所沢市側は都県境直下まで家並みがあります。
広場に出てきました。
眼下に東村山市の家並み。
「あおぞら広場」。犬を連れ、散歩する女性。
東南に市街地が広がります。
ベンチで小休止し、西のゴール目指して、
眼下に、ほっこり広場。
右は、所沢市側。
尾根伝いにのんびりと。
振り返る。
ということで、今年のブログも、終わり。皆さん、良いお年を。
ソウタ。アンズ。
仲良く新年を。
所沢市側は都県境直下まで家並みがあります。
広場に出てきました。
眼下に東村山市の家並み。
「あおぞら広場」。犬を連れ、散歩する女性。
東南に市街地が広がります。
ベンチで小休止し、西のゴール目指して、
眼下に、ほっこり広場。
右は、所沢市側。
尾根伝いにのんびりと。
振り返る。
ということで、今年のブログも、終わり。皆さん、良いお年を。
ソウタ。アンズ。
仲良く新年を。
今回、一番楽しみにしていたところ。
「都立八国山緑地」案内図。
八国山は標高89.4メートルの狭山丘陵の東端にある山です。その頂きから 上野(かみつけ)・ 下野(しもつけ)・ 常陸(ひたち)・ 安房(あわ)・ 相模(さがみ)・ 駿河(するが)・ 信濃(しなの)・ 甲斐(かい) の八国が見渡せることから、その名が付いたとされています。 新田義貞(にったよしさだ) 鎌倉討伐や武蔵野合戦などが行なわれた場所で、山のふもとには久米川古戦場碑があり、山頂には将軍塚が残されています。
(「」HPより)
たどる道が、都県境(緑地の北限)になっています。
「八国山緑地」東側。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
「同」西側。
明治以来、都県境に変化はほぼありません。丘陵を南北に通じる道が鎌倉街道。
(「今昔マップ」より)
振り返る。所沢市松が丘1丁目付近。
右手が所沢市。
緩やかな坂道を上がっていきます。
埼玉県側の案内板。
この案内板には、「埼玉県狭山丘陵」とあります。
右が埼玉県、左が東京都。
「元弘青石塔婆所在趾」碑。この左手奥に、
「将軍塚」解説板。
狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山と呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられる。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、この塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。
狭山丘陵の東端に位置し東側には鎌倉街道上道が南北に通っていたことから、八国山周辺は幾度となく戦場となっていました。・・・(「」HPより)
先に進みます。散策を楽しむ人、ジョギングの人・・・、けっこう行き交います。
眼下に広がる所沢市街地。
都県境は、まだまだ旧所沢街道を越えて南西に進みますが、道が不明なところもあり、柳瀬川の右岸(東村山市)を歩くことに。
「柳瀬橋」(旧所沢街道)。
柳瀬川(上流)。
「二柳橋」から。対岸は、埼玉県 所沢市。
現所沢街道。
この付近で都県境は、柳瀬川に。
ポリオ研究所(株式会社BIKEN)東京事業所―ポリオワクチンの研究及び製造拠点―。(東村山市久米川)
西武線新宿線をくぐります。
二瀬橋交差点。対岸は、所沢市久米。
「二瀬橋」が架かる柳瀬川が都県境。
東村山市マンホール。市章と市の木ツツジのデザイン。
「勝陣場橋」からの柳瀬川。
下流方向。
※「勝場橋(かつじんばばし)」。戦いに勝利した新田軍が通ったとも、陣を置いた場所とも言われる。
この他にも、新田軍が勢揃いしたといわれる「勢揃橋(せいぞろいはし)」、「誓詞橋(せいじがはし)」=幕府を倒す誓いをした場所=があるようです。
ここから、都県境は北西に進みます。
左手には、「久米川古戦場跡」があるようです。
(「Googleマップ」より)
狭山丘陵東麓(現在の八国山緑地)から柳瀬川にかけて広がる一帯は、古代に武蔵国府と上野国府を結ぶ東山道武蔵路が通り、鎌倉時代には鎌倉から上野国に向かう鎌倉街道が南北に縦断する交通の要衝でした。やがて戦乱の時代になると、久米川の地は入間川と多摩川の中間の軍事的な拠点として重視され、元弘3年(1333)に、新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために挙兵し戦った〝久米川合戦″、建武2年(1335)に北条時行が鎌倉幕府再興のために挙兵した〝中先代の乱″や文和元年(1352)に足利尊氏ら北朝方と新田義興ら南朝方の軍勢による〝武蔵野合戦″、応永24年(1417)には〝上杉禅秀の乱″などの合戦の舞台となりました。特に有名な戦は元弘3年の〝久米川合戦″です。新田義貞の挙兵に対し、幕府軍は鎌倉街道を北上、小手指ヶ原(所沢市)で一戦交えた後に久米川へと戦場を移しました。新田義貞は久米川の戦いで勝利をおさめた数日後に、鎌倉幕府を倒しました。久米川の戦いの拠点となった八国山緑地には、新田義貞が兵馬を指揮したと伝えられる「将軍塚」があります。(「東京都教育委員会」HPより)
左折した道の右手の緑地が都県境。
いよいよ都県境になる「八国山緑地」の道をたどることに。
秋水園。
ごみ焼却施設、リサイクルセンター、し尿希釈投入施設、とんぼ工房、グランド。
さらに、ふれあいセンターが併設されています。
※「秋水園ふれあいセンター」
秋水園周辺住民の交流を促進し、地域社会の発展と文化の向上、及び地域住民の福祉の増進を図ると共に、資源が循 環して利用されるまちづくりを目的とします。(「」HPより)
とんぼ工房。
秋水園には、皆さんの家から出された家具などの粗大ごみが日々運び込まれていますが、その中には修理をすればまだ使えるものや、少しの工夫で活用できるものがたくさんあります。
とんぼ工房は、それらのそのまま「ごみ」として処分してしまっては「もったいない」ものに手を加え、再生できる家具等の修理・廃材の再利用を行なう施設です。
運営団体である「とんぼサポーター2」が、廃材を使った木工品の製作を行っています。
木工品は、とんぼ工房内の「とんぼギャラリー」や「美住リサイクルショップ」、産業まつりなどのイベントで販売しています。(「同」HPより)
この施設の北側・柳瀬川が都県境になっています。
道なりに歩きます。右手に「西武研修センター」。
再び「柳瀬川」沿いに。
ただし、柳瀬川左岸奥までが東村山市秋津になります。
「光あまねし」碑。
詩人の草野心平氏は昭和38年から秋津に住み、あたりを自然のままという意味の「五光」と命名しました。その後、秋津橋のたもとに氏の筆により「光あまねし」の木柱が立てられましたがその墨痕も薄くなったため、昭和56年11月に地域の人々により、石の記念碑が立てられました。
解説板。
元・一本橋 現〔秋津橋〕
●昭和24年ごろまで、河原に厚さ約五寸・長さ約四間・幅約一尺五寸の板橋がありました。その後、木造橋になり、台風による洪水で倒壊。現在の橋は二代目になります。
●川沿い北側の緑地は「一本橋緑地」として、平成24年12月に愛称名をつけました。。・・・
(「緑地保護区域の緑を守る会」)
上流を望む。
しばらくこの界隈を歩きます。
柊(ひいらぎ)の生垣。
広い通りに出てきます。前方を都県境が横切ります。
旧所沢街道。
12月25日(日)快晴。風もあまりなく、穏やかなお天気。日本海側、北日本の人たちには申し訳ないほど。
秋津駅に10時頃到着。最近は、最寄りの交通機関の関係(特に鉄道)で距離を伸ばせません。ますます軟弱に。
所沢の観光案内板。
歩く道は、図の下の方、所沢市と東京都東村山市と境。都内は、真っ白になっています。
左は東村山市、右が所沢市。
東村山市のマンホール。
図柄は村山貯水池の取水塔。村山貯水池(多摩湖)の所在地は東大和市。それが、東村山市のマンホール蓋に描かれているのか? ここで取水した水が東村山市にある「村山浄水場」に送水されるということから。中央下に「ヒ」と「ム」をハトの形に図案化した市章がある。
所沢市のマンホール。
中央に、ヤマノイモ科の多年生つる草の「野老(ところ)」の葉を図案化し、周りをカタカナの「ワ」3つで囲んだ市章。
武蔵野線のガードをくぐります。
柳瀬川。
話題が豊富な掲示板。
松戸橋
■古来より栄えた「安松郷=安松」の江戸への入り口(戸)ということで「松戸」の名が付いた。■『新編武蔵風土記稿』(1820)には、「所沢村ハ川越城ヨリ南の方四里ヲ隔ツ、安松郷吾妻庄ニ属ス」と記され、安松は歴史のある地域です。■1957年頃の松戸橋は、木製の橋で穴も空いており、桁下でザリガニ釣りをやりました。
柳瀬川
■狭山湖(勝楽寺村)が水源地で、柳瀬地区で「東川」と合流、舟運で栄えた志木市で「新河岸川」に合流し東京湾へ流れる一級河川。■江戸時代前は「大石氏」という豪族の所領だったが、八王子城の北条氏照に代わり、山口城や滝の城作り始めたが、秀吉に滅ぼされる。
安松郷の歴史
■天正19年(1591)徳川家康が当地の長源寺に北条氏照を祀るよう10石を贈り、隠居寺「氏照院」が明治時代に「安松学校」となり、「松井小」へと続く。
「安松学校」
・・・安松地区は、西は柳瀬川上流の久米を通る鎌倉道やその先の山口城や八王子方面、東へ下れば柳瀬の「滝の城」や舟運で栄えた志木叉へと続き、南へは江戸道がある重要な場所であり、古くから栄えました。・・・安松町内会には「本宿」「下宿」などの班名が残されており、「松戸橋」とは安松郷に入る「戸」という意味で、子育て地蔵尊前に出来た「交流館」前には「大門」があったというほどです。さらに、北の牛沼に行く古道傍らには4500年前の縄文遺跡も発掘され多くの土器が出土し、話題を呼んでいます。・・・
松戸橋公園。
安松橋。
柳瀬川。淵の森緑地。
川の中に人が。清掃をしているのでしょうか、丹念に歩いている様子です。
「淵の森緑地」は、宮崎監督が自ら代表を務めている「淵の森の会」というボランティア団体のみなさんの活動によって整備されています。1996年に開発計画の話がありましたが、宮崎監督らの寄付によって公有地となり、自然が守られたそうです。
(この項、写真も含め、「」HPより)
この向こうが都県境。
川面までは深く、しっかりした護岸になっていて、遊歩道はありません。
向こう岸に渡りたいのですが、
結局、東村山市のまちなかを歩くことになります。
秋水園ふれあいセンター。
都県境になる「柳瀬川」に向かおうとしましたが、「明治薬科大」のキャンパスが広がり、近づけません。
東門。
柳瀬川。しかし、行き止まりです。
しかたがなく、空堀川沿いに「秋津駅」まで向かうことにします。
川を眺めている方が、「ほら、あそこにカワセミが」と。
カワセミ(○)。
→のところにも。
カワセミ(翡翆、魚狗、川蟬)
ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属に属する鳥。水辺に生息する小鳥。鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴。ヒスイ、青い宝石、古くはソニドリと呼ばれることもある。
全長は17 cmほどで 、長いくちばしのため体はスズメほどの大きさ。日本のカワセミ科のなかでは最小種となる。くちばしが長くて、頭が大きく、頸、尾、足は短い。オスのくちばしは黒いが、メスは下のくちばしが赤いのでオスと区別できる。また、若干メスよりオスの方が色鮮やかである。500系新幹線のノーズデザインはカワセミのくちばしをモチーフとしている。頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い]。幼鳥は全体に黒っぽく、光沢が少ない。
カワセミの青色は色素によるものではなく、羽毛にある微細構造により光の加減で青く見える。これを構造色といい、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理。この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。特に両翼の間からのぞく背中の水色は鮮やかで、光の当たり方によっては緑色にも見える。漢字表記がヒスイと同じなのはこのためである。
古くは町中でも普通に見られた鳥だったが、高度経済成長期には、生活排水や工場排水で多くの川が汚れたために、都心や町中では見られなくなった。近年、水質改善が進んだ川では、東京都心部でも再び見られるようになってきている。
川ではヤマセミよりも下流に生息するが、一部では混在する。飛ぶときは水面近くを速く直線的に飛び、このときに「チッツー!」「チー!」と鳴き声を挙げることが多い。
採餌するときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。エビやカエルなども捕食する。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。・・・
(この項、「Wikipedia」参照)
しばらく見とれていました。キラキラ輝いて見えます。
「秋津駅」との標示が。
清瀬中里緑地 保全地域(A地区)。
遊歩道以外は立入禁止。
緑の自然が保全されています。
明治薬科大学バス停。
正門。
駅前の案内図。
自転車駐輪場には、「所沢市 秋津」の標示。
秋津駅前は、清瀬市と所沢市が鋭角で交差しています。
所沢市のマンホール。
所沢市のマンホールは様々に意匠を凝らしたユニークなものがあるようです。
マンホールサミットin所沢実行委員会(所沢市上下水道局・下水道広報プラットホーム(GKP))は2022年11月19日(土曜)、ところざわサクラタウン、東所沢公園、所沢市観光情報・物産館YOT-TOKOで「第10回マンホールサミットin所沢」を開催しました。
コロナ禍により3年越しの開催となりましたが、当日は好天に恵まれ全国各地から約14,000人の来場者にお越しいただき、大盛況となりました。 今回は「COOL×COOL=超COOL?!」をテーマに、クールジャパンにちなんだアニメ・伝統技術・祭典に関する全国のデザインマンホール蓋や、埼玉県内全ての下水道実施団体のマンホール蓋を集め、過去最多となる合計110枚の展示を行いました。来場者各々が熱心に写真を撮られていました。今回のシンボルマンホールである「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」のマンホール蓋2基「アムロ・レイとガンダム」、「シャア・アズナブルとザク」も多くの方にご覧いただきました。今回のマンホールサミットではこの2基をデザインしたマンホールカードの英語版が初お披露目となりました。
体験イベントとしましては、マンホール版画、重ね捺しスタンプラリー、大抽選会等を実施したほか、マンホール蓋ぬりえ、缶バッジづくりなどお子様にも楽しんでいただけるブースも設けました。この中でも所沢市イメージマスコット「トコろん」のマンホール柄が完成する重ね捺しスタンプラリーは特に人気がありました。
トーク会場(ところざわサクラタウン ジャパンパビリオン ホールA)では、所沢市職員が自ら作成を手掛けたCOOLなオープニングムービーが流れた後、2022ミス日本「水の天使」横山莉奈氏とマンホールサミットin所沢実行委員会の若狭公一副委員長が登壇し、司会進行を務めました。リレートークをつないでいただいたのは8組のスピーカーの皆さんです。第10回マンホールサミットin所沢の誘致から開催に深く関わった所沢市の歴代職員から始まり、森川あやこ氏、九州産業大学地域共創学部の学生チームHole in oneの皆様、田中美都氏、森本庄治氏、山本ミッシェール氏、傭兵鉄子氏、白浜公平氏にトークを披露していただきました。エンディングのじゃんけん大会まで大いに盛り上がったところで最後は恒例となった「マンホールガッチャ」ポーズを全員で行い終了しました。
(この項、「所沢市」HPより)
秋津町五丁目 アパート。(東村山市秋津)
所沢市上安松地区。
柳瀬川に下って行く。
「柳瀬川回廊」案内板。
今回は、ここまで。次回は、西武線「西武園駅」まで歩く予定です。
松柳橋。
柳瀬川をはさんで、所沢市下安松を結ぶ人道橋。
上流を望む。
下流を望む。
所沢市下安松地区。
ここで、再び清瀬市に。
都県境の道路。
左が所沢市、右が清瀬市。
塗りつぶしたエリアが所沢市に。
柳瀬川回廊案内板。
「清瀬橋」に。
旧川合流地点の公園。
清瀬中里緑地保全地域(C地区)への木道。
旧川合流地点解説板。
旧柳瀬川と旧空堀川の合流地点。
現在の柳瀬川と旧柳瀬川。
境橋。
対岸の所沢市下安松地区を望む。
くるまや橋。柳瀬川。
空堀川沿いに進んで、石田橋を渡って都県境の柳瀬川に向かう予定。
空堀川。
空堀川
東京都武蔵村山市本町の市立野山北公園域内、若しくは都立野山北・六道山公園域内の丘陵に源を発する。概ね東へ流れ、東大和市高木で奈良橋川が合流する。そして清瀬市中里の小金井街道清瀬橋付近で柳瀬川に合流する。
天保11年(1840年)の麁絵図では「薮川」と呼ばれていた。1940年(昭和15年)の地図では「砂川」と呼ばれていた。2021年現在においても、武蔵村山市・東大和市・東村山市の橋梁には名称に「砂」が入るものが存在する。
その後、かつては古多摩川が南下する際に取り残された小流で、雨が降った時のみ水が流れる「涸れ川」であったことから、「空堀川」の名がつけられた。「から『ぼ』りがわ」が正式だが、「から『ほ』りがわ」としばしば呼ばれる。しかしながら「から『ほ』りがわ」と書かれている看板も少なくない。
獲物を見せに。
さっさと放り出して、今度は、
なんだこれは? 階段に上がって。
放り投げて、
気がついたら、水飲みの皿の中に落としていました。
ふやけてしまったパン(のおもちゃ)。
年賀状の印刷を始めると、
プリンタに興味津々。
くわえようとのぞき込む。
以前に比べて格段に少なくなった年賀状。今回もあっという間に印刷終わり!
柳瀬川は、護岸工事、河川改修が進み、流れもきれい。川沿いに遊歩道も整備されています。
振り返る。
対岸の向こうには、武蔵野線が。
釣り人の姿も。
ところどころに人工的に段差などが設置され、流れに変化が生まれる。洪水防止でしょうが、工夫があります。
m
桜並木の下を進む。
花見の時期には、さぞかし賑わうことでしょう。
この先、対岸の向こう、「清瀬金山調節池」から金山橋をはさんで、「清瀬金山緑地公園」まで、大きく回り込むように清瀬市エリアが広がります。
※柳瀬川右岸を歩いたため、この二つは、訪問していません。
「清瀬金山調節池バードウォッチング」。
「清瀬金山緑地公園」。(いずれも「Wikipedia」より拝借)
対岸は、「清瀬金山調節池」付近。
前方に「金山橋」が見えてきます。
金山橋下から「清瀬金山緑地公園」を望む。
振り返る。
対岸右奥に清瀬金山調節池。
清瀬金山緑地公園。
この付近から都県境に。
この先で、今度は、所沢市エリアが右岸の南に入りこみます。
「所沢市」の標識。
この付近の今昔。
1880年代のようす。都県境は柳瀬川に。
2010年代のようす。
都県境が南にずれています。どんな経緯が?
この道路の右が所沢市下安松、左が清瀬市中里4丁目。
都県境でもある「柳瀬川」沿いに進もうとしましたが、土手上は通行禁止。来た道から武蔵野線をくぐり、西に向かいましたが、なかなか柳瀬川に近づけません。清瀬市内を歩くことに。
畑が広がる。
円通寺長屋門。
もとはかやぶきでしたが戦後瓦葺になおしました。
武蔵野平野部の長屋門は比較的小さいのですが、この長屋門は規模も大きく、柳瀬川・滝の城を背に、清瀬古道に沿って建っている白壁・板腰は目の姿はあくまで端正です。大扉の閂やくぐり戸のおさえ等に昔の工夫がしのばれ、基本的な使用目的が守られています。
円通寺の記録に「長屋門天保十五甲辰年十一月二十五日上棟再建」(一八四四年拾食宥傳の代)とあり、手直しはされていますが、この時建てられたものが今に伝えられているものと考えられます。(清瀬市教育委員会掲示より)
円通寺に通じる坂道。
のどかな里山風景?
けっこう遠回りして、やっと「城前橋」で「柳瀬川」に再び出会います。
上流を望む。
下流を望む。
武蔵野線の鉄橋が見えます。
※「城前橋」
柳瀬川の北にある「滝の城」(跡)に由来している。
「滝の城」跡。
柳瀬の城地区にある城跡で、台地の縁辺部を利用した多郭式平山城です。土塁・堀・櫓台が残り、本郭・二の郭・三の郭の内郭とそれらを囲む外郭で構成されています。内郭は大石氏が築造、北条氏と関係深い「障子堀(畝堀)」を確認したことから、外郭は後世に北条氏によって拡張されたと推測されます。
戦国時代には、多摩西部と北関東の諸城を結ぶ「伝えの城」として重要な役割を担っていたようですが、天正18年(1590年)豊臣 秀吉による小田原征伐とともに落城し、以降は廃城となりました。
現在、城跡の主要部分は、城山神社の境内地となっています。
(この項、「」HPより)
対岸は、所沢市本郷地区。
清瀬市側の土手を歩きます。久々の川歩きです。
流れもきれいで、のんびりと。
この付近の今昔。
1880年代のようす。太い破線が都県境。
2010年代のようす。
柳瀬川をはさんで、左岸側(北西)が埼玉県所沢市、右岸側(南東)が東京都清瀬市。
今回は、JR武蔵野線「新座駅」から西武線「秋津駅」まで。
「川越街道」から左折します。
前回、「新座貨物ターミナル」で途切れた「都県境」。この先から続きます。
「清戸番所跡」付近。清瀬市旭が丘6丁目。歩く道が都県境で、背中側が新座市内。
都県境に当たる「柳瀬川」へ。
「東京都下水道局清瀬水再生センター」。この向こう側が「柳瀬川」。
右手、柳瀬川沿いの、何面もグランドがある、大きな「清瀬内山運動公園」を回り込む。
真っ白な富士山(↓)が遠くに。
前回歩いた方向を望む。
さらに「関越道」脇を進み、
やっと柳瀬川にたどり着くも、新しい橋を建設中で立入禁止。やれやれ・・・。
「清瀬下宿ビオトープ公園」に寄り道。
「柳瀬川回廊」案内板。
柳瀬川沿いに歩く予定ですが、
ここから柳瀬川に架かる「清柳橋」に出ます。
下流方向。
上流方向。
右から合流する流れは、「東川」。
※対岸は、所沢市に。
柳瀬川
柳瀬川は狭山湖を源とし、清瀬の北東部にあたる所沢市との市境を流れ、新河岸川を経て荒川にそそぐ一級河川です。昭和30年代前半までは、柳瀬川流域の清瀬市をはじめとする近隣市町に田んぼや畑が広がり、流れる水は農業・生活用水として使われるなど、地域の人々の営みと深いかかわりをもってきました。また、「清瀬」という地名をもたらした川でもあります。
しかし、昭和30年代後半から経済の高度成長のなかで、ベットタウンとして宅地化が進み、家庭から出る生活排水を柳瀬川に流すようになってしまい、源流である狭山丘陵からわずか20キロ足らずにもかかわらず、ひどく汚い川となってしまいました。
その後、柳瀬川に清流を取り戻すため、公共下水道の整備が進められ、また、金山橋から下流にかけて遊歩道が設けられたり、金山調節池が整備されたり、最近では城前橋の架け替えが行われたりと、柳瀬川流域は、スポーツ・レクリエーションゾーンとして環境整備が進められています。金山橋から城前橋まで、水と緑が織りなすこの広い空間には、柳瀬川を軸として、野草、昆虫、野鳥など多様な生態が営まれています。
(この項、「」HPより)
今朝、東京も初氷。そんな悠長な状態ではない、新潟地方。
ものすごい大荒れ、大雪で大変な状況が続いているようです。
向島百花園は、薄曇り。冬支度の松とスカイツリー。
12月17日(土)の午後。
左から、「春日」 「宿一本」 「星月夜」 「雲雀の夜」。
「雲雀の床」。
「遠見の桜」。
「嵯峨の光」(嵯峨)。
「肥後菊」。
かんつばき。
冬模様の向こうにスカイツリー。
そして12月18日。快晴の下、富士山。
本格的な冬の到来を告げるかのようなユリカモメが、隅田公園にやってきました。
赤いくちばしと脚が目立つ
白色が鮮やかなカモメ
全長40cm。冬鳥として、全国の河、河口、湖沼、海岸に至る水辺に来ます。赤いくちばしと足がきれいな小型のカモメの仲間で、水上に群がる姿は白い花が一面に咲いたようです。在原業平や和泉式部の古歌に登場する都鳥(みやこどり)はこの鳥で、東京都の鳥に指定されています。江戸時代には考えられなかったウォーターフロントは、ユリカモメの目にどう映っているのでしょう。何でも食べるたくましさを持っていて、そういえば東京都のゴミ捨て場の新・夢の島にも、廃棄物をつつく姿が見られます。日本を去る4月中旬頃には、頭が黒い頭巾をかぶったようになります。カモメ類ではいちばん内陸にまで飛来する鳥で、海岸から数10キロも入った川岸の街や牧草地でエサをあさったりしています。「ギィー」とか「ギュゥーィ」と聞こえる声で鳴きます。日本には主にカムチャッカ半島から渡って来ることが、標識調査の結果からわかっています。・・・名前は、入江(いりえ)のカモメ―イリエカモメがユリカモメに転じたもの、百合を当て字にしたもの、という説があります。
/塩にしても いざことづてん 都鳥 芭蕉/
(この項「」HPより)
※塩にしても いざことづてん 都鳥 芭蕉
『伊勢物語』の「名にしほはばいざこととはむ都鳥わがおもふ人はありやなしやと」をパロディー化したもの。都へ帰る春澄に都鳥を塩漬けにしてでも持って帰ってください、というのである。塩漬けにされては都鳥もかたなしであろう。
都鳥は冬の渡り鳥、ゆりかもめのこと。
延宝6年(1678)11月、芭蕉35歳の時の作。蕉風確立前の談林俳諧時代の作品。
『伊勢物語』第9段
なほゆきゆきて武蔵の国と下つ総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
名にしおはゞいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
他の種類のカモも混ざって。
名残の紅葉。
隅田川堤のサクラもすっかり葉が落ちて。
向かいの隅田川にも、まもなくユリカモメがたくさん集まってくることでしょう。
上と下に。
そのうち、ソウタが本棚の上に、床からトントン上がって。
それを見上げる、アンズ。
アンズの食べ残しをせっせと。
和箪笥の上のアンズ。
下から一気に上まで上がります。
上がれないソウタは見上げるのみ。
プリンタを使い始めると、
プリンターに興味あり。ソウタ。
プリントされた紙が出てくるのをじっと。
ガチャガチャという音に興味があるのか、用紙が出てくるのに興味があるのか。
今度は、カーペットに潜り込む。
蛇口から水を飲むソウタ。
満足顔?
得意じゃないアンズ。
北日本や日本海側と比べ、穏やかな天気が続いた東京地方も寒くなってきました。いよいよ冬本番。
「関越道」の上を越えます。
「UR清瀬旭が丘団地」が続く。
住宅地を抜けると、農地が広がります。
遠くにJR武蔵野線。
この道が都県境に。右が新座、左が清瀬。
清瀬市のマンホール。市の木ケヤキがデザインしてある。
農家らしいおうち。
「十文字学園サッカーグラウンド」。
新座市側には「十文字学園女子大学」キャンパスが広がります。
振り返る。右が清瀬市、左が新座市。
「武蔵野線」に突き当たります。
貨物ターミナルになっています。
都県境は、ここを横断し、線路の向こうにつながっていきますが、今回は、ここで終了。
右に曲がり、JR新座駅に向かいます。
大型トラックも行き交い、砂埃が舞う道路。新座市菅沢2丁目になります。
新座市のマンホール。土にまみれながら。
市の花こぶしで市章を囲み、周りに市の木モミジの葉を配している。
機関車が貨車を牽引して。
機関車「金太郎」。
武蔵野線の電車が「新座駅」を出て、次の「東所沢駅」に向かう。
路線図。
(「ジョルダン」より)
「野火止歩道橋」。
歩道橋下には「野火止郵便局」。
今回は、「野火止用水」に縁の多い歩きでした。
「新座駅」。
次回は、新座駅の北口から歩き、「柳瀬川」沿いに歩く計画です。