おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

コットンハーバー。まだまだ課題がありそうな街づくり? 横浜編その7。

2014-02-28 23:07:15 | 旧東海道
注:葛飾北斎作「神奈川沖裏波」は、「Wikipedia」より。ただし、描かれた場所は異なっている(もう少し南側、現横浜駅南方? 「本牧沖」付近)。

 2003年(平成15年)、横浜市神奈川区橋本町二丁目および星野町、山内町の各一部について、工場跡地や遊休化したドック(浅野造船所)跡地などの土地利用の転換により、再開発することを目的に「山内ふ頭周辺地区土地区画整理組合」が設立され、2004年6月に区画整理事業が着工された。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。浅野ドックが中央にみえる。左が横浜市場。線路は「東高島駅」構内。

 「コットンハーバータワーズ」4棟と「コットンハーバー マリナゲートタワー」1棟の高層マンション群が建設されている。また、その他の施設・店舗として結婚式場「コットンハーバークラブ」やプラザ栄光生鮮館コットンハーバー店(スーパーマーケット)などがある。プラザ栄光生鮮館はスーパーマーケット「コットンマム」の閉店後に同地に出店した。
 一方、天然温泉リゾート&フィットネスクラブ「INSPA(インスパ)横浜」は開業から3年が経過した2010年9月30日に閉店となったが、2013年12月から完全会員制施設として営業を再開(リニューアルオープン)している。
 また同施設の西側に計画されていたホテルは着工後に開発中止となり、この他には当地区内でオフィスビルも計画されていたが着工に至らずに中止されている。
 2010年代に入ってからの新規の開発として、ポートサイドリカー(プラザ栄光生鮮館の運営会社)による賃貸マンション「ヒストリアレジデンス海舟」が2012年に完成、また有料老人ホームの「サンシティ東神奈川(仮称)」が2014年末に完成予定である。
 この他、地区内に新しく整備された「星野町公園」があり、この公園内では神奈川台場の遺構を見ることができる。また、当地区の東端にはコットンハーバーボートヤードがある。
「コットンハーバー ヒストリアレジデンス海舟」の1階には「神奈川台場資料室」があり、神奈川台場に関する資料の他、マンション建設時に見つかった遺構がそのままの形で展示されている(注:2014年2月現在、閉鎖中)。(以上、「Wikipedia」参照)

地域一帯が超高層マンション群に大変化。


「星野町公園」。向かい側は、JR東高島駅構内。
東の海側はデッキ・テラス式の公園に。
遠くに「横浜ベイブリッジ」。
「みなとみらい地区」が目の先に見える。
振り返ってマンション群を望む。波止場の雰囲気を漂わせるテラス。
「コットンハーバー」案内表示。

 ただ、上にもあるように、今ひとつマンション住民以外の人たちを引き寄せる魅力に欠ける印象。「みなとみらい」相互のアクセスが十分でないこと、最寄りの交通機関が限られていること、さらに、東高島駅周辺地区や瑞穂埠頭にある米軍施設など、返還後の再開発のプランなど、まだまだ今後の課題が多いようだ。
開発が中断されたような敷地が広がっている。


2010年代のようす。開発が進んでいます。


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神奈川宿。松並木。新旧味わいのある街並み。横浜編その6。

2014-02-27 21:05:33 | 旧東海道
注:「神奈川宿」(歌川広重『東海道五十三次』より:現在の青木橋付近から横浜駅西口方面にあった海を望む)は、「Wikipedia」より拝借。 

 仲木戸駅周辺はかつての神奈川宿。東海道の品川、川崎、そして神奈川宿と3番目の宿場町だった。旧東海道に見立てた松並木の復活、古い寺町、神奈川砲台(台場)など見所満載。
 そして、「第一京浜」を越えて、東高島駅の東側は高層マンションが建ち並ぶ一帯。ここは、もともと「神奈川砲台」の先の埋め立て地・山内埠頭周辺地区。かつては、日本鋼管・浅野造船所など、工場・倉庫が建ち並ぶ広大な敷地があったところ。
 新旧入り交じった街並みを散策。
パンフレット「神奈川宿 歴史の道」(横浜市神奈川区役所 発行)。
掲載されている案内図。

《神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)》

 現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあり、付近には神奈川湊があった。


「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより引用)左のまとまった集落が「神奈川宿」で、上の図にあてはまる。


1880年(明治13年)頃の横浜のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。海岸に沿った、中央の街並みが「神奈川宿」。東海道は平沼(かつては海)の上部(北側)のへりを程(保)土ケ谷へ向かった。高島山・権現山と続く台地を切り通して造成された鉄道は弓状に築かれた堤の上を通って、現桜木町駅(初代横浜駅)方向に進んでいた。現横浜駅(三代目)は弓状の付け根(上部)よりやや西のあたりになる。

《神奈川宿》

 神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心はこの横浜村に移っていった。
 神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現滝の川)が流れていた。
 旧東海道は現在の国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、上台橋を通っていた。旧東海道はそのまま上方見附を経て芝生(しぼう)村から現在の環状1号線に沿って天王町駅、保土ヶ谷駅方面へ進む。
 台町から海を見下ろす眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介され、名所とされていた。神奈川沖の海は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏にも描かれた。また、宮洲(青木町の海岸、現在の栄町)の潮干狩りも名物であった。
 明治22年(1889年)に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。
 成仏寺の東にある「神奈川地区センター」の前には高札場が再現され、館内に江戸時代の神奈川宿のジオラマが展示されている。

注:「江戸時代」とあるが、展示されてあるのは、幕末、開国の頃のもの。
左にあるのが、神奈川砲台。中央部分が現在の「仲木戸駅」付近。「第一京浜」が旧東海道に当たる。
矢印が神奈川砲台(台場)。
矢印が「神奈川地区センター」。
手前の海が神奈川湊付近。「東海道」は現在の「青木橋」付近から北へ曲がり、台町へ進んでいた。左上に上っていくのが分かる。「上台橋」付近が神奈川宿の西のはずれ。
(以上、「ジオラマ」より)

《神奈川湊(かながわみなと)》

 神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として、六浦(神奈川県横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、当地に港が存在したことは確認されている。
 神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。江戸時代には東海道が整備され、慶長6年(1601年)に神奈川へ宿場が置かれた。神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、南に戸部湊、野毛湊があった。
 安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。

《名所・旧跡》

神奈川陣屋跡 - 江戸幕府の付近一帯の領地を所管する機関であった。
神奈川御殿跡 - 将軍上洛や鹿狩りの際の宿泊施設。利用されなくなったため、17世紀半ばに廃止。仲木戸という地名は、御殿の木戸があったことにちなむという。
神奈川台場跡 - 現在の高島線東高島駅付近。埋め立てなどにより、構築物の大半が埋没している。
神奈川台関門跡
長延寺跡 - 江戸見附とされていた後、旧オランダ領事館も兼ねる寺であった。長延寺は1966年、横浜市緑区三保町に移転し、跡地が神奈川通東公園となっている。
能満寺 - 漁師が海中から拾い上げた霊像を供養するために建立。
東光寺 - 本尊は太田道灌の守護仏。
妙仙寺跡 - 1908年移転した、現在の妙蓮寺である。跡地は横浜線貨物線路敷跡。
成仏寺 - 旧アメリカ人宣教師の宿舎で、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボンが滞在していた。
慶運寺 - 旧フランス領事館。浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったとされる、観音像がある。
浄瀧寺 - 旧イギリス領事館。
宗興寺 - 宣教師ヘボンが療養所を開いていた場所。
良泉寺 - 故意に屋根を壊して外国の領事館になることを断った、という逸話を持つ。
甚行寺 - 旧フランス公使館。
本覚寺 - 旧アメリカ領事館。横浜開港の頃にアメリカ領事館員が塗った、日本初のペンキ塗装の山門が現存する。また、生麦事件で斬られたイギリス人2人が逃げ込んだ場所でもある。
豊顕寺 - 三ッ沢に所在。法華宗の三沢檀林。
笠䅣稲荷神社(「䅣(のぎ)」は、「禾(のぎへん)に皇」)
神明社
熊野神社
洲崎神社 - 洲崎大神。1191年(建久2年)に源頼朝が安房神社を勧進して創建。
大綱金刀比羅神社
大井戸跡 - 江戸時代には東海道中の名井戸に数えられた。また、井戸の水量の増減で明日の天気がわかるとされ、「お天気井戸」の異名があった。
権現山古戦場跡
滝野川・滝野橋(「滝野」は「滝の」・「滝ノ」・「滝之」とも表記)- 神奈川宿の中央を流れる川。
青木橋 - 1872年(明治5年)、新橋-横浜間に開通した鉄道の切通しにより東海道が分断されたため、少し東寄りの位置に架けられた。当初の初代横浜駅は青木橋の南側にあった。
上台橋 - 1930年(昭和5年)、道路の切通しを作るために東海道が分断されたため架けられた。
田中家 - 1863年(文久三年)創業の料亭。広重の絵に描写されている「さくらや」という茶屋の跡にできたといわれる。坂本龍馬の妻楢崎龍が仲居として働いていた記録があり、写真等が現存する。
(以上、「Wikipedia」参照)

京急線と第一京浜との間の道に「松並木」が再現されている。ただし、旧東海道はもう一本東側(第一京浜)の道だったが。
まだ細い幹だが何十年後には立派な松並木に。


よく整備された道筋。由緒ある寺院が沿道に並んでいる。
「外国宣教師宿舎跡」。成仏寺門前にある碑。ヘボン式ローマ字で有名な「ヘボン」氏が宿舎としていたらしい。

ちなみに「ヘボン式ローマ字つづり」一覧(PASSPORT)

あ A い I う U え E お O
か KA き KI く KU け KE こ KO
さ SA し SHI す SU せ SE そ SO
た TA ち CHI つ TSU て TE と TO
な NA に NI ぬ NU ね NE の NO
は HA ひ HI ふ FU へ HE ほ HO
ま MA み MI む MU め ME も MO
や YA ゆ YU よ YO
ら RA り RI る RU れ RE ろ RO
わ WA ゐ I ゑ E を O

半濁音
が GA ぎ GI ぐ GU げ GE ご GO
ざ ZA じ JI ず ZU ぜ ZE ぞ ZO
だ DA ぢ JI づ ZU で DE ど DO
ば BA び BI ぶ BU べ BE ぼ BO
ぱ PA ぴ PI ぷ PU ぺ PE ぽ PO

拗音
きゃ KYA きゅ KYU きょ KYO
しゃ SHA しゅ SHU しょ SHO
ちゃ CHA ちゅ CHU ちょ CHO
にゃ NYA にゅ NYU にょ NYO
ひゃ HYA ひゅ HYU ひょ HYO
みゃ MYA みゅ MYU みょ MYO
りゃ RYA りゅ RYU りょ RYO
ぎゃ GYA ぎゅ GYU ぎょ GYO
じゃ JA じゅ JU じょ JO
びゃ BYA びゅ BYU びょ BYO
ぴゃ PYA ぴゅ PYU ぴょ PYO

復元された「高札場」。

 高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
神奈川県の東海道では、9つの宿場にそれぞれ1カ所ずつありました。いずれも江戸から京都に向かって街道の右側に設置されています。
高札場の高さは約3メートルから4メートル、間口は約3メートルから5メートルといったところです。
横浜市神奈川区にある神奈川地区センター前には、かつて神奈川宿の瀧之橋のたもとにあった高札場が復元されています。土台を石で固め、その上を柵で囲んだ内部に数枚の高札が2段に掲げられ、風雨を避けるために屋根が設けられています。(「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより)


「高札場」遠景。「神奈川地区センター」前。
そこから、仲木戸駅方向を望む。
東神奈川駅、仲木戸駅方向を望む。
「滝の川」。
「土橋」。流れはきれい。水鳥が群れをなして泳いでいる。
1880年頃のようす(「同」より)。赤丸が「東海道」、矢印が「滝野(の)川」(「同」より)。
「滝の橋」。「第一京浜」(旧東海道)が滝野(の)川に架かっている橋。
上流を望む。

そのほとりにあった飲み屋さん。「市民酒場」というネーミングが目を引いた。
案内図。


 「滝の川」を渡った西の宿場町のようすは、次回。その前に、「コットンハーバー」の方へ向かいます。
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神奈川砲台(神奈川台場)跡。台場公園。横浜編その5。

2014-02-26 22:37:36 | 旧東海道
 東高島駅付近は、かつての「神奈川砲台(台場)」のあったところ。周囲も含めてすっかり埋め立てられて、土地に変わりました。

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

2010年代のようす。○付近か?

「東高島駅」構内に接するところにある「史跡 神奈川台場跡」碑。

 安政6年(1859年)5月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇型で、約7万両の費用と約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

約7万両 幕末の頃には1両が現在の3~4千円(現在の米価で換算。低く見積もっても)だそうで、2億5千万円くらいの費用が費やされた、となる。が、山から土を運び出し埋め立てる、という大工事を想定すると、そんな金額じゃすまされないような気もする。最低でも20億くらいはかかっている、と。

赤丸が「碑」のあるところで、「碑」の背後に石垣が保存されている。
 


(「www.katsu-iwai.com/sansaku/index.html‎」より)
矢印が神奈川砲台(台場)(「同」より)。右手に「象の鼻」波止場が描かれている。

神奈川砲台(神奈川台場)略年表

1854年(安政元年) ペリーが軍艦7隻を率いて横浜に来航し、日米和親条約を締結
1857年(安政4年)
幕府は伊予松山藩に神奈川(横浜港と居留地)の警備を命じた
1858年(安政5年)
日米修好通商条約を締結、松山藩が幕府に神奈川砲台築立の場所指定願を提出

1859年(安政6年) 幕府は松山藩に海防砲台の構築を命じ、その後横浜港は開港し7月20日に松山藩が台場建設に着工(設計・指導は勝海舟)
1860年(万延元年) 6月神奈川台場は竣工し、松山藩主松平勝成が視察する
1866年(慶応2年) 9月天皇誕生日を祝って神奈川台場から祝砲を発射する

1899年(明治32年) 神奈川台場は廃止され、その後埋め立てが進みました
1924年(大正13年) 埋め立てられた台場の上に東高島駅(東海道線支線貨物駅)が開業

1995年(平成7年) 神奈川台場公園が完成(横浜市緑政局:現環境創造局)

2006年(平成18年) 神奈川台場西取渡り石垣発見(当社団)
2008年(平成20年) 神奈川お台場西取渡り部の発掘調査(神奈川区:埋蔵文化財センター)
2009年(平成21年) 横浜開港150周年開国祭開催、神奈川台場公園の再整備計画が神奈川区役所により推進され、神奈川区資産「わが町かながわ とっておき」に認定される
2010年(平成22年) 神奈川区は、神奈川台場をより多くの方々に知って貰う為に、星野町公園と神奈川台場公園をリニューアル


http://www.kanagawadaiba.com/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%8F%B0%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ より引用)

「台場公園」への道ばたにある「説明板」。
残雪で隠れているが石垣の一部。遺構の大半は、公園内の地中に埋まっている。
「台場公園」内にある発掘調査の説明板。東高島駅沿いのマンション建設現場から遺構の一部が発掘され、本格的な調査が始まった、らしい。
周辺一帯の発掘調査の概要。

パネル。台場(横浜開港を含めて)の歴史を簡潔に知ることができる。
 

「台場公園」。奥に説明パネル。

JR貨物線(東高島駅構内)をはさんで反対側にある「星野町公園」にある「神奈川台場跡地」の説明パネル。右の赤い○が「台場」、中央の赤い○が「象の鼻」(西波止場)。
線路脇(横浜市場内)に保存されている石垣。
扇型に突き出した台場の護岸用の石垣。
付近(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 なお、マンションの一室に建設中に発見された遺構(石垣)がそのまま保存されているとのこと。設計者の勝海舟にちなんだ『海舟』。訪問したときは、残念ながら閉まっていました。
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横浜鉄道。JR横浜線。東神奈川。横浜市場。廃線跡をたどる。横浜編その4。

2014-02-25 21:05:42 | 鉄道遺跡
 もう一つ「東神奈川と東高島」とを結ぶ貨物支線の遺構探し。この路線は、前回の「鶴見」~「桜木町」(高島線)、その支線・瑞穂埠頭への貨物線(のちの米軍専用線)とは異なり、横浜線(「東神奈川駅」)から派生した支線。
 もともとは、1908年(明治41年)、八王子や信州で生産された生糸を横浜へ輸送することを目的として、「横浜鉄道」によって開業した東神奈川駅 - 八王子駅間(現・横浜線)に由来。
 横浜鉄道は、神奈川沖の海を埋め立てて岸壁を建設し、そこに貨物線を伸ばして海陸連絡を図る構想のもと、東神奈川駅から海側へ貨物線を延長することになった。すでに東神奈川駅のすぐ海側には京浜電気鉄道(後の京急本線)の線路があったために、京浜電気鉄道の線路を高架化することになり、京浜電気鉄道・仲木戸駅の下をくぐって、横浜鉄道の線路が延長された。その時、海岸側に設置された駅が海神奈川駅(現・神奈川水再生センターの一部)で、1911年(明治44年)に開業。
(「神奈川水再生センター - 横浜市」公式HPより)
 この海陸連絡線は開業から国鉄が営業することになり、その後1917年(大正6年)、横浜鉄道は正式に国有化され、国鉄横浜線となった。
 この横浜鉄道の海陸連絡線は、横浜港において初めての臨港貨物線だったが、岸壁を造成できないままに終わって、本格的な船舶との連絡を果たすことはできなかった。
 横浜線の海陸連絡線は、東神奈川駅の東側で横浜線から分岐して南へカーブを切り、京急本線を仲木戸駅の下にあるガードでくぐって、国道15号(第一京浜)を横断して千若町の海神奈川駅へ至る構造であった。東神奈川から高島までの貨物線もこれと平行して敷かれていた。

線路の跡だと思われる駐車場。中央奥に行ったところが「東神奈川」駅構内。
京急「仲木戸」駅」ガード。この下を通って東高島駅方向に向かった。ガードの中央付近に古い煉瓦造りの部分が残っている。
旧線路脇の「仲木戸公園」煉瓦造りの門柱、塀。
「第一京浜」の歩道橋から仲木戸駅方向を望む。赤丸が京急線とのガード。そこをくぐって二つの貨物線が赤線のように進んでいた(一方はそのまま東に向かい「海神奈川」へ、もう一方は南にカーブして高島線「東高島駅」付近で合流)。
ゴルフ練習場のフェンスに沿って線路があった。右にカーブして運河を渡り、東高島駅に通じていた(「東神奈川」~「高島」)。
現在は、民間会社の構内。
当時の橋梁が現存している。
運河に架かる橋梁。

 第一京浜に架かる歩道橋。そこに案内図がありました。
(注:上が北になるよう回転させている。)が東高島駅。その下(南側)一帯が構内。付近にも引き込み線があった。現在はすっかりなくなっていて、再開発(計画)を予定しているようす。左(西)の○が「第一京浜」。
付近。引き込み線があったところ。現在は、かなり規模が大きい駐車場(空き地?)。
東高島駅構内。付近。
構内は広い。
 西側部分は、線路は撤去され、陸上での物流関係の集積場になっている。
かつてのホーム跡?
頻繁に電気機関車や貨物列車が行き来している。

横浜市場へ向かう支線の跡?
線路は遮断されて、ここから市場へ向かう線路跡は見当たらなかった。
市場へ向かう支線が通っていたと思われる「星野公園」から東高島駅方向を望む。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に大きく広がる「東高島駅」から分かれて南に進む線路が横浜市場への支線。現在は、すでに廃線。

昭和初期の頃のようす(「今昔マップ」より)。赤い線が貨物線。「仲木戸」駅付近に「御殿町」という地名があるのに注目(赤丸)。「仲木戸」駅名は、神奈川御殿の「仲木戸」の由来。
神奈川御殿。
「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより引用)

これは、運河にうち捨てられた「廃船」!

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再び「仲木戸」訪問。廃線踏切跡。米軍施設。高島線。横浜その3。

2014-02-24 21:08:14 | 鉄道遺跡
 京急「仲木戸」駅下車。神奈川宿。再び訪問。
「瑞穂橋」沿いに残る貨物線の橋梁。
 かつての瑞穂埠頭への貨物支線を転用した在日米軍基地「横浜ノース・ドック」(「在日米軍港湾輸送施設」)専用線が高島線・信号所から分岐し、燃料輸送に使用されていた。すでに役割を終えたが、そのまま残っている。
橋梁から西北側を望む。線路は右にカーブして「高島線」と合流していた。
「高島貨物線」との合流近くの踏切跡から瑞穂橋方向を望む。
廃線してもそのまま残っている踏切のレール上に車が駐車している。
踏切跡への道の入口。「駐停車禁止」の看板には、違反「者」(「車」ではない!)は米軍レッカーで撤去します、とある。もちろん、現在はそうではなさそうだが。この地域が米軍の支配下であった証。と思ったが、踏切跡を渡っていくと、こんな看板が目に入った。
「専用地に付き米軍と日本製粉に御用の方以外の立入り御遠慮下さい」。
 この奥の一角には、現在も米軍関係施設がある。地図には、「FLEETMAILCENTERYOKOHAMA」とある。そこでは、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の郵便業務を行っている、とのこと(「横浜ノース・ドック」の関連施設)。米軍施設が点在している地域。
奥が、「日本製粉」横浜工場。
雑草に埋もれた線路。高島線との合流付近。
鶴見駅方向に向かう貨物列車(「石油タンク」が長く連なっている)。

 高島線は、東海道本線の貨物支線のうち、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から同市神奈川区の東高島駅を経由し同市中区の桜木町駅を結ぶ貨物専用線、およびその支線の通称。
 2012年初頭時点で現存する区間は、桜木町まで。鶴見で東海道本線や貨物線の東海道貨物線、武蔵野線に接続し、新鶴見信号場や東京貨物ターミナル駅方面へと連絡している。また、桜木町では根岸線に接続している。「JR貨物」の貨物列車が運転され、鶴見以東と根岸線を結ぶ中継ルートの役割を果たしている。
 路線網がこのように縮小される前は、横浜港一帯に臨港線と貨物駅を張り巡らせており、横浜市内に発着する貨物および船舶と連絡する貨物の取り扱いを行っていた。
 かつては「新興」発着の化学薬品輸送、「東高島」発着の在日米軍基地「横浜ノース・ドック」専用線発着のジェット燃料輸送、「日本製粉専用線」発着の小麦輸送、「横浜市場」発着の鮮魚輸送などがあった。
 東神奈川駅と高島駅を結ぶ貨物支線もかつて存在し、廃線跡や橋梁は現在も残っている。

 高島線や東海道貨物支線を旅客線にしようという地元自治体の運動があり、現在、京浜臨海部再編整備協議会が東海道貨物支線の貨客併用化への取り組みを行っている。
 さらに、路線と関係する神奈川県や東京都の地元自治体により結成された東海道貨物支線貨客併用化整備検討協議会も東海道貨物支線(高島線を含む)の貨客併用化を路線所有者のJR東日本に対して要望しており、2012年には同協議会が貨客併用化の検討ルートを公表している。

「東神奈川駅」コンコースにある大正時代初期の絵図。赤丸が「現東高島駅付近」かつての神奈川砲台跡。赤く塗られた部分が「横浜倉庫」の倉庫群。
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及び腰が気になる「朝日」。それにしても「真意は違う」「誤解だ」「個人的見解だ」・・・

2014-02-23 00:05:16 | 平和
首相側近、次から次へと「問題発言」 火消しに躍起(朝日新聞) - goo ニュース

 第一次安倍内閣。「お友達」内閣の構成員が次々と問題発言、不祥事を起こして叩かれ、ご本人も体調悪化で、結局、途中で放りだしてTHE END。
 今回はそれに懲りてか、閣僚の人選には配慮したようだったが、やはり「習い、性となる」で、側近にはお友達をずらり。その連中が危うい発言をものするようになった。これは、アベの思いをおもんぱかっての発言ではないかとすら言われるはめに。「驕れる者久しからず」で怪しい雲行き。

 ただ、この記事、全文を読むと、記者(朝日新聞)の取り上げるスタンスがぶれているような気が。それは百田なる人物の取り上げ方。

 「goo」ではこの部分しか掲載されていないのが、ミソ。実は、百田発言を都知事選応援演説の際の対立候補への「人間のくずだ」のみを取り上げて、弁解を載せている。
 しかし、彼の発言をアメリカなどが厳しく批判するのは、東京裁判に関わる発言の数々、のはず。それには一切触れていない。他の人間の発言は、一歩踏み込んで記事にしている、にもかかわらず。

 そういえば「朝日」。今、大ヒット中の百田尚樹原作の映画「永遠の0」の製作委員会に名を連ねているせいなのか、映画の感動、すばらしさを掲載したり、このかんの「問題」発言に関するご本人のインタビューを特集したりしている。そして、そこでも、作家としての発言だったという彼の立場を擁護する内容になっていた。

注:
「永遠の0」製作委員会
 東宝 アミューズ アミューズソフトエンタテインメント 電通 ROBOT 白組 阿部秀司事務所 ジェイ・ストーム 太田出版 講談社 双葉社 朝日新聞 日本経済新聞社 KDDI TOKYO FM 日本出版販売 GyaO! 中日新聞社 西日本新聞社
 
 大マスコミ、お得意のダブルスタンス(ダブルスタンダード)が見事に発揮された記事ではあった。
 
 それにしても、叩かれるたびに、「真意は違う」「あくまでも個人的見解」「誤解を招いた」「撤回したからいいだろう」「もうふれないでくれ」・・・、言い訳・弁解・ごまかし・逃げ・居直り・擁護・・・。
 政界、財界、それなりに国内外への影響力のある人間の「失言」発言。・・・言葉の軽さがここまで至っているとは! そして、こうした発言にくさびを打てない野党のだらしなさが際立つ。一昔前ならクビの一つや二つ取れたはずなのに。ますます暗くなる昨今の政治情勢。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその6。江東区編。

2014-02-22 19:51:46 | 震災復興小公園

《江東区》

46元加賀公園 昭2(1927)年 元加賀小学校(2013,10,9掲載)
 開園当時の施設が残っている。
壁泉付露床。
藤棚から西の広場を望む(樹木は植えていないので、近所の幼稚園、子供会などの運動会・催し物には最適)。中央が「壁泉付き露床」。

校庭との間にはフェンスと植え込みがあり、それぞれの独立性が高いものになっている。学校の校庭との通用口が二カ所。それぞれ立派な門扉で、簡単に出入りできるようにはつくられていない。

47八名川公園 昭5(1930)年 八名川小学校(2013,12,2)
藤棚をあしらったテラス。
公園側の通用門。
小学校のフェンス脇には花壇があって、目を楽しませる工夫がされている。

48森下公園 昭5(1930)年 深川小学校(2013,12,3)
 公園の名称と小学校名が異なる組み合わせ。
通りをはさんで存在する。右が「深川小」。
広々とした中央広場。
藤棚のあるテラス。

49臨海公園 昭5(1930)年 臨海小学校(2013,12,4)
臨海小の校庭拡張の影響か、内側にカーブしたかたちになっている。
校庭とのフェンス。

50東陽公園 昭2(1927)年 東陽小学校(2013,12,6)
永代橋通りと高層ビルに囲まれた公園。
右奥が「東陽小学校」。
学校との関連は薄い。

51扇橋公園 昭5(1930)年 扇橋小学校(2013,12,6)
カーブした藤棚。
藤棚から小学校方向を望む。
学校は、全面改築中。

52川南公園 昭6(1931)年 川南小学校(2013,10,10)
 一体的に使われている公園。
校庭と公園の出入口。
 戦後、復興した校舎の位置は、戦前とほとんど変わりませんが、公園は、学校側にプールができ、手狭な印象。
 当時のままの二連式滑り台。
正面に子どもを描いたレリーフ。
公園の西側から東を望む。


(「震災復興52小公園」の原資料は、「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより引用。番号は便宜的に付した。)

 なお、( )内は、掲載した日付です。公園、小学校の現状や歴史、周辺地域の話題など盛りだくさんなつもり。詳しく知りたい方はぜひ訪問して下さい。

 「震災復興小学校」として鉄筋コンクリートづくりの校舎があったが、戦災で大きな被害を受けたり、その後の統廃合によって取り壊されてしまい、現在、現役校舎、あるいは他の用途として使われているものも含め、数少なくなってしまっています。
 「震災復興52小公園」の中で紹介した以外の小学校(隣接した「小公園」がないか、あるいは小規模のもの)で、当時のままの校舎が残っている小学校(他の用途に転用したものも含む)を訪れ、掲載しています。まだ行きそびれている校舎も訪ねて、別の機会にまとめる予定です。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその5。墨田区編。

2014-02-21 22:11:34 | 震災復興小公園
《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校(2013,10,15掲載)
西側から望む。北側には「中和小学校」。

公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。

39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校(2013,10,9)
西側を望む。かつての面影はなさそう。樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。
道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている。

40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校(2013,10,14)

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。

41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)(2013,10,14)
パーゴラ(藤棚)。支柱に当時の雰囲気を残している。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小学校(旧名「江東小学校」)(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。
 公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすあり。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいる印象。

42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3-8。)
(2013,10,16)

 戦後、区画整理で消滅(代替公園「江東橋公園」)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつて大きな都電の車庫だったところの裏手。代替の「江東橋公園」は少し西に行った「都立両国高校」の近くに位置。
 学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。
パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
左の雑居ビル付近が公園跡地?
江東橋公園。

43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校(2013,10,14)
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようだ。
 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、とか。歴史・伝統のある学校。


44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校(2013,10,15)
菊川小学校との仕切りは開かれ、ハードルが公園内まで並べられて体育の授業中。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。

45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4-11。)(2013,10,16)
竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。
 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。
「日進公園」。右の建物は、地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 1971(昭和4)6年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付した。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその4。台東区編。

2014-02-20 23:53:22 | 震災復興小公園
《台東区》

公園名   開園年   隣接の小学校
23東盛公園 昭3(1928)年 東盛小学校(2013,10,21掲載)

 西に接する小学校の校名は、「東泉」(昭和21年竜泉国民学校と合併し、東盛の「東」と竜泉の「泉」の一字ずつをとり「東泉」とした)となったが、公園名は「東盛公園」。よく整備され、開放的で広い公園。

校庭との境は、開閉が出来るフェンス。学校+公園という初期の目的は残されているようです。

24山伏公園 昭6(1931)年 山伏小学校(2013,10,23)

 北側の区立駒形中学校(旧山伏小学校の敷地)と隣接し、公園の一部は、駒形中のグランドになり、当初の時よりも小さくなっている。

公園から望む駒形中学校。この中学校は運動系が盛んのようで、大きなグランドを所有している。

25入谷公園 昭6(1931)年 台東小学校(2014,2,14)
 全面的な改修工事が行われたようで、かつての面影はなく、明るく開放的な公園。公園名も「金杉公園」となっている。
右手が球技場、左手が遊具のある公園。奥に見えるのが、「柏葉中学校」。

 もともとあった「入谷小学校」の校舎はなくなり、「柏葉中学校」のグランドとなっている。


26西町公園 昭5(1930)年 西町小学校(2013,10,25)

 「西町小学校」は、1998年統合で廃校になり、跡地には、「永寿総合病院」が建っている。
上野や御徒町からも近く、行き交う人々が多い。右(北側)が病院の建物。

27御徒町公園 昭6(1931)年 御徒町小学校(201,2,11)

 ここは、かつての復興公園の面影を残している公園。パーゴラ(つる棚)などもあり。

旧「御徒町小学校」の跡地につくられた「御徒町台東中学校」。

28石浜公園 昭5(1930)年 石浜小学校(2013,10,22)
中央に運動広場。東側に遊具施設。

「石浜小学校」
 明治40年創立。校舎は長らく震災復興校舎(昭和2年竣工)を使用していたが、昭和50年に新校舎に建て直され、現在に至る(平成元年~3年にかけて改修あり)。
 ここに校庭との出入口がありました。公園を利用することもあるようです。

29千束公園 昭5(1930)年 千束小学校(2013,10,23)
広い運動広場。

公園側からフェンス越しに校庭を望む。
 千束小学校の児童数は、現在、200名ほど。1学年1学級ということになる? 小規模校故の良さも悩みもありそう。

30小島公園 昭6(1931)年 小島小学校(2013,10,26)
「旧小島小学校」の南側に隣接する。
 旧校舎はそのまま「Taito Designers Village」(併設として「小島アートプラザ」)として利用されている。
半円柱状(丸い搭状)の外観。運動場に面した南西の角。

31富士公園 昭6(1931)年 富士小学校(2013,10,22)
公園の北側に浅草警察署の大きな建物がある。

道路を挟んだ東に「富士小学校」。正面が道路側にあり、公園とは独立した存在となっている。

32田原公園 昭6(1931)年 田原小学校(2013,11,2)

 大半を校庭にとられて、実に小さな公園となっている(戦前からこんじまりとした公園になってはいたが)。校庭との間に大きい出入口あり。

なかなかしゃれた校舎。

33金竜公園 昭6(1931)年 金竜小学校(2013,10,23)

「図書館」の南側に公園が広がる。

 「金竜小学校」は 1986(昭和61)年、100mほど北の現在地に移転。その跡地には、 2001(平成13)年、「台東区生涯学習センター(「区立中央図書館」)」が建設された。


34松葉公園 昭6(1931)年 松葉小学校(2013,10,25)
中心となる広場。
 日本では1928(昭和3)年に始まったラジオ体操。戦中戦後には休止されていたのが、戦後、1951(昭和26)年に再開したのが、ここ松葉公園だったそうだ。

道路を挟んで西側に「松葉小学校」。公園とは切り離されている。校舎は、ユニークな建物と色彩。

35精華公園 昭5(1930)年 精華小学校(2013,11,2)
公園中央広場。広いスペースの公園。校名の「精華」はなくなったが、公園の名として残っている。

「蔵前小学校」校舎。
 平成15年4月、精華小学校、小島小学校、済美小学校の統合により、「精華小学校」の跡地に「台東区立蔵前小学校」として開校。

36柳北公園 大13(1924)年 柳北小学校(2013,10,28)
広場。南側には「柳北小学校」、北側に隣接する校舎は、「都立忍岡高校」。

「柳北小学校」の廃校後、一時期、フランス人子女が通う〔東京リセ・フランコ・ジャポネ東京校〕の中等科・高等科の校舎として使用していたが、移転し、今年の4月から、一階部分には「柳北保育室」が開設されている。
南側からの眺め。震災復興校舎としての特徴がうかがわれる。
 コの字型の校舎だった。正門が公園に面していて、中庭が校庭。現在は、西側の校舎は取り壊され、「柳北スポーツプラザ」という建物になっている。

37玉姫公園 昭5(1930)年 正徳小学校(2013,10,21)
 東京大空襲で壊滅した地域。戦後、小学校は、廃校になってしまい、敷地は、「蓬莱中学校」になった。

大きな運動場があるが、厳重な囲い。北側の公園の一角では、将棋などを楽しんでいる人たち。
「蓬莱中」跡地には、「老人ホーム 浅草ほうらい」が建つ。

 なお、台東区内には震災復興校舎がいくつかあり、まだ現役校舎として活躍しているものも。その訪問記は別の機会に。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその3。港区、文京区編。

2014-02-19 21:06:09 | 震災復興小公園
《港区》
 公園名  開園年   隣接の小学校
19桜田公園 昭6(1931)年 桜田小学校(2014,2,8掲載)
小学校時代のグランドがそのまま残っている。

「桜田小学校」→「港区生涯学習センター」。改修工事のため、全面シートに覆われている。
「同」工事前のようす。(「港区」公式HPより)

20南桜公園 昭4(1929)年 南桜小学校(2014,2,10)
 再開発で隣接していた南桜小の震災復興校舎を取り壊し、大きな公園に変貌。
都会のど真ん中にこれだけの開放的な空間。
 公園内には、「南桜小学校」当時のものがいくつか残されている。
二宮尊徳像。他にも記念碑など。

《文京区》

21新花公園 大15(1926)年 湯島小学校(2014,2,15)


道路を挟んで南側に「湯島小学校」。
 震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。その公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。

22元町公園 昭5(1930)年 元町小学校(2013,10,8)
 昭和57年(1982年)に伊藤邦衛によって原型に忠実な改修が行われ、当時の設計思想を現在に伝える唯一の小公園となっている。
 復元されたモダンなデザインの擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台などは、いずれも小公園の特徴的な様式である。
壁泉。
パーゴラ(つる棚)。
二連式滑り台。

元町小正面。校章が外された跡が痛々しい。現在は、「順天堂病後児ルームみつばち」など、一部使用されている。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその2。中央区編。

2014-02-18 21:57:07 | 震災復興小公園
 公園名   開園年  隣接の小学校

8常磐公園 昭6(1931)年 常磐小学校(2013,12,12掲載)
線路際の道と学校の建物にはさまれた小さな公園。

東側の校舎(震災復興校舎)。この校舎は東京都選定歴史的建造物に指定されている。

9久松公園 昭5(1930)年 久松小学校(2013,12,15)
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。

校舎全景。

10十思公園 昭5(1930)年 十思小学校(2013,12,13)
緑も多く、よく整備されている。「時の鐘」や記念碑などは開園当時のまま。伝馬町牢屋敷跡にある。

十思小学校→十思スクエア。旧校舎をそのまま使用している。

11箱崎公園 昭4(1929)年 箱崎小学校(2013,12,16)
平日の昼休みなどにはサラリーマンなどで賑わうような印象。

「箱崎小」→「日本橋高」→「水天宮ピット」となったが、震災復興校舎当時のまま。

12蛎殻町公園 昭6(1931)年 有馬小学校(2013,12,17)
現在の公園正面。門構えと築地塀が特色。
 設立当初とは学校と公園の位置は異なるが、一体型というコンセプトは引き継がれている。利用に当たっては有馬小・幼稚園の児童・幼児等が使用する時間帯と一般が利用できる時間帯が区分されている。

ベランダには「祝 開校140周年 開園68周年」の文字。

13鉄砲洲公園 昭5(1930)年 鉄砲洲小学校(2013,12,22)
新校舎建設と合わせて整備されたようす。
 
鉄砲洲小学校→中央小学校(旧京華小学校と旧鉄砲洲小学校が統合されて誕生した)。外壁などのつくりは、かなり斬新なデザイン。

14京橋公園 昭5(1930)年 京橋小学校(2014,1,5)
公園の東側から。復興小公園につきものだったコンクリート製の二連式すべり台が、2011年8月、老朽化等のために撤去され、モニュメントとして写真とともに掲示されている。

 震災復興校舎だった「京橋小学校」は、統廃合ですでになく、「京橋プラザ」という大きな複合高層住宅になっている。建物の1階コンコースに旧京橋小のモニュメントがあり、かつてを偲ばせる。

15築地公園 昭5(1930)年 築地小学校(現存せず)※ 校地拡張のため、消滅。
 「築地小」は、「京橋小」と統合して、現在、「京橋築地小学校」。
(「京橋築地小」HPより)

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。矢印が旧築地小。公園が隣接されている。右下が「築地本願寺」。

16越前堀公園 昭5(1930)年 明正小学校(2013,12,31)
四阿風。史跡・記念碑などや緑も濃く大人もゆっくりと楽しめそう。

「明正小」は旧校舎(震災復興校舎)を取り壊し、新築中。全面シートに覆われている。公園側から。

17月島第一公園 昭2(1927)年 月島小学校(2014,1,9)
広い中央広場。トイレ棟がユニーク。

 小学校はすぐ近くの工場跡地に移転。 
小学校の跡地は、「月島区民センター」「月島図書館」などの施設が入った建物になっている。

18月島第二公園 大15(1926)年 月島第二小学校(2014,1,8)
「月島第2小」側からの公園。広いスペースの公園となっていて、かつての「震災復興公園」としての面影はないが、住民の憩いの場所として賑わっている。北側には超高層マンション。

大きな校舎。それでも、児童数の増加のため増改築工事が始まる。

 ※ 2013年12月29日掲載の『第一大学区第一中学区第一番小学 阪本学校』としての歴史を持つ「阪本小」、隣接する「坂本町公園」。小学校校舎は震災復興校舎だが、ここでいう「震災復興52小公園」には含まれていない。
公園側からの校舎。
校舎側から公園の北方向を望む。

 なお、「阪本小」のように「震災復興校舎」が現役校舎として使用されているものもある。また、他の施設として転用されているケースも。それはまた別の機会に。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその1。千代田区編。

2014-02-17 20:55:53 | 震災復興小公園
 公園名   開園年  隣接の小学校

《千代田区》

1上六公園 昭4(1929)年 上六小学校(2014,1,28掲載)
「上六公園」を下に望む。北側にある東郷元帥記念公園と一体化。樹木も多く、高低に富んでいる。大幅に改修されている。
千代田区内では唯一復興校舎が、現役の校舎として残されている。特徴的な正面玄関の庇。現九段小学校。ただし、現在、改築改修計画が進められている。

2西小川公園 昭5(1930)年 西神田小学校(2014,1,27)
大幅な改修のため面影なし。
西神田小学校も廃校、跡地(正面)は、多目的な「西神田コスモス館」に。記念碑が設置されている。

3錦華公園 昭4(1929)年 錦華小学校(2014,1,26)
このあたりは、門柱など開園当時のままの雰囲気。お茶の水幼稚園がもともとの公園の敷地内にでき、手狭な印象。
校舎も全面改築され、校名も変わり、「お茶の水小学校」へ。漱石も学んだ、歴史と伝統のある学校。

4淡路公園 昭5(1930)年 淡路小学校(2014,1,25)
開放的な芝生の広場に。一帯の再開発地域の一環として大変貌。
淡路小学校の跡地は、超高層ビル「Waterras」に大変貌。かつての面影はまったくなくなって、新たな地域交流の場所として機能させていくようだ。

5神田公園 昭6(1931)年 神田小学校(2014,1,23)
公園の西北側から。ここも復興震災公園の面影はない。水回りが豊か。
現・千代田小学校。立派な建物。

6練成公園 昭6(1931)年 練成小学校(2014,1,21)
かつての面影はなく、「アーツ千代田」と開放的かつ融合的な公園に。
旧「錬成中学校」の校章がそのまま残っている正門。

7芳林公園 昭5(1930)年 芳林小学校(2014,1,22)
立派な門柱。ここも大改修。かつての面影はない。小学校からは歩道橋で行き来する。
旧芳林小学校も校舎も解体。公園から現・昌平小校舎(豪華な印象)を望む。

(公園名等は、「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより一部引用。番号は便宜的に付した。)

 住んでいるあたりの雪はほとんど消えましたが、多摩の方はまだまだ。もっと西の山梨でも大変な状態が続いているようす。そして、今週の水/木がまた危ない。
 以前は、関東に雪が降り始めると、だんだん春が近づいてきたことが知れた。寒気と暖気のせめぎ合いで次第に春らしくなっていく。だから、少ししんどい思いをしても何とか過ごせました。
 しかし、今はそんな悠長なことは言っていられません。まさにいのちと暮らしを直撃。

 これも、温暖化のなせる「異常気象」のようです。

 「八王子」の友人、「前橋」の友人、そして「仙台」の知人からの悲鳴にも似た連絡あり。ここ数日の「苦闘」を。
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竹町公園(旧竹町小学校、現平成小学校)。(震災復興52小公園。番外編。その13。)

2014-02-16 21:15:04 | 震災復興小公園

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「竹町小学校」の位置、赤い線がのちの「佐竹商店街」。東側の通りが現在の清洲橋通りにあたる。(「佐竹商店街」「三味線堀」跡などについては、昨年の11月11日付けで紹介済み)

1941(昭和16)年頃。赤丸が竹町小学校、下谷(現竹町)公園。「佐竹本通り」が「佐竹商店街」。
(「竹町 - DTIwww.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/syouwa16/taketyo.html」より)。‎

 近隣の台東区立小学校では震災復興公園に関わる学校も多い。そうした土壌があったのでしょうか、竹町(たけちょう)公園と旧竹町小学校の関係は、まさに震災復興52小公園と同様の発想があったと思われます。
小学校と公園の関連が似ている。この公園は、小学校の校庭に面してつくられた公園仕様。


平成小学校南側に公園が広がっている。
校庭とのフェンスにある出入口。残念ながら校庭側は花壇で占められている。
コンクリート製の花壇が並んでいる。
西側に段差をつけて遊具がある。
東側は広場。学校側にコンクリート製の昇降台が設置されている。毎朝のラジオ体操の会場に。
古い樹木も。
フクロウ。
「佐竹商店街」のマスコットは「竹にフクロウ」。
地名にちなんで、公園の一角には、小さな竹林。
「平成小学校」正面玄関。ネーミングは? 複数の学校が統合して一校になると校名がもめますが。ただし、併設の幼稚園名に「竹町」が残っている。
(「平成2年に二長町小学校と統合されて平成小学校となり、永い歴史を閉じた竹町小学校です」mixiコミュニティより引用)

 この公園と小学校との関係は、「震災復興52小公園」当時のコンセプトを引き継いでいるように思えます。
 90年以上前の、小学校を機縁とする地域コミュニティ計画が、今も地域にとって必要なことを実感しました。

地名由来。
エリア。

 明治5年(18729秋田の久保田藩主佐竹邸、伊勢の津藩主藤堂邸、伊予の大洲藩主加藤邸、秋田の矢島藩主生駒邸と周辺の屋敷が合併して竹町はできた。町名の由来はこの地に最も広大な敷地を有した佐竹邸の西門扉に竹を用いたことにちなむという。
 この地は竹町と命名されてからめざましい発展を遂げて、佐竹邸の跡地は講談寄席や料理店がならび大変にぎわった。その後、大正12年(1923)の関東大震災で一面焼失したが、聖人や職人の町としてよみがえった。そして第二次世界大戦で二度にわたる空襲を受けたにもかかわらず他にさきがけて復興し現在の姿になった。

 学校と公園のある場所が、佐竹邸跡。また、「秋葉神社」は佐竹邸の屋敷神として、現在も公園の脇に存在しています。

公園の周囲には、古い民家がまだ残っている。
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新花公園(湯島小)。(震災復興52小公園。その40。)

2014-02-15 14:42:51 | 震災復興小公園
 東京地方、いやオール関東で先週の大雪が溶けないうちに、またしても大雪。夜明け前から大雨。今度は大雨洪水警報が各地に出される始末。風も強い。
 そんな中、近所の子ども達が登校する姿がちらほら。雪道で傘を差して・・・。土曜授業をやっているせいらしい。雪道で行き惑う低学年の子ども。子どもは行かないわけには(学校もやらないわけには)いかないのかね。いつも見慣れた朝方の風景も、今朝はちょっと同情。

 こちらは、先日、ちょっと肌寒かった日に出かけたところをレポート。「震災復興52小公園」巡りも、いよいよ最終回。

③文京区立新花公園(湯島小学校)





左が1880年頃のようす。赤丸が湯島天神下の「切通坂」。矢印が現在の「湯島小」付近。当時は、もう少し南側、「新花町」・霊雲寺に接する辺りにあったようだ(下の赤丸付近)。右の写真はほぼ同じ場所の1970年頃のようす。位置もそうだが、道路が130年以上経過しても現在とほとんど変化していないことに気づく。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)

目に飛び込んでくるのは、クジラ。小さな公園なので存在感抜群。親子連れが遊んでいた。
道路を挟んで南側に「湯島小学校」。実は、震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。


 これまでの震災復興52小公園とは配置が異なっていることに気づく。小学校の東側にあった公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。上の右の写真では工事中であることが分かる(「湯島小」沿革史参照)。
当時のイメージ(「震災復興52小公園フレーム www.geocities.jp/zouenkasyudan/52parks/」より引用)。

《湯島小学校》


明治 3(1870)東京府に6つの小学校ができる。その1校として、本郷丸山本妙寺におかれる。
   4(1871)湯島切り通し坂の麟祥院内の家に移り、小学校第4校として開校する。文部省の管理。児童数32名
   5(1872)学制がしかれ、東京府庁の管理となる。
   6(1873) 改めて公立小学校となり、第4中学区第1番小学湯島校となる。
   9(1876) 湯島新花町に新校舎落成。
   15(1882) 尋常小学校となる。
・・・
41(1908) 学制変更により、東京市湯島尋常小学校となる。(修業年限6年)
・・・
大正 12(1923) 関東大震災が起き、校舎が全焼する。
  14(1925) 新花町2番地に新校舎を作り始める。
15(1926) 鉄筋コンクリート造りの校舎落成式。
・・・
昭和 15(1940) 新花公園との境をとり去り、運動場を広げる。(紀元2600年記念事業)
・・・
昭和 20(1945)3 9 空襲により、学校付近は全部焼失し焼け野原となった時、学校も南西の17教室と便所を焼失する。
・・・
昭和 38(1963) 全教室にテレビが設置される。
・・・
昭和 46(1971 校庭東側の新花公園を校地にする。(新花公園は校舎北側の現在地に移設する)
・・・
平成 23(2011) 開校140周年記念式典を行う。
(以上「湯島小」HPより)

 以上でも分かるように、長い歴史と伝統を誇る小学校。沿革史を見ても、実に細かく記録が残されていて興味深い。
 もともとは、江戸時代の寺子屋を起源とし、1872年(明治5年)の学制施行前からの小学校として存在。
 日本の小学校の中で、最も長い歴史と伝統を持つ学校の一つ。開校当時から、周辺には「湯島聖堂」や「昌平坂学問所(東京大学の前身)」などがあって、文化、歴史、自然に恵まれているところにある。

校庭の東側。このあたりが元の「新花公園」だったか。左に「百葉箱」がある。

※「百葉箱(ひゃくようそう、ひゃくようばこ)」
 温度計や湿度計を入れ、正確な気温を計測するために設置された(屋根付きの)箱。


古い樹木が残っている。
校庭の一角。緑が多い。
校庭(南側)から校舎を望む。グランドの隅に何やら鉄製の大きな釜状のものが置かれている。
はたして何?


 伝統と歴史のある雰囲気でした。

 これで、「震災復興52小公園(復興小学校)」巡りを終わります。

 千代田、中央、台東区などでそれぞれ数校ですが、現役のまま活躍している校舎が残っていることに感動。
 一方、公園は戦災やその後の復興、さらには近年の公園改修、校舎改築、校地拡張などで大きく変化。ほとんど昔のままの姿をしているところはありません。わずかに二連式すべり台などが数カ所残るのみ。
 一番最初に訪問した「文京区立元町公園」は、1982(昭和57)年、元の姿をよみがえらせる改修が実施され、「震災復興52小公園」当時の設計・思想が残る唯一の小公園となっています。
 ただ、「パーゴラ(つるだな)」が多くの公園にあることで、建設当時のコンセプトが引き継がれているのには驚きました。
 また、学校と一体化という当時の思想が残っていて、墨田区などでは学校のグランドと公園との仕切りが自在になっているところもあるなど、まだまだかつての趣が残っているようです。

 関東大震災からすでに90年以上経過、その復興事業としての「震災復興52小公園」。その当時の考え方のいい面を現在、継承されてきているかどうか。

・小公園の配置は、児童数・校庭の広狭・既設公園の配置などを勘案し、都市計画的に決定される。
・耐震強度を高めた小学校に隣接し、教材園及び運動場補助等の目的を有するとともに、地域の防災拠点とする。
・広場を中心に敷地の40%を植栽地とし、道路に沿う外周部分には低い鉄柵を施し、容易に出入り可能なものとする。
・植栽には防火・防音・防塵効果に優れた常緑樹を採用し、学校教材のために多種類の樹木と潅木を使用する。
・震災復興の名の下に公園を近代文化の普及・啓発のための展示場として演出する。


 児童生徒の通学・学習上の安全管理、施設管理・維持など多くの課題もありますが、地域と学校の関係において、小学校と隣接する公園との有機的な取り組みという発想の必要性を改めて感じました。

 そこで、「震災復興52小公園」ではありませんが、その発想に通じる(かもしれない)学校と地域公園の関係を示すケースを、次回は紹介。

 外を見ると、やっと雨も上がり、明るくなってきました。さて、雪かきでもしましょうか。といったん中断して再開。  
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入谷公園(入谷小学校)。現金杉公園。金杉通り。(震災復興52小公園。その39。)

2014-02-14 22:30:10 | 震災復興小公園
 台東区は、あと一つ「入谷公園(現・金杉公園)」が残ってしまった! そこで、先日。

②入谷公園(現金杉公園)入谷小学校(すでに廃校。現柏葉中学校)

 全面的な改修工事が行われたようで、かつての面影はなく、明るく開放的な公園。乳幼児連れの親子が大勢いて、遊んでいました。
砂場の上のふじだな。
右手が球技場、左手が遊具のある公園。奥に見えるのが、「柏葉中学校」。
中学校側から公園を望む。もともとあった「入谷小学校」の校舎はなくなり、「柏葉中学校」のグランドとなっている。


もともとあった(?)古木。
柏葉中学校用の災害用倉庫が二連。
震災復興公園の面影は見当たらなかった。

 公園の位置は、町名では「入谷」。公園名は西側の道路「金杉通り」にあやかったもの。「金杉通り」にはかつて上野駅東側から続いていた都電が通っていた。
1910年代後半から20年代前半。「昭和通り」が出来る前のようす(「今昔マップ」より)。「金杉通り」が上野から三ノ輪へ通じる幹線道路であったことがわかる。
1920年代後半から30年代。「昭和通り」が完成後のようす(「同」より)。赤丸が「入谷小学校」の位置。赤い線が市電(のち都電)の路線。

 注:昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成した。(「Wikipedia」より)

「三ノ輪」方面を望む。
上野駅方向を望む。

昔ながらの商家。
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