おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

秩父鉄道長瀞駅~秩父駅。その1。岩畳。ラフティング。ポットホール。(「荒川」を遡る。第8日目。)

2021-05-31 18:11:42 | 荒川を遡る

5月29日(土)。晴れ。蒸し暑い一日。今回は、長瀞から秩父まで。荒川左岸をできるだけ。

長瀞の人出は思ったよりも少ない。秩父鉄道・熊谷から長瀞までの車内もほとんど乗客がいない。

帰りは、秩父から西武線乗り入れで、池袋まで。その車内もほとんどいない。が、JR池袋駅構内はでは人がたくさん。

というわけで、自粛生活、1ヶ月。最寄り駅もバスもない、蒸し暑い中を歩きました。

長瀞駅。何十年ぶりかに岩畳に。

岩畳への道。商店の方も暇そう。

駅方向。

観光案内板。

船着場付近。

          ラフティング

大きなゴムボートに6人前後で乗り込み、力を合わせて関東屈指のメッカ、長瀞の激流に挑みます。普段は行けない様な瀬もプロのラフティングガイドが付いているから安心です。グループはもちろんのこと、カップルやご家族でのご参加も大歓迎です。

(この項、HPより)

観光地としても名高い長瀞は、旧親鼻橋から旧高砂橋までの荒川の両岸が国指定の名勝・天然記念物になっています。中でも岩畳や秩父赤壁が有名です。川の水が深くて流れが静かな所を「瀞(とろ)」といい、長瀞の地名の由来にもなっています。荒川は、この岩畳一帯で青く淀んだ瀞になって美しさを増し、付近一帯の景観は舟下りの観光客の目を楽しませています。古くから名勝地として知られ、かつて宝登山神社の参拝客は岩畳で月を愛でながら宴会を催したそうです。

ここは関東山地から九州まで約800kmにわたって続く「三波川変成帯(さんばがわへんせいたい)」の東の端に当たります。岩畳は、結晶片岩の板のようにはがれやすい特徴である「片理(へんり)」(水平方向)と、地下深くから隆起した際にできた割れ目「節理(せつり)」(垂直方向)、そして荒川の侵食がつくった地形です。

「三波川帯」は、白亜紀前期に海洋底に堆積した火山噴出物と泥や砂が、白亜紀後期(約8000万年前頃)にプレートと共に地下20~30km以上深くに取り込まれ変成を受けてできました。この時、片理ができ、うすくパイ生地のように剥がれやすくなりました。地下深くで起こった変成作用や上昇の過程が地表で観察できることから、「地球の窓」と言われています。

岩畳には、荒川の川底であった時できたポットホール(甌穴:おうけつ)や流路跡(四十八沼)も見られます。また、たびたび増水の影響を受ける岩畳にはユキヤナギもみられます。

対岸の崖は、中国の名所にちなんで「秩父赤壁」と呼ばれています。断層に沿って荒川が流れることによってできた断崖です。江戸時代に書かれた「宝登山図会」という文書の中には、「両岸峨々として疑ふらくは漢土の赤壁も如何でか」との記述があります。

(「ジオパーク秩父」HPより)

岩畳を上流に向かいます。

ポットホール(甌穴:おうけつ)。

かつてここが川底だった頃、渦を巻く急流によって石が回転し、長い年月をかけて岩を削ってできた。大小さまざまな丸い穴。

「観察MAP」。

     秩父赤壁。

              

岩畳も終わり、砂地の道を上流へ。

「上長瀞駅」方向に。

               

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アジサイ。タチアオイ。小さな草花(ドクダミ、ムラサキカタバミ・・・)。皆既月食。(青戸三丁目団地広場)

2021-05-28 21:45:02 | じじばばがゆく

                         タチアオイ。

 

昨年6月中旬に比べると、満開にはとはいきませんが。

今年も早々にアジサイやタチアオイが色とりどりの花を咲かせ始めました。

              

昨日の雨に濡れた花びら。

                  雫がまだ。

          

ガクアジサイ。

 

 

       カシワバアジサイ。

カシワに似た形の5~7つに深く裂けた葉、円錐形の花房が特徴。

            

「水戸街道(国道6号線)」沿いで見かけたカシワバアジサイ。

 

ドクダミ。名前が気の毒ですが、可憐な花を咲かせます。

 

ドクダミの名称は、民間薬として毒下しの薬効が顕著であるので、毒を抑えることを意味する「毒を矯(た)める」から、「毒矯め(ドクダメ)」が転訛して「毒矯み(ドクダミ)」と呼ばれるようになったというのが通説である。異説として、「毒痛み」の意味で毒や痛みに効くことから名付けられたという説、群落地に漂う特有の臭気から毒気が溜まった場所を意味する「毒溜め(ドクダメ)」、あるいは植物自体が毒を溜めていると解されたものが転じてドクダミと呼ばれるようになったとする説もある。ただし、あくまで植物に毒が入っているというのは誤った解釈であり、ドクダミ自体に毒はない。(「Wikipedia」より)

 

                   ムラサキカタバミ

元来は観賞用に栽培されたものであるが、現在では庭園から畑地、芝地を中心に広く見られる。土の中の鱗茎を取り尽くすのが非常に難しいので、駆除の困難な雑草である。草の丈が低く柔らかいため雑草の刈り取りから殆ど無視される対象でもある。開花が始まった頃が木子の出来るピークなので、その時期に土を深く掘り抜き捨てるしかない。なお、体内に蓚酸を多く含む関係上、用土がアルカリ化すると勢いが弱まる。花は独特の色合いで美しいが、雑草のため市販されることはほとんどない。(「Wikipedia」より)

藤棚の向こうにアジサイ。

   梅雨時に映える花です。

すっくと伸びるタチアオイの存在感。

 (この写真は、昨年6月中旬)。しばらく先が楽しみです。

5月26日は皆既月食でした。今回の満月は今年一番大きく見える満月で「スーパームーン」でした。次に日本全国から皆既月食が見られるのは、1年半後の2022年11月8日。スーパームーンの時の皆既月食は12年後のようです。

宜野湾市から。

                       (「」より)

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その4。「義経千本桜」のうち「渡海屋、大物浦の場」。片岡仁左衛門。中村勘九郎。市川左團次。歌舞伎座。

2021-05-27 20:16:36 | じじばばがゆく

 九州へ逃れるため、義経一行は大物浦の渡海屋で出船を待っています。しかし、渡海屋の主人銀平は、実は壇ノ浦の合戦で死んだはずの平知盛。女房のお柳は典侍の局、娘お安は安徳帝で、義経を待ち伏せていたのです。知盛は船出した義経一行を襲いますが、返り討ちに。帝の身を守護するという義経の言葉に安堵した典侍の局は自害、知盛も帝を義経に託すと、瀕死の体に碇綱を巻きつけ、海中へと身を投げるのでした

(「」より)

「渡海屋内の場」。

   中村勘九郎(当時)

魚の名などを入れ込んだ掛け合いが面白い。

義経(中村福助)一行の出立。

すると銀平(実は知盛の亡霊=こういう設定が歌舞伎らしい)が装束をただして

片岡仁左衛門。

       「大物浦の場」。

             幕が揺れ、荒海に。

左は弁慶(左團次)。

碇綱とともに海中に身を投げる。

     

壮絶かつ豪快な場面。歌舞伎らしい迫力満点。この場面は何度か他の役者でも観たことがありますが、鬼気迫る演技に圧倒されてしまいます。

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アジサイ。タチアオイ。「隅田川渡しの跡」碑。平成中村座。(隅田公園)。

2021-05-26 19:47:33 | 隅田川

 今日のアジサイ。・・・やはり梅雨時に映える花。

昨年は6月中旬頃に立ち寄りましたが、季節の変化が早い(関東地方は? )のか、アジサイも五分咲き以上に。

そこで、隅田公園(浅草側)まで。

                

隅田公園の台東区側にはたくさん植えられています。

    

アジサイに関わって、たくさんの一言。

いろんな種類のアジサイが。

                

去年は「タチアオイ」がたくさんありましたが、今年はほとんど見かけません。 

去年のようす。

「梅雨葵」とも言われます

スカイツリー。 

山の宿渡し跡」碑。

隅田川渡船の1つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に渡船を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。

               

「隅田川」に架かる「桜橋」まで戻ります。その途中に、「竹屋の渡し跡」碑。

 

隅田川にあった渡し船の一つ。山谷堀から 向島三囲神社 (墨田区向島2丁目) の前 あたりとを結んでいた。
 『待乳の渡し』ともいい, また『竹屋の渡し』とも云う。 明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり, 同年発行の 『東京市浅草全図』では, 山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き 『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記している。
  「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと, あるいは, 山谷堀に竹屋(家)という船宿があったことが その名の由来とされている。
  「渡し」の創設年代は不明であるが, 文政年間 (1818-30) の地図には, 「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見られる。
 隅田川にのぞんだ 今戸や 橋場一帯は 風光明媚な地であったという。 文人墨客たちの題材ともなった 今戸橋や山谷堀は, 寛文11年(1671)の地図に, 今戸橋の名があることから, 江戸時代初期には造られていたらしい。 「渡し」は, 昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであった。

ふと見ると、「平成中村座発祥の地」碑。

現在は、広場になっています。

「浅草観音」の裏手でも開いたような記憶が。この場所を含めて、何回か観に来ました。江戸の歌舞伎小屋という雰囲気でたいそう楽しめました。「お大尽席」があったりして。二階席、幕の向こう側(内側・舞台袖)で観たことも。間近に役者の表情、所作が味わえました。勘九郎(当時)の才気溢れる芝居を堪能。勘三郎になってからも、・・・。

いっとき勘九郎(勘三郎)の追っかけまがいのことをして、歌舞伎座などあちこちに出かけました。まだまだこれからという時に惜しくも亡くなってしまいました。

息子達が、今、頑張っています。

浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。

翌年(2001年(平成13年))以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の18世中村勘三郎が2012年12月に亡くなった為、2013年は公演を行わなかったが、勘三郎の遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の2代目中村七之助2代目中村獅童と共にアメリカ合衆国ニューヨークで平成中村座復活公演を行った。(「Wikipedia」より)

初演の『隅田川続俤 法界坊』を観ました。そのあともいくつか。歌舞伎座での『野田版 研辰の討たれ』はなかなか面白かった。

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その3。「与話情浮名横櫛」。尾上菊五郎。坂東玉三郎。サンシャイン劇場。木更津。

2021-05-25 22:38:23 | お芝居

今回は、去年歩いた「房総往還」。その木更津にちなんで。

池袋に「サンシャイン劇場」が開場された頃の上演でちょっと古く、さらに観客の咳やくしゃみがけっこう気になる録画ですが、菊五郎も玉三郎もまだまだ若く、溌剌と演じています。

           

あらすじ

 江戸の大店伊豆屋の若旦那(じつは養子)の与三郎は故あって身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていた。春の潮干狩りの時分、木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう(序幕・木更津浜辺の場)。

                   
 ところがお富は、地元の親分赤間源左衛門の妾だった。その情事は露見し与三郎は源左衛門とその手下にめった斬りにされるが、源左衛門はこの与三郎をゆすりの種にしようと、簀巻きにして木更津の親類のもとへ担ぎ込もうとする。いっぽうその場を逃げ出したお富は赤間の子分の海松杭の松に追われ入水するが、木更津沖を船でたまたま通りかかった和泉屋の大番頭多左衛門に助けられる(二幕目・赤間別荘の場、木更津浜辺の場)。

                        

 そしてそれから三年。

与三郎はどうにか命を取り留めたものの家を勘当されて無頼漢となり、三十四箇所の刀傷の痕を売りものにする「向疵の与三」として悪名を馳せ、お富は多左衛門の妾となっていた。

                    


 或る日のこと。与三郎はごろつき仲間の蝙蝠(こうもり)安に連れられて、金をねだりに或る妾の家を訪れた。ところがそこに住む女の顔をよく見れば、なんとそれは三年前に別れたきりのお富である。片時もお富を忘れることのできなかった与三郎は、お富を見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うとなんとも肚が収まらない。
 やがて多左衛門が来て、そのとりなしで与三郎と安は金をもらって引き上げる。お富は、多左衛門には与三郎を兄だと言い繕ったのだったが、じつは多左衛門こそがお富の実の兄であり、多左衛門は全てを承知の上で二人の仲をとりもとうとしていたのである。このあと多左衛門はお店からの呼び出しを受けて再び出掛け、和泉屋の番頭籐八がお富を手篭めにしようとするのを与三郎が助けるが、籐八が海松杭の松の兄であったことから赤間一味の悪事を知り、復讐を誓う。与三郎が「命がありゃあ話せるなァ」とお富を引寄せるところで幕となる(三幕目・源氏店妾宅の場)。

            

                                     

名科白(三幕目「源氏店妾宅の場」より。)
与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
    命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から
    めぐる月日も三年(みとせ)越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ
    拠所(よんどころ)なく鎌倉の
    谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
    面(つら)に受けたる看板の
    疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに
    切られ与三と異名を取り
    押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
    慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)
    その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に
    格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ
    お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
    安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ
    帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。

                  


『与話情浮名横櫛』は、春日八郎の歌『お富さん』でも有名。 


山崎正 歌詞 渡久地正信 作曲

粋な黒塀 見越しの松に

仇な姿の 洗い髪

死んだはずだよ お富さん

生きていたとは お釈迦様でも

知らぬ仏の お富さん

エッサオー源氏店

(この項、「https://www.uta-net.com/movie/13850/」より)

当世の美男美女の取り合わせによるお芝居。

『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』といえば、通称「お富与三郎」「切られ与三」として親しまれている人気演目です。とりわけおなじみの場面は「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさお富久しぶりだなあ」の名せりふで知られる「源氏店(げんじだな)」の場ですが、元々は史実の「玄冶店(げんやだな)」に由来しています。

 玄冶というのは三代将軍家光の時代に将軍お抱えの医者として名を馳せた岡本玄冶、その屋敷のあった所が玄冶店です。「冶(や)」の字を「治(じ)」に置き換えると「げんじ」となり、そこへ「源氏」という字を当てて芝居の舞台にしました。

とはいえ実際にあった有名な場所の上に言葉の響きが粋で、「玄冶店」はこのお芝居の代名詞ともなっています。
 人形町三丁目交差点付近には「玄冶店跡」の史蹟碑が建てられ、その歴史を今日に伝えています。

(「」HPより)

ところで、木更津には、「見染めの松」。

見染の松」解説板。

一帯は、松林になっています。
 歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の主人公お富 と与三郎 が、この場で見染めて以来ここに来ては逢瀬を楽しみ、この松ヶ枝に袖をかけてはかない恋を語ったと伝えられ、袖掛けの松ともいわれたそうであります。
 かつては、ここに老松 がありましたが時の流れとともに風雨にさらされ、或は害虫に侵蝕されてしまいこれを再現したのがこの見染の松であります。

 駅近くの「光明寺」には「切られ与三郎」のモデルとなった男のお墓があります

                   

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その2。「勧進帳」。二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎。

2021-05-24 20:32:39 | お芝居

「壽初春大歌舞伎」 松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎襲名披露(「高麗屋三代襲名披露公演」)。

平成30年1月2日開幕 歌舞伎座。

              

当時、親・子・孫と三代同時の襲名披露として大きな話題になりました。

松本幸四郎改め二代目松本白鸚、市川染五郎改め十代目松本幸四郎、松本金太郎改め八代目市川染五郎の襲名披露興行。

勧進帳 

歌舞伎十八番の一つ。
兄源頼朝との仲が悪くなった源義経は、武蔵坊弁慶らわずかな家来とともに、京都から平泉(岩手県)の藤原氏のもとへと向かいます。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとします。『勧進帳』は、義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時の様子を歌舞伎にしたものです。義経一行は山伏に変装して関所を通過しようとします。ところが関所を守る富樫左衛門は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんで通しません。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げます。

          

勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物です。いったんは本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫ですが、中に義経に似た者がいる、と家来が訴えたため、呼び止めます。

変装がばれないようにするために、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩きます。

それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのでした。

          


 初代市川團十郎が元禄時代にこの場面を演じました。しかしその時の台本が残っていなかったこともあり、7代目團十郎が新しく作り直しました。1840年(天保11年)のことです。7代目團十郎は、衣裳や舞台装置などを新しくするために能を参考にしました。背景は能の舞台をまねて松羽目にし、衣裳も能に近づけました。その後9代目團十郎が得意とし、現在に受け継がれています。


 弁慶の演技には、最後の飛び六方に代表される荒事の豪快さだけでなく、はっきりしたセリフ回しや舞踊の技術が必要で、座頭の役として特に大事にされています。 また伴奏の長唄は、代表的な三味線音楽の一つとして知られています。

(あらすじ解説は、「」HPより)

      

華やかな舞台に感動。

「荒川を遡る」で玉淀にあった「雀宮公園」は、歌舞伎の名優・七代目松本幸四郎の別邸跡地。

雀亭をかたどった四阿。

解説板。

  幸四郎は、恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物、荒事に本領を発揮しました。特に、九代目市川団十郎の直系の芸である「勧進帳(かんじんちょう)」で弁慶を演じては、彼の右で出る者はなく、生涯を通じて1600余回演じ、不朽の演技として後世に語り継がれることに。

 幸四郎は、1949(明治24)年に80歳で亡くなり、子に十一代目市川団十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑、孫に九代目松本幸四郎(現:二代目松本白鸚)、また、十代目松本幸四郎、松たか子は曾孫に当たる。

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その1。「操り三番叟」。中村勘太郎(勘九郎)、中村獅童、尾上松也。オリパラ。

2021-05-23 20:57:40 | お芝居

「緊急事態宣言」下の東京都。近隣の神奈川、埼玉、千葉が「蔓延防止」でとどまっているのが、不思議なくらい。

IOCは、緊急事態宣言下でも「オリパラ」は開催すると、断言。「オリパラ」目指して励んできたアスリートの期待に応える、とか。開幕すれば人々の気を紛らすことができ、希望や喜びを与えられる、そのためには無観客ではなく。五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない

一方、IOCに言いなりの菅自公政権。

丸川大臣、コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある、と。この東京大会は世界中の人々が新たな光を見いだすきっかけになる、とか。「」「新たな光」?

平井大臣、国民の命と健康を守ることができるのなら、パンデミック(世界的流行)下での五輪開催というモデルを日本が初めてつくることになる、とか。

ここまで来ると、国民の生命と暮らしを守ることをどこまで本気で考えているのか。逃げを打っているつもりでしょうが。

感染が多い国から大量に選手、関係者、報道陣がやってくる! 彼らが禁止条項にきちんと従ってくれるという空約束(たぶん)のもとで。

政府、東京都。ここで解除して7月に入って再拡大したら、えらいことに。そこで、延長しても6月20日までとし、「オリパラ」に備えるという魂胆が見え見え。

そのため、高齢者などのヘのワクチン接種を何としても7月末までに(オリンピック開会までに)、と自治体をせかす。

人形遣いの意のままに踊らされる「哀れさ」よ。操り人形ならまだしも、腹話術の人形となっている? 「交通安全教室」ではないんですから。

というわけで、「撃ちてし止まん」「大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「竹槍で闘う」とかの気概もない老国民は、じっと我慢の時を過ごす。

そこで、昨年に続いて「歌舞伎鑑賞教室」を。

第1回は「操り三番叟」。千秋万歳、弥栄を言祝ぐめでたい所作事。皮肉でも何でもありませんが。

舞台は、操られつつも、自在かつ華麗に舞い踊る三番叟=勘太郎。見事な踊りを披露します。

筋立ては

①翁と千歳(せんざい)の舞

                    千歳=中村鶴松、翁=中村獅童。

幕が開けると、背景は能舞台を模した松羽目。翁と千歳が登場。能の所作事で始まります。千歳の若々しい舞に続き、翁が厳かに舞う。初春のめでたさや末永い繁栄を祝う歌詞。舞い終わった二人は再び礼をし、去って行く。

②三番叟の登場 三番叟=中村勘太郎(現勘九郎)、後見=尾上松也。

後見が登場し、背景が鶴を描いたものに変わる。後見は三番叟と書かれた大きな箱を開け、中から人形を取りだし、抱えて舞台中央へ。

          

糸のついた台を舞台の上方に。これで人形遣いと人形が糸で繋がり、三番叟が動き出す。

おおさえおさえ 喜びありや 喜びありや 我がこの所より外へは遣らじとぞ思ふ

        ③「揉みの段」。

三番叟は袖を翻し躍動的に踊り出し、大地を踏みしめる振りや大きく飛ぶ「烏飛び」などの型を軽やかに見せていく。

父親(勘三郎)譲りの達者な踊りを披露します。手の動き、足の動き・・・、まるで人形のように自在に。

ところが、途中で糸が絡まってしまい、三番叟は糸の撚れに従いくるくるくるくると廻り出す。どんどん加速がついて廻る三番叟、ついに糸がふつりと切れて、舞台に倒れ伏す。

後見が切れた糸をつなぐ。すると、再び三番叟はゆっくりと動きはじめ、鈴を手にして種蒔きの所作を見せる④「鈴の段」。

五穀豊穣を祈って幕となります。

             

千秋万歳 万々歳の末までも 賑はふ御代とぞ舞ひ納む

当代きっての若手役者たち。なかなか見応えのあるお芝居でした。

(映像は「YouTube」より)

 

ところで、「甲州街道」歩きのとき、「猿橋」。

この「三番叟」を「笹子追分人形芝居」で拝見しました。



  「追分人形式三番叟」。

三人がかりで人形を操ります。少々小ぶりな人形に素朴な衣装を身につけ、テープの義太夫節に合わせて動作をします。中央の人は高下駄をはいています。素朴な中に地域の伝統芸能のすばらしさを観せてもらいました。

さんばそう【三番叟】

能の「翁(おきな)」で、千歳(せんざい)・翁に次いで3番目に出る老人の舞。直面(ひためん)の揉(もみ)の段と黒い尉面(じょうめん)をつける鈴の段とからなり、狂言方がつとめる。また、その役および面。→式三番

 歌舞伎・人形浄瑠璃に1が移入されたもの。開幕前に祝儀として舞われたほか、一幕物の歌舞伎舞踊としても発達。

地方に1または2が伝播し、各地の民俗芸能に取り入れられたもの。多くは最初に演じられる。

                                       (「デジタル大辞泉」より)

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その8。金石水管橋。緊急事態宣言。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-18 19:53:08 | 荒川を遡る

 「ハナミズキ」が数本満開に。

                

桜並木は、すっかり葉桜になっていますが。   

通りに面して大きな施設があります。       

 「フォレストサンズ長瀞」。

 

豊かな自然に囲まれた観光名所長瀞に、アメリカ直輸入のトレーラーハウスと原生林の中にたたずむコテージを宿泊施設にしたキャンプ場の登場です。

設備充実のトレーラーハウスと、雨の日でも安心して楽しめる全天候型のルーフデッキ装備で生活環境はバッチリ。

コテージ利用のお客様には大人数でも対応可能の屋根付きバーベキュー場も完備しています。簡単に楽しめるアメリカンなキャンプスタイルを皆様に提供します。

アウトドアを思う存分に堪能し、本格的なアメリカンカルチャーを体験してみませんか!

テントサイトもOPEN!! 自然の地形をそのままでキャンプを楽しめます!

※関越道 花園ICを下りて、国号140号を秩父・長瀞方面に25分。中野上信号を左折して3分です。

 

隣には「UNCHAINZ skate boarding」。

UNCHAINZ(アンチェインズ)は、埼玉県のフォレストサンズ長瀞内にある関東圏最大級の屋内スケートパーク。

(この項、「フォレストサンズ長瀞」HPより)

その奥に見える荒川の流れ。

こちらも洒落たホテル。「 アクアstマリア」。

1日1組の完全貸切のアットホームウエディング

秩父・長瀞の自然に囲まれた癒しの空間、白亜のゲストハウス、館内に配された調度品や絵画、照明のやわらかい光が皆様をあたたかく包み込む。
一生の記念日になる日。だからこそ自分達らしくキレイな花嫁になってゲストの方にも最高!と言われる結婚式にしたい。1組だからという安心感。私たちだけという優越感。伝えたい感謝の気持ち。感動の結婚式
おふたりだけの挙式から、どんな結婚式にしたらいいのかわからない方、又ご予算の事など、どんな事でもお気軽にご相談下さい。
専門スタッフが、おふたりらしいオリジナルウェディングをご提案致します。

(「アクアstマリア」HPより)

その先、左手に「金石水管橋」。

橋が開通する以前は「金石の渡し」と呼ばれる秩父郡本野上村下野と同井戸村中郷金石を結ぶ村道に属し、船1艘を有する私設の渡船場(作場渡)であった。 渡船場の場所は現在の金石水管橋のやや上流側にあり、約200年前である1790年寛政2年)頃より渡船場の運営が行われ、荒川水系に数多く存在した渡船場の中で最後まで残っていた渡船場であった。 使用された船は付近の荒川の流速が速いため、両岸に渡船係留鉄線と繰り綱(何れも針金製)を張り、その鉄線に滑車を取り付けて綱で船に結び、繰り綱を船頭が手で繰ることで対岸とを行き来する繰り船である。定員は20名ほどで人の他、自転車や牛馬の乗船も出来た。渡船場を通過する荒川遊船(現在の荒川ライン下り)に支障しない様にするために鉄線は高めに張られた。 上流より荒川遊船の船が渡船場に差し掛かる場合は、遊船の方を優先するため渡船の運行は抑止され、遊船の船が通過するのを待った。荒川遊船にとって渡船場の鉄線や繰り綱は障害物で、船頭は竿を操って繰り綱を押し上げながら通過したが、船に引っ掛けて切ってしまうこともあった。大雨やダムの放流などによる荒川の増水で渡船の運行が危険な時は、井戸地区により舟揚げを行い、船頭小屋も同時に安全な場所に移動され、鉄線は鯱台(巻き上げ機)で巻き上げた。この作業は夜間の危険の多い中であっても行なわれた。渡船が運休で利用できない時はおらく橋(高砂橋)が出来るまでは皆野親鼻橋まで迂回しなければならなかった。渡船の利用は付近の製糸工場や織物工場への交通手段や燃料のやボヤ(細い枝)、織物の材料のなどの物資の運搬で賑わっていたが、晩年は主に付近の小学校へ通う児童の通学路として機能していた。

1926年(大正15年)までは専属の船頭が渡船の運営を務めていたが、それ以降の船頭番は村人の輪番制で井戸地区の上郷・中郷、および風布の住民が渡船を朝6時から午後6時までの時間帯で運営する様になった。渡船料は住民は無料であったが、年一回船穀と称して白鳥・野上地域の住民より麦米などの穀物を徴収した他、樋口・上長瀞の地域より思召と称した小額の寄付金を集めていた。住民以外の利用は1人2銭、自転車は5銭を徴収した。また、船頭小屋は井戸側に所在し、船頭専用の耕地(船頭畑)もそこに併設され、そこで耕作もしていた。船頭小屋は1926年(大正15年)頃まで駄菓子などの売店でもあった

冬場の減水期である11月下旬から3月上旬までは渡船の運行が困難なため、丸太や藤蔓を用いた木組みの長さ15間(約27.3メートル)幅4尺(約1.2メートル)の砂利や砂を橋面に盛った土橋の仮橋を地域の輪番で架設していた。・・・ 大正時代までは現在の水管橋の位置に牛や馬も通れる本格的な土橋を3日かけて架けていたが昭和時代は渡船場の位置へ変更されて土橋は止め、半日もあれば仕上がる橋面に板を渡した板橋に簡素化された。

1951年(昭和26年)頃、渡船が野上町道51号に編入され、町営化されたことにより渡船の運営は野上町(現、長瀞町)の町費により賄われたため渡船料は無料化された。使用する船は交通需要に応じて定員10名になり、乗船は人および自転車に限定された。渡船の要員は引き続き井戸・風布地区の住民に委任された。昭和40年代以降は午前7時から午後5時までの運行となり、仮橋の架設は住民から特定の作業者を予め決めて委託した。 1975年(昭和50年)に上流の砂利採取に起因する河床低下に伴い、川底が岩盤化したことにより橋杭を打ち込むことが出来なくなったことから、冬季の仮橋は廃止され、渡船の運行が学期末まで延長されるようになり、それ以降は翌年3月末の渡船始めまで、渡船の運行が不能な場合と同様に下流の高砂橋へ迂回した

荒川において最後の渡船場であった金石の渡しは、1981年(昭和56年)に下流側に金石水管橋が開通したことにより惜しまれつつ廃止され、荒川舟運の長い歴史に終止符が打たれた。渡船場小屋の基礎や鉄線を巻き上げる鯱台が残されている他、両岸にある渡船場への道も現存している。また、水神宮が両岸にそれぞれ1基、1990年平成2年)3月井戸上郷地区により設立された金石の渡しの記念碑が右岸側に所在する

「金石の渡し」跡。(「Wikipedia」より)

そこからの眺め。下流方向。

            上流方向。

右手に渡船場跡。

大きなお屋敷。

               

「しあわせの森」。サービス付き高齢者向け住宅。

遠方に見えるのは、「宝登山」?

「長瀞八景」。

桜と梅と宝登の山

「宝の山に登る」という縁起のよい名のつく長瀞のシンボルともいうべき宝登山は、長瀞観光の一大拠点です。山頂に、宝登山神社奥宮、宝登山動物園、日本一種類の多い梅園の宝登山百花園、山頂と山麓ロープウエイ  。山麓に、宝登山神社、緑の村、七草山不動寺、通り抜けの桜があります。また、長瀞は、秩父音頭に唄われるほどの桜の名所として知られ、特に桜がつくるトンネルは最高です。平成2年4月には、「日本さくら名所百選」に「定されました。

「長瀞岩畳」などは次回の楽しみにして、秩父鉄道「長瀞」駅に向かいます。

         

長瀞駅前。

しかし、訪問後、緊急事態宣言が発出、さらに5月31日まで延長になりました。次回の訪問はいつになることやら・・・。間もなく梅雨入りになりそうで、なんだか先になりそうです。

「荒川を遡る」もここでいったん休み。再開できる日を楽しみに。     

しかし、   

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その7。野上下郷石塔婆。寛保洪水位磨崖標。北桜通り。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-17 20:50:21 | 荒川を遡る

                 道標。「寄居町約二里 秩父町約五里」。

「樋口村秩父分會第四班 青年團小坂支部」。

国指定史跡「野上下郷石塔婆」。

高さ約5㍍・幅約1㍍、厚さ13㌢のこの塔婆は現存する板石塔婆としては日本一の大きさである。・・・この塔婆は、当町大字小坂字城山に所在する「仲山城」の城主・阿仁和直家が落城の際討ち死にして、十三回忌の応安二年(一三六九)十月に、夫人の芳野御前(妙円尼)が追善供養のため建立されたものである。(「解説板」より)

西方の山を約1500m登ったところに石材を採集した「板石塔婆石材採掘遺跡」があります。ここの石材は「秩父青石(あおいし)」と呼ばれ、縄文時代から関東一帯で石皿・石斧や板碑(いたび)として使われてきました。(「ジオパーク秩父」HPより)

国道から右にそれたところに「寛保洪水位磨崖標」という標示があるので、立ち寄ってみます。

荒川河畔に見られる「結晶片岩」がこの辺りにも。

庭先に「大黒天講中」などの石塔。

長瀞第二小学校裏の山ぎわに「水」の文字が刻まれた岩(三波川結晶片岩)があります。

           ↓。だいぶ薄れてきています。

寛保2年(1742年)、関東各地に未曾有の災害をもたらした、大洪水の水位を史跡です。旧暦7月27日から豪雨が降り始め、4日間に荒川の水位は最高に達し、この付近一帯は、ことごとく水没しました。現在の暦に直すと、9月上旬から中旬にかけてのできごとです。後日、地元の四方田弥兵衛と滝上市右衛門によって「水」をいう字が刻まれました。当時の水位上昇が確認できる荒川洪水の貴重な記録です。

現在の荒川の川床から24mの高さにあたります。これは、当時、ここから2km下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約19.8mにもなった、とのことです。(国道沿い、「長瀞第二小学校」校庭にはその水位が掲げられているようです。)

上空を見上げると、パラグライダーが。

手前が「長瀞第二小」校庭。

秩父鉄道「樋口」駅。

              寄居駅方向。

案内板「ジオパーク秩父」。

石灰岩を載せた貨物列車が頻繁に通過。

こちらはガーデニングのお店。貨車が。

この付近から「荒川」は南に遡っていきます。上流から下流まで、東に北に南にと激しく水路を変化させる荒川です。

この先左手奥には「長瀞射撃場」が。

埼玉一の景勝地・長瀞で射撃技術の向上を目指そう

長瀞は、埼玉県の西部に位置し、都心から1時間半。名勝天然記念物の岩畳と渓谷美、それに四季の彩り豊かな山々に囲まれたすばらしい景勝地です。

(この項、「埼玉県長瀞射撃場」HPより)

「中野上」交差点を左折、秩父鉄道の踏切を越え、

「高砂橋」手前を右折し、「北桜通り」へ。

ところで、「高砂橋」は「おらく橋」という異名があるそうです。そのかかわりを「Wikipedia」より。

高砂橋が開通する以前は「袋の渡し」と呼ばれる(「根古屋の渡し」もしくは「いっけの渡し」とも呼ばれる)1923年大正12年)に開設された私設の渡船場で対岸を結んでいた。渡船場は高砂橋のやや下流側にあり、運行は対岸町村と共同運営で、中野上地区(旧中野上村、後の野上村)と井戸地区(旧井戸村)でそれぞれ五軒が担当した他、荒川の増水時は船を陸揚げする作業なども行った。 この付近の荒川は流速が速く、川下に流されないようにするため両岸に太い針金を横に張り、その針金と船を綱で結び付け、針金を手で繰ることで対岸とを行き来するという繰船を運行していた。この渡船場は1932年昭和7年)の橋の架橋により廃止されている。現在、県営白鳥団地付近に渡船場への道が現存している。なお、この場所は現在の荒川ライン下りの終着点でもある。

井戸地区は秩父鉄道が通る対岸の野上村とを結ぶ橋は無く、野上へ渡るには荒川沿いの断崖を通り谷底に降りて袋の渡し、または上流にある金石の渡し(現、金石水管橋)を利用する他なく不便であった。 磯部らく(1868-1938)は困っている人を見過ごすことができない義侠心の強い女性で、元白鳥村長の夫と共に、井戸地区で悠々自適な余生を送っていた。1928年(昭和3年)近隣の野上の市街地へ行くために、両岸が断崖の荒川で通行に取手間取り難儀している井戸の人々を見かねた磯部はその義侠心から、私財を投じて井戸と野上の間に架橋を行う決心をした。なお、これとは別に1929年(昭和4年)1月16日に白鳥村会において、村民より白鳥村議員に高砂架橋の請願書が提出されていた

橋の架設は難航したが着工から4年後の1932年(昭和7年)2月に橋の竣工にこぎつけた。橋長100メートル、幅員2メートル、高さ30メートルの木造吊り橋である。橋桁は木造でケーブルは鉄索製である。橋は架橋者によって「高砂橋」と名付けられ、2月11日に開通式が挙行された。しかし、その日の夜、無理な資金調達が祟り、磯部は土地と家を差し押さえられ村を去ってしまった。その偉業に強く感銘を受けた村出身の議員やその地域の有力者は周辺町村を動かし、その経済的困窮な状況から救済することを決め、村民が総力を挙げて磯部を呼び戻した。白鳥村は橋の架設に掛かった工事費を磯部に支払い、橋を村道に編入して村によって管理することとなった。村の人々は磯部に感謝の気持ちを込めてこの橋を「おらく橋」と呼び親しまれた。 この初代の橋は村の経費で維持され[6]、多くの住民に利用され続けたが1938年昭和13年)9月1日午前6時ごろに台風の集中豪雨により発生した大水害により流失した。このとき上流の親鼻橋で観測された水位は10.6メートルにも及んだ。なお、この年は奇しくも磯部が他界した年でもあった。現在、「昭和七年二月竣工」と刻まれた橋脚(橋台)が遺構として残っている。・・・

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。橋はまだ無い。

                     2010年代のようす。荒川沿いに「北桜通り」。

 

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その6。桑畑。秩父織塾工房横山。長瀞八景。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-16 19:38:18 | 荒川を遡る

    「彩甲斐街道(「国道140号線」)」道路標識に「↑甲府108㎞・雁坂トンネル・↑秩父20㎞」という表示。

桑畑。かつては養蚕が盛んだった。

その左手に「秩父織塾工房横山」。

大正9年 横山 忠安(ただやす)が創立

自身で機織りをやりながら当時の名門と言われた織物工場「丸保(三沢 関根憲治)」、町久工場「井重織物丸上(荒船清十郎)」で営業とデザインに携わりながら腕を磨き、横山織物工場を作る。

戦前から昭和に秩父銘仙を制作

百貨店の秩父銘仙宣伝会(1930年)(「Wikipedia」より)

当時、制服制度を導入していたのは他にはありませんでした。その後、西川産業、京都コスギなどからアクリルプリントの開発により座布団カバー、こたつ掛け、サンローラン、エマニエルウンガロなどライセンス物を手掛ける。

秩父植物染織工房(株)を設立

時代変遷のなかで草木染め、藍染のスカーフを制作。日本橋三越にアルプスカワムラからタクミブランドとして常設した。

秩父銘仙の復活

世代交代として近年では秩父銘仙の復活にウェイトを置き、お蚕を飼い、ざぐりで糸取りをしてマユを引き明治時代の手織機ではた織教室を主宰している。

体験教室について

当工房では、お客様にも伝統的な糸染めから機織りを体験頂ける体験教室を随時行っています。
当時から残る技法にて、マユからの糸作り、糸染、型作り、機織りまでの全行程が学べます。
お手軽にご参加頂けるものから、本格的なものまで
初心者の方でも、お気軽にご参加ください。

制作風景

【1】オカイコに畑がら桑を切り、マユに仕上げる
桑畑 おかいこ まゆ

【2】オカイコの1本は3デニール☓7で意図を作り上げていきます。
不純物を取り絹本来の風合いを整え、糸がケバ立たないように織りやすくします。
糸取り 練り 糊付け

【3】整経(織物にする場合の縦糸の準備)から、織物、布にするため縦糸を引き込む作業に入ります。
整経 引き込み

【4】元来は和紙に専用のナイフで柄を掘ります。あとに紗張りをして渋でずれないようにします。
型紙

【5】型紙を使い縦糸に柄を付けていく作業です。
捺染

【6】縦糸に柄を付け、蒸した後のしとりを取り乾燥させます。
タンプル巻取り

【7】柄を付けた縦糸を引き込み本織に入ります。
本織り

みなさんが無意識にさわっている布は、このように多くの工程を経て初めて布になります。
昔の人は小豆つぶが包める大きさの布を大事に採って置いてつぎはぎにして再生させ、布を甦らせ命を与え使ってきました。
今では古布が海外でもVINTAGE価値を持つほどです。
そんな、古来からの伝統的手法を今に伝えながらモノ作りを続けています。

(この項、「」HPより)

開館していなかったようで、残念! 機会を作って訪問したいところです。

生まれ故郷の桐生(近隣の伊勢崎、足利などと共に)も「銘仙」の生産地でした。

「銘仙」というと安物の絹織物というイメージがありましたが、1990年代後半からアンティーク着物のブームが起こり、銘仙はその代名詞ともいえる存在となっていて、ポップでモダンな柄行きや大胆な色遣いが人気を博し、「大正ロマン着物」と呼ばれるジャンルを形成しているようです。(「Wikipedia」参照)

この「秩父織塾工房横山」さんにも頑張ってほしいものです。

路傍のサクラソウ。

その先で国道から離れて山側を進みます。「旧秩父往還」道。

「馬頭尊」などの石塔群。

眼下の景色はすばらしい。

長瀞方向。

「長瀞八景」解説板。

樋の口を望む秩父往還

 矢那瀬より野上下郷にかけて残る旧道筋は、古くは秩父往還として往来がありました。今も日本一の青石塔婆や、馬頭尊、庚申塔、二十二夜塔などの石碑や文学碑が立ち、往時を偲ばせています。樋の口付近の往還より見渡す荒川の清流はとても心地よく爽快です。この付近の荒川は鮎の宝庫として知られ、シーズン中は釣り人で賑わいます。

上流に見えるのは「白鳥橋」。

砂防堰堤

右手に砂防堰堤。  

再び「彩甲斐街道」へ。    

 

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その5。玉淀湖。カヌー・カヤック。中田三絃工房。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-15 20:24:02 | 荒川を遡る

                  「玉淀湖」。

                     

荒川と秩父鉄道に挟まれた道。

「ようこそ長瀞へ」。

                    

湖上をカヌー・カヤックが。

「カヌーテ玉淀ベース(カヌー・カヤック)」付近。

ところで

カヤックとカヌーの違い

「カヤック」と「カヌー」と呼び分けられることがありますが
カヌーは、パドルで漕ぐ小船の総称になっています。
ですが、厳密に分けるとその違いは、使用するパドルの違いによって分けられます。

パドルは、水をかくブレードと呼ばれる部分が一つだけのシングルブレードパドルと、シングルブレードパドルが2本つながったくらいの長さで両側にブレードが付いているダブルブレードパドルがあります。

カヌーは、シングル・ブレードパドルを使用します。
乗るところ(デッキ)があいているので、積載能力が高く、釣りなどのツーリングに適しています。
一人で乗る場合は船の左右を交互に漕ぎます。二人以上で乗る場合は左右を分担します。
静かな川や湖をツーリングするのに適しています。

カヤックは、ダブル・ブレードパドルを使用します。船は比較的小振りで、小回りが利くのが特徴です。
使用する場所によって、シーカヤック(海)、リバーカヤック(川)、ファンカヤック(湖)に分けられます。
それぞれのフィールドに合わせて操作性や、直進性、安定性、スピード性などが異なります。

(この項、「」HPより)

だそうです。けっこうたくさんの方々が楽しんでいます。

渓谷風になります(下流方向)。穏やかな水面。

その先、右手に「中田三絃工房」。

                  

ごあいさつ

津軽三味線を始めてみませんか。
中田三絃工房は、秩父郡長瀞町にある三味線・和胡弓の製造工房を併設した三味線教室です。趣味にゆっくりと三味線・和胡弓を楽しみたい方、専門的に勉強してみたい方、またお子様の情操教育にも最適です。

 三弦師 中田 勇

(この項、「中田三絃工房」HPより)

この向こうをちょうどSLが通過中。

山が次第に迫ってきます。

右手、踏切を越える道が「旧秩父往還道」?  

路傍に「馬頭観音」などいくつか石塔が。

荒川側。

秩父鉄道線を越えます。

この付近の今昔。(「歴史的農業環境システム」より)

                     1880年代のようす。「秩父往還」道。

                     2010年代のようす。「彩甲斐街道」。

里山風景が広がります。

                

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その4。彩甲斐街道。寄居橋。波久礼駅。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-14 22:10:30 | 荒川を遡る

   「玉淀ダム」から住宅地や田畑の中を通って、再び「彩甲斐街道」へ。

          

右手は「秩父鉄道」、貨物列車が通過中。

  けっこう交通量多し。

彩甲斐街道(「国道140号線」)

埼玉県北部の熊谷市から同県秩父地方を経由して山梨県都甲府市に至り、1993年に編入された区間を経て同県富士川町の国道52号交点に達する。国道に指定されてから1998年までのおよそ半世紀にわたり、埼玉・山梨両県の間に不通区間を抱えていたが、雁坂トンネルの開通に伴って往来が可能となった。雁坂トンネルが開通するまで雁坂峠の前後区間で登山道が国道指定されており、「開かずの国道」と呼称されていた(点線国道)(「wikipedia」より)

遠くに「かんぽの宿」(↓)。

どこか懐かしく、自然あふれる秩父路でやすらぎを感じる

ゆるやかな時間が流れ、やすらぎを感じる秩父路は、高速道路を利用すれば都心からわずか90分。
寄居町は自然に囲まれた城下町で、地名は「人が寄る町」に由来しているといわれています。
温泉は1999年に開湯した寄居町唯一の天然温泉で、展望露天風呂からは秩父の山並みを遠望できます。

 

(この項、「」HPより)

かんぽの宿」は、郵政民営化のときに全施設の売却か存続かで大もめにもめたことがありました。売却問題でさまざまな疑惑が生じたことも。すっかりなくなったものだと思い、世間でも話題にもならなくなりましたが、日本郵政によって今でも運営されている施設があるのを知りました。しかし、立地条件が悪かったり、利用客の減少や施設の老朽化など多くの問題を抱えているようです。

この先で「寄居」ともお別れ。

寄居橋」。

寄居橋が開通する以前は「金尾の渡し」と呼ばれる私設の渡船場で対岸を結んでいた。 この渡船場は「殿倉の渡し」とも呼ばれ、いつから設立していたかは定かではないが、秩父往還が通っていた頃より存在した古くからある渡船場であった。冬から春にかけての船の運航が困難となる減水期は長さ20間(約36.36メートル)、幅4尺(約1.21メートル)の土橋による仮橋を架設していた。渡船賃は地元住民は「人手米」と称した、年払いで米麦などの農作物を一定量納めた事で無料で利用できた。 この渡船場は1947年(昭和22年)の寄居橋の完成により廃止され1964年(昭和39年)の玉淀ダムの完成により渡船場跡は玉淀湖の底に水没している

金尾の渡し

 

旧寄居橋(吊り橋・1947年の橋)と玉淀ライン下り

市町村道の改修の一環として寄居橋が旧正喜橋に酷似した鋼製吊り橋として1946年(昭和21年)に竣工され1947年(昭和22年)12月開通した。橋長89.9メートル、幅員3.9メートル、支間長89メートル。橋の両入口に進入制限用のポールがあり、高さ制限は3.0メートルで、重量制限は2トンである。主塔は段丘崖上の両岸に設けられた基礎の上に設けられ、鋭角な四角錐状の形状で鋼製のトラス構造を持ち、桁は鋼補剛トラス構造で床版は木製である。桁の両側には耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鋼ケーブルが設けられている。 下部工は直接基礎である。単径間の橋で側径間は有していない[20]自転車牛車の他、自動車の通行も可能であった。ただし、重量制限のため、橋には車は1台しか入れなかったこの橋は県管理の最後のつり橋で地元では撤去を惜しむ声あったが、1985年の橋が暫定開通した後に撤去された

(この項、「Wikipedia」参照)

右手に「波久礼駅」。

 駅の前の荒川は、玉淀湖になっています。駅名は破崩・端崩(はぐれ)の地名から取り、波久礼駅と命名されました。「崩れやすい崖」が由来のようですが、諸説あるようです。映画のロケでも使われるローカルな趣の駅。

駅前の観光案内板。キジの絵(○)が。

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その3。折原橋・末野大橋。玉淀ダム。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-13 20:24:06 | 荒川を遡る

                   道沿いの庭のモッコウバラ。

この先を左折します。

「折原橋」。

          

さらに「末野大橋」下へ。上流に「玉淀ダム」。

                「末野大橋」。

「国道140号線 皆野寄居バイパス」の道路橋。見上げると、見事なアーチ橋。

                     1880年代のようす。切り立った崖と岩。

                     2010年代のようす。上流から「玉淀ダム」、「末野大橋」、「折原橋」。

玉淀ダム」。

関東地方を流れる荒川では、1947年昭和22年)のカスリーン台風による水害を機に、建設省(現・国土交通省)による荒川総合開発事業が着工した。1961年(昭和36年)、上流に二瀬ダム(秩父湖)が完成。1962年(昭和37年)には下流においても埼玉県企業局が主体となって玉淀ダム建設工事が着工し、1964年(昭和39年)に完成した。

玉淀ダムの目的は荒川沿いに広がる農地への灌漑と水力発電である。荒川中部土地改良区はダム左岸に設けられた取水口から最大5.375立方メートル毎秒のを取り入れ、38平方キロメートル余りの農地に農業用水を供給している。取水方式は太陽光で温められた表層水を取り入れる、表面取水方式である。また、埼玉県企業局はダム左岸に横軸の円筒カプラン水車(チューブラ水車)発電機を1台設置。ダムから最大30立方メートル毎秒の水を取り入れ、最大4,300キロワットの電力を発生させたのち、ダム直下に放流する。埼玉県企業局は1960年(昭和35年)の大洞第一発電所運転開始以来、玉淀発電所を含む多くの水力発電所を開発してきたが、いずれも2008年平成20年)に東京電力グループの東京発電へ売却している。

2008年、玉淀ダム撤去促進期成同盟会が結成された。荒川をせき止めている玉淀ダムを撤去し、自然本来の川を復活させようと運動している。撤去推進派は玉淀ダムの上流にを建設して、農業用水の取水口をこちらに付け替えれば玉淀ダム撤去も可能だとしているが、埼玉県側はダムの耐震性が法令で定めるところの基準を満たしており、現時点ではダムの耐久性に問題がないこと、もしダムを撤去するとしても撤去工事に170億、農業用水の付け替えに100億円、さらに発電事業者への補償といった多額の費用を要するとして、今すぐの撤去には消極的な姿勢を見せている。熊本県球磨川荒瀬ダム撤去と同様、今後の動向が注目される。

(この項、「Wikipedia」参照)

「東京発電埼玉事業所」。

解説板。

ダムサイト。

見ると大きな魚がたくさん集まっている(↓)。

作業用通路を通って、対岸に行けるそうです。

この上流は、「玉淀湖」となります。

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その2。京亭。寄居小唄。玉淀河原。玉淀碑。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-12 20:14:59 | 荒川を遡る

              料亭などがある川沿いの道を進みます。

佐々紅華作曲の「寄居小唄」の歌曲碑。

寄居小唄    金子虹作詞 佐々紅華作曲

色はうす紅 玉淀さくら 霞む日ごとの 水かがみ
まわる日傘に ほろほろと さても愛しい 花が散る

よりい良いとこ 秩父の山が 雪のけはいの 品のよさ
娘まけるな 紅つけて シャンとすませよ ミスよりい

城は鉢形 御城下町に 昔 ならした 意地もある
思いきるまい 心なら せめて二度咲け 山つつじ

         「割烹料亭 京亭」。

浅草オペラの創始者として、また「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」等を作曲した佐々紅華は、かつて訪れたこの地の美しい山河の姿を忘れられず、昭和7年、ここを永住の地と定めて自ら図を引いて建てたのが外ならぬこの京亭の前身であります。昭和36年佐々紅華は没しましたが、四季おりおり変わる美しさは乱れることなく、今まだ眼下荒川の流れは昔の面影を映しております。

 

(この項「枕流荘 京亭」HPより)

こちらは廃墟となった元料亭? 

「玉淀河原」への下り口にある「埼玉県立自然公園 玉淀」碑。

魚霊碑」。

      対岸は、「鉢形城」址。

玉淀」解説板。

玉淀は荒川が秩父の山地から平野部へ移り変わるところで、この流域沿岸約3キロメートルの地域の総称です。

荒川の清流を見下ろす道路に沿って桜の並木があり、鉢形城跡下の絶壁と濃い淀み、広々とした浅瀬の河原が一種独特の景観をつくり出しています。かつて、明治の文豪、田山花袋は、この地を訪れ「東京付近でこれほど雄大なながめをもった峡谷は、ほかにはない」と激賞しています。

河床付近には、巨岩、奇岩が露出し、また見事な河岸段丘が形成されていて、地質学研究上の要地でもある。春の桜、夏のとうろう流し、秋の紅葉などハイキング、レクリエーションの地でもあります。

「玉淀」の名称は昭和6年4月29日に命名され、玉は埼玉の玉で美しいの意味であり、淀は水のよどんだところという意味があります。すなわち埼玉県にある美しい玉のような淀んだ地という意味で、昭和10年に県指定名勝として文化財指定を受けています。

 季節により、鮎などの釣り場としても大変人気があります。                 
(この項、「」HPより)

桜樹碑」。大正年間に桜を植樹した、との碑。

四阿脇にある「茂木秋香句碑」。

 花にあけ 山にくれけり 水のおと

その付近からの荒川の流れ。

玉淀碑。

 

 宝登山神社宮司の塩谷啓山翁が昭和8年、玉淀の景観を愛でて作った歌が刻まれています。

咲く花の笑顔のならぶ岸むかい 若鮎のゆききも見えて煌めくさまのなつかしや

花もよし月影もよし夏もよし 雪景色よき里は玉よど

かしこさに浪もさわがず瀬もたたず いまもよどめり玉淀の水

かくもめでたき玉淀の花をや狩らむ月や見む ああたまよどの淀のうるわしさ

・・・

そこからの荒川の流れ。

その後、「玉淀ダム」や護岸工事などによって、荒川の水量の変化もあり、かつてのような景観は失われつつあるようですが、多くの人が訪れる観光地になっています。

なお、「玉淀河原」は4月26日(月曜日)から当面の間、閉鎖されています。

訪れた日は、その閉鎖前日でした。

          

足もとの汚水マンホール。

             町の鳥「キジ」、花「カタクリ」、木「ヤマザクラ」 をデザイン。

荒川から離れ、「宗像神社」を過ぎ、住宅地へ。

「八高線」踏切。

「八高線・荒川橋梁」が左手に。

 この先、「象ヶ鼻公園」を過ぎ、再び「国道140号線」へ。

「彩甲斐街道(国道140号線)」。

「象ヶ鼻公園」付近の今昔。

1880年代のようす。流れがほぼ直角に曲がる。

2010年代のようす。現在も変わらない。

 

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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その1。宮沢賢治 歌碑。雀宮公園。松本幸四郎。(「荒川」を遡る。第7日目。)

2021-05-11 22:49:48 | 荒川を遡る

                      「東武東上線」鉄橋。

緊急事態宣言発出前に出かけた「荒川を遡る」第7日目。連休中、長瀞付近は大混みだったようですが。

4月24日(土)。晴れ。

JR・熊谷から秩父鉄道・寄居駅へ。南口から東武東上線・玉淀駅へ向かい、そこから「荒川」へ。

左手に四阿があります。 

石畳の道を玉淀方向へ。

振り返ると、東上線の電車が鉄橋を。

玉淀水天宮」解説板。

昭和6年にこの地が「玉淀」(県指定名勝)と命名された後、神社の設置の話がもちだされ、探したところ川に面したところに石の宮があるのが発見されました。これは俗にいう水神様といってこの地方の漁師たちがお祭りして、水難除けの神様として信仰していることがわかり、当時の玉淀保勝会が直ちにこの水神の神体を基として水天宮を祀りました。
 水天宮の縁日は毎月「五」の日であるというので、最初の大祭を昭和6年8月5日に挙行し、現在は8月の第1土曜日に盛大に行われています。祭事のあと「つけまつり」として、町内別の供奉船が花やボンボリちょうちん等で飾りたて、笛、太鼓等ではやしながら玉淀を遊覧し、多数の煙火が打ち上げられます。夏の祭りの美観は実にみごとなもので、寄居町の年中行事のもっとも大きい祭りとして、また、埼玉県内としての大祭の一つに数えられています。
 現在、水天宮は、水難除けと安産の神様として広く信仰されています。
                                   寄居町・埼玉県

宮沢賢治 歌碑。

        毛虫焼くまひるの火立つこれやこの秩父寄居のましろきそらに

        つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ

道中には歌碑などが点在しています。

県指定名勝玉淀の美しさに魅かれて、古くから多くの文化人がこの地を訪れています。彼らの足跡は、句碑や詩碑として荒川沿いに残されており、「ふるさと文学碑歩道」と名付けられました。「君恋し」の作曲家、佐々紅華は晩年を寄居町で過ごし、今は旅館になっている住居前には「寄居小唄」の歌碑があります。また、宮沢賢治が盛岡高等農林学校2年生のときに寄居町を訪れ、玉 淀の美しい風景をうたった歌碑もあります。地元の文化人の詩碑とともに、先人の心に触れてみてはいかがでしょうか。

(この項、「」HPより)

草合歓(くさねむ)の歌碑」。

夏草の深くも茂る 本丸に語る哀しさ 鉢形城戦史 中里 清
出水あとの河原は清く 洗はれてみずゆたかなるを 舟下りゆく 鳥塚 仁
河鹿鳴く馨すがすがし 河原にかはらははこは いまだ短し 内田 義

この付近からの荒川の流れ。

その先、「雀宮公園」へ。

               

桜柳碑」。雀宮公園駐車場の角にあります。

玉淀は水あるによりて勝れ花あるによりて更に美し 然るにこの花すでに樹令つきなんとして花少なく色あせたり玉淀保勝会の人々これを憂いこれを悲しみ去る年の春大方の協力を得て桜苗六百を植え加うるに柳百をもってす

雀宮公園は、歌舞伎の名優・七代目松本幸四郎の別邸跡地であり、古くから町民に親しまれてきました。

 荒川周辺の水辺整備による賑わいと活気づくりを目的とした、「川の国埼玉はつらつプロジェクト」の一環で、平成29年に町が敷地を取得し、雀宮公園の整備を行いました。

 また、雀宮公園から玉淀河原までの親水遊歩道(約300m)の整備を行い、紅葉シーズンに合わせた11月7日に開通し、川沿いの自然豊かな景観を楽しむことができるようになります。

人物

 歌舞伎の名優・七代目松本幸四郎は(幼名:秦豊吉)は、1870(明治3)年、伊勢国員弁郡深村(現在の三重県員弁郡東員町)で誕生しました。1874(明治7)年、父が事業化で各地を転々としていたこともあり、豊吉が4歳の年に、母と共に上京。京橋区(現在の中央区)に落ち着いたころ、そこで虎屋饅頭の株を買い、駄菓子屋をはじめたといわれます。

 この駄菓子屋の顧客であった、藤間流家元の二代目藤間勘右衛門には子がいなかったため、豊吉を藤間家の養子として、踊りを厳しく仕込んでいきました。豊吉は、11歳になると市川団十郎の門に入り、次々と歌舞伎俳優としての才覚を現していき、1911(明治44)年に七代目松本幸四郎の名を襲名しました。

 幸四郎は、恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物、荒事に本領を発揮しました。特に、九代目市川団十郎の直系の芸である「勧進帳(かんじんちょう)」で弁慶を演じては、彼の右で出る者はなく、生涯を通じて1600余回演じ、不朽の演技として後世に語り継がれることになりました。

 幸四郎は、1949(明治24)年に80歳で亡くなり、子に十一代目市川団十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑、孫に九代目松本幸四郎(現:二代目松本白鸚)、また、十代目松本幸四郎、松たか子は曾孫に当たります。

園内の様子

 園内には、ウッドチップを敷き詰めた散策路や車いすでも通れるアスファルトの園路、トイレ等を整備しました。また、松本幸四郎の安らぎの場、おもてなしの場として愛されたとされる「雀亭」をイメージして建築されたあずまやがあり、雀宮公園を象徴する建物となっています。

 秋になるともみじやイチョウが色づき園内はオレンジ一色に染まります。周辺には、「ふるさと文学碑歩道」もあり、文学と自然を同時に楽しむことができます。

(この項、「」HPより)

 

よく整備された公園。木々も見事。

正喜橋」を望む。

紅葉の時期はさぞかし。

(「同上」HPより)

雀亭をかたどった四阿。

解説板。

周辺案内図。

2010年代のようす。左に「正喜橋」。

 

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