おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その7。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-31 19:43:38 | 日光例幣使街道
                               見事なつくり。蔵造りを現代風に。

「家中」で見かけた食事処「そば割烹 川蝉」。

旧道らしくほぼ北に向かってカーブする広い道。

                     
 特に史跡もなくただひたすら歩く県道。が、バス停の経路図が役に立ちます。一日に二本しか運行しない路線バスですが、バス停とバス停との距離も3、400㍍という感じで、あといくつ、あといくつ、という具合に先が読め、単調な道歩きでは励みになります。

いくぶん傾きかけた太陽。田んぼが広がっています。

                           

 (15:37)「北関東自動車道」の高架が見えてきます。
 

街道沿いには大きなおうちが目立ちます。

見事な石庭のあるおうち。

このおたくも超豪華なつくり。

十九夜塔」が何体も。
 「月待行事」の一つ。十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。
 台座に「女人講中」とあるように、特に「十九夜講」はほとんどは女人講、念仏講で、子安講ともいい、安産を祈願することもあるという。

思ったほど車の行き交いが少ない。

                       

(16:05)左手に大きく広がった田んぼが見えます。左手には「東武日光線」。

「重要文化財 鉄造薬師如来座像」への道標。

金崎宿」へ入ります。「金崎宿」は例幣使街道最後の宿場。
 
金崎宿は本陣1軒、旅籠十数軒の小さな宿場でした。

大きなカエルが鎮座しています。

「木の宮キムチ」。はて? 
 全工程手づくりにこだわった安全・安心なおいしいキムチを製造しています。
 韓国産唐辛子の辛みと野菜の甘みが漬け込んでいるうちに発酵され、酸味とうま味と塩辛さが複雑に入り交じった絶妙な風味を醸す当店のキムチを、是非皆様ご賞味ください。

地元のニラを使用したニラキムチ

自家製ヤンニョムが決め手の白菜キムチ
(以上「西方商工会」HPより)

 「ニラキムチ」は食べてみたいです。しかし、民家の塀にあった幟で、どこに販売店があるのか分かりません。残念!

 あともう少しで「東武金崎」駅に着きます。
 

(16:26)「東武金崎駅」。

今回はここまで。気がついたらけっこう歩きました。

 下今市での「日光道中」との出会いまで、あと2回で完歩になるかな?
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その6。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-30 20:04:41 | 日光例幣使街道
                            東武日光線。「新栃木」駅方向を望む。

 「栃木環状線」を突っ切っていきますが、信号が右も左も遠いので、車の途切れるのを待っていると、右手に「吉野家」。「牛丼の吉野家」じゃなくて「おそばの吉野家」。そこで、おそばを食べながら、休憩。
(13:41)通りを渡って先に進みます。

「県道3号線」に合流します。大谷石造りの倉庫。

東武日光線の跨線橋を渡ります。遠くに筑波山がはっきりと。(↓)

反対方向。

(14:01)「合戦場宿」への道。

 初めて見た「馬力神」。
 「馬力神」と刻まれた石塔は、栃木県や宮城県で見られるようです。その大部分は愛馬の供養のために造立されたもの。幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された、そうです。「馬頭観(世)音」は旧道歩きでは、けっこう見かけます。それと同じ種類です。

りっぱな「大谷石」造りの蔵。  

合戦場宿」に入ります。      
合戦場宿
 戦国時代の大永3年(1523)、宇都宮忠綱と皆川宗成が合戦した川原田合戦に由来する。街道時代は本陣、脇本陣があり、飯盛女もいたことからそれなりに賑わった宿場であったが、宿場時代が終わると他の宿場と同様に静かな町並みに変わってしまいました。

 右手の民家の前に石碑。「小平浪平生誕地碑 日立製作所の創業者小平浪平翁はこの地で明治7年1月15日生まれた。この碑はこれを記念して昭和35年に建立されたものである。」とあります。
 

解説板。
・・・小平浪平は東京帝国大学工学科卒業後、秋田県の小坂鉱山に入社、その後数社を転職して最後の日立鉱山を辞し明治43年(1910)日立製作所を創設した。
 日本の工業技術を世界に高めた日立製作所の社是は「以和為貴」であり、これは日立精神の柱として現在も息づいている。・・・

街並みを振り返る。

(14:20)左に折れると、東武日光線「合戦場」駅。
 上りの電車がもうすぐ来るようですが、帰る時間にはまだ早い、もう少し歩こうと、再び街道に戻り、コンビニのところで休憩し、再開。

 (14:40)本陣などがあったので、何か手がかりはないかと。案内表示もなくどこか分からないままに進みます。


                      

「庚申塔」「大先祖中島霊神」。

 
これは「馬頭観世音」                      通りの向こうにも石塔。けっこう目につきます。

(14:50)「升塚」の案内表示。

 案内板に従って右へ入ると小山があります。ここは「升塚」と呼ばれる戦死者を弔った塚。


解説板。
 今から483年前大永3年(1523)11月3日、皆川城主宗成とその嫡子成勝は川原田を中心に陣を張り宇都宮城主忠綱の軍勢1800余を迎え討った。両軍は譲らず大混戦となり、その雌雄決せず、翌日小山、結城、壬生の援軍を得て、宇都宮勢を敗走させた。この戦いで、皆川勢は宗成以下37人、小山勢13人、壬生勢10人、宇都宮勢は250人の死者を出し、里人はこの戦死者をを一箇所に集め弔ったと伝えられている。・・・

平成18年1月1日作成 都賀町教育委員会

 

 升塚のちょっと先から旧道に入っていくが再び県道に合流。(15:00)合流直前に 「地蔵堂」があります。宿の出入口に赤いお堂がある、というのがこの付近の宿場の特徴のようです。
 

県道に合流すると、田んぼが広がってきます。

所々に古い建物。

実り始めた稲。

(15:15)「家中」に着きます。左手に東武日光線の「家中」駅。もう一駅「東武金崎」まで進むことにします。

     
     
      
1880年代のようす。                    2010年代のようす。下方の一部以外は、県道3号線が例幣使街道にあてはまる。 
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その5。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-29 20:48:36 | 日光例幣使街道
                                左手、「舘野家住宅店舗」。昭和7年建設。

 (13:01)「万町」交差点を左に曲がり、すぐ右手に入って行きます。その角に大きな案内図。
                 
                    「嘉右衛門町重要伝統的建造物群保存地区」案内図

 保存地区は、栃木市の中心部(旧栃木宿)の北に位置し、天正年間(1573年~1592年)に新田開発され、その後発展した嘉右衛門新田村を起源としています。
 地区の西側には巴波川が流れ、地区の中央には南北に日光例幣使街道が通り、江戸時代から商家が軒を連ねていました。
 保存地区は、日光例幣使街道に沿って形成された敷地割をよく残し、江戸時代末期から近代にかけて建築された見世蔵や真壁造り店舗、土蔵などの伝統的建造物が残り、街道沿いに発展した在郷町の特色ある歴史的景観を伝えています。

 「東海道」にもあったような宿場通りという印象で、なかなか落ち着いた風情の家並みが続きます。電柱がなければ、なおすばらしい。
 
                                             洒落た郵便受け。
建築中のおうちも伝統に沿ったつくり。「昔の仕事を今に伝える とちぎ蔵の街」。意気込みやよし。

「岡田記念南館」。

                             

道の曲がり具合も旧道らしく。振り返って望む。

苺問屋 いちご屋」。
 一年を通じて生苺を販売!蔵の街とちぎの【いちごの専門店】
 いちごの出荷組合協賛の直売所です!店内には通年販売の生いちごをはじめ、苺ジャム・地元産旬野菜・県内産万能ソースなども並びます。シーズンには夏季専用なつおとめのかき氷も登場!いちご王国とちぎのいちご、季節を問わず一年を通じてお楽しみください
  (HPより)


(13:07)すぐ右手に岡田家の大きな屋敷。畠山氏の陣屋となっていました。現在は「岡田記念館」。
                        畠山陣屋跡」碑。

 当岡田家は遠くは京都三条の出と言われています。後醍醐天皇が滋賀に行幸なされお病気になられた際、オオバコを煎じて献上したところ、たちどころに病がお治りになった功績から、天皇から家紋を賜わりました。下の写真がその家紋でオオバコを意匠としたものです。
           
 武士として後醍醐天皇に仕えていましたが、天皇が隠岐の島に流された後、足利幕府に仕えました。江戸時代慶長の頃帰農し、士豪として栃木に移住しました。栃木の荒地を開墾し、徳川家から「嘉右衛門新田村」という名称を賜り、以後代々の当主は嘉右衛門を襲名し、当代で26代となります。当地の嘉右衛門という地名の由来となっております。
 日光例幣使街道の開設に伴って名主役を、また畠山氏の知行となると屋敷内に13ケ村の陣屋が設けられ代官職を代行するなど、地域発展のために寄与しました。
 一方歴代当主は芸術面にも関心が深く、巴波川の舟運や街道の往還を通して、文人、墨客が訪れていました。明治時代には画家富岡鉄斎との特別な親交があったのは特筆すべきことです。蔵には、この鉄斎作で栃木県文化財の韓信堪忍図をはじめ、文人の松根東洋城、陶芸家の板谷波山、竹芸家の飯塚琅斉等の作品が展示してあります。
 また、宝暦10年から146年分の日記も保存されています。この、岡田家の古文書から、幕末に江戸城大奥に「美恵」「るい」という二人の娘が行儀見習いに上がったことが記されていました。大奥には幕臣の子女が奉公に上がることがほとんどだったのですが、地方の豪農商の娘が礼儀作法や高い教養を身に着けるために江戸城に奉公することは稀ながらあったそうです。ちょうど「篤姫」の時代でした。
 岡田家の中興と言われる22代の当主は雅趣に富み、隠居後70歳で別荘建築を発起しました。銘木を吟味し、練達の工匠が技を競い合って作り上げた別荘が翁島です。大正建築を代表する建物で国の登録文化財に指定されています。
 この岡田記念館は25代当主が、邸内を広く一般に開放し、岡田家所蔵の品々を展示することにより栃木市の観光に寄与しようと昭和53年6月に開館しました。現在まで多数の観光客が訪れました。、また近年はテレビ、映画のロケ地としても利用され、西田敏行さん、宮沢りえさん、黒木瞳さん、本木雅弘さんなど、数多くの芸能人の方が撮影にいらっしゃっています。
                         

(以上、「岡田記念館ホームページ 旧家の魅力」 〒328-0072 栃木市嘉右衛門町1-12TEL0282(22)0001より)

 なお、岡田家の現当主・26代嘉右衛門氏は、栃木駅前で「岡田皮フ科耳鼻咽喉科クリニック」を開業しているそうです。

先に進みます。 

その先には、道標を兼ねた「庚申塔」。「右 小作道 日光道 左 三日月道」とあるとのこと。


                  「日光例幣使道」。

 (13:21)左手に「味噌・田楽 油屋傳兵衛」。創業天明元年(1781年)とあります。通称「あぶでん」。


                       

 江戸天明元年に油屋として創業し、江戸末期より味噌の製造をはじめました。天然醸造の味噌を使った田楽は深みのある味です。
 (投稿より)

来た道を振り返る。すてきな散策路。

大島肥料店」見世蔵。
 大島家は、江戸末期から肥料商を営んできた旧家で、旧日光例幣使街道に面した見世蔵(店舗)は、棟札より初代元平が明治15年に建設したことがわかる。・・・1階内部には帳場・箱階段及び押入を設け、その他は土間としている。・・・栃木市の商業の最盛期に当たる明治前期に建設された典型的な見世蔵は、市内でも数少ない事例であり、大変貴重なものとなっている。・・・

 (13:21)その先が二股になっていて、「日光例幣使街道」の新しい道標があります。「→日光道 ←足尾道」とあります。
 
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さくらももこさん追悼。

2018-08-28 20:30:36 | 世間世界
                          (「ちびまる子ちゃん」オフィシャルサイトより) 

 『ちびまる子ちゃん』で知られる漫画家のさくらももこさんが、乳がんのため15日に死去したことが27日、公表されました。享年53歳。若すぎる死です。

 「旧東海道」歩きで清水を通った時に「ちびまる子ちゃん」に触れました。というか、引用しました。それを再掲します。

《2015年1月22日投稿》
・・・

 「追分羊羹」のお店。
   

 「追分羊羹」といえば、「ちびまる子」ちゃんの地元。お店の裏手にある小学校「入江小学校(現在は「清水入江小学校」)」が舞台。

ちびまる子ちゃんと入江小学校
 
1.清水市立入江小学校
 清水市街に比較的近い静閑な場所に位置する小学校です。 入江小学校のすぐそばには、旧東海道があり現在も多くの車が行き来しています。
 学校自体の特色というものはこれと言ってありませんが、 原作ちびまる子ちゃんで登場している運動会での沖縄民謡披露や、 ちょっと変わった仮装行列などは実際に在学当時に行われていました。
 また静岡県に多くの被害をもたらした七夕豪雨では、原作通り入江小学校にも被害をもたらしました。 校舎1階は浸水し、かなりの被害が出ています。
 ちびまる子ちゃんに登場する多くのキャラクター達も入江小学校から生み出されています。 さくらさんがエッセイで話されているように、ハマジ、たまちゃん、カヨちゃん、ケンタなどは実在し、 ブー太郎などはそれっぽいキャラクターが当時居たと言っています。花輪君については、小学校時代だけでなく、今までの人生の中で出会ったキャラクターがミックスされて出来上がったキャラクターだと話されています。
 花輪くん、丸尾くんについては、小学生当時に非常に似た名前の人がおり、 私の視点から見てもこの人がモデルかなって思う人は実在していました。
 
2.入江小学校の付近 ~文進堂~
 入江小学校正門のすぐそばにある文房具店です。現在は残念ながら、お店は閉められていますが在学当時はよくお世話になったお店の1つです。さくらさんも家の方向から、この正門側にある文進堂でお世話になっていたのだと思います。学校の裏門側にも、文房具店が1軒あります。
 文進堂は、アニメの方でたまに登場してきます。”まる子、こずかい帳をつける”のエピソードでは、 まるちゃん、たまちゃん、藤木の3人で文進堂で小遣い帳を買った設定になっていました。
 
3.入江小学校の付近 ~追分羊羹~
 アニメでは清水名物としてたびたび登場する追分羊羹の本店です。お店は旧東海道沿いに位置しており、住所もズバリ清水市追分です。この追分羊羹本店付近は住宅街と言った感じで、ここより西側にはお店といったものは余りありません。 逆に東側にはスーパーなどが多くあり、大きな交差点を隔てて更に東に向かうと入江商店街へと入っていきます。
 この追分羊羹と言えば、やはり羊羹ですが和菓子なども販売しています。 ちびまる子ちゃん効果があったのか判りませんが、 たまに大型バスで観光客の方達が買いにみえていることがあります。

4.入江小学校の付近 ~通学路~
 さくらさんの自宅は、この入江小学校から東に10分ほど歩いた場所にあります。追分羊羹のある旧東海道を歩いて行けばいいのですが、道幅の関係から歩道の整備はされておらず、住宅街の路地を通学路とするように小学校から指導されていました。
 アニメや漫画では、たまちゃんといつも一緒に通っている設定になっていますが、家の方向は一緒なのですが、たまちゃんの家の方が小学校からは圧倒的に近い距離にあります。

(www.geocities.co.jp/HeartLand/8752/chibi_s_01.htm)HPより

 お店からすぐ先のところに、清水の次郎長に討たれた侠客・都田(通称都鳥)吉兵衛の供養塔がある。
   

都田吉兵衛供養塔
 春まだ浅き文久元年(1861)正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。
 此處を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。

 入江まちづくり推進協議会 清水観光協会

 一本、卒塔婆が立てられていた。

・・・
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その4。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-27 20:08:50 | 日光例幣使街道
                                 新旧混じった家並み。

 度重なる大火、特に幕末の戦乱などによって市街地(特に南側)はほとんど焼け尽くされてしまい、江戸時代の建物、遺跡はほとんど残っていません。もともと栃木宿の規模は、本陣1,旅籠8ほどの宿場としては小規模だったようです。
 建物の多くは明治に入ってからのもの。それにしても見事な蔵造り、見世蔵が数多くあります。水運の街として栄えた当時が偲ばれます。現在は、「小江戸」として観光中心にシフト、外国人観光客など賑わっています。  

 明治時代の見世蔵や新しい建物に混じって、昭和初期にはやった看板建築(木造モルタル造り)も残っているようです。
   

街巡りの観光案内板。
                   街道筋から少し横道に入ったところに見所があるようです。次の機会に譲り、メインストリートを歩きます。

さて一休みと、手近な「観光総合案内所」に。

(12:29)地ビールを飲んで、おにぎりを。



                     (12:45)「阿部呉服店」。

八百熊」。

蔵の街観光館」。元「八百金」見世蔵。脇の道の突き当たりには「神明宮」。

あだち好古館」土蔵倉庫。

好古壱番館」。元は「足立呉服店」店舗。
                          このおそば屋さんに入ろうと思っていたのですが、満席で、かなりの時間待ち。残念!

 その向かい側には、「山車会館」、隣が「蔵の街美術館」と並んでいますが、残念ながらパス!

旅館「かな半」。 
 栃木市の中心に位置する「かな半旅館」は、江戸安永年間創業の歴史のある旅館です。 大正7年、陸軍大演習が栃木中学校(現:栃木高校)で行われる際に、士官を泊めるために建てられた建物が、客室では一番古い建物になっております。その後、閑院宮もお泊りになりました。
 館内にはその歴史を偲ばせる蔵や建築が所々に見られ、懐かしさを感じながらゆったりとお過ごしいただけます。
 歴史と気品ある旅館ですが、女将が笑顔でお出迎え。ほっと癒される安心感があり、気軽に立ち寄っていただけるフレンドリーなお宿です。
 当館は蔵の街栃木のほぼ中心にあり、観光めぐりの拠点に大変便利です。是非、ご利用くださいませ。お待ち致しております。
 
(「かな半」HPより)

 ここの昼食もよさそうですが、要予約でした。



         山本有三ふるさと記念館」。
                       「山本有三生誕の地」碑。

文豪山本有三(1887~1974)は、栃木町に生まれ、栃木尋常高等小学校に学びました。実家は、記念館に隣接する蔵造りの家といわれています。商人だった父に、呉服屋へ奉公させられながらも、勉学を志して上京し、文学の道に励みました。
 人間を愛し信じ、真実一路の人々を戯曲や小説に描き、人々に生きる力や勇気を与えて親しまれました。また、国会議員として国語国字の改良を断行し、生涯にわたって青少年の育成に情熱を傾けました。1965年に文化勲章を受章しています。
 有三は今、近くの寺のお墓に静かに眠っています。
 山本有三ふるさと記念館は、有三の精神を顕彰しつつ、青少年の健やかな成長を願って、地域文化の向上をめざして、有三自筆の原稿や手紙、初版本、愛用の調度品などを展示しています。

三鷹には山本有三の旧居が「山本有三記念館」として残されています。(「Wikipedia」より)

                                

三鷹で「山本有三、作家の遍歴」展 晩年までの多彩な活動紹介
08月22日 23:05(みんなの経済新聞ネットワーク)より

 三鷹の山本有三記念館(三鷹市下連雀2、TEL 0422-42-6233)で現在、リニューアルオープン記念の企画展「山本有三、作家の遍歴」が開催されている。(吉祥寺経済新聞)
 同展は小説家・山本有三が明治・大正・昭和を、劇作家、小説家、参議院議員としてどのように生きたかに注目。「遍歴」として足跡を紹介するもの。主催は公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団と三鷹市。
 学芸員の三浦穂高さんは「山本有三は劇作家から出発し、新聞小説で国民的作品を発表した。戦後は文化人として社会的な役割を果たそうとし、最後は未完のまま絶筆となった小説『濁流』の執筆にたどり着くまでを『遍歴』としてまとめて伝えたかった」と企画を手掛けた理由を話す。
 展示は2階で数々の自筆原稿や初版本を並べた3部構成となる。旧洋室書斎の展示室Cには「戯曲作家、有三」と題して、遍歴の出発点となる戯曲を書き始める経緯を説明。1920(大正9)年に発表した戯曲「生命の冠」などを展示する。
 旧書庫の展示室Dには「新聞小説作家として」と題して劇作家ゆえに分かりやすい文章が書けることを見込まれ菊池寛の勧めで1926(大正15)年に書き始めた小説「路傍の石」、「女の一生」、「真実一路」などを紹介。創作活動以外で取り組んだ山本有三編集の国語教科書も展示する。
 妻と次女・三女の部屋だった展示室Fには、「晩年作『濁流へ』」として参議院議員の任期を1953(昭和28)年に終えた後1973(昭和48)年に小説「濁流 雑談 近衛文麿」を毎日新聞に連載するまでの背景などを解説する。
 三浦さんは「『君たちはどう生きるか(吉野源三郎著)』は山本有三が編さんした子ども向けの教養書シリーズ『少国民文庫』」」(全16巻)に収録された本。山本有三の小説には普遍性があり、今読んでも共感できる。企画展を見ることで、本を手に取って読む人を増やしたい」と来館を呼び掛ける。
 同館は山本有三が1936(昭和11)年から1946(昭和21)まで家族と共に暮らした家。玉川上水沿いに立つ2階建て洋風建築で、マントルピース(暖炉)が3つある。三鷹市文化財指定で、今回のリニューアル工事では応接間に壁を追加するなど耐震を強化した。受け付けでは「路傍の石」(1,050円)、「真実一路」(767円)、「心に太陽を持て」(594円ブラウザーゲーム文豪とアルケミスト限定プレミアムカバー)などの文庫本を販売する。

 開館時間は9時30分〜17時。月曜休館(祝日の場合開館、翌日・翌々日休館)。入館料300円。2018年9月2日まで。 

 通りを渡って西に行くと、「巴波川」沿いに蔵造りのすてきな風景が広がりますが・・・。



                         

「栃木信用金庫本店」の通用門。

とちぎ歌麿館」。
「古久磯提灯店見世蔵」を活かし、歌麿とその時代の関連資料(浮世絵の復刻版など)を展示する「まちなか美術館」として設置された、とのこと。

 喜多川歌麿は、葛飾北斎と並び称される浮世絵師。美人画の大家。実は、生年、出生地、出身地など不明で、特に出身地に関しては、川越と江戸市中の2説が論争されており、他にも京、大坂、栃木などがあるようです。
 栃木とのつながりでは、

 栃木は江戸時代に京都から日光東照宮への奉幣使が毎年通る例幣使街道の宿場町として、また江戸へ通じる巴波川の舟運の要所としても栄えました。江戸と交流のあった栃木は、文化でもその影響を受け、狂歌が盛んになりました。狂歌とは、5・7・5・7・7の音で構成された短歌に、風刺や滑稽を読み込んだものです。自らも筆綾丸の狂歌名を持つ歌麿は、栃木の豪商と狂歌を通じて交流を持ち、歌麿の浮世絵版画の中には、栃木の狂歌師の狂歌が入ったものがいくつか見受けられます。
 歌麿は、豪商釜喜の4代目善野喜兵衛(狂歌名:通用亭徳成)と親しく、その叔父にあたる善野伊兵衛(初代釜伊)の依頼で、肉筆画大作「深川の雪」・「品川の月」・「吉原の花」を描いたと伝えられています。画面の大きさや制作年代は少しずつ違いますが、いずれも紙本着色の大幅で、遊廓での様子が描かれています。
 明治12年(1879)11月23日、定願寺(現在の栃木市旭町地内)において、近隣諸家の所有する書画の展観があり、「雪」「月」「花」が出品されました。
 その後明治の中頃に「雪」「月」「花」は栃木を離れ、現在「月」はフリーア美術館、「花」はワズワース・アセーニアム美術館、「雪」は箱根の岡田美術館に収蔵されています。
 (HPより)

(「Wikipedia」より)

下野新聞社栃木支局」。

付記
 本建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。毛塚家は、江戸中期後半から昭和初期まで続いた県内きっての肥料・麻苧の豪商であり「栃木の毛惣」とまでいわれた。表通りの「見世蔵」は2代目惣八が1861(文久元)年6月に建築したもので、直径40センチを超える長さ9メートルの松の梁には「文久元年辛酉六月吉日、毛塚二代目惣八建立 棟梁鈴木七右衛門作 仕事使関口幸助」と記してある。
 1999年3月の創刊115周年を記念して当見世蔵を支局とした。


                       

 その向かいにある「栃木市役所」は、2014年に「福田屋百貨店栃木店」が撤退した建物に全面移転したもの。「TOBU」が同居しています。
 

 
栃木市散策ガイドアプリ 蔵ミュゼ~蔵の街まるごとミュージアム~
㉚旧足利銀行栃木支店

(12:58)そろそろ栃木宿は万町交番前の交差点で終わりになります。蔵造りの「万町交番」。

櫻井肥料店」。

                      

 駆け足での栃木宿通過。涼しくなった頃にゆっくりと散策することにしましょう。



1880年代のようす。○が万町から嘉右衛門町(「例幣使街道」)への分岐点付近。右に伸びる道は「宇都宮」への道。



2010年代のようす。嘉右衛門町通りは今もはっきりしています。
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-24 21:21:04 | 日光例幣使街道
                       見世蔵。「五十畑荒物店」。手前には「井岡荒物店」。明治中期の建物。

 栃木宿「蔵の街」に期待しながら進みます。
  

右手に「東武日光線」の高架が。

(11:23)引き続き「JR両毛線」の高架下を通ります。

 ①道なりに進み、突き当たったら、左に折れます。
 ②広い「県道31号線」を渡り、その先を右に少し進み、小さな水路のところを左に曲がります。
 ③その先に、「例幣使街道」と木製の案内板があります。その指示に従って右に折れていきます。

「県道31号線」。

右手には「とちしん」のすてきな店舗。

水路脇の大谷石造りの建物のところを左折。


                   来た道を振り返る。


(11:36)りっぱな木製の案内板。
 「東へ(約三百メートル)旧沼和田村川間の分去れから左へ巴波(うずま)川大橋を渡り栃木町を経て日光・宇都宮方面へ 右へ 小林村・乙女河岸を経て江戸みちあり 西へ 富田・犬伏・梁田宿から木曽路を経て京都に至る 大平山神社に至る旧参道・一里(約四キロ) 」とあります。

 そこで、右に折れますが、そのまま少し進むと、「巴波川綱手道」に出ます。
 「日光例幣使街道」歩きでは「巴波川」に接するのは、宿入口にあたる「開明橋」しかないようです。じっくり歩き回るのは別の機会にしておくことにします。そこで、ちょっと紹介を。

                           

            「巴波(うずま)川」

「ウズを巻き、波を立てて流れる」という意味に由来する。近世には「字津間川」、「鶉妻川」などとも表記された。
 中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、栃木市内には蔵造りの建造物が多く残り「蔵の街」として親しまれている。舟運の始まりは、江戸時代に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、日光御用の荷物を栃木河岸に陸揚げしたことが端緒である。その後、物資の集散地として江戸との交易で隆盛を極めた。現在は、錦鯉が放流されており、船頭による舟歌が楽しめる観光用の舟が行き来する。
 ナマズの民話があり、そのナマズを模したしゃもじの郷土玩具がある。
明治時代に堤防が築かれる以前はたびたび氾濫し、橋をかけても2年ともたないと言われたほどであった。氾濫を鎮めるために人柱を立てたという伝説も残っており、「巴波川悲話」として栃木市の塚田歴史伝説館などで紹介されている。また、1947年(昭和22年)のカスリーン台風襲来の際には大洪水となり、多くの被災者を出した。
(以上、「Wikipedia」より)

栃木の歴史の中心
 幕末期から昭和初期に栄えた問屋町、北関東の商都と呼ばれた栃木市を支えた巴波川(うずまがわ)。
 巴波川舟運の発達により、東京、埼玉、千葉、茨城などへの物資輸送だけでなく、関東と南東北の流通を結ぶ結節点として、問屋業、製造業発展を支えた。
 栃木市の発展に大きな役割をはたしてきた巴波川(うずまがわ)の舟運は、元和3年(1617)、徳川家康の霊柩を久能山から日光山へ改装した際、御用荷物などを栃木河岸に陸上げしたことにはじまる。
 その後、物資の集散地として、部賀舟(べがぶね)などが往来し、江戸との交易を盛んにした。
    (「栃木市観光協会」HPより)

 具体的な舟便の経路は、以下の通り。

巴波川舟運
 巴波川舟運とは、現在の栃木地域栃木河岸(上流の平柳河岸、片柳河岸、栃木河岸の三カ所をまとめて栃木河岸といいます)から現在の藤岡地域にあった部屋(へや)・新波(にっぱ)河岸までの間を、部賀(べか)舟《都賀(つが)舟とも》という底の浅い小舟を利用して、荷物を輸送することをいいます。
 栃木河岸で積み込まれた荷物は、部屋、新波河岸で大型の川舟(高瀬舟)に積み替えられて、思川(おもいかわ)・渡良瀬川を経て利根川を通り、江
戸川を南に下り、船堀川・小名木川を通って、隅田川沿岸にある江戸の河岸に陸揚げされました。

(「栃木市のあゆみ」栃木市教育委員会から)

川越、栃木、香取から江戸・日本橋への水運。

巴波川 綱手道
 かつては、湧水もあり流れも速かったため、江戸からの帰路は麻綱で舟を曳いてきました。川沿いの曳道が綱手道です。川沿いには甍を並べる舟積問屋や豪商の倉庫が当時の面影を漂わせています。(「栃木市観光協会」HPより)

 また街道に戻って案内板を左に折れると

(11:43)その先にも黒塗りの案内表示。「東(約二百五十メートル)川間の分去れから左へ。栃木町・日光・宇都宮方面 右へ 江戸みち 西 犬伏宿佐野街道と木曽路・京都へのみち 太平山神社旧参道 北 境橋・相生橋を経て栃木町に至る」とあります。
 「例幣使街道」は、指示通り直進します。


次は「みつわ横丁 歌麿と歴史の道」への標柱

この小路は「歌麿通り」とも。

さらに駅から来る大通り手前にも案内表示があります。
                              「例幣使街道」はそのまま突っ切って行きますが、右に折れると、「栃木駅」。

 そこで、栃木駅に寄って、少し休憩。(11:50)駅前広場には山本有三の文学碑。
            

                     たったひとりしかない自分を、
                たった一度しかない一生を、
                ほんとうに生かせなかったら、
               人間、生まれてきたかいがないじゃないか。

                     山本有三作 路傍の石より


(12:02)さて再開。「みつわ横丁」の入口。

 さきほどの案内表示の指示通り、大通りを横切り、細い道へ。しばらく行くと、「県道31号線」に合流。少し先の交差点を左に折れていきます。

その先には「巴波川」に架かる「開明橋」。

(12:12)「開明橋」のところには、「栃木宿」の木戸が設けられていたそうです。

橋の向こうには古民家があります。いよいよ「栃木宿」に入ります。

栃木宿
 日光例幣使街道で倉賀野から13番目の宿場である。栃木河岸(とちぎかし)があり、巴波川(うずまがわ)の舟運の拠点として栄えた。現在の栃木県栃木市の市街地付近にあった。
 天正19年(1591年)、皆川広照によって栃木城(現在の城内町のあたり)が築かれると、広照による城下町の建設が始まった。栃木町も当初はその城下町として発展したが、慶長14年(1609年)に広照が改易されると、栃木城も廃城となり、城下町としての機能は消失した。
 天保4年(1647年)に日光例幣使の派遣が始まると、栃木町は栃木宿として街道の宿場町に定められ、人の往来がさらに盛んになった。また、脇街道によって宇都宮につながったり、会津方面へ通じたりする要所にもなった。
 幕末は多難であった。弘化3年(1846年)、嘉永2年(1849年)、文久2年(1862年)の3度にわたり大火に見舞われ、元治元年(1864年)6月6日には水戸天狗党の田中愿蔵による焼き討ちで町の南半分を焼失した。これらに加えて物価の上昇もあり、民衆は苦しい生活をしいられた。
 慶応3年(1867年)12月、小川節斎(竹内啓)を首領とする一団が出流山満願寺で挙兵した際、そのうちの数名が軍資金の要求に来て、脇本陣に滞在した。愿蔵火事の二の舞が危ぶまれたが、陣屋を預かっていた善野司や関東取締出役渋谷鷲郎らの対応によって騒動は鎮圧された(出流山挙兵)。
 巴波川の流域にある栃木河岸は、徳川家康の遺骸を日光へ移した際、江戸からの荷物を舟で運んだのが始まりという。栃木から本澤河岸を経て部屋河岸及びその対岸の新波河岸までは都賀舟、それより下流は高瀬舟を使った。明治時代になると、鉄道の開通により舟運は下火になった。

(以上、「Wikipedia」参照。)

     
     
1880年代のようす。○が「分去れ」。→が「巴波川」。      2010年代のようす。→が「開明橋」。宿場時代はその下方に橋。
              中央のメインストリート沿いが、今も昔も市街地の中心です。

 室町交差点を右折すると、「蔵の街大通り」に入っていきます。

 
(12:17)「三桝屋本店」。創業嘉永元年(1848)の人形店。
                          
                                「毛塚紙店」。創業江戸中期の老舗。

 という具合に見所、満載です。ちょうど昼時なのでちょっとどこかで、と探しながらの探索。
  「巴波の川風 蔵の瓦波」。
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その2。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-23 21:07:35 | 日光例幣使街道
                                  旧「大平下病院」。

 さて、再開。車はけっこう通りますが、人通りはなし。新しい住宅も目立ちますが、空き地も。宿場特有の間口が狭く、奥行きがかなりある土地。
    
    
1880年代のようす。               2010年代のようす。○が「富田」交差点。右に、東武「新大平下」駅。

「売物件」。使い勝手は悪そうですが。

「八坂神社」前のある見事に? 曲がった樹木。

ところどころに残る古いつくりのおうち。

(10:08)洋館風の「早乙女醫院」の建物。

その先にも古風な洋館建て。「旧大平下病院」。


左手にある建物。重厚な趣き。

「大平山(太平山)」への道。ここには、何度か登ったことがあります。

“陸の松島”といわれる眺望 四季の風情を楽しみながらのハイク
HPより)
 県立公園にも指定されている太平山は、標高約340mの関東平野の切れ目に位置する小高い山です。標高自体たいしたことはありませんが、南がすべて関東平野であるためその眺望は抜群。
 戦国時代、関東管領上杉氏を襲名した戦国武将上杉謙信も、その眺望の見事さに感嘆し、現在も、謙信平の地名が残されています。また、渡良瀬川・古利根川の合間に丘陵が見えることから、その眺望は“陸の松島”ともよばれました。また、太平山が人を魅了するのが花。特に桜は“日本桜の名所百選”にも選ばれ、“あじさい坂”のあじさいも有名です。そして太平山は味でも有名。玉子焼、焼き鳥、太平だんごは訪れる人が何度も求める逸品ばかりです。

 そういえば、あじさいを見に来たことがあります。(「太平山神社」HPより)



                       街道筋らしい建物。

 その先、交差点の右手に赤いお堂。宿場の入口にもあったようなお堂。このあたりが「富田宿」の終わりなのでしょう。

(10:19)そこから宿内を振り返る。

 この先は「ぶどう団地入口」交差点で、県道11号線バイパスの広い道路に合流します。旧道は「永野川」の手前まで、右の住宅街(かつては田んぼ)の中を進んでいたようですが、・・・。左手に電気店や薬屋さんなど大型店舗が立ち並ぶ県道を進むことにします。

広い駐車場の向こうには「太平山」。山麓には「ぶどう園」がいくつも。

           向こう側、正面の細い道が旧道?

    
    
1880年代のようす。道はくねくね曲がっています。   2010年代のようす。造成地は現在、住宅地に。右上に現「永久橋」。

 (10:44)「永野川」に架かる左手の古い橋「永久橋」を進みます。その先も旧道は不明なので、土手に沿って歩きます。


                     「永久橋」。



    まもなく実りの季節を迎える田んぼ。

右手遠くには筑波山が見えます。(↓)。

 (10:57)日差しの強くなってきた道をしばらく進むと、右手に森が。「川連(かわつれ)天満宮」が見えてきます。


この一帯は、「川連城」があった場所で、説明板があります。

                   
大平町史跡 川連城跡
 町内川連の一部と栃木市片柳町にまたがって位置する川連城は、応仁年間(1467頃)川連仲利が築城したが、永禄6年(1563)皆川俊宗によって占領され、その後修築されたといわれる複郭の平城で、東西380㍍、南北500㍍という大規模なものである。俊宗は川連城を占領すると太平山の中腹にあった星住山円通寺を川連へ移した。そして幾多の戦いに討ち死にした家臣菩提のため川連村の阿弥陀堂で常念物を供養した。その後、天正年間(1573~1591)に徳川氏の政策によって2ヶ寺は栃木に移された。現在の栃木市円通寺と定願寺がそれである。
 城の南側には城下繁栄策により村が形成されたが、江戸時代になると例幣使街道が通過し、富田宿と栃木宿をつなぐ中継点となった。
 川連城跡は昭和56年の県道宇都宮ー藤岡線バイパス道路工事や土地改良などによって、現在その遺構の大半は消滅した。

 その県道を渡ってしばらく進むと、東武日光線の踏切が見えてきます。(11:07)その手前、「栃木翔南高校入口」信号を左に折れていきます。
 

「栃木宿」への道。


1880年代のようす。「川連天満宮」は記されていません。


2010年代のようす。今も周囲には田畑が広がっています。
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JR両毛線「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅。その1。(「日光例幣使街道」。第5日目。)

2018-08-22 21:33:04 | 日光例幣使街道
                                 (8:39)道標。「岩舟停車場 犬伏佐野方面 栃木小山方面」とあります。

 ホームステイの青年もいよいよ我が家から勤める高校近くのアパートに引っ越し。そんな慌ただしい(はずの)本人は、それでもいたってマイペースな8月18日(土)。

 明けて、19日(日)晴れ。

 長く続いた熱波も少しおさまったようで、歩きやすい空模様。気温も30℃を下回る予定。
 再び、「日光例幣使街道」の続き。JR両毛線「岩舟」駅から東武日光線「東武金崎」駅までと、でかけます。

 3ヶ所、県道から左へ入る旧道があります。その2番目。「岩舟中学校←」の看板から左の小道へ。


                       

「岩船山」が左手奥に。

3番目はコンビニの先を入ります。コンビニで買い物。

                       

(8:58)県道との合流点に「御菓子司 蛸屋」。

 「和泉」交差点の先を左に入ります。街道は今まで西から東に進んでいましたが、ここからは日光を目指し、ほぼ北向きに歩くことになります。


                              

(9:07)「ふじや」さん。立派な蔵があります。

               

   
   
1880年代のようす。○が左折点。             2010年代のようす。

住宅地を進みます。



      葉っぱが真っ白に縁取りされ、印象的。何という植物? 

 左手にある神社の脇を進む。
  

 「県道11号線」に合流。横断して左斜めに進みます。
来た道を振り返る。

                        左手、弓形にカーブする道。

周囲に運輸倉庫などが続く中、里山が残っています。

栗の実がたわわに。

 (9:35)しばらく進み、再び県道と合流。横断してコンビニの脇を進みます。
 
                                              来た道を振り返る。
田んぼの緑が鮮やか。

日光例幣使街道」の標識(↓)。

しかし、この道ではなく、旧道はその先の公園のところを左折します。

   
1880年代のようす。             2010年代のようす。↑が旧道にあたる。

そのまま進み、左からの道との合流点・右手に、赤い屋根のお堂。ここが「富田宿」の入口にあたるところで、木戸が設けられていました。


                      

(9:45)「富田(とみだ)宿」。
注:「富田」を「とんだ」と読む資料もある。現在の地名表示では「とみだ」、JR両毛線の駅名は「とみた」。

 富田宿が例幣使街道の宿駅となったのは、公式には正保3年(1646)からであるが、実際には元和3年(1617)徳川家康の霊柩を日光に埋葬する為、3月29日霊柩を奉護する行列がこの地を通行したときにはじまるということが出来る。
 富田村の中を通過する往還の長さは「25町58間」(約2.83㎞)、そしてこの内富田宿を形成するのが「12町12間」(約1.33㎞)、宿の入口と出口にそれぞれ木戸が設けられた。

宿内の家並み。

                           

 (9:55)「日光例幣使街道 富田宿本陣跡」(碑)。和久井家。
 

 「富田」交差点にベンチがあるので、そこで小休止。この交差点を右に行くと東武「新大平下」駅。「大平山ハイキング」で利用したことがあります。
注:「おおひら」の表記がものによって「平」と「平」と二つある。ちなみに神社の表記は「平山神社」。東武線、JR両毛線の駅名はどちらも「平」、町の名も「平」。        
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久々のホームステイ。ニュージーランドからの青年。9日~18日。

2018-08-20 22:10:37 | 世間世界
 去年は家を改築中のため、受け入れませんでしたが、今年は、と。
 「JETプログラム」=「語学指導等を行う外国青年招致事業(The Japan Exchange and Teaching Programme)の略で、外国青年を招致して地方自治体等で任用し、外国語教育の充実と地域の国際交流の推進を図る事業」つながりで、都立高校へ派遣される青年を受け入れました。多摩地区の高校に勤めることになっています。
 最初(3年前)の香港の青年は日本語学校に通う目的で来日。積極的に日本語をマスターしようと必死でした。帰国後もたどたどしい日本語でメールを送ってきます。この前来たときは、彼女を連れての来日。
 一昨年、アメリカ・サンフランシスコから来日した青年。やはり多摩地区の高校で教えてもう2年目も終わり、あと1年で契約終了。娘とのツイッターでは日本の夏休みをエンジョイしているようす。今年の春、我が家に来たときにはずいぶんと食生活を改めたようでした。
 来た当時、家での2週間は英会話はダメな小生も「一番搾り」「枝豆」だけはすぐ通じて、それからは毎晩、いい加減な会話をしながら、枝豆を食べ、一番搾りばかりを飲んでいましたが・・・。

 今回の青年は、ニュージーランドから初来日。25才。男性。化学検査技師の仕事をしているそうです。
 身長195㌢、体重90㌔。我が家の手狭な4畳半、さらにベッドも寸足らず。トイレも窮屈そう。果たしてどうなるか?

 ハミルトン郊外のピロンギア(村)からやってきました。
 「Googleマップ」で見たら、何と広大な敷地に大きな建物。道路からおうちのエントランスまで100㍍以上も続くアプローチ。その両側は芝生が一面に広がっています。「あら、芝刈りが大変そう」と一言。「ぼくの部屋はこれです。」と指さした平屋建ての建物は、我が家の敷地よりも大きいくらい。さらに「ベッドはこれからここまで」と指で示された大きさは4畳半の広さ。一同唖然!

 身体もでかいが、そんな環境の元では納得。何しろ自然豊かな土地柄。心身ともにゆとりがありそう。

 が、この青年。カニやエビはNo! 好物は肉、肉、肉。そして少しの野菜、という次第。
 お国は山の幸、海の幸の豊富なところ。何で? 

 朝と夕はこちらで提供することが条件。さて、と。まかない係は一苦労。前回は、納豆やらおくらやら何でも出したが、今回は。毎朝、ハムエッグ中心にパン食。おかげで、当方一家、納豆を食べる機会がなくなりました。

 歓迎会は、焼き肉屋さんで。最終日は、ホームパーティ。もちろん、肉料理中心。ピザやら唐揚げやら何やら、と。
 夕飯は、豚、牛、鳥と肉料理中心、そして、ご飯と味噌汁。味噌汁はけっこう気に入ったようです。箸の使い方が上手なのには、驚きました。でも、意外とフォークの使い方がたどたどしいのには、?

 息子が「ハイボール」を勧めたら、えらく気に入って、それを何度もお代わりをしています。日本酒はどうも口に合わないようす。ビールもさほど(ニュージーランドにもたくさんあるようですが)。

 12日はフリーなので、息子と孫と浅草に行き、ゲームセンターで太鼓を叩き、夕方からは息子チームの草野球試合に出場。そこで、ホームランを打ったとか。
 14日は、友人と飲みに。帰ってきたのが11時過ぎ。飲み過ぎた! と行ってご帰還。そんなことが2回ありました。

 研修で新宿に行ったり、都内見学(浅草と本所の防災館に行ったらしい)だったり、買い物をしたりとけっこう活発に出かけています。

 会話は、平仮名、カタカナ、そして簡単な漢字。山とか木とか。漫画で覚えたとか。その教材は、『ワン・ピース』。考えてみれば、漫画は基本、会話で話が進む。なるほど、と。
「ほんやくこんにゃく」が大活躍でした。

 故郷のニュージーランドは今、冬。氷河がある国。最高気温が16℃。そんなところからいきなり34、5℃、蒸し暑い土地に来たのだから、かなり参ったようす。

 我が家にいる間に、部屋探し、家具を揃えるなどして、さらに高校との打ち合わせ、住民票やらなにやら準備しなければなりません。そして、9月1日からの仕事に備える、とのこと。
 住まいは簡単に決まりましたが、家具、特にベッドが・・・。イケヤなどに行っても彼が満足するような大きなベッドは扱っていない、らしい。結局、床に寝ることにしたらしいですが、・・・。洗濯機なども買いそろえて準備万端のはず。

 しかし、お国柄なのか、ご本人の性分なのか、すべてのんびり、というか、おおらか。時間の観念がこちらのように「分」刻みではなくて、「時」刻み。まるで、沖縄のよう? 

 出かけるのものんびり。家を出る時間になっても、ベッド(小さくて気の毒でしたが)に寝転がって鼻歌を歌ったり、口笛を吹いたりして、スマフォを見ています。

 ある朝など、朝食を食べるのになんと1時間30分以上。あまりのんびり食べているので、家人がおつかいに出かけてしまった、でも、帰ってきてもまだ食べていたそうな。食パン2枚を大事に、大事に食べている?

 そういえば、浅草でラーメンを食べたとき、孫たちがすっかり食べ終えたのに、まだ半分くらい。「無理して食べなくてもいいよ」「いえ、おいしいです」と悠然と「担々麺」を食べていたそうな。

 せっかちな日本人(いや、我が一家)は、そのマイペースぶりには驚くばかり。

 最終日。

 午前中に退出して、新居のアパートに移るはずが、片付けやら詰め込みやらも、実にのんびり。片付けの途中で、ベッドに横になっている始末。「大丈夫なの」という声かけもなんのその。

 やっと12時過ぎ。ますます増えて、抱えきりないほどの荷物を持って駅に向かいました。

 「ありがとう。また戻ってきます。」と。「いつでもいらっしゃい。」・・・。

 花火をしたり、孫と遊んだり、にぎやかな10日間。

 ラグビー好きでひげもじゃの好青年でした。

 See You Again 

 昨日は、久々に納豆ご飯を食べました。
 
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東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その6。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-08-07 18:38:05 | 日光例幣使街道

                            (13:40)「県道67号線」に合流。左手から来ました。


(13:56)三叉路に地蔵堂。その横に道標があります。

                              

振り返って望む。           

「栃木市」入り。 

(14:01)右手に「三毳(みかも)山」。 

 

(14:20)馬頭観音。
              日差しも強くなり、だんだん暑くなってきます。どこかで休憩を、と思っても見つかりません。しばらく行くと、「ヤオハン岩舟店」さんが右手に。そこのカウンターで、アイスを食べながら大休止。炎天下の歩きは、さすがに要注意。 

(14:49)再開。この先、三カ所左の脇道(旧道)を進みます。その第1番目。 

                

左手奥に独特の山容をした「岩船山」。
                
大谷石造りの大きな倉庫。

立派な門構えのおうち。

                           

(15:00)「岩舟駅入口」交差点。今回はここまで。両毛線の駅に向かいます。

「岩船山」の麓に両毛線「岩舟駅」があります。

      ここから「佐野駅」まで戻り、東武伊勢崎線で帰ります。

 次回は、「富田」、「栃木」、「合戦場」と、たどる予定。
 

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東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その5。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-08-06 19:27:05 | 日光例幣使街道
                                 (12:29)正面に「妙願寺」。

  再び「例幣使道」を東に。「相生町」交差点を左折、北に進み「妙願寺」前を右折し、次の「犬伏(いぬぶし)」宿に向かいます。

沿道には古い商家など。

                            

「例幣使街道」によく見られる直線道路が続きます。

右手のお店の屋根には「甲州街道」で見かけた「雀おどし(おどり)」が。(↓)。

「雀おどし(おどり)」。

                    (上諏訪にて)。

 本棟造(ほんむねづくり)という長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾りが特徴。

蔵造りのおうち。

(12:47)「例幣使道犬伏宿(中町)」の看板。

「犬伏」宿に入りますが、これといった宿場時代を偲ぶものはなさそうです。

百科事典マイペディアの解説(「コトバンク」HPより)
犬伏【いぬぶし】
 下野国安蘇(あそ)郡内,現栃木県佐野市にあった日光例幣使(にっこうれいへいし)街道の宿。
 《宿村大概帳》によれば,西の天明(てんみょう)宿へは27町,その西の簗田(やなだ)宿(現栃木県足利市)へは3里,東の富田宿(現栃木県栃木市)へは2里27町の距離にある。加宿として西の堀米町があり,同町を合わせて犬伏宿が形成されていた。
 1764年、例幣使街道は道中奉行の支配となり,1766年定助郷(じょうすけごう)村が定められている。天明宿と近接していることから人馬継立は2宿で1宿並の扱いとなり,天保(1830年―1844年)末には簗田宿への継立のみ行っていた。
 1830年飯売旅籠の新規営業が認められ,翌年には営業が開始されたが,1833年天明・犬伏両宿の助郷村より新旅籠飯売女廃止の訴えが出され,以後周辺諸村の廃止運動が続いた。

 右手にある「犬伏小学校」が本陣跡のようです。向かいには、立派な門構えのお屋敷。


(12:55)「犬伏宿」の街並み。

補足 「犬伏」のいわれ
(1)
 古代大和時代にさかのぼって犬伏という地名があったといわれています。古老の話では大昔、この地に大猿が出て婦女子を餌食にするので、何とか防ぐ方法として年に1回の祭に娘を供養に出すことになってから被害は少なくなりましたが、年々娘たちが少なくなっても困るというところから、近江国より、ちょっぺ太郎という大犬をつれてきました。娘の代わりに供養に出したところ犬と猿との戦いによって、両者死に絶えました。それからは人畜に全く被害がなくなりました。これも太郎のおかげであるとのことから、或る丘に犬を埋め供養したことから、犬が丘に伏せているということが伝わり、犬伏町というに至ったものと伝えられています。
(2)
 その昔、豊作を願い人身御供が行われていましたが、山伏が娘に代え、犬を神社に供えたことを境に人身御供がなくなりこの地を犬伏と称するようになったといわれています。
(3)
 犬伏では、その年の豊作と引き換えに八幡神社への人身御供物して、若い娘を差し出すことになっていました。ある年、山伏が娘の代わりに犬を神社へ置いたら、翌朝絶命しており、それから人身御供がなくなってこの土地を犬伏と称したといわれています。
(4)
 古来から、犬臥町または犬伏村と称したようですが一定していません。明和元年から日光例幣使道犬伏宿と称しました。犬伏宿内を三分し、西から東に向かって、上、中、下の三丁としました。寛永13年、下町に接して戸数およそ70戸を設立し、新町と称しました。
(5)
 イヌは低いという意味。名詞イ(寝)と助詞ヌ(寝)の複合語で、寝るの意から起こりました。ブシはフシの濁音化で、「節」の意と解されます。これは盛りあがったり、瘤(こぶ)のようになったりしている地勢のことです。したがって犬伏とは低い台地の起伏に富んだ地形に由来する地名という説です。

(この項、「」HPより)

 前方に小高い丘が見え、街道もそれに沿って曲がっていきます。北関東最大の「米山古墳」。
 (13:03)その麓には「薬師堂」。解説板には「真田父子犬伏の分かれの地」とあります。


                               
 慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の合戦を目前に控えた7月21日、徳川家康について会津の上杉家討伐に向かった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)父子は、下野国犬伏(現在の佐野市)に到着しました。そこで陣を張っていた父子のもとに石田三成から密書が届き、豊臣方に味方するよう書かれていました。この書状を受けて父子三人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信之が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に別れて戦うことを決断したとされています。
 その話し合いの場が、この薬師堂であったといわれており、すぐそばを流れていた川に架かっていた橋は、「真田父子の別れ橋」としてこの地に語り継がれています。

平成23年9月 犬伏町町会

(↓)「別れ橋」。

 日差しがだんだん強くなってきます。小憩ののち、出発。
(13:10)振り返って望む。

「東北自動車道」の手前には「庚申塔」が二基。

 (13:22)「東北自動車道」の高架下をくぐったら左に折れ、すぐ右手に進みます。


                      

田園風景が広がります。高速道路方向。

集落に入り、左手に常夜燈や馬頭観音などが。

県道に合流。正面には万葉集で歌われた「三毳(みかも)」山」。

下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま妙(ぐは)し児ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ
  ~作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3424

下野の三毳山の楢の若木のような
美しいあの娘は一体誰の妻になるのだろうか

 注:「のす」は「なす」の上代東国方言で、「のような」。「ま妙(ぐは)し」は「美しい」。「笥」は食器(お椀)のことで、「笥を持つ」で妻になることを意味する。

 (13:33)「両毛線」の踏切「第二佐野街道踏切」に近づきます。左手前方遠くに左側を削り取られたような山が見えてきます。「岩船山」です。


                         
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東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その4。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-08-01 21:38:01 | 日光例幣使街道
                                    (11:10)この先から「天明宿」。
天明宿(てんみょうじゅく)                               
 平安時代の天慶2年(939)、藤原秀郷が連れてきた鋳物師(いもじ)によって鋳物産業が発展。室町時代以降は茶の湯の流行などでその名を京都にまで知られた天明であった。
 慶長7年(1602)に佐野藩初代藩主となった佐野信吉によって整えられた町並みは例幣使街道の開通により宿場町としても発展。例幣使一行は天明宿泊まりを習わしとしていた。
 「本町交差点」で右から「日光千人同心街道」が合流する。

日光千人同心街道
 「八王子千人同心」が日光東照宮火番勤務のために往来した街道で、八王子市の千人町から日光東照宮までの街道。
佐野(天明宿)で「例幣使道」と合流し、楡木で「壬生道」、今市で「日光本道」と合流、その後東照宮へ向かった。街道としては八王子から佐野までの約90㎞が該当する。街道名は千人同心街道の他に「日光脇往還」、「日光火之番街道」、「日光裏街道」などとも呼ばれた。

(補足)「天明町」のいわれ
(1)
 佐野の鋳物師(いもじ)はずっと昔から8月1日の八朔(はっさく)に宮中(天皇の住まい)へ燈籠(とうろう)を捧げるならわしになっていました。ちょうど近衛天皇の時代(1141~1155年)に、天命家次(てんみょういえつぐ)という人が鉄の燈籠を捧げました。その燈籠の光は不思議にも天まで届き、人々を驚かせたそうです。そこで宮中の役人であった源頼政(みなもとのよりまさ)という人が、その立派な燈籠を捧げたことを祝って、家次に天をも明るくしたという意味の「天明」という苗字をおくりました。天明という地名はここから起こったといわれています。また、天命の由来について、星の宮社託によれば、阿部晴明が天朝の命により、天の二十八宿に象り地をこの地に相し、星の宮慈恵大明神を祀り、これより天命宿と称したとのことです。
・・・
(この項、「」HPより)

県道(宿場の中心街)に出る手前に路地。
                           「秋山川」を越えてくる道。この付近が枡形になっていたのでしょうか?

見世蔵造りの商家が3軒並んでいます。

三軒目が「味噌まんじゅう 新井屋」さん。

 (11:16)「天明宿」の家並み。古いおうち・商家・蔵などが残っています。
   
                                    「大坂屋菓子店」さん。

 本町交差点で右から「千人同心街道」が合流します。

その先、庵看板(屋根付きの看板)のある「小沼呉服店」さん。

幟。「あいさつ通り こんにちは」。

(11:21)本陣跡。解説板。
あいさつ通り
 この通りは、遠く江戸時代には日光例幣使街道と呼ばれていました。朝廷からの使いである公家が、徳川家康を祀る日光東照宮へお参りに向かう道だったのです。その一行が泊まった本陣があったのもこの界隈です。昭和になると新たに庶民の足となったバス会社が本社をおき、戦後まで営業していました。
 また、通り沿いには、大正時代に建てられた佐野町道路元標があり、かつてここが佐野の道路の起点だったことを今に伝えています。

さて、そろそろ昼飯時。「佐野ラーメン」があれば、と探したがメインストリートには見つからず、佐野駅前にも回ったが、なし。そこで、「名物大根そば」とある「手打ちそば くりた」さんに入ります。
 ビールを飲み、「大根そば」を注文。大根おろしが乗っているおそばかと思いましたが、大根の千切りがおそばの上にたっぷり乗っています。たしかに変わったもりそばでした。しばらく休憩して再開。

(12:04)鋳物造りの電話ボックス。「天明鋳物」と。

街道に戻ったところにある「モニュメント」にも鋳物が。

まだまだ「佐野」には見所満載だと感じますが、先を急ぎ、「犬伏」宿へ向かいます。
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