おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

海岸水門~将監の鼻~環七。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その2。)

2013-05-31 20:21:43 | 歴史・痕跡
 陸地側にぐっと入り込んだところに「海岸水門」がありました。かつての「左近川」河口。東京湾最奥、「海岸堤防」のおへそのような位置?
旧堤防(現・都道450号線)からの「海岸水門」。
「海岸水門」。右方向が「新左近川親水公園」。
来た道(旧海岸堤防)を振り返る。
「海岸水門」。往時を偲ぶ遺構。
コンクリート製の頑丈なつくり。ゼロメートル地帯の高潮・水害を防ぐ機能を持っていた。
道路をはさんだ「左近川」側に残る「海岸水門橋」の遺構の一部。
水門越しには埋め立て地に建てられた建物群。
広い道路を渡って遊歩道は右手奥に続く。
右手の小高い道が「葛西海岸堤防」跡。
海岸堤防があった頃と同じに、海に突き出すように道は左にカーブ。
「将監の鼻」の碑。「都道」側に旧堤防の一部が保存されている。
「旧海岸堤防」。
碑の正面。
由来と潮干狩りの写真。
 《碑文》
 昔、この地は、”将監の鼻”と呼ばれ、海の玄関口として知られていました。
 葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを採る舟が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリエ-ションの場としても親しまれていました。
 この堤防は、昭和22年のカスリーン台風、続く昭和24年のキティー台風による被害を経て、昭和26年に高潮から内陸部を守る目的で建設に着手され、約4.5kmに及ぶ工事が昭和32年に完成しました。
 以来、幾多の自然の試練からこの土地を守ってきました。
 しかし、一方では先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうというつらい役割も担って来ました。昭和47年からの東京都の埋立て事業ねにより、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により無事にその役割を終えました。
 海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるため、堤防の一部を残し記念とします。
 昭和61年8月 江戸川区長中里喜一

「海岸水門」方向。右に直角に曲がっている。
「環七」方向。
かつての海側。当然、海を望むべくもない。
のところ。
 このあたりがかつては岬で、「将監の鼻」と呼ばれたとのこと。向井忠勝の官位である左近衛「将監」に由来しているようです。

 「将監(しょうげん)」。
 近衛府の将官名。四等官の判官(ジョウ)に相当し、六位上の官位に相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる役目。近衛将監は六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと、左近大夫(さこんたいふ)将監あるいは右近大夫(うこんたいふ)将監。将監を略して、左近大夫あるいは右近大夫と称された。 

このあたりは、一直線の海岸線。
のところ。
堤防面は、けっこうな高さがある。
下の道路を見下ろしたところ。
自転車もすいすい進む。
「環七」との交差点を渡る。
「環七」葛西臨海公園方向を望む。
「堀江団地」交差点。右側の広い道路が「環七」。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清砂大橋~江戸川区球場~海岸水門。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その1。)

2013-05-30 21:16:23 | 歴史・痕跡
 江戸川区の最南端。かつての海岸線(「葛西海岸堤防」)沿いを自転車で。この道は、以前は幅広い堤防上の道。今はサイクリングロード、ジョギングコースとしてよく整備されています。清新町から左近川親水公園、旧海岸堤防を通って舞浜大橋へ向かうルート。なお、旧堤防に沿って「都道450号線」が続いています。約4.5㎞の道のり。
赤い線がかつての海岸堤防線。明治以来の海岸線に沿って堤防がつくられたようです(「左近川」河口付近を除いて)。
(1917年~24年)明治以来の海岸線にほとんど変化がない。東京湾のこの水域は浅瀬が広がっていました。
(1965年~68年)。西南側に陸地が造成されていく。
 以上の地図は、すべて「今昔マップ」より拝借しました。(この「今昔マップ」は痕跡追求者にとっては最高に利用価値があり、すばらしい。感謝します。)
 この堤防。1947(昭和22)のカスリーン台風や1949(昭和24)年のキティ台風のとき高潮で大きな被害を受けたため、水害(高潮被害)防止のために、1951(昭和26)年に着工、1957(昭和32)年に完成しました。延長4.4㌔、地面(もともと海抜0メートル地帯)からの高さ4~5㍍で堤防の幅も広く、昭和38年の航空写真でも海岸沿いには自動車も通れる立派なコンクリート道路として写っています。
旧葛西海岸堤防(昭和30年代 撮影者E.Saitou氏)「エドルネ日記」(写真で振り返る我が街の歴史~昭和30年代の写真をみながら)より拝借しました。立っている人の姿から堤防上ははかなり幅が広かったことがうかがわれます。

 その後、東京湾最北東部の埋め立て、干拓、宅地化もどんどん進み、1972(昭和47)年からは、堤防の外側の埋め立てが始まり、「海岸水門」と二カ所に堤防の一部が保存されていること、遊歩道、旧堤防に沿って続く都道が曲がりくねっていること以外、かつてここが堤防(海岸線)だったという面影はありません。

 ここで、おさらい。

 太日川(江戸川の古名)の広大な三角州だったこの地は、江戸期までに現在の旧江戸川を挟んで隣接する現・浦安地域を中心とした堀江新田の一部として開発された。
 入植した村民による私設の海岸堤防が築かれて「葛西海岸」と呼ばれるようになり、堤防の内側は田畑がつくられた。その外側には三枚洲や蜆島(しじみじま)などの干潟や湿地帯が広がり、貝類や海苔、葦などの採集が行われ、人口の流入を促していた。
 1871年(明治4年)の廃藩置県で、印旛県葛飾郡堀江村の飛地となっていたが、大字堀江のうち江戸川右岸が東京都に編入され、南葛飾郡葛西村の大字となる。
 1957年(昭和32年)には、「葛西海岸堤防」が整備されたが、江戸川の氾濫や高潮によってたびたび浸水被害を受けていた。高度経済成長期に地下水汲み上げによる地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化して農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には「黒い水事件」が発生して沿岸漁業も衰退、放棄地には産業廃棄物の処理業者が集まり、ゴミの不法投棄なども行われ公害も深刻化した。
 このため、1970年(昭和45年)、江戸川区は海岸水門で道路を封鎖して産廃業者を締め出し、1972年(昭和47年)には、東京都が葛西沖開発事業を開始した。この埋め立て事業で隣接して臨海町や清新町が誕生したが、かつての海岸堤防があった場所は都道450号線として遺され、護岸の一部も保存されている(かつて葛西海岸の岬だった「将監の鼻」付近)。
 1975年(昭和50年)7月、日本化学工業小松川工場が約8万トンの六価クロムを堀江町に不法投棄していた事が発覚し、住民主導で除染にむけた地域活動が行われた。1979年(昭和54年)11月、住居表示が実施され、従来の堀江町は南葛西一〜七丁目となり、旧江戸川河川敷が旧町名のまま住居表示未実施の無人町となって残されている。( 以上、「Wikipedia」より)
 
 と、戦後の高度経済成長にあわせ、様々な変遷・課題を体現してきたようなところでもあったのです。
 さっそくたどってみましょう。スタートは清砂大橋東詰。
「清砂大橋」。荒川・中川に架かり、江東区砂町と江戸川区清新を結ぶ橋。この地点は、首都高・中央環状線「清新町」ランプ、東京メトロ線、清砂大橋と三つの橋脚が並ぶところ(見えているのは、首都高とメトロ線の橋脚)。その橋脚の北側たもと。
北葛西・「八幡神社」前の道。このあたりが荒川河口と海岸線の接点。この神社は昔からここに位置しています。
の地点。
 なお、この地図は昭和40年代前半のものですが、注目すべきは、「堀江地区」。この地域は、それまで長く田畑としての表記があったが、何の記号もない土地(荒れ地?)になってしまっています。上述の「地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化して農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には『黒い水事件』が発生して沿岸漁業も衰退、放棄地には産業廃棄物の処理業者が集まり、ゴミの不法投棄なども行われ公害も深刻化した。このため、1970年(昭和45年)、江戸川区は海岸水門で道路を封鎖して産廃業者を締め出し・・・」という記事に関連していると思われます。
で囲った地域。
右奥に見えるのが「旧葛西海岸堤防」。
保存されている「旧葛西海岸堤防」。すぐそばにも別に一部が保存されています。
「AP5.3m S32完成」と記されています。「AP」は海水面からの高さ、「S32完成」は、昭和32年(1957年)完成したことを意味する。

 旧葛西海岸堤防については、葛西沖の埋立開発事業に伴い本来の役割を終え、清砂大橋の工事により撤去する予定でした。しかし、水害から都民を守り、かつての東京湾の海岸線をしのばせるこの堤防の一部を、葛西沖で漁をしていた地元住民等からの「高潮から守ってくれた堤防を残して」との要望をうけて、江戸川区西葛西の清砂大橋取付部の脇に保存しました。
 平成17年3月19日(土曜日)に地元住民の主催により、旧葛西海岸堤防及び江戸川区により設置された記念碑の除幕式が行われました。除幕式には、江戸川区長、東京都第五建設事務所長も参列しました。(「東京都第5建設事務所」HPより)

記念碑。

当時の堤防は現在の首都高沿いに東方向に向かっています。その先は、道路整備などで元の堤防(海岸線)の位置は定かではありません。橋脚は東京メトロ。右は、首都高。
「江戸川区球場」の西側からかつての堤防を整備した緑道が続きます。
そこから見た「江戸川区球場」。
 「江戸川区球場」。1984(昭和59)年に完成。ここでは、夏の甲子園予選東東京大会、東京都東部の高校野球各種大会など、主としてアマチュア野球の試合に頻繁に利用されています。以前は、プロ野球のイースタン・リーグ公式戦(主にヤクルトスワローズ主催)も開催されていたそうです。23区内の、都と区が管理する野球場の中で、硬式野球が可能な貴重な球場です。
スコアボールドも電光掲示板で本格的。この日は、どこかの企業内対抗戦を行っていました。
かつての堤防の西側には学校や住宅地が広がっています。埋め立てをした際、「海岸堤防」を残して、ニュータウン(清新町地域)が出来ました。
周囲より一段と小高くなった堤防跡の遊歩道。整備にもそうとうの費用がかかったようです。
「新長島川親水公園」。南に向かうと「新左近川親水公園」へ。ここは、堤防があった頃までは区内の北東から流れたきた「長島川」の河口だったところ。 
海岸堤防跡の道路から見た「新左近川親水公園」。かつては、ここは、東京湾の最奥部。現在は、入り江風になって水辺も広々として、木々に囲まれた水辺の公園らしい雰囲気。 
「中左近橋」から西を望む。かつては、このあたりは、遠浅の海。
「中左近橋」の南。今は、遠くまで市街地が続く。
東を望む。遠く奥の方に「海岸水門」(下部の鉄製のしきり扉が赤く塗られている)が見える。かつての海岸線の位置。

 本来の左近川は旧江戸川から江戸川区臨海町の海岸水門までで、周囲から中小河川の水を集めて東京湾に流れ込む一級河川でした。農業用水としてだけでなく河港としても利用され、漁業やノリ養殖業を行う「べか舟」がたくさん停泊していました。
(明治中期の頃のようす。「歴史的農業環境閲覧システム」より。)青い流れが「左近川」。現在保存されている「海岸水門」の遺構よりももっと奥深くて幅広く浅瀬が広がっていた。
 明治時代頃より、東京湾の漁業は活発になり、葛西地区でも1903年(明治36年)に「葛西浦漁業組合」が組織されました。さらに、1951年(昭和26年)には都営の第二種漁港である葛西漁港が作られ、東京湾(奥)唯一の漁業根拠地と言われました。
 しかし、1950年代の東京湾では東京ガス大森工場の重油流出や江戸川漁業被害などの海洋汚染が頻発し、「葛西海岸堤防」などの海岸堤防の建設も進められて、しだいに漁業には適さない海になってきました。結局、1964年(昭和39年)に漁業権を放棄して、葛西漁港も廃止されました。1972年(昭和47年)には東京都が葛西沖開発事業を始めて、清新町や臨海町の埋立地が造成され、左近川は荒川(西)と旧江戸川(東)を結ぶようになりました。また、海岸水門から荒川までの人工水路は新左近川(しんさこんがわ)と呼ばれ、流域は新左近川親水公園として整備されています。
 左近川の名前は、江戸幕府の舟手奉行だった向井忠勝の官位である左近衛将監(しょうげん)に由来すると言われています。左近川に近い行徳塩田は戦国時代から戦略物資の「塩」を生産する重要な土地で、江戸時代には江戸城への補給路として新川が作られました。これらを防衛するために忠勝の陣屋が下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に置かれていたようです。堀江は旧江戸川河口の右岸と左岸に広がっており、右岸は1895年(明治28年)に葛西村に編入されました。左近川周辺には忠勝の名前が残っており、例えば葛西海岸の中央の岬は「将監の鼻」と名づけられて、埋め立て後の今も地名として残っています。(以上、「Wikipedia」参照)

 べか舟(旧江戸川対岸の市川市のHPより―写真も―)
 
 海苔の養殖、貝漁などに使われるべか舟と呼ばれる木製の舟は、行徳の風物であった。山本周五郎の「青べか物語」でも、このべか舟がおもしろく描かれている。水が進入しないように、ぴったり木を張り合わせて、手作業で行うべか舟づくりは、家を建てることよりも数倍むずかしく、船大工たちの職人芸であった。
 行徳や浦安では、明治時代、主に海苔採りなどに使われる目的で、手づくりの木造船が登場し、これがその後「べか舟」と呼ばれるようになった。戦後は、貝漁、魚漁、農舟(運搬用)、釣りなどに使われ、行徳の風景のひとつとなっていた。小さいながら、帆を張ることもできる。
やがてプラスチック舟にとって変わられ、姿を消していたが、今は、市立市川歴史博物館などで、当時の姿を見ることができる。
舟溜り(昭和32年 境川)
ノリ採取 (昭和47年代)
『青べか物語』(山本周五郎)新潮文庫
 昭和35年、作家の山本周五郎は『青べか物語』を発表した。
 彼は、昭和3年から昭和4年にかけて、浦安・行徳地域に滞在し、その体験をもとに、この地域の自然・人情・風俗を生き生きと描いた。楽天的でたくましく、時にはこっけいさを持ち合わせながらも、素朴で純情に生きる当時の人々のようすが、作品の中で描写されている。
 "青べか"という小説のタイトルは、冒頭で主人公が青ペンキで塗られたくたくたのべか舟を買うところからきている。そのべか舟は、通常もよりも胴がぶっくらふくれて、不格好なしろものであった。

かつての海岸堤防跡の道から「海岸水門」を望む。「左近川」の河口に位置していました。
のところ。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「クラーク記念国際高校」。「元祖黒焼」。「ふしぎどう」。「給食当番」・・・。お店シリーズ。その2。 

2013-05-29 20:21:07 | 世間世界

 「妻恋坂交差点」。左の角にある学校が「クラーク記念国際高校秋葉原ITキャンパス」。エベレスト80歳登頂の三浦雄一郎さんが校長先生。もともとクラーク記念国際高校は、本校が北海道深川市にある広域制の単位制・通信制高等学校。現在は、全国展開しています。
関東近辺にもけっこう存在。
 「クラーク」の名は、札幌農学校(現: 北海道大学)の初代教頭W・S・クラークにちなんでいる。アメリカに帰る年に、クラークが札幌農学校の生徒たちに「少年よ、大志を抱け (Boys, be ambitioius!)」という一言を残したという話は、有名。

 「妻恋坂」そのものは、蔵前橋通りと昌平坂通りとの交差点から少し北に入ったところにある神社名から来ている坂。別名で、大超坂または大潮坂、大長坂、大帳坂とも(もとあったお寺の住職の名前からとったらしい)。「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、 明暦の大火(1657年)坂の北側に「妻恋神社」が旧湯島天神町から移ってきてからだそうだ。

「妻恋神社」。
 その昔、日本武尊 (やまとたけるのみこと)が東方征伐のおり、三浦半島から房総への途中で大暴風雨にあい、妃の弟橘姫が海に身を投じて海神の怒りを鎮めたという。途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕う心をくんで、尊と姫を祀ったのがはじまりと伝えられる。江戸時代には、妻恋稲荷の名で有名となり王子稲荷と並んで参詣者を集めた。
江戸時代から伝わる木版刷りの縁起物が「夢枕」と呼ばれるもの。七福神を乗せた宝船の版画で、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるといわれる。(文京区のHPより) 

 ところで、「明暦の大火」とは?
 
 1657年、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災のこと。「振袖火事」「丸山火事」とも呼ばれる。
 この火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城の天守はこれ以後、再建されることはなかった。
 火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものらしい。「ロンドン大火」、「ローマ大火」と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上、日光街道の千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。
 
「振袖火事」と呼ばれるわけ。
 ウメノは日蓮宗不受不施派・本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年1月18日(1655年2月22日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施のしきたりによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。
 イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。

「北谷(ちゃたん)食堂」沖縄料理の店。沖縄音楽のライブもやるらしい。
何だか不思議なお店。「私設図書館・ジャッツキステ」と。
? 店内にはへんてこな本がいっぱいあるそうだ。

「元祖黒焼」。ガラスケースには、瓶入りのさまざまなものが・・・。残念ながら休みのようでした。
(以下は、HPより)

 明治初期、伊藤彌助によって、黒焼専門店・総元祖「伊藤黒焼店」として創業。
 当時は、まだ医療も薬品も充分に体系づけられておらず、人々の健康は、医療機関ばかりではなく、漢方をはじめ様々な民間療法までもが担っている時代でした。
 文明開化の幕開けとはいえ、その頃の人々の体力も食事内容も、現代から見ればまことに乏しいものがあり、ことに病中・病後などは、医療の未発達なことと共に国民の経済的事情などとも相まって、病気の治療もさることながら、体力の低下を補うことも難しかったようです。
 健康保険や医療制度も確立されていない時代では、病院もあちらこちらにあるわけではなく、今のように気軽に医者にもかかることもできませんでした。そこで、とりあえずは体力をつけて様子を見ることが一般的でありました。
 そのような中で、民間伝承によって受け継がれてきた、おもに滋養・強壮を目的とした漢方薬や健康食品が人々の間に浸透していったのも至極当然の成り行きでした。
 「黒焼」は価値ある漢方薬および健康食品としての評価を得て、病中・病後の滋養・強壮や体質改善などを求める人々に受け入れられ、飛躍的に普及いたしました。
 神田から上野(かつての黒門町)にかけて、そののち数多くの黒焼き店が増え繁盛いたしましたが、保険制度の整備や医療機関の拡充という時代の流れの中で、近年そのほとんどが消え去ってしまいました。
 今では「伊藤黒焼店」が、東京で唯一の"黒焼き専門店"として、約130年の伝統を守って今日に至っております。 店主敬白

 黒焼きは、土で作られた釜のような容器に、植物・虫・魚・動物などを入れて密閉し、蒸し焼きにしたもの。これによって、素材の持つ栄養価を凝縮するだけでなく、通常の食べ方では摂ることの出来ない成分を引き出すといわれている。さらに炭化させることによって、近年知られるようになってきた炭のパワーをもあわせ持つことになり、理想的な健康自然食品といえる、らしい。

具体的には(お店のHPより)、

・蝸牛(カタツムリ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円    腎臓・糖尿
・田螺(タニシ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円       肝臓
・土竜(モグラ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円      痔疾
・赤とんぼ(アカトンボ)10日分(50g)5,000円 1ヵ月分(150g)15,000円  喉の咳
・狐の舌(キツネノシタ)10日分(2袋)10,000円 1ヵ月分(6袋)30,000円    脳梗塞後の体調不良、50肩、尿もれ
・馬歯(バシ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円        リュウマチ
・まむし(マムシ)1ヵ月分(100g)8,000円               滋養・強壮
・まむしの卵(マムシのたまご)1ヵ月分(100g)12,000円           体力作り
・伯州散(ハクシュウサン)10日分(50g)13,000円 1ヵ月分(150g)39,000円  滋養・強壮
・鯛(タイ)10日分(50g)8,000円 1ヵ月分(150g)24,000円         胆石などの結石
・らん髪(ランパツ)10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円     血尿
・鮒(フナ)1袋(100g)5,000円                      膝などの痛み
・大蒜(ニンニク)10日分(50g)6,000円 1ヵ月分(150g)18,000円      体力作り
・茄子のヘタ(ナスのヘタ)1袋(30g)2,000円               歯肉炎・歯槽膿漏
・スッポン 1ヵ月分(100g) 15,000円                    滋養・強壮
・意守(イモリ)10日分(50g)5,000円 1ヵ月分(150g)15,000円       滋養・強壮
・コウモリ 10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円         うつ病
・蚯蚓(ミミズ) 10日分(50g)4,500円 1ヵ月分(150g)13,000円     熱さまし

 とまあこんな具合。スッポンやまむしなどは何となく分かるが・・・。まさに漢方薬、民間療法の一翼を担っていますね。
「伯州散」は、反鼻(まむし)、津蟹(さわがに)、鹿角(鹿の角)を黒焼にして粉末にしたもの。
「らん髪」は、人間の髪の毛を黒焼きにしたもの。

「佐竹商店街」幅は狭いですが、結構長いアーケードが続きます。個人名みたいな商店街とは?

 秋田佐竹藩城主、佐竹右京太夫 藤堂和泉守の江戸屋敷には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあったそうで、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったといいます。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転したのであります。
 移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたといいます。幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員百三十六名に及んだと記録されております。
 各藩にとってその江戸屋敷は重要な政治的、文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然。佐竹藩も、広大な敷地に、当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでありましょう。
屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいたそうで、ここから「竹町」の名前が生まれたといわれております。
明治41年頃の三味線堀  ※左手が佐竹商店街
 明治維新の後、廃藩置県が実施され佐竹藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。明治二年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数六十八戸、住民数は二百六十八名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。
 しかしながら明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場・娯楽街として充実発展してゆきます。かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになります。さらに祭文定席、玉ころがし、射的、大弓場などもでき、義太夫、講談、落語、祭文かたりが聞け、ゆで小豆を売る店などが並びます。
 そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地にはいれば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となってゆきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど殷賑を極めました。
 大正初期には戸数三千八百十三個、人口一万二千三十四名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。
 大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。
 現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、もと秋葉ヶ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを明治二十二年(1889年)下谷佐竹屋敷跡地に移した説と、明治十九年(1886年)6月の朝野新聞に佐竹ヶ原の秋葉教会所の縁日が賑わったとの記載があり、詳細は不明でした。
 ※平成25年2月研究者の方よりの情報により 明治18年1月20日の読売新聞に次の記事があり「秋葉の遷座 今日ハ深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を今度下谷竹町の佐竹の原へ遷座し安置式を執行する其道筋ハ御船蔵前より万年橋を渡り河岸通り永代橋を渡り小網町通り堀留大門通り大丸にて小休み夫よら弁慶橋通り柳原へ出て右へ美倉橋を渡り三味線堀より竹町の教会所へ着の手筈なりといふ」この記事から佐竹秋葉神社の創建が解りました。
 昭和五年(1930年)、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。商店街も二十四日を特売日としてサービスをしており、戦後も四の日特売は昭和四十年代まで続きました。
 昭和十一年(1936年)東京市の調査では店舗は全部で百十六店でした。(約半数の六十三店が衣料関係品店、食料品店十四店、その他の店三十九店)。
 昭和十六年(1941年)太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗りつぶされ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと消費生活は徐々に狭められ、物資は軍事優先に使われて行き、主な生活必需品は配給制度となり、企業整備の名のもとに、小売業は不要とされ閉店を促し、事業主・従業員は軍需工場に徴用され、慣れぬ工場労働にかり出されました。当然商店街は火の消えたようなありさまで、まさに暗黒の時代に突入していったのです。
 昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の雪の降る昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。売るに物なく、買うに人なきありさまでしたが、終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で不死鳥のごとく瞬く間に往事の賑やかさを取り戻しました。
 昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。その頃、商店街には店員さんも多く、商店街内で野球チームが3,4組出来ていました。昭和三十五年(1960年)には協同組合を結成、さらに三十八年(1963年)には振興組合に改組しました。
 昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え、台東と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として絶える事なく後世に伝えられてゆく事と信じます。また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードがついに完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、ここに名実共に都内屈指の商店街として完成したのです。
 また、当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスは買い物客であふれ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。
 昭和五十一年(1976年)夏に「秋田まつり」のタイトルで夏祭りを実施し企画部員が竿灯を製作して、竿灯の演技も披露しました。数年後の「秋田まつり」では、秋田市のご協力で本場の実物の竿灯を寄贈いただき、秋田市の職員による竿灯演技も行われました。
 昭和五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮りが行われ、雨天の中、商店街は収録風景を見ようとする子供達であふれ、多くの人波の為、お店によってはシャッターを閉める程でありました。出演者は竹町生まれの伊東四朗さん他でした。
 平成十一年(1999年)三月二十八日、午後七時より日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継がおこなわれアーケード内、百五十メートルを平成小PTA、ボーイスカウトなどの協力を受け、ドミノ(VTRテープ)をならべ、テレビ局でも生放送でやったことがない一大イベントの生中継を成功させる事が出来ました。最近では商店街が映画(デスノート、クロサギ、二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官・窓際太郎の事件簿、時効警察、婚カツ!、コールセンターの恋人、産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク、オロナミンC、風邪薬カコナール、NEWクレラップ)等の撮影に数多く利用されています。
 昭和五十七年(1982年)九月二十七日、旧佐竹藩主の後裔佐竹義栄氏を始め、秋田姓氏家系研究会(会長杉沢文治氏)会員の諸氏が佐竹氏江戸邸史跡等探訪のため当地を訪問されました。これが機縁となって親善交流を深め、秋田市長の来街、相互訪問等を重ねております。平成二年秋には親善交流十周年を記念事業を実施し、佐竹商店街のお客様に秋田を訪問していただく企画も催しました。
 佐竹のみならず、昨今商店街をめぐる商業環境は予断を許さぬものがあります。しかし先人多くが幾度とない危機を乗り越え、発展を続けた努力を見習い、お客様に愛され、お役に立てる街としてさらに精進を重ねてゆきたいと思っております。
どうぞご叱声を心からお願い申し上げます。(長い引用でしたが「佐竹商店街」HPより)
 実に歴史ある商店街だったのですね。

「三味線堀」
 現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 
   二上り見れど あきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上こうつうの発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。 平成15年(2003)3月  台東区教育委員会
 
その商店街の一角にある「ふしぎどう」。その由来は知らず。
 
 佐竹家秘伝の薬がこれ。
「龍角散」。知らなかった!
なるほど!

「手打蕎麦 与之助」がっちり門扉までしまっていました。
「給食当番」。「ま~だだよ」が気に入りました。
コッペパンの揚げパン。懐かしい。
この日はガイドを片手に歩き回る人多し。台東区のこの界隈のイベント「モノマチ」。あちこちで手芸の店など下町に息づくお店が即売会や作品製作などやっていました。けっこうな人通りでした。
趣のある店「鶏陣」。自家飼育の「大山どり鶏」を扱っている、とか。
 気がついたら2時間以上もふらふら。
「幸福のり」。
 まだまだ奥が深い下町商店散歩でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「今荘」。「麺者服部」。「鳴門鯛焼本舗」。・・・。お店シリーズ。その1。

2013-05-28 20:18:11 | 世間世界
 このあいだの土曜日。神保町の「日本教育会館」での集会のお誘いがあって、久々に都心まで。例によって折り畳み自転車。約1時間30分。荒川・四ツ木橋を越えるときがしんどいだけで、隅田川・蔵前橋も含め、あとは街中をすいすい(蔵前橋通りの神田付近、お茶の水駅から水道橋あたりが急な坂)。人混みの中をかき分けかき分け、約14キロメートル?
 会合も終わり、帰りの道筋。辺りをきょろきょろしながら自転車を走らせる。
 そこで、出かけた目的・内容はそっちへおいて、そこここで見かけた興味深いお店特集を。神保町から浅草まで。

「教育会館」の道路をはさんで斜め前にあるお店、うなぎの「今荘」。老舗です。外観は、昔と変わらぬレトロな雰囲気。二階で食事をしたことがありました。
「奥野かるた店」。店内にはさまざまなカードゲーム品がいっぱい。

百人一首、かるた、花札、碁将棋、すごろく…。
みなさん、どれかで一度は遊んだことがあるのではないでしょうか。
奥野かるた店は、そんな“あそび”の数々を扱っているお店です。
奥野かるた店は1921年(大正10年)に、「奥野一香商店」として創業しました。
昭和54年に、神田・神保町の現店舗に移転し、最近では一般消費者への販売も拡充しました。
2009年11月に店舗の2Fを改装し、ゆったりとした展示スペースもできました。
メーカーとしても、奥野オリジナル商品の開発を行っています。
弊社店鋪では、かるたや百人一首、トランプを始めとする国内外のカードゲーム、
囲碁、将棋、麻雀牌、チェスやパズルといった室内ゲーム、またTVゲームなど、
広範囲に室内ゲーム品を取り揃えております。
みなさまのご来店を心よりお待ち致しております。(以上、お店のHPより)
なかなか趣のある看板。
ラーメン屋さんにはおもしろい屋号がたくさん。「�跟者服部」。忍者ハットリくんをもじったものらしい。出来たら「甲賀流」とか「伊賀流」とか付け加えるとおもしろかったが。
「忍者ハットリくん」。
これも中華料理屋さん。「麺覇王(メンバーワン)」ナンバーワンということですね。この自信は、さすがです。
 おっとその前に!
「湯島聖堂」。

 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
 明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
 大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。
 (以上、「斯文会」HPより)

「湯島聖堂」のHPより。
今も昔も変わらぬ静かな佇まい。

「鳴門鯛焼本舗」。
「天然」?
 7、8年前、徳島に行ったときに、帰り際に鳴門海峡を見下ろすお店に入り、「活き作り」の鯛を注文。さっそく出てきた鯛に箸をつけようとしたら、すでに刺身になった鯛が勢いよく飛び跳ねてテーブルの下に。慌てた、いい大人が3人、畳に散らばった鯛を手でつかんで皿に戻し何食わぬ顔で食べた、という想い出が急に思い出された。ついつい名前に誘われて二匹買いました。なかなかおいしい。
その包み紙。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エビでタイを釣る」話。(「新中川」を下る。その4。番外編)

2013-05-27 20:06:07 | 格言・ことわざ
 行きはヨイヨイ、帰りは何とか。もと来た道を戻るのもしゃくに障るので、帰りは、右岸(西側)を上ることに。
正面からの道が、「仲井堀」跡。
 「仲井堀」は現在はほとんどが道路となっていますが、一之江付近では親水緑道として存在しています。「中(仲)井堀」は、葛飾・水元公園(小合溜)を水源とする農業用水路。かつて、葛飾・江戸川の田畑を潤していた。
高速道路方向を望む。水路はここで南にカーブします。新中川開削の影響はあまりなく、昔のままのようです。
新中川の土手から南を望む。新中川に沿った道路が「仲井堀通り」。
両岸ともボートの係留地。遠景は、「大杉橋」。
対岸の緑の森は「瀬戸口公園」。

 小さな公園で遊具も少ないのですが周りが森林のようで池もあり、大きい子達が探検をして楽しめる感じです。
 池も夏になったら綺麗に水の入れ替えをしてくれると水遊びができます。のんびり歩いていると、どこかの庭園の中にいるみたいに静かでい い場所です。(「江戸川区時間」HPより)

野良ちゃん達が集まって会議中。普通は夜なのに、ここでは・・・。
帰りはのんびりと。上り・下りといってもほとんど高低差を感じない川。
このあたりは、水辺近くになっていて木々の緑も濃くなっています。
 
 二人連れ。しきりに水辺の笹を切り取って短くしたものを束ねていました。「どうするんですか?」「これを海に沈めてエビを捕るんだよ」「エビをどうするんですか?」「エビでタイを釣るんだよ」「えっ!」「つかまえたエビを餌屋にもっていけば、3000円くらいに売れるんだよ」。
 周囲をよく見るとたしかに笹の葉が生い茂っている。この場所だけなのが、フシギ。


 次々と切っては束ねていく。足下にはけっこうな量。手慣れた雰囲気。
 本日の大収穫! こういう出会いがあると、自転車でぶらぶらも楽しい。

 そこで、「ことわざ由来辞典」HPより。
海老で鯛を釣る
◆読み
えびでたいをつる
◆意味
少しの事柄や努力で、大きな事や利益を得ること。
◆使用例
あの投資は「海老で鯛を釣る」ような物だったよ。
◆一言メモ
わらしべ長者という話は、まさに「海老で鯛を釣る」ようなお話ですね。しかし世の中には中々「海老で鯛を釣る」ような話は無いようです。

 
 ところが釣りではホントウにあるのですね。
「YOUTUBE・動画」より。餌となるエビ。
釣果。けっこう釣れていました。なるほどなるほど。
 あの方達は、元手いらずで(手間暇はかかるが)お金をゲットする、というわけです。(こういう風に紹介していいいのかな?)
根こそぎするわけではないから、生えてくる。

新緑の葉の間から小さな花がいっぱい。何という木なのか?
小さな薄い色の花。
 開削50年。自然と木々も育っていくのですね。


こうして出発点・「新中川通水記念公園」に戻りました。お疲れ様でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「南椿橋」~「瑞穂大橋」(「新中川」を下る。その3。)

2013-05-26 15:57:00 | 世間世界
 下流になると心なしかながれも広くゆったりとした雰囲気。川幅も広くなっていよいよ旧江戸川に合流です。
「明和橋」。
 新しい都市空間の門をモチーフに、4本の塔を持ち、新たにバルコニーが設置され、町並みに映える風格のある橋として演出されている、とか。ごつい感じがしておもしろい趣。
 江戸川区の橋の方が葛飾区側に比べ(ガーター橋のみ)、それぞれデザインが凝っている。それは、当初の橋が道路事情や耐久年限の問題で、付け替えられる、その時に装いを新たにしたようです。橋の愛称なども区民に募集しているなど、地元密着の施策の表れでもあるようです。葛飾区の場合には、車の通る橋と人道橋とを区別して架橋している点は大変けっこうな取り組みです。
上流を望む。「涼風橋」。この橋の名も区民からの公募で決まりました。
いよいよ最下流地点へ。「瑞江大橋」を望む。架橋50年。かなり老朽化した橋も目立ちます。
かつて瑞江橋~今井街道沿いには「城東電車」が走っていました。斜めの道路。赤色が「新中川」。
「新今井橋」からの「今井水門」。

 今井水門は新中川が旧江戸川に合流する地点に1963(昭和38)年に設置された防潮水門。江戸川区・葛飾区・足立区の低地帯を高潮や津波の侵入から守る役割を担っている。都内では最大級の水門で、幅員14.5メートルのゲートが7つ並んでいます。
「水門」付近から「新今井橋」を望む。
けっこう水量も多く、流れが急です。
終点。「瑞穂大橋」からの旧江戸川との合流点。対岸は、千葉県浦安市。
「新中川」の水も集めて南に下る「旧江戸川」。はるか南・河口の東には「東京ディズニーランド」、西側には「葛西臨海公園」があります。
新中川の河口・東岸にある「今井児童交通公園」。
《ここまでの橋》
・春江橋
・涼風橋
・明和橋
・瑞江大橋
・新今井橋(新大橋通り)
・瑞穂大橋=最下流の橋。

上流から下流まで橋の数の合計 25。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「JR新金線橋梁」~「南椿橋」(「新中川」を下る。その2。)

2013-05-25 12:00:18 | 世間世界
 すでにあった住宅地や農地などを開削し造成した関係で、けっこう橋の多い川です。もともと川がなければ縦横に行き来していたのですから、当然のこと。「新中川」によって分断された道や用水路なども明らかにその痕跡は残っています。「荒川」のような大河でないせいでもあります。橋も架けやすく、地元の便宜・要望なども取り入れているのでしょう。
 「上一色橋(蔵前橋通り・江戸川区)」は、回り込むかたちで、ちょっと道をそれ、蔵前橋通りの信号機のある横断歩道を渡ります。
「上一色中橋」が少し上流で新設工事中。
 江戸川区に入ると、河川敷も広くなり、芝生やベンチなども置かれて、ほどよい「健康」コースになります。
「辰巳新橋」。これまでの橋がフラットな(変哲のない)橋でしたが、この橋は印象深い橋になっています。
「アーチ」橋。形式は、「バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋」とか。アーチ部材と補剛桁の間に斜めに張ったケーブルを配置した形式だそうだ。
上から二番目の形式。

《コンセプト》
 「街との語らい」を基本テーマに小岩地域のランドマークとして上流部の拠点に相応しく、人々が集う場所として軽快な印象を与え、水辺を包み込むようなイメージになるようアーチをモチーフに軽快さを演出されたものとなっているそうです。

夜景。TVドラマなどの舞台にもなっているそうです。

上流を望む。奥に見えるのが、JR総武線の鉄橋。
「下小岩親水緑道」。
JR小岩駅方向に進んでいきます。
案内。江戸川区内の「親水公園(緑道)」は、緑も多く、流れには魚も泳いでいます。よく整備されていて落ち着いた静かな緑道歩きが楽しめます。
西のはずれ。流れ口。「小岩ポンプ場」南側。
このあたりから「釣り舟」がちらほら。「屋形舟」や船宿の看板も。
幅広い整備された道が続きます。川風が心地よい。散歩をしているご同輩がちらほら。
「鹿骨新橋」。

《解説》
 川の眺めを意識しスレンダーで軽快な橋として、また、親しみやすい公園橋としてのイメージを、花と緑をモチーフに演出。水面に張り出した4ヵ所のバルコニーは橋の象徴であり、水辺との距離を近づけることにより橋上公園のようにもみえる。ただ川を渡るためだけではなく、広い歩道と水面近くまで張り出したバルコニーや彫刻により、人々が集い憩えるコミュニティの場にもなっている。
 小学校に近く、子供達が集う「鹿骨新橋」の象徴である4ヵ所のバルコニーには、次代を担う子供像(彫刻)が設置されている。「愛」「平和」「未来」「勇気」を表現された子供像は「次世代は私たちに任せておいて」と力強く語りかけているという。
 来月の9日に行われる「大学対抗ボートエキジビションレース」の垂れ幕が見えます。遠くて分かりにくいので。
ポスター。

上流を望む。
両岸にボートの係留地が続く。
「大杉橋」。橋名でもある大きな杉をモチーフに、視認性の高い形態でシンボル性と開放感が演出されている。また、沿川流域や遠方からも主塔と斜長ケーブルが目立ち、優雅なハープ橋にも見えるとのこと。真上に飛行機が。
レンゲの群生。遠くに見えるのが首都高小松川線の橋脚。
右から「新椿橋」「首都高小松川線」「南椿橋」。

《ここまでの橋》
・上一色橋(蔵前橋通り・江戸川区)
・上一色中橋
・JR総武本線新中川橋梁
・辰巳新橋
・小岩大橋(千葉街道)
・松本橋
・鹿骨新橋
・鹿本橋
・大杉橋
・一之江橋(京葉道路)
・新椿橋
・首都高速7号小松川線
・南椿橋

《これから先の橋》
・春江橋
・涼風橋
・明和橋
・瑞江大橋
・新今井橋(新大橋通り)
・瑞穂大橋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「高砂橋」~「JR新金線・新中川橋梁」。(「新中川」を下る。その1。)

2013-05-24 22:51:43 | 世間世界
 爽やかな季節。かなり暑くなってきましたが、まだ乾いた空気。真夏のむしむしした気候とは違い、少しばかり快適。久々に川沿いの道を折り畳み自転車で下りました。「荒川」、「隅田川」(まだ最終ゴールまで行っていませんが)に続き、今回は、「新中川」。葛飾区・高砂橋下流で「中川」と分岐して南に下り、江戸川・瑞江付近で「旧江戸川」と合流します。およそ1時間半ほど(写真を撮ったり少し寄り道して)。ほぼ一直線。両岸とも遊歩道・サイクリングロードがほぼ完備しています。左岸(東側)を下りました。
 「新中川」は、以前、「中川放水路」と呼ばれていました。完成してから今年がちょうど50年目。そこで、というわけです。
概念図。
開削工事前のようす。田畑が目立つ。青色が新中川。(「今昔マップ」より)
 
 1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風によって東京東部大規模に浸水被害を受けたことで、本格的に中川改修が検討され、1949(昭和24)年、中川放水路(新中川)の開削が始まり、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963(昭和38)年3月に中川放水路は完成しました。その後、一級河川に指定され、河川名が「新中川」と改称されました。
 カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県東村(現在の埼玉県大利根町付近)での利根川堤防の決壊。この地点は、利根川の水が集中する上、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点でもあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていました。
 こうした要因によって、1947(昭和22)年9月15日午後9時ごろ堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに、東村の利根川右岸提が340㍍にわたって決壊。濁流は南に向かい、午前3時には栗橋町、午前8時には鷲宮町、午前10時には幸手町(現在の幸手市)、午後1時には久喜町(現在の久喜市)に到達します。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には、笠原村(現在の鴻巣市)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達した。水は「櫻堤」に堰き止められてどんどんと溜まる一方であり、これが決壊すれば、東京の下町は一気に濁流に飲み込まれることとなる。
 そこで、隣の江戸川右岸提を爆破して、江戸川に水を逃がす事を決定。進駐軍の工兵隊が現場に急行するが、堤防は頑強で爆破は失敗してしまう。19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没します。19日午後3時ごろようやく爆破に成功し、「櫻堤」付近の水は江戸川へと流れ始める。
 同じころ、八条村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめる。
 なお、利根川の決壊個所の復旧工事は70日あまりの期間で、のべ16万人が動員されたという。その後、利根川や江戸川ではこうした規模の洪水は発生していません。(以上、「wikipedia」による。)
 
 ずっと以前住んでいた家は、昭和21年頃に建てられた家であった。そこに移り住んできて、しばらく経って物心がついたころ、家のどこの柱にも、ちょうど子どもの背丈くらいのあたりが、黒ずんでいたことに気付きました。その時、これがその台風の爪痕だということを、父親から聞いたことがあった。(その時は、キャサリーン台風と聞き覚えていたが)それが後年まではっきりと残っていて、そのすさまじさに、子供心にも驚いたものでした。
 なお、この2年後に大型で強い台風、キティ台風が上陸。高潮のために、今度は下町の江東区や墨田区などを襲って、浸水などの大きな被害を受けた。わずか2年足らずの大型台風の被害だったので、この台風と混同している人もいるようです。
 
 冒頭の写真は、高砂橋から中川と新中川の分岐点を望んだもの。正面奥の緑が「新中川通水記念公園」。下る前に橋を渡ってちょっと寄り道。
その公園に「中川放水路通水記念碑」があります。
碑の裏面。すでに文字がかすれて判読不能の箇所もあります。
「新中川通水記念公園」の全景。
そこから望む「高砂橋」。

 
 さて、これで予備知識を得たので、下ることにしましょう。
高砂橋から。こちらが、中川。遠くにスカイツリー。

 今でも蛇行している「中川(古利根川)」は、かつては流路が幅広く、氾濫原や入り込む流水もありました。環七「青砥橋」を越えた辺り。
赤く囲ったところ。黄色い線は「環七」。
そこを埋め立てて整地して葛飾区運動施設がつくられています。かつての中川に流れ込んでいた水路跡がその周辺道路として残っています。
「環七」から回り込んだところ。かつての水路のようにカーブしています。
周囲を土盛りしています。左がグランド。右方向に「新中川」。
奥の施設は「温水プール」。

「新中川」と金町と新小岩を結ぶJR貨物線との間には、畑が続きます。運良く電気機関車が通過。日に数回しか通らないはずなので、ラッキーでした。
舗装された歩行者・自転車専用の道路。
川面には立ち入れません。眼下に青さと新緑を眺めながらの自転車こぎ。
下流を望む。
「新金貨物線」の踏切の名称「立石大通踏切」。立石「大通」りという名称は、その道がかつての東海道(官道)であったことを示しているようです。

「古代東海道」(奈良~常陸)
 大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。(ここでも、何度か紹介済み)

 《豆知識》京成電車は、かつてこの立石大通りから四ツ木にかけて(「古代東海道の一部を)走っていました。
赤い線が「京成電気軌道」。青い線が「古代東海道」。(1924年ころの地図「今昔マップ」より)
右の道が「古代東海道」、左にカーブして荒川方向に進む道がかつての軌道跡だと思われます。

中川放水路の開削工事では多くの家屋が立ち退きになりました。JR新金線も同様。まっすぐに進んでいた線路は東側にカーブすることになりました。ここがもともとの線路だったところの分岐点。金町方向を望む。
線路跡は舗装道路になっています。右が旧線路。左が現在の線路。
新中川土手から見たところ。直線道路が旧線路。
このあたりからモーターボートなどの係留が多く見られます。奥が「新金線」の橋脚。
「新金線」複線化の予定があったのか、橋脚がそのまま残っています。新中川を越えてからしばらくして総武線と合流します。

《ここまでの橋》
・高砂諏訪橋
・細田橋
・三和橋
・八剣橋
・奥戸新橋(奥戸街道・葛飾区)
・JR新金線新中川橋梁

《これから先の橋》
上一色橋(蔵前橋通り・江戸川区)
上一色中橋
JR総武本線新中川橋梁
辰巳新橋
小岩大橋(千葉街道)
松本橋
鹿骨新橋
鹿本橋
大杉橋
一之江橋(京葉道路)
新椿橋
首都高速7号小松川線
南椿橋
春江橋
涼風橋
明和橋
瑞江大橋
新今井橋(新大橋通り)
瑞穂大橋


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「見ること」と「見られること」(読書「イメージ 視覚とメディア」)

2013-05-23 19:31:46 | 読書無限
 この絵は、「毛皮をまとったヘレーネ・フォアメント」ルーベンス(P90に掲載)。
 最初の妻イザベラが死去した4年後の1630年、当時53歳だったルーベンスは16歳のヘレーネ・フォアメントと再婚した。この肖像画は、古代ギリシア彫刻によく見られる「恥じらいのヴィーナス」のポーズで描かれている。が、・・・。



 この絵に関する著者の指摘。
 「彼女の肉体は直接的な光景でとしてではなく、体験、つまり画家の体験として我々に向き合う。なぜなのか。・・・重要な理由は形式的なものである。彼女の姿は画家の主観の反映なのだ。彼女がまとっている毛皮の下で彼女の上半身と下半身は交わることはない。9インチほどの誤差がある。彼女の腿が腰と接するには9インチほど左に離れすぎているのである。」(P91)注:9インチは、約23㎝。
 「・・・彼女の上半身と下半身は別々に反対方向に回転することが可能になり、・・・同時に、この隠された性器は黒い毛皮のコートによって、絵の中のすべての闇と結びつき、彼女は彼女の性のメタファーとなった闇のなかをうごめくことになる」(同)
 
 そこから、一方では画家、思想家、パトロン、所有者(多くは富める者)の個人主義があり、他方では彼らの行為の対象となる女性が物や抽象のように扱われていると言う現実的な矛盾が、「見る者」(男性)と「見られる者」(女性)との間に存在していること、さらに、理想的なヌード(像)が壊れ、その重要さを失いつつある過程を明らかにしていく。
 この書では、図版が多く取り入られ、「ものを見る」とはどういう意味(意義)か、イメージという言葉でくくられながらも、実は曖昧な(さまざまな)事物(見る対象)の氾濫の中で、「見ること」そのものを捉え直している。巻末に、伊藤俊治「見ることのトポロジー」も。俯瞰的な立場から見ることの位相、変容を解説した、分かりやすく興味深い論文が載せられている。

「見るということ」(ジョン・バージャー)ちくま学芸文庫。
「肖像写真」(多木浩二)岩波新書。
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「イメージ 視覚とメディア」(ジョン・バージャー)ちくま学芸文庫

2013-05-22 21:21:22 | 読書無限
 ちょっと関係する仕事上で、ごたごた続き。なかなかPCにも向かえず、更新もままならず。メールと電話とお出かけと、・・・。一件落着までには、まだまだ時間がかかりそうな、・・・。
 世間でもハシモト発言などで盛り上がっていますが、世の中、ご多分に漏れず、ああ言えば、こう言えば「ハシモト」みたいな御仁も多いようで。開き直り、知らんぷり、陥れ・・・。
 こうした世事に紛れながらも、合間に読んでいた本に興味深い表現があったので。「イメージが芸術作品として提示された時、人々がその見方をすでに教えられた先入観によって影響される」ことの恐れというフレーズの中の言葉です。

 
 美、真理、才能、文明、形態、地位、好み、その他。こうした先入観の多くは、そのままではもう世の中にあてはまらなくなった(「現在」は純粋に客観的な事実ではなく、意識的なものである)。こうした先入観は過去を曖昧にし、神秘化してしまう。過去は、それが何であったのかを認識してもらうために見つけられるのを待っていることはない。歴史は常に現在と過去の関係からなるのだ。結局は現在に対する恐れが過去の神秘化につながっていく。過去とはそのなかで生きる場所ではなく、行動するための結論を汲み出す井戸のようなものである。過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む。つまり芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
 我々が風景を見る時、我々はその風景のなかに自分を位置づける。もし我々が過去の芸術を見たならば、我々は自分を歴史の中に位置づけるのである。我々がその位置を見ることを妨げられているのであれば、我々は我々に属する歴史を奪われていることになる。では誰がこの剥奪をおこない、そこから利益を得ているのだろうか。最終的には特権的な少数者が、支配階級の役割を正当化する歴史をつくりあげるために、過去の芸術は神秘化される。そしてもはや現代においては、そのような正当化が意味をなさなくなろうとしているがゆえに、彼らはやっきになって神秘化に励むのである。(P18)
 
 ここでは、芸術作品の受容が、すでにイメージづけられているのだということを述べています。過去の芸術作品を与えられた一定の先入観で見てしまうことへの恐れ。

 
 「手っ取り早い手段が売春婦になることだった」「従軍慰安婦はどこの国の軍隊でもあり必要なものだった、日本だけが強制云々と批判されるいわれはない」「自衛のための戦争で、侵略ではなかった」「敗戦したのだから侵略と見なされてもしかたがない」。「現憲法は廃棄」「改正の手続きを低く」・・・。
 「日本維新の会」のハシモトとイシハラのツートップの政治的発言。いずれも「当時は」(「過去」は)という限定をつけているところが、カギ。
 しかし、現在(意識的なものでしかない「現在」)を行動するための結論を汲み出す井戸のようなものが、「過去」。とすれば、過去を「神秘化」することによって(「神秘」とは、まさに「神」的なものであって、堅く信ずべき対象として位置づけ、それによって現在の行動を促すきっかけとする。)、現在の行動を正当化する。だからこそ、彼ら(二人)は「やっきになって神秘化に励むのである。」
 自らの主張の歴史的な正当性(事実か否か)は、まったく問題ではありません。国内外から、多数、反論されようと、こうして主張し続けていくことが、彼ら自身の現在を意義たらしめるゆえんとなっていくのです。そこを見抜かないと、過去に起こった事柄を巡る「論争」でしかなくなります。また、そこに持ち込むのが彼らの戦法。「日本維新の会」が主導する戦前回帰の道筋を見極めなければならないと思います。
 本書の内容からかなりそれました。次回は、本の内容を紹介。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「映像の修辞学」(ロラン・バルト)ちくま学芸文庫

2013-05-14 21:19:18 | 読書無限
 最近、飛行機や電車、旅先の宿で、暇に任せて読み進めていた本を紹介。このところ、20年、30年以上前の哲学者などの著作を読んでいます。今回は、ロラン・バルトもの。刊行は、1980年。実に30年以上。
 今もその先見さに脱帽。言語(作用)へのこだわりが(愛が)その中心。
 読んでいるうちに、気がついたら現役教師時代、私自身のテクストへの向かい方や教授法などけっこう影響を受けていたことを改めて実感。良かったか悪かったか、受験教育的な物も含めて果たして・・・、と、自戒。
 
 ロラン・バルト。1915年生まれ。フランスの批評家・思想家。1953年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、言語論、記号論、構造論・・・など多岐に亘って、現代思想にかぎりない影響を与えつづけた。1975年に彼自身が分類した位相によれば、
(1)サルトル、マルクス、ブレヒトの読解をつうじて生まれた演劇論
(2)ソシュールの読解をつうじて生まれた『記号学の原理』『モードの体系』
(3)ソレルス、クリテヴァ、デリダ、ラカンの読解をつうじて生まれた『S/Z』『サド、フーリエ、ロヨラ』『記号の国』
(4)ニーチェの読解をつうじて生まれた『テクストの快楽』『彼自身によるロラン・バルト』などの著作がある。
 そして『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』を出版したが、その直後、1980年2月25日に交通事故に遭い、3月26日に亡くなった
(以上「みすず書房」HPより)
 当方の読み取りとしては、文学作品、映画、演劇、写真などによる作者の主体として発信される言語メッセージに対して、そのメッセージを受信する者の受け取り方の解釈の可能性についての考察に独自の視点があった(後に大きな影響力をもつ独創性があった)、ということに。

 具体的な写真、映画に当たりながら、「エクリチュール」とその対立概念「パロール」の差異に注目し、「エクリチュール」は快楽の知的媒介として機能するととらえる。それは、ソシュールの言語論に触発されたもの。
 特に哲学(批評的)な立場として引き合いに出されるのは、「作者の死」ということ。バルトは、「作者」という概念に疑問を投げかける。ふつう「作品」を鑑賞するということは、作者の意図を正確に理解することであるととらえる。しかし、作品とは様々なものが引用された織物のような物であり、それを解くのは読者であるとして、芸術作品に対してこれまで受動的なイメージしかなかった受信者の側の創造的な側面を強調した。
 この書は、
①広告(写真)からいくつもの記号をつかみだし、言語的メッセージを読み取っていく。
②報道写真やグラビア写真から構図、手法を読み取る作業。
③映画作品の記号論的な魅力。
 そして、訳者の一人、蓮實重彦さんと杉本紀子さんの解説が掲載されている。蓮見さんの論説「ロラン・バルトまたは複数化する断片」は、バルトの言論の奥深さ、魅力を語っていて興味深い。誤訳への軽いたしなめも含めて。

 お薦め。
『恋愛のディスクール・断章』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「『国語』という思想 近代日本の言語認識」(イ・ヨンスク)岩波書店

2013-05-13 20:16:02 | 読書無限
 今日の激しい国際的な競争社会の中にあって、日本人がその能力を発揮し、国際人として通用する能力としての英語力を身につけることが最も急がれる課題である、と。
。小学生からの英語教育の必要性、実用的な英語能力の開発、国際人としての英語力を! さまざまなかたちでこれまでの英語教育の見直しと改革が叫ばれ、小学校から社会人まで、そのスキルを磨くための訓練がさまざまなかたちで実施されています。
 一方で、学校現場では「国語」という言い方がまかり通り、ようやく大学等では「日本語(学科)」という言い方に変わりつつあります。
 「国語」と「日本語」。「外国語」に対するものの言い方としてどちらがより適切か? 
 明治期の日本。幕・藩体制から国家としての統合体として「日本国」(大日本帝国)つくり。その要として創出されたのが「国語」。地域の文化、伝統によってさまざまな築かれた「国」民をどう統合し、「富国強兵」「殖産興業」によって近代資本主義国家をつくっていくか、その要となったのが、言語による思想・伝統・文化の統合。まさに「国家」観の涵養、それに基づく「国民」観の養成であったわけです。その主体の任を負ったのが「国語」教育。さらに、日清・日露戦争などを通じて、大陸に日本「国」の橋頭堡を築き、朝鮮・台湾を植民地化した後、いかに「日本国」民として天皇体制のもとにすべての人々を「国民国家」のもとで収斂させていくか、ここにきて、日本語の「国際化」が叫ばれていきます。そのとき、ようやく日本語の持つ言語としての特徴・また弱点(国際語として通用するか)が明らかになってきます。朝鮮語・中国語を操る人々にどうやって「日本語(国語)」を植え付けるか?
 そうした現在と未来とを見据えた論争が戦前、国語学者の間で繰り広げられました。そのなかで、ますます日本語(での表現)の限界が見えてきます。
 言語は、決してコミュニケーションの手段のみではないという、今日では常識的な言語観が生まれていくようになります。それが、そのまま敗戦後の日本の言語政策のぶれにもつながっていきました。そうした過程を克明に論じた書。最初に刊行されてからかなり年月が経っていますが、「国語」というものの成立とその思想性について改めて考えさせられました。
 
 日本語そのものの特性を論じた書を紹介。
池上嘉彦「日本語と日本語論」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「昭和維新試論」(橋川文三)ちくま学芸文庫

2013-05-10 20:23:06 | 読書無限
 「日本維新の会」。「維新」という称号が大向こうを狙って受ける時代。ナショナリズムの台頭。
 「解説(中島岳志)」にもあるように今日の日本においても、格差社会の拡大の中、青年達の「スピリチュアルな自分探し」ブームは去ったものの、ますます深まる閉塞感(状況)が心情的な排外主義に傾斜し、「日本維新の会」等が声高に叫ぶ独りよがりな理想論・行動論さらにはマスコミの待望論が、青年たちを偏狭なナショナリズムへと落とし込んでいくのではないかと思わせる現在の風潮。
 青年の心情を巧みに利用する極右政治家、感情的な扇動家たちのアジテーションによって、今また運動となって日本の社会を変える(かつての戦前の時代へと)契機になりつつあることを実感する。
 かつての昭和「維新」運動は、超国家主義の時代を招いた。特にその思想的・行動的影響は、青年層を刺激し、テロなどに決起させ、その暴力性が当時の国民に次第に「共感」を呼び、急速に巨大化していく1920年代。
 どうして当時の青年たちが「昭和維新」運動に感化され、むしろ主体的に担い、暴力を肯定し、テロを起こすことになっていったのか? 
 筆者は、「超国家主義」の時代のスタートを、大正10年(1921年)に起こった朝日平吾の安田財閥の総帥、安田善次郎暗殺にあったとして捉えていく。さらに、ただ一人、街頭で「桃太郎主義」を訴えた渥美勝の生き様を取り上げていく。こうして、昭和維新思想の起源を明治の国家主義(遅れてきた資本主義国家)が帝国主義(三度の戦争を経て、資本主義体制の確立)に転じたとき青年の心に広がった不安と疎外感のなかに見出す。
 当時、社会主義思想(絶対的天皇制下に置かれていたという限界性を踏まえるつつも)が青年(労働者)の心をつかむことができないまま、一方で、軍部・右翼が台頭し、青年の心を獲得していく過程。高山樗牛、石川啄木、北一輝、平沼騏一郎、また右翼団体などを取り上げ、青年の心情を捉えていったかをつまびらかにする。
 相変わらずの閉塞状況下、こうしたときには必ず登場する言論。北朝鮮はもちろん、韓国、中国、ロシアへの徹底した敵視政策(今や、アメリカまでもその対象とするかのような言動も飛び出している)の中、憲法問題が浮上、目くらましの「手続き論」、その陰にある「憲法第九条」改「悪」。そのための「国民投票」を18歳に下げようとする安倍内閣。こうした動きに、きな臭さを感じる。そんなことまでも思う、一書。
 ふと漱石の「こころ」の一節を。先生のことば。

「自由と独立と己とに満ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないでしょう。」

 個人主義が個人の人格や自立の基盤でもあるとともに、孤独や独善の源泉でもあることを漱石は見抜いていた。今のネットのやりとりの過熱ぶりを見るにつけて、「独善」が生む弊害をしっかりと見定める必要がある。むろん、ここは国家の「独善」がいかに国民を誤った方向に導くかへの憂いからのものである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藍綬褒章。ご隠居さん。高崎山。蘭。(あっという間の別府・大分。)

2013-05-07 20:21:35 | つかのまの旅人
 2年ぶりの大分・別府。かの名高い温泉に行ったわけではなく、長年、ある団体を通しておつきあい願っていた方が引退され、新しい方がその跡を継いだ、そのお祝いをするために出かけたら、それどころではなく、ご隠居さんが「藍綬褒章」。その話題で、持ちきり。新聞の地元版に写真入りで、でかでかと掲載されていた。
 この方、市会議員歴も長く、町会長、民生委員・児童委員、消防団の団長など、多彩な活動を行ってきた(とは噂で聞いていたが、本当だった!)。会えば、年に何回か、ため口どころか、こちらがえらいそうな口をたたく。実に恐れ多いことでした(とはまったく思ってもいませんが)。年の差は充分あるが、こちらの減らず口にも心優しく対応してくれ、ますますこちらも・・・。
 そこで、本来の目的はさっさと切り上げ、新旧交えて飲み会になってしまいました(理由はどうでもよく、気持ちよく飲めさえできれば)。
 まるで、「勲章」などに無縁(今までもこれからも一生)な小生。改めて、調べました。

 褒章(ほうしょう)とは、社会や公共の福祉、文化などに貢献した者を顕彰する日本の栄典の一つ。対象となる事績により、紅綬褒章、緑綬褒章、黄綬褒章、紫綬褒章、藍綬褒章、紺綬褒章の6種類がある、とのこと。
 褒章は天皇が授与する栄典! 法的には、戦前は大日本帝国憲法第15条の「其ノ他ノ榮典」であり、戦後は日本国憲法第7条7号に該当する国事行為。
 詳細は褒章条例(明治14年太政官布告第63号)により定められる。同条例1条によれば、紅綬褒章は「自己ノ危難ヲ顧ミス人命ノ救助ニ尽力シタル者」、緑綬褒章は「自ラ進デ社会ニ奉仕スル活動ニ従事シ徳行顕著ナル者」、黄綬褒章は「業務ニ精励シ衆民ノ模範タルベキ者」、紫綬褒章は「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者」、藍綬褒章は「教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者」、紺綬褒章は「公益ノ為私財ヲ寄附シ功績顕著ナル者」にそれぞれ授与される、と。

 憲法第7条に基づく、天皇の国事行為!

 授与された褒章は、授与された本人に限り、終身これを着用することができる。褒章を着用するときは、左胸のあたりに着ける。ただし、授与された者が、懲役刑・禁錮刑・死刑に処された場合、褒章は没収され、褒章授与者としての地位は剥奪される。なお、褒章は独立行政法人である造幣局が製造している。
 なお、個人に授与される場合は、褒章(メダル)とともに褒章の記が授与される。褒状、褒章の記ともに、受章者・表彰者の氏名または名称、受章・表彰理由、授与・表彰の年月日と記号番号、天皇の名で授与・表彰する旨が記されて国璽がおされ、内閣総理大臣と内閣府賞勲局長が署名・押印する。日本の法令・行政上の扱いでは、褒章とは「○綬褒章」の名称をもつ褒章のみを指す。
 褒章の授与とともに、金銀木杯(賞杯)を授与することもある。特に、公益のために私財を寄附した者に授与される紺綬褒章を授与する場合には、あわせて授与される木杯の基準がその寄附額によって定められている。また、本条例によって表彰されるべき者が死亡したときは、金銀木杯または褒状をその遺族に授与し、これを遺族追賞という。
 既に褒章を授与されている者が再度同様の理由によって褒章を授与されるべきときは、その都度銀色の飾版のみを1個授与され、既に授与されている褒章の綬(リボン)に附加して標識とする。この飾版が5個(5回の受章)以上に達したときは、5個ごとに金色の飾版を1個と引き替える。
 紅綬褒章・緑綬褒章・黄綬褒章・紫綬褒章・藍綬褒章については、勲章と同様、毎年4月29日(昭和の日)及び11月3日(文化の日)に発令される。各回、約800名に授与され、それぞれ「春の褒章」「秋の褒章」、あわせて「春秋褒章」と呼ばれている。
 春秋褒章の授与は、衆議院議長、参議院議長、国立国会図書館長、最高裁判所長官、内閣総理大臣、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官及び内閣府に置かれる外局の長が、候補者を内閣総理大臣に推薦して行う。内閣総理大臣は、推薦された候補者について審査を行い、褒章の授与について閣議の決定を求める。褒章の伝達は、「内閣総理大臣の命を受け、内閣府賞勲局長が所管大臣に伝達し、所管大臣が適宜受章者に伝達する。」と定められている。褒章の授与は、官報に掲載される。(以上、「Wikipedia」より)
 とまあ、仰々しいほどの権威付けがされています。即、褒章になるわけでなく、この方も、市長表彰、知事表彰、総理大臣表彰などここに来るまでにはそうしたものを何回も受けていたとのこと。その上で、ここにたどり着くというわけですね。

 そこで、「藍綬褒章(らんじゅほうしょう)」。
 
1881年(明治14)の太政官布告第63号「褒章条例」によって制定され、教育、衛生事業、学校・病院の建設、道路・橋梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖などに貢献した人に授与された。現在は、教育、医療、社会福祉、産業振興などの分野で公衆の利益を興した人、また、保護司、民生・児童委員、調停委員などの事務に尽力した人が対象となっている。範囲が広いため、毎回褒章の多くを占め、年間では約1000人が受賞している。◇英訳名:Medal with Blue Ribbon。
 ちなみに、褒章制度の根拠として明治14年に制定された「褒章条例」第一条では、藍綬褒章は次のように規定されている。

 教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者ニ賜フモノトス
近年では、医師会や労働組合の代表を長年務めてきた者、民生委員・児童委員、国勢調査員、保護司、消防団の団長などが多く藍綬褒章を受賞している。

 実際、政財界の名士(?)への叙勲とは違って、保育園の園長さんや商店のおやじさんなどももらっている。主上が無名の民草を思いやっているぞ、という制度ですかね。
 いずれにしても、「天皇陛下の名において授与される」ということ。今回は、5月16日に伝達式が行われるということでした。モーニングか羽織袴ですかと聞いたら、略礼服でもいいそうだ、と。参列するための心構えや着付け、お祝いの電報の出し方・・・、微々入り、細に入りそのための業者の宣伝がインターネットにはありました。
 こうして、あれやこれや酒の肴に盛り上がり、しこたま飲みました。もちろん、お祝いされる人に飲み代は全部出してもらいました。ごちそうさまでした。これからもお元気で。平均寿命にあと1年余ですが、大幅に超えそうな勢い。
 この地でこの方の名を出せば警察も、自衛隊も、泣く子も黙るという権威者(と自称)。でも、最後に寄ったラーメン屋のおばさんは、まるで知らなかった! 今度は、晴れ舞台の東京でお会いしましょう。
 ご自宅に立ち寄ったら、地域の各界名士からは、お祝いの花束がたくさん。すてきな「らん」ばかりでした。これはちょっと「ラン」違い!

JR別府駅方向を望む。
アーケード街。このもの寂しさがいいですね。「SOL PASEO GINZA」。
駅前通りにあった看板。「タツノコプロ」「ENTERTAINMENT CITY BEPPU」。
はじめの写真は、「高崎山」。
 
 ま、出身高校に行けば、文化勲章を含めて、褒章・勲章となったら、東京の肉眼で見える星の数(チョッとおおげさですが)ほどいるでしょうが・・・。
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山市立子規記念博物館。はがき歌。愚陀佛庵。「春や昔」。・・・。駆け足で松山・道後。その4。

2013-05-05 21:31:50 | つかのまの旅人
 今回のメインは、子規記念博物館。道後温泉駅から歩いて数分のところ。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
 館内は、写真撮影禁止。
 けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
 道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
 特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。

・うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)

ここだけは撮影可。愚陀佛庵(ぐだぶつあん)の一階部分の復元。
 この建物は、夏目漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先。名称は、夏目漱石の俳号・愚陀佛に由来しています。当時の建物は太平洋戦争の戦災により焼失しました。1982年に萬翠荘(旧久松家別荘)の裏手に木造二階建ての建物として復元されていましたが、2010年7月に倒壊してしまいました。

 この建物は元々、松山市二番町にあった上野義方邸の離れである。1895年(明治28年)に夏目漱石が、英語教師として旧制松山中学校に赴任していた際に下宿として利用した。また、52日間に渡って俳人・正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これは後の漱石文学に影響を与えたと言われている。子規は、著書俳諧大要を残した。
 元の建物は戦災により焼失したが、1982年(昭和57年)に現在の地に復元された。松山城山腹で、周囲は深い森となっている。なお、当初の建物があった場所は現在(2009年現在)は繁華街の一角で、駐車場となっており、路傍に碑が設置されている。
 2010年7月12日、午前6時ころから短時間に大雨が降った影響で山腹の土砂が崩れ、愚陀仏庵が全壊した。現在、萬翠荘としては再建の意思があり、協力を呼びかけているが、計画は具体化していない。(以上、「Wikipedia」より引用。)
かつての「愚陀佛庵」。句会などが行われていたそうです。
復元された室内のようす。
 
 子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。

①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき 

 これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」という。明治35年9月19日死去。享年35歳。

 正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。翌年が明治元年ですから、子規の年齢は明治の年号と同じになります。本名を常規つねのり、幼名を升のぼるといい、父常尚つねなおは、松山藩士御馬廻番、母八重は藩校明教館教授大原観山の長女です。5歳のとき父を亡くした子規は、祖父大原観山の訓育を受け、叔父加藤拓かとうたくせん川(後外交官、松山市長)の影響を受けました。
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。
「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています。(「子規記念博物館」HPより)
 記念館として俳句や短歌のコンクールを行っているようです。
「第18回はがき歌全国コンテスト」表彰式。
優秀賞。(どちらもHPより)
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」
《付》上京当時の仮寓の地。
隅田公園内。長命寺の桜もち「山本や」。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
江戸時代のころの「山本や」。
「長命寺桜もち」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする