区」、左が「文京区」。かなり長く続きます。かつての水路跡? それにしては、本郷台地側に寄りすぎているような感じ。標高ではこの辺一帯は周囲に比べて低くなってはいます。
 「不忍通り」は後に台地の下(西側の縁)をかすめるように作られました。
「歴史的農業環境閲覧システム」より。ちょうどこのあたりの明治中期頃のようす。田んぼの中の小川という感じ。もう少し上流になると、畑が中心になります。

「同」。現在の豊島区駒込と北区中里付近。上野台地、本郷台地には「畑」、間の谷筋には「畑」と「田んぼ」。真ん中あたりに細い流れが確認できます。旧谷田川が石神井川からの流れだとすると、水量は少なくなってしまい、稲作にはあまり向かないようすです。
 石神井川が今のように王子側に流されず、そのまま南下して不忍池・秋葉原方向に流れていれば、もっと豊かな水量だったはずで、田んぼも多かったのではないか。「谷田」という名称から豊かな水量を感じさせますが。
 斜め下を進む道は「本郷通り」。本郷通りは、江戸時代に整備された日光街道の脇街道。本郷追分(文京区弥生一丁目)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流する。「日光御成道」や「岩槻街道」とも呼ばれる。本郷から駒込を抜けて西ヶ原、王子へ至る。途中に、「谷田川」に架かっていた「霜降橋」交差点がある。さらに西ヶ原を通り、飛鳥山の西側、そして、明治通りと合流する。その先は定かではない。

区界の道は、「不忍通り」とは離れて北上します。この先で、「豊島区」との区界が。
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「谷中ぎんざ」「よみせ通り」「戸野廣浩志」・・・(谷田川跡をたどる。その1。)

2013-08-29 19:12:42 | 河川痕跡
 今回は、JR日暮里駅から駒込駅までの探訪。谷田川(藍染川)跡をたどりながら、北上。
 区界も文京区と台東区だけではなく、荒川区もあり、北区も豊島区も参入してくるという、複雑な地域。川筋の跡をたどるため、周囲より低いところ、低いところとたどって北上していきますが、途中、区界が複雑に紛れ込んできて、そっちの探索の方に、ついつい。
日暮里駅から西に向かうと、階段・「夕焼けだんだん」にぶつかります。その下が「谷中ぎんざ」(商店街)。夕方、この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募で選ばれた名称だそうです。
狭い道路の両側に小さなお店が並んでいます。観光客目当てのお店が多い感じ。
北区と文京区の区界が商店街の一角に。手前が、荒川区、向こう側が台東区。上野の山から続く台地のへりにあたり、西にある本郷台地との間にはさまれた地域。この先に「谷田川」が流れていました。
「谷中ぎんざ」の突き当たりが旧谷田川沿いの「よみせ通り」。右が台東区、左が文京区。谷田川(跡)が区界になっています。
前回の「枇杷橋」から北のところ。商店街が続きます。右が台東区、左が文京区。
向かいのお店の店先に「落語寄席」のお知らせが。

初代古今亭 菊之丞(ここんてい きくのじょう)
落語協会在籍。
2003年9月 真打昇進。
2013年3月 平成24年度 芸術選奨新人賞(大衆芸能部門)受賞
 売れっ子なのか、8月の日程はびっしりでした。そういう方の古典落語を身近に聴ける、いい機会ですね。

 ここで「魚貝三昧彬(あきら)」の宣伝。(携帯で撮っているときに、魚屋から出てきてぶつかった方が、ご主人だったので)「ぐるなび」より。


 店の隣は実家の魚屋、その利点を最大限に生かし安価で新鮮な旬の魚料理をご提供致しております 
 「大胆なものは大胆に、繊細なものは繊細に、素材に手を加えすぎないよう」をモットーに旬の魚の刺身、焼物、煮物、 揚物メニューを中心に、旬の野菜を使った料理もご用意しております。
 魚料理に合う日本酒10数種類や本格焼酎も取り揃えております。
 小さい店ではのきめ細やかさで、メニュー以外でも出来るものは調理致します。
 2階は座敷になってますので各種ご会合にもご利用下さい(5名様以上の場合はご予約をお願い致します)。

にも紹介されています。

 その2階の座敷で開かれるらしい。

両側に商店が建ち並んでいるというわけではありません。
所々少し道がカーブしていて、かつての水路を想像させます。
「戸野廣浩司記念劇場」。

戸野廣浩志
 広島県出身。劇団青俳所属で、ピー・プロダクションの篠原茂プロデューサーの起用を受け、テレビ番組『快傑ライオン丸』のライオン丸のライバル「タイガージョー」こと虎錠之介役でデビュー。主役であるライオン丸を上回る人気を集めた。
 1972年に同番組のロケの宿泊先である滋賀県彦根市の国民宿舎湖城荘で夜、スタッフらとの酒席で泥酔し、風呂場に迷い込んだところ誤って転倒、ガラス戸に突っ込んで脇腹を切り、湯船に落ちて出血多量で死亡した。享年25。

 以上、「Wikipedia」で調べましたが、まったく知らなかった! 「怪傑ライオン丸」というTV番組も。
 しかし、若手の演劇人たちが彼を偲んで今も関わっていることは、すばらしいことです。
正式HPより。
えらく熱いテンションです。第3回目を迎えるとか。熱い思いが伝わってきそうです。
こんなポスターも。「若姫劇団」。「地域密着型大衆演劇」とありました。 
愛望美さんのブログでの自己紹介(勝手に引用させてもらいます)

 谷根千の愛姫・愛望美として東京都台東区谷中にある戸野廣浩司記念劇場をベースに地域密着型大衆演劇をそして地方へも行きさまざまな舞台を繰り広げております。
 沢山の方と出会い大きな市民会館、劇場、そして小さなライブハウス、健康ランドなどなど全国的に沢山の舞台に立たせて頂きました。・・・

 いろいろなところで、いろいろなかたちでお芝居が成り立っているのですね。「学生演劇」にかかわってきた一人として、プロとしての根性に声援を送ります。

「道灌山通り」を渡ったところから来た道を望む。
「今昔マップ」より明治末頃。大きいが道灌山。現在、開成中高がある高台。小さなが後の「西日暮里駅」。「道灌山通り」は高さ20㍍以上あった道灌山を東西に切り開いた。赤点が撮影地点。斜めの青線が「道灌山通り」、西北にカーブしている道が「不忍通り」(すべて後のもの)。上野から田端へと続く台地の一番狭まったところにあたる。標高は、撮影地点が6㍍、「道灌山通り」の切り通し付近で9㍍。西南の本郷台地の最高地点は、「吉祥寺」付近で23㍍。
通りを渡ると、商店は少なくなります。大きなマンション工事。来た道を振り返る。この道もやはり「谷田川」跡。左が台東区、右が文京区。しかし、左手前の住居表示は「荒川区」。「台東区」が剣の切っ先のように、「道灌山通り」を越えて入り込んでいます。
間違いなさそう。「谷田川通り」と標識に。この先には「矢田橋」が。このおうちの住所は「荒川区」。
「谷田川通り」がそのまま区界というわけではなく、ちょっと道からはずれてカーブして細い路地へ。右が「荒川区」、左が「文京区」。
この狭い路地は右に曲がって元の広い道へ戻る。左が「文京区」、右が「荒川区」。
左手前の家は「文京区」、向こう側は「荒川区」。

 ところが、広い道を越えて区界が入り込んでいます。
正面のお店と数軒が「文京区」に属しています。裏手は、「荒川区」、北隣は、「北区」。???
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池之端。不忍池。駅伝。・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その4。

2013-08-28 21:48:41 | 河川痕跡
 このあたりになると、旧藍染川の痕跡は見当たりません。

台東区と文京区との区界は、右手のマンションから中央奥へとなっていきます。ここから南は、台東区ということになります。道の曲がり方がかつての水路(左奥が上流)。明治中期の古地図(「goo地図」)ではこのあたりで二つの流れ(「藍染川」ともう一つ)が合わさって不忍池方向に流れています。また、上野の山をかすめるように南に流れる川もありました。「藍染川」は、「不忍池」に流れ込んでいる水路と不忍池の西から南にかけて流れていた水路があったようで、上流・北側から「蓮見橋」、「花見橋」、「中ノ橋」、「日見橋」、「龍門橋」と「不忍池」に行くための橋が架かっていました。
「池之端児童公園」。かつての都電の停留所跡。
 不忍池の西北に広がる地名「池之端」は、「不忍池」の近くにあることから名づけられました。
「解説板」。
「今昔マップ」より。が、かつての停留所。都電(市電)は道なりに右にカーブし、「不忍池」の縁を通って「上野広小路」方向に進んでいきました。中央が「不忍池」。
「上野動物園」の池之端口入場門。「不忍通り」沿い。
 こうして横道をしながら、やっと「不忍池」に到着しました。「不忍池」は上野公園(東京都台東区)の中にある自然にできた池。
 周囲は約2km、全体で約11万㎡。北は、上野動物園西園、東は、京成上野駅、南と西は、「不忍通り」に接し、池の中央に弁天島(中之島)があり、池は、蓮池、ボート池、上野動物園の中にある鵜の池と三つに分かれています。
 「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことですが、異説もあるようです。江戸時代以前より既に「不忍池」という名で呼ばれていた、とのこと。
 縄文時代には、この辺り一帯からずっと南方まで東京湾の入り江だったと言われ、上野台地、本郷台地の南東のへりがかつての海岸線だったようです。その後、海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろには池になっていたと考えられます。上野公園には、古墳時代の遺跡が残されています。(「不忍池」の標高は5㍍、上野公園の標高は「東京文化会館」付近で16㍍。「今昔マップ」による。)

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)「藍染川」の一部が、「不忍池」には流れ込まず、西側、そして南側を流れ、広小路付近に向かうようすが分かります。(まだ鉄道が上野に開通していない頃)
拡大図。池の中央に「弁天島」がすでにあります。現在、ここにユニークな石碑が多いことで知られています。
同。
上野の山では、「博覧会」がたびたび行われていました。
「案内図」。上が広小路方向。
広々とした池。ボート場になっています。1931(昭和6)年に、現在まで続く貸しボートの営業が開始されました。
カップルで乗ると、別れることになるとか、いや、この池じゃなかったでしたか?
蓮の池。蓮の花が咲いていました。
びっしりと蓮の花が。
池畔にある「駅伝の碑」(2002年 財団法人日本陸上競技連盟)。博覧会開催の時に始まったそうです。スタートは京都・三条大橋。ゴールが博覧会正面。3日間に及ぶ長丁場の駅伝。


 明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なり、池の北側は今よりもかなり広くなっていました。(注1)

 1884(明治17)年、戸山が原の競馬場が移され、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がりました。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、さらに、1892(明治25)年まで春と秋に競馬が行われました。(注2)

 戦後の一時期、水が抜かれて水田(不忍田圃)となったこともありました(昭和22年の航空写真で確認できます)。

 現在、池への流出入河川がありません。水源は、若干の自然湧出地下水のほかは、以前は井戸水および近接する京成電鉄京成上野駅地下ホームからの湧出地下水を人工的に汲み上げ放流したものでした。
 これだけでは水質保持・水量保持が難しいことから、2003(平成15)年よりJR上野駅新幹線地下ホームからの湧出地下水の汲み上げ放流も始まりました。これにより、水量は一応の安定を見ている。JR、京成とも湧出水を提供することで、そのまま下水に排出した場合にかかる下水道料金を免除されている、とか。(以上、「Wikipedia」参照)

注1:「ginjo.fc2web.com/198okubyou_genbei/sinobazunoike_map.htm」‎には、地図による変遷の詳細な記録があります。
その中で、江戸末期の絵図をお借りしました。(右が北)
注2:(「homepage2.nifty.com/keibastamp/newpage125.html」)には、不忍池競馬場のことが貴重な写真・絵はがきなどで実に詳しく紹介されています。その中から、1枚お借りしました。
「第100回天皇賞競走記念切手発行記念台紙:浮世絵 武蔵府中郵便局作成」(平成元.10.29)
このカーブ。
この辺りは、直線コース? 競馬場時代のコーナーのままの道? 何だかそう想像するだけで、楽しくなります。

「上野公園」下。秋葉原方向を望む。



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「あまちゃん」。音羽屋。路地裏。・・・台東区と文京区との区界をたどる。その3。

2013-08-27 20:49:58 | 河川痕跡
 谷中の寺町へ向かう坂道。「三浦坂」。江戸時代、三浦志摩守の下屋敷前の坂道だったので名付けられた。「中坂」とも。
この坂を登り切った左側に「大名時計博物館」があります。



 大名時計博物館(だいみょうとけいかぶくつかん)は、東京都台東区谷中にある時計の博物館である。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗に収集された江戸時代の大名時計が公開されている。

(以上、「Wikipedia」より。写真も。)

「あまちゃん」NHK連続テレビ小説(2013年)で、外観が「まごころ第2女子寮」として使われていた、とのこと。そのせいか、坂を登っていく若い人たちがいました。が、「あまちゃん」も、もうじきおしまい。『やられたら倍返し』とすごむ堺雅人の快(怪)演で、「あまちゃん」を超える高視聴率をマークしている「半沢直樹」に話題が移りそう。

西側(「不忍通り」方向)を望む。
三浦坂への道沿いのお店。「無遊舎 音羽屋」。ネコにちなんだ創作陶芸作品などが展示、販売されています。
「Nostalgic TOKYO ~谷中・根津・千駄木~qppp3.exblog.jp」さんで、詳しく写真入りで紹介されています。その一部を引用させてもらいました。

・・・「なんとも憎めない猫の仕草。ウィンドウを前に、ニヤニヤしてしまうほど、キュートで愛らしい置物。ニコニコ動画で“ねこ鍋”がブームとなっていましたが、ねこ鍋ならぬ、ねこ茶碗もカワイイですねー!
ここは谷中、三浦坂の坂下(ねんねこ家さんから根津方面に下ったあたり)の「無・遊舎 音羽屋」。自宅の一部を開放し、作家さんのオリジナルアイテムを販売しているそうです。」・・・
 
 この方のブログではありませんが、見所たくさんの「根津・谷中・千駄木」です。

道の東側から奥の方まで古くからのお寺さんがたくさん集まっています。
来た道を振り返る。右が台東区、左が文京区。
「不忍通り」と「言問通り」との交差点(千代田線「根津」駅)付近から西(「弥生坂」方向)を望む。奥の方に東大の農学部・工学部などのキャンパスがある。
「言問通り」を渡って南に進む。心なしか道が細くなっています。右が文京区、左が台東区。
さらに進むと、なんとこんな路地裏の道になってしまいました。これが区界になっています。
住居表示は、「台東区池之端」。
交差する広い道から区界をのぞき込む。
前を撮ったり、振り返って撮ったりしているうちに、どっちが台東区でどっちが文京区か分からなくなった!
左右に横切っている道が区界。向こうが文京区、手前が、台東区。
かなり長く続く細い一本道。これが「藍染川」跡? 下水道がこの下を流れてはいるようです。
地元ではない人間が通ると、少し気後れがします。他人様の家の軒先を歩くのですから。誰ともすれ違わなくてよかった!
やっと広い道にぶつかりました。振り返って望む。右が台東区、左が文京区。


 以前、投稿した「蟹川」跡の文京区と新宿区との区界歩きの状況とそっくりでした。(再掲)
この細い路地が文京区関口1丁目と新宿区水道町の区界。右が文京区、左が新宿区。「新目白通り」から少し入ったところ。直線の反対側・神田川には「古川橋」があります。
印刷会社の路地。区界の、すれ違うこともできないような細い道が一直線に「商店街」の先まで続きます。右が文京区、左が新宿区。

 わずかな距離なのに実に発見の多い「旅」でした。やっと「不忍池」に着きます。
「不忍池」の西、「不忍通り」沿いの高層建築が見え始めました。
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へび道。「木曜手帖」。「鷹匠」。・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その2。

2013-08-26 22:05:58 | 河川痕跡

 通称「へび道」というように、曲がりくねっています。両側は住宅が建ち並んでいます。大正期に暗渠になり、家の玄関もこちら向きになったのか。細い路地のような水路になっています。
文京区側にはこうした細い路地があります。隅田川以東の雰囲気。まさに下町です。その先は、「不忍通り」。
振り返ってみたところ。右が台東区、左が文京区。
この道をタクシーなどが通ります。さすがに一方通行ですが。
しばらく進むと、広い通りになりました。区界も分かりやすく。それでも、カーブが昔の川の流れを。
「藍染川」の流路跡?拡幅したようです。
「旧根津藍染町」という標識。
「木曜手帖」。さりげなく置かれてありました。

「木曜会」主催の公式サイト「mokuyou-tetyou.jp」より、借用。

※以下は、公式HPより。

 第二次大戦後、サトウハチローが呼びかけ、藤田圭雄、野上彰等を中心にサトウ家に集まって日本の文化について話し合っていた木曜会が、詩の勉強の場になっていき、作品発表の場として生まれたのが『木曜手帖』。しばらくはガリ版刷りで出していたが、1952年5月、多くの童謡の作詩愛好家に呼びかけて、活版刷りの月刊同人誌『木曜手帖』を創刊した。
 はじめの数年は童謡専門誌をうたって、吉岡治、片岡政子などが活躍していたが、2周年記念号で、木曜会木曜賞が授与されるようになり、ここでは若谷和子が木曜賞、名取和彦が努力賞を受賞。3周念記念号では若谷和子が菊田一夫賞、名取和彦が木曜賞、宮中雲子が努力賞を受賞していて、次第にメンバーが変化していったことが伺われる。
 内容においても社会の変化に加えて、恋の詩も出てくるようになり、童謡専門誌とばかりはいえなくなっていった。
 200号でサトウハチローが他界すると、それまでサトウハチローを中心に若谷和子、宮中雲子でやっていた主婦の友通信教室で学んだ人たちも入ってきたことにより、日々の生活をうたった詩が増えていった。しかし童謡を書く人を育てるという本来の目的を貫き、子どもの詩の頁を絶やすことはなかった。
 現在、社・日本童謡協会の会員も多く、宮中雲子は副会長。宮田滋子は常任理事を勤めている。
 同人誌『木曜手帖』は600号で終刊となったが、『木曜手帖』の編集委員から、西脇たみ恵、瀬野啓子、尾崎杏子、滝波万理子、それに宮中雲子、宮田滋子が加わって、引き続きインターネット木曜手帖の編集委員を勤める。

 詩の好きな方はどなたでもどうぞ!
 今、あなたの心に浮かんでいる思い…その思いをつかまえてみませんか?
 詩を書くことで、あなたの思いをつかまえることができるのです。

この通りは新たな発見がある町並みです。

「鷹匠(たかじょう)」。でも紹介されています。この時は、すでに満席でした。
 ちなみに、「不忍通り」の「動坂」交差点の幟に「鷹匠・・」とありました。そこで、蘊蓄を。

 初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざ(?)に「一富士二鷹三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」があります。
 一説によると、江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が特産物だったことに由来するそうです。「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれました。『一番に富士山 二番は御鷹匠屋敷 三番は駒込茄子』と駒込の郷土自慢を指折り数え上げたもの。それが縁起のいい初夢になったというわけ。

 「駒込富士神社」は、「不忍通り」が本郷台地沿いに西にカーブし、「本郷通り」と交差する手前にあります。このお店の位置関係からすると、直接的な関係はなさそうです。 

「茶室」。
「汐花 SEKKA ・BORDERLESS SPACE」。

「www.enjoytokyo.jp」(「レッツエンジョイ東京」)さんより。‎

 谷根千の元酒屋をスケルトンにしたギャラリーです。一面ガラスの明るい開放的な空間で、アウトサイダー・アートから江戸の職人技まで楽しめます。



 ところで、このあたりが小説の舞台になっていて、とても気になっていた『三四郎』の一節より。
(三四郎は美禰子に誘われて、広田先生たちと団子坂で開かれている菊人形を見に行く。)
「もう出ましょう」
 眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。
 二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
 女は人込みの中を谷中の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
 三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
 二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。
 三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。
「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」
 女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。
「ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。
「休みましょうか」
「ええ」
「もう少し歩けますか」
「ええ」
「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」
「ええ」
 一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。
 向こうに藁わら屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。
「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手はでな着物のよごれるのをまるで苦にしていない。
「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。
「ありがとう。これでたくさん」
「やっぱり心持ちが悪いですか」
「あんまり疲れたから」
 三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。
 ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。
「空の色が濁りました」と美禰子が言った。
 三四郎は流れから目を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのははじめてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。
「重いこと。大理石(マーブル)のように見えます」
 美禰子は二重瞼を細くして高い所をながめていた。それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。そうして、
「大理石のように見えるでしょう」と聞いた。三四郎は、
「ええ、大理石のように見えます」と答えるよりほかはなかった。女はそれで黙った。しばらくしてから、今度は三四郎が言った。
「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」
「どういうわけですか」と美禰子が問い返した。
 三四郎には、どういうわけもなかった。返事はせずに、またこう言った。
「安心して夢を見ているような空模様だ」
「動くようで、なかなか動きませんね」と美禰子はまた遠くの雲をながめだした。
 菊人形で客を呼ぶ声が、おりおり二人のすわっている所まで聞こえる。
「ずいぶん大きな声ね」
「朝から晩までああいう声を出しているんでしょうか。えらいもんだな」と言ったが、三四郎は急に置き去りにした三人のことを思い出した。何か言おうとしているうちに、美禰子は答えた。
「商売ですもの、ちょうど大観音の乞食と同じ事なんですよ」
「場所が悪くはないですか」
 三四郎は珍しく冗談を言って、そうして一人でおもしろそうに笑った。乞食について下した広田の言葉をよほどおかしく受けたからである。
「広田先生は、よく、ああいう事をおっしゃるかたなんですよ」ときわめて軽くひとりごとのように言ったあとで、急に調子をかえて、
「こういう所に、こうしてすわっていたら、大丈夫及第よ」と比較的活発につけ加えた。そうして、今度は自分のほうでおもしろそうに笑った。
「なるほど野々宮さんの言ったとおり、いつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね」
「ちょうどいいじゃありませんか」と早口に言ったが、あとで「おもらいをしない乞食なんだから」と結んだ。これは前句の解釈のためにつけたように聞こえた。
 ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て髯ひげをはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影を見送りながら、三四郎は、
「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。
「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、
「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
「だれが? 広田先生がですか」
 美禰子は答えなかった。
「野々宮さんがですか」
 美禰子はやっぱり答えなかった。
「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」
 美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。
「迷子」
 女は三四郎を見たままでこの一言ひとことを繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子ストレイ・シープ――わかって?」
 三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間であると自覚している。
 迷える子ストレイ・シープという言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。
「私そんなに生意気に見えますか」
 その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
 三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻もどせるものではないと思った。女は卒然として、
「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調くちょうであった。
 空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。
「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」
「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、
「ストレイ・シープ」と長く引っ張って言った。三四郎はむろん答えなかった。
 美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。藁葺のうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。
「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」
 女は片頬で笑った。そうして問い返した。
「なぜお聞きになるの」
 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「ストレイ・シープ」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。
(www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html‎「青空文庫」より拝借しました。)

 行動範囲は、団子坂から現在の不忍通りを横切り、そのまま三崎坂・谷中方向へ。途中から橋(「枇杷橋」?)を渡って左に曲がり(北上し)小川(「藍染川」?)を渡り返して千駄木側へ。そして、川縁の草地に腰を下ろす。
 ということは、「よみせ通り」沿いに歩いていたことになりますか? いや、もっと西寄りに「藍染川」ではない小川があったのか?

1880年(明治13年)頃のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 中央東西の道が「団子坂」と「三崎坂」(今よりも幅が狭い)を通る道。北が駒込方面。東が谷中・天王寺方面(JR「日暮里駅」方面)。西が本郷。
 中央南北に流れる川が「藍染川」(現在の「よみせ通り」から「へび道」付近)。周囲は田んぼや畑。ここから駒込、中里一帯、石神井川にかけての谷地には田畑が続きます。
上の拡大図(現「よみせ通り」付近)。

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藍染川(谷田川)跡。笑吉。枇杷橋・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その1。

2013-08-25 20:13:37 | 河川痕跡
 神保町まで出かけたついでに、ちょっと寄り道。地下鉄千代田線「千駄木」にて下車。そこから不忍池まで歩きました。約1時間。千駄木付近から谷中にかけての道は「ヘビ道」とも呼ばれ、かつての「藍染川(矢田川)」の流れ跡で、台東区と文京区の区界になっています。
 藍染川(「谷田川」とも)の成り立ち(水源)は、染井墓地付近からの湧き水などが集まってほぼ南(「不忍池」方向)に流れていた、という説と、北にある「石神井川」から飛鳥山の西側で分水した流れ、という説があります。石神井川からの分水という説が濃厚のようです。ただ、この場合、本流の「石神井川」は飛鳥山の下から東に向かい隅田川に流れ込んでいますが、それがどういう風にそうなったのかにも説があるようです。縄文時代の河川争奪説、江戸時代初期に度重なる洪水防止のために人工的に流路を開き、東に向かわせたという説などがあります()。

「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治中期のようす。赤丸が「飛鳥山」、その西側の、水色の線が「谷田川(藍染川)」の流路。上方が「石神井川」。明らかに分流した流れであることが分かります。中・下流は周りは水田でその中を用水路のような細い流れですが、くねりながら南に流れていきます。駒込の北西・染井は地図のもっと左下になります。

 石神井川から切り離された後は、上野台地と本郷台地の湧き水による小河川が流路(跡)に流れていたようです。
 もっと大昔には、(旧)石神井川が上野の山の西側を通り、秋葉原の先で東京湾に注いでいたようです。武蔵野台地の東端にあるのが上野の山。そこから北へ、日暮里、道潅山、飛鳥山と台地が続きます。藍染川が、谷中、根津と谷を南下し、不忍池に。上野の山から飛鳥山の台地と本郷台地との間の谷間が藍染川の流れになっています。

「今昔マップ」より。明治末期から大正にかけてのもの。緑色の部分が低地(谷)、赤い部分が高地(丘)。中央の蛇行している部分が藍染川(支流を含む)が流れていた谷の部分。右の赤い部分が上野(忍ヶ丘)から飛鳥山の台地。左の赤い部分が本郷台地。上流から王子付近まで続く石神井川の谷底低地が、飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台と上野台の間の底低地へと地形的に連続していることが分かります。
同じく「今昔マップ」より現代のようす。現在の上野広小路付近で東側の低地と合流しています。真ん中下の池が「不忍池」。
 「今昔マップ」のすばらしい特徴の一つに、高低が色分けで表示される上に、カーソルで地図上を追うと、メートル単位で標高が表示されることです。これは、河川の跡をたどるには大変便利です。基本的にはその地域で一番低い地点を川が流れていたわけですから。上流、下流どちらにも進めます。今回もそれを活用させていただきました。

 この地には染物や洗張を生業にする商店が集まっていため、藍染川と呼ばれていました。明治期には川幅約3メートルの細流となっていて、漱石の名作「三四郎」で美禰子さんが「ストレイシープ」とつぶやくのもこの川のほとり(近くの水たまり?)。
 現在の「石神井川」は、JR王子駅付近は飛鳥山にぶつかるような形になっているため、1958年の狩野川台風では、洪水が発生し、王子駅の改札口が冠水するなど北区だけで5000世帯が被害にあった。つい最近でも集中豪雨であっという間に水があふれ流域を水浸しにしました。そのため、今、流路変更の大工事を行っています。

:「Wikipedia」による)
①縄文期の河川争奪説
 1976年、東京都土木技術研究所の中山俊雄らはボーリング調査による石神井川と谷田川沿いの地質断面図を作成し、石神井川の流路変遷を論じた[7]。彼らは、谷田川から不忍池を経て昭和通りにいたる地下に基底が-20mに達する埋没谷が存在すること、石神井川下流の王子から隅田川合流までの地下に埋没谷が存在しないこと、流域の小さい谷田川のみで昭和通り谷が形成されたとは考えがたいことを指摘。昭和通り谷の形成時期に谷田川がその上流で石神井川でつながっており、これが石神井川の本流であったと結論づけた。また、立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500-2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。
 1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を発表した[8]。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、14C年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川が本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った、と結論づけた。
 北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき、縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている。
③中世以降の人為掘削説
 歴史研究家の鈴木理生は1978年の自著において、石神井川が現在の石神井川と谷田川に分断されたのは人為的な工事の結果であると主張した。鈴木は飛鳥山付近の台地が東から広義の利根川、西から石神井川の浸蝕を受けて人為的に短絡しやすい地形であったこと、「滝野川」という地名が登場するのは13世紀後半に成立した『源平盛衰記』以後のことで、正史の『吾妻鏡』には見られないことなどから、この間に人為的な掘削があったと推論した。この工事は、豊島氏による下町低地への灌漑水路の開発、または矢野氏による洪水防止の工事であったと鈴木は推定した。
 後、2003年、鈴木は大著『江戸・東京の川と水辺の事典』の中で、上述の中野らによる自然現象説を紹介するとともに、再び人為変更説を主張した。まず鈴木は『源平盛衰記』に「滝野河」の名前があるのは、この時期にすでに滝のような水流で渓谷ができていたと解釈できるとして、この時期の工事説は述べなかった。代わりに、江戸時代に刊行された多くの地誌で不忍池とお玉が池の説明ぶりが不自然である点、軍用道路であった岩槻道(現在の本郷通り)は石神井川をまたぐより台地の縁沿いに通るほうが自然である点を指摘し、江戸氏・太田道灌・後北条氏あるいは徳川氏初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたと主張した。
④そのほかの説
 2008年11月14日放送のテレビ番組『タモリ倶楽部』では、石神井川の流路変遷について取り上げられた。番組の中で漫画家の江川達也は、石神井川が上野台地を貫いて東へ流れているのは、江戸時代の治水工事によるものと主張。それに対し、出版社之潮社長の芳賀啓は『寛永江戸全図』を示し、江戸時代初期にはすでに現在の流路をとっていたと分かっていると反論。また、石神井川下流へ人工的に流したとすると直線的に隅田川に流れるはずだとする説を唱えた。
 
 このへんのやりとりは、とてもおもしろい。が、今回は現地のようすを!
「よみせ通り」。商店街が続きます。上流方向を望む。かつては、川に沿って夜店が並んだのか?
 次の機会はこの道を上って行くつもり。今回は、不忍池方向へ。
 ぶらり歩いて気になったお店。
ガラス細工のお店。
 そして路地を覗くと。
「笑吉」。指人形のお店。公演も見せてくれる。時間があったら立ち寄りたかったが。そこで紹介。

さんより。)
さんでも紹介しています。
南(下流)を望む。
交差点にある説明板。「枇杷橋跡」。「合(藍)染橋」とも。
 《解説文「藍染川と枇杷橋跡》

「文京区と台東区の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原へ、さらに駒込村から根津谷へ入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園の入口のところ)で忍川となり三味線堀から隅田川に注ぐ。
川の名は上流から境川、谷戸川(矢田川)、藍染川などと呼ばれた。藍染の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川端に染物屋があり、川の色が藍色に染まっていたからなど。前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』によれば、この橋は合染橋、藍染橋、琵琶の橋(のち枇杷橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町には同名の橋があった。
この川は水はけが悪く、よく氾濫したので大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境となっている。」

 ここでは、染井付近が水源となっています。石神井川からの流入が減少した藍染川(旧石神井川)に流れこんでいた小さな流れの一つだったと思います。(文京区としては「北区」の説には与しなかったのでしょう。)
 このあたりは、東西の台地にはさまれ、けっこう幅の広い谷筋で、田んぼなどの間を通る小さな川が幾筋もあったようです。上記の解説文にもある、もう一つの「藍染橋」は、もっと西南の旧八重垣町(現在の根津2丁目付近)、「不忍通り」のすぐ東側にあった流れに架かっていた橋と思われます。

角にあるお蕎麦屋さん「大島屋」。風情のある建物です。
交差点(枇杷橋跡付近)から東を望む。緩やかな坂道(三崎坂)になって上っていきます。
西側(文京区側)を望む。「不忍通り」をはさんでやはり坂道(団子坂)になっています。(「不忍通り」は、本郷台地のへりを進む。そのためこの先北方で大きく西に曲がる。)東西に広い幅になっている谷筋を流れていたことが分かります。
先ほどの商店街の通りとはうって変わって細い曲がりくねった道が住宅街の中を南に向かっています。右が文京区、左が台東区。
かつての流路を彷彿とさせるような通り。
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「風立ちぬ」(宮崎駿)ジブリ

2013-08-24 23:48:12 | 素晴らしき映画
注:ポスターは、より拝借しました。
 実は宮崎駿さんの作品を劇場で観たことはなく、すべて我が家のTV(ビデオ)で。それも途切れ、途切れで。今、映画館で観るアニメは孫にせがまれてみる「ドラえもん」「ポケモン」くらい。

 今回の作品。今のご時世の中、ちょっと気になるテーマでもあったので観に行きました。さまざまな批評、感想が多く語られているので、あえて触れず。一点だけ。「風」。

 「風」。「風立ちぬ。いざ生きめやも」。ここでの「風」は肌に心地よい風のイメージ。風に吹かれる、その中での息づかいがこうした表現につながっていくような印象。
 しかし、今、政治でも経済でも教育でも、あらゆる分野で、風向きがおかしい。ふわっとした風によって(そういうふうにみせかけながら意図的に吹かせる「風」によって)、ふわっとした気分での行いが、静かに静かに進んでいき、いつしか実体化し、その現実の中で、気がつけば、右往左往する・・・。

 しかし、映画で吹く「風」はいつも激しい。さわやかな「風」では、けっしてない。二郎と奈緒子の初めて会う場面でも、再会の場面でも吹く風は激しい。大震災の地鳴りとともに激しい火災によって巻き起こされる旋風。飛行機のエンジンから出る風も激しい。蒸気機関車から吹き出す黒煙も穏やかではない。しかし、そうした「風」が立ってしまった(立ち始めてしまった、巻き込まれてしまった)としても、その中から(その中にあってこそ)生きなければならない。そんなメッセージ性を強く感じました。
 時代の中で、激しい風に対抗する毅然とした姿勢と、そして、静かに心地よさそうに吹く風の本質を見抜くという大事な感性を失わないこと、こんな「生」き様を、今こそ必要としているようです。どんな風にも乗って悠々と、時には風をうまくつかんで、時には逆らって飛ぶ「美しい」機能美の飛行機になぞらえて。
 戦時下の飛行機は、あくまでも機能的な「残酷な兵器」。海軍零式艦上戦闘機いわゆるゼロ戦。1940年から三年間、ゼロ戦は世界に傑出した戦闘機であったのですが。

・・・
 私達の主人公が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気もはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能において最も抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。
 この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は、”風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公”二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会いと別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を越えた彩りをそえて、完全なフィクションとして1930年の青春を描く、異色の作品である。
 描かねばならないのは個人である。
 リアルに
 幻想的に
 時にマンガに
 全体には美しい映画をつくろうと思う
・・・
(2011.1.10 宮崎駿)

 ラストシーンは、印象的でした。荒涼とした野の、吹きすさぶ風の中に立つ主人公。

堀辰雄「風立ちぬ」。
 余談だが、芥川龍之介、堀辰雄、立原道造は、文学上でお互いに影響を受けたが、3人そろって府立三中(現都立両国高校)の先輩、後輩の関係でもある。
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静かに、静かに・・・。

2013-08-22 00:26:59 | 平和
「教育的配慮は必要」=はだしのゲン閲覧制限に下村文科相(時事通信) - goo ニュース
 またしても静かに既成事実を重ねていく。あの橋下さんも追従するのではないか。こうして一部のマスコミの騒ぎをコントロールして行く気配。当事者は再閲覧も含めて検討しようとしている、その出鼻をくじく?
 「教育的配慮」を前面に出して行うのが、常套手段。松江市民(大久保で「騒ぐ」例の団体につながっているとも)の意図は、「この漫画は、日本および帝国軍隊への誤った歴史観を植え付ける」から、という主張だったことに注意をする必要がある。残虐性云々は彼らの本質的な狙いではない。
 東電の福島事故対策も、静かにしたかったのに・・・。最大、痛恨の誤算!
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八方塞がり。八方破れ。八方睨み。四面楚歌。・・・。

2013-08-21 20:17:32 | 格言・ことわざ
タンク汚染水漏れ、「レベル3」相当 福島第一原発(朝日新聞) - goo ニュース
 産経の見出しではないが。さすがの産経も憂いている? 

八方塞がり=どの方面にも進めず、手の打ちようがないことのたとえ。
【注釈】
 「八方」とは、東西南北・北東・東南・南西・西北の八つの方角のことで、あらゆる方角を意味する。
 陰陽道の占いで、どの方角で何をしても不吉だということから、転じて、どこにも抜け道がなく、誰にも信用されず途方に暮れていることもいう。
【注意】
八方を10進法の8とするのは誤り。
《誤用例》 「占いで八方塞がりと言われたが、ポジティブに考えよう。残りの二方が良いならいいじゃないか」
【英語】
I am in a pretty fix.
より。
 
 誤用例みたいな用い方があるとは! あり得ない感じですが。前向き志向もここまでくると「東電」 並み。

 それにしても、相変わらずの東電の発表。小出しにして、重要な事態を後から。参院選挙直前の「流出」もそういうやり方。小児の甲状腺がんも確実に増えているのに、原発事故の影響ではない!と。しかし、さすがに住民の不安が大きいため、診断の方法、周知のしかた、今後のことなど、再検討へ。
 各地の原発推進派は、これでも、福島の現実を気にしながらも、ああした事故は今後はない(はず)と、地元経済・雇用のためにはやむをえない、と。・・・。
 今の福島原発事故処理。「八方塞がり」というよりも、「八方破れ」が正しい言い方。「八方破れ」=備えがなく、いたるところすきだらけであること。(「デジタル大辞泉」より)
 せめて「八方睨み」になっていなければならなかった事態。

 いよいよ東電など原発推進派を「四面楚歌」の状況に追い込むしかないでね。

「四面楚歌」は、高校の漢文の教科書でおなじみ。

 紀元前203年、天下取りで長く対峙していた項羽(楚)と劉邦(漢)両軍であったが、天下を二分することで盟約が結ばれ、楚軍は本拠地の彭城への帰還を始めた。劉邦は張良・陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。
 漢軍は楚軍を追って固陵という所まで進み、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
 韓信・彭越の2人は、劉邦との恩賞の密約がなって、軍勢を率いて劉邦に合流。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚軍の周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と垓下の劉邦の下に集結した。
 漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔熙と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。
 戦いに大敗した項羽以下、楚軍は防塁に篭り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。
 夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領してしまったのか、楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から「周囲を敵に囲まれること」を「四面楚歌」というようになった。(あたかも取り囲む周囲で「楚」の歌が聞こえたのは、劉邦の巧妙な作戦だったという説もあり。)

 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人(ぐびじん)という愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。別れを惜しみ、項羽は自ら詩に詠んだ。

力拔山兮 気蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋う
時不利兮 騅不逝 時利あらず 騅逝かず
騅不逝兮 可奈何 騅逝かず 奈何(いかん)すべき
虞兮虞兮 奈若何 虞や虞や 汝を奈何せん

 虞美人もこれに唱和し、項羽は幾筋もの涙を流し、臣下の者たちも、皆、涙した。
 宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城に辿りついたときには、項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。
 ここで項羽は、配下の者に「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、私に軍事的な力がないからではない。これから漢軍を破り、それを諸君に知らしめよう」と言い、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
 項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場の役人)は項羽に「江東は小さいが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で再び王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と告げた。
 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の民たちに何の面目があって会うことが出来ようか。」と、亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。
 項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を奪い合い、結局遺体は5つに分かれてしまった。
 項羽の死によって約5年続いた楚と漢の戦いは終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くことになった。
(以上、司馬遷『史記』を参照)

 もちろん、そう簡単ではありませんが。
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電撃ネットワーク。宇崎竜童。「The4rd Sumida Street Jazz Festival」。その2。

2013-08-19 19:20:09 | 世間世界
 二日目。かなり暑い! 最初は、「鈴木興産」。ここの門前には、二つの公演のポスター。練習会場になっているのでしょうか、時々通ると、お目当ての出演者を(有名な俳優陣も来るらしい)待ち構えるファンもいます。
「かもめ」は観てみたい。
「北斎通り」と「大門通り」との交差点近く。「アルカウエスト」のコンコース・フロア。ビッグバンドの演奏。涼しい階段に座ってじっくり。
JRAの裏手。もうずらり並んだ屋台風の飲み屋は馬券買いのお客さんが。その角で、演奏。昔懐かしい一角です。
錦糸町駅南口・丸井の店先。
南口広場。けっこう人通りが激しいが、立ち止まる人は少し。競馬新聞に見入る人が目につきます。
「LIVIN」の前。若い演奏者たち、西日をいっぱいに受けて頑張っています。ここは、正しくは「東京楽天地」ビル。大昔には、ここには「汽車製造工場」があって、駅前には伊藤左千夫の営む牧場があったとは・・・。
見上げると、天井に映る姿。
錦糸町駅北口。すてきな女性ボーカルのチームが演奏。激しい風に楽譜も飛ばされる中、負けずに。
メイン会場の一つ。訪れる皆さんは場慣れしていて、簡易な折りたたみいすを持参しています。必需品?
若い男性4人のコーラスチーム。全員「絶対音感」の持ち主だとか、すてきなハーモニーでした。見ている方もゆうくり落ち着いた雰囲気で。
やけにハイテンションなグループ。割り箸をお尻に刺して割ったり、牛乳を飲んで眼から出したり、股間をゴムで打ったり、らしいですがよく見えなかった。・・・、異様な盛り上がり。
初めて生で見ました、「電撃ネットワーク」。「ジャズ」を楽しみにやって来たお年寄りには、かなり刺激的。でも、おもしろい!
 盛り上がった最後に、訴え。メンバーの一人が重い肺がんに。あんな過激で卑猥なパフォーマンスの陰に。あれじゃあ常人ならとっくに病気になってしまいます。が、体を張っての演技に対しては。
 そこで、こちらも「応援」のつもりで。
「gree.jp/nambu_torata/blog/entry/670807001 2013/08/04 - 南部虎弾 公式ブログ/」を転載。

がんばれ三五十五!」電撃ネットワークの『電撃魂』Tシャツ販売スタート!
ホームページでもご報告させて頂きましたが電撃ネットワークのメンバーである三五十五がかなり重い肺癌の療養に入りました。
「がんばれ三五十五!」とし、Tシャツを販売させて頂きます。
売上金(製作費を除いた)は三五十五の療養費・子供達の育成等に使用させて頂きます。
皆様のご声援の程、何卒よろしくお願いします。
申し込みはライン
info@digdig.co.jp
でお願いします
価格:3,150円
カラー:ホワイト / ブラック
サイズ
S/着丈66cm 身幅48cm 袖丈 18cm
M/着丈69cm 身幅52cm 袖丈 19cm
L/着丈72cm 身幅55cm 袖丈 20cm
XL/着丈75cm 身幅58cm 袖丈 21cm
素材:コットン 100%
【送料】
全国(沖縄本島及び一部離島を除く)均一525円です。
沖縄本島→1,500円
税金について
内税表示
※税金は販売価格に含まれています
Tシャツのオンライン販売を下記サイトで行っています。
(カード決済可能となっております。)
http://www.digot.jp/product/1853
 以上、つい情にほだされて・・・。

すでにとっぷりと日も落ちて。30分以上、押しています。まさに「たそがれ時」。「オリナス」の明かりがくっきりと。
お目当ての宇崎竜童さんが登場する頃にはとっぷり暗くなって舞台だけが煌々と。一段と盛り上がってきました。が、携帯写真ではもう撮れない明るさ、残念!

 盛大な拍手と歓声でむかえられた宇崎さん。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』、『イミティションゴールド』『想い出ぼろぼろ』など懐かしい「歌謡曲」を、さすがジャズ調にアレンジしてのすばらしい熱唱でした。
 サングラスを観客に向かっていくつも放り投げ、そのたびに、隣の二人連れの60代前半のおばさん「サングラスを取るとかわいいわね。」「私たちと同じくらいの年齢のはずよね。」・・・。そんな年回りなのか、彼もすでに、と思わず・・・。そういえば、耳に補聴器のようなものをつけていました。
 さっそく「Wikipedia」で調べたら。

 宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日 - )は、日本のロック歌手、作曲家、俳優、映画監督。京都府京都市出身。
 1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。
 妻は作詞家の阿木燿子で、「作詞阿木・作曲宇崎」のコンビは山口百恵の全盛期を支えた。
 ついでに「Wikipedia」から写真も拝借。この写真通りの本人でした(当たり前ですが)。


 と、なるほど。昭和21年生まれ。もうすでに67歳なのか。元気ですね! この世界には、「老年の星」がまだまだたくさんいるようです。もう数え切れないくらいのすばらしい楽曲を世に出してきています。(なお、過酷な作曲、演奏活動の末に難聴を患い、音楽活動を控えた時期もあった。現在は補聴器を使用しながら作曲などをこなしている、ともありました。)
 少し元気をもらったようです。感謝、感謝。7時間以上、気がついたらわずか200ccのポカリしか飲んでいなかった! 脱水症状になりそうな・・・、年寄りの冷や水(は必要)でした。

実行委員長が1歳になる我が子をだっこしての挨拶。いつまで続けられるか、子供たちの為にも頑張っていこう! との挨拶が印象的でした。
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今年で4回目を迎えた「スミダストリートジャズフェスティバル」。

2013-08-18 07:35:46 | 世間世界
 「The4rd Sumida Street Jazz Festival」。ボランティアによって運営される、地域一体、地域興しのイベント。
 炎天下の中、今年も行ってきました、土曜日の午後。おかげで日に焼けた! スカイツリーからメイン会場の錦糸公園、そして錦糸町駅南口の先まで、各会場には、予備審査をクリアした、プロ・アマ混ざって、次々とチームごとの熱いジャズ演奏。ついつい手拍子を、体で、調子に合わせて。メインゲストは、去年は日野皓正さん、今年は宇崎竜童さん、今日の夕方からメイン会場のステージ。楽しみです。
スカイツリー近くの天祖神社の境内。こじんまりとした境内で、近所への音量を気にしながらの演奏。
「鈴木興産」。ここは、よく演劇の練習会場、公演が行われているところ。
涼しい会場で熱い演奏を。他は、トリフォニーホールなどわずか以外、まさにストリート、公園内の仮設スタジオ。
錦糸町駅北口、東武ホテルへのテラス。
東武ホテル正面。つつましやかな演奏。
そこから望むスカイツリー。この下の、スカイツリーに向かう直線道路が、スカイツリーの下部までしっかり見える絶好の道。今、視界の邪魔になる電線、電柱を撤去する工事が進んでいます。
北口。ボーカル中心の演奏。テントが邪魔してちょっと残念!
北斎通り。地下鉄の地上口近くなので、乗りに乗った演奏。
隅田公園特設ステージ。若い女性のバイオリンが見事にマッチ。
メインステージ。韓国からのトリオ+テナーサックス+ボーカル。
「アリラン」を歌う。最近の日韓情勢のせいか、ステージ下にはガードマン。来るときに日本人の知人から注意されたそうだったが、観客は盛大な拍手で迎えました。すてきな曲ばかり。ラストは、「サウンドオブミュージック」から《My Favorite Things》。会場は盛り上がりました。
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パンとサーカス

2013-08-17 21:16:21 | 格言・ことわざ
 映画「カリギュラ」(第三代皇帝・カリグラ)から、遅ればせながら古代ローマ帝国の歴史。そこで、気になっていたことばを改めて。 
パンとサーカス
① これは、詩人ユウェナリス(西暦60年-130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。愚民政策の例えとしてしばしば用いられている言葉。「パンと見世物」ともいう。
 なお、「サーカス」は、古代ローマで複数頭立て馬車による戦車競走が行なわれた競馬場。拡大して闘技場で行われた剣闘士試合などを含めた、スポーツ観戦などの意味で用いられている。
 地中海世界を支配したローマ帝国は、広大な属州を従えていた。それらの属州から搾取した莫大な富はローマに集積し、ローマ市民は労働から解放されていた。そして、権力者は市民を政治的無関心の状態にとどめるため、「パンとサーカス」を市民に無償で提供した。
 現在の社会福祉政策をイメージさせるが、あくまでも食料の配給は市民の権利ではなく為政者による恩寵として理解されていた。また食料の配布は公の場で行われ、受給者は受け取りの際には物乞い行為が大衆の視線に晒されるリスクを負わされた。この配給の仕組みによって無限の受給対象者の拡大を防ぐことが出来た。
 食糧に関しては、穀物の無償配給が行われていたうえ、大土地所有者や政治家が、大衆の支持を獲得するためにしばしば食糧の配布を行っていた。皇帝の中にも、処刑した富裕市民の没収財産を手続きを以て広く分配したネロ帝や、実際に金貨をばら撒いたカリグラ帝の例がある。
 食糧に困らなくなったローマ市民は、次に娯楽を求めた。これに対して、権力者はキルケンセス(競馬場)、アンフィテアトルム(円形闘技場)、スタディウム(競技場)などを用意し、毎日のように競技や剣闘士試合といった見世物を開催することで市民に娯楽を提供した。
 こうした娯楽の提供は当時の民衆からは支配者たるものの当然の責務と考えられるようになり、これをエヴェルジェティズムと呼ぶ。
 パンとサーカスは社会的堕落の象徴として後世しばしば話題にされ、帝国ローマの没落の一因とされることもある。また、「パンとサーカス」に没頭して働くことを放棄した者(これらの多くは土地を所有しない無産階級で proletari(プロレタリー) と呼ばれた、プロレタリアートの語源)と、富を求めて働く者と貧富の差が拡大したことも、ローマ社会に歪みをもたらすことになった。
 しかし、実際にこれらの給付の恩寵を受けたのは広大な帝国人民のなかで数割にも満たないローマ市民権保有者の、なかでも都市に住んでいる、さらに一部であった。共和政の中期、マリウスの軍制改革までは男性のローマ市民はすべて従軍の義務があり、故郷でパトロネジの庇護を受けるのは男手を奪われ(あるいは生命を奪われ)困窮しがちの中小地主階層であり、彼らは軍団兵の家族であった。
 また、実際に配給されるのは焼かれたパンではなく穀物(小麦粉)であり、当然ながら食べるためには調理器具や燃料が必要であり、帝国化してのち述べられるようになった「働く事を放棄する」というのは大げさな表現である。
 統治者側の視点からみれば、ローマにとって穀物給付は大貴族や皇帝が気まぐれに恩寵的に与え始めたようなものではなく、前123年ガイウス・グラックスによって提案された穀物法(低価格で全市民あるいは貧窮市民への売却)提案に起源をもち前58年にクロディウス護民官により初めて実施されたローマにとって伝統的な意味合いをもった政策でもあった。
 当初はポエニ戦役の勝利により急速に拡大したローマ世界において支配階層となっていった大貴族・騎士階層と、ローマ近在の没落しつつあった中小地主階層との格差問題の解消という緊張関係のなかで提案された法案であった。もっとも、実際に穀物給付が政策としておこなわれはじめた共和政末期には、すでにローマ軍政は給付付きの志願制に変更されていたため、この穀物給付政策は軍団兵家族の救恤といった当初の目的から没落市民への恩給へと、また護民官や皇帝の権威を鼓吹する手段へと変質してゆく。
 この「パンとサーカス」はローマ帝国の東西分割後も存続した東ローマ帝国ではしばらく維持されていたが、7世紀のサーサーン朝やイスラム帝国の侵攻によってエジプト・シリアといった穀倉地帯を失うと穀物の供給を維持できなくなり、終焉した。
 ただし、その後も皇帝が即位時に市民に贈り物を配ったり、年に何回か戦車競争を行うなどローマ皇帝の正統性を示す儀式としては続けられており、帝国末期で国庫が窮乏していた14世紀末の皇帝マヌエル2世の戴冠式の時にも、銀貨が市民に配られたことが記録されている。(「Wikipedia」を参照)

② 「パンとサーカス」は,「ローマの平和」の時代における民衆生活の堕落ぶりを象徴するものと考えられてきた。
 この表現のなかで,パンが意味するのは,民衆への穀物給付であり,サーカスという言葉で表現されているのは,今日の曲芸ではなく,見世物興行一般である。これらの見世物は,円形競技場での戦車競技や競馬,闘技場での剣闘士競技をはじめとするさまざまな格闘技,円形劇場での演劇や黙劇に大別される。これらの食糧,娯楽見世物,公共施設の提供者は富裕な市民,元老院貴族,騎士層,皇帝であった。帝政期には,皇帝の恩恵行為が重要であった。他方,それらの恩恵を受けたのは,共和政末期以来,土地を失ってローマ市に流れ込んだ無産市民たちであった。
 ローマによる地中海世界の支配が確立してくるにつれて,穀物を低廉な価格あるいは無料で給付する法案が提出されるようになった。最初の穀物法案は前123年ガイウス・グラックス(グラックス兄弟の弟)によって提出され,全市民あるいは貧民を対象として低価格で小麦を売却するというものであった。また,穀物の無料給付は前58年の護民官クロディウスの提案によって初めて実施されたが,これ以後,平民身分のローマ市民のすべてを対象とする無料給付が,徐々に制度的体裁を整えるようになった。
 ところで,このような状況を引き起こした契機として重要な位置を占めているのはポエニ戦争である。第一次ポエニ戦争の戦後処理の一つとして,ローマは,支配下に入った土地について,一部を公有地として元老院の直轄下に置くと共に,属州としてシチリア州,サルディニア=コルシカ州を設置した。そして,この措置が,その後の新たな領土に対する処分及び統治形態の原型となった。また,第二次ポエニ戦争を契機として,ローマは地中海世界に進出していった。
 属州支配は,貢租という形でローマに多くの富をもたらすことになったが,その果実は,属州総督(官職貴族)や属州支配のための請負業務を担当した騎士層の手に集中することになった。他方,属州からもたらされる貢租としての穀物は,大都市近在の農民から重要な市場を奪った。また,イタリア以外での戦争が長期化・大規模化する中で,軍隊の中核を構成していた農民層は疲弊し,その被害は甚大であった。
 にもかかわらず,元老院貴族や騎士層などの富裕な市民は,没落した中小農民の農地を購入したり,前述の公有地を占有したりすることによって所有地を拡大すると共に,ローマやイタリアに流入してくる戦争捕虜としての奴隷を入手することによって,一部で大土地所有に基づいた奴隷制大農場経営を形成していった。このように,一方で官職貴族や騎士層が富を集中させていき,他方で,農民が貧困化し,農地を手放してローマ市に流入することによって,ローマ市民の分解がさらに進行することとなったのである。この両極分解の象徴的な現象が,「パンとサーカス」に集約されているとも言える。
 ところで,史料Aの「大盤振舞いと国家の手による穀物の給付で籠絡された民衆が公共への不善に染まらないように,自分たちの仕事(暇つぶしの仕事)を持つことを配慮しなければならない」やあるいはCの「ローマの民衆はとりわけ2つのこと,つまり穀物と見世物で掌握すること」に典型的に示されているように,「パンとサーカス」は,ローマの民衆を掌握するための手段として留意されなければならない行為であること,つまり,為政者による人心掌握のための,人気取り政策である考えられてきた。
 しかし,このような施与者と享受者との相互依存を民衆の物質的満足による脱政治化あるいは政治の腐敗としてとらえるのはあまりに近代的な解釈にすぎないことが指摘されている。(「www.ec.kagawa-u.ac.jp/~shigeru/report1-model.pdf」より)


③ “パンとサーカスの政治”は長続きしない、ハシズムの分析(その2)広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
 大阪ダブル選挙の結果について各方面からの論評が相次いでいるが、そのなかでも興味深いのは、関西財界が今回の選挙結果を必ずしも手放しで歓迎していないことだ。たとえば「中立財界、根深い不信」と題する朝日新聞の記事(11月28日)には、こんな一節がある。
「橋下氏の政治手法に経済界の不信感は深い。ある財界幹部は、「橋下氏が敵を攻めて人気を得る『けんかパフォーマンス』ばかり続ければ、企業が競争力を培える風土はつくれない」。企業幹部は「壊すだけ壊して新しいものをつくり出してくれるの」と危惧する。都構想にも冷ややかな声が目立つ。関経連幹部は「法律改正が必要で市長だけでは実現できない。全く期待していない」。関西経済同友会の大林剛郎代表幹事(大林組会長)は27日夜、「中身を詰め、わかりやすく説明する責任がある」とコメントした。」
 また日経記事(11月28日)は、御厨東大教授と片山前総務相の批判的コメントを「識者の見方」として掲載し、大阪ダブル選挙に対する社の意見を代弁させた。御厨氏のコメントは、「(大阪維新の会が)集団で動き出すと怖い。どこかで議会制民主主義を超える危うさを感じる。」というもの。そして片山氏のそれは、「橋下さんの手法は、反対する人は間違っているというやり方で合意形成にふさわしくない。(略)「大阪都構想」は二重行政など問題の解決の一つの選択肢だと思うが、大阪都ですべてうまくいく、東京のように繁栄するというのは幻想だ。」というものだ。
 どちらの記事も大阪ダブル選挙の結果が全国的な政治再編の引き金になることを警戒し、大阪維新の会が政界の「第三極」の焦点になることへの懸念を表明しているかに見える。言い換えれば、大阪維新の会が箱根を超えて東京へやってくることへの予防線を張っているかのようだ。なぜ関西財界がかくも橋下政治に「不信」を持ち、「危惧」を感じるのか。またマスメディアのなかにも同様の警戒心が見て取れるのか。そこにはこれから起きるかもしれない全国規模の政治変動への支配体制側の不安感が透けて見えるというものだ。
 関西財界が今回のダブル選挙で中立の立場を貫いたのは、盟主格の関西電力が橋下氏の「脱原発依存」の公約を警戒していることもあるが(関電は平松陣営の中核勢力の一員だった)、それ以上に「何をしでかすかわからない」ハシズムに一抹の不安感を抱いているためだ。またその結果として、ハシズムの「やり過ぎ」に対するこれからの大阪府市民のリアクション(反動)が怖いためだ。
 これまで大阪府市政は「オール与党体制」だったこともあって、財界との間には「信頼できる安定した関係」が構築されていた。関経連や同友会などの大阪財界と府市当局・府市議会幹部との間には太いパイプがあり、いつでもどこでも財界の意向を反映できる仕組みが出来上がっていたからだ。それが橋下氏という「壊し屋」が現れ、大阪府庁をやみくもに掻きまわしたうえに大阪市役所まで乗り込んできたのだから、いままでの体制をそのまま維持できるかどうか不安になったのである。
 一般の有権者とりわけ今回はじめて投票に行った初心(うぶ)な若者層に対しては、橋下氏の「大阪を変える!」とか「大阪都にしてニューヨーク、パリ、ロンドンに対抗できる世界都市にする!」といった威勢のいいスローガンが効果を挙げたのかもしれない。しかし政治経済事情に明るい財界(玄人筋)からすれば、それは「子ども騙し」のキャッチコピーに過ぎず、中身が何もない空文句でしかなかった。彼らは一様に、「こんな杜撰(ずさん)な選挙公約でよくもこれだけの票を取れたものだ」と感心した(呆れた)という。
 それはそうだろう。ハシズムの真骨頂は見せかけの「パンとサーカスの政治」の演出にあるのであって、それを全面展開したのが今回の大阪ダブル選挙だったからだ。「パンとサーカス」というのは、ローマ帝国時代の退廃した社会状況のことで、権力者からタダで与えられる「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」によって、被支配者である民衆が政治的盲目状態に置かれたことを意味する。だから「パンとサーカス」は、一方では民衆の社会的退廃や政治的堕落の象徴となり、他方では愚民政策による政治体制崩壊はじまりのシンボルとなったのである。
 イギリスのフィナンシャルタイムズをはじめ、多くの海外紙も大阪ダブル選挙を単なる一地方選挙だとは見ていない。そこに流れている論調は、国政(政党)選挙の“代理戦争”として大阪ダブル選挙が現象したのであって、大阪維新の会が既成政党に対する政治不信の「受け皿」になったというものだ。遅まきながら民主党・自民党もその気配を察したらしく、警戒感を露わにしながらも懐柔とすり寄りの工作を始めた。
 関西財界の目下の懸念は、橋下氏が「サーカス」の演技者としてはたしかに巧妙ではあるものの、肝心の「パン」が本当は「見せかけ」だとわかったときに、大阪府市民がいったいどんな反応(反動)を示すかということだろう。なぜなら、大阪ダブル選挙は表面的には「大阪維新の会」の圧勝に終わったものの、その底流には海外紙の指摘するごとく、財界と既成政党そしてマスメディア(御用学者も含めて)などが結託して牛耳っている日本の“翼賛体制”への巨大な反撥エネルギーが横たわっているからである。
 大阪維新の会の圧勝は、財界と既成政党による”翼賛体制”に対する大阪府市民の批判を反映したものであって、決して財界が期待するような構造改革や市場原理主義の推進を求めるものではない。だから、橋下氏が大阪都構想を掲げて一見「現状打破」に動いているように見えるうちはよいが、それが民衆の「パン」につながらないことが明らかになったときは、「反ハシズム」の流れは一挙に現在の大連立体制批判に向かう可能性がある。橋下氏が支配階級にとっても「両刃の剣」であり、「危険な扇動家」と目されているのはそのためだ。
 財界や既成政党の目下の本音は、橋下氏にやるだけやらせておいて「あとはできるだけ早く消えてほしい」というものだろう。ハシズムにあまり悪乗りして「行政刷新」と「民営化」をやり過ぎると、橋下ブームが去ったときに財界が批判の的になるのを恐れてのことだ。だが、劣化した既成政党や政治世界がハシズムをコントロールできるとも思われない。「行きつくところまで行かなければ」ということにならないとも限らないのである。
 橋下氏は、当面「壊し屋」の本領を発揮して大阪市役所の「既得権益」に切り込み、大阪府市民の拍手喝采を浴びるかもしれない。なぜなら長年のオール与党体制と解放同盟との癒着によって、大阪市政には「大掃除」しなければならない“ヘドロ”がうず高くたまっているからだ。だが「同和問題はいまだ解決されていない」と広言する橋下氏が、果たして有形無形の膨大な関係事業にメスを入れることができるかどうかは保証の限りでない。
 その代わり「既得権益の打破」などと称して市民生活に不可欠な補助金や公共サービスをカットし続ければ、「パン」を失った人たちの間では生活保護受給率やひったくり犯罪日本一などの「大阪ワースト指標」が一段と跳ね上がることは間違いない。問われるのは「ハシズム」の内実(本質)であって、そのときに新しい担い手として政治舞台に登場するのが、今回のダブル選挙で橋下氏に投票した若者層であろう。
 彼らには橋下氏に対する「現状打破」の期待が大きくかつ投票という政治行動を体験しただけに、その政治エネルギーは既成政党をはるかに超える「マグマ」を秘めている。若者層を動員して投票行動に踏み切らせた大阪ダブル選挙の歴史的意義が検証される日は、それほど遠くないのかもしれない。(「リベラル21」2011.12.05より)

 3つの資料を挙げた(③は、少し前の内容だが、現在的な意味を持つ)。カリギュラは、兵士やローマ市民の間では大変人気があったという。国家の財政を一気に破綻させるほど金貨をばらまくなどの大盤振る舞いや大会場での公開処刑などを行って、貴族や大衆の歓心を買う。一方で、元老院など敵対する者たちを一掃していったが、精神異常を高じさせ、わずか4年の治世で暗殺された。次の、次の5代目皇帝が暴君ネロ、というふうに続く。

 今の日本。一部の金持ち階層を自作自演の経済成果に浮かれさせ、オリンピック招致をなんとしても実現し、国民の期待感をあおり、さらに、「カジノ」解禁・特区作り、さらに、国民投票の年齢を18歳に引き下げる・・・。福島原発事故でまだ15万人も故郷を離れて生活していることは忘れ去られ、原発再稼働」「原発輸出」・・・。
 これらの政策こそが閉塞感を打破させる特効薬だとばかりマスコミはアベ政権賛美の言動を我先に行っている。
 「パン」。生活保護給付を減額した上に、まるで受給者に物乞い的対応をとることを強いる。まさにお上の恩寵的行為として、社会福祉政策が転換されようとしている。消費税アップ時に、またしても現物支給、現金支給ばらまき策が公明党の発案で行われるかもしれない。一方で、「働かざる者食うべからず」との世論を為政者自らが作り上げていく。
 国民の関心を広く、深く政治や経済、教育に向けさせることを巧みに阻止し(「狂騒」はダメ、「静かに」「静かに」と言論を封じ)自らの野心を満足させていく「手口」。
 こうした風潮に歩調を合わせるかのように(先取りするかのように)、松江市の小中学校の図書館では「はだしのゲン」を開架から閉架へと非公開に近い扱いに。戦争、まして原爆は悲惨きわまりない実態であることを「残酷」な描写があるからとの理由で。 

 漫画家の故中沢啓治さんが自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」について、「描写が過激だ」として松江市教委が昨年12月、市内の全小中学校に教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていたことが分かった。児童生徒への貸し出し禁止も要請していた。出版している汐文社(ちょうぶんしゃ)(東京都)によると、学校現場でのこうした措置は聞いたことがないという。
 ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結。原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。
 松江市では昨年8月、市民の一部から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出された。同12月、不採択とされたが市教委が内容を改めて確認。「首を切ったり女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。
 現在、市内の小中学校49校のうち39校がゲン全10巻を保有しているが全て閉架措置が取られている。古川康徳・副教育長は「平和教育として非常に重要な教材。教員の指導で読んだり授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と話す。・・・

 ことの発端・本質は、日本軍の描き方への批判を行っている市民(団体?)からの圧力に屈したこと。???
 子ども漫画、アニメ、ゲームソフトには激しい戦闘場面などは、当たり前の世界。そちらの方はOK、そうした刹那的でおもしろいものさえ与えて、見させておいた方がいいのだという感性(これからはそういうものも規制の対象にしていくのだろうか?)。現実(過去の、繰り返してはならない「現実」を含め)を子どもの目からそらせていく、そんな流れさえ感じさせる。

 実は、「パンとサーカス」の恩恵に預かることができたのは、一部の、市民権を持つローマ市民のみであって、結果的には多く労働者(奴隷)や地方は疲弊し尽くしてしまった。・・・、こうした古代ローマの教訓をどう受け止めるか?
 
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表向きの「内向き志向」が何を生むか?

2013-08-16 22:53:54 | 平和
「アジアへの反省」触れず=戦没者追悼式で首相式辞―68回目の終戦記念日(時事通信) - goo ニュース
 
 「産経新聞」2013年8月16日(金)の記事。

 靖国神社 首相が堂々参れる日いつ…いまだ残る「熱狂と偏見」

 68回目の「終戦の日」である15日の靖国神社は、民主党政権時代には目立った厳しい政権批判は影を潜めた。神社境内での集会や、付近で配られていたビラなどで安倍晋三首相の15日参拝を求める声は散見されたが、首相の参拝自体が期待できなかった民主党時代のとげとげしさはなかった。境内は正午の黙祷(もくとう)時は静寂に包まれ、落ち着いた「祈りの場」に立ち返っていた。
 振り返れば鳩山由紀夫元首相は平成21年10月の中国の温家宝首相(当時)との会談で、「靖国のことは頭から消し去ってほしい」と述べ、自身と閣僚の不参拝を約束した。靖国が「先の大戦では『靖国で会おう』を合言葉に多くの兵士が散っていった。ご遺族は父や主人に会えるかもしれないとの思いであの場所に行く」(4月10日の安倍首相の国会答弁)という「特別な場所」であることなど、眼中になかったのだ。
 菅直人政権時代の22年には、境内の一角に菅首相と仙谷由人官房長官、岡田克也外相を批判する写真が地面に貼られ、「TRAITOR(売国奴)」「ご自由にお踏みください」と記されていた。民主党政権への怒りと不満が鬱積していた。
 一方、今回の集会で衛藤晟一(せいいち)首相補佐官は環境整備の必要性を強調した
 「他国からいろいろ言われることなく、ちゃんとお参りできる国をつくりたい。これができなければ戦後は終わらない」
 首相はこの日、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。代理奉納した同党の萩生田光一総裁特別補佐は記者団に、首相に託されたこんな伝言を明かした。
 「先の大戦で亡くなった先人の御霊(みたま)に、本日は参拝できないことをおわびしてほしい。靖国への思いは変わらないと伝えてほしい」
 首相は、中国、韓国のみならず同盟国の米国も巻き込んで外交問題化する15日の参拝は選ばなかったが、在任中に時機を考慮して参拝する意向は変わらない。
 とはいえ、靖国参拝が政治問題化するのは中韓だけが問題なのではない。「アジアの中で靖国参拝に反対しているのは中韓2国だけ」(外交評論家の石平氏)だとしても、日本国内の一部勢力が火に油を注いできたのも否めない
 例えば中江要介元中国大使は12年4月に国会で、昭和60年12月に中国の胡耀邦総書記(当時)と靖国問題を協議した際のエピソードを証言している。同年8月15日に中曽根康弘首相(当時)が公式参拝したのをきっかけに、日中関係が冷え込んでいたころだった。
 胡氏「もう靖国神社の問題は両方とも言わないことにしよう。黙って85年でも100年でも騒がずに静かにして、自然消滅を待つのが一番いいじゃないか」
 中江氏「もし今黙っちゃったら、日本では『ああ、もうあれでよかったんだ』と思ってしまう人が出るかもしれない」
 冷静になろうと努める中国側を、むしろ日本側がたきつけているような構図だ。時の首相がいかに真摯(しんし)に戦没者の慰霊と追悼の意義や正当性を訴えようと、背中から矢を射る勢力が幅を利かせていては事態はなかなか改善できない。
 靖国神社境内には、東京裁判で被告全員無罪を主張したインドのパール判事の顕彰碑があり、パール判決文(意見書)を引用した次の碑文が刻まれている。
 《時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には その時こそ正義の女神は その秤(はかり)を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに そのところを変えることを要求するであろう》
 残念ながら、靖国をめぐる国内外の「熱狂と偏見」はまだやわらいではいないようだ。

 「阿比留瑠比」との記名入りの記事。
 民主党政権時代の靖国境内の首相以下の踏み絵は初めて知った。すると、筆者は、時の政府の対応について、賛成も反対も「喧噪」であってはならない、という戒めの中で「靖国」への冷静な対応を主張しているのか? 
 さにあらず、靖国参拝反対で騒ぎを起こしている人々の騒ぎの自制を促す内容となっている。
 「衛藤晟一首相補佐官は環境整備の必要性を強調した」という。「環境整備」とは靖国神社国家護持への布石を意味しているのではないだろうか。
 
 かつては自身でも使った「アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与え、深い反省と哀悼の意を表する」という表現を用いず、近年の首相が使っていた「不戦の誓い」にも触れなかったアベの意図をこうして一部のマスコミは追認、かえって、「(中国や韓国政府の「反日」に追従している)国内の一部が火に油を注ぐ」のだと言論をなす。
 よりいっそうの「政治も経済も軍事も対米従属」を究極の目標にし、そのための憲法「改定」を急ぐアベ(と政官財)の意図を厳しく批判する「マスコミ」はないものか。「共産党」「社民党」しか正面切って異議を唱える政党がいない中で・・・。
 「熱狂」と「偏見」というくくりで反対派を批判し、対義語として「静かに」を用いる手口に格段の注意を払うべきだ、と思う。
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「Caligula」(Tinto Brass)(久々の「古きよき映画シリーズ」。その36)

2013-08-14 19:12:02 | Tinto Brass
 『カリギュラ』(Caligula)は、1980年のイタリア・アメリカ合作映画。当時のペントハウス誌社長ボブ・グッチョーネが46億円の巨費を投じて製作。ローマ帝国皇帝カリギュラの放蕩や残忍さを描いた重厚な歴史超大作。が、実態はハード・コア・ポルノとも。
 監督はイタリアポルノ映画界の巨匠ティント・ブラス。主演はカリギュラ役のマルコム・マクダウェル、皇帝ティベリウスのピーター・オトゥールほか、サー・ジョン・ギールグッド、当時すでにシェイクスピア女優としての地位を築いていた演技派女優のヘレン・ミレンなど豪華キャストの上、脚本家にはゴア・ヴィダル、製作はフランコ・ロッセリーニという布陣。後で付け加えられたハードなポルノ・シーンはボブ・グッチョーネがペントハウスのモデル達を使って別撮りしたとされ、主要キャスト陣は関わっていないという。それどころか、当初はこの作品がポルノになることは出演者たちには全く知らされていなかったという。

《あらすじ》
 ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの曾孫カリギュラ(ガイウス・シーザー・ゲルマニクス)は、妹であり愛人のドルシラと郊外で慎ましく暮らしていた。ところが成人を迎える頃、カリギュラは第2代ローマ皇帝・ティベリウス(カリギュラの大叔父であり法律上の祖父)にカプリ島まで呼び出され、そこで彼が見たものは異常性愛に溺れる皇帝、貴族と退廃しきったローマ帝国のの姿であった。
 ティベリウスは自分の実孫ゲメルスを後継者にしたいがため、呼び寄せたカリギュラに毒を盛ろうとする。 難を逃れたカリギュラだったが、すぐにティベリウスは病に罹り仮死状態となってしまう。

 カリギュラは、皇帝の指輪をティベリウスの指から外して自らの指にはめて悦に入るが、直後蘇生したティベリウスから指輪を返すよう迫られ、その場に現れたカリギュラの親衛隊長マクロが、カリギュラに代わってティベリウスを絞殺する。
 こうして、カリギュラはローマ帝国の第3代皇帝となった。ドルシラからの助言もあって、皇帝即位に大功のあった親衛隊長マクロが自分を凌ぐ権勢を得ることを警戒し、第2代皇帝ティベリウス殺害を理由にマクロを公開処刑する(巨大芝刈り機を使った処刑シーンは有名)。

 カリギュラは最愛の妹ドルシラと結婚しようとするが、ローマの法律上どうしても兄妹では結婚できない。そこで、カリギュラは、聖女の泉に召集した巫女の中から、淫乱で離婚歴のあるカエソニアを妻に迎えた。
 カリギュラは、自分が出席した兵士の結婚式で新郎・新婦を共にレイプするなど、ますます異常性を現し始める。さらにゲメルスに無実の罪をかぶせて処刑し、貴族たちから反感を買うことになってしまう。

 最愛のドルシラが熱病に罹り亡くなってしまったショックから、カリギュラはいよいよ狂気への歯止めがなくなり、まさに末期的、異常・狂乱の様相になる。


《キャスト》
カリギュラ:マルコム・マクダウェル
ティベリウス:ピーター・オトゥール
ネルバ:ジョン・ギールグッド
マクロ:グイド・マンナリ
ドルシラ:テレサ・アン・サヴォイ
カエソニア:ヘレン・ミレン
カエレア:パオロ・ボナセッリ
クラウディウス:ジャンカルロ・バデッシ
(以上、「Wikipedia」を参照)

 35度以上もある猛暑の時に、クーラーの効いた涼しい部屋で観る、というこの落差。が、これまたこの映画らしい。暑さしのぎ、暇つぶしにと観ていても、エログロ満載。長い!くどい!ストーリーはどうなっている!・・・
 俳優陣も、主役以外は?(カリギュラはなかなか迫真の演技)。豪華メンバーだが、ネームバリューばかりで今ひとつのりが悪い! 

 舞台セットが大がかりで、壮大な劇空間をつくっている。あえてそうさせているのだろうが、まさに虚実入り交じってのドラマ。しかし、群衆劇としてはアメリカ映画の大作級。

 裸、裸、裸、エロ・シーンが随所にあり、食傷気味。しかし、本筋とは関係がなさそうに挿入されるエロ・グロ場面を除けば、物語的にも、映像的にも見応えがある。特にカリギュラの心理描写・狂気の果ての悪行、周囲の貴族連中の権謀術数・・・。
 暴君の行き着く果ての「狂騒」劇。結局は、暗殺されてしまう。
 感情の赴くまま、その気分で気にくわない連中を次々と消し、その虐殺シーンに快楽を覚えるカリギュラ。後半、実の妹(愛人)が死んだことで、いよいよその狂気に歯止めがかからなくなっていく。この暴君を暗殺しようとするも、なかなかできずにいた貴族たち。あげくのラストシーンは、衝撃的。



 大がかりなセット(古代ローマの宮殿、円形舞台、競技場・・・)のもとでの展開。歴史劇、群衆劇として見所の多い内容だった。今もハードポルノ映画としてくくられるのにはもったいない印象(あまりローマ古代史を知らないせいもあっておもしろかった)。 

 「狂騒」のうちにいつしか亡国の因を積む暴君の存在。強大なローマ帝国の暗黒の歴史の一面を垣間見た思い。待てよ、大昔の、外国の話にとどまっているだろうか?

 この映画から生まれた言葉。
※「カリギュラ効果」 禁止されると、かえって余計にその行為をやってみたくなる心理のこと。一例としては、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、むしろかえって見たくなるなどの心理が挙げられる。
 上記の映画『カリギュラ』が語源で、過激な内容のため、ボストンなどの一部地域で公開禁止になったことで、かえって世間の話題を惹いたことにちなむ。
 この効果は、広告宣伝やテレビ番組でも利用されている。例えば、テレビ番組で、「ピー」などの効果音を付けて発言を聞こえなくしたり、モザイク処理をかけて映像の一部を見えなくすることにより、いっそう視聴者の興味をかき立てるなど。(以上、「Wikipedia」を参照)

※「画像」は、すべて「emfplix.com」より。

 ところで、ティント・ブラスの作品はこれで3作目の紹介となった。「あなたもすきね」ということ?

 さらに、この「カリギュラ」のヒットに便乗し、臆面もなく「カリギュラ2」(これはポルノ)とか「新カリギュラ」(「2」と同じなのか?)などのあやかり作品・続編があるらしい。さすがにそれを観る機会はなさそう。
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