2月7日(火)。東京・東京芸術劇場 プレイハウス。
もう限界よ。まるで玄界灘の荒波にもまれている感じよ。
会ったとたん、いきなりそれですか。
疲れるわよ、毎日。でも今日はかなり期待してるから。久々だし。
ホントですよ。久々に。
余計な期待はしちゃダメよ。お芝居見物なんだから、今夜は。
いい加減にご自分の体をもう少しお大事にしたら。
そう言ってもさ、そううまくいかないのが、より添う人生よ。
お悟りあそばされたようなお言葉ですが。まずはご飯でも食べてから、行きますか。
・・・
ここの席だな。ま、いい席だ、満席だ。さすが。
野田秀樹さんの芝居は初めてだわ。宮沢りえに妻夫木聡、古田新太(ふるたあらた)か。野田さんも出るんだ。
野田も声がかすれてきて、若い頃の滑舌はちょっと期待できなくなっている。「高低のテンポが味なんだ」けど。「校庭の店舗が鰺なんだ」じゃないよ。言っておくけど。でも、相変わらず元気だよね。
そんな訳の分からない言葉遊びはやめてくれない。でも、「おやじぎゃく」があるのかな。
「親自虐」じゃないからね、言っておくけど。ま、そんな程度のギャグはあると思うよ、経験的には。
くだらないこと言ってないで。さ、始まるわよ。
そういうくだらないおしゃべりと動きに、面白さと鋭い社会批評、世相批判をちりばめるのが野田芝居だけれどね。さて、どうだ。
「時代錯誤冬幽霊ときあやまってふゆのゆうれい」ってどういう外題なのかしら
照れだよ、諧謔精神かな、きっと彼独特の。
・・・
この芝居は、さっきも言ったけど、野田さんの照れ屋、はにかみ屋ぶりがよく出てくる予感が。それに最後の最後まで我慢するだろうけれど、最後にはきっと爆発するよ。
あの女性が宮沢りえか。へえ、いきなりすごい迫力で迫ってくるわね。
【客席には特設の花道が作られ、江戸の芝居小屋仕立てで話は進む。観客席も縦横無尽に使って。】
出雲阿国座の看板踊り子、三・四代目出雲阿国(宮沢りえ)と座付き作家のなりそこない、その弟サルワカ(妻夫木聡)。
小屋では、阿国と踊り子のヤワハダ(鈴木杏)たちが幕府では御法度とされている女カブキを上演している。その一座に紛れ込んだ、腑分けもの(野田秀樹)と戯け者(佐藤隆太)。
伊達の十役人―伊達の十役―(中村扇雀)が入れ替わり立ち替わり、取り締まりの目を光らせる。
将軍に取り入りたい座長の万歳三唱太夫(池谷のぶえ)によってサルワカは一座を追われそうになる。そこで、阿国は、サルワカに女カブキの“筋”を書くことを勧める。うまく書けないサルワカを「売れない幽霊小説家」(実は由井正雪家―ウとレをなくすと―)(古田新太)がゴーストライターとして助け、新作「足跡姫」が誕生する。
①由井正雪の乱
②ゼロの成立と無限、有限
③女歌舞伎から野郎歌舞伎へ
⑤地球(?)の裏側まで掘る行為。
④満開の桜。散る花びら。真っ赤な血の色。
⑤たたら製鉄、長浜ラーメン、・・・
など、いろんな要素を盛りだくさんに詰め込んでの展開。ただ、古田新太の演じた「由比正雪」系は中途半端でちょっといただけなかったが。
足跡姫の阿国は弟のサルワカの持つ刀(これのみが真剣)に身を投げて死んでしまう。
死んだ姉を抱きかかえ、満開の桜をバックにサルワカは「勘三郎」として姉の芝居への執念を受け継ぎ、舞台を末の世の東銀座まで続け伝えようという思いを自らに言い聞かせる。
「足跡姫」。まさにその「足跡」こそ盟友・名優、その途上で若くして亡くなった、中村勘三郎の「足跡」に通じている。
だから、(それまで我慢に我慢をしていた)野田の叫びが、最終場面、野田の演劇戦友・勘三郎へのいまわの際の訴え(と思わせる)に重ねていくという趣向に。
特に、昔、演劇を志した人間なら誰でもが知っている、やったことがある「イエアオウアオ」のような発声練習から「死にたい=死に体」は「生きたい=生き体」への音韻変化、それは生と死とが「竹膜を隔つ」っていうことに通じる言の葉で幕は閉じる。
・・・
初めて見たけど、とても面白かったわ。浅利慶太とか民芸とは違って、斬新でとても楽しかった。
浅利は嫌いだけど、アサリは好きだよ、アサリは。民芸は民芸で面白いけれどね。傾向が違うのは確かさ。
夢の遊眠社時代からの野田芝居を見ているからね。
言葉遊びをこれでもこれでもかとマシンガントークのようにして、そして、肉体を駆使して、舞台の上にも下にも左にも右にも縦横無尽に駆け回る、そんなだった。その傾向は今でも同じさ。
『贋作・桜の森の満開の下』なんかは、今回の「桜」に通じているかもしれない。
解散した後、野田秀樹は「野田地図」(NODA MAP)を旗揚げして今になるというわけ。段田安則なんか、今も舞台やっているよね。ほら、この宣伝パンフに載っているよ。
ただ、商業演劇になり過ぎたようで、料金も高いし、・・・。野田はこれで満足しているのだろうかね。彼なりの演劇作法的にさ。・・・(と、つい饒舌になってしまう)
ふ~ん。そうなんだ。で、相談なんかあったっけ?
それは、今度会ったときにさ。
宮沢りえは、演技も踊りもすごい。キリッとした容姿、魅力的だわ。
妻夫木だって何だか頼りなさそうでもはつらつとした青年らしいサルワカを熱演していたさ。さすがタレント、才能が開花した印象だった。
古田さんは、存在感はあるけど、ちょっと動きが鈍い感じで、時々素が出ている感じだったけど、いつもあんな演技なのかな。
「伊達の十役」ならぬ伊達の十役人(何とか助平衛。背中にはサービスで何番目の役か表示)として登場する中村扇雀。役柄によって衣装は変えてもワイシャツとネクタイはそのままっていうのも野田らしい。
舞台は、江戸時代です。
作品は、中村勘三郎へのオマージュです。彼から最後の病床で「俺が治ったら、この姿(医療器具でがんじんがらめの彼の姿)を舞台にしてよ」と言われた。それを彼の遺言とも思っていないし、彼は冗談半分のつもりだったように思うのだけれども、ずっと気になっていた。今年の12月5日で、彼が逝ってから4年になります。「あの姿」を書こうとは思わないけれども、彼の葬式の時に、坂東三津五郎が弔辞で語ったコトバ。「肉体の芸術ってつらいね、死んだら何にも残らないんだものな」が私の脳裏に残り続けています。その三津五郎も、彼を追うように他界してしまいました。あれから「肉体を使う芸術、残ることの内ない形態の芸術」について、いつか書いてみたいと思い続けていました。
もちろん、作品の中に、勘三郎や三津五郎が出てくるわけではありませんが、「肉体の芸術にささげた彼ら」のそばに、わずかな間ですが、いることができた人間として、その「思い」を作品にしてみようと思っています。
本来は、オマージュなんていうのは、「しゃらくせえや」と思う方なのですが、こうして臆面もなく「勘三郎へのオマージュ」と書くことで、自分へのプレッシャーにもなるし、勘三郎の名前と「思い」が少しでも長く人の心に残っていくための、私の本など微力だとは思いながらも、書かないよりはいいな……と、そんなわけで『足跡姫』です。
野田秀樹
この野田さんの言葉の中に、「オマージュ」ってあるけど、どういうこと? たしかフランス語では尊敬、敬意とか賛辞を意味すると思うんだけど。
芸術作品の場合には、尊敬する作家や作品に影響を受けて似たような作品を創作することを指すらしい。作品のモチーフを過去の作品に求めることも指すんだ。
このことばは騎士道から生まれた。だから、単なる模倣ではないんだね。「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。フランス語として使う場合、hommageだけでは「尊敬、敬意」の意味だけになるんだって。この作品はどうも両方の意味を含んでいるようだね。
ストリップショーみたいな演技が面白かった。
ストリップじゃないさ、「はだけ」踊り。死骸が戸板に乗って流れてくる場面もあった。
この前見た「四谷怪談」でもそんなシーンがあったわね。堀の場のよう。
これも前、歌舞伎座で勘三郎がお岩さんを演じたのを観たことがある。
橋を行ったり来たり、回り舞台を船に見立てたり、群衆劇風なのも野田らしいのかな。
そのあたりの演出も歌舞伎座でやった「野田版・研辰の討たれ」に依拠しているようすがありありかな。
その芝居に、中村勘三郎(当時はまだ勘九郎)が主役をやったのよね。
あの芝居での主役は、実は「大衆」。彼らは身勝手で軽薄。そのときの気分次第で右にも左にも揺れ動く。仇討ち騒動を楽しんでいる。
そうそう、今回はやたらと「大衆」と「体臭」をつきまぜて、くどいほど解説しながらけっこう使っていたよね。
終わり頃、辰次が追っ手の兄弟の刀を研ぎながら、紅葉が落ちるのを見て「生きてえ、散りたくねえ」と。そこで、それまで笑っていた客席が静まり返る。このへんは今回も活かされている感じ。
そして群集が去ってしまって、追っ手の兄弟も行ってしまって、助かったかと思った辰次は、結局、引き返してきた兄弟に殺されるってわけさ。そのへんも趣向が似ている。
ところで、最後に姉弟が花道の「セリ」から上がってきたじゃない、すっぽんとか言っていたけど。
いいところに気がつきました。サルワカが掘り続けていたのは、江戸城襲撃の穴でもなく、地球の裏側でもなくて、「すっぽん」だった、ていう落ちが効いているよね。
落ちが効いてるって、上がってきたんじゃないの。それまで、役者は舞台上のセリ(穴)に落ちたり、上がってきたりしたけど。
花道にあるセリを「すっぽん」と言うんだ。奈落ってもいうけれど、そこから舞台上へ役者が登場するときに使われる装置さ。
「セリ」も「すっぽん」もどっちも舞台へ上り降りするときに使うけれど、「セリ」は本舞台上、「すっぽん」は花道にある。
そうそう、歌舞伎じゃ、すっぽんを使って登場するのは人間以外である、という約束事があってね。妖怪変化や幽霊・忍術使いなどの役が登場する時に使われる。例え人間であっても、すっぽんから登場したものは、既に亡くなっている人間を意味するんだ。
なんで「すっぽん」ていうの?
名前の語源は亀のスッポンからかな。おそらく役者が首を出す姿がすっぽんに似ていることから連想したのだろうと思うよ。
ふ~ん。
生きているときも死んでしまっても役者なんだな、皆。勘三郎も三津五郎もそして野田も。名も無き役者もすべて。でも、「思い」の中にしか残らない。
エンディングで流れるバックミュージックは何であんなに陳腐なんでしょ。サルワカの台詞を聴かせたいのはわかるけど。ちょっと残念。
もう少し付け加えると、サルワカ(猿若)という役名は、勘三郎に縁が深いんだ。
「猿若」というのは初期の歌舞伎で、こっけいな物まねや口上などを演じた役柄を言ったんだけど、猿若の芸を専門とした初代中村勘三郎およびその一族の別名でもあるんだな、これが。
「平成中村座」という芝居小屋をつくって、勘九郎の頃からやっていたわよね、浅草や外国でも。
何回か観に行ったことがあるよ。江戸時代の歌舞伎小屋風のつくりでけっこう面白かった。
ラストの満開の桜って、「京鹿子娘道成寺」という趣向にあやかっていたのかしら。勘三郎が踊ったこともある。
いや、「桜の樹の下には死体(屍体)がある」という趣向のような気がしたけれど。真っ赤な色が使われていたし。
《参考》『桜の樹の下には』(梶井基次郎)
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
・・・
おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
・・・
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。
(「青空文庫」より)
う~ん、それはかなり考えすぎじゃない。
あら、もう10時、もう帰らなければなりませんわ。
今度お会いするまで御身大切に頼みますよ。
老いていく体と付き合いながらまだまだ前向きに生きますわ。
その通り。「老いる」は「Oilオイル」だから、使いようによっては生きるエネルギーにもなるはずだよ。って、これも野田の受け売りだけど。
上手に老いたいものよね。