「妻恋坂交差点」。左の角にある学校が「クラーク記念国際高校秋葉原ITキャンパス」。エベレスト80歳登頂の三浦雄一郎さんが校長先生。もともとクラーク記念国際高校は、本校が北海道深川市にある広域制の単位制・通信制高等学校。現在は、全国展開しています。
関東近辺にもけっこう存在。
「クラーク」の名は、札幌農学校(現: 北海道大学)の初代教頭W・S・クラークにちなんでいる。アメリカに帰る年に、クラークが札幌農学校の生徒たちに「少年よ、大志を抱け (Boys, be ambitioius!)」という一言を残したという話は、有名。
「妻恋坂」そのものは、蔵前橋通りと昌平坂通りとの交差点から少し北に入ったところにある神社名から来ている坂。別名で、大超坂または大潮坂、大長坂、大帳坂とも(もとあったお寺の住職の名前からとったらしい)。「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、 明暦の大火(1657年)坂の北側に「妻恋神社」が旧湯島天神町から移ってきてからだそうだ。
「妻恋神社」。
その昔、日本武尊 (やまとたけるのみこと)が東方征伐のおり、三浦半島から房総への途中で大暴風雨にあい、妃の弟橘姫が海に身を投じて海神の怒りを鎮めたという。途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕う心をくんで、尊と姫を祀ったのがはじまりと伝えられる。江戸時代には、妻恋稲荷の名で有名となり王子稲荷と並んで参詣者を集めた。
江戸時代から伝わる木版刷りの縁起物が「夢枕」と呼ばれるもの。七福神を乗せた宝船の版画で、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるといわれる。(文京区のHPより)
ところで、「明暦の大火」とは?
1657年、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災のこと。「振袖火事」「丸山火事」とも呼ばれる。
この火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城の天守はこれ以後、再建されることはなかった。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものらしい。「ロンドン大火」、「ローマ大火」と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上、日光街道の千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。
「振袖火事」と呼ばれるわけ。
ウメノは日蓮宗不受不施派・本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年1月18日(1655年2月22日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施のしきたりによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。
イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。
「北谷(ちゃたん)食堂」沖縄料理の店。沖縄音楽のライブもやるらしい。
何だか不思議なお店。「私設図書館・ジャッツキステ」と。
? 店内にはへんてこな本がいっぱいあるそうだ。
「元祖黒焼」。ガラスケースには、瓶入りのさまざまなものが・・・。残念ながら休みのようでした。
(以下は、HPより)
明治初期、伊藤彌助によって、黒焼専門店・総元祖「伊藤黒焼店」として創業。
当時は、まだ医療も薬品も充分に体系づけられておらず、人々の健康は、医療機関ばかりではなく、漢方をはじめ様々な民間療法までもが担っている時代でした。
文明開化の幕開けとはいえ、その頃の人々の体力も食事内容も、現代から見ればまことに乏しいものがあり、ことに病中・病後などは、医療の未発達なことと共に国民の経済的事情などとも相まって、病気の治療もさることながら、体力の低下を補うことも難しかったようです。
健康保険や医療制度も確立されていない時代では、病院もあちらこちらにあるわけではなく、今のように気軽に医者にもかかることもできませんでした。そこで、とりあえずは体力をつけて様子を見ることが一般的でありました。
そのような中で、民間伝承によって受け継がれてきた、おもに滋養・強壮を目的とした漢方薬や健康食品が人々の間に浸透していったのも至極当然の成り行きでした。
「黒焼」は価値ある漢方薬および健康食品としての評価を得て、病中・病後の滋養・強壮や体質改善などを求める人々に受け入れられ、飛躍的に普及いたしました。
神田から上野(かつての黒門町)にかけて、そののち数多くの黒焼き店が増え繁盛いたしましたが、保険制度の整備や医療機関の拡充という時代の流れの中で、近年そのほとんどが消え去ってしまいました。
今では「伊藤黒焼店」が、東京で唯一の"黒焼き専門店"として、約130年の伝統を守って今日に至っております。 店主敬白
黒焼きは、土で作られた釜のような容器に、植物・虫・魚・動物などを入れて密閉し、蒸し焼きにしたもの。これによって、素材の持つ栄養価を凝縮するだけでなく、通常の食べ方では摂ることの出来ない成分を引き出すといわれている。さらに炭化させることによって、近年知られるようになってきた炭のパワーをもあわせ持つことになり、理想的な健康自然食品といえる、らしい。
具体的には(お店のHPより)、
・蝸牛(カタツムリ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 腎臓・糖尿
・田螺(タニシ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 肝臓
・土竜(モグラ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 痔疾
・赤とんぼ(アカトンボ)10日分(50g)5,000円 1ヵ月分(150g)15,000円 喉の咳
・狐の舌(キツネノシタ)10日分(2袋)10,000円 1ヵ月分(6袋)30,000円 脳梗塞後の体調不良、50肩、尿もれ
・馬歯(バシ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 リュウマチ
・まむし(マムシ)1ヵ月分(100g)8,000円 滋養・強壮
・まむしの卵(マムシのたまご)1ヵ月分(100g)12,000円 体力作り
・伯州散(ハクシュウサン)10日分(50g)13,000円 1ヵ月分(150g)39,000円 滋養・強壮
・鯛(タイ)10日分(50g)8,000円 1ヵ月分(150g)24,000円 胆石などの結石
・らん髪(ランパツ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 血尿
・鮒(フナ)1袋(100g)5,000円 膝などの痛み
・大蒜(ニンニク)10日分(50g)6,000円 1ヵ月分(150g)18,000円 体力作り
・茄子のヘタ(ナスのヘタ)1袋(30g)2,000円 歯肉炎・歯槽膿漏
・スッポン 1ヵ月分(100g) 15,000円 滋養・強壮
・意守(イモリ)10日分(50g)5,000円 1ヵ月分(150g)15,000円 滋養・強壮
・コウモリ 10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 うつ病
・蚯蚓(ミミズ) 10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円 熱さまし
とまあこんな具合。スッポンやまむしなどは何となく分かるが・・・。まさに漢方薬、民間療法の一翼を担っていますね。
「伯州散」は、反鼻(まむし)、津蟹(さわがに)、鹿角(鹿の角)を黒焼にして粉末にしたもの。
「らん髪」は、人間の髪の毛を黒焼きにしたもの。
「佐竹商店街」幅は狭いですが、結構長いアーケードが続きます。個人名みたいな商店街とは?
秋田佐竹藩城主、佐竹右京太夫 藤堂和泉守の江戸屋敷には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあったそうで、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったといいます。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転したのであります。
移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたといいます。幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員百三十六名に及んだと記録されております。
各藩にとってその江戸屋敷は重要な政治的、文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然。佐竹藩も、広大な敷地に、当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでありましょう。
屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいたそうで、ここから「竹町」の名前が生まれたといわれております。
明治41年頃の三味線堀 ※左手が佐竹商店街
明治維新の後、廃藩置県が実施され佐竹藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。明治二年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数六十八戸、住民数は二百六十八名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。
しかしながら明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場・娯楽街として充実発展してゆきます。かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになります。さらに祭文定席、玉ころがし、射的、大弓場などもでき、義太夫、講談、落語、祭文かたりが聞け、ゆで小豆を売る店などが並びます。
そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地にはいれば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となってゆきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど殷賑を極めました。
大正初期には戸数三千八百十三個、人口一万二千三十四名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。
大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。
現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、もと秋葉ヶ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを明治二十二年(1889年)下谷佐竹屋敷跡地に移した説と、明治十九年(1886年)6月の朝野新聞に佐竹ヶ原の秋葉教会所の縁日が賑わったとの記載があり、詳細は不明でした。
※平成25年2月研究者の方よりの情報により 明治18年1月20日の読売新聞に次の記事があり「秋葉の遷座 今日ハ深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を今度下谷竹町の佐竹の原へ遷座し安置式を執行する其道筋ハ御船蔵前より万年橋を渡り河岸通り永代橋を渡り小網町通り堀留大門通り大丸にて小休み夫よら弁慶橋通り柳原へ出て右へ美倉橋を渡り三味線堀より竹町の教会所へ着の手筈なりといふ」この記事から佐竹秋葉神社の創建が解りました。
昭和五年(1930年)、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。商店街も二十四日を特売日としてサービスをしており、戦後も四の日特売は昭和四十年代まで続きました。
昭和十一年(1936年)東京市の調査では店舗は全部で百十六店でした。(約半数の六十三店が衣料関係品店、食料品店十四店、その他の店三十九店)。
昭和十六年(1941年)太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗りつぶされ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと消費生活は徐々に狭められ、物資は軍事優先に使われて行き、主な生活必需品は配給制度となり、企業整備の名のもとに、小売業は不要とされ閉店を促し、事業主・従業員は軍需工場に徴用され、慣れぬ工場労働にかり出されました。当然商店街は火の消えたようなありさまで、まさに暗黒の時代に突入していったのです。
昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の雪の降る昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。売るに物なく、買うに人なきありさまでしたが、終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で不死鳥のごとく瞬く間に往事の賑やかさを取り戻しました。
昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。その頃、商店街には店員さんも多く、商店街内で野球チームが3,4組出来ていました。昭和三十五年(1960年)には協同組合を結成、さらに三十八年(1963年)には振興組合に改組しました。
昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え、台東と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として絶える事なく後世に伝えられてゆく事と信じます。また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードがついに完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、ここに名実共に都内屈指の商店街として完成したのです。
また、当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスは買い物客であふれ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。
昭和五十一年(1976年)夏に「秋田まつり」のタイトルで夏祭りを実施し企画部員が竿灯を製作して、竿灯の演技も披露しました。数年後の「秋田まつり」では、秋田市のご協力で本場の実物の竿灯を寄贈いただき、秋田市の職員による竿灯演技も行われました。
昭和五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮りが行われ、雨天の中、商店街は収録風景を見ようとする子供達であふれ、多くの人波の為、お店によってはシャッターを閉める程でありました。出演者は竹町生まれの伊東四朗さん他でした。
平成十一年(1999年)三月二十八日、午後七時より日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継がおこなわれアーケード内、百五十メートルを平成小PTA、ボーイスカウトなどの協力を受け、ドミノ(VTRテープ)をならべ、テレビ局でも生放送でやったことがない一大イベントの生中継を成功させる事が出来ました。最近では商店街が映画(デスノート、クロサギ、二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官・窓際太郎の事件簿、時効警察、婚カツ!、コールセンターの恋人、産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク、オロナミンC、風邪薬カコナール、NEWクレラップ)等の撮影に数多く利用されています。
昭和五十七年(1982年)九月二十七日、旧佐竹藩主の後裔佐竹義栄氏を始め、秋田姓氏家系研究会(会長杉沢文治氏)会員の諸氏が佐竹氏江戸邸史跡等探訪のため当地を訪問されました。これが機縁となって親善交流を深め、秋田市長の来街、相互訪問等を重ねております。平成二年秋には親善交流十周年を記念事業を実施し、佐竹商店街のお客様に秋田を訪問していただく企画も催しました。
佐竹のみならず、昨今商店街をめぐる商業環境は予断を許さぬものがあります。しかし先人多くが幾度とない危機を乗り越え、発展を続けた努力を見習い、お客様に愛され、お役に立てる街としてさらに精進を重ねてゆきたいと思っております。
どうぞご叱声を心からお願い申し上げます。(長い引用でしたが「佐竹商店街」HPより)
実に歴史ある商店街だったのですね。
「三味線堀」
現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
三階に 三味線堀を 三下り
二上り見れど あきたらぬ景
江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上こうつうの発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会
その商店街の一角にある「ふしぎどう」。その由来は知らず。
佐竹家秘伝の薬がこれ。
「龍角散」。知らなかった!
なるほど!
「手打蕎麦 与之助」がっちり門扉までしまっていました。
「給食当番」。「ま~だだよ」が気に入りました。
コッペパンの揚げパン。懐かしい。
この日はガイドを片手に歩き回る人多し。台東区のこの界隈のイベント「モノマチ」。あちこちで手芸の店など下町に息づくお店が即売会や作品製作などやっていました。けっこうな人通りでした。
趣のある店「鶏陣」。自家飼育の「大山どり鶏」を扱っている、とか。
気がついたら2時間以上もふらふら。
「幸福のり」。
まだまだ奥が深い下町商店散歩でした。