おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

隅田川堤。満開の桜の下。都鳥・ユリカモメ。曇り空の下。それぞれの春爛漫。PCに悪戦苦闘の二日間。

2024-04-06 19:42:59 | 隅田川

一昨日からPCの調子が悪く、電源を入れても起動しない。「ようこそ」がかなり長く(何分どころではない)続く。そのまま画面が動かず。

再起動して先達の指示などを参考にして、あれこれ(例えばF8キーを押す)試みてもダメ。

ますます事態は悪化(したのだろう)。PCにしてみればごちょごちょやりすぎだろ、爺さん! 

改善されない。HPで問い合わせてもらちが明かない。相手はおそらくAI。やり取りしても、行き違う。

結局、PCを初期化することに、意を決して。

昨日、5時間くらいかかって初期化。それで済むはずもなく、なんだかんだ我が家のPC様もご機嫌斜め。

何とか再起動はしたが、今度は、メールやウィルス対策ソフトが起動しない。ここまでは、昨日夜。

これらは、「明日できることは、今日するな」という原則に則って、今日に持ち越し。

今朝。メール。Gメールは無料のせいか、すぐ解決。が、主に使っているメールが使えない。問い合わせたりしながら、やっと解決。

次はウィルス対策ソフトがダメ! HPを見てもなんだかよくわからない。読解力不足?

やってみれば簡単なことだったが、悪戦苦闘。家には聞く相手もいない(職場だったら、一瞬で解決できる方がいるはず)ので、・・・。

というわけで、何とか解決。

気が付いたら、昼飯タイムに。

その後、「初期状態に戻す処理中に削除されたアプリ」一覧を見ると、

日頃愛用する「一太郎」、Canonのプリンターなどけっこうたくさん。

※ワードやエクセルも使いますが、どうも不慣れ。

そこで、一太郎をはじめアプリを再度入れなおす作業。

ほっと一息ついて、

満開の桜見物をどうしよう? 

そういうわけで、3時過ぎに隅田川に出かけました。ヒトデ(海星)ではなく人出がものすごい。

今まで、こんなに桜を愛でていたのでしょうか? シートを敷いて車座になって宴会。親子連れもたくさん。

杖を突いた年寄りや車いすの人なども楽しそうに桜見物に繰り出してきています。

最近の政治や経済の閉塞感が一気に吐き出される感。

というわけで。人ごみの桜見物を避けて「ユリカモメ」を眺めていました。

隅田川堤の桜並木。

川面ではボートの練習中。

ユリカモメが次第に増えてきます。

            

柱に止まる。細い線に揺れながら。

ずらりと並ぶユリカモメ。

気が付くと、たくさん。はるか向こうまで。

 

墨堤通りの桜並木。

近所の公団。ソメイヨシノ。

大島桜。

紅枝垂れ桜。

ついでに、近所で見かけた「飛び出し坊や」女の子編。

そして、今日のトイレの日めくり「希望を信じて苦しみに耐えよう」。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その4。東白鬚公園。纏(まとい)のシンボルタワー。隅田宿跡。石枕の伝説(一つ家伝説)・浅茅が原。

2023-07-18 20:42:37 | 隅田川

東白鬚公園。

「まといのシンボルタワー」

公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消し」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなかすすみませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相のしどうによって「町火消し」の設置が進められました。町火消しは、地域ごとに火消し組合を組織し、町が火消し人足を定置する消防隊、火事場で互いの勇敢さを競う火消し足の活躍は、文学や演劇の題材となり後世に語りつがれます。

        纏のシンボルタワー。

かつて、この地は、古代東海道の宿駅でした。

 

            ↓が、古代東海道。

当地は古東海道の渡河地で、平安の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承4年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという13世紀中期の歌には、多くの舟が停泊しにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』)また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、隅田種宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがわれます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一つ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。

石枕の伝説(一つ家伝説)ー浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)

東京都台東区花川戸に伝わる伝説一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。

浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができる。

用明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国下総国を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達した。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後、観音菩薩の力でと化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている

鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている

(この項「Wikipedia」より)

遠くにスカイツリー。

                

木々の多い静かな公園。

       

「明治通り」に出ます。「向島百花園」がすぐ近くにあるので、ちょっと寄ってみます。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その3。墨田川高校堤校舎跡。木母寺境内。梅若堂。天下の糸平。三遊塚。梅若の秋月・雪月花 隅田

2023-07-17 20:40:40 | 隅田川

墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「東京都立墨田川高校堤校舎」と呼ばれる校舎が存在しました。その後、どうなったのか? 久々に訪れてみました。
 生徒急増期。「堤校舎」は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となりました。17年間の校舎でした。

全館「プレハブ」。夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。

 10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校の話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。それから、20年。

校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。敷地内を見ると、整地され、広大な空き地となっている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか? 

            

         

全景。                 

          

「木母寺」に向かいます。右手に木母寺。

               

木母寺。 

  

木母寺由緒沿革

梅若権現縁起

平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が5歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は7歳で比叡山の月林寺というお寺に預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸とどちらが賢いかと稚児比べにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよった後、大津の浜へ逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ、東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年’(795)の3月15日、隅田川の湖畔で

尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと

と句を残し12歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りがかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き、柳を植えました。

梅若丸が亡くなった翌る年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へ向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り、渡し守より梅若丸の死を聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが、梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡が池に身を投げてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かび上がりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

木母寺境内之図『新選東京名所図会・隅田堤』。

明治31年(1898)、梅若塚の再興から10年を経た風景。

梅若堂。

都内第一の石碑。

       

三遊塚。

初代円生(1768~1838)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して三遊亭円朝が明治22年(1889)に建立。題字は「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。

・・・              

門前脇にある葛飾北斎「梅若の秋月―風流隅田川八景―」。

・・・木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探して彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲むつまじく舟遊びをしている姿を描いています。  

・・・公園内に、

葛飾北斎『雪月花 隅田』。

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。  

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その2。榎本武揚像。梅若公園。梅若塚。梅若丸・謡曲「隅田川」。鐘ヶ淵陸橋・「鐘ヶ淵」の由来。

2023-07-16 20:03:15 | 隅田川

この地域にあった史蹟や寺社は移転しています。

「銅像榎本武揚」像。

本像は、榎本武揚没後の大正2年(1923)5月に建立されました。銅製で、標高は約3㍍あり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。・・・榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。・・・               

「梅若公園」。

この付近に移転前の「木母寺」があったようです。

正面のガラスに描かれた梅若堂。

明治期の木母寺境内。

江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に消失を免れたものです。「木母寺境内の図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。

「梅若塚」。

                 解説板。

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫の藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中、隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い、現在地に移転しています。

より詳しい解説板。

         

・・・「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはら(隅田河原)の 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年3月15日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

   

①「木母寺」は、「梅」の寺を分けて「木母」となったと言われています。

②「妙亀塚」は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求め、この地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園内にあります。

③「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現縁起」があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。

④謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。

梅の木と公園入口。残念ながら物寂しい広場になっています。

「(墨)堤通り」。

東白鬚団地。

鐘ヶ淵陸橋。「鐘ヶ淵の由来」。

鐘ヶ淵の由来には隅田川が子の辺りで直角に曲がり、それが工匠の遣う曲尺に似ているところから、また、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。

※右のレリーフ。

広重の木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を舟で出入りすることができました。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その1。古代東海道。東白鬚団地。鐘淵紡績・カネボウ・クラシエ。・・・

2023-07-15 20:20:53 | 隅田川

歌舞伎「隅田川」に触発され、久々に鐘ヶ淵地域に出かけました。

正面の道が、古代の東海道。

「古代東海道」

真っ直ぐ進み、荒川を越え、葛飾区に入り、ほぼ直線のまま、小岩、江戸川堤に至る道。

※かつて歩いたことがあり、ブログでも紹介しました。

水戸街道を渡った葛飾区四つ木にある「案内板」。

東武線「鐘ヶ淵駅」踏切をはさんで東西に伸びる。

東武線。

そのまま西に向かい、「堤通り」に出ます。通りの向こうに高層アパート群が。

      

白鬚東アパート(しらひげひがしアパート)

東京都墨田区堤通にある住宅団地東京都住宅供給公社分譲の1号棟(東白鬚第一マンション)、都営白鬚東アパート(2~11・15~18号棟)と駐車場である12号棟、防災備蓄庫である13・14号棟の計18棟からなる。東白鬚公園と一体で墨田区西部の防災拠点として整備された経緯がある。

沿革

墨田区北部は、1923年に発生した関東大震災後に木造住宅が密集し始め、再び関東大震災級の震災が起こった際に、約4万人が犠牲となった旧本所区陸軍被服廠のような火災旋風に見舞われる懸念があった。 戦後も1948年(昭和23年)に福井地震1964年(昭和39年)に新潟地震という都市直下型地震が発生し、防災対策の機運が高まっていた

そこで、1969年(昭和44年)に東京都は江東防災6拠点構想(ほか大島小松川公園・白髭西地区が完成)を策定し、災害に強い街づくりを推進する方針を固めた。当地区は「白鬚東地区防災拠点」として1962年(昭和37年)に操業を停止した鐘淵紡績東京工場跡地を東京都が買収、再開発が計画された。

1972年(昭和47年)9月に白鬚東地区再開発事業として都市計画決定され、1975年(昭和50年)に着工、1982年(昭和57年)3月に10年かけて完成した。施行面積は約27.6ヘクタール。

構造

高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置しており、ドミノ式に建てられた大規模団地は存在するが、1㎞以上一列に並んだ長大団地は国内に類を見ない。1棟ずつずらした配置となっており、棟と棟の間は完全にはつながっておらず、地震の揺れに耐えられるエキスパンションジョイントで棟と棟と接続している。上空からの写真ではのような形と形容されることもある。

縦に長い団地は、防火壁の役割を持っており、密集地からの火災を食い止める効果が期待されている。また、団地の5階部分には墨堤通りに向けて放水銃が設置されており、延焼を食い止める工夫がなされている。そのほか随所に防災拠点としての設備があり、13号・14号棟はまるごと防災備蓄庫になっている。 団地には災害時に閉鎖する防災ゲートが5つ設けられており、北から順に鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門と名付けられている。

バルコニー側(墨堤通り側)には大火に耐えられるよう防火シャッターが装備されており、団地屋上にはオレンジ色の巨大な水タンクが設置され、火災時にシャッターに散水するための水が蓄えられている。

同時に隅田川沿いに防災機能を有した東白鬚公園が団地に寄り添うように整備され、災害時には約8万人を収容するように設計された。 延焼しにくい常緑広葉樹が植えられており、防災樹と命名されている。公園中央部には火消の象徴であるモニュメントが置かれている。

完成後、訓練などでは各種防災設備は作動しているが、実際の災害はまだ発生していないため、本番での作動はまだ無い。

(この項、「Wikipedia」より)

※久々に訪問しました。防災拠点としては斬新な構造を持った団地ですが、老朽化、住民の高齢化など、今後が気になる点も感じました(平日の昼間のせいでしょうが、出会う人はお年寄り。保育園の子供の声も聞こえず、・・・)。

また、周辺地域(住宅密集地)の再開発も進み、防災面からの住宅環境の整備、公園、道路事情などこの40年で大きく改善されています(むしろ、火災よりも隅田川、荒川に囲まれ、地震、水害の方が危険度が高い)。はたして今後どうなるか、気になるところです。

                                                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                (「今昔マップ」より)

1890年代のようす。○が木母寺、↓が古代東海道。上に「鐘淵紡績会社」。「木母寺」付近に入り江がある。

           ○が「墨田川高校堤校舎」(現在は、都の管理地)。その南に、移転した「木母寺」。 

カネボウ・クラシエ

1887(明治20)年、東京綿商社として東京府下鐘ヶ淵に創立(5月6日)→創立記念日とする

(「」HPより)

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タチアオイ。アジサイ。隅田公園あじさいロード。東京大空襲追悼碑。東京スカイツリー。・・・

2023-06-04 20:39:52 | 隅田川

前々日から「台風2号」や前線の影響によって、各地で激しい風雨に見舞われ、大きな被害が続出、死者、行方不明者も出て、さらに交通機関の大きな乱れがあった、6月3日(土)。

東京地方は、午後から日差しが届きました。そんな昼下がり、隅田公園を訪れました。

途中、近所の団地の公園には、タチアオイが。

                 

さて、浅草側にある「あじさいロード」。

              

             

三々五々、人々の出も。

アジサイの向こうに石碑が見えます。

「東京大空襲の追悼碑」。

「あゝ東京大空襲 朋よやすらかに」

隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。

第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。

戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。

いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。

                                   昭和61年3月 台東区

この碑にもアジサイなどが手向けられていました。

今、すでに77年以上も経過し、戦争体験者も少なくなり、次第に忘れ去られようとしています。再び戦争の惨禍に見舞われないよう、改めて心に。きな臭くなりつつある世の中で。

                

スカイツリー。激しく流れる雲の中。

  

帰り道、向島百花園に。近所の神社の祭礼が行われています。雨上がりの日差しの下で。

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浅草側の隅田公園。桜橋。ワシントン桜。ユリカモメ。櫻茶ヤ。葛飾区役所通り。

2023-03-30 20:58:35 | 隅田川

3月29日の続き。そういえば、昨晩は、雷が鳴っていました。「春雷」。その後、激しい雨音が、・・・。かなり不安定な気象。これも暖かい春の訪れを告げるものなのでしょう。

春雷は、春に鳴るのこと。 立春から立夏の頃までに発生する雷。寒冷前線通過時に発生する界雷で、を伴う事もある。

※昨日は、雹が降ったところもあったようです。 

隅田川越しのスカイツリー。

やはり満開の桜も入れないと、

シダレザクラの向こうに。

29日は久々の晴れ。気温の上昇に伴って、雲も夏雲のような・・・。

 

墨田区側に比べると、人通りは少ない。

足もとには小さな花が満開。

桜橋のたもとで。

「ワシントン桜」。

1912年(明治45年)、東京市(当時)はアメリカ合衆国ワシントンD.Cへ桜を贈りました。これらはポトマック河畔の桜として大切に育てられ、桜の名所として親しまれています。ここに植えてある桜は、桜橋の架橋(1985年ー昭和60年ー)にあわせて、ワシントンの桜(子孫木)の里帰りをじつげんさせたものです。・・・

「桜橋」の下を眺めると、いました! 都鳥(ゆりかもめ)の群れが。

このところ、隅田川ではまったく見かけませんでしたが。

    

       

              

       

一安心しました。

 

                           鳥が悠々と大空を。

「墨堤通り」の桜並木。

帰りに向島・「櫻茶ヤ」さんの門前にあるシダレザクラを見に行きました。

咲き始めていました。

             

ついでに、葛飾区役所前の「さくら通り」を。

           ここの桜並木は見事です。

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3月29日(水)。久々の晴れ間。隅田公園の桜も、冷たい雨に負けず、満開。春風に人出もたくさん。その1。

2023-03-29 20:23:06 | 隅田川

スカイツリーと満開の桜。枝垂れ桜。

       右は首都高。

             ソトオリヒメ。

ベニユタカ。

シダレザクラ。

           

隅田公園にて。

満開の桜の下。

お昼時なので、親子連れがお弁当を広げています。外国人の姿も見かけます。

      

隅田川の土手のソメイヨシノも満開。

          

満開の桜の下、そぞろ歩き。 

隅田川を行き来する観光船・大型ボート。

         

「MARCO POLO号」。 

浅草側にも行ってみます。  

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春の気配に誘われて。隅田川。枝垂れ桜。さくらまつりの準備で大忙し。少年野球・少年サッカー。

2023-03-19 21:48:49 | 隅田川

3月19日(日)。快晴。一昨日からの寒の戻り、冷たい雨のあと、今日は打って変わって春らしい暖かさ。

春の気配に誘われて、隅田川の桜見物に。まだ2分咲き、といった感じですが、それでもけっこうたくさんの人たちが。

まだ風が冷たくて、「春爛漫」とまではいきませんが、・・・。

枝垂れ桜が満開。 

         

 

日曜も仕事なのか、サラリーマンが桜の下で。

歩道沿いには、ユキヤナギ。

      

グランドでは少年野球の大会が開かれ、大勢の少年少女が勢揃い。

掛け声を掛け合ってウオーミングアップ。

こちらのグランドではサッカーの試合が。

 二分咲きの桜をバックに。

隅田川ではモーターボートが水しぶきを上げて下流に向かっています。

 

    上流に向かうボート。

             柳の薄緑色が水辺に映えて。 

墨田区側の堤では「さくらまつり」の準備で大忙し。

各町内会のテントが張られ、雪洞が飾られ、飲み物や食べ物準備など、大慌てで準備を進めています。

             

これも開花宣言が早まったせいなのでしょう。 

隅田公園。

もう満開の桜も。

       「みやび」。

足もとには花びらがいっぱい。

みやびの下で、カップルが寄り添って撮影会。

一本一本の桜はまだほんの少ししか咲いていないので、焦げ茶色の地肌が目立ちます。

が、遠目からは薄いピンク色に染まって見えます。

                

       

「長命寺桜もち」と「オオシマザクラ」。

                      お店の前は混雑しています。

※東京地方。今日のようなお天気も明後日くらいまで。その先は1週間ほど、雨や曇りになるとの予報。まさに「菜種梅雨」といったあんばいに。

「花に嵐」のたとえではありませんが、雨に打たれながらの満開では、桜も人も切ないですね。

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向島百花園で、うぐいすの初音。満開の河津ザクラ、オオカンザクラ、白木蓮。隅田公園・「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。

2023-03-10 20:15:08 | 隅田川

百花園を出て、隅田公園へ。

百花園を出たとたん、「ホーホケキョ」と一声、園内から響いてきました。これぞ、「うぐいすの初音」。

一瞬、春を感じました。姿を見せず、啼く鶯。その初音を聞くことができ、何だか気分がいい。

「初音」といえば、わざわざウグイスと断らずとも、ウグイスが…

(「東京新聞 2020年11月12日 07時19分」より)

「初音」といえば、わざわざウグイスと断らずとも、ウグイスがその年の春に初めて鳴く声のことである。「初音」が昔から大切にされたのは人々の春を待つ心からだろう。春を待つようにウグイスの初声を待つ▼永井荷風が季節の音について書いていた。夏の夜の下駄(げた)の音。油紙で張った傘に時雨のはらはらと降りかかる響き。荷風にとってそういう懐かしい音は時代とともに消えてしまった。「わたくしは蝉(せみ)と蟋蟀(こおろぎ)の庭に鳴くのを待ちわびるやうになつた」。その声だけが昔から変わらず残る季節の音なのだと▼気象庁は植物の開花や鳥の初鳴きなどで季節の移ろいをとらえる「生物季節観測」を大幅に見直し、来年以降、ウグイスの初鳴きなどの観測を取りやめるらしい▼ウメの開花やサクラの開花、満開などは残るようだが、動物の二十三種類は全廃となる。ツバメ、シオカラトンボの初見も、荷風が待ちわびたセミやコオロギも皆「落選」した▼気象台や測候所周辺の環境が変わり、対象動物を見つけるのが難しくなったという。セミなどは、今でもいるだろうにと思わぬでもないが、経費など別の理由もあるのかもしれない▼これも時代なのだろうが、かつては身近だった鳥や虫たちが急に遠くへ行ってしまったような気がする。ウグイスではなく同じ鳥でもトラツグミの聞きなしをふと思い出す。<サビシイ、サビシイ>

・・・

園内で、老人二人。「ここ数年、メジロの姿を見なくなって、さびしいものですね。」と言葉を交わしていました。

たしかに、新型コロナで梅祭りが中止になって、以前の賑やかな鳴き声が聞こえなくなった、という印象があります。

初音を聞いただけで、「よし」と、しましょうか!

隅田公園に向かいます。すでに河津ザクラが満開。緑の葉がチラホラ伸びています。

      

 

隅田川方向へ。

   カンヒザクラ。(「百花園」にもありました。)

オオカンザクラ。

           

ほぼ満開。

隅田川。

            高校生らしい集団が鈴なりで手を振っています。青春ですね。

浅草側には、「白木蓮」。

              

ハクモクレン(白木蓮)は、モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。早春の葉が展開する前に、白色の大きな花が上向きに咲く。

しかし、みやこどり・ユリカモメの姿が全く見当たりません。どこに行ってしまったのでしょうか?

さて、今日、3月10日。78年前、隅田川以東・本所地域一帯を焼き尽くした「東京大空襲」。

隅田川沿いには、橋のたもとや隅田公園などに被災者の慰霊碑があります。

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。

戦災によって亡くなられた方々の碑

隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄のもとに忘れさられようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。昭和61年3月 台東区

「言問橋の縁石」。
 ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

・・・

「東京スカイツリー」では今日を慰霊の日としてライトアップするそうです。

荒川・「四つ木橋」から(2022/3/10)。

(附)東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき」。

樹齢400年とも伝えられる「くすのき」は、高さ約6m、幹回り約2.7m。幹の中に大きな空洞ができていますが、見事に蘇り、校庭のど真ん中にどっしりと構えています。

この「くすのき」は、東京大空襲の戦禍にも耐えて、今も校庭の真ん中に。

(2022/3/10)             

        

                 

「東京大空襲」の体験者もほとんどいなくなりました。語り継ぎ、戦争の悲劇を二度と繰り返さないために。

※「四つ木橋」のたもと、「曳舟川」沿いの河津ザクラ。

          

 

           手前が「曳舟川」。

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隅田公園。冬の風物詩。ユリカモメ。芭蕉・伊勢物語。・・・

2022-12-18 21:16:22 | 隅田川

本格的な冬の到来を告げるかのようなユリカモメが、隅田公園にやってきました。

赤いくちばしと脚が目立つ
白色が鮮やかなカモメ

全長40cm。冬鳥として、全国の河、河口、湖沼、海岸に至る水辺に来ます。赤いくちばしと足がきれいな小型のカモメの仲間で、水上に群がる姿は白い花が一面に咲いたようです。在原業平や和泉式部の古歌に登場する都鳥(みやこどり)はこの鳥で、東京都の鳥に指定されています。江戸時代には考えられなかったウォーターフロントは、ユリカモメの目にどう映っているのでしょう。何でも食べるたくましさを持っていて、そういえば東京都のゴミ捨て場の新・夢の島にも、廃棄物をつつく姿が見られます。日本を去る4月中旬頃には、頭が黒い頭巾をかぶったようになります。カモメ類ではいちばん内陸にまで飛来する鳥で、海岸から数10キロも入った川岸の街や牧草地でエサをあさったりしています。「ギィー」とか「ギュゥーィ」と聞こえる声で鳴きます。日本には主にカムチャッカ半島から渡って来ることが、標識調査の結果からわかっています。・・・名前は、入江(いりえ)のカモメ―イリエカモメがユリカモメに転じたもの、百合を当て字にしたもの、という説があります。
/塩にしても いざことづてん 都鳥 芭蕉/

(この項「」HPより)

塩にしても いざことづてん 都鳥 芭蕉

『伊勢物語』の「名にしほはばいざこととはむ都鳥わがおもふ人はありやなしやと」をパロディー化したもの。都へ帰る春澄に都鳥を塩漬けにしてでも持って帰ってください、というのである。塩漬けにされては都鳥もかたなしであろう。
 都鳥は冬の渡り鳥、ゆりかもめのこと。

延宝6年(1678)11月、芭蕉35歳の時の作。蕉風確立前の談林俳諧時代の作品。

『伊勢物語』第9段

なほゆきゆきて武蔵の国と下つ総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
名にしおはゞいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。 

       

他の種類のカモも混ざって。

           

                 

              

名残の紅葉。

                  

隅田川堤のサクラもすっかり葉が落ちて。  

向かいの隅田川にも、まもなくユリカモメがたくさん集まってくることでしょう。 

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隅田公園。2022年3月25日。春の訪れ。ソメイヨシノ。千年桜。ヨウコウ。ミヤビ。そしてユリカモメ。・・・

2022-03-26 19:33:35 | 隅田川

3月25日(金)昼下がり。隅田公園。隅田川土手。

      

ソメイヨシノや他の品種のサクラも咲き始め、公園の中も、三々五々、そぞろ歩きをする、年寄り、家族連れ、若い男女・・・。第7波も想定されるはコロナ禍の中で、いっときの平安か。

「言問橋」。

     「桜橋」。

     「隅田公園千年桜プロジェクト」

古来から尊ばれ、愛されてきた桜。「緑と水辺を活かす隅田公園づくり」では、「三春滝桜(千年桜)」の子孫木を、公園の「シンボルツリー」としても守り・育て、次の世代へ受け継いでいくプロジェクトを推進します。この桜は、2013年(平成25年)1月に福島県田村郡三春町「三春さくらの会」から寄贈されました。

東京スカイツリー(浅草側から)。

                     

花壇。

桜橋から。

      屋形船と観光船と作業船と。上空にはユリカモメが一羽。遠くに墨田区役所、アサヒビール本社。   

                 

ソメイヨシノ。高速道路下にて。

エドヒガン。

              ヨウコウ。

東武線の方へ向かいます。

土手の桜並木を望む。

公園内のようす。

             

      

             芝生の上で人々がくつろぐ。

再び土手に。

ミヤビ。

         

ユリカモメ。テラスにて。

           

ハトも混じって。

今日の東京地方。もうすでに雨が降り始めました。全国的には春の嵐の気配。

ようやく咲き始めたサクラが強い風雨で落下しないように。

そして、ロシア軍の侵攻によるウクライナの破壊的な状況が、世界中の「戦争反対」の声と行動によって速やかにおさまるように。

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菜の花。河津ザクラ。オオヒカンザクラ。カンヒザクラ。梅。そしてスカイツリー。(隅田川情景。その2。)

2022-03-15 21:57:53 | 隅田川

              隅田川堤にて。

このところ急に気温が上がってきました。ソメイヨシノも花芽がふくらんできました。足もとには菜の花が満開。梅はそろそろ終わりの時期? そんな隅田川土手のようすです。

※撮影が3月11日だったのでもうすっかり様変わりしているかもしれません。季節の急な変化に気分も身体もついて行けない今日このごろです。

      

満開の満開の河津ザクラ。

    墨堤通りにて。 

       

オオヒカンザクラが咲き始めました。

               11日の開花状況。

ところが、14日には。

ほぼ満開に。

              

高速道路下には、

                カンヒザクラ(寒緋桜)。鮮やかな緋色。

解説板。

桜の原種の一つ。ベトナム、中国南部、台湾、沖縄、石垣島、奄美大島に分布する。釣り鐘状の花が特徴。寒いときに濃い緋色の花を咲かせるので、「カンヒザクラ」と呼ぶ。「ヒカンザクラ(緋寒桜)」とも呼ばれる。

花の色は白から濃い桃色まで様々。鼻の大きさは1.5~2.5㎝程度。

石垣島で自生するものは国の天然記念物に指定されている。沖縄で「桜」と言えばカンヒザクラのこと。ソメイヨシノの成育が難しい沖縄や奄美地方では、このカンヒザクラに対して開花予想・開花宣言が発表される。

沖縄では1月から2月に開花し、関東以南では2月~3月に架けて花を咲かせる。

この桜とオオシマザクラの自然雑種、サトザクラ群「河津桜(カワズザクラ)が近年、有名になり観光名所に植えられている。

  

まだ梅も咲き誇っています。

            隅田公園(浅草側)にて。

 満開の枝垂れ。

        

      

  

   若い木。枝の先まで花を咲かせています。

一つの木に紅白の花が。

白木蓮の花。テラスにて。何本も見事な花を咲かせています。

花言葉:『気高さ』『高潔な心』『荘厳』『崇敬』『崇高』など。

             「向島百花園」門前にて。

「コロナ蔓延防止」のため、今年も梅の季節に訪れることが出来ませんでした(これで3年連続)。

来年こそは、と。         

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都鳥・ユリカモメ。言問団子。言問橋。業平橋。子規。(隅田川情景。その1。)

2022-03-14 20:33:12 | 隅田川

                     「都鳥」ユリカモメ。

隅田川には都鳥がたくさん。そろそろ夏毛も生えてきて、まもなく北国に帰る季節。 

         もうすぐ見られなくなります。                              

近づいても逃げない。目と鼻の先に。

   

       桜橋にて。

  テラスにて。

           

 

          

隅田川夕景。

都鳥「ユリカモメ」といえば。「言問団子」の店先。

名にし負はゞばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

「都」という名を持っているのなら、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのかと。

この歌は、『伊勢物語』の『東下り』にある歌で、主人公の「昔、男」(在原業平が想定されている)が、東国への旅の道中、隅田川で目にした鳥の名前を都鳥と聞いて詠んだ歌。

『古今和歌集』では、この歌の作者は在原業平とされている。

「隅田川」に架かる言問通り・「言問橋」。

こちらは「大横川(親水公園)」に架かる浅草通り・「業平橋」。

かつてはすぐ近くにある東武浅草線の駅名としてありましたが、今は、「とうきょうスカイツリー」駅となっています。

「業平」は、この付近の町名や小学校や公園名として、存在しています。 

         正岡子規の句碑。雪の日の隅田は青し都鳥 

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隅田公園。2022。梅めぐり散歩道。スカイツリー。早春賦。

2022-02-09 20:19:24 | 隅田川

そろそろ梅の季節。隅田公園の梅はどうかしら? と。昨日(2月8日)夕方、立ち寄ってみました。

       

梅めぐり散歩道 梅と日本文化
 梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました平安時代になり、梅は上流社会の流行花木になり、和歌などに多く歌われました。
 梅にまつわる話では、菅原道真が太宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」有名です。安土桃山時代には中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして、鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に創られるようになりました。
 江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。

ここには、2019年から毎年訪れています。

一昨年は2月6日、去年は2月3日。今年は例年に比べ、開花が遅いように感じましたが・・・。

2020年2月6日。



                    

2021年2月3日。

スイセン。

        

※去年は、2月4日に「春一番」。例年よりもずいぶん早かった。

さて、今年は?

      

  

午後4時頃。すでに西側の高層ビルの陰になってしまい、日差しも今ひとつ。ちょっと明るさが足りなかったかな。

      

まだ蕾のままの木も。

       

           

明日は、警報が出されるかも知れない、雪模様。

「春は名のみの 風の寒さや。谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず。 時にあらずと 声も立てず。」(吉丸一昌作詞・中田章作曲)と『早春賦』で歌われる如くの日が続きそうですね。

※「早春賦」

長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌っている。(「Wikipedia」より)

※吉丸一昌

1873年9月15日 - 1916年3月7日)は、日本の作詞家文学者教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭東京音楽学校(現在の東京芸術大学教授大分県北海部郡海添村(現臼杵市海添)出身。

旧制府立三中(現両国中・高校)の校歌の作詞者でもあります。

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃か
 
 歌詞の「春は名のみの」とは、暦の上での立春のこと。「立春」は、冬至と春分の中間にあたり、この日から立夏の前日までが暦の上での「春」となります。節分がその冬と春の境目の日。

作曲者の中田章さんは、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などで有名な中田喜直のお父さん。

隅田公園内「花」碑。

 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲

春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が 櫂のしづくも花と散る  ながめを何にたとふべき・・・

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