おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

暑い日差し。身近にスカイツリー。

2011-06-30 19:22:54 | つぶやき
 東京地方。昨日、一昨日と暑い一日でした。図書館に涼みがてらに本でもと出かけ、しばらくぶりに。でも、行き帰りは暑くて大変でした。真夏になったらどうなるのでしょうか?
 足を伸ばして(自転車でしたので)ちょっとスカイの近くまで。足場のようなクレーンも取り払われ(気がついたらもうなくなっていました)、すっきり全容が見えます。
 ところで、あのクレーン。どうやって分解し、最後は噂のように、作業員が最後の部品を持ってエレベーターで降りて来る。最後の瞬間を見てみたいものです。
 付属施設も着々と出来上がって、プラネタリウムの天井のドームも出来上がっていました。周囲も再開発で工事中。ずいぶんと雰囲気が違ってきました。
 かつて東武線と京成電鉄の本社とのところには大規模なセメント工場があって、ミキサー車などの出入りも頻繁で、車と砂埃でもうもうとしていた頃(活発な雰囲気がありました)が嘘のようです。たしか日本で最初の頃にできた工場のはずで、その記念碑もあったような気がしましたが・・・。
工事が始まった頃。右側にセメント工場がありました。
右が東武鉄道の本社。左が付帯施設。プラネタリウムはまん中あたり。
東武線の踏切付近から。
 夜中、突然の大雨。少し気温が下がったような・・・、でまるで熱帯地方のようなスコール。今日も午後からは雨も降り出してきました。これで、電力消費量も少なめに。
 隣の老夫婦。「暑いけど、うちだけクーラーつけていると何か言われそうで・・・」こういう風に思っている人も多そう。「我慢して熱中症になったら大変ですよ。」
 最近、省エネに協力しない者、努力しない者は、近所から白い目で見られてしまうのではないか、ということで、じっと暑さを我慢している年寄りも・・・。国家の方針に従わない者は、かつての「非国民」みたいな風潮が出来上がりつつあるような気がします。これで熱中症にでもなったら、その搬送や治療やらで、かえってもっと多くの電気を使うことに。
 「欲しがりません、勝つまでは」「銃後の備え」ですか・・・。してみると、かつての「鬼畜米英」は、今は、何に当てはまる?
 もともとは、政・官・財癒着による東電原発の災害と人災によるものなのに。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さては地位なのか、お金なのか。これこそ「同じ穴の狢(むじな)」

2011-06-29 22:05:02 | つぶやき
鳩山邦夫氏と舛添氏、「新政権」入り前向き(読売新聞) - goo ニュース
 今度はちょろちょろと二匹の鼠が壁の穴から顔を出したり引っ込めたり・・・。ちょっと大物。でも、すでに過去の方々? 桝添さんは自民党時代、マスコミの首相候補人気度ナンバーワン。片や鳩ぽっぽ兄弟、離党してその後、鳴かず飛ばず。
 久々にマスコミに登場。どろドロ船状態の民主党丸に離れ小島から手を振っています。「助けてあげよう!」ではなくて、「助けて頂戴!」。
 今の民主党ならそこそこの地位とお金が手に入るのでしょうかね。
 とある新聞の少し前の記事
 
 自民党のある幹部「重要閣僚にするとか、大金をくれるとかいうなら別だが、今の民主党に行く人間はいないだろう」と強調するが、自民党内は疑心暗鬼に包まれている。
 
 この二人には、「同じ穴の狢」という表現が適切でしょうか。二人は政界再編をねらってはいても、実際の別々の行動をしていたはず。
「同じ穴の狢(ムジナ)」=一見関係がないようでも実は同類・仲間のたとえ。多くは悪事を働く者たちをたとえる。
 「むじな」は「アナグマ」のこと。
 語源は、穴を掘ることができないタヌキは、穴掘りの上手なアナグマの古い巣穴を利用していたり、時には同居していたりすることからに由来しています。とすると、より悪党なのは、「タヌキ」の方? 今回は、どちらがより「悪者」でしょうか。
 それにしても、政治家(屋)には、理念も信念も乏しいからこそ出来る商売ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二子玉川園。多摩川陸閘跡

2011-06-28 20:49:08 | 歴史・痕跡
 東急田園都市線・大井町線「二子玉川」駅。かつての駅名は、「二子玉川園」。
 駅名は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前の1922(大正11)年に「玉川第二遊園地」や「玉川プール」などが開設され、行楽地として賑わいました。(「二子」という地名そのものは神奈川県川崎市高津区にある地名。多摩川をはさんであった左岸が東京都世田谷区瀬田に編入された。東京側は「玉川」)
 太平洋戦争中はパラシュート練習場が、海軍空挺部隊や陸軍挺進連隊の訓練設備として使用されました。戦後、玉川第二遊園地は、「二子玉川園」となり、フライングコースター等の施設や映画館なども設けられ、行楽地として栄えました。
 しかし行楽施設の充実や変化という時代の流れにはついていけず、1985(昭和60)年に閉鎖されました。その跡地にスポーツ施設やナムコ・ワンダーエッグ、いぬたま・ねこたまなどのテーマパークが建設されましたが、それも廃園。
 2000年代に入って、二子玉川駅東口から二子玉川園跡地にかけて再開発計画が進行しています。東口一帯に2棟のタワーから構成される大規模な商業地域・ホテル・住宅地域が建設されることとになり、駅前はかなり整備されてきましたが、東側の地域では盛んに工事が行われています。
 さて、今回、「二子玉川園」の痕跡を探ろうと、駅の東口に。見上げるほどの大きなショッピングモール、高層ビル。明るい広々としたロータリー、大型マンションなどが立ち並んで・・・。まだまだ大型工事中のところもあって、ちょっと想像した以上の大変化。西口が高島屋などの大型店舗が多くあって、賑やかな雰囲気。それに比べてあまりにも整然としすぎているような印象を。かつて、遊園地周辺には昔ながらの商店街があったとか。まったくその面影はありませんでした。
 東西に通じる道路(多摩堤通)も広く整備されています。その道路の多摩川寄りに芝生状のものに覆われた小高い丘が続いて、その土手の草刈りの作業が行われていました。炎天下の中での作業ですので、実に大変そうです。その土手が途中で切り取られ、そこに道路が通り、両側の土手の部分を赤い煉瓦で固めた箇所が、二箇所ありました。
 実は、これが多摩川堤にある「陸閘」です(それぞれ「東」「西」と名称がついています)。
 「陸閘(りっこう、りくこう)」とは、河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで、暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設だそうです。津波や高潮を防ぐ海岸線の堤防・防潮堤にあるゲート(防潮扉)も同じ役割をすることから「陸閘」と呼ばれる、とか。
 扉を人力や動力で閉じる方式や木板等をはめ込む方式など様々な方式や規模のものがあるそうです。天井川のある地域や海抜ゼロメートル地帯、港湾部に多数存在し、例えば、愛知県伊勢湾岸には数多くあるとのことです。
 この多摩川のものは、赤レンガで固めて鮮やかな朱色をしています。土手の部分には桜なども植えられていて、ちょっとした散歩道・自転車ロードのようになっていました。道路に並行して東はもう少し下流まで、西側は鉄道の高架線や橋などがあるためとぎれています。土手の上を歩くと、眼下には多摩川の岸辺近くまで住宅街が広がっていました。
 この芝生の土手は、大正から昭和にかけて築かれた堤防。
 江戸時代、二子(多摩川の右岸・神奈川県側)は、矢倉沢往還(大山街道・現在の246号「厚木街道」)の渡船場でした。「矢倉沢往還」は、神奈川県南足柄市の矢倉沢方面から物資を運ぶための道でしたが、丹沢の大山信仰の登山口でもあったため「大山道」とも呼ばれました。
 江戸時代、博打と商売にご利益があるとされた「大山詣り」は大流行し、二子宿には、旅籠をはじめ多くの商家が軒を揃え、大いに賑わいました。また、江戸幕府への献上用としても好まれた鮎漁も盛んに行われ(鵜飼い)ていたといいます。
 明治40(1907)年になると、渋谷から対岸(東京都側)まで玉川電気鉄道が延び、多摩川をはさんだ二子の渡し周辺は、再び行楽地として注目を集めます。近郊の人々が多摩川を訪れ、旅館に泊まって田園風景や多摩川の風情を眺めたり、屋形船で鵜飼いを楽しみながら川魚を賞味して余暇を過ごしました。旅館が建ち並び、鮎漁・鮎料理、鮎寿司を看板にしている店々が軒をつらねた様子が記録に残されています。
 行楽地として賑わう反面、下流部に位置し、東京と神奈川両府県にまたがるため断続的な堤防しかないこの辺りは、古くから水害に苦しめられていました。
大正3(1914)年8月9月、多摩川を襲った2度の大洪水が発端となって起きたのを契機に、国の直轄による「多摩川改修工事」が行われる事になりました。大正7(1918)年から竣工され、昭和8(1933)年度に完了した工事の対象区間は、河口から二子の渡しの少し上流までの約22kmです。
 現在残る世田谷区玉川1丁目から上野毛2丁目付近の堤防もこの時築かれますが、川辺に建ち並ぶ料亭などから「眺めが悪くなる」として合意が得られず、堤防と川の間に料亭や田畑を残す形に計画を変更しました。
 しかし、川辺の料亭や渡しへむかう人馬が、この堤防を越えていくのは大変です。そこで堤防の一部を削って通路をつくり、水位が上昇した時は手動で締め切って、水が流れ出るのを防ぐ仕組みの「陸閘(りっこう)」を設置したのです。一面から見れば、堤防内の人も住居も見捨てるということに? ま、その前に避難命令が出るでしょうが。考えてみれば、治水に対する生活の知恵 ともでもいうようなもの。
 近辺の宅地開発に、交通網の発達と関東大震災後の影響が拍車をかけ、都心から多摩川沿いの住宅地へと移り住む人々は急激に増え、世田ヶ谷の人口も、大正9年から昭和35年の間に16倍以上にもふくれあがります。昭和初期の航空写真には、料亭と田畑だけだった堤防と川の間にも家々が密集し、まちが形成されている様子が写っているようです。
 現在、堤防と川の間の住宅地を洪水から守るために、多摩川側に堤防を築く計画がつくられています。(以上、「京浜河川事務所」の資料を参照しました。)
閘門。
土手。遠くに桜並木が見えます。花が咲くと手に取れるほど低い古木が並んでいます。
再開発地域。
駅近くの高層オフィスビル。
駅ビル、ショッピングモールの天井付近。開放的な明るさ。


1880年代のようす。多摩川の自然堤防が広がる。


2010年代のようす。左に「二子玉川」駅。「陸閘」のある土手が道路沿いに。

「今昔マップ」より。
「多摩川」の河川敷が広がる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同じ穴の狢は何人?

2011-06-27 20:28:08 | つぶやき
「離党辞せず」参院自民混乱 元ドン、党議拘束否定の文書(産経新聞) - goo ニュース
 かつて参議院は、衆議院議員のお荷物扱いでした。衆議院の多数決で何もかも決定されて政策論争もなく・・・、ついには、参院廃止論まで出て来る始末。
 そこで、党利党略に縛られない「良識の府」とかしようと色々改革すれども議員諸公の関心も薄く、選挙制度の不備もあって、有権者の評判も芳しくなかった。あまり国民へのアピール度も高くなく、いよいよお終いか、と言われた時もありました。
 ところが、近年恒常的に参議院選挙のたびに、「与野党のねじれ国会」を実現したため俄然参議院の鼻息が荒くなってきました。それもすべて党利党略。政党政治、多数決原理からすれば当然でしょうが。
 ところが一皮むけば、権力闘争というか、これまでの政治姿勢も何のその。いつどこで寝返ったりするのも平気。大物じゃなくて小物ばかりかもしれないが。また1人、今度は自民党から鼠がちょろちょろ、という気配。二陣、三陣はあるのでしょうか?

 実際、24日には民主党サイドから2、3人の自民党参院議員の名前を挙げたうえで、「今日中に大きく動く」「入閣はなくても相応のポストで話はついている」などといった情報が流れ、参院自民党の幹部が名前の挙がった議員に意思確認する一幕もあった。
 幹部の一人は「いずれの議員も離党しないと話しているし、離党届は出ていない」と明言。別の幹部も「重要閣僚にするとか、大金をくれるとかいうなら別だが、今の民主党に行く人間はいないだろう」と強調するが、党内は疑心暗鬼に包まれている。
 
 こうして金と地位にまつわる発言を平然と行なう連中に、国の政治を任せ放しだった有権者にも、大きな罪がありそうな気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野グリーンパーク球場

2011-06-26 20:28:39 | 歴史・痕跡
 中島飛行機株式会社は、1938(昭和13)年、JR三鷹駅から北西約㌔の武蔵野台地に、大規模な工場を建設しました。工場は現在の「武蔵野中央公園」や「NTT開発センター(旧電気通信研究所)」、「都営団地」、「UR都市機構団地」、「武蔵野市役所」までも含む広大なものでした。
 中島飛行機武蔵製作所。東西それぞれに大きく二つに分かれた工場では、陸軍や海軍の航空機用エンジンが生産され、日本の全生産数の約3割を占める大工場でした。従業員は、徴用工や女子挺身隊員、勤労動員学徒らを含め約5万人といわれています。
 このため、この工場は、米軍による最大の攻撃目標となり、度重なる空襲で壊滅的な被害を受け、多数の犠牲者が出ました。投下された爆弾は、工場だけではなく周辺の住宅地、畑などにも容赦なく降り注ぎました。工場だけで約220名、周辺地域では数百人が犠牲になったと言われています。
 昭和22年の航空写真では、一面焼け野原となって跡形もなくなっていることが分かります。
 戦後、工場は閉鎖されて跡地は、米軍宿舎や団地、NTTの研究所として再利用されます。米軍宿舎「グリーンパーク」は、1973(昭和48)年に返還が実現し、1989(平成元)年になって都立武蔵野中央公園が誕生しました。都立武蔵野中央公園は、中島飛行機武蔵製作所の西工場の跡地に当たります。 
 1950(昭和25)年、もともと東工場があったところに、「グリーンパーク球場」が建設されます。球場への足としてかつての中島飛行機工場への引込線が活用され、路線名を武蔵野競技場線として、翌年開業しました。ところが球場自体が1シーズンしか使用されず、武蔵野競技場線も1959(昭和34)年に廃線となってしまいます。
 野球場の痕跡は全くありませんが、公団住宅の円形の外郭道路部分が球場の外郭をかたどっています。 
 また、東工場の北側部分はNTTの研究所となり、戦争の時代の痕跡はありません。わずかに残るものとしては、「都営武蔵野アパート」三号棟と四号棟の間、自治会事務所の隣に中島時代の建造物があり、倉庫・集会所などとして利用されていた、とのこと。もともとは、中島飛行機の東工場の一角にあった変電室。この建物も、都営住宅の建替えで、取り壊される予定になっている、ということです。
 中島飛行機。多くの有能な技術者たちは、その後自動車関連産業に移って、「富士重工」(スバル)などに引き継がれています。
案内図。敷地を囲むように大きく楕円形になっています。
左手がNTT側。右手が公団。激しい通り雨の直撃。桜並木に助けられました。
左手が都営団地。この通りが球場への入り口通路付近。
「緑町」という地名表示。
球場の東北のへり付近。
建て替えのために現在立ち入り禁止。この奥の方に集会所があったのか。
広々とした「武蔵野中央公園」。家族や団体でスポーツやレクリエーションを楽しんでいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野競技場線・グリーンパーク野球場(その1)

2011-06-25 20:52:51 | 鉄道遺跡
 「グリーンパーク野球場」。中央本線三鷹駅北側に大きく広がっていた「中島飛行機武蔵製作所跡地」に建設されたました。「グリーンパーク」という名称は、終戦直後よりこの一帯を接収していたアメリカ軍が用いていた地名に由来します。公認野球規則に準拠した広いグラウンドと5万人を超える収容能力のスタンドを持つ本格的なスタジアムだったといいます。
 武蔵製作所への引込線跡を利用した、三鷹駅から野球場前の武蔵野競技場前駅に至る中央本線の支線(通称「武蔵野競技場線」)も、1951(昭和26)年4月に新設され、競技開催日には東京駅からの直通電車も運行されました。
 この路線は単線。もともと武蔵製作所への引き込み線は、三鷹駅のすぐ西側の駅・武蔵境から境浄水場の東側を通り北進、工場の北西から構内に入っていました。それを一部付け替え、三鷹駅から球場近くまでの路線にしたものです。
 グリーンパーク野球場は、11951年4月14日より2週間に亘り開催された「東京六大学」の春のリーグ戦で初めて使用され、プロ野球のこけら落しは同年5月5日に開催された「国鉄スワローズ」対「名古屋ドラゴンズ」戦。
 しかし、立地条件(当時の庶民感覚では都心から遠すぎる。グランドがでこぼこで、砂埃がひどい・・・等)の悪さから、その後、ほとんど使用されることなく、結局プロ野球では1951年の1シーズン16試合、東京六大学も同年に19試合が行われたのみで閉鎖されることとなります。
 「武蔵野競技場線」も翌1952年から休止状態となり、1959(昭和34)年11月に廃止されました。廃線跡地は三鷹駅側は「堀合遊歩道」玉川上水から北側は「グリーパーク遊歩道」となってかなり整備された遊歩道になっています。玉川上水にかかる人道橋には廃線跡を示すため、線路のモニュメントがあります。
 野球場は1956(昭和31)年に解体され、跡地は日本住宅公団に売却されて武蔵野緑町団地(現在の名称は「武蔵野緑町パークタウン」)となっています。現在ではカーブ状の外周道路に囲まれた敷地の形に、かつての大きな野球場の痕跡を留めるのみです。
玉川上水に架かっていた鉄橋の橋桁の一部。
玉川上水を越えて「グリーンパーク遊歩道」となります。
当時の鉄道敷地内を示す鉄製のフェンス(貨物線などによくあります)。道の両側に点々と残されています。宅地との仕切りにも利用されています。
境界線となっています。

国鉄(JR)の敷地であることを示す境界。
標識に沿ってフェンスが続いていることで、国鉄(JR)の線路跡であることが分かります。
遊歩道の途中にあった「説明板」
この前出かけた「境浄水場」への引き込み線(跡)との関連が説明されていました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっぴりミステリアスな空間発見

2011-06-23 23:52:44 | つぶやき
 あるところに、江東区内にある「富士塚」を写真入りで紹介したついでに、「意外にも墨田区内にはないようだ」と書きました。すると、それを読んだ方から「いや、個人の家の庭にあるそうだ」とそこの住所も調べてくれ、連絡がありました。
 それはとても興味深いことと、さっそくそのお宅を訪れることにしました。某私鉄駅の近く。事前に航空写真で調べると、たしかにこんもりした一角があります。しかし、同じ場所を昭和22年の航空写真で見ると、東京大空襲のせいでしょうか、一面の焼け野原。 痕跡もまったく残されていないようでした。すると、戦後しばらく経ってから「富士塚」として再建したのか、と。
 いずれにしてもますます興味深くなりました。住所からは、某小学校の裏手に当たります。そこに行ってみると、小さな公園になっていて、木は周りに植えられていますが、それらしいものは、何にも見当たりませんでした。
 航空写真ですと、すぐそばにも大きな屋敷があって、木に埋もれています。この付近には空き地すらなく、家が建ち並んでいます。それでは、と思い切って玄関の呼び鈴を押しました。中から「はい」とご婦人の声はしましたが、いっこうに開く様子がありません。
 玄関の脇からすぐ庭になっていて、こんもりした木々に覆われ、奥の方に向かって石段が続いています。はやる気持ちを抑えてしばらく待っても、中からは反応なし。すると、宅急便の配達が。品の良さそうな老婦人が出てきて、明るく、配達人とやりとり。
 一段落して切り出しました。「実は、このあたりに富士塚があると聞きまして・・・」「何ですか、富士塚というのは」「これこれというようなものですが・・・」「さあ、家の庭にはありませんよ」「戦前にはあって焼失、戦後再建したとか」「嫁いで40年になりますが、そういうことは、聞いたことがありませんね。それに住所が1番地、違っていますよ」「そうですか」「主人に聞いてみましょうか」「はあ」
 がっかりしていても、庭の奥を興味深くのぞき込んでいる私をみて、「どうぞ中に入ってご覧下さい」「ありがとうございます。では」
 ひんやりとしてうす暗い空気の中、石段をぐるっと回りながら進むと「そこには稲荷を祀ってありますよ」
 富士山信仰とお稲荷さん。浅間神社との関連はありますが、果たして・・・。それに、富士山を擬しているようにはなっていません。だらだらと少しずつ上っているだけ。富士山の溶岩とかもありません。ちょっと期待はずれ。
 下りかかると、小さな池には鯉が泳いでいます。その水辺を見上げると、高さ3メートル以上の直立した建造物が目に入りました。池側はすっぱと切り取られ、黄色く変色(着色)した「滝状」。裏手は、ごつごつした岩で形付けられて、ツタ状の植物が幾重にも絡まっています。ちょっとびっくり。富士塚とはいえませんが、何となく溶岩で固められたようす。これかな、と思った瞬間、ご婦人の声、「それは主人がこしらえたものです」
 その厳しい声にまたびっくり。写真を一枚撮って礼を言って帰りました。すると、中から男性の声で、「そういうものはない」と。
 暑い日差しを浴びて、喧噪とした通りを駅まで戻りました。道々、そういえば、庭には壊れたままの灯籠が散乱して(一つ二つではなく)いたり、棒状の石造りのものが散乱していたり・・・。一体、あれらは何のためなのだろうか?そして、こうした薄暗いお庭のもとで生活する方とは、一体どういう方なのだろうか、と思いました。
 久々の異空間体験でした。どこであるかは言えませんが。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々のツリー。久々の暑さ。30度。

2011-06-22 22:02:40 | つぶやき
 昨日。朝方、けっこう強い雨でしたが、あっという間に晴れ上がり、今度は気温がどんどん上昇、暑くなりました。といっても、梅雨時特有の蒸し暑さではなく、少し空が澄んでいる感じ。夕焼け空のもと、帰りには久々にスカイツリーを見ながら、傘をぶらぶらさせながら、歩きました。7時近くなってもまだまだ明るい空です。
 いつの間にか、がっしりツリーを支えていたクレーンも小さく低くなっていました。ブルーの覆いも取れて全容がてっぺんまで。
 あれ、上の方の展望台(第二展望台)が少し傾いている!展望台をぐるりと取り巻く帽子の庇のような部分が左に傾いています。何か違和感が。
 そういえば、聞いたことがありました。ループ状になっている、だんだんと上って行く構造になっている、ということを。
 遠くからでもはっきりと見えます。駒形橋の方向からだと左肩が落ちているような見え方。ちょっぴり変な感じがしました。ついつい通りすがりの人に声を掛け、「何だか傾いていませんか」その人も「ほうほう」と同じように見上げて、そういう風な作りだと話してくれました。そうだったんだ、とこちらも思い出した。
 ついでに、その方、日光にあるスカイツリーのミニチュアもそうなっていて、見物客が壊れているんじゃない、と疑ったらしい、と。
 東京タワーの先端部分は、このあいだの3・11の大地震で曲がったままです。
 東京地方。そして、今日は、30度以上。明日も晴れてかなり暑くなって、金曜日からしばらくの間、梅雨らしい雨空になるそうですが。
近くで見ても、夕暮れ時なのではっきりとは分かりませんが。
それにしても、大きく高いですね。展望台に上るにも、かなりお金も高いそうですが。
これは今日撮ったもの。昨日とはほぼ反対方向の押上駅入り口付近から。ループ式の様子がはっきりと分かります。 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西鷺ノ宮駅

2011-06-21 21:58:14 | 鉄道遺跡
 西武新宿線。鷺ノ宮駅から下井草駅と向かう途中、下井草駅に近づく手前、線路の左(南)側には盛り土が、右側(北側)は少し開けた空き地があります。かつてここには、「西鷺宮駅(にしさぎのみやえき)」がありました。表記は、「西鷺ノ宮駅」?
 現在は廃止されています。鷺ノ宮駅と下井草駅との間。昭和17(1942)年、開業で、相対式ホーム2面2線の地上駅でした。
 設置の目的は、駅から北へ約600mの鷺宮5丁目(現上鷺宮)にあった東京府立第二十一中学校(後に東京都立武蔵中学校・現武蔵丘高等学校)への通学者向けであったとされています。当時の第二十一中の校地には第二十中(大泉高校、現在は中高一貫校)、第十八高女(井草高校)、第五商業の計4校の府立学校が置かれていた、とのこと。そのうちの第二十一中以外の3校は昭和19(1944)年までにはそれぞれ別の場所へ移転となっています。
 駅の方はその後、開業からわずか2年後の昭和19(1944)年に閉鎖、昭和28(1953)年にそのまま廃駅となりました。駅舎は、昭和22年の航空写真にははっきり残っています。
 車窓から見える両脇の盛り土に当時のプラットホームの遺構を見ることができます。また、上り線の駅舎があったところは、その一部が西武鉄道の変電所の建物になっています。
 写真は、下井草駅側見たもの。左が上り、右が下り線。両側にホームがあった。

下り線のホーム跡。
上り線のホーム跡。東側の奥(かつての駅舎のあたり)には、現在、変電所がある。
変電所側から見たもの。
変電所。このあたりに改札口(橋上の駅舎だった)に向かう階段があったはず。通学生は、この道を右(北)に学校に向かった。
下井草駅南にあった旧家の庭。かなり大きな農家。郵便局の方まで敷地だったそうだ。鬱蒼とした木々に覆われている。
道路に半分はみ出した古木。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首相の問責決議の前に議長不信任決議を

2011-06-19 21:55:54 | つぶやき
西岡参院議長が「審議拒否宣言」 首相辞任迫る狙い?(朝日新聞) - goo ニュース
 どこもかしこも権力を握ったら、権力を振るいたい放題(砲台が適切かも)。菅さんもそうだが、この西岡、越権批判もなんのその、どこまでも菅さん憎しで凝り固まっている。
 提出した議案を議論させずにまず「審議拒否」。立法府の長としてまったく不適格な御仁。こうなったら、民主党から議長不信任案を提出すべきだ。自公などが反対して否決したらどうなっていくのか。
 どうも困った人間を議長に推薦したものだ、民主党執行部も。いよいよ泥仕合化した永田町。喜ぶのは一体誰か?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たぶんこんな程度のものでしょう

2011-06-17 23:22:37 | つぶやき
河村市長側近の議員辞職で亀裂 名古屋「減税日本」に存亡の危機(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
 「減税」という美辞麗句。もちろん一面は正しい。税金の無駄使いをとことん行なう、とりわけ議員歳費や議員定数の大幅削減など異論は無い(無かった)。しかし、そういう主張を先頭になって発言して当選したベテラン議員がこっそり拒否したはずの歳費をこっそり使っていた、河村さんも見抜けなかった、とか。ホントのところは分からない。
 減税して誰が得をするのか、何を削減するのか、そのことをあいまいにしたまま(減税で得をするのは富裕層?)、きれいごとでは済まされなかったのだ、現実は。
 大阪の「維新」の方がやりたい放題できるのは、敵を明確にして(大阪市)徹底的に責める(攻める)から。府民の教育へのいらだちをうまく利用する、等々、府民感情を巧みに利用した橋下さんの発言の明瞭さ、それが大受けしているのだろう。
 さて、「減税」にあやかろうとした政治家はどう動くのか?

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反原発(的)マスコミも集団ヒステリーの一員と思っているのでしょうか

2011-06-16 21:43:23 | つぶやき
「将来の脱原発」2人 「削減」9人 知事アンケート(朝日新聞) - goo ニュース
 イタリアの反原発国民投票成立に対して自民党のイシハラ二世「集団ヒステリー」と評しました。日本の反原発の高まりにもそういう判断をきっとなさっているのでしょう、言葉には出さずとも。同じようにマスコミ(原発推進派の産経以外の)に対しても、そういう風に・・・。
 オヤジのイシハラ知事。「朝日」のアンケートに無回答。無回答の中には原発のある知事の悩みも感じるが、この方、最大電力消費地の知事として、原発依存・推進を声高に発言しているのに、ノーコメント。この方らしいやり方。ま、あの「朝日」に回答することなぞ、ない!ということで。
 記者会見では御用記者のごますり質問に、横柄な応対で終始して「反民主」に徹底しています。今度は、反「反原発」で自説を開陳して下さい。でも、そういうときは、言葉巧みに(老獪に)逃げますが、いつも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵境~境浄水場。引き込み線跡。

2011-06-12 22:33:07 | 鉄道遺跡
 かつてJR中央線・武蔵境駅から境浄水場まで引き込み線がありました。境浄水場の濾過用に、多摩川で採取した砂利を運ぶための専用線でした。
 現在は廃線となって、その後が緑道公園として整備され、木漏れ日のもと、ほどよい散歩道になっています。今回は、武蔵境駅から浄水場まで歩きました。中央線は高架工事がほぼ完成し、駅も高架駅として工事中です。かつては本線から支線として緩くカーブしながら北西に向かっていた、その線路が残っていましたが、今はまったくその痕跡はありません。
右側の本線から分岐して、左手奥にカーブしていきます。現在は、工事事務所の建物があるあたり。道路は線路に沿った道。
道路の右側には、JR用地を示す標識が続いている。
しばらく進むと本格的な緑道に。途中の小さな公園。このモニュメントは?滑り台が一つ。
静かな住宅地の中を進みます。
公園の名前はあっても、かつてここに線路が敷かれていたというような説明はどこにもありません。
アジサイの花。
玉川上水の架かる橋「大橋」。
玉川上水に架かっていた線路橋の痕跡(土台)。
対岸から。
野いちごが一つ赤い実をつけていました。
引き込み線は浄水場の中に入って行きました。
浄水場のようす(フェンス越し)。
境浄水場正門。
玉川上水に架かる「桜橋」の橋のたもとに国木田独歩の碑があります。武蔵野を愛した独歩の文中に登場する橋。
碑の表面がかすれているのが残念。「桜橋」という橋名が出てきます。
 ところで、この引き込み線。昭和22年の航空写真では浄水場の東側に向かっていて、西にカーブして浄水場の中に入って行く線路にはなっていません。浄水場開設当時は、中島飛行機製作所への線路としても併用されていたのではないか。
 昭和37年の航空写真では左にカーブして行くのが、はっきり分かります。そして、その東側にはちょうど双曲線を描くように北に向かう線路が写っています。引き込み線は、昭和20年代になってから現在の緑道公園になっている線路になったのではないでしょうか。そして、もともとあった線路は、その一部が武蔵野グリーンパーク野球場へ観客を運ぶ鉄道線(三鷹駅からのもの)になったように思えます。
  武蔵野グリーンパーク野球場は、中島飛行機の跡地に作った本格的な野球場。東京都武蔵野市西窪(現在の住所表記は緑町二丁目)にあった野球場。実働1シーズン、完成から解体までわずか5年と、日本で最も短命に終わった球場として知られています。
 三鷹駅からの支線、通称「武蔵野競技場線」。野球場開設とともに、昭和26年4月に開通しましたが、野球場が閉鎖されてしまい、わずか1年で休止、その後、昭和34年11月に廃線となりました。
 昭和31年の航空写真には、二つの線が相似形のように弧を描いて写っています。境浄水場へは武蔵境から、野球場には三鷹から、と。
 機会があったら、今度は「武蔵野グリーンパーク野球場」と「武蔵野競技場」線の痕跡を求めて出かけてみたいと思います。
玉川上水に架かる人道橋。線路のモニュメント。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

境浄水場への道

2011-06-09 21:51:19 | つぶやき
 小平駅の南口。ロータリーをはさんで右を見ても左を見ても、東西に一直線の緑道が
見えます。サイクリングも出来るし、のんびり散歩も、という感じの道。けっして幅広い道ではありませんが、両側は緑に覆われ、足元もサツキ、ヤマブキ、アジサイなどが植えられ、行き交う人々の目を楽しませてくれています。
 なんと言っても、一直線なのが魅力。この道、多摩湖から境浄水場までの水道管を布設した道路を緑化したもの。「狭山・境緑道」。立派な都立公園です。一直線の緑道が西東京市から東大和市までの10.5kmにわたって続いています。
 この水道。羽村から取水した多摩川の水をいったん村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)に貯め、そこから水路で、JR中央線・武蔵境駅の北側に位置する「境浄水場」まで流れていきます。そこで濾過されて飲料水として都民に供せられているのです。
 「境浄水場」は、歴史も古く、かなり大がかりな浄水施設です。また、濾過するために用いた石を運ぶ線が武蔵境駅からあり、今は廃線となっています。その痕跡を次回は訪ねてみようと思います。
小平駅前。水道道(みち)・緑道は、広場の一部になっています。
駐輪場なども設置されています。
花小金井方向への道。
村山貯水池から境浄水場まで、北西から東南への緩やかな直線路。
小平駅の北西には都営の「小平霊園」があります。広大な敷地。
石屋さんなどが軒を連ねています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎の尾を踏んだ!政官財一体となっての菅潰し

2011-06-07 22:38:25 | つぶやき
首相見限った?経団連会長、政府会議を連続欠席(読売新聞) - goo ニュース
 たぶん逆鱗に触れたのではないか。菅さんがフクシマ原発事故を契機に「反原発」「電力再編」に踏みきったことが。特に、浜岡原発操業中止命令以降の自民党や経団連の動きは、菅さんの発言が「体制解体」(自民党・財界体制維持派にとっての)危機感から、もう我慢できないほどの極限に達している。
 それほど「反」原発は、彼らにとっては許すべからざる発想なのだ。西岡も、保守派としてその片棒を担いでいる。今回の菅さんの発言・行動は、看過できない「反体制」なのである。
 マスコミも「東電批判」「原発批判」に及び腰なのは、上層部の意向を反映しているに違いない。何しろ「反原発を発言した」役者の首まで飛ばしたのだから。
 何としても「反原発」路線ではなく、「安全」な原発推進派を次の首相にしたい、そのことでは、政財界の大勢は、一致している。
 教員への「君が代」起立斉唱を義務づけた条例。君が代反対は、秩序を乱す反体制以外の何物でもないとした、大阪府知事と同じ発想である。その知事は、「反原発」的な発言を行っている。果たしてどういう風に展開するか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする