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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

老いては子に従え

2024-03-14 21:01:48 | 格言・ことわざ

 最近(といっても、何と14年前のブログ記事)のトイレの「日めくり」より。改めて読みなおすと、ますます我が意を得たり。

というわけで再掲。

①「老いては子に従え」=今や「老いても子を従え」になっているような気がします。元気な年寄りが多くて、家族の者がそろそろ「引退を」などと言おうものなら、かえって意固地になって頑張っていく。家族は半分はあきらめ顔。でも平和なのかもしれませんね。

②「驕れる者は久しからず」=今は「驕れる者は久しい」になっていて、いつまでも権力の座に座って、周りの忠告も何のその。驕れるというより、驕っていないと我が身が危うい、そんな危機感がかえってますます驕り高ぶらせるかもしれせん。

③「腹は立て損、喧嘩はし損」=今は「腹は立て得、喧嘩はし得」という感じ。先に腹を立てた方が勝ち。大声でわめきたてると、周りも何だか仕方がなくなって・・・。喧嘩もした者勝ちの風潮がありそうな・・・。

④「言いたいことは明日言え」=今となってはこれじゃ、ダメ!「言いたいことは今言え」の世界。言いたい放題、言った者勝ち!「先んずる者は人を制す」の世の中。先んじられたら、人に制せられてしまうのだから。

⑤「源清ければ流れ清し」=「源は清くても流れは汚し」。出発当初は理念も目的もすばらしく何となく先を期待したが、途中であれやこれやちゃちゃが入って、次第に何だか当初の清々しさは、いつしか汚辱にまみれて・・・。

⑥「木を見て森を見ず」=「森を見てばかりで木が見えず」になってしまって。大向こうをうならせるような立派な総論を発言、大局観を感じさせたのも一瞬。個別具体的な課題や現状が見えてくると、自らの不明を恥じるどころか居直る方が多くなった。当事者はますます怒ってしまう。いやはや・・・。

⑦「七度探って人を疑え」これは本義よりも、今の世相にぴったりになってしまった!

 政治の世界も何もかも、どうも昔の格言のようにはいかないようで。

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虎の尾を踏んだ。逆鱗に触れた。さてどうなる?どうする?

2014-01-15 21:00:42 | 格言・ことわざ
進次郎氏、小泉元首相の細川氏支援に理解 「そうだろうなと」(産経新聞) - goo ニュース
 反「反原発」包囲網をものともせず、細川・小泉元首相。すでに政治家として過去の人と化した人間がここで立ち上がるとは! ここまで反原発の主張が本気だったとは! とマスコミ。
 いよいよ細川つぶしに奔走するに違いない。特に、1億円問題に焦点を浴びせてくるだろう。どうなんだ! (細川さん自身はこの借金は抵当権をつけ、10年で返済した、との弁明があろうとなかろう、と。)さらに「原発推進」「反原発」という世論「誤」操作(かつての郵政選挙で有権者はこりごりしている、と。)だ!

 すでに「讀賣」は反細川キャンペーンを大々的に始めている。産経ももちろん、スポーツ新聞も(おそらく)。マスコミも今のアベに及び腰。細川・小泉(暗躍)連合にNO! となるはず。
 何しろ、反原発は許せない立場。口に出し、行動することはもってのほか。国民の目に、今もこれからも福島第一原発事故の恐るべき実態をタブーにしなければならない。まさに「原発推進」可否は、政財界の生命線。

 かつて、2011年秋。菅さんが「反原発」宣言をしたとたん、民主党からも異論反論。そのときの投稿記事を再掲。

 四面楚歌なんていうものじゃない。この時は、項羽のたてこもる城内にはわずかばかりでも味方が存在した。今や、菅さん「前門の虎後門の狼」。「脱原発」を言ったとたん、この騒ぎ。一説には、自公民などの政治家で電力会社から政治献金を貰っていないのは、菅さんと河野太郎の二人だけという。電力会社にしてみれば献金してもまったくうまみがないから、という次第にちがいない。
 かの町長も原発関連企業下請けの関係者。献金も仕事もけっこう貰っているらしい。だから、あれほどの罵詈雑言を菅さんに浴びせた。海江田さんも見事、迷演技に騙されてしまった。ばれるようなやらせメール問題でも、九電の責任はうやむや。
 これまでの日本、「脱原発」は脳天気な反体制の「犬の遠吠え」、評論家の絵空ばなしくらいにしか思われていなかった。「日経」を筆頭に、マスコミも徹底して原発推進キャンペーン。
 経済成長の要、産業興隆の生命線、「豊かな」電化生活、夢の生活・・・。無事故。絶対安心。安価。地元雇用、地元優遇、原発なしなら産業の空洞化、節電・停電の不自由生活、社会不安、・・・。原発に反対する者は日本国民ではない、くらいの勢い。
 自民党、公明党、民主党・・・、皆、巻き込んでの政治策動。政・官・民・財・教、すべての分野で一体となっての原発推進。
 ところが、時の宰相が虎の尾を踏んでしまった! 例えば、フクシマミズホが金切り声を上げて「反原発」「脱原発」を叫んでも、まったく無視したにちがいない。ところがところが・・・。こうなると、次期政権が「脱原発」路線じゃ困るから、次期首相候補も火消しに回る「菅(ここまで来ると呼び捨て)の個人的見解にすぎない」「政府の統一見解ではない」「民主党の方針ではない」・・・。もう、めちゃくちゃ状態。
 こうなると、何しろ菅さんという犬を早くどぶにけ落として、と。ついには、「どぶに落ちた犬は叩く」をやりたがっている、今のマスコミ。
 項羽は、四面楚歌に陥ったとき、「時、利あらず」と嘆き、最後の戦闘を敢行、討ち死にする。そして、天下は、劉邦の時代(漢)になる。
 本来の意味からは、菅さんの言動に喩えるのは不都合ではある。しかし、国家が立てた方針に逆らう発言をすれば、宰相の地位にある者でも「殺す」ということに喩えられるのではないか。
・・・

 結局、菅さんはぼろくそに言われて(今でもそうだが)、あげく、討ち死に。後の展開は承知の通り。いつしか民主党は雲散霧消、自民党の一党独裁(公明がくっついてはいるが)体制の確立。
 そして、再稼働、原発輸出にしゃかりき。貿易赤字がすごいのは、原発再稼働していないから燃料費がかさむ、・・・(政府は、外国から割高で買っているらしいのに)とまで。
 そこにお二人の登場。公私ともに過去の所行を叩かれるに違いない。その中での、息子さん。なかなか立派。これで、河野太郎も動けば面白いが・・・。はたしてそれだけの意気地があるかどうか?

虎の尾を踏む
 きわめて危険なこと。また、非常な危険をおかすことのたとえ。
「恐ろしい虎の尾を踏みつけると、虎に食い殺されてしまうことになる」ようなものだということ。

逆鱗に触れる
 逆鱗(げきりん)とは、龍の81枚の鱗(うろこ)のうち、あごの下に1枚だけ逆さに生えている鱗のこと。龍は、この「逆鱗」に触れられた場合には激高し、触れた者を即座に殺すとされた。このため、「逆鱗」は触れてはならないものを表現する言葉となり、帝王(主君)の激怒を呼ぶような行為を指して、「逆鱗に嬰(ふ)れる」と比喩表現した。
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八方塞がり。八方破れ。八方睨み。四面楚歌。・・・。

2013-08-21 20:17:32 | 格言・ことわざ
タンク汚染水漏れ、「レベル3」相当 福島第一原発(朝日新聞) - goo ニュース
 産経の見出しではないが。さすがの産経も憂いている? 

八方塞がり=どの方面にも進めず、手の打ちようがないことのたとえ。
【注釈】
 「八方」とは、東西南北・北東・東南・南西・西北の八つの方角のことで、あらゆる方角を意味する。
 陰陽道の占いで、どの方角で何をしても不吉だということから、転じて、どこにも抜け道がなく、誰にも信用されず途方に暮れていることもいう。
【注意】
八方を10進法の8とするのは誤り。
《誤用例》 「占いで八方塞がりと言われたが、ポジティブに考えよう。残りの二方が良いならいいじゃないか」
【英語】
I am in a pretty fix.
より。
 
 誤用例みたいな用い方があるとは! あり得ない感じですが。前向き志向もここまでくると「東電」 並み。

 それにしても、相変わらずの東電の発表。小出しにして、重要な事態を後から。参院選挙直前の「流出」もそういうやり方。小児の甲状腺がんも確実に増えているのに、原発事故の影響ではない!と。しかし、さすがに住民の不安が大きいため、診断の方法、周知のしかた、今後のことなど、再検討へ。
 各地の原発推進派は、これでも、福島の現実を気にしながらも、ああした事故は今後はない(はず)と、地元経済・雇用のためにはやむをえない、と。・・・。
 今の福島原発事故処理。「八方塞がり」というよりも、「八方破れ」が正しい言い方。「八方破れ」=備えがなく、いたるところすきだらけであること。(「デジタル大辞泉」より)
 せめて「八方睨み」になっていなければならなかった事態。

 いよいよ東電など原発推進派を「四面楚歌」の状況に追い込むしかないでね。

「四面楚歌」は、高校の漢文の教科書でおなじみ。

 紀元前203年、天下取りで長く対峙していた項羽(楚)と劉邦(漢)両軍であったが、天下を二分することで盟約が結ばれ、楚軍は本拠地の彭城への帰還を始めた。劉邦は張良・陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。
 漢軍は楚軍を追って固陵という所まで進み、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
 韓信・彭越の2人は、劉邦との恩賞の密約がなって、軍勢を率いて劉邦に合流。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚軍の周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と垓下の劉邦の下に集結した。
 漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔熙と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。
 戦いに大敗した項羽以下、楚軍は防塁に篭り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。
 夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領してしまったのか、楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から「周囲を敵に囲まれること」を「四面楚歌」というようになった。(あたかも取り囲む周囲で「楚」の歌が聞こえたのは、劉邦の巧妙な作戦だったという説もあり。)

 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人(ぐびじん)という愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。別れを惜しみ、項羽は自ら詩に詠んだ。

力拔山兮 気蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋う
時不利兮 騅不逝 時利あらず 騅逝かず
騅不逝兮 可奈何 騅逝かず 奈何(いかん)すべき
虞兮虞兮 奈若何 虞や虞や 汝を奈何せん

 虞美人もこれに唱和し、項羽は幾筋もの涙を流し、臣下の者たちも、皆、涙した。
 宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城に辿りついたときには、項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。
 ここで項羽は、配下の者に「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、私に軍事的な力がないからではない。これから漢軍を破り、それを諸君に知らしめよう」と言い、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
 項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場の役人)は項羽に「江東は小さいが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で再び王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と告げた。
 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の民たちに何の面目があって会うことが出来ようか。」と、亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。
 項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を奪い合い、結局遺体は5つに分かれてしまった。
 項羽の死によって約5年続いた楚と漢の戦いは終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くことになった。
(以上、司馬遷『史記』を参照)

 もちろん、そう簡単ではありませんが。
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パンとサーカス

2013-08-17 21:16:21 | 格言・ことわざ
 映画「カリギュラ」(第三代皇帝・カリグラ)から、遅ればせながら古代ローマ帝国の歴史。そこで、気になっていたことばを改めて。 
パンとサーカス
① これは、詩人ユウェナリス(西暦60年-130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。愚民政策の例えとしてしばしば用いられている言葉。「パンと見世物」ともいう。
 なお、「サーカス」は、古代ローマで複数頭立て馬車による戦車競走が行なわれた競馬場。拡大して闘技場で行われた剣闘士試合などを含めた、スポーツ観戦などの意味で用いられている。
 地中海世界を支配したローマ帝国は、広大な属州を従えていた。それらの属州から搾取した莫大な富はローマに集積し、ローマ市民は労働から解放されていた。そして、権力者は市民を政治的無関心の状態にとどめるため、「パンとサーカス」を市民に無償で提供した。
 現在の社会福祉政策をイメージさせるが、あくまでも食料の配給は市民の権利ではなく為政者による恩寵として理解されていた。また食料の配布は公の場で行われ、受給者は受け取りの際には物乞い行為が大衆の視線に晒されるリスクを負わされた。この配給の仕組みによって無限の受給対象者の拡大を防ぐことが出来た。
 食糧に関しては、穀物の無償配給が行われていたうえ、大土地所有者や政治家が、大衆の支持を獲得するためにしばしば食糧の配布を行っていた。皇帝の中にも、処刑した富裕市民の没収財産を手続きを以て広く分配したネロ帝や、実際に金貨をばら撒いたカリグラ帝の例がある。
 食糧に困らなくなったローマ市民は、次に娯楽を求めた。これに対して、権力者はキルケンセス(競馬場)、アンフィテアトルム(円形闘技場)、スタディウム(競技場)などを用意し、毎日のように競技や剣闘士試合といった見世物を開催することで市民に娯楽を提供した。
 こうした娯楽の提供は当時の民衆からは支配者たるものの当然の責務と考えられるようになり、これをエヴェルジェティズムと呼ぶ。
 パンとサーカスは社会的堕落の象徴として後世しばしば話題にされ、帝国ローマの没落の一因とされることもある。また、「パンとサーカス」に没頭して働くことを放棄した者(これらの多くは土地を所有しない無産階級で proletari(プロレタリー) と呼ばれた、プロレタリアートの語源)と、富を求めて働く者と貧富の差が拡大したことも、ローマ社会に歪みをもたらすことになった。
 しかし、実際にこれらの給付の恩寵を受けたのは広大な帝国人民のなかで数割にも満たないローマ市民権保有者の、なかでも都市に住んでいる、さらに一部であった。共和政の中期、マリウスの軍制改革までは男性のローマ市民はすべて従軍の義務があり、故郷でパトロネジの庇護を受けるのは男手を奪われ(あるいは生命を奪われ)困窮しがちの中小地主階層であり、彼らは軍団兵の家族であった。
 また、実際に配給されるのは焼かれたパンではなく穀物(小麦粉)であり、当然ながら食べるためには調理器具や燃料が必要であり、帝国化してのち述べられるようになった「働く事を放棄する」というのは大げさな表現である。
 統治者側の視点からみれば、ローマにとって穀物給付は大貴族や皇帝が気まぐれに恩寵的に与え始めたようなものではなく、前123年ガイウス・グラックスによって提案された穀物法(低価格で全市民あるいは貧窮市民への売却)提案に起源をもち前58年にクロディウス護民官により初めて実施されたローマにとって伝統的な意味合いをもった政策でもあった。
 当初はポエニ戦役の勝利により急速に拡大したローマ世界において支配階層となっていった大貴族・騎士階層と、ローマ近在の没落しつつあった中小地主階層との格差問題の解消という緊張関係のなかで提案された法案であった。もっとも、実際に穀物給付が政策としておこなわれはじめた共和政末期には、すでにローマ軍政は給付付きの志願制に変更されていたため、この穀物給付政策は軍団兵家族の救恤といった当初の目的から没落市民への恩給へと、また護民官や皇帝の権威を鼓吹する手段へと変質してゆく。
 この「パンとサーカス」はローマ帝国の東西分割後も存続した東ローマ帝国ではしばらく維持されていたが、7世紀のサーサーン朝やイスラム帝国の侵攻によってエジプト・シリアといった穀倉地帯を失うと穀物の供給を維持できなくなり、終焉した。
 ただし、その後も皇帝が即位時に市民に贈り物を配ったり、年に何回か戦車競争を行うなどローマ皇帝の正統性を示す儀式としては続けられており、帝国末期で国庫が窮乏していた14世紀末の皇帝マヌエル2世の戴冠式の時にも、銀貨が市民に配られたことが記録されている。(「Wikipedia」を参照)

② 「パンとサーカス」は,「ローマの平和」の時代における民衆生活の堕落ぶりを象徴するものと考えられてきた。
 この表現のなかで,パンが意味するのは,民衆への穀物給付であり,サーカスという言葉で表現されているのは,今日の曲芸ではなく,見世物興行一般である。これらの見世物は,円形競技場での戦車競技や競馬,闘技場での剣闘士競技をはじめとするさまざまな格闘技,円形劇場での演劇や黙劇に大別される。これらの食糧,娯楽見世物,公共施設の提供者は富裕な市民,元老院貴族,騎士層,皇帝であった。帝政期には,皇帝の恩恵行為が重要であった。他方,それらの恩恵を受けたのは,共和政末期以来,土地を失ってローマ市に流れ込んだ無産市民たちであった。
 ローマによる地中海世界の支配が確立してくるにつれて,穀物を低廉な価格あるいは無料で給付する法案が提出されるようになった。最初の穀物法案は前123年ガイウス・グラックス(グラックス兄弟の弟)によって提出され,全市民あるいは貧民を対象として低価格で小麦を売却するというものであった。また,穀物の無料給付は前58年の護民官クロディウスの提案によって初めて実施されたが,これ以後,平民身分のローマ市民のすべてを対象とする無料給付が,徐々に制度的体裁を整えるようになった。
 ところで,このような状況を引き起こした契機として重要な位置を占めているのはポエニ戦争である。第一次ポエニ戦争の戦後処理の一つとして,ローマは,支配下に入った土地について,一部を公有地として元老院の直轄下に置くと共に,属州としてシチリア州,サルディニア=コルシカ州を設置した。そして,この措置が,その後の新たな領土に対する処分及び統治形態の原型となった。また,第二次ポエニ戦争を契機として,ローマは地中海世界に進出していった。
 属州支配は,貢租という形でローマに多くの富をもたらすことになったが,その果実は,属州総督(官職貴族)や属州支配のための請負業務を担当した騎士層の手に集中することになった。他方,属州からもたらされる貢租としての穀物は,大都市近在の農民から重要な市場を奪った。また,イタリア以外での戦争が長期化・大規模化する中で,軍隊の中核を構成していた農民層は疲弊し,その被害は甚大であった。
 にもかかわらず,元老院貴族や騎士層などの富裕な市民は,没落した中小農民の農地を購入したり,前述の公有地を占有したりすることによって所有地を拡大すると共に,ローマやイタリアに流入してくる戦争捕虜としての奴隷を入手することによって,一部で大土地所有に基づいた奴隷制大農場経営を形成していった。このように,一方で官職貴族や騎士層が富を集中させていき,他方で,農民が貧困化し,農地を手放してローマ市に流入することによって,ローマ市民の分解がさらに進行することとなったのである。この両極分解の象徴的な現象が,「パンとサーカス」に集約されているとも言える。
 ところで,史料Aの「大盤振舞いと国家の手による穀物の給付で籠絡された民衆が公共への不善に染まらないように,自分たちの仕事(暇つぶしの仕事)を持つことを配慮しなければならない」やあるいはCの「ローマの民衆はとりわけ2つのこと,つまり穀物と見世物で掌握すること」に典型的に示されているように,「パンとサーカス」は,ローマの民衆を掌握するための手段として留意されなければならない行為であること,つまり,為政者による人心掌握のための,人気取り政策である考えられてきた。
 しかし,このような施与者と享受者との相互依存を民衆の物質的満足による脱政治化あるいは政治の腐敗としてとらえるのはあまりに近代的な解釈にすぎないことが指摘されている。(「www.ec.kagawa-u.ac.jp/~shigeru/report1-model.pdf」より)


③ “パンとサーカスの政治”は長続きしない、ハシズムの分析(その2)広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
 大阪ダブル選挙の結果について各方面からの論評が相次いでいるが、そのなかでも興味深いのは、関西財界が今回の選挙結果を必ずしも手放しで歓迎していないことだ。たとえば「中立財界、根深い不信」と題する朝日新聞の記事(11月28日)には、こんな一節がある。
「橋下氏の政治手法に経済界の不信感は深い。ある財界幹部は、「橋下氏が敵を攻めて人気を得る『けんかパフォーマンス』ばかり続ければ、企業が競争力を培える風土はつくれない」。企業幹部は「壊すだけ壊して新しいものをつくり出してくれるの」と危惧する。都構想にも冷ややかな声が目立つ。関経連幹部は「法律改正が必要で市長だけでは実現できない。全く期待していない」。関西経済同友会の大林剛郎代表幹事(大林組会長)は27日夜、「中身を詰め、わかりやすく説明する責任がある」とコメントした。」
 また日経記事(11月28日)は、御厨東大教授と片山前総務相の批判的コメントを「識者の見方」として掲載し、大阪ダブル選挙に対する社の意見を代弁させた。御厨氏のコメントは、「(大阪維新の会が)集団で動き出すと怖い。どこかで議会制民主主義を超える危うさを感じる。」というもの。そして片山氏のそれは、「橋下さんの手法は、反対する人は間違っているというやり方で合意形成にふさわしくない。(略)「大阪都構想」は二重行政など問題の解決の一つの選択肢だと思うが、大阪都ですべてうまくいく、東京のように繁栄するというのは幻想だ。」というものだ。
 どちらの記事も大阪ダブル選挙の結果が全国的な政治再編の引き金になることを警戒し、大阪維新の会が政界の「第三極」の焦点になることへの懸念を表明しているかに見える。言い換えれば、大阪維新の会が箱根を超えて東京へやってくることへの予防線を張っているかのようだ。なぜ関西財界がかくも橋下政治に「不信」を持ち、「危惧」を感じるのか。またマスメディアのなかにも同様の警戒心が見て取れるのか。そこにはこれから起きるかもしれない全国規模の政治変動への支配体制側の不安感が透けて見えるというものだ。
 関西財界が今回のダブル選挙で中立の立場を貫いたのは、盟主格の関西電力が橋下氏の「脱原発依存」の公約を警戒していることもあるが(関電は平松陣営の中核勢力の一員だった)、それ以上に「何をしでかすかわからない」ハシズムに一抹の不安感を抱いているためだ。またその結果として、ハシズムの「やり過ぎ」に対するこれからの大阪府市民のリアクション(反動)が怖いためだ。
 これまで大阪府市政は「オール与党体制」だったこともあって、財界との間には「信頼できる安定した関係」が構築されていた。関経連や同友会などの大阪財界と府市当局・府市議会幹部との間には太いパイプがあり、いつでもどこでも財界の意向を反映できる仕組みが出来上がっていたからだ。それが橋下氏という「壊し屋」が現れ、大阪府庁をやみくもに掻きまわしたうえに大阪市役所まで乗り込んできたのだから、いままでの体制をそのまま維持できるかどうか不安になったのである。
 一般の有権者とりわけ今回はじめて投票に行った初心(うぶ)な若者層に対しては、橋下氏の「大阪を変える!」とか「大阪都にしてニューヨーク、パリ、ロンドンに対抗できる世界都市にする!」といった威勢のいいスローガンが効果を挙げたのかもしれない。しかし政治経済事情に明るい財界(玄人筋)からすれば、それは「子ども騙し」のキャッチコピーに過ぎず、中身が何もない空文句でしかなかった。彼らは一様に、「こんな杜撰(ずさん)な選挙公約でよくもこれだけの票を取れたものだ」と感心した(呆れた)という。
 それはそうだろう。ハシズムの真骨頂は見せかけの「パンとサーカスの政治」の演出にあるのであって、それを全面展開したのが今回の大阪ダブル選挙だったからだ。「パンとサーカス」というのは、ローマ帝国時代の退廃した社会状況のことで、権力者からタダで与えられる「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」によって、被支配者である民衆が政治的盲目状態に置かれたことを意味する。だから「パンとサーカス」は、一方では民衆の社会的退廃や政治的堕落の象徴となり、他方では愚民政策による政治体制崩壊はじまりのシンボルとなったのである。
 イギリスのフィナンシャルタイムズをはじめ、多くの海外紙も大阪ダブル選挙を単なる一地方選挙だとは見ていない。そこに流れている論調は、国政(政党)選挙の“代理戦争”として大阪ダブル選挙が現象したのであって、大阪維新の会が既成政党に対する政治不信の「受け皿」になったというものだ。遅まきながら民主党・自民党もその気配を察したらしく、警戒感を露わにしながらも懐柔とすり寄りの工作を始めた。
 関西財界の目下の懸念は、橋下氏が「サーカス」の演技者としてはたしかに巧妙ではあるものの、肝心の「パン」が本当は「見せかけ」だとわかったときに、大阪府市民がいったいどんな反応(反動)を示すかということだろう。なぜなら、大阪ダブル選挙は表面的には「大阪維新の会」の圧勝に終わったものの、その底流には海外紙の指摘するごとく、財界と既成政党そしてマスメディア(御用学者も含めて)などが結託して牛耳っている日本の“翼賛体制”への巨大な反撥エネルギーが横たわっているからである。
 大阪維新の会の圧勝は、財界と既成政党による”翼賛体制”に対する大阪府市民の批判を反映したものであって、決して財界が期待するような構造改革や市場原理主義の推進を求めるものではない。だから、橋下氏が大阪都構想を掲げて一見「現状打破」に動いているように見えるうちはよいが、それが民衆の「パン」につながらないことが明らかになったときは、「反ハシズム」の流れは一挙に現在の大連立体制批判に向かう可能性がある。橋下氏が支配階級にとっても「両刃の剣」であり、「危険な扇動家」と目されているのはそのためだ。
 財界や既成政党の目下の本音は、橋下氏にやるだけやらせておいて「あとはできるだけ早く消えてほしい」というものだろう。ハシズムにあまり悪乗りして「行政刷新」と「民営化」をやり過ぎると、橋下ブームが去ったときに財界が批判の的になるのを恐れてのことだ。だが、劣化した既成政党や政治世界がハシズムをコントロールできるとも思われない。「行きつくところまで行かなければ」ということにならないとも限らないのである。
 橋下氏は、当面「壊し屋」の本領を発揮して大阪市役所の「既得権益」に切り込み、大阪府市民の拍手喝采を浴びるかもしれない。なぜなら長年のオール与党体制と解放同盟との癒着によって、大阪市政には「大掃除」しなければならない“ヘドロ”がうず高くたまっているからだ。だが「同和問題はいまだ解決されていない」と広言する橋下氏が、果たして有形無形の膨大な関係事業にメスを入れることができるかどうかは保証の限りでない。
 その代わり「既得権益の打破」などと称して市民生活に不可欠な補助金や公共サービスをカットし続ければ、「パン」を失った人たちの間では生活保護受給率やひったくり犯罪日本一などの「大阪ワースト指標」が一段と跳ね上がることは間違いない。問われるのは「ハシズム」の内実(本質)であって、そのときに新しい担い手として政治舞台に登場するのが、今回のダブル選挙で橋下氏に投票した若者層であろう。
 彼らには橋下氏に対する「現状打破」の期待が大きくかつ投票という政治行動を体験しただけに、その政治エネルギーは既成政党をはるかに超える「マグマ」を秘めている。若者層を動員して投票行動に踏み切らせた大阪ダブル選挙の歴史的意義が検証される日は、それほど遠くないのかもしれない。(「リベラル21」2011.12.05より)

 3つの資料を挙げた(③は、少し前の内容だが、現在的な意味を持つ)。カリギュラは、兵士やローマ市民の間では大変人気があったという。国家の財政を一気に破綻させるほど金貨をばらまくなどの大盤振る舞いや大会場での公開処刑などを行って、貴族や大衆の歓心を買う。一方で、元老院など敵対する者たちを一掃していったが、精神異常を高じさせ、わずか4年の治世で暗殺された。次の、次の5代目皇帝が暴君ネロ、というふうに続く。

 今の日本。一部の金持ち階層を自作自演の経済成果に浮かれさせ、オリンピック招致をなんとしても実現し、国民の期待感をあおり、さらに、「カジノ」解禁・特区作り、さらに、国民投票の年齢を18歳に引き下げる・・・。福島原発事故でまだ15万人も故郷を離れて生活していることは忘れ去られ、原発再稼働」「原発輸出」・・・。
 これらの政策こそが閉塞感を打破させる特効薬だとばかりマスコミはアベ政権賛美の言動を我先に行っている。
 「パン」。生活保護給付を減額した上に、まるで受給者に物乞い的対応をとることを強いる。まさにお上の恩寵的行為として、社会福祉政策が転換されようとしている。消費税アップ時に、またしても現物支給、現金支給ばらまき策が公明党の発案で行われるかもしれない。一方で、「働かざる者食うべからず」との世論を為政者自らが作り上げていく。
 国民の関心を広く、深く政治や経済、教育に向けさせることを巧みに阻止し(「狂騒」はダメ、「静かに」「静かに」と言論を封じ)自らの野心を満足させていく「手口」。
 こうした風潮に歩調を合わせるかのように(先取りするかのように)、松江市の小中学校の図書館では「はだしのゲン」を開架から閉架へと非公開に近い扱いに。戦争、まして原爆は悲惨きわまりない実態であることを「残酷」な描写があるからとの理由で。 

 漫画家の故中沢啓治さんが自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」について、「描写が過激だ」として松江市教委が昨年12月、市内の全小中学校に教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていたことが分かった。児童生徒への貸し出し禁止も要請していた。出版している汐文社(ちょうぶんしゃ)(東京都)によると、学校現場でのこうした措置は聞いたことがないという。
 ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結。原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。
 松江市では昨年8月、市民の一部から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出された。同12月、不採択とされたが市教委が内容を改めて確認。「首を切ったり女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。
 現在、市内の小中学校49校のうち39校がゲン全10巻を保有しているが全て閉架措置が取られている。古川康徳・副教育長は「平和教育として非常に重要な教材。教員の指導で読んだり授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と話す。・・・

 ことの発端・本質は、日本軍の描き方への批判を行っている市民(団体?)からの圧力に屈したこと。???
 子ども漫画、アニメ、ゲームソフトには激しい戦闘場面などは、当たり前の世界。そちらの方はOK、そうした刹那的でおもしろいものさえ与えて、見させておいた方がいいのだという感性(これからはそういうものも規制の対象にしていくのだろうか?)。現実(過去の、繰り返してはならない「現実」を含め)を子どもの目からそらせていく、そんな流れさえ感じさせる。

 実は、「パンとサーカス」の恩恵に預かることができたのは、一部の、市民権を持つローマ市民のみであって、結果的には多く労働者(奴隷)や地方は疲弊し尽くしてしまった。・・・、こうした古代ローマの教訓をどう受け止めるか?
 
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「脱・反原発」は、国家的タブー。山本追い落とし、いよいよ。

2013-08-09 19:09:44 | 格言・ことわざ
 常套手段は、搦め手。特に、女性問題。有権者・国民、特に、女性を意識しての・・・。
 一部を除き、多くの週刊誌は「反山本」、反「脱原発」。これからもことあるたびに「醜聞」攻撃をするに違いない。「今は一人」で何もできないことを分かっているが、少しでも徒党を組んで発言権が増したら、を警戒し、今のうちに徹底的にたたく。CM大手の電力業界に遠慮してか、マスコミ(TV)にも、あえて登場させていない。

 山本さん。
 「僕へのバッシング報道は、僕自身の心が折れるまで続きます。僕を自殺させれば気が済むんでしょう。僕が皆さんにお伝えしたいのは、こういったバッシングに惑わされないでほしいということです」と語った。(J・CASTニュース)

 脱原発、反原発の政治家は少なくなってしまった! 民主党もとっくに路線変更。「みんなの党」もくさびを打ち込むことに成功! 河野さんだけは自民党にいる限り、別格だが。
 アベ、「維新」について、原発再稼働問題でこれ以上ぐずぐず言うなら、橋下切りも想定しているのではないか。松井・堺屋を取り込んでの「維新・イシハラ抱き込み」策謀を予感する。橋下へは搦め手からの攻撃すら、辞さないはず。機を見るのに敏な橋下はどう出る? 他のメンバーは?


搦め手(からめ‐て《「からめで」とも》)

1 城やとりでの裏門。陣地などの後ろ側。⇔大手。
2 相手の弱点。相手が注意を払っていないところ。「―から批判する」
3 城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢。⇔大手。「―の大将軍は九郎御曹司義経」〈平家・九〉
4 敵や罪人を捕縛する人。とりて。 「―四方を巻きて攻むるに」〈著聞集・一二〉(『大辞泉』より。)

ついでに、

※虎口(こ・こう)《恐ろしい虎の口の意》
 非常に危険な所、また、危険な状態のたとえ。危機。虎穴。「―を脱する」
・虎口の讒言=人を陥れるための告げ口。
・虎口の難=非常に危険な難儀。「ようやくにして―を脱する」
・虎口を逃れて竜穴に入る=一難を逃れて、また他の難儀にあう。次々に災難にあうたとえ。

 これからも次々と誹謗・中傷などが出てくるでしょう。山本さん、「心が折れ」ないように。孤立無援にはならないと思いますが。

※孤立無援
 頼るものがなく、ひとりぼっちで助けのないさま。

 しかし、孤立無援になっても、筋を通していくことで、活路を見いだすこともある。果敢にタブーに挑戦する姿勢はすばらしい。次のような格言もある。「虎」にからんで。

※「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と。

【意味】危険を避けていては、大きな成功も有り得ないということのたとえ。
【注釈】 虎の子を得るためには、虎の住むほら穴に危険をおかして入らねばならないことから、危険をおかさなければ大きな成功や功名は得られないということ。
後漢の班超が匈奴との戦いで危機に陥ったとき、部下に言った言葉から。
「虎子」は「虎児」とも書き、「こし」とも読む。
【出典】 『後漢書』
【注意】 「虎穴」を「虎口」とするのは誤り。「入らずんば」を「はいらずんば」と読むのは誤り。
【類義】 危ない所に登らねば熟柿は食えぬ/危ない橋も一度は渡れ
【対義】 開いた口へ牡丹餅/命あっての物種/君子危うきに近寄らず
【英語】 Nothing venture, nothing have.
     The more denger the more honour.  (「故事ことわざ辞典」より)
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麻生流手口がまたしても。

2013-08-08 22:35:23 | 格言・ことわざ
麻生ナチス発言の抗議受け取らず 官邸、5野党門前払い(朝日新聞) - goo ニュース
 「騒ぎ」にさせない。自分たちに気にくわないもの、麻生「失言」に関することは、断固はねのける。内閣改造もまだまだ先に行うことに。・・・麻生を絶対に守るという断固たるアベの意思が鮮明に。
 こうして着々と一党支配を貫徹。野党もばらばらに。ナチス発言擁護で「日本維新の会」を野党から切り離すことに成功。維新のブレーン堺屋太一を取り込んでの万全の体制。「みんなの会」も江田更迭で内部分裂に導く。
 そうすれば、ぶつぶつ言っても結局はついてくるだろうけれど、いろいろやることに文句を言いたい、やっかいな公明党を切ることもできる(しばらく選挙はないので、選挙には重宝な学会員の手を借りることもない)。
 こうして、この3年ないし4年が激動の時代になりそう。ナチス的改憲につなげる策動は、さまざまなかたちで、いよいよ露骨になると、みた。
 自民党一党支配をよしとした国民は、いつかほぞをかむことになりはしないか。

『臍(ほぞ)を噛む』=悔いること、後悔しても及ばないこと。
故事:「春秋左氏伝-荘公六年」
楚の文王が申を討とうとして(とう)に立ち寄ったとき、 の臣たちが「いま文王を殺さなければは滅ぼされ、後に臍を噬(か)むだろう」と主君に進言したことから出た言葉。
 臍はへそのこと。へそを噛もうとしても口に届かないことから、「どうにもならぬことを後悔すること」という意味で使われる。
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「飼い犬に手を噛まれる」。または「身から出た錆」。

2013-08-02 00:32:23 | 格言・ことわざ
「都構想にNO」「完全に裏切られた」堺市長と橋下氏、対立激化(産経新聞) - goo ニュース
 「橋下個人商会=大阪維新の会」として、かつて自分の部下だった男(たかが一公務員にすぎなかった男)を市長にまで引き上げてやった「恩義」を忘れやがって・・・、という次第。やくざの世界か、君たちの世界は!

※「飼い犬に手を噛まれる」

【読み】 かいいぬにてをかまれる
【意味】 日頃からかわいがり面倒をみてきた者からひどく裏切られたり、害を受けたりすること。
     「飼い犬に手を食われる」「手飼いの犬に手を食わる」ともいう。
【注意】 「主人―飼い犬」の関係に置き換えても不適切ではない関係に用いる。
    その人にとって目上の人や、友人には用いない。
【類義】 愛犬に手を噛まれる/後足で砂をかける/恩を仇で返す/獅子身中の虫/庇を貸して母屋を取られる・・・
【対義】 犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ
【英語】 A man may cause his own dog to bite him.
     He has brought up a bird to pick out his own eyes.

 注目すべきは、「A man may cause his own dog to bite him.」(己のせいで)。所詮、 橋下さんの「身から出た錆」かもしれない。それに「3年」も過ぎたからもう「おさらば」してもいい、と堺市長。

「身から出た錆」

【読み】 みからでたさび
【意味】 身から出た錆とは、自分の犯した言動が原因で、苦しんだり災いを受けたりすること。
【注釈】 刀身から出た錆が、刀身を腐らせてしまうことからいう。
    自分自身の行いや過ちが原因で、あとで災いを受けて苦しむこと。
『江戸いろはかるた』の一つ。「身から出した錆」とも。
【類義】 悪因悪果/悪事身に返る/因果応報/自業自得/刃の錆は刃より出でて刃を腐らす・・・
【英語】 Self do self have.
     An ill life an ill end.
【用例】 「君が奥さんから三行半を突きつけられても、それは身から出た錆だろう」

 以上より。

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厚顔無恥

2013-08-01 22:00:39 | 格言・ことわざ
 ご本人の弁明その1。「喧騒(けんそう)にまぎれて十分な国民的議論のないまま進んでしまった悪(あ)しき例として挙げた」と説明した。どの部分を指して「喧噪にまぎれて」「悪しき例」と言っているのだろうか。
 ご本人の弁明その2。「私がナチスやワイマール憲法にかかわる経緯について極めて否定的にとらえていることは、全体の流れをみていただいたらはっきりしている」と。どの部分を指して「極めて否定的」というのだろうか。
 
 麻生発言の趣旨は靖国参拝の例をあげて(これもひどい主張だが)「護憲・護憲と騒ぐ連中」「マスコミが騒ぎすぎる」ことを批判しつつ、憲法改正も、護憲勢力やマスコミがわーっと騒ぎ立てること(「喧噪」)がなければ、「だれも気がつかないで」変えることができる、それをナチスの手口に学ぼう! と主張し、ナチスのやり方(むしろ、ナチスの手法はあちこちで暴力的な騒ぎを起こし騒然とした中で、思うとおりに事を運ぶ。けっして静かに、整然と権力を奪取したわけではない。反対勢力、特に共産党には徹底した弾圧し、さらに謀略、暴力・弾圧などを駆使したファッショ化には一切触れず)を肯定しているようにしか見えないが。さらに、彼が言う「民主主義」とは「議会制民主主義」などを指しているというよりも、お上の施策に対して一部のマスコミや反対派が自由勝手に騒ぎ立てる権利・制度としか思っていないのではないか。
 発言内容で、赤字に注目。青字部分が今回の弁明の根拠となった内容らしいが。ここだけを取り出して弁明し、居直る姿勢を腹立たしく思う。撤回したからもういいだろうという態度にも・・・。その底には、橋下さんの「従軍慰安婦」発言と同じようにマスコミが「誤解」した情報を流しからとでも言いたいような居直りのしかた。弁明、言い訳はするけど、謝罪なし、ここも、まるで「橋下」流。

 ※橋下さんの発言「ちょっと行きすぎたブラックジョークだったんじゃないでしょうか。ナチスドイツを正当化した発言では決してないと...。国語力あれば、そんなことはすぐにわかりますよ。」
(「ブラックジョーク」ですまされる事柄ではないのにもかかわらず。さらに、国語力のない小生には橋下さんのような読解のしかたはわからなかった。彼にとっては「国語力」とは自分の「国語力」に合わせて都合のいいように解釈することなのだろうが。)

 
 そういえば、自民党の憲法改正案の中に、ヒトラーがとったやり方と同じように、憲法を停止し全権を掌握する条項が入っていた、のではなかったか。

 発言の趣旨(「朝日新聞」より)

 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。しつこく言いますけど、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。

 (自民党内での憲法改正議論に言及して)

 ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

 (続いて靖国参拝について言及し)

 昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。
 憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。

※「厚顔無恥」=ずうずうしくて恥知らずなさま。他人の迷惑などかまわずに、自分の都合や思惑だけで行動すること。
▽「厚顔」は厚かましいこと。ずうずうしいさま。面の皮が厚いこと。

 この方の場合には、「厚顔無恥」というよりも、「厚顔無知の方がより適切かもしれぬ。いや、「知らぬ」ふりをしているだけなのかもしれない。たんなる「失言」とは思えない、深謀遠慮があるような気までする。(ヒトラーの)「手口」を学んだ、まさに「確信犯」。

※「確信犯」
1 道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯など。
2 《1から転じて》悪いことだとわかっていながら行われた犯罪や行為。また、その行為を行った人。
注:2は誤用。

補足
 「確信犯」は,法律に関係する学術用語として,政治的・思想的・宗教的な信念に基づく犯罪行為やその行為者を指して使われ始めたものです。しかし,このような犯罪行為は,その信念の内容に関係なく,一般には「テロリズム」や「テロ」などと呼ばれることが多くなっており,「確信犯」という言葉を当てること自体が少なくなっています。
 一方で,この言葉の「悪いと分かっていながら,犯罪行為をする」という部分だけを捉えて,「犯罪」ではないような事例にまで当てはめる用い方が広がってきています。本来は,揺るぎない政治的・思想的・宗教的信念に基づき,あえて行われる犯罪行為を「確信犯」と呼んだのですが,「信念」というほどではない,何らかの「意図」を達成するために行われる犯罪にも,また,必ずしも「犯罪」にならないような,ちょっとした「悪さ」を指す意味でも,使われるようになってきたようです。
 このように,ふだんから気軽に使われるようになった言葉を,本来の「政治的・思想的・宗教的な信念に基づく犯罪行為及びその行為者」という意味で用いると,かえって違和感を覚える人もいるでしょう。新しい使い方が広がっていくことで,「確信犯」が本来の意味で用いられることは,更に減っていくように思われます。(「文化庁月報」HPより)
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やっぱり衣の下に鎧が見えた!改憲の狙いがあからさまに。

2013-07-30 20:55:40 | 格言・ことわざ
ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演(読売新聞) - goo ニュース
 正直の上に「バカ」が付くほど。
 そういうやり方で憲法改「正」をしていくために、参院選でも多くを語らず、経済的成果(これとても、実に危うい「大本営発表」みたいなもの)のみを訴えた「改憲こそ命」のアベさん。
 親の心子知らず(ではなく、深謀遠慮に長けている「子」の心を、「親」は知ってか知らずかその本心を暴露する。)実に麻生さんらしい軽さ。
 特に、「護憲」「護憲」と騒いでいて・・・、とかマスコミが騒いで・・・、とかと、明らかに狙いはマスコミと護憲勢力(参院選で「共産党」の伸びたことへ警戒心?)への牽制であるのは目に見えています。

 「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。(国民が)騒がないで、納得して変わっている。」

 ナチスが徹底した暴力、弾圧と懐柔で「巧妙に」権力を手中にし、破滅に導いていったか。戦前のドイツの歴史を全く無視した、この発言。国民(ドイツ国民も含めて)を愚弄するにもほどがあります。
 しかし、ナチスが共産党弾圧の口実にでっち上げたのが国会議事堂放火事件、そして、一気にワイマール憲法擁護勢力を蹴散らしていった! むしろ、そんな歴史の教訓を生かしていくこと、実は、それを暗示しているのか?
 さらに櫻井よしこ率いる人たちがいよいよ扇動して回る(反対勢力を「非国民」とののしりながら)きっかけにしようとしていく・・・。

 よくも言ったり。
 さて、アベさん、どうフォローする?

「衣の下の鎧」ころものしたのよろい
〔平清盛が息子の重盛に鎧姿を隠すために上に衣をまとったことから〕
体よくとり繕ったうわべの下からのぞいている本音や本心。(「大辞林」第3版より)
 
 「うわべでは取り繕ってはいるものの、本音がちらついて見えること」のたとえで、表向きは穏やかな態度を取っているが、「影では武力で押さえつけるような動きをちらつかせること」。
 
 ともあるように、「武力で押さえつける」ことが背景にはあることを見抜かなければ、将来大変なことになる。

「親の心子知らず」
【意味】 親の子に対する深い愛情がわからず、子が勝手気ままにふるまうこと。
    また、自分が親になってみなければ、親の気持ちはわからないということ。
【注釈】 親が子に対して深い愛情をそそぎ苦労をして育てても、子はそれを悟らず、浅はかな考えで反抗したり、
    好き勝手にふるまうものである。
     親子関係にだけでなく、目上と目下の間柄にも使う。
【類義】 親の思うほど子は思わぬ/子を持って知る親の恩
【対義】 子の心親知らず
【英語】 When the rain rains and the goose winks little wots the gosling what the goose thinks.
    
より。

 そういえば、アベ政権発足後、しばらくたって、民主・海江田代表が「安倍政権は衣の下に鎧を着ている」と発言したことがありました。


「時事通信」より。
・どうしてヒトラーはそんな民主的な憲法の下で、独裁体制を構築できたのだろうか。

 1933年1月のヒトラー内閣成立直後の3月、国会で「全権委任法」が可決された。これは政府に立法権を委ねる法律で、ヒトラーはこれによってワイマール憲法を無視し、大統領の承認や国会の制約も受けずに国を支配することが可能になった。当初は時限立法だったが、更新が繰り返され、ナチス独裁に正当性を与える法的根拠となった。全権委任法は、国会議席の3分の2以上の賛成がなければ成立できない法律だったが、ヒトラーの政治工作によって圧倒的賛成多数で可決された。

・ナチスはユダヤ人迫害も法律にのっとって実行していったのか。

 その通り。全権委任法成立後、ナチスはユダヤ人迫害のための法律を次々に施行した。同法成立直後の4月には、非アーリア系(ユダヤ人)の公務員らを強制的に退職させる法律も制定された。ユダヤ人の社会権・生存権を否定する立法・政令は枚挙にいとまがないほどだ。反ユダヤ立法の最たるものは35年のニュルンベルク法で、ドイツ人との結婚を禁じるなどユダヤ人からあらゆる権利を剥奪した。

・全権委任法がヒトラーの暴走を許したわけだね。戦後のドイツはこの教訓をどう生かしているのだろうか。

 ワイマール憲法は実質的に、全権委任法の成立を可能にしていたと同時に、危機に際して国家元首の権限を拡大する緊急命令発布権を認めていた。これらがナチス独裁に道を開いたワイマール憲法の大きな弱点だった。その反省から、戦後のドイツ基本法(憲法)は為政者への全権委任を認めていない。また、改憲は連邦議会の3分の2以上の賛成で可能と規定されているが、基本的人権や三権分立の保障を定めた条文の改正は決して認められていない。



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韓非子

2013-07-28 12:23:22 | 格言・ことわざ
『韓非子』より亡徴(第十五)。「亡国の徴候(条件・きざし)」を挙げています。

「~者」(~というような場合)」、「可亡也」(政治は危ない、国家は滅びかねない)という形の47条の文を列挙。どれもこれも、今もどこかの組織、国で当てはまるような・・・。

・凡人主之国小而家大、権軽臣重者、可亡也。
国は小さいのに臣の家が大きく、王の権力が弱くて臣の権力が強い場合、可亡也。

・簡法禁而務謀慮、荒封内而恃交援者、可亡也。
王が法律を軽んじてはかりごとにばかり関心があり、国内を荒れさせる一方で友好国からの援助を頼みにしているような場合、可亡也。

・群臣為学、門子好弁、商賈外積、小民右杖者、可亡也。
家臣たちが(役に立たない)学問を行い、子弟が弁舌が巧みなのを好み、商人が外国に蓄えを持ち、下の者が上に頼るばかりの場合、可亡也。

・好宮室台榭陂池、事車服器玩好、罷露百姓、煎靡貨財者、可亡也。
王が建物や器物の好み凝って、人民を使い富を浪費する場合、可亡也。

・用時日、事鬼神、信卜筮而好祭祀者、可亡也。
王が日の吉凶や占いや祭り事を好んでいる場合、可亡也。

・聴以爵不待参験、用一人門戸者、可亡也。
王が業績も調べずに爵位を与え、特定の一人の言うことだけを用いている場合、可亡也。

・官職可以重求、爵禄可以貨得者、可亡也。
有力者の口ぞえがあればそれで役職につくことができ、賄賂で爵禄が得られる場合、可亡也。

・緩心而無成、柔茹而寡断、好悪無決、而無所定立者、可亡也。
王が志にゆるみがあり、決断力がなく、(政治を行うに)確固とした方針がない場合、可亡也。

・饕貪而無饜、近利而好得者、可亡也。
貪欲で目先の利を得ることを好む王がいる場合、可亡也。

・喜淫乱而不周於法、好弁舌而不求其用、濫於文麗而不顧其功者、可亡也。
王がでたらめな処置を行い、法律を厳守せず、巧みな弁舌を好み、その先を考えず、体裁のよさだけを見てその効果を顧みない場合、可亡也。

・浅薄而易見、漏泄而無蔵、不能周密而通群臣之語者、可亡也。
底が浅く考えていることを簡単に見透かされ、意図を隠しておくことができず、家臣らのいうことをすぐ別の人に言う、そういう人が王である場合、可亡也。

・狠剛而不和、愎諌而好勝、不顧社稷、而軽為自信者、可亡也。
強情で諫言も聞かず、勝ち負けにこだわり、国家を顧みず、正しいことかどうか考えずに軽々しく事を行って、自分はよいことをしたと思いこんでいる、自信過剰な人が王である場合、可亡也。

・恃交援而簡近隣、怙強大之救而侮所迫之国者、可亡也。
友好国をあてにして近くの隣国を軽んじ、(自国より)強大な他国が助けてくれるとたかをくくって自国を圧迫してくる国を軽くみている場合、可亡也。

・羈旅僑士、重帑在外、上間謀計、下与民事者、可亡也。
外国の出で、しかも家族などが外国にあるような者が人民と一緒になって政治にたずさわる場合、可亡也。

・民信其相、下不能其上、主愛信之而弗能廃者、可亡也。
民が大臣を信頼するも、家臣は主上を信頼することができず、王もその大臣を信頼してやめさせることができない場合、可亡也。

・境内之傑不事而求封外之士、不以功伐課試、而好以名聞挙措、羈旅起貴、以陵故常者、可亡也。
国内の有能な人物が官に仕えず、外国の人物を求め、功績でなく名聞名利で人事を行うことを好み、自国の古参の者にかわって外国の出の者が高貴な地位につく場合、可亡也。

・出君在外而国更置、質太子未反而君易子、如是則国携、国携者、可亡也。
亡命して国外に王がいて人質となっている太子が帰ってこないうちに別の子を太子とする場合、可亡也。

・挫辱大臣而狎其身、刑戮小民而逆其使、懐怒思恥、而専習則賊生、賊生者、可亡也。
大臣に恥をかかせてなれなれしくあつかい、人民を多く処刑して使役の仕方もまちがっていると、恨みをもたれ反乱が頻発する場合、可亡也。

・大臣両重、父兄衆強、内党外援、以争事勢者、可亡也。
大臣の間に二つの強い勢力があり、また君主の親族たちが力を持ち、国の内外の者と手を結んで勢力を争うような場合、可亡也。

・婢妾之言聴、愛玩之知用、外内悲惋、而数行不法者、可亡也。
王が個人的にかわいがっている女たちの言うことが政治に用いられ、国には悲しみ怨む者が多いにもかかわらず、王がしばしば不法を行う場合、可亡也。

・簡侮大臣、無礼父兄、労苦百姓、殺戮不辜者、可亡也。
家臣を馬鹿にし、親族に礼を用いず、人民を苦しめ、罪のない者を殺す場合、可亡也。

・好以知矯法、時以私雑公、法禁変易、号令数下者、可亡也。
(王が)一存で法をまげ、時に私的な思惑が公に入りこみ、禁令の内容がたやすく変わり、(内容のちがう)命令がたびたびくり返される場合、可亡也。

・無地固、城郭悪、無蓄積、財物寡、無守戦之備、而軽攻伐者、可亡也。
確固とした地形による守りがなく、城壁の質は悪く、蓄えもなく、財物も少なく、守りも戦の備えもないのに他国を軽々しく攻撃する場合、可亡也。

・種類不寿、主数即世、嬰児為君、大臣専制、樹羈旅以為党、数割地以待交者、可亡也。
王家の一族がみな短命で、王がしばしば代わり、乳児が王となり、大臣が権力を一手に握り、外国の出の者に徒党を作らせ、たびたび土地をさしだして(強国との)友誼を期待している場合、可亡也。

・太子尊顕、徒属衆強、多大国之交、而威勢蚤具者、可亡也。
太子の地位が高く、従う味方が多く、大国とのつながりがあり、即位より前に強大な力を持っている場合、可亡也。

・変褊而心急、軽疾而易動発、必狷忿而不訾前後者、可亡也。
王が移り気で思い立つとすぐ行動に移し、失敗するとすぐに腹を立てて前後を顧みない場合、可亡也。

・主多怒而好用兵、簡本教而軽戦攻者、可亡也。
王が怒りっぽく戦に走ることを好み、農業や練兵をおろそかにして、それでいて軽々しく他国を攻める場合、可亡也。

・貴臣相妬、大臣隆盛、外藉敵国、内困百姓、以攻怨讎、而人主弗誅者、可亡也。
高位の家臣が互いの仲が悪く、大臣が権力を持ち、外国の力を借り、人民を苦しめて、互いに争っているのに、王がそれを処罰できない場合、可亡也。

・君不肖而側室賢、太子軽而庶子伉、官吏弱而人民桀、如此則国躁、国躁者、可亡也。
王が無能で近親者に有能な者がいる、あるいは太子の力が弱く妾腹の子がそれと同じぐらい力を持っている、または官吏の力が弱く民を抑えられず、国が不穏になる場合、可亡也。

・蔵怨而弗発、懸罪而弗誅、使群臣陰憎而愈憂懼、而久未可知者、可亡也。
王が怨みをしまったままにしておき、罪人を処罰せず、そのためにかえって家臣らが王を憎み、ますます恐れを抱き、それでも長くそのことに気付くことができない場合、可亡也。

・出軍命将太重、辺地任守太尊、専制擅命、径為而無所請者、可亡也。
出征する際に将に権限を与えすぎたり、辺地の防備にあたる将の地位が高すぎたりして、将が自分ですべて事を行い、上からの統制がない場合、可亡也。

・后妻淫乱、主母畜穢、外内混通、男女無別、是謂両主。領主者、可亡也。
王の妻や母が姦通を行い、内(宮)と外(朝廷)の者が出入りし、男女の秩序がない。これを両主(=二勢力ができる)というが、そうした状況になる場合、可亡也。

・后妻賎而婢妾貴、太子卑而庶子尊、相室軽而典謁重。如此則内外乖。内外乖者、可亡也。
后や正室がさげすまれ、下女や妾が高くあつかわれ、太子の地位が低いのに対し、庶子の地位が高く、宰相が軽んじられて(謁見をつかさどる官で本来政治的な権限は弱い)典謁が重んじられる。このように上下・内外の区別がない場合、可亡也。

・大臣甚貴、偏党衆強、壅塞主断而重、擅国者、可亡也。
大臣の力がきわめて強く、またそれに偏る徒党が多く、王が正しい判断をできないようにして、権威を持ち国を思うままに動かすような場合、可亡也。

・私門之官用、馬府之世絀、郷曲之善挙、官職之労廃、貴私行而賎公功者、可亡也。
権力のある家の者が官として用いられ、代々の軍人の家の者はたっとばれず、町で私的に善行を行う者は賞せられるが、官にあってはたらいた者は功績を認められず、私の行いがたたえられても公の功が無視される場合、可亡也。

・公家虚而大臣実、正戸貧而寄寓富、耕戦之士困、末作之民利者、可亡也。
王家の倉は空で大臣の家の倉は満ち、もとからいる民は貧しく外から来た者は富み、耕作に励み戦では命をかける者は生活が苦しいのに、(商工業など)大したことのないなりわいの者が潤う場合、可亡也。

・見大利而不趨、聞禍端而不備、浅薄於争守之事、而務以仁義自飾者、可亡也。
大きな利益のあることがあっても手を出さず、災いのきっかけを見ても備えず、争う、防ぐといったことに意欲が薄く、仁義で自分を飾るような人が王である場合、可亡也。

・不為人主之孝而慕匹夫之孝、不顧社稷之利、而主母之令、女子用国、刑余用事者、可亡也。
王が王としての正しい行いをせず、下々の孝をよしとし、国の利益を顧みず、母親の命令を用い、また女や宦官が国を動かしている場合、可亡也。

・辞弁而不法、心知而無術、主多能而不以法度従事者、可亡也。
王が能弁で賢くしたり顔で何でもするが、たびたび法術(形式的なとりきめを守らせることで秩序を実現すること)を無視するような場合、可亡也。

・新臣進而故人退、不肖用事而賢良伏、無功貴而労苦賎、如是則下怨、下怨者、可亡也。
新参の者ばかり栄進して古参の者が退けられ、無能な者が政務を行い有能な者が退けられ、功績のない者が大事にされ骨折って働く者がいやしまれる、そのようなとき下の者は怨みをもつ、下の者が恨むような場合、可亡也。

・父兄大臣禄秩過功、章服侵等、宮室供養太侈、而人主弗禁、則臣心無窮。臣心無窮者、可亡也。
君主の親戚や大臣が功績に過ぎる俸禄を受け、身分を表す章・印や服が分を逸しており、住居や食事が奢侈であり、王がそれを禁ずることをしないと、臣下の心はやむところを知らなくなる。家臣がそうなる場合、可亡也。

・公壻公孫与民同門、暴傲其鄰者、可亡也。
君主の孫や娘婿が同じところに住み、近隣に横暴をふるう場合、可亡也。

 ついついすべて掲載してしまいました。重複があったりもするが、「法家」としての面目躍如たる内容になっています。こうした「戒め」があっても「われ関せず」、あるいは「自分には当てはまらない」ということで、今も昔も相変わらずの状態。人間の性がということでしょうか。
 政治家は本当はこれらのことを心していなければならないと思いますが、はたして。せいぜい「亡国」「亡組織」の因にならぬよう・・・。

 「韓非」は百家争鳴と呼ばれる中国思想史の全盛期に生まれた政治家。書中では分かり易い説話から教訓を引き、徹底的に権力の扱い方とその保持について説いています。「法家」。
 韓非は「性悪説」を説く儒家の荀子に学んだといわれ、非違の行いを礼による徳化で矯正するとした荀子の考えに対し、法によって抑えるべきだと主張しました(「法治主義」「信賞必罰」)。
 韓非の生まれた戦国末期は、戦国七雄と呼ばれ、春秋五覇の時代を経て徐々に天下統一の機運と超大国出現の兆しが生まれ始めた時期。天下を狙う諸国の存亡を賭けた戦いの連続で、国家同士の総力戦でもあった。その国を挙げての過酷な生存競争は、それぞれの国での人材登用の活発化にもつながっていきました。
 それまで君主の血統に連なる公子や貴族などによって運営されていた国政も、階級が下の士大夫や素性の知れない遊説の徒などに、君主の権限が委譲されることも珍しいことでは無くなっていきます。君主に権力を集中し、それをスムーズに適材に委ねる必要があったわけです。
 しかし、その結果として、当時の王権は特定の士大夫や王族に壟断されることが多く、斉(山東省)や晋(山西省)などのように国そのものを奪われてしまう例も起こっていきます。そこで韓非は分断され乱脈化した君主の権力を法によって一元化し、体系化することにより強国になるべきだと考えました。
(以上、「Wikipedia」参照)
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自民党並みの長老支配のあげく、自滅の道をたどるか。

2013-07-27 00:02:01 | 格言・ことわざ
民主幹事長に大畠氏提示へ 海江田氏、細野氏辞任早める(朝日新聞) - goo ニュース
 よりによって、原発再稼働推進派の頭目が幹事長に。それも極めつけの男。さらに、こうした人事、ひところの自民党の長老支配のころと変わりなく、新鮮さも未来もなし。「脱原発」の旗をたたんでしまうのが、この党の命脈を絶つことになると分かっていても・・・。ここにきて、自民党との差別化(差異化)はなくなってしまった。
 
 菅さん。宰相としては誠に不適格ではあった。参院選直前に「消費増税」や「TPP参加」など煮詰まっていない(むしろ自民党にやらせておけばいいのに)課題をぶち上げて、ぼろ負け。その流れが今も止まらない。いってみれば軍法会議で処断されてもいい、重大戦犯の一人。
 一方で菅さん。福島原発事故以来、その収拾に手間取ったあげく(東電の真相隠し、マスコミあげての情報操作もあって)、「脱原発」という支配層にとっての「逆鱗に触れた」ため、一斉に政・官・財・マスコミから徹底的につるし上げられた。
 「脱原発」「反原発」は、絶対的なタブー。少数派が勝手に主張するのは「ごまめの歯ぎしり」で痛くもかゆくもない。民主党を原発推進に持ち込めば、天下安泰。見事にその術中にはまる海江田さん。
 菅さんを党規処分し、細野(今にも離脱したい人間)を切ったあげく、「原発推進」の男を幹事長にするとは、民主党もこれできわまった感じ。
 若手の離党に拍車がかかる。
 ますます混乱したあげく海江田をはじめ残った連中が、自民党に行くことになるのではないか。相手にはすでにされないのにもかかわらず。あるいは、自滅。

※「逆鱗に触れる

 逆鱗(げきりん)とは、伝説上の神獣である「龍」の81枚の鱗(うろこ)のうち、あごの下に1枚だけ逆さに生えるとされる鱗のことをいう。
「龍(竜)」は、元来人間に危害を与えることはないが、あごの下にある「逆鱗」に触れられることを非常に嫌うため、これに触られた場合には激高し、触れた者を即座に殺すとされた。このため、「逆鱗」は触れてはならないものを表現する言葉となり、帝王(主君)の激怒を呼ぶような行為を指して、「逆鱗に嬰(ふ)れる」と比喩表現された。
 この故事をもとに、現代では、「逆鱗に触れる」として広く目上の人物の激怒を買う行為を指すようになり、また「逆鱗」が目上の人物の怒りそのものを指す言葉として用いられることもある。
 この故事の出典は、『韓非子』の「説難(ぜいなん)」篇にある。

 夫龍之爲蟲也 柔可狎而騎也 然其喉下有逆鱗徑尺 若人有嬰之者 則必殺人
 人主亦有逆鱗 說者能無嬰人主之逆鱗 則幾矣

 夫れ龍の蟲たるや、柔なるときは狎れて騎るべきなり。然れども其の喉下に逆鱗の径尺有り、若し人之に嬰(ふ)るる者有らば、則ち必ず人を殺す。
 人主も亦た逆鱗有り。説者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾かからん。

 龍という生きものは、穏やかな時には、馴染めば(背中に)またがる事もできるものだ。しかし、竜の喉元には鱗が逆さに生えた部分があり、これに触れる者がいると、(竜は怒り)その者をすぐに必ず殺してしまう。
 君主にも同じように逆鱗がある。(臣下の)発言者は、(具申の際に)自ら君主の逆鱗に触れるようなことがなければ、(上手くいく結果が)近いものである。

※「拍車がかかる」=物事が何かを契機としてより一層進行するようになる
拍車(はくしゃ)とは、馬術において脚扶助による騎手から馬への推進の合図(扶助)を強化する副扶助のための道具で、
靴のかかとの部分に装着する。乗馬用の靴(多くは長靴)にはかかとの上に拍車置きと呼ばれる突起があり、細いベルトで固定される。

ブリティッシュ式の標準的な棒拍。

 形状によって棒状の突起(柄、枝、棒)を持つ「棒拍」と、西部劇などでよく見られる円盤状の「輪拍」などがある。
拍車による扶助も刺激の一種であるから、こればかりに頼り常に拍車を入れていては、馬も刺激に慣れてしまい、ついには脚扶助への反応が得られなくなってしまう。

「拍車をかける」という慣用句は馬に限らず、物事の進行を加速させる意味で使われる。


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時すでに遅し。うろちょろしたあげく、世間からも「袖にされ」・・・

2013-07-26 00:02:28 | 格言・ことわざ
社民・福島党首が辞任=参院選敗北で引責(時事通信) - goo ニュース
 
 菅義偉官房長官は25日午後の記者会見で、社民党の衰退に関して「かつては自民党に対する一大勢力で日米安保条約には反対だったが、その旗を降ろす中で国民の理解が得られなくなったのではないか」と述べ、日米安保容認が決定的要因になったとの見方を示し、過去の政策のブレが党勢衰退の根本的な原因だと指摘(この方、どこかの「菅」さんとは違って、政治評論家になってもけっこう的確な視点の持ち主)。
 自民などとの野合によって政権運営を担った、そこに落とし穴があった、のに、あんたたちに今更ながら言われたくはないよ。しかし、このようにはっきり言われてしまうほど落ちぶれてしまった!
 民主にくっつき、結局、離脱した時もそう。福島・社民党の政治性(「筋」を通せない)のなさに呆れかえるだけ。
 まして、後任として人のよいのだけが取り柄(たぶん)のようなあの方では、ますます衰退の一途。
 これで、山本太郎にすり寄っていく(袖にすがる)しか道は残されていないのか。それとても、袖にされるのが落ち?

※「袖にすがる」=袖にとりついて哀れみを請う。助けを求める。
※「袖にされる」=すげない扱いを受ける。ないがしろにされる。冷淡にあしらわれる。 
 なお、語源については

 に詳しく出ています。

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朝三暮四

2013-07-25 19:48:12 | 格言・ことわざ

宋に狙公なる者有り。狙を愛し、之を養って羣を成す。
能く狙の意を解し、狙も亦公の心を得たり。
其の家口を損して、狙の欲を充せり。
俄にして匱し。将に其の食を限らんとす。
衆狙の己に馴れざるを恐るるや、
先ず之を誑かして曰はく、
「若に茅を与えんに、朝に三にして暮に四にせん。足らんか」と。
衆狙皆起って怒る。俄にして曰(い)はく、
「若に茅を与えんに、朝に四にして暮に三にせん。足らんか」と。
衆狙皆伏して喜ぶ。
(『列子』)

宋の国に狙公という人がいた。猿を可愛がって群れをなすほど養っていた。
サルの気持ちを理解することができ、猿も同様に主人の心をつかんでいた。
自分の家族の食べ物を減らしてまで、猿の食欲を充たしていた。
ところが急に貧しくなったので、猿に与える餌の茅(どんぐり)を減らすことにした。
猿たちが自分になつかなくなってしまうのではないかと心配したので、
まず猿たちを誑かして言った。
「お前たちにどんぐりをやるのに、朝は三つで暮は四つにする。足りるか」
すると猿たちは皆起ち上がって怒りだした。そこで狙公は急に言い変えて、、
「それじゃ、朝は四つで暮は三つにしよう。足りるか」と言うと、
猿たちは皆平伏して喜んだ。

 目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと。

 というわけ。むしろ、「目先の違い」よりも「目先(今日・明日)の欲」に目がくらんでしまうことではないか。将来につけが回されることを分かっていても、なおかつ目の前のごちそうに飛びつく、集団・大衆(個々だったらよく考え、どう判断するかは、微妙なはず)心理。
 ※この故事では「衆狙皆(猿たちは皆)」がカギだと思います。
 
「朝日新聞」23日朝刊に寄せた内田樹さんの文章の「落ち」として用いられていました。目先の利益誘導・欲得にかこつけて巧みに国民の歓心を得、将来の計を軽んずる政治家と、いとも簡単に騙される国民への痛烈な皮肉です。
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臥薪嘗胆。会稽の恥をすすぐ。捲土重来。中国四大美人。西施。・・・。

2013-07-22 20:35:42 | 格言・ことわざ
 前回引用の『史記』、『18史略』にちなんで。格言のいくつかを。

 紀元前6世紀末、呉王闔閭は隣国の越に武力侵攻したが敗れ、自らも負傷、まもなく病死。そのとき、闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と誓った。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みでその屈辱を忘れず復讐を誓った。(「臥薪」)
 しばらくして夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は降伏し、夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ね、許されて越に帰国した。その後、富国強兵に励み、自らは苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした。(「嘗胆」)
 勝者の呉王夫差は中原の覇者となることを目指して隣国の各国に盛んに兵を送り込むなどしたため、国力が次第に疲弊していく。その上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑する。
 ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために自殺した。

臥薪嘗胆
 のちのちの成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て、苦い胆をなめる意から。
 もともとは、上の話にもあるように、敗戦の恥をすすぎ、仇を討とうと、復讐を自らに課して苦労を重ねることに由来する。


 呉軍は越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰める。勾践は「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては、必ず災いとなる」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許してしまう。

会稽の恥をすすぐ
 「会稽の恥」とは、戦いに大敗した屈辱。また、他人から受けたひどい屈辱のこと。
 屈辱的な講和をさせられた恨みを晴らすことを、「会稽の恥を雪(すす)ぐ」という。

 こういう言葉もあるが。
呉越同舟
 仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするたとえ。「呉」「越」はともに宿敵同士で、その攻防戦は三十八年に及んだ。
 『孫子』で、「呉と越は宿敵同士でしばしば戦いを繰り広げたが、その憎しみ合っている両国の人が、同じ舟に乗って川を渡るときに大風が吹いて舟が覆りそうになれば、普段の恨みも忘れて互いに助けあうだろう」とたとえた故事から。
 
 そうはいっても、選挙後の「反自公」での野党結集もなかなか難しい。「民主党」の例もあり、烏合の衆ではまた瓦解。
 ※「烏合の衆」=規律や統制もなく、ただ寄り集まっただけの群衆・軍勢。役立たずな人々の集まり。(『後漢書』の出典)。 「烏合」とは、カラスの集団のことで、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで、無秩序でばらばらであることから来ている。
 
 そのうえ、「捲土重来を期して」かつてない大・大勝利に導いたアベさんほどの勢いはなさそう。

捲土重来を期す
 一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。巻き起こった土煙が再びやって来る意から。「捲土」は土煙が巻き上がることで、勢いの激しいことのたとえ。「重来」は再びやって来ること。もとは一度敗れた軍が再び勢いを盛り返して攻めて来ることをいったもの。

 ついでに前回の話に出てきた「西施」にまつわるお話。

 越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた西施は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
 呉が滅びた後、呉王・勾践の夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。一方で、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
 中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
 また、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」とあてられる。

※中国の四大美人

1.西施(春秋時代)
2.王昭君(漢)
3.貂蝉(後漢)
4.楊貴妃(唐)


左から、西施【沈魚美人】、王昭君【落雁美人】、貂蝉【閉月美人】、楊貴妃【羞花美人】。
 ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くことやまた虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くことも。

※四大美人の欠点
 西施(大根足)以外では、
 王昭君は、極端ななで肩だったために、いつも大きな肩パッドをしていた。
 貂蝉は、耳たぶが極端に反り返っていた。それを気にして大きくて重いイヤリングを着け、その反りを抑えていた。
 楊貴妃は、ものすごい腋臭だったために、一日に何度も入浴し、強い香水を着けていた(いずれも)らしい。

 詩の題材にもなって、唐代の詩人李白・王維などが、詩を詠んでいる。日本でも、松尾芭蕉が「奥の細道」で「象潟や雨に西施がねぶの花(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)」と詠んだ。

顰に倣う(ひそみにならう)
 西施には胸が痛む持病があったという。ある日、その発作が起きた。彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった。
 ある里に一人の醜い女がいた。この日、西施が胸元を押さえ、眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た女は、西施のまねをして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。この醜い女が大げさにふるまうとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。そのため、この女の奇怪な様を見ると里の人々は、すぐに戸を閉め、貧乏人は妻や子を連れて遠くに逃げるといった具合であった。
 このことが顰に倣う(ひそみにならう)、むやみに人のまねをするのは愚かなことという故事になった。「西施捧心」と四字熟語とも表される。日本では、先人に倣った行為にあたって自らをへりくだる表現としても用いられる。

 そこで、芭蕉の『奥の細道』より。

 江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風 真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫 作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此 処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道 遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花
※「ねぶ」=「ネムノキ」。


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「日暮れて道遠し」などとうそぶいているつもり? そんな余裕などないはずなのに。

2013-07-22 00:01:52 | 格言・ことわざ
海江田代表、続投の意向=「改革は道半ば」【13参院選】(時事通信) - goo ニュース
 「改革は道半ば」って言っても、誰が支えるの? そもそも、いったい何を改革してきたの? 道半ばって、前途はなくなってしまうほどの大敗北! 国民向けのアピール度も最低、政治家としての魅力もなし! 
 東京、大阪、埼玉など大都市では議席0。四国では議員が0。その責任を幹事長にだけ押し付けて、自分は代表の地位に恋々としようとするの? 
 プロ野球のコミッショナーや柔道連盟の会長など、居座る御仁が目立つ昨今。
 しかし、政治は結果がすべて。いさぎよく辞任すべきなのに、都議選に引き続く大・大惨敗の党内、次のなり手がいないまま、責任のなすり合いが始まっている様相。それを見越しての発言か。
 こうして、民主党。ついこの前の政権党の面影の片鱗すらまったくなくしたまま、あだ花のごとく消え去る運命に、嗚呼・・・。
 待てよ! 中国通のこの方、さては、「日暮れて道遠し」にあやかって、自ら、悲壮な覚悟を披歴したものか!
吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之。
◦莫 … 暮と同じ。
◦途 … 道。塗とも書く。
◦倒行 … 倒れるほどに急いで進むこと。
◦逆施 … 道理に逆らって行動する。

 伍子胥は、既に死んでいた平王の墓を暴き、死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥が言ったことば。
 この逸話。司馬遷の「史記」に「列伝」の一つとして記録されています。

 伍子胥は、楚国の出身。伍子胥は九尺(約2m)を超える身長と盛んな意気を持っていた。
 楚の平王は父の伍奢を捕え、都から離れていた子である伍尚と伍子胥に父の命で「都に来るように」と使者を送った。平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は自分たちを殺すための罠と見破り、復讐を誓って鄭に脱出し、さらに呉に逃亡した。伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢は伍子胥が逃亡したのを知ると「楚の君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した。
 呉で伍子胥は公子光に仕えた。その後、公子光は呉王僚を暗殺、公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。伍子胥は、楚の隣国の呉王の側近という立場を得た。また、伍子胥は孫武の著した「孫子兵法」を献上し、孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。
 伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。紀元前506年、楚に出兵した。十分な準備に加え、兵法の天才孫武・楚の地理と内情を良く知る伍子胥という人材が揃い、連戦連勝して遂には楚の都郢を陥落させた。
 父を処刑した平王は既に死んでいたが、伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした(これが「死屍に鞭(むちう)つ」の語源になる)。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。「自分はもう年を取っているので、やり方などは気にしておれないのだ」あるいは「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だから非常識な振る舞いをしたのだ」と。
 首都陥落直前に楚王(廃太子の異母弟である昭王)は逃亡していた。放っておけば地方の兵などを使って再興しかねないため、徹底的に探させたがなかなか見つからなかった。
 その間に越王の允常が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥が秦の援軍を取り付け、形勢は悪化。闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟夫概が勝手に帰国し呉王を名乗ったため、楚から引き上げてこれを討った。
 呉に戻った伍子胥は再び闔閭の補佐に努め、呉を天下に並ぶもの無き強国にまで押し上げ、中原に進出していく前に隣国の越を攻めるよう進言した。闔閭はこれを聞き入れ、呉の富国強兵に尽力した。紀元前496年、伍子胥の進言により、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐した。しかし、呉軍は越軍に大敗した。この時、闔閭も越軍の放った矢によって、片足を負傷し破傷風を起こして容態が悪くなり床に伏せるようになる。
 闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差は情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これに伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた。闔閭は夫差を呼び「越王・勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。
 間もなく闔閭が死去して夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓う。伍子胥もそれを補佐し、着々と準備を進めた。紀元前494年に越軍が呉に攻め入るが、越軍は大敗。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。
 勾践は使者を送り「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず災いとなります」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許した。
 これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。これを上辺と見抜き、越に対する警戒を忠告する伍子胥と、越など置いて一刻も早く中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってきた。范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。また、西施という美女を送り込んで、夫差を骨抜きにさせて越を警戒しないように仕向けたとも言われる。
 夫差は北方の斉が幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。
 また伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯嚭への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたこともあって、両者の不仲を増大させた。 その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。
 これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に息子を斉に預けた。しかし先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻り、この事が本国に帰った後に問題になって、伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。
 その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。
 伍子胥が死んだ後、越を警戒する者がいなくなった。
 その後、国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。越の使者に対して夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません。伍子胥の言葉を取り上げずに、自分自身がこんなに陥ったのは残念です」と言い残して自決した。

 伍子胥ほどの迫力と胆力を有しているならば、起死回生の行動に打って出るということもあろうが、はたして・・・。
 「まだまだ泥水をすすらないといけない」などと発言しているが、それほどの根性がありそうにも思えない、という印象を持ってしまう。「落ちた犬は叩け」式のマスコミからの攻撃に耐える以上に打って出る(反撃する)肝っ玉があるかないかが試されている。
 
 
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